2013/08/25

ブックオフ巡り

  夏季連休の間に、ツーリングを兼ねて、ブックオフ巡りの範囲を広げました。 8月12日、14日、16日と、一日おきに、東は神奈川県の逗子市から、西は静岡市、南西は牧之原市まで、全部で、16店舗回りました。

  神奈川県の方は、12日の月曜日に出かけました。 三浦半島西岸にある景勝地、≪荒崎≫に行った帰りに、国道1号線に近い、6店舗に寄るつもりでいたのが、ポータブル・カーナビに頼って、下調べを怠ったのが命取り。 順調だったのは、一軒目の逗子久木店までで、次の茅ヶ崎汐見台店に向かう途中、バッテリーが切れ、ブラック・アウトしてしまいました。

  デジカメの場合、電源を切って暫く待てば、復活して、あと2・3枚は撮れる事があるのですが、カーナビは、消費電力量が違うのか、全く駄目! うんともすんとも言いません。 こうなると、手がかりになるのは、店の名前しかないのですが、遠くへ来ていて、時間のゆとりも無いのに、地区名だけを頼りに、知らない街をうろつくわけにも行きません。 偶然、見つかれば良し、駄目なら、諦めて帰るしかないと判断し、国道1号を、西へ戻りました。

  茅ヶ崎駅北口店をパス、平塚駅西口店もパス。 後は、小田原の2店舗しか残っていません。 途中、本屋があれば、地図で確認する事ができるのですが、驚いた事に、国一沿いには、本屋が一軒もありませんでした。 こんな事ってありゃーすか? 思うに、昔は個人経営の本屋があったのかもしれないが、それらは、みんな潰れてしまった。 一方で、神奈川県中部・西部の国一沿道は、道路に歴史があるために、家がびっしり立ち並んでいて、隙間が無いので、郊外型大型店が進出する事ができず、新しい本屋が出来なかった。 そんな理由ではありますまいか。

  理由の見当はついても、地図が見れないという、私の窮地に変わりはありません。 コンビニにも、地図はあるかもしれませんが、コンビニは、店が狭いので、立ち読みだけして出て来るというのが、非常に気まずい。 だから、寄りたくないのです。 「何か、買やあいいだろう」と思うでしょうが、ふふふ、冗談じゃないですよ。 105円の古本を探すために、こんな遠くまで来ているんですぜ。 そんな無駄遣いができるもんですか。 吝嗇道を侮ってもらっては困る。

  で、とうとう、小田原に入ってしまいました。 焦りに焦っていると、道路の案内標識に、「→ 鴨宮」の文字が見えました。 小田原鴨宮店は、その付近にあるに違いありません。 慌てて右折して、鴨宮地区へ。 すぐには見つかりませんでしたが、行ったり来たりしているうちに、何とか、辿り着きました。 うーむ、地区名だけでも、見つかる時には、見つかるものなのだなあ。

  しかし、小田原にある、もう一つの店、蛍田店は、市街地を、時間の許す限りうろついたにも拘らず、見つける事ができませんでした。 家に帰って、地図を見たら、遥かに北の方にあるじゃないですか。 見つからんわけだわ。 まあ、小田原は、箱根を越えれば、すぐですから、また来る事もあるでしょう。

  結局、この日の成果は、逗子久木店で9冊、小田原鴨宮店で一冊の、計10冊でした。 ツーリングのついででなかったら、足が出ていた冊数です。 足が出るとは、つまり、ネットで、一冊251円のを買った方が、ガソリン代を使って、105円の本を買いに行くより、安くついてしまうという意味です。 冊数が多ければ多いほど、得になります。


  一日、体を休め、14日の水曜日には、静岡県中部の牧之原市まで行きました。 こちらも、主目的はツーリングです。 目標は、予定段階では、≪勝間田城跡≫のみでしたが、行きがかりの、成り行きの、思いつきの、ついでで、≪富士山静岡空港≫にも、寄る事になりました。 

  勝間田城は、戦国時代に今川氏によって滅ぼされた、勝間田氏の山城ですが、随分前に、国道150号線を通った時に、案内標識で名前を知り、いつか、見に行きたいと思っていたのです。 行ってみると、石垣が無く、土を掘ったり盛ったりして作った典型的な山城でした。 周囲に茶畑が多いのは、さすが、茶所の牧之原市だけの事はあります。

  富士山静岡空港は、2009年に開港した、県内唯一の民間空港。 私自身は、一生、飛行機に乗る気が無い人間なので、縁もゆかりも無いのですが、今回、近くまで行ったら、やたらと、「空港」を指す標識が多くあり、「そんなに近くにあるのなら…」と思って、寄ってみる事にしたのです。 ターミナルの中には入らず、滑走路の近くにある展望デッキに上っただけでしたが、まあ、大体の事は見て来ました。 まだ、4年しか経っていないので、施設全体が新しかったです。

  ブックオフは、榛原店、島田店、藤枝店、焼津店、清水店と、5軒回り、収穫は、小松作品8冊、筒井作品9冊の、計17冊でした。 遠くまで行った割には、20冊に届かない結果でしたが、すでに手に入れている本は、見つけても買わないわけで、後ろへ行くほど、成果が上がり難くなるのは、致し方ないところです。

  小松作品が8冊も見つかったのは、奇跡的な事。 特に、文春文庫の≪空飛ぶ窓≫の初版があったのには驚きました。 集英社文庫も、≪骨≫、≪コップ一杯の戦争≫、≪まぼろしの二十一世紀≫と、三冊も見つかり、一昨日、逗子久木店で見つけた、≪小松左京のSFセミナー≫、≪読む楽しみ語る楽しみ≫と合わせて、一気に5冊も増えたのも、ほくほく気分を弥が上にも盛り上げてくれるところ。

  角川文庫の、≪エスパイ≫と≪継ぐのは誰か?≫が手に入ったのも、大変ありがたい。 この二冊は、ネットで買わざるを得ないと思っていたからです。 ≪継ぐのは誰か?≫は、高校の頃に、図書室にあった文庫を読んで以来、何十年ぶりかの再会。 懐かしいなあ。 話の内容は、ギッチリ覚えているので、すぐに読み返す事はありませんけど。

  榛原店だけで、小松作品が6冊もあったのには、驚きです。 この辺に、熱心なファンが住んでいて、その方が、亡くなるとかしたんでしょうかね? いや、そういう事情なら、もっと大量にあるか・・・。

  筒井作品では、最後まで見つからないだろうと思っていた、岩波文庫の≪文学部唯野教授≫が手に入りました。 ある所には、あるんですねえ。 うーむ、時間と体力とガソリン代が許せば、全国のブックオフを、全て回ってみたいものです。 テレビ・ゲームの、宝探しの気分。 大量ゲットというのは、ネット購入では味わえませんからねえ。

  朝5時半に家を出て、帰って来たのが、午後3時半頃。 思っていたより、早かったです。 この日も、カーナビは持って行ったものの、そちらは、現在地の確認に使うだけに留め、予め、地図で調べて紙に書き出した、手書きのルート図を見ながら走ったので、迷わなかったのが、勝因。 時間的には、静岡市内の店へ行くゆとりがあったんですが、そちらは、下調べして行かなかったので、欲を掻くのはやめておきました。


