2006/12/31

おまいら、誰じゃ?

  今年もいよいよ、今日で終わり。 一年間読んでいただいて、どうもありがとうございました。

  ・・・なんて殊勝に頭を下げていると思ったら大間違いで、実は私、このブログ、もう捨てています。 ブログなんて最初の内は、ほいほい軽いノリで始めますが、結局は個人サイトと同じで、寿命からは逃れられないものなんですな。 特に、こういう言いたい放題の所では、下手な事を言って作者に噛み付かれるのを恐れて、コメントを打つ人がいないので、より短命に終わるという寸法です。

  かれこれ、一年四ヶ月くらい続けていますが、その間、まともにコメントらしい物を書いてくれたのは一人だけで、後は、返礼のコメントが一つ。 それ以外は全部スパムでした。 どうせ誰も書き込まないし、スパムをいちいち削除するのが面倒なので、今年の春からコメントとトラックバックを不可にしてしまいましたが、寂しいどころか、いよいよ書きたい放題の環境が整ったわけで、清々しました。

 「よくそんな状態でブログを続けているな」と思うでしょうが、コメントを書く人はいなくても、読む人はいるんですよ。 ご存知の通り、DIONのラブログにはアクセスログ機能があるんですが、それを見ていると、多い時は一日50人くらい来ます。 こんな書きたい放題のブログにそんなに来ていただけるとは、まったくありがたい事で、本当に申し訳ありません。

  ・・・なんて感謝の念は微塵も抱いていないのであって、実は私、こんな運営方法であるにも拘らず、未だにここを読みに来る人達が、空恐ろしくて仕方ありません。 どういう人達なんでしょう?

  前回も書いたように、ネット上というのは半数以上が、学生、フリーター、ひきこもりの三無能どもで占められています。 普通に働いている社会人が、ネットに毎日何時間も割けるわけがないではありませんか。 特に政治絡みの議論(の真似事)などしている大馬鹿者どもが、全員この三無能にである事は、疑念を挟む余地がありません。 「はぁ~あぁ~?」と大口開けて眉根を寄せたくなるほど、無知識・無教養丸出しの駄文を、まるで学者にでもなったような勿体ぶった文体で書いている連中が、実は社会の社の字も知らない≪人間のなりそこない≫であるなど、指摘されなければお釈迦でも気付きますまい。 こういう連中を発見したら、直ちに読むのを止め、パソコンを強制終了して、モニターに塩を撒くべきです。 そんな腐った文を読んでいると、馬鹿がうつること請け合いだからです。

  でね、ここを読んでいる人達というのは、半分以上がそういう輩だと思うのですよ。 以前、≪政党の分類≫という文章で、三無能を扱き下ろした事があるんですが、そしたら、次の日から覿面に閲覧者数が半分に減りました。 貶されて怒ったんでしょうな。 人間のなりそこないの分際で生意気に。 閲覧者を失って私ががっかり後悔したかって? とーんでもない! 「今まで、そんな連中に読まれていたのか!」と背骨の芯から怖気を震い、図らずも縁が切れて、ほーっと安堵したのです。 それ以降、徐々に閲覧者数が持ち直し、すっかり回復してしまったわけですが、前例が前例だけに、ちょっと素直に喜べないでしょう?

  もし三無能に属する人がこれを読んでいるなら、もう来ないで下さい。 私は死ぬまでまともな人間でいるつもりなので、あなた方と付き合う気は毛頭ありません。 というか、ちったあ判断力が残ってるなら、真人間になれよ。 他人をあれこれ批判する以前に、てめえが人間のなりそこないじゃ、しょうがねーじゃねーか。

 「話せば分かる」などという言葉がありますが、それは中学生くらいまでの場合でして、自我が完全に形作られてしまうと、もう他人の意見なんて聞きゃあしません。 馬鹿は死ぬまで馬鹿、キチガイは一旦なったら治らない、それが現実です。 特にバブル崩壊以降の日本では、常識も一緒に崩壊し、キチガイが年々増加する恐ろしい社会になってしまいました。 幼児誘拐やオレオレ詐欺が流行り始めた頃、冗談半分に、「日本人の半数は詐欺師、残りの半数は変質者」と書いた事があるんですが、いまや冗談ではなくなってしまいました。 普通の社会では、八割が常識人で、残りの二割が変わった人間ですが、今の日本では、この比率が逆転しています。 たった二割では常識が維持できませんから、相対的に全員が異常という事になります。

  ただねえ、こういう状態は永遠に続くわけではないんですよ。 無法状態まで崩れると、自然に社会変革が起きて、再編成されます。 問題は、無法時代が何十年も続く場合がある事と、再編成後の社会が整然としてはいるが、息苦しくなる傾向が強い事です。 政治を変えれば世の中も良くなるという次元の話ではなく、すべては自然に進行するので、あれこれ心配しても栓無い事ですが。

2006/12/24

ネットのどこじゃ?

