2009/05/31

借金ループ

  げっ! GM倒産? そーりゃ、どえらりゃー、まずいでなも! これ以上、アメリカの経済に傾かれると、資本主義世界が転覆してしまいますぞ。 最も大きなダメージを受けるのはアメリカ自身ですが、次は間違いなく日本です。 輸出産業の国内生産は、本当に全滅しかねません。

 「輸出先はアメリカだけではないのだから、どうにかなるだろう」と思う人もいるでしょうが、日本国内で作った製品は、人件費が高いために生産コストが嵩み、アメリカか中東でしか価格競争力がありません。 それ以外の地域へ持って行っても、高過ぎて売れないのです。 日本メーカー自身は、海外にも工場を持っていますから、国内工場を縮小すれば生き残れますが、それはもはや日本経済とは関係の無い企業単独の生き残り戦略であり、日本社会に外貨という利益を齎す事はありません。

  オバマ政権は、クライスラーやGMを会社更生法で再建させるつもりのようですが、それは、アメリカ市場の自動車販売が健全な状態で、クライスラーやGMだけが経営方法に問題があって倒産してしまった場合にのみ有効な対策です。 現在、外国メーカーもひっくるめて、≪総崩れ≫の状態にあるアメリカ自動車市場では、国営になったからといって、確実に再建させられる保証などありません。 車が売れなければ、どこまで公的資金を注いでも業績が上向かない、≪ブラックホール企業≫になってしまいます。

  オバマ政権の経済政策について、非常に不安を感じるのは、彼らが、資本主義の歴史上、未曾有の危機に直面している事に気付いておらず、「ニューディール政策を真似ていれば、やがて回復するだろう」程度に軽く捉えている恐れがある事です。 オバマ氏は名演説家で、民衆の心を掴む術に長けていますが、決して経済専門家というわけではなく、むしろ、経済に関する知識は素人並と見るべきでしょう。 そして、政策スタッフにも、経済専門家の層は薄いです。 アメリカのエコノミストは現状を分析する事が出来ず、責任を負わされる事を嫌って、政策への関与から逃げようとしている傾向が見られます。

 「財政出動で政府がバンバン金を使えば、否が応でも経済は活性化する」というのは、かなり危険な考え方で、政府が使う金は、ほとんどが国債によって賄われますから、使えば使うほど、莫大な金額の借金を背負い込むことになります。 経済が成長途上にある場合、景気が良くなれば借金の返済が可能ですが、すでに成長しきってしまっている社会の場合、借金を借金で返す、≪借金ループ≫に嵌まり込み、債務が増えることはあっても減る事はありません。 現在のアメリカや日本が、正にその状態ですな。

  ≪借金ループ≫は、債権者が、「確実に、回収可能だ」と思っている間は回り続けますが、ひとたび、「こいつ、もしかしたら、返せないんじゃないか?」という疑いが生じると、「すぐ返せ!」&「もう二度と貸さない!」という反応を呼び起こし、どどっと破綻します。 個人の場合でも、国家の場合でも原理は同じで、国債に対する信用が失われれば、国家が破産する事になります。 国家には、≪自己破産≫などという甘い制度はないですから、誰も救済などしてくれません。

  国家が債務を処理する方法は、二つあります。 一つは、国民に借金返済目的の税金を課す事。 至って、真っ当な手段ですな。 ただし、これは、成長が止まった社会で実行された例がありません。 偶然かどうか、成長が止まった社会は、みんな民主主義制度を取ってますが、税金を増やせば、政府の人気が下がって、次の選挙で勝てなくなるので、やりたがらないのです。 経済の信用が保てている間は、新たな借金が簡単に出来るので、増税して人気を落すより、国債を発行して破産を先送りする方を選ぶという寸法。

  もう一つの方法は、言わずと知れた、踏み倒しです。 「国家が、借金の踏み倒しなんて、出来るんけー!」と思うでしょうが、大丈夫、出来ます。 ≪踏み倒し≫と言うから聞こえが悪いのであって、≪債務の削減≫という言葉なら、どこかで聞いた事があるでしょう? 90年代前半まで、対外債務に苦しんでいた南米諸国が、債権を持った外国の銀行と交渉して、返済額を減らしてしまったのは有名な話。 ≪債務の削減≫と言えば聞こえはいいですが、まあ平たく言うと、踏み倒したわけですな。 そーゆー、アクロバティックな事が、現実に出来るのですよ。 呆れた事にね。

  経営学を学んだ人なら、「借金自体は悪い事ではなく、事業を大きくする為に、外部から資金を借りるのは、常識的な手段だ」と思っているでしょう。 車や住宅のローンを組んでいる人も、「ローンを組まなければ買える金額ではないのだから、仕方がないではないか」と思っているでしょう。 でもねえ、どこの常識だろうと、いかなる学説だろうと、やむにやまれぬ事情だろうと、「借金をしたら、返さなければならない」という真理は曲げられないんですよ。 それが人間社会のルールなのです。

  アメリカや日本の国債を買っている人達は、それぞれの国の経済を信用しているから、金を出す気になったのだと思いますが、私に言わせれば、血迷っているとしか思えません。 身近な例に置き換えてみれば分かる事です。 あちこちから金を借りて、借金を借金で返している状態の知人がいたとしましょう。 そいつから借金を申し込まれて、あなた、貸しますか? そいつは、あなたから借りた金を、他から工面して、一旦は返してくれるかもしれません。 でも、そんな綱渡りのようなループが、いつまでも回るものではない事は、あなたの人生経験に照らしてみれば、簡単に想像できる事でしょう。 もう一度、借金を申し込まれたら、「悪いけれど、もう貸せません。 付き合いは、これっきりにしてくれませんか」というセリフを口にすると思います。

  何でも、日本政府は、莫大な金額の国債を発行している事に対して、「国債を買っているのは、国内の金融機関や個人なので、家族に借りているようなものだ」という認識を持っているそうです。 いやはや、とんだ錯綜家族ですな。 早速、身近な例に置き換えてみましょう。 政府は家業を持った父親、国民は既に成人して外で稼いでいる子供という事にしますか。 父親は家業を切り盛りする為に、子供に借金をしています。 期限が来れば返してくれますが、慢性的に赤字なので、返すとすぐにまた借りて、しかも、徐々に金額が増えて行きます。 これが、現在の状況ですな。

  子供側からすれば、利子をつけて返してくれるので、その点、文句は無いわけですが、金額が増えて行くに連れ、徐々に不安が募って来ます。 収入のほとんどを父親への貸し金に取られてしまうため、大きな買物も出来ません。 しかし、貸すのをやめてしまえば、家業の資金繰りが行き詰ってしまうのが分かっているので、破産して貸した金が戻らなくなるのを避ける為に、貸さないわけにも行かないと来たもんだ。 本来、貸し手は借り手よりも上位の立場にあるものですが、実際には、「俺に貸し続けないと、返してやれなくなるぞ」と、脅迫されているのと変わりません。

  「なあ、親父。 このまま金額が増えて行ったんじゃ恐ろしいから、借金の額を減らして行って、最終的には、借金しなくても事業が回るようにしたらどうだ?」と持ち掛けたとしましょう。 すると、父親は応えます。 「それも一理あるな。 しかし、お前への借金を減らす為には、俺の収入を増やさなければならない。 そこで、お前が家に入れている生活費を値上げする事にしよう」 とまあ、これが、国家で言えば、増税による債務処理に当たります。 子供にすれば、父親が自分に金を返せるように、今までより多くの生活費を父親に渡す事になります。 結局、自分で自分に金を払っているわけです。 実に馬鹿馬鹿しい。

  もし、国債を買う事によって得られる利子が、国債返済の為の増税額より多ければ、損にはなりませんが、それは、微妙な所でしょう。 そして、少なければ、確実に損をします。 個人の場合、「銀行の預金よりは、ずっと利子が多い」とか、「株式投資よりは、ずっとリスクが小さい」とか、そういう理由で国債を選んでいるのだと思いますが、まあ、冷えピタでも貼って、よく考えて御覧なさいな。 銀行の利子がいくら少ないと言っても、銀行は、その利子を払う為に、あなたから税金を取ったりしませんよ。 また、株式投資のリスクがいくら大きいと言っても、それは、そういうルールだと承知の上での事でしょう? 一方、「国債を返す為に増税する」なんていうのは、国債を買った時点では存在しなかったルールであって、あなたは、自分が貸した金を、自分が払う税金で返して貰う事になろうとは、夢にも思っていなかったわけだ。 得しているか、損しているか、よーーく考えるべきだと思いますぜ。

  でねー、私としては、国債なんて買ってる奴は、金勘定の出来ないアホだと思っているわけですが、困った事に、うちの親父が、国債持ちなんですよ。 金額こそ僅かですが、親戚のオッサンから、「国債が一番信用できる」と吹き込まれて、それを鵜呑みにしてしまったのです。 無知ほど怖いものはない。 父親というのは、息子の言う事など、すべて世迷言だと思ってますから、何度説明しても、国債信仰を捨てようとしません。 もはや、隠れキリシタンだね。 恐らく、自分の部屋の押入れに祭壇を拵えて、夜な夜な、≪国債観音≫を拝んでいるに違いない。 馬鹿だねー。 たとえ増税でふんだくられなくても、国債の利子なんて知れたものです。 純金かプラチナでも買っておけば、ひと財産作れたものを。


  話を国家レベルに戻しますが、アメリカや日本のように、莫大な借金を抱えている国が、国際機関や外国にあれこれと資金援助をしている光景は、実に奇妙なものです。 もし、個人だったら、借金で首の回らない駄目人間が、他人に金を貸したりしますか? しかも、その金は、他から借りているわけだ。 信じられませんな。 いや、ありえませんな。 他人に貸す金があるのなら、まず自分が借りている金を返せよ。 どういうつもりやねん、えーおい、ああん?

