2021/02/14

関東自工・東富士工場

  私が最も長く勤めていた会社の、静岡県・裾野市にあった工場ですが、去年いっぱいで、閉鎖になったらしいです。 1989年3月から、2014年8月まで、他工場への応援・異動期間も入れて、25年と5ヵ月、在籍したので、そこがなくなったと思うと、感無量というほどではないにせよ、感慨はあります。




  すでに、存在しないので、書いてしまいますが、私が勤め始めた時には、「関東自動車工業」の「東富士工場」でした、終わりの数年だけ、神奈川にあった、「セントラル工業」と合併して、トヨタの子会社になり、「トヨタ自動車東日本」という社名に変わりました。 しかし、私の場合、「トヨタ自動車東日本」には、ほんの2・3年しかいなかったわけで、勤め先の名前というと、「関東自工」が真っ先に出て来ます。

  若い頃の私は、地元企業の情報に疎い方だったので、関東自工の名前は、就職する寸前まで知りませんでした。 名前は知らないけれど、最初に工場の前を通った時の事は覚えています。 1987年7月に、植木屋の見習いをやめた後、派遣会社に登録して、御殿場にあったコピー機工場へ、半年くらい通っていたのですが、ある日、車で帰宅途中、少し、変わった道を通ってみようかと思って、関東自工の前を通ったのです。

  ただ通っただけでしたが、その時は、派遣社員という不安定な身分だったので、「ああ、ここに、大きな工場がある。 いつか自分も、こんな所で、正社員として働けるだろうか・・・」と、ぼんやり思ったのを覚えています。

  87年の年末、コピー機工場の生産縮小で、派遣会社ごと切られてしまい、ちょうど、胆石の手術で入院したのを機会に、派遣会社はやめてしまいました。 二級人間みたいな、情けない身分にうんざりしたのです。 88年には、語学専門学校に通っていたのですが、就職先がないらしいと分かり、そちらも、2年のところを、1年でやめてしまいました。

  で、コピー機工場での経験から、工場勤めは気楽で良いと知っていたので、就職先を探したら、時あたかも、バブル経済の興隆期で、社員募集の広告がうじゃうじゃ入っており、その中に、関東自工があったという次第。 まだ、専門学校に通いながら、地元の職安に行って、紹介状を貰い、会社に初めて入って、面接を受けました。 試験のようなものはなく、すぐに健康診断となり、そこで、就職は決まったようなものでした。

  自動車工場というのは、働いた事がある人なら分かると思いますが、とにかく、きつい仕事です。 体が、よほど丈夫なら別ですが、大抵の人は、どこか壊して、できる仕事がなくなり、やめて行きます。 私が入社した頃は、5人雇うと、4人はやめて行くという定着率の低さでした。

  私自身、最初に配属された所で、いきなり、上司から言われたのは、「いつ、やめてもいいよ」でした。 常識的に考えれば、失礼千万で、初めて会った相手に、大人が言う言葉ではありませんが、まあ、そういう職場だったのです。 きつい仕事を長く続けていると、人間、心が荒んで来るのでしょう。

  その上司は、私が、一応、続く人間だと分かってから、「おまえは、どの仕事をやっても、大丈夫だ」などと言っていましたが、やはり、初日に失礼な事を言ってしまったと思ったんでしょうな。 別に、悪人ではないけれど、やはり、心が荒んでいたわけだ。


  こんな事を細々と書いても、仕方ないですな。 少し、端折りましょう。 半年間は、準社員で、半年後に、もう一度、面接があり、正社員になりました。 最初に、工場の前を通りかかった時に、ぼんやり思った事が、現実になったわけだ。 しかし、別に嬉しくはありませんでした。 つくづく、自動車工場で働いた経験がある人なら分かると思いますが、そんな、夢や希望に溢れた職場ではないのです。 体と心を磨り減らして、辛うじて、給料に換えるだけの場所でした。

  私は、植木屋見習いの時に、ギックリ腰をやっていましたから、最初から、腰に爆弾を抱えている健康状態でして、腰痛にならないように、常に神経を尖らせていました。 体調の維持には、気を使いまくりましたねえ。 ギックリというのは、一度やると、その後、再発し易くなり、起これば、一週間は、仕事どころではなくなってしまいます。 ギックリ腰で、長く休まずに済んだのは、私が特段の注意を払っていた賜物でしょう。

