2023/10/22

実話風小説 (21) 【袋ラーメン】

  「実話風小説」の21作目です。 実は、このシリーズ、前回で、やめようと思っていたんですが、もう一作 出来てしまったので、出します。 来月までに、次が出来れば、続けますが、いつ終わっても、おかしくないという事は、ご承知おき下さい。




【袋ラーメン】

  A氏は、60歳で定年退職した後、市街地外縁にあった家を売り、郊外に中古住宅を買って、引っ越した。 近所づきあいの鬱陶しさを嫌い、家が疎らな環境へ移ったのである。

  移転先で、町内会に入らなかったのも、引退後は、他人に気を使わずに生きたかったからだ。 ゴミ集積所も使えなくなるとの事だったが、生ゴミは、庭で土に戻し、それ以外のゴミは、ある程度 溜めてから、車で処分場へ持ち込むようにした。 有料だが、3ヵ月に1回も行かないので、大した出費ではなかった。 

  20代の頃に、5年間弱、結婚していたが、子供が出来てから、養育方針の違いで、妻と不仲になり、離婚していた。 娘一人は、妻が連れて行った。 妻は、すぐに再婚した。 1年ちょっと経った頃、妻の母親から電話があり、「孫は、妻の再婚相手を父親と思っているから、会いに来ないで欲しい。 連絡もしないで欲しい」と、言われた。 そちらとの音信は、それっきりである。

  その後、A氏は、一人暮らしを通したが、他に家族がいないだけに、近所づきあいが、利点より、面倒の方が多いという事を痛感した。 特に、近所の家の大半が、高齢者家族だと、相対的に若い人間は、何かにつけ、仕事を押し付けられて、扱き使われてしまうのだ。 祭りだの、運動会だの、やらなくてもいいような行事が生きていて、否も応もなく、引っ張り出されてしまうのである。

  高齢者達は、「こういう事は、やっぱり、若い人じゃないとね」などと、笑顔で言うが、それが、相手を利用している言い分けなのだから、虫がいいにも程がある。 それでいて、自分達の子供は、高校卒業するや、さっさと家を出てしまって、寄り付きもせず、まるで、当てにならないのだ。 そんな図々しい隣人に、いいように利用されるのが嫌で、逃げ出した、A氏の気持ちが分かってもらえるだろうか。


  A氏が買った家は、築40年の二階家で、かなり古ぼけていたが、特に、損傷している部分は見られなかった。 敷地は、50坪あったが、胸くらいの高さの生垣が取り巻いている、その外は、360度 畑で、開放感は、この上ないものがあった。 庭に、前の持ち主が造った、あずまやがあり、木製の、テーブルと長椅子が置いてあった。 A氏は、最初の夏、その椅子で、何度か、昼寝をした。 涼しくて、気持ちが良かった。

  家から、半径100メートル以内には、建物と言ったら、木造のアパートが、一軒あるきりだった。 玄関ドアの枚数で見ると、8室ある。 もう、古いので、入居者は、半分以下のようだ。 どの街からも離れていて、交通不便だから、そんなものなのだろう。 一番近いスーパーまで、500mくらい。 徒歩で、買い物に行くには、荷物を持った帰りが厳しい。 家が少な過ぎるのも、防犯上、嫌われていたのだろう。

  A氏は、定年後、働くつもりがなかったので、倹約して暮らそうと決めていた。 預金や、65歳から受給する予定でいる、年金金額を計算して、一日に使える額を決めた。 車も処分を検討したが、買い物は自転車でも、どうにかなるものの、ゴミを処分場に持ち込むのに、車一台単位で料金が決まるので、手放せなかったのである。 維持費を切り詰める為に、引退前に買い換えた、軽の貨物車を、動かなくなるまで、乗るつもりでいた。


  ある年の4月初め頃、A氏は、だいぶ、暖かくなったと思い、庭のあずまやで、昼食を食べる事にした。 遠くの山に、桜が咲いていて、それを眺めながら、食事をするのが、風流だと思ったのだ。 北の方に、アパートがあって、ベランダに干してある洗濯物が揺れている以外、目障りになるものはなかった。

