2024/10/20

実話風小説 (33) 【口癖】

  「実話風小説」の33作目です。 8月の中頃に書いたもの。 一旦 書き始めれば、興が乗って、一気に書いてしまうのですが、なかなか、エンジンがかからないのです。 やはり、長過ぎる事に問題があるのかも知れません。 今回のは、短い方ですが、それでも、まだ長い。




【口癖】

    男Aの口癖は、「馬鹿」と、「小学生でも分かる」である。 こういう男、多そうだな。 男Aの場合、「馬鹿」は、小学生の頃から、「小学生でも分かる」は、中学生の頃から言い出したらしい。 小学生の頃から、「小学生でも分かる」と言っていたら、面白いが、これは、そういう笑い話ではない。

  男性の場合、中学生以下の年齢では、そういう口癖があっても、あまり、問題にならない。 高校生くらいになると、友人など、仲間内以外の人間に対して使ったら、問題になる。 男Aの場合、仲間内としか話をしなかったから、悶着に発展する事がなかったのだ。 後から思えば、喧嘩の一つも経験して、他人に向かって、そういう言葉を使うものではないと、悟っていれば、良かったのに・・・。

  二流の私立大学を出て、就職。 経理部門に配属された。 若い頃は、そこそこ、やる気のある社員で、一番早く昇進するだろうと思われていた。 結婚も早くした。 入社3年目である。 当時は、まだ、見合い制度が活きていて、親戚の紹介で見合いした看護師、当時は、看護婦だったが、2歳年下の女性と結婚した。

  妻は、すぐに、男Aの口癖に気づいた。 新婚旅行から、「馬鹿だなあ」とか、「小学生でも分かる事じゃないか」を、連発していたからだ。 妻は、看護学校出なので、男Aは、自分の方が、学歴が上で、当然、頭が良く、夫婦としての生き方を指導する立場にあると、決め込んでいた。 そして、妻が、内向的性格だった事もあり、それは、実行された。

  子供は、結婚3年目に、娘が一人 出来た。 男Aの人生が、順風満帆だったのは、その辺りまでだった。 30歳になっても、男Aは、まだ、平社員だった。 それには、理由がある。 経理部内で、会計ソフトの更新があったのだが、男Aは、前のソフトに慣れていたせいで、更新に頑強に反対した。 前のソフトなら、経理部内で、最も精通していたのである。

  だが、時代の流れに、一人で抵抗しても、無駄である。 更新は、実施され、男Aは、新しいソフトに、いつまで経っても、慣れる事ができなかった。 なまじ、前のソフトに慣れていただけに、頭が切り替えられなかったのだ。 不満が溜まり、同僚や、後輩に向かって、愚痴を叩きまくった。

「馬鹿! 効率性なら、前のソフトの方が、ずっと速いんだ! そんな事は、小学生でも分かる!」

  前のソフトでは、他人の、1.1倍の速度で仕事をこなしていた男Aは、新しいソフトでは、他人の、0.7倍くらいの仕事しかできなかった。 自分は経理のエースだから、その自分が文句を言っていれば、その内、古いソフトに戻してもらえるだろうと思っていたようだが、常識的に考えれば、会社が、そんな事をしてくれるわけがないのだ。 それなりの設備投資をして、最新のソフトを導入したのに、一人の平社員が反対しているから、古いのに戻す? 馬鹿馬鹿しい。 そんなの、ありえんわ。

  文句ばかり言う上に、仕事が遅いので、係長は、課長と相談して、男Aを、他の部署に回す事にした。 男Aに、その話を持ちかけると、「係長にしてくれるなら、どこへでも行きます」という答えだったが、他の部署の仕事をした経験がないのに、管理職になんかできるわけがない。 男Aは、企業のシステムというものを、よく理解できていないのだ。 それ以前に、世間知らずだったのだが、それが露呈されるのは、もっと後の話。