  アメリカが、≪世界の警察≫ぶって、戦争し続けているのも奇妙だよねえ。 個人で言えば、借金だらけのロクデナシ野郎が、自分の思い通りにならない奴がいると気に喰わなくて、しょっちゅう喧嘩ばかり吹っ掛けて、入院費だの裁判費用だのと、ますます借金増やしているわけだ。 なんなんじゃ、おのれは? 腐ったミカンか? 正真正銘、人間のクズか? 喧嘩なんかしてる閑があったら、働いて借金返さんかい! えーおい、わりゃ。

  アメリカや日本は、「借金ループは、いつまでも回し続ける事が出来る」と信じているから、こういう事をしているんでしょう。 でもねえ、いつかコケると思うんですよ。 今回の金融危機は、その一端が顕われたのだと思うのです。 借金ループは、無限ではないのです。 「殺人を正当化できないのと同じ理屈で、戦争も正当化できない」とは、よく言われますが、同じパターンが、「≪個人の借金≫が自慢できないのと同じ理屈で、≪国家の借金≫も自慢できる事ではない」と言う場合にも通用すると思うのです。 自慢できないどころの話ではなく、ズバリ言って、破滅への坂道ではありますまいか? 増税と踏み倒し以外に、借金を減らす方法があるのか、経済官僚の面々に、真顔で質問してみたいものです。

2009/05/24

蒼白豚合戦

  テレビのニュースで、「大阪の高校生が、オカンに襲われた」と聞き、「むむ、親が子供を襲うとは、何たる破廉恥!」と怒りに身を震わせたのも束の間、別の局では、「大阪の高校生が、オカンを訴えた」と報じているので、「うーむ、いくら襲われたとはいえ、子供が親を訴えるとは何事か! 人道地に堕ちたり!」と嘆いていたら、「オカン」ではなく、「悪寒」の間違いだそうで、ホッと安堵の胸を撫で下ろしました。 いやあ、一時はどうなる事かと思った。


  全く、つまらん世の中の割には、いろんな事件が次から次へと起こりますなあ。 もっとも、豚インフルの流行に伴う騒動自体は、決してつまらぬという事はなく、むしろ極めて面白いです。 ちなみに、面白いといっても、興味深いという意味ではなく、笑えるという方の面白さです。 エイズが登場した時にもそうでしたが、死と関わりのある流行というのは、ブラック・ユーモアの最高の温床になるんですな。

  まず、鳥じゃなくて、豚だったというのが、意表を突いています。 長年、WHOが音頭を取って、鳥インフルエンザを迎える準備をして来たのに、実際にやって来たのは、豚だったんですな。 イソップ物語に一編付け加えられそうな話じゃありませんか。 お客が違ったために、用意していたもてなしの品が、全部使えなくなってしまって、大混乱に陥るという。

  次に、発信地が、メキシコだった事です。 WHOは、かなり昔から、「スペイン風邪級の新型インフルエンザは、中国南部で発生する」と予想していて、それを何の臆面もなく、堂々と公言していました。 この数年、中国よりもインドネシアの方が鳥インフルの感染者数が多くて、WHOの自信満々の≪予言≫に黄信号がチカチカ灯っていたのですが、メキシコで豚インフルが爆発し、一気にトドメを刺されてしまったわけです。 WHOの面目、丸潰れだね。

  ちなみに、WHOの認識では、過去に起こったインフルエンザの大流行は、全て、大元の発信源が中国なのだそうです。 科学的証拠など全く無いのですが、いかにも、欧米や日本の学者が決め付けそうな学説ですな。 医学は自然科学の一部とされていますが、医療も範疇に含めると、俗説がうようよ蠢く人文の世界に引き込まれてしまいます。 これらの学者の念頭にあるのは、まず中国に対する偏見であり、「悪い事は何でもかんでも、中国のせいにしてしまえばいい」という、科学的思考とは、まるっきり正反対の態度です。

  そういえば、≪A香港型≫だの、≪Aソ連型≫だのといった名称がありますが、いずれも、香港やソ連の許可を取って用いているものではなく、差別意識を原動力にして今の今まで使われ続けて来たものです。 欧米や日本の学者が、いかに腐れ切った脳味噌を持っているかが分かろうというもの。 品性的に、≪ダッチ・ワイフ≫の命名者と同レベルでしょう。 科学者が聞いて呆れる。 病名やウイルスの通称は、国によって、相当な違いがあり、いかがわしい病気ほど、差別的な名称がついているものが多いです。

  今回の騒ぎですが、日本では最初、≪豚インフルエンザ≫と言っていたのが、WHOから、「豚肉の流通に支障が出るので、その名前を使わないように」という意見が出ると、途端に、≪新型インフルエンザ≫に切り替えてしまいました。 珍しく素直に変えた事自体は良いとして、他に名前は思いつかなかったんですかねえ? ≪新型~≫なんてつけちゃって、今後また別のインフルエンザが出て来たら、その時はどう呼ぶのよ? その昔、新幹線の駅名をつけるのに、≪新大阪≫や≪新横浜≫といった具合に、単純に、≪新≫を頭にくっつけたのが、安直だと批判されましたが、その頃と言語センスが全然変わってませんな。

  ちなみに、中国での呼び方は≪甲型H1N1流感≫、略して≪甲型流感≫、更に略して≪甲流≫とも呼んでいるようです。 アメリカでは、≪swine flu≫。 つまり、≪豚インフルエンザ≫そのまんまでして、変えるつもりはないようですな。 発生源のメキシコでは、≪gripe A≫と、≪gripe porcina≫を両方使っています。 それぞれ、≪Aインフルエンザ≫と、≪豚インフルエンザ≫の意。 WHOの意見に従った所と、完全に無視した所、そして両者が混在している所の三様があるようです。

  だけどねえ、覚えやすいという点では、≪豚インフル≫が一番だと思いますぜ。 WHOは保健の事だけ考えていればいいのであって、言葉狩りにまで手を広げる必要はありますまい。 食肉業者の心配をするほど繊細な配慮が働くのなら、証拠も無いのに特定の国を感染症の発生源呼ばわりして貶めるような、低劣な振る舞いを、まず改めるべきでしょう。

  WHOは、今回の騒ぎでも、態度がはっきりせず、とても専門家の集団とは思えないような優柔不断ぶりを露呈しています。 最初は、≪パンデミック≫などという言葉を流行らせて恐怖感を煽り立てたかと思いきや、一転して、「重篤化はしないようだ」と言ったり、またまた豹変して、「でも、油断するのは早い」と言ったり、およそ、意見が定まりません。 そんな事なら、右顧左眄を座右の銘にしている脳味噌スッカラカンのコメンテーターでも言えます。

  また、「メキシコは医療水準が低いので、重態化してから病院に来るケースが多く、それが死者の増加に繋がった」などと言ってましたが、各国の保健関係者の寄せ集めであるWHOが、メキシコの医療体制について詳しい知識を持っているとは全く思えず、この見方そのものが、空想の産物でしょう。 だーから、偏見の持ち主が国際機関で抜け抜けと働くなっつーのよ! お前が、メキシコの何を知っていると言うのだ? ソクラテスじゃないけど、「メキシコについて、何も知らない」という事を、まず知れ!

