2021/02/28

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑩

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録。 今回は、10回目です。 近況を書きますと、1月下旬から、2月初めにかけて、静岡県に、「感染拡大緊急警報」が出て、「不要不急の外出自粛」が含まれていたせいで、その間は、プチ・ツーを休止し、バッテリーを死なさない為に、近場をぐるっと回るだけにしていました。 それ以降は、プチ・ツーを再開しています。





【愛鷹三神社①】

  2020年6月16日に、バイクを出し、愛鷹山裾野の青野という地域へ、神社巡りに行って来ました。 いい天気でした。

≪写真1≫
  新東名の北側、サービス・エリアの「ネオパーサ駿河湾沼津」より、ちょっと東側にある、「穴塚稲荷神社」。 うちにある地図が、新東名建設前の物で、この神社の位置が分かり難く、前回、「弘法大師堂」に来た時には、見つけられませんでした。 今回は、最初から、新東名の北側を探したので、割とすんなり、到着しました。

  小さい社です。 鳥居以外、神社アイテムは、なし。 社標には、神社名の横に、「青野下岡町内」とありました。 周囲は、一面、茶畑ですが、住所名というのは、どんな所にもあるわけだ。

  「穴塚」は、たぶん、「あなづか」と読むのでしょうが、いかにも、狐の巣穴でもありそうで、稲荷っぽい名前です。

≪写真2左≫
  社殿のぐるりに、紫陽花が植えられていました。 満開。 小さな社に、紫陽花は、よく似合います。

≪写真2右≫
  神社前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 誰もいないので、ハンドル・ロックもかけませんでした。 バイクを撮影する時には、ハンドルは、真っ直ぐにしておいた方が、カッコがつきます。 つまらない事のようですが、影も全部入るようにすると、より、味わいが出ます。

≪写真3左≫
  若干、薄紫の紫陽花。 こういう花は、次第に色が濃くなって行きます。 

≪写真3右≫
  穴塚稲荷から、南東方向を見下ろした景色。 愛鷹山は、裾野の傾斜が緩いので、この程度の高さでは、眺めは、あまり、良くありません。 街も海も、その向こうの山も、距離が遠過ぎて、霞んでしまうのです。

  手前は、刈り取られた、茶畑。 葉っぱがなくなって、枝だけになっています。 毎年、こんなに刈ってしまうんでしょうか。 ここから、復活するのだとしたら、凄い生命力です。

≪写真4≫
  新東名の跨道橋の上から、東方向を撮影。 まだまだ、新しいです。 愛鷹山を走っていると、新東名と東名を勘違いする事が良くあります。 交差する道が、不規則に通っているからですが、そういう時には、高速道路の古さ新しさを見れば、どの辺りにいるか判断できます。




【愛鷹三神社②】

≪写真1≫
  跨道橋で、新東名の南に渡り、少し下った所の、東側にある、「秋葉神社」。 社標には、「秋葉山大權現」とあります。

≪写真2左≫
  鳥居、燈篭あり。 このサイズでは、狛犬や手水舎は、ない所が多いですな。 手水舎は、水道や排水溝を設けなければならないから、場所を選びますが、狛犬は、お金次第で、割と気軽に設置できると思うのですがね。

≪写真2右≫
  神社から、本道方向を撮った写真。 本道からは、このくらいの距離を、東に入ります。 急坂で、しかも、幅が狭いです。 バイクでも、転回ができず、出る時には、跨って、ブレーキをかけながら、そろそろとバックしました。 車で来たら、本道に停めるのが、無難ですな。 そもそも、この神社も、入る道も、個人の所有なのかもしれません。

≪写真3左≫
  神社前から、南を見た景色。 茶畑の緑が綺麗です。 高い柱の上にあるのは、霜除け用の扇風機。

≪写真3右≫
  少し、南に下った所にある、「青野山神社」。 同じように、本道の東側に入って行きます。 人がいるような雰囲気だったので、バイクは本道の近くに停めました。

≪写真4≫
  社殿。 大体、三社とも、同じ大きさです。 ここが一番、境内が広いですが、燈篭はおろか、鳥居もありません。 昭和63年(1988年)建立の社標は、苗字の異なる四名で寄贈したもの。 「青野」という地名が付いている点から考えても、個人で造った神社というわけではなさそうです。

≪写真5≫
  帰り道、東名のガードを潜ったのですが、暗い所に入ったら、メーターの照明がはっきり見えたので、停車して、写真を撮っておきました。

  以前乗っていた、セローと比較すると、ずっと、明るいです。 おそらく、メーター内の電球は、前の持ち主によって、全て、LED球に交換されているものと思われます。 走行中は、ヘッド・ライトと共に、常時点灯しているわけですが、明るい所だと、曇り空であっても、点いている事が、全く分かりません。

  回転計は、1600くらいを指していますが、ニュートラルでアイドリングしている時は、その程度です。 走行中は、4000から、5000の間くらいを維持するようにしています。 目盛りは、12000までありますが、6000以上は、回した事がありません。

  速度の方は、出しても、65キロくらいまで。 エンジンが唸らないように配慮すると、5000回転で、55キロくらいで、バイパスの走行には、遅すぎ。 だから、バイパス道路には、ほとんど、入りません。 目盛りは、160キロまでありますが、よほど、チューンしなければ、とても、無理なスピードです。 出せたとしても、すぐに、エンジンが壊れてしまうのではないでしょうか。




【伊豆長岡・小坂清水池】

  2020年6月24日、バイクを出し、伊豆の国市・長岡の溜め池、2ヵ所を見に行って来ました。 地図で見つけた所。

≪写真1≫
  まずは、「小坂清水池」。 詳しい道順は書きませんが、温泉街より南の方の道路沿いにありました。 小規模ですが、親水公園として、整備されていました。 池に張り出した露台の上には、あずまやも設けられていました。 解説板によると、江戸時代中期からあった溜め池を、2004年から2009年にかけて、整備したとの事。

≪写真2≫
  水面の9割くらいを、水草が覆っていました。 たぶん、魚や蛙、水棲昆虫もいると思われます。

≪写真3左≫
  歩道に置かれた、樽プランターで咲いていた花。 カンナに似ていますが、葉っぱが違うようです。

≪写真3右≫
  池を半周している、遊歩道。 沿道に紫陽花が植えられていて、花が咲いていました。 この写真では、非常に分り難いですけど。

≪写真4≫
  奥の方に、水草に覆われていない水面が、少しだけありました。 趣き、あり。 しかし、畔に近づけるような造りにはなっていませんでした。




【伊豆長岡・防火用水】

  小坂清水池から、少し西へ行った所に、もう一つ、溜め池がありました。 こちらは、道路より高い所にあるので、ある事が分かっていないと、通り過ぎてしまうと思います。 道路沿いの、壁のような所に、「← 防火用水」と、ペンキで書いてあって、そこの坂を上がったら、着きました。 正式な名前があるのでしょうが、解説板がないので、分かりません。

≪写真1≫
  大きさは、小坂清水池より、大きいのではないかと思います。 立ち位置が近過ぎて、全体を写真に収められませんでした。 こちらは、親水公園にはなっておらず、いかにも、溜め池という感じの、効率第一な造り。 ごく最近、整備されたようで、何もかも、真新しいです。

≪写真2≫
  水門。 水が勢い良く流れる様は、気持ちがいいですが、もし、人や動物が落ちたら、一気に吸い込まれてしまって、怖い事になりそうです。

≪写真3≫
  溜め池の土手から、温泉街の方を見た景色。 山は、源氏山でしょうか。 軽トラが停まっていると、のどかな雰囲気が、増幅されますな。

≪写真4≫
  土手道に停めた、EN125-2A・鋭爽。 この後、函南に向かい、最中を買って帰るのですが、その途中、ギア・インジケーターの「1」が点かなくなってしまいました。 その後、しばらく、その事で、頭を痛める事になります。 物というのは、結局、少しずつ、壊れて行くものなのだな。

  ヤフオクで、中古で買ってから、かれこれ、10ヵ月になりますが、買う前には想像していなかったほど、よく出かけています。 費用対効果としては、すでに、元を取ったと言ってもいいくらいです。 バイクは、車でも自転車でも行けない所へ行けるのです。