  異動を拒絶して、経理に居座り続ける事、5年。 また、ソフトの更新が行なわれた。 男Aは、全く覚える気がなく、仕事を取り上げられてしまった。 毎日、何もする事がないのに、職場に行き、形ばかりのデスクで、インター・ネットを見て、時間を潰すようになった。 時々、他の部署で、その日限りの欠員が出来ると、誰でもできるような仕事を任されたが、やはり、文句ばかり言っていた。 一日の予定だったのに、仕事がうまくできない事に臍を曲げ、半日で戻って来てしまう事もあった。

「馬鹿! あんな単純な仕事、やってられるか! 小学生にでもやらせりゃいいんだ!」

  すでに、35歳。 同期は、みんな、昇進してしまい、ヒラは男Aだけである。 しかし、男Aは、同情してやるような人物ではない。 そもそも、入社してから数年が、調子が良過ぎたのだ。 本来は、無能な部類なのに、最初に扱った会計ソフトと、たまたま相性が良かったせいで、実力以上に、自信を持ち過ぎた。 自分を有能だと思い込んでしまった。 ソフトの更新という避けられない変化の波に乗る事ができなかった。 それが、こういう結果を招いたのだ。

  勤め先で鬱積した怒りの捌け口は、家庭で、妻や娘に向けられて、口癖の連発となった。 口を開けば、あらゆる言葉が、「馬鹿!」から始まり、「小学生でも分かる!」で終わる。 帰省すれば、自分の親や兄にも、「馬鹿!」。 さすがに、妻の両親に対しては言わなかったが、そもそも、妻の実家には、滅多に行かなかった。 「馬鹿」を言えないから、行かなかったのである。 ちなみに、妻の父親は医師で、母親は看護師、夫婦で、小さな診療所をやっている。

  妻は、夫の暴言に慣れる事はなかったが、言い返すと、十倍になって返って来るので、何も言わなくなった。 娘の方が、中学生になると、父親の口癖に、カチンと来る事が多くなったが、やはり、言い返すと、十倍になって返って来るので、父親と話をする事自体をやめてしまった。 父親がいないところでは、母親に向かって、訴えた。

「絶対、おかしいよ。 友達に訊いたけど、よそのお父さんは、あんな事、言わないって言ってたよ」

  ところが、母親は、なんと、夫を庇った。

「仕事の方で苦労してるから、ああいう言い方になっちゃうんでしょうよ。 家族なんだから、分かってやって」

  妻は、娘が生まれてから、高校生になるまでは、仕事をしていなかったので、男Aの収入だけに、家族の生計がかかっており、男Aを怒らせる事を恐れていたのだ。 もし、男Aが、会社を辞めると言い出すと、男Aの性格や、適応力の低さから考えて、再就職は、まず無理と思われ、家族は、路頭に迷う事になる。 娘が成人し、働き始めるまでは、是非とも、その事態は避けたかった。

  妻が、男Aを庇う様子は、娘以外の人間が関わる場面でも見られた。 訪ねて来た妻の弟が、夕食の席で、男Aの言葉に、カッと来て、睨みつけた時があったが、妻は、慌てて立ち上がり、弟の腕を引っ張って、廊下へ連れ出した。

「後生だから、怒らないで!」

「なんで、俺があいつに、馬鹿にされなきゃならないんだ!」

  妻の弟は、医師で、この時は、総合病院の勤務医をしていた。 男Aから、出身大学を訊かれて、私立の大学名を答えたところ、「医学部って、私立もあるの? なんだ、それじゃあ、金さえ出せば、馬鹿でも入れるんだな」と言われたのである。 自分が、私立の医学部がある事も知らないような世間知らずの馬鹿である事を棚に上げて、相手を馬鹿にするのだから、呆れた話だが、そういう男なのである。 姉は、脂汗を浮かべながら、弟を宥めた。

