2007/07/29

地デジ・カルテル

  アナログ地上波停止まで、あと4年という事で、テレビでは盛んに地デジ対応機器の購入を勧めています。 が、今進行中のこの状況、ここ半世紀中で最も大規模、且つ、最も悪質なカルテルなんじゃないでしょうか。 「ないでしょうか?」というより、こういうのをカルテルというのです。

  まず、地上波のデジタル化自体が、視聴者の誰に得があるのかさっぱり分かりません。 アナログだろうがデジタルだろうが、テレビなんぞ写ればいいのであって、「デジタル化がどうしても必要」という人間がいるとは思えません。 ケーブル・テレビや衛星放送の契約者の中には、混乱してしまって、地デジにすれば、見られる局数が増えると勘違いしている人もいますが、そんな事はないのであって、地デジにしても、見られる局はアナログの時と全く同じです。

  地上波デジタルが導入された頃、盛んにいわれた宣伝文句が、≪高画質≫と≪双方向性≫の二つですが、この内、≪双方向性≫については、その後綺麗さっぱり口にする者がいなくなりました。 理由は単純、おっよそ使えない機能である事が、実感として分かったからです。 「これだけネットが普及した時代に、テレビのような単純な機械で、面倒臭い操作をしてまで、わざわざテレビ局とお話をしようなどという閑人はいないだろう」と思ってはいましたが、宣伝側でさえ話題にしなくなったという事は、本当に使う人がいないんでしょう。

  この地デジの双方向機能という奴、以前NTTがやっていた、≪テレッセ≫や≪Lモード≫といったサービスに似ています。 パソコンに恐怖心やアレルギーがある人に、手軽にネットを利用してもらおうという狙いで作られた、≪簡易ネット接続機器≫ですが、まーあ、全っ然普及しませんでした。 今となっては、浅野ゆう子さんのCMが痛々しい。 なんで当たらなかったかというと、≪簡易≫という割には操作が難しく、それでいてネットの利用には制約がある為、パソコンと比べて利点が少なすぎたからです。 地デジの双方向機能も全く同じですな。 イギリスでは遙か昔から地デジ化していて、双方向機能もそこそこ使われていましたが、それはネットが普及する以前の話です。 環境が変わってしまっているのですから、昔イギリスで取れた泥鰌が、今の日本でも取れると思う方がおかしいです。

  次に≪高画質≫ですが、こちらは今でも宣伝文句に使われていますな。 というか、高画質しか売りがなくなってしまったから、それを繰り返すしかないんですな。 だけどねえ、これも胡散臭いんですよ。 ブラウン管テレビのまま地デジ化して高画質になったというなら、確かに≪進化≫ですが、家電メーカーは、地デジ化と平面テレビ化を同時進行しようとしているでしょう。 液晶でもプラズマでも、平面テレビというのは、ただ本体を薄くする為だけに開発された技術で、画質はむしろ犠牲にしている方ですから、平面テレビに地デジを掛け合わせも、高画質になるわきゃないんですよ。 これねえ、現在、家にブラウン管テレビを持っている人達は、比較ができますから、家電量販店に行って、自分の家のブラウン管テレビと、最新の平面テレビと、どっちが写りがいいか、比べてみると宜しい。 「最新製品で、値段が高いテレビの方が写りがいいに決まっている」という先入観を捨て、「平面テレビは画質を犠牲にしているはずだ」という知識を頭に入れた上で、見比べてみれば、もうブラウン管テレビが圧勝するはずです。 相手にならないくらいブラウン管の方が映像が優れています。

  店頭に並んでいる平面テレビを見ると、大抵ギラギラとドギツい色合いに調整されていますが、あれは、本来、色の再現性が低いのをごまかす為に、輝度を上げているんですな。 ところが、技術の技の字も知らず、先入観にどっぷり浸かった馬鹿な客に、それが見抜けるはずも無く、いとも容易く騙されて、「やっぱりプラズマは、鮮やかさが違うねえ」などと言いながら、ホイホイ喜んで買っていくわけです。 馬鹿言いなさんな。 あんな蛍光塗料をぶちまけたような輝度のまま、普段テレビが見れるもんですか。 結局、ギラギラに耐え切れずに輝度を落せば、「こりゃ、市川昆の秘術、≪銀落とし≫か?」ってな、くすんだ色でそれから何年かテレビを見続ける羽目になるのです。 馬鹿だねえ。

  それにしても、先入観に騙される人間の多いことよ。 液晶テレビが動きのある映像についていけない事は、現物を一目見れば誰にでも分かるはずなんですが、「ワールド・カップを液晶で見たいから」などと言って、大枚はたいて購入した変な連中がうじゃうじゃいたんですな。 目は大丈夫か? いや、頭の方を心配した方がいいか? サッカーなどは典型的ですが、動きの速いスポーツを液晶テレビで見るなど、サングラスをかけて美術館を見て回るようなものです。 残像だらけなのが分からぬか? 自分の目で見て、自分の頭で判断せにゃあかんで。 年端の行かない子供じゃないんだから。

  なぜ、地デジ化と平面テレビ化を同時に進めようとしているのか? 言わずと知れたこと、家電メーカーが儲ける為です。 「せっかく地デジ化で買い替え需要を掘り起こしたのだから、どうせなら、とびっきり高い物を売りつけてやれ」と企んだんですな。 ブラウン管テレビに地デジ・チューナーを付ければ、29型でも5万円以下で売れるものを、わざわざ平面テレビだけに限定して、20万円以上で売りつけているのですから、オレオレ詐欺も真っ青の悪質商法ですな。 これまた、技術の技の字も知らない人達が勘違いしている事ですが、「地デジ・チューナーは平面テレビにしか付けられない」と信じ込んでいるケースがうじゃらうじゃらあります。 そんな事あるわけないでしょうが。 付くよ、ブラウン管テレビに、簡単に。 儲けたいから、わざと作らないだけです。

  家電メーカーの儲け根性には際限がありません。 地デジ化と平面テレビ化を抱き合わせるだけでは飽き足らず、録画機まで選べる範囲を限定しようとしています。 地デジ化の暗黒時代を安価に乗り越えようとすると、テレビを買い替えず、地デジ・チューナーが付いた録画機を接続するのが最善ですが、現在、地デジ・チューナーがついた録画機というと、HDD付きDVD・レコーダーしか選べません。 これが、どんなに安くても5万円を割らないから頭に来る。 技術的には、地デジ・チューナー付きビデオ・レコーダーが3万円以下で簡単に出来るはずですが、一種類も売られていません。

