2023/06/18

実話風小説 ⑰ 【眼鏡の男】

  「実話風小説」の17作目です。 実話風と言いながら、長くなり過ぎて、普通の短編小説と大差なくなってしまった、このシリーズ。 書く方も、負担が大きくなって、そろそろ、耐えられなくなって来ました。

  で、やめるか、初心に返るかの二択になったのですが、やめても、他に掲載する記事がないので、とりあえず、初心に返ってみようかと思います。 今回から、初期の頃のように、短くなります。




【眼鏡の男】

  当年25歳の女性、A。 無名の私立大学を出て、就職したが、すぐにやめてしまった。 以来、「家事手伝い」を肩書きにしているのだが、今時 珍しい事である。 ひきこもりというわけではなく、近隣の地方都市へ、買い物には、よく出かけていた。 車の免許は持ってなくて、普段は、バスを利用していたが、ある時、バスを乗り逃してしまい、電車で帰って来た。

  退勤ラッシュの時間帯で、車内は、立錐の余地もない混雑。 そこで、Aは、痴漢に遭った。 後ろから、スカートの中に、手を入れて来るのが分かった。 何度も払い除けようとしたが、やめようとしないので、次の駅で、人を掻き分けて下りた。 その時、勇気を振り絞って、ちらっと後ろを振り向いた。 一瞬、目に映ったのは、眼鏡をかけた男だった。 Aは、全身の毛が逆立つ思いがした。

  下りた駅が、比較的、大きな街だったので、駅員がホームにいた。 はっきり、それと分かるほどに取り乱しながら、痴漢にあった事を告げた。 駅員から、「犯人は、どうしましたか」と訊かれて、「電車に乗ったまま、行ってしまったと思う」と答えた。 駅員は、困ってしまった。 それでは、見つけようがないではないか。 車内で大声を出して、周囲の人達に取り押さえてもらえば良かったのだが。 しかし、性格的に、そういう対処ができない被害者も多いから、致し方ない。

  ところが、Aは、意外な事を付け加えた。 犯人は、知っている人間だと言うのだ。 自分の家の近所に住んでいる男だと言うのである。 駅員は、警察を呼び、その街にある所割署から、生活安全課の刑事がやって来た。 30代後半の男性警部補と、20代の女性巡査である。 犯人が誰か分かっていると言うので、詳しい事情を訊く為に、Aを車に乗せ、署まで連れて行った。

  Aから、犯人の家の場所と、Bという名を聞き、警部補が、部下の男性巡査部長と共に、B氏の家へ向かった。 すでに、午後8時である。 B氏は不在だったが、隣家の住人が、「もうすぐ、帰って来ると思う」と言うので、車の中で待ち、20分後、車で帰って来たB氏に声をかけた。 B氏は、眼鏡をかけた、40歳前後の男性だった。

  痴漢の容疑について、尋ねられると、B氏は、「全く、身に覚えがない」と、即答した。 「その時刻には、会社で仕事をしていたから、証人はいくらでもいます」と言った。 被害者が、Aである事を聞くと、「ああ、あの人・・・」と、うんざりしたような、迷惑そうな表情を見せた。 人家が疎らに建つ農村地帯で、Aの家は、B氏の家から、100メートルほど離れていたものの、直接、見る事ができる。 B氏は、Aの家の灯りを指し示しながら、「Aさんの顔を知ってはいますが、以前、挨拶をした事があるくらいで、話をした事はないです。 ご両親とは、何度も話をした事があります」と言った。

  B氏は、バツイチの一人暮らしで、心配する家族もいない。 任意同行を求められて、家に入る事もせず、そのまま、警察の車に同乗し、所轄署へ向かった。 本人が、はっきり否定しているのだから、この時点での任意同行は、勇み足と言われても仕方がない。 本来なら、B氏のアリバイを確認するのが先だ。 警部補は、首実検をさせるつもりで、連れて来たのだが、それにしても、任意同行には早過ぎる。 Aが、犯人を名指ししていたから、ほぼ間違いないと、アタリをつけていたのである。

  取調室に、B氏を入れ、隣室のマジック・ミラー越しに、Aに確認させたところ、ちらっと見ただけで、顔を背け、強張った表情で、おぞましそうに、肩を震わせながら、「間違いないです」と言った。 警部補は、それで、B氏を、完全に、犯人と決めてしまった。 留置するように命じられた巡査部長が、「アリバイ確認しないんですか?」と訊くと、「それは、明日でいい。 どうせ、嘘だろう」と言った。

  「とりあえず、一晩、泊まってもらう」と言われたB氏は、別段、慌てもせずに、「それは構いませんが、今夜でも、明日の朝でも、駐在のCさんを、呼んでもらえますか」と言った。 C駐在は、A宅やB宅がある集落の担当である。 警部補は、B氏を犯人だと決め込んでいたので、犯罪者のくせに、「今夜でも、明日の朝でも」などと、余裕を見せた言い方をされたのが気に入らず、もう、9時過ぎだというのに、電話をかけて、C駐在を呼び出した。