「あの人が言う『馬鹿』は、口癖だから、相手が誰でも、ポロッと出ちゃうの。 深く考えないで」

「深いも浅いも、『馬鹿』の意味なんて、一つしかないだろ! そんな言葉を、口癖にしている方がおかしいんだ!」

「とにかく、喧嘩されると、困るのは、私なんだから・・・」

  だが、後から考えると、妻のこの、「自分が耐えさえすれば・・・」、「自分がフォローしさえすれば・・・」という考え方が、ますます、男Aを増長させ、「馬鹿!」、「小学生でも分かる!」を、連呼させる事になったのかも知れない。 せめて、看護師の仕事を再開してからは、夫を頼らない方向に、舵を切り変えた方が良かったのではなかろうか。



  歳月は流れる。 男Aが、58歳、妻が、56歳の時に、その事件は起こった。 すでに、就職して、別の地方都市で一人暮らしをしている娘が、母親の誕生日に、旅行をプレゼントしてくれた。 実は、母親だけに贈りたかったのだが、それをやると、父親が怒って、母親を口汚く罵ると分かっていたので、夫婦二人分にしたのである。

  三泊四日の三日目に、トロッコ列車に乗る行程があった。 旅行会社による、団体ツアー旅行で、箱一つを貸切にしていたが、席順は決まっていなかった。 A夫婦は、妻がトイレに行っている間に、駅前の土産物店に冷やかしに行った男Aが、なかなか戻って来なかったせいで、列車に乗り込むのが、最後になってしまった。

  一列4席。 崖側・山側、各2席ずつで、中央が通路。 峡谷を走る列車で、崖側の方が眺めがいいので、そちらの席は、ほとんど埋まっており、山側は、いくつか、空きがあった。 崖側の席に、一人で座っている、50代の男性がいた。 B氏と呼ぶ。 男Aは、妻を残して、B氏の所へ行くと、席を譲ってくれと、交渉を始めた。 B氏は、怪訝そうな顔を隠さなかった。

「嫌ですよ。 景色を見る為に、わざわざ、来てるのに」

「それは、あんた個人の都合でしょ。 私達は、夫婦二人連れだから、隣り合って座りたいんですよ」

「だったら、山側の席で空いている所に座ればいいでしょう」

「分からん人だな。 山側じゃ、景色よく見えないじゃないか」

「なんで、私が譲らなきゃならないんですか? あなたに、優先権なんて、ないでしょうが」

「旅先じゃ、人数が多い方が、優先なんだ!」

「そんなルール、聞いた事もない!」

「もう、いいわ! 馬鹿っ!」

  と、ここまでは、男Aが普段、家庭や職場で、普通に交わしているような、やりとりだった。 普段と違うのは、相手が、家族や同僚といった、顔見知りではなかった事である。 普段なら、男Aの、「馬鹿っ!」で終わるのが、この時は、終わらなかった。 B氏が、言い返して来たのだ。

「馬鹿は、お前だっ!」

「?!」

  一旦、B氏に背中を向けていた男Aは、学生の頃、友人に言われて以来、聞いた事がなかった反撃のセリフに驚き、振り返ったが、返す言葉が、喉の奥で止まってしまった。 B氏の表情が、鬼面のように真っ赤になり、激怒していたからである。 男A、途轍もない恐怖に襲われた。 殴り合いの喧嘩になるのではないかと思って、一気に血の気が引いた。 周囲にいた他の客は、男Aの顔が、B氏のそれとは逆に、真っ青になって行くのを、間近で見る事になった。

  男Aから、3メートルくらい離れた所に立っていた妻は、B氏が言った、「馬鹿は、お前だっ!」という言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けていた。 正に、その通りなのだ。 夫こそ、馬鹿なのだ。 馬鹿に馬鹿と言われながら、30年以上、生きて来たが、なぜ、今まで、その言葉を言い返してやらなかったのか、自分が不思議でならなかった。

  B氏は、更に、男Aを怒鳴りつけた。

「お前は、一体、どういう人間なんだっ! 理不尽で、図々しい要求をした挙句、初対面の赤の他人を、馬鹿呼ばわりかっ! それが、大人のする事かっ! 小学校低学年のまんま、歳だけ食ったのかっ!!」

