2019/02/03

引退生活④ 【やらなければいけない事を作る】

  引退生活の心得、4回目です。 私は、母親と二人暮らしなので、引退生活者で割合が多い、夫婦二人暮らしとは、ちと事情が違っており、あまり、大きな経験者口を叩く資格はないのですが、なるべく一般的な、誰にでも当て嵌まりそうな事だけ書くようにします。




  人間たる者、乳幼児時代は別として、学生時代、現役時代、引退時代を問わず、やる事に、三つの種類があります。

1. やらなければいけない事。
2. やりたい事。
3. やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事。

  この内、今回は、「やらなければいけない事」について書きます。


  勤め人が勤めをやめた場合、引退後、いろいろと手続きがあり、最初の確定申告が済む辺りまでは、緊張した日々が続きます。 学校卒業後、ずっと、勤め人だったという人は、確定申告なんかやった事がないから、どうしていいか分からず、押入れに籠って、がたがた震えながら、その日を待つ気分になると思いますが、なーに、そんなに心配する事はありません。

  とにかく、関係書類を持って、会場に行きさえすれば、向こうの係員が、大抵の事はやってくれます。 何回も経験していても、毎年、係員と長々話さないと分からないという人も多いですし。 くれぐれも、面倒臭いからといって、無視しないように。 脱税で、罰金を取られてしまいますよ。 家族に、「代わりにやってくれ」というのも、駄目。 その人だって、自分の申告で、手一杯なんだから。

  健康保険も厄介ですなあ。 いつ、会社の健康保険から離脱して、国民健康保険に切り替えるか、そこが、考えどころです。 私の場合、会社の健康保険組合から、「退職後、任意継続で、2年間は入っていられます」と言われて、安心しきって、余裕ぶっこきまくっていたのですが、最初に巡って来た年度末に、ふと思いついて、計算してみたら、そのタイミングで、国民健康保険に切り替えないと、大損する事が判明して、ビックリ!

  会社の健康保険の保険料は、在籍していた頃の所得を元に計算されるので、無所得になったら、その年度末で、国民健康保険に切り替えた方が、圧倒的に安くなるのです。 切り替えが、間に合って、応じ合わせ。 そのままにしておいたら、15万円も損する所でした。 引退後の15万円は、デカい。 マジ、中古車が買える金額でんがな。

  そうそう、国民健康保険に変わった後、自分が世帯主なら問題ないですが、世帯員になっている場合、世帯主の所得に応じて、軽減率が異なり、保険料が変わって来るので、思い切って、世帯分離してしまった方がいいです。 そのせいで、家族の住民票を取りに行く時に、委任状が必要になるなど、不便も発生しますが、健康保険料で、毎年、数万円も損するのに比べたら、ささやかな問題です。

  世帯主の所得が多い場合、無所得世帯員の保険料は、軽減なしで、6万円くらい。 世帯分離して、自分が世帯主になると、2万円以下になります。 引退後の4万円は、デカい。 いや、4万円くらいで買える物を、ちょっと、思いつきませんけど・・・。 現役の頃には、30万円以上払っていたわけで、引退後の健康保険料が、ここまで安くなるのは、驚きです。

  ちなみに、無所得なら、市県民税は、退職後、2年目からゼロになります。 通知すら来ません。 その代わり、無所得である事を証明する為に、年初に、「市県民税申告書」というのを、市役所に提出する事になります。 一回、自分から行けば、次の年からは、郵送されてきますが、これは、自治体によって、異なるかもしれません。 役所のホーム・ページを見れば、詳しく出ていると思います。

  税務署の方ですが、退職後、一回、確定申告すれば、次の年からは、無所得ですから、もう、縁がなくなります。 ただし、年金を受給し始めると、また、確定申告が必要になるので、どんな風にやるか、記録をとっておくといいと思います。 記憶は当てになりませんから。

