2014/10/26

礼文に佇む

  北海道旅行記の、二日目です。 8月26日、火曜日ですな。 この日は、利尻島から、礼文島へ、フェリーで渡り、貸切タクシーで、礼文島を回り、夜は、礼文島のホテルに泊まるという予定でした。 しかし、礼文島は、前々日に、「50年に一度の豪雨」に見舞われ、利尻のホテルで見たテレビ・ニュースでは、土砂崩れで、道路寸断、集落孤立、礼文島で最も有名な景勝地、「桃岩」がある、元地(もとち)地区へ行けなくなっているとの事。 よりによって、私が、一生に一度のつもりで、やって来た時に、どうして、こういう事が起こるかなあ。 でも、島そのものに渡れなかった、西表島に比べれば、礼文島は、行けただけでも、幸運だったというべきか。



≪ホテルの朝≫
  沖縄旅行以来、26日ぶりの外泊で、眠りが浅く、夜中の3時、4時半、4時45分、5時、6時と、頻繁に目が覚めました。 6時過ぎから、起き出して、洗濯物に当てていた扇風機を消して、元の位置に戻しました。 一晩、風に吹かれていた洗濯物は、全て乾いていました。 そりゃ、そうか。 「電気、使いたい放題のホテルだと思って、贅沢な事をしてやがる」と思うでしょう。 私も、そう思います。 でも、洗濯室の乾燥機を使うのに比べたら、電気の使用量は、遥かに少ないと思います。 何より、私は、ツイン・ルームに、一人で泊まって、二人分の宿泊費を出しているわけですから、そのくらいの電力消費は許されるはず。

  髭剃り・洗面して、朝食を食べに、7階の食堂へ。 この時も、エレベーターは使わず、階段で行きました。 沖縄旅行では、食堂・レストランは、地下1階か、地上1・2階のいずれかでしたが、ここへ来て、初めて、高層階で食事をする事になりました。 前日の夕食の時には、すでに、窓の外が真っ暗で、何も感じなかったのですが、この朝、来てみると、高層階の食堂というのが、いかに明るいものか、初めて知りました。 ただ、いるだけでも、気持ちがいいです。 朝だから、尚更、爽快。

  バイキングですが、沖縄に比べると、品数は少な目でした。 ジャガイモがあった以外は、地元特産品に、特に拘っている様子もなく、ごく一般的な品揃え。 ベーコン、ハム、ソーセージ、スクランブル・エッグなど、洋食系朝食の定番料理をとり、それに冷奴、御飯、味噌汁を加え、ジュース一杯、冷水一杯で、食べました。 ジュースは、マシンではなく、ピッチャーに入った物を、手で注ぎました。 マシンか、手注ぎかは、沖縄、北海道に関係なく、ホテルにより、バラバラでしたねえ。

  食事中、「なーんで、こんなに、気分がいいんだろう?」と思っていたら、沖縄旅行の時と違って、こちらでは、子供の姿が見当たらない事に気づきました。 綺麗さっぱり、一人もいません。 興奮して、はしゃぎ回り、駆け回り、人にぶつかり、食堂中に埃を撒き散らす、狂った猿どもがいないと、こんなにも平和なものでしょうか。 静かな環境というものが、人間の精神の安寧にとって、いかに大切であるかを、痛感しました。 すでに、8月も終盤となっており、夏休みが終わったか、追い込みに入っているかのどちらかで、ガキどもは、旅行どころではないのでしょう。 いい気味だ。 さんざん、他人に迷惑をかけた罰として、夏休みの宿題で、死ぬほど苦しむが良い。 いっその事、死んでくれてもいいぞ。 他人のガキなんぞ、金輪際、何の価値もない。

明るく静かな食堂(上)/ 朝食(下)


  朝食を終えて、部屋に戻ったのが、6時50分。 フェリーの出港時間は、9:25で、ホテルの送迎バスは、8時45分に出ると、チェック・インの時に聞いていましたから、まだ、2時間近くあります。 で、前日、タクシーの運転手さんに貰ったパンフに、この日行く予定の、礼文島の地図や観光地も出ていたので、それを広げて、予習を始めました。 家でも、37年前のガイド・ブックやネットで、下調べはしていたのですが、現地で得られる最新情報というのは、また少し違いますし、土砂崩れで、元地地区の景勝地は、諦めざるを得ない公算が極めて高いので、他の所について、勉強し直したというわけです。

  地図を見ると、ほぼ円形の利尻島に対し、礼文島というのは、南北に細長い島なのですが、開けているのは東側で、南から北まで繋がっている道路は、東海岸だけにある様子。 元地地区というのは、西海岸の南の方にあるのですが、そこに行くには、東側から、山を越えなければならず、その道路が、土砂崩れで通行止めになっているわけです。 海岸線沿いに、南側から回る道はなくて、船便もなし。

  それを調べている、正にその時、テレビ・ニュースでは、もろに、礼文島の土砂崩れの様子を報じていて、とてもじゃないけど、数時間内に復旧するとは思えません。 こりゃあ、駄目だな。 元地地区ばかりか、礼文島自体の観光にしてからが、覚束ないのでは? 「それどころではないので・・・」とか言って、タクシー観光が中止になってしまったら、どうしよう・・・。 弥が上にも、不安が盛り上がります。 最悪、レンタ・サイクルを借りて、自力で回る事も考えていました。 午後になれば、礼文のホテルに入れますが、一日、ホテルの周辺だけうろついていても、しょうがないですけんのう。

  8時20分までに、荷物を纏め、最終チェックして、8時半に、ロビーへ下りました。 この時は、さすがに、エレベーターを使いましたよ。 旅行鞄を背負って、6階から1階まで、階段を下りたのでは、腰がもちません。 そういや、この北海道旅行では、旅行鞄を、背負っている事が多かったです。 私の鞄は、キャスター2個と、伸縮式の取っ手が付いていて、牽いて歩く事もできるのですが、長時間でなければ、肩ベルトを出して、背負っていた方が、何かと都合がいい事が、だんだん分かって来たんですな。 たとえば、フェリー・ターミナルや空港のトイレで、小用を足す時、鞄を、トイレの床に直かに置くのは、大いにためらわれる。 トイレの床に置いた物を、その後、膝の上に載せるなど、以ての外でして、潔癖症ならずとも、抵抗感がある事でしょう。 その点、背負っていれば、両手は空くし、盗まれる心配もありません。

  フロントで、チェック・アウトすると、送迎バスが出るまで、ロビーで待つようにとの指示。 このホテルのロビーには、売店があり、土産物がぎっしり並んでいました。 沖縄で、ミニ・リアル・シーサーを買ったので、北海道でも、同じくらいの大きさの置物を買うつもりでいたのですが、ここの店にも、ちょうどよいサイズの物があったものの、値札が付いていません。 下手に訊ねて、高かったら困るので、訊かずに、出て来ました。 まだ先は長いから、他でも買えるでしょう。

  木彫りのアイヌ人形や、木彫りの熊は、土産物として、今でも健在でした。 この二つ、37年前に、母が買って来て、長い間、我が家の床の間に置いてあったのですが、15年くらい前に、家中が、母の旅の土産物で埋め尽くされそうになっていたのを、私が批判したら、臍を曲げて、全部捨ててしまいました。 母としては、旅の実績を自慢する為の、証拠品として、それらの置物を買って来ていたのですが、その頃には、家を訪ねて来る客が、めっきり減って、意味がなくなっていたという理由もあります。 それにしても、木彫りの熊なんて、一抱えもあるサイズだったのに、一体、何ゴミに出したんだろう?

  昔の木彫りの熊は、みな、四つん這いで、口に鮭を咥えている姿でしたが、今では、何も咥えず、口を開けて、吠えている姿の物もあります。 母が買って来たのと、同じサイズのを見てみたら、値段が、1万円を超えていました。 とんでもねー・・・。 「よく、そんな値段の物を捨てられたものだ」と思うでしょうが、うちの母には、値段を見ずに物を買う、悪い癖があるので、たぶん、捨てた時も、いくらで買って来たか、分かっていなかったと思います。 ちなみに、木彫りの熊は、別に、アイヌの伝統工芸ではなく、明治以降に、北海道の特産品にする為に、和人の某が考案して、作り始めたものらしいです。 最近のは、インドネシアで作っているという話も、以前、テレビで見た事があります。

  その内、係員が呼びに来たので、外に出ると、送迎バスというのは、ハイエースでした。 運転手を除き、9人乗り。 でも、その時、乗ったのは、私と、二人連れが一組だけでした。 前日、ホテルから、ペシ岬まで歩いて行きましたが、ペシ岬は、港のすぐ横なので、ホテルから、フェリー・ターミナルまでだって、歩いて行けない事はありません。 でも、無料のバスがあるのに、わざわざ歩く理由もありません。 5分くらいで、到着しました。 やはり、車は速いな。 当たり前ですが。


≪鴛泊港フェリー・ターミナル≫
  鴛泊のターミナルは、出来たばかりの新品です。 1階の案内所で、船のクーポンを見せたら、すぐそこに見える、フェリー会社の受付へ行くように指示されました。 考えてみると、船会社は一つしかないから、最初から、そちらに行けば良かったわけですが、そうなると、なんで、わざわざ、案内所を設けてあるんでしょう? もしかしたら、これから、乗る客の案内ではなく、到着した人に、島内の案内をする所なんでしょうか? そうかもしれませんな。

  まあ、それはいいとして、フェリー会社の受付へ行って、クーポンを出したら、乗船券をくれました。 「鴛泊⇒香深(礼文島) 2等 大人1名 960円」と書いてあります。  フェリーしかないので、フェリーに乗るわけですが、勿の論、私は、旅行鞄を背負っているだけで、身一つです。 フェリーは、2012年の夏に、横須賀から房総半島へ渡った時に、バイクで乗りましたが、そちらは、2014年10月現在の料金で、身一つで乗ると、720円。 航海時間の差は、利尻⇒礼文間の方が、5分長いだけなので、960円は、ちと高いか。 ちなみに、750cc未満のバイク込みだと、東京湾の方が、1680円なのに対し、利尻⇒礼文間は、2140円となり、だいぶ、差が開きます。

  ターミナルの2階が、大きな待ち合い場になっています。 新しいだけあって、椅子も高級で、ちょっと、空港みたいな感じがします。 ここで、8時50分。 まだ、30分以上あったので、トイレへ小用へ。 戻って来たら、エレベーターから、大柄なリスが出て来るところでした。 町の職員らしき、法被を着た男性と二人で、1階から2階へ上がって来たのです。 どうやら、利尻富士町のマスコット・キャラクターらしいです。 名前は、「りっぷくん」。 分かり易く、名札をつけています。

  昨今、着ぐるみキャラクターは、みな一緒くたに、「ゆるキャラ」と呼ばれてしまいますが、りっぷくんは、架空の生き物ではなく、黄色い体に、青いオーバーオールを着ているものの、ほぼ、シマリスそのものでした。 これでいいんですよ。 無理に、妖精を創作する必要はないんです。 動物は、そのまま、着ぐるみにしたって、充分に可愛いんですから。 りっぷくんと、付き添いの人は、しばらく、所在なげにしていましたが、記念撮影に応じてくれるらしいと分かると、三々五々、客が寄り始めました。 その内、団体客が、バスで到着し、待ち合い場がいっぱいになるくらい、人が増えると、りっぷくん、文字通り、引っ張り凧で、もみくちゃに・・・。

  凄い光景だったなあ。 朝食のところでも書きましたが、ここでも、子供の客は一人も見ず、全員大人で、しかも、みんな、中高年、というか、ズバリ言うと、高齢者です。 中には、後期高齢者と思われるお爺さんもいましたが、そういう人達が、大柄なリスを捉まえて放さず、脇の下に抱き着くようにして、記念写真を撮っているんですぜ。 撫で牛と間違えて、御利益を期待しとるのではないか? リ、ス、だ、というに。 りっぷくんの中に入っている人、性別は不明ですが、年寄りに次々に抱き着かれて、抵抗感あるでしょうねえ。 これを、「キャラ・ハラ」と称して、社会問題化できぬものか・・・。 だけど、人気がなくて、無視されるよりは、ずっといいか。

鴛泊フェリー・ターミナル(上)/ りっぷくん(下)


  そうこうする内、フェリーが入港して来て、下船が始まりました。 フェリーの旅客用乗降口というのは、上甲板の方にありまして、この新しいフェリー・ターミナルは、乗降口の高さに合わせて、2階からブリッジが突き出しているわけです。 これが、前日、運転手さんが言っていた、「2階から、直截、乗れる」という意味だったんですな。 下船が始まる前に、出発客は、待ち合い場から、待機通路の方へ移り、入れ替わるように、到着客が、待ち合い場の中へを通って、階下へ下りて行くという格好。 ちなみに、りっぷくんは、今度は、到着客の方に捉まって、もみくちゃに・・・。 この人気は、リスならではでしょうな。 形が複雑で、下手に触ると、部品が取れそうな妖精だったら、こうは、なつかれますまい。


≪利尻・礼文間フェリー≫
  9時10分に、乗船開始。 出港15分前だから、この点も、飛行機と同じですな。 ただし、指定席ではないですし、予約しているわけでもないので、QRコードの読み取りなどはなく、船に乗り込む時に、係員に乗船券を渡し、パンチしてもらうだけです。 ここで、一気に、鉄道より素朴になりましたが、まあ、そんな事は、どうでもよい。 要は、乗れればいいんですよ。

  乗船券には、1等と2等があり、1等は、最上階の1等船室の他、上甲板にも、特別の部屋があります。 2等の貧乏人は、1等船室には、立ち入り禁止。 私もその内の一人です。 2等の船室は、まさかの、土禁。 カーペットが敷いてある床に、靴を脱いで上がり、横にもなれるという奴ですが、泊りならいざしらず、長くても、数時間で着く航路しかないのに、こういう場所は必要ありますまい。 まったく、どこへ行っても、感染症に鈍感な経営者が多くて困る。 幸い、その先に、屋外デッキがあり、椅子が並んでいたので、そこにいる事にしました。

  定刻通りに、9時25分に、出港。 私は、船首側にいると思っていたんですが、動き出して見ると、船尾の方でした。 フェリーは、前後が分かり難いのよ。 試しに、船首の方へも行ってみましたが、船首側には、屋外デッキがないのです。 そういえば、東京湾フェリーも、船首側には、屋外デッキがありませんでした。 これは、風や波しぶきの関係で、わざと、設けていないのかもしれませんな。 もっとも、大きな船ですから、沖縄で乗った高速船のように、波を蹴立てて、ぶっ飛ばすような事は、したくてもできないわけで、至って、静かな航海でした。

  波は静かだったものの、何と言っても、高緯度の道北で、しかも、空は曇りとなると、さすがに、寒い。 それを見越して、フェリー・ターミナルにいる間に、フリース・ジャケットを着ておいて、応じ合わせでした。 しかし、フリースは薄手なので、やがて、それを着ていても寒くなり、たまらず、屋内へ。 舷側の通路にいたら、今度は、暑くなり、また、屋外へ。 体温調節がうまく行かず、気持ちが悪くなって来ます。 この旅では、家から、酔い止めの飴を持って来なかったのですが、前日、新千歳⇒利尻間の飛行機で貰った飴二つを、ウエスト・バッグに入れてあったのを思い出し、それを舐めて、しのぎました。

  外の景色は、屋外デッキにいる間は、利尻島が見えていました。 利尻岳は、この日も、上半分、雲に覆われていました。 頂上を一度も拝めないまま、帰る事になる恐れが高まって来ます。 ペシ岬は、いつまでも見えていました。 なるほど、これだからこそ、ランド・マークたりえるんですな。 途中からは、舷側から、右前方に、礼文島が見えて来ました。 いや、利尻島からも礼文島は見えるわけで、見れば、最初から見えていたと思うんですがね。 気分的に、「見えて来た」という感じだったのです。 後ろの利尻島は、シルエットのように黒っぽいですが、前の礼文島は、山の緑色が、はっきり分かります。 しかし、これは、島の色の違いと言うより、光線の加減でしょうな。

フェリー(上)/ 礼文島の香深(下)


  正味、約40分航海して、礼文島の、香深港に入りました。 前日、利尻の運転手さんが言っていた通り、こちらのターミナルは、工事中でした。 船に、陸側から、タラップが二本架けられて、それで乗降します。 タラップと言っても、階段ではなく、スロープでして、船体に対して、直角方向に架けられます。 スロープなら、潮の干満で、船の甲板の高さが変わっても、対応できるから、階段より、融通が利くのかも知れません。

  そのタラップを通って、下船したのは、10時10分くらいでした。 予定到着時刻より、5分、遅れ。 いや、船は着いてはいたんですが、下船に時間がかかったのです。 みんな、観光客で、大荷物を持っているのに、スロープは怖い・・・。 否が応でも、人の流れが滞るというわけ。 下りてしまえば、ターミナルには用がないので、そちらには入らず、そこで解散です。 ターミナルの横の駐車場の辺りに、迎えの人垣が出来ていて、その中に、貸切タクシーの運転手さんも、私の名前を書いた名札を掲げて、待っていました。 


≪貸切タクシー≫
  「香深」は、「かふか」と読みます。 フランツ・カフカと覚えておけば、絶対忘れません。 だけど、「かぶか」とも言うらしいです。 礼文島の玄関口にして、最大の街。 島の東海岸の、南の方にあります。 ちなみに、礼文島は、礼文町だけで、一島一自治体です。 人口、2700人。 利尻島の半分ですな。 こちらも、70年代には、ずっと多くて、7500人もいたのだとか。 3分の1になってしまったわけだ。 厳しいっすねえ。

  ちなみに、この夜泊まるホテルも、香深の街にあり、この日の貸切タクシーは、香深から出発して、香深へ戻って来る格好になります。 それどころか、最初、南へ行って、その後、昼食をとる為に、フェリー・ターミナルに戻ったので、香深から出て、香深に戻り、午後、また、香深を出て、夕方、香深に戻ったわけです。 礼文島に於いては、全ての道は、香深に続くわけだ。

  貸切タクシーの運転手さんは、かなりの年配で、60歳を、だいぶ越えているのではないかと思われました。 沖縄本島で乗せてもらった運転手さんと、同じような雰囲気だったので、同じくらいの年齢だったのではないかと思います。 実は、この礼文島の運転手さんが写った写真が一枚もなくて、2ヵ月経った現在、顔を思い出せないという、面目なくも情けない状態になっている有様。 思い出そうとすると、沖縄本島の運転手さんの顔になってしまうのです。 忘れないようにするには、自分の方から頼んで、写真を撮らせてもらうか、誰か、似た顔の有名人でも探して、その名前を記しておくか、どちらかしかありませんな。

  タクシー会社の所属で、車は、黒の日産セドリック。 すでに、生産中止になって久しい車種ですが、非常に、いい状態を保って、乗っていました。 車に詳しくない人が見たら、新車だと思うくらい。 クーポンを渡して、乗車。 乗るなり言われたのが、「元地地区へは、土砂崩れで行けない」という、例の話でした。 元地地区には、「桃岩」、「猫岩」、「地蔵岩」と、名前を聞いただけで、期待が膨らむような、奇岩があるのですが、災害では致し方ありません。 大変な時に、観光させてもらえるだけでも、ありがたいと思わなければ。

  港には、稚内から災害復旧の応援に来た警察官の一団がいて、作業を始める準備をしていました。 港のすぐ前の道路には、大きな水溜りが出来ていて、まだ、水も引いていないのです。 ほんとに、こんな状態で、観光しちゃって、いいんだろうか? まず最初に、「北のカナリア・パーク」に行く事になり、走り出して、香深より、南の方へ下って行きました。 運転手さんに、豪雨の様子を聞くと、ひどかったとの事。 利尻の運転手さんから、「礼文へ行ったら、『お見舞い申し上げます』と伝えて下さい」と言われていたので、その通り、伝えました。 別に、お二人が知り合いというわけではないと思いますが。

  この運転手さんは、解説型ではなく、会話型で、私の方から質問したりしないと、話が途切れる事が、間々ありました。 しかし、放送事故になるほどではなく、私の方が黙ると、気まずくなる寸前に、運転手さんの方が何か喋り出すというパターンが繰り返されました。 これも、長年の間に培われた、テクニックなのでしょう。 無駄な会話はしないが、必要なら、話題はいくらでもあるという感じ。

  礼文島は、雪はどのくらい降るか訊いたら、1メートルくらいだとの事。 でも、除雪して、積み上げるので、結局、2メートルくらいの壁になってしまい、車を運転していると、横が見えなくなるという事でした。 ただし、海沿いの道路だと、海に捨ててしまえるので、海が見えなくなるような事はないそうです。 


≪北のカナリア・パーク≫
  名前からして、もろですが、映画≪北のカナリア≫の、ロケ用に作られた、学校の校舎がある所です。 映画は、2012年ですから、まだ、出来て間もない観光地という事になります。 問題は、私が≪北のカナリア≫を部分的にしか見ていないという事ですが、ここでも、正直にその事を言い、後難を排しておきました。 礼文島の南端に近い、丘陵地帯の上にあります。 南側の道路から、丘陵へ登って行くのですが、漁村の中を通る道が、凄い急な傾斜で、後ろへずり落ちるんじゃないかと、ヒヤヒヤしました。 何とか、丘の途中まであがってきたと思ったら、そこで、まさかの通行止め。

  そこにいた、「いかにも、近所在住」という風体のおじいさんに、運転手さんが訊いたところ、どうやら、水害の復旧作業の関係で、急遽、通行止めにされた模様。 運転手さんが、私に、「少し歩いてもいいですか?」と訊くので、了解し、車から下りて、歩き始めました。 ちなみに、そこのおじいさん、運転手さんと話している間中、ズボンの前に手を突っ込んで、頻りに何かしている様子でしたが、私達が、そこを立ち去った途端、立小便を始めました。 なるほど、排尿器官を引っ張り出していたんですな。 「○○ポジ直しにしては、やけに、念入りだな」と思っていたので、納得納得。

  かなり歩きましたなあ。 5分以上、10分以下というところでしょうか。 やがて、「北のカナリア・パーク」の入り口が見えて来ましたが、道の向こう側から、観光バスが走って来るのも見えました。 運転手さんが、「おかしいな。 向こうからは、工事用の大型ダンプしか入れないはずだけど・・・」と言い、駐車場の係員に訊いたら、この日は、特別に、観光バスやタクシーでも、北側の道路から入れるようになったのだとの返事でした。 「そんな話は聞いてない」と、運転手さんは、むっとしていました。 そういう事が決まった場合、役所からタクシー会社に連絡が入るのが、普通なのだそうです。 歩かなくてもいいところを歩いた事になりますが、私は、腹が出て困っていたので、少し歩くくらいで、ちょうど良かったです。

  むしろ、問題だったのは、この「北のカナリア・パーク」そのものの方。 駐車場があり、その隣に、トイレがあるのですが、それ以外には、例の、映画用に建てられた校舎しかないのです。 「パーク」と言うには、あまりにも、シンプル過ぎるのでは? これから、整備するのかも知れませんが、撮影はとっくに終わっていますから、映画関連の施設が、今以上に増えるという事はないわけで、恐らく、校舎を含む、公園になるんじゃないかと思います。 テーマ・パーク的な意味の、「パーク」ではなかったわけだ。

  それだけなら、まだいいのですが、運転手さんに、「見て来て下さい」と言われて、一人で、校舎のある方へ下りていくと、段々、嫌な予感が盛り上がって来ました。 学校の校舎に入る時には、何を履くか? 上履きです。 だけど、観光客は、上履きは持っていません。 するってーと、つまり、土禁なわけですから、靴下で上がるか、備え付けのスリッパを履くかのどちらかになるわけです。 玄関を入ってみると、果たして、靴を脱いでいる客がいました。 これは勘弁して下さい。

  運転手さんが一緒でなかったのをいい事に、校舎内に入るのはやめ、外から覗くに留めました。 運転手さんが、「一番、奥の部屋に、吉永小百合さんの、等身大像が浮き出るパネルがある」と言っていましたが、それは、辛うじて、窓の外から、見る事ができました。 助かった。 これで、見なかったものを見たと、嘘をつかずに済みます。 校舎の裏の方へ回ると、大きな、水溜りが出来ていて、基礎まで浸かっていました。 礼文の土は、水捌けが良くないんですなあ。 丘の上ですから、南側には、眺望が大きく開けていて、利尻島が、間近に見えます。 ただし、上半分は雲の中。

  大体、10分くらいいて、駐車場に引き揚げました。 運転手さんは、トイレの前で待っていましたが、別に、校舎内の展示品について、話が出る事もなく、助かりました。 そこのトイレ、やけに立派な建物だと思ったら、バイオ・トイレだとの事。 高山とかに設置される、汚物が出ないか、少ないか、とにかく、そういう技術が使われているトイレなのだそうです。 せっかくなので、小用を済ませて来ました。 二人して、車へ戻ります。

  山側は、概ね、草地。 部分的に灌木の林があります。 所々に、墓あり。 運転手さんの話では、昔、この辺では、「野焼き」をしていたのだとの事。 私は、「山焼き」と勘違いしていたのですが、話を聞いている内に、「野焼き」というのは、野っ原でやる、火葬の事を言うのだと分かり、冷や汗を掻きました。 焼いている途中、腕や脚が飛び出して来ると、棒で押して、火の中に戻したのだそうです。 中学の時、理科の先生に聞いた話と通じる所がありました。 火葬というのは、直かに目にしない方が良さそうですな。 夢に出て来そうです。

