2013/01/27

映画批評⑥

  どうやら、映画中毒になってしまったらしく、昨年の暮れから、暇さえあれば、映画を見るか、映画の感想を書くか、録画する映画の選択をしています。 いや、正確に言うと、選択は、ほとんどしていません。 とにかく、家のテレビで受信できる全てのチャンネルで放送される映画の内、今までに見た事が無いものを全て録画しているのです。

  録画がどんどん溜まるので、どんどん見なければならず、見たら、どんどん感想を書かねばなりません。 これは、強迫神経症そのものですな。 ≪ノルウェイの森≫なんて、去年の暮れに録画したものですが、長そうなので、後回しにし続けた結果、未だに見ていません。 いつか、見れる時が来るんでしょうか。

  で、感想をどっと出しますが、今回の分は、去年の11月末から12月初めにかけて見た分です。



≪幸せの1ページ≫ 2008年 アメリカ
  面白い! 助演が、ジョディー・フォスターさんで、主演は、子供。 原題の直訳は、≪ニムの島≫で、ニムというのは、11歳の女の子の名前です。 頓珍漢な邦題は、恐らく、配給会社が、ジョディー・フォスターさんの映画だと思わせて、客を引こうとしたのでしょう。

  南太平洋の小島に、学者の父と二人で暮らしている少女・ニムが、嵐で父が行方不明になっている時に、たまたま通りかかった客船の乗客が上陸して来たのを、海賊の襲撃と勘違いし、ファンだった冒険小説の頼もしい主人公に、メールで助けを求めるものの、サンフランシスコから遥々やって来たのは、小説の作者のおばさんだったという話。

  原作は児童文学らしく、島で起こるのは、子供向けの他愛の無いエピソードばかりですが、ジョディー・フォスターさんが演じる小説家が、病的潔癖症の上に外出恐怖症でありながら、飛行機や船、ヘリコプターを乗り継いで、地球を半周して来る悪戦苦闘の様子が、実に面白く、大人が見ても楽しい映画に仕上がっています。

  こういう風に、二つのストーリーを平行して進めるのは、バランスの配分が難しいのですが、脚本家がいい仕事をしているんですねえ。 また、ファンタジックな話でありながら、映像がリアルなので、嘘っぽさを感じさせないのも見事。

  コメディーに出ているジョディー・フォスターさんを初めて見ましたが、何をやらせても、魅力的な役にしてしまう実力は、大したものです。 


≪ディアボロス≫ 1997年 アメリカ
  キアヌ・リーブスさん主演、アル・パチーノさん助演の悪魔物。 アメリカ映画界は、悪魔物が好きなようですなあ。 日本で、鬼物が作られないのは、不思議な話。 CGを使えば、いくらでも、凄いものが出来ると思うんですが。

  フロリダで負け知らずだった若手弁護士が、ニューヨークの法律事務所にスカウトされ、破格の好待遇で大きな仕事を任されるものの、実は、そこの所長が悪魔で、妻を自殺に追い込まれた上に、悪の世界に引き込まれそうになる話。

  アル・パチーノさんが悪魔役なわけですが、コミカルな雰囲気を出そうとしている為に、怖さを損なってしまっています。 もっと冷淡で、ニコリともしない方が、悪魔らしくなるのに。 やる事も、結構甘くて、冷血さに欠けます。

  ラストが、また、奇妙な終わり方で、つまり、主人公が悪魔の誘惑に打ち勝ったと言いたいのでしょうが、どうにも、安直。 真面目に物語を作る気があったのかどうかさえ、疑わしくなります。 キアヌ・リーブスさんの同趣向の映画なら、≪コンスタンティン≫の方が、ずっと、面白いです。


≪鉄道員≫ 1956年 イタリア
  映画史に残る名作と言われている一本。 特急列車の運転手をしている自分勝手な父親が、男関係に問題がある娘や、裏世界に片足を突っ込んだ長男らと諍い、家族がばらばらになっていく様子を、幼い次男の目から観察した話。

  忌憚無く言わせて貰えば、これのどこが名作なのか、さっぱり分かりません。 登場人物の人格に問題がありすぎでしょう。 母親以外は、ろくでなしばかりではありませんか。 こんな連中は、不幸になって当然なのであって、境遇に共感するなど、到底、無理な相談です。