  担当した工程は、応援先や異動先も入れて、全部で、10箇所くらいでしょうか。 勤めていた期間の後半は、設備がある工程で、設備の操作が覚え難い反面、慣れてしまえば、割と楽にできる所だったので、長く続けられたのです。 もし、他の工程だったら、ずっと早く、やめていたと思います。

  東富士工場は、F301工場と、F201工場の二つがあり、私は、F301の組立ラインがホームでした。 作った車は、クレスタ、チェイサー、マークⅡセダン、それらが、数回、モデル・チェンジしました。 他に、カローラ・セダンも、一時期作っていた事があります。 タクシーのコンフォートも作りました。 ミニバンでは、アイシスや、2代目スパシオ。 小型車のラクティス。 最後の方で、ポルテやスペード。

  F201に工場内異動した事が、2回ありました。 一度目は、センチュリー・ラインで、2代目の立ち上がりの時に行って、半年くらい、いたと思います。 次は、4代目ソアラの自動折りたたみ式ルーフを取りつけるラインでした。 どちらも、車は高級車でしたが、異動先では、ペーペー扱いで、顎で扱き使われるので、楽しくはありませんでした。

  社外応援は、1995年に、愛知県の渥美半島にある、トヨタの田原工場へ、2ヵ月間、行きました。 この時は、ハイラックス・サーフの塗装完了工程で、治具を外す仕事をしましたが、組み立ての仕事に比べると、大変、楽で、助かりました。 バイクを持って行って、豊橋や瀬戸など、周辺のツーリングをしたのは、いい思い出になっています。

  2013年から14年にかけて、北海道苫小牧市にある、トヨタの変速機工場へ、2ヵ月半、応援に行きました。 仕事はきつかったですが、街が、大変良く出来た、暮らし易い所で、現地で中古の自転車を買い、あちこち行って、楽しみました。

  同じ会社の別工場である岩手工場ですが、2010年に、3ヵ月間、応援に行きました。 2014年には、リストラ同然に異動して、1ヵ月くらい、いました。 それぞれ、別の職場でしたが、どちらも、殺人的にきつい仕事である上に、若い上司が、応援者や異動者を、使い潰すつもりでいて、往生しました。 応援の時は、終われば帰れると思っていたから、何とか乗り切りましたが、異動の時には、帰れないと分かっていたので、お先真っ暗な気分になってしまい、心臓を悪くして入院したのを機会に、そこで、会社をやめてしまいました。

  岩手は、観光地がたくさんあって、北上では、古墳を巡り、金ヶ崎や水沢では、武家屋敷を見ました。 特に、水沢は、潤いがあって、いい街だと思いましたが、肝心の仕事が地獄では、総体的に、いい思い出になりようがないです。

  おっと、そもそも、東富士工場の事を書くのが目的でしたな。 脱線しているので、戻しましょう。 どうも、会社時代全般の記憶と、特定の工場の記憶が、ごっちゃになってしまっています。

  で、東富士工場の話ですが、同僚や、上司、先輩、後輩には、いい人もいれば、悪い人もいました。 有能な人、知能の高い人、人格が優れている人もいれば、小学生のまんまかと思うような、しょーもない奴もいました。 大半が、読書人ではないので、体系だった知識をもった人は少なかったですが、恐ろしく記憶力がいい人や、頭の回転が早い人を見ました。 あまり、頭がいいと、周囲が馬鹿に見えるようで、そのせいで、人気がない人もいましたけど。 人間、バランスは、大事ですな。

  一番、しょーもないと思ったのは、出世しか頭にないという輩。 所詮、工場なのだから、出世なんてしたって、高が知れているのに、何を勘違いしているのか、一段でも上に上がろうと、足掻いている姿は、大変、みっともないものでした。 そういうやつらが、本当に優れている人の足を引っ張る様子の醜さといったら、筆舌に尽くし難い。

  社会全般から見れば、工場勤めの人間なんて、工場長で、部下が数千人いたとしても、外部の人間から見れば、「ああ、工場の人ですか」の一言で片付けられて、一般会社の係長クラスくらいにしか見てもらえないのに、高校卒業後、直行で工場に就職して、よそを知らないものだから、井の中の蛙そのもので、そういう事が分からないんですな。 哀れな。

  井戸の中の世界に過ぎないのに、上へ行きたくて仕方がないというのは、ただ、お山の大将になりたいだけで、支配欲、権勢欲が、傍から見ていて恥ずかしいほどに、丸出しの剥き出し。 肩書きが人間の価値を決めると勘違いしているわけですが、実際には、出世の為に他人を踏み台にしているわけで、周囲からの評価は最低になり、人間のクズ扱いは免れません。

  出世欲の塊で、実際に出世したはいいが、人望がないせいで、肩書きだけで部下がいない境遇に、早々と追い込まれてしまい、特定の職場もなくなって、助っ人的に、あちこちの職場を流浪している人を何人も見ました。 居場所があっても、一日中、パソコンでインター・ネットを見て、定時になると帰って行くような人もいたなあ。 何もしないで、給料がもらえるのだから、楽でいいという見方もできますが、羨ましいとは思いません。

  人が多い所だったので、直接、仕事ぶりを観察できた相手も多かったのですが、「ああ、優れた人には、とても敵わないなあ」と感服つかまつる事もあれば、「こんな馬鹿野郎が、世に罷り通っているとは、信じられん」と、呆れた事もありました。 世の中には、少人数の職場で、ほんの数人の人と関わるだけで、数十年の現役生活を終える人もいるわけですが、人間の醜い面を見ずに済むのなら、そういう人達が羨ましいです。 一度、見てしまったら、記憶から消えませんから。

  東富士工場での上司には、割と恵まれた方で、後半は、リレーする形で、三人、年下の上司になりましたが、私が、優れた人間には、年齢に関係なく、敬意を払う方針でいたせいか、向こうも、いろいろと気を使ってくれて、大変、助かりました。 終わりの十年間は、その三人のお陰で勤められたようなものです。 苗字の頭文字で記すと、K さん、I さん、S さんですが。

  K さんは、人柄が良い上に、能力が高く、冗談も面白いという、三拍子揃った人で、周囲から人望を集めていました。 その後、上に上がり、上司の上司になっていましたが、2014年に、宮城の工場へ異動になり、その後は、分かりません。 元が、中間管理職だったから、たぶん、宮城の工場でも、上に上がっていると思います。

  I さんは、頭が良すぎて、周囲から煙たがられるタイプでしたが、私だけは、彼の頭の良さを評価していたので、返礼的に、良くしてくれました。 2011年に、退職して、「結婚して、沖縄へ移住する」と言っていましたが、その後の事は分かりません。

  S さんは、私より、一世代若い人で、親子ほどに年齢が違っていましたが、新入社員で入って来た時に、ほんの数日、観察しただけで、「あ、この青年は、人の上に立つタイプだ」と思ったら、本当に、3・4年で、人を使う立場になりました。 その頃、私はもう、40代半ばを過ぎて、仕事にミスが多くなっていたのですが、随分、かばってもらいました。 私と一緒に、2014年に、岩手へ異動になり、私がやめた後、一度、電話がかかってきて、「自分も、その内、やめる」と言っていましたが、その後どうなったのかは分かりません。

  この三人、仕事以外でも、私が下戸で、飲み会を嫌がっている事を知っていて、忘年会や新年会に誘わないでくれたのも、ありがたかったです。 毎回、誘われると、断るのが、心苦しくてねえ。 大まかに言って、権勢欲ばかり強くて、無能な上司ほど、飲み会に、しつこく誘う傾向があります。 「会費は同じだから、下戸を参加させれば、そいつらの分を余分に飲めて、得だ」とでも思っているんでしょう。 下司な算盤勘定で、人望を失う方が、よっぽど、損だと思いますが。

  通勤は、最初の3年間は、自分の車、ダイハツ・初代ミラ(白)でしたが、エンジンが不調になって来たのと、事故が怖くなって、やめる事にしました。 車のラジオで、ベルリンの壁崩壊のニュースを聞いたのを覚えています。 家にあった本を車の中に置いておいて、信号待ち・踏み切り待ちの時に読んでいましたが、あれは、≪赤と黒≫の上巻だったか・・・。 変な事ばかり、記憶に残っていますな。

  次の3年間が、電車・バス。 御殿場線の中では、図書館から借りた、世界の名著ばかり読んでいて、3年間も利用していたのに、外の景色を、全く覚えていません。 岩波駅が、会社の最寄り駅でしたが、駅舎の様子も、ほとんど、忘れてしまったなあ。 通勤費補助で、電車は定期券、バスは回数券を買っていました。 バスの吊り広告に、黒澤明監督の、≪まあだだよ≫が出ていたのを覚えています。

  その後、勤務時間の変更で、深夜や早朝の出退勤が始まるというので、二輪の免許を取り、1995年からは、バイクで通いました。 2002年まで、ヤマハ・セロー225W(白紫)。 2014年の退職まで、ヤマハ・セロー225WE(黒)。 自宅から会社までの距離は、片道約20キロ。 一年間で、大体、1万キロの目安でした。 通勤費補助で、勤めている間は、車もバイクも、ガソリン代は、ほとんど、そちらで賄っていました。

  バイクは、通勤に使っていると、休みの日には、乗りたいと思わないものでして、ゴールデン・ウィークと、夏休みにしか、ツーリングに行きませんでした。 バイクは、田原応援と、岩手異動の時に、向こうへ持って行って、ツーリングにも使いました。 観光地・景勝地巡りには、バイクが一番、便利なのです。

  バイクを始めた頃、同じ職場に、アウト・ドアの達人のような先輩がいて、野宿ツーリングの基本を教えてもらいました。 その先輩、その後、岩手へ異動して、更に、その後、退職してしまったそうですが、今頃、どうしているかなあ。 もう、二度と会う事はないでしょう。 それ以外の人達とも、まず会わないと思います。 沼津から通っていた人間は少なくて、ほとんどが、御殿場や裾野の人達でしたから、生活圏が違うのです。




  キリがないので、会社の思い出は、このくらいにしておきましょうか。 東富士工場は、私がやめてから、6年半、続いたわけですな。 会社そのものがなくなったわけではないので、社員は、宮城か岩手の工場に異動したわけですが、退職した人も多かったとの事。

  それは、正解で、特に、40歳を過ぎているような人は、別の工場に行っても、ペーペー扱いで扱き使われた挙句、退職に追い込まれるのは、目に見えており、そんな嫌な思いをするくらいなら、やめてしまった方が、ずっとマシでしょう。 もっとも、再就職は、恐ろしく難しいと思いますが。

  私自身、6年半前に、異動という名目で、実質的に追い出されたわけですが、その時、東富士に残った連中が、今回の閉鎖で、どんな身の振り方になったのか、野次馬的な興味がないではなし。 6年半前、「人を追い出して、自分が残る」という事をやった中間管理職も多くいたわけですが、今回、自分が追い出される立場になって、それが、どれだけ理不尽なものか、身に沁みて分かったんじゃないでしょうか。

  異動したにせよ、退職したにせよ、これから、悲惨な目に遭う者が、たくさん出るでしょうが、もちろん私は、同情なんて、コツメカワウソの小指の爪の先ほども、する気はありません。 6年半も、勤め続けられたのだから、運が良かったのだと思ってもらわなければ。

  6年半前に、東富士に残った人の中には、私が世話になった人達もいたのですが、そういう人達は、軒並み、私より年上なので、すでに、定年退職していると思われ、私が心配するような事にはならないと思います。


  会社に在籍中、ほとんどの期間を、東富士工場で過ごしたのに、退職したのは、岩手工場だったというのが、今思うと、哀しいです。 こちらに帰って来てから、退職手続きの為に、一度だけ、東富士工場に行きましたが、もう、工場の方には入る資格がなくて、道路を挟んだ向かい側の棟で、書類だけ書いて、帰って来ました。 「終わり悪けりゃ、全て悪い」というわけではないですが、とにかく、哀しい幕切れでした。

  東富士工場の跡地は、トヨタの未来都市になるそうですが、もう、二度と行く事はないと思います。