  厚生年金から、国民年金への切り替えも必要で、それは、退職後すぐに、市役所で行ないます。 年金事務所には、行かなかったと思うなあ。 記憶は当てにならないから、記録を調べてみましたが、そちらにも、書いてありませんでした。 もう、退職後、3年半も経つから、こんな記事が書けるほど、細かい事を覚えていませんわ。 このくらいにしておきましょうか。

  まあ、退職後、会社から、ドカッと書類を渡されますし、分からない事があれば、各役所に問い合わせれば、教えてくれるから、そんなに心配する必要はないと思いますけど。 くれぐれも、しなければならない手続きを、無視しないように。 面倒な事になるだけでなく、損をすると思います。


  おっと、今回は、こういう事を書きたかったわけではないのですよ。 前置きが長くなってしまいました。

  で、そういった、退職後の手続きが、一通り終わると、「やらなければならない事」が、急になくなって、狭い所から、突然、ただっ広い所へ放り出されたような、うつろな気分になります。 精神的緊張が、一気に弛んで、ぼーっと呆けてしまうんですな。 これが、怖い。 そこから、何もする気がなくなって、廃人同然になってしまう人が、少なくないのです。

  定年で引退した場合、年齢は、60歳ですから、身体的には、まだまだ長生きできるのに、精神の方が、先に老け込んで、生きる意味を見失ってしまいます。 自分が何の為に生きているのか、分からなくなる。 働いている頃には、そんな事、考えもしなかったのに、閑になると、「生きる意味」が必要になって来るのです。

  生き続ける為に、自分を納得させられる理由を見つけなければならないのですが、そう簡単には見つかりません。 せいぜい、「すぐには、死にたくないから」くらいしか思いつかないのですが、その程度の動機では、積極的に生きて行こうという前向きな意思には繋がって行かないものです。

  実際問題、引退して、無所得になり、預金を取り崩して生きているだけの人間なんて、他人から見れば、いてもいなくても同じような存在です。 そして、基本的に、自分に利益を齎さない他人というのは、いない方が、害がない。 つまり、自分自身には、積極的に生きる理由がなく、周囲からは、早く死んでくれた方がありがたいと思われているという、大変、暮らし心地の悪い状況に追い込まれるわけです。


  それを避ける為に、嘱託や、パート、バイトでもいいから、働き続けようとする人もいるわけですが、それでは、そもそも、引退生活が始まりません。 定年後、働き続けたとしても、いつか、やめなければならない時が来るわけで、問題を先延ばししているだけという見方もできます。

  「やらなければならない事」が、全くなくなってしまうから、問題が発生するのであって、なければ、作ればいいのです。 もし、配偶者が、先に、家だけで暮らす生活に入っている場合、家事を担当していると思いますが、それを分けてもらえば、宜しい。 料理は、技術が要りますが、食器洗い、掃除、洗濯などは、誰でもできますから、やり方を聞けば、すぐにでも始められます。

  その際、なるべく、前任者と同じやり方をする事が肝要です。 手抜きをすると、前任者がやり直す事になり、喧嘩の元になります。 逆に、前任者のやり方より、著しく丁寧にやると、嫌味と取られて、これまた、喧嘩になります。 前任者の面目を潰すような事は、厳禁です。 「家族だから」、「夫婦だから」という甘えが通用しないのは、ここでも同じ。

  かつて、嫁・姑の不仲の原因として、最大の猛威を振るったのが、「前任者のやり方を無視する」事です。 嫁が、姑から、「今日からは、あんたが、台所を管理して」と言われたので、鍋や皿の置き場所を、自分に使い易いように入れ替えたら、姑の逆鱗に触れ、次の日には、全て、元の配置に戻されていた、といった嫁側の恨み話が、うじゃらうじゃらとあります。 「任せると言われたから、変えたのに、話が違うじゃないか」と言うわけですな。

  しかし、それは、嫁が、姑の意向を勘違いして、「台所の支配権を譲り受けた」と思い込んだのが間違いでして、そんな、既得権益を自分から譲るような甘い話は、世間にもなければ、家の中にだってありません。 姑は、支配権を譲り渡した覚えなど微塵もなく、ただ、自分の配下として、嫁に末端作業を任せただけだったんですな。