【愛鷹広域公園】

  2020年7月2日、晴れたので、バイクを出し、「愛鷹広域公園」へ行って来ました。 といっても、中の方には入りませんでしたが。

≪写真1≫
  駐車場の南端から、南の方を見た景色。 この場所、サッカーのゴールがありましたが、サッカー専用というわけではなく、名前は、「スポーツ広場」。 他に、野球場や、多目的協議場、テニス・コートなどがあります。 いずれも、有料。

≪写真2左≫
  駐車場に停めた、EN125-2A・鋭爽。 近場も近場なので、今回の負担は少なかったと思います。 ここへ来る前に、給油しておきました。 緊急事態宣言後、初めての給油でした。 一回に、千円分だけ入れます。 その時の値段で、8リットル弱。 私が買って以来、満タンにした事は、一度もありません。

≪写真2右≫
  駐車場近くの、道路の歩道脇で咲いていた、金糸梅(キンシバイ)。 オトギリソウ科。 結構、大きな花で、目立ちます。 たくさん、咲いていました。

≪写真3左≫
  道路を少し下ると、「桜ひろば」という所を見つけました。 地図によると、この奥が、以前行った、拓南神社下の自然公園、「もみじ平」に繋がっている様子。

≪写真3右≫
  しかし、夏場の事とて、草が生い茂って、森の中に入っていけませんでした。 見難いですが、左下に灰色っぽく見えるのが、コンクリートで造られた水路です。 この水路が、恐らく、もみじ平の堰堤に繋がるのだと思います。 この付近、まだまだ、探索の余地がありそうです。

≪写真4≫
  スポーツ広場まで、戻って来ました。 植木で書かれている文字は、「かんげい あしたかこうえん」。 こういう文字は、木が一部、枯れてしまったりして、維持が大変なんだわ。




【シュンの寺 / 口野 / 黒柳①】

  2020年7月12日、梅雨の晴れ間に、バイクで出かけました。 今回は、プチ・ツーリングと言うより、所用です。

≪写真1≫
  シュンの供養塔がある寺。 牛臥山の麓にあります。 普段は、車か自転車でして、バイクで来たのは、初めてです。 2015年7月に、シュンがこの寺の焼却炉で骨になってから、毎月、月命日にお参りに来ていたのですが、もう、5年経ったので、この時を最後にし、今後は、年に一度、祥月命日に来る事にしました。

  ちなみに、供養塔の骨壺収容数には限りがあるので、シュンの骨は、とっくに、どこかへ合葬されて、ここにはありません。 母が嫌がりさえしなければ、家の庭に埋めてやったんですがねえ。

≪写真2≫
  国道414号を、海岸線に沿って南下し、口野で、三津方面に右折。 すぐの所で、歩道にバイクを停めました。 ここだけ、少し広くなっていて、ベンチと庇、花壇などがあります。

≪写真3≫
  放水路の出口方向を見た景色。 414号の橋があるから、放水路の出口は見えません。 梅雨時なので、水が濁っています。

≪写真4≫
  EN125-2A・鋭爽の、ハンドル、メーター付近。 乗っている間は、この絵柄を見ているわけです。 オン・ロード・バイクは、やはり、この、2連メーターが、魅力ですな。 それも、針式に限る。 昨今流行のデジタル・メーターなんて、ちっとも、いいと思いません。

  ミラーは、純正品よりも、高さが低く、少し見づらいです。 しかし、わざわざ、純正品を手に入れて、換えたいとも思いません。




【シュンの寺 / 口野 / 黒柳②】

≪写真1≫
  口野から、西の方を見た景色。 山は、一番手前を除いて、鷲頭山以北の、沼津アルプスです。 山と海の境に続いているのは、江の浦の集落。

  一番手前の山の左側に、「千畳敷」という岩場があるのですが、満ち潮で、水没しています。 実際には、名前ほど広くないです。 以前、1997年頃に行った事がありますが、今は、基本的に、立ち入り禁止になっている模様。

≪写真2≫
  三津(みと)まで海岸線を走り、そこから、山を越えて、伊豆長岡へ向かいました。 温泉饅頭の老舗、「黒柳」に寄る為です。 15個入り、千円のを一箱買いました。 結構、混んでいました。 主な客層は、車で来て、伊豆長岡温泉に宿泊した人達で、帰りに、ここへ寄って行くのです。

  駐車場は、道路を挟んだ反対側、この写真で言えば、手前にあって、10台くらいは停められます。 客の回転が速いから、満杯で停める所がないなんて事は、まず、ありません。

≪写真3≫
  バイクは、車の邪魔にならないように、奥の方に停めました。 店に入る時には、ヘルメットを脱ぎ、帽子を被ります。 買った温泉饅頭の箱は、荷台に括り付けて帰りました。 こういう時に、荷台があると便利です。

≪写真4≫
  駐車場から見えた、住宅の庭の、龍舌蘭(リュウゼツラン)。 どこで見ても、存在感が強いです。




  今回は、ここまで。 組み写真、7枚で済みました。 8枚は、アップの手間がきついなあ。 ちなみに、8枚までが限界で、それ以上になる事はありません。 一ヵ月の間に出かけるのが、最多で4回で、一回出かけた分につき、組み写真の最多が、2枚なので、合計8枚で収まるという計算。 溜まっていた分を出し切ったら、その後、このシリーズは、月に一回になる予定です。

2021/02/21

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑨

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録。 今回は、9回目です。 前回は、2020年の緊急事態宣言の前までだったので、だいぶ、間が開きましたが、せっかく、組み写真を作ってあるので、もったいないと思い、結局、全部出す事にしました。 組み写真の枚数に関係なく、出かけた回数にして、4回分を、一週に出します。





【西浦・重須・弁天島①】

  緊急事態宣言の解除後、バイクでの、プチ・ツーリングを再開しました。 2020年5月20日、最初に行ったのが、沼津市内の、西浦・重須・長井崎半島にある、弁天島という所。 島と言っても、地続きになってます。 ひたすら、海岸線沿いの道路を走って行ったら、着きました。

≪写真1≫
  長井崎半島と弁天島を結んでいる、短い地峡から、内浦湾の一部を見た景色。 のどかな風景です。

≪写真2≫
  弁天島には、神社があります。 島が目当てで来たのではなく、この神社を見に来た次第。 鮮やかな、朱色の鳥居です。

≪写真3左≫
  石段。 古くも新しくもない感じ。 体力がある人なら、何でもない段数ですが、そうでない人は、結構、参ると思います。 神社だけに・・・。 地峡部分に、人家があり、その脇から坂道がありますから、そちらで登った方が、いいかも知れません。

≪写真3右≫
  手書き注意板。

「アニメグッズ類の放棄 および、落書きは禁止致します。 見かけた方は、案内所まで」

  と、あります。 テレビ・アニメ、≪ラブライブ!サンシャイン!!≫のモデルになった学校が、この近くにあるので、聖地巡礼者が来るのでしょう。 地元からすると、迷惑な話です。

≪写真4≫
  社殿。 人間が入れる大きさです。 本殿が、拝殿内に、収まっている形式。 賽銭箱あり。 燈篭がありますが、頭がないですな。 狛犬、手水舎は、なし。 名前が一切書いてありませんが、弁天島と言うのですから、やはり、弁財天を祀ってあるのでしょう。 弁財天と言えば、芸事の神様ですが、だから、アイドル・アニメのモデル地になったんですかね?  関係ないか。




【西浦・重須・弁天島②】

≪写真1≫
  社殿の軒下に、なぜか、太鼓が吊るしてありました。 他の神社では、見た事がありませんなあ。 昭和五十年と書いてあります。 1975年。 えっ! するってーと、45年間も、ここに吊る下がっているんですか? それは、もちがいいですなあ。

≪写真2≫
  その後、坂道の方で、バイクに戻り、長井崎半島をぐるっと回って、幹線道路へ。 更に、西へ向かい、古宇の先まで行きました。 風景の良い所で、バイクを停めて、北の方角を撮影したのが、これ。 愛鷹山の向こうに、富士山があるのですが、雲で見えません。