北のカナリア・パーク(上)/ 礼文の知床(下)



≪知床≫
  車に乗り、海岸線の道路へ戻ります。 更に、南へ向かって、車が入れる限界の所で、停まりました。 この辺りを、「知床」と言うとの事。 あの、道東の、世界遺産の半島と同じ文字で、同じ読み方をします。 アイヌ語の地名は、地形的特徴からつけられたものが多いので、似たような地形だと、同じ名前がつく事があります。 もっとも、「シレトコ」は、「地の果て」という、漠然とした意味らしいので、ここの場合、知床半島と、具体的な地形が似ているわけではないのですが・・・。

  歩けば、もっと先まで行けるという話でしたが、運転手さんの口ぶりから、勧めているようにも見えなかったので、やめておきました。 海が、すぐ目の前に広がっていて、地上から見ても、岸近くと沖合いの色の違いが分かります。 運転手さんに、「静岡の方は、海は、どんな感じですか?」と訊かれたので、「いや、私が住んでいる所の海は、駿河湾なので、ここのように、ドーンと広い感じはありません。 それに、こういう、海の色のグラデーションはないです」と、答えました。 駿河湾は、いきなり深くなるのが特徴で、浅瀬がないから、色の変化もないのでしょう。 そこには、ほんの3分くらいいただけで、タクシーに乗り、香深の方へ引き返しました。

  アイヌ語地名の話が出た流れで、利尻島と礼文島の名前の由来も、説明されました。 「リシリ」は、前回書いたように、「高い島」ですが、「レブン」は、「沖の」という意味で、元は、「レブンシリ」と言ったのだそうです。 「沖の島」ですな。 ここで、私が、「『利尻島』という言い方は、『高い島島』と言っている事になりますね」と言ったら、運転手さん、一瞬間を置いてから、「そう言われてみれば、そうだ」と答えました。

  その時は、私、気の利いた指摘をしたつもりでいたのですが、今考えてみると、生まれた時から、礼文で暮らし、半世紀以上、毎日毎日、利尻島を眺めて来た運転手さんが、その事に、今まで気づかなかったというのも、妙な話です。 恐らく、地元では、そんな指摘は、子供が口にする事で、大の大人が話題にするような事ではないから、どう答えていいか困っただけだったのかもしれません。


≪香深にて≫
  香深に戻りました。 運転手さんが、山の中へ車を進めます。 例の、土砂崩れで通れなくなっている、元地地区へ通じる道を、途中まで、行ってくれたのです。 ところが、少しも行かない内に、通行止めに、行く手を阻まれました。 工事車両が忙しげに行き来して、戦場のようになっています。 「ここから、もう駄目か・・・」と言って、引き換えした次第。 運転手さんも、全国的に有名な、「桃岩」へ案内できないのを、口惜しいと思っていたんでしょう。 いやいや、もう、充分です。

  すぐ近くに、新しいトンネルが、建設中でした。 土砂崩れを起こした方の道は、老朽化して、前々から、危ないと言われていたのだそうで、豪雨が来る前から、新しいトンネルを作り始めていたんですな。 工事の進捗が、何割くらいまで行っていたのか分かりませんが、まだ、完成まで、何ヵ月もかかるのなら、古い方の復旧と、新しい方の建設を、両方、同時に進めなければならないわけで、自治体は、資金的に厳しいでしょうな。

  次に、香深の街を見下ろす高台へ、車で登りました。 運転手さんが通ったという小学校の付近から、港を見下ろします。 観光地ではありませんが、地元の人しか知らない穴場的景勝地という奴ですな。 そこそこの高さがあり、毎日、ここへ通う小学生は大変でしょう。 運転手さんが子供の頃は、下校の時は、道を歩かず、斜面を滑り降りて、ほんの数分で、家まで帰っていたのだとか。 ワイルドですなあ。

  運転手さんに言われて、港を見ると、災害の視察に来た道知事が乗っている巡視船が、帰って行くところでした。 復旧応援の警察官達は、フェリーで来たようですが、知事ともなると、巡視船を出すわけだ。 別に、知事が来たからといって、復旧が進むわけではないのですが、災害の時には、一応、現地に駆けつけておかないと、後々、選挙に響くんでしょうか。 昔は、そんな事はなかったと思いますが、アメリカ大統領のハリケーン被災地視察辺りから、そんな風潮が広まり始めたような気がします。


≪礼文町郷土資料館≫
  その後、街へ下りて、「礼文町郷土資料館」へ。 ここは、来る前に、ネットで調べていたんですが、「マッコウクジラの歯牙製、女性像・動物像」というのが、展示の目玉なのです。 礼文島では、桃岩と同じくらい、期待していたので、見逃すわけには行きません。 運転手さんに、「こういう所、興味ありますか?」と訊かれ、「あります!」と、即答したのは、当然の事。 入館料300円は自腹ですが、何のそれしき。

  二階建てで、結構、複雑な形をした展示室でした。 1階は、大型の土器を並べ、パネルで、時代区分の説明をしていました。 北海道では、弥生時代が存在せず、縄文時代の後に、続縄文時代、擦文時代、オホーツク文化時代と続き、アイヌ文化時代に繋がって行くのだとか。 北海道は広いので、地域によっても、差があるとの事。

  2階は、それぞれの時代の出土物を、ケース内に並べ、もっと詳しく説明しています。 その、2階の入り口の所に、目当ての、「マッコウクジラの歯牙製、女性像・動物像」がありました。 オホーツク文化時代のものらしいのですが、女性像は、二つあり、大きい方は、高さ、13センチで、何となく、弥勒菩薩の半跏思惟像に似ています。 小さい方は、辛うじて、人の形と分かる程度の、シンプルなもの。 動物像は、一つで、小さい方の女性像と同じくらいの大きさです。 熊だとの事。 土産物の木彫りの熊ほど、リアルではありませんが、素朴な造形が、却って、異文化の奥の深さを感じさせます。 うーむ、ネットで事前に調べたものを、現地で生で見ると、感動がありますなあ。 来て良かった。

  2階には、他に、明治期以降の文物も展示してありますが、そちらは、素通りしてしまいました。 そういうのは、他でも見られますから。 いや、実は私、他でも、見ないんですがね。 礼文島に限らず、日本全国、どこの郷土資料館でもそうですが、明治から昭和20年までの歴史や民具を展示してあるコーナーには、一様に、重苦しい雰囲気が漂っています。 この時代、暗いのですよ。 文化的には、ヨーロッパの稚拙なパクリで、見るに値しないし、一方で、庶民の生活は、恐ろしく貧しくて、思わず、眉間に皺がよります。 ずっしり重そうな桶など見ると、それを持ち上げる事を想像しただけで、腰が痛くなって来ます。 NHKの朝ドラは、その時代を舞台にした話が多いですが、熱心に見ている連中の気が知りません。 あんな時代に戻りたいのかね? 三日で、寝込むで。

  1階の出口近くに、トドの剥製が、オス・メス2頭、置いてありました。 トドの剥製、北海道の博物館・資料館では、あちこちで見ますが、礼文島では、冬になると、生きた本物が、やって来るらしいです。 桃岩の写真が、パネルになっていたので、行けなかった代わりに、撮影して来ました。 写真を写真に撮るのは、何となく、抵抗がありますが、まあ、事情が事情だから、仕方ありません。 本当に、桃の形をしているんですねえ。 見たかったなあ。

女性像・動物像(上)/ 桃岩の写真の写真(下)



≪しょうゆラーメン≫
  郷土資料館を出たのが、11時45分くらいで、この後、昼食という事になるのですが、「どうします?」と訊かれたので、勇気を出して、「実は私、会社の福利ポイントで、この旅行に来ているので、なるべく、自腹を切りたくないのです。 ウニとかは食べられませんから、ラーメンとか、千円以下で収まる店へ連れて行ってください」と言いました。 すると、「ああ、ラーメンなら、大丈夫です」との返事。

  言っておいて良かった。 礼文は、ウニの産地らしく、何も言わなかったら、どんな店へ行ってしまったか分かりません。 北海道が、全道的に、ラーメンのメッカだった事は、幸運でした。 地元の人達は、ラーメンに誇りを持っているわけで、こちらが、「ラーメンが食べたい」と言っている分には、気分を害する心配がないからです。 そして、ラーメン屋なら、まず間違いなく、千円以下の品があります。

  運転手さんの話では、フェリー・ターミナルの2階に、店があるとの事。 ターミナルは、工事中だと書きましたが、それは、搭乗口の事で、ターミナル自体は、機能しているようです。 「満席という事もあるから」と言って、運転手さんが、予め電話で確認してから、向かいました。 香深の街は小さいので、郷土資料館から、ターミナルまでは、ほんのちょっとです。 港の駐車場に車を停め、私一人で、ターミナルの2階へ上がりました。 タクシー会社の事務所も、ターミナルのすぐ近くにあるとかで、運転手さんは、そちらへ、昼食を食べに戻って行きました。

  で、その店ですが、行ってみると、なんと、寿司屋でした。 思わず、胸がざわつきましたが、席に座って、メニューを見ると、ラーメンもある事が分かり、ほっと、一安心。 一番安かった、700円の、しょうゆラーメンを注文。 7分くらいで来ました。 寿司を握っているカウンターとは、別の所から、運ばれて来ましたっけ。 そりゃそうか。 7ヵ月前の北海道応援の時には、店でラーメンを食べる機会がなかったので、これが、初の北海道ラーメンという事になりましたが、なるほど、確かに、おいしかったです。 スープが、あっさりしているところが、実にありがたい。 私は、ギトギトしたスープが苦手なのです。

  伝票はなくて、レジの所で、「何ラーメンを食べましたか?」と訊かれました。 食べたのは、一番安い品でしたから、ごまかす理由もないわけで、正直に答えましたが、スープまで全部平らげてしまった場合、証拠が残りませんから、中には、高いのを食べたのに、一番安い品の料金で済ませようとする輩もいるかもしれませんな。 そういう事を考えると、最初に、券売機で食券を買う方式は、間違いが起こる心配がなくて、優れています。


≪東海岸≫
  食後は、東海岸を北上します。 香深井(かぶかい)という集落あり。 ここには、そこそこ広い平地があり、住宅地になっていました。 「揺り籠から、墓場まで」対応できる、一通りの施設が整っているのだそうです。 保育園や、介護施設などの事でしょうな。 ただし、出産はできないそうで、礼文島の妊婦さんは、子供を産む時には、稚内の病院へ行くのだそうです。 大変ですなあ。 まあ、産気づいてからではなく、予定日が近づいたら、ゆとりをもって、入院するのだとは思いますが。

  他に、この辺りで、運転手さんから聞いた話というと、礼文島には、警察官が3人しか駐在していないとの事。 3人では、交通違反の取り締まりなど、できないので、交通ルールは、かなり、緩く捉えられているらしいです。 夏場の観光シーズンだけ、稚内から、交通機動隊が来て、取り締まりをするので、その期間は、緊張するのだとか。 ちなみに、信号機は、島内に、二ヵ所のみで、香深に一つ、北の船泊(ふなどまり)の街に一つ。 この二つは、後に、実際に、見せてもらいました。 信号機が見所になるのは、離島ならではの醍醐味。

  自動車教習所は、島内になくて、免許を取る時には、札幌や旭川へ、合宿しに行くのだとか。 陸運局は、旭川になるとの事。 そういや、撮って来た写真を見ると、車のナンバーが、「旭川」です。  意外な事に、道北地方では、最も近い大都市というと、旭川になるのだそうです。 旭川って、道東じゃなかったんだ。 そういや、「道央」という言葉もありますな。 うっ・・・、これは、私の知識の方の問題ですな。 北海道の地域分けの仕方が、頭に入っていないのです。 運転手さんの話では、旭川は、大きな街だとの事。 結局、私は、行けずじまいでしたが。

  利尻で見た、オオセグロカモメが、礼文にも、たくさんいました。 「こちらのカモメは、大きいですねえ」と言うと、運転手さんが、「あれは、メタボです」と言います。 漁師が捨てた魚を食べたり、自分達でウニを獲って食べたりして、太る一方。 そのせいで、飛び立つのが遅くて、道路で車に轢かれる事があるとの事。 また、奇妙な習性があり、道路の山側にいても、車が近づくと、必ず、海側へ逃げようとするので、車の前に飛び出す格好になって、轢かれてしまうのだそうです。 本能的に、空間が開けている方へ向かおうとするんでしょうか?

  近くに、「うにむき体験センター」があると言われましたが、「いやあ、海産物は苦手なので・・・」と言って、パスしました。 沖縄・北海道を通して、「○○体験」というのは、一つもやりませんでした。 やれば、話の種くらいにはなるでしょうが、大抵、有料ですし、この歳になると、何か体験して、今後の人生の肥やしにしようという目的意識も湧いて来ないのです。 歳を取ると、何につけ、受身の姿勢にならざるを得ないのですよ。 まして、福利ポイントの消化の為に来た旅行で、体験なんて、面倒臭い事、ようしませんわ。

  その後、豪雨による土砂崩れで、二人亡くなった家の前も通りました。 海岸線の道路沿いの、山側です。 別に通ってくれと頼んだわけではないんですが、この辺り、他に道がないらしいのです。 家と土砂がぐじゃぐじゃに混じり合って、凄まじい光景でした。 その付近、家が疎らにしかないだけに、「崩れた所が、ちょっと横だったら、何の被害もなかったのに・・・」と思わずにはいられませんでした。

  島の北部は、昔、山火事があって、樹木が全部焼けてしまい、その後、植林はしているものの、潮風が厳しくて、谷間以外は、みんな枯れてしまうのだそうです。 遠くから見ると、若草山的な草原のようですが、実際には、人の胸くらいの背丈がある草が、同じ高さで生えているのであって、とても、入れたもんじゃないのだとか。 チシマザサという笹が多いそうですが、この笹、場所によって、成長の度合いが異なり、周囲の草と同じ高さまでしか伸びないのだそうです。 潮風を受けるのを避けるためなんでしょうな。 不思議な話で、植物には、脳がないのに、どうやって、そういう判断をしているんでしょう?

  そういった山の、道路に面した急斜面に、長方形の柵が、斜面に直角になるような角度で、何列、何段も、打ち込んであります。 材質は不明。 木材にタールを塗ったような色ですが、遠くて、はっきり分かりません。 金属製のもありました。 運転手さんに訊くと、雪崩避けの柵だとの事。 土砂崩れだと、柵ごと流れてしまうから、意味はないわけですが、雪が相手なら、この柵で、充分な効果があるのだそうです。 これが設置されてから、雪崩がなくなり、冬場の道路の寸断もなくなったというから、大した発明です。

雪崩防止柵(上)/ 礼文空港(下)



≪礼文空港≫
  島の北端に近づいて来ました。 道路から、高台の上に上がり、「礼文空港」を、車の中から見学。 以前は、稚内との間を、19人乗りの小型機が飛んでいたらしいのですが、天候不良で欠航になる事が多く、乗客が減ってしまい、定期便は、2003年に廃止されたとの事。 飛行機が欠航になった場合、フェリーに換えるしかないわけですが、フェリーの港は、香深だけなので、遥か南まで戻らなければならず、不便だったらしいです。 ただし、まだ、空港自体は、使える状態にあるようで、あくまで、「休止中」。 私が見た時にも、綺麗に整備されていました。


≪金田ノ岬≫
  北東端の、「金田ノ岬」へ。 近くに、「金田さん」が住んでいたから、この名前になったとの事。 岬自体は、海岸近くにありますが、運転手さんが、高台へ行ってくれて、そちらの方が、断然、眺めが良かったです。 前述したように、周囲に高い木がないので、見晴らしが、非常に宜しい。 360度、見回せる上に、距離的にも、船泊湾の向こう、島の北西端に当たる、スコトン岬やトド島まで、ゆうゆう見えます。 見晴らしが良過ぎて、島が小さく感じられるという、珍しいケースですな。 実際には、南端から北端まで、車で50分くらいかかる大きさがあるのですが。


≪久種湖≫
  その後、西へ向かい、礼文島唯一の湖である、「久種(くしゅ)湖」の横を通りました。 利尻島には、沼しかなかったけれど、礼文には、湖があるわけだ。 結構、大きな湖で、周囲を低い山に囲まれています。 湖畔の一角に、キャンプ場があり、ロッジも並んでいました。 と、思ったら、すぐ近くに、住宅地があったりして、どうも、イメージが一定しません。

  ちなみに、山の事にも触れると、礼文島の最高峰は、「礼文岳」で、標高490メートル。 運転手さんの話では、割と簡単に登れるとの事。 何時間くらいかかるか、聞いたものの、忘れてしまいました。 1時間だか、2時間だか、そのくらいだったと思います。 礼文島は、内陸、及び、西部に、ハイキング・コースが何本か作られていて、それを歩きに来る人も多いのだそうです。 ただし、この時は、豪雨の影響で、そのコースの中にも、閉鎖されているところがあった模様。


≪澄海岬≫
  内陸を走り、西海岸の、「澄海(すかい)岬」へ。 漁村の端にある駐車場に車を停め、岩山の上へ歩きます。 運転手さんが、途中まで案内してくれました。 道端に、さりげなく、花が咲いていて、その説明が始まります。 礼文島も、利尻島と同様、高山植物が平地から咲いている島で、それ目当ての訪問者か多いのだそうです。 「極端な事を言えば、車椅子に乗っている人でも、普通に平地で見られますから」と言っていました。 なるほど、それは確かに、価値がありそうですな。

  この澄海岬、運転手さんの一押しのポイントだそうで、確かに、素晴らしい眺めでした。 断崖に囲まれた入り江の風情が、何とも言えぬ。 何がどうなれば、こんな複雑にしてダイナミックに地形が生まれるのか? 説明板には、「火成岩が海食を受けた」と書いてありましたが、海食で、こんな高い断崖ができるとしたら、大規模な隆起もあったのでしょうなあ。

  一方、ここから南の西海岸は、火成岩ではなく、もっと古い時代の堆積岩で出来ているらしいのですが、それが隆起し、やはり、断崖が連続しているとの事。 ここでは、その北端を見る事ができます。 だけど、ちょこっと、窺えるという程度でした。 例の元地地区へ行ければ、南側から、もっとよく見れたと思うのですが、残念な事でした。

  ところで、誰でも気になる、「澄海(すかい)岬」という名前ですが・・・。 一見、アイヌ語風であるものの、調べてみると、大間違い。 なんと、「空のように青く澄んだ入り江」という事で、英語の「sky」に、当て字をしたらしいです。 ナニソレ珍地名ですな。 改名前は、「稲穂岬」。 そちらは、アイヌ語の、「イナウ」が元で、「神に捧げる幣(ぬさ)」の事だとか。 確かに、神に近づけそうな雰囲気の場所です。

澄海岬の入り江(上)/ 磯舟(下)



≪磯舟≫
  タクシーに戻る途中、港に引き上げられていた、舟を見ました。 昆布漁に使う、「磯舟(いそぶね)」という舟ですが、舷が浅く、反り返った刀のように薄っぺらい形をしています。 この舷から、先に鉤が付いた長い棒を海に下ろし、昆布を引っかけて、獲るわけですな。 利尻や、稚内でも見ました。 しかし、沿岸とはいえ、こんな笹舟みたいな浅い舟で、よく、海へ出ますねえ。 波を食らって、引っ繰り返ったら、イチコロではないの? ちなみに、デザイン的には、和船というより、刳り舟っぽいです。


≪ゴロタ岬≫
  タクシーに乗り、西海岸を北上し、「ゴロタ浜」へ向かいます。 岩がゴロゴロしているから、この名になったとの事。 海沿いの集落に下りて、砂浜のすぐ上の道を、行ける所まで、北に進み、断崖絶壁の「ゴロタ岬」を、遠くから望見します。 凄い断崖。 「茅打ちバンタ」以上では? 山ではないですが、雰囲気的に、「魔の山」という観あり。 ここの道が、未舗装路で、大きな水溜りがあり、せっかく、ピカピカに磨き上げられていたセドリックの横腹を、泥撥ねで汚してしまいました。 私に、景色を見せる為だけに、そんな事になってしまって、何だか、非常に申し訳ない事をしたような気分になりました。 そのくらい、綺麗な車だったのです。

  その後、崖の上の道に戻り、ちょっと走ったのですが、前述した、ハイキング・コースと交差する地点で、運転手さんから、「時間が余っているから、ゴロタ岬の上まで、歩いて登ってみたら?」と、提案されました。 そこから、片道20分くらいで行けると事。 貸切タクシー利用の極意を会得しつつあった私は、「これは、つまり、元地地区に行かなかった分、時間が余ってしまうので、運転手さんとしては、ここで、ちょっと、時間を潰して欲しいのだな」と、敏感に察知し、登って来る事にしました。 もう何度も書いていますが、貸切タクシーの運転手さんというのは、常に、時間の計算をしながら、走っているのです。

  ハイキング・コース用に作られた尾根道を、登って行きます。 左右は、膝くらいの高さの、草薮になっています。 そんなに大勢が通っているわけではないようで、草に覆われて、足元が見えない所もありましたが、それより何より、心臓に爆弾を抱えている身には、登りがつらい。 健康な人なら、なんでもない傾斜なんですがね。 約20分で、何とか、登りきりました。 頂上に立つと、ここも、360度、ぐるりと見回せます。 南は、礼文岳を含む、山並み。 東は、船泊湾と、金田ノ岬。 北は、海岸線の湾曲がスコトン岬へ続き、その先に、トド島が見えます。

  木がないので、崖の上の丘陵地に草地が広がっている格好で、なんだか、ブリテン島北部みたいな景観です。 ヒースの丘ではなく、チシマザサや高山植物の丘ですが、遠目に見れば、似たようなもの。 それにしても、ダイナミックな地形ですなあ。 北欧のフィヨルドなんかより、遥かに、特徴が際立っています。 私的には、この時、ゴロタ岬の上から見た景色が、この旅のトップでした。 ヒーヒー言って、登った甲斐があったというもの。

ゴロタ岬遠景(上)/ ゴロタ岬の上から見たスコトン岬(下)


  ゴロタ岬の上にいたのが、5分くらいで、また20分かけて、タクシーへ戻りました。 往復、45分稼いだ事になります。 運転手さんは、タバコを吸って、待っていました。 下りの途中、軽装の男性とすれ違いましたが、その人が乗って来たバイクが、タクシーの横に停めてありました。 荷物を満載した、かなり弄ってある、ヤマハのTW200で、見覚えがあると思ったら、朝、利尻島で、フェリーに乗るのを待っていたバイクでした。

  タクシーに乗り、ハイキング・コースの一部になっている丘陵地の道を、北へ向かいます。 ハイキング・コースといっても、所々、舗装された道も含んでいる様子。 高齢者の集団を追い抜きましたが、少し先に、観光バスが待っていました。 ツアーに、ハイキング・コースをちょっと歩く予定が入っていたんでしょうな。 そこは、海が見えるわけでもなく、断崖も見えず、景観を楽しむには、中途半端な所でしたが。

  更に進むと、スズキのハスラー(軽自動車)が、色違いで5台ばかり、行く手を塞いでいました。 道幅が狭いので、かわる事はできません。 一人、青年がやって来て、「すいません。 一方通行だと、知らなかったもので・・・。 すぐに、引き返しますから」と言い、車を方向転換させて、戻って行きました。 それだけなら、どうという事はないんですが、その一団、車の窓から、ビデオ・カメラがついた棒を突き出し、後ろから続く、ハスラーを撮影しています。 後ろの車の窓からは、また別の青年が上半身を乗り出して、両手を振っています。

  運転手さんと私で、この一団の素性を推測するに、「CMの撮影にしては、装備が軽過ぎる」、「すぐ後ろをタクシーが走っているのに、平気で撮影をしているのだから、CMやカタログの撮影という事はありえない」、「ユー・チューブなどに、動画をアップするのが目的ではないか?」といった線に落ち着きました。 最近は、個人が勝手に、企業の製品のCM動画を作って、ネットに流すのが流行っているそうなので、それだったのかもしれません。 もっとも、それにしては、新車を色違いで、5台も用意しているのは、本格的過ぎですが。


≪スコトン岬≫
  礼文島の北西の端、「スコトン岬」へ。 「スコトン」とは、アイヌ語で、「夏の村」という意味で、アイヌ時代は、夏場しか住まない所だったようです。 岬自体は、低い所なので、何と言う事もない景色です。 ゴロタ岬の上から見た時の方が、凄かった。 トド島が、間近に見えますが、冬でなければ、トドは来ないとの事。 ちなみに、運転手さんに後で聞いたところでは、冬場、礼文島に観光に来る人は、ほとんどいないそうです。 つまり、ここで、トドを見られるのは、地元の人だけなわけだ。

  ここには、「日本最北限の民宿」、「日本最北限の売店」、「日本最北限のトイレ」があります。 民宿は、岩場の間に埋もれるように建っていて、「よく、建築許可が出たな」と、首を捻りたくなるような場所にありました。 売店は、海産物が中心。 トイレでは、小用を足して来ました。 いや、記念にというわけではなく、ちょうど、催していたからですけど。

最北限の民宿(上)/最北限の売店(中)/最北限のトイレ(下)


