2016/12/25

私の父

  2016年、最大の出来事は、8月に起きた、「父の死」です。 その経緯については、これまでにも、ある程度書いて来たので、繰り返しません。 私自身、あまり、思い出したくないです。 去年の最大の出来事が、「シュンの死」でしたが、二年続けて、家族を失ってしまい、我が家は、私と母の二人暮らしに・・・。 急転直下という感じで、家族と呼べる最少人数になってしまいました。

  今回は、その、父の人生について、書いておこうと思います。 2009年の暮れに、母方の叔父さんが死んだ後、叔父さんの人生について、追悼記事を書いた事があり、叔父さんの事を書いて、実の父の事を書かないのも、アンバランスなので、書いておこうと思ったわけです。



  父は、昭和5年(1930年)生まれで、享年86歳。 男5人女2人、7人兄弟の長男で、親から家を受け継ぎましたが、家自体が、借金で買ったもので、親が返せない借金を、父と、すぐ下の弟の二人が働くようになってから、二人の稼ぎで返したそうで、親の財産を貰ったというわけではないです。 ただし、そのすぐ下の弟には、引け目があったようで、歳を取ってからも、会うのを苦手にしていました。

  若い頃は、いくつかの職業をしていたそうです。 戦後間もない頃に、社会に出たから、まともな勤め先がなかったんですな。 割と長く勤めたのが、井戸掘りの会社で、伊豆半島へ泊まり込みで仕事に行っていたらしく、西海岸の地名には、驚くくらい、詳しかったです。 私が子供の頃、ドライブに行ったついでに、父が昔、井戸を掘った飲食店で食事をした事があるのですが、折り悪く、客でごった返している時間帯で、ろくに思い出話もできぬまま、出て来てしまいました。 子供の目から見ても、薄ら寒くなる記憶です。

  学校の成績が良くて、兄弟姉妹の中では唯一、高校(工業)を出ていた関係で、井戸掘りをやめた後、機械設計の会社に入ります。 その後、個人でやるようになり、私が物心ついた時には、家の中に製図台を置いて、仕事をしていました。 一応、設計事務所を名乗っていましたが、会社ではなかったと思います。 私がまだ若い頃、「社長さんはいますか?」という電話をとった事があるのですが、父の事を言っているのだと分かるまでに、かなり時間がかかりました。

  ちなみに、父は、人付き合いが好きでなかった割には、人様の結婚式によく出た人で、そういう時、配席表に書かれる肩書きは、「○○設計事務所社長」でした。 「一人でやってるのに、社長もないもんだ」と、家族は思っていたわけですが、知らない人は、肩書きに惑わされて、「ああ、この人、社長なのか」という目で見てくれたわけですな。

  機械設計の仕事は、その後、庭に、6畳のプレハブ離屋を建てて、そちらでやるようになりました。 私が、小学校低学年の頃だから、もう、45年くらい前ですな。 以来、72歳で仕事をやめるまで、ずっと、家で暮らし、家で仕事をしていました。 私自身は、50歳で引退してしまいましたから、父が72歳まで働いていたのは、大した努力だと思うのですが、世間一般的に見ると、そのくらいまで働く人は珍しくないようです。 ただし、父の場合、「お金がないから、働き続けるしかない」というわけではありませんでした。

  父自身は、仕事がある内は働き続けるつもりでいたようですが、設計という仕事が、紙に書く方式から、コンピューターを使う方式に変わってしまい、仕事がなくなってしまったのです。 終わりの頃には、結構、嫌な思いもしていたようなのですが、家族に愚痴をこぼすタイプではなかったので、詳しい事は分かりません。 特に、仕事の事は、喋りませんでしたねえ。

  庭弄りが趣味だったから、一年の内、仕事をしていたのは、3分の2くらいで、残りの3分の1くらいは、趣味に当てていたのではないかと思います。 いずれにせよ、庭かプレハブ離屋、つまり母屋以外の場所にいるわけで、家族からは、父がその日、何をして過ごしていたか、知る事ができませんでした。

  親から受け継いだ家ですが、母と結婚した時に、夫婦用の部屋を建て増しして、その後、私が小学校低学年の頃、改築して、土間だった台所をフローリングにし、子供部屋を作りました。 それから、5・6年もしない内に、家を建て替えて、1978年に、今の家になりました。 家の建築費は、父と母で折半し、権利も半分ずつにしたとの事。 母は、給食の調理師をやっていて、公務員なので、父よりも収入が多かったのです。

  私の記憶では、台所と子供部屋の改築から、家の建て替えまで、随分と間があったような感じがしていたのですが、計算してみると、どうしても、5・6年しか開いていません。 子供の頃と、大人になってからでは、時間の感覚が、全然違うんですな。 今、考えてみると、改築したばかりなのに、ほんの5・6年で建て替えるのは、勿体ない話ですなあ。 改築後も、トイレが、汲み取りのままだったので、水洗にしたくて、改築に踏み切ったのかも知れません。

  母の方が収入が多かったせいで、父は、母に頭が上がりませんでした。 私が子供の頃には、口喧嘩をしていましたから、まだ対等だったのかもしれませんが、私が中学生くらいになると、父は、家族の事については何も言わなくなり、仕事と趣味の事だけ考えているという人間になりました。

  そういや、子供の頃は、よく叱られました。 殴ると馬鹿になるというので、子供の二の腕をつねるんですよ。 これが、痛い痛い。 だけど、それが原因で、父を憎悪するような事はなかったです。 体罰がいいとは言いませんがね。 中学生になり、ふと気づいたら、父は、全然、子供を叱らない人間になっていました。 そういう教育方針だったのか、子供が大きくなって、体罰がやり難くなったからなのかは、不明。