  私がテレビで見た限りでは、メキシコの都市の街頭で、兵隊達が道行く人々に、マスクを無料で配っていた様子が印象的でした。 分かります? タダですぜ。 日本で、行政が、タダでマスクを配ってくれますかね? 話にならんでしょうが。 メキシコの医療が遅れているなどと、一体誰が言い出したのだ? まず絶対に、メキシコ人ではないでしょう。 第一感染者を探すより、そちらを探して吊るし上げた方が、今後の人類の発展には役立つと思います。

  アメリカが、メキシコとの国境を封鎖しなかったのも、面白かったですねえ。 アメリカ映画を見れば分かるように、アメリカ人はメキシコ人に対して猛烈な差別意識を抱いていますが、それと同時に、合理な思考法も持っていて、長い国境を封鎖する事が不可能である事を承知していたんでしょう。 アメリカ国内での感染者が増えても、さほど慌てていなかったのが、また面白い。 国民に死者が出ても、まだ騒がない。 死に至ったのが、特別な健康状態にあった患者だった事を冷静に見究めていたんですな。 メキシコでの感染者増加がピークだった頃でも、国境を閉じなかったのは、大した度量だと思います。


  さーて、日本ですが、予想していたとはいえ、思いっきりピエロを演じてしまいましたな。 私は、機内検疫そのものが無意味だとは思いませんが、やるのであれば、徹底的にやらなければ効果が望めないのであって、日本が取っていた検疫方法は、ほとんど、ザルだと思っていました。 発熱や不調を訴えた乗客だけを検査するというのが、既に手ぬるいです。 また、隔離対象になるのが、感染者の周囲の半径2メートル以内の席にいた人だけというのも、お話になりません。 その、≪半径2メートル≫という数値が、何を根拠にして決められたものなのかが、全く分からないじゃありませんか。

  感染者は、ずっと自分の席にいるわけではなく、長いフライトですから、当然、トイレにも行くでしょう。 そうなれば、彼らが通った通路の周りでうつされる人間が出ても全然不思議ではありません。 そして、そういう人達は、そのまま飛行機から下ろしてしまっていたわけだ。 そもそも機内という密閉した空間で空気が対流しているのですから、ウイルスはどこへ流れて行ってもおかしくないです。 「インフルエンザは飛沫感染だから、絶対に空気感染はしない」と言い切れるなら別ですが、現実には、そんなに厳密な違いではないでしょう。

  客室乗務員が媒介になる可能性も極めて高いです。 体調が悪い乗客がいれば、職務上、当然、そこへ行かなければならないわけで、真っ先にうつされるでしょう。 隙間だらけのマスクで、完全防御は望むべくもありません。 たとえ、直接うつされなくても、客室乗務員の体にくっついたウイルスが、機内全域に運ばれていけば、感染の可能性は全乗客に広がります。

  検疫で水際防御をするのだったら、外国との間を行き来する飛行機や船舶を全てシャットアウトするくらい徹底してやらなければ、実は上がらないでしょう。 そして、そんな事は、実際問題として不可能です。 やれば、日本経済が崩壊してしまいます。

 「検疫でウイルスの侵入を少しでも遅らせて、国内での感染対策が整うまでの時間を稼ぐ」などと、一見もっともらしい理屈を並べている人達がいましたが、結果的には、呆れるばかりに、実効を伴わずに終わりました。 最初の一人が出るまで、別の感染者が入国しなかったのは、単なる偶然に過ぎず、検疫のおかげではありません。 現に初めて引っ掛かった時には、機内でうつされた疑いのある同乗客をみんな入国させてしまったではありませんか。 検疫態勢がザルだった事が露呈してしまったわけです。 結局のところ、検疫による水際対策は、ウイルスの侵入を遅らせるのに、何の役にも立たなかったのです。

  出来もしない事を、「やれる」と思い込んでしまっていると、いざ、「出来ない」と分かった時にも、今まで大言壮語していた事に対する面子が絡んで、次の対策に移行するのが遅れるため、この上無く始末が悪いです。 「日本は島国だから、水際対策には有利な条件が揃っている」などと、政府閣僚が大真面目に言っていたわけですが、これだけ外国との往来が膨大な人数に上っている時代に、何を戯言を抜かしていたのやら。 感覚が江戸時代で止まっているのです。 ただし、こういう無知な事を言っていたのは政治家や、自称識者の連中であって、医療専門家は、「侵入自体は防げないだろう」と、はっきり言っていた事を覚えておく必要はあります。 誰も彼も信用できないというわけではないわけです。

  国内最初の感染者になった高校生達や、その学校の感染対策の不備が批判されましたが、どうせ誰かが最初の一人にならざるを得なかったのですから、あんなのは理不尽な吊るし上げ以外の何ものでもありません。 一方、隔離を、「非人道的だ」と批判する者もうじゃうじゃいましたが、感染症を広げない為に患者を隔離するのは、医療の常識であり、批判するのは的外れだと思います。 「国境検疫で食い止められる」と信じ込んでいたのが問題なのであって、隔離そのものに問題があったわけではありません。 隔離すれば防げる感染を、野放しにしたら、その方がおかしいです。

  ただし、感染が広まってくると、隔離は意味をなさなくなります。 現在は、正にその状態ですな。 国内にうじゃうじゃ感染者がいるのに、今更、検疫など続けて、何の意味があるのよ? 検疫をするなら、日本に入って来る人間ではなく、日本から出て行く人間を調べるべきです。 ただ、そういう事は、外国でも全くやっていないようですが。 面白いよねえ。 自分がうつされるのは大ごとだけど、自分が他人にうつすのは問題にならないわけだ。

  しかし、こんなに急激に感染者が増えるとは、ほとんどの日本人が予想していなかったでしょうなあ。それどころか、政府関係者なんぞは、≪SARS≫の時と同様に、「周辺諸国に感染者が広まっても、日本にだけは入って来ない」と思い込んでいたふしがあります。 信じ込んでいたと言ってもいい。 そういや、≪SARS≫の時に、キチガイ・コメンテーターや、インチキ医学者が言ってましたよねえ。 「日本は衛生水準が高く、綺麗好きな国民性だから、≪SARS≫ウイルスが侵入できなかったのだ」とかなんとか。 今となっては、とんだ寝言だね。 テレビ局も、その人探し出して来て、コメントさせりゃあいいじゃん。 この状況を見て、何て言うか、是非聞いてみたい。

  ≪SARS≫が広まらずに済んだのは、日本の衛生水準とは何の関係も無く、中国や香港、台湾で、徹底的に抑え込んだから、外国へ出るのを防げたんでしょう。 当時のニュース映像を今でも覚えていますが、向こうじゃ、消防ホースで水をぶっかけて、ビルごと洗ってたり、凄かったものねえ。 それに比べて、日本では、駅員が手持ち噴霧器で自動改札機を消毒して回っていましたが、「こりゃ、対策の規模がまるで違うな」と思いましたっけ。

  「日本人は綺麗好き」という見方は、「病的に」という観点からなら、肯定できないでもないですが、それは大人に限った話で、中高生なんかは、むしろ不潔な方だと思います。 まず、滅多に洗わない制服を、年中着ている。 学校帰りに雨で濡れても、一晩、部屋の中に干しておくだけで、翌日も同じ服を着て出かけます。 まあ、汚ねーったらないですな。 しかも、当人達が、それを不潔だと思っていないから始末が悪い。 女子高生の制服に萌えてるキミ、悪い事は言わんから、認識を改めなさい。 あれは、たぶん黴が生えてるぞ。

  また、昨今は風呂に入らない奴が増えているらしく、汗臭さをごまかす為に、香水をつけよる。 匂いで匂いが消えるわけはないのであって、より臭くなるだけなのですが、当人は、「それが大人のたしなみだ」と思い込んでいるから救いようが無いです。 まず、風呂に入れよ。 夜遊びばっかしてるから、風呂に入る時間がなくなるんだよ。 出かけるなら昼間出かけて、夜は風呂入って寝ろ。


  おっと、話が脱線しました。 大阪府では、知事がブチ切れて、普通のインフルエンザ並の対応にするように厚生省に捻じ込む傍ら、見切り発車で、休校や行事の自粛を取り止めてしまいましたが、気持ちは分かるものの、事が最終的に人命にかかわる事だけに、「ちょっと思い切りが良すぎるかな」という感じもしないではなし。 経済を救う為に、保健を危険に曝したわけですが、もしこの措置によって、感染者が増えたり、死者が出るような事態になった場合、やはり、決定を下した知事の責任は免れないでしょう。

  しかも、普通のインフルエンザ並の対応に切り替える根拠が宜しくない。 「弱毒性で、さほど恐れる必要が無い事が分かったから」というのは、後付けした理由に過ぎず、「感染者が急激に増えすぎて、対応しきれないから」という方が本音ではねえ。 これは、どう考えても、本末転倒しており、行政の対応としては、相当まずいと言えます。

  対策とは、前以て決めた原則に、現実を合わせて行く方向で進めるものですが、これでは、現実に合わせて、原則を捻じ曲げているだけであって、対策とは言えません。 そういえば、WHOも、欧米日諸国の圧力に屈して、≪フェーズ5≫から、≪フェーズ6≫への引き上げを先延ばしにしていますが、あれも原則を捻じ曲げているわけで、科学的態度とはいえません。 本来、感染の拡大状況のみを表わす段階指標なのに、「重症度を加味して決定する」などと、途中で基準を変えてしまっており、そんなのがアリなら、もはや原則など要りますまい。 白を黒とも、馬を鹿とも、その時の都合で意のままに言い換えられるわけだ。