  ところで、このスコトン岬で、警察官の一団を見ました。 10人くらい、もっと多かったかな。 朝、香深港にいた人達と同じかどうかは知りませんが、礼文島には3人しかいないわけですから、いずれにせよ、災害復旧の応援で、礼文に来たのでしょう。 岬を見たり、アイス・クリームを食べたりしていました。 良心的に解釈すると、行けと言われて、来てはみたものの、街の方は、すでに片付けが進んでいて、出番が少なく、時間が余ったので、こちらの方まで足を伸ばしたのかも知れません。


≪動物≫
  この後、船泊(ふなどまり)の街を通り、先に触れた、礼文島に二つしかない信号機の一つを見ました。 その後、また、久種湖の横を通って、行きとは違う道で、東海岸に向かいました。 この道、礼文では珍しく、内陸を通っていて、閉鎖された牧場の跡に、土地所有者のペットの馬が、一頭だけ飼われているのを見ました。 恐らく、礼文で、唯一の馬ではないかと思われます。 地面に打ち込んだ杭に、ロープで繋がれていて、半径内の草を食べ尽くすと、別の杭に移され、また、その半径の草を食べるという仕組みになっているとの事。 喰い放題はいいけれど、仲間の馬は勿論、普段は人もいない、だだっ広い盆地に、一頭だけというのは、寂しいでしょうなあ。

  ところで、礼文島には、熊はいないとの事。 狐は、犬にやられて、絶滅してしまったと言っていました。 もっとも、狐も、元からいたのではなく、毛皮をとる為に、人間が持ち込んだのが最初だと、聞いたような気がします。 それと、どういう関係だったか、忘れてしまいましたが、礼文島では、基本的に犬の飼育は、禁止されているとの事。 ただし、今では、飼っている人もいるのだとか。 どうも、私が覚えている範囲内では、話の辻褄が合いませんな。 どこか、肝心な所が、記憶から落ちてしまっているようです。

  そういや、狐は絶滅させてしまったのに、西海岸の方に、稲荷神社がありましたよ。 稲荷明神も、使いの狐がいなくなってしまったら、何かと不便でしょうな。 こういうところが、日本人の宗教観の、奇妙な一面でして、植民地へ神社を持ち込むのには熱心なくせに、信仰心そのものは、呆れるほど、希薄なのです。 狐が稲荷の使いだなんて、今や、誰も信じていないのではないですか? そして、神も信じていないわけだ。 もし、神を信じているのなら、その使いを殺す事など、祟りが怖くて、できるはずがありませんから。


≪庭≫
  やがて、内陸の道から、東海岸の道路に出ました。 午後一に通って来た道を、逆方向へ戻ります。 運転手さんに訊いたところ、利尻島同様、礼文島も、人が住んでいるのは、沿岸部だけで、内陸部には、集落はないとの事。 強いて言えば、「揺り籠から、墓場まで」の、香深井が、最も内陸まで、住宅地が入り込んでいる所だそうです。

  「礼文島では、家に、庭は造らないんですか?」と訊いたら、運転手さんは、何の話なのか、ピンと来ないような反応を見せました。 ちょっと考えてから、「潮風で、植物がやられてしまうから、板で囲いをして、その中で、野菜を作ったりしてますよ」との返事。 そう言われてから、道路沿いの家々を見ると、確かに、敷地の中に、板で囲った一角があります。 おおお・・・、そういう事は、聞かなければ、気づかないものですなあ。 つまりその、礼文島では、「庭」などというものは、問題以前に存在しないのであって、一番近いのが、家庭菜園なのでしょう。 そういえば、家の周りに、塀もなかったです。 雪が積もる土地では、塀なんか、邪魔なだけなのかも。


≪日食観測記念碑≫
  海岸線の道路の、海側にあります。 行きにも、通っているはずですが、帰りに、ちょっと停車して、説明してくれました。 1948年に、礼文島で、非常に珍しい金環日食が観測される事が分かり、世界中から、1500人くらい研究者が集まったらしいのです。 ところが、戦後間もない頃で、そんなに大勢を運べる船がない。 そこで、アメリカの軍艦が使われ、上陸用舟艇で人を運んだのだそうです。 金環食になる観測帯が、幅1キロしかなく、時間も、たった1秒で、礼文に来なければ、見られなかったのだとか。 もちろん、今は、モニュメントがあるだけです。


≪見内神社≫
    道路脇の海側にあります。 ここも、行きに通っているはずですが、説明されたのは、帰りでした。 最初、入り口が見えなかったので、ぎょっとしましたが、運転手さんが笑って言うには、入り口は、海側にあるとの事。 なんだ、言われてみれば、どうって事はありません。 私は、本殿の背面を見ていたんですな。 その昔、アイヌ人の夫婦がいて、和人との戦に出て帰らない夫を待ち侘びて、妻が石になってしまったとの事。 その祟りが怖くて、神社を造り、石を「見ない」ように隠したから、見内(みない)神社なのだとか。 「何だかなー」という由来ですが、アイヌ人との関わりがあるだけ、他の神社よりは、土着性があると考えるべきか。


  以上で、礼文島に於ける、貸切タクシーでの観光は終了しました。 香深に戻り、街の中のホテルに着いたのが、3時50分でした。 予定では、4時までの契約でしたが、この程度は、誤差の内です。 日記を書かなければならないので、早めにホテルに着いてくれた方が、私としては、ありがたい。 ホテルは、「三井観光ホテル」という所。 経営者が、三井さんという人で、三井グループとは関係ないと、運転手さんが言っていました。

  ホテルの玄関前で下ろしてもらい、篤く礼を言って、別れました。 この時も、「楽しかったです」と言ったのですが、どうも、この言葉には、抵抗を感じて仕方がない。 「楽しい」というと、何だか、きゃぴきゃぴ騒ぐ雰囲気があり、私のように、いい歳をしたオッサンには、合わないような気がするのです。 それを言われる側からすると、嘘っぽく聞こえるのではないかと、それが心配。 これは一つ、他の形容を考えなければなりますまい。


≪ホテルの夜≫
  ホテルは、海のすぐそばでした。 チェック・インして、説明を受けます。 食事は、朝夕共に、2階の食堂で、夕食はメニューが決まっており、朝食はバイキング。 これらは、利尻のホテルと同じですな。 温泉大浴場があるらしいですが、私は行きません。 これも同じ。 1階の扉に、華やかな絵を描いたエレベーターで、5階に上がります。 エレベーターを下りたら、すぐそこが、部屋でした。

  ツインで、標準サイズのユニット・バス。 タオルとシャンプーが見当たらず、一瞬、青くなりましたが、ベッドの上に浴衣と一緒に、ビニール袋が置いてあって、その中に入っていました。 タオルは、お持ち帰り可能と思われる、薄っぺらい物。 シャンプーは、ボトルではなく、小分けパックでした。 こんなのも、あるんだなあ。 

  部屋の方の設備は、二人掛けのソファと、その前にテーブル。 鏡台と一体になった机があり、その端に、テレビ。 1ドアの小型冷蔵庫。 椅子が二脚。 妙に椅子が多いな。 二人掛けソファは、いかにも、新婚旅行客向けという感じ。 部屋の窓からは、目の前に、利尻岳が、どーんと見えました。 もっとも、相変わらず、上半分は雲に隠れています。

  荷物を展開し、各所の除菌を済ませてから、ソファに腰を下ろして、日記を書きました。 書く事が、膨大な量、溜まっていて、もーう、大変。 外は、風の音と、カモメの鳴き声で、結構には、賑やかです。 明かりを取る為、レースのカーテンを開けておいたら、寒くなってしまいました。 レース一枚で、こんなに違うものか。

  6時頃、日記を切り上げ、1階へ下りました。 ロビーは、そんなに広くありませんが、売店は奥があって、凄い品数でした。 利尻のホテルのそれを、遥かに上回っています。 これだけ、種類があると、在庫管理を、どうやっているのか、想像もつきません。 その時は、見ただけで、出ました。 ロビーの正面玄関とは反対側に、海側の出入り口があり、そこから外に出て、1ブロックぐるりと回り、正面側に戻って、玄関の写真を撮ります。 ホテルの隣に、食品雑貨店があったので、そこで、夜用のビスケットと、翌日の船旅用に、ハッカ味の飴を、各108円で買いました。

  ホテルに戻って、ロビーの隅に公衆電話を見つけ、家に電話。 礼文では、土砂崩れで、行けなかった所があったと伝えました。 もう一度、売店に入ります。 歩いている間に考えたのですが、翌日は、札幌泊まりなので、道北で過ごすのは、このホテルが最後です。 木彫りの熊を買うなら、札幌より、こちらの方が相応しいでしょう。 この判断は、偶然ながら吉と出て、翌日、札幌のホテルへ行ったら、もろ、街なかのビジネス・ホテルでして、土産物の売店はありませんでした。

  沖縄で買った、ミニ・リアル・シーサーと、並べて置けるサイズのがありましたが、色を塗った物が、1244円、塗らない物が、1200円。 値段に大差はないので、塗ってある方にしました。 270円のシーサーと比べて、ずっと高いのは、小さいとはいえ、手彫りだからでしょう。 これも、インドネシアで、作っておるのかのう? 日本で、これだけの彫刻をしたら、1244円では、とても、人件費と折り合いますまい。

  一度、部屋に戻り、土産物をしまって、7時頃に、夕食へ行きました。 2階の「北航路」という名の食堂。 部屋番号を言って、名簿のチェックをしてもらい、席に案内されると、あら、ビックリ! ここでも、すでに、料理が並んでいるじゃありませんか。 食堂が開くのは6時ですから、またまた、1時間放置された料理を食べる事になりました。 「前の晩で、懲りんか?」と思うでしょうが、無理言いないな。 違う島の、違うホテルだっせ。 まさか、二夜連続で、同じ目に遭うとは思わないじゃないですか。

  料理は、ここでも、和風旅館風の和食。 カニあり。 二回目なので、少しは上手に掘り出せるようになりましたが、どうしても、喰い散らかす感じになってしまいますなあ。 うまい事は、うまいんですがね。 他には、刺身、もずく、ウニ、ご飯、味噌汁、魚のホイル焼き、その場で火を点ける鍋で、ホタテ、エビ、カキ、玉葱、ブロッコリ、しめじの煮物。 暖かい物は、みな、おいしいです。 もずくは、量が多くて、閉口しました。 しかも、オクラが入っているんですよ。 こんな、ぬるぬる尽くしの物を、どうやったら、うまく食べられるんでしょう? デザートは、茶碗蒸しと、メロン。 もちろん、美味。 終り良ければ、全て良しといったところ。

夕食


  斜め前方の席に、老夫婦と、すでに成人していると思われる娘の、三人連れが座っていました。 父親が、旅の話だったか、料理の話だったか、ぼそぼそした口調で、御高説を垂れ始め、あまりに理屈っぽいので、母親と娘が、ブチ切れて、「なんで、こんな所で、そんな話をするの!」と、怒っていました。 親父さん、酒が入って、何か喋りたくて仕方なかったんでしょうな。 それは分かるが、傍から見ても、みっともない情景でした。

  このホテルだったか、利尻のホテルだったか、忘れてしまったのですが、カニの追加を注文しようとしていた客がいましたなあ。 係員から、「できない事はないですが、2時間くらいかかります」と、遠回しながら、はっきりと、拒否されていました。 一般のレストランとは方式が違い、ホテルの厨房では、予約された料理しか作っていないのです。 どちらのホテルも、カニは、20センチくらいの皿に一皿でしたから、カニ好きには物足りなかったかも知れませんが、追加注文して、断られてしまうと、これまた、みっともない情景になりますなあ。

  部屋に戻ったのが、7時半。 洗濯、風呂と、定常作業をこなし、日記の続きを書いて、9時頃、ベッドに横になったら、テレビを点けたまま、眠ってしまいました。


≪二日目、まとめ≫
  元地地区へ行けなかった件については、何度も書いたから、繰り返さないとして、礼文島には、それ以外にも、素晴らしい景観のスポットがいくらもあり、十二分に堪能させてもらいました。 今こうして、帰って来てから、思い返すと、この礼文島が、今回の旅の、圧巻だったのだと思います。 他の所も良かったのですが、礼文のあのダイナミックな景色は、他では、ちょっと見れませんからのう。 北海道旅行の定番目的地を外し、利尻・礼文を入れてくれた、○△商事の担当者には、感謝しなければなりません。

  郷土資料館で、「女性像・動物像」を、生で見れたのも、嬉しかったです。 旅行に行く前、ネットで調べている時、どこかのサイトで、「礼文のヴィーナス」という形容を目にしたような記憶があるのですが、今、調べ直しても、見つかりません。 私が勝手に作り出してしまった言葉だったんでしょうか。 そんなこたないと思うんですが・・・。

  前回の利尻島と比べると、島の暮らしぶりについて、随分と細かく書いていると思うでしょうが、これは、礼文島の方が、貸切タクシーに乗っていた時間が長かったので、そういう日常的な話まで出たというだけの理由です。 利尻では、観光地の説明だけで、3時間、埋まっていましたからのう。 私の方から質問できる、時間的ゆとりがあれば、そういう細かい事を訊くわけです。 地元の人が、当然以前で常識だと思っている事でも、よそ者には、大変面白いという事が、よくあります。

  この日も、利尻岳は、上半分、雲に隠れていたわけですが、運転手さんに、「もしかしたら、利尻岳というのは、利尻島で見るより、礼文島から見た方が、距離的にちょうどいいのでは?」と、水を向けると、それは当然だという感じで、「そうだそうだ」と、頷いていました。 だからねー、利尻島民に限らず、この一帯に住む人々にとって、利尻岳は、特別な存在なんですよ。

  あと、礼文島の運転手さんは、香深の周辺では、会う人みんなと、挨拶していましたな。 人口が少ないから、顔見知りが多いんでしょう。 夏場は、観光客で、人口が膨れ上がるわけですが、観光客の相手をする店の方も、夏場だけ、島外からバイトを雇う所が多いとの事。 「観光シーズンが終わると、人が減り、軽くなって、島が浮き上がるんです」と言っていました。 私は、てっきり、ジョークだと思って、笑っていましたが、この翌朝、港の近くで、「花の浮島 礼文島」という看板を見ており、もしかしたら、そのキャッチ・コピーと、何か、関係がある話だったのかも知れません。 今となっては、確かめようもありませんが。

2014/10/19

利尻一周

  ようやく、沖縄旅行記が終わったと思ったら、次は、北海道旅行記で、「もー、旅行記は、えーがな」とは、誰よりも、私本人が、そう思っているのですが、乗りかかった舟同様、書きかけた旅行記も、書き終えてしまわないと、甚だ気分が悪い。 「それにしても、少し、間を置いてはどうか?」とは、私も思ったのですが、間を置くと、旅行記の執筆から解放されるのが、それだけ遅れるわけで、ますます苦痛が増しそうなので、続けて書いてしまう事にします。 いや、北海道の方は、5泊6日でしたから、6回で終わります。 ・・・それでも、6週間か・・・、公開が終わるまでに、一ヵ月半もかかるな。 私は、引退無職の身ですから、何ヵ月かかろうが、構やしないんですが、読む方が大変ですねえ。

  「沖縄から帰って来たのが、7月31日、北海道に出かけたのが、8月25日で、その間、24日間、何をやっていたか、まるで思い出せない」と、前回、書きましたが、日記を調べてみたら、やはり、大した事はしていませんでした。 バイクで、富士・富士宮に、ブックオフ巡りに行ったのを除けば、近場を自転車でうろついていただけです。 ホーム・センターや、作業着店を回って、北海道へ被って行く帽子を探していました。

  沖縄へ被っていった帽子が、もう何年も前に買ったもので、相当くたびれており、所々、生地の織り目が寄ってしまって、みっともなさを感じるほどだったので、「北海道旅行は、ホテルや貸切タクシーを使う最後の旅になるのだから、新しい帽子を買うか」と、珍しく、色気を出したという次第。 予算は、千円くらいまでを覚悟していました。 ところが、探し始めたら、今や、地方に於いては、帽子屋という専門店は存在しない事がわかり、服飾店では、種類を置いていないため、否が応でも、ホーム・センターや、作業着店に頼らざるを得ませんでした。

  帽子というのは、ロゴが付いているかどうかで、値段が全然違うのですが、特定企業を応援する気が全くない私は、無地の方が都合がいいわけで、どんどん安くなり、最終的には、ワークマンで、597円のを買いました。 ちっ・・・せっかく、千円出すつもりでいたのに、面白くない。 特定企業のロゴではなく、英文の文字が刺繍された物があり、そういうのは、千円前後するのですが、英文を読んでみると、くっだらねー事が書いてあんだわ。 「馬が大好き」 たぶん、競馬ファン向けに作ったんでしょうな。 そんなの被れるか。 また、鷲鷹類が翼を広げたような絵が刺繍してある物も多いですが、なんで、そういう攻撃的な図柄にしたがるかなあ。 まるで、敵を探しているみたいではありませんか。 同じ猛禽でも、せめて、フクロウにしてくれれば、まだ、知的なものを。

  そうそう、沖縄旅行の、辺戸岬徒歩行で、底に穴を開けてしまったスニーカーも、買い換えました。 こちらは、東京靴流通センターで、千円のを買いました。 前のは、2足で1500円のでしたから、少し、グレード・アップした事になります。 ブランドに拘らないなら、スニーカーなんて、千円以下で充分です。 特に男の場合は、すぐに汚れるので、高いのを買っても、無意味。 汚い靴というだけで、目を背けられてしまうのであって、どこのブランドかなんて、誰も気にしてくれません。 また、今時の千円靴は、外見上、3000円以上の靴と区別がつかない上、履き心地もいいんだわ。

  それ以外に、沖縄旅行との、装備上の違いというと、服装が変わりました。 沖縄へは、半袖シャツで行きましたが、○△商事の担当者にメールで問い合わせたところ、「北海道は、8月末でも、もう寒い」と言うので、長袖で行く事にしました。 プラス、防寒用に、フリース・ジャケットを持参。 旅行鞄は同じ物なので、ジャケットが嵩張る分、着替えと下着類を減らし、着ていく物と合わせて、各2着とし、毎晩洗う事にしました。 タオルは持たず、おしぼりタオルだけ。 目覚まし時計も、置いていきました。

  そういや、もう一つ、買って行った物がありました。 除菌ティッシュです。 首里城で土禁を喰らった後、国際通りの市場で買った物が、まだありましたが、残り僅かだったので、予め、買い足しておいた次第。 100円ショップで、「厚手・20枚入り×2パック」というのを買いました。 これだけあれば、ホテルのトイレの、便座除菌にも使えるでしょう。 沖縄じゃ、そのつど、トイレット・ペーパーを敷いていたので、面倒臭かったんですわ。

  沖縄旅行から帰って来た時点では、まだ、北海道の方の日程が決まっていませんでした。 台風で中止になった、西表島ツアーの代金を払い戻してもらうよう、○△商事に連絡したところ、その分の金額を、北海道の方へ回すとの事で、再調整され、8月5日に、日程表が届きました。 5泊6日で、「利尻島→礼文島→稚内→札幌→函館」と泊まります。 札幌が2泊で、そこにフリー・タイムが1日入りますが、それ以外の日は、全て、貸切タクシーに乗ります。 北海道旅行の定番である、美瑛、富良野、摩周湖、阿寒湖、知床半島、旭山動物園など、道東の観光地を、敢えて無視し、利尻・礼文を入れているのは、○△商事の担当者が、自分が行きたい所を入れたのではないかと思います。 私は、目的地について、一言も、要望を口にしていませんから。


  今現在、北海道旅行から帰って来て、すでに、一ヵ月半が経過しているわけですが、その間、沖縄旅行記を書く為に、沖縄の日記ばかり読み返していたので、北海道の記憶の方が、奥に入ってしまい、どちらが先だったか、感覚的に混乱するという、奇妙な気分に襲われています。 うーむ、シュールだ。 また、北海道には、去年(2013年)の10月末から、今年の1月半ばまで、仕事の応援に行っていて、苫小牧に2ヵ月半住んでいたので、新千歳空港などは、その時の記憶と重なり合って、ごちゃごちゃになってしまっており、尚更、シュール感が高まります。 北海道応援、岩手異動、入院、退職、沖縄旅行、北海道旅行と、北から南を股にかけて、今年は、いろんな事が、立て続けに起こり過ぎました。

  シュールな気分に囚われつつ、北海道旅行記を始める事にしましょう。 なに、日記を頼りに書くので、記述内容そのものは、シュールになるような事はないと思います。 期間が、約半分だったという事もあり、北海道旅行は、沖縄旅行より、シンプル且つスマートな印象が残っています。 強行軍をやらなかった事も、大きいですかね。 いや、結構、厳しかった日もあったのですが・・・。

  そういや、沖縄旅行記の途中、≪宮古島周遊≫の回の枕で、一週間前に北海道旅行から帰って来た事を告げ、「この一週間で、先に北海道旅行記の方を、書き進めていました」と書いていますが、それは、嘘ではないものの、そちらは、あくまで、公開日記用に書いたので、ダイジェストもいいところ。 読み返してみたところ、特に、利尻・礼文・稚内の三日分は、それぞれ、10~13段落くらいしかない、お粗末な物でした。 沖縄旅行記の方は、各回平均して、90段落くらいはありますから、比較になりません。 結局、三回分は、全て、書き直す事にしました。 沖縄旅行記さえ書き終えれば、楽になると思っていた私が浅はかだった。 最低でも、あと三週間は、地獄が続くか・・・。 こんなに苦労して、いつか何か、リターンがあるのだろうか?



≪家から、羽田まで≫
  結局、また、そこから始めるわけだ。 沖縄旅行では、羽田発の飛行機の時間が、11:55でしたが、北海道旅行では、10:15と、1時間40分も早かったので、家を出たのも、6時45分と、出勤並みの時間になりました。 出勤並みの時間という事は、ラッシュに重なるという事でして、出かける前から、嫌な感じがしました。 混んでいる所へ大きな旅行鞄を持ち込んで、通勤客に白い目で見られるのも敵いませんし、満席で座れないとか、もっとひどい場合、乗れないなどというケースも考えられます。

  で、ゆとりを持って、バス・電車の便を予定しておいたのですが、恐れていた程には、混雑しておらず、むしろ、早目早目に着いてしまいました。 7:00のバスで、沼津駅へ。 7:23の東海道本線で、三島駅へ。 7:38の新幹線で、品川へ向かいました。 バスは予定通りでしたが、電車の方は、どちらも、予定より、一本早い便に乗れました。 そーんなに急いでも、羽田で待つ時間が長くなるだけなんですが、まあ、遅れて、飛行機に乗れなくなるよりは、遥かにマシですな。

  新幹線は、さすがに、その時間帯では混んでいて、私は座れましたが、小田原から先になると、立ち客が出ました。 いつも思うのですが、高い特急券を買っているのに、立ち乗りしなければならないというのは、割に合わない気がします。 他人事でも、見ているだけで、腹が立つから、不思議。 そういや、新幹線では、自由席車両でも、優先席というのを見かけませんが、立ち客が出た時に、優先席が空いていると、問題があるから、設けないんでしょうか? 特急料金を取っていながら、立ち乗りさせる事を、少しは悪いと思っているのかな? 

  品川駅に着いたのが、8時25分くらい。 記念に切符を貰う為に、乗り換え改札は通らず、一旦、外に出ました。 品川駅は、改札の外に出ても、「自由通路」というのがあって、新幹線側から、京急側まで、屋内を通って行く事ができます。 この自由通路、幅が20メートルくらいはあると思うのですが、いつ見ても、人が、わらわらと歩いています。 この日は、通勤ラッシュの時間帯だったので、わらわらどころの話ではなく、水路に逆巻く土石流の如く、はたまた、大量発生したネズミの如く、人の奔流が押し寄せて、引きも切りません。 反射的に、酸欠を心配するほどの凄まじい光景でした。

  これだから、東京は・・・。 なに、品川は東京ではない? いやあ、同じようなものさ。 どうしてまた、こんな住み難い所に、固まって住んでるのか、つくづく気が知れぬ。 「都会にいれば、輝ける」と思っているんでしょうが、それは、考え足らずの思い違いというもので、大人口の中にいれば、一人一人は、むしろ、埋没するだけです。 人口千人の村と、一千万人の都会とでは、人一人の価値は、一万倍違うのでは? もちろん、村の方が、一万倍高いわけですが。 すげーな・・・、「一票の格差」どこじゃないよ。

  また、私が、ここの動線を知らないものだから、左端を歩いて行ったのが、大失敗。 「中央改札」に近づくと、山手線や京浜東北線から、どっと溢れ出て来た、人の波に遮られて、京急の切符売り場へ行けなくなってしまいました。 工事関係者の一団が、私と同じように、立ち往生していましたが、5分待っても、人波が途切れません。 その内、工事関係者の一人が、勇気を奮って、人波の中をすり抜けて行きました。 他の人もそれに倣ったので、私も続きました。 もし、その人達がいなかったら、あと何分待っていたか、分かりません。 これだから、東京は・・・、まあ、いいか。

  京急の券売機で、410円の切符を買い、ホームへ上がります。 何度も何度も書くように、羽田空港へは、「エアポート快特」に乗るのが、一番速いのですが、毎回、その事を忘れ、違う列車に乗ってしまいます。 沖縄旅行記に続けて、これを書いているので、読んでいる方々は、「アホちゃうか?」と思うでしょうが、私としては、沖縄旅行から帰って来た日から、この日まで、26日経っていたわけで、またしても、その事を忘れてしまったんですな。 この時乗ったのは、「エアポート急行」でした。 紛らわしい名前だ。 で、「急行」とは言うものの、単に、蒲田で乗り換えなくてもいいというだけで、れっきとした各駅停車なのです。 よう分からん名前やわー。 わて、分からんわー。 各駅停車なのに、なんで、「急行」やのん?