  A氏の昼食は、袋ラーメンに決まっていた。 5袋1パックで、250円くらい。 近所のスーパーで売っている、最も安い品である。 醤油味、味噌味、塩味、豚骨味など、合計50食分くらい、買い置きしてあって、その日の気分で、味を選んで、食べていた。 葱のほか、ゆで卵や、ソーセージを載せるのが普通だった。

  「せっかく、庭で食べるのだから」と思って、カセット・ガス・コンロを出し、あずまやのテーブルで、調理した。 家の中で食べるより、ずっと、おいしく感じられた。 コンロや器を運ぶのが、ちょっと手間だったが、どうせ、閑な引退者だし、少々の手間は、覚悟の上だ。

  三日連続、庭で昼食を食べた。 その三日目の事である。 ラーメンを煮ている時に、人の気配がした。 生垣の向こう側に、誰かいる。 話し声がするから、二人だ。 生垣は、胸までの高さしかないから、しゃがんでいるのかと思ったが、声の調子からして、子供のようだった。

  そちらを見ていると、やがて、男の子が、顔の上半分を出した。 すぐに引っ込み、しばらくすると、また、出した。 もう一人の子供と、何か、話しているが、言葉数は多くない。 A氏は、ラーメンの火を止めてから、生垣に近づいて行った。 生垣の外を覗くと、男の子と女の子がいた。

  男の子は、7・8歳くらい。 女の子は、5・6歳くらいである。 顔が似ているから、兄妹ではなかろうか。 男の子は、眉が太くて、意思が強そうな顔つき。 女の子は、線が細く、不細工というのではないが、何となく、貧相な感じがした。 二人とも、少し痩せていた。 小学生だと思うが、月曜日なのに、学校は、どうしたのだろう? ああ、そうか。 今日は祭日だったな。

  A氏は、子供達を怯えさせないように、なるべく優しく、声をかけた。 

「何してるんだ?」

  答えない。 しかし、逃げもしない。

「もう、お昼だろ。 家に帰んな」

  答えない。 二人で、しゃがみこんで、顔を見合わせている。

「どこの家の子だ?」
「そこのアパート」

  やっと、男の子が答えた。

「家に、大人がいないのか」
「お母さんがいるけど、寝てる」
「病気か?」

  男の子は、首を横に振った。

「仕事が夜だから、昼間は、寝てる」

  ああ、水商売なのか。 A氏は、推量した。

「お昼、食べられないのか?」

  男の子は、首を縦に振った。 女の子は、ずっと、下を向いている。 A氏は思った。 この二人は、アパートの窓から、こちらを見ていて、ラーメンを食べているA氏を羨ましいと思い、やって来たのだろう。 お相伴に預かれれば、運がいいとでも考えて。 図々しい感じもしたが、相手は子供だ。 無碍に追い返すのも、気の毒だ。 そして、言った。

「ラーメン、食べるか?」

  男の子と女の子は、顔を見合わせた。 そして、二人で、頷いた。

  A氏は、二人に指図して、家の表側に回らせ、門から入れて、庭へ通した。 あずまやの椅子に座らせ、醤油味のラーメンを二つ作った。 ゆで卵を剥き、包丁で、二つに切って、一切れずつ、載せてやった。 葱を入れるかと聞くと、二人とも、首を横に振った。 子供らしい好みである。

  二人は、朝飯も食べていないのか、ガツガツと、ラーメンを食らった。 食べ終わると、男の子が言った。

「いくらですか?」

  A氏は、代金を取る事を考えていなかったので、虚を突かれたが、ちょっと考えて、

「一杯、50円だな」

  と、答えた。 家の事情で、昼飯が食べられないのだとしたら、これからも、ここを当てにするかも知れない。 タダでいいと言うと、却って、来づらくなってしまうかも知れない。 子供が払える程度の代金を取っておいた方が、むしろ、いいだろうと考えたのだ。 ゆで卵代や、ガス代、手間賃を合わせれば、50円で出来るわけがないが、子供は、そんな事まで考えないものだ。