  大阪府知事は、「すでに感染のピークは過ぎた」とも言っていますが、その判断に何の根拠も無いのは哀しいくらいに明白です。 感染者数の増加率が減ったのは、検査機関の対応能力を超えてしまった為に、検査が済んだ分しか発表されなくなった事と、「どうやら、家で寝ているだけでも治るらしい」という情報が知れ渡ったせいで、保健所にも病院にも行かずに、自宅でこっそり療養する感染者が増えたからでしょう。 「軽症者は、自宅療養を」というのは、アメリカでもそうしているようですが、短期的にはともかく、先々の事を考えると、感染者の全体数を把握できないのはまずいと思います。

  またぞろWHOですが、そこの日本人職員が、「日本は医療体制が整っているので、感染状況を観察するモデル・ケースになる」などと言ったとか。 アホか、わりゃ。 この、国を挙げての不様な混乱ぶりを見て、まだ、医療体制が整っていると言えるか? そもそも、検体を東京に送らなければ、感染を確定できないというのが、お粗末極まりないです。 でも、無理だよねえ。 普段の状態ですら、医師不足で、急患を救急車で盥回しにしているような国だものねえ。 これ以上、負荷が増えたら、そりゃ、パンクもしようってもんです。

  そういえば、機内検疫で使っていた簡易検査キットが、発症前だとみんな陰性に出てしまっていたというのも、随分と粗漏な話ですな。 じゃ、一体、何のために、機内検疫やっとったのよ? 一週間、ホテルに缶詰にされた人達が、馬鹿みたいじゃないですか。 簡易検査キットがどの程度有効かくらい、現場の医師達は知っていたはずですが、なぜそれを早く指摘しないんですかねえ。 自信満々で水際作戦を指揮していた首相や厚労相は、恐らく全然知らなかったんでしょうなあ。 知らなかったんだから、責任が無いというわけではなく、よく知りもしない事を実行していた点は、やはり問題でしょう。

  こういう事態の時に、医学知識を持っていない人間が指揮系統の中枢にいるのは大いに不安ですな。 豚インフル対策に関してだけでも、医療の専門家に指揮権限を委ねた方が賢明でしょう。 相変わらず、「全力で・・・」とか、「あらゆる情報を開示して・・・」とか、言葉ばかり威勢がいいですが、言葉ではウイルスは死んでくれんぞ。


  マスクが足りなくなるのは分かり切っており、政府やマスコミがマスク着用を薦めるのも、どうかと思います。 現実問題として、手に入らない人間はどうすればいいのか、そこまで考えずに、「マスクをしましょう」と言うのは、無責任というものでしょう。

  そういえば、マスクは、アメリカやイギリスでは、「感染を防げるという科学的な根拠が無い」として、推奨していないそうですが、彼らは単にマスクをしたくないがために屁理屈を並べているだけですから、真に受ける必要はありません。 しかし、したくても、物が無いのでは致し方ありませんな。 買い占めて、数倍の値段で売っている輩がいるそうですが、いやあ、必ず出て来ると思ってましたよ。 これだけ、詐欺師の多い国ですから、マスクで一儲けを企む奴が出て来ないはずがないです。 街頭でタダで配る国とは、どえらい違いですな。

  それにしても笑っちゃうよねえ。 まだ日本で感染者が出ていなかった頃は、メキシコにマスクを贈ってたんだよ。 恩着せがましく、「へへへ、大変そうじゃないか。 援助してやるぜ。 うちは余ってるからよ」ってな調子で。 今となっては、その贈ったマスクが恨めしかろう。 逆に、メキシコに縋りついて、使い古しを送り返して貰ったらいかがかな?


  国内を三種の地域に分け、発生状況によって、それぞれ別の対策を取るというのも、これだけ人の行き来が激しいと、無意味なんじゃないかと思います。 大阪で数百人に上っている感染者が、東京では未だに一桁なんて、信じられますか? 毎日、何十本、新幹線が往復してるのよ? 感染者が入り込まないわけが無いですし、入り込んだ感染者がうつさないわけがない! にも拘らず、表に出てこないのは、感染者として、吊るし上げられるのが嫌で、隠れておるのでしょう。 そういうのが怖いんだわ。 密かに、うつして回るから。

  日本には、タミフルやリレンザの備蓄が、3800万くらいあるらしく、政府広報でも、「想定される患者数より多いですから、安心してください」と言っていますが、素朴な疑問として、あの種の薬って、一錠で効くもんなんですかねえ? 確か、「タミフルを飲みすぎて、高い所から転落した」なんてニュースがありましたが、≪飲みすぎ≫がありうるという事は、一人一錠とは限らないわけですよね。 もし、一人二錠だったら、1900万人しか助からない事になり、一人三錠だったら・・・・と、順次助かる人数が減っていくわけだ。 簡単な算数ですが、誰もその事を指摘しないようなので、ここで触れておきました。

  薬の数に限りがあるとすれば、むしろ早めに感染した方が、お得かもしれませんな。 患者数が少ない内なら、薬も潤沢だし、VIP待遇で竜宮城並みの看護が受けられますから。 兵庫や大阪は既に時期を失していますが。


  なんだか、取り留めない文章になってしまいましたが、≪豚インフル騒動≫に関する感想は、こんな所でしょうか。 いろいろ書き捲りましたけど、実は私、この騒動について、確たる事を言えるほどの、医学・医療関係の知識を持っていません。 ただ、「このウイルスに関しては、世界中の誰も、確たる事が言えないはずだ」という事は分かっています。 またまた、ソクラテスにお出まし願いますが、「自分は分かっていない、という事が分かっている」というのは、五里霧中の状況下では、唯一頼りにできる指標と言えます。 今、確実に言える事は、「この先どうなるか、まだ分からない」という事だけなのです。

2009/05/17

挫折する欲望

  で、ここ一ヶ月ばかりの間、私を悩ませた、≪新デジカメ購入計画≫ですが、結局、買わずに終わりました。 「よく我慢した」と言うより、「どうしても買いたい!」という気持ちが、今ひとつ盛り上がらなかったのです。

  ゴールデン・ウイーク商戦中はもとより、毎週、週末になると、新聞の折り込み広告の中から家電量販店やカメラ店の特売情報を集め、実際にあちこちの店に足を運んで、現物確認もしたのですよ。 前回デジカメを買った2004年の頃に比べると、遥かに性能のいいカメラが、ずっと安く手に入る時代になっていました。 2004年には、1万円以下のデジカメといったら、固定焦点式しかありませんでしたが、今は同じ値段で、移動焦点式+3倍ズームの製品が買えるのですから、隔世の感があり! 些か欺瞞的ながらも技術の進歩と、デジカメ不況による価格破壊に、思わず知らず感謝の念を抱いたものです。

  でも、結局、買わなかったのです。 ちなみに、最後に残った候補は、キャノンの、≪PowerShot A480≫でした。 とある家電量販店で、12000円で特売されていたもので、スーパー・マクロで、1センチまで接写が出来るというのが魅力でした。 しかし、その他の性能は、≪オリンパス C2≫と大差なく、わざわざ12000円出すほどの説得力ある理由が、自分に対して用意できなかったというわけです。

  一番気にかかったのは、やはり電池寿命です。 現在所有している、≪オリンパス C2≫と≪日立 HDC-2≫を持って、ゴールデン・ウイーク中に幾つかの観光地へ出向き、新品の電池がどれだけもつか、調べてみたんですが、その結果、分かった事は、≪C2≫では、モニターを使わずにファインダーを覗いて撮影しても、電池一回分で90枚しか撮れない事でした。 アルカリ2本ですから、金額的には大した事ありませんが、頻繁に電池を換えていると、何だか凄い無駄遣いをしているような気分になります。

  一方、固定焦点方式の≪HDC-2≫の方は、ファインダーレスのモニター・オンリー機であるにも拘らず、同じアルカリ2本で、350枚くらいは楽に撮れました。 固定焦点方式は、レンズ内に可動部分が無いため、レンズ関係の電力を全く使わないんですな。 逆に言うと、移動焦点式カメラに於いて、レンズ・モーターが消費する電力がいかに多いかが分かります。 しかし、この≪HDC-2≫は、カラー・バランスが悪くて、よほど鮮やかな対象物でない限り、モノクロと見まがうような潰れた色合いになるのが欠点です。 うーむ、一長一短あり。

  さりとて、新しいカメラを買えば、問題点がすべて解決するわけではありません。 最終候補に残った≪PowerShot A480≫は、モニター・オンリー機ですから、撮影枚数はそれほど多くはなく、アルカリ2本で、200枚です。 昔に比べれば消費電力が少なくなっているとはいえ、移動焦点式である上に、沈胴式レンズですから、電源を入れるたびにレンズが迫り出して来るわけで、それだけでも、電力を浪費するのです。 ズームなんかした日には、更に電気を使うわけで、瞬く間に電池が空になります。

  200枚だから、≪C2≫の倍以上撮れるといえば、多いようですが、その為には、カメラの代金、12000円を払わなければならないわけで、アルカリ電池を12000円分買う場合と比較すると、≪C2≫を使い続ける方がお得になってしまうのです。 計算してみたら、≪PowerShot A480≫を買った場合、9年以上使わないと、元が取れない事が分かりました。 だけど、カメラ本体がそんなに長持ちしないと思うのですよ。 もちろん、カメラが壊れる可能性は、≪C2≫にもあるわけですが、それはそれで、壊れてから考えた方がいいような気がするのです。