  B氏の剣幕に、男A、全く、言い返せない。 こんな恐怖は、それまでの人生で、味わった事がなかった。 赤の他人を怒らせるという事が、どういう事か、初体験したわけだが、そもそも、反省なんかできる人間ではない。 ただただ、怖いだけ。 両脚の膝と踝が、ガクガク震えて、近くの座席の背凭れに手を着こうとしたが、そこに座っている人の頭に触れてしまい、乱暴に払い除けられた。 腰が抜けて、通路に尻餅をついた。

  そこへ、ツアーの添乗員が駆けつけて来た。 男Aや、B氏にではなく、他の客に話を訊く。 その人は、B氏の肩をもつ証言をした。

「後から来た、この人が、そっちの人に、席を替われって、無理強いしたんですよ。 夫婦二人だから、優先権があるって言って。 で、そっちの人が断ったら、『もう、いいわ! 馬鹿っ!』って罵ったんです。 それで、そっちの人が怒ったんですよ。 当然だと思いますけどね」

  他の客も言う。

「赤の他人から、馬鹿呼ばわりは、されたくないなあ」

  別の客、二人の会話。

「普通、赤の他人に、馬鹿なんて、言わないよねえ。 相手がどんな人か、全然知らないんだもの。 喧嘩になっちゃうよねえ」

「そうだね。 社会の仕組みが分かる歳になったら、他人を警戒するから、言葉にも気をつけるようになるね。 その人、どういう人なの? 結構な年配のようだけど」

  男Aだけでなく、妻にも、視線が集まった。 男Aは、いつものように、妻が庇ってくれるものだと思っていたが、妻は、何も言えなかった。 周囲は他人ばかりなのに、こんな馬鹿な夫を、どう庇えと言うのだ。 B氏が言った言葉が、胸に突き刺さっていた。 正に、その通り。 夫こそ、「小学校低学年のまんま」なのだ。 なにが、「小学生でも分かる」だ。 そんなセリフを30年以上言われ続けて来た自分が、情けなくてならなかった。

  弟が、医師になって父の診療所を継ぐ事が決まっていたので、やむなく、看護学校へ行ったが、実は、妻の方が、弟より、学校の成績は良かったのだ。 そんな自分なのに、こんな、小学校低学年レベルの、馬鹿丸出しな男に罵られながら、30年以上も耐えてしまったのだ。 何たる、不覚! 一度しかない人生を、半分 ドブに捨てたも同然!!

「下ります。 私は、下ります。 ごめんなさい。 私のツアーは、ここまでにして下さい」

  妻は、添乗員の横をすり抜けて、トロッコ列車から、下りてしまった。 男Aは、通路に尻餅をついたまま、取り残されたが、周囲の客から白い目で見下ろされ、添乗員から、

「あなたは、どうします?」

  と訊かれて、何も言わずに、体を裏返して、四つん這いで少し進むと、何とか立ち上がり、トロッコ列車から、下りて行った。 何人かの客が、B氏の所へ行って、励ましの言葉をかけた。