「はい」

  男の子は、ポケットから、100円玉を出すと、A氏に手渡し、女の子を促して、逃げるように帰って行った。 「ごちそうさまでした」と言うかと思ったが、言わなかった。 その種の教育を受けていないのだろう。


  幼い兄妹は、それから、土日・祭日になると、やって来た。 おそらく、母親の仕事が、土日・祭日でも、休みになっていないのだろと思われた。 おずおずしていたのは、最初の三回くらいまでで、それ以降は、来て当然のような顔をして、庭に入って来た。

  A氏が、この二人を受け入れたのは、ご近所付き合いをやめてしまった事の反動が大きな理由だった。 人間、他人が煩わしいと思っても、所詮、社会的動物である。 時には、他人と話がしたくなる事もある。 そこへ、この二人が来るようになったのである。 100円玉を持って、やって来て、きっちり、ラーメンだけ食べて、帰って行く。 一言も喋らない日もあるが、それは、むしろ、ありがたかった。 大人のように、世間話で間をもたせるような気遣いは要らない。 そこが、気楽だった。

  A氏は、男の子の方には、自分自身の子供の頃を重ね、女の子には、自分の娘の姿を重ねて見ていた。 顔は、全然違うのだろうが、自分の娘も、このくらいの歳だった時期があったのだろうな、と想像していた。 もし、生きていたら、すでに、30歳を過ぎているはずで、結婚して、子供がいてもおかしくない年齢だったのだが、A氏は、離婚して以来、一度も会った事がなかったのだ。

  余談になるが、A氏の娘は、元妻の再婚相手の男に、折檻されて、3歳の時に、死んでいた。 ニュースにもなったのだが、よくある名前だった上に、姓が変わっていたので、A氏は気づかなかったのだ。 元妻も、その両親も、煩わしい悶着を嫌って、A氏に伝えなかった。 元妻は、服役している夫と別れ、すぐに、再々婚し、子供が二人出来た。 A氏は、そんな事も、全く知らない。 元妻の母親から言われた、「連絡するな」という指示を守っていたのだ。

  A氏は、60歳を過ぎて、自分の人生を省みる境地に入っていた。 仕事は、まずまず、無難にこなして、乗り切ったが、私生活では、結婚に失敗していたので、いい人生だったと思う事が、なかなか、できなかった。 幼い兄妹に、昼飯を食べさせてやる事で、少しは、人生の評価点が上がるかな、と期待する心もあった。


  夏になると、暑くなり過ぎて、正午に庭で食事をするのは、無理になった。 A氏は、二人を家の中に入れ、冷房を利かせて、ラーメンを食べさせた。 食後、一時間くらい、昼寝して行く事もあった。 A氏は、一人でいる時には、エアコンを使わないのだが、二人が来ている時は、惜しまずに使った。

  ラーメンは、相変わらず、袋ラーメンだったが、載せるものが、次第に増えていった。 ゆで卵のほかに、ソーセージ、ハム、海苔、メンマ、缶詰のコーンなど。 もやしは、一度入れたら、嫌がられたので、入れなくなった。 焼き豚を入れてやりたかったが、高いので、いつも、スーパーの売り場でためらっては、買えなかった。

  生ラーメンなら、もっと、おいしいと思うだろうとは思ったが、生ラーメンは、スープを別に買わなければならないから、高くなってしまう。 袋ラーメンの、3倍はする。 一度、うまいものを食べてしまうと、袋ラーメンをうまいと感じなくなる事が予想された。 そうなったら、ずっと、生ラーメンを食べさせる事になり、一杯50円では、大赤字になってしまう。

  A氏は、悩んだ。 二人には、いつまでも、来てもらいたいが、出費が大きくなると、蓄えが減って、生活設計が狂ってしまう恐れがあり、そちらも避けたかった。 後で考えれば、そんな心配は、無用だったのだが。

