2005/10/12

早すぎた謝罪


  北海道根室市沖で起きた、イスラエルのコンテナ船と、地元漁船の衝突事故の一件について少々。

  イスラエルの海運会社ZIM社の社長が早々と来日し謝罪しましたが、記者会見で整列して頭を下げた光景にはビックリしました。 日本企業の不祥事陳謝会見のスタイルに倣ったのでしょうが、柔道の外国人選手が、試合前に頭を下げる事に対して強烈な抵抗を感じているらしい事を考えると、「こんなに簡単に頭を下げてしまっていいのだろうか?」 と、こっちが不安になりました。

  頭を下げるか否かというスタイルはさておくとして、この謝罪は、明らかに勇み足だったと思います。 衝突の原因も、コンテナ船側が衝突に気付いていたかどうかも分かっていない段階で謝罪するのは筋が通りません。 もし衝突原因が、双方、もしくは漁船側にあるとしたら、衝突に対する謝罪は全く不要です。 また、衝突に気付かなかったために、救助活動をせずに立ち去ったのだとすれば、その事で非難されるのも筋違いです。 せいぜい、遺憾の意を表明する程度が妥当な対応でしょう。 調査の結果、コンテナ船側に問題があったら、それから謝罪しても遅くないと思います。

  問題解決への誠意を見せようとして、早く謝罪してしまおうという態度は、日本人相手には裏目に出ます。 「おっ、こいつ、謝ったぞ。 という事は、いくら責めても文句はないという事だな」 と勝手に思い込むからです。 日本人は自分に対して謝った相手には、貸しができたと考えるのです。 よく、交通事故の処理で、「外国では責任を問われると困るので絶対謝らないが、日本では謝っても責任を認めた事にはならない」 と言われますが、それは 『法的責任』 の場合です。 日本人は 『道義的責任』 に関して異常な拘りを見せるので、不用意に先に謝ると、それでもう相手より立場が弱い事を認めてしまった事になります。 道義的責任には、『法律で定められた責任の限界』 というものがないので、却って始末が悪いです。 下手をすると、永久の負債を抱える事になります。

  社長は、謝罪した後で、遺族から求められた 『補償確約書』 への署名を拒みましたが、当然の事です。 調査結果が出るまでは、どちらに責任があるのか分からないのであって、なんで、そんな段階で、「全責任を認めて補償する事を約束しろ」 などという契約に同意が出来るものですか! そんな事は、法治国家では常識以前の話ですが、日本人には理解できないのです。 よく 「日本は法治国家なので・・・・」 といった言い回しを使う人がいますが、あれを聞くと、私は失笑してしまいます。 日本人は警察に捕まるのが怖いだけで、法律そのものに対する興味は至って稀薄です。 なにせ、『論理』 が分からないので、論理で組み立てられている法律も理解できないんですな。 今回の事故でも、イスラエル側は、『補償確約書』 などという代物が出てきた事に、仰天した事でしょう。

  漁船側の生存者や遺族は、「コンテナ船側は衝突に気付いたはずだ」 と言っていますが、これまた、調査結果が出ない段階で断言するのはおかしいです。 それに、気付いていたら、救助活動をするんじゃないですかねえ? 軍用の潜水艦が当て逃げするという事はよくありますが、あれは任務の性格上、その場所にいた事を認めるわけに行かないからであって、その種の制約が無い商用のコンテナ船が、国際問題になる恐れがある当て逃げをやらかすというのは不自然です。 船長が狂っていたというなら話は別ですが・・・。 生存者と遺族が、なぜ、「気付いていたはずだ」 と考えるのか、その根拠が聞きたいです。 そういう事にしないと、補償が受けられないからでしょうか? しかし、調査の結果、コンテナ船側に責任が無いという事になった場合、補償は行なわれないわけで、最初から補償されて当然と決めてしまうのは、一方的な思い込みというものです。

  もっとも、こういう理屈を並べても、生存者も遺族も一人として納得しないでしょう。 それだけでなく、日本人の大半が、「コンテナ船が当て逃げした」 と信じ込んでいる事は容易に想像できます。 外国船と日本船が事故を起こした場合、常に外国船側に問題があると考えるのが、日本人だからです。

  日本側が、こういう態度を取ってしまった以上、この一件が丸く収まるには、コンテナ船側が当て逃げした事を認めてくれる以外に道はありませんが、本当に当て逃げでなかった場合、認める道理がありませんから、生存者と遺族は永久にコンテナ船会社とイスラエルを恨み続ける事になります。 そもそもは、自分達が 「悪いのはコンテナ船側だ」 と決めつけてしまったのが原因なのですが、そういう事に気付かないのが日本人の思考回路なのです。 また、もしコンテナ船側が当て逃げを認めたとしても、単にこの一件が片付くというだけで、日本人の論理性の無さが解決するわけではありません。 この欠点は百年たっても治らないと思います。