≪写真3≫
  海。 このあたり、津波対策の防波堤がないので、海面が、すぐ近くに見えます。 伊豆半島は、全て、火山噴出物で出来ていまして、岩も、砂も、みんな、真っ黒です。

≪写真4左≫
  34日ぶりに、プチ・ツーリングに駆り出された、EN125-2A・鋭爽。 バッテリーが死ななくて良かった。 この角度は、いいですな。 改めて見ると、やっぱり、ネイキッド・バイクは、レトロな感じがしますねえ。

  レトロさを盛り上げているのが、メッキ楕円ミラーですが、これは、アマゾンで、一番安いのを買ってつけたもの。 標準では、黒の楕円ミラーです。 全くの偶然ながら、EN125-2Aの原型になった、EN125-2では、このメッキ楕円ミラーと全く同じ物、もしくは、非常に良く似た物が、標準になっており、満更、無縁でもなかった様子。 EN125-2は、ビキニ・カウルと、エンジン・アンダー・カウルが付き、メーターも違います。 ギアが6速というのが、一番大きな違い。 日本には、ごく少数しか入らなかったとの事。

≪写真4右≫
  この角度も、いいです。 荷台が、シャープなリア・ビューを作るのに寄与しているのが、良く分かります。 明らかに、荷台込みで、デザインされているのです。 ピンク・ナンバーですが、最初は、抵抗があったものの、今では、見慣れてしまい、何とも思わなくなりました。




【三島市多呂・神明神社①】

  2020年5月27日、バイクで、三島市多呂にある、神明神社へ行って来ました。 地図で見つけたところ。 大場駅から、北へ向かい、途中で、東の方の山へ登っていくと、迷いもせずに、あっさり、着きました。

≪写真1≫
  神社の石段前まで行き、登って来た方角を振り返った景色。 遠くに見える山は、たぶん、沼津アルプスの中央部、向かって右から、鷲頭山と大平山ではないかと思います。 2本の柱が、左へ傾いていますが、写真が傾いているのではなく、柱そのものが傾いているのです。

≪写真2左≫
  バイクを停める場所がなかったので、神社の石段横の住宅前に停めました。 この辺り、数軒しか家がなく、邪魔にはならないと踏んで。 ヘルメットも、バイクに残して行きました。 石段を登り始めたら、この住宅は、空き家である事が分かり、安心しました。

≪写真2右≫
  神社の石段。 ステンレスの手すりが付いた、新しい物。 途中、踊り場があり、そこそこの段数があります。 心臓が悪い方は、左手へ向かうと、坂で上がる道もあるので、そちらを選んだ方が無難。 大変、分かり難いですか、この写真の上の方に、石造りの鳥居があります。 

≪写真3≫
  社殿。 拝殿内に、正殿が入っている形式。 鉄筋コンクリートです。 平成12年(2000年)の定礎がありました。 地方によっては、「鉄コンの社殿なんか、ありえない」と思う人もいるでしょうが、駿東地域では、珍しくありません。

≪写真4左≫
  石段の脇で咲いていた、薊(アザミ)。 珍しく、マクロで、ピントが合いました。 あざみのごとく、とげあれば・・・。

≪写真4右≫
  境内を覆う高木。 山の中なので、高木だらけ。 

≪写真5左≫
  縁起解説板。 ステンレスで、ピッカピカ。 文章が、古文書風で、読み難いですが、内容は、分かり易いです。 元は、別の場所にあったのを、水害に遭って、寛文9年(1669年)、ここへ移したとあります。 神社が、山の中腹に建てられる理由は、みな、そんなところなのでしょう。

≪写真5右≫
  社殿の側面に掛けてあった札。 「警察官立寄所」は、神社では珍しいです。 「警察官指定巡回ヶ所」は、たぶん、「警察官指定巡回箇所」なのでしょう。 何か、間違えておるな。




【三島市多呂・神明神社②】

≪写真1左≫
  ! ? 左の文字は、なんと読む? 「盤」の異体字で、「漱盤(すすぎばん)」でしょうか? 蛇口が付いておらず、漱げませんけど。 これだけ、あってもなあ。

≪写真1右≫
  社殿の腰周りに、幾つか付いていた、通気口。 鉄コンだから、合っているような、神社らしくないような、不思議な感じ。

≪写真2左≫
  境内。 石段から、社殿までの距離が短い代わりに、北の方へ向けて、敷地が広がっています。 そのまま北へ向かうと、坂道に出て、ぐるっと回って、石段の前に戻れます。

≪写真2右≫
  山の高い方には、竹藪がありました。 どこでも、竹は繁茂しておるのう。 それ以上、行けないようなので、引き返しました。

≪写真3左≫
  神社の北側にある、ゴルフ練習場。 神社に向かって、スポコンスポコン打っているわけで、罰当たりと言えば罰当たりですが、距離があるから、問題ないのでしょう。 罰が当たっていれば、とっくに潰れているわけだし。

≪写真3右≫
  坂道を下って、石段の前に戻りました。 公園、もしくは、運動場として造られたと思われる場所。 周囲にはネットが張り巡らされ、ベンチが置いてあります。 しかし、草ボウボウで、使われなくなって久しい観あり。

≪写真4≫
  バイクに乗り、山を下って、大場川の土手の上を通る道路へ出ました。 ここも、公道で、車も通ります。 大場川(だいばがわ)は、水路みたいな幅ですが、深さは、結構あります。 箱根から流れて来て、三島市を通り、狩野川に合流します。




【函南町・馬坂神社①】

  2020年6月4日に、バイクで、函南町にある、馬坂神社に行って来ました。 函南駅から、西へ向かい、信号のある交差点で北へ曲がると、ガードを潜って、山の中へ向かう道に出ます。 それを登って行き、分岐では、「木立キャンプ場」の方を選べば、馬坂という集落へ行けます。

≪写真1左≫
  途中、橋の袂にあった石碑。 「堅牢地神」、「国家永寧」とあります。 何の為に建てたのか、今一つよく分からぬ。

≪写真1右≫
  その裏側にあった石碑。 「合併橋」とあり、何か文章が彫ってありますが、読み難くなってしまっていて、分かりません。

≪写真2≫
  これが、合併橋という事になります。 頑丈そうな橋ですな。 流れている川は、来光川。 箱根から流れて来て、平地で、柿沢川に合流し、その先で、狩野川に流れ込みます。

≪写真3≫
  これが、馬坂神社。 正確には、馬坂・山神社。 工事看板がなければ、いい雰囲気の場所だと思います。

≪写真4左≫
  社殿。 遠くから撮っているから、小さく見えますが、人間が入れる、普通サイズの社です。 拝殿に本殿が入り込んでいる形式。 扉には、ガラスが入っています。

≪写真4右≫
  社殿の手前にあった、何かの構築物の痕跡。 たぶん、手水舎があったのではないかと思います。

≪写真5左≫
  解説板。 社殿は、昭和27年(1952年)に建てられたとあります。 この解説板は、平成31年に立てられたとの事。 2019年ですな。 

≪写真5右≫
  社殿の横に、木箱がありました。 蜂が飛んでいたので、たぶん、蜜蜂の巣箱なのでしょう。




【函南町・馬坂神社②】

≪写真1≫
  馬坂神社から、更に、山の奥へ向かいました。 杉・檜林に囲まれた、こんな道が続きます。

≪写真2≫
  木立キャンプ場まで行こうかと思っていたのですが、工事をやっていて、舗装路が途切れていたので、そこで、引き返しました。 近くに架かっていた橋の上から取った写真。 来光川が、だいぶ、細くなっています。

≪写真3左≫
  少し、下って来た所。 まだ、馬坂までは来ていません。 来光川と、その向こうの山。

≪写真3右≫
  路傍で咲いていた花。 桜草に似た花ですが、葉っぱが違うようです。

≪写真4≫
  路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 この後、工事現場から、コンクリート・ミキサー車が下りて来まして、慌てましたが、逃がす場所がありません。 そうこうしている内に、ミキサー車の方が、うまく避けて行ってくれました。 125ccとはいえ、重量は、120キロ近くあるわけで、坂道で急に動かすのは、厳しいものがあります。