  秋口にさしかかった、ある日、A氏は、スーパーの練り物コーナーで、「なると」を見つけた。 懐かしいと思った。 自分が子供の頃、家で、ラーメンの出前を頼むと、上に、なるとが載っていた。 白地に赤い渦巻きがある、蒲鉾である。 蒲鉾だから、特に、味はない。 しかし、白地に赤の色合いが、なんとなく、おいしそうに見えるのである。

  A氏は、なるとを買った。 焼き豚よりは、ずっと、安かった。 もし、二人が喜んだら、これからは、毎日、なるとを載せてやろうと思った。

  ところが、なるとは、不評だった。 今の子供達は、甘い物を食べ慣れているので、味がない蒲鉾など、「変なもの」としか思えないようなのだ。 二人とも、少し齧っただけで、残して帰って行った。 A氏は、自分の子供の頃と重ね過ぎていたと、反省した。


  この問題は、それだけでは済まなかった。 翌日の午前中に、30代くらいの女性が、駐在の警官と一緒に、A氏の家を訪ねて来たのだ。 女性は、最初から、怒っていた。 話をしに来たというより、一方的に捲し立てに来たのだった。

「うちの子供達に、何を食べさせたんですか! あんた、一体、何なんですか! 他人の子供に、何するんですか!」

  興奮して、掴みかからんばかりの勢いなので、警官が女性を抑え、代わりに説明した。 この女性の二人の子供が、昨夜から、腹痛を訴え始め、今朝、救急車で、病院に運ばれた。 食中毒らしい。 男の子が、A氏の家で、「変な物を食べた」と言うので、事情を訊きに来たというのだ。 A氏は、未開封の袋ラーメンを持って来て、見せた。

「このラーメンと、ゆで卵と、海苔と、あと、昨日だけですが、なるとを入れました」
「何か、腐ってたんでしょう!」
「ゆで卵は、一昨日買って来た卵を、昨日、ゆでました。 なるとも、一昨日に買って来たものです。 腐るような事はないと思いますが・・・。 私も食べましたし」
「大体、それ以前の問題として、よその子供に、勝手に物を食べさせるなんて、非常識だと思わないんですか!」

  A氏は、弱ってしまった。 言われてみれば、確かに、常識的とは言えない行為だ。 半分は、人恋しさから、もう半分は、二人が不憫で、ついつい、何ヵ月も続けてしまったが、本来、昼食を食べさせるのは、親がやるべき事で、他人が、代行するような事ではない。 二人が心配なら、親に意見してやる方が、常識に適っていただろう。

  奇妙に感じたのは、この母親が、子供がラーメンを食べに来たのが、昨日一日だけだと思っているらしい事である。 何ヵ月も通っていた点については、一言も触れないのだ。 しらばっくれているのではなく、知らないのだと思われた。 子供達が、親に内緒で来ていたのは、想像していたが、本当にそうだったわけだ。 親に嘘をついていたわけだが、嘘をつかなければならない事情があったのだろうと思って、A氏の方からは、何も言わなかった。

  母親は、憤懣やる方ないという体で、「常識が! 常識が!」と繰り返していたが、長くは続かなかった。 顔色が、だんだん、青くなり、やがて、紫色になると、「痛い、痛い!」と、腹を押さえて、その場に、くずおれてしまったのだ。 救急車が呼ばれた。 食中毒だった。

  後で分かった事だが、食中毒の原因は、母親が、職場の上司から、出張土産にもらった、魚卵製品だった。 まだ、残暑厳しい季節なのに、要冷蔵である事に気づかず、常温で、二日間 置いておいたものを、持って来たのである。 職場で、同じ土産をもらった、6人と、その家族、合わせて、15人が入院した。 幸い、死者は出なかった。

