2015/11/01

読書感想文・蔵出し⑮

  読書感想文が溜まって来たので、蔵出しします。 今までのパターンだと、他に書く事がないとか、書く暇がない時に、蔵出しする事が多かったですが、今回は、どちらかというと、後者の口。 月末なので、月一のバイク・ツーリングにも行かねばならず、銀行にも行かねばならず、そろそろ、寒くなって来たので、ベランダ・ケージの亀を、室内ケージに移さなければならず、やる事ばかりで、ブログの記事を書くゆとりがなかったのです。



≪神様はつらい≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
ストルガツキー兄弟 著
大田多耕 訳

  ストルガツキー兄弟というのは、ソ連・ロシアのSF作家で、それぞれ、兄は日本文学者、弟は天文学者と、本業がありますが、共同で発表したSF小説が優れていた為に、そちらの方で、世界的に有名になった人達。 タルコフスキー監督で、映画化されている、≪ストーカー≫や、≪有人島(収容所惑星)≫、≪蟻塚の中のかぶと虫≫など、翻訳されている作品は、多いです。

  ≪神様はつらい≫は、1964年に発表された長編。 ≪神々のたそがれ≫という題で、2013年に映画化され、それが、どえらい問題作だというので、原作を読んでみたという次第です。 私は、もう、10年くらい前に、ソ連・東欧SFに嵌まって、ストルガツキー兄弟の作品も読み漁ったのですが、≪神様はつらい≫を読んでいなかったのは、「世界SF全集」に入っている事まで、思い至らなかったから。

  地球から遠く離れて、ほぼ地球人類と同じ知的生命体が、ヨーロッパ中世と同レベルの文明段階にある惑星へ、情報員として送り込まれた男が、その星の一つの国で、残忍な粛清を進める大臣の手から、知識人達を救おうと努力するが、地球人が、遥かに進んだ文明と、神のような力を持っていても、遅れた社会を正しい方向へ導くのが、いかに困難であるかを、痛感する話。

  似たようなテーマは、≪有人島≫や、スタニスワフ・レムの、≪エデン≫でも、扱われていますが、いずれも、結論は、「何もしない方がいい」というもの。 この作品でも、同じような結論に至るのですが、「何もしない」と言うより、「何をしても、無駄」という感じの話です。 無力感が漂うので、あまり、楽しい小説ではないですな。 それが、リアリティーを担保しているのも事実ですが。

  主人公は、ドン・ルマータという、貴族になりすましているのですが、文明の利器というと、地球に映像を送る為に、帽子に埋め込んだカメラだけで、持っている武器は、剣だけ。 残忍な大臣、ドン・レエバを殺す事もできるのに、それが無意味だと分かっていて、実行できません。 彼を倒しても、すぐに、同様な支配者が出て来るからです。

  このテーマ、ソ連・東欧のSFでは、よく出て来るのに、アメリカやイギリスのSFでは、まず見られず、「文明が進んでいる社会が、遅れている社会を導いてやるのは、当然だ」という考え方で支配されています。 恐らく、そういうのが、アングロ・サクソン的な発想なんでしょうな。 映画、≪アバター≫などは、若干、「やらない方がいい」という方向に振っている作品と言えるでしょうか。 だけど、≪アバター≫の地球軍は、一度負けたくらいでは諦めず、完全に支配下に置くまで、何度でも、攻めて来そうな気がしますけど。

  話を戻しますが、この小説、異星の話であるにも拘らず、SF的な小道具は、ほとんど出て来ません。 前述したカメラと、ヘリコプター、一時的に体調を回復させる薬、あと、ラスト近くで密かに使われる催眠爆弾、そんなところが、地球から持ち込まれた物ですが、みんな、現在でもあるような物ばかり。 その上、舞台になっているのが、ヨーロッパ中世そのまんまみたいな街ですから、語り方自体が、時代小説のようで、SFっぽい雰囲気は、ほとんどありません。 逆に言うと、SFの道具立てを使わなくても、SFは書けるという証明になっているんですな。

  時代小説っぽいので、前半は、かなり、もたつきます。 ≪三銃士≫ほどの見せ場もなく、途中で放り出したくなりますが、ドン・レエバによるクーデターが起こると、緊張感が盛り上がって、話の展開に興味を引かれるようになり、後は、ラストまで、そのまま、引っ張って行かれます。 主人公に近い登場人物が、結構死ぬのですが、一人一人を、そんなに深く描き込んではいないから、大きなショックは受けません。 前半のもたつきさえ耐え忍べば、他は、割と安心して読める内容です。



