2010/03/28

国際村跡・葛山城址

さて、先週の続きです。 箱根の大涌谷を後にした私は、山道を芦ノ湖方面に下り、湖岸と平行して山の中腹を走る県道75号線に入って、元箱根の方へ向かいました。 かつて、≪箱根国際村≫があった場所を確認してみたかったからです。

  例によって、当時の日記から引き写します。


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  湖岸沿いの県道75号線を元箱根方面へ向かう途中、入口の地面に、ペンキで、≪樹木園≫と書かれた駐車場の前を通る。 もしかしたら、ここが、子供の頃に来た、≪箱根国際村≫の跡地かもしれないと思って、バイクを降り、鎖を乗り越えて中に入ってみた。 しかし、久しく放置されていると思われる、荒れた駐車場があるだけで、国際村の建物の痕跡は無い。 バイクに戻り、他に国際村の跡が無いかと、元箱根方面に向かったが、何も見つけられないまま、箱根園に着いてしまった。 やむなく、もと来た道を引き返す。

  再び、樹木園駐車場の前を通ったら、奥の方に湖岸へ下って行く道が見えた。 一縷の望みを託し、再びバイクを降りて、その道を歩いてみた。 しかし、背の高い樹林に挟まれた、ハイキング・コース風の山道が続くばかりである。 国際村は、こんな所ではなかったような気がするのだが…。 適当なところで諦め、バイクに戻った。 ≪樹木園≫というのは、現在も営業中で、ずーっと下の方にあるらしい。 ここは、その駐車場の一つだったものが、あまりに遠いために、閉鎖されたようだ。 ただし、これらは、全て推測だ。

  バイクに乗り、湖尻方面へ向かう。 湖尻を通過し、仙石原で、≪箱根湿性植物園≫という所に寄ったが、入園料が700円というので、門前で帰った。 冗談ではない金額である。 道を挟んだ向い側に、≪もののふ博物館≫という小さな建物があったが、どうせ金を取るに決まっているので、パス。 たぶん、甲冑や日本刀などが展示されているのだと思う。

  乙女峠を下って、御殿場に出る。 県道394号を裾野へ下る。 時間はもう2時過ぎである。 うちへ直行してしまってもよかったのだが、それでは、遠出の醍醐味が味わえないから、どこかで昼を食べていく事にした。 裾野のローソンでカレー・パン105円を買い、葛山へ向かった。

  葛山の麓に駐車場がある事を確認してから、一旦、須山街道に戻り、自販機でファンタ・グレープ120円を買って、もう一度行った。 お寺の本堂の裏から登るのをすっかり忘れていて、お墓の西の方から登った為、草だらけで難儀した。 思った通り、頂上には誰もいなかった。 ここへ来たのも10年ぶりだが、何も変わっていないように見える。 以前来たのは、会社の帰りで、何かの問題が発生して、半日で仕事が終わりになり、その帰りに寄り道して、弁当の握り飯かパンを食ったのだと思う。

  その後、景ヶ島に寄り道して、牛くぐり岩を探したが、崩れてしまったらしく、穴がある岩は見つからなかった。 お堂の壁板が新しいものに張り替えられていた。 部分的に新しいので、何となく変なのだが、全部やり直すとなると、技術的にも予算的にも無理だったのかもしれない。 まあその内、古くなって馴染むだろう。

  更に、普明寺という所に寄り、千福城址を見るつもりだったが、登り口が分からず、諦めて帰って来た。 この寺では屋根瓦の葺き替え工事をしていた。

  後は、真っ直ぐに家へ帰る。 3時40分頃に到着。 今日一日で、120キロくらい走った。 まあ、こんなものではなかろうか。 もうこれで、この連休に遠出する事は無いだろう。
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  補足しますと、≪県道75号線≫というのは、神奈川県の県道です。 先週も書いたように、箱根の大部分は神奈川県に属します。

  ≪箱根国際村≫というのは、私が子供の頃、つまり、1970年前後に、芦ノ湖の畔に存在した観光地です。 湖岸へ下る斜面に、世界各地の民家が再現されていました。 道路が一番高い所にあり、駐車場があって、湖へ下りて行くグネグネ曲がった道の脇に、家が点在しているのです。 具体的に、どの国の家があったかは覚えていません。 日本の家は水車小屋で、その中がトイレになっているのを見て、兄と二人で大ウケしていた事を覚えています。 それ以外の家は、中はがらんどうで、家具は入っていませんでした。

  私は、子供の頃、二回くらいここへ来たと思うのですが、両親に車で連れて来られたのか、学校の遠足でバスで来たのか、細部は全然覚えていません。 この村、いつのまにか無くなってしまいました。 無くなった事を知ったのは、割と最近です。 あると思っていた間は、別段気にもしませんでしたが、無くなったと知った途端、どこにあったのかが気になり始めました。 この時も、つきとめられず、家に戻ってから、両親に尋ねても、漠然とした位置しか分からない様子。 ネットで調べても、「1975年頃、閉鎖された」という以外、何も分かりません。

  地元では結構有名な観光地でしたから、静岡県東部や神奈川県西部に住んでいて、1970年頃に小学生だった人なら、誰でも一度は来た事があると思うのですが、なぜ、ネット上で情報が見つからないのか、不気味なくらい不思議です。 閉鎖された観光地の記憶とは、こんなにも早く消えてしまうものなのでしょうか。 誰か、知りませんか? 箱根国際村の事を!