  とりわけ、父親が最悪。 クリスマスの夜に、「一杯だけ飲んでいく」と言いながら、飲み屋で盛り上がり、結局、夜中まで帰らず、その間に、娘が流産してしまったり、列車で、飛び込み自殺者を轢き殺した直後に、酒を飲んで、衝突未遂を起こしたり、自分のミスを会社のせいにしたり、とても、物語の主人公になり得る人格ではないのです。

  その父にして、この娘あり。 真面目な亭主と結婚しているのですが、他の男ともつきあっていたようで、流産した子供は、誰の種だか、分かったもんじゃありません。 浮気相手と一緒にいたところを、幼い弟に見られて、家族に言わぬよう口止めするのも、いい大人のやる事ではありますまい。 それでいて、悪いのは父親と亭主だとわめき散らすのだから、始末に負えません。

  長男は、チンピラ化の途上ですが、これはまあ、よく見られる人物造形で、借金を返すために母親の宝石を持ち出そうとする場面以外は、さほど腹は立ちません。 次男は、まだ子供なのですが、大人と約束した事を、いとも容易に破り、秘密をべらべら喋り捲るのは、一体、誰に似たのやら。

  こういう不良家族を中心にした話で、感動しろと言われてもねえ。 ただ、善悪バランスは、しっかり取ってあって、見終わった後に、嫌な感じは、あまり残りません。 感動作などと言わなければの話ですが。


≪キューティー・ブロンド≫ 2001年 アメリカ
  ブロンドの髪と、明る過ぎる性格のせいで、ハーバード大学の法律科へ進む彼氏に捨てられてしまった女子大生が、猛勉強して、同じ大学に入学するものの、彼氏には新しい彼女が出来ていて、対抗するために、法律の勉強と弁護士の実習に励む話。

  続編の≪キューティー・ブロンド ハッピーMAX≫の方を、前に見ていて、順番が逆になりました。 続編の方と全く同じで、見始めは、主人公の趣味があまりにも派手派手なために、反発を抱くのですが、見ている内に引き込まれて、いつのまにか、主人公の味方になって、全面的に応援したくなるという、不思議な魅力がある映画です。

  話はシンプルで、ハーバードに入学するまでが前置き、本体部分は、ある殺人事件の弁護実習に、ほぼ全てが当てられています。 ≪ハッピーMAX≫の方は、より大掛かりな話なので、比べると、少し貧弱な感じがしますが、作られた順番通りに見れば、不満は感じないでしょう。


≪縛り首の木≫ 1959年 アメリカ
  ゲーリー・クーパーさん主演の西部劇。 金鉱の村の医者が、駅馬車強盗に遭った女の命を助け、回復した女に愛されるものの、自分が過去に罪を犯していた事から、素直に受け入れる事ができず、女が始めた金採掘事業を、裏で密かに援助する話。

  この主人公が、人格者かと思いきや、そうでもなく、賭けポーカーはやるわ、すぐに銃を抜くわ、喧嘩上等だわで、ゲーリー・クーパーさんの、理知的で優しいイメージと、随分掛け離れています。 こういう人物なのだ、というより、おとなしいストーリーと、西部劇のアクション性を両立させるために、本来、物静かな主人公に、荒っぽい事をやらせざるを得なくなったのかもしれません。

  作中でも、「これが、医者のやる事か!」と、呪術師に罵られていますが、医者として、人を助ける一方で、憎い相手なら射殺もためらわない態度は、あまりにもアンバランスです。 一応、話は出来ているのですが、人物造形に難があるため、平均点もつけられません。


≪スペル≫ 2009年 アメリカ
  黒魔術物とでも言いましょうか。 原題の直訳は、≪私を地獄へ引きずり込んで≫。 ≪スペル≫という邦題は、「呪文」のつもりなんでしょうが、別に、呪文自体が重要なモチーフというわけではなく、どうしてまた、こんな題に付け替えたのか、さっぱり分かりません。

  「家を差し押さえるのを待って欲しい」という、みすぼらしい老婆の頼みを断った、銀行の融資係の女が、逆恨みした老婆から、三日後に悪魔に地獄に引きずり込まれるという呪いをかけられ、それを避けようと、悪魔祓いの儀式に臨む話。

  悪魔よりも、主人公の顔に喰らいついて来る老婆が怖いです。 いや、怖いと言うより、気持ちが悪いと言うべきか。 入れ歯は外れるわ、目玉は飛び出すわ、得体の知れない液体は吐き出すわ・・・。 ホラーなんですが、やり過ぎていて、笑いを取ろうとしているとしか思えない場面が多いです。

