2013/02/17

読書感想文・蔵出し②

  先週、予告した通り、今週は、六日出勤だったので、読書感想文でお茶を濁します。 疲れているので、さっさと本題へ。




≪天の川銀河の地図をえがく≫
  宇宙に関して、興味津々というわけではないのですが、現実逃避にはうってつけなので、性懲りも無く、こんな本を借りて来ました。 しかし、内容が類似した本を前に何冊か読んでいたため、新しい知見は、あまり、得られませんでした。

  宇宙関係の本というのは、大抵、同じパターンで書かれています。 まず、天体観測の歴史を、ギリシャから説き起こし、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーに触れた後、近代以降の天文学者達の功績を、新たな発見の段階順に紹介して行きます。 そして、著者が日本人の場合、最後に、≪すばる望遠鏡≫の自慢を付け加えて、終わります。

  この本も、同じようなパターンで纏められていますが、好感が持てるのは、分かっていない事について、「この点は、まだ、分かっていない」と、はっきり書いている事です。 プラトンを持ち出すまでもなく、学問に於いて、分からない事を分からないと認める姿勢は、極めて重要です。

  さて、内容ですが、主要なテーマは、「遠くの星までの距離を、どうやって測るか?」にあります。 電波の反射で測れるのは、近くの惑星くらいまで。 恒星までの距離を測るには、未だに、≪視差≫を利用するのだそうです。 測定誤差が大きく、新しい技術が開発されて測り直すと、数倍もズレが出る事がある様子。 という事は、現在、分かっている数値も、今後、見直される可能性が高いという事ですな。

  意外なのは、遥か遠くにある別の銀河までの距離が分かっているのに、太陽がある銀河系の中の距離は、あまり測られていないという事です。 分かっているのは、≪視差≫で測れる、割と近い恒星、数千個だけ。 数千個でも多いように感じるかもしれませんが、銀河系内には、一千億台の恒星があると言いますから、数千では、やはり、ほんの僅かという事になります。

  別の銀河の場合、変光星という目印があるから、測れるのだとか。 もっとも、分かるのは、その銀河までの大体の距離で、銀河内での星の遠近は、やはり分からないようです。 測り方が、原理的にも技術的にも、存在しないんですな。

  素人のイメージで、宇宙について、もっといろいろな事が分かっているものだと、漠然と思っていたので、少し、がっかりしました。



≪樽≫
  手持ちの新潮文庫で、シャーロック・ホームズ・シリーズの長編、≪バスカビル家の犬≫を読み返したのをきっかけに、古典推理小説に興味が向きました。 オンライン百科事典で調べて、適当に見繕い、イギリスの、F.W.クロフツという人の、≪樽≫という本を、図書館で借りて来ました。 早川文庫。

  ≪樽≫は、1920年に書かれたもの。 作中での年代設定は、1912年のようです。 クロフツは、時代的には、コナン・ドイルと、アガサ・クリスティーの間に入る作家。 元は、鉄道技師だった人で、病気をして、療養中に書いたのが、この≪樽≫だったのだとか。 現代であったとしても、異色と言える経歴ですな。

  パリからロンドンへ送られて来たワイン樽の中に、一つだけ形が違う、異様に重い樽があり、その中から、おが屑に塗れて、金貨と、死んだ女の手が出て来た事から始まる、殺人事件の顛末を描いたもの。 推理小説のジャンルとしては、アリバイ崩し物です。 主人公は決まっておらず、容疑者、刑事、弁護士、私立探偵などが、リレー式に中心人物を務めます。

  500ページもある文庫本でしたが、台詞が多いせいもあり、スイスイ進みました。 面白かったですが、難もあり。 冒頭部に緊張感があり、ぐっと引き込まれるものの、捜査が始まると、アリバイ・トリックが複雑過ぎて、かなりの中だるみが感じられます。

  正直に白状すると、細かなアリバイの検証について行けず、後ろの方は、「たぶん、辻褄は合わせてあるんだろう」と突き放して、テキトーに読み飛ばしました。 以前、コリン・デクスターの小説を読んだ時にも感じたんですが、複雑すぎる推理小説には、屁理屈合戦に陥った討論に通じる鬱陶しさがありますな。

  それはさておき、古典的名作として後世に生き残った小説に特有の、風格やボリュームは、充分にあります。 こういう作品が、100年近く前に書かれたというのは、凄い事ですな。 樽を木箱に変え、馬車をトラックに変えれば、現代の話にしても、それほど違和感が無いのではありますまいか。