【長泉町・米山梅吉記念館付近の三神社①】

  2020年6月10日、曇りでしたが、バイクを出し、長泉町の北の方に行って来ました。

≪写真1≫
  第一目的地、日吉神社。 大きな工場があり、その南辺の道路に出てから、南下して、鎮守の森を目当てに、辿り着きました。

≪写真2左≫
  境内は、かなりの広さ。 社殿の横で、何かの工事の一団が、昼休みを取っていて、近寄れず、ここまでで、引き揚げました。 遠目に見ただけですが、燈篭と、狛犬はありました。

≪写真2右≫
  入口近くにあった石碑。 三つあった内、二つは、寄付の記念碑でした。

≪写真3≫
  日吉神社から、少し南に行った所にある、「米山梅吉記念館」。 ここには、2011年9月16日に、折自で来ています。 門前の龍舌蘭以外、ほとんど、記憶なし。 米山梅吉さんは、確か、ライオンズ・クラブを日本で始めた人。 2011年の時には、中に入ったんですが、今回は、パス。

≪写真4左≫
  記念館の前の道路に停めた、EN125-2A・鋭爽。 建物の写真を撮るだけなので、ここで、充分。 とはいえ、街なかだと、停めるのが、ヒヤヒヤしますな。 バイクを離れられません。

≪写真4右≫
  記念館の前の道路から、南北に通っている幹線道路を見たところ。 この幹線道路、家にある古い地図には載っていません。 折自で来た時にも、この道路には出ませんでした。 最近、出来たにしては、店が多いので、もう、2・30年は経っているんでしょうねえ




【長泉町・米山梅吉記念館付近の三神社②】

≪写真1左≫
  米山梅吉記念館の少し北、幹線道路に面して、あった、「金山神社」。 たまたま、見つけました。 小さいですが、よく整備されています。 割と珍しい、木製の鳥居。 色も、ニスだけで、渋い趣きです。

≪写真1右≫
  社殿。 端正な作りです。 狛犬、燈篭、手水舎は、なし。

≪写真2左≫
  鳥居の前で咲いていた、鉄砲百合。 早いですな、うちのは、この時点で、まだ、茎も伸びきっていませんでした。 うちのは、細葉ですが、これは、細葉ではないから、花の時季が違うのかもしれません。

≪写真2右≫
  同じく、鳥居の前で咲いていた、白い紫陽花。 白は、珍しいというほどではないですが、少数派です。

≪写真3≫
  金山神社前の歩道に停めた、EN125-2A・鋭爽。 街なかには、あまり、似合わないような気がせんでもなし。 レトロ・スタイルなので、今の街と、時代のズレを感じてしまうのかも知れません。

≪写真4≫
  すぐ近くの住宅地の中で見つけた、「山神社」。 こじんまりした境内ですが、庭園のように、整備されています。 燈篭あり。 中まで入って行かなかったので、狛犬は、確認できませんでした。 鳥居の注連縄が、棒に巻いてあって、妙に力強い感じ。




  今回は、ここまで。 一週に4回分だと、組み写真が、8枚になるので、読むのが苦痛だと思いますが、暇があって、酔狂な人だけ、読んで下さい。 一週に、このくらい出さないと、出し切れないんですわ。

  そういや、「大分麦焼酎 二階堂」のCMですが、「一人旅を満喫するおじさん」が終わってしまいましたな。 「下町暮らしを楽しむおじさん」に変わったわけですが、CMクリエイターの狙いは分るものの、あまり、羨ましいとは思いません。 やはり、下町情緒では、旅情には敵わない。

  もっとも、感染対策的には、旅など、全く推奨できないのであって、自分の住んでいる町の中で、ルーティーンな行動を繰り返している方が、ずっと、責任ある態度といえます。 しかし、マスクはした方がいいと思いますねえ。 特に、食品を扱う人達は、もう、マスクなしでは、仕事が成立しないと、肝に銘ずるべきでしょう。

2021/02/14

関東自工・東富士工場

  私が最も長く勤めていた会社の、静岡県・裾野市にあった工場ですが、去年いっぱいで、閉鎖になったらしいです。 1989年3月から、2014年8月まで、他工場への応援・異動期間も入れて、25年と5ヵ月、在籍したので、そこがなくなったと思うと、感無量というほどではないにせよ、感慨はあります。




  すでに、存在しないので、書いてしまいますが、私が勤め始めた時には、「関東自動車工業」の「東富士工場」でした、終わりの数年だけ、神奈川にあった、「セントラル工業」と合併して、トヨタの子会社になり、「トヨタ自動車東日本」という社名に変わりました。 しかし、私の場合、「トヨタ自動車東日本」には、ほんの2・3年しかいなかったわけで、勤め先の名前というと、「関東自工」が真っ先に出て来ます。

  若い頃の私は、地元企業の情報に疎い方だったので、関東自工の名前は、就職する寸前まで知りませんでした。 名前は知らないけれど、最初に工場の前を通った時の事は覚えています。 1987年7月に、植木屋の見習いをやめた後、派遣会社に登録して、御殿場にあったコピー機工場へ、半年くらい通っていたのですが、ある日、車で帰宅途中、少し、変わった道を通ってみようかと思って、関東自工の前を通ったのです。

  ただ通っただけでしたが、その時は、派遣社員という不安定な身分だったので、「ああ、ここに、大きな工場がある。 いつか自分も、こんな所で、正社員として働けるだろうか・・・」と、ぼんやり思ったのを覚えています。

  87年の年末、コピー機工場の生産縮小で、派遣会社ごと切られてしまい、ちょうど、胆石の手術で入院したのを機会に、派遣会社はやめてしまいました。 二級人間みたいな、情けない身分にうんざりしたのです。 88年には、語学専門学校に通っていたのですが、就職先がないらしいと分かり、そちらも、2年のところを、1年でやめてしまいました。

  で、コピー機工場での経験から、工場勤めは気楽で良いと知っていたので、就職先を探したら、時あたかも、バブル経済の興隆期で、社員募集の広告がうじゃうじゃ入っており、その中に、関東自工があったという次第。 まだ、専門学校に通いながら、地元の職安に行って、紹介状を貰い、会社に初めて入って、面接を受けました。 試験のようなものはなく、すぐに健康診断となり、そこで、就職は決まったようなものでした。

  自動車工場というのは、働いた事がある人なら分かると思いますが、とにかく、きつい仕事です。 体が、よほど丈夫なら別ですが、大抵の人は、どこか壊して、できる仕事がなくなり、やめて行きます。 私が入社した頃は、5人雇うと、4人はやめて行くという定着率の低さでした。

  私自身、最初に配属された所で、いきなり、上司から言われたのは、「いつ、やめてもいいよ」でした。 常識的に考えれば、失礼千万で、初めて会った相手に、大人が言う言葉ではありませんが、まあ、そういう職場だったのです。 きつい仕事を長く続けていると、人間、心が荒んで来るのでしょう。

  その上司は、私が、一応、続く人間だと分かってから、「おまえは、どの仕事をやっても、大丈夫だ」などと言っていましたが、やはり、初日に失礼な事を言ってしまったと思ったんでしょうな。 別に、悪人ではないけれど、やはり、心が荒んでいたわけだ。


  こんな事を細々と書いても、仕方ないですな。 少し、端折りましょう。 半年間は、準社員で、半年後に、もう一度、面接があり、正社員になりました。 最初に、工場の前を通りかかった時に、ぼんやり思った事が、現実になったわけだ。 しかし、別に嬉しくはありませんでした。 つくづく、自動車工場で働いた経験がある人なら分かると思いますが、そんな、夢や希望に溢れた職場ではないのです。 体と心を磨り減らして、辛うじて、給料に換えるだけの場所でした。

  私は、植木屋見習いの時に、ギックリ腰をやっていましたから、最初から、腰に爆弾を抱えている健康状態でして、腰痛にならないように、常に神経を尖らせていました。 体調の維持には、気を使いまくりましたねえ。 ギックリというのは、一度やると、その後、再発し易くなり、起これば、一週間は、仕事どころではなくなってしまいます。 ギックリ腰で、長く休まずに済んだのは、私が特段の注意を払っていた賜物でしょう。

