オマケの人生
私には、病気をしたり、仕事の先行きが不透明になったり、生きる事に不安を感じると、自然に意識が立ち戻る過去の一点があります。 それは、21歳の冬です。 胆石の手術をしたのです。 その前の年から何度か激痛を伴う発作に苦しめられていたので、手術してほっとしました。 胆石の手術というと、今は 『腹腔鏡』 という特別な器具を体内に挿入して石を取り出してしまうそうですが、私の時には、まだ開腹して胆嚢ごと切除する手術でした。 今でも腹に縫い目が残っています。
まあ、手術の事はどうでもいいんです。 問題は、胆石という病気をやったという事の意味です。 胆石は胆嚢に石ができる病気で、石はどんどん大きくなり、そのまま放置しておくと、胆嚢が破裂して、腹膜炎を起して死に到ります。 手術すれば確実に治る病気なので、恐れる事は全くありませんが、病気が治るという事と、病気になったという事には、また別の意味があると思うのです。
それはつまり、もし現代医学が無かったら、私は21歳頃に死んでいた可能性が高いという事です。 たまたま現代に生まれて、手術を受けられる程度のお金があった為に、その後も生き続けているわけですな。 そう考えると、今、身の周りで起こっている事が、みな実体の無い夢のように思えて来ます。 21歳で死んでいれば、見る事もなく終わったものばかりですから。
「金持ちの家に生まれていれば、もっと幸せな人生が送れた」 といった言い方を聞くと、『魂の輪廻』 を信じるのと同じような非科学的な馬鹿馬鹿しさを感じますが、同様の仮定でも、「あの時、あの人に出会わなければ、人生が変わっていた」 くらいの事なら、誰にでも思い当たる経験があるのではないかと思います。 私の 「現代医学が無かったら、21歳で死んでいた」 という考え方も、一見、馬鹿馬鹿しいような感じがしますが、人生全体に関わるような事柄を考える時には、そこそこ暗示的な意味を持って迫ってきます。
私はこのままで行くと、結婚も出来ず、子供も持てずに一生を終えると思いますが、もし21歳で死ぬ運命にあったのだとすれば、それはちっとも不思議でない事になります。 死んだ人間が結婚できるはずは無く、子供が出来る事も無いわけですからね。 残念がる必要すらない事になります よく昔話などで、この世とあの世の中間に人の寿命を表わす蝋燭が無数に立っている場所があって、そこに迷い込んだ人間が自分の寿命を無理やり延ばそうとして火を消してしまう話や、善行の報いとして他人の蝋燭を接いでもらって寿命以上に長生きするというような話があります。 あれも、『他愛の無い空想の産物』 と言ってしまえばそれまでですが、もし本当に 『定められた寿命』 というのがあると考えると、人生の見方は随分変わってくると思うのです。
どんな人間でも、今までに 「もうちょっとの所で命を落としていた」 という経験はあると思うのですが、もしそこで死ぬのが運命だったのだとすれば、その後も生き続けているのは 『オマケの人生』 であり、それだけでも、大変幸運な事だといえます。 となれば、オマケの人生で多少不運な目にあっても、そんなのは気に病む事はありません。 なにせ、本当ならとっくに死んでいるのですから、それに比べれば、相当な危機でも凶事でも、遥かにマシだと思えるでしょう。
「なーんで、他の連中はうまく行っているのに、自分だけこんな目に遭うんだろう?」 と、我が身の不運を嘆いている人は無数にいると思いますが、「でも、あそこで死んでいたとすれば、このくらいはどうって事ないか。 今夜の飯が食えるだけでも幸せかも知れない」 と考えれば、相当気分が軽くなるのではないかと思います。 人生が重苦しく感じられるのは、人生をあまりにも重大な事と考えすぎるからではないですかね?
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