  ちなみに、1920年頃には、すでに、自動車があったようで、人間の移動には、自動車が使われています。 電話もあり。 馬車と電報だけの、ホームズの頃とは、一時代が画されているわけです。 推理小説の歴史を紐解くと、近代から現代に移り変わる社会の様子を辿る事ができて、興味深いものがあります。



≪白衣の女≫
  19世紀中ごろに活躍したイギリスの作家、ウィルキー・コリンズの代表作の一つです。 「白衣」は、「びゃくえ」と読むらしいですが、それはまあ、日本語の中限定の都合ですから、「はくい」でもよかでしょう。 今時、「びゃくえ」なんて言われても、意味が取れる人がおりませんがな。 ちなみに、看護婦、つまり、女性看護士ですが、そちらとは、関係ありません。 物語のキーになる女性が、白い服を着ているというだけの事。

  貴族の娘が、身分違いの絵画教師との恋を諦め、父親が生前に決めた准男爵と結婚するものの、それが実は、金目当ての結婚で、娘の資産を奪うために企てられた計略に落ちて、死んだ事にされてしまったのを、娘の義姉と絵画教師が協力して、娘を助け、犯罪を暴く話。

  岩波文庫、上中下三冊で、全部合わせると、900ページくらいあり、読破するのに、10日くらいかかりました。 登場人物の内の、5・6人が、手記や日記、告白文などで、リレーしながら、物語の経過を書き記していく形式なのですが、途中で文体が変わるため、流れを乗り換えるのに失敗すると、そこで、読書意欲が減退して、進みが悪くなるのです。 しかし、全体を通して見ると、この形式だからこそ、複雑に入り組んだ話を、筋道立てて語る事に成功しているのだという事が分かって来ます。 非常に巧み。

  「長編ミステリー小説の嚆矢」と呼ばれているそうで、発表されたのは、1859年。 ホームズ物よりも、30年くらい前です。 ポーが、≪モルグ街の殺人≫を発表したのが、1841年ですから、コリンズは、ポーと、ドイルの間に入る作家なんですな。 ホームズ物は、近代の夜明けとともに始まりますが、≪白衣の女≫の時代は、まだ貴族が幅を利かせていて、近世から抜け切れていない感じがします。 ただし、鉄道や郵便制度は、すでに整っていたようで、作中で、ごく普通に使われています。

  推理小説的な要素が多いとはいえ、作者が、一般小説のつもりで書いていたは間違いないところで、ストーリーと無関係な風景描写や心理描写に、かなりの紙幅が割かれています。 ≪嵐が丘≫や≪ジェーン・エア≫の世界といったら、分かり易いでしょうか。 もっとも、そんなに暗い話ではなく、作品の雰囲気は、≪モンテクリスト伯≫などに近いですかね。 ドキドキするような展開も、よく似ている。

  群像劇なので、主人公はいないのですが、面白いキャラが何人も出て来ます。 図抜けているのが、准男爵の友人且つ共犯者である、フォスコ伯爵で、これだけの才能がありながら、どうして、莫大というほどでもない金額のために、犯罪に手を染めたのかが、解せないところ。 義姉のマリアンは、しっかりしているようでいて、弱味も多く、犯罪者の狡知に対応しきれていないところに、却って、リアルさを感じます。

  娘の伯父に当たる、フェアリー卿が、また面白い。 寝たきりの虚弱体質で、神経質の権化みたいな人なのですが、超が付くような自己中心的性格の持ち主でして、自分が厄介事に巻き込まれたくないばかりに、姪達を平気で見捨てます。 呆れる反面、この作品の中で、最も現代人に近いのは、このフェアリー卿なので、どことなく、憎みきれないのです。



≪月長石≫
  ≪白衣の女≫の作者、ウィルキー・コリンズの、もう一つの代表作です。 ≪白衣の女≫は、「長編ミステリー小説の嚆矢」ですが、この≪月長石≫は、「長編推理小説の嚆矢」なのだそうです。 ミステリーと推理物は、違うわけだ。 発表は、1868年ですから、日本では、明治の始め頃。