  ああだこうだと考えて、煮詰まっていた頃、「いっそ、根本的に発想を転換して、もっとデカいカメラを買ってしまってはどうか?」と考えた事もありました。 具体的にいうと、コンパクト・デジカメの高倍率ズーム機や、一眼デジカメですな。 私は稀代のケチですが、「これは、是非とも必要な出費だ!」と思い切れば、金離れがよくなる事も無いわけでは無いです。 特売で1万円前後の品に拘るから煮詰まるのであって、予算の枠を外し、選択範囲を広げれば、新しい展開が開けるのではないかと、一瞬思ったわけです。

  だけど、このコロンブスの卵は、茹でる前に割れました。 大きなカメラを買ったところで、結局、電池寿命の制約から逃れる事は出来ない事に気付いたからです。 むしろ、大きい方が大飯喰らいだと考える方が常識的でしょう。 「大きなカメラを三脚に据え、絞り優先やプログラム・オートにして、あれこれ設定を変えながら、一枚一枚を大切に撮る」 そういう撮影スタイルを、フィルム時代には、私も実行していました。 しかし、それは、露出計以外に全く電気を使わないマニュアルのフィルム・カメラだからこそ出来た芸当でして、オール電化のデジカメで、そんな撮り方をしていたのでは、一枚撮るだけで電池がなくなってしまいます。 いや、マジ、マジ! フィルム一眼だと、一枚撮るのに、30分くらいかける事も珍しくありませんが、デジカメで30分間モニター・オンしてたら、どんな機種でも電池無くなるでしょうが。

  昨今は、モニターのインチ数が大きければ大きいほど良いという傾向があるようですが、大きければ大きいほど電気を喰うわけですから、とてもじゃないが歓迎できる性能ではありません。 大体、モニターが大きいといっても、撮れる写真のサイズと比較すれば、遥かに小さいわけで、細部の撮れ具合を確認するためには、結局、拡大しなければならないのですから、本質的な利点とは言えますまい。 私に言わせれば、モニターなんて、大雑把な撮影範囲と色が分かれば充分なのであって、1.5インチくらいでも、一向に構いません。 そんな事より、電池を長持ちさせてくれんかのう。

  それと、上にもちょっと書きましたが、沈胴式レンズがスタンバイする時の迫り出しや、ズーム時の電力使用も、どうにかなりませんかねえ。 スタンバイでレンズが出てくること自体は仕方ないとしても、出た状態のままで、電源を完全に切れるようにしてくれれば、カメラを手に持ったまま移動している間は、レンズの出入りに電気を使わなくて済むんですよ。 モニター・オフという機能はありますが、その状態だと、待機電力を使っているような気がして、安心してそのままにしておけません。 一定時間が経つと、勝手に引っ込みやがるから、ギョッとするわ、頭に来るわ。

  ズームもねえ・・・・。 いや、私としては、ズーム、いらないんですけどねえ。 だから、ズームなんて、オモチャなんですって。 自分で、望遠ズームして撮った写真を、広角一杯で撮った写真と、比べて御覧なさいな。 絶対、ボケてるから。 ブレを止められっこねーのよ。 何回言ったら、分かってくれるかなあ。 ズームの高倍率をありがたがるのは、ただのアホやで。 遠くの物を大きく撮りたかったら、大画素数で撮っておいて、後でトリミングしても、同じ事です。 むしろ、そちらの方がボケが少なくなるかもしれません。 ズーム機能を省けば、レンズ構成が単純になりますし、可動部分が減って、精度もより向上するでしょう。

  今のカメラで、唯一、手放しで賞賛できるのは、記録枚数の多さですな。 とにかく、SDカードが安くなったのは、画期的な慶事です。 広告を見ていると、「4ギガで千円」なんてのもザラですが、これは凄い! ほぼ、枚数無制限で撮れるようなものです。 あまり急激に容量当たり価格が低くなった為に、リサイクル・ショップに並んでいたメモリー・カードの中古価格が、一気に陳腐化してしまいました。 「512メガで千円」なんて値札がまだ貼ってありますが、どういうつもりなんだか・・・、新品を差し置いて、中古品に8倍の金を出す馬鹿はいないでしょうに。

  ちなみに、リサイクル・ショップでも、ネット・オークションでも、電子製品の中古品には手を出さない方が無難だと思います。 常識的に考えて、何の問題もなく使える物を手放す人はいないわけで、中古品として売られたという事は、何かしら問題があると考えるべきでしょう。 機械製品と違って、買ってから直すというような技が使えませんから、最初から買わない以外に対策が無いのです。 たとえ安くても、手に入れた物がすぐに壊れてしまうのは、嫌なもんですぜ。 保証も、引き取り保証があればいい方で、修理保証はありませんし。


  とまあ、こんな事をあれこれ考えている内に、ゴールデン・ウイークは過ぎ去り、特売期間も終わってしまったんですな。 本来、買物の計画は楽しくあるべきものなんですが、あまりあれこれ考えすぎると、楽しいというより苦痛になります。 特売期間が過ぎてくれて、正直言って、ほっとしました。 何せ、筋金入りのケチなので、特売価格でなければ、絶対に買う気にならないからです。

  何で、今ひとつ、「買いたい!」という気にならなかったのかというと、新しいカメラを買っても、生活が変わらないのが分かっているからじゃないかと思います。 今までも、カメラを使い続けてきたわけで、それが新品に代わったとしても、別に撮影スタイルが変わるわけではありませんわな。 つまり、12000円出費しても、それが新たな楽しみを齎す事は無いわけです。 単に、≪C2≫よりも使いやすいカメラを手に入れられるというだけのエサでは、12000円の壁を超えられないのですよ。

  これは、車の買い替えなどでも、同じ事が言えると思います。 新車を買ったとしても、結局、移動の道具に過ぎない点は変わらないのであって、生活に変化が起こるわけではないでしょう。 生活の質の向上に繋がらないのであれば、それは、つまらない出費ではありませんか。

  私の人生そのものが袋小路に入ってしまった感があり、何を買っても生活が変化しないような気がするのです。 かといって、今まで全くやった事が無いような趣味に手を出しても、自己満足を得られるレベルまで達する事が出来ず、すぐに飽きて、結局、無駄な出費になってしまいます。 「何かを買わなければいけない」と焦る、その衝動からして間違っているんですかねえ? 別に、買わなくても、生きている分には、何の支障も無いわけですが・・・。

2009/05/10

デジカメ購入の勘所

  で、前回の続きで、新しいカメラを買うか買わぬか、悩んでいるわけです。 注意していただきたいのは、私が悩んでいるのは、≪買うか、買わぬか≫であって、≪どの機種を買うか≫ではないという点です。 ひとたび買う事に決めてしまえば、自他共に認める吝嗇家である私は、許容限度予算額を手掛かりに、割と簡単に機種を決める事が出来ます。 難所は、それ以前の段階にあるわけですよ。

  前回書いたように、私の手元には、オリンパスの、≪C2≫というカメラが存在し、古いながらも、一応の撮影は可能です。 新しくカメラを買うとなれば、≪C2≫は再びお蔵入りになるわけで、≪C2≫を使い続けるのよりも大きなメリットが無ければ、ゴー・サインは出せません。

  私が、コンパクト・デジカメの性能を吟味する時に、真っ先に見るのは、最短撮影距離です。 おっと、全然分かっていない人もいると思うので、念の為に申しておきますと、その種の情報は、各メーカーのネット・カタログの、≪仕様≫、もしくは、≪諸元≫というページに載っています。 カメラを選ぶ時には、≪仕様≫と、≪サンプル写真≫のページが最も重要でして、絶対に確認しなければなりません。 ≪特長≫だの、≪外観≫だのは、見なくても宜しい。

  そもそも、カメラは、外観などどうでもいいのであって、機能・性能が命です。 「私は、デザインで選ぶ」という人がいたら、そりゃ、肝心の写真をあまり撮らない人でしょう。 大体、昨今のコンパクト・デジカメは、みーんな似たような形をしているのであって、外観で選びたくても、沈胴レンズ型か、内部ズーム型かの二種類しかありますまい。 ≪特長≫のページに至っては、単に宣伝文句を並べてあるだけです。 カメラに詳しくない人ほど、宣伝文句に騙され易いですから、真に受けないよう気をつけなければなりません。

  話を戻しますが、最も重視すべきは、最短撮影距離です。 ピンボケを起こさずに最も近寄れる、レンズ面から被写体までの距離の事ですな。 これが短いのが、コンパクト・デジカメの最大の利点でして、優れたコンパクト・デジカメの接写性能は、一眼デジカメにマクロ・レンズを装着したものの性能を凌ぎます。 何でも、一眼レフが優れていると思ったら、大間違い。 そういう事も、≪仕様≫を読めば、ちゃんと載っています。

