2019/09/22

読書感想文・蔵出し (54)

  読書感想文です。 今回は、相互貸借で借りたものが2冊、所有している本が1冊、沼津の図書館にあったものが1冊と、出所が、バラついています。 科学書が含まれているから、内容的にも、バラついている。

  今、ふと、思いつきましたが、「バラつく」の、「バラ」って、まさか、「variety」が語源の外来語じゃないでしょうね? 「バラバラ」という言葉もありますが、それも、バラエティーを略してから、重ねたのでは? 意味が近いから、可能性は、充分にあります。 「dull」と「ダルい」以外にも、こういう例があったとは、今の今まで、気づかなかった。

  ちなみに、語源というのは、非常に、いい加減な世界でして、普通、学問の内には入りません。 だから、語源に詳しい人がいて、薀蓄を傾けられても、「ふーん」と答えておくだけで、充分です。 信じ込んで、他の人に話さないのが、無難。 いい加減な人間だと思われる恐れがあります。




≪スペードの女王≫

角川文庫
角川書店 1976年2月25日/初版 1976年3月20日/2版
横溝正史 著

  相互貸借で、取り寄せてもらった本。 小山町立図書館の蔵書です。 「閉架」のシールあり。 元からのカバー付きで、ビニール・コートも被せてありませんが、破れもなく、状態は良いです。 メジャー作品ではないから、開架にあった時にも、借りる人が少なかったのかも知れませんな。

  ≪スペードの女王≫は、解説によると、1960年6月に、書き下ろしで刊行されたもの。 ネット情報では、1958年6月に、「大衆読物」に掲載されたとありますが、どちらが正しいのか分かりません。 一冊一作品の、堂々たる長編です。 しかし、メジャー作品と比べると、内容的にも、ページ数的にも、やはり、見劣りします。 通俗物ではなく、本格トリック物。


  老刺青師が、訪ねて来た女に、秘密の場所に連れて行かれ、そこに眠らされていた別の女の股に、スペードのクイーンの刺青を彫らされた。 依頼した女の股にあった刺青を写したのだが、その女の刺青も、同じ刺青師が、数年前に彫ったものだった。 その後、刺青師が変死を遂げ、首なしの女の死体が海に浮かぶ。 その股には、スペードのクイーンの刺青があったが、さて、殺されたのは、どちらの女か・・・、という話。

  顔のない死体もの。 本格トリック物の横溝作品には、このカテゴリーが、大変、多いです。 この作品の特徴は、最初から、股に同じ刺青がある女が二人いる事が、読者に知らされていて、「これを、どういうストーリーにして行くのかな?」と、そちらへ興味を引っ張って行くところにあります。

  以下、ネタバレ、あり。

  同じカテゴリーの話を、いくつも書いている横溝さんだけに、捻りに捻って、複雑な展開になっています。 犯人が途中で変わるという、掟破りとも言える手法が使われていて、あっと驚かされます。 意外な犯人どころの話ではなく、こんなの、推理しながら読むなんて、絶対に無理ですな。

  顔がない死体ものでは、被害者と思われていたのが、実は、加害者で、死んだと見せかけておいて、実は、すり変わって、生きているというのが、普通のパターン。 それを、更に、引っ繰り返して、被害者に見せかけるつもりだった加害者が、ほんとに被害者になってしまったというのが、この作品なわけです。 ネタバレはネタバレですが、「たぶん、そんな事じゃなかろうか」という感じは、かなり、早い段階で分かります。

  分かった上で読んでも、面白いです。 ≪夜の黒豹≫のように、聞き取り場面の会話で、水増しするような事はしておらず、結構、ちょこちょこと、場所が変わるので、変化があって、読み応えがあるのです。 刺青師の妻から又聞きした話を元に、刺青現場の部屋を捜索する場面は、宝探しの冒険物のようで、ゾクゾクしますなあ。

  緑ヶ丘にある、金田一の事務所兼住居が、ピストルを持った犯人に狙われ、等々力警部や、所轄署の刑事部補が駆けつけてくる場面も、、臨場感があって、面白いです。 なぜ、この作品が、映像化されていないのか、不思議。



≪女が見ていた≫

角川文庫
角川書店 1975年8月30日/初版 1978年4月30日/17版
横溝正史 著

  私の手持ちの本。 1995年9月頃に、沼津・三島の古本屋を回って、横溝正史作品を買い漁った内の一冊です。 買った直後に、一度読み、引退後の2015年にも、読んだと思うのですが、内容を全く覚えていませんでした。 金田一や等々力警部が出て来ない長編で、その割には、面白かったような記憶だけあったのですが、面白かったのに、覚えていないというのは、どういう事なのか?