  この事を家電量販店の店員に訊くと、「もう、ビデオの時代じゃありませんから」などと、へらへら笑うわけですが、馬鹿か、お前は? じゃあ、今のDVDの時代がいつまで続くっていうんだよ! もう次世代DVDが出ているじゃないか! デッキが次世代に移行してしまえば、今せっせと録画しているDVDなんて、再生できなくなるんだぜ。 メーカーがいつまで律儀に旧世代機を作ってくれるんだ? まだ10年も経っていないから、≪レーザー・ディスク≫がどんな末路を辿ったか知らないわけではあるまい? 一時期、レコード店の売り場を半分近く占領していたレーザー・ディスクが、今では中古ソフト店でゴミの山になっている始末。 再生できるデッキが売られていないから、一枚10円でも買う人なんていやしない。 DVDも全く同じです。 映画やテレビ・シリーズのDVDをコレクションしている人はたくさんいると思いますが、手持ちのデッキが壊れたら、もう見れなくなる事が分かってるんですかね? しかも、ご丁寧にコピー・ガードがかかっているもんだから、他の録画システムに移し変える事も出来ない。 デッキが売られている間だけの命なのです。

  なんで、こんなに不便な状態になっているかといえば、ひとえに家電メーカーが儲けたいからです。 次世代DVDを必要としているのは消費者ではなく、買い換え需要を掘り起こしたい家電メーカーです。 特に日本の家電メーカーは悪質で、1980年代に世界市場を寡占して、自分達で規格を決められるようになってから、やりたい放題がはじまりました。 そりゃ、新しい規格をどんどん作っていけば、消費者は買い替えざるを得ないから、メーカーは儲かりますわな。 DVDなんて、そんなに容量があったってしょうがないでしょうが。 映画が一本入れば充分なんですよ。 映画二本が一枚に入ってたって、それで安くなるわけじゃないんだから。 ブルーレイのように、現行機と互換性が無いなど、言語道断。 どういうつもりでそんなクズ規格を思いついた? 本当に詐欺師か?

  私は、地デジ化が始まってから、「日本メーカーは信用できないから、外国メーカーが、安い地デジ・チューナー付きビデオを売ってくれないだろうか」と願っていたのですが、今に至るまでその兆候なし。 思うに、外国メーカーまで巻き込んで大カルテルを組み上げているようです。 ろっくでもない。 これが自由競争社会か? ≪付和雷同、右倣え≫を金科玉条として生きる消費者が気付かないのは仕方がないとしても、マスコミまで何の指摘もしないのはなぜでしょう? カルテルの概念がないわけでもあるまいに。 文系だから、技術のごまかしを見抜けないのか? いや、充分ありそうだから怖い。

  それにしても、≪ブラウン管から平面テレビへ≫、≪ビデオからDVDへ≫といった、実質的な≪技術の退歩≫が目の前で繰り広げられているのは、驚嘆すべき現実ですな。 ≪ビデオからDVDへ≫は、一見進歩のようですが、その実、DVDの使い勝手の悪さには堪忍袋の緒が切れるものがあります。 録画も再生も、不便極まりなし。 私はいつも思うんですが、あの≪チャプター≫で再生開始場所を選ぶのが、まどろっこしくて仕方ありません。 ビデオなら、カウンターを見ていれば、好きな所から簡単に出せるのに。 チャプター画面の前にショート映像が入る物が多いですが、あれを繰り返し見せられていると、イライラして病気になりそうです。 作っている奴らも奴らで、自分で見てて鶏冠に来ないか?

  「DVDの方が映像が綺麗」なんて、程度が知れています。 ビデオに録画した映画を見た後、「この映画はいい作品だから、DVDを買おう」と思って買った人は結構いると思いますが、画質の違いで再感動しましたか? しないでしょ。 画質なんて、作品の内容に比べたら、二次的な要素に過ぎないからです。 二次的要素の為に、使い勝手を悪くして、≪進歩≫だと言っているわけですが、そんなの本末転倒でしょうが。

  とどめに、最も許し難いのは、DVDという奴、どこを持てばいいか分からない事です。 あれを指紋をつけずにひょいひょい扱える人間なんてこの世にいるんでしょうか? 四苦八苦して端っこを抓んでいると、自分が原始人に戻ったような錯覚に落ち込みます。 CDも同じですが、本当にどこの知恵足らずが、こんな出来損ないの道具を考えたんでしょうか。 ビデオよりDVDの方が進んでいると思っている方は、DVDを抓んでいる自分の姿を鏡に写して、奇妙な物体を拾った原始人に見えないかどうか、とくと眺めてみて下さい。

2007/07/22

虚報ダンス

  例の、≪ダンボール肉まん騒動≫ですが、「終わった後なら何とでも言える」と謗られるのを承知の上で書きますと・・・・。

  最初にそのニュースを聞いた時、感覚的に、「変だな」と思いました。 「劇物に漬けて刻んだダンボールを肉まんの具に使っていた。 しかも10年も前から続けていた」、というのですが、ありえますかね、そんな事が? いくら、紙の原料は植物だとはいえ、人間は山羊じゃないんだから、食物として食べられないでしょう。 しかも一回きりで、中毒患者が出て表沙汰になったというならともかく、10年も続けていたなると、今に至るまで被害者が出ていないのは、何とも不自然です。

  もう一つ、決定的に変だと思ったのが、起こった国が中国だという点です。 食べられないものを10年も売っていたというのは他の国でも奇妙なのに、美食文化圏の代表たる中国で、お客が味の異常に気付かないはずがないではありませんか。 百歩譲って、ダンボール肉まんが食べても健康に差し支えない物であったとしても、うまいはずがなく、うまくない物が中国で10年も売れ続けるはずがないと思うのです。

  あの隠し撮り映像も随分と疑わしかったです。 隠しカメラというのは、どんなにうまく按配しても、あんなにバッチリと作業者の手元が写せるものではありません。 嘘だと思ったら、自分でデジカメを使って試してみると宜しい。 手元どころか、相手の上半身を構図に納めるのにも大変な苦労をするはずです。 隠し撮りでないとしたら、製造業者の了解の上で撮影していた事になりますが、そんな材料を使っている事がテレビで報道されたら、この業者には何の得もないばかりか、摘発されるのは疑いないですから、了解など与えるはずがありません。 もう、この映像を見ただけでも、嘘だと気付くべきでしょう。 最低限、「何か変だな・・・」くらいは感じて然るべきです。

  最終的に、このニュースは、北京テレビの臨時記者が捏造した虚報だと分かったわけですが、中国国内の主要報道機関もスクープとして取り上げていた為、全国的な大ニュースになってしまっていて、北京テレビの訂正・謝罪発表がなされると、≪食の安全性≫の問題が、一瞬にして、≪報道の信頼性≫の問題に切り替わってしまいました。 でも、私としては、「美食文化圏の人々が、ダンボール肉まんを気付かずに食べていた」というよりは、「一記者が、偽スクープを捏造した」という方が、起こり得る度合いが遥かに高いので、納得し易いです。