  ≪湖尻≫、≪仙石原≫というのは、地名。 それぞれ、「こじり」、「せんごくばら」と読みます。 箱根は、元から人が住んでいた集落は元箱根くらいのもので、他に建物が集まっている所は、観光地か、企業の保養所かのどちらかです。 そして、それらが、大変多い。 一見、町の名前のような地名でも、町ではない場合があるので、注意が必要です。 居住人口が少ないため、普通の商店が少なく、「遊ぶには便利、暮らすには不便」という面があります。

  ≪入園料700円≫を高いと見るか安いと見るかは、人によって異なると思いますが、私の場合、湿原植物に興味津津というわけではないので、「高過ぎる」と感じたわけです。 ちなみに私は、料金が高いと、どんなに有名な観光施設でも、にべもなくパスするタイプです。 特に、そこを目的地として行ったわけではない場合は、決して入りません。

  ≪県道394号線≫、こちらは、静岡県の県道で、御殿場市から裾野市に下る細い道路です。 普通は、国道246号線を通りますが、この時は、246まで出るのが面倒臭くて、「なーに、南に下っていけば、どのみち、裾野に着くだろう」というノリで、手前にあった細い道を選んだのです。

  ≪葛山≫は、山の名前で、且つその麓にある集落の名前でもあります。 「かずらやま」と読みます。 山の上には、戦国時代の山城の跡があります。 城主は、≪葛山氏≫ですが、これは、地名を苗字にしたものでしょう。

  パンはローソンなのに、なぜジュースは自動販売機なのかというと、コンビニで缶飲料を買うと、レジの人に、飲み口を持たれてしまうからです。 中には、絆創膏を巻いた指で、飲み口をがっちり掴む輩もいて、不衛生この下無し! そういうわけで、私はコンビニでは、缶飲料は買わないのです。

  ≪景ヶ島≫というのは、裾野市の景勝地で、川の中に奇岩が集まっている所。 「けいがしま」と読みます。 中州の島に、お堂があり、その軒下に掛かっている案内地図に、≪牛くぐり岩≫というのが載っているのですが、何回か来ているのに、見つけられないでいたのです。

  ≪普明寺と千福城址≫、これは、帰りに近くを通ったら、道端に案内看板が出ていたので、その場の思いつきで、寄ってみようかと思ったまでの所。 結局、千福城址には辿り着かなかったわけで、今に至るも詳しい事は知らないままです。 


  またまた、補足が長くなってしまいました。 以下、写真でご案内。



  芦ノ湖畔を走る県道75号線の脇にあった、かつての観光地の駐車場跡です。 看板の類は一枚も残っておらず、アスファルトの上に直接、白ペンキで、≪樹木園≫と書いてありました。 そう書いてあるからには、そうなんでしょうが、この辺だったと思うのですよ、≪箱根国際村≫があった所は。 もしかしたら、 ≪国際村≫が閉園した後、≪樹木園≫が作られたのかもしれませんが、地形が記憶と一致しない所を見ると、全然違う場所なのかもしれません。 それにしても、≪国際村≫を訪れた人間は、少なく見ても、100万人くらいはいたと思うんですが、往時を偲ぶ痕跡が一つも無いとは驚きです。



  ≪樹木園≫の元駐車場の奥へ踏み込むと、こんな物が放置されていました。 兵どもが夢の跡。 しかし、もう使わないのなら、片付けた方がいいと思います。 マットレスなんて何に使っていたんでしょう?



  湖尻にある、≪箱根・湿生花園≫。 なんですが、立ち寄ろうと思って、門前まで来たものの、≪大人 700円≫という入場料にたじろぎ、パスしました。 しかし、後でネットで調べたところ、ここは、植物好きにとっては、かなり有名なスポットらしく、展示にもボリュームがあるとの事。 機会があったら、ここを第一目標にして、じっくり見に来ようと思っています。



  裾野市街から、北西へかなり行った所に、≪葛山≫という地域があります。 鎌倉から戦国時代にかけて、葛山氏が領地を構えていました。 元は藤原氏で、甲斐・駿河の国司だったのが土着化したらしいです。 ここは、その館跡です。 畑の中にポツンとあるんですが、周りの土地よりも少し高くなっているだけで、見るものは何もありません。



  館跡の近くに立っていた、≪葛山城案内図≫。 といっても、この写真のサイズでは、分かり難いですか。 赤い丸が現在地。 ちょっと離れた所に、葛山という小山があり、その頂上に城跡があります。 戦国大名にはよくある、普段は平地の館で暮らし、敵に攻め込まれると、山の上の城に立て篭もるというパターンですな。 そして、戦国時代の山城の常として、建物は一切残っていません。



   葛山城跡への登り口に鎮座しているお寺。 浄土宗・仙年寺。 ここの境内から山道が付けてあって、葛山に登れます。 そんなに高い山ではないので、10分もあれば、頂上に着きます。