  相場から言うと、最短撮影距離が、5センチなら、まずまず充分な性能です。 10センチだと、少し制約があり、15センチ以上だと、かなり苦しくなります。 一方、3センチとか、1センチとか、物によっては、0センチなどというものまでありますが、これらは文句のつけようが無い高性能と言えます。 「そんなに近寄って、何を撮るんだ?」と訊かれれば、「花を撮るに決まっている」と答えるに決まっています。 「私は花なんか撮らない」という人がいたら、それは、写真趣味を持っていないか、まだ始めたばかりでケツが青いかのどちらかと見做すべきで、そのくらい、花というのは重要な被写体なのです。

  実際問題、カメラを持って出かけ、ネット上で人様に見せられるレベルの写真を撮ろうと思ったら、風景・花・動物の三対象だけで、全体の9割以上を占める事になります。 素人カメラマンの場合、他に撮れる物が無いんですよ。 これは、始めて見れば、すぐにわかります。 「写真趣味を始めよう!」と思い立って、カメラは買ったものの、いざ出掛けてみると、何を撮っていいか分からない。 カメラを持っている自分の存在を持て余すという、何ともカッコ悪い状況に陥ります。 自分流に拘ろうとして、クズ写真の山を築いたり、いやしくも芸術の一ジャンルだというのに、臆面も無く他人の猿真似をしたりと、悪戦苦闘の末、やめてしまうか、続けられるかのどちらかに至りますが、続けられた人が最終的に撮っているのは、風景・花・動物だけなんですな。

  風景でも、観光地・景勝地、山・海・湖・川などでなら問題ないですが、街なかはちょっと危険で、田園でも、近くに人がいる場合は注意が必要です。 とにかく、他人が画面に入ったらまずいので、場所を選ぶんですな。 その点、花や動物の撮影は、傍から見た時、「ああ、花や動物を撮っているんだな」と、一目で分かるので、危険が少ないです。 ただし、綺麗な花が咲いていようが、可愛い犬や猫がいようが、それが他人の家の敷地内だったら、やはり撮れません。

  何度も言っているように、人間を撮るのは、非常に困難が伴います。 自分に小さい子供でもいれば話は別ですが、そうでなければ、家族ですら、撮影を許可してくれないのが普通です。 だって、嫌でしょ、年柄年中、「ポーズをとれ」だの、「そのまま動かないで」だの、「ここは光の具合がよくないから、ちょっと庭へ出てきて」だのと言われたのでは。 友人や彼氏・彼女も、快くつきあってくれるのは記念撮影までで、モデルを頼んだりすると、最初の内は笑っているものの、度重なるに連れ、段々疎遠になって行きます。 そして、他人を撮るのは、お祭・公的行事・観光地などでの撮影を除いて、基本的に厳禁です。 怒らせて、何されても知らんぞ。

  人間に比べると、風景・花・動物は、制約があるとはいえ、割と思いのままに撮る事が出来ます。 そして、この三つの中で、最も作品レベルの写真をゲットし易いのが、花なのです。 風景は、俗に、≪撮影スポット≫と呼ばれる場所に行かないと、なかなかいい物が撮れませんし、動物は、遭遇する機会が少ないです。 それに対し、花は街中・村中・町内中、至る所に咲いているのであって、しかも季節ごとに変わるので、被写体を探すのに苦労する事がありません。 「半日使って、動物を撮って来い」と言われると、5枚撮るのもきついですが、花なら、そんなに苦労しなくても、20枚くらいは誰にでも撮れると思います。

  また、写真を撮っているとつくづく感じるのですが、「やはり、写真には華やかさが必要だ」と思うわけですよ。 風景や動物だと、鮮やかな色合いの写真はなかなか撮れません。 その点でも、花は本質的に華やかですから、大変ありがたいです。 誰でも若い頃は、「花なんて、年寄りが撮るものだ」と馬鹿にしているわけですが、実際に自分自身が歳を取ってみると、花が最も写真の被写体に相応しい事に気付くわけですな。

  そういえば、若い女の子を撮りたい一心で、モデルを雇った撮影会だの、コンパニオン撮り放題のモーター・ショーだのに押し寄せて、天体望遠鏡と見紛う長大ズーム・レンズの砲列を並べている人達がいますが、そんな半ば変態オヤジどもに比べれば、路傍の花を撮って回る趣味がいかに高尚なものか、お分かり頂けると思います。 まったく、馬鹿だねー。 いい歳こいて、若い娘なんて撮ったって、誰が評価してくれるものかね。 そんなのはプロの仕事であって、素人が手を出す事ではないよ。 性欲の発露なのが、見え見えじゃん。 己の醜さが分からぬか?

  で、その、花を撮るために是非とも必要なのが、短い最短撮影距離というわけです。 10センチだと、花全体しか撮れませんが、5センチなら、花蕊を撮れます。 それよりも更に短ければ、花蕊のクローズ・アップが撮れます。 ぶっちゃけた話、写真に関して、何の心得も無い人であっても、花に肉薄して、マクロ撮影をすれば、それだけで大抵、見れる写真を撮る事が出来ます。 暗い内から早起きして、はるばる遠くの撮影スポットまで出かけて撮った、光の死んだ風景写真よりも、散歩がてら、近所の児童公園で撮った花のマクロ写真の方が、遥かに魅力が高いのだから、何とも皮肉な話です。

  そうそう、マクロ性能が高ければ、花にとまる虫もついでに撮れますが、虫の場合、見る人によっては、おぞましいとしか感じない事があるので、ネット上で公開する場合には配慮が必要ですな。 どんなに、くっきりはっきり細密な写真が撮れても、蛾や蝿の顔のアップでは、決して作品写真にならないので、ご注意あれ。 ただし、生物学方面での用になら、問題なく使えます。


  さて、最短撮影距離の次に着目すべき点ですが、やはり、重量でしょうな。 本体サイズも同じくらい大切ですが、サイズはたいてい、重量に比例しているので、重量だけ見れば自動的に分かるのです。 もちろん、軽ければ軽いほど宜しい。 カメラが重いと、持って出かける気を無くします。 一眼デジカメを買った人の大半が、半年で押入れにしまい込む事になる最大の理由は、やはり、重さなんですな。 冗談じゃないですよ、たかが写真を撮るためだけに、一キロ近いカメラなんて持って歩けるかってーのよ。 交換レンズなんぞ持って行った日には、カメラ・バッグ込みで、二キロ・三キロになる場合もざらで、想像しただけでも、肩・腰・膝が痛くなってきます。

  コンパクト・デジカメであっても、重さにはピンからキリまであり、「本体のみで、400グラム」などという、人を馬鹿にした物もあるので要注意。 「重さは、我慢すれば何とかなるさ」なんて甘く見ていると、すぐ押入れ行きになります。 心は嘘つきだけど、体は正直ですから。 目安にするラインは、本体のみで、150グラム前後ですな。 現行機種では、120グラムあたりが一番軽いと思いますが、厄介な事に、軽さとマクロ性能は反比例する傾向があり、120グラム台のカメラは、最短撮影距離が15センチ以上になっています。 これでは、肝心の花が撮れぬ。 そこで、少し重さに目をつぶっても、マクロ性能を優先しようというわけ。 150グラム前後まで妥協すれば、選択範囲が相当広がります。

  本体重量はそれでいいとして、バッテリーの種類も重要です。 乾電池か、リチウム・イオン充電池か。 もちろん、乾電池の方が重いです。 単三一本で、30グラム。 普通は二本使うので、本体重量に、60グラム加算される事になります。 リチウム・イオン充電池は物によって違いますが、軽いのは25グラムくらいからあるようです。 ただし、軽ければ軽いほど、充電量が少ないのは、理の当然。


  ここで、第三の要素、電池寿命が絡んで来ます。 こっれがねー、軽視していると、後々、泣きを見るんですわ。 フィルム・カメラ時代、最も懐が痛いのは現像代でしたが、デジカメ時代の癌は、バッテリー寿命なのです。 これさえ解決すれば、ぐーっと楽になるんですがねえ。

  そういえば、ほんの数年前まで、ニッケル水素充電池というのがありましたが、およそ使えねー代物でした。 ≪メモリー効果≫という、生まれながらの致命的欠陥を備えており、「千回充電可能」と謳っているくせに、実際には、「三回しか充電できなかった」などという、開いた口が塞がらないインチキ商品が横行していました。 よくあんな物が、白昼堂々、疚し気も無く、まっとうな店で売られていたものです。 ほっとほと、呆れ果てる! 私は、≪C2≫で使っていましたが、あまりにも早くお迎えが来るので、三セット目を境に引導を渡してしまい、以降、100円ショップの四本入り単三アルカリ乾電池に切り替えました。 それで、ようやく、まともにカメラが使えるようになり、心から清々したものです。