  さて、問題は、この騒動に対する日本のマスコミ、及び一般日本人の反応の事です。 このダンボール肉まんは輸出品ではなく、北京市内の露店で売られていたという設定だったので、もし捏造でなかったとしても中国の国内事件だったのですが、なぜか、日本で大々的に取り上げられました。 日本のマスコミは、「この問題は、アメリカや日本で大きく取り上げられ・・・・」などと報道していましたが、私がネット上読んだ限り、アメリカのニュースで、ダンボール肉まん事件が何度も取り上げられたという事はありませんでした。 アメリカが問題にするのは、自国に輸入されているか、輸入される可能性のある製品の事で、中国国内で何が売られていようが、さほど気にはしないのです。 理屈から言えば、これは日本でも同じはずですが、なぜ、こんなに大騒ぎになったのでしょう?

  そりゃ、決まってますわな。 日本のマスコミや一般の日本人が、中国製品の質を扱き下ろしたくて仕方がなかったからです。 よくもまあ、これだけ露骨に罵れるものだと呆れるくらいに。 まさに、鬼の首でも取ったかのように、侮蔑の限りを尽くしていました。 ついこないだ、≪ミートホープ事件≫があり、まだ記憶に新しい所でも、≪雪印事件≫、≪不二家事件≫など、国内にも同様の例がいくらもあるにも拘らず、自分の事を棚に上げて、「これだから、中国製品は信用できない」といった論調でテレビや一部の新聞は埋め尽くされていました。

  私は、我が家で取っている新聞でも、同じような騒ぎ方をするのではないかと目を光らせていたんですが、その新聞は、このスクープの胡散臭さに勘付いていたのか、割と控え目の報道をしていました。 尻馬に乗って騒がなくて正解でしたな。 他の新聞でギャンギャン大騒ぎしていた所は、捏造発覚後、「中国当局が騒ぎを押さえ込む為に、ヤラセだったという事にして決着をはかろうとしているのでは?」などと書いていましたが、自分達が虚報に踊り捲って、ダンス・パーティーまでぶちかましてしまった事をごまかす為に、疑り深いふりをして体面を取り繕おうとしているのが見え見えです。 まったく、新聞記者というのは、大衆の前に見解を曝さなければならないだけに、重大な間違いをやらかすと、とことん不様極まりないものですな。

  もっとも、テレビはもっとひどかったですけどね。 昨日までダンボール肉まん事件を罵り、ついでに中国製品全体を貶し捲っていたニュース・キャスターが、捏造発覚のニュースを淡々と報じている姿は、≪白ばっくれ≫の神が具現化したかのようでした。 よく恥かしくないなあ。 日本全国に向けて、重大事件だといって、大真面目に報道していた人間が、同じ口で取り消しか? もう、報道なんてやめたら? 結局あんたは、嘘でも何でも平気で伝えるんだろう? アメリカのニュース番組の真似をして、≪アンカー≫などと称してすかしていますが、その実、スタッフが用意した原稿を読むだけの木偶人形なのであって、自分が取材したわけでもなければ、専門家としての分析が出来るわけでもないのです。 それどころか、常識的判断力すらない。 自分がやっている事に職業人として疑念を抱いた事がないんでしょうかね?

  ご存知のように現代は、虚実入り乱れてニュースが溢れている時代ですが、こんな時代に報道関係者に必要とされるのは、その事件が、≪ニュース・ネタ≫か、≪ワイドショー・ネタ≫かを見分ける能力ですな。 特に外国の事件などは、ほとんど外電頼みですから、取材能力よりも、識別能力の方がずっと重要になります。 中国の文化について一通りの知識を持っていれば、今回の事件が、≪ワイドショー・ネタ≫だという事に気付くことが出来たはず。 少なくとも、胡散臭いと思えば、報道の仕方も変わったでしょう。 日本の報道関係者の知識・教養が著しく低下している事を図らずも露呈する結果になったわけですな。

  捏造発覚後、テーマを≪食の安全性≫から≪報道の信頼性≫に切り替えて、中国扱き下ろしを続行しようとする姿勢が一部に見られましたが、日本の報道関係者は、よく外国の報道を批判できるものだと呆れました。 他所の事を言えないだろう? 学説を捏造する科学番組だの、珊瑚にイニシャルを彫るカメラマンだの、月とコウノトリを合成する記者だの、他紙の記事を盗用する記者だの、ウィキペディアに素人が書いた妄想文を定説だと思い込んで丸写しにする記者だの、日本の報道の信頼性だって地に堕ちているじゃないか。 他者を罵る前に、まず、己を正せよ。

  オマケですが、テレビ・ニュースで流される映像を見る時、「こんな映像は撮れるはずがない」と思ったら、捏造である事を疑ったほうが良いです。 典型的なのは、≪軍事独裁国家の強制収容所に潜入リポート≫の類で、まあ、常識的に判断すれば、そんな所に外部の人間が入り込めるわけがなく、まして撮影など金輪際不可能である事は分かるはずです。 戦前の日本の軍事施設の映像など、宣伝用に作ったもの以外、全く残されていないでしょう? アメリカは軍事独裁国家ではありませんが、テロ容疑者を強制収容しているグアンタナモ基地に潜入取材した映像なんて見た事ないでしょ? そもそも入れないんですよ。 強制収容所というのは、そういうものなのです。 どの国でも一番見せたくない所ですからね。 今では超小型のカメラがありますが、よほど小さな物でも、ボディー・チェックを受ければすぐにバレてしまいます。 まして、揺れのない映像や、顔がしっかり構図に治まっている映像などは、隠しカメラでは絶対に撮れませんから、判断の基準になるはずです。

  身近な所では、キー局がよく流す、≪万引きの現場を激撮!≫などの映像なども疑わしいです。 同じ犯罪物でも、≪警察24時≫などの場合、実在する警察官が登場するので捏造は考え難いですが、万引き映像で、警官が呼ばれない場合、やっている可能性があります。 万引きは犯罪ですが、犯罪者にも人権はありますから、テレビで放送するとなれば、当人の許可を得なければなりません。 「顔は隠すから」と言われても、服装や体格で知り合いにバレる事は充分考えられますから、承諾する人は稀でしょう。 捏造でもしなければ、あんな映像がホイホイ手に入る事はありえないと考える方が妥当です。 