  駐在警官の報告で分かったのだが、子供達の母親の職業は、飲食店の調理担当で、いわゆる水商売ではなかった。 離婚したシングル・マザーで、給料がいい遅番勤務を選んでいたのだ。 未明に帰宅して、昼間、眠っている点では、水商売と変わらなかったが。

  その一件以来、二人が、A氏の家へ来る事はなくなった。 母親も、来なかった。 ひどい剣幕で、A氏を罵ったので、罰が悪かったのだろう。 そして、一ヵ月もしない内に、アパートから、引っ越して行った。



  A氏は、また、一人になった。 引退後の時間は、経つのが早い。 一年二年は、瞬く間に過ぎて行く。 土日・祭日になると、つい、生垣の外を見てしまう。 今でも、天気のいい日には、庭のあずまやで、ラーメンを煮て食べた。 あの二人は、元気で暮らしているだろうか。 何ヵ月も来ていたんだから、A氏を忘れるような事はないだろう。 最初の数回は、本当に、おいしそうに食べていたな。 あのなるとは、失敗だったな。

  とりとめのない思い出が、次々と、脳裏に浮かんでは消えた。 ガス・コンロや、器を片付けもしないまま、長椅子に横になり、昼寝する事が多かった。

「おじさん。 おじさん」

  体を揺すられて、目を覚ますと、中学の制服を着た、あの男の子が、上から顔を覗き込んでいた。 太い眉に特徴があるから、すぐに分かった。 隣に、女の子もいる。 こちらも、中学の制服を着ていた。 線が細く、相変わらず、何となく、貧相な感じだ。

「ああ、君達か。 大きくなったなあ」

  A氏は、身を起こそうとしたが、なぜか、体が言う事を聞かなかった。 男の子が言った。

「ラーメン、何度も御馳走になって、ありがとうございました」

  女の子が言った。

「兄と私は、おじさんのお陰で、命が繋がったようなものです」

  A氏は、思わず、口元がほころんだ。 照れ臭そうに言った。

「いやあ、そんな大層な事じゃないよ」

  男の子が言った。

「おじさんは、僕達の命の恩人です」
「大袈裟だなあ。 ただの、袋ラーメンだよ」

  A氏が、ようやく、体を起こすと、二人の姿が消えていた。 夢だったのだ。

  同じ内容の夢を、A氏は、何度も見た。 歳月が経つに連れ、二人は大きくなり、土産を持って来るようになった。 土産は、だんだん、高価な物になった。 結婚したと言って、相手を連れて来た。 子供が出来たと言って、子供を連れて来た。 家中に、人が溢れた。 A氏は、みんなに、袋ラーメンを作ってやった。 みんな、「おいしい、おいしい」と、喜んで食べた。

  全て、夢だったが、そんな夢を見て、目覚めると、暖かい気持ちになっていた。 二人の子供と過ごした年から、20年。 これといって、趣味もないA氏が、一人でも、精神的に、おかしくならずに生きて来れたのは、そんな夢を見続けていたからだと言っても、過言ではない。

  A氏は、二人が、また来たら、食べさせてやろうと思って、生ラーメンと、スープ、焼き豚を、常に買い置きするようになった。 そして、期限が来る前に、自分で食べ、また、新しい物を買って来た。 その習慣は、20年間 続いた。



  ある晩、A氏の家に、泥棒が入った。 こんな事は、初めてだった。 家は、買った時よりも、更に古ぼけており、車も、30年物の骨董品。 泥棒に狙われるような家ではなかったからだ。 盗まれたのは、台所の茶箪笥の引き出しに入れてあった、小銭入れだけだった。 警察が来たが、現場を見たベテラン刑事が口にしたのは、「犯人は、家の中の事情を知っている奴だ」という見解だった。 他が荒らされておらず、小銭入れが入った引き出しだけ狙われていたからだ。

  しかし、A氏には、すぐには、思い当たる人物が浮かばなかった。 四半世紀近く、人付き合いをせずに生きて来たからだ。 その間、客なんか、一人も・・・。 一人も・・・。