  山道をしばらく登っていくと、疲れを感じる前に、早くも葛山城跡に差し掛かります。 一見、ただの谷にしか見えませんが、自然の地形を利用しつつ、掘るべき所を掘り、盛るべき所を盛って、険阻な城を築いてあるのです。 普通、この種の山城には、石垣はなくて、全部土で作られています。



  ここが本丸。 城といえば天守閣を思い浮かべますが、この種の小さな山城にはそんな綺麗な天主は無かったらしいです。 戦いの時に篭る為の城ですから、実用第一で、雨露を凌げる小屋や、兵糧を備蓄する倉庫があったものと思われます。 見るからに狭いですが、これでも山城の本丸としては広い方でして、中には5メートル四方くらいしかない城もあります。



  観光地によくある、顔出しパネルですが・・・・。 怖いよね、これ。 ≪もののふ≫っていうより、≪八つ墓村≫だっつーのよ。 逆に言うと、こういう物があるという事は、ここは確実に観光地として整備されていると思われるわけですが、ゴールデン・ウイークの真っ最中だというのに、私以外の訪問者は一人もいませんでした。



  葛山のすぐそばなので、景ヶ島に寄ってみたら、お堂の板壁が補修されていました。 なぜか、部分的で、ツートーンになってます。 全部直すと、お金がかかりすぎるのでしょうか? 裾野市も、いろいろと算盤を弾いとりますなあ。


  以上、≪箱根・大涌谷≫紀行の後編でした。 といっても、今回は、大涌谷の後に寄った、オマケの部分でしたから、紀行文というにはバラバラという感じがせんでもないですな。 お見苦しくて、申し訳ない。 写真のアップの面倒さえなければ、一回で全部出してしまえるんですがねえ。

2010/03/21

箱根・大涌谷

今週は、6日出勤なので、またまた、この記事を書く時間がありません。 まったく、平日は毎日、定時前に終わっているのに、どうして土曜に出勤せねばならないのか、とんと解せません。 予め定められた会社の勤務カレンダーに従っているわけですが、仕事が少ない時に、そんな一年以上前に決めた予定を杓子定規に守る必要は無いと思うのですよ。 柔軟性ゼロ。

  というわけで、困った時は、読書感想文か、紀行文に限るわけですが、紀行の方が、まだまだストックが溜まっているので、そちらで行きましょう。 今回紹介するのは、2008年の5月1日にバイクで行った、≪箱根・大涌谷≫です。 例によって、当時の日記から引き写します。


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2008/05/01 木晴曇

  朝起き。 しかし、昨夜靴下を履かずに寝たためか、寒気がして動きが取れずに、二度寝する。 9時頃起きて、ざっと新聞を読み、15分頃にバイクで出発。 目的地は、三島の箱根旧東海道だ。 服装は、白ジャンパー、普段ズボン、メットは夏用。 通勤用黒ナップザック。 ≪平安朝文章史≫を入れていく。

  9時半頃、三島図書館に到着し、本を返す。 これで当面、ここを利用する事はあるまいと思う。
 昨夜印刷しておいた、≪三島夢街道マップ≫を見ながら、箱根旧東海道に入るが、すぐに諦めた。 急傾斜は致し方ないとしても、石畳が多く、とてもバイクで走れる道ではなかったのだ。 初音台口で国道一号線に合流すると、目的地を変更して、箱根に向かった。

  箱根神社の前を通過し、≪箱根園≫まで行って、行き止まりに気付き、引き返す。 前にも似たような事をしていたような記憶がある。 一旦、神社の駐車場にバイクを停め、駒ヶ岳への登り口を探すが、そんなものは無いらしい。 横手の坂道を登って行ったら、拝殿の横に出ただけだった。 境内をざっと眺めて、依然来た時と変わっていない事を確かめた後、バイクに乗り、元箱根方面へ戻る。 途中で左に曲がり、小涌谷地区を経て、大涌谷へ向かった。 道端の地図を確認しながら進んだ。 

  大涌谷に来たのは、20年ぶりだ。 駐車場は2輪100円だった。 金を払いたくなくて、引き返そうとすると、係のおじさんに手招きされて、一方通行だから駄目だとのこと。 駐車場に入れなくても、適当な所に停めておけば良いという指示を受けたので、これ幸いと、路肩に停めて、谷へ向かった。 噴煙地までは、片道20分くらい歩く。 人でごった返しているが、聞こえて来る言葉は、中国語が多い。 黒玉子は、6個入り500円。 そんなには食べられないし、バイクでは持って帰る事もできない。 噴煙地の写真だけ撮って引き上げた。
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  えーと・・・、ここまでで半分なんですが、家に帰って来るまでに寄った所を全部出すと、写真の枚数が多くなり過ぎるので、二回に分けて、続きは来週という事にします。 前にも書きましたが、写真をアップするのに、結構な手間が掛かるので、一遍に何十枚もというわけには行かんのですわ。

  日記の内容を補足すると、≪朝起き≫というのは、文字通り、「朝起きた」という意味ですが、連休中の事とて、起きるのが遅くなる事もあるため、「普通に、朝、起きた」という意味で書いたもの。 ちなみに、私が休みの日に普通に朝起きる時間は、大体、6時頃です。

  ≪平安朝文章史≫というのは、4月20日に、三島図書館で借りた本の事です。 沼津の図書館に無かったので、わざわざ三島の図書館まで行き、利用者カードまで作って貰って、借りた本。 貸し出し期限まで、まだ日がありましたが、読み終わっていたので、三島へ行くついでに返してしまおうとしたわけ。