  担当した工程は、応援先や異動先も入れて、全部で、10箇所くらいでしょうか。 勤めていた期間の後半は、設備がある工程で、設備の操作が覚え難い反面、慣れてしまえば、割と楽にできる所だったので、長く続けられたのです。 もし、他の工程だったら、ずっと早く、やめていたと思います。

  東富士工場は、F301工場と、F201工場の二つがあり、私は、F301の組立ラインがホームでした。 作った車は、クレスタ、チェイサー、マークⅡセダン、それらが、数回、モデル・チェンジしました。 他に、カローラ・セダンも、一時期作っていた事があります。 タクシーのコンフォートも作りました。 ミニバンでは、アイシスや、2代目スパシオ。 小型車のラクティス。 最後の方で、ポルテやスペード。

  F201に工場内異動した事が、2回ありました。 一度目は、センチュリー・ラインで、2代目の立ち上がりの時に行って、半年くらい、いたと思います。 次は、4代目ソアラの自動折りたたみ式ルーフを取りつけるラインでした。 どちらも、車は高級車でしたが、異動先では、ペーペー扱いで、顎で扱き使われるので、楽しくはありませんでした。

  社外応援は、1995年に、愛知県の渥美半島にある、トヨタの田原工場へ、2ヵ月間、行きました。 この時は、ハイラックス・サーフの塗装完了工程で、治具を外す仕事をしましたが、組み立ての仕事に比べると、大変、楽で、助かりました。 バイクを持って行って、豊橋や瀬戸など、周辺のツーリングをしたのは、いい思い出になっています。

  2013年から14年にかけて、北海道苫小牧市にある、トヨタの変速機工場へ、2ヵ月半、応援に行きました。 仕事はきつかったですが、街が、大変良く出来た、暮らし易い所で、現地で中古の自転車を買い、あちこち行って、楽しみました。

  同じ会社の別工場である岩手工場ですが、2010年に、3ヵ月間、応援に行きました。 2014年には、リストラ同然に異動して、1ヵ月くらい、いました。 それぞれ、別の職場でしたが、どちらも、殺人的にきつい仕事である上に、若い上司が、応援者や異動者を、使い潰すつもりでいて、往生しました。 応援の時は、終われば帰れると思っていたから、何とか乗り切りましたが、異動の時には、帰れないと分かっていたので、お先真っ暗な気分になってしまい、心臓を悪くして入院したのを機会に、そこで、会社をやめてしまいました。

  岩手は、観光地がたくさんあって、北上では、古墳を巡り、金ヶ崎や水沢では、武家屋敷を見ました。 特に、水沢は、潤いがあって、いい街だと思いましたが、肝心の仕事が地獄では、総体的に、いい思い出になりようがないです。

  おっと、そもそも、東富士工場の事を書くのが目的でしたな。 脱線しているので、戻しましょう。 どうも、会社時代全般の記憶と、特定の工場の記憶が、ごっちゃになってしまっています。

  で、東富士工場の話ですが、同僚や、上司、先輩、後輩には、いい人もいれば、悪い人もいました。 有能な人、知能の高い人、人格が優れている人もいれば、小学生のまんまかと思うような、しょーもない奴もいました。 大半が、読書人ではないので、体系だった知識をもった人は少なかったですが、恐ろしく記憶力がいい人や、頭の回転が早い人を見ました。 あまり、頭がいいと、周囲が馬鹿に見えるようで、そのせいで、人気がない人もいましたけど。 人間、バランスは、大事ですな。

  一番、しょーもないと思ったのは、出世しか頭にないという輩。 所詮、工場なのだから、出世なんてしたって、高が知れているのに、何を勘違いしているのか、一段でも上に上がろうと、足掻いている姿は、大変、みっともないものでした。 そういうやつらが、本当に優れている人の足を引っ張る様子の醜さといったら、筆舌に尽くし難い。

  社会全般から見れば、工場勤めの人間なんて、工場長で、部下が数千人いたとしても、外部の人間から見れば、「ああ、工場の人ですか」の一言で片付けられて、一般会社の係長クラスくらいにしか見てもらえないのに、高校卒業後、直行で工場に就職して、よそを知らないものだから、井の中の蛙そのもので、そういう事が分からないんですな。 哀れな。

  井戸の中の世界に過ぎないのに、上へ行きたくて仕方がないというのは、ただ、お山の大将になりたいだけで、支配欲、権勢欲が、傍から見ていて恥ずかしいほどに、丸出しの剥き出し。 肩書きが人間の価値を決めると勘違いしているわけですが、実際には、出世の為に他人を踏み台にしているわけで、周囲からの評価は最低になり、人間のクズ扱いは免れません。

  出世欲の塊で、実際に出世したはいいが、人望がないせいで、肩書きだけで部下がいない境遇に、早々と追い込まれてしまい、特定の職場もなくなって、助っ人的に、あちこちの職場を流浪している人を何人も見ました。 居場所があっても、一日中、パソコンでインター・ネットを見て、定時になると帰って行くような人もいたなあ。 何もしないで、給料がもらえるのだから、楽でいいという見方もできますが、羨ましいとは思いません。

  人が多い所だったので、直接、仕事ぶりを観察できた相手も多かったのですが、「ああ、優れた人には、とても敵わないなあ」と感服つかまつる事もあれば、「こんな馬鹿野郎が、世に罷り通っているとは、信じられん」と、呆れた事もありました。 世の中には、少人数の職場で、ほんの数人の人と関わるだけで、数十年の現役生活を終える人もいるわけですが、人間の醜い面を見ずに済むのなら、そういう人達が羨ましいです。 一度、見てしまったら、記憶から消えませんから。

  東富士工場での上司には、割と恵まれた方で、後半は、リレーする形で、三人、年下の上司になりましたが、私が、優れた人間には、年齢に関係なく、敬意を払う方針でいたせいか、向こうも、いろいろと気を使ってくれて、大変、助かりました。 終わりの十年間は、その三人のお陰で勤められたようなものです。 苗字の頭文字で記すと、K さん、I さん、S さんですが。

  K さんは、人柄が良い上に、能力が高く、冗談も面白いという、三拍子揃った人で、周囲から人望を集めていました。 その後、上に上がり、上司の上司になっていましたが、2014年に、宮城の工場へ異動になり、その後は、分かりません。 元が、中間管理職だったから、たぶん、宮城の工場でも、上に上がっていると思います。

  I さんは、頭が良すぎて、周囲から煙たがられるタイプでしたが、私だけは、彼の頭の良さを評価していたので、返礼的に、良くしてくれました。 2011年に、退職して、「結婚して、沖縄へ移住する」と言っていましたが、その後の事は分かりません。

  S さんは、私より、一世代若い人で、親子ほどに年齢が違っていましたが、新入社員で入って来た時に、ほんの数日、観察しただけで、「あ、この青年は、人の上に立つタイプだ」と思ったら、本当に、3・4年で、人を使う立場になりました。 その頃、私はもう、40代半ばを過ぎて、仕事にミスが多くなっていたのですが、随分、かばってもらいました。 私と一緒に、2014年に、岩手へ異動になり、私がやめた後、一度、電話がかかってきて、「自分も、その内、やめる」と言っていましたが、その後どうなったのかは分かりません。

  この三人、仕事以外でも、私が下戸で、飲み会を嫌がっている事を知っていて、忘年会や新年会に誘わないでくれたのも、ありがたかったです。 毎回、誘われると、断るのが、心苦しくてねえ。 大まかに言って、権勢欲ばかり強くて、無能な上司ほど、飲み会に、しつこく誘う傾向があります。 「会費は同じだから、下戸を参加させれば、そいつらの分を余分に飲めて、得だ」とでも思っているんでしょう。 下司な算盤勘定で、人望を失う方が、よっぽど、損だと思いますが。

  通勤は、最初の3年間は、自分の車、ダイハツ・初代ミラ(白)でしたが、エンジンが不調になって来たのと、事故が怖くなって、やめる事にしました。 車のラジオで、ベルリンの壁崩壊のニュースを聞いたのを覚えています。 家にあった本を車の中に置いておいて、信号待ち・踏み切り待ちの時に読んでいましたが、あれは、≪赤と黒≫の上巻だったか・・・。 変な事ばかり、記憶に残っていますな。