  1949年5月5日から、10月17日まで、新聞「時事新報」に連載されたもの。 新聞連載で、推理小説を書くのは、毎回、読者の興味を次回に繋いで行く書き方をしなければならないので、難しいらしいです。 確かに、ブツ切り的なところや、「前回までの説明」的な繰り返しが出て来て、書下ろしや、月間誌連載とは趣きが異なります。 一冊で一作品、約350ページの長編です。


  不仲な妻と喧嘩した作家が、銀座を飲み歩いている内に、三人の女に代わる代わる尾行されている事に気づく。 酩酊状態で家に戻った作家が、同居している新聞記者から、妻が銀座の店に呼び出されて、殺されたと知らされる。 現場に、自分の持ち物があったと聞き、容疑をかけられる事を恐れた作家は、姿を隠し、昔の知りあいに、自分のアリバイを証明してくれるはずの、三人の女を探してくれるように頼む。 ところが、その女達が、次々と・・・、という話。

  今回、読んだのが、3回目になるわけですが、やはり、面白かったです。 なんで、面白いのに、時間が経つと、綺麗さっぱり忘れてしまうんでしょう? 探偵役が、はっきりしていないからでしょうか。 作家の昔の知り合いというのが、一応、探偵役なのですが、必ずしも、彼が解決するわけではなく、自然に、犯人が特定されてしまうという流れ。 これといって、中心人物はおらず、群像劇です。 

  特殊な性格を持った人物が、二人出て来ます。 新聞記者と、作家の恩師の妻。 どちらも、精神異常者というわけではなく、性格異常ですらないんですが、極端に特徴的な性格で、他人に害を及ぼし、人間関係に波風を立てるのが大好きというもの。 こういう人達は、現実に存在するので、描写が大変、リアルに感じられます。

  その二人に比べると、他の登場人物は、没個性で、あまり、面白みがありません。 特に、作家の妻は、殺人事件の被害者というヘビーな役所であるにも拘らず、全くと言っていいほど、性格を書き込まれておらず、その点、大いに、リアリティーを欠きます。 こんな特徴のない人間が、なぜ、殺されなければならないのか、そこが、納得できません。

  あと、細かい事ですが、ラスト近くに出て来る、犯人の告白文が、漢字カタカナ混じりになっていて、腹が立つほど、読み難いです。 戦後間もない頃なら、漢字カタカナ混じり文を読みなれた人が多かったから、問題なかったのでしょうが、今では、もう、全然、駄目でしょう。 大ブームの頃ですら、スイスイ読めた人などいなかったはず。 これは、横溝さんの存命中に、許可を取って、修正すべきだったんじゃないでしょうか。



≪死神の矢≫

角川文庫
角川書店 1976年5月20日/初版 1979年8月10日/13版
横溝正史 著

   相互貸借で、取り寄せてもらった本。 富士宮市立図書館の蔵書です。 「寄贈」の印、あり。 しかし、カバーの損傷が少なく、程度はいいです。 図書館の蔵書なのに、古本で出回っているものより、ずっと状態がいいというのは、不思議な気がしますが、たぶん、あまり、借りる人がいなかったんでしょうな。 長編1、短編1の、2作品収録。 短編の、【蝙蝠と蛞蝓】の方は、以前、≪人面瘡≫の時に、感想を書いているので、繰り返しません。