  ≪三島夢街道マップ≫というのは、確か、三島市のサイトか、観光協会のサイトからプリント・アウトした地図の事。 結構、細かい地図でしたが、いかんせん、旧東海道をバイクで走る計画そのものが頓挫してしまったため、全く役立てる事が出来ませんでした。 残念。

  ≪初音台口≫は、その付近の地名。 新興住宅地の入り口で、「はつねだいぐち」と読みますが、まあ、それは、どうでもいいか。 三島市は広大な箱根の裾野を開拓して、住宅地として売り出し、かなり人口を増やしました。 ≪初音台≫は、そんな中の一つです。 ちなみに、箱根山で、静岡県に属するのは、箱根峠まででして、よくテレビで紹介される、箱根の観光地は、関所跡も、芦ノ湖も、大涌谷も、ほとんど全て、神奈川県内にあります。

  ≪箱根園≫は、≪箱根プリンスホテル≫の付属施設で、水族館や、駒ケ岳へのロープ・ウェイ乗り場、芦ノ湖の遊覧船乗り場などが敷地内にあり、複合観光施設になっています。 「箱根に来たけど、どこを見ればいいのか分からん」という人は、とりあえず、ここへ行けば、半日くらい楽しく過ごせます。 水族館は、山の上とは思えないほど充実しているので、一見の価値あり。 ただ、私は前に一度来ていたので、この時はパスしました。

  ≪大涌谷≫は、「おおわくだに」と読みます。 箱根山は、大昔は、富士山に匹敵するほどの大火山でした。 上半分が陥没して巨大なカルデラが出来、その中心からもう一度噴火して出来たのが、駒ケ岳や神山、冠ヶ岳などの連山。 その北側の中腹にあるのが大涌谷で、今でも山の斜面から噴煙が上がっています。  「箱根に来たけど、どこを見ればいいのか分からん」という人は、とりあえず、ここへ行けば、帰ってから、家族・友人・知人相手に、「箱根は火山なんだよ」と、薀蓄を語る事ができます。 ここの名物は、硫黄泉で茹でた、≪大涌谷黒玉子≫。


  補足がやけに長くなってしまいました。 いい加減くどいので、以下、写真でご案内。 一枚目は、三島図書館からになります。



  ≪三島市立図書館≫が入っている、≪三島市民生涯学習センター≫。 入口から建物まで距離があるので、広い敷地を想像しますが、実は駅近くの住宅地の中にあり、「よく、こんな所に敷地を確保できたなあ」と感心するほど、建て込んでいます。



  三嶋大社前の道を東へ真っ直ぐに行くと、箱根旧東海道に入ります。 これは、街道の入り口にあった地図ですが、誤解を招きそうな描き方になっています。 奥が富士山となれば、手前の緑の山々が箱根という事になりますが、箱根旧街道は、箱根に登る道であって、富士山と箱根の間を通る道ではないのです。 実際に、富士山と箱根の間を通っているのは、国道246号線です。



  箱根旧街道の入口にある、≪愛宕坂≫。 三島から箱根峠までの道は、基本的にすべて坂であるにも拘らず、わざわざ、≪~坂≫という名前がつけてあるという事は、この部分がとりわけ生半可でない坂である事の証拠なのでしょう。 実際、どえりゃあ勾配の坂で、ローギヤでなければエンストを起こしかねない所でした。 「箱根八里は馬でも越す」わけですが、荷車はとても無理ですな。 江戸時代以前は、陸路よりも、海路が多く利用された理由がよく分かります。



  一見、何を撮ったのか分からない、最低写真のように見えますが、ここは箱根峠の駐車場でして、石畳風に舗装してある道が、箱根旧街道の終着点なのです。 もちろん、昔はこんな舗装ではなく、もっとごつごつした石を並べた道だったわけですが、今はすっかり埋もれて、中腹の一部に復元してあるだけです。 さすがに、山の上だけあって、5月の1日なのに、桜が咲いていました。



  箱根神社。 ここへ来るのは、3年半ぶりです。 しかし、ほとんど変わってません。 この神社は、完璧・専門・本職・筋金入りの観光神社です。 源頼朝絡みで歴史も長いんですが、なにせ観光重視なので、常に塗り替えていて、ビカビカです。



  箱根神社の境内にある、≪九頭龍神社新宮≫。 ひときわ、ビカビカ! 本宮は芦ノ湖畔の西の方にあるらしいのですが、平成になってから、参詣し易いように、箱根神社の境内に、この新宮を作ったのだとか。



  箱根・大涌谷の駐車場。 狭い平地部分を目一杯使って、駐車場を確保しています。 車は有料。 バイクも本当は有料らしいのですが、「置く所が無い」と言われ、道路脇に只で停めさせて貰いました。 ラッキー!