  次の3年間が、電車・バス。 御殿場線の中では、図書館から借りた、世界の名著ばかり読んでいて、3年間も利用していたのに、外の景色を、全く覚えていません。 岩波駅が、会社の最寄り駅でしたが、駅舎の様子も、ほとんど、忘れてしまったなあ。 通勤費補助で、電車は定期券、バスは回数券を買っていました。 バスの吊り広告に、黒澤明監督の、≪まあだだよ≫が出ていたのを覚えています。

  その後、勤務時間の変更で、深夜や早朝の出退勤が始まるというので、二輪の免許を取り、1995年からは、バイクで通いました。 2002年まで、ヤマハ・セロー225W(白紫)。 2014年の退職まで、ヤマハ・セロー225WE(黒)。 自宅から会社までの距離は、片道約20キロ。 一年間で、大体、1万キロの目安でした。 通勤費補助で、勤めている間は、車もバイクも、ガソリン代は、ほとんど、そちらで賄っていました。

  バイクは、通勤に使っていると、休みの日には、乗りたいと思わないものでして、ゴールデン・ウィークと、夏休みにしか、ツーリングに行きませんでした。 バイクは、田原応援と、岩手異動の時に、向こうへ持って行って、ツーリングにも使いました。 観光地・景勝地巡りには、バイクが一番、便利なのです。

  バイクを始めた頃、同じ職場に、アウト・ドアの達人のような先輩がいて、野宿ツーリングの基本を教えてもらいました。 その先輩、その後、岩手へ異動して、更に、その後、退職してしまったそうですが、今頃、どうしているかなあ。 もう、二度と会う事はないでしょう。 それ以外の人達とも、まず会わないと思います。 沼津から通っていた人間は少なくて、ほとんどが、御殿場や裾野の人達でしたから、生活圏が違うのです。




  キリがないので、会社の思い出は、このくらいにしておきましょうか。 東富士工場は、私がやめてから、6年半、続いたわけですな。 会社そのものがなくなったわけではないので、社員は、宮城か岩手の工場に異動したわけですが、退職した人も多かったとの事。

  それは、正解で、特に、40歳を過ぎているような人は、別の工場に行っても、ペーペー扱いで扱き使われた挙句、退職に追い込まれるのは、目に見えており、そんな嫌な思いをするくらいなら、やめてしまった方が、ずっとマシでしょう。 もっとも、再就職は、恐ろしく難しいと思いますが。

  私自身、6年半前に、異動という名目で、実質的に追い出されたわけですが、その時、東富士に残った連中が、今回の閉鎖で、どんな身の振り方になったのか、野次馬的な興味がないではなし。 6年半前、「人を追い出して、自分が残る」という事をやった中間管理職も多くいたわけですが、今回、自分が追い出される立場になって、それが、どれだけ理不尽なものか、身に沁みて分かったんじゃないでしょうか。

  異動したにせよ、退職したにせよ、これから、悲惨な目に遭う者が、たくさん出るでしょうが、もちろん私は、同情なんて、コツメカワウソの小指の爪の先ほども、する気はありません。 6年半も、勤め続けられたのだから、運が良かったのだと思ってもらわなければ。

  6年半前に、東富士に残った人の中には、私が世話になった人達もいたのですが、そういう人達は、軒並み、私より年上なので、すでに、定年退職していると思われ、私が心配するような事にはならないと思います。


  会社に在籍中、ほとんどの期間を、東富士工場で過ごしたのに、退職したのは、岩手工場だったというのが、今思うと、哀しいです。 こちらに帰って来てから、退職手続きの為に、一度だけ、東富士工場に行きましたが、もう、工場の方には入る資格がなくて、道路を挟んだ向かい側の棟で、書類だけ書いて、帰って来ました。 「終わり悪けりゃ、全て悪い」というわけではないですが、とにかく、哀しい幕切れでした。

  東富士工場の跡地は、トヨタの未来都市になるそうですが、もう、二度と行く事はないと思います。

2021/02/07

古い車のカタログ蒐集計画 ⑭

  古い車のカタログ蒐集に関するシリーズ。 いよいよ、最後です。 組み写真が、6枚ありますが、3・3に分けるのもセコいので、一遍に出してしまいます。 これ以降、車のカタログは、買っていません。 新型肺炎の流行以降、ヤフオクの利用自体が、激減してしまいました。 人心が荒廃し、揉め事が多くなったのが、原因。





【リーザのカタログ&アク・カタ】

  2019年の1月に、ヤフオクにて、100円で落札し、送料入れて、285円で手に入れた、リーザのデビュー版・本カタログと、アクセサリー・カタログ。

≪写真1左≫
  本カタログの表紙。 1986年(昭和61年)11月発行。 車の発売開始は、12月らしいですが、印刷した日付を記してあるのでしょう。

≪写真1右≫
  アクセサリー・カタログの表紙。 発行年月は、本カタログと同じ。 本カタログより、サイズが小さいです。 ヤフオクにセットで出て来る事が多いので、たぶん、本カタログに挟んで、配布されていた物と思われます。 名前は分かりませんが、出て来るイメージ・キャラの女性は、本カタと同じ人。

≪写真2≫
  イメージ写真のページ。 ナンバーに、「NEW YORK」の文字あり。 わざわざ、 ニューヨークまで車を持って行って、撮影したんですな。 さすが、バブルへ向かう時期だけの事はある。 アメリカで、軽を走らせたら、小さ過ぎて、ナメられまくるでしょうけど。

≪写真3≫
  室内のイメージ写真のページ。 ダッシュ・ボードのデザインは、かなり、洗練されています。 色も、暗過ぎず、明る過ぎずで、いい雰囲気です。 若い女性が、想定購買層であったにも拘らず、女性に媚びたところがないのも、好感が持てます。 惜しむらく、この車、3ドア・クーペでして、後席の使い勝手は、お世辞にも良くなかったと思います。

≪写真4≫
  アクセサリー・カタログの方から、1ページ、出します。 80年代半ばだと、アクセサリーの種類は、まだ、少ないようです。

  エアコン、パワー・ウインドウが、オプション。 電動ドア・ミラーも、オプションであったようですが、ミラー角度の調整ができるだけで、畳む事はできなかった模様。

  エアロ・パーツもあったようですが、リーザに、スポイラーの類いは、似合いませんでした。 特に、リア・スポイラーは、せっかくの、ワン・ボックス・フォルムを、台なしにしてしまいます。




【リーザとの縁】

  私は、リーザを所有していたわけではなく、運転した事もなければ、乗せてもらった事もありません。 なのに、なぜ、カタログを買ったのかというと、それには、ちょっとした、わけがあります。

≪写真上≫
  とりあえず、本カタログのイメージ写真から、側面のフォルムが分かるものを出しておきます。

≪写真中≫
  その上で、この絵ですが、私が、ひきこもり時代の、1983・4年頃に描いたものです。 当時、車のデザインだけに興味があり、こんな絵ばかり描いていました。 絵が、はっきりしないのは、線を消して何度でも直せるように、トレーシング・ペーパーに描いていたからです。

  で、ある時、この絵を、白い紙に描き写し、無謀にも、車雑誌の総合カタログに出ていた、ダイハツの住所に送ったのです。 「開発を担当している部署に」とか何とか、宛名に書き添えて。 「こんな車を作って下さい」という要望ですな。

  その後、私は、ひきこもりを脱して、1986年の4月から、植木屋見習いとして働き始め、死ぬほど疲れる日々を送り始めたのですが、その年の12月に、リーザが発売されたわけです。

  よく似ているので、驚いたといえば驚いたのですが、私自身が、当時のデザイン・トレンドに則って描いていたので、私が送った絵と、リーザが、何の関係もない可能性も、もちろん、高いです。

  とにかく、自分が欲しいと思っていた車に近いものが出て来たわけですから、それだけでも喜ぶべきなのですが、何せ、仕事がきつくて、車への興味など、どうでもよくなっており、嬉しいという感じはしませんでした。

  嬉しくなかった、もう一つの理由は、リーザが登場する一年以上前の、1985年9月に、ホンダ・トゥデイが発売され、ワン・ボックス・フォルムの先鞭をつけられていたからです。 トゥデイが出て来た時には、自分が考えていたワン・ボックス・フォルムよりも、遥かに洗練されていたので、衝撃を受けました。 敗北感に打ちのめされたのです。