≪クムビ≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
ゲンナージー・ゴール 著
飯田規和 訳

  ストルガツキー兄弟の、≪神様はつらい≫を読みたくて、早川書房の「世界SF全集24」を借りて来たわけですが、同じ本に、別の作家の作品も入っていたので、ついでに読みました。 しかし、まあ、そういう理由で読んだ小説で、面白かった例しは、あまり、ないです。 これも、その例に漏れなかったので、感想は、簡単に書いておきます。

  作者のゴールは、1907年生まれ、戦前は、普通の作家で、戦後になってから、科学者を主人公にした小説を書くようになり、そこから、SFに入って行ったとの事。 この、≪クムビ≫は、1963年に書かれた中編です。 私が生まれる前に書かれたわけですな。 ちなみに、70年代に、半導体が登場し、「産業の米」と言われるようになるまで、ソ連・東欧と、アメリカ・西欧の、科学技術力の差は、ほとんど見られませんでした。 むしろ、宇宙開発や原子力利用など、ビッグ・サイエンスと呼ばれる、最先端分野では、ソ連・東欧の方が、先を行っていたとも言えます。

  「時間研究所」に勤める父を持ち、自身も、学校卒業後、同じ研究所に勤めた青年が、人類が初めて、その存在を知った、地球外知的生命体である、「ウアザ星人」との、直接接触を前にして、地球人とは全く異なる、ウアザ人の自然観に当惑する一方、研究所内で進められている、「記憶」や、「意識」の研究に接する話。

  はっきり言って、一つのストーリーになっていません。 テーマが、バラバラのまま、ただ、主人公が、それらに関わるという形で、繋がっているだけです。 ウアザ人に関しては、直接接触の前までは、「ウアザ語には、自然を表す言葉がなく、ウアザ星は、人工物だけで構成されている」という、興味深い設定がなされていますが、それは、後に、勘違いだと分かり、ウアザ人自体が、それほど、面白い存在にはなりません。

  「過去の出来事を、全て、記憶している人物」や、「死んだ人間の意識を、コピーした機械」といった、面白いテーマに発展しそうなモチーフが出て来ますが、そちらも、掘り下げが今一つで、どれも、中心的なテーマにはなれていません。 とは言うものの、知的、未来的、哲学的な雰囲気は、充分に醸し出されており、作者の力不足で、こうなってしまったのか、それとも、意図して、こういう作品にしたのかは、判断しかねます。 一つ一つのアイデアを分離して、それぞれ独立した作品にすれば良かったのに。



≪自己との決闘≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
アリアードナ・グロモワ 著
草柳種雄 訳

  これも、早川書房の「世界SF全集24」に収録されていたもの。 作者は、1916年生まれの女性で、本業は、文芸学者・批評家だそうです。 50年代末から小説を書き始め、すぐに、SFに手を染めて、この≪自己との決闘≫は、1963年に書かれたとの事。

  フランスのパリにある家に籠り、人間の細胞から培養した臓器で、人造人間を数体作った神経生理学者が、なかなか安定しない彼らを扱う事に、心身ともに疲れきり、昔の教え子と、その友人、そして、彼の妻によって呼ばれた、身分を隠した新聞記者の青年という、三人の助手に頼る事になるが、事態の悪化を止められない話。

  人造人間の最初のアイデアは、フランケンシュタインでして、戦前には、すでに使い古されていたくらいですから、63年のSFとしては、題材が古典的です。 当時の、最先端の科学知識が盛られているとは思うのですが、アイデア自体が古いせいで、新味は感じません。 というか、この小説の中に描き込まれている科学知識が、発表当時、どのくらいのリアリティーを持っていたかが、今では分からないのです。

  これは、SFの宿命のようなもので、年月が経つと、現実の科学技術が、物語の世界を追い越して、作品が陳腐になってしまったり、追い越さなくても、違う方向に進んで、これまた、作品が陳腐になってしまったりします。 この作品の場合、そのどちらのケースでもないのですが、結局、生体を利用した人造人間は、今に至るも作られていないわけで、やはり、陳腐化したと言わざるを得ないでしょうなあ。