  箱根・大涌谷の噴煙地。 1050Mというのは、標高のようです。 結構高いですな。 後ろに見えるのは、冠ヶ岳。 典型的な火山である富士山と比較される事が多いので、箱根というと普通の山のようなイメージがありますが、この大涌谷に来ると、箱根もれっきとした火山である事を再認識させられます。 ちなみに、芦ノ湖も火山湖です。



  大涌谷には、こんな感じの硫黄泉が幾つかあります。 温泉地の≪泥湯≫のように見えないでもないですが、実際には、猛烈な硫黄臭が立ち昇っており、とても裸で入れるような所ではありません。



  大涌谷の名物は、≪黒玉子≫ですが、駐車場横の売店の他に、硫黄泉のすぐそばにも小さな店があり、作りたてを売っています。 6個で500円。 ばら売りが無かったので買わなかったんですが、現物は、こんな感じ。 名前の通り、艶消し真っ黒の茹で卵です。



  黒玉子の浸け込み作業を見る事ができました。 見ての通り、最初は普通の白い鶏卵なのであって、硫黄泉に浸けることにより、黒くなるわけです。 画面には写っていませんが、手前側は観光客がぎっしりで、作業者は注目の的になっています。



  黒玉子の浸け込み作業がどれだけの人に見られているかというと、このくらいの観光客に見られています。 山の中とは思えない人出。 硫黄泉があるばかりに、これだけの経済効果が出ていると思うと、観光資源の凄さがよくわかるというもの。



  噴煙地から駐車場方向を見た所。 なだらかな山道を15分くらい歩きます。 なんでこんなに離れているかというと、ちゃんと理由があるらしく、噴煙地から有毒の火山ガスが噴出した時、この山道部分を封鎖してしまえば、駐車場と売店を守れるというのです。 結構危ない観光地なんですなあ。



  駐車場の脇にある売店。 黒玉子の他に、観光地の定番である饅頭のようなお土産を売っています。 連休中は、お客がひっきりなしに押しかけて、戦場のような忙しさだったんじゃないでしょうか。



  ロープ・ウェイの駅。 東京方面から来る場合、小田原から箱根登山電車で≪強羅≫まで来れば、そこからロープウェイで大涌谷に登れます。 ロープ・ウェイは、大涌谷を通り越して、芦ノ湖畔の≪湖尻≫まで降りられますが、そちらには鉄道が無いので、ロープ・ウェイで引き返すか、バスで戻るしかありません。


  以上、≪箱根・大涌谷≫紀行の前編でした。

  ちなみに、20年前ここへ来た時、私はまだ、ファミレスでバイトをしていました。 真夜中、仕事が終わった後に、バイト仲間の沼津高専の学生の案内で、私の車(初代ダイハツ・ミラ 白)に乗り、箱根に登りました。 ところが、途中でガス欠し、スタンドを見つけたものの、夜中の事とて閉店中。 店員が出て来るのを朝まで待ち、やっと給油して、大涌谷へ向かいました。

  早朝の事とて、売店は一個所も開いておらず、私達以外に誰もいない潅木林の中を歩き、噴煙地を見て帰って来ました。 青春の一コマと言えなくもないですが、彼とは別に友人というほど親しくはなかったですから、胸が熱くなるほど懐かしい記憶というわけではありません。 でも、歳を取ってくると、そんな何でもないような出来事でも、ただ長い時間が経ってしまったというだけで、そこそこの思い出になるものなんですな。

2010/03/14

餞別作戦

  勤め先の同僚なんですが・・・。 22歳、男。 高校卒業後、正社員として入社し、4年間働きましたが、3月いっぱいで自主退職する事になりました。 理由は、「この会社が嫌だから」。 なぜ嫌かというと、「馬鹿ばっかりだから」。 具体的にどのように馬鹿かというと、「生産ラインを停めてばかりで、定時で終わる仕事量なのに、残業を2時間もやったりするから」とか、「下らない事で社員を集合させ、長いばかりで中身が無い演説をぶちたがるから」とか、「就業時だけでなく、通勤時の服装を指定したり、茶髪・ピアスを禁止したり、個人的な事に口を突っ込んでくるから」とか、その他さまざまな頭に来る事。

  そうそう、全ての不満のベースになっている問題として、富士市在住なので、裾野市にある会社まで通勤するのに、車で片道一時間以上かかるという障碍もありました。 行き帰りの時間だけでも、2時間かかるわけで、残業が2時間を超えると、一日の内、会社の為に費やす時間が、13時間を超えてしまい、家に帰ったら、テレビを見る時間も無いというわけ。 なるほど、それは辞めたくなりますわなあ。 よく、そんな生活を4年間も続けて来たものだと、そちらに感心します。

  入社当初は、隣の班にいたので、私とは無縁の存在でした。 外見が今風の若者そのままで、やたらうるさい車に乗っていたので、「不良・暴走族の類か」と思っていたんですが、2年くらい前から同じ班になり、他の人と話をしているのを聞いて、割と気さくな性格である事が分かりました。 私は社内で交友をしない方針なので、それでも話はしなかったんですが、半年くらい前から関係が変わり、仕事が終わった後、駐車場まで一緒に帰るようになりました。 向こうから近づいて来たのです。 どうも、それまで彼が一緒に帰っていた先輩と疎遠になり、一緒に帰る相手を私に乗り換えたらしいんですな。