  この種の映像を捏造するのは、現代ではわけないんですよ。 金で言われた通りの事をする素人役者なんていくらでもいますから。 特に外国の様子を写した映像だと、違和感が感じ取れないので、ごまかし易くなります。 これらを見分ける為には、知識・教養を蓄え、良識的感覚を磨く以外にありません。  ・・・・まあ、無理だと思いますが。

2007/07/15

言語は進化しない

  久しぶりに言語の事でも書きましょうか。 最近、というか、ここ一二年もですが、言語への興味が随分冷めたような気がします。 語学の方は依然として続けていますが、言語学と語学は、通じているようで、その実まるっきり別の物なので、語学をいくらやっても、言語学には近づかないのです。 そういえば、外国語を、読み書き・聞き喋り全部こなすほど究めた人が、言語学の基礎知識すら持っていない例をよく見ますが、両者に直接の関連が無い事の証左ですな。

  言語に興味がなくなった最大の理由は、「言語によって世界が変わる事はない」と悟ったからです。 言語は所詮、文明の道具に過ぎず、文明そのものどころか、そのパーツですらありません。 道具ですから、無くては困るのですが、それ自体が文明の目標ではないという事です。

  よく、生半可に言語に興味を持った人が、「言語は進化している」といった言い方をしますが、それは安易に落ち込み易い勘違いでして、言語は進化などしていません。 なぜ進化しないのかというと、人間の言語能力が進化していないからです。 音声を聞き分ける能力や発し分ける能力が、もう何十万年も停滞したままなのは、生物としての機能上、限界に達しているからです。 超音波でも聞き取れるようになれば、また新しい次元に進むかもしれませんが、現状からは想像もできない夢物語ですな。 文法や単語の構造は、もっと限界がはっきり分かっていて、現在存在している言語より効率が良い構造というのはありえません。 より効率が悪いものなら考えられますが、そんなのは考えるだけ時間の無駄です。

  英語を習った後にフランス語を習うと、「ああ、英語はフランス語が進化したものなんだな」と思い、更に中国語を習うと、「英語が進化すると中国語のようになるんだな」とは、誰もが感じる事です。 専ら文法の単純化の程度によって、進化の進み具合が違うと判断するわけですな。 しかし、この三言語の違いを進化の差と考えるのは間違いです。 ≪進化≫ではなく、≪変化≫に過ぎないと見るべきです。 言語の変化のスピードは地質学的年代に比せられるほど緩慢なものなので、気づきにくいのですが、中国語のように一旦単純化の極に達した言語も、徐々に変化して、また複雑化して行く傾向が見られます。

  ≪進化≫が直線上を一方向に進むようなものであるのに対し、言語の≪変化≫は大きな円の上を回っているようなものだといえば、イメージし易いでしょうか。 時計の文字盤に譬えると、フランス語が1時の位置ならば、英語は2時、中国語は3時の位置にいます。 日本語や韓国朝鮮語は8時くらいの位置にいると考えてもいいです。 位置の違いは、進んでいる・遅れているという意味ではなく、単に特徴の違いを示しているだけです。 非常に長い時間をかけてぐるぐる回っているので、いずれ日本語が英語そっくりの特徴を持つようになるという事も起こり得ます。 ただ、何と言っても時間がかかるので、その頃には日本語だの英語だのといった分類が無意味になっている可能性が甚だ高いです。

  ここ500年ほどの間に、英語が中国語に急速に近づいた事は、文献上も証明されています。 シェークスピアの頃の英語は、他のヨーロッパ系言語にずっと近く、格変化も残していたようですが、今では代名詞を除いて各変化は無くなってしまい、語順と前置詞のみで格を示す、完全な中国語方式に変わってしまいました。 動詞の活用も、三人称単数現在の≪~s≫にだけ痕跡が残っていますが、これもいずれ消滅するのは疑いない所です。 500年前といえば大航海時代の幕開けで、イギリスの船が東南アジア方面で中国文明と接触した頃なので、「中国語から直接に影響を受けたのでは?」という推測も出来ますが、それはロマンチシズムというもの。 一部の船乗りや商人が中国語に接したからといって、英語すべてに影響が及ぶとは考えられません。 英語が自律的に変化して、単純化が進んだのでしょう。 スペイン人やポルトガル人は、もっと早くから中国語に接触していましたが、何の影響も受けていない点から見ても、それは言えます。


  日本語についてちょっと書きますと、日本語は決して覚え難い言語ではありません。 単純化している事を言語の習得のし易さの基準にするなら、日本語はそこそこの位置にいるといっていいです。 「名詞に性が無い」、「単数複数が無い」、「格変化を後置助詞で統一している」など、単純化の特徴を豊富に獲得しています。 ただ、それはあくまで口頭語の話。 読み書きとなると、文字の種類が多く、読み方も多過ぎて、習得難易度は世界最低レベルまで落ち込みます。 ほぼ同じ文法を持つ韓国朝鮮語は、文字の問題が無いので、日本語よりずっと覚え易いです。

  日本語や韓国朝鮮語の語順は、≪主語→目的語→動詞≫、且つ、≪修飾語→被修飾語≫で、常に修飾要素が中心要素の前に来て、文末に動詞が置かれるタイプです。 この≪動詞文末型≫の語順は、言語の語順としては、一方の極に位置します。 日本語の古文を見ると、平安時代から1200年間も全く語順が変わっていないのが分かりますが、これは一方の極にある為に安定性が高く、変化が起こり難いからです。 ≪動詞文末型≫の対極にある語順として、≪動詞→目的語→主語≫、つまり、≪動詞文頭型≫というタイプが考えられますが、恐らくそのタイプでも安定度は高いはずです。

  これに対し、中国語の語順は、≪主語→動詞→目的語≫+≪修飾語→被修飾語≫。 英語は、修飾語が被修飾語の前に来る場合と後ろに来る場合があり、フランス語では、英語よりも、修飾語が被修飾語の後ろへ回る比率が高くなります。 中国語やヨーロッパ系言語は、動詞を中心にして修飾要素が前後に配分される、≪動詞中間型≫と言えます。 これらのタイプの言語は語順の変化が激しく、数百年で様変わりしてしまう事もあります。 ちなみに中国語では現在、前置詞が前後置詞に移行する傾向が見られます。 たとえば、「今日から」という言葉の場合、本来、前置詞≪従≫をつけて、「従今天」と言っていたのが、現在は「従今天起」と≪従~起≫の二文字で前後を挟む形になっています。 更に時間が経てば、≪従≫が脱落して、「今天起」だけになる可能性があり、そうなるともはや後置助詞タイプの言語になってしまい、日本語や韓国朝鮮語に近くなります。 ≪動詞中間型≫の言語は、かくのごとく性質が流動的なのです。