  リチウム・イオン充電池は、≪メモリー効果≫が起こらないという触れ込みで登場して来たバッテリーで、「途中から継ぎ足し充電しても、充電容量が減らない」という事になっています。 私は使った事が無いので、確かな事は何も言えませんが、人の話を聞く限りでは、事実のようですな。 しかし、やはり寿命はあるようで、「バッテリーを買い直した」という話もよく聞きます。 そして、その値段が、冷や汗出るほど高いと来たもんだ。 一つ4000円などという価格が普通らしいですが、100円ショップの四本入り単三アルカリ乾電池に換算すると、約80回分・・・。 私の撮影ペースだと、乾電池で80回分あれば、二年くらいもつ計算になります。 一方、リチウム・イオン充電池が、二年もつかどうかは、大いに怪しい所です。

  乾電池なら、新品に換えるたびに、カメラは最良の状態に復帰するわけですが、充電池の場合、弱ってくると、何枚も撮らない内に撮影不能に陥ってしまうような事もあります。 それが何回も続くと、撮影自体が嫌になってしまうんですなあ。 出先で簡単に手に入らないのも厳しいです。 旅行先なら尚の事、近隣市町村での撮影行でも、バッテリーが死んだからといって、その足で家電量販店に入って買うという人はおらんでしょう。 第一、充電しなければ使えませんし。 軽さを重視してリチウム・イオン充電池を取るか、少々重くなっても、乾電池の便利さを取るかは、悩む所ですな。


  コンパクト・デジカメを選ぶ上で大事なのは、この三つ性能と、後は、サンプル写真です。 大抵のメーカーは、ネット・カタログ上で、一機種につき、二・三枚のサンプル写真を出しているので、それらは、必ず見るようにします。 サンプル写真は、プロが最も良い条件で撮影した物なので、基本的に、そのカメラでは、サンプル写真以上の写真は撮れないと思って宜しいです。 「サンプル写真なんて、みんな似たようなもんだろう」と思うかもしれませんが、どうしてどうして、見れば、差が歴然と分かります。

  よく使われる対象は、風景・人物・花・静物などですが、どんな写真を載せているかで、メーカーがそのカメラの性能についてどう考えているかが分かります。 晴天の日に風景を撮ると、ラチチュードが足りずに、白っぽい所が飛んでしまうので、サンプル写真としては宜しくありません。 そこで最近は、風景写真を載せないというメーカーが増えています。 室内で地味~な色の静物を撮った写真を一枚だけ載せているようなケースもありますが、そんな条件なら、極初期のデジカメでも同じような写真になるのであって、サンプルの用を為していません。 風景はもちろん、人物にも自信がないので、逃げを打っているんですな。

  一見、顧客を騙しているように見えますが、ニセのサンプルを載せていないだけ正直だとも言えます。 特定条件のサンプル写真を載せていないという事は、「そっちの性能には、自信ないよ」と、暗に告白しているわけです。 カメラを買ってしまった後で、「写真の色がくすんでいる」と感じても、サンプル写真もくすんでいたのであれば、それを承知で買ったという事になり、メーカーに文句を言うのは筋違いという事になります。 サンプル写真は、原寸大にして、目を皿のようにして精査するべし。


  さて、カメラ店や家電量販店のカメラ・コーナーへ行くと、店員さんが商品を売り込むのに、ズームの倍数や、画素数の多さを強調すると思います。 私自身も、頼みもしないのに、そういう説明を受けた経験があります。 「こちらは1000万画素で、あちらは800万画素ですが、その差は気にしなくてもいいと思うんですよ」などと、勝手に説明を繰り広げますが、おら、そんなこと訊いてねえっつーのよ。 そもそも、私は、どんなカメラであっても、200万画素に設定して撮るつもりでいるので、800も1000も関係ないわいな。

  ズームも然り。 「ほーら、こんなに、ズーム出来ますよーっ!」などと、実演してくれますが、おら、そんなこと頼んでねえっつーのよ。 そもそも、私は、ズームで望遠して撮る事がほとんどありません。 なぜというに、望遠にすると、覿面にブレボケしてしまうからです。 これも、サンプル写真を見れば分かるのですが、望遠ズームで撮った写真は、みんなボケているはずです。 ああいうのは、当然、プロが三脚に据えて撮っているわけですが、それでもボケます。 まして、素人が手持ちで撮る写真が、ボケないわけがないではありませんか。

  望遠にするとブレが大きくなるのは、原理上避けられない事で、≪手ブレ軽減機構≫くらいでは、焼け石に水です。 倍率が高くなればなるほど、ブレが大きくなるので、10倍ズームや20倍ズームとなると、勇ましいのは数字ばかりで、撮れた写真は見るに耐えない代物になります。 使えない写真では、最初から撮らない方がマシというわけ。

  しかし、どの店へ行っても必ず、店員さんがズーム倍率と画素数の説明をするという事は、つまり、そんなどーでもいーような性能を気にするお客が多いという事なんでしょうな。 うーむ、無知ほど怖いものはない。 店に来るお客を見ていると、家族連れなのに、高倍率ズーム機や、一眼デジカメを買おうとしている人が大変多いですが、「よしゃあいいのに・・・」と、いつも思います。 そういう機種は、写真趣味があって、しかも腕に覚えがある人が買うものであって、一般人向けではないのですよ。 高いカメラを買えば、いい写真が撮れると思っているのか、写真なんかどうでもよくて、ただ高いカメラを持ってカッコつけたいだけなのか、いずれにせよ、愚かの極みですな。

  おっと、一般論を並べている内に、私個人の悩みについて何も書かないまま、こんなに長くなってしまいましたな。 疲れたので、また来週に続きます。

2009/05/03

死ぬカメラ・蘇るカメラ

  3月の終わり頃に、それまで使っていたコンパクト・デジカメが壊れてしまいました。 キャノンの、≪PowerShot A60≫という機種で、2004年5月に買ったもの。 付属していた16メガのコンパクト・フラッシュだと30枚くらいしか撮れなかったので、当初は家の中だけで使っていたんですが、2007年の夏に、256メガのコンパクト・フラッシュを安く買えた為、それ以降、外へ持ち出すようになりました。 ところが、酷使が祟ったのか、2008年の夏頃からモニターの画像が抽象画のように歪むようになり、最初は起動時だけだったのが、だんだん悪化して、とうとう全く撮影できなくなってしまったのです。

  古いカメラですから、200万画素しかありませんが、当時はキャノンのコンパクト・デジカメの中級機で、撮影モードに絞り優先やシャッター・スピード優先などをフル装備しており、その気になりさえすれば、一眼デジカメに近い使い方が出来る、なかなかの優れ物でした。 ただ、私がその気になったのは、五年間を通じて、ほんの二三回でしたが…。 機能を使い切らない内にお釈迦にしてしまったわけで、慙愧の涙に耐えません。

  私が買ったキャノンのデジカメで、撮影不能に陥ったのは、これで二台目です。 やはり、2004年の春に、父に買ってやった、≪PowerShot A310≫も、2008年の秋に鬼籍に入っています。 モニターは点くけれど、撮影が出来ないという、何となく似た症状。 ただし、こちらの場合、父が三年以上、一枚も撮らずに、本棚にしまいっ放しにしていたという事情があり、同列には比べられません。 たぶん、回路が腐食してしまったのでしょう。 キャノンのカメラは、フィルム時代から一貫して、描写性能は抜群なのですが、壊れてしまえば、ただの置き物ですな。


  まあ、形あるものはいつか壊れるから、壊れてしまった事は致し方ないとして、問題は後継機をどうするかです。 私の場合、写真撮影は、数少ない、≪続いている趣味≫なので、カメラ無しではいられません。 すぐに新しいのを買おうと思いましたが、あいにく、仕事を干されて給料が激減している時期に重なり、最低でも1万円以上になる出費に、ためらわないわけにはいきませんでした。 ≪PowerShot A60≫の前に、外出用に使っていた、日立の、≪HDC-2≫というカメラがまだ健在なのですが、固定焦点方式なので、マクロ撮影に自由が利かず、それに戻るというのも、気が進みません。

  ちなみに、≪PowerShot A60≫も、≪PowerShot A310≫も、保証期間はとっくに過ぎていたため、修理に出す事は考えませんでした。 片や15000円、片や20000円で買った商品ですから、自費修理で一万円以上取られたりした日には、割に合いません。 それに、昨今の電気製品は、部品の在庫を置いていないので、修理に出しても、直らない場合が多いと聞きます。 保証期間内ですら、すでに生産中止になっていると、部品が無くて直らない事があるらしく、そういう場合は、ほぼ同一性能の現行製品が送られてくるのだとか。 「その方がいいなあ・・・」と涎を垂らしても、保証期間終了後では、もちろん叶わぬ夢です。 とにかく、修理という選択肢は、最初から念頭にありませんでした。

  ふと、思いついたのが、2001年秋から2004年の春まで、家の中専用で使っていた、オリンパスの、≪C2≫というカメラです。 私がパソコンを買い、インターネットを始めて半年後、ペット・サイトを作るために、どうしてもデジカメが入用になり、ケチだというのに34500円も出して、初めて買ったデジカメです。 当時は、どのメーカーも、今ほどラインナップが多くなくて、≪C2≫はオリンパスの中ではボトム機でしたが、値段を見ても分かるように機能・性能的には中級機でした。 

  これは、壊れたわけではないのですが、母がデジカメが欲しいと言うので、譲ってしまったのです。 ≪C2≫を譲る事になった為に、その代わりとして、≪PowerShot A60≫を買ったわけですな。 ところが、母はデジカメの使い方を覚える事が出来ず、父のカメラ同様、箪笥の抽斗の奥にしまいっ放しになりました。 撮らないんなら、最初から欲しがるなっつーのよ。 こちらも、放置し過ぎで、壊れているのではないかと恐れましたが、引っ張り出して、電池を換装してみると、何とか正常に動くようです。 どうせ、母は使っていないので、私が返して貰っても、問題ないでしょう。 これでいいじゃん、あはははは!