  よく新聞記事で、「ネット上では○○が話題になっている」といった書き方をして、世の流れを分析している文章がありますが、新聞記者というのはつくづくとことん頭の暗い連中ですな。 一体、その≪ネット上≫というのは、具体的にネットのどこの事を言ってるのよ? ○チャンネルの事か? そんな所ばっかり読んでるんだろ? この俗物が!

  あのなあ、ネットというのは現実の世界と同じくらい広大な世界なんだよ。 ほんの数人だけで話をしている個人サイトの掲示板でも、そこで話題になっていれば、「ネット上では○○が話題になっている」と言えるわけだ。 「ネット上で」というからには、最低限、ネット上に存在する掲示板やブログの半数以上で話題になっていなければなりませんが、無数にあるものを新聞記者ふぜいが調べきれるはずがありません。 何の疑いも無く、これらの記者は、普段自分が覗いている掲示板の話題だけを見て、それが世の流れと決め付けてしまっているのです。 そんないい加減な情報で、新聞記事を書くな、この馬鹿どもめ!

  同様の理由で、≪ネット・アンケート≫というのも全く、全然、金輪際、信用が置けません。 ネットの利用者の半分は、学生、フリーター、ひきこもりです。 そんな、社会との関連の薄い連中の意見ばかり集めて、≪世論≫などと言われてはたまったものではありません。 馬鹿も休み休み言うべし。 もっとも、新聞社がやっている、≪電話アンケート≫というのも、負けず劣らず、ズレ捲っています。 笑っちゃう事に、電話帳からランダムに抜き出しているらしいですぜ。 アホか、おまいら? 電話帳には世帯主の名前しか載ってないだろうがよ! 世帯主ばかりの意見を集めたら、内容が偏ると思わないのか? 統計学の「と」の字も知らんのか? 大丈夫か、ドタマは?

  ≪トリビアの泉≫などで、統計が関わってくると、統計学の学者が登場して来て、「約2000人の意見を聞けば、ほぼ全体の傾向を推測するのに充分でしょう」と言いますが、あれは、サンプルの2000人が完全に無作為に選ばれている場合です。 そして、何が難しいといって、無作為に選ぶという、そこが一番困難なのです。 アンケート調査そのものは、単なる作業に過ぎません。 重要視するポイントを間違えているんです。 無作為に選ぶ段階を疎かにすれば、まーず、正確な統計値など出ないでしょうな。

  統計というのは本来、現状を分析する為に集めるものですが、日本ではむしろ、現状を粉飾する事を目的とする場合が多いです。 統計値が出れば、反対者に対して数字で反論できますから、嘘でも何でもデッチあげるわけですな。 いつまでたっても野蛮性が抜けない民族で、科学的思考法など理解してませんから、科学的手法の一つである統計の使い方も分かっちゃいないのです。 恐らく、今後も分かる事はないでしょう。

  うーむ、今回も言いたい放題な事を書いてしまいました。 まあ、自分のブログだから何を書いてもいいんですが、こうとブツクサブツクサ腹が立つ事ばかり書き続けていると、自分でうんざりして来ますな。 私も、書こうと思えば、良心的で希望に溢れていて、尚且つ心温まる一文を書けないではないんですが、現実の世界を見ると、腐れ切ったような事ばかりなので、嘘が嫌いな私としては、どうしてもこういう醜い事を書かざるを得なくなってしまうのです。 もっとも、最近思うんですが、世の中、つまり人間社会というものは、元々醜いものであって、理想的状態などというのは想像の中の産物でしかないのかもしれませんなあ。 悪い所があるから、少しでも良くなるように批判するわけですが、その悪さが人間社会の本質的なもので、どんなに努力して決してなくならないのであれば、批判するだけ無駄、怒るだけ寿命をすり減らすというものです。  やはり、文章なんぞにエネルギーを割くのはやめて、ぶらぶらと写真でも撮って、人生の後半を心安く過ごすべきなんでしょうか。