  昭和一桁生まれですから、昔風の考え方をする世代なのですが、頑固だったのは、車や、植木・盆栽など、ごく一部の事に対してだけで、それ以外は、概ね、物分かりのいい性格でした。 自分の意志を抑えているというより、家族に対して、興味を失ってしまったような感じでしたねえ。 私達子供が小さい内は、よく、車でドライブに連れて行ってくれましたが、二人とも中学生になってしまうと、どうでもいい存在になったようで、進路の事で、あれこれ言うような事はなかったです。 放任主義というより、興味がなかったのだと思います。

  車に乗り始めたのは早くて、父の弟と二人で働いていた頃に、早々と買っていて、我が家には、私が生まれる前から、車がありました。 私が子供の頃には、まだ、車がない家庭も多かったから、その点に関しては、恵まれていたわけだ。 覚えている最初の車は、マツダの2代目ファミリア。 次が、トヨタの5代目コロナ。 次が、8代目コロナ。 最後が、11代目で、最後のコロナになる、コロナ・プレミオでした。

  家族でドライブに行っていたのは、ほとんど、ファミリアです。 ファミリアに買い換えた時の事を覚えているので、その前の車にも、私は乗っているはずですが、車種を覚えていません。 小学生の頃ですが、近所に、同じファミリアがある家があり、その前を通りかかったら、その家の奥さんが、私に声をかけて来て、「ボクんちには、うちと同じ車があるね」と言ったのを、覚えています。 その奥さんも、だいぶ前に、亡くなったらしいですけど。

  5代目コロナがあった頃に、兄が免許を取り、数年後に、私と母が免許を取り、そのコロナで、運転の練習を少ししました。 母が、家の駐車場で、隣の敷地へ脱輪させたのも覚えています。 そのコロナまでは、マニュアル車だったのですが、父は、別に、走りに拘るタイプではなかったようで、次の8代目コロナからは、オートマ車を買いました。 しかし、その8代目コロナには、ほとんど、思い出がありません。 なぜなら、私も母も、それぞれ自分の車を持っていて、父の車を運転する事もなければ、乗せられて、どこかへ行く事もなかったからです。

  最後のコロナ・プレミオに関しては、私が車をやめて、バイクに乗っていた時期だったので、借りて乗る事が、たまにありました。  母が車をやめた2009年から3年間は、再び、父の車が、家で唯一の車になり、私は頻繁に借りました。 それも、2012年の暮れで、廃車。 父は、82歳まで運転をしていた事になります。

  仕事をやめて、車が必要なくなってから、10年間も所有し続けたのは、年に一回、施餓鬼会の時に、近所に住んでいる親戚の奥さん方を乗せて、寺まで行く出番があったからです。 馬鹿馬鹿しいと笑うかもしれませんが、引退すれば、そういう機会が、いかに貴重かが分かるようになります。 片道20分程度、乗せて行くだけでも、引退者にとっては、他人に感謝される、「ハレ」の舞台なのです。

  母は、そうやって、親戚の奥さん方の役に立とうしている父を見るのが大嫌いで、さんざん、嫌味をぶつけて、父が車をやめる方へ追い込みました。 ちなみに、父の運転は、60代の頃、かなり乱暴になりましたが、その後、改善して、70歳以降は、同乗しても、別に、ヒヤヒヤする事はなくなっていました。 車をやめる時の父は、寂しそうでしたよ。


  うちの場合、家族を支配していたのは、母ですが、庭に関しては、父の管轄下にあり、他の家族は、父の許可を得なければ、植木鉢一つ、動かす事ができませんでした。 私と母が、同時に車を買った時、置き場所を作る為に、物置を移動し、植木を何本か切らなければならなくなったのですが、父の許可は得たものの、いつまでたっても、やってくれず、納車の日か刻々と迫って、ヒヤヒヤしました。 ちなみに、貝塚伊吹2本と、夏蜜柑1本、蘇鉄1株です。 業を煮やした私が、蘇鉄を別の場所に移植したら、ようやく、やってくれましたけど。

  父にしてみれば、切りたくなかったんでしょうなあ。 だけど、それなら、最初に頼んだ時から、時間的なゆとりがあったのだから、他の場所へ植え替えれば良かったのに。 思うに、庭は自分の管轄下だと思っているから、家族が自分の権利を侵食するのに、納得が行かなかったのでしょう。 この、庭に対する支配意識は、晩年に、心身ともに衰えて、庭弄りができなくなるまで続きます。

  父の育てていた植木は、いいものもあれば、そうでないものもあります。 松、槙、黄楊、梅、椿、金柑、平戸躑躅、五月、南天、柊南天、今あるのは、そんなところ。 盆栽は、松、柏、椿、梅、海棠など、20鉢くらい。 他に、観音竹が4鉢あります。 父の死後、植木の手入れは、私が引き継ぎましたが、盆栽は、趣味がない人間には、どうにも仕方がなく、水をやりながら、枯れるのを待つという、気の毒な状態になっています。

  趣味をやるなとは言いませんが、生き物を遺すのは、勘弁してください。 ほんと、ほんっとに、困るんですわ。 私は、父の趣味の後始末をする為に、人生を生きているわけじゃないんだから。 