  そして、1986年9月、母が最初の車を買う時に、トゥデイを薦め、その後、18年間も家で使う事になるのです。 もし、その時点で、リーザが出ていたとしても、トゥデイを薦めたと思います。 徳大寺有恒さんは、≪間違いだらけのクルマ選び≫で、トゥデイと共に、リーザのデザインも誉めていましたけど、私の目から見ると、リーザは、トゥデイに、とても敵わないと思えました。

≪写真下≫
  ちなみに、トゥデイの本カタログに出ている、イメージ・スケッチが、これ。 こちらの方が、私の絵に、より似ていますが、残念な事に、ホンダには、何も送っていません。 だから、私の絵は、当時のデザイン・トレンドに乗っかっていたに過ぎないと思うのです。




【初代トゥデイのカタログとアク・カタ 1985年9月デビュー版】

  2019年の1月末から2月初めにかけて、ヤフオクで手に入れた、「初代トゥデイのカタログとアクセサリー・カタログ 1985年9月デビュー版」です。 スタート価格1000円だったのを、競った末に、1600円で落札し、送料500円を足して、2100円で買いました。

  このカタログ、なかなか、良いのが出てこなくて、チェックし始めてから、1年半くらい、待っていました。 2冊セットとはいえ、80年代半ばの物で、1600円は、少々、高いのですが、この機会を逃したら、次はいつ出て来るか分からないので、思い切って買った次第。

  初代トゥデイに関しては、大判カタログを紹介した時に、詳しく書いたので、今回は、さらっと書きます。

≪写真1左≫
  表紙です。 シンプル。 初代トゥデイ前期型・丸灯は、車もセンスが良いですが、カタログも、他とは違う雰囲気があります。 普通のカタログは、右開きですが、これは、左開きです。 「ニュー・スモール」が、キャッチ・コピー。 コピーは、お世辞にも、センスが良いとは言えません。

≪写真1右≫
  アクセサリー・カタログの表紙。 ポップですな。 ちなみに、ポップなグラフィック・デザインというのは、70年代には、すでに存在していました。 少しずつ、車のカタログにも入って来るようになりますが、主流にはなりませんでした。

≪写真2≫
  テレビCMや、大判カタログに出ていた今井美樹さんが、本カタログにも姿を見せています。 しかし、今井さんの写真は、裏表紙の、「CM高原編」からのスチールを入れても、3枚しかありません。 他のページは、車のイメージ写真を右上、説明文を左と下にレイアウトした、雑誌ページ風の作りになっています。

≪写真3≫
  内装のページ。 これは、茶系統ですな。 うちにあったトゥデイは、灰色系統でした。 シートは、ファブリック地で、多少、モケモケした感じでした。 初代トゥデイは、前期型も後期型も、軽貨物型(ボン・バン)オンリーで、後席は狭かったです。 大人2人、小さい子供2人か、女性だけならば、前席を前にずらせば、後席足下に、ゆとりが出来て、大人4人乗れました。

≪写真4≫
  アクセサリー・カタログの方の、中ページ。 アクセサリーの方は、そんなに種類が多いわけではないです。 アルミ・ホイールとか、シート・カバーとか、サイド・ストライプとか、ルーフ・キャリアとか。 バッグのような、車のアクセサリーに入れるべきでないような品もあります。

  アク・カタとしては、大変、豪華で、なんと、24ページもあるのですが、どうにもこうにも、冗漫な内容で、真面目に見る気になりません。 開くといきなり、ソフト・クリームだけを写したページがあり、カタログ・デザイナーが、遊び過ぎているのが分かります。

  もう、古い車のカタログ蒐集が、終わる頃になって、こんな事を書くのも間抜けですが、アクセサリー・カタログは、買っても、あまり、意味がありませんな。 自分の家にあった車に、アクセサリーを付けていた人なら別ですが、そうでない場合、見ていても、ちっとも面白くありません。




【ゆうパケットで、5代目カリーナ後期型サンフランシスコのカタログ】

  2019年9月23日に、ヤフオクに、スタート価格490円で出たのを、競らずに落札し、送料無料、ゆうパケット(おてがる版)で、27日に届けられた、「5代目カリーナ後期型のカタログ・セット」。 出品者は、広島県の方でした。

≪写真上左≫
  大型郵便受けを出しておいたら、その中に入れられていました。 ゆうパケットが、ゆうメールと、どう違うのか、未だに良く分かりません。 貼ってあるラベルは、パケットの方が、大仰です。 水色の封筒は、市販されているものだと思います。

≪写真上右≫
  中は、厚紙の台紙と共に、ビニールに入れて、テープで、密封してありました。 何度も書いていますが、紙物が届けられた場合、開封時に、テープが本体に着かないように、細心の注意を払う必要があります。

≪写真下≫
  中身。 左側の本カタログは、すでに、もっていたのですが、送料込みのセットだったので、取引を面倒にしない為に、そのまま送って貰いました。 表紙に折れがあるものの、中ページは綺麗で、総合的な程度は、すでにあるものと、どっこいくらい。 内容は、全く同じですが、発行年月が異なっていました。

  欲しかったのは、右側の、「ザ・カリーナ・イン・サンフランシスコ」です。 これが、なかなか出なくて、一年くらい、待っていたのです。 1990年のマイナー・チェンジに当たって、山口智子さんと冨家規政さんが出るテレビCMを、サンフランシスコで撮った時のもの。 内容は、いずれ、紹介します。




【初代ファミリア800・4ドアのカタログ 1966年6月版】

  2019年7月に、ヤフオクで買った、「初代ファミリア800・4ドアのカタログ 1966年6月版」です。 送料込みで、1810円もしました。 カタログ一冊に、1810円は、高いですが、なかなか出て来なくて、2年くらい待っていたので、競ってでも買った次第。

  初代ファミリア800・4ドアは、父が初めて、自分で買った車。 私が、2歳くらいの時に買われて、幼稚園に上がるまでは、うちの車でしたが、私は、全く覚えていません。 当時の写真から、排気量は、800cc。 4ドアで、グレードは、デラックス。 色は、パロマ・ホワイトである事が分かるのみ。

  デラックスで、色にパロマ・ホワイトの設定があるカタログがないのです。 このカタログは、色のバリエーション表が載っていない唯一のもので、「それならば、デラックスで、パロマ・ホワイトの設定があったのかも知れない」という判断で、これをドンピシャ版に決めたのです。 時期的にも、うちにあった車が、アルバムに登場し始めるのが、1967年の2月頃なので、合うには合います。

  800・4ドアのカタログとしては、これが最終で、1967年に入り、1000が発売されて以降は、1000のカタログばかりになるようです。

≪写真1左≫
  この表紙を、ヤフオクで、2年間、毎日、探していました。 出て来た時には、嬉しいと思う以前に、何だか、現実感がなかったです。 下の方に、汚れがあり、程度はあまり良くありませんが、何せ、なかなか出ないカタログなので、手に入っただけでも、幸運と思っています。

  黄色い服の女性ですが、60年代なので、服のセンスは、大変、良いです。 今の感覚で見ても、おかしさよりも、カッコ良さの方を強く感じます。

≪写真1右≫
  裏表紙。 諸元表を見ると、4ドア・デラックスで、全長、3765ミリ、全幅、1465ミリ。 今の軽自動車と比べると、全長は、40センチくらい長いですが、全幅は、1センチ狭いです。 セダンですから、恐らく、室内は、軽より狭かったでしょう。 それでも、5人乗り。

≪写真2≫
  デラックスの、イメージ写真のページ。 典型的な、「これから、家族で、ドライブに・・・」という場面。 こういうのが、当時の庶民が憧れる生活風景だったわけだ。 1966年では、モルタル外壁の家は、最先端と言っていいほど、新しいタイプです。 当時はまだ、江戸時代から変わらないような、板壁の家がほとんどでした。 53年経っていますが、この写真のモデルになった人達は、今でも、ご健在なのでしょうか?