  そして、16日の金曜日に、三度目の出撃で、静岡市と富士宮市へ。 この日は、ツーリングは兼ねずに、ブッオフ巡りだけを目的に出かけました。 開店が10時なので、最初の店に、その頃着くように、家を出たのは、8時半でした。 早起きしないで済むと、精神的に、ぐっと楽です。

  静岡市の内、清水区の一軒は、14日に寄ったので、残るは、駿河区2軒と葵区2軒。 それと、富士宮市の1軒の、計5軒を回る予定で出発しました。 カーナビは持って行かずに、紙に書き出したルート図頼りでしたが、ほとんど迷わずに、回る事ができました。 やはり、下調べは大事ですなあ。 道路の番号と、曲がる交差点の名前が分かっていれば、間違えようがないんですよ。

  ところが・・・、成果は散々で、なんと、5軒で、たったの2冊しか見つかりませんでした! 5軒中3軒には、私が持っていない本が、一冊もありませんでした。 同じブックオフでも、店舗には大小があるのですが、この5軒は、みんな小型店舗で、店内全体の冊数自体が少ないように見えました。 静岡市は、静岡県最大の都市だというのに、これは、どうした事か・・・。

  あまりにも、収穫が少ないので、意地になり、帰途に、7月21日に回った富士市と沼津市西部の店舗、4軒に寄り道したところ、全ての店で、前には無かった本が入っており、10冊をゲット。 静岡市の分と合わせて、12冊になり、辛うじて、ガソリン代の元を取る事に成功しました。 やれやれ。

  しかし、なんですな。 7月21日から、8月16日まで、一ヶ月弱しか経っていないのに、新しい本が、結構、供給されるものですな。 これは、遠出なんかしなくても、一ヵ月おきくらいに、近場の店をチェックして回るだけで、案外、数を揃えられるかも知れません。 ネットでの購入を控えて、持久戦方式に切り替えようか・・・。 何も急ぐ計画でもなし。


  ここ一ヶ月ばかりの間に、ブックオフの店舗を、22軒も回りました。 漠然と観察したところでは、

≪店の外見には、これといった共通点が無い≫
  十店十色でした。 貸しビルの一階である事もあれば、プレハブ構造の店もありました。 大抵は、ワン・フロアで、二階がある場合は、古着など、本以外の物を置いてある場合が多いです。

≪イメージ・カラーは黄色と青である≫
  これは、大体、共通でしたが、黄色も青も、色調には、だいぶ幅があって、逗子久木店のように、オレンジと紺の組み合わせもありました。 店を見つける時に、目印になるのは、店の色よりも、独立した看板の、「本」の字でした。 

≪立地は、大抵、郊外で、車で来る客に対応している≫
  駐車場は、多い所で、30台、少なくても、7・8台は置けます。 

≪駐輪場は、独立して確保されている≫
  近所の人が自転車で来るからでしょうけど、これは、バイク客にもありがたかったです。

≪店によって、セールの時期や内容が異なる≫
  たぶん、店長の裁量権が大きい経営システムなのでしょう。 小田原鴨宮店では、ちょど、2割引セールの日で、105円の本が、84円で買えましたが、そんな店に限って、一冊しか見つからなかったのは、残念至極!

≪接客対応には、共通する点と、そうでない点ある≫
  支払い前の、携帯電話登録の勧誘と、支払い後の「読み終わった本があったら、お売り下さい」のセリフは、どこの店でも、共通でした。 ブックオフの栞を入れるかどうか、訊かれた店が一軒ありましたが、これは、共通化されていないようで、何も言わずに入れてくれる所や、何も言わずに入れてくれない所と、バラバラ。 「レジ袋に入れますか?」の質問も、店によって違いました。

  栞は、どうでもいいですが、レジ袋は、本の場合、あった方がいいでしょう。 直截、鞄に入れたりしたら、傷ついてしまうではありませんか。 「レジ袋に入れますか?」と、そのつど訊かれると、「入れて下さい」と答えるのが、何だか、反エコみたいで、嫌な感じがします。

≪店員の接客態度は、概ね、丁寧である≫
  これは、チェーン店なら、珍しくないですな。 個人商店と、決定的に違う所です。 教育の効果、恐るべし。 古本屋の場合、売りに行くと、あまりにも安かったり、買取拒否される本があったりして、嫌な思いをする場合がありますが、買うのであれば、ほとんど、問題は起こりません。

≪どの店にも、小太りで、眼鏡をかけた女性店員が一人ずついる≫
  いや・・・、だから、どうだって事はないのですがね・・・。 なぜか、どの店にも、同じタイプの人がいるんですよ。 ただし、あくまで、小太りであり、「デブ」と言うには、ちと動きが軽快過ぎる人達です。 なぜか、みんな、眼鏡をかけています。

  一店に一人、配分されているように見えるのですが、採用の際、「小太り・眼鏡女性枠」というのがあるんですかね? こういうタイプの人が店にいると、客が安心するとか? いや、私は別に、何も感じないのですが・・・。


  とまあ、そんなところでしょうか。 なんで、ブックオフばかり行くのかと言うと、理由は、「105円本があるから」に尽きます。 あちこち、バイクで走っていると、ブックオフ以外にも、古本の看板を出している店が目に入り、試しに入ってみる事もあるのですが、昔ながらの古本屋ではない、チェーンで地域展開しているような店でも、105円本があるとは限りません。

  多いのは、「定価の半額」という店でして、こういうのが困る。 今の文庫本は高いですから、半額でも250円以上します。 105円以下になるためには、定価が210円以下でなければなりませんが、40年前の本でも、210円というのは、なかなか無いでしょう。

  ブックオフには、105円本だけでなく、250円から、450円くらいまで、たぶん、定価の半額と思われる本も置いてあり、むしろ、そちらがメインなわけですが、私は今まで、そちらの本を買った事がありません。 最も安い250円であっても、ネットの251円より、1円安いだけですから、あまり、ありがたみを感じないのです。

  ブックオフの本には、裏表紙に値段ラベルを貼られてしまうという、見過ごせない問題点があるので、1円程度の差なら、ネットで買った方が、綺麗な本が手に入ります。 あの、ラベルは、甘く見れません。 洒落にならん。 貼られてから時間が経っていると、ラベルを剥がしても、糊の痕が残ってしまい、その処理に失敗すると、どえらい事になります。

  消しゴムは有効ですが、いきなり、消しゴムをかけると、逆に、糊を広げてしまう場合があります。 ネット情報を調べたところ、「ラベルの紙部分を剥がした後、ティッシュで擦れば、糊が纏まって、うまく取れる」とあり、その方法で、95パーセントくらいは、うまく行くようになりましたが、依然として、駄目な場合もあります。 ティッシュと消しゴムを併用して、ケース・バイ・ケースで、少しずつ進めて行くしかありません。

  同じ文庫カバーでも、表面がビニール・コートされているタイプは、難無く取れるのです。 徳間、中公、集英社などは、昔から、そうなっていますし、文春や岩波も、新しいものは、そうです。 角川は、ビニール・コートされていませんが、表面処理が特殊なのか、ティッシュを使えば、割と綺麗に取れます。 問題は、新潮でして、一貫して、コート無しの、ただの光沢紙を使っており、これにべったり、ラベルの糊が着くと、およそ、取れません。 頭に来るくらい。