  この本は、創元推理文庫の一冊で、小説の本体だけで、770ページもある、分厚い文庫本です。 沼津の図書館になくて、わざわざ、隣町の三島の図書館まで行って来ました。 何とか、貸出期間の2週間以内に読み終わり、無事に返して来たのですが、なんつーかそのー、遠い所で借りた本は、返しに行くのも遠いわけで、しょっちゅう、利用するというわけにはいきませんなあ。

  人も死にますが、基本的には、紛失した宝石を捜す話です。 ストーリー上は、一人も死ななくても、成立します。 あるイギリス軍の大佐が、インドから奪って来た≪月長石≫という大きなダイヤモンドが、遺産として彼の姪に贈られた直後に姿を消し、犯人は誰か、動機は何か、宝石はどこにあるのか、といった謎が、少しずつ解き明かされていきます。

  推理小説と言われれば、確かに推理小説ですが、謎の内容が、読者に推理を許さない種類のものであるため、もし、推理小説として書かれたのであれば、少し、ズルいです。 しかし、この作品が書かれた頃には、まだ、推理小説というジャンルは存在していなかったわけですから、作者を責めるのは、筋違いと言うもの。 それに、普通の小説として読んでも、充分に面白いです。

  【月長石】という単語は、それ自体、鉱物の種類名なのですが、この作品の中では、特定の宝石を指す、固有名詞としても使われています。 元は、ヒンズー教徒の信仰の対象になっていた秘宝で、まず、イスラム教徒のサルタンに奪われてから、常に三人のヒンズー教徒の監視役が、宝石の行方を追うようになり、次に、サルタンから宝石を奪ったイギリス人大佐を追って、イギリスの田舎にまでやって来ます。

  ただし、三人のインド人は、最終的には、宝石の行方に関係して来るものの、それは、オマケのようなもので、貴族の屋敷内で起こった宝石の消失事件に直接関わるのは、大佐の姪や、その従兄弟達、及び、使用人達です。 三人のインド人は、読者に対する、最初の目晦ましとして、使われているわけです。

  ≪白衣の女≫と同じく、複数の人間の、手記や日記、告白文、報告書といった体裁の文章を並べて、事後回想の形式で、物語が進んで行きます。 読み慣れた文体から無理やり引き離されてしまうのは、ちと戴けませんが、事件を複数の視点から見る事で、リアルな雰囲気を構築しようとしている点は、評価できます。 たぶん、三人称にして、≪作者≫という超越者を設けてしまうのが、嫌だったのでしょう。

  ≪白衣の女≫では、フェアリー氏が最も極端なキャラでしたが、≪月長石≫では、クラック嬢という、敬虔過ぎるクリスチャンが登場して、読者を呆れさせてくれます。 「迷える羊を柵に入れるのが、自分の使命」と信じ込んでいて、やる事為す事、全て、信仰の押し売り。 キリスト教徒から見ても、狂信徒に見えるのですから、そうでない者から見れば、尚の事。 もっとも、こういう人間を遺言状の立会人に呼ぶ方も呼ぶ方ですが。

  三人のインド人を指すのに、「インド人ども」という言葉が使われているのですが、元の英文では、単なる複数形だったはずで、どうして、こんな差別がかった訳し方をしたのか、訳者の意図が量りかねます。 「インド人達」で、全く問題ないと思うのですがね。 原文に無いものを付け加えてしまったら、それは、翻訳として、失格ですぜ。

  もともと、宝石は、インドのヒンズー教徒の物ですから、イギリスに持ち去られてから、誰が所有しているか、誰が盗んだか、などは、≪強盗一味の仲間割れ≫に過ぎないわけで、読んでいる間、ずっと、もやもやした気分が続きます。 しかし、最終的には、そのもやは晴れ、すっきりした気分で本を閉じる事ができるよう、ちゃんと配慮されています。



≪夢の女・恐怖のベッド≫
  19世紀後半に活躍した、イギリスの作家、ウィルキー・コリンズの短編集。 ≪白衣の女≫、≪月長石≫の二長編は、現代人が読んでも唸らされるような名作なのですが、短編の方は、さほど面白いわけではなく、まあまあ、普通の出来といったところ。 それとて、同時代のロシア文学やドイツ文学の名短編と比べると、「軽い」感じが否めません。

【恐怖のベッド】
  博打場で大勝ちした男が、胴元に眠り薬を盛られ、仕掛けベッドに寝かされて、押し潰されそうになる話。 ポーの短編、≪振子と陥穽≫のパクリですが、かなり大味で、怖くも何ともありません。 なんで、表題作になっているのか、解せないところ。