  言語の変化は何が原因で起こるかというと、音声の融合、脱落、音便化などいろいろありますが、文法方面で最も影響が大きいのは、単語の新陳代謝です。 社会の変化に伴って新しい単語が増え、使わなくなった単語が消えていくのは避けられない事ですが、新しい単語が出てくると、同音異義語や、紛らわしい単語が増えてきて、それまでの文法では単語が使い難くなって来ます。 伝わり易いように、他の表現で言い換えをするようになると、それがいつの間にか固定して、文法に変化を来すようになります。 単語が変わっていく限り、言語の変化は止まらないわけですな。

  今後の話ですが、「世界を制する言語は、英語になるか、中国語になるか」といった予測は、人類文明全体を視野に入れて考えると、あまり意味がありません。 英語は綴りと発音がズレ過ぎ、中国語は漢字の種類が多すぎと、どれも一長一短あります。 中国語をハングルで書けば、理論的には最も効率が良い言語が出来上がりますが、漢字は文化として魅力が高いので、なかなか効率優先で変えるというわけには行かないでしょう。

  そもそも、効率を優先してしまっていいのかどうかも、現在の言語学では断定しかねるデリケートな問題なのです。 人為的に手を入れて高効率言語を作るより、自然に任せておくのが一番という感じもします。 言語を変えても、人間の脳が変わるわけではありませんから、どのみち効率性の追求には限界があるのです。 譬えて言えば、パソコンのキーボードをブラインド・タッチで打てるようになったとしても、文章を考えるのが遅ければ、全く意味が無いというのに似ています

  言語は変化するので、一時的に一つの言語が世界を制したとしても、数百年後には同じ言語とは思えないほど変わってしまう可能性があります。 そのベースが英語だろうが中国語だろうが、文明の本質的意義とは無関係な事であり、大した問題ではありません。

  ただ、世界の人々の意思疎通を円滑にする為に、これから新しく登場する単語を世界中で統一するくらいの事なら、人為的に調整してもいいかも知れませんな。 新陳代謝が進めば、やがて世界共通の単語だけが残る事になり、自然に世界言語が出来るという寸法です。 EUがとっているような≪多言語政策≫は、各民族の独自性を保障するという点や、文化の多様性を維持するという点で有効ですが、何百年もそのままというのも不自然な感じがします。

  そうそう、エスペラントという人工言語がありますが、あれはあまり買い被らない方がいいです。 そんなに覚え易いわけでもないですし、効率性が高いというわけでもありません。 エスペラントを作ったのは、ザメンホフというユダヤ系ポーランド人ですが、120年前の世界情勢を背景にして、語彙のほとんどがヨーロッパ系言語から取られています。 当時のヨーロッパ人にとって、≪世界≫とは、欧米とその植民地の事だったんですな。 現在の感覚で見ると著しく偏っているので、≪世界語≫の称号を与えるのには明らかに無理があります。 そもそも、人工言語というのは、作ろうと思えば無数に作れるのであって、そんなにありがたがるような物ではないです。

2007/07/08

反核戦争主義者

  二週連続でこういう話題を書くのは億劫なんですが、読みたい人もいると思うので、書いておきます。 前閣僚Q氏の「原爆投下はしょうがない」発言の事です。

  この選挙前の大事な時期に辞任に追い込まれた事については、永世アンチ与党としては大歓迎で、何の文句もありません。 ただ、Q氏の発言内容そのものについては、全く別の感想を抱いています。 「原爆投下はしょうがない」は、至って妥当な見解だと思うのです。 むしろ閣僚を辞任に追い込むほどの猛烈な反発が出た事の方が異様で、日本人の性質の身勝手さに改めて震え上がりました。 ここまで読んで早くもカチンと来た方は、以下を読まない方がよいです。 血管がブチブチ切れて、何本あっても足りませんから。

  原爆投下がなぜしょうがないのかというと、それが日本が決められる事ではなかったからです。 アメリカの作戦の一つとして計画され実行されたのであって、アメリカがどんな作戦を取るかについて、日本側は一切批難できる立場にありませんでした。 なぜなら、戦争を始めたのは日本であって、アメリカではないからです。 戦争を仕掛けたのがどの国かは、正邪の決定的な分かれ目であり、仕掛けた側が、仕掛けられた側に対し、反撃の仕方についてあれこれ注文をつけるなど、馬鹿げているにも程があります。 どんな兵器で反撃されるか分からないのですから、反撃されるのが怖いなら、最初から戦争を仕掛けなければよかったのです。

  卑近な例にたとえれば、ある家に強盗殺人犯が押し入り、刃物を振るって家族の何人かを殺したとしましょう。 残った家族の一人が殺人犯に抵抗し、電気ポットに入っていた熱湯を浴びせかけて、大火傷を負わせ、取り押さえたとします。 さて、裁判の席で、火傷を負った強盗殺人犯が、「熱湯を浴びせるのは残虐行為だ」といって、その家族の者を批難したら、どう思いますか? 強盗殺人犯の言い分をもっともだと思いますか? 確かに、熱湯を浴びせるのは、それだけを見れば残虐行為ですが、強盗殺人への反撃として行なう場合、十二分に正当化されると思いますが、どうでしょう? 熱湯を浴びせた事は、≪しょうがなかった≫と思いませんか?

  これねえ、非常に単純な理屈でして、わざわざ譬え話を持ち出さなくても、論理が分かる人間ならすぐに気づく事なんですが、今までに何度も指摘しているように、日本人のほとんどは論理を理解できない為に、この理屈が分かりません。 また、気付いている人間も、あえて口にしません。 なぜなら、原爆投下について理解など示すと、今回のQ氏のように、吊るし上げられるからです。

  今回、Q氏の吊るし上げについて、新聞各社は、「軽率な言動で、国民の怒りをかった」などと書いていますが、正確に言うと、怒ったのは原爆の直接被害者やその家族・子孫、及び、反核運動に携わっている人達であって、国民全てではありません。 直接に関係していない者の中には、「確かにしょうがない事だ」と思った者も多かったはずですが、吊るし上げが怖くて口にしないのです。 日本社会特有の≪和の心≫という奴で、多勢に逆らってまで異議を唱える勇気がないのです。 この≪和の心≫という奴、日本人の民族性に巣食ったとんだ悪性腫瘍でして、社会が戦争に向かって行く時にも作動するので、誰も異議を唱えぬまま、滅亡までひた走っていきます。 今回の一件が起こった時、「原爆投下はしょうがない」を論理的に擁護する意見が出て来ないかと思って、新聞の論説や読者欄を注意深く読んでいたんですが、予想した通り、一つも出てきませんでした。