  新潮相手に、消しゴムは禁じ手でして、特に、バーコードが印刷してある上に、ラベルの糊痕がついていたら、絶対に、消しゴムを使ってはなりません。 患部を広げるだけです。 まず、ティッシュで、少し強く擦って、糊を纏め取り、あとは、ティッシュで、加減しながら擦って、べたつきを除去するしかありません。 べたつきが残ったまま、本棚に入れると、隣の本の表紙にくっついて、もっと悲惨な結果になります。

  ブックオフもブックオフで、どうして、こんな、商品価値を落とすようなラベルを貼るのか、大いに解せないところ。 何でも、店内で、安いラベルと貼り変える不届き者がいるので、わざと剥がし難いラベルにしているという説があるようですが、それが本当だとしたら、真面目な客に、皺寄せをしているわけで、商売のやり方として、方向性を間違えているとしか思えません。 せめて、新潮だけでも、昔ながらの古本屋のように、最終ページの余白に鉛筆で書き込むようにしてもらえないものか。

2013/08/18

わけ

  もう、かなり前の事になりますが、当て字について、文章を書いた事がありました。 確か、「筈」と「出来る」を、それぞれ、「はず」、「できる」に当てるのは、本来の漢字の意味とは無関係な当て字になるので、今後、使わないようにする、といった内容でした。 詳しくは、過去記事の、≪はず≫と、≪できる≫を参照願います。

  こういうのは、他にもあるのであって、たとえば、「訳」という漢字を、「わけ」という言葉に当てるのは、本来の漢字の意味とは違い、日本でだけ行なわれている習慣です。 元の意味は、「翻訳」や「通訳」の「訳」で、「やく」と音読みする場合だけ、正しい使い方をしている事になります。

  たとえ、日本語内限定の用法であっても、言語の機能としては、意味が通じれば、それで問題ないわけですが、それを承知していながらも、当て字だという事を一旦知ってしまうと、俄かに心理的抵抗が発生し、二度と使えなくなります。 他人が使っているのを見ると、「ふふふ、無知な奴め・・・」と、いやらしくも、薄笑いを浮かべてしまう始末。 

  「訳」と書けば、一文字で済むところを、「わけ」と書くと、二文字になるわけで、字面に締まりがなくなるというか、子供っぽくなるのですが、それ以上に、当て字と分かっていて、当て字を使うのは、無知無教養な行為に感じられてしまって、非常に心苦しい。 気付かなきゃ、幸せでいられたのにねえ。 知らぬが仏とはこのこってすな。

  私の場合、2006年の4月頃、この事に気づき、以来、「訳」は、「やく」と読む場合にのみ用い、「わけ」は、ひらがなで書くようになりました。 「というわけで」とか、「そんなわけがないのであって」とか、人並み以上に、「わけ」という言葉をよく使う方なので、切り替え以前の文章を読むと、「訳」という字ばかり目について、引っ掛かって仕方ないです。

  ただ、例外もあり、「申し訳」とか、「言い訳」とか、単語化している場合には、未だに、使い続けています。 「申しわけ」や、「言いわけ」では、何となく、通じが悪いような気がして・・・。 いや、これは、感覚の問題なので、当て字を徹底的に排除する方針で行くなら、これらも、改めるべきだと思いますがね。

  それにしても、「翻訳・通訳」と「わけ」なんて、まるっきり、意味が違うと思うのですが、どうしてまた、こんな当て字をしたのか、昔の人の考える事は、理解の限度を超えます。 「わけ」の意味を、漢字で表すなら、「理由」や、「道理」になると思いますが、一文字では表現できません。 二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てるという習慣は、無いではないですが、一般的ではないので、空席になっていたところへ、「訳」という、全くの他人が入り込んできてしまったんでしょうか?

  「わけ」の語源を探るなら、たぶん、「分け」になると思いますが、「という分けで」とか、「そんな分けがない」とか書くと、何だか、落ち着きが悪いですなあ。 「言い分け」では、他の意味になってしまいますし、「申し分け」に至っては、そんな言葉は存在しません。 あー、駄目駄目、この書き換えは。


  ちなみに、二文字の漢字熟語に、一つの和語を当てる例には、古いところでは、「良人」と書いて、「おっと」と読んだり、新しい所では、「都会」と書いて、「まち」と読んだりするものがあります。 共通するのは、ルビを振らないと、そう読んでもらえないという事でして、「都会」は、普通に、「とかい」と読まれてしまいますし、「良人」も、「りょうじん」と読まれてしまいます。 「りょうじん」なんて言葉は存在しないと思いますが。

  生物名になると、「海豚」を「いるか」、「蜻蛉」を「とんぼ」、「躑躅」を「つつじ」と読んだりする例が、うじゃうじゃ出て来て、漢字検定に於ける難問の一角を成しています。 しかし、現代では、基本的に、動植物名は、カタカナで書くという取り決めがあるので、個人的にも、そちらを採用してしまった方が、ずっと楽です。 「海豹・海象・海驢」なんて、分からんでしょう? 一度覚えても、しばらくすると、どれがどれだったか、忘れてしまいます。

  漢検問題に命がけで取り組んでいる人達には気の毒ですが、この種の動植物名の漢字をいくら覚えても、実生活には何の役にも立ちません。 だって、書く方は分かっていても、読む方が読めないのでは、文字通り、話にならないものね。 知ったかぶりの鼻抓み者になりたくなかったら、不粋承知で、カタカナで書くこってすな。

  何が馬鹿馬鹿しいと言って、この種の難読単語の語源が、意外な程に、いい加減だという事です。 現代中国語と比較してみると、異同があまりにも多くて、びっくりすると思いますが、日本で伝わっている書き方の多くが、日本国内でしか通用しないと言うのでは、何だか、白けてしまうではありませんか。 漢字熟語の持つ権威は、中華文明圏共通なればこそ発生するものであって、日本国内限定では、ありがたみが、どーんと落ちてしまうんですな。


  三文字の漢字に、一つの和語となると、「三和土」を「たたき」と読むなど、更に、アクロバティックになって行きます。 なに? 「たたきって、何?」ですと? ほれ、あの、玄関の中の、靴を脱ぐ所の事ですよ。 なぜ、「たたき」というのかは、不明。 もしかしたら、靴を叩いて、土を落とす所だからかも知れません。 問題は、「三和土」の方で、どこから、こんな字の並びが発生したのか、さっぱり解からぬ。

  「紫陽花」を「あじさい」、「向日葵」を「ひまわり」と読むのは、割と市民権が確立している方でしょうか。 しかし、店名やブログ名ならともかく、文章の中で使うのなら、やはり、動植物名は、カタカナで書いてしまった方が、読む方には、親切でしょうな。


  ここで、ふと、疑問が・・・。

「ヒマワリが、向日葵なのは知っているけど、アサガオを、朝顔と書くのは、正しいのか?」

  日本語的には、正しいです。 中国語では、アサガオの事を、「牽牛」という、全く違う単語で表すので、「朝顔」と書いてあっても、何の事か通じません。 もし、アサガオを「朝顔」と書く方式で、他の植物の名前も表現するなら、ヒマワリは、「日回り」と書くべきでしょうな。 しかし、ヒマワリは例外的で、和語の植物名は、ほとんどが、語源不明であり、漢字を意味から当てる事はできません。