  監督は、サム・ライミという人ですが、どうも、俗悪趣味があるようですな。 見た人の10人中9人は、吐き気を催すと思われますし、それほどまでにして見なければならないほど、面白い映画でもないので、薦めません。 下手物見たさで挑戦する場合は、物を食べながら見ないように、ご注意。


≪花嫁の父≫ 1950年 アメリカ
  娘が結婚する事になり、結婚式に向けて、準備を進めていく一家の様子を、父親の視点で細々と描いたコメディー。 地味婚にするつもりが、どんどん規模が大きくなって行く様子が、見ているだけで恐ろしいです。

  父親の職業は弁護士で、住んでいる家も、日本的感覚で言えば、豪邸クラスなのですが、披露宴業者に、「狭過ぎるから、客の数を減らせ」と言われてしまう辺り、感覚の違いが凄まじいです。 実際、披露宴当日は、家の中が満員電車のような有様になりますが、まるで、悪夢の一場面を見ているかのよう。

  この映画の制作者達が、この種の派手婚を、風刺するつもりなのか、それとも、単純に、花嫁の父の苦労を描きたかっただけなのか、それがはっきりしません。 どちらかというと、「この程度の結婚式は、普通の事」と認めた上で、花嫁の父に同情を寄せているだけのように見えます。

  私に言わせれば、馬鹿馬鹿しくて検討する価値も無いような、無駄!無駄!無駄!な出費だと思います。 結婚式自体の費用もさる事ながら、花嫁に持たせる服飾品や雑貨など、あまりにも膨大で、正に狂気の沙汰。 金の使い方を知らないにも程がある。 母親も娘も、自分で稼いだ事が無いから、金の価値が分からないのでしょう。

  世の中には、結婚した後で、金に困って、親に泣きついて来る子供が、うじゃうじゃいるわけですが、そういう連中ほど、親戚や友人に見栄を張って、結婚式に莫大な金をかけているから、お笑い種です。 馬鹿だねえ。 儀式なんかよりも、日々の生活の方が、ずっと大切なのに。

  借金に追われて、ノイローゼになっている夫婦などは、「結婚式の費用を、100万円節約して、生活費に取ってあったら、どれだけ助かったか」と、己の愚かさを呪っている事でしょう。 お金というのは、使えば無くなるのよ。 当たり前じゃん。 なんで、いい歳した大人が、そんな事を知らんのよ?

  映画の話に戻ります。 娘役を、エリザベス・テイラーさんがやっていますが、若いので、言われなければ分かりません。 誰がやっても、こんな、浮かれているだけで、知性のかけらも感じられない娘には、魅力を感じませんけど。


≪間諜X27≫ 1931年 アメリカ
  マレーネ・ディートリッヒさん主演の、スパイ・恋愛物。 古い映画で、表現方法も発展途上期の試行錯誤が多く見られますが、ストーリーがしっかりしているので、今の基準で鑑賞しても、充分に見応えはあります。

  第一次大戦中のオーストリアを舞台に、諜報機関にスカウトされた、元軍人の妻である娼婦が、ロシアのスパイである大佐を相手に、際どい諜報活動を繰り広げる内、密かな愛情が育まれていく話。

  小道具として、拳銃は出て来ますが、派手な撃ち合いなどは一切無く、部屋の中での、女と男の静かなやりとりで、戦いが進行します。 地味なせいで、いささか、物足りない感じはしますが、クライマックスからラストにかけて、話の展開が劇的なので、見終わった後には、些細な欠点は忘れてしまいます。

  マレーネ・ディートリッヒさんは、どえらい色気があるのですが、この作品の中で、ほぼ素顔で出て来る場面があり、それを見ると、普段の色気が、化粧で作られたものである事が分かります。 化粧の魔力、恐るべし。


≪世にも怪奇な物語≫ 1967年 フランス・イタリア
  エドガー・アラン・ポーの短編三作を、三人の監督が一話ずつ競作したオムニバス映画。 名前を知っているのは、フェリーニ監督だけ。 ロジェ・バディムという監督は、ジェーン・フォンダ、ブリジッド・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなど、錚々たる顔ぶれの女優さん達と結婚したり、子供を作ったりしている人らしいですが、作品の方は、さして、有名ではない様子。