「よく言ってくれました。 あなたは、全面的に正しいです。 もし、あの馬鹿が、名誉毀損で訴えるとか言い出したら、先に侮辱したのは、あっちだって、私が証言します」

「私も!」

「私も!」

  B氏は、怒りが収まって、顔色も元に戻っていた。 少し照れ臭そうに言った。

「私も、あんまり、怒りっぽい方じゃないんですがね。 つい、カッと来てしまいました。 お恥ずかしい」

「いいんですよ。 ああいうのは、怒鳴りつけてやらなきゃ、分からないんだから」


  男Aは、転げるような足取りで、駅舎の外に出たが、妻を乗せたタクシーが、目の前を走り去って行くのを見て、慌てて、腕を振り回した。

「おいっ! 俺も乗せてけっ! おーいっ! 止まれーっ! 馬鹿ーっ! 別々に乗ったら、タクシー代がもったいないだろうがーっ! そんな事、小学生でも・・・」

  つくづく、馬鹿だな。 つける薬がない。 大方、高い所が好きで、風邪も引かないのだろう。 そして、死ななければ、治らないのだ。


  翌日、男Aが家に戻ると、妻は不在で、後から帰って来た。 娘と、自分の弟を連れて来ている。 男Aは、渋い顔で、妻に言った。

「お前が逃げ出した事は、理解できる。 あんな頭のおかしい馬鹿野郎に遭遇したんだから、混乱するのは無理もない。 その点は、許す・・・」

  妻と娘、妻の弟が、顔を見合わせ、薄ら笑いを浮かべた。 男Aが続けようとするのを、妻が遮った。

「待った、待った。 許してもらわなくてもいい」

  そして、バッグから取り出した離婚届の用紙を広げると、書き込むように、三人で、男Aに詰め寄った。 男Aは、怒り立った。

「馬鹿っ! どうして、ここで、離婚だっ! そんな暇、あるかっ! 今から、俺に恥を掻かせた、あの馬鹿野郎を、訴えてやるんだ! お前は、警察へ行って、訴え方を訊いて来い!」

  妻が、絶対零度クラスの、冷ややかな声で言った。

「恥ずかしい人間なんだから、恥を掻くのは、仕方ないだろ。 訴えるぅ? 先に、『馬鹿』って言ったのは、あんたじゃないか。 向こうは、言い返しただけなのに、何の罪になるんだ?」

  夫に対する喋り方が、事件以前とは、全く変わっている。 それはつまり、男Aを完全に見限ったという証拠なのだ。

  娘が、目を丸くして、しみじみ言った。

「ほんとに、馬鹿なんだねえ。 常識もないんだねえ」

  妻の弟が言った。

「もう、あんたにゃ、うんざりだよ。 あんたみたいな馬鹿と、姻戚だと思うだけで、ゾッとするほど、おぞましい。 さっさと、縁を切ってくれ」

  妻が言う。

「こっちも、いろいろ、話し合ったんだけど、あんた、あと2年で定年だろ? 家で遊んで暮らすつもりらしいけど、そうなれば、特に趣味もないし、私にくっついて、濡れ落ち葉になるに決まってる。 冗談じゃないよ。 出かけるたびに、他人を馬鹿呼ばわりされたんじゃ、こっちの身がもたないわ。 知り合いと他人の区別もつかないんじゃ、社会で生きて行く資格もないと思うけどねえ」

「馬鹿っ! 馬鹿っ! お前ら、全然、分かってないっ!」 妻と娘を交互に指さして、「俺に感謝の気持ちがないのか? 俺が働いたから、お前ら二人が、暮らしてこれたんだぞっ!」

「別に、私が働いたって良かったんだよ。 看護師は、引く手数多だから、万年ヒラのあんたよりは、トータルの収入も多かっただろう」

「そんなの、結果論だ!」

  妻の弟、

「へえ。 馬鹿の癖に、そんな言葉は知ってるんだ」

  妻、

「馬鹿の癖に・・・」

  娘、

「馬鹿の癖に・・・」

  男A、

「馬鹿は、お前らだっ!」

  妻、

「この中で、馬鹿は、あんただけだって事は、小学生でも分かるよ」

  三人で、ゲラゲラ笑った。 男Aは、包囲攻撃に耐え兼ねて、泣き出した。

「くそっ! くそっ! 離婚してやる! こっちから、縁を切ってやる! 後で、吠え面掻くなよ! 何があっても助けてやらないからな」

  妻、

「あんたみたいな、世間知らずで、人を人とも思っていない、性根の腐れきった馬鹿が、他の人間を助けられるわけがないだろう。 身の程を知れ。 自分一人、生きて行く事もできないわ」


  妻の言葉は、たちまち、現実になった。 元妻が、アパートから出て行ってしまうと、家事能力ゼロだった男Aの生活水準は、地を這うほどに落ちた。 料理が全然駄目で、コンビニ弁当ばかり。 カップ麺は、湯の沸かし方が分からなくて、買い置きがあったのに食べられなかった。 原始人か?