  犯人は、三日もしない内に、また、押し入って来た。 今度は、泥棒ではなく、強盗になっていた。 ベッドで眠っていたA氏は、突然、天井灯が点いたので、眩しさで目を開けた。 目出し帽をかぶった男が、寝室の入口に立っていた。 両手で、果物ナイフを持っているが、慣れていないのか、震えているように見える。

  A氏は、ハッとした。 目出し帽の、右目の穴が、上にズレていて、眉毛が内側半分、見えていたのだ。 太い眉毛が。 A氏は、思わず、ボロボロと涙を流した。

「君だろ! 君なんだろ! 元気だったか?」
「るせーっ! おまえなんか、知るかーっ!」
「お金・・・、お金、欲しいのか?」
「当たり前だーっ!」
「少ししかないけど・・・」

  A氏は、箪笥から財布を出し、中から、あるだけの紙幣を掴み出して、強盗に渡した。

「ほら、ほら、持ってきな」
「お、おう・・・」
「妹さん、元気か?」
「知るか、んな事!」
「腹減ってないか。 ラーメン食べてくか? 生ラーメン、あるよ。 袋のより、ずっと、おいしいよ。 焼き豚もあるよ」
「るせーっ! 馬鹿野郎っ!」

  強盗は、外に飛び出した。 そこへ、5人の大柄な男達が飛びかかって、取り押さえた。 強盗は、ナイフを持っていたが、刑事に手首を捻じ上げられて、取り落とした。 遡る事、数時間前の夕刻、巡邏の警官から、A氏宅の付近を、うろうろしている男がいると報告を受け、泥棒騒ぎの時に担当したベテラン刑事が、「今度は、叩きに来やがったな」と見て、張り込んでいたのだ。

  犯人を、パトカーに押し込んだ後、ベテラン刑事が、A氏宅に入ると、A氏は、まだ寝室にいて、呆然としていた。

「警察です。 大丈夫ですか。 怪我はありませんか」
「あの子は?」
「逮捕しました。 いくら、盗られました?」
「盗られてません。 私が、やったんです」
「知り合いなんですか?」
「知ってます」
「名前は?」
「名前は知りません」

  A氏は、食中毒騒ぎの時に、母親の姓名を聞いていたが、子供達の名前は聞いていなかったせいか、その姓を忘れてしまっていた。 母親の姓と、子供達が、結びつかなかったのだ。 子供達の事は、いい思い出だが、母親との悶着は、その逆だったから、積極的に忘れたかったのであろう。

  翌日、覆面パトカーが迎えに来て、A氏は、事情を聞く為に、警察署に連れて行かれた。 だだっ広い会議室の片隅で、ベテラン刑事と、その部下の若い刑事を相手に、20年前の事を話した。 夢の事も、多少、脚色して、話した。 また、ボロボロと涙が溢れて来た。 若い人には分らないかも知れないが、A氏は、もう、80代半ば。 長い孤独な生活に、精神が崩壊しかけていたのだ。

  強盗の身元は、本人が自供したせいで、すぐに割れた。 少し、馬鹿な男で、嘘を言って、罪を免れようという知恵すらないようだった。 ベテラン刑事は、余罪があると見ていたが、十数件の窃盗を、ベラベラ喋った。 本人は、自慢しているつもりだったが、刑事相手に、そんな事が自慢になるわけがない。

  A氏宅に押し入ったのは、家の中の様子を知っていたからだった。 子供の時に、何度か入った事があると言った。 A氏の事を、「ラーメン・ジジイ」と言って、小馬鹿にしていた。

「あのジジイ、てめえから、金出してやんの! 馬鹿じゃねーの? 俺の事を、自分のガキだとでも思ってたんだろう」

  これには、取り調べをしていた刑事二人も、呆れた。 ベテラン刑事が言った。

「なんだ。 何度も、ラーメン食べさせてもらって、恩義のかけらも感じなかったのか?」
「金払ってたもん! なんで、恩義なんて!」
「50円で、ラーメン出せるわけないだろ。 具だって、ガス代だってかかるのに」
「そんなの知るかっ! ジジイが、50円でいいって言ったんだよっ!」