  こちらも、混んでいて、立ち乗りでしたが、京急の品川・羽田間は、ラッシュ時間であっても、ギュウギュウ詰めになるような事はないようです。 蒲田で、目の前の席に座っていた女性が下りたので、そこへ座りました。 隣の兄ちゃんが、居眠りしていて、肩に凭れかかって来るのが、気持ち悪い。 その内、目覚めたらしく、肩にかかる圧力がなくなりましたが、兄ちゃん、女性に凭れているつもりだったのが、気づいたら、オッサンだったわけで、さぞや、驚いた事でしょう。

  あのよー、たとえ、本当に眠っていたとしても、女性にしなだれかかっていたら、相手に、痴漢行為と見做され兼ねんぞ。 公共の場なんだから、ちったー、緊張しろよ。 寝ていいのは、新幹線のような、セパレート・シートだけだと思いな。 逆に、女性の方が眠り込んで、しなだれかかって来た場合、喜ぶ男が多そうですが、これまた、なりゆきによっては、痴漢扱いされる事になり兼ねないので、他に空いている席があったら、早々に移った方が、後難を避けられると思います。 とにかく、電車に乗ったら、「女は敵だ」と思った方が宜しい。 最悪、人生が破滅します。 どこの馬の骨とも分からん女と肩触れ合わす喜びより、人生を安寧に保つ事の方がずっと大切なのは、天秤にかけるまでもない事。

  9時10分頃、羽田空港に到着。 予約してある飛行機は、全日空なので、第2ターミナルの方へ上がりました。 第2ターミナルと言っても、広うござんす。 この時の航空券は、座席指定されていたのですが、座席番号だけで、搭乗ゲート番号が載っていませんでした。 一か八かで、向かって右側の「C・Dフロア」の方に上がりました。 チェック・イン・マシンに行ったら、「すでに、座席指定されているので、搭乗手続きは不要です」との表示。 保安検査場を通り、出て来た搭乗券を見ると、「55番ゲート」とあります。 一か八かの賭けは、八に出ました。 「C・Dフロア」は、右端の方であるのに対し、55番ゲートとは、左の端なのです。 まーた、歩くのか!

  羽田の待ち合い場は、広いんだわ。 動く歩道がありますが、それに乗ってしまうと、速度が遅いし、歩き難いし、床を普通に歩くより、却って、時間がかかります。 足が不自由な人でもない限り、お勧めではありませんな。 見ると、客よりも、専ら、航空会社の地上勤務員が利用しているようですが、ありゃあ、ゲート間を行き来するのに、歩いていたら、疲れてしまうからでしょうなあ。 もしや、本来は、業務用だったのか? それなら、大掛かりな動く歩道なんかより、キック・ボードか、セグウェイでも使った方がいいのでは?


≪羽田から、新千歳まで≫
  待ち合い場で、1時間ほど、日記を書いて過ごしました。 まだ、羽田も出ていない内から、日記とは、気が早いこってすが、時間がある時に書いておかないと、夜がきつくなるので、仕方ないのです。 アナウンスがあり、私が乗る便が満席なので、後の便にしてもいいという人は、申し出てくれれば、一万円払い戻すとの事。 「えっ! 一万円? 戻す戻す!」と、腰を浮かせかけましたが、後の便の時間が、11:50発だと聞いて、立つのをやめました。 羽田から新千歳まで、1時間半くらいかかるというのに、新千歳から、利尻へ向かう便が、13:10発なのですから、とても、間に合いません。 その後、また、アナウンスがあり、締め切ったと言ってましたから、応じた人がいたんですねえ。 1時間35分も遅くなって構わないというのは、一体、どういう用向きの客なんでしょう? 一万円か・・・、羨ましい・・・。

  満席のせいで、機内持ち込みできる荷物に、制限をかけるという放送もあり、心配していたのですが、乗ってみると、そちらは、問題ありませんでした。 予約していた航空会社は、全日空だったのですが、機体を融通しあうシステムとかで、実際に乗ったのは、エア・ドゥの飛行機でした。 エア・ドゥというのは、北海道を中心に路線を持っている、地方航空会社です。 もちろん、客室乗務員も、エア・ドゥの社員。

  機体は、≪B767-300≫で、沖縄旅行の時に、羽田から、石垣島まで乗ったのと、同形機でした。 2・3・2の、7席が、約42列で、約300席です。 沖縄から帰ってから調べたら、≪B767-300≫は、80年代にデビューしたとの事。 内装は、角ばっていて、エルゴ・デザインの名残りが感じられます。 80年代頃は、こういうのが、未来的なデザインと思われていたんですな。 私も昔、エルゴ・デザインに、未来を感じていた人間なので、この飛行機の内装には、奇妙な懐かしさを感じます。 あの頃は、まさか、こんなつまらない21世紀になるとは、想像もしませんでしたが・・・。

  機体は同じですが、エア・ドゥなので、シートのデザイン、シートの生地、ヘッド・レストのカバーなどが、全日空のそれとは、違っています。 そういうのは、オプションなんでしょうなあ。 そういえば、救命器具の使い方などを書いた、「安全のしおり」も、航空会社ごとに違うようです。 もろ、会社の名前が入っているものね。 安全ビデオの内容も違います。 ついでに、モニターの位置や数も違う。 共通なのは、天井のトランク・スペースだけ? オプションの自由度が利くのはいいですけど、乗客側からすると、そんな違いは、どうでもいいような気もします。

  10時20分頃、離陸。 私の席は、「25G」で、右の窓側でしたが、ちょうど主翼の上で、しかも、始終曇っていたので、下は、全く見えませんでした。 つまらんフライトだ。 ドリンク・サービスあり。 御当地航空会社だけあって、北海道産玉葱を使ったオニオン・スープなどがありましたが、無難なところで、コーヒーにしておきました。 カップに、企業キャラクターである、「ベア・ドゥ」という熊の顔がデザインされています。 裏側には、アイヌ模様の下に、「イランカラプテ」という文字。 アイヌ語で、「こんにちは」という意味だとの事。 ミルクが、液体ではなく、スティックに入った粉だったのは、指先を汚す心配がなくて、始末が良かったです。

  機内冊子を見ると、ベア・ドゥのぬいぐるみとか、「エア・ドゥ リカちゃん マスコット」などが、機内販売されている模様。 後者は、エア・ドゥの制服を着たリカちゃん人形の小さい奴で、ストラップになっています。 商品としての魅力はあると思いますが、どういう人が買うんでしょう? オタク系の男? CAに憧れる女の子? いやあ、しかし、女の子は、人形のストラップとか、つけないんじゃないですかねえ。 そもそも、スマホ時代になってから、ストラップ自体が、敬遠されているし。 ちなみに、どちらも、千円です。

  隣の席は、若い女性でした。 離陸するなり、文庫本を開きましたが、読み始めるなり、寝てしまい、飛行中、ずっと眠っていて、ドリンクを貰い損ねていました。 気の毒に。 だけど、眠っている客は、ドリンク・サービスの時に起こさないというのが、航空会社一般の方針のようですから、仕方ないですな。 「ドリンクなんて、別に要らない」という人ならいいのですが、私のように、それを楽しみに飛行機に乗っているような人間は、眠りこけて、飲み損ねたりした日には、飛行機の床も抜けよと地団駄踏むだけでは足りず、一生涯、悔やみ続ける事でしょう。

  飛行中、機長のアナウンスがあり、上空の気流が不安定なので、8000メートルと、低い所を飛んでいるとの事でした。 普通は、このサイズの飛行機だと、1万メートル以上を飛ぶので、随分、低いです。 外を見ると、ギリギリで、雲の上を飛んでいるという感じでした。 するってーとつまり、飛行高度というのは、その時の都合で、変えられるものという事になりますな。 飛行中の高度までは、空港の管制を受けないと思うのですが、他の飛行機との衝突の危険性とかないんでしょうか? 素朴な疑問、旅客機って、レーダーあるの? いや、レーダー見ながら、飛行してるようじゃ、危なっかしくて、話になりませんけど。

  まあ、いいか、無事に着いたんだから。 新千歳は、雨で、かなり揺れのある着陸でしたが、台風の中を、石垣空港に下りた時のような、接地後のバウンドなどはありませんでした。 あんな事が、しょっちゅうあったんじゃ、飛行機なんか、怖くて乗れやしません。 7ヵ月ぶりに目にする、懐かしの新千歳ですが、窓は水滴でいっぱい。 機内から外は、碌に見えませんでした。


≪新千歳空港≫
  11時50分くらいに、飛行機を下りて、空港ターミナルに入りました。 過去に二度も下りているので、迷うはずもなく、一階に下り、到着ロビーから、外へ出ました。 利尻行きは、13:10発ですから、まだ、1時間以上あります。 ターミナルの前に出て、バス乗り場を歩き、北海道応援の時に、支笏湖行きのバスに乗った、「1番乗り場」まで行ってみましたが、これといった感動はなし。 まあ、7ヵ月しか経っていないわけですから、まだ、ギンガリ記憶に残っているわけで、ハンカチ握って泣き崩れるほど懐かしいはずもありません。 むしろ、前に来た事がある所だと、新しい感動がない分、テンションが下がります。 7ヵ月くらいでは、変わった所もないわけだし。

  変わったのは、空港の方ではなく、私の方です。 この7ヵ月の間に、どれだけ多くの事件に見舞われた事でしょう。 移動だけでも、北海道→沼津→岩手→沼津→沖縄→沼津→北海道と、遠大な距離を行ったり来たりしていて、目が眩む程です。 その上、7ヵ月前に来た時には、会社員だったのが、この時は、無職になっています。 ちなみに、2ヵ月に及んだ有休消化が終わって、正式に退職したのが、8月25日、つまり、この日でした。 本当は、旅行なんぞに出かけている場合ではなく、市役所に各種手続きに行かねばならんのですが、○△商事の担当者が、私の退職日を知ってか知らずか、この日を出発日にしてしまったのだから、しょうがない。

  ターミナルの中に戻り、2階の出発ロビーへ。 利尻行きの搭乗手続きをする為に、チェック・イン・マシンに向かいましたが、この航空券も、座席指定されていたので、手続きは必要ないという表示が出ました。 保安検査場を通る前に、2階、3階にある、土産物店・飲食店街を見て回りました。 北海道応援の時にも、横を通ってはいたのですが、中まで入ってみると、規模が大きくて、びっくりしました。 よくもまあ、空港の中に、こんなに店を集めたものです。

  展望デッキへ。 横に長く、そこそこ広いものの、完全な屋外で、屋根はありません。 外は雨がパラついていて、長居は出来ませんでした。 私が乗って来たのとは違いますが、エア・ドゥの飛行機で、外のデザインに、ベア・ドゥを描いた機体が停まっていました。 やはり、外装の特殊デザインは、乗客の為ではなく、外から見る者の為に施されるものと思われます。

  たぶん、3階だったと思いますが、日本航空のスチュワーデス(女性CA)の、歴代制服や、今までに使われて来た機体の模型を展示したコーナーがありました。 ちなみに、私は、制服には、何の興味もありません。 いや、厳密に言うと、何の興味もないというわけではないか。 「結構、汗を掻く仕事のように思えるが、この制服、毎日洗ってるのかね?」と思う程度の興味はあります。 どうなんですかね? 週に一度とか言われたら、ちと引きますな。 月に一度なんて聞いた日には、飛んで逃げます。 清涼飲料水のCMなどを見ていると、若い女性の汗に色気を感じる男というのが、少なからず存在するように推測されますが、私に言わせれば、そんなのは、老廃物以外の何物でもないです。 きったねーなー。

  その反対側に行ったら、様々な飛行機の模型が展示されていました。 小さいのは、市販のプラ・モデルのようです。 軍用機まである。 爆撃機、戦闘機、旅客機と、スケールを揃えて並べてあると、大きさが比較できて、興味深いです。 面白い事に、日本のプラ・モデル・メーカーが無視している、第二次大戦中のソ連戦闘機も入っていました。 兵器系のプラ・モデルというと、「時代遅れのオタクの、手慰み」といった、しょーもないイメージがありますが、こういう所に展示されていると、それなりの価値を感じるから不思議です。

  保安検査場を通り、待ち合い場で、家から持って来た、おにぎりを食べました。 これは、私が自分で握ったもの。 何も入っていない塩むすびですが、こと、おにぎりに関しては、私は、自分が作った物が、一番おいしいと感じます。 何か入れるから、まずくなってしまうのですよ。 塩だけで充分です。 飲み物は、沖縄旅行の時と同じく、CCレモンの500ccペットボトルに、水を入れたもの。 長旅中の水分補給は、水が一番でして、喉が渇くたびに、炭酸飲料を飲んでいたのでは、歯がもちません。


≪新千歳から、利尻島まで≫
  12時55分から、搭乗開始。 日記を書いている内に、ゲートが開いて、慌てました。 ここのところ、こういうパターンが多い。 飛行機は、≪B737-500≫。 内装が似ているので、「もしかしたら、沖縄旅行で、宮古から那覇まで乗ったのと同じ機体では?」と思っていたのですが、家に戻ってから、調べたら、果たして、その通りでした。 乗る前には気づきませんでしたが、利尻空港で下りた後、飛行機を見たら、やけに短い胴体で、「こんな寸胴な物体が、よく飛ぶな」と思う程でした。

  CAは二人で、宮古・那覇間と同様、ドリンクの代わりに、飴をくれるのですが、こちらでは、CAが配って歩くのではなく、搭乗する時に、ドアのすぐ内側に置いてある籠から、自分で取るようになっていました。 なるほど、この方が、CAの手間は少ないです。 私の席は、「5F」で、 左右3席ずつの、右側の窓側。 主翼よりは少し前で、すぐ横に、エンジンの前端が見えます。 隣は、空席。 運がいいなあ。 やっぱり、隣は、空席に限ります。

  13:10の予定なのに、13:08には、離陸しました。 飛行機に、遅れは、勿論ありますが、フライングもありなんですねえ。 「飛行機なんだから、フライングは当たり前」などという、自分で思いつく分にはいいが、人に言われた日には笑うに笑えぬギャグを言っているわけでは決してなく、考えてみると、全席指定なのですから、売れている席が全部埋まったら、早く出ても、問題はないわけですな。

  新千歳から利尻島への飛行も、やはり雲が多くて、眼下の景色は堪能できませんでした。 時折、雲の切れ目から見ると、山、また、山。 山の中に、ちょっと平らな所があるかと思うと、みな畑になっていました。 人間の開発欲というのは、つくづく、恐ろしいものです。 ドリンク・サービスは、基本的にないのですが、希望者にだけ、アップル・ジュースを、手注ぎで配っていたので、手を挙げて、一杯貰いました。 私も、図々しくなったものだて。

  北海道の北端に近づいてから、左旋回して行きましたが、真っ直ぐに利尻島へ向かわず、北にある、礼文島の方へ大きく寄ってから、左側へ機体をぐっと傾け、左旋回を続けました。 左側の窓に、海面が間近に迫り、波の形まで、はっきり見えます。 利尻と礼文の間を通り、「の」の字を、逆向きになぞるような形で、再び、機首を北へ向け、利尻空港の滑走路に、南側から入って、着陸しました。 この大きな左旋回は、上空から、利尻富士や海の色を見せる為のサービスかと思っていたんですが、よく考えてみると、そんな業務外の事を、機長がするとも思えず、未だに、理由が分かりません。

  そもそも、利尻と礼文の間を通ろうとするから、こんな回り方をしなければならないわけで、早目に海上に出て、南側から利尻空港に接近すれば、真っ直ぐ下りられたと思うのですがね。 やっぱり、サービスだったんだろうか? 私の席からだと、利尻富士は見えませんでしたが、海の色には、グラデーションが、見て取れました。 沖縄のそれとは、色の濃さが違いますが、黒と紺の境界が、はっきり分かります。 もっとも、とっくに、着陸態勢に入っていて、カメラは使用禁止だったので、撮影は不可でしたけど・・・。 やっぱり、サービスではなかったのか?

  着陸した時点では、速度が、かなりあって、怖いくらいでしたが、窓からエンジンを見ていると、外殻の一部が開いて、後ろに下がり、「逆噴射だな」と思った途端に、ぐぐぐーっと、制動がかかって、強引に押さえ込むような感じで、減速しました。 うーむ、毎回毎回、着陸のたびに、感じが違うのは、機体の違いなのか、気象条件の違いなのか。 むしろ、エンジンなんか、見えない方が、緊張しなくて済むような気がします。

エンジン(上)/ 空港から見た利尻岳(下)



≪利尻空港≫
  着陸したのは、2時ちょっと前くらいで、2時5分には、飛行機から下りていましたから、本来の到着予定時刻である、2時20分より、だいぶ早く着いた事になります。 出発がフライングした上に、飛行時間も、予定より短かったわけだ。 「飛行機とは、大抵、遅れるものである」と思っていた、それまでのイメージが、一気に引っ繰り返りました。

  利尻空港は、滑走路一本の、シンプルな空港でした。 ターミナルは、2階建てで、まだ新しく見えます。 2階と言っても、ボーディング・ブリッジはなくて、乗降は、タラップでした。 滑走路を歩いて、ターミナルまで行きましたが、風が強くて、帽子を押さえていなければなりませんでした。 異様に寸胴な飛行機の背景に、利尻富士が見えるのですが、上の方は、雲に隠れています。 富士は、どこでも、雲が付き物なのか。 利尻富士は、私が想像していたよりも、ずっと大きな山である事が、現物を目の前にして、はっきり認識されました。 ただ、形が似ているという理由だけで、「○○富士」と呼ばれる山は多いですが、この利尻岳は、その雄大さに於いて、本家の富士に引けを取りません。

  ターミナルの中に入ると、各ホテルからの迎えが、人垣を作っていました。 その人数から見て、利尻島が、小さな島ではない事が分かります。 その隅に、貸切タクシーの運転手さんが、私の名前を書いた名札を掲げて待っていました。 60歳くらいの方。 すぐに、案内されて、外へ出てしまったので、ターミナルを観察する暇がありませんでした。 翌朝、島を出る時には、フェリーで礼文へ渡るので、このターミナルに来る事は、もうありません。 恐らく、二度と行けないでしょう。 一期一会ですなあ。


≪貸切タクシー≫
  空港ターミナル横の駐車場に行くと、シルバーのタクシーが停まっていました。 日産のクルーです。 フロント・ドアの横に、「富士」と書いてあり、見慣れた文字なので、何とも思わずに、乗っていましたが、帰って来てから、写真を見直していたら、「はっ!」と気づきました。 この「富士」というのは、「富士フィルム」や、「フジテレビ」など、日本全国で一般的に使われている、富士山の意味の富士ではなく、「利尻富士」の事だったのです。 日程表に書き込まれていた、タクシー会社の名前を確認したら、「富士ハイヤー」。 これは、もう、絶対に、それ以外に考えられません。 すぐに気づかなかった、私が抜けている。

  運転手さんが名刺をくれました。 そういや、沖縄でも、本島の運転手さんが名刺をくれましたっけ。 車内に出ている名札を見ると、生年月日が書いてあって、私の見立てと、ほぼ同じ年齢でした。 私としては、年上の方が話し易いので、ありがたいです。 日程表や、クーポンの記載では、午後2時20分から、4時まで、1時間40分の契約でしたが、乗って最初に言われたのが、「3時間ちょっとかかると思います」との話。 「え? どーなってんすか?」と思ったものの、前払いしてあるので、追加料金を取られる心配はないわけだし、夕食前にホテルに送ってもらえさえすれば、否やはないわけで、「はい、分かりました。 宜しくお願いします」とだけ、答えておきました。

  年齢と話し易さについて、ちょっと書きましたが、いざ走り出すと、この運転手さんに限っては、そんな心配は無用であった事が、判明しました。 会話ではなく、解説で、ほぼ、全ての時間が埋められたからです。 これはこれで、プロの技としか言いようがありません。 もう、どこを走っている時は、何を話すという事が、頭にぎっしり詰まっていて、立て板に水、次から次に、言葉が出て来るのです。 こちらは、相槌だけ打ちまくる事になります。 質問すれば、答えてくれますが、それをやると話の腰を折ってしまう事が分かった後は、極力、控えました。


≪利尻岳≫
  利尻島は、海底火山が噴火して、海の上に火山噴出物が積層し、山になり、島になったもの。 つまり、「利尻岳=利尻島」という事になります。 この辺りでは、富士山以上に有名で、地元の人達は、みな、高い誇りを感じている様子。 残念ながら、私が利尻島にいる間は、上半分、雲に覆われ続けていて、その全容を拝む事ができませんでした。 しかし、裾野の稜線を見るだけでも、この山が、大変美しい姿を持っている事は分かります。

  利尻岳には、側火山が幾つかあり、「ポン山」と呼ばれているとの事。 側火山というのは、富士山で言えば、宝永山のようなもので、主火山の中腹や裾野から噴火して、その噴出物で出来た山の事です。 利尻岳の場合、北側にあるのが、上に何も付かない、「ポン山」、南側には、「鬼脇ポン山」、「仙法師ポン山」、「オタトマリ・ポン山」などがあるようです。 利尻岳には登山コースがあるらしいですが、運転手さんの話では、8時間くらいかかるそうで、明日の朝までしかいない私には、無縁の話でした。 運転手さんは、いかにも、待ち遠しそうに、「あと、三千年待てば、死火山になります」と、何度も繰り返していました。 真実にして、ジョークになっている、珍しいケースですな。


≪神社と鳥居≫
  さて、最初に寄ったのが、空港近くの神社で、森に埋もれたような所でした。 確か、車から下りずに、窓から見たのだと思います。 説明を聞くのに手いっぱいで、写真を撮る暇がなかったのですが、大きな鳥居と、小さな古い型の狛犬があったのは覚えています。 写真がないので、神社の名称は分かりません。 場所的には、本泊(もとどまり)の港に行く前ですから、空港と本泊の間だと思います。

  私が、北海道で、唯一、土地勘がある苫小牧では、大きな神社を一つも見なかったので、遥か北方にある利尻島の、しかも、森の中に、こんな大きな鳥居が立っているのには、意外な感じがしました。 運転手さんの話しぶりから察するに、すでに、江戸時代には、この土地まで日本人が来て、住んでいた証拠として、この神社を見せたかったようでした。

  しかし、どんなに遡れようと、それ以前に、アイヌ人が住んでいた事は、地名からも明らかで、日本人が後から来た事は否定のしようがありません。 神は、人間にくっついて来るものですから、日本人が住みついた所、どこに神社があっても、不思議はないわけで、古い神社があるからといって、住む権利や資格があるという事にはなりますまい。 もっとも、こういう事は、私が勝手に察した事で、運転手さんは、そんな突っ込んだ主張をするつもりではなかったのかも知れません。

  沖縄でもそうでしたが、この種の話題は、どうしても、敏感にならざるを得ませんな。 罪を負う側の立場なら、尚の事です。 正直な感想、一番最初に、神社には、来たくなかったです。 しかし、案内慣れし尽くしている感のある、この運転手さんが、利尻島一周コースの、いの一番に、ここへ連れて来るという事は、私とは逆に、古い神社を見て、日本人が江戸時代から住んでいた事を知り、罪悪感が薄まって、ほっとする観光客がいるのかもしれません。 所詮、錯覚による気休めに過ぎないのですが。


≪高山植物≫
  走り始めて直ぐに、「お客さんは、植物に興味があるんですか?」と訊かれて、虚を衝かれました。 なんで、いきなり、そんな質問が出るのかと思ったら、利尻島は、緯度が高いために、高山植物が、平地で見られる事が特色で、花好きの人が、よく訪れるのだそうです。 というわけで、それ以降、草と言わず、木と言わず、花が咲いている植物に遭遇するたびに、高山植物の名前が、次から次に飛び出し、写真を撮るのに、大わらわとなりました。 コンパクト・デジカメでは、接写機能は知れており、捨てるつもりで撮り捲りましたが、帰って来てから見てみたら、存外、まともに撮れていて、逆に驚きました。

  北の果てだから、不毛の地かと思いきや、全く逆でして、夏場の花の種類は、静岡県より遥かに多いように見えました。 運転手さんが、片っ端から説明してくれても、こちらの植物知識が圧倒的に足りず、ほとんど記憶できなかったのは、大変、申し訳ない事でした。 つまりその、高山植物に興味がないくせに、利尻までやって来る観光客は、珍しいという事なんでしょうな。


≪リイシリ運上屋跡≫
  本泊の集落の山側にあります。 「リイシリ」というのは、利尻の事で、ここで、説明してしまいますと、アイヌ語で、「高い島」の事。 「リイ」が「高い」で、「シリ」が「島」なんですな。 即ち、「利尻島」と言うと、「高い島島」と言っている事になりますが、私が、この事に気づいたのは、翌日、礼文島に行って、そちらの運転手さんから、「シリ」の意味を説明された時でした。 「運上屋」というのは、松前藩が、海産物などの交易所として、和人の商人に、「場所」という区域を請け負わせ、その運上金を納めさせていた所。 開設は、1765年だそうですから、江戸時代の半ば頃です。