  その先輩と疎遠になった理由というのが面白くて、それまでは、ベテランとして敬意を払っていたのが、ある時、担当工程の入れ替えで、自分のやっている仕事をその先輩に教える事になったのだそうです。 ところが、ベテランだから完璧にやってのけるかと思いきや、あまりにもミスが多いので、呆れてしまったのだとか。 「寝ながらやっても間違えないような事を、一日に何度も間違えるから、フォローしきれなくて、自分が上司から怒られた」との事。 なるほど、約1年半続いた先輩への尊敬も、正体が割れた途端、ものの一日で消滅したわけだ。

  で、乗り換えられた私ですが、普段、人付き合いをしないものの、他人の話を聞くのは嫌いではありません。 自分の事を喋るより、他人の話を聞く方が面白いので、割と聞き役はうまいのです。 で、この半年間、彼の話を聞いて聞いて聞きまくりましたよ。 私と彼の共通点は、出世欲ゼロで、勤め先を、「給料を貰う所」と割り切っていた事です。 自分達の会社をろくでもない所だと思っていて、まあ、ほとんど毎日、会社や上司の悪口で盛り上がっていました。

  それが、去年の12月に入った頃から、彼が、「本気で会社を辞めたい」と言い出しました。 一応、辞める気のない者の義務として、引き止めてみたものの、上述したような様々な理由を説明され、逆に納得させられてしまいました。 当人が、辞めた場合と続けた場合の損得をよく検討し、熟慮の末に決めた事のようなので、それ以上無責任に引き止めるのはやめました。

  まだ若いので、再就職先が見つけ易いという点も、送り出す側としては気楽でした。 頭がよく回り、「事務仕事も嫌いではない」と、自分で言うほどですから、デスク・ワークをしているとイライラして来る私とは、同じ基準で比べられません。 そういうタイプの人間もいるわけですな。 そういうタイプだからこそ、工場勤めの単調な仕事が我慢ならなかったのだとも言えます。

  で、今年になってから、上司に退職の意向を伝え、会社側の都合と調整して、3月いっぱいで退職と決まったのだそうです。 ただ、有休の残りがあるので、それを使う事にし、会社に来るのは、3月12日の金曜日までになるとの事。


  ・・・・と、≪出勤最後の日≫の正確な情報が、私の耳に入ったのは、3月8日の月曜日でした。 随分と長く書いて来ましたが、実は、ここまでは前置きです。 彼が辞めること自体は、私がどうこう言える事柄ではないので、テーマにはなりえません。 私にとって重大問題だったのは、≪餞別≫をやるべきか否かなのです。 「えっ! そんな下らない話だったの?」と驚くなかれ。 私のように、人付き合いの乏しい、筋金入りの吝嗇家にとっては、一生に何度も無いような局面なのです。 目の前にそそり立つ壁。 アイガー北壁に譬えても宜しい。 いや、関係ないか。

  ここ半年間、毎日、駐車場まで喋りながら帰っていたものの、それ以上の仲ではなく、また、向こうはまだ22歳で、餞別に拘るような歳でもなし。  しかし、班内の人間関係を見るに、他の者が餞別を出すとも思えず、「一人くらい出した方がいいかなあ」と、悩むわけです。 餞別という奴、祝儀や香典と違って、半ば廃れかかった風習のようで、渡そうとすると頑なに断る人がいるから厄介なのです。 せっかく袋を用意して行ったのに、受け取って貰えないのは、実に嫌なもの。

  もう十年くらい前ですが、一度そういう事があったのです。 そこそこ世話になった人で、遠くの別工場へ移籍する人が二人いたので、餞別を渡そうと持って行ったら、一人は抵抗無く納めてくれたのに、もう一人が受け取ってくれません。 悪徳商人から賄賂を差し出された時の潔癖な役人の如く、無表情に拒み続けます。 休み時間ごとに訪ねて行って、「用意して来た物を持って帰れないから、どうか受け取って下さい」と頭を下げて、ようやく納めてもらいましたが、まあ、疲れました。 その時の二の舞は御免です。

  また、金額も問題。 なにせ、廃れかかっている風習なので、相場がはっきりしません。 親しい人とか、世話になった人なら、ケチな私でも、5千円くらい包みますが、「単なる話し相手程度では、3千円くらいでいいのではないか」とか、「いや、確実に渡すためには、3千円ですら多いのであって、いっそ千円くらいにして、受け取り易くしてやった方がいいのではないか」とか、いろいろ考えるわけです。 考えている内に、煮詰まって、「面倒くさいから、別に出さなくてもいいか」と、そこへ戻ってしまいます。 この堂々巡りで、火水木と、三日間が過ぎ去りました。 私、金が絡むと、どうも判断力が鈍る傾向があります。

  そして迎えた金曜日の朝。 もう決断しなければなりません。 遅番の週なので、家を出るのは午後2時頃ですが、餞別を用意するためには、それなりの手間と時間がかかるからです。 悩みに悩み抜いた末、結局、やる事にしました。 多少の金をケチって、後で、「いや、出しときゃ良かったかな~」と悔むのも、精神衛生に悪いですけんのう。 一生に何度も無い局面だけに、失敗すると、後々、嫌な記憶になって残り易いと来たもんだ。

  金額は、受け取り易さを優先して、千円にしようかと思ったものの、「千円貰って嬉しい奴はいないだろう」と思い直し、2千円に変更しました。 貰う方の立場になってみると、千円の場合、「何だ、千円か」と、残念な反応になると思うのですが、2千円なら、「おっ、2枚入ってるじゃん!」と、ミクロ・サプライズして貰えるのではないかという目論見。

