2019/01/13

引退生活

  引退生活に入ってから、すでに、4年半が経過しました。 高校卒業後、3年間ひきこもっていた期間をとっくに超えてしまいました。 だけど、歳を取っているせいか、あの頃ほど、歳月が長く感じられません。 ひきこもり時代と、引退生活が違うのは、親に養われているのではなく、自分のお金で暮らしている事でして、後ろめたさがないから、比較にならないほど、気楽です。 ただ、未来が閉塞していて、ちょっとした事で、気分が暗くなってしまう点は、全く変わりません。


  何もせずに暮らしていたと言えば、生まれてから、幼稚園に入る前までも、4年半くらい、そういう生活だったわけですが、覚えている事が少な過ぎて、比較ができません。 私が、どういう子供だったかというと、人見知りする性格で、幼稚園に入園するのを、嫌がったのを覚えています。 実際、幼稚園での楽しい思い出というのは、薩摩芋掘りくらいしか、ありません。 他人との交流が、幼児の頃から、苦手だったんですな。


  それはさておき、引退生活ですが、やはり、勤めている時とは、同じように暮らせません。 私の場合、若い頃から、個人主義者で、その上、私生活に軸足を置いて生きてきたから、割とすんなり、引退生活に順応しましたが、会社人間だった人の場合、大幅な、というより、根本的な、生き方の変更を迫られると思います。

  会社人間の典型というと、中間管理職以上だった人達ですが、この人達が引退した後、最初に気づく変化は、「部下がいない」事です。 あれこれ指図して、何かをやらせる相手がいなくなったわけだ。 組織から離れたんだから、そんなのは、当たり前ですが、その当たり前の事を、なかなか受け入れられない人達がいます。

  なにせ、何十年も、人を使うのが日常化していたせいで、自分でやるのを、屈辱とか、損とか、捉えてしまい、やろうとしない。 で、配偶者や子供にやらせようとしたりするわけですが、そちらは、まだ勤めに出ているから、引退した閑人の指図なんか、聞いちゃくれません。 自分でやらなければ、何もできないのだという事に気づくまでに、大変、時間がかかったり、もっと悪いと、死ぬまで、理解できないケースもあります。

  こういう人達は、「人に指図するのが自分のポジション」と考えていて、指図される側に対して、優越意識を抱き、その事で、「自分は、こいつらより、価値が高い人間だ」と、自分に納得させ、自我を維持しているのだと思います。 ところが、引退すると、その比較対象が失われ、相対的優位を感じられなくなってしまうわけだ。

  勤めていた頃の、部下や後輩に電話をして、相手が休みの日に、どこかへ遊び行こうと誘う人がいますが、そういうのは、誘われる側からすると、大迷惑なんだわ。 貴重な休日の時間を、引退した閑人との付き合いに割こうなんて、誰が望むものですかね。 損得勘定的に考えても、会社をやめた人に気を使っても、何の得にもならないものねえ。

  同じ頃に引退した同僚ならば、事によったら、出て来るかもしれませんが、同僚は同僚であって、部下や後輩とは違います。 顎で使うわけには行かないし、対等な関係の相手ですから、優越感にも浸れません。 元上司や、先輩を呼び出す人が、まず、存在しないのは、自分の方が顎で使われては、たまらないからでしょう。


  何とか、勤めていた頃と同じように、指図できる相手を確保しようとして、最悪の方向に行ってしまう人もいます。 ご近所の人達を部下扱いしようとするのです。 自治会長になりたがる、町内会長になりたがる、組長になりたがる、それも駄目なら、ゴミ奉行でもやりたがる。 とにかく、指図する立場になりたいわけだ。

  これも、迷惑でねえ。 そういうのが一人いるだけでも、住み難いったらありゃしない。 何でもかんでも、自分の意見を通さないと、気が済まない。 近所の人間を、馬鹿で無能だと決め付けていて、「自分が判断してやらなければ、町内が立ち行かない」と信じて疑わない。 こういう輩、他の住人から見ると、鬱陶しいだけ。 百害あって一利ありません。 