  ちなみに、嫁・姑の諍いの原因は、双方の性格の違いや、相性の問題ではなく、ほとんどが、支配権の取り合いにあります。 同居していないと、喧嘩が起こらないのは、支配対象が重なっていないからです。 そう考えれば、「別の家に住んでいる時には、仲が良かったのに、同居し始めた途端に、敵同士になってしまった」というのも、簡単に説明できます。 入り婿と、舅の仲が、さほど悪くないのは、そもそも、どちらも、家の中を、一ヵ所たりとも、支配していないからでしょう。


  話を戻しましょう。 前任者のやり方を無視すると、そういう不愉快な結果を招きます。 「こっちのやり方の方が、断然いい」なんて主張しても、駄目です。 家事に於いて、自分の方が後輩である事を弁えないと、いつまでも、先輩に認めてもらえず、年中、駄目出しを喰らい続けたり、最悪、「任せられない」と言われて、仕事を取り上げられてしまいます。 ふふふ、惨めな事よ・・・。

  衛生面での意識が、家族内でも人によって異なるケースがあります。 うちでは、父が元気な頃、昼食後の食器洗いを担当していたのですが、ある時、台布巾で食器を拭いているのを目撃して、仰天した事があります。 「布巾」と「台布巾」の区別がついていなかったんですな。 慌てて、指摘して、それ以降、布巾で拭くようになりましたが、私が気づくまで、何年間、台布巾で拭いた食器で、物を食べさせられていたか分からず、思い出すだけで、気持ちが悪くなります。

  もっと、ひどいケースでは、「台布巾」と「床用雑巾」の区別がつかない人もいると思いますが、想像するのも、恐ろしい。 前任者から指摘されて、すぐに改めるのなら良いですが、中には、間違いを認めるのが嫌で、頑なに、自分のやり方を続ける人もいると思います。 もし、私の父が、そんなだったら、母と私によって、食器洗いの仕事は、取り上げられていたと思います。


  二人とも、引退者の場合、家事をうまく分け合う必要があります。 体力と時間が、あり余っているからといって、何でもかんでもやってしまうと、相手側の仕事がなくなって、それまた、まずい事になります。 「楽隠居」などという考え方は、自分に当て嵌まらなければ、配偶者にも当て嵌まらないのであって、楽をさせてやれば、幸福になるというわけではありません。

  うちの近所の話ですが、引退した旦那が、「今まで、家の事は、妻に押しつけて来たから、引退後は、何でも、私がやるようにしました」と言っていたのですが、まあ、なんという事でしょう! 家事を全部取り上げられた奥さんは、見る見る、認知機能が衰えて、要介護状態になってしまったとの事。 ものには、限度があり、何事も、ほどほどが良いという、典型例ですな。


  家事を分担するのは良いのですが、家事の先輩がやっていなかった事を、自分が始めてしまうのは、またまた、悶着の元です。

  たとえば、ゴミ焼き。 今まで、全て、自治体の回収に出していたゴミを、閑に飽かせて、細かく分別し、燃やせる物は、家の庭で燃やそうとするわけだ。 こらこら、馬鹿な事をするでない! 今時、庭でゴミを燃やすなんて、条例違反だわ。 自分が子供の頃、やらされていたもんだから、今でもやっていいと思っているんだわ。 働いている間、何十年も、家の事なんて、興味すら持たなかったから、世の中の変化が分からないんだわ。 情けない奴め。

  それと、日曜大工。 家の修繕なら、業者に頼まないで済むから、経済的で良い事なのですが、そうではなく、新規に何かを作り始めると、もう、いけません。 必要だから作るのではなく、暇潰しに作るのだから、ガラクタが増える一方です。 年中、ホーム・センターに通って、一生に一度使うかどうか分からない特殊な工具を買い揃えようとするのも、家計に響く。 全く、閑人につける薬はない。