  対照的な存在として、機械装置だけを使って、人造人間を作る学者が登場し、人造人間製作の倫理について、両者の論戦が戦わされます。 しかし、それが、この小説のテーマとすると、掘り下げが足りない感じがします。 他の部分の枝葉が多過ぎるのです。 そもそも、助手を三人も出さなくて思いますし、とりわけ、新聞記者と、学者の妻の関係は、テーマと掛け離れ過ぎています。 どうも、人物の揃え方が宜しくない。

  全体の9割が、会話で埋まっていて、読み易いと言えば、言えますが、あまりにも、情景描写が少な過ぎて、臨場感は希薄です。 テーマが難しいので、その分、読み易くしようとして、こんな書き方をしたのか、それとも、この作者が、そもそも、こういう作風なのかは不明。 登場人物が、全員、フランス人というのも、ソ連SFの独特の世界を期待して読む向きには、残念なところでしょう。 

  どうも、ついでに読んだ小説というのは、外れが多いですな。 アンソロジーを好んで読む人の気が知れません。



≪幽霊殺人≫

ハヤカワ・SF・シリーズ
早川書房 1974年
ストルガツキー兄弟 著
深見弾 訳

  ソ連・ロシアの代表的SF作家、ストルガツキー兄弟が、1970年に発表した、短めの長編小説。 私が読んだ本は、新書サイズの二段組みで、213ページでしたが、文庫本にしたら、そこそこ厚いのが、一冊になると思われる長さです。

  一人の刑事が休暇をとり、雪深い渓谷の中にある、遭難者の幽霊が出ると噂のホテルへ、泊まりに行ったところ、たまたま泊まり合わせた数組の客の中に死人が出て、その首が180度ねじれていた事から、殺人事件と見て、捜査を始めるが、怪しい人物を何人か見つけるものの、なかなか、事件の全容を解明する事ができず、やがて、想定外の事実にぶつかる話。

  場所は、ヨーロッパのどこかの国のようですが、国名はなく、地名も、実在の場所ではなく、登場人物の名前からも、地域を特定するのは、難しいです。 ただ、ソ連国内でない事は確か。 ソ連のSFでは、外国が舞台で、外国人しか出てこない話は、結構あるみたいです。 日本のSFでも、小松左京さんの小説に、出て来るのが外国人だけというのが、ある事はあります。

  解説によると、ソ連では、冒険物・推理物と、SFが、非常に近いカテゴリーになっていて、一括りにされる場合もあり、この小説は、その状況をうまく利用して、ミステリーのように思わせておいて、SF的な結末で、読者をあっと言わせようという趣向らしいです。 実際、全体の9割くらいは、ミステリーの手法で書かれていて、終わり近くにならないと、SFである事が分かりません。

  小松左京さんの、≪大杉探偵シリーズ≫も、同じ趣向ですが、そちらが書かれたのは、1973年から、77年にかけてで、この小説の方が早いですな。 しかし、同趣向の作品は、もっと、前から存在するのかもしれません。 どこの国でも、SF小説の掲載は、ミステリー雑誌から始まる事が多く、両者には、浅からぬ因縁があるからです。

  そういう趣向ですから、最初から、SFだと分かっていると、せっかくの仕掛けが発動せず、興を殺がれてしまいます。 「ハヤカワ・SF・シリーズ」に入れてしまったのは、まずかったのでは? だけど、結局は、SFなわけでして、純粋なミステリーとして扱うわけにも行かないから、痛し痒しと言ったところです。

  フーダニット系のミステリーの雰囲気は、濃厚に薫っているものの、謎解きのしようがないので、あんまり、面白くはないです。 SFとしても、特別なテーマがあるわけではないので、そんなに、面白くはありません。 ちょっとした、変り種SFだと思えば、それなりに楽しめると言ったところでしょうか。



  以上、4作品ですが、読んだ本は、2冊です。 2015年の、4月半ばから、5月初めにかけて、図書館で借りて来て、読んだもの。 この頃は、ソ連・東欧のSF作品を、立て続けに読んでいました。 ソ連のSF作家だと、ストルガツキー兄弟が、やはり、図抜けて面白いです。 理系というより、文系の頭で考えているんですが、文明論を、背景のテーマにしているものが多くて、時代を経ても、なかなか、古くなりません。