【黒馬の哭く館】
  ロジェ・バディム監督、ジェーン・フォンダさん主演。 中世ヨーロッパで、ある地方の傲慢な女領主が、一目惚れした分家の領主に無視された事に腹を立て、厩に放火させたところ、誤って、その男を焼き殺してしまい、その直後に現れた黒馬に魅入られて、己を見失って行く話。

  後半の展開が不自然で、話が分かり難いです。 黒馬は、焼き殺された分家の領主の化身だと思うのですが、その辺の説明が一切無いので、もやもやしたまま終わります。 原作がどうなっているのか、読んでみるべきでしょうか。

  ジェーン・フォンダさんが、無茶苦茶に綺麗だった頃の撮影。 それを見るだけでも、価値あり。 殺される分家の領主役で、ピーター・フォンダさんも出ていますが、こちらは、ほんのちょい役です。 時代は中世ですが、衣装が、ファッション・ショーのように凝っていて、実に美しいです。

【ウィリアム・ウィルソン】
  ルイ・マル監督。 アラン・ドロンさん主演。 ウィリアム・ウィルソンという行状の悪い男が、人生の節目節目に現れるドッペルゲンガーに悩まされ、ついに決闘を挑む話。 これは、原作を読んだ事がありますが、すっかり忘れていました。

  これも、話がイマイチ。 最終的に、自分自身と対決する事になるわけですが、つまるところ、一人の人間の内面意識の問題であって、映像にして面白くなるような話ではないんでしょうなあ。

  アラン・ドロンさんは、まだ若々しく、顔が一番良い頃。 ブリジッド・バルドーさんが出ているそうですが、まさか、生きたまま解剖される若い女の役ではないと思うので、たぶん、賭けトランプの相手になる女なんでしょう。 顔が若い頃と変わってしまっていて、分かりませんわ。

【悪魔の首飾り】
  フェデリコ・フェリーニ監督。 テレンス・スタンプさん主演。 フェラーリをくれるという餌につられて、イタリアにやって来た、アル中のイギリス人俳優が、テレビ局の映画賞番組に、へべれけで出演した後、貰ったフェラーリに乗って、夜のローマの爆走し、なるようになる話。

  「アル中の行動に必然性など無い」と言ってしまえば、それまでですが、あまりにも放埓で、この主人公を、どう評価していいのか、対処の仕方が分かりません。 共感はしようがないですし、批判するにも、病気では詮無い事。

  巨匠が手がけたからといって、名作とは限りませんが、これも、その内ですな。 テレビ番組の収録場面は、いかにも、フェリーニ監督が好きそうな、賑やかなお祭り騒ぎ。 他にも、どこかで見たような場面が、ちょこちょこ出て来ます。

  幼女姿の悪魔が、チラチラ出て来ますが、この子が、妙に顔立ちが整っているので、不気味さが際立ちます。 他には、いい所無し。


≪ハービー 機械じかけのキューピッド≫ 2005年 アメリカ
  意思を持ったフォルクス・ワーゲン・ビートル、「ハービー」が活躍する、≪ラブ・バック≫という映画が昔ありましたが、続編がちょこちょこ作り続けられているようで、これは、その最新作。 リメイクではないのですが、話は、第一作と同じようなパターンです。

  スクラップにされかけていたハービーを、大学卒業記念として父親に買ってもらった娘が、なりゆきで勝負する事になった、時のトップ・レーサーとレースに勝ってしまい、父との約束で諦めていたレーサーへの道を、再び歩み始める話。

  ≪ラブ・バック≫シリーズは、ハービーが、おばあさんの家を立ち退きから守ってやる、第二作が面白いのですが、この作品は、第一作同様、レースが主体なので、話が単純になるのは、致し方ないところ。 決まったコースでのレース場面を面白く見せるというのは、変化がつけられない分、街なかでのカーチェイスよりも、ずっと難しいのです。

  サブ・テーマで、親子愛が描かれますが、そちらは、しっかりしています。 ディズニー映画ですから、良心的なところは、折り紙付き。 しかし、良心的だから、いい映画かというと、そうではなく、やはり、もっと起伏のある話にした方が、見応えが出ると思います。