  生き物といえば、父は、50年くらい前に、錦鯉に嵌まり、庭に池を作って、多い時は、20匹くらい買っていました。 金魚もいて、そちらは、数えられないくらい、たくさんいました。 ただ、魚を、物凄く可愛がっていたわけではなく、コレクションだったようで、よその池へくれてやるという事も、よくしていました。 うちで繁殖したのではなく、買って来たのが大きくなって、飼いきれなくなってしまうパターンですな。 感心しない飼い方です。 だけど、父の世代だと、家で飼う動物というのは、「家畜」と同様の認識ですから、命の尊さなんて、最初から念頭になかったのだと思います。

  父が、人間同様に愛した動物というと、柴犬のシュンだけです。 犬を飼う事を決めたのは、私と母でして、父は最初、興味がない様子でしたが、その内、午後の散歩を引き受けるようになり、散歩から帰って来ると、濡れタオルでシュンの体を拭いてやるのが、日課になりました。 雨の日でも風の日でも、お構いなしに、約14年間、それを続けたのです。 シュンは、父にとって、唯一、心から愛した対象だったのではないかと思います。

  だけど、シュンが衰えて、散歩に行けなくなってしまうと、これまた、急速に興味がなくなって、何の世話もしなくなってしまいました。 シュンが寝たきりになってからも、何もしませんでした。 その辺が、父の世代の、動物に対する愛情の限界だったのでしょうか。 シュンが死んだ後、一度だけ、私と一緒に、自転車で、供養塔のあるお寺へ行った事がありますが、父が自分一人で行く事はありませんでした。


  朝食に味噌汁を作るのは、もう、だいぶ前から、父の仕事になっていて、父は、季節に関係なく、朝5時には起きて、朝食の仕度をし、他の家族が起きてくれば、一緒に食べるものの、そうでなければ、一人で食べていました。 昼食と夕食は、必ず、家族と一緒に食べました。 昼食の食器洗いも、父がやっていましたが、日曜日だけは、私がやりました。 出された物に、文句をつける事はなかったですが、食べたくない物は食べず、そういうのは、私が食べました。

  挽肉が嫌いで、スパゲティーは、ミート・ソースが駄目、餃子も嫌いと、私が好きな物が嫌い。 貰えるのは好都合なのですが、ミート・ソースは、母が最初から作らないので、何年間も食べられない事がありました。 また、私が食べ終わった頃に、「これ食うか?」と言ってくるので、タイミングが悪く、すでに満腹している私は、父から貰った分を、おいしく食べられませんでした。 父が歳を取るに連れて、残す料理は増えて行きました。

  そうめんが好きで、残った分を、最終的に片付けるのは、父でした。 私は、そうめんが嫌いなので、気が知れませんでした。 今年の7月、最初の入院から退院して来た後、父の食が回復しなくて、そうめんならばと、母が何度も作りましたが、食べ過ぎると、胃で消化できずに、次の日に何も食べられなくなってしまうという、厄介なパターンを繰り返しました。

  部分入れ歯をしていましたが、自分の歯の方が、ずっと多かったので、最後まで、硬い物でも、食べる事ができました。 その点、遥かに早く歯を失ってしまった母よりも、食生活は幸福だったと思います。 間食は、あまり、しませんでしたねえ。 健康オタクだったせいか、歯磨きに異様に時間がかかり、なかなか、洗面所が空かず、イライラさせられた事があります。

  健康オタクと言えば、座り仕事だったから、朝、体操をしていた時期もありました。 シュンと散歩に行くようになってからは、やめてしまいましたが、続けていれば、もっと、元気で長生きできたかもしれません。 体操ごときと侮るなかれ。 毎日の積み重ねが、健康を維持するのです。

  アロエ信者で、庭に温室を作って栽培し、食べたり、貼ったり、いろいろと活用していました。 最後に、アロエを食べる姿を見たのは、最初の入院から退院して来てから、一週間くらいした頃で、便通が悪いので、アロエで、強制的に出そうと言うのでした。 確かに出ましたが、すでに、その時、父の胃は、そういう荒療治に耐えられない状態になっていたのだと思います。

  青汁と、善玉菌のサプリメントは、死ぬ寸前まで、定期購入していて、私が、「死にかけているというのに、そんな物で治るか!」と怒って、やめさせました。 私が電話をかけて断りましたが、後払いシステムだったので、最後に送られて来た分の代金は、払わなければなりませんでした。 馬鹿馬鹿しい。


  1993年に、兄が結婚して家を出るまで、父は、旧居間で寝起きしていたのですが、兄の部屋が空いたので、そちらに移り、ベッドと箪笥に、自分専用のテレビを買いました。 そして、夕食が済むと、自室へ直行するようになりました。 最初は、好きな番組を見たいから、そうしていたわけですが、そういう事をやっていると、次第に居間に来れなくなってしまいます。 居間にあった父の座椅子も、10年くらいしたら、片付けられてしまい、父は、自室以外に居場所がなくなりました。

  母とは、ほとんど、会話がなくなりました。 私は、ちょくちょく、父と話していましたが、用件を言うだけで、そんなに長い話をした事はないです。 それに、私が働いていた間は、自分の事に精一杯で、父の話し相手になるゆとりはありませんでした。 シュンがいた間だけ、シュンが家族の接着剤になって、何とか、崩壊を免れたという格好です。

  父は、晩年、家庭内別居に近いような、寂しい日々を送っていました。 私が、早く引退したおかげで、父に構うゆとりが出来て、毎朝、父の部屋へ行って、レコーダーの予約をしたりしていましたが、その頃には、もう、父の認知機能が低下していて、半分、廃人のようになっていました。 もともと、べらべら喋るタイプの人ではなかったから、そんなに大きな落差はなく、ショックというほどのショックは受けませんでしたけど。