  午前10時頃に銀行へ行き、新札に換えてもらいました。 新札両替は初めてでしたが、まさかお札を取り替えるだけで、住所氏名を書かされるとは思いませんでした。 そんな大袈裟な事かいな。 偽札のロンダリングでも、警戒しているんでしょうか。 そういう用向きの輩は、そもそも銀行の窓口なんかに来ないと思いますけど。

  で、家に封筒形の簡易祝儀袋があったので、それに≪御餞別≫のスタンプを押し、ピンピカの千円札を2枚入れました。 問題は会社までどうやって運ぶかです。 バイク通勤用のナップ・ザックに直截入れたのでは、せっかくの新札が袋ごと曲がってしまいます。 そこで、空になったティッシュの箱の厚紙で、袋形のカバーを製作しました。 鋏で切って、適当に折り曲げて、粘着テープで貼るだけのやっつけ仕事を、ものの5分で済ませました。 要は折れなきゃいいのです。

  会社へ着いて、確認しましたが、折れてはいない様子。 よしよし。 帰りを待ち、いつものように、駐車場まで話しながら歩いて来て、いよいよ、これで最後というタイミングで、ナップ・ザックから出して手渡しました。 「一人くらいやった方がいいだろ」 「いやあ、悪いっすよ」 「いや、受け取ってもらわないと困るから」 「いいんすかあ」 「二千円しか入ってないから」と、社交辞令的やりとりがあったものの、割とすんなり受け取って貰えました。 やれやれ、面倒な押し付け合いにならなくて助かった。

  うちの会社は、大所帯なせいか、社員同士の付き合いは希薄で、とりわけ、辞めていく者に対しては淡白過ぎるところがあり、餞別をやる習慣そのものが見られません。 だけどねえ、4年勤めた会社を辞めるわけだから、餞別の一つくらい貰ってもいいと思うのですよ。 相手の様子を見るに、そういう物を貰えると期待していなかったらしく、満面の笑みで喜んでくれてました。 うん、良かった良かった。 これでこそ、新札と祝儀袋と厚紙カバーを用意した甲斐があったというもの。

  で、「じゃ、お元気で」 「お元気で」 「さよなら」で、お別れになりました。 彼の家は富士市で、私は沼津ですから、地理的な遠さから考えても、たぶん、もう二度と会う事は無いでしょう。 住所も電話番号も知らないし。 同僚というのは、そういうものです。 毎日、話をしていても、友人とは違うのです。


  というわけで、≪餞別作戦≫は、成功裏に終了しました。 まさか、彼も、私の頭の中が、餞別の問題で一杯で、別れの感傷など寄り付く島も無かったとは、想像もしなかったでしょう。 いや、とにかく、せっかく合わない会社から離れられたのですから、次は良い所に就職して、充実した人生を送ってもらいたいものです。

2010/03/07

独ソ戦四冊

去年の12月半ばから、今年の3月にかけて、第二次世界大戦の、≪独ソ戦≫に関る本を四冊読みました。 その前に、動物関連本の流れで、ダーウィンの≪人類の起源≫という本を読んだのですが、その中に出てくる人種観が、≪社会ダーウィニズム≫という思想を生み、ヒトラーに影響を与えたというので、その関連で何か読み応えのある本は無いか調べていたら、≪独ソ戦≫の本が見つかったというわけ。 戦史を読んだのは久しぶりです。

  日本では、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に関する知識というと、専らアメリカの映画やドラマの影響で、アメリカ軍とドイツ軍の戦いに関わるものに限られています。 まるで、それが全てであったかのように思っている人も多い事でしょう。 しかし、ナチス・ドイツと本当の意味で血みどろの死闘を繰り広げたのはソ連であって、米英軍対ドイツ軍の戦いなど、規模でも、凄惨さでも、独ソ戦とは比較の対象にならないのだそうです。

  ナチス・ドイツは、スラブ人を劣等民族と見なしていたために、ソ連の捕虜を家畜のように扱い、占領した地域の住民に対しても、統治など二の次で、奴隷として扱き使う事しか考えなかったのだそうです。 そういう扱いを受けたソ連側も、それまで抱いていたドイツ文化への敬意などかなぐり捨てて、ドイツがソ連にしたのと同じ事を、そっくり仕返ししようとします。 これが、人道からかけ離れた凄まじいばかりの残虐行為を産み、互いにエスカレートさせて行ったらしいのです。 それに比べると、米英軍とドイツ軍の戦いは、米英軍の将軍達の言葉によれば、「合理的な行動を取る相手と行なう、ゲームのようなもの」だったらしいです。 映画から得られる印象とは、随分異なっていますな。




≪(詳解)独ソ戦全史≫
  第二次世界大戦で、ナチス・ドイツがソ連に侵攻する直前の情勢から、ソ連軍によってベルリンが陥落するまでの流れを時系列に沿って記してあります。