  洗濯機の使い方も分からない。 一応、回すところまではできたが、洗剤は、水と同じように、洗濯機から、自動的に出て来ると思っていたのだから、呆れる。 メーカーのサービス・センターに電話して、「汚れが落ちないぞ!」と怒鳴りつけたが、すったもんだのやりとりの挙句、「洗剤を入れてください」と言われてしまったのである。 苛烈なまでの馬鹿ぶりを発揮しておるな。

  布団は、定期的に干すものだという事を知らず、黴が湧き、茸まで生えて来た。 風呂も、湯の溜め方が分からず、シャワーだけ。 シャワー口が詰まって、口が外れてしまったが、直し方が分からず、それ以降は、行水するだけになった。 性格的に、掃除もできないので、埃がうず高く積み上がり、ゴミの出し方を知らないから、どんどん溜まって、ゴミ部屋へまっしぐら。 まあ、馬鹿で、世間知も小学校低学年レベルだから、そんなものだな。


  追い討ちをかけるように、会社をクビになった。 有休をとった後輩の代わりで、使えもしないソフトをテキトーに弄っている内に、重要なデータを消してしまい、社長室に呼び出されるほどの大叱責を受けた。 折り悪く、リストラ計画がスタートしており、自己都合退職か、損失を自腹で埋めるか、どちらかを選べと言われて、3千万円を超える損失を埋められるわけもなく、退職した。 退職金は、大ミスのせいで、大幅に減額された。

  職場は、疫病神が去ったと言って、大喜び! 居酒屋で開かれた祝賀パーティーには、会費5千円と、安くはなかったにも拘らず、男Aに馬鹿にされた不愉快な経験がある社員達が、こぞって参加した。 30人以上いたというから、経理部以外でも、馬鹿馬鹿 言いまくっていたのだろう。 宴会の席は、男Aの悪口で、爆発的に盛り上がった。

「他人を、馬鹿馬鹿 言っていた本人が、一番 馬鹿だ!」

「しかも、無能で、仕事なんて、何やらしても、文句ばっかで、まともにできやしない!」

「あいつが、給料相当の仕事をしていたのは、入社後5・6年で、あとの30年間は、給料泥棒と呼ぶ以外になかったな」

「ありゃあ、自分が無能な事を隠そうとして、他人を馬鹿にしてたんだよ。 『馬鹿にされる前に、馬鹿にしろ』って発想だな。 そのせいで、これほど、憎まれる結果になったわけだが・・・」

「無能でも、おとなしくしてりゃあ、まだ、可愛気があるのに、開き直って、他人を馬鹿呼ばわりだ。 自分から、周りを敵に回してやがった。 馬鹿過ぎて、自分が馬鹿だと思われている事が分からなかったんだろう」

「あの人を見てると、『誰にでも、生きる権利がある』なんて言葉が、納得できなくなりますよね」

「そうそう! あんな馬鹿、とっとと死ねばいいんだ!」

  そこまで不穏な言葉が出ても、みんな、ゲラゲラ笑っているのだから、男Aが、どれだけ迷惑を垂れ流していたかが分かろうと言うもの。


  さて、その後の男Aだが、貯金を取り崩しながら、始終ビクビクして、暮らしていたらしい。 外に出て来るのは、弁当・飲み物の買い出しだけで、後は、アパートの部屋に籠っていた。 隣室の住人の話では、毎日、昼となく夜となく、壁越しに、怒声が聞こえて来たという。 「馬鹿っ!」、「小学生っ!」と言って、その後が、力なく途切れる。 寝言なのかも知れないが、病的な感じがする。

  隣室の住人は、気味が悪くなり、大家に相談に言った。 大家は、知り合いの民生委員に相談。 民生委員の紹介で、大家に付き添われて、精神科に受診したところ、うつ病と診断された。 男Aは、反省などするタイプではないが、赤の他人を怒らせる事の恐ろしさは、身に浸みて分かったのであろう。 一人暮らしになった事で、恐怖の対象が広がり、他人全てが怖くなったものと思われる。 すっかり、痩せ衰えて、そのまま暮らしていれば、3ヵ月もたなかったかも知れない。