  しかし、世の中、そんなに単純ではないのであって、こういう心得違い者がいると、大抵の場合、対抗しようとする者も出て来て、悶着が頻発します。 やがて、出る杭は打たれて、近所中から、総スカンを喰らい、白い目で見られるのが怖くて、家から一歩も出なくなります。 そこから、濡れ落ち葉までは、直滑降です。 自分で自分の首を絞めたんですな。


  そういや、引退してから、近所づきあいを始める者の中には、何とか、自分の優位を確立しようと、変な事を言い出す奴もいます。 ご近所の人に、いきなり、学歴や、職歴を訊くのです。 「どの学校を出たか、どこの会社に勤めて、どんな地位にいたかを、お互いに知り合えば、上下関係が、はっきりするだろう」と思っているのでしょう。

  当然の事ながら、そういうのは、学歴や職歴に自信がある人間がやりたがるわけですが、もし、本人がそれっぽい事を言い出したら、配偶者や子供など、家族の人は、膝詰めで、眦を決して、「ご近所に、上下関係などない! 全ての家が、対等なんだ!」と、口を酸っぱくして、耳にタコが出来るくらい、繰り返してやった方がいいです。 馬の耳の念仏かも知れませんけど・・・。

  そういう人は、他人との関係を、上下関係でしか見ておらず、子供の頃から、学生時代、勤め人時代を通して、何とか、他人を見下す立場になろうと、押し捲ってきたわけですが、その発想自体が、引退後、近所の人達に対しては、全く通用しません。 話になりません。 「私は、○○大学を出て、○○会社に勤め、取締役までやりました」なんて言っても、「はあ、そうですか」で終わりです。

  逆に、そんな自慢話を口にするのは、恥だわ。 人格の低さを見抜かれて、却って、物笑いの種になってしまうわ。 なんで、赤の他人が、そんな個人的な経歴を畏れ入ってくれると思うのか、そちらの方が、不思議。 学校や会社という、狭い世界の中でだけ生きて来たせいで、呆れるくらいに世間知らずなんでしょうな。 60歳過ぎて、世間知らずというのは、他人事ながら、絶望的な感じがしますけど・・・。

  で、経歴自慢が通用しないと分かると、これまた、外に出るのが、嫌になり、家に引きこもって、濡れ落ち葉に直滑降なんだわ。 経歴だけが、その人の、心の拠り所だったんでしょうなあ。 学歴・職歴が高いのも、考えものでして、それだけが自慢で生きているという人は、結構いると思うのですが、そんな事は、人生の質とは、何の関係もないと思いますよ。 何の関係も・・・。

  たとえば、同じ学校を出ていても、その後、尾羽打ち枯らしてしまった人も、いくらだって、いるでしょうに。 「○○大学を出たから、私は偉い」と言う一方で、「同じ○○大学を出たが、あいつは落ちぶれた。 私は落ちぶれていないから、あいつより、偉い」とも言う。 しかし、それでは、「○○大学を出た」という点に関しては、価値がなくなってしまうのでは? 何でもかんでも、材料にして、優越感に浸ればいいってもんじゃないんだわ。


  別に、どうしても、近所づきあいをしなければならないわけではないのですよ。 今の時代、個人主義が広まって、村八分なんて、成立しなくなっていますから、付き合わなければ付き合わないで、大した問題にはなりません。 人に迷惑をかけなければ、それで、充分なのです。 そんな簡単な事すらできず、余計な事をして、自分の居場所をなくしてしまうのは、愚かとしか言いようがありませんなあ。


  そういう人達ばかり見ていると、何だか、人間というのは、つまらない、下らない、愚かしい存在だと思いますねえ。 私が、今、この歳まで生きて来て、大変、残念だと思っているのは、人類の文明とか、様々な文化とか、人間社会とか、個々人の人生とか、そういったものに対して、「素晴らしい」と感じられるものが、ほとんど、なくなってしまった事です。 知れば知るほど、幻滅するというのは、つらいものですなあ。