2006/12/17

ブランドの虚像

  図書館や本屋の≪写真・カメラ≫コーナーを見ると、ライカについて書かれた本が必ず何冊かあります。 ≪ちびまる子≫の、たまちゃんのお父さんが物狂いしているカメラがライカだといえば、カメラに興味がない人でも名前だけは聞いた事があると思い出すんじゃないでしょうか。

  で、その種の本を読むと、もう異常としか思えないようなライカへの執心ぶりが書き連ねられていて、げんなりして来ます。 「だったら、読まなきゃいいだろう」と思うでしょう? そうなんです。 読まなければいいんです。 私もそんな事は分かっています。 実際、フィルム時代には、こういう本は危険なので読みませんでした。 何が危険かというと、こういう本を読んでいると、ライカが欲しくなるからです。 ジャンク品同然でも3万円、いい物だと50万円もしますから、そんな物を欲しくなったら大変です。 しかも一台では済まずに何台も買いたくなるというから、放っておけば、瞬く間に身上潰してしまいます。 これはもう、危険物としか言いようがありますまい。

  だけど、デジカメ時代になってから、そんな誘惑に駆られる心配がほとんどなくなりました。 フィルムで撮る事が全くなくなってしまったために、ライカの中古機は完全に縁の無いものとなり、この種の本をいくら読んでも、ライカを買いたいと思わなくなったからです。

  中古カメラに取り付かれて人生が狂ってしまった人は多いと思いますが、はっきり言わせて貰うと、デジカメ時代にフィルムカメラの本体などいくら持っていても、それはただのガラクタです。 交換レンズの方は、デジカメに取り付けて使う事も出来ますが、本体はもう何の役にも立ちません。 フィルムを入れれば使えることは使えますが、その場合、フィルム代、現像プリント代を払わなければなりませんから、電池代だけで済むデジカメと併用していたら、どうしても勿体なくなって、フィルムの方を使わなくなります。

  最後までフィルムを使い続けるのは、デジカメに移行できない頭の硬いオヤジ・ジジイどもだけでしょう。 今でも、こういう人達が写真サイトにでしゃばって来て、「○○はデジカメの欠点。 フィルムならそんな事は起こらない」などとほざいていますが、そんな御託はもう聞き飽きました。 こういう人達、呆れた話ですが、デジカメを使った事がないんですよ。 もう300万画素を超えた辺りから、デジカメの性能はフィルムを上回ってしまったのですが、それ以前の段階で頭が止まっているんですな。 気の毒といえば気の毒ですが、滑稽といえば滑稽です。

  ライカは1950~60年代が最も高く評価された時期で、それ以降、日本製の一眼レフが世界のカメラ市場を席捲し始めると、技術的に追いつかなくなってしまいました。 それでも、ファンが減らず、むしろ増え続けたのは、「カメラはドイツが本場」と思い込んでいる人が多かったからです。 しかし、実際の所、ライツという企業自体が、70年代以降、メーカーとしての開発力を失ってしまったのは疑いないところです。 一応、新製品は出していても、中身は日本製部品を使っているとなれば、もう伝統もクソもありません。

  ところが、ライカのファンというのは、そんな有様でも、まだライカを賞賛し続けていたんですな。 フィルム時代の間は、使うフィルムは同じですから、ライカにも実用品の側面があり、単なる中古カメラではなかったわけです。 一番有名なのは≪M3≫というタイプですが、30年経っても値段が全く下がらなかったというから凄い。 機能的には、ただ写真が撮れるというだけの箱なんですがねえ。

  しかし、さしものライカも、デジカメ時代には勝てないと思います。 今後フィルムの使用者は減る一方でしょう。 10年以内には、特別な店にもって行かなければ、現プリをやってもらえなくなると思います。 そうなったら、フィルムカメラは、本当に只の骨董品になってしまいます。 カメラ収集家は、カメラを買う時、実際に作動する事に拘りますが、フィルムを使えなくなるという事は、すなわち、カメラを使用できなくなるという事で、作動しないのと同じ事です。 ただの飾りになってしまったら、もはやそれはカメラとはいえません。

  ライカ社は現在、レンズ交換式のデジカメを売っているらしいです。 笑ってしまう事に、やはり50万円超で・・・。 フィルムカメラの自動化ですら日本メーカーに頼らなければならなかったライカ社に、デジカメ製造のノウハウがあるとは到底思えず、恐らく日本か台湾・中国のメーカーが中身を作っているのでしょうが、どこにどんな機能を盛り込んでも、デジカメが50万円にはならないでしょう。 つまりね、ぼったくってるんですよ。 今のライカ社というのは、ライカの創案者であるバルナック氏が情熱を燃やしていた頃のライツ社とは、全然違う企業になってしまっているのです。 到底そんな価値のない品に、ブランド価値だけで数十倍価格を上乗せして商売に励んでいる、単なる商事会社なのです。

  ああ、ちなみに、ライカやカール・ツァイスのレンズを搭載した日本メーカーのコンパクト・デジカメがたくさんありますが、レンズの方には価値があるのかというと、それもないそうです。 狂信的なライカ・ファンの写真家がそう言っているのだから、間違いありません。 よく考えてみれば、50年も前に開発されたレンズが、加工精度が何桁も違う今のレンズに敵うわけがないのです。 「古いレンズは味が違う」などという言説が、ネット上で多く流布していますが、全くの戯言ですな。 大体、≪味≫という言葉を使う奴は、あまり信用できません。 誉めようがない物を無理やり誉める時に使われるのが、≪味がある≫という表現だからです。

  ライカはとうの昔に先端技術開発についていけなくなってしまったにも拘らず、ブランド・イメージだけに寄りかかって、何十年も生き永らえてきました。 ブランドの力という物が如何に大きいかを示す格好の事例ではないかと思います。 ほぼ同じ機能を持った製品を10倍から20倍の値段で売っても、まだ買いたがる客がいるというのだから凄い。 そうそう、ライカの最大の顧客は日本人だそうです。 日本のカメラ・メーカーの攻勢でライカが没落し始めた頃から、小金持ちになった日本人がライカのブランドに食い付き出し、バブル時代までに世界中からライカの中古機を買い集めてしまったのだとか。 本物を求めたい気持が昂じて、ガラクタに50万円注ぎ込んだ人が、うじゃうじゃいたというわけです。

  そういえば、ドイツの車も、ほぼ同じ機能の日本車と比べて倍近い価格設定で売られていますが、もしかしたら、あれもブランドに誑かされているだけなのかもしれません。 私、自動車工場に勤めている関係上、生産工程を直に見ているので分かるんですが、車というのはどんなに高機能を盛り込んでも、300万円くらいが価値の上限だと思います。 それ以上になると、ボディーに超高張力鋼板を使ったり、装飾部品を木目調プラスチックから本物の木に変えたりといった、実際には無意味な所に金を掛ける方向に進んでいきます。 ドイツの高級車だと、1000万円を超える物がざらですが、ほとんど、ぼったくりじゃないですか? 実際の価値の三倍の値段で売っていると思って間違いないです。 だけど、ブランド・イメージが定着しているから、買う人がいるんですねえ。

 「いやいや、ドイツ車は実際に技術が高いのだ」とおっしゃる方もいるでしょうが、今時、車の技術なんて、どの国でも変わらないと思いますよ。 工作機械の段階で精度が上がっているので、精度が低い物を作る方が難しいという御時世なのです。 たとえば、ここ数年、中国の民族資本メーカーが続々と新車を発表していますが、外見も内装も、先発国メーカーの車と比べて全く遜色がありません。 中国国内に工場を持つ先発国メーカーに部品を納めている部品会社の部品を中国メーカーも使っているのですから、劣るわけがないのです。 工業技術というのはそういう性質のものなのです。

  では、ブランドが万能かというとそうではなく、ライカが今ようやくその真の≪実力の無さ≫が分かって見放され始めたように、ブランドに頼っているドイツ車もやがては見放されると思います。 もちろん、ドイツ車を真似て、同じような価格設定をしている日本車の高級ブランドも同じ運命を辿るでしょう。 そういえば、イギリス車がブランドだけで持て囃された時代もありましたねえ。 いまや絶滅状態ですが。 ブランドというのは、実体を持たない化け物のようなもので、みんなが恐れている間は威力を発揮しますが、化けの皮が剥がれると見るも無残に雲散霧消していくんですな。