【盗まれた手紙】
  弱味を握られて、恐喝されている知人のために、恐喝者の家に忍び込んで、証拠の手紙を取り返してやる話。 これも、ポーの短編、≪盗まれた手紙≫のパクリ。 しかも、ポー作品と違って、隠し場所が意外でもなんでもなく、謎解きも、極めて稚拙。 いいところがありません。

【グレンウィズ館の女主人】
  これは、コリンズらしい作品です。 貴族の館で、母亡き後、姉に溺愛されて育った妹が、フランス貴族の青年と結婚するものの、子供が生まれる寸前に、その男が偽貴族だったと分かり、悲劇的な結末を迎える話。

  ≪白衣の女≫に出て来る姉妹と、ほぼ同じキャラ設定なのですが、こちらの姉の方が、卒が無い分、より悲劇の度合いが増しているように感じます。 顔が似た人物が二人出て来る点も、≪白衣の女≫と共通するモチーフ。

【黒い小屋】
  父が仕事で外泊し、一人で留守番をする事になった娘が、たまたま、隣家の夫妻から大金の入った財布を預けられてしまったせいで、暴漢の襲撃を受け、必死の抵抗で、財布を守ろうとする話。 これは、サスペンスだわ。 ほんの短い話ですが、手に汗握ります。 コリンズという人は、こういう場面を書かせたら、当時、右に出る者がいなかったのではありますまいか。

【家族の秘密】
  この作品だけ、純文学の薫りがします。 父と叔父が医師である少年が、家を離れて暮らしている時、姉の病死の知らせと同時に、大好きだった叔父が失踪してしまい、姉の死が、叔父の治療ミスのせいにされていたのを、大人になってから、隠された秘密を探って行く話。

  頭に来るのは、少年の母でして、娘が死んで混乱している最中だけならまだしも、後々までも、義理の弟に全ての責任を押し付け続けるなど、人間のクズとしか思えない振る舞いをします。 感動よりも、怒りが後に残る作品です。

【夢の女】
  これも、表題作の一つですが、ちょっと、分かり難い話です。 夢で自分を殺そうとした女が、後に現実となって現れ、当人は気づかずに結婚するものの、やがて、女の不品行がひどくなって離婚に至り、以後、女が夢の中で襲って来るのを避けるため、夜眠らなくなるという話。

  分からんでしょう? 分からんのですよ。 夢と現実の境界が無くなってしまう恐怖を描きたかったのかもしれませんが、そんな事は、実際には起こらないわけで、設定を読者に受け入れさせる説得力に欠けます。

【探偵志願】
  コリンズの作品は、必ず、一人称で書かれるのですが、語り手当人のキャラが曲者というのが、いくつかあって、これも、その内の一つ。 自分は切れ者だと思っている刑事見習いが、駆け落ち結婚の新郎を、窃盗事件の犯人と間違えて、大ポカをやる話。 語り手に同調して読んでいく癖がついていると、途中で、「あれ? こいつ、アホだぞ!」と気づいて、はっとさせられます。 現代小説では、あまり取られない手法ですが、妙に面白いです。

【狂気の結婚】
  異常に厳格な父に、外国人との結婚を反対され、精神病院に入れられた男が、院外療養中に女性と知り合い、結婚するものの、叔父の遺産を貰う立場になってしまった事から、貪欲な親類達の手によって、再び精神病院に送られてしまったのを、妻や義兄達が裁判を起こして、助けようとする話。

  コリンズは、若い頃、法律家だったので、こういう家庭争議が関わるモチーフを好んで使うようです。 実話を元に、イギリス法曹界の問題点を告発するのを目的とした作品。 小説としてどうこうというより、こういう理不尽な話が実際にあったという事に、心が痛みます。



  以上、五冊まで。 実際には、≪白衣の女≫が、上中下三冊なので、七冊ですが・・・。 最初の一冊を除くと、去年、つまり、2012年の春から、初夏にかけて読んだ、推理小説の古典ばかりです。 ちなみに、私は別に、推理小説のファンといわけではありません。 古典だから、教養の足しになるかと思って、読んでみた次第。

  クロフツを先に読んでしまったのですが、時代的には、コリンズの方が、半世紀も前の人。 クロフツは、推理小説というジャンルが確定してからの作家ですが、コリンズは、伝統的な一般小説の作法で書いていて、この半世紀の間に、画期があった事が、よく分かります。