  まるで、ケダモノのような態度だった。 犯行は認めるが、罪とは思っていない、何の反省もないタイプなのだ。 ベテラン刑事は、諭すように言った。

「だけどなあ。 お前ら、親から、昼飯を食わせてもらってなかったんだろう? 下手すりゃ、栄養失調で死んでたぞ。 それを助けてくれたんだから、普通、感謝するもんなんじゃないのか?」
「いやあ。 昼飯代は、もらってたよ。 毎日、二人分で、千円」
「それをどうしたんだ?」
「○○カード、買ってた」
「何カードだって?」
「昔 流行ってた、カード・ゲームのカードだよ」
「・・・・! それを買う為に、昼飯を、Aさんのところで食べて、900円、浮かしてたのか?」
「そうさ。 でなきゃ、あんな、セコいジジイの所なんか、行くもんか」

  呆れ果てた。 こういうのは、頭がいいというのではない。 狡賢いというのとも違う。 誰でも思いつくような事だが、普通はやらない。 この男は、人を騙す事を何とも思っていないのだ。 子供の頃から、犯罪者気質だったのである。 道理で、こんなケダモノに育つわけだ。

「おまえ、人間のクズだな」

  自分と同年輩の若い刑事から、そう言われて、男は、目を剥いた。

「何だと~お! そんなこと言って、いいのか~あ? 名誉毀損で訴えるぞ~っ!」

  しかし、若い刑事は、負けていなかった。 汚物を見る目で、男を睨み、吐き捨てるように言った。

「何が、訴えるだ。 馬鹿で、馬鹿で、救いようがない。 それは、金持ちが言うセリフだ。 おまえみたいに、日銭を盗んで暮らしている奴が、どうやって、訴えるんだ。 弁護士費用は、どこから、持って来るんだ? 法律どころか、常識も知らないで、生きて来たんだろう。 この地獄行きの馬鹿がっ!」

  その後、身柄送検、起訴され、有罪判決。 余罪多数につき、懲役5年の実刑。 だけど、こんな人間は、何十年、刑務所に入れても、直らないだろう。



  さて、時間を戻して、強盗事件から、一週間後の事。 A氏は、事件以来、ガックリ来ていた。 生きる気力がなくなってしまったような気分だった。 男の子が、犯罪者になったのは、A氏の責任ではないのだが、20年間も、健やかに成長している事を、夢に見て来ただけに、勝手な想像をしていた自分が、罪深く感じられたのだ。

  そんなA氏を、若い女性が訪ねて来た。 線が細く、不細工というわけではないが、何となく、貧相な顔。 すぐに、あの子供達の、妹の方だと分かった。 もちろん、妹の方も、A氏と分かっていて、訪ねて来たのだった。

「子供の頃に、大変 お世話になりました。 おじさんのご恩は、いっときも忘れた事がありません」

  夢で聞いた言葉と、ほぼ同じだった。 A氏は、ボロボロと涙を零した。 この子は、立派な大人になったのだ。 20年前、あどけない顔をして、A氏が作ってやったラーメンを頬張っていた女の子が、こんなに大きくなって、お礼を言いに来てくれた。 これが、泣かずにいられようか。

  彼女は、高校卒業まで、母親と暮らしていたが、その後は、都会に出て、一人で暮らしている。 保険会社に勤めている。 まだ、独身だが、結婚する予定の相手がいる。 そんな事を話した。 A氏は、何を聞いても、嬉しくて、笑いながら、涙を拭き続けていた。 だが、その内、妙な事に気づいた。 話の中に、兄の事が出て来ないのだ。 A氏は、それとなく、訊いてみた。 妹は、少し間を置いてから、答えた。