  テレビ番組ですが、父は、私が子供の頃には、プロレスが好きで、体を揺らしながら、興奮して見ていました。 ところが、八百長である事が分かってから、ピタリと、興味がなくなったようで、全く見なくなってしまいました。 晩年は、時代劇の再放送ばかり見ていましたねえ。 最後まで、見たがっていたのは、座頭市シリーズでした。


  父が私にしてくれた事というと、どこかへ行かなければならない時に、車で送ってくれました。 ほとんどは、子供の頃ですが、大人になってからも、2010年に、岩手応援に行く時に、集合場所である会社の駐車場まで送ってもらったので、割と最近まで、続いていた事になります。

  あと、中学生の頃、坊主頭にするのに、父にバリカンで刈ってもらっていました。 そして、なんと、その習慣は、私が40歳を過ぎてから、2007年に復活し、今年の春先まで続きました。 電動バリカンは、私が新しく買ったものでしたけど。 年に3・4回として、9年で、約30回。 床屋だと、丸坊主でも3千円取られますから、9万円も浮いた事になります。 父にして貰った事で、これが、一番ありがたかった。

  他に、私が仕事の応援や異動で、家にいない間、亀の世話をしてもらった事も、忘れてはいけませんな。 もともと、生き物を飼うのが好きな人だったわけですが、自分のペットではないですから、楽しくはなかったでしょう。 もっとも、私の亀は、エビをやると、大喜びするので、それは面白かったようですけど。


  逆に、私が父にしてやった事というと、ビデオ・デッキを買ってやったり、パソコンを譲ったり、テレビやレコーダーを買いに行ってやったり、そういう事が多かったです。 デジカメも買ってやった事がありますが、数枚しか撮らなかったようです。 自分の趣味を、親に薦めても、駄目なんですねえ。

  パソコンは、2002年から、2014年まで、12年間、父の部屋に設置されていました。 父は、キー・ボードを打てるようになり、その頃していた、白内障治療の記録をつけていましたが、手術が終わったら、興味がなくなって、インター・ネットも、まるで見なくなり、その後、パソコン・セットは、埃を被る事になりました。

  晩年には、植木の手入れを、父の代わりにやる事になりました。 これは、どえらい重労働でして、最も感謝されて然るべきなのですが、私が引き継いだ頃には、父は、半分、廃人化していて、植木に興味がなくなり、ありがたいとも何とも思っていないようでした。


  いいかげん、長くなり過ぎたので、そろそろ、纏めます。 果たして、父の人生は、良かったのか、悪かったのか? そういう話になると、一応、天寿を全うしたわけだから、その点は、文句ないでしょう。 結婚もしたし、子供も育てた。 悪い事は一切せず、正道だけ進んで来た上に、人柄も良かったと思います。 父の人柄を悪く言っているのは、母だけですな。

  私は、父から、腰の低さを受け継ぎましたが、それは、社会生活をする上で、結構には役に立ちました。 ただし、私の性格は、むしろ、母似でして、腰が低いのにも限度があり、ナメてかかってくるような相手には、キレてしまうわけですが・・・。 父の腰の低さは本物でして、他人と喧嘩しているところなんて、見た事がありませんでした。

  家族に興味がなかったのは、やはり、マイナスですかねえ。 人様の結婚式には、ホイホイ出かけて行くくせに、私の結婚には、何の興味もなく、縁談を探して来ようなどとは、小指の爪の先ほども思わなかったようです。 そのせいもあって、孫はできずに、血筋が絶える事が決定したわけですが、おそらく、そんな事にも、興味がなかったんでしょう。

  また、物を捨てられない人でして、父の部屋、その奥の納戸、プレハブ離屋、物置の四ヵ所に、父が遺した物が、ごっそりごちゃまんと詰まっていました。 捨てたくないのか、捨て方を知らないのか、とにかく、「なんじゃ、こりゃ?」と思う物まで残っているのです。 仕事をやめてから、14年間も遊んでいたのに、なーんで、片付けておいてくれなかったのか・・・。 いや、それはまた、別の記事で書く事にしましょう。

  叔父さんの追悼記事の時には、「叔父さん、万歳!」と書きましたが、自分の父親だと、万歳とは言えませんなあ。 いろいろとあったんですよ。 つまるところ。


もういない家族。 2006年3月頃の撮影。

2016/12/18

セルボ・モード補修②

  前回に引き続き、車の補修の話です。 写真にして、残り22枚を、どう割るかで、悩んでいたところで、前回は終わりましたが、検討中だったというのは、結果的に嘘になってしまいました。 前回の記事を書いた後、植木の手入れにかかってしまったせいで、検討する余裕がなかったのです。 で、たった今、検討したところ、どうせ、他のネタが順番待ちしているわけでもないのだし、そんなに急いで、出す事もなかろうと思って、「5・5・6・6」の四回に分ける事にしました。 ただし、連続して出すとは限りません。




【ドア・トリムと、ボンドGクリヤー】

≪写真上≫
  運転席の、ドア・トリムです。 表面に張られた布地が、剥がれていました。 最初見た時には、10センチくらいだったんですが、引っ張り出したら、上端の全域に渡って、この様。

≪写真中≫
  近所のホーム・センターで買って来た、「ボンド Gクリヤー」。 155円。 コニシ製で、G17の透明版。 相手が布なので、もし、浸透して表面に出て来てしまったら、色付きのボンドではまずいと思い、これにしました。 両面に塗り延ばし、ベタつかない程度に乾いてから、貼り合わせるのは、G17と同じです。 奥まった所は、マイナスの精密ドライバーで、少しずつ押し込んで行きました。

≪写真下≫
  アフター写真。 思った通り、綺麗に貼れました。 セルボ・モードの補修で、一番うまく出来たのは、これですな。



【助手席側ドア・トリムの補修】

≪写真上≫
  助手席側も、ドア・トリムの表面の布が剥がれていました。 ただ、こちらは、前の方が、少しだけです。 運転席側は、剥がれていても、運転する私が気にしなければいいわけですが、助手席側は、父や母を乗せるので、ボロが目立つと、情けない気分にさせてしまうと思い、むしろ、こちらを早く直すつもりで、ボンドを大急ぎで買って来た次第。

≪写真下≫
  アフター写真。 こちらも、綺麗に直りました。 この後、父と母だけでなく、父の葬儀の折に、親戚を乗せたりしたので、早めに直しておいて良かったです。 外観がくたびれていても、内装が綺麗になっていれば、乗る人は、あまり、気にしないものです。



【ダミー灰皿】

≪写真上≫
  エアコン・パネルと、ラジカセの間に、ポッカリ、大穴が開いていて、何かと思ったら、どうやら、ここに灰皿があるのが、元の状態のようだと分かりました。 ダッシュ・ボードの、ど真ん中ですから、このままにしておいたので、目立ち過ぎます。

≪写真下≫
  で、家にあった、ベニヤ板と合成皮革を使って、ダミーの蓋を作りました。 合成皮革は、バイクのシート表皮を張り替えた時の残りです。 車には、両面テープでくっつけました。 左右しか着いていないから、引っ張れば、簡単に取れてしまいますが、走行中の振動くらいでは落ちません。

  あり合せの材料で作った割には、うまく出来たと、当初は思っていたのですが、ヤフオクで調べたら、送料込み、1000円以下で、セルボ・モードの灰皿が出ていて、それを買うかどうかで、今、迷っています。 このままでも、私以外には、ダミーだと分かりゃしないわけですが、何せ、値段が安いので、「今買っておかなければ、損するのではないか?」と、思ってしまうのです。 灰皿を使う人間なんて、乗せないんですけど。



【108円時計】

≪写真上≫
  ダイソーで買って来た、108円の時計。 車の時計は、ディーラー・オプションらしく、この車には付いていませんでした。 時計がないと不便だと思い、これを買って来た次第。 モニター電池つき。 その後の経過をみると、1ヵ月に、1分ほど遅れるようなのですが、その程度なら、実用上、問題ありません。 前面のボタンで、合わせられますから。

≪写真下≫
  最初は、ダッシュ・ボードの上につけようかと思っていたのですが、曲面になっていて、両面テープが利かないので、断念し、ラジカセの下、コンソールの奥へつけました。 文字が大きいから、充分見れます。 この手前の蓋を開けると、ドリンク・ホルダーがあるのですが、それと干渉する事もありません。 ペット・ボトルを置くと見えなくなるかもしれませんが、そもそも、ドライブに行かないから、ドリンクなんか、置きませんし。

  ちなみに、このラジカセですが、ラジオは、問題なく使えます。 カセット・デッキは、試していません。 昔のカセット・テープを押入れから出すのが面倒臭いという事もありますが、何と言っても、ドライブに行かないので、音楽を聴くほど、長時間乗らないのです。



【右リヤ・スカッフ、プッシュ・リベット】

≪写真上≫
  車のドアを開けると、敷居の所に、プラスチックの板が被さっていますが、この部品の名前を、スカッフと言います。 私が買ったセルボ・モードの、右リヤ・ドアのスカッフには、固定する為のプッシュ・リベットが、一つ欠けていました。 なくなるような部品じゃないんですが、どうしたんでしょうねえ。

  写真右は、ネットで購入した、プッシュ・リベットを取り付けたところ。 実は、若干、大きさや形が違うのですが、まず、分からないでしょう。 なくなって、穴が見えていれば気づくと思いますが、類似品であっても、とにかく、付いていれば、誰も、こんな所を、しげしげ見たりしませんから。

≪写真下≫
  プッシュ・リベットは、8月15日に、アマゾンで注文したのですが、中国からの直送品だったので、2週間後の、8月29日に届きました。 時間はかかりますが、送料込みで、146円ですから、文句はありません。 20個入り。

  プッシュ・リベットというのは、車のボディーに、プラスチック部品を取り付ける時に、よく使われるもので、本体部分を孔に挿してから、突起部分を指で押し込むと、本体部分の下が開いて、抜けなくなるという仕組みです。 右写真の、右側が、押し込む前。 左側が、押し込んだ状態。 写真のライティングが拙くて、陰になってしまいましたが、開いているのが分かるでしょうか。




  今回は、ここまで。 前回の分も含め、ダイソーの時計を付けたところまでは、7月末に車を買った後、数日以内に行ないました。 その後、父の再入院や、葬儀のごたごたがあって、補修どころではなくなり、しばらく、停止。 再開するのは、9月からです。 バイクの売却が済んでから、「そろそろ、やるか」という気になったというわけです。

2016/12/11

セルボ・モード補修①

  今回も、車の話です。 冒頭、父のエピソードから始まりますが、別に、父の最期について書こうというわけではないので、つきあって、暗い気分にならなくても結構です。 その内、車の補修の話に移って行きます。




  車が来て、父を、外科医院に連れて行けるようになった途端に、抜糸となり、もう通う必要がなくなりました。 その帰りに、香貫山の中腹にある、香陵台という公園まで車で上がり、父に、沼津の景色を見せました。 しかし、父はとっくに、景色を楽しむような心を失っていて、ほとんど、感想らしい感想はありませんでした。 「ここからは、家が見えないな」と言っただけ。

  車に戻ってから、私が、「車があるんだから、どこか行きたい所があったら、連れて行ってやるで」と言ったのですが、どうせ、父は、何も言わないだろうと思って、後から、「考えときな」と、付け加えておきました。 その返事は、聞かれずじまいだったわけですが、「こんなに早く死んでしまうのなら、もっと早く、車を買っておけばよかった」と思ったのは、だいぶ後の事です。

  それから、5日後に、父は、また体調を崩し、再度、入院して、生きて家に戻る事はありませんでした。 最初の入院の時には、救急車を頼みましたが、二度目は、私の車で運びました。 父を助手席に乗せ、体が傾いてしまうので、後席で兄が支えて行きました。 兄が役に立ったと思ったのは、その時だけですな。 私一人では、二階の父の部屋から、車まで、父を下ろす事ができませんでしたから。

  その一週間後、父は他界し、通夜と葬儀に雪崩れ込んで行ったのですが、私の車は、家族や親戚を、病院や葬儀会場、駅などに運ぶのに、大活躍しました。 買って早々に、こんなに出番があっていいものかと、違和感を覚えるくらいでした。 定員一杯の4人乗って走る事も多かったですが、前席の位置をずらさなくても、大人が後席に乗れるのには、驚きました。 旧規格の軽とはいえ、最初から、乗用車として設計されているだけあって、後席のスペースも、ちゃんと、とってあるんですなあ。


  葬儀が終わった後は、車の出番が減り、十日に一度、6の付く日が、イオン系スーパーの老人特売日なので、母を乗せて、近所のスーパーまで買い出しに行くのが、主な任務になりました。 私が、私だけの用事で、車を使う事は、ほとんどないのですが、十日に一度しか乗らないのでは、バッテリーが弱ってしまいますから、五日に一度はエンジンをかける事にし、ごく近場に出かけています。 それも、スーパーか、ホーム・センターか、図書館のいずれかですな。

  10月の初めに、母の要望で、箱根山麓に出来た日本最長の歩行者用つり橋、「三島スカイウォーク」まで行ったのが、今のところ、遠出の最高記録です。 箱根を登れるかどうか、大いに不安でしたが、大型トラックの後ろについて走り、何とか、目的地まで登りきりました。むしろ、帰りの下りの方が、スピードが出て、怖かったです。 古い車は、エンジンやミッションだけでなく、ステアリング系統やサスペンションも、くたびれていますから。


  車の使い方は、そんなところです。 問題は、補修ですわ。 買う前に見た時には、「総額16万円の車にしては、程度が良い」と思いましたが、いざ、手に入れて、じっくり見てみると、「これは、看過できぬ!」と、拳を握り締めてしまうような部分が幾つも見つかりました。  もう、19年経っている車ですから、塗装の状態が悪いのは、致し方ないとして、それ以外の、自分で直せそうな所が目に付いて、放っておけなくなったのです。

  以下、直した順番に、写真で紹介します。 解説文は、移植したものなので、これまでに書いたものと重複している部分があります。 ご承知おき下さい。



【ワックス用スポンジ】

  本体価格8万円で買った、19年落ちのセルボ・モードは、塗装の劣化が激しく、艶が全くない有様でした。 とりあえず、塗装面をこれ以上傷めないように、ワックスをかける事にしました。 ワックスは、昔使っていたのが、物置に残っていたのですが、スポンジがなかったので、近所のホーム・センターで、買って来ました。 3個入りで、税込み、100円。 100円ショップより、安い。



【合鍵】

  中古車店サイトの装備データでは、キーレス・エンターになっていたのですが、私が受け取ったキーは、プラスチックの持ち手がついた、普通のキー、1本だけでした。 これをなくしたら、アウトなので、早速、ホーム・センターで、合鍵を作って貰いました。 420円。 30年くらい前は、確か、260円だったと記憶しています。

  今の車は、キーの形状が変わってしまっていて、合鍵は、ディーラーに頼まないと、作れません。 だけど、私に言わせると、スマート・キーは言うに及ばず、キーレスですら、不要ではないかと思います。 便利にしようとして、却って、使い難くしているように感じられます。 キーレスに関しては、ドアのキー・ホール周辺にキズを付けずに済むという利点がありますが、使う人間が気をつければいいだけの事という気もします。

  ところで、私の車ですが、運転席のキー・ホールの蓋が閉まらず、キーの穴が、常に空きっ放しです。 雨の日に乗る機会は少ないですし、側面だから、雨が入っても知れているので、気にしないようにしています。 ロック・キー関係は、車の各部に関係してくるので、交換のしようがないです。 全部、そっくり入れ換えれば、直せない事はないと思いますが、そんな事をしたら、いくらかかるか、分かったもんじゃありません。

  あと、リヤのハッチが、車内からのワイヤー操作では開きません。 556やグリスを拭いても、変化なし。 本来、キーレスなので、それが関係しているのではないかと思います。 だけど、ハッチのキー・ホールにキーを挿せば、開けられますし、ハッチを閉めれば、自動的にロックされるので、使用上の問題はないです。



【三嶋大社ステッカーと、シルバー車用コンパウンド】

≪写真上≫
  リヤ・ハッチの中央上端に、黒くて丸い物が貼ってあり、何かと思ったら、なんと、三嶋大社の交通安全ステッカーでした。 すっかり、色が落ちて、ベース・ゴムの凹凸だけが残っていたのです。 もしかしたら、穴を隠す為に貼ったのかも知れないと思い、ネットで調べてみたのですが、セルボ・モードには、ルーフ・アンテナの設定はないと分かりました。   剥がしてみたら、割と簡単に剥がれました。 ところが、車を買って、すぐに貼ったらしく、ステッカーの下の塗装は、ピカピカ光っていて、周囲の劣化した塗装から、思いっきり浮いてしまっています。 何とかせねば。

≪写真中≫
  で、メタリック車用のコンパウンドを買って来ました。 ホーム・センターで、518円。 ワックスやコンパウンドは、重いせいか、送料無料というのは珍しく、店で買った方が、安い場合があります。

≪写真下≫
  早速、かけてみましたが、かなり、こすっても、この程度。 くっきりはっきり、境目が分かります。 あまり、かけ過ぎると、周囲の劣化した塗装が剥がれて、鉄板の地肌が出てしまうので、このくらいで、とめておきました。



【オートザム裾野のステッカー】

≪写真上≫
  リヤ・バンパーの右の方に貼ってあった、「オートザム裾野」のディーラー・ステッカー。 「オートザム」というのは、以前、マツダのディーラー系列の名前として使われていたもの。 スズキの車なのに、なせ、マツダなのか? たぶん、一度中古車として売られ、オートザム裾野で、扱われた事があるのでしょう。

  もはや、何の関係もないので、剥がさない手はありません。 ところが、これが、えらい、手強かったのです。 一体、貼られてから、何年経っているのか、素材が、ビニールと紙である上に、劣化が著しく、すぐに切れてしまいます。 親指の爪を使い、1ミリ単位で、掻き剥がして行く事になりました。 猛暑の中、2時間くらいかかったと思います。 事前に、中性洗剤を塗っておいたんですが、「塗らないよりは、マシ」程度の効果しかありませんでした。

≪写真下≫
  アフター写真。 三嶋退社のステッカーと違い、こちらは、剥がした痕が分かりません。 パンパーの塗料というのは、劣化し難いんでしょうか。 苦労しましたが、綺麗になったので、報われました。




  今回は、ここまでにします。 組写真の枚数は、全部で、26枚あるのですが、うまく割れないので、今回4枚で、残り、22枚だから、7枚を2回、8枚を1回にするか、それでは多過ぎるから、もっと回数を増やして、一回当たりの枚数を減らすか、まだ、検討中。

2016/12/04

車が来る

  前回は、7月18日(月)に、車を買う手続きを済ませたところまで書きましたが、その後、車は、なかなか来ませんでした。 「一週間以内には、納車する」と言っていましたが、ほんとに、一週間ぎっちりかかったのです。 そういう状況の時に限って、車が、是が非でも必要な事が起こるものと、マーフィーの法則で決まっています。




  7月21日(木)の朝5時半頃、朝食の為に、二階から下りて来た父が、階段の最後の一歩を踏み外して、転倒。 壁に頭をぶつけて、出血しました。 参ったな、もう。 別に痛みはないとの事。 体のあちこちが衰えて、鈍感になっているからだと思います。 傷口は細長く開いてまっているから、縫わなければまずいと思うのですが、血は出続けているものの、少量ですから、救急車という程の怪我ではありません。

  タクシーで、夜間救急に行くという手もありますが、縫えば、通院になるに決まっているので、結局、「近くの外科に行き直して下さい」と言われるのは目に見えており、それでは二度手間になってしまいます。 痛みもないというし、出血量も大した事ないので、近くの外科が開く、9時まで待つ事にしました。

  8時半頃、タクシーに私と父の二人が乗って、外科医院へ。 近いのですが、呼び出し料金も加算されて、タクシー運賃は、980円でした。 着いてみると、9時からのはずなのに、もう、診療が始まっていて、5・6人待っています。 今現在、出血中だというと、先に診てもらえる事になりました。 父にとっては良いのですが、待っていた人達には、申し訳ない話で、帰り際に、詫びておきました。

  父は、3針縫って、頭には、ネットを被せられて、出て来ました。 明日も消毒に来るようにとの事。 診察料は、270円。 父には、待合室で待ってもらい、私は処方箋を持って、近くの薬局へ。 薬は、3種類。 今でも、4種類飲んでいるのに、また増えてしまいました。 薬代は、850円で、こちらの方が診察料より高かったです。

  外科医院の電話で、タクシーを呼んで、家へ。 帰りは、ナビを使わず、私が口で案内したら、860円でした。 随分、変わりますな。 父も、どうせ、転倒するなら、私が買った車が来てからにしてくれれば、タクシー代を2千円近く使わずに済んだものを・・・。  私の懐が痛むわけではありませんが、父の金にしても、勿体ないです。 

  その後、22日(金)、23日(土)、25日(月)と、タクシーで通って、26日(火)に、ようやく、車が来ました。 タクシー代だけで、往復4回、計8千円も飛んでしまいましたよ。 自転車に乗れれば、15分くらいで着く所なんですがねえ。 バスでも、150円くらいで行けると思うのですが、当人が、バス停まで歩くのが嫌だと言うから、どうにもしようがありません。


  「車が来た」と書きましたが、実際には、私が取りに出向きました。 なかなか、持って来ないので、こちらから電話をかけ、「一日でも早く欲しい」と言ったら、中古車屋の店長が、「自分一人しかいないから、納車ができない」と言うので、やむなく、こちらから、店の最寄の駅まで、出向いた次第。 駅までは、店長の車で迎えに来てくれました。

  帰りは、自分で運転して帰って来ました。 途中で、運転席の窓が、一度下げたら、上がらない事が分かり、引き返して、店長に上げてもらい、部品交換を店もちでしてもらうよう話をして来ました。 だけどまあ、エアコンは使えるから、窓が開かなくても、致命的問題ではありません。

  車は、スズキのセルボ・モードで、1997年だから、もう、後期型です。 ちなみに、スズキに、「セルボ」という名前の車種は、何台かありますが、「セルボ・モード」というのは、1990年から、1998年まで作られていた、一車型しかありません。 本来は、「モード」が正式名称ではないかと思うのですが、「セルボ・モード」の方が、通りが良いです。

  5ドア、オートマ。 乗ってみると、思っていたよりも、更に幅が狭い感じで、気持ちが悪いくらい、運転し易い車でした。 エンジンは、まずまず、快調。 信号待ちで停車すると、トルコンの振動が大きいのですが、ニュートラルに入れれば、少しは静かになります。 動力的には、問題なし。 内装は、明らかに上等な方で、19年も経っているようには見えません。 前の持ち主が、綺麗に乗ったのが分かります。 車の中に残っていた自賠責の証書を見たら、60代の女性だったようで、煙草臭もなく、いい感じでした。

  一番、残念だったのは、外板の塗装でして、雪が降る地域で使っていたせいか、クリヤーなんか、とっくに剥がれてしまって、シルバーなのに、光沢が全くありません。 鉄の地肌が出ていないのが、不思議なくらい。 錆びている所もありますが、外からは見えません。 凹みは、ボデー面には、目立つものがほとんどなくて、バンパーをこすってあるくらいです。 まあ、古い車だから、その程度は、自然・当然だと言っても良い。 塗装の状態だけが、飛び抜けて、悪いのです。

  どーしたもんかね、これは。 車の塗装面積は大きいですから、自転車でレストアしたように、自分で塗り直すというわけには行きません。 塗装工場に頼んで、全塗装してもらえば、綺麗になりますが、それほどの愛車というわけではないです。 大体、全塗装って、いくら、かかるのよ? 本体価格を超えるんじゃないの?

  ちなみに、中古車屋に払った金額は、16万円で、その内、諸経費は、自賠責が、27240円、重量税が、8800円、車検費用が、5万円なので、本体価格は、8万円以下という事になります。 車の値段と言うより、スポーツ自転車の値段ですな。 それも、あまり高くないクラスの。 この金額で、一応、まともに走る車が手に入ったのは、信じられぬ話。 そうそう、任意保険は、自分でネットで入って、3万円弱でした。 税金は、来年の春に払うのですが、それも足すと、20万円ちょいですな。 ほぼ、予算通りです。

  母は、近所や親戚の目を気にするタイプなので、私が中古車を買う事に、いい顔をしていなかったのですが、現物が来てみると、問題なく走る事と、内装が綺麗だった事で、満足したらしく、いい買い物だったと評価するようになりました。 父は、もう、車にも何にも、一切、興味はありませんでした。 乗せても、ベルトもしやしない。 下りる時に、ベルトも外しやしない。

  あれこれ苦労して、作り出した、駐車場ですが、車を入れたら、↓こんな感じになりました。 車ではなく、その横の空間に注目。 何とか、人が、体を横にせずに、歩いて通れる幅を、確保してあります。 父は、もう、ここを通りませんでしたが、私と母は、毎日通るので、どうしても、この幅は必要だったのです。


  車を、もっと左に寄せる事もできますが、車を入れるたびに、寸止めの緊張を強いられるのが嫌なので、ギリギリにはしていません。 車が来る前には、左側のドア・ミラーを倒されなければ、左に寄せきれないと思っていて、ドア・ミラーを倒したら、後ろが見えませんから、100円ショップで、鏡を買って来て、カー・ポートの柱に括り付けようと考えていたのですが、いざ、車を入れてみると、うまい具合に、ドア・ミラーが、カー・ポートの柱と柱の間に入って、邪魔にならない事が分かりました。 勇み足で、余計な物を買わなくて良かったです。



  ↑車が来た関係で、バイクと自転車の置き場所が変わりました。 滅多に乗らないバイクは、車の後ろに、押し込められました。 これを出す為には、車を道路に出してから、バイクを道路に出し、車を奥に入れるという、面倒な作業が必要になります。 だけど、バイクは、9月に入ったら、中古車屋に売ってしまったので、このレイアウトになった後、2回しか出さず、大した手間にはなりませんでした。

  自転車は、車と併用するから、バイクが去った後の、玄関ポーチに移動させました。 旧母自と母自の2台置いても、人が通るには充分なゆとりがあります。 私が使っている旧母自は、奥になって、ちと出し難いのですが、母自をどかさなければ出せなかったのは、今までも同じだったので、これまた、どういう事はないです。



  正直な感想、車が来て、大助かりという感じでした。 車が来た翌日の、7月27日(水)に、父を、入院していた病院に連れて行き、帰りに、母を眼科医院に下ろしました。 その翌日、28日には、父を外科医院に連れて行って、頭の傷を抜糸して貰いました。 抜糸後は、もう、薬も通院もないそうで、助かりました。 更に、29日には、母を心臓の専門病院に連れて行き、3時間後に迎えに行くという、八面六臂の大活躍でした。

  人を運ぶとなると、自転車やバイクでは、どうにもなりませんからのう。 自転車もバイクも、健康な人間が乗るものであって、病人・怪我人には、全く対応していないんですな。