  こんな男だから、それならそれで良かったのだが、たまたま、かかった精神科医が腕利きで、的確な投薬治療を施した結果、1ヵ月もしない内に、回復してしまった。 薬が効く体質だったのかも知れない。 不安を、一切、感じなくなった。 腐れ切った性格まで、完全復活。 まったく、治療は医者の仕事とはいえ、余計な事をしてくれる。

  病気も治った事だし、この勢いで、元妻と復縁しようと、退院したその脚で、元妻と娘が住んでいる街まで、電車で行った。 駅前のタクシー乗り場に行列が出来ていたので、少し離れた所にある、タクシー営業所の乗り場へ向かった。 ちょうど、そこへ、隣を歩いている人物がいた。 たぶん、同じタクシーに乗ろうとしているのだと思い、男Aが早足になると、隣の男も早足になった。 ほとんど、同時に、タクシーの所に着いた。

  男Aが、持ち前の、無能なくせに、自信に満ち溢れ、押しだけは強い、図々しい性格で、相手を押し退けて、タクシーに乗り込もうとした。

「どけよっ! 次の車に乗ればいいだろう! 俺は、退院して来たばかりだから、優先なんだ! 馬鹿っ!」

  男Aは、タクシーの後部座席に腰を下ろしたが、まだ、クッションの揺れが収まらない内に、二の腕を掴まれ、凄い力で、引きずり出された。

「わあっ! 何すんだ! 放せっ! 馬鹿馬鹿馬鹿っ!」

  相手の男は、無言のまま、男Aを引っ張って、狭い路地に消えた。

  二人とも、なかなか戻って来ないので、タクシーの運転手が、車を下りて、路地に入ってみたところ、仰向けに転がっている男Aの死体を発見した。 刃物で、心臓をひと突きされていた。 これなら、うつ病のまま、アパートで独居死していた方が、良かったか。 凶器は持ち去られており、犯人が誰か、手がかりが全くなかった。 手馴れた刺し方から、ヤクザ者ではないかと思われたが、周囲に防犯カメラがなく、タクシーのドライブ・レコーダーにも、右手の手首しか写っていなくて、人物の特定ができなかった。

  タクシーの運転手は、刑事に、こう言っている。

「あの人も、『助けてくれ!』とか言えば、すぐに後を追いかけたんだけどね。 『馬鹿馬鹿』言ってるだけだったから、なんだか、子供の喧嘩みたいで、真剣に取る気にならなかったんだよね」

  突発的な殺人である事は明白だったが、警察では、念の為、怨恨も視野に入れて、被害者周辺の捜査もした。 元妻と娘、親戚などには、アリバイがあった。 以前の勤め先を訪ねた刑事は、被害者の評判が、あまりにも悪いので、ゾッとする思いをした。 例の、祝賀パーティーの話も出たが、「死ねばいい」という言葉を口にした社員は、笑いながら、こう答えた。

「殺すんなら、馬鹿呼ばわれされた、その時に、やってますよ。 世の中に、あの手の馬鹿は、あいつ一人じゃないし、とりあえず、目に入る範囲から、いなくなってくれれば、それで、充分。 わざわざ、殺しに行くほどじゃないですよ」

  元妻と娘は、遺体の身元確認の為に、警察に呼ばれたが、「もう、離婚していて、葬儀を出す義理はないから」と、遺体の引き取りは、拒否した。 男Aの実家の兄も呼ばれたが、やはり、拒否。 さんざん、馬鹿馬鹿 罵られて来た恨みを忘れていなかったのだ。 男Aの遺体は、自治体によって火葬され、公営の霊園に合葬された。 享年、60歳。 一般的に言うと、死ぬには早い歳だが、男Aには当て嵌まらない。 むしろ、遅過ぎたのである。


  元妻は、今でも、名も知らぬB氏に深く感謝している。 あのトロッコ列車での一件がなかったら、自分は未だに、男Aに馬鹿呼ばわりされながら、男Aの世話をして、暮らしていただろう。 それを思うと、何年経っても、ゾーッと、鳥肌が立つのだった。