  何だか、えらい、話が逸れてしまいましたが、「わけ」という言葉に、思いの外、ツッコミどころが少なかったために、こんな文章になってしまった次第。

2013/08/11

映画批評(15)

   これまで、このブログの記事を書かない理由を、あれこれと捻出し、書き並べて来ましたが、今回は、前代未聞です。

「あーついっ!!」

  「暑い」と書くより、「熱い」と書いた方が、しっくり来るほど、無茶苦茶に熱い! どうにかこうにか、体力をやりくりして、夏の連休に漕ぎつけたものの、「休みに入ったんだから、ブログの記事を書く時間も、たっぷり取れるだろう」などと夢想していたのが、浅墓千万な思い違い。 外は灼熱地獄、中は熱帯温室、あまりの暑さに三歩あゆめず、心頭滅却なんぞ、坊主の戯言としか思えず、昼は勿論、夜になっても、ちっとも涼しくならず、無料サウナで、気分はフィンランド・・・、もはや、何を書いているのかも分からぬ始末。

  こりゃあ、なんだね。 人間の頭も、電子回路と同じで、作動に適度な温度域というのがあって、それから外れてしまうと、パッパラプー状態になってしまうんですな。 また、パソコンを置いてある自室が二階にあるものだから、クール・スカーフを巻き、扇風機を全開にしても、全く体感温度が下がらないと来たもんだ。 死ンデジマウ~・・・。 あー、やめたやめた、たかが、ブログの記事を書くために、命なんか懸けてられますか。

  というわけで、困った時の、映画批評です。 ちなみに、今現在、大量に買い込んだ、筒井康隆さんの文庫本を読むのに、時間とエネルギーを割いているため、映画は、一本も見ていません。 面白いもので、見てる時は、日に三本見ても、まだ物足りないのに、見ないとなると、一本の冒頭部分だけでも、ストーリーに頭をシンクロさせるのが面倒で、見たくなくなるんですな。



≪潜水服は蝶の夢を見る≫ 2007年 フランス・アメリカ
  実話の難病物。 フランスの有名雑誌編集長が、突然、全身麻痺を起こして、左目の目蓋しか動かせなくなり、瞬きする事によって文字を指定しながら書いた自伝を、彼の死後に映画化したもの。

  潜水服というのは、体の不自由度が高過ぎて、まるで、潜水服を着て、海に潜っているようだから、という形容でして、別に潜水中の事故で、そうなったわけではありません。 蝶というのも、体が利かなくなった主人公が、空想の世界でのみ、自由に飛び回れる、という形容。

  はっきり言って、醜悪で、退屈でして、実話だから、我慢して見ましたが、もし、作り話だったら、途中でやめるところです。 劇的展開に欠ける分を、映像の芸術性で補おうとしているのですが、それが作為的過ぎて、却って鼻につくのです。

  唯一、純文学的な感動を覚えたのは、主人公と元妻だけが病室にいる時に、主人公の愛人から電話がかかって来て、元妻が、二人の会話を仲立ちをする事になる場面。 愛人に、「愛している。 会いに来て欲しい」と伝えるのですが、元妻の気持ちを考えると、たとえ、不治の病であるとしても、主人公の無神経さに、呆れざるを得ません。


≪プレステージ≫ 2006年 アメリカ
  ヒュー・ジャックマンさん、クリスチャン・ベイルさんのダブル主演。 19世紀末のイギリスで、トップ・マジシャンとして人気を競っていた二人の男の、手段を選ばない種の盗み合いの話。 軽いノリは全く無く、相当には、陰湿な雰囲気です。

  先輩マジシャンの脱出マジックのサクラを、二人でやっていた時に、一方の男のミスで、もう一方の男の妻を死なせてしまい、それが原因で、終生の敵対関係になるのですが、その一件の時点で、事故というより事件であり、なぜ、司法が動かなかったのか不思議。 よく見ても過失致死犯である男が、主人公の一人として平然と生きている姿には、釈然としないものを 感じます。

  マジックの種を競い合うだけの話なら、まあまあ、普通に見れるのですが、テスラという実在の科学者が出て来て、しかも、主人公に依頼されて、瞬間移動マジックの種として彼が発明するのが、物質複製機と来ているから、もはや、SF。 ちょっとした小道具のためだけに、SF設定を使うのは、いかがなものか。

  マジックの失敗で、人が死んだり、怪我をしたり、鳩が死んだりする場面は、見ていて、痛々しいです。 マジックの楽しさが、まるで伝わって来ないのが、この映画の一番の欠点でしょうか。


≪ふしぎの国のアリス≫ 1951年 アメリカ
  ディズニーのミュージカル・アニメ。 有名な話なので、何度も作られているのかと思いきや、アニメ化されたのは、これ一本だけの様子。 完成度が高いので、リメイクする必要が無いと考えられているんでしょうか。

  想像力逞しい少女が、時計を持って先を急ぐ兎を追いかけて、庭の穴に飛び込んだら、そこには、風変わりな人間・動物・植物達の世界が広がっていて、変な話を聞かされたり、お茶会に飛び入りしたり、女王に首を斬られそうになったりする話。

  変なキャラばかりで、主人公も些か変人なので、「狂人のパーティー化」を起こしている嫌いが無きにしも非ず。 ただし、話が進んで、主人公が、変な世界にうんざりして、帰りたくなって来ると、まともなバランスになって来ます。

  この作品に一番近い話といったら、≪千と千尋の神隠し≫ですな。 もちろん、こちらの方が、先に世に出ているわけですが。 共通しているのは、どちらも、夢の世界を物語にしたという事。 内容の充実度も、いい勝負です。

  ミュージカルなので、歌う場面がたくさん出て来ます。 その歌の日本語歌詞が、曲と全然あっていないのには、聴いていて顔が引き攣ります。 ただし、これは、日本語版のみの問題点でしょう。 うまく訳せないのなら、原曲をそのまま流して、字幕を付ければよかったのに。


≪RENT/レント≫ 2005年 アメリカ
  元が、舞台ミュージカルだったらしく、これも、ミュージカル映画です。 昔のミュージカル映画は、洒落たものでしたが、現代が舞台になると、どーして、こうも喧しく、わざとらしくなってしまうのか・・・、残念な事です。

  ニューヨークのスラム街で、家賃も払えない貧乏アーティスト達が集まるアパート・ビルが、再開発で立ち退きを迫られる中、HIV感染、ドラッグ中毒、同性愛などで、世間から白い目で見られている住人達が、開発業者や病魔と闘う話。

  ミュージカル場面は、映像と歌詞がひどいものの、曲は今風で、まずまず聴けます。 スラムが舞台であるせいか、絵面が汚過ぎるんですよ。 これが、文化の行き着く先かと思うと、げんなり気が滅入って来ます。 こういう所で、こういう人達を題材に映画を撮って、面白いんですかね?

  後半に、エイズで死亡する者が出て来ますが、生前、思うが侭に生きてきた人物なので、気の毒という感じは全くしません。 立ち退き問題も、そんなに追い詰められるわけでもなく、クライマックスを形成はしません。 ストーリー性は希薄で、単に、スラムのアーティストの生態を、漫然と描いただけの映画になってしまっています。


≪感染列島≫ 2008年 日本
  妻夫木聡さん主演、檀れいさん助演のパニック映画。 高熱を発し、血を吐いて死ぬ感染症が、地方のある病院で発生し、日本中に感染が広まる中、病院の医師やWHOの職員が、患者の治療や感染源の特定に奔走する話。

  一番、雰囲気が似ているのは、≪日本沈没≫ですが、建物が壊れたり、土地が沈んだりするわけではないので、派手さは、10分の1程度。 ゴースト・タウン化して荒れ果てた都市の映像が出て来ますが、みんな病気なら、片付ける人間がいない代わりに、荒らす人間もいないわけで、そうはならないんじゃないでしょうか。

  ウィルスの発生源を、東南アジアの架空の国にしていますが、東南アジアには、10カ国しかないわけですから、架空の国を設定する事自体が不自然です。 日本国内発生でいいじゃないですか。 そうすりゃ、外国を悪者にしなくても済むんですから。

  安っぽい恋愛物を絡めているのは、完全な蛇足。 そういう事をすると、パニック物の命である緊張感が殺がれてしまいます。 人間、命が懸かっている時に、愛だの恋だの言ってはいられないものですよ。 何とも、皮相な人間観察だこと。

  妻夫木聡さんを出せば、どうにか格好が付くと思っている映画監督が多いようですが、妻夫木さんは、線が細いので、情熱的な性格の役には向きません。 むしろ、役所を、檀れいさんと交換した方が、それらしくなったのでは?

  いやいや、どうせ変えるなら、カンニング竹山さんと藤竜也さんが演じている、ウィルス学者達を主人公にした方が、断然、面白くなったと思います。 医師が主人公だと、末端の治療に忙殺されて、大元の感染源の特定に乗り出す展開が、不自然になってしまうからです。


≪脱出≫ 1972年 アメリカ
  ジョン・ヴォイトさん主演、バート・レイノルズさん他が助演。 冒険アクション物。 カヌーで川下りをしようと、山奥へ入って行った四人の男が、川下り中に、地元のゴロツキ二人組と諍いを起こして、その一人を殺してしまい、もう一人の追撃を受けながら、必死で逃げる話。

  ゴロツキ二人が、しょーもないやつらで、殺されて当然という気がするので、なんで、そんなに罪の意識に戦くのか、そちらの方が不思議。 仲間が銃やナイフを突きつけられていたわけですから、それを助けた場合、相手を殺してしまっても、正当防衛が成立するのではないでしょうか。

  躍動的で、パワフルな映像なのですが、逆に言うと、野卑な感じがする映画で、心臓を束子で擦られているような気分の悪さが、終始、続きます。 地元の者も含めて、人間がいてはいけない所に、入り込んでいるような、雑な違和感を覚えるのです。

  当時、ジョン・ヴォイトさんより、バート・レイノルズさんの方が有名だったと思うのですが、彼を主人公にしなかったのは、キャラのイメージが強過ぎるからだと思われます。 しかし、主役級の人を脇役で使うと、どうしても、バランスが悪くなりますねえ。


≪ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ≫ 2005年 アメリカ
  ロバート・デ・ニーロさん主演。 妻が死んだ後、精神的ショックを受けた娘を癒すために、田舎の一軒家に引っ越した精神科医が、娘が遊び相手だと言う、謎の人物の影に振り回される話。

  ホラーと見せかけて、実はサイコ・サスペンス、というのが、この映画の仕掛けなんですが、この仕掛けに、早い段階で気づいてしまうと、面白さが半減します。 ところが、勘のいい人だと、主演が、ロバート・デ・ニーロさんであると知った時点で、それが分かってしまうのです。 この人が、小さな娘がいる精神科医なんて、おとなしい役を、すんなり引き受けるわけがないんですよ。

  ロバート・デ・ニーロさんが、どんな俳優か知らない場合、早くても、後半にならないと、仕掛けが分からないので、まずまず、怖い雰囲気を楽しむ事ができます。 前半は、謎の遊び相手よりも、娘本人の方が怖いです。 この娘も、そういう事情があるなら、周囲の大人に、正直に打ち明ければ良かったと思うんですがね。 映画としては、類似作品がたくさんあるので、二流。


≪白いカラス≫ 2003年 アメリカ
  アンソニー・ホプキンスさん主演、ニコール・キッドマンさんが助演。 アフリカ系に対する差別発言が元で辞職する事になった大学教授が、人生の半分以上に渡って隠し続けてきた自分の秘密を回想しつつ、元夫のストーカーに追われる女と恋に落ちる話。

  秘密というのは、ユダヤ人と称しつつ、実はアフリカ系で、たまたま肌の色が白かったために、ヨーロッパ系を装って生きて来たというもの。 若い頃の主人公を演じている俳優さんは、整形後のマイケル・ジャクソンさんに通じるものがある顔をしていて、「ハーフか、クオーターなんだろうな」と思わせますが、アンソニー・ホプキンスさんは、どう見ても、ヨーロッパ系なので、無理があるのは否めません。

  ニコール・キッドマンさんが演じている女のエピソードが、結構な比重を占めているのですが、そちらは、人種問題と全く無関係であるため、相異なる二つのテーマを、同時進行で追っている形になっており、一つの物語と融合していません。 これは、脚本の不出来というより、企画段階の不手際ですな。 結局、何が言いたいのか、よく分からない映画になってしまっています。


≪Emma エマ≫ 1996年 イギリス
  グウィネス・パルトローさん主演。 原作者が、≪プライドと偏見≫と同じ、ジェーン・オースティンなので、無理も無い事ながら、話の内容も似ています。 映画の制作年は、9年前で、こちらの方が先ですが、出来は、かなり落ちます。

  19世紀初頭のイギリスの田舎町で、友人知人の縁結びを趣味にしていた貴族の娘が、親友の結婚相手を見つける段になって、失敗し始め、自分の意中の相手にも逃げられて、紆余曲折の末、本当に愛しているのが誰か悟る話。

  エマというのは、主人公の名前ですが、自分自身が結婚相手を探さなければならない年齢のくせに、人の世話ばかり焼きたがり、しかも、眼鏡違いで、親友に二度も恥を掻かせるという問題人物。 その上、階級意識が強く、親友が農民から求婚されたのを、破談させてしまうという、しょーもない事までやらかします。 どーして、こーゆー性格の人間を、主人公にするかな?

  ストーリーが浮わついている上に、映像美がほとんど追求されておらず、≪プライドと偏見≫には、遠く及びません。 ただし、≪ジェイン・オースティン≫よりは、主演女優の顔がまともなだけ、マシです。


≪最高の友だち≫ 2004年 アメリカ
  監督・脚本が、≪X-ファイル≫でモルダー役をやった、デビッド・ドゥカブニーさんという、変り種映画。 主人公役で出演もしていますが、冒頭とラストにちょこっと出て来るだけで、主役は、全体の9割近くを占める回想場面で主人公を演じる、中学生の子役です。

  フランスに住む画家の男が、家族の危機に直面し、中学時代までニューヨークで育ったアメリカ人である事を、妻に告白し、どうして、一人でフランスに来る事になったかについて、精神的に不安定だった母、友達だった精神薄弱の四十男、初恋の相手、アドバイスをくれた刑務所の女囚などの思い出を語る話。

  精神薄弱の男を、ロビン・ウィリアムスさんがやっていますが、鶏を割くに牛刀を持って来た感じで、完全に役不足の態を曝しています。 友情出演かなんかですかね? 主人公が関わる人物は四人いますが、精神薄弱の男は、その中の一人に過ぎず、特別、重要な役割というわけではありません。 ロビン・ウィリアムスさんだからと思って、期待していると、とんだ肩透かしを喰います。

  原題の直訳は、≪Dの家≫で、どうも、このDは、デビッド・ドゥカブニーさんの事を指しているようなのですが、よく分かりません。 邦題の影響で、「一体、誰が、最高の友達なんだろう?」と思いながら見ていたのが命取り。 結局、そんな人物なんて、出て来やしないのです。 全く、紛らわしい邦題をつけおって。

  映画としては、バラバラという感じで、とても、及第点はあげられません。 精神薄弱の男との交歓だけに的を絞れば、もっとよくなったんですがね。


≪ティンカー・ベルと妖精の家≫ 2010年 アメリカ
  ディズニーのCGアニメ。 ただし、日本では劇場公開されなかったようです。 シリーズ物の第三作。 ティンカー・ベルといったら、≪ピーター・パン≫に出て来る妖精ですが、このシリーズでは、主役になっており、いわゆる、スピン・オフ物。

  人間が住むメイン・ランドに、仲間とキャンプを楽しみに来たティンカー・ベルが、妖精好きの人間の女の子に捕まって、その子とは仲良くなるものの、助けに来た仲間の一人が、女の子の父親である昆虫学者に連れ去られてしまい、仲間や女の子と共に、ロンドンまで追いかけて行く話。

  こういうストーリーは、割とよくあるパターンですかね。 驚くような展開は、一切無し。 ただし、元々、子供向けである上に、大人が見ても、ちゃちな所は全く無いので、これで充分だと思います。 キャラデが、バービー人形みたいな顔ですが、ティンカー・ベルに限って言うなら、まあまあ可愛らしいと感じる事ができます。 他の妖精は、ちと、悪趣味。


≪96時間≫ 2008年 フランス
  イギリス人のリーアム・ニーソンさん主演ですが、アメリカ人という設定で、舞台はフランスという、ちと、ややこしい映画。 制作・脚本は、リュック・ベッソンさんです。 一般人が主人公の犯罪捜査物。 ノン・ストップ・アクションです。

  別れた妻と暮らしている17歳になった娘が、友人とフランスへ旅行に行くと言い出し、反対しつつも、しぶしぶ許可を与えた、元情報部員の男が、娘が人身売買組織に略取された事を知り、フランスへ乗り込んでいって、単身、組織と戦い、娘を捜す話。

  主人公が、あまりにも強過ぎて、よく考えると不自然なのですが、話がパタパタ進んで、息つく暇が無いせいで、不自然さを感じないまま、ラストまで引っ張られてしまいます。 しかし、見終わった後、落ち着いてよく考えれば、やはり、変な話。

  1人で30人くらい殺していると思いますが、現役の情報部員でも、こんなに殺したら、ごまかしようがありますまい。 まして、引退して、一般人になっている身では、尚の事。 「相手が悪人なら、殺しても許される」という前提に立って、話が作られているのですが、現実には、世界中どの国の法律でも習慣でも、そんなのは、ありえない事です。

  フランス映画なので、フランス人が悪役になっているのは問題無いですが、略取の実行犯をアルバニア人組織にしているのは、如何なものか。 アルバニアの人が見たら、いい気はしないでしょう。


≪ヘア・スプレー≫ 2007年 アメリカ
  元舞台劇のミュージカル映画。 60年代初頭のボルチモアで、地元テレビ局のダンス番組である、≪コニー・コリンズ・ショー≫の熱烈なファンだった、ヨーロッパ系のチビ・デブ女子高校生が、番組の新メンバーになる事に成功し、アフリカ系出演者達との垣根を取り払う為に、運動を起こす話。

  真剣、且つ、深刻なテーマですが、基本的にはコメディー仕立てで、明るい話になっています。 ただし、テーマと雰囲気が完全に融合しているわけではなく、少なからぬ違和感も残します。 笑い飛ばして済むほど、人種問題の根は浅くないんですな。

  主人公は、「チビでデブなのに、ダンスが滅茶苦茶に巧い」という設定なんですが、実際に見ていると、手足が短いせいで、動きがはっきりせず、そんなに巧いようには見えません。 落差を作ろうとして、落差の性質ゆえに失敗した例。

  ジョン・トラボルタさんが、なんと、主人公の母親役で出ています。 特殊メイクで、デブ女に化けていますが、どう見ても、女って顔にはなりませんねえ。 しかし、この映画の最大の見所である事は事実。 逆に言うと、他には、取り立てて、見るべき所がありません。


≪イエロー・ハンカチーフ≫ 2008年 アメリカ
  ≪幸福の黄色いハンカチ≫を、アメリカでリメイクした映画。 ただ、この話の元は、アメリカ人が作った歌であるというのを、山田洋次さんの本で読んだ事があります。 こういうのは、里帰りリメイクとでも言うべきでしょうか。

  ストーリーは、ほぼ同じ。 ≪幸福の黄色いハンカチ≫は、日本人なら、誰でも一度は見た事があると思うので、梗概は省きます。 こちらでは、主人公は、当時の高倉健さんと、ほぼ同年輩ですが、若者二人は、ぐっと若くなり、特に女の方は、15歳になっています。 桃井かおりさんが、ちょい役で顔を出していて、びっくり。

  炭鉱の町だったのが、メキシコ湾岸の海底油田に近い町に変更され、妊娠を知らせる黄色い布も、ハンカチからヨットの帆に変わっていますが、ラストの無数のハンカチは同じ。 そうなると分かっていても、ずらりと並んだハンカチを見ると、目頭が熱くなるから、不思議です。

  ≪幸福の黄色いハンカチ≫では、出所した主人公が、自分が勢いで殺した相手の事を、まるで思い出さず、墓参りもしないのが気になりましたが、こちらでは、事故で死なせた事になっており、その点は、納得し易くなっています。

  民族性に因るものか、主人公や妻が見せる態度に、微妙な違いがあり、「ここで笑うかね?」と首を傾げるような所もあるにはありますが、リメイクとはいえ、別の作品ですから、あまり細かく突つくのも、不粋ですか。 ちなみに、監督は、インド出身のウダヤン・プラサッドさん。


≪RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語≫ 2010年 日本
  中井貴一さん主演。 副題の通りの話。 有名電機メーカーで、取締役に昇進する寸前だった男が、母が癌で入院した事と、同期の友人が事故死した事をきっかけに、自分の生き方を見つめ直し、郷里の鉄道会社に再就職して、子供の頃の夢だった電車の運転士を始める話。

  いかにも、アイデア一つから思いついたという感じで、いろいろと肉付けはしてあるものの、痩せたストーリーと言わざるを得ません。 原作者はいないようですが、どうも、映画会社の企画会議物の匂いが、プンプンします。

  主人公が、出来過ぎの人物で、ほとんど、何の苦労もせずに、運転士になってしまうのですが、思い切った転職が、この映画のテーマであるはずなのに、そこを、さらっと流してしまったのでは、文字通り、話になりますまい。 もっと不器用な人にして、やっとの事で運転士になれた事にすれば良かったのに。

  簡単に、夢が成就してしまうので、唯一の起伏らしい起伏である、子供が電車を動かしてしまうエピソードで、主人公が出す退職願が、軽いものに感じられてしまうのです。 結局、遊び半分で、ちょっと、運転士を経験してみたかっただけなんだろうと、思えてしまうんですな。

  登場人物を、みんな、いい人にしてしまうと、こんな風に、インパクトの無い映画になってしまいます。 いい人ばかりが出て来る映画が、いい映画になるわけではないんですがねえ。 つくづく、中井貴一さんは、作品に恵まれませんなあ。



  以上、15本まで。 2月2日から、2月11日の間に見たもの。 進まんなあ、なかなか・・・。

2013/08/04

筒井康隆作品の古本状況

  例の小松左京・文庫買い揃え計画ですが、その後、妙な方向へ、ズレが発生しました。 ネットで、一週間に一冊ずつ、価格1円、送料250円の本を購入するパターンを、地味に続ける一方、実店舗で、105円で手に入れられる機会を逃さないために、「とりあえず、近隣のブックオフを全てチェックして回る必要があるな」と思い、東は三島、西は富士、南は大仁、北は御殿場と、バイクを出して、買い入れツーリングに出かけました。 全部で9店舗。

  ところが、これだけ回って、手に入った小松左京作品は、たった4冊だけでした。 ちょっと驚くような、遭遇率の低さ。 同じブックオフでも、大都市の店に行けば、品揃えが豊富になって来ると思うのですが、静岡方面にせよ、小田原方面にせよ、これ以上、遠くへ足を延ばすとなると、ガソリン代が嵩んで、ネットで251円で買った方が安くなってしまうので、そういうわけにも行きません。

  で、ここからが、計画のズレなのですが、在庫僅少な小松作品を尻目に、同時に見て回った筒井康隆作品の方が、なんと、37冊も手に入ってしまいました。 筒井作品は、小松作品を揃え終わった後に集めようと思っていたのですが、「どうせ、古本屋を巡るのなら、一緒にチェックしてしまおう」と思ったところが、この結果・・・。 

  最初の内は、「どうして、こんなにあるのか…?」と、首を傾げていましたが、ちょっと考えて、すぐ納得しました。 小松作品の方は、ブームが去り、新作が出なくなってから、20年以上も経っているのに対し、筒井作品の方は、かれこれ40年間も、途切れる事なく、新作が供給され続けているわけで、世の中に出回っている本の数が、全然違うんですな。 当然、古本市場に出て来る本の数も多くなるというわけです。

  小松作品が、二度のブームの時に、集中的に売れたのに対し、筒井さんの方は、社会的ブームと言えるほどの盛り上がりは無かったものの、≪時をかける少女≫や≪七瀬三部作≫など、時代を超えて読み継がれる作品がある上、≪文学部唯野教授≫のように、ベスト・セラーになるものもあり、持続的・安定的に売れ続けて来たという事でしょう。 台風の豪雨と、長雨による増水の違いのようなものですか。

  ちなみに、どの店でも見かけたのが、≪七瀬三部作≫で、静岡県東部の古書店だけで、これだけあるという事は、日本中だと、どれだけ出回っているのか、想像もつきません。 新刊書店でも、この三冊だけは、必ず置いてある様子。 相当には暗い話なのに、40年も読み継がれているというのは、驚嘆に値します。 もはや、古典名作の域に入ったか。


  私の場合、筒井作品の文庫は、もともと持っていたのが、29冊だったので、ここ半月ばかりの間に、2倍以上に増えてしまった事になります。 今まで、本は、図書館で借りる方針を取り、極力、買うのを控えて来たので、いざ、揃えるとなると、並べる場所が無くて、大急ぎで、本棚の段を増設している次第。

  筒井作品は、新潮文庫だけでも、50冊以上あって、私が持っているのは、まだ半分以下です。 古本だけで、全部、揃えられるかどうか、大いに不安。 新刊で買ってしまえば、一遍に9割くらいは、集まると思いますが、えらい金額になってしまうので、そちらは、没。 筒井さん本人や、筒井ファンが聞いたら、「この慮外者めがっ!」と、一喝されそうですが、私は、それほど、猛烈に熱心なファンというわけではないんですよ。 筒井作品だけでなく、小松作品も含めて、小説全体に・・・。

  筒井作品の文庫は、小松作品と違って、ダブりが少ないのは、大変ありがたいです。 小松作品だと、ハヤカワ文庫、角川文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫の、大半がダブっているという、かなり迷惑な状態になっているのですが、筒井作品では、新潮文庫が全作網羅を目論んでいる疑いがある以外は、目立ったダブりはありません。

  ただ、角川文庫が、しょっちゅう、装丁を変えているのには、閉口します。 困るんですよ、こういう事をされると。 タイトルも中身も同じなのに、背表紙のデザインが違うとか、表紙の絵が違うとか、そういう、「下らない異本」が出来てしまうため、コレクターとしては、「全部揃えるか、中身が同じなら、一冊だけでいいか」が、大問題になってしまうのです。

  そういや、私が20歳前後の頃、筒井作品を買うのを中止してしまった最大の理由は、角川文庫の筒井作品のデザインが総変更されたのが、気に喰わなかったからでした。 それまで、背表紙がオレンジ色で、杉村篤さんの絵だったのが、全体に地が白で、山藤章二さんのモノクロの絵に変わり、一気に統一感が崩れてしまったのです。 出す側は、発行順に出すからいいですが、買う側は、前後する場合があるのであって、どうしても、両者が混ざります。 本棚に並べた時、背表紙が、オレンジと白の斑になるのが、どれだけ不快か、想像がつきますか?

  また、山藤さんが、普通に自分のタッチで描いてくれればいいものを、簡略化して、和田誠さんみたいなタッチで描いたもんだから、安っぽくなってしまって、どーしょもない。 悪戯描きと言われてもしょうがないような絵です。 ≪農協月へ行く≫の、オッサンの絵なんか、見ていると、ムカムカするばかりで、ニヤリともできません。 全く以て、この時の装丁変更は、意図が解しかねます。 一体、この変更で、誰が得をしたというのでしょう?

  角川文庫は、それ以後も、装丁変更を繰り返し、背表紙のデザイン・レイアウトだけでも、微妙に違うものが、うじゃうじゃあります。 だーからよー、こんな事したって、迷惑なだけで、誰も喜ばないって言うのよ。 背表紙のデザインをちょこっと変えるだけで、売れ行きが伸びるわーけがありますまい。 なぜ、変える? ただただ、迷惑なだけなのよ。


  他で面白いのは、≪文学部唯野教授≫でして、この本、岩波書店から単行本と文庫本が出たのですが、そのせいか、他の出版社での文庫化ができず、関連本である、≪文学部唯野教授のサブ・テキスト≫が文春文庫から、≪文学部唯野教授の女性問答≫が中公文庫から出ているという、出版社の対立関係を反映した複雑な様相となっています。

  そういう事情があるからか、≪文学部唯野教授≫は、ベスト・セラーになって、一世を風靡したにも拘らず、その後パッタリ、新刊書店で見かけなくなりました。 大都市の巨大な書店ならともかく、今時の地方の本屋では、岩波文庫は、数えるほどしか置いていませんから、その中に、≪文学部唯野教授≫が入っている確率は、限りなくゼロに近く、存在を忘れられてしまったんでしょう。 話は面白いし、現代文学批評の勉強にもなる、価値が高い本なのに、勿体無い事です。


  買い揃えるついでに、記憶が薄れている作品については、読み返しも実行しているのですが、これが、あまり、楽しい時間になっていません。 長編は、ギンガリ覚えているので、パス。 短編の内、面白いものは、やはり、しっかり覚えているから、パスし、忘れたものだけ読んでいるわけですが、忘れるくらいだから、あまり面白くないのであって、読み返しても、さしたる感動はありません。

  ショートショートは、作風が今と異なる初期の作品に集中しているせいもありますが、どうしても、星新一作品と比較してしまうため、イマイチという感じがします。 この点は、小松さんのショートショートと同じでして、星新一という越えられない大山の前で、さんざん苦労した挙句、「こっちへ行っても、駄目だ」と見切りをつけて、自分の道を探しに向かった形跡が見て取れます。

  それでも、小説は、まだいいのですが、筒井さんの文庫には、随筆や評論、日記などが、かなり含まれていて、そちらが、どうもいけません。 書かれた当時は、面白かったに違いないのですが、歳月が経ってしまうと、時事ネタが多いだけに、内容がピンと来なくなってしまうんですな。 私の場合、80年代以降に起こった事件なら、大体分かるわけですが、もっと若い人達だと、≪玄笑地帯≫はもちろん、≪笑犬樓よりの眺望≫辺りでも、何の話をしているのか分からないというケースが多いのでは? いやあ、時間が経つのは速いなあ。

  結局の所、こういう、小説以外の作品は、文庫化しても、消えて行く運命にあるのでしょう。 今や、本屋の文庫本コーナーは、漫画の単行本に侵食されて、棚が、最盛期の半分くらいに減ってしまった上、その3分の1を、ライト・ノベルに占拠されて、一般小説のスペースは、縮小する一方です。 とても、一人の作家の、随筆集や評論集まで並べておくゆとりはないのです。


  今、ふと思ったんですが、もし、筒井さん本人が、この文章を読んだら、心がゾワゾワ、頭がイライラして、「こやつ、ファンなのか、敵なのか、どっちなのだ!」と、マウスを握り潰して怒る事でしょうなあ。 もっとも、ネット上には、この手の、無責任、且つ、不遜な意見がうようよ出ているから、いちいち、気にしていられないかもしれませんが。

  不遜な雰囲気になった勢いに乗り、思い切って書いてしまいましょう。 ラノベは、≪ビアンカ・オーバースタディ≫だけに留める意向だそうですが、ラノベ路線は、案外、真剣な検討に値する選択かも知れませんぞ。 薄っぺらい本でもいいから、年に一冊くらい、ラノベを出しておけば、無知識無教養で、オタクか腐女子のひきこもりで、紛う方なく人間の出来損ないで、猫の糞ほども世の中の役に立たないけれど、本だけは熱心に買ってくれるラノベ・ファン達が、名前を覚えてくれるので、連鎖反応で、他の本も売れるでしょう。

  そうでもしないと、≪聖痕≫のような作品を読んで楽しめるレベルの読者は、凄まじい勢いで減っているので、この先、執筆をやめて、新刊が出なくなった途端、一気に忘れられてしまう恐れがあります。 第二次・小松左京ブームの後の小松作品のように、本屋の棚から、一掃されてしまう危険性が濃厚。 ああ・・・、ああいう、足元の地面が崩れ落ちるような思いは、もう、したくないなあ。


  それらはさておき・・・。 筒井さんの作品を読んでいると、必ずと言っていいほど、自分でも小説を書いてみたくなるのは、なぜでしょう? 小松作品を読んでいる時には、そんな事は、微塵も感じないというのに・・・。

  筒井ファンで、自分も小説を書いた事がある人なら、誰でも経験があるように、「筒井作品のような小説が書きたい」と思って、案を練り始めても、陳腐この下無い模倣になるか、そもそも、手も足も出ないかのどちらかに終わるのが関の山。 この人ほど、同類を寄せ付けない作風の作家も珍しいのですが、なぜか、「寄り付きたい」という衝動だけは掻き立てるのです。

  筒井さんと同じような作風の作家が出て来たとしても、「なんだ、こりゃ。 筒井康隆のパクリじゃないか」と見做されて、オリジナリティーを認めてもらえないのは、容易に想像できる事。 特徴が際立ち過ぎていて、模倣が利かないんですな。 才能が突出している上に、異様に器用で、どんなジャンルでも手を出していない方面がなく、加えて、忍耐力まであって、≪虚航船団≫のような、とても余人では書き果せないような特異な長編まで物にしているわけで、よく考えてみれば、「筒井作品のような小説」なんぞ、簡単に書けるはずがないのです。 いや、四苦八苦しても、書けますまい。

  もっとも、その特異性のせいで、文壇に仲間が出来ず、デビューから現在に至るまで、孤立無援の戦いを続けざるを得なかったという、壮絶な経歴を持つわけですが、むしろ、そんな逆境が幸いしたのか、いつのまにか、≪文豪≫としか言えないような高みに上ってしまいました。 もはや、筒井さんの作品を安直に批判すると、世間から、「こいつ、バカだろ」と思われてしまうので、批評で喰っている人達は、素直に絶賛するか、九割九分九厘誉めて、一厘貶すに留めるかのどちらかしか、態度の取りようがないという有様。


  文豪で思い出しましたが、最近の筒井さんの外見は、文豪と言うより、なんだか、≪剣豪≫みたいですな。 陣羽織に袴姿で、木刀片手に道場に立っていたら、よく似合いそうな風貌です。 武蔵? 卜伝?  俳優活動は休止中と言いながら、密かに、時代劇を狙っているとか?

  そういや、筒井さんの俳優活動が、なぜ、パッとしなかったかですが、当人の資質の問題というより、起用する側に抜き難い先入観があって、キャラクターに嵌まる役が得られなかった事が原因だったと思います。 書いている作品に、笑えるものが多いから、そのイメージで、コミカルな役を当てられるケースが多かったのですが、風貌や声の質を考えば、渋い役の方が似合うのは、アホでも分かりそうなもの。

  暴力団幹部という設定で、バーでふんぞり返って飲んでいる役というのがありましたが、あまりにも迫力があるので、背筋がぞっとした記憶があります。 声が渋いですから、悪役も似合うと思うんですが、なぜ、そういう役が来なかったかなあ? 最後まで反省しない悪役なんてやった日には、最高だと思うんですが。

  おっと、こんな事を書いていると、またぞろ、俳優活動に気が向いてしまい、小説が読めなくなる危険性があるので、このくらいにしておきましょう。 危ない危ない・・・。