  ところで、Q氏の意見の内、「原爆投下によって、ソ連に北海道を占領されずに済んだ」という部分については、触れません。 この推測は、間違いとも間違いでないとも言えませんが、物議を醸したのは、「しょうがない」の部分なので、テーマを絞るために、措いておく事にします。


  原爆投下への批難については、様々な論拠が≪専ら日本人だけの手によって≫戦後60年の長きに渡って積み重ねられて来ました。 これらの論拠は、まず原爆投下を≪不要だった攻撃≫と決めてから、その根拠になるネタを探して来るというパターンで集められたもので、不自然な理屈を並べているものがほとんどです。

「日本の降伏は、ソ連が参戦した時点で決まっており、原爆投下は必要なかった」
「ドイツには落さず、日本に落としたのは、人種差別の顕れである」
「広島から長崎まで三日しか間を置かなかったのは、降伏を促すのが目的ではなく、核兵器の人体実験をしたかったからだ」

  もう、こんな話にゃ、うんざりしました。 どうせ言っても分からんでしょうが、言わなきゃ手前の馬鹿さ加減に気付かないでしょうから、一つ一つ潰して進ぜましょう。

  沖縄まで攻め取られて、もはや全く勝ち目がないと分かっているアメリカに対しても降伏しない日本が、ソ連が参戦したからといって、すぐさま降伏するなど考えられません。 戦争終盤の日本軍というのは、勝てる見込みがあって戦っていたのではなく、ただただ、「降伏したくない」というガキじみた糞意地だけで戦争を続けていたのであって、共産主義といえば生理的に大嫌いな日本軍が、進んでソ連に降伏するなどありえぬ話です。 日本軍は、国民に対し、≪一億玉砕≫の決意を触れ回っており、アメリカ軍が上陸してくれば、国民への体面上も≪本土決戦≫をせざるを得なかったのは疑いないところです。 そうなれば戦争が半年以上長引いたのは確実で、死者が数千万になっても、日本人全員になっても全然おかしくありませんでした。 日本を降伏に追い込んだのが、ソ連参戦ではなく、原爆だったのは、否定のしようが無い事実です。

  ドイツに落さなかったのは、時期的に落せなかったからです。 最初の核実験が成功したのは1945年の7月16日ですが、ドイツは5月7日には降伏していますから、落しようがないでしょうが。 この馬鹿が! こんな単純な日付調べも出来んのか! それとも、降伏した国に原爆落すのか? 狂ってるのか、お前は! また、原爆がナチス・ドイツに対する切り札として製造されたのは開発者の誰もが認めている事で、最初から日本向けではありませんでした。 人種差別などという批難は全く当たりません。 戦争中、始終、「鬼畜米英」などと喚いていた国の人間が、よく人種差別なんて言葉が使えるな。 恥を知れ!

  広島から長崎まで三日しか無かった? お前な、忠臣蔵じゃないんだよ。 「国元に報せが届くのに早籠を飛ばして三日」なんて時代じゃないんだよ。 広島に原爆が落ちて、その日の内に電話をかければ、惨状が東京に伝わったわけだ。 アメリカへ降伏の電文を打つのに、何分かかる? 本当に原子爆弾かどうか確認する時間を入れても三日もかかるのか? 広島近郊には、確認できる人間が一人もいなかったのか? 通常の爆撃でない事くらい、どんなド素人でも分かるだろうが。 三日しか無かっただと? どういう口がそういう事を言うんだ? 長崎への投下の一分前に中止命令が出ても、投下は止められたんだぞ。 三日間も何やってたんだ? 「二発目は無いはずだ」とでも、山勘張ってたのか?
  ちなみに、「広島に投下した後、降伏を促さないまま、長崎に投下した」と指摘している者もいますが、7月26日に発表されたポツダム宣言自体が降伏の勧告ですから、この指摘は完全な誤りです。 いつ降伏するか、決める立場にあったのは日本側です。


  ≪原爆投下不要説≫のほとんどが、この種の屁理屈を捏ね上げたもので、未だ嘗て説得力がある論というのを一つも読んだ事がありません。 とどめに言わせて貰えば、前述したように、戦争を仕掛けた側の国には、仕掛けられた国がどんな反撃をするかについて、あれこれ口出しをする資格も権利もありませんから、この種の屁理屈は、その存在自体が無意味です。 落とされたくなかったら、戦争を始めなければ良かったんだよ。 単純な事だ。 いくら論理が分からなくても、そのくらい分かるだろう?

  私が、≪原爆投下不要説≫を非常に胡散臭く感じるのは、それを口にする連中が、日本の戦争責任をごまかそうとしている節が見られるからです。 2000万人も外国人を殺戮しておきながら、戦後日本は、ぬけぬけと≪平和国家≫などと称して発展してきたわけですが、平和国家らしく、平和主義者というのも大勢出てきました。 そして彼らが平和主義の原点にしていたのが、≪被爆体験≫でした。 日本の平和運動は、≪反戦≫である前に≪反核≫だったわけですが、これは重大なポイントで、「どちらも同じ平和運動」で一緒くたにする事は出来ません。 日本の平和運動は、≪反核≫ではあるが、必ずしも、≪反戦≫ではなかったのです。

  それが証拠に、1993年に細川首相が戦争被害国への≪謝罪≫を口にするまで、日本の平和運動家は、自分の国を戦争の被害国だと捉えていました。 反核運動をやってきた青年が、「日本が加害国だった事を初めて知って、ショックを受けた」という話が新聞の読者欄に出ていたのを覚えています。 信じられぬ間抜けぶりですが、歴史なんか全然知らなくても、反核運動は出来るという事なのでしょう。 そのショックを受けた青年が、悩んだ末に到達した結論が、「通常兵器による戦争は過去の事だが、核兵器は未来の問題だから、これからは反核運動を重視すべきだ」というものだったから、もう、「はあぁっ?」てなもんで、二の句が継げません。 よくもまあ、こんな虫のいい解釈が出来るものです。 やはり野蛮人の血は争えないか。

  ちなみに、1980年代は日本の平和運動が最も盛んだった時代で、日常的にデモ行進などが行なわれていましたが、ある時、ソ連の新聞特派員だったか、大使館員だったか、とにかくソ連人で日本に来ていた人が、デモに参加している青年に訊いてみたんだそうです。

「日本に原爆を落とした国はどこですか?」

  その答えが凄い。

「ソ連に決まっているじゃないか!」

  これには、呆然とするより仕方ないですな。 こんな無知・無教養のパープー野郎が、平和運動の担い手だったのです。 私はその頃、かなり純粋な平和主義者でしたが、平和運動に関わるのは御免被っていました。 だって、この種の馬鹿と手を繋ぎあって、運動が出来ますか?