「兄は・・・、兄は、外国にいます。 東南アジアで、何か、事業をやっているそうなんですが、滅多に連絡して来ないんですよ」

  おかしい。 すでに、逮捕されているのだから、家族が知らないわけがない。 どこで逮捕されたかも、知っているはずではないか。 A氏は、老いた頭で、考えられる可能性を探した。 そして、思い至った。 家族、つまり、母親と、連絡を取っていないのは、兄ではなく、この妹の方ではないのか? だから、兄の消息を知らないのだろう。

  妹の話は、いつしか、保険商品の勧誘に移っていた。 すごく利回りのいい、貯蓄型保険があるから、どうかと言うのである。 人数制限があるが、子供の頃のお礼に、おじさんに勧めようと思って、真っ先に持って来たと言うのだ。 A氏は、思った。

(ああ、妹の方は、詐欺師になったんだなあ・・・) 

  顔には出さなかったが、言葉が出ないほど、落胆した。 兄も妹も、自分の責任で、道を踏み外したのではないかと思えた。 そんな事はないのだが、精神的に参っている時だったから、何もかも、自分が悪いと思えてしまうのだった。 A氏は、少し考えを纏めてから、こう言った。

「もう、俺は、歳だから、貯蓄型保険はいいよ。 それより、生命保険はないかな? あんたとお兄さんを受取人にして、入りたいんだが」
「えっ? 生命保険? 生命保険は、えーと・・・」

  妹は、鞄の中を、ごそごそやっていたが、何も見つけられないようだった。 A氏は、思った。

(ああ、保険会社に勤めているというのも、嘘なんだなあ・・・)

  A氏は、優しく言った。

「いや、いいよ。 担当じゃないから、資料を持ってないんだろう? 次に来た時でいいよ」
「ごめんなさい。 そう言ってもらうと助かります。 すぐに、出直して来ますから」

  妹は、A氏宅から、外に出た。 兄の時と違うのは、昼間だった事だが、同じように、4人の大柄な男と、1人の俊敏そうな女が、バラバラと飛び出して来て、周囲を取り囲んだ。 妹の名前を確認してから、逮捕状を見せた。

「10時50分! 詐欺容疑で逮捕する!」

  手錠をかけて、覆面パトカーに押し込み、去って行った。 残ったのは、兄を逮捕したベテラン刑事だった。 玄関まで出て来たA氏に、事情を説明した。

「うちの署のヤマじゃないんですが、兄の方を取り調べてたら、妹が、保険金詐欺の常習犯だと分かりましてね。 何年も会っていなかったそうなんですが、半月くらい前に、レジャー施設で、偶然 出くわしたんだそうです。 昔話をしていたら、Aさんの話になって、カモにできるんじゃないかと思ったらしいんですよ。 こりゃあ、早晩、妹の方も、狙って来るなと思って、担当している署に連絡を取ったんです。 張り込んでいたら、案の定、妹がやって来たというわけです」
「常習犯ですか・・・」
「高齢者専門に、30件くらい、やってたみたいですね」
「・・・・・」

  20年前の事まで、事情を全て知っているベテラン刑事は、A氏のしょげきった様子を見るに忍びず、言い添えた。

「Aさんのせいじゃないですよ。 たまたま、ああいう連中だったんです」

  A氏は、刑事の言葉を聞いているのかいないのか、ボソッと、呟くように言った。

「焼き豚を・・・」
「えっ?」
「いや、なるとじゃなくて、焼き豚を入れてやれば良かったと思ってるんですよ。 そしたら、あの子らの人生も変わっていたかも知れない・・・」

  ベテラン刑事は、そうは思わなかったが、敢えて、A氏に逆らわなかった。

「はあ・・・・。 そうかも知れませんねえ」



  冒頭で書いたように、A氏は、町内会に入っていなかったのだが、85歳にして、名誉会員になり、表彰を受けた。 近隣の市町村で、高齢者相手に保険金詐欺を働いていた女が逮捕され、それが、A氏のお陰だと知れ渡ったからだ。 A氏は、ちっとも嬉しくなかったが、町内会長の許可が出て、ゴミを集積所に出せるようになったのは、ありがたかった。