  その跡に、モニュメント風の石碑と、説明板が立っています。 昔の船の碇が、三つばかり、赤錆びた状態で置いてありますが、雰囲気的には、転がしてあるという感じ。 小奇麗なデザインのモニュメントと、錆びた碇が、何ともアンバランスで、殺伐とした印象を受けます。 碇は、他で陳列するか、せめて、何かに立てかけた方が、いいんじゃないですかね。

  説明板によると、ここの運上屋は、1807年に、帝政ロシアの軍艦に襲撃されているとの事。 いわゆる、「文化露寇(フボストフ事件)」の時の一場面のようです。 文化露寇というのは、日本に通商を求めてやって来た、ロシアの外交官レザノフが、徳川幕府の対応が定まらなかった事から、長崎で半年間も待たされた挙句、従来通りの、「鎖国してるから、駄目」という回答をつきつけられて、追い返され、それに腹を立てて、部下のフボストフに、カラフトやエトロフの日本側拠点を襲撃させたという事件。 軍艦を動かしているものの、戦争というほどの規模ではなく、紛争と言えば言えますが、どちらかというと、「襲撃事件」くらいが、ぴったり来ます。

  どうも、ロシア側が強過ぎて、戦いにならなかったようです。 もし、本気で上陸して来たら、日本側は、どこまで撤退したか分からないくらいですが、そもそも、フボストフは、本国の命令を受けておらず、本格的に侵略する気はなくて、腹癒せ程度の動機で襲撃しただけだったので、ロシア側が撤退したら、それっきりになったようです。 ただし、この事件の後、幕府は、東北諸藩に命じて、北方防備の兵を出させます。 その件については、また後で、ちょっと、利尻島と関係して来ます。


≪オオセグロカモメ≫
  タクシーは、本泊の港に入り、突堤の付け根の所で停まりました。 ここは、漁港です。 突堤の先に、カモメの一団あり。 沼津でよく見る、ウミネコよりも、ずっと大きいです。 運転手さんによると、オオセグロカモメだとの事。 「近寄って行ってみな。 飛び立つところが撮れるかも知れんよ」と言うので、カメラを構えたまま、一歩一歩近づいて行くと、果たして、バサバサと飛び立ち、確かに、写真は撮れました。 後ろ姿ばかりだったので、そんなに、迫力がある写真にはなりませんでしたが。 すまんな、カモメの衆、よそ者の遊びに、つき合わせてしまって。

オオセグロカモメ



≪北のカナリア≫
  海沿いの所々に、家が建っていますが、空き家になっている物が多く、それは、壁の板が外れて穴が開いたり、屋根が崩れたりしていて、すぐに分かります。 まだ、放棄されたばかりで、外見からは分からない家であっても、運転手さんは、どの家が空き家になったか、ほとんど、頭に入っているようでした。 この環境では、人口減少は、致し方ないですなあ。 昆布という海の恵みがあっても、これから人生を始める世代に、「ここで一生暮らせ」とは言い難いでしょう。 街にうんざりして、戻って来る分には、悪くないと思いますが。 この付近、車があれば、島内最大の街、「鴛泊」まで、20分もかからないと思います。

廃屋(上)/≪北のカナリア≫に出た家(下)


  海岸線に沿って、南へ下って行きます。 この辺り、吉永小百合さんが主演した、2012年の映画、≪北のカナリア≫の、ロケ地になったのだそうです。 「見ましたか?」と訊かれたので、「最初のところだけ見ましたが、全部は見ませんでした」と、正直に答えました。 こういう場合、テキトーに話を合わせて、嘘をつくと、後がきつくなります。 まあ、見てなきゃ見てないで、それなりの説明をしてくれるから、問題ないのです。 地元の人が、出演したそうで、主人公を送り出した家の前を通りました。

  主人公は、離島に赴任した学校の教師なので、撮影には学校が必要なわけですが、当初、利尻島に実際にある学校を使う予定だったのが、現地で見てみたら、近代的過ぎて、映画のイメージに合わない。 そこで、解体した家屋の廃材を礼文島に運び、南端の高台に、古い木造の校舎を、わざわざ建てたのだそうです。 そちらは、この翌日に見に行く事になります。 ≪北のカナリア≫の撮影は、この付近一帯の大事件だったらしく、利尻・礼文ばかりか、稚内でも、その影響を見る事ができました。 今度、テレビで放送したら、是非、見てみなければなりますまい。


≪昆布拾い・昆布干し≫
  利尻と言えば、利尻昆布。 一番の特産品だとの事。 この時期、昆布は、海岸に打ち上げられたものを拾うのだそうです。 岩場で、将に、昆布を拾っているおばあさんを発見。 運転手さんが、上から見下ろす格好で声をかけましたが、返事はあったものの、振り仰ぐ事はなく、仕事の手は休めませんでした。 この日は、波は静かでしたが、そこそこ風はあり、「やはり、厳しい環境だな」と思いました。 もっとも、もし厳しいだけだったら、最初から誰も住み着かないのであって、それを上回る、豊かな収穫があったわけですが。

昆布拾い(上)/ 昆布干し(下)


  昆布は、収穫した後、干して干物にするわけですが、その為の昆布干し場が、あちこちにありました。 ×の字に組んだ丸材の上に、竹竿を横に架け、洗濯物のように吊るしてある所もありましたが、主流は、地面に藁や石を敷いて、その上に並べる方式でした。 「藁」と書きましたが、「葦」のようなものだったかもしれません。 利尻島は、田畑がなかったので、稲藁にしても麦藁にしても、手に入り難いだろうと思いまして。 とにかく、何か、植物の茎のようなものです。 それを敷いた上に、昆布を並べれば、下側も風通しがよくなるという寸法。 しかし、それだと、手間がかかるので、今は、石を敷くやり方に変わって来たのだそうです。


≪会津藩士の墓≫
  空港や本泊は、「利尻富士町」でしたが、この辺りで、境界を越えて、「利尻町」に入ります。 昔はもっと、細分化されていたそうですが、今は、二つの自治体で、島を二分する形になっているとの事。 島の西端に当たる、「沓形(くつがた)」という所に、利尻町の役場があり、市街地を形成しています。 その北の郊外に、「会津藩士の墓」と、「顕彰碑」があります。 文化露寇の後、北方防備を強化する為、幕府が東北諸藩に命じて、藩兵を駐屯させるのですが、会津藩の藩士に、遭難や病気で、死亡する者が多く出て、利尻島では、数箇所に、会津藩士の墓があるとの事。

  運転手さんの話では、墓石も、会津から、わざわざ運んだのだそうです。 しかし、素朴な疑問として、会津から利尻へ、墓石を運ぶより、利尻から会津へ、遺骸や遺骨を運んだ方が、故人は喜ぶのではありますまいか。 もっとも、そこは、配慮怠りなく、分骨してあるのかもしれませんが。 思うに、会津藩にしてみれば、「犠牲者を出してまで、幕府の施策に貢献したのだぞ」という、証拠を残したかったのではないかと思います。 19世紀初頭の話ですから、まだ、幕末ではありませんが、この頃から、会津藩は、「将軍家への御奉公」に、熱心だったわけですな。

  この頃は、東北諸藩の藩士であっても、道北や道東の極寒地では、ただ生活する事さえ困難だったらしく、まして、武器の性能や量で、圧倒的に勝るロシアを相手に、防備なんぞ、できるわけがないのですが、幕府も、呆れた丸投げをやったものです。 そういや、苫小牧では、東北どころか、八王子の同心が入植していましたが、そちらも、寒さでやられて、壊滅状態に陥ったとの事でした。 事前調査もせんと、人を連れて現地に乗り込みさえすれば、どうにかなると思っているところが、いかにも、日本人らしい。

  ところで、会津藩の犠牲者について、運転手さんの話では、「文化露寇の時に、ロシア軍と戦って死んだ」といった説明を受けたような気がするのですが、どうも、歴史的経緯の順序が入れ替わってしまっている様子。 運転手さんだけが思い違いをしているのかと思いきや、私の母が37年前に買った、北海道旅行のガイド・ブックにも、同じような記述があります。 そちらは、もっと踏み込んだ間違いを犯していて、会津藩士らが戦って、ロシア軍を撃退したと書いてあります。

  推測するに、そのガイド・ブックが発行されたのは、冷戦時代の真っ最中で、とりわけ、日本では、ソ連嫌いの限りを尽くしていましたから、ソ連・ロシアを悪者にする分には、間違った記述でも、指摘する人がなく、そのまま通ってしまったのかもしれません。 もしくは、ソ連崩壊後に、ロシア側の資料が手に入るようになって、事件の真相が明らかになった、という事も考えられます。 いずれにせよ、史実とのズレが大き過ぎて、驚いてしまうような間違いです。 文化露寇と、東北諸藩の駐屯が、時間的に、ごっちゃになってしまっているのですから。

  運転手さんが、この件について、最初に勉強したのが、その頃だったとすれば、間違った知識を頭に入れてしまった事は考えられます。 ただ、運転手さんの話の内、文化露寇の発端になった、レザノフが長崎で半年間待たされ、追い返された件りは、至って、正確でして、その後が、どこでどうズレたのか、どうにも、腑に落ちないのです。 もう一つの可能性としては、事件の経緯が複雑で、説明しても、理解できない観光客が多いので、分かり易く、ダイジェストして、話しているというもの。 案外、そんなところなのかもしれませんが、国際的誤解の種になってしまう事を考えると、かなり怖いです。


≪利尻昆布の土産≫
  たぶん、沓形の辺りだったと思うのですが、運転手さんが、海沿いに建つ、とある土産物屋の前に、車を停めました。 利尻昆布を中心に、海産物を扱っている店です。 そこまでが、どういう話の展開だったか、忘れてしまいましたが、あれよあれよという間に、「ここで、利尻昆布が買えますよ」という話になり、下ろされてしまったんですな。 さすが、プロだ。 買わせ所に、実にさりげなく、いざなってくれる・・・。

  沖縄旅行記から、続けて読んでいる方々は、すでにお分かりでしょうが、貸切タクシーには、運転手さんの、「馴染みの店」があり、何も言わなければ、必ず、そういう所へ、寄る事になります。 観光バスなどでは、もっと露骨に、最初から、立ち寄る土産物屋が、日程表に書き込まれていたりしますが、タクシーの場合、それが、さりげなく、行なわれるわけですな。 普通、貸切タクシーを頼むような客は、金持ちなので、土産くらい、金に糸目はつけないのでしょうが、私は、福利ポイントの消化だから乗っているのであって、土産をポンポン買えるような、太っ腹な性格ではないのです。 弱るんだなあ、こういうのは。

  また、大きな店なら、見るだけ見て、買わずに出るという技も使えるのですが、この時に寄った店は、そういう事をやると、大いに不自然に感じられる程度の大きさだったのです。 こうなったら、買わないわけには行きません。 初日から、土産物で旅行鞄が膨らむのも困るのですが、利尻昆布の場合、干物で、ペッタンコですから、その点は、融通が利きそうです。 値段を見ると、500円くらいからある様子。 割と安かったので、安心しました。 テキトーに、500円のを取って、「これを下さい」と言ったら、店員の妙齢女性が、「これは、○○用だけど、△△用でなくてもいいの?」と言って、他の商品を見せてくれました。 昆布の使い方など、まるで知らない私は、とりあえず、勧められた方を買う事にしましたが、そちらは、620円でした。 ・・・どんどん、傷口が広がる。


≪時雨音羽・詩碑≫
  沓形港には、フェリー岸壁があり、夏場だけ、礼文へ通うフェリーが出ているらしいです。 昔は、北海道の本土と結ぶ船便もあったらしいですが、今は、そちら方面の便は、鴛泊港に一本化されているとの事。 沓形港の南側に、「沓形岬公園」があり、そこで、車を下りて、運転手さんに記念撮影してもらいました。 帰って来てから、その写真を見ると、案の定、利尻岳が背景になっています。 沓形岬がどうこうではなく、利尻岳が綺麗に見える所が、撮影スポットになっているものと思われます。

  この公園の中に、利尻町出身の作詞家、「時雨音羽(しぐれおとわ)」の詩碑がありました。 「どんと、どんと、どんと、波乗り越えて・・・」という歌詞が石に刻まれています。 「出港の歌」という歌らしいですが、聞いた事があるような、自信がないような、微妙な感じ。 すると、運転手さんが、「スキーの歌」の作詞もしていると教えてくれて、ポンと手を叩きました。 そりゃ、知ってますよ。 なんだ、最初から、そっちの方を碑にしてくれれば、話は早かったのに。

  この詩碑の横に、ボタンを押すと、音楽が流れるパネルがありましたが、そちらは、壊れていました。 歌詞だけでは、曲と一致しないケースが多いので、こういう機械の設置自体は、良い考えだと思います。 しかし、雨曝しの屋外だと、やはり、電子機器には厳しいでしょうなあ。 上から押すボタンではなく、パネルの下にセンサーをつけて、「この下に触れて下さい」という方式にすれば、かなり違うと思いますが。


≪人面岩・寝熊の岩・北のいつくしま弁天宮≫
  海岸線を南下していくと、道路の、海側の岩場に、「人面岩」がありました。 岩場の上に、小型の物置くらいの大きさの岩塊があり、上の方に、縄が巻いてあります。 最初、タクシーから一人で下りて、見ていたんですが、どこが人面なのか分かりません。 その内、少し先に車を停めて、下りて来た運転手さんに教えられて、ようやく分かりました。 岩の上の縄を鉢巻に見立てれば、アイヌの族長の顔のように見える角度があるのです。 岩全体では、頭のように見えます。

  運転手さんに、指差されて、見てみると、すぐ近くの、海の中にも、人面がありました。 こちらは、顔だけで、真上に向いています。 イースター島のモアイ像を、仰向けにして、海に沈め、顔だけ出したような感じ。 人面岩より、こちらの方が、人面っぽいような感じがしました。

  更に、南側に、「寝熊の岩」がありました。 これは、熊が腹這いになって、沖の方へ向いている、その背中を、後ろから見ている形です。 熊の耳に当たる突起が、岩から二つ出ていて、それがあるがゆえに、熊に見え、また、熊にしか見えません。 この寝熊の岩は、利尻島の観光スポットの中で、最も、私のツボに嵌まり、大笑いしました。 あの二つの突起が欠けてしまったら、利尻島は、重要な観光資源を失う事になりますな。

寝熊の岩


  その、更に南側に、「北のいつくしま弁天宮」があります。 海に突き出した岩場の上に、小さな赤い鳥居と、小さな赤い社があるだけ。 厳島神社は、あの、安芸の宮島の厳島神社から、分けてきたわけですが、利尻・礼文・稚内では、とりわけて、よく見られました。 それにつけても、不思議に思えるのは、入植した日本人が、土地神に当たる、「カムイ」を祀ろうとした形跡が、一切ない事です。 全て、元いた土地から持って来た神を祀っているんですな。 つくづく、神は、土地ではなく、人につくわけだ。

  よく、日本人の宗教観として、美化して語られる、「自然への畏怖・畏敬」といった意識があるのなら、土地神を蔑ろにするなど、罰当たりもいいところだと思いますが、その辺の理屈を、どう按配しているのか、聞き取り調査してみたら、面白いと思います。 恐らく、本州以内の神道に関する意識同様、人によってバラバラで、系統立った宗教観の態を成さないとは思いますが。


≪麗峰湧水≫
  タクシーに乗り、また、少し南下すると、道路の山側に、「麗峰湧水」という、湧き水が飲める所がありました。 溶岩を積み上げて、胸くらいの高さの小山を作り、その中から突き出してるパイプから、湧き水が、常に流れ落ちています。 用意がいい事に、運転手さんが、紙コップを出して来て、水を飲ませてくれました。 私は、利き水はできませんが、素朴な感想を述べますと、まあ、何の癖もない、おいしい水でした。

  びっくりしたのは、その後でして、運転手さんが、自分の飲み残した水を、その溶岩の小山にかけると、一瞬で石の中に浸み込んで、一滴も下に流れませんでした。 これには、たまげた。 私もかけてみましたが、やはり、全部、吸い込んでしまいました。 まるで、科学手品を見ているかのようです。 運転手さんの話では、溶岩というのは、スポンジのように隙間だらけなので、水の吸い込みが、すこぶる良いのだそうです。 で、利尻島は、島全体が、同じ性質の溶岩で出来ているので、大雨が降っても、すぐに、地面に浸み込んでしまい、水害になる事がないのだとか。 それどころか、川があっても、普段は水がないと言います。 大雨の時だけ、川の流れが見られ、やむと、涸れ沢になってしまうんですと。

  私が行った日の前日に、この付近を「50年に一度」の記録的豪雨が襲い、北隣の礼文島では、土砂崩れによる道路の寸断、集落の孤立など、大きな被害が出たのですが、同じくらい雨が降っても、利尻島は、みんな吸ってしまうので、被害ゼロだったとの事。 実際、道路のどこを見ても、水が溢れたような形跡は、一切ありませんでした。 隣合っている島でも、成り立ちの違いで、全然違うんですねえ。 もっとも、いい事ばかりではなく、保水力がないせいで、農業には向かない土地であるわけですが。


≪利尻博物館≫
  島の南端にある街が、「仙法師(せんぽうし)」。 元は、アイヌ語だそうで、説明してくれたのですが、忘れてしまいました。 当て字にしては、うまく当てたものです。 利尻町は、ここまででです。 街の中に、「利尻博物館」があり、そこへちょっと、寄りました。 「入りませんけどね」と言いながら、建物の前まで行き、前庭に、屋根だけかけて展示してある、昔の漁船を指して、ニシン漁に使った舟だと、説明してくれました。 30人くらい乗れる大きさ。 他の船と連携して、漁をしたのだそうです。

  なんで、博物館に入らなかったかというと、この日は、月曜日で、役所がやっている施設は、みんな、休みだったんですな。 その事には、帰って来てから、気付きました。 この後、「仙法師岬公園」で、写真を撮ってもらっていますが、やはり、背景は、利尻岳でした。


≪オタトマリ沼≫
  利尻富士町に入ると、島の東岸を走る事になります。 「南浜湿原」の前を通過。 一瞬だけ、「メヌショロ沼」の水面が見えました。 停まらなかったという事は、特に見るべきほどの物はないのでしょう。 運転手さんは、間断なく、説明を続けているのですが、情報量が多過ぎて、こちらが、記憶できません。 この時点で、3時50分。 空港を出てから、1時間半ですから、約半分ですな。 「え! まだ、半分なの!」と思った方は、一度休んで、またの機会に、続きを読んで下さい。 このまま、読み続けると、疲労で死ぬかも知れません。

  「メヌショロ沼」の東側に、「オタトマリ沼」があります。 すぐ横を道路が通っていて、よく見えましたが、結構、大きな沼でした。 運転手さんは、「オマールで出来た沼」と言っていました。 火山噴火で出来る地形の一種で、平地でボーンと噴火し、円形に穴が開いた場所の事を言います。 大抵は、水が溜まって、湖沼になります。 以前、伊豆半島の山奥で見た事があったので、「ふむふむ、なるほど、オマールですか」と、頷いていたのですが、何か、言葉に違和感を覚えていました。 覚えて正解、帰って来てから、調べてみたら、「オマール」ではなく、「マール」だったんですな。 運転手さんも、私も、間違えたまま、会話していたわけだ。 「オマール」は、エビだんがな。

  海側の脇道へ逸れて、小高い所に登ると、そこが、「沼浦展望台」という所。 標高、42.7メートル。 ここからだと、オタトマリ沼と、利尻岳が、同時に見えます。 やはり、撮影スポットに、利尻岳は欠かせないわけだ。 ちなみに、利尻岳の標高は、1721メートルです。 富士山と違って、海の中に、独立峰として、ドンとあるので、標高の数値以上に、大きく、高く、感じられます。 もっとも、この日は、上の方が、雲で見えなかったんですが。

  北海道で最も有名な菓子、「白い恋人」の説明板がありました。 広告の看板ではなく、説明板です。 白い恋人のパッケージ・デザインを見ると、中央のハート形の中に、雪山の絵が描かれていますが、あの山は、実は、利尻岳だけだったという、衝撃的な話。 説明板を読む前に、運転手さんが説明してくれたのですが、思わず、「えーっ! そうだったんですかーっ!」と叫んでしまいました。 白い恋人は、7ヶ月前、北海道応援から帰る時に、新千歳空港で買って、家へのお土産にしたのですが、全っ然、気づきませんでした。

  運転手さんは笑って、「ふふふ、アルプスか、エベレストの山だと思ってたでしょ」。 正に、その通り。 「だけど、よく見ると、絵の右下に、「Mt.RISHIRI」と書いてあるんですよ」と、説明板の絵を指しました。 ほんとだ!  全っ然、気づかなかった! 冬は、真っ白になるんですねえ。 この絵は、この、沼浦展望台付近から見た景色だと言われているそうです。

沼浦展望台



≪鬼脇≫
  島の南東部にある街。 昔は、鬼脇村という自治体の中心だった所。 鬼脇村が、鴛泊村と合併して、東利尻村となり、町制施行で、東利尻町になり、改名して、現在は、利尻富士町です。 この鬼脇の街、運転手さんの話では、道路を広げる為に、区画整理して、家を立ち退かせたら、人口が減ってしまったとの事。 そういう事もあるんですねえ。 ちなみに、利尻島の全人口は、現在、5600人くらい。 70年代には、15000人くらいいたそうなので、だいぶ、減った事になります。 しかし、島の大きさと、地理的位置を考えると、5600人は、少ないという感じはしません。 15000人の頃が多かったと考えるべきでしょう。 逆に考えると、今後もまだ、減り続ける可能性が高いという事になります。

  この鬼脇、巨大な白い鳥居がある、「北見神社」を始め、寺がいくつもあったりして、昔は、住人が多かったんだろうと思わせます。 鬼脇村だった頃の役場の建物が、「利尻島郷土資料館」になって、残されていますが、赤い屋根、白い壁の、洋風木造建築で、大変、お洒落。 そこだけ、プリンス・エドワード島になってますな。 門の石柱には、今でも、「鬼脇村役場」の表札が入っています。 中には入りませんでした。

利尻島郷土資料館(元、鬼脇村役場)


  かつて、日本の缶詰会社が、ロシアと合弁で作った工場があったそうなのですが、その電源を確保する為に、水力発電用に作った溜め池があるとの事で、ちょっと、山の方へ入って、見て来ました。 コンクリートで囲った、一見、養殖場みたいな施設でした。 湧き水の勢いが凄かったです。 利尻島は、水はいくらでもあるんですな。 ただ、溜めるのが難しいだけで。

  鬼脇を後にして、北の方へ上がって行きます。 道路脇の草地に、皮がついたままの木が、ぶつ切りになって転がっており、運転手さんの話では、昔は、そういった木を、犬橇を使って、山から運び出していたのだそうです。 馬だと、傾斜地に入れないので、犬を使っていたのだとか。 相当には、太い木で、「犬も大変だったろうなあ」と思いました。

  「石崎灯台」というのを、走りながら、見ました。 高い事で有名な灯台で、北海道で2番目、全国で7番目だそうです。 ちなみに、北海道で1番高いのは、稚内の「ノサップ岬灯台」。 そこも、この二日後に見に行く事になります。 高い灯台は、みんな、そうなのか分かりませんが、色が、白と赤の縞模様になっていました。 製紙会社の煙突が、そんなデザインですがね。

  この後、「番屋」の前とか、「利尻名水ファクトリィ」という工場の前を通りましたが、これらも、走りながらだったので、正確な場所が分かりません。 写真の撮影時刻から推測すると、鬼脇と鴛泊の境界辺りだったと思われます。 知らない内に、東海岸を、随分、上の方まで、上がって来ていたんですな。

  「番屋」は、たぶん、漁業関係だと思いますが、説明を忘れてしまいました。 「利尻名水ファクトリィ」は、「リシリア」という地元ブランドのミネラル・ウォーターを作っている所で、ここの水は、運転手さんが、一押ししていました。 「飲んでいたら、毛が生えて来た」と言ってましたっけ。 その後、「昆布より効く」と付け加えたので、ジョークだったのかも知れませんが。


≪ラナルド・マクドナルド上陸記念碑≫
  道路の海側に、さりげなく、あります。 ラナルド・マクドナルドさんというのは、江戸時代後期に、遭難者を装って、利尻島に上陸した、アメリカの捕鯨船の乗組員です。 アメリカ先住民とヨーロッパ系のハーフで、黄色人種の国という事で、日本に興味を抱き、「是非、行ってみたい」と決心して、不屈の精神で、それを実行したとの事。 捕鯨船の船長が、理解がある人で、下船証明書をくれ、ボートも用意してくれて、それで上陸したのですが、遭難者を装ったのは、捕まった時、密入国者よりは、扱いがいいだろうと思ったかららしいです。 うーむ、強かな計算だ。

  長崎に送られ、そこで、牢屋住まいをしながら、格子越しに、日本人のオランダ通詞達に、英語を教えたのですが、その時の生徒達が、後にペリー艦隊が来航した時に、通訳の任に当たる事になるという流れです。 歴史の教科書に出て来ないので、全く、知りませんでした。 「ラナルドは、ロナルドの聞き違いではないの?」と思ったんですが、綴りは、「Ranald」で、「Ronald」とは、また、違う名前なんですな。 世の中、知らない事が多いのう。