  著者は、アメリカの独ソ戦史研究家二人で、ソ連崩壊後に閲覧可能になったソ連側の資料を用いて、「なぜ、ソ連軍は緒戦で大敗したか」、「なぜ、ソ連軍はドイツ軍を押し返す事ができたか」を明らかにして行きます。 第三者である上に、ドイツ・ソ連のいずれかから直接被害を受けたヨーロッパ人でもないため、ほぼ完全といっていい客観的な分析がなされています。

  掻い摘んで言うと、ドイツが攻め込んで来た時、ソ連軍は、スターリンの軍人粛清や戦術の改編で混乱しており、とても戦える状態ではなかったらしいです。 北はレニングラードとモスクワのすぐ手前で辛うじてドイツ軍を食い止め、南はスターリングラードで死体を山と積んで持ちこたえている間に、スターリンの考え方が変わり、軍人達を戦争の専門家として信頼するようになったため、以降、合理的な戦術が取れるようになり、反撃に転ずる事ができたのだとか。 ≪餅は餅屋≫という事でしょうか。

  一方、ヒトラーの方は、スターリングラードで進撃が止まり、戦線が膠着してしまうと、次第に軍人を信用しなくなります。 素人のくせに、自分の思いついた作戦を強引に実行させるようになったため、ドイツ軍の戦術は乱れ、ソ連軍の反撃を食い止める事すら出来なくなって行きます。 ちょうど、スターリンのソ連とは、正反対の経過を辿ったわけですな。 やはり、≪餅は餅屋≫なのです。

  この本、644ページと結構厚いんですが、1941年から1945年までの全期間を対象にしているので、戦闘の細部までは触れていません。 有名なスターリングラードの戦いも、ほんの1ページ分くらいしか割いていません。 血沸き肉踊る戦記物というわけではないので、ご注意。




≪スターリングラード≫
  ≪独ソ戦全史≫を読んだ後、独ソ戦の転換点になった、スターリングラードの戦いについて、もっと詳しい事を知りたくなり、この本を借りてみました。 532ページもあって、読むのに4週間もかかってしまいました。

  イギリスの元軍人で戦史研究家の著者が、1990年代の終わり頃に書いたドキュメンタリーです。 「20世紀最高の戦争ドキュメンタリー」と言われているそうで、読んでみると確かに面白い内容で、そういう評価を受けても不思議は無いと思いました。 書かれた時期から分かるように、ソ連崩壊後に公開された資料を参考にしており、ソ連とドイツ双方の視点から、スターリングラード戦の詳細を明らかにして行きます。

  この著者の作品の特徴は、公的資料の他に、軍人の伝記、将兵や報道関係者の日記、生存者へのインタビューなど、多方面からのアプローチを丹念に行なっている事でして、小説として読んでも違和感が無いくらい、当時の状況を生き生きと再現しています。 殺し合いの記録なので、「生き生き」というと語弊があるかもしれませんが、他に表現のしようが無い魅力ある文章なのです。 天才狙撃兵、ザイツェフを主人公にした映画、≪スターリングラード≫の場面を思い出しながら読むと、より味わい深いと思います。

  記述内容は、ドイツがソ連に攻め込んでから、スターリングラード戦の直前までの経緯を大まかに記し、スターリングラードにドイツ軍が侵攻して以降は、一事例ごとの細かい描写に移ります。 砲爆撃で廃墟と化した市街地での、一進一退の激戦に多くのページを割いた後、大規模な反撃作戦を準備していたソ連側が、ドイツ第六軍の後方を遮断して、厳冬の雪の中に孤立させ、降伏に追い込むまでを描きます。

  侵攻開始以来、怒涛の勢いで攻め続けて来たドイツ軍が、補給が途絶えた途端、見る見る痩せ細って、凍死者・餓死者が続出し、戦争どころではなくなっていく様子がありありと伝わって来ます。 ヒトラーが、スターリンの名前が付いた都市の攻略に拘って、撤退を許可しなかった事が大きな原因ですが、大きな目で見れば、ナチス・ドイツの軍事的拡大の限界が、ここまでだったという事でしょう。 スターリングラード戦以降、ドイツ軍の進撃は止まり、ソ連側が一方的に押し戻す流れに変わります。

  印象に残ったエピソードを一つ挙げますと、「スターリングラードで最初にドイツ軍を迎え撃ったのは、高射砲部隊の女子高生だった」という話にはびっくりしました。 ソ連軍は性差別が無く、女性の戦闘機乗りがいた事は有名ですが、民間人の、しかも学生も同様だったんですね。 ちなみに、彼女らは義務感が極めて強く、全員殺されるまで戦ったそうです。




≪ベルリン陥落 1945≫
  この本は647ページもあって、やはり読み終わるのに、4週間かかりました。 会社の休み時間にしか読まないので、なかなか捗らないんですわ。 沼津市の図書館は、2週間が貸し出し期限なので、一度延長して読み続けたわけですが、ほぼ一ヶ月も同じ本ばかり開いていると、内容に関係なく、うんざりして来ますな。

  ≪スターリングラード≫と同じ著者による戦史ドキュメンタリー。 ただ、続編というわけではありません。 スターリングラード戦は、1942年8月から1943年2月までですが、この本は、時間が少し飛んで、1944年末頃から1945年5月までが対象になっています。 ドイツ軍を押し戻して来たソ連軍が、現ポーランドの中央付近を流れるヴィスワ川を越えