2022/11/20

実話風小説⑩ 【社内押し売り】

  「実話風小説」の10作目です。 普通の小説との違いは、情景描写や心理描写を最小限にして、文字通り、新聞や雑誌の記事のような、実話風の文体で書いてあるという事です。




【社内押し売り】

  その会社で、A氏は、中途採用だった。 20代に、3回、職を換わり、30歳間際に、その会社に入社したのである。 現在は、45歳になっている。 A氏の経歴を、最初に断っておくのは、彼が、学卒入社の社員より、世間知が多かった事を、念頭に置いておいてもらいたいからだ。 人間、転職を繰り返していれば、嫌でも、知恵がつく。


  A氏は、通勤に、○○という名前の車を使っていた。 20年ほど前に、生産・販売が終わった車種で、特に評判が高かったわけではないから、旧車と呼ぶ程ではないが、もう、どこを走っていても、同じ車種を目にする事がないくらい、珍しい車になっていた。 古い車だが、よく整備されていて、外観も、新車同様だった。

  ある日の昼休み。 職場の休憩所で、たまたま、車の話題になった。 「Aさんの○○は、もう、貴重だよねえ」、「綺麗にしてるよなあ。 持ち主の性格が出るねえ」と、皆がプラス方向の評価をしていた。 そういう事は、もう、5年くらい前から、多くの人に言われて来ていて、「いやあ、金がないから、買い換えられないのさ」と、謙遜するのが、いつもの事だった。 いつもと違っていたのは、その場に、他の部署の若い社員が、一人加わっていた事だった。 友人と話をしに、たまたま、そこに来ていたのだ。

  その後、数日が経った。 いつものように、昼休みに、休憩所で、5・6人が集まり、世間話をしていると、他の部署の男、Bがやって来た。 40代半ば、つまり、A氏と同じくらいの年格好。 煮ても焼いても食えないような、ふてぶてしい態度である。 顔も、そんな態度に相応しい顔だったが、顔は事件と関係ないから、深くは触れない。

  年配の社員は、そのBが、コネ入社した男で、仕事ができず、あちこち、職場を移った挙句、資材管理部で、構内運搬トラックの運転をしている事を知っていた。 本来、定年前の高齢者がやる仕事なのだが、コネを利かせて、前任者を他へ追いやり、自分がそこに居座ってしまったのである。

  Bは、馴れ馴れしい態度で、ぶっきらぼうに、こう言った。

「Aさんて、どの人? ○○に乗ってる人」

  A氏は、スマホを弄ったまま、目も上げなかったが、年下の同僚が、A氏を指さしたので、分かってしまった。 Bは、馴れ馴れしい言葉遣いで、A氏に言った。

「○○のオプション部品があるんだけど、買わない?」
「要らない」
「そう、あっさり、断るなよ。 わざわざ、昼休み潰して、来てやってるんだからよ」
「そんな事、頼んでない」

  A氏は、礼儀正しい人柄で、常日頃、面識のない相手には、丁寧語で喋っていたので、同僚達は、意外に思った。 その時、A氏の顔を見た者は、普段とは全く違う、厳しい表情が出ているのに気づき、驚いた。 Bは、A氏の返事を無視して、勝手に話を進めた。

「いいよ。 今度、持って来てやるよ。 見れば、欲しくなるよ」
「持って来なくていい。 というか、持っ・て・来・る・な」
「そういう言い方はないだろ」
「俺は、はっきり断ったからな。 ちゃんと、覚えとけよ」
「ちっ。 変な奴!」

  Bは、ブツブツ言いながら、帰って行った。 いなくなると、年下の同僚が、A氏に言った。

「Aさん、どうしたの? 珍しく、怒っちゃって」
「ああいうのが、たまにいるんだよ。 全く知らない奴だが、どうせ、ろくな奴じゃないだろう」

  年上の同僚が言った。

「でも、あいつ、あれじゃ、引き下がらないかも知れんな」

  A氏が、暗い表情で、応えた。

「確かに、ああいうタイプは、人の言う事なんか、聞きませんよね」


  三日後、Bが、またやって来た。 驚いた事に、大きくて、白くて、細長い物を持っていた。 車のフロント・バンパー下に付ける、スポイラーである。 長さが、2メートル近い。 箱には入っておらず、剥き出しだった。 長い間、埃を被っていたのを、濡れ雑巾で拭いたような痕がついていた。

「これこれ! ほら、いいだろ? ほとんど、使ってないからよー」

  A氏は、スマホを弄ったまま、無視している。 年下の同僚が、気まずい雰囲気になるのを嫌って、口を開いた。

「ほとんど使ってないって事は、一度、付けてるんですか?」
「おお。 うちの嫁が、昔、○○に乗っててよー。 その時、オプションで買って、付けたんだけど、嫁が、暴走族みたいで嫌だって言うから、外したんだよ。 女は、やっぱ、車の事が分からないんだなー。 それから、ずっと、物置に入れてたから、大きな傷はないよ」
「という事は、小さな傷はあるんですね」
「Aの車って、青だろ。 どうせ、塗り直す事になるから、小さい傷は、見えなくなるよ」

  いつのまにか、A氏の事を呼び捨てである。 A氏は、ようやく、顔を上げ、決然とした語気で言った。

「買わないって、前に言っただろ。 持って来るなとも言ったよな。 なんで、持って来るんだ? 言葉の意味が分からないのか?」
「わざわざ持って来てやったのに、なんで、怒るんだよ。 変なんじゃねーの?」
「変なのは、お前だ! いいから、持って帰れ!」

  その場には、他に、5人いたが、全員、変なのは、Bの方だと思っていた。 この話をここまで読んで来た人も、きっと、同感だろう。

  Bは、帰って行ったが、入れ替わりに、以前、友人と話をしに、この休憩所に来ていた、他の部署の若い社員が顔を出した。 Bが帰るまで、物陰に隠れて、様子を見ていたのだ。

「すみません。 Bさんに、○○が、Aさんの車だって話しちゃったの、僕です。 まさか、あんな物を売りつけに行くとは思わなかったんで・・・」

  A氏は、しばらく、若い男の顔を見ていたが、別に怒りもせずに言った。

「いや、いいよ。 あの馬鹿、どうせ、駐車場で、俺の車を見てて、前々から、スポイラーを売りつけてやろうと考えてたんだろう。 お前さんが言わなくても、いずれ、他から聞きつけて、やって来ただろうよ」
「ほんと、すみませんでした」

  年上の同僚が言った。

「だけど、あいつ、まだ、引き下がらないかも知れんな」

  A氏は、うんざりした表情を見せた。


  悪い予感は的中した。 その日、退勤して、A氏が駐車場に行くと、Bが、A氏の車の所で、待っていた。 A氏の青い○○の、フロント・バンパーの下には、白いスポイラーが、ガム・テープで貼り付けられていた。 Bは、ニカニカ笑っていた。

「ほら、こんな感じ。 カッコいいだろ? 買った時は、10万だったけど、中古だから、8万でいいよ」

  これには、A氏が、激怒した。

「何をやってるんだ! この馬鹿野郎! 他人の車だぞ! お前は、頭がおかしいのか!」

  すぐに、ガム・テープを剥がしにかかった。 スポイラーが、アスファルト面に落下するのを、Bが慌てて支えた。

「そんなに怒る事ないだろ。 ガム・テープで貼っただけなんだからよー」

  ところが、それだけではなかった。 剥がしたガム・テープの痕が、ベタベタと残ったのは、まだ、何とかできるとして、片側の側面に回り込んだ部分が、明らかに、歪つに曲がっており、バンパーの青い塗装を引っ掻いて、黒のウレタン素地が露出していた。

「この野郎! 人の車にキズをつけやがって!」
「大丈夫だよ。 スポイラーを付ければ、隠れるって」
「見て分からないのか! これは、セダン用のスポイラーだ! この車は、ハード・トップだ! 同じ、○○でも、車型が違うんだ! 幅も違うんだ。 付くわけないだろ! この大馬鹿野郎が!」

  Bは、絶句した。 道理で、嵌まり難かったわけだ。 この男、○○が、もう、20年も前の車なので、どんな車型があったのか忘れていたわけだが、たとえ、覚えていたとしても、スポイラーを売りつけたい一心で、無理やり嵌め込もうとしたかも知れぬ。

  A氏は、スポイラーを抱えて、ぼっ立っているBに、人指し指を突きつけて言った。

「バンパーの傷は、修理代を弁償してもらうからな! この色、今じゃ、廃番になってて、作ってもらう事になるから、高いぞ! 10万は、覚悟しておけよ!」

  Bは、ハスを尖らせて、ボソボソと言った。

「冗談じゃねーよ。 誰が、そんな金、払うかよ」
「払わなきゃ、警察だ! 明々白々、器物損壊罪だからな!」

  ここで、騒ぎを聞いて近くに来ていた、A氏の同僚が、口を出した。

「おいおい。 即、警察は、ちょっと、まずいだろう。 会社内で起こった事だし。 とりあえず、上司に相談した方がいいんじゃないか?」
「おお。 いい事言うな。 そうしよう」

  A氏は、車についた傷を、スマホで撮影してから、会社の方へ引き返して行った。 Bは、ぼそぼそ、独り言を言いながら、自分の車の方へ、歩いて行った。


  さて、A氏だが、会社に戻ると、自分の上司ではなく、Bの上司を訪ねた。 資材管理部の係長である。 その辺にいた人に、Bの名前を出して、誰が上司か訊ねたら、すぐに居場所を教えてくれた。 幸い、係長は、まだ退勤せずに、残務をしていた。 A氏よりも、5歳くらい、若い男だった。 Bにとっては、年下の上司という事になる。

  A氏は、極力、客観的に、事情を説明したのだが、途中から、係長の顔が、「やれやれ、そんな話か」と言いたそうな表情に変わった。

「そういう事は、当人同士で、話し合ってくれないかなあ。 俺も、仕事が忙しくてさあ」

  A氏は、それを予測していたかのように、きっぱりと言った。

「当人同士というと、警察に行く事になりますが、それでいいですか?」
「えっ! 警察? 何を言ってるんだ? そんな大ごとか?」
「器物損壊罪は、刑事犯罪ですよ」
「ちょっちょっちょっと、待ってくれ!」

  ここで、初めて、係長は、A氏の顔をまともに見た。 これ以上はないというくらい、冷めた表情である。 しかも、係長の人物を見切ったような目つきをしている。 係長の顔から血の気が引き、真っ青になった。 係長は、Bに電話した。 Bは、車で帰宅途中だったが、「すぐに、会社に戻れ!」と怒鳴りつけられて、30分ほどして、戻って来た。 「売りつけようとした物を、持って来い!」とも言われていたので、スポイラーを持っていた。 現物を見て、係長の眉間の皺が、ざっくり深く切れ込んだ。

「これか・・・。 こんな物を、会社に持って来やがって・・・」
「だって、係長が、持って来いって・・・」
「そうじゃねーよ! この人に売りつける為に、昼間、会社まで持って来たんだろう! それ自体が非常識だと言うんだ!」
「・・・・・」
「いいから、傷をつけたバンパーを弁償しろ!」
「10万なんて、払えませんよ。 それでなくても、息子が中学に上がったせいで、俺の小遣いが減らされて、それを補う為に、これを売ろうと思ったんだから」
「もう・・・、もう・・・、あんたの面倒なんて、見れんわ! それが、大人の言い訳かよ! 俺は、小学生を相手に喋っているのか? 一体、何なんだ、あんたは!」

  係長は、縋るような目で、A氏を見た。

「申し訳ないですが、穏便に収めてもらえませんか。 弁償は、何とか・・・、いやあ、10万は、私も出せないなあ。 何とか、なりませんか?」
「弁償してもらえなければ、警察に行きます」
「それは、勘弁して下さい。 大ごとになると、困るんです」
「だから、大ごとにする前に、ここへ来ているんですよ。 この一件、私には全く落ち度がないですから、弁償代を値切られても、応じる義理なんて、ないですよ」
「困ったなあ・・・、困ったなあ・・・」
「あなたに対処する力がないなら、あなたの上司に当たります。 課長は、何さんですか?」
「それも、困るんですよ。 あまり、イジめないで下さいよ」
「イジめちゃいませんよ。 社内での問題解決の、手続きを踏もうとしているだけです」

  そこへ、退勤しようとする、課長が通りかかった。 50歳くらいの男である。 廊下から、ガラス窓越しに、室内に人が残っているのを見て、その内の一人が、細長い白い物を持っているのに興味を引かれ、入って来たのである。

「いつまでも、残ってるなよ。 もう、電気消すぞ」

  そう言ってから、どうやら、悶着が起こっているらしい事に気づいた。 顔を知らない、A氏がいたので、何事か訊いた。 A氏は、事情を説明した。 係長は、依然として、青くなっている。 Bは、つまらなそうな顔で、机に尻を載せ、片足をブラブラさせていた。 話を聞いた課長の判断は、速かった。

「それは、Bが弁償するのが、当然だな」

  Bは、係長に言ったのと、同じ言い訳を繰り返そうとしたが、途中で、課長に遮られた。

「社会人の世界じゃ、そんな言い訳は通用しないんだ。 お前の家庭の事情なんて、この人の知った事か。 警察沙汰になれば、起訴されて、裁判だぞ」

  その上で、A氏に向き直って、真剣な顔で言った。

「確実に弁償させますから、安心して下さい。 とりあえず、今日は、引き取っていただけますか。 私の連絡先をお教えしておきます」

  この課長は、真っ当な人物だった。


  この一件は、更に上まで、報告された。 重役会議である。 なぜなら、Bのコネ元が、常務だったからだ。 ただし、常務は、病気で入院中で、常務代理が立てられていた。 常務は、末期癌であり、もう復帰の見込みはなくなっていたが、創業社長の片腕を長く務めた功労者だったので、肩書きは維持され、他の重役達からも、敬意を払われていた。

  寝たきりの常務のもとにも、この件が報告された。

「また、Bか・・・。 あんな馬鹿の事なんか、知らんわ。 クビにしてくれ。 俺はもう死ぬから、俺の事は気にしなくていい」

  Bは、常務のコネで入社して以来、何度となく、問題を引き起こしていた。 常務は、そのたびに、尻拭いをして来たのである。 仕事上のミスで、会社に損害を及ぼす事もあったが、損失の穴埋めを、常務が自費でしていた。 Bは、常務の妻の弟の息子で、義理の甥に当たるのだが、妻の一族は、女が優秀な代わりに、男は駄目人間ばかりで、Bもその典型だった。 常務も、血縁の甥なら、とっくにクビにしていたのだが、姻戚だと、妻の実家に遠慮があり、思いきった対処ができなかったのだ。

  とはいえ、常務の意向だけで、社員一人をクビにできないので、Bの素行について、調査が行なわれた。 今回の一件も、その対象になったわけだが、A氏が、スマホで録っていた、音声データが、大いに物を言った。 A氏は、Bのようなタイプを、以前に勤めていた会社でも、経験しており、犯罪に発展するのを予見して、最初から、やり取りを録音していたのである。 用意のいい事だった。 「先に売ってくれと言ったのは、A君の方だから・・・」といった、調査開始当初に、Bが口にした言い訳は、ことごとく、嘘である事がバレた。

  社内調査をしたところ、Bが社内押し売りを始めてから、それまでの、10年ほどの間に、Bから物を売りつけられた被害者が、29人も出て来た。 ほとんどが、新入社員の時に、カモにされていた。 Bは、独身寮の食堂に出入りし、新入社員がいるテーブルへ合席して、「何でも、相談して」などと言って、知り合いになり、自分が使い古した物を、売りつけていたのだ。

  金額は、3万円以下が多かったが、初期の32型液晶テレビを、10万円で売りつけられた者もいた。 「買った時は、20万円もした」と言われたらしい。 しかし、その頃には、すでに値崩れして、新品が、5万円以下で買える時代になっていたのを、「初期の方が、国産パネルだから、性能がいい」などと、いい加減な事を言い、無理やり売りつけたのである。

  ついでながら、そのテレビ、枠の部分に、大きなプリクラのシールが貼ってあったので、何かと訊いたら、「子供が、イタズラで貼ったんだろう」との軽い返事。 プリクラの写真は、顔の所だけ、マジック・インキで塗り潰してあった。 買い取った後で剥がして見たら、フレームが割れていて、液晶画面も、その付近だけ、歪んでいた。

  一番、金額が大きかったのは、スクーターで、これは、使い古しではなく、フリー・マーケットで、3万円で買った物を、自分では一度も乗らないまま、雨曝しにしておいたのだが、新入社員の一人に、スクーターを探してる者がいると聞いて、12万円で売りつけたのである。 現物を見せられて、あまりのボロさに仰天したが、その青年、上昇志向があり、Bは常務にコネがあると聞いていたから、取り入るつもりで買ったのである。

  ついでながら、そのスクーター、エンジンが完全に固着していて、全く動かなかったらしい。 何とか修理しようと思って、バッテリーを買い換えたり、バイク屋に預けたりしたが、結局、不動。 修理できなかったのに、修理代を、3万円も取られた上に、廃車費用が、1万円かかったというから、ひどい話だ。

  被害者の中に、商品企画部のエースが混じっていて、重役達、全員、その青年の名前を知っていたので、驚いた。 まだ、20代後半なのだが、大変なアイデア・マンで、会社の利益の3分の1を、その青年の頭が稼ぎ出していた。 常に、ライバル社からの引き抜きが警戒されていて、会社側は、特別に優遇措置を取り、腫れ物に触るような扱いをしていた。

  そのエースが、Bのカモにされていたというのである。 売りつけられたのは、自作パソコン・キットで、Bが自分用に買ったはいいが、組み立てられずに、放置してあったのを、5万円で譲ってやるというので、OSを確認してから、買った。 ところが、いざ、現物を見てみると、OSだけ、比較的新しい物を中古で買い足したもので、その他のハード部品は、15年も前のものだった。 一応、組み立ててはみたが、動画の処理能力が低過ぎて、使い物にならなかった。

  Bに対して、詐欺ではないかと、文句を言ったら、睨みつけられて、人がいない所へ引っ張って行かれ、「変な言いがかりは、つけるなよ。 俺が、常務の甥っ子だって事は、知ってるよな。 お前を辞めさせるなんて、その気になりゃ、簡単なんだぞ」と、凄まれた。

  その一件があった頃、エースの青年は、周囲に、「こんな会社、辞めようかなあ」と、頻りに漏らしていたらしいが、無理もない。 それを思い留まったのは、仕事の方で、直接、常務と話をする機会があり、その人柄を知って、Bごときの讒言を聞き入れる人物ではないと分かったからであった。

  その調査報告を聞いた重役達の、冷や汗掻くまい事か、憤るまい事か。

「冗談じゃない! 彼に辞められたら、大損失だ! Bのクズ野郎! とんでもない事をしやがる! クビだ、クビ!」

  誰も反対する者はいなかった。 懲戒解雇になるところを、常務の功績に免じて、お情けで、自己都合退職の形にしてやり、会社から、放り出した。 常務は、その直後に、他界した。 今はの際に、うわ言のように繰り返していたのは、「Bを庇って来た事で、会社に大きな迷惑をかけてしまった」という後悔の言葉だった。

  Bの上司だった係長にも、譴責があった。 A氏の弁償要求を退けようとしたり、値切ろうとしたのが、問題視されたのだ。 しかし、A氏が、「Bさえ、処分してもらえば、他の人に恨みはないです」と申し出たので、それ以上の処分は免れた。

  結局、Bは、A氏に弁償できないまま、会社を辞めた。 払えるお金がなかったのである。 「確実に弁償させるから」と約束した、資材部の課長が、自費で弁償しようと考えていた矢先、亡くなった常務の妻が、会社を訪ねて来て、A氏に修理代を払っただけでなく、他の被害者にも、Bが巻き上げたお金を返して回った。 総額、100万円を超えた。

  常務の妻は、「私の甥が、大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」と、涙を零しながら、謝った。 その様子を見て、A氏は、「周囲が、こういう優しい人ばかりだったから、Bは、駄目人間になってしまったのかも知れないな」と思った。 だが、Bに同情する気は、微塵もなかった。

  Bについて、一時期、仲が良かった同年輩の同僚が、証言をしている。 Bは、仕事ができずに、あちこちの職場を盥回しにされている事を気の毒がられて、ニヤニヤ笑いながら、こう言ったらしい。

「いいんだよ。 俺は副業で天下を取ってるから」

  仕事で無能と見做されている劣等感を、社内押し売りに励む事で、騙した相手に対して優越感を稼ぎ出し、自尊心を保っていたのだろう。 努力の方向性を間違えているのだが、それに気づかない精神年齢の低さは、隠しようがない。 せいぜい、世間知らずの新入社員だけ相手にしていれば良かったものを、スポイラーを金に換えたいばかりに、A氏のような、自分と年齢的に差がなく、精神的にずっと成熟している上に、遥かに社会経験が豊富な人物を、カモろうとしたのが、大失敗だったのだ。

  Bから、物を売りつけられていた面々は、A氏に感謝した。 自分達ができなかった事を、してくれたからである。 A氏の一件がなかったとしても、常務が他界すれば、Bの天下は終わったわけだが、その場合、Bが鳴りを潜めるだけで、やった悪事に相応しい罰を与える事はできなかっただろう。

  A氏は、若い頃、十年ほど、他の会社を渡り歩いた分、学卒で入社した者達より、世間を多く知っていた。 その経験が、Bという社内犯罪者を追い詰めるのに、役立ったのである。 問題を起こした者の責任は、その上司へ、更にその上司へと辿っていけば、いずれ解決するのだが、普通の社員は、そんな事は知らずに、泣き寝入りしてしまうのだ。


  Bだが、失職後、妻に呆れられて、離婚された上に、家から追い出された。 すでに、両親は他界して、実家はなくなっていたので、行く所がなくて、またぞろ、伯母を頼り、故常務の家に転がり込んだ。 伯母は、あからさまな迷惑顔だったが、Bは、「自分がクビになったのは、常務が死んだのが大きな原因だから、伯母さんにも責任がある」などと、呆れた屁理屈を捏ね、「再就職するまで」と言いながら、そのまま居ついてしまった。

  再就職するにしても、もはや、コネはなく、年齢も行っている事で、なかなか、見つからない。 そもそも、無能で、何の実績もないから、書類審査で落とされてしまうのだった。 それでも、「安全運転には自信があるから」と言って、ハロー・ワークで、ルート配送の仕事を紹介してもらって、何とか、職に就いた。

  Bの性格や能力を考えると、車の運転だけ、まともにできるはずはないが、これは、元いた会社で、構内トラック運転の仕事に配属される際に、故常務から、「構内の運転だからって、絶対に事故を起こすなよ。 この仕事は、事故を起こしたら、即、外されるからな。 そうなったら、もう、この会社に、お前の居場所はないぞ」と、くどくど念を押されたから、それ以来、安全運転をする習慣がついたのである。

  ところが、ルート配送の仕事を始めて、一ヵ月もしない内に、大事故を起こした。 交差点に、赤信号で突っ込み、交差車両を避けようとして、急ハンドルを切ったところ、歩道に乗り上げて、信号機の支柱に衝突。 車は大破し、Bは、心肺停止で病院に搬送されたが、その後、死亡が確認された。

  病院に駆けつけた伯母は、他の親族と一緒に泣いていたが、正直、厄介者が死んでくれて、ほっとした気持ちの方が、ずっと強かった。

「かわいい子だったのに・・・」

  もちろん、子供の頃の話である。

  Bが運転していた配送車には、ドライブ・レコーダーがついていた。 事故直前、すれちがった白い車があり、その車種は、○○のセダンだった。 大方、「あのスポイラーを、売りつけてやれないかな・・・」と考えていて、信号を見落としたのだろう。