  ちなみに、ラナルドさんは、日本滞在10ヵ月の後、長崎に入港したアメリカの船で、無事に帰国したそうです。 良かった良かった、それだけが心配でした。 その後、世界を股にかけて、活躍したらしいですが、やはり、行動力や決断力があると、そういう人生になるんですねえ。

  ちなみに、石碑自体は、もちろん、後世に作ったものです。 もし、これから行く事があったら、石碑を見るよりも、どんな所に上陸したのか、周囲の様子を、よく観察する事をお勧めします。 かく言う私は、タクシーの中から見るに留まったせいで、そのゆとりがありませんでした。 石碑を撮った、もろ逆光の写真が一枚あるだけです。


≪サケの養殖場≫
  たぶん、この辺だったと思うのですが、あまり、自信がありません。 ちょこっと寄っただけで、タクシーからは、下りませんでした。 サケの養殖は、卵を孵し、稚魚まで育てて、川へ放流するわけですが、サケには、海へ出て成長した後、故郷の川に戻る性質があります。 もし、この養殖場から、全ての稚魚を放流すると、みんな、ここへ帰って来てしまい、甚だ窮屈な事になります。 で、稚魚まで育てたら、利尻島各地の港へ分配し、そこで放すのだそうです。 稚魚は、いきなり海水につけると、まずいらしいのですが、うまくした事に、利尻島では、雪融け水が地下水になって、海岸線のあちこちから、淡水が湧き出しており、そういう所で放すから、大丈夫なのだとか。


≪姫沼≫
  利尻島の貸切タクシーで、最後に寄った観光地です。 景勝地と言うべきか。 もう、島をぐるっと一周して、北の端まで、もう少し、という所まで来ています。 「姫沼(ひめぬま)」は、利尻島で一番大きな沼。 利尻島では、湖沼は全て、「沼」ですが、これは、浅いからだとの事。 確か、水深5メートル以下が、「沼」だったかな。

  ここには、観光客が、たくさん来ていました。 島内最大の街である、鴛泊から近いから、そちらから、直に来ているのでしょう。 島を一周回って辿り着いたのは、私くらいのものだったのでは? ここでも、撮影スポットの背景は、利尻岳です。 沼の周囲は、深い森で、湖面には、ほとんど波がなく、静かで神秘的な雰囲気が漂っていました。 湖の中に、島があるのですが、それは、葦が固まって出来た、「浮島」で、風に流されて、あちこちに動くとの事。 おおお、浮島を見たのは、ここが初めてです。 本当に、そういうものがあるんですねえ。

姫沼


  畔に生えていた木で、トドマツとエゾマツの違いを教えてもらいました。 トドマツは、幹が白っぽく、葉が丸いです。 一方、エゾマツは、幹が黒くて、葉が尖っています。 いい事、教えてもらいました。 私は、若い頃に、短期間ですが、植木屋の見習いをしていた事があるので、木には、幾分、興味があるのです。 高山植物は、まるで駄目ですけど。

  姫沼の畔、ちょっと高い所に、山小屋風の建物があり、運転手さんに案内されて入ったら、写真を売っている店でした。 しまった、また、いざなわれてしまった。 プロの写真家らしい青年が、営んでいる様子。 運転手さんは、写真集を勧めてくれましたが、そちらは、千円以上したので、私は、利尻岳が写っている、単品の写真を買いました。 120円。 もし、利尻周辺にいる間に、山の雲が晴れなかったら、これが唯一、山頂が写った写真という事になるわけです。 私が撮った物ではないから、ネットで公開する事はできませんが、記念にはなるでしょう。


≪鴛泊≫
  「おしどまり」と読みます。 ○△商事から送られて来た日程表では、「鷲泊」になっていました。 つまり、○△商事の担当者は、利尻には、来た事がないわけですな。 一度来れば、「鴛泊」という、特徴的な名前を忘れるわけがありませんから。 すでに何度も書いているように、利尻島最大の街です。 稚内、礼文と結ぶ、フェリーの港がありますし、利尻空港も、すぐそばです。 ところで、「トマリ」というのは、アイヌ語で、「港」の事ですから、「鴛泊港」と言うと、「オシ港港」と言っている事になりますな。 ちなみに「オ・シ」は「岬の付け根」という意味だそうです。 別に、オシドリがいるわけではない様子。

  フェリー・ターミナルの前を通りました。 今年、出来たばかりで、二階から、直截、乗船できるようになっているとの事。 運転手さんの話では、同じ設備を、現在、礼文島・香深港のフェリー・ターミナルで、工事中。 稚内港では、まだ、そこまで行っていないのだそうです。 この情報は、翌日と翌々日に、私が自分の目で確かめる事になります。

  鴛泊のランド・マークは、「ペシ岬」という、港の横から海へ突き出した、大きな岩山です。 この岩山、遠くから見ると、鯨に見えるらしいのですが、運転手さんが、「実は、鯨ではなく、キング・コングだったのです」と言った場所から見ると、確かに、キング・コングの頭を斜め後ろから見た形にそっくりで、大笑いしました。 肩から頭頂部へかけてのラインが、ゴリラっぽいんですな。

ペシ岬のキングコング


  ホテルの前に着いたのは、5時10分くらいでした。 空港で、タクシーに乗ったのは、2時10分くらいでしたから、ほぼピッタリ、3時間、走ってもらった事になります。 最初に、「3時間ちょっと、かかる」と言われていましたが、予定より早かったのは、月曜日で、博物館が休みだった関係で、普段なら寄る所を、寄らなかったせいかもしれません。

  篤くお礼を言い、「楽しかったです」と言い添えたら、「また、来週、お願いします」と言われました。 もちろん、ジョーク。 静岡県から、ここまで、二週連続では、来れませんわ。 というか、たぶん、もう二度と来れませんわ。 資金的に。


≪ホテル≫
  ホテルは、「北国ホテル」という所で、鴛泊の街の中でも、ひときわ大きな建物でした。 初めて来た観光客でも、大きな建物を目印に歩いていけば、迷わず辿り着くというくらい、ドデンと目立ちます。  沖縄本島の北端に、「北国小学校」というのがありましたが、そちらは、「きたくに」。 こちらは、「きたぐに」です。

  フロントに行ったら、無人。 ベルを鳴らせとあるので、鳴らしたら、奥から人が出て来ました。 こう書くと、何だか、鄙びた旅館みたいに感じられるかも知れませんが、いやいや、そんな事はないのであって、立派な観光ホテルでした。 リゾート・ホテル・・・、ではないですな。 もちろん、ビジネス・ホテルでもなく、やはり、観光ホテルとしか言いようがありません。

  チェック・インすると、係の人が、旅行鞄を、先に部屋まで運んで行ってくれました。 このサービスがあったのは、沖縄・北海道を通して、このホテルだけでした。 他の係員に、ロビーの一角にある喫茶コーナーで、説明を受けました。 食事は、朝夕共に、7階のレストランでとり、夕食は、メニューが決まっていて、朝食は、バイキングだとの事。 大浴場の場所も説明されましたが、私は行きません。 翌朝の、フェリーの時間を訊かれ、日程表が、先に運ばれて行った旅行鞄の中に入っていて、答えられなかったのですが、向こうが言うには、大体、出発時間は決まっているとの話。 その時間までに、チェック・アウトしてくれれば、フェリー・ターミナルまで、送迎バスを出すとの事でした。

  その後、6階の部屋に上がりました。 まだ新しくて、綺麗な部屋でした。 その上、適度に広い。 ツインで、ベッドが二つ、椅子二脚の応接セットとは別に、書き物机まで置いてあるのに、狭くて通れないような所がありません。 やはり、このくらいでなければなあ。 部屋の一角の床の上に、ヒーターらしき箱がありましたが、エアコン機能があるかどうかまでは、調べませんでした。  室温は、暑くも寒くもなくて、使う事はないと思ったからです。 扇風機が置いてあったところを見ると、冷房はできないのかもしれません。 そもそも、道北では、冷房自体が、不要なのかも。

  冷蔵庫は1ドア。 湯沸しポットあり。 テレビは、地デジのみでした。 ユニット・バスは、平均よりは、広い方。 今回は、除菌ティッシュを持って来たので、先に、トイレの便座を除菌してしまいました。 これで、いつでも気軽に座れるというもの。 そういえば、トイレの蓋の上に、「除菌済み」と書いた紙が巻いてあったホテルがありましたが、ここだったのか、翌日の礼文のホテルだったのか、忘れてしまいました。 まあ、そういう断り書きがあろうとあるまいと、私は、自分で除菌し直すから、同じなわけですが、ホテル側に、「他人が座った便座は、不浄な状態になっている」という認識があるだけでも、評価に値します。 アメニティーの一つとして、除菌アルコールも、常備して欲しいものです。 いずれ、そうなって行くとは思いますが。

  窓からの景色は、いまいち。 鴛泊の街なかの、海からちょっと離れた所にあるので、どちらを見ても、家並みが手前に広がっているのです。 海側を向いている、私の部屋からでは、利尻岳は見えず、ペシ岬と、遠くに、礼文島の島影が見えました。 窓が、少ししか開かなくて、写真を撮るのに、苦労しました。 ホテルの窓サッシには、驚くほど、様々なタイプがありますが、ベランダがない場合、風が通るくらいしか開かない場合が多いです。 物を落としたとか、人が落ちたとか、そういう、事件・事故を防止する為でしょう。 それでも、開くだけ、マシなのかな? オフィス・ビルなんて、普通、嵌め殺しですけんのう。


≪ペシ岬≫
  荷物をテキトーに展開した後、ナップ・ザックに貴重品だけ入れて、ペシ岬へ出かけました。 5時50分くらいで、もう、だいぶ、日が陰っていました。 西にある沖縄では、日暮れが遅かったけれど、東にある北海道では、逆に、早くなるわけですな。 鴛泊のメイン・ストリートらしき通りに出て、港の方へ歩いて行きます。 途中、先ほどまで乗っていた、タクシーとすれ違いましたが、他のお客を乗せて、運転手さん、笑いながら、喋っていました。 貸切観光の仕事でなくても、常に喋り続けている様子。 それにしても、さっきの今なので、「もしかしたら、利尻島のタクシーというのは、そんなに台数がないのかもしれないな」と思いました。 サンプル、少な過ぎかもしれませんが。

  家並みの切れ目から、ペシ岬が見えるのですが、夕日に照らされて、黄金色に輝いていました。 15分ほどで、ペシ岬の麓に到着。 登り口は、タクシーで前を通った時に、運転手さんから聞いていました。 ちょっと高くなった所に、写真館があり、その前を通るようにして、階段で登って行きます。 まあ、そんなに入り組んだ所ではないので、行けば、何となく分かります。 ところで、「ペシ岬」と書いていますが、前にも書いたように、ここの場合、「岬=山」でして、私は、その山に登ろうとしているわけです。

夕日に照るペシ岬


  途中、平らになった広場があり、そこにも、「会津藩士の墓」がありました。 説明板を読むと、大体、沓形で聞いた運転手さんの話通りでしたが、「墓石は、新潟地方の石をもって刻み、海路、新潟より、この地に運んで・・・」と書いてあります。 え! 会津の石じゃないの? しかし、「新潟地方」の四文字は、上からシールを貼って修正した跡があります。 もしかしたら、運転手さんが、最初に聞いた頃には、「会津の石」と言われていたのが、後に詳しく調べたら、新潟産と分かり、直したのかも知れませんな。 考えてみれば、会津は内陸ですから、海まで墓石を運び出すのは、きつそうです。

  ペシ岬の標高は、93メートル。 散歩気分でも来れる山ですが、もう、日暮れ間近ですから、観光客は二組しかいませんでした。 途中ですれ違った二人は、中国語で会話していました。 苫小牧の、≪ノーザン・ホース・パーク≫や、登別の、≪マリン・パークニクス≫でも、客の大半が中国人で、北海道が大人気である事は知っていましたが、利尻まで来る、通好みもいるわけですな。 そういや、沖縄でも、中国人観光客は、大量にいましたが、聞いていると、ほとんどが、広東語でした。 北海道では、普通話と広東語が、半々くらいです。 この時、すれ違った二人は、普通話でした。

  頂上までは、そこそこ、きつい傾斜になります。 足元は、石がゴロゴロしています。 ただし、擬木の手すりが付いているので、転ぶ心配はありません。 頂上に着くと、日本人の若い女性が二人、石の上に腰を据えて、夕日が沈んで行く様子を見ていました。 若いといっても、学生みたいな年齢で、風情は全くなし。 「礼文島、めっちゃ綺麗!」とか言って、盛り上がっていました。 もっとも、気温が低い上に、風もあって、かなり寒く、盛り上がると言っても、地味にならざるを得ないようでしたが。 礼文島を見てみると、背後に落ちる夕日の光が、島の手前側に回り込んで、淡く輝いており、幻想的な雰囲気が漂っています。

  女性二人が、動きそうになかったので、この場で感傷に浸るのは諦め、写真だけ撮って行く事にしました。 北側に、灯台があり、頂上からだと、見下ろす形になります。 灯台を下に見るというのは、珍しいケースですな。 南側には、鴛泊港が見下ろせます。 漁港と、フェリー埠頭が隣り合っている格好。 高さ的にちょうどいいのか、建物や船の細部まではっきり見えて、まるで、ミニチュアのようです。 一通り、写真は撮ったので、寒い所に長居は無用とて、帰る事にしました。 初日から、風邪は引けません。

  下りでは、誰にも会いませんでした。 街に戻っても、人通りは、ほとんどありません。 すでに、6時半を過ぎており、夕闇がどんどん、濃くなりつつある時間でしたから、無理もない。 「ベスト電器」を発見。 街の電器屋さんを、少し大きくしたくらいの規模でした。 しかし、家電量販店チェーンの一店舗なのか、それとも、同名の個人経営店なのかは、分かりませんでした。 コンビニあり。 北海道でよく見られる、「セイコー・マート」でした。 その隣に、ホーム・センターもあります。 そういえば、運転手さんは、パチンコ屋もあると言っていました。 今日日、これだけ揃えば、都会と、ほとんど変わらない生活ができますな。 ネットや、ケータイ・スマホは、もちろん使えるわけですから。 


≪ホテルの夜≫
  ホテルに戻り、フロントの横にあった公衆電話で、家に電話。 無事に着いた事と、こちらは、天気がいいという事を伝えました。 なにせ、前日まで、「50年に一度の豪雨」というニュースをやっていた後なので。 母は、37年前に北海道旅行に来ていますが、利尻島には来ていませんから、こちらの観光地には、全く興味がない模様。 自分が行った事がある所だけ、ああだこうだと知ったかぶって、旅の経験を自慢をしたがる人なのです。

  夕食の前に、一旦、部屋に戻ります。 このホテル、非常に快適に過ごせたのですが、唯一の難点は、エレベーターが、なかなか来ない事でした。 上がる客と、下りる客が、重ねて、ボタンを押すと、上に行くべきか下に行くべきか、混乱するようで、せめぎ合いが起こるのです。 こんな機械も、珍しい。 いや、エレベーターのせいと言うより、食堂を、最上階に置いているのが、問題なのかも知れません。 上行きと下行きで、人間の流れが、かち合ってしまうんですな。 エレベーターが、2基あれば、こういう問題は起きないと思います。

  部屋に戻って、荷物を置き、食堂へ。 エレベターは、またもや、混乱していたので、階段で上がりました。 すぐ上の階だし、その方が早いです。 食堂では、部屋番号と名前を言って、名簿をチェックしてもらう仕組み。 席に案内されると、すでに、料理が並べてありました。 げっ! ちょっと待ってくださいな。 食堂が開いた時間は、6時で、この時、すでに、7時ですぜ。 するってーと、この料理は、1時間も出しっ放しだったわけですか? うーむ、まあ、致し方ないか。 ホテルではあるものの、典型的な、和風旅館型の夕食メニューで、品数が多いので、客が来てから並べるのでは、人出が足りなくなってしまいますからのう。

  それは分かっているものの、もし、食堂の締め切りである、10時半ギリギリに来たとしたら、4時間半も放置された料理を食べる事になります。 そういうケースも、あるでしょうなあ、きっと。 1時間で済んだ私は、運が良かったと思うべきなのか。 品目は、いちいち書きません。 北海道ですから、メインは、海産物です。 困った事に、私は、海産物が苦手なんですよ。 ウニも出ましたが、「磯臭いばかりで、どこがうまいのか、全く分からん」という人間に出しても、ドブに捨てるようなものですな。

  恐れていた、カニも出ました。 私は、カニの身は嫌いではありませんが、我が家では、買ってまでは食べないので、身の抜き方を知らないのです。 カニ鋏と、カニ匙があったので、切ったり掘ったり、悪戦苦闘し、一通り食べたものの、皿の上は、バラバラ殺人の解体現場の如き、惨憺たる有様になりました。 まあ、済んだ事は、いいとして・・・。

  炊き込みご飯と、野菜の煮物が、その場で火を焚く方式で、食べ始める前に、係の人が火を点けて行ってくれたのですが、他の物を食べ終わっても、まだ消えません。 火が消えるまで待った、あの、間の抜けた時間の事が忘れられませんな。 そういう時、一人だと、全く、格好がつきません。 だけど、その二品は、温かい料理だったので、ホクホクして、おいしかったです。

  最後に、このホテルの特製だという、「コンブラン」という、モンブランが、運ばれて来ました。 名前からも分かる通り、昆布が入っており、その味がします。 だけど、まあ、大雑把に見ると、モンブランでして、普通に、おしいかったです。 そういえば、箸置きが変わっていて、昆布を巻いたものでした。 食べられると書いてあったので、部屋に持ち帰り、旅行鞄に入れておきましたが、食べる機会がなく、結局、家で捨ててしまいました。

  何とか、夕食をクリアし、また、階段で、部屋に戻りました。 服を脱いで、洗濯。 持って来た石鹸を出すのが面倒で、備え付けの ボディー・ソープで洗ったら、意外に泡立ちがよくて、驚きました。 こうと知っていたら、沖縄でも、そうしたものを。 続いて、風呂。 といっても、シャワーだけですけど。 その後で、洗濯物を干しましたが、沖縄より、室温が低いので、乾かない恐れを感じ、扇風機を移動させて、その風を当てておきました。 これは、効果があるでしょう。

  その後、日記を書いて、11時頃、眠りました。


≪一日目、まとめ≫
  長い・・・。 今、ざっと数えてみたら、140段落、超えてますな。 公開日記に書いたのは、10段落くらいだったので、同じ日の記録を書き直して、こんなに長くなるとは、思ってもいませんでした。 帽子を買うところから始めて、バス、電車、新幹線、飛行機と乗り継いだ経緯を書き、その後に、メインの利尻島観光が続いたのですから、長引くのも、無理はないか。 本来、二回に分けるべき分量ですが、そうすると、まーた、終わるのが先に延びるからなあ。

  利尻島は、海岸線を、きっちり回って、3時間で、ほぼ一周してしまうくらいですから、決して、大きい島ではないのですが、ここに書き並べたように、見るものは、実に、たくさんあります。 ただ、もし、レンタカーなどで、自力で回るとしたら、私が行った所の、3分の2も行けないんじゃないでしょうか。 地元の人でなければ、知らないような所が、いくらもあったからです。 その点、貸切タクシーは、比べるものがないほど、強力です。 何せ、地元の運転手さんが、マン・ツー・マンでガイドしてくれるのですから。

  利尻岳が、雲に隠れて、上半分見えなかったのは、甚だ、残念。 もし、見えていたら、全島、どこから見ても、絶景だった事でしょう。 他に景色が良かったというと、姫沼と、ペシ岬ですな。 歴史的遺構は、後から作った石碑のようなものが多いので、見て面白いというものではありません。 しかし、事前に予習して行けば、相応の感動はあると思います。 あと、寝熊の岩と、ペシ岬のキングコングは、是非、見ておくべきです。

  ちなみに、海岸線以外の場所には、集落はないようでした。 道路も同様で、内陸の方には、登山道しかなさそうです。 利尻岳の登山は、結構、ハードらしいと、礼文島に行ってから、そちらの運転手さんに聞かされました。 利尻岳の話題は、礼文でも、稚内でも出ました。 この近辺では、特別な存在なのです。 それは、実際に来て、見てみると、よく分かります。

2014/10/12

さよなら、沖縄

  沖縄旅行記の十日目です。 7月31日(木)。 いよいよ、最終日です。 9泊10日も旅行したのは、生涯初めてですが、疲れも出ず、体調は良かったです。 長旅の記録で、それに次ぐのが、19年前に、バイクで九州へ行った時の、8泊9日ですが、その時は、全泊野宿でしたから、着の身着のまま、ホームレスも真っ青な衛生状態で、帰って来ました。 それに比べれば、毎晩ホテルに泊まって、毎晩シャワーを使い、毎日、洗った服を着ていた分、今回の方が、断然、楽でした。 人間、ただ、飯を喰って、睡眠を取っていれば、生きていられるというわけではないようですな。


≪ホテルの朝≫
  朝食は、7時からでしたが、起きたのは、6時55分。 もっと早く起きるつもりでいたのに、珍しく、寝過ごしました。 些か焦りつつ、髭剃りと洗面。 7時10分には、朝食バイキング会場である、地下一階の大広間に下りました。 出遅れが響いたというわけでもありませんが、すでに、人でごった返していました。 ここは、朝食券がなく、部屋のキーを見せて、名簿をチェックしてもらう方式。 「お食事中」の札を貰い、先に、席を確保しておいてから、料理を取りに行きます。

  相変わらず、トレイいっぱい、皿いっぱいに取ってしまうのですが、さすがに、バイキングも飽きて来たのか、何を食べても、特別おいしいとは感じません。 さりとて、まずい物もなし。 やきそばを取りましたが、ソース味でした。 本島では、ケチャップ味はないのかな? ドリンクは、パインとシークヮーサーのジュース。 ジュースで、食事を食べる快感も、だいぶ、鈍って来ました。

  部屋に戻って、歯を磨き、荷物の片付け。 洗濯物は乾いていました。 貸切タクシーの契約は、9時からですが、前日に運転手さんと打ち合わせていた通り、30分早く出発する事に決めていたので、8時20分には、部屋を出なければならず、ゆっくりしている時間がありませんでした。 外は、夜来、雨で、窓に吹っかける音がしていましたが、朝、窓から外を見ると、ポツポツ程度の降りになっていました。 台風が接近しているので、悪くなる事はあっても、回復はしないでしょう。

  最終チェックをしている内に、少し出遅れてしまい、8時25分頃に、部屋を出ました。 エレベーターの前に行くと、人だかりが出来ています。 しかも、全員、旅行トランクを持っており、とても、一回で乗れるとは思えません。 すぐさま、階段を探しに行きましたが、見つかりませんでした。 もう一度、エレベーターの前に戻ると、更に人数が増えていました。 どうも、この時間帯というのは、チェック・アウトのラッシュになっているようですな。 エレベーターの横に貼ってあった、館内マップを見直して、階段の位置を確認し、再び探しに行くと、防火扉の向こうが、階段になっていました。 重い旅行鞄を持って、四階から一階まで下りるのは、きつかったです。 フロントでチェック・アウトして、外へ。


≪タクシー話≫
  8時半ちょい前に、前日教えられていた、ホテルの横に行くと、タクシーは、もう来ていました。 本当に、30分前には、待っているんですなあ。 この日の最初の目的地、≪斎場御嶽≫へ向かいます。 本島南部の東岸にあるので、那覇からだと、東へ向かう事になります。 運転手さんの話では、この日の朝、那覇から離れる分にはいいが、那覇市街に向かう道は、大渋滞だとの事。 海で遊ぶ予定だったレジャー客が、台風接近で海に行けず、街なかや観光地に繰り出すからだとか。 なるほど、理屈に合っている。

  本島での貸切タクシーは、同じタクシー、同じ運転手さんですから、「さすがに、三日目ともなれば、話題も尽きたろう」と思っていたら、そこは、やはり、プロの技で、今までに乗せた、奇妙な客の話とか、芸能人の話とか、人生論とか、もう、いくらでも、話題が出て来るんですなあ。 ここで、纏めて書いてしまいますと、

  三角点を探す、老夫婦の話。 三角点に嵌まっているのは、夫の方で、すでに85歳。 二回も脳梗塞で倒れていて、体が不自由なので、奥さんが付き添い、観光そっちのけで、山の中の一等三角点を見つける為だけに、沖縄に来たとの事。 三角点は、森に埋もれている事が多く、そんな所へ、老夫婦だけで行かせられないので、運転手さんがついて行って、ハブが出る季節だというのに、藪の中を掻き分けて進んだのだとか。 趣味も、そこまで行くと、傍迷惑ですなあ。 

  某有名演出家が、この付近に建てた家の話。 風が強くて、地元の人間なら、まず建てない所に建ててしまったらしいのですが、「なんで、不動産屋が教えなかったかなあ」と、不思議がっていました。 その人に限らず、県外から来た人が、景色優先で、風の事を考えずに、家を建ててしまうケースは、多いようです。 沖縄の場合、土地が狭いので、人間が住むのに適当な場所は、すでに、住み尽くされていると考えた方がいいのかもしれませんな。

  他に、釣り好きの大物俳優の話とか、不器用な大物俳優の話などが出ましたが、そちらは、ちと、内容的に、ネット公開に支障があるので、出せません。 支障がある話と言えば、密会専用のホテルがあるとかいう話も出ましたな。 那覇空港から、どう見ても、観光目当てとは思えない、女の一人客を乗せる事があるらしいのですが、大抵、そういうホテルへ行くのだそうです。 誰かと、密会しているんでしょうねえ。

  私が退職した事は、すでに話してあったのですが、「もう、働く気はないんですか?」と訊かれたので、「今後、やる事がなくて、うんざりするようだったら、バイトでもしようかと思っています」と答えておきました。 「結婚はしないんですか?」とも訊かれ、「バツイチにも、いい子がいますよ。 大抵、そういうのは、男の方が原因で別れているから」と、アドバイスされました。 「いやあ、無職状態ですから・・・」と、ごまかしておきましたが。

  そこから、運転手さんの息子さんの話になりました。 東京へ出て、働いていたのが、勤め先がブラック企業で、体を壊してしまい、Uターンして来て、今は、地元で働いているのだとか。 私は、退職したばかりだったので、大いに共感し、「そうですよ。 そんな勤め先で、いくら頑張ったって、いいように使われるだけで、評価もされなければ、感謝もされないんですから、辞めてしまうのが一番です。 一度しかない、自分の人生なんだから、自分で決める事であって、他人がどう言おうが、気にする事はないです」と、自論をぶちまけました。

  他に、同じ場所で、次々に、店が潰れ、経営者が変わる現象について、考察が交わされ、「場所が悪い」という、大まかな結論に至りました。 運転手さん的に言うと、交差点に面した土地は、車が入り難いか、出難いかのどちらかになってしまうので、車で来る客に敬遠され、潰れ易いのだとか。 引退後の素人が始めて、うまく行かない業種として、居酒屋の例を、私が挙げました。 自分が、しょっちゅう、居酒屋へ行っていた人で、「このくらいなら、俺にもできる」と思って、始めるものの、場所が悪かったり、友人・知人が少なかったりして、客が途絶えてしまうパターン。 まあ、引退後のオッサンがやっている店なんて、若い女の子もいないわけですし、知り合いでもなければ、来ませんからねえ。 ・・・??? 沖縄旅行に来て、なんで、こんな話をしとるんだ、私ゃ?