【死神の矢】
  原形になった作品があり、短編か中編かは分からないのですが、1956年3月に、「面白倶楽部」に掲載されたとあるので、一回で終わったという事は、そんなに長いものではなかったのでしょう。 それを改稿して、1961年4月に、書き下ろし長編として発表したのが、この作品。 長編と言っても、約224ページで、短めです。


  ある考古学者が、娘の結婚相手を、求婚者三人の内から、弓矢の腕で選ぶと言い出し、「三人とも、ゴロツキだから、やめろ」と、周囲が止めるのも聞かずに、強行したところ、その内の一人が、本当に的を射抜いてしまう。 試合後に、なぜか、的を外した一人が浴室の中で、試合に使われた矢で殺される。 動機は不明、主だった人物には、アリバイがある。 被害者を脅迫するつもりで近くに来ていた元ボクサーが、屋外から矢を射込んだたのではないかと疑われるが、金田一は、逆に、彼のアリバイを証明しようとする。 やがて、第二の殺人が起こり・・・、という話。

  本格トリックで、金田一が深く関わり、しかも、雰囲気が別荘地ものと来れば、その条件だけでも、面白いと決まっており、実際、クライマックスの直前までは、ワクワクするほど、面白いです。 ちなみに、正確に言うと、別荘ではなく、学者の邸宅が、主な舞台。 だけど、その邸宅が、江の島付近にあるというから、別荘地ものの趣きになるのは避けられません。

  弓矢の腕で、婿を決めるというのは、50年代半ばの話であっても、充分に大時代ですが、現実離れした設定が珍しくない推理小説の世界ですから、取り立てて、滑稽さは感じません。 むしろ、面白さを感じます。 この婿選びの方法が、後々、事件の動機に深く関わってくるとなれば、尚の事。

  しかし、クライマックスに至り、犯人が誰か分かるやいなや、そこから先が、人情物を通り越して、お涙頂戴になってしまい、どうにもこうにも、高く評価できない、陳作に陥ってしまいます。 これは、ひどい。 全体の8割くらいが面白いだけに、謎解きが、お涙頂戴では、もったいないにも程があろうというもの。 

  以下、ネタバレ、あり。

  2時間サスペンスの、出来の悪い作品に良くあるのが、犯人を善人にしてしまうパターン。 被害者を悪党にして、「殺したのには、やむにやまれぬ事情があったのだ」と言って、犯罪を正当化してしまうのです。 しかし、そう思っているならば、探偵役に余計な捜査などさせなければいいのであって、「一体、悪党を罰したいのか、悪党を罰した善人を罰したいのか、どっちなんだ?」と、釈然としない、嫌~な後味が残ります。

  この作品の場合、実行犯は自殺してしまい、殺人計画を立てた人物は、余命幾許もないという状態で、善玉といえども、ハッピー・エンドにはなっていないのですが、それにしても、真相が公にならないというのは、すっきりしません。 金田一は、警察ではないので、犯行の協力者たちを、目こぼししてやるのですが、そんな甘い方針では、正義を貫けますまい。 一体、何を基準に、真相を公にする事件と、公にしない事件を、判断するんでしょう?

  こういうパターンにする場合、殺人の被害者の方が、どれだけ悪党だったかを、くどいくらい描き込んでおけば、多少は、善悪バランスが取れると思いますが、この作品の場合、そちらの方の描写は、まるで、足りません。 学者の娘や助手が、自殺した殺人犯の胸中を察して、びーびー泣くわけですが、全く以て、醜いばかり。 「殺人上等」にしてしまったら、もう、推理小説は、おしまいではないですかね?

  更に悪いのは、隠蔽工作をした女でして、自分が犯罪行為をしたという認識が、かけらもなく、複雑な隠蔽をした事を、誉めて貰えるかのように、軽く思っている事です。 善玉側だからと言って、こんな無反省な犯罪者を、笑って見逃すというのだから、金田一にも呆れます。 犯罪者というのは、一度見逃せば、味を占めて、二度三度と、同じ事をやるものでして、その内、金田一のところへ、犯行方法の相談に来るかもしれません。 そうなっても、ニコニコ笑って、協力してやるんですかね?