  と、笑ったまでは良かったんですが、いざ、≪C2≫を持って、外へ撮りに出てみると、いろいろと不都合が出て来ました。 昔使っていた頃には、家の中でベットや小物を撮っていただけだったので、気付かなかった欠点が、ちらほら出て来たのです。

  まず、撮影枚数が少ない。 付属のメモリーカードが16メガしかないので、最大画像サイズだと、30枚くらいしか撮れません。 そこで、容量が多いカードに買い直そうと思ったんですが、取り出してみたら、何と、スマート・メディアだったのです。 そんなの、とっくの昔に生産中止になって、今時どこの店を探しても置いちゃいません。 これは推測ではなく、実際に8軒くらい回って確認しました。 ネット上ではまだ売ってますが、最大容量の128メガだと、4000円近くするという、人を馬鹿にした値段。 どうやら、プレミアがついてしまっている模様です。

  そもそも、スマート・メディアという規格自体が宜しくない。 最大でも128メガしかないというのは、どういう了見やねんな? まあ、曲げれば片手の指で折れるくらい薄っぺらいですから、無理もないといえば無理も無いですがのう。 登場した時点で、すでに、デジカメ・データが大容量化するのは分かっていたのですから、こんな限界の低い規格を世に出した事自体に問題があります。

  オリンパスも無責任な話で、スマート・メディアしか使えないカメラを売ったんだから、利用者の為にカードの供給は続けるべきでしょう。 なに、メーカー通販で売っている? げっ、そうだったんすか? これは、知らぬ事とはいえ、とんだ失礼を致しやした。 で、おいくらでお譲りしていただけるんでげしょうかね? なに、128メガで、9000円? ふざけんな! 今謝ったのは取り消す! 9000円もあったら、特売のコンパクト・デジカメが新品で買えるではないか! しかも、1ギガのSDカード付きでだ! どういう価格設定をしとるんじゃい! なめとんのか?

  そういえば、オリンパスはその後、XDピクチャー・カードの規格化に携わり、今でも同カードを使うカメラを売っていますが、スマート・メディアの例を見るに、XDピクチャー・カードの将来も明るいとは言えませんな。 もっとも、こちらは、SDカードと併用できるようにしてあるカメラが多いようですが。 オリンパス絡みで注意すべきは、この会社、目先が利くという点では、他を圧倒しているんですが、独占的に儲けようとして、独自規格に拘り過ぎる傾向があり、大概それで失敗しています。 オリンパスの先見性を信じて製品を購入した利用者は、結果的に割を喰う事になるのであって、懲りてしまった人も多いのではありますまいか。

  ≪C2≫の問題点の二番目は、描写性能が低い事です。 今まで、キャノン製品を使っていた為に、比較すると、どうしても落ちます。 「200万画素だから、しょうがない」という問題ではないのであって、画素数を言うなら、≪PowerShot A60≫も同じ200万画素だったわけですが、撮った写真を見ると、その精彩さには、はっきりした違いが見られます。 やはり、キャノンは、理由無くしてトップ・メーカーにのし上がったわけではなかったんですな。 デジカメの描写性能は、撮像素子の能力、映像処理技術の他に、レンズの出来も大きく響いてきますが、≪C2≫は、レンズも宜しくない様子。 逆光で撮ると、乱反射してしまって、作品どころではありません。 これに比べれば、≪HDC-2≫のレンズの方がまだ逆光に強いです。

  三番目に、電池消耗が早いのも厳しいところです。 もっとも、これは、2001年頃のデジカメは、みんなそうだったので、オリンパス製品だけの問題とは言えません。 特に、モニターを点けておくと、みるみる減っていくようで、新品のアルカリ電池を入れても、50枚も撮らない内に、バッテリー警告マークがチカチカ光り始めます。 幸い、ファインダーがついているので、モニターを消してファインダーを覗いて撮る事で、電池を長持ちさせようとしているのですが、撮るたびに、こういう配慮をしなければならないのは鬱陶しい限りです。 また、マクロ撮影では、いやでもモニターを点けねばならず、早く撮って早く消そうと焦るため、冷や汗がダクダク流れて来ます。


  とまあ、三つの問題点があるわけです。 そこで、少しでも撮影時のストレスを減らそうと、画像サイズを小さくして、撮影枚数を増やしてみました。 80万画素程度のサイズにすると、70枚くらい撮れるようになり、これなら、半日の撮影行には、充分間に合います。 ちなみに、印刷せずに、パソコンの画面上でだけ見る場合、画素数サイズを小さくしても、画質が落ちるわけではありません。

  これを勘違いしている人は無数にいると思いますが、たとえば、パソコン・モニター上でハガキ大の大きさの写真を見る場合、1000万画素で撮った写真でも、80万画素で撮った写真でも、結局縮小する事になるので、最終的な画質は同じになります。 ただ、画像の中の一部を切り取って使うという場合にのみ、元の画素数が多い方が有利になり、画質を落さずに済みます。 「縮小したら、画質が落ちた」というのは、専ら、縮小に使った画像加工ソフトの能力の差によって引き起こされる現象でして、元の画素数の多少には関係ありません。

  画素数が多ければ多いほど、精細な写真になるというわけではないですから、もし今、1000万画素のカメラを持っている方も、画素数サイズを小さくして撮った方がいいかもしれません。 展覧会に出品する勝負写真を撮るのでもなければ、結局みんな縮小してしまうのですから、元画像は200万画素程度で充分です。 データ量が、5分の1で済みますからのう。 現実問題として、データ量が多いと、保存場所がすぐに無くなってしまいます。 どーでもいーよーなクズ写真を1000万画素で撮って、それを律儀に全て保存する為に、ブルー・レイ・ドライブなんぞ買っている人を見ると、アホとしか思えませんな。 撮った当人ですら、二度と見ないような写真では、30万画素でも惜しい。


  ただねえ、花は寄って撮ればいいとして、動物の場合、近寄れない対象が多いので、どうしても大きく撮って、その中から一部を切り取る事になります。 80万画素だと、それがきつい。 それに、70枚撮れるようになったとしても、一日予定で、観光地などに出かけた場合、絶対的に枚数が足りなくなるのです。 つい一昨日も、静岡市の、≪日本平動物園≫に行って来たのですが、カメラは、≪C2≫と、≪HDC-2≫の二台を持っていって、撮った写真の合計枚数は、300枚を超えていました。

  「たった一日で、そんなに撮るのー!」と思った方、あなたは写真趣味が分かっていない。 写真とは、撮り手の腕の良し悪しに関係なく、「数撃ちゃあたる」ものなのです。 特に、動物園や水族館に行ったら、展示されている動物を全部撮って来るのは、カメラ使いの使命のようなものです。 その際、何という名前の動物を撮ったかを忘れないように、名前と解説が書かれたプレートも一緒に撮ります。 これだけで、枚数が倍になるというわけ。 ちなみに、動物以外でも、園内の風景・光景、ちょっとした説明板、変わった形のゴミ箱まで、目に付いた物は、全部撮ります。 人様に見せる写真が、その中の10枚くらいしかなくても、300分の10なら、かなり質のいいものになるという算段です。

  「数撃ちゃあたる」は、フィルム時代に、プロの写真家が使っていた方法でして、その頃は、フィルム代・現プリ代、ともに高価だったので、素人には真似が出来ませんでした。 デジカメ時代になって、一般人が得られた最大の福音は、お金を気にせずに、大量の写真を撮れるようになった事なのです。 だからねー、1000万画素で、保存場所の容量を気にしてチマチマ撮っている方々、すぐにそんな考え方は捨てて、カメラの設定を、200万画素にしてしまいなさいって。 枚数を5倍撮れば、1枚の時より、絶対いい作品が手に入るから。 腕じゃないのよ、確率の問題なのよ。

  おっと、薀蓄を垂れていたら、当初の予定より、長くなってしまいました。 実は、≪C2≫に満足できないので、新しいカメラを買おうと、あれこれ悩んでいる現状について書きたかったんですが、前置きだけでこんなに長引いたのでは、とてもじゃないが、もう無理ですな。 次回に回しましょう。