≪斎場御嶽≫
  「斎場御嶽」は、「せーふぁうたき」と読みます。 沖縄で、最も有名な御嶽。 最も重要かどうかは、人によって違いますが、琉球王国にとっては、最も重要だった御嶽です。 日本の朝廷にとっての、伊勢神宮に当たるといえば、ほぼ、同じ相関になるでしょうか。 そういや、方角的にも、「京都→伊勢神宮」と、「首里→斎場御嶽」は、ほぼ同じ位置関係ですな。 偶然なのか、風水的な意味があるのか、よく分かりません。

  日本の朝廷から、伊勢神宮には、「斎宮」が派遣されていましたが、琉球王国では、王の親族の女性がなる神女、「聞得大君(きこえおおきみ)」が、斎場御嶽の管理権を持っていて、就任式も、ここで行なっており、その辺も似ています。 ただし、あくまで、似たところも多いというだけで、「母系制社会での宗教習慣は、自然に似たものになる」という程度の関連かもしれません。

  つい昨年まで、駐車場は、入り口のすぐ近くにあったそうなのですが、今は、別の場所にあり、500メートルくらい、歩かなければなりません。 観光客が増え過ぎて、タクシーやレンタカーが道を塞いでしまう程になったせいで、広い駐車場を新設したというわけですが、500メートルは、ちと遠いですな。 今でも、元駐車場は残っていますが、関係者オンリーになっている模様。

  入館料が200円かかり、そのチケットは、駐車場にある券売機で買います。 クーポンがなく、自腹でしたが、いくらケチでも、200円くらいなら、どうという事はないです。 「入場料」ではなく、「入館料」になっているのは、斎場御嶽に入るには、まず、入口にある、「緑の館・セーファ」という建物の中で、研修ビデオを見なければならないので、そこの入館料という名目で、お金を取っているからなんですな。

  研修ビデオは、3分くらいで、斎場御嶽に関する簡単な解説と、入域に当たっての注意事項が示されます。 「聖域なので、騒がないように」、「今でも、祈りの場所になっているので、祈っている人を写真に撮るような事はしないように」、「足下が悪いので、ヒールの付いた靴などは、履きかえるように」、「樹木や昆虫を守るために、順路から外れないように」といった内容。 ヒール付きの靴で来てしまった人には、サンダルを貸しているようです。 服装も、半ズボンや短いスカートなどは、歓迎していないようでした。

  元々は、男子禁制だったそうですが、今は、入れます。 しかし、それに関しては、今でも議論があり、本来の姿に戻すべきだという意見もあるとの事。 それは、至極もっともな話で、見て来た私が、こんな事を言うのもなんですが、男子禁制に戻し、全面的に撮影禁止にした上で、たとえ、女性であっても、祈るつもりがない、ただの観光客は、立ち入り禁止にした方がいいと思います。

  現在、斎場御嶽を管理しているのは、南城市のようですが、入館料200円では、儲かっているとは思えませんから、純然たる施設の維持費なんでしょう。 ならば、観光客をシャット・アウトしてしまっても、経済的な問題はないはず。 聖域は、禁忌があってこそ、その聖性が維持されるのであって、「見せれば、ありがたがられる」というわけではありません。 むしろ、見せない方が、神秘性は増します。 研修ビデオはやめて、もっと長い、詳しい解説をしたビデオを作り、それを見て帰ってもらえば、それでいいんじゃないでしょうか。

  運転手さんと一緒に、奥まで入りましたが、これといった、物があるわけではなく、熱帯林が大きな岩壁と絡み合っているような所でした。 石畳みの道が、雨上がりで濡れているので、スニーカーでも滑ります。 やむなく、石畳みの両脇に並べられていた、土嚢の上を歩きました。 まだ、早いというのに、もう、戻って来る人達と、何グループか、すれ違いました。 風体からして、観光客である事は間違いありませんが、この衆等、一体、何時に、ホテルを出て来たんでしょう?

  途中、そこそこ大きな、丸い池あり。 運転手さんの話では、戦時中、爆弾が落ちて出来た穴だとの事。 爆撃か、砲撃かは分かりませんが、これだけ、地面を抉るには、一体、何百キロの爆弾だったのか・・・。 ぞーっとします。 祈りの場は、何ヵ所かあって、切り立った崖の下に、コンクリート・ブロックくらいの大きさの立方体の石がいくつか並べてあり、それに向かって、祈るようです。 聞得大君が眠った場所というのがあり、運転手さんの話では、その寝顔から、吉凶を占ったのだとか。

  奥の方へ行くと、崖の上がせり出して、屋根のようになっている所があり、上から、鍾乳石のようなものが二本下がっていました。その真下に、甕が埋め込まれていて、滴った水が溜まるようになっています。 運転手さんの話では、その溜まり具合を見て、その年の天候を占ったとの事。 しかし、これは、占いというより、科学が入っていますな。 他にも、鍾乳石が垂れている所がありましたが、たぶん、太古の昔は、この辺り一帯、鍾乳洞だったんでしょう。 天井が崩れてしまい、部分的に、鍾乳石が残ったのだと思われます。

  一番奥には、断崖に巨大な岩が寄りかかって、三角形の隙間を作っている、「三庫理(さんぐーい)」という場所がありました。 海側に、森が切れた所があり、そこから、「久高島(くだかじま)」が見えます。 久高島は、琉球神話の創世神、「アマミキヨ」が降臨し、国作りを始めた、聖なる島だとの事。 つまりその、先に久高島があり、久高島が見える場所に、斎場御嶽が作られたという順序なのでしょう。

斎場御嶽の三庫理


  ここでも、運転手さんに、写真を撮ってもらいました。 私も撮りましたが、ドス曇りである上に、森の中で暗いので、私が撮った物は、みんなブレブレ。 それに対して、運転手さんに撮ってもらった写真は、全く、ブレていません。 なんなんだ、この違いは? 私は、普段、一人で行動するタイプなので、人様と一緒にいると、「早く撮らなければ、迷惑がかかる」と思って、焦る傾向があり、それが、ブレに繋がっているのかもしれません。 「写真の撮り方について、研究し直さなければならんな」と、つくづく痛感した次第。

  自分が碌な写真が撮れなかったから、僻みで言うわけではありませんが、斎場御嶽は、やはり、撮影禁止にした方がいいと思います。 森の中で写真を撮ると、明暗差が大き過ぎて、色が判別できないほど暗くなるか、空が真っ白に飛ぶかのいずれかになり、どうせ、いい写真になりません。 それならば、聖域としての神秘性を確保するために、撮影禁止にしてしまった方がいいと思うのです。 記念撮影なら、入り口の所に、「斎場御嶽」と刻まれたモニュメントが用意されているので、そこで充分でしょう。

  10時頃、タクシーに戻りました。 斎場御嶽にいる間、雨が降らなかったのは、ありがたかったです。 この後、「おきなわワールド」へ向かったのですが、途中、とある食品雑貨店の前を通ったところ、運転手さんが、店の前に並べてあった芋を目にとめ、「ちょっと、買って来ます」と、車を停めて、買いに行きました。 名前を忘れてしまいましたが、地元特産の芋で、寄生虫の関係で、県外には持ち出し禁止になっているとの事。 「なかなか、手に入らないんですよ」と言っていましたが、仕事中に、こういう事ができるのは、個人タクシーの強味でしょうなあ。 まあ、ほんの5分程度だったから、構やしないんですが。


≪おきなわワールド≫
  本島南部の民俗村型テーマパークです。 民俗村の他に、鍾乳洞、ハブ館があり、全て、今まで行った所と被っているのですが、運転手さんは、○△商事から送られて来た日程表の目的地を忠実に回っているだけなので、文句を言うべくもありません。 又、○△商事が悪いわけでもなくて、旅行中、五日間も貸切タクシーを使い、しかも、マリン・レジャーなどは外して、観光地だけ回るとなると、どうしても、内容が被る施設が出て来てしまうんですな。

  いや、実は、これは、私が悪いのであって、岩手で、○△商事の担当者に旅行計画の立案を頼んだ時に、「目的地について、これといった希望はありません」と言ってしまったのです。 その時は、岩手での退職手続きを済ませて、解放された直後だったので、旅行の事について、細部まで考えを致すゆとりがなかったんですな。 その直前まで、「福利ポイントの残りは、結局、放棄する事になるのでは・・・」と、諦めていたくらいで、些か自暴自棄な精神状態だったのです。

  本島に来てから、「史跡と、景勝地を中心に回ってください」と言えば、そうしてくれたのだと思いますが、石垣島の貸切タクシーで、メモ用紙に書き出して見せた目的地が、半分以上、却下を喰らったのが、プチ・トラウマになって、言い出せなかったんですな。 もし、宮古島の運転手さんのように、向こうから、希望目的地を訊いてくれれば、言ったかもしれませんが、そうは都合よく、事は進みませんでした。 本島は、大きい分、史跡も景勝地も、たくさんあるわけで、しかも、期間は三日もありますから、運転手さんに、目的地の選定から、コースの組み立てまで、一から全部やり直してもらうのは、気が引けたといとう事情もあります。

  「おきなわワールド」というと、ピンと来ない人も多いでしょうが、「玉泉洞」と言えば、「ああ、あの有名な、沖縄の鍾乳洞!」と、手を打つと思います。 沖縄の観光地が、全国的に知れ渡ったのは、海洋博の時ですが、その頃、玉泉洞の名前は、相当な有名株でしたから。 玉泉洞が、名前はそのままに、おきなわワールドの中に入っているという格好です。 以前は、「玉泉洞王国村」と言っていたらしいですが、39年前のガイド・ブックには、その名はないので、海洋博の後、その名前になり、更に改名して、今の名前になったのでしょう。

  運転手さんは、入口のちょっと中までついて来てくれて、観覧順序を説明してくれました。 琉球村での失敗に鑑み、聞き逃さないように気をつけました。 まず、玉泉洞に入り、地下を通って、園の一番奥まで進み、そこから、地上に出て、熱帯フルーツ園、民俗村、ハブ館を見るようにすればよいとの事。 ここの場合、最初に玉泉洞に入れば、自然と、そういうコースにになるのだと分かったのは、見終わった後の事です。

  玉泉洞は、意外と歴史が浅くて、1967年に発見されたとの事。 当然、命名されたのも、それ以降です。 全長5キロある内、公開されているのは、890メートルらしいですが、写真データを見ると、中にいたのは、30分程度なので、順路の長さは、もっと短いのだと思います。 私の場合、つい数日前に、石垣島鍾乳洞を見てしまっていたので、どうしても、二番煎じ的印象にならざるを得ず、正確な評価ができない事を断った上での感想になりますが、どちらかといえば、石垣島鍾乳洞の方が、変化に富んでいたでしょうか。 ただし、玉泉洞には、百枚皿がありました。 他に、「槍天井」も、なかなかのものでした。

  ちなみに、39年前のガイド・ブックには、玉泉洞の中にあるとして、骸骨が何百と転がっている、「風葬跡」の写真が出ています。 しかし、私が行った時には、洞内に、そういう場所は見当たりませんでした。 人によっては、観光どころではない、強烈な恐怖を感じそうなので、順路から外してあるのかもしれません。 私的には、見たかったんですがね。 その代わり、というわけでもありませんが、「古酒(クースー)」の貯蔵庫になっている支洞がありました。

  写真は相変わらず、暗さで、ブレてしまって、碌な物が撮れませんでしたが、それは、玉泉洞のせいではなく、洞穴なら、どこでも同じです。 そうそう、写真と言えば、玉泉洞に入る前に、写真屋に捉まりました。 琉装の女性と二人で、記念写真を撮るという奴。 断る暇もなく、あれよあれよという間に、撮られてしまい、洞から出た所で、千円で売っていましたが、もちろん、スルー。

  この商売、はっきり言って、迷惑なんですが、それでも、沖縄の観光地の写真屋は、一人客が相手でも、普通に声をかけるから、ずっと、良心的です。 伊豆半島の同業者は、一人客と見るや、にべもなく無視したり、露骨に、「邪魔だから、早く行っちゃって」と言わんばかりの態度を取ります。 だから、近くでも、伊豆半島の観光地には、行きたくねーのよ。 あんな観光ズレした所へ、ありがたがって押しかけて来る、首都圏のやつらの気が知れぬ。

玉泉洞(上)/ パイナップル(下)


  玉泉洞を出ると、熱帯フルーツ園があります。 大きな温室があるのですが、出入口の扉が開放されていました。 夏場の沖縄では、温室がなくても、大抵の植物は大丈夫なのでしょう。 バニラ、マンゴー、パパイア、パイナップルなどが、木に成っている状態で見れます。 パイナップルは、結局、畑を見る事ができなかったのですが、ここで、成っている姿を見れたのは、幸いでした。 葉の上に実が成り、実の上に、また葉が生えているのは、何となく、奇妙。

  フルーツ園の先には、「フルーツ王国 売店・パーラー」という建物があり、ここで、運転手さんに勧められていた、「さとうきびジュース」を飲みました。 450円・・・・、きっつー! 目の前で、サトウキビを機械に入れて、搾ってくれます。 ところが、ここで、宮古島のグァバ・ジュースの悪夢が再来しました。 プラスチックのカップに入れてくれるのですが、氷が異様に多いのです。 勘弁しとくんなまし。 巷のスーパーじゃ、450円あれば、炭酸飲料の1.5リットル・ペットボトルが、3本も買えるのですよ。 いくら、観光地の特産品だからと言って、300ccも入らないカップに、氷をごそっと入れた日には、ジュースの正味量は、どうなってしまうのよ?

  いや、いいんです。 もう、最終日だから。 贅沢したと思って、諦めます。 味の方ですが、運転手さんが、一押ししていただけあって、おいしかったです。 最初に泊まったホテルの夕食で、サトウキビ・アイスというのも食べましたが、サトウキビの味は、独特のコクがあって、スイーツやドリンクには、とてもよく合います。 若干、青臭さがありましたが、それを取り除けば、缶入りやペットボトルにしても、売れると思います。 もちろん、リーズナブルな値段にすればという条件付きですが。

  熱帯フルーツ園の、すぐ隣に、昔の「高倉」が二つ、移築されています。 よく、弥生時代や古墳時代の遺跡に復元されている、高床式倉庫の琉球版ですが、外観は、全く違った印象で、柱の上に、屋根だけが載っているように見えます。 キノコみたいな形。 私は、琉球村でも、高倉を見ていて、「一体、どこに穀物をしまうのだろう?」と首を傾げておったのですが、ここへ来て、よくよく見たら、梯子が、屋根の下に架かっています。 真下まで行って、見上げたら、屋根の下に入り口があるじゃありませんか! つまり、屋根だと思っていた部分が、倉庫本体だったんですな。 屋根裏部屋だけ使っているという感じ。 たぶん、台風対策で、この形状でなければ、風をやり過ごせなかったのでしょう。

高倉(上)/ 王国歴史博物館(下)


  「王国村」という名がついた民俗村は、ほぼ、素通りしました。 さすがに、三ヵ所目となると、じっくり見るという気分になれません。 ただ、「王国歴史博物館」という建物だけは、中まで入って、見て来ました。 ここは、出色! 私の、お勧めです。 常設展示で、「沖縄と世界のシーサー」展をやっているのですが、世界中の獅子像の展示をやっていて、実に興味深い。 日本の狛犬も並んでいます。 博物館としての規模は小さいですが、比較文化の視点で企画された、一級の展示内容でした。

  建物は、古民家風の建物を二つ繋いだものでしたが、中は、靴で入れるように工夫されていたのが、何より、ありがたい。 オマケに、外の掲示板では、「沖縄の魔除け」を、写真と解説文で紹介していて、石敢當、ヒンプン、ユーナチモーモー、アジケー、ヒジャイナー、ゲーンと並んでいました。 これも、私好みの企画でして、こういう、精神性の本質に迫るような事が知りたいんですよ。  この博物館、センスが研ぎ澄まされておるのう。

  おきなわワールドでは、「スーパーエイサー」という、集団舞踊のアトラクションが、呼び物らしいのですが、時間がうまく合わず、やむなく、パスしました。 「エイサーは、前の日に、アメリカン・ビレッジの沖縄料理店で、テレビでやっているのを見たから、よしとするか」などと、自分を納得させましたが、今考えてみると、多少、出るのが遅くなっても、生で見て来た方が良かったかも知れません。

  この後、「南都酒造所」と、「おみやげ専門店街」を通過。 土産物店は、大きな建物の中に、ぎっしり詰まっていました。 よくこれだけ、土産物の品目があるものですなあ。 もちろん、私は何も買いません。 建物の外に出ると、玉泉洞の入口前まで戻って来ました。 ここの広場の隅に、復元された「進貢船」がありました。 名前は、「南都丸」。 全長31メートル、幅8メートル、110トン。 忠実に復元したとの事で、外洋船だけあって、巨大です。 進貢船は、目が可愛いですな。 ゆるキャラにしたら、可愛がられるのでは? しかし、この南都丸、復元後、22年を経て、老朽化したので、廃船になってしまうのだそうです。 勿体ない。

進貢船 「南都丸」


  最後に、「ハブ博物公園」。 ちと、紛らわしい名前ですが、公園と言っても、ほぼ、一つの建物と、その中庭のような部分を指しています。 ショーが中心だった、琉球村のハブ・センターとは違い、こちらは、本格的な博物館。 ハブの分類、分布、生態解説などのパネル展示の他、生きている各種ハブや、アナコンダ、パイソン、ウミヘビ、マングース、アルダブラゾウガメ、セマルハコガメ、オリイコウモリなど、相当な種類の動物が飼育されています。

  パネル展示の圧巻は、ハブに咬まれた傷痕の写真。 これは、血が凍る思いぞする・・・。 毒で壊死した部分を、全部取り除かなければならないので、肉がごっそり抉られてしまうんですな。 うぬぬぬ・・・、交通事故の死亡写真より、遥かに恐ろしい。 この写真に比べれば、ホラー映画なんて、大した怖さじゃありませんな。

  ウミヘビは、初めて見ましたが、尻尾の方が、ウナギのように縦に平らになっていて、尾鰭の代わりになっていたのには、「ほーっ」と思いました。 それでも、蛇は蛇で、ウナギやウツボのような、鰓はなく、呼吸をする時には、海面に上がるわけです。 面白い! 最初に、海に入ろうと思った奴は、まさか、自分の子孫が、尻尾まで変形させて、海中生活に適応するとは思わなかったでしょうなあ。

  セマルハコガメは、中国南部の他に、西表島と石垣島に棲息し、国内の野生個体は、天然記念物になっていて、捕獲も飼育も禁止されています。 ここでは、子亀が、5匹ほどいましたが、輸入個体なのか、特別な許可を得て飼っている国内個体なのか、分かりませんでした。 本物を見たのは初めてで、時間があれば、じっくり見たかったのですが、もう、12時が近づいていたので、そういうわけにも行きませんでした。

ハブ(上)/ セマルハコガメ(下)


  おきなわワールドの中にいたのは、1時間半くらいでした。 玉泉洞がプラスされていた分、他のテーマパークより長くかかったわけです。 タクシーに戻ったら、運転手さんから、「もっと、ゆっくりして来ても良かったのに」と言われましたが、後で考えると、その通りで、昼食の時間を律儀に守ろうなどと考えなければ、あと、30分くらい、ここにいた方が、ちょうど良かったのです。 だから、「スーパーエイサーを見てくれば良かったかなあ」と、今頃、地団駄踏んでいるわけでして。


≪ゴーヤ・チャンプルー≫
  昼食ですが、この日も、「土産話にしたいから、地元ならではの料理が食べたい」と言ったら、「ゴーヤ・チャンプルー」を勧められました。 いよいよ、大御所が出て来たか。 記念すべき、最終日の昼食に相応しいメニューです。 今や、ゴーヤ・チャンプルーは、日本全国で食べられている料理で、私も家で、母が作る物を何回も食べていますが、前日に、フー・チャンプルーを食べた経験から、「本場の炒め物は、味のレベルが、全然違うようだぞ」と思っていたので、弥が上にも、期待が盛り上がりました。

  ところが、店が見つかりません。 次の目的地は、「ひめゆりの塔」なので、そちら方面に向かいながら、探すのですが、なかなか、ないのです。 その内、幟旗が立った店を見つけ、駐車場まで入りましたが、どうも、飲食店のようではなく、食べ物も出す、温泉施設のようです。 温泉ですから、見るからに、土禁・・・。 運転手さんは、「ここでも良ければ・・・」という感じでしたが、よくないよくない! この期に及んで、土禁は、勘弁してください! とはいえ、土禁が嫌だから、やめてくれとも言えないので、「いや~、ここは、温泉に入らなければ、食べられないんじゃないですかね~」とか何とか、テキトーな事を言って、ごまかし、諦めてもらいました。 危ない危ない・・・。

  結局、ひめゆりの塔の真ん前まで来てしまい、そこにあった食堂で食べる事になりました。 運転手さんの話では、「ひめゆり平和記念資料館」に入る場合、先に食事を済ませておいた方が、いいらしいのです。 見た後だと、大抵のお客が、食欲をなくすのだとか。 なるほど、そういうものですか。

  ここは、食券式ではなく、店員さんが席まで来て、注文を訊く方式でした。 ゴーヤ・チャンプルー定食、700円を注文。 やはり、炒め物は時間がかかるようで、10分くらい待ちました。 その間に、メニューに書かれた、沖縄そばに関する説明を読んでいました。 「そばと言っても、蕎麦ではなく、きしめんのようなものです」と書いてありましたが、きしめんよりは、ラーメンに近いです。 きしめんに似ているのは、平たい形だけですな。 しかし、こういう事を、わざわざ書いてあるという事は、蕎麦と思って注文して、後で、文句を言う客がいるのかもしれませんな。 食べてみれば、蕎麦より、うまいんですが。

  ゴーヤ・チャンプルーが来ました。 ゴーヤが入った炒め物です。 肉や豆腐も入っています。 ここでも、皿に山盛り。 食べてみると、ゴーヤが柔らかくて、フッカフカ。 家で食べるのと同じゴーヤとは、とても思えません。 これが、本場の味というものか。 これを食べたら、日本の家庭で作っている炒め物は、食べられませんな。 そもそも、和食には炒め物の伝統なんてなくて、見様見真似で作っているのだから、うまいわけがないと言えば言える。 定食だったので、御飯、味噌汁、おしんこが付きましたが、ゴーヤ・チャンプルーだけでも、ボリュームがあるから、充分、一食になると思います。 またまた、満腹になってしまいました。

ゴーヤ・チャンプルー



≪ひめゆりの塔≫
  有名な、ひめゆりの塔ですが、本島南部の、更に南部の、伊原という所にあります。 この付近一帯には、「ガマ」という、自然洞窟がたくさんあり、その中の一つ、地上に向けて空いた竪穴の横に、小さな、昔の墓石程度の大きさの石碑が立っています。 ガマの後ろ側にある、慰霊碑(納骨堂)の方が大きくて目立つので、そちらを、ひめゆりの塔だと勘違いする人もいるようです。 ひめゆりの塔の建立は、1946年4月7日。 慰霊碑の方は、ずっと新しそうですが、建立年は、ネットで調べても、つきとめられませんでした。