≪宇宙に「終わり」はあるのか≫

ブルーバックス
講談社 2017年2月20日/初版
吉田伸夫 著

  沼津市立図書館にあった本。 ブルーバックスというのは、新書サイズの科学入門書シリーズです。 入門書と言っても、理工系でない人間にとっては、入門が限界で、そこから先の専門書には、とても進めないから、「科学書は、ブルーバックスしか読まない」という人も多いのですが。 ちなみに、かつて、SF作家が、小説のアイデアを考える時に、この種の入門書が、ネタ本として、よく利用されたようです。

  副題に、【最新宇宙論が描く、誕生から「10の100乗年」後まで】とあります。 「10の100乗年」というのは、算用数字で書けば、10の後ろに、0が100個並ぶ数値で、書いてみますと、

100000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000年

  になります。 宇宙誕生から、現在までが、138億年ですが、算用数字にすると、

138000000000年

  ですから、まだ、始まったばかりである事が分かります。 では、この途方もなく長い未来をもつ宇宙が、今後、どんどん発展して行くのかというと、そんな事はなくて、衰える一方なのだとか。 「エントロピーの増大」という言葉で表される事ですが、宇宙が、最も盛んに活動していたのは、ビック・バンの時で、それ以降は、衰えるだけ。

  今現在も、衰え続けている途中で、生物の進化とか、発展というのは、一時的なものに過ぎないのだそうです。 何だか、前向きな気分を著しく阻害する事実ですな。 星にすら、寿命はあり、恒星でも、ほぼ、100億年くらい。 理の当然ながら、生物は、それより前に滅びます。 まして、人類文明が消え去るのは、もっと早いというわけだ。

  太陽系が出来てから、生物が発生して、その後、コツコツと進化し、知的生命体である人類が発展して来るまで、46億年かかっているのに対し、恒星の寿命は、100億年くらいですから、知的生命体が登場するチャンスは、恒星一つにつき、一回しかないというのは、意外な話。 宇宙の持つ、「無限」のイメージを損なう事、甚だしいものあり。

  宇宙が膨張しているというのは、今では誰でも知っていますが、加速膨張なので、遥かな未来、銀河と銀河が離れるスピードが、光速以上になると、他の銀河が、全く見えなくなってしまうのだとか。 もし、その頃に、どこかの惑星に、知的生命体が発生したとしても、彼らは、自分の属する銀河しか観測できないので、ビッグ・バンの痕跡すら見いだせないだろうとの事。 気が滅入る。

  「半減期」という言葉が示すように、原子は崩壊して行きますし、それを構成している素粒子も、消えて行って、いずれ、宇宙に、物質というものがなくなり、空間だけになるのだそうです。 そもそも、現在、宇宙に存在する物質は、ビッグ・バンの時に生み出されたものが、全ての元になっており、宇宙の外から供給される事はないので、最終的には、なくなってしまうわけだ。 気が滅入るなあ。

  ところで、この種の本は、過去にもいろいろとあったのですが、宇宙科学の発展は急で、20年くらい前の本となると、今ではもう、全然、中身が通用しないのだそうです。 たとえば、「インフレーション理論」というのは、かつては、ビッグ・バンの後に起こった現象を指す概念でしたが、今では、ビッグ・バンの原因になった現象を指すようになっているとの事。 概念が変わったのなら、名前も変えて欲しいところです。 ややこしい。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2019年の、

≪スペードの女王≫が、4月17日から、19日にかけて。
≪女が見ていた≫が、4月20日から、26日まで。
≪死神の矢≫が、4月28日から、30日。
≪宇宙に「終わり」はあるのか≫が、4月31日から、5月9日にかけて。

  ≪女が見ていた≫は、手持ちの本だから、まあいいとして、相互貸借で借りた、≪スペードの女王≫と、≪死神の矢≫は、その後、ヤフオクで落札して、買いました。 ≪死神の矢≫は、表題作の内容に問題があるから、欲しいとは思わなかったんですが、他の本とセットだったので、手に入ってしまった次第。 まあ、【蝙蝠と蛞蝓】も収録されているから、そちらを読み返す為に、手に取る事もあるでしょう。