≪アンダーワールド≫ 2003年 アメリカ
  吸血鬼一族と、狼男一族の戦いを描いた話。 千年続いている戦いという設定ですが、この映画では、現代の場面だけが出て来ます。  吸血鬼族の女ハンターが、吸血鬼と狼男の交配を企む一味に追われている男を助けるために、裏で狼男族と繋がっている吸血鬼族のリーダーと対立する話。

  この軽薄な世界設定は、なんだか、アメリカ映画というより、日本のアニメみたいな発想ですな。 ただし、作りは、アメリカ映画そのもので、映像もアクションも陳腐なところは、まったく見られません。

  現代の戦いですから、使われるのは、専ら、銃器。 狼男を倒すのに、銀の弾というのは分かるとして、吸血鬼を倒すのには、紫外線を出す曳光弾というのは、よく考えたと言うべきか。 もっとも、撃たれれば即死というわけではなく、銃撃戦は、絵柄を派手にする添え物のようなものです。

  第一作から、続編を念頭に置いて話を作っている点は、あまり感心しませんが、単独で見ても、話が尻切れになっているわけではないです。 ただ、傑作とかいうレベルでは、到底なくて、まあ、並のドンパチ物というところですな。 ≪ヴァン・ヘルシング≫のような怪奇物活劇としての面白さはありません。


≪ジェイン・オースティン 秘められた恋≫ 2007年 イギリス・アメリカ
  アン・ハサウェイさん主演。 18世紀のイギリスの作家、ジェイン・オーステンの若い頃の恋愛を描いた映画。 貧しい田舎貴族の娘として生まれた主人公が、地元の資産家の息子との縁談を断り、都会から来た青年との駆け落ちを考えるものの、貧しさのために青年の人生が破綻する事を恐れて、身を引く話。

  なんつーかそのー・・・、下らん痴情の縺れ話ですな。 ほんとに下らん。 この主人公は、観客が共感し得るような人物なんすかね? 都会の男に惚れるのは、まあいいとして、その余波で、地元の他の求婚者達に、無用の混乱を引き起こすのは、見ていて、大変不愉快です。 こんな女がいなければ、みんな傷つかずに済んだものを。

  一口で言うと、「馬鹿女」なのであって、こんなに軽率では、誰と結婚しても、幸福になんぞなれるわけがありません。 自分が愚かなくせに、文才を鼻にかけて、周囲の人間を愚か者扱いしている様は、真の愚者というに相応しい。

  現代恋愛ドラマ・レベルの軽薄な話を、勿体ぶって、近世の名作小説の映画化のように仕立ててみたものの、雰囲気だけで、中身が伴わず、スカスカ話になってしまったというところでしょうか。 恐らく、2005年のイギリス映画、≪プライドと偏見≫を真似ようとして、その原作者の、ジェイン・オースティンの実話を取り上げたのだと思いますが、映画の出来には、天地の差があります。

  まーた、アン・ハサウェイさんが、イギリスの田舎娘に見えないんだわ。 この人、目が大き過ぎる上に、垂れ目なのですが、歳を取るに連れて、頬は弛み始めるわ、顎は割れるわで、顔面土砂崩れの様相を呈しており、もはや、主演が務まるような面相ではありません。

  この人を起用する制作者は、「美人は、いつまでも美人」という錯覚に囚われているのでしょう。 よく見よ。 落ち着いて観察し直せば、美人と妖怪の区別くらい、つくだろうに。


≪シェアハウス≫ 2011年 日本
  吉行和子さん主演。 江の島近くの古い家で、一人暮らしをしていた老婦人が、友人が孤独死した事をきっかけに、シェアハウスに建て替える事を決意し、近所の一人暮らしの女性二人と、入水自殺しようとしていたところを助けた若い娘と、計四人で共同生活を始める話。

  監督が、≪ライフ・オン・ザ・ロングボード≫の人なので、海と、いい人ばかりの登場人物が欠かせない様子。 しかし、この映画の場合、人が死ぬので、明るい雰囲気では進みません。 そもそも、この話の中では、シェアハウスが、孤独死を避けるための道具として位置づけられているので、誰かが死なずには、話が成立しないんですな。

  単純な話であるせいか、エピソードが足りず、シェアハウスへの建て替えを決めてから、入居までの間が、えらく間延びしています。 特に入居パーティーの場面は、白ける白ける。 そもそも、一人暮らしの女性の友人知人が、こんなに大勢いるのは、不自然でしょうに。

  他にも、老婦人が、女子高生達と仲良しとか、海辺で、若者達が歌を歌って盛り上がっているとか、どうにも、不自然な場面が多いです。 これが青春物なら、雰囲気作りとして、無理に納得しないでもないですが、死に方物ではねえ・・・。


≪女帝 春日局≫ 1990年 日本
  十朱幸代さん主演。 前年の89年の大河ドラマが、大原麗子さん主演の≪春日局≫で、全国的に、春日局ブームが巻き起こっていたのですが、それに便乗して作られたと思しき映画。 しかし、これは、見てみて、ビックリ! 凄い話で、思わぬ拾い物になりました。

  生まれたばかりの赤ん坊を連れて、竹千代の乳母選びの場に臨んだお福が、大奥の差配達の策謀で、死産だった竹千代の代わりに、自分の子を竹千代として育てる事になるが、実は、その子は、前年、お福に家康の手がついた時の種だった、という、何とも錯綜した話。

  これらは、もちろん、史実ではなく、創作なわけですが、春日局ブームの最中に、こういう大胆な創作を元にした歴史劇映画を作ってしまった、その思い切りの良さに拍手を送りたいと思います。 度胸がなければ、こんな事はできませんわ。 でねー、こちらの方が、物語としては、史実よりも、ずっと面白いのですよ。

  ≪シェアハウス≫の、直後に見たものですから、あまりの毒の強さに、ぐいぐい引き込まれてしまいました。 やはり、物語は、起伏があって、ナンボなんですなあ。 単に複雑なだけでなく、しっかりと絡み合っていて、辻褄も合っているから、見事としか言いようがありません。

  家康が、スケベジジイになっている点は、ちと違和感がありますが、それを除けば、演技・演出も申し分無し。 十朱幸代さんは、今でも綺麗ですが、この頃は、女性的魅力に満ち溢れていますなあ。 クライマックスで、家康に三度問い質されても、竹千代は秀忠夫妻の子だと言い通すところが、無茶苦茶かっこいい。 また、敵役になる名取裕子さん、草笛光子さんも、キレと迫力があって、大変宜しいです。


≪オブセッション 歪んだ愛の果て≫ 2009年 アメリカ
  ストーカー物。 ある会社に勤め始めた派遣社員が、妻子がある副社長に岡惚れし、ストーカー化した末に、副社長の妻と殺し合いを演ずる話。

  ストーカーを取り上げた映画というと、なぜか、犯人は女ばかり。 この作品も例外ではありません。 実際には、男の方がずっと多いのにね。 男を犯人にすると、憎たらしくなり過ぎて、映画に嫌悪感を抱かれてしまうからでしょうか。

  犯人がヨーロッパ系で、被害者夫妻がアフリカ系というのが、ちょっと不自然な感じがしますが、私がアメリカ人でないから知らないだけで、実際には、人種を超えた恋愛は、よくあるのかもしれません。

  この映画、ちょっと変なところがあり、全体の4分の3くらい行った所で、主人公が入れ替わります。 それまでは、副社長の視点で描かれているのに、犯人が自宅に侵入し始めると、奥さん目線の話に変わるのです。

  なぜ、そんな事になるかと言うと、この映画の最大の見せ場が、クライマックスの女同士の格闘場面にあるからです。 どうして、そんな木に竹を接いだような展開になっているかと言うと、この映画の最大の売りが、奥さん役をやっている、ビヨンセ・ノウルズさんの出演作という点にあるからです。 あの、ビヨンセさんですよ。 役者もやるんですねえ。

  演技は、まあまあ、普通で、自然体です。 もっとも、アメリカ映画では、歌手が出演していても、わざとらしい演技は見た事がありませんが・・・。 格闘場面は、武道抜きの、普通の女の喧嘩ですが、これが、結構、迫力があり、スタント無しでやっているのだとしたら、大した演技力だと思います。 犯人役の人も巧い。

  ビヨンセさんの映画として見るとしたら、出番が後ろに偏っているのは変ですし、普通の映画として見るとしたら、主人公が途中で変わるのは、やはり、変です。 中途半端な作品である事は、否定できないところ。 ストーカーの恐ろしさは、よく伝わって来るんですがね。



  以上、15本。 まだまだ、先は長い・・・。 これは、どこかで、見るのをやめるか、感想を出すのをやめるか、どちらかを決断するしかありませんな。