ひめゆりの塔と慰霊碑


  このガマは、「第三外科壕」という名前で呼ばれていて、沖縄戦の末期には、中が病院になっていたわけですが、覗き込むだに、不気味な穴で、こんな所に籠っていた人間の気持ちがどんなものだったかを想像すると、肌に粟立つものがあります。 資料館の外にあるのは、これらだけで、それだけ見たのでは、何も分かりませんが、この、現物のガマを見ておくのとおかないのとでは、資料館の中の展示内容について、感覚的に理解できる程度が、だいぶ、変わって来ます。

ガマ 「第三外科壕」



≪ひめゆり平和祈念資料館≫
  1989年に、開館。 平屋で、六つの展示室と、ホール、ロビーなどを備えた、大きな資料館です。 「ひめゆり学徒隊」というのは、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒の内、動員されて、看護師として従軍した222名の生徒達の事で、元は、首里近くの南風原の沖縄陸軍病院に勤務していたのが、米軍に押されて、南へ退却する日本軍について、伊原へ追い込まれ、最終的に、123名が死亡したとの事。 外の第三外科壕では、米軍のガス弾攻撃で、47名が死んでいるらしいです。

ひめゆり平和祈念資料館


  この資料館を訪れる人は、どういう所か、大体知っていて来るわけですが、それでも、見る前と後では、気分が全く変わってしまうようです。 最初の展示室では、学校生活の紹介から始まるので、昔の学用品や写真などを見て、割と気軽に会話を交わしていたのが、先に進むに連れて、口数が減り、資料映像と証言ビデオを見せる部屋では、誰も喋らなくなります。

  日本軍にせよ、アメリカ軍にせよ、誰かを批判するという内容ではなくて、戦争の残忍さを客観的に伝えていますが、そういう意図なのか、日本人やアメリカ人に、逆恨みされないように、注意深く、本音を言うのを避けているのか、そこまでは、読み取れません。 沖縄県民は、戦時中、日本人から明らさまな差別を受けていた上、米軍統治時代にも、日本復帰後も、基地問題などで、理不尽な扱いを受け続けていて、この資料館が作られた時点でも、さまざまな意識が入り混じっていたと思われます。 少なくとも、日本人は、襟を正さずには、入れる所ではありません。

  一つだけ、悲劇を引き起こした分岐点として、強調されている事がありました。 日本軍の司令官が出した、「解散命令」のタイミングです。 首里の方から、この南部のどん詰まりまで、非戦闘員である学生を連れまわした挙句、米軍に囲まれて、もう、どこにも逃げる場がない状態になってから、突然、解散命令を出し、弾丸・砲弾が飛び交う戦場に放り出した点だけは、確実に批難しています。 実際、犠牲者のほとんどは、この解散命令の後に死んでいるのです。

  以下は、資料館の展示内容とは関係のない、私の意見ですが、

  島なのですから、退却して行けば、追い込まれるのは分かっていたわけで、これは、あまりにも、無責任。 最初から、使い捨てにするつもりだったと言われても、仕方ありますまい。 この司令官、「最後の一兵まで戦え」と言って、腹を切って死ぬのですが、沖縄戦では、民間人だけでも、10万人近くが死んでいるのであって、一人が腹を切って、責任の天秤が吊り合うわけがありません。 ガイド・ブックによると、この司令官、辞世の歌を残し、慰霊碑まで立っているらしいです。 「死者に鞭打つような真似はするな」とはいうものの、複雑な気分ですなあ。 もしも、あの世があったなら、自分の命令のせいで、死んで行った人達に、どの面下げて、会っているんでしょう。

  そもそも、沖縄全体を捨石にするつもりだった、日本軍上層部の考え方に、重大な問題があるわけですが、だからといって、「現地司令官も犠牲者だ」という論理は、どうかと思います。 現地司令官には、現地司令官だけが負う、「降伏を決める責任」があります。 それは、所属する軍に対してではなく、自分の命令を受ける立場にある部下や民間人に対して負う責任です。 軍の上層部が、「最後の一兵まで戦え」という命令を出しても、現地司令官は、それを拒否する責任があるわけです。 援軍が来ないと分かっている状況で、もう勝ち目がないと判断された時は、人命を優先する為に、降伏すべきなのです。 誰が、その判断を批判できるというのですか。 批判どころか、生き残った人間からは、確実に感謝されます。

  その上で、「自分は降伏の責任を取って死ぬ」というなら、格好もつこうというもの。 しかし、「俺も死ぬから、お前らも、死ぬまで戦え」ではねえ・・・。 軍人としては、本分を尽くしたのかも知れませんが、人間としては、指導者失格でしょう。 昨今、硫黄島やビアク島などで、玉砕を許さず、最後の一兵まで戦わせようとした司令官を、軍人の鑑として持ち上げる傾向がありますが、別に彼らは、人命を大切にして、玉砕を許さなかったわけではなく、単に、「本土上陸までの時間を稼ぐ」という軍の方針に従っただけです。 玉砕だろうが、最後の一兵までだろうが、部下を全員死なせるつもりだった事に変わりはありません。

  この司令官達、一体、どういう未来を思い描いていたんでしょうねえ。 自分が部下もろとも犠牲になれば、日本が勝つとでも思っていたんでしょうか? 本土上陸を遅らせられれば、戦況が変わるとでも思っていたんでしょうか? 結果的には、戦争が長引いて、死者が増えただけだったんですが。 一体、何の為に、部下の兵隊や、沖縄の民間人を犠牲にしたんでしょう? どんな理由があったにせよ、全く吊り合わない程に、犠牲が大き過ぎました。 もし、「軍人としての意地」などという、軍人以外には何の価値もない理由であれば、尚の事。 そういう事は、自分の命だけを引き換えにして、やるべきです。

  こういう事を書いていると、どんどん、気分が悪くなって来ます。 これは、あくまで旅行記ですから、 これ以上は控えておきましょう。 いや、ひめゆり平和祈念資料館に関しては、見に行って良かったと思いますがね。 特に、第四展示室にあった、「証言本」は、時間があれば、全部読みたかったです。 本になってないかなあ。 図書館で探してみようか。 そうそう、資料館内は、撮影禁止だったので、写真はありません。


≪琉球ガラス村≫
  最後の目的地になったのが、ここ。 「琉球ガラス」という、主に、戦後になって発展した工芸の、製造販売を行なっている所。 工房があり、見学や体験もできます。 売っているのは、量産品の土産物だけでなく、ガラス作家が作った、芸術作品も含みます。 そういう作品は、村内の、「琉球ガラス美術館」にありますが、そこでも、やはり、販売はしています。

  でねー、ここなんですが、私的には、失敗でした。 琉球ガラス自体は、非常に美しかったんですが、私の方が、ガラス工芸に興味がなく、知識も決定的に欠けていたので、楽しみようがなかったという次第。 最低限、「何か買いたい」という人でなければ、行っても、成果がないと思います。 ざっと見た限りでは、高い品でも、安い品でも、ガラスの美しさは、変わりがないようでした。 しかし、こういう、大雑把な感想を抱く事自体が、ガラスが分かっていない証拠だという気もします。

  着いたのが、午後1時25分で、運転手さんが言うには、那覇空港までの時間から逆算して、2時10分までは見ていて良いとの事。 しかし、上記のような事情で、20分程度で見終わってしまいました。 もう一回見直しても、まだ、20分も余っている。 その内、雨が降り出し、居場所もなくなる有様。 タクシーへ行ってみたら、運転手さんは、昼寝の最中で、起こすのもためらわれる始末。 弱り目に祟り目とは、このこった。

  「しまったー。 こんな事になるのなら、おきなわワールドで、スーパーエイサーを見て来るんだったー」と思いましたが、後の祭りです。 そもそも、自分がガラスに興味がない事は分かっていたわけですから、事前に運転手さんに言って、「平和の礎」の方にでも変更してもらえば良かったのです。 沖縄旅行には、恐らく、もう二度と来れないのに、勿体ない事をしました。

  美術館の中をうろうろして、何とか時間を潰し、ようやく、2時10分になったので、タクシーへ。 その頃には、雨がやんでいました。 西側の海岸線を通って、那覇空港へ向かいます。 運転手さんが言うには、「この三日間の日程は、無理のない計画で、とても楽に回れた。 沖縄の観光地について、よく知っている人が立てたのだろう」との事。 なるほど、そうでしたか。 ○△商事の担当者は、沖縄に何度も来ているのかもしれませんな。 私的には、他に行きたい所もあったのですが、最初に、そう言わなかったのは、私が悪いのであって、○△商事の担当者の責任ではありません。

  そういえば、糸満漁港の横を通りましたが、漁港とは思えぬ、巨大な規模で、びっくりしました。 39年前のガイド・ブックに、「現在、糸満港の大規模な整備工事が進められているので、やがては、糸満の水産業も、かつての勢いを取り戻すかもしれない」という件りがあるのですが、本当にそうなった模様。 運転手さんは、「糸満は、高校野球で名を馳せた」と言っていましたが、私の方が、野球の知識に疎くて、生相槌しか打てませんでした。


≪那覇空港≫
  2時30分頃、那覇空港に着きました。 日程表上の契約は、3時までなので、運転手さんは、「ちょっと早いけれど」と言っていましたが、いやいや、朝が、30分早く出発してもらったわけですから、契約時間的には、これで、ぴったりなわけです。 「いろいろと、面白い話を聞かせていただいて、ありがとうございました」と、篤くお礼を言って、別れました。

  三日間も一緒にいたにも拘らず、話題が豊富で、10秒たりとも会話が途切れる事がなかったのは、さすがプロと、感服仕りました。 「今度来た時には、太平洋岸の方を、ゆっくり案内しますよ」と言ってくれましたが、残念ながら、資金的に、私が沖縄へ来れる事は、もうないでしょう。 これからは、引退した無職の人間として、貯金の取り崩し生活が始まるのです。 不治の病に侵されて、余命幾許もなくなったら、来れると思いますが。

  那覇空港に来たのは、四日ぶりです。 来た時には、バスの乗り場と時間が気になって、観察どころではありませんでしたが、今度は、飛行機の時間まで間があるので、ゆっくり見て回れました。 やはり、大きな空港です。 タクシーが着けられたのは、国内線ターミナルの3階で、そこが、チェック・イン・フロアになっています。 四日前に到着した時には、1階の到着フロアから、外に出て、バスに乗りました。 建物の構造が、分からないのですが、1階と3階の前に、車が停まる道路があるんですな。 どうやって、地上まで下りるのだろう? そもそも、どうやって、3階の前まで上がって来たのかも、覚えていないし。

那覇空港


  出発フロアは、2階でして、これから飛行機に乗る人間は、まず、3階で、チケットを買ったり、チェック・インしたり、荷物を預けたりした後、2階に下りて、保安検査場を通り、待ち合い場に入る順序になります。 出発便の電光掲示板を見ると、恐れていた通り、台風の影響で、16:40発の便が遅れて、17:05発になるとの事。 やっぱりかー。 待ち合い場に行く前に、展望台を見てみようと思って、4階に上がりましたが、展望台は、100円の有料でした。 屋外なのに? もちろん、パス。 公衆電話を見つけ、家に電話。 遅れると伝えました。

  3階の、チェック・イン・マシンで、搭乗手続きをしたところ、もっと早い便に、変更できるかのような案内が出たので、「空席待ち」を選んだら、「このチケットでは、変更できません」という表示が出ました。 だったら、最初から言うなよ。 期待してしまったではないか。 ふざけた機械だ。

  2階の売店で、「紅芋タルト」の、一番小さい箱を、630円で買いました。 さすがに、家族への土産が、沖縄そばだけというのも少ないと思って、菓子を買い足した次第。 小さい箱なので、何とか、旅行鞄に押し込めました。 よしよし。 それでなくても、遅延するというのに、荷物の数が増えたら、預けなければならなくなり、羽田に着いてから、空港を出るのが遅れてしまいますからのう。

  保安検査場を通って、待ち合い場へ。 この空港は、コの字型になっていて、私が乗るゲートは、その一方の端でしたから。 かなりの距離を歩く事になりました。 ちなみに、航空会社は、日本航空です。 トイレに行ってから、待ち合い場の椅子に座って、日記を書きました。 タクシーに乗っている間は、一文字も書けませんから、朝からの分が、そっくり溜まっていて、待ち時間が足りないほどでした。 書いている間に、出発時間は、更に遅れて、17:15になりました。 もう、どうとでもして下さいな。

  4時52分に、ようやく、搭乗ゲートが開きました。 日記ノートを片付けるのに、ちょっと手間取っていたら、ずらりと人が並んでしまい、えらい遅い搭乗になりました。 席は、左の窓側で、主翼のすぐ後ろ辺りです。 主翼が邪魔をして、首を後ろに捻じ曲げないと、下が見れません。 飛行機は、≪B777-300≫で、またまた、初めて乗る機体です。 北海道応援の時に、≪B777-200≫に、四回乗りましたが、それよりも大きいような感じがしました。 帰ってから調べてみたら、本当に大きくて、≪B777-200≫より、100人以上、多く乗れるとの事。

  大きな機体だと、大勢乗るので、搭乗にも時間がかかります。 この時の便は、満席に近く、さすがに、隣が空席というわけには行きませんでした。 しかも、小学校中学年くらいの小僧です。 嫌~な予感がしましたが、それは、その後、的中します。 自慢になりませんが、私は他人のガキに対する嫌な予感を、未だ嘗て、外した事がありません。 これは、オーラなどという曖昧な物ではなく、ガキ本人と、連れている大人の会話の調子などから、察知されるのです。


≪那覇から、羽田へ≫
  5時15分に離陸。 その時には、外は雨でした。 雲の上に上がると、下は、当然、雲で見えないわけで、全然面白くありません。 しばらくは、夕日が見えましたが、夕日から遠ざかる方角へ向かうので、すぐに暗くなりました。 この辺までは、まだ良かったのです。 やがて、本州に近づき、愛知県の海岸線が見えて来ました。 静岡県、神奈川県、この辺りも、まだ良かった。 ところが、東京湾上空まで来て、旋回が始まったら、隣のガキが、外の様子を見たがって、私の席まで、身を乗り出して来るようになりました。 信じられます? 私の顔の目の前まで、ガキが頭を突き出してくるんですぜ。

  この種のガキに、他人に対する遠慮など、期待するのも愚か。 そもそも、他人に迷惑をかけていると思っていないのだから、罪悪感のかけらも、発生しないのです。 また、私の真後ろの席に乗っている、ガキの叔母と思われる女が、「あー、○○が見える! ほらほら!」などと、何かを見つけるたびに騒ぐものだから、ガキが、そのつど、ギャーギャー騒ぎながら、私の方に身を乗り出してきて、全く落ち着きません。

  子供が傍若無人な態度を取っていたら、その近くには、必ず、それを許している、いや、唆している大人がいると見て、間違いないです。 親戚の叔母さん、近所のおばさんとかに、その種の手合いが多い。 こういう大人は、子供の歓心を引いて、「話の分かる、いい大人」を演じようとしており、自分が子供から慕われるためなら、他人にどんな迷惑がかかろうが、知ったこっちゃありません。 私は、「子供好きの大人」を、全く信用しませんが、この連中は、自分自身が、精神的に大人になりきれず、大人として、他人に相手にされないものだから、子供に媚を売って、味方につけようとしているのです。

  ガキの席の内側、通路側の席には、ガキの母親と思しき女が座っていましたが、自分の息子が、他人に大迷惑を及ぼしている事に、明らかに気づいているにも拘らず、何も言おうとしません。 どーしょもない! 子供が傍若無人な態度を取っていたら、その近くには、必ず、それに見て見ぬふりをしている親がいます。 自分の子供が、まずい事をやっていると分かっていても、子供を叱って、子供に恨まれるのが怖かったり、周囲の知り合いに、「怖い人、厳しい人」と思われるのが嫌で、何も言えないのです。 私は、「子供と仲良しの親」を、全く信用しませんが、それは、この連中が、子供との関係を優先するあまり、社会人としての最低限の義務を果たしていないからです。

  どうせ、こんな親の子供は、長じて、犯罪者になるのが落ちです。 理の当然ではありませんか。 他人に迷惑をかけても、誰にも咎められないのですから、やりたい事は、何だってやるようになります。 他人に迷惑をかける事と、犯罪は、全く同じ方向性の行為でして、その間には、法律に触れるか否かの境界しかありません。 法律を全て頭に入れでもしない限り、自然のままに振舞っているだけで、犯罪の領域に踏み込んでしまう恐れが、常に付き纏います。 成長過程で、さんざん、好き放題にやらせておいて、「犯罪者にはなるな」と言ったって、そりゃ、無理な相談ですぜ。 一体、おまいらは、「人間を育てている」のか、それとも、単に、「子供を飼っている」だけのか、どっちなんだ?

  このガキ、結局、着陸するまで、20分くらい、騒ぎまくっていました。 他人の大人の権利を発動して、怒鳴りつけてやろうかと、何回か思いましたが、それをやれば、せっかくの沖縄旅行の記憶が、真っ黒に塗り潰されてしまうので、何とか堪えました。 そのガキの将来の為には、怒鳴りつけてやった方が、確実にプラスになったと思いますが、なんで、私が、赤の他人の出来損ないのガキの為に、嫌な役回りを引き受けなきゃならんのよ? 馬鹿馬鹿しい! 奇妙な事に、客室乗務員というのは、狂ったように騒いでいる子供には、ニコニコ笑って、何も言わないくせに、それに対して怒り出した大人は、不穏人物と見做すのです。 まったく、子供に甘い社会であることよ。


≪羽田から、家まで≫
  羽田に着いたのは、8時頃でした。 大型機なので、乗客が下りるのにも時間がかかります。 国内線に、こんな大型機は、却って、不便なのではないかと思います。 ジャンボ機が、引退せざるを得なかったのは、単に、燃費だけの問題ではありますまい。 客からすれば、さっと乗れて、さっと下りられるのと、どちらにも、だらだら時間がかかるのとでは、飛行機に対する印象に、大きな差が出ます。 気軽さが売りの国内線なら、尚の事です。

  飛行機から出ると、小走りに、京急乗り場へ下りました。 羽田到着も、三回目ともなると、具体的な道順は覚えていなくても、迷う心配はありません。 天井に下がっている、案内標示を見て進めば、自然に外に出られます。 空港が怖く感じられるのは、ほんとに最初だけですな。 京急の券売機で、410円の切符を買って、地下のホームに下り、ちょうど出るところだった普通列車に飛び乗りました。 「各駅停車は遅いから、エアポート快特を待った方がいい」と、行きで懲りていたのに、また、普通に乗ってしまったのは、10日も経って、その事を忘れてしまっていたのと、一刻も早く帰ろうと焦っていたのが、二大理由。

  蒲田で乗り換えて、品川に着いたのが、8時40分くらい。 ここで、日程表を調べてみたら、○△商事の当初の計画にあった、モノレールで浜松町を経由して品川に来た場合に乗る予定だった、「21:04発 こだま807号」に間に合う事が分かりました。 相当には、牽強付会ですが、飛行機の遅れを、取り戻したと言えないでもなし。 「元はと言えば、この時間になる予定だったんだから、まあ、いいじゃないか」という、気分の問題ですな。 この事で、何となく、得をしたような気になれて、飛行機の中での不愉快な思いを、幾分、中和できました。

  品川駅では、京急のホームと、JRのホームが横に繋がっていて、外に出なくても、「乗り換え改札」を通れば、新幹線のホームへ、直行できます。 その場合、自動改札機には、京急の切符と、JRの切符を重ねて入れます。 その事は、北海道応援の時に始めて知り、お約束のように、間違えて、エラーを出し、駅員さんに助けてもらいました。 なので、この時は、「同じ失敗を、二度は繰り返さんぞ」と、自信満々で望んだのですが、私が、京急の切符、JRの乗車券、特急券の三枚を重ねて入れたら、またもや、エラーが出ました。 顔面蒼白・・・。 で、まーた、駅員さんに助けてもらいました。 重ねて入れられる切符は、二枚までなのだそうです。 つまり、ここでは、京急の切符と、JRの乗車券だけ入れれば良かったんですな。 すいませんねえ。 性懲りもなく、不慣れで・・・。

  新幹線のホームに行くには、新幹線用の改札があり、ここでは、乗車券と特急券を重ねて入れます。 9時過ぎだというのに、新幹線のホームは、退勤客と思われる、サラリーマン風の人々で、行列が出来ていました。 いつ見ても思うんですが、新幹線で通勤というのは、よく言えば、豪勢、悪く言えば、贅沢ですな。 通勤費が会社から出ているんでしょうが、会社も大変だわ。 たった一人の人間を通勤させるために、毎月、何万円払っているのやら。 何万じゃ利かんか。 十何万か、何十万か? 私が社長だったら、地方に社屋を構えて、自腹で通勤できる人だけ雇います。 仕事内容と直截関係ない事に、賃金を払うなんて、馬鹿馬鹿しいではありませんか。 会社員の代わりなんて、どこででも調達できるんですから。 事実上のリストラを喰らったばかりの私が言うのだから、間違いないです。

  先に来た、のぞみを、二本見送り、こだまに乗りました。 いつものように、小田原で、ちょっと長い停車があり、後続の、ひかりやのぞみを先に行かせます。 この新幹線の中で、最後の日記を書きました。 家に着いたら、即、パソコンに切り替えるので、紙ノートの日記は、いつも尻切れトンボになります。 9時51分に、三島に到着。 三島に着いた時に、階段の近くで下りられるように、品川駅で、乗る車両を調節するのですが、北海道応援の時から、毎回、勘違いして、階段から、最も遠い所に下りてしまいます。 この時も、そうで、長いホームの、3分の2くらいの距離を、旅行鞄を牽いて歩かねばならない羽目になりました。 懲りんのう。 まあ、大した事ではないから、本格的に対策を取ろうとしないのだという理由もあるのですが。

  東海道本線のホームへ出て、22:00発の普通列車で、沼津へ。 沼津駅の外に出たのが、10時10分頃。 もう、バスはありません。 ケチな私が、タクシーに乗るわけもなく、旅行鞄の肩ベルトを出し、それを背負って、家まで歩きました。 40分くらいかかります。 辺戸岬まで、4時間歩いたのに比べれば、大した時間ではありませんが、荷物が重かったので、腰を潰さないように、気を使いました。 夜道の怖さは、都会も地方も変わりませんが、幸い、男なので、襲われる心配は、かなり低いです。 それでも、なるべく、大通りを選んで歩きましたけど。

  家に着いたのが、10時50分くらい。 母が、居間で、まだ起きていました。 別に私を待っていたわけではなく、最近、めっきり老け込んで、夜は台所で寝かせている犬が、小便をするたびに吠えるので、その世話をする為に、毎晩、居間で寝起きしていたとの事。 私が旅行から戻って、母が一番喜んだのは、犬の世話を、私にバトン・タッチできる事でした。 土産の、紅芋タルトと、沖縄そばを母に渡し、風呂に入り、夕飯を食べて、自室に上がり、抜いてあった電気製品のプラグを挿して、復帰させ、録画してあったテレビ番組を、ちょっと見て、夜中の1時頃、眠りました。



≪十日目、まとめ≫
  こうして、書き出してみると、最終日も、いろんな事をやっていたんですねえ。 単に、細かく書き過ぎているだけ、という見方も、できんではないですが。

  一番印象が強かったのは、ひめゆり平和祈念資料館で、あそこは、沖縄へ行ったら、必ず見るべきでしょう。 特に、日本人は。 自分の出身都道府県の慰霊碑を見ても、感じられない事が、ひめゆり平和祈念資料館では、感じられると思います。 一体、誰の責任で、ああいう残酷極まりない結果を招いたか、考えるきっかけを得るだけでも、随分と、良識度が上がる事でしょう。

  おきなわワールドは、それまでに行った所と、被りまくっていましたが、王国歴史博物館の、「沖縄と世界のシーサー」の展示が見られただけでも、行った甲斐がありました。 ハブ博物公園も、勉強になったし。 斎場御嶽は、よそ者が行くような所ではない、という印象でした。 琉球ガラス村に関しては、この上、付け加える感想はなし。 ゴーヤ・チャンプルーは、うまかったなあ。

  帰りの飛行機には、参りましたが、あれから、二ヶ月以上経過して、嫌な記憶は、だいぶ薄れて来ました。 綺麗さっぱり、消えてなくなるわけではありませんがね。 大人だって、トラウマは出来るのですよ。 PTSDと言っても良い。 他人の子供に、嫌な思いをさせられたくなかったら、距離を取るのが、有効且つ唯一の対策ですな。


  人生最長の旅行も、ようやく、終わったか。 いや、旅行が終わった時の感慨より、今こうして、10週間に渡った旅行記を書き終えた感動の方が大きいというのが、本音です。 帰って来た時は、「10日なんて、あっという間だったなあ」という感じでした。 もし、詳細過ぎる日記を書かなければ、もっと、早く感じられたのではないかと思います。 人間、気楽に過ごしていると、時間が経つのが早いですから。

  7月31日に帰って来て、次の北海道旅行に出発したのが、8月25日ですから、その間、24日間、何もせずに、遊んでいたわけですが、一体、どんな過ごし方をしていたのか、全く覚えていません。 日記を読めば、書いてあるのですが、恐らく、24日分の日記を全部合わせても、旅行中の一日分の文章量に及ばないでしょう。 旅行先での日々、いかに内容の詰まった時間を過ごしていたかが、分かろうと言うものです。

  次は、一回分かけて、沖縄旅行の総括を書こうと思っていたのですが、その後の北海道旅行記がつかえているので、そちらの方を先に出すとして、旅行の総括は、その後に、纏めて一回で書こうと思います。