  なぜ、日本の平和運動が、≪反戦≫ではなく、≪反核≫に偏ったか、理由は簡単に推測できます。 ≪反戦≫となると、自分の国が加害国だから、萎縮してしまって運動の気勢が上がりませんが、≪反核≫に限定すれば、≪唯一の被爆国≫なので、大手を振って自己主張が出来ると踏んだのでしょう。 人間、易きに流れるというのは本当ですな。 しかし、この選択はあまりにも虫がいいです。 日本に塗炭の苦しみを味わわされた国の人々が、こんなごまかしを受け入れるはずがありません。 原爆被害国である以前に戦争加害国である事を全く自覚せず、穢れ無き平和の使徒のような口ぶりで核保有国を扱き下ろす日本人の無神経さに対し、呆れ・白けを通り越して、戦慄を覚える外国人も少なくないでしょう。

  1990年代の話ですが、反核運動を世界に広めようとして、原爆被害の写真展を各国で催した人がいたそうです。 ところが、インドで写真展を開いた所、現地の人の反応が冷めきっている。 感想をきいてみたところ、「この程度の悲惨さなら、ここでは日常的に存在する」と言われてしまったのだそうです。 他のアジア諸国に行った反核運動家達も、現地人の共感を得るのに失敗し、「日本は加害国だという事を痛感した」そうです。 当たり前だよ。 行く前に気づけよ。 自分の国が何をしたかに触れないで、「日本の被害に共感してくれ」と言ったって、誰が聞くね? 塩を撒かれるのがオチだぜ。 勘ぐり過ぎかもしれませんが、世界的な反核運動がなかなか実を結ばないのは、日本人が中心になろうとして出しゃばっているからじゃないでしょうか? たとえて言えば、殺人犯やその家族が≪死刑反対≫を先頭に立って訴えているようなもので、どんなに真剣に運動しても、被害者側から見れば身勝手な主張に過ぎず、説得力は限り無くゼロに近いです。

  ほとんど実績を上げられないにも拘らず、未だに日本の反核運動家というのは存在し、今回のような事件が起こると、やしやし登場してくるわけですが、よく何の修正も加えず、昔ながらの主張を繰り返せるなと呆れます。 この連中の思考パターンを観察すると、どうも、「日本は加害国だが、原爆を落とされるほど悪い事はしていない」と考えているように見受けられます。 そんな理屈は国から一歩出れば全く通用しないのですが、自分達が間違っているとは、露ほども思わないらしいのです。 「反核は平和運動だ。 平和運動は正しい。 だから、反核を唱えている自分達は正しい」という単純な三段論法で自己完結しているわけです。 その反核が、加害責任を逃れる為の隠れ蓑になっている事を知らないか、知っていても認めると自分達に都合が悪いので、知らぬふりをしているのです。

  空恐ろしくも興味深い事ですが、この連中の展開する屁理屈を聞いていると、何かに似ているのが分かります。 そう、≪ネット○翼≫と呼ばれるキチガイどもが書き散らす屁理屈にそっくりなのです。 「戦争を始めたのはアメリカの方だ」、「日本は悪い事などしていない」といったグチャグチャ手前味噌な歴史解釈ですが、何となく似てるでしょう。 これねえ、偶然じゃないと思うんですよ。 ネット○翼の源流を辿ると、意外や意外、反核運動家に行き着くのです。 一方は実質的な戦争主義者、もう一方は自称・平和主義者ですが、「屁理屈を捏ねれば、加害責任から逃れられる」と考えている点で、両者は共通しています。 元は同根だったものが、分かれたんでしょうな。

  自分を正しい人間だと思い、「戦争よりは平和の方が正しい」と考えて、反核平和運動をやっていた人間が、≪細川首相の謝罪≫で、実は日本が加害国だった事を知って、自分が善なのか悪なのか分からなくなり、悩んだ末に、「日本は加害国だが、原爆を落とされるほど悪い事はしていない」という虫のいい抜け道を見つけ、更に後ろめたさを払拭するために、日本の無罪性を立証しようと屁理屈を捏ねている内に、平和主義など却って邪魔になり、「戦争は悪い事ではない」という正反対の主張をし始めるに至ったのだと思われます。 もっとも、現在のネット○翼は、直接に平和主義から戦争主義に転向した世代ではなく、その世代に影響を受けた弟子達だと思いますが。

  今回の騒動では、反核運動家の意見の中に、ネット○翼と全く同じ事を口にしている物が多く見られました。 正直な感想、これには少なからず驚きました。 アメリカ憎しで凝り固まり、自分達が平和を祈るどころか、戦争主義者と同じ言葉を使っている事に気付いていないのです。 戦争主義者と同じ意見という事は、すなわち戦時中の軍部と同じ考えという事ですが、ここまで来ると、もはや言い分を聞いてやる必要などありません。 ≪反核戦争主義者≫という分類を設け、危険人物として国際社会全体で警戒すべきでしょう。 こういう連中の意見を正論として扱っているようでは、日本がまた同じ道を進むのは避けられません。

  だって、あんたらの言い分に沿えば、核兵器さえ使わなければ、戦争してもいいんだろう? そんなに、「原爆は許せない」というなら、もう一度やり直そうか? 原爆投下の前日、つまり、1945年8月5日の情勢に戻して、アメリカ軍にもう一度攻めて貰おうか? 原爆さえ落とされなければいいんだよな。 本土上陸してもらおうじゃないか。 当然、兵器産業がうじゃうじゃある軍需都市は優先的な制圧目標だから、広島も長崎も含まれる。 ≪無辜の市民≫だなんて肩書きが通用すると思うなよ。 もちろん、その内私も死ぬ事になるが、しょうがない、同じ日本人だから、≪和の心≫を発揮して、つきあおうじゃないか。 さあ、アメリカに頼もうぜ。 銃で撃ち殺されたり、軍刀で斬られたりするのは、原爆と違って、≪残虐行為じゃない≫から、一向に構わないんだよな。

  やれやれ、こんな事を書いても、自分を悪だと認識していない連中に皮肉は通用しないか。 それにしても、日本人は、「許さない」が好きだねえ。 それでいて、自分達の罪は許されるのが当然だと思っているわけだ。 とことん虫がいいよ。

2007/07/01

怒らせた

  米下院外交委員会で慰安婦決議が可決されました。 賛成36対反対2というから、圧倒的な支持を得たといっていいでしょう。 最初6人しかいなかった賛同者がみるみる増えて行った様子は、正に≪燎原に火が広がる如く≫といった形容が当て嵌まると思います。