≪写真3≫
  室内のページ。 前席は、ベンチ・シートでした。 シフト・レバーが、ハンドル・ポストについているから、左右の席を別けなくても良かったわけだ。 5人乗りですから、前の席には、2人しか乗れない計算になりますが、昔の事なので、子供を間に座らせる事もあったと思います。 ちなみに、当時は、乗車定員をオーバーしていても、バレなければいいという感じでした。

  ヘッド・レストは、なし。 シート・ベルトは、オプションで、前席のみ。 窓ガラスの開閉は、手動式です。 まだ、三角窓がありますが、私は、三角窓の使い方を、全く知りません。 風を入れるのには、重宝したようです。

≪写真4≫
  ダッシュ・ボード。 昔の車のダッシュ・ボードは、大変、簡単な作りでした。 装備は、ラジオ、灰皿、グローブ・ボックス。 ヒーターがあるようですが、まだ、エアコンの時代ではないです。 パーキング・ブレーキは、ダッシュ・ボード下についていて、引っ張ってかけるタイプ。 他車種も総じて、パーキング・ブレーキは、70年代に、センター・トンネル上に移動し、80年代には、また、ダッシュ・ボード下に戻って来ます。

  私は、この車には、相当回数、乗っているはずですが、外見のみならず、ダッシュ・ボードの形も、一ヵ所たりとも覚えていませんでした。 一体、何を見ていたんでしょうねえ。 子供の考えている事は、分からない。




【5代目カリーナ ザ・カリーナ・イン・サンフランシスコ 1990年】

  2019年の9月に、ヤフオクに、490円で出たのを、競らずに落札した、5代目カリーナ後期型のカタログ2冊セットの内、「ザ・カリーナ・イン・サンフランシスコ」の方。 もう一冊は、本カタログで、以前に紹介したものと同じなので、割愛。

  「ザ・カリーナ・イン・サンフランシスコ」は、1990年のマイナー・チェンジの時に発行されたものですが、本カタログや、簡易カタログに比べて、出回っている数が、圧倒的に少なくて、こういうものが存在する事を知ってから、ヤフオクに出て来るまでに、1年くらい待ちました。

  テレビCMを、サンフランシスコで撮影した関係で、本カタログの方にも、その時の写真が入れられたのですが、この冊子は、CM撮影の様子を取材して、構成されたもので、かなり、珍しい品です。 正確には、車のカタログではないです。

≪写真1左≫
  表紙。 英語オンリー。 うーむ。 この、とことん明るくて、幸せがはち切れんばかりの雰囲気。 バブル景気の真っ盛りを、よく表しておりますなあ。

≪写真1右≫
  レイアウトの都合で、ここへ持って来ましたが、最終ページです。 スタッフの名前が、英語とローマ字。 奇妙なところに拘っている。 ちなみに、この冊子、裏表紙に、「'90夏 アウトドア・グッズ プレゼント」と書いてあるので、1990年の夏頃である事は分りますが、発行年月は、書いてありません。 後期型の登場は、1990年5月なので、5月から、7月頃までの間に発行されたものだと推測されます。

≪写真2≫
   山口智子さんと、冨家規政さんは、「結婚後、数年を経て、最近、お互いの魅力を再発見している夫婦」という設定。 更に穿って見れば、サンフランシスコに、旅行か仕事でやって来て、一時的に、相互依存度が高まり、新婚気分に戻ったようにも取れます。

≪写真3≫
  各、見開き2ページで、山口さんと、冨家さんが語るページ。 簡単な経歴とか、人生観などについて、書かれています。 このお二人の起用は、どうやら、NHKの朝ドラ繋がりだったようです。 山口さんが、≪純ちゃんの応援歌≫に出ていたのは知っていましたが、冨家さんが、≪おしん≫でデビューした事は、これを読んで、初めて知りました。 何の役だったんですかね?

≪写真4≫
  撮影裏話のページ。 結構、苦労した様子。 しかし、歳月が経ってしまっているので、あまり、興味が湧きません。 この頃のサンフランシスコが、一般的日本人にとって、憧れの街の一つであった事は確か。 今では、憧れるような外国の街というのは、なくなってしまいましたが・・・。

  他に、CMソング、≪ドリーム・ウィズ・ユー≫を作った財津和夫さん(作曲・歌)と、松本隆さん(作詞)へのインタビューのページなどがあります。 曲は、明るくて、ゆったりしていて、幸せや夢を感じさせる、大変、いい曲です。

  強いて粗を探すと、「Dream with you」は、命令形なので、訳すと、「あなたと共に夢を見ろ」という、誰に向かって言っているのか分からない、変な意味になります。 「Dream with me」にすれば、「私と共に夢を見ろ」で、意味が通るのですが。

  言わんとしている事は、「あなたと共に夢を見たい」だと思うので、「I want to dream with you」なら正確ですが、長過ぎ。 「I wanna dream with you」にしても、まだ字余りで、歌詞に収まりません。

  文法的に、おかしい事を承知の上で、「どうせ、一般の日本人には、分からないだろう」という考えで、単語を切り詰めたのかも知れません。 アメリカの恋愛映画、≪You've got Mail≫を、邦題では、≪You gat Mail≫と、完了形を、過去形に変えてしまったのと同類の所業なのでは?




  今回は、ここまで。 【リーザとの縁】は、ちょっと毛色が違う記事ですが、ネットを始めた頃(2001年)から、「いつか、機会があったら、書こう」と思っていた事を、ようやく、書いた次第。 自動車メーカーに、「こんな車を作ってくれ」と、リクエストを送りつけるのは、結構いるようですが、私は、後にも先にも、一回だけで、それ以上は、拘りませんでした。

  ちなみに、その頃には、車のデザインについて、一家言ありましたが、その後、日本車でも、目を背けたくなるようなひどいデザインが減り、押し並べて、教科書的に出来がよくなるに連れ、逆に興味が薄れてしまいました。 といって、懐かしいから、昔の醜いデザインが良いとは、決して思いません。

  現行で売っている車で、「これは、いい」というか、「もし、お金を誰かが出してくれるなら、買ってもいい」と思うのは、ダイハツの2代目ミラ・イースだけです。 デザインだけで見るなら、同じダイハツの、タフトなどもいいと思いますが、SUVに興味はないです。

  他のメーカーだと、マツダは、質感の高いデザインですが、ライン・ナップが、互いに似過ぎているのは、どうかと思います。 名前も記号だけになってしまって、覚え難いったらないし。 マツダ社内の誰かが自己満足しているんでしょうが、車を買う方は、独自名がついていた方が、愛着が湧くと思いますよ。

  ホンダは、フリードは、いいと思います。 フィットは、2代目が最も好ましく、3代目は、カッコいいとは思うものの、フロント・ウインドウの傾斜がきつ過ぎて、合理性を欠いていたのが玉に瑕。 4代目は、冷水を浴びせかけられたような、つまらんデザインになってしまいました。 N-ONEの、初代と2代目の、区別がつかない。 路線踏襲というより、そのまんまなのであって、それなら、モデル・チェンジは不要だと思います。 部品が変わるだけ、長く乗ろうとする人には、迷惑。

  日産は、ノートだけ。 大きい車のデザインは、さすがに、何世代も繰り返されて、飽きました。

  三菱は、ミラージュは、サイズ的に好ましく、デザインも、無駄がなくて、いいと思います。 一方、ワンボックス車のフロント・デザインは、ひどい。 もっとも、それは、どのメーカーも、似たようなものですけど。

  トヨタは、プロボックス/サクシードを除いて、全滅。 明らかに、デザインの路線を踏み外しており、グラフィックに頼り過ぎています。 フォルムがいい車まで、ゴテゴテのグラフィックを施して、台なしにしている有様。 フォルムとグラフィックの区別がついていないのだとしたら、しばらくは、この闇を抜けられますまい。

  スズキは、ピンと来ないなあ。 アルトのモデル・チェンジはしないんですかね? いや、あまり、期待していませんけど。 広告チラシを見ると、アルトのような、普通の背丈の軽は、ほとんど無視されており、つまり、売れないんでしょう。 ダイハツが、ミラ・イースを売っている以上、対抗馬は必要だと思うんですが。

  こうして、国内メーカー車の寸評をしていると、違和感が強烈というか、世の流れとのズレばかり感じられて、「車の時代は、過去に去ったなあ」と、つくづく、思いますねえ。