  以前、配偶者をなくした独居老人をテーマにしたドキュメンタリー番組で、男性高齢者の家を訪ねる場面を見たのですが、その人、日曜大工が趣味だそうで、自分で開発した発明品で、家の中が埋まっていました。 便利器具や、運動器具が多くて、実演もしていましたが、「ああ・・・、この人、まずいところへ、嵌まり込んだんだなあ」と、憐れ、涙を誘いました。 もう、そんな物を作る以外に、やる事がなくなっちゃったんでしょう。 当人にとっては、アイデアと技術の結晶なのでしょうが、他人から見ると、ガラクタでしかありません。

  ゴミ焼きは、「やってはいけない事」、修繕以外の日曜大工は、「やらない方がいい事」でして、いずれも、「やらなければいけない事」ではありません。 家事の先輩がやっていなかった事は、大抵、「やってはいけない事」か、「やらない方がいい事」です。 先輩が、意味もなく、やっていなかったわけではないのです。 とにかく、何か思いついたとしても、始める前に、家事の先輩に相談してみたら? まあ、ほとんど、「やめときなさい」と、却下されるでしょうけど。


  家の中で、「やらなければいけない事」が見つからないと、外で探そうとして、町内会に首を突っ込んで、新しい行事を提案したりする輩もいますが、とーんでもない! だからー、今は、個人主義の時代だと言っているではないですか! 誰も、他人の指図で何かさせられたいなんて、思ってないんですよ。

  「途絶えていた祭りを、復活させた」なんて、話を聞くと、ぞーーーっとします。 満足しているのは、思いついた奴だけ。 しかも、信心があって、祭りが復活した事に満足しているのではなく、自分の思いつきが通って、他人を思うように動かせた、その事で、優越感が充足し、御満悦になったわけだ。 これほど、傍迷惑な事が、この世にあろうか?

  祭りなんて、一度復活したら、最低でも、5年、長ければ、10年くらいは続けなければなりません。 もーおーう、面倒臭い! 勤め人には、貴重な休みなのに、どこの馬の骨とも分からない、閑なジジイの思いつきで、どうして、潰されなればならんのか! そんなに、やりたきゃ、自分だけでやれよ。

  で、復活させた祭りが、ずっと続くのかと言うと、そうではないんだわ。 言い出しっぺが、死ぬまでが目安。 たぶん、その迷惑ジジイが死んだら、次の年から、また、パタッと途絶えるでしょう。 もともと、続けられない理由があったから途絶えたのに、個人の思いつきで、強引に復活させて、末永く続くというものではないです。


  冠婚葬祭も、「やらなければいけない事」です。 閑な月日が続いた後、親戚に葬式や法事があると、久しぶりに会った人達と会話が弾み、気分が高揚して、次の葬式・法事を楽しみにするようになります。 不謹慎極まりないですが、引退するような年齢になると、結婚式に呼ばれるような事はなくなり、冠婚葬祭というと、葬式・法事ばかりになるから、その点は、致し方ない。

  で、おとなしく待っていて、よばれたら、神妙に参列するのならいいのですが、久々の賑やかな場で、張り切ってしまって、よその家の葬式・法事を仕切ろうとする奴がいるから、怖い。 ああだこうだと指図して、葬儀屋と議論まで始めるから、開いた口が塞がらない。 一体、何しに来てるんだ、このジジイは? いや、ババアである場合もあります。 しかし、押し並べて、ジジイの方が、タチが悪いです。 

  うちの親戚で、葬式は、家族葬でやって、一周忌、三回忌の法事だけ、親戚をよんだ家があったのですが、一周忌の席で、故人の弟に当たる人が、「なんで、葬式によばなかった!」と怒る一幕があったとの事。 引退して、閑でしょうがないから、冠婚葬祭に呼ばれるのを、心待ちにしていたのでしょう。 それにしても、法事の席で、遺族を叱るというのだから、悼みに来たんだか、痛めつけに来たんだか、分かりゃしない。




  前置きのせいで、長くなってしまいましたが、こんなところでしょうか。 「やらなければならない事」は、引退直後は多いけれど、それが過ぎると、急になくなってしまうから、自分で工夫して、作った方がいい。 ただし、やりすぎてはいけない。 という話でした。