  この決議案自体は、至って正当な内容で、提出されたのも大差で可決されたのも、大変良い事だと思います。 やはり、悪の逃げ得は許してはいけませんから。 今回のは慰安婦に限った内容ですが、それ以外それ以前に、日本人は外国人を2000万人も殺しているのだから、その報いは受けなければなりません。 今後この種の決議案がうじゃうじゃ出て来て、日本政府は血も凍る思いをする事になるでしょう。 まだまだ、日本の戦後処理はこれから始まるのです。 もっとも私は、戦後処理が進む前に、日本は再び戦争を始めて、猛反撃にあい、今度こそ滅亡させられると思っています。 嫌な予測だけど、日々その方向へ向かっているのが分かるので、もはや確信に近いです。

  思えば、私が20歳頃、日本の未来について、二つの可能性を考えました。 一つは、過去の侵略を真面目に反省し、何度でも繰り返し謝罪し、国家間はもとより個人に対する賠償も行なう事で、周辺国との関係を悪化させないように維持しつつ、細く長く生き延びるというコース。 もう一つは、今まで通り、外国人を人間扱いせず、過去の罪など「やってない」と白ばっくれたり、「やったとしても悪い事ではなかった」と開き直ったりして、一切反省せず、再び戦争を始めて滅亡するというコース。 だけど、今考えると、前者の道なんか進むわけが無かったんですな。 だって、野蛮人だもの。 野蛮人が、他部族殺しを反省するわけがありませんや。

  話を戻しますが、官房長官の、「よその国の議会の話ですから」発言には、開いた口が塞がりませんでした。 おいおい、よその国って言うけど、アメリカだぞ。 分かっとるんか? 日本は外交上、世界中にアメリカしか味方がいないのに、その国を敵に回そうとしているのを承知した上での発言なんだろうね? しかも、会見の間中、絶やさなかった薄ら笑い。 どこの国のどんな人間でも、自分達の真面目な提案を、薄ら笑いで無視されたら、怒らぬ者はおりますまい。 一体どういう狙いがあって薄ら笑いをしているのか、記者が質問してやればよかったのに。 ああ、無理か。 記者も野蛮人だもんな。 血は争えんのよ。

  そういえば、ある新聞のひとコマ漫画で、凄い絵を描いている漫画家がいましたよ。 水戸黄門になぞらえたアメリカ人が、日本の政治家に向かって印籠を掲げ、「控えおろう!」とやっている姿なんですが、その印籠に、裸同然の女性の絵が描かれているのです。 慰安婦を描いたつもりなんでしょう。 この漫画家が慰安婦決議を気に食わないと感じているのは明らかで、それ自体が恐ろしいですが、それ以上に、こういう絵を平気で描いて人に見せる感覚には震え上がります。 なるほど、無神経な野蛮人でなければ、これは描けんわ。
  また、その漫画を載せている新聞も新聞。 奇妙な事に、その新聞の社説では、決議を支持しているような文が書かれていましたが、一方でこんな破廉恥極まりない漫画を掲載しておいて、もう一方で決議支持を訴えられても、どっちが本心なのか分かりません。 新聞には編集長がいて、一定の編集方針があると思うんですが、チェックしてないのかね? 野蛮人の新聞だから、矛盾しててもいいのかな?

  ワシントン・ポストに出された日本の国会議員達の反論広告ですが、その内容の無神経さには呆れを通り越して笑ってしまう間抜けぶりが見て取れます。 以前、≪交渉能力≫という文で日本人の交渉能力欠如について書きましたが、今回の例も典型的です。 相手を説得しようとする時に、何が必要で何がタブーかが全く分かっていないのです。 「私の話を聞いてください」とお願いしている立場なのに、当の相手を誹謗するような事を口にしていたのでは、文字通りお話になりますまい。 決議案の文面を見ると、この反論広告に対するアメリカの議員達の怒りがありありと見て取れて、読んでいて背筋が寒くなるほどです。
  ここまで怒らせてしまったのに、広告を出した日本の国会議員達は、まだ「事実誤認に基づいた不当な決議だ」などとコメントしていますが、そのコメントがまた相手を怒らせるのだという事にも気付いていない様子。 救い難し。 だけど、野蛮人だからしょうがないといえばしょうがないです。 野蛮人は論理が分かりませんから、相手を言葉で説得するなんて高度が芸当が出来るわけがないんです。 相手を殴りつけて言う事をきかせるか、殴られて相手の言う事をきくか、そのどちらかしか出来ないのです。

  ≪事実誤認≫云々について少々触れますと、日本人が罪をごまかす目的で集めた証拠の類は、一切信用できないと考えた方がいいです。 たとえば、「慰安婦の徴収に政府が関与した証拠は無い」といった表現ですが、こういう言い方をする連中が、≪関与した証拠≫とやらを積極的に探し回るとは到底思えないので、その検証作業そのものが信用できません。 アメリカ人は訴訟社会に生きているので、事の裁定をする際に持ち出される証拠・反証の類について、何が信用できて何が信用できないか、日本人よりも遥かに敏感に見分けますが、今回の日本の国会議員の反論は、一ヶ所たりとも信用できないと判定したわけですな。

  ちなみに、日本のネット上で、三無能の民族主義者どもが天下でも取ったように書き散らしている、「日本は悪い事などしていない」といった類の論証ですが、一歩国外に出ると、小学生の屁理屈以下の扱いしか受けませんから、ご留意あれ。 大体、一億歩譲って、政府が関与していなかったと仮定したとしても、慰安婦が軍人・兵隊の慰み物にされていたのは事実なんだから、日本政府の罪が消えるわけでも、減じるわけでも無かろうに。 つまり、この主張自体が、小学生レベルの屁理屈なんですよ。 それを屁理屈だと国内で指摘できない日本の良識的知識人達のレベルが、また救いようもなく低い。 だからねえ、野蛮人が、論理で文明人と勝負しようなんて、250万年くらい早いんですよ。 言えば言うほど、罪が増えるだけだね。

  それはさておき、アメリカ人というのは、お人好しですなあ。 自分の国の兵隊が10万人も日本軍に殺されているというのに、自国の被害には一切触れていないんですから。 アメリカ人は気付いていないようですが、日本はアメリカに戦争を仕掛けた事について、今まで、一度も謝罪していません。 賠償金も1セントも払っていません。 個人賠償に至っては、当然皆無。 それどころか、アメリカに戦後復興資金を出させているんですな。 「向こうが勝手に出したんだ」とでも言うか? 怒るでしょうね、アメリカ人。 いやはや、アメリカ人が日本人の本性を知って、怖気を奮い、心底激昂するのはこれからですよ。