  C駐在は、30代前半の男性である。 普段着に着替えて、寛いでいたところへ、電話を受けて、制服を着直し、車で署へ駆けつけた。 生活安全課へ行くと、応接セットに、Aが座っているのに気づき、うんざりしたような表情を見せた。 Aに付き添っていた女性巡査から、「警部補は、取調室にいます」と言われて、そちらへ向かったが、ちょうど、巡査部長が取調室から出て来て、「警部補は、喫煙所で、課長と話をしてる」と言われ、喫煙所へ向かった。 課長はおらず、警部補だけが、煙草を吸っていた。

  C駐在は、開口一番、警部補に言った。

「あの人、おかしいですよ。 今までにも、何度も、問題を起こしてるんです」

  警部補は、我が意を得たりといった顔で、ニヤリと笑った

「やっぱり、そうか。 もう、帰っていいよ。 遅くに、御苦労だったな」

  C駐在は、何か言い足りなそうな素振りを見せたが、その警部補とは、あまり、折り合いが良くなかったので、帰っていいと言われて、そのまま、引き揚げてしまった。

  B氏は、C駐在が署に来た事を知らないまま、留置所で、一夜を過ごした。 警部補は、Aを、自分の車で、Aの家まで、送り届けた。 普通、警察は、そういう事はしないのだが、警部補には、下心があったのだ。 この警部補は、仕事は人並みにできる方だったが、強面なせいか、まだ、独身だった。 Aは、そんな警部補の好みのタイプだったのだ。 警察官だって、人間だから、恋をする事もある。 それ自体は、他者が批判できる事ではない。


  翌朝、警部補と巡査部長が、B氏の勤め先へ赴くと、B氏が、事件発生時刻、会社で仕事をしていた事は、あっさりと証明された。 証言者が、8人もいたのだから、容疑も何もあったものではない。 B氏の勤め先は、痴漢が起きた地点とは、30キロも離れていた。 とても、トイレに立ったついでに、犯行に及べるような距離ではなかった。

  巡査部長が言った。

「Bの犯行ではなさそうですね」
「そんな事はないだろ。 Aさんが、あれだけ、はっきり、Bが犯人だって言ってるんだから」

  署に帰ると、B氏を留置所から出し、取り調べが再開された。 B氏は、相変わらず、犯行を否定していた。 B氏に、「駐在のCさんは、呼んでくれないんですか?」と訊かれて、警部補は、冷めた顔で答えた。

「呼んだよ。 昨夜の内にな。 お前の事を、おかしな奴だって、言ってたよ」
「そんな馬鹿な!」
「馬鹿なもんか。 今までにも、何度も、問題を起こしてるそうじゃないか」
「Cさんが、そんな事を言うわけがない!」
「言ったんだよ。 俺が この耳で、しっかり 聞いたんだから」
「何かの間違いだ!」
「だったら、もう一度、呼ぼうか? お前に、不利になるばかりだと思うけどな」

  C駐在が呼ばれた。 今度は、取調室にである。 C駐在は、B氏を見て、驚いた。

「なんで、こんな所にいるんですか?」
「痴漢容疑だそうです」
「えっ! そんな馬鹿な!」
「全く、身に覚えはないです」
「いつから、ここに?」
「昨日の夜9時頃から」
「じゃ、泊められちゃったんですか?」

  警部補は、頭の周囲に、「?」マークを幾つも飛ばしながら、C駐在と、B氏の会話を聞いていたが、割って入って、C駐在に問い質した。

「おい! お前、昨夜と言っている事が、全然、違うじゃないか! こいつの事を、おかしな奴だって、言ってただろうが!」
「Bさんの事じゃないですよ。 女の方です」
「Aさんが、おかしい? 馬鹿抜かせ! あの人は、被害者なんだぞ!」
「痴漢被害が、本当かどうかは分かりませんが、とにかく、Bさんは、犯人ではないです。 それは、自分が保証します。 こと、あの女に関する事件ならば、Bさんは、絶対、犯人ではありません」
「どういう事なんだ?」

  B氏が、口を挟んだ。

「アリバイの方は、どうだったんですか?」

  巡査部長が答えた。

「証言は取れました。 8人分も」
「それじゃあ、私の容疑は晴れたんですね」

  B氏が立ち上がると、警部補が、慌てて、止めた。

「ちょっと待て! まだだ!」
「あなた、一体、何を理由に、私に、容疑をかけてるんですか?」
「被害者の証言だ! あんたがやったって、はっきり 言ってるんだ!」

  B氏は、C駐在と顔を見合わせた。 二人とも、困ったような表情だ。 そして、B氏が、警部補に言った。

「たぶん、その痴漢は、眼鏡をかけていたんでしょう」
「何を言い出すかと思ったら、わけの分からん事を・・・」
「あの、Aさんは、眼鏡をかけてる男の区別がつかないんですよ」
「そんな馬鹿な! いい加減な事を言うな!」

  C駐在が言った。

「本当です。 ご両親の話では、中学生の時に、眼鏡をかけた先輩に片思いして、ストーカーまがいの事をした挙句、相手を怒らせて、近づかないように、きっぱりと言い渡されたんだそうです。 自分の外見に自信があったから、フラれた事実を受け入れられなくて、精神に異常を来たしたようです。 それ以来、眼鏡をかけた男に対して、憎悪を抱くようになったという事です。 被害妄想が昂じて、ご両親が精神科にも連れて行ったそうですが、よくならないようです」

  B氏が、事情を語る。

「小学生の頃までは、道で会えば、挨拶を交わすような、普通の子だったんですが、中学の時から、態度がおかしくなって、私の顔を見ると、逃げて行くようになりました。 以来、あの女の周囲で、何か悪い事が起こると、片っ端から、私のせいにされているんです。 眼鏡をかけている男で、一番近くに住んでいるのが、私なものだから」

  C駐在が、見解を述べる。

「眼鏡をかけている男が、みんな同じに見えるようなんですが、区別する能力が低くて見分けられないというより、眼鏡をかけている男は、全員、自分の敵だという事で、同一視しているみたいです。 『戦場で、敵と戦う時に、敵一人一人の顔を見分けないのと同じ理屈だ』と、父親が説明していましたが」

  B氏が言う。

「これは、母親から聞いた話ですけど、就職先の会社を、半年もしない内に辞めたのは、職場に、眼鏡をかけている男がたくさんいて、問題ばかり起こしてしまい、いたたまれなかったようです。 事務職だと、眼鏡をかけている人間の方が多数派ですから、無理もない。 Xさんから命じられた仕事を、Yさんのところへ提出する、なんて事をやっていたら、滅茶苦茶ですからねえ」

  C駐在が言う。

「Bさんの家から、あの女の家が見えるので、Bさんが窓から覗いていると思い込んで、逮捕してくれと、駐在所に電話して来た事が、何度もありました。 決まって、ご両親が不在の時でしたが」
「それ以来、うちじゃあ、東側の窓は、雨戸を開けられなくなっているんですよ」

  まだ、信じられないと言う警部補に、巡査部長が、ある実験をしてみるように進言した。 警部補は、最初、小馬鹿にして、取り合わなかったが、途中から来て、話を聞いていた課長が、やってみるように言ったので、すぐに、準備が始められた。

  「もう一度、面通しをするから」と言って、Aを連れて来て、取調室の隣室に案内した。 Aは、マジック・ミラー越しに、取調室の中を見ているように言われた。 背格好は問わず、眼鏡をかけた男性署員5人を、B氏の上着を着回しさせながら、一人一人、取調室に呼んだ。 それぞれに、別の質問をし、適当に答えさせた。 Aは、眼鏡をかけた男が入って来るたびに、怯えるような素振りを見せたが、人が替わっている事には、全く気づかないようだった。

  巡査部長が、Aに、「今の5人の中で、誰が犯人でしたか?」と訊くと、きょとんとした顔で、「みんな、同じ人でしょう? 今の人が犯人です」と答えた。 5人は、年齢は、20代から50代まで散っており、顔立ちに共通点はなく、髪型もバラバラ。 眼鏡も、銀縁、黒縁、縁なしと、バラエティーに富んでいたのだが、Aは、そういう違いを、一切、感知していなかった。 眼鏡をかけている男は、みんな同じに見えるのだ。

  この結果には、さしもの警部補も、Aの異常さを認めないわけには行かなかった。

  B氏は、釈放された。 警部補は、苦虫を噛み潰した顔で、謝りもしなかった。 代わりに、巡査部長とC駐在が謝り、C駐在が乗って来た車で、B氏を、家まで送り届けた。 B氏は、その後、留置所に一泊させられた経験を、武勇伝として、友人・知人や、勤め先の同僚たちに、語りまくった。 話の種にした事で、無実の罪を着せられかけた事の、仇を討ったわけだ。


  2ヵ月後、例の電車内で、痴漢の常習者が取り押さえられた。 余罪十数件。 Aに痴漢を働いたのも、その男と思われた。 まだ、20代前半で、顔も、髪型も、背丈も、服装の雰囲気も、B氏とは、似ても似つかなかった。 共通点は、眼鏡をかけているという事だけ。 Aが、その男から、痴漢被害を受けたのは、間違いないのだが、Aの認識能力に問題があったせいで、Aの被害に関しては、起訴理由から外されてしまった。 担当検事が眼鏡をかけていたので、犯人と検事の区別がつかず、異常ぶりを露呈してしまったものらしい。


  呆れた話だが、あの警部補、Aへの恋慕の情を諦めきれず、搦め手から接近した。 「痴漢被害に遭わないように、警備する」などと言って、デートに誘い出す事に成功したのだ。 何回か、近場の観光地に遊びに行って、親睦を深め、うまくすれば、結婚に持ち込めそうだったが、そうは問屋が卸さなかった。

  ある時、刑事課の応援で、強盗犯グループの捕り物に参加したのだが、乱闘で顔面を殴られ、右目の視力が著しく落ちてしまった。 医者の指示で、コンタクト・レンズでは、眼球への負担が大きいと言うので、やむなく、眼鏡をかけた。 当然の事ながら、Aは、悲鳴を挙げて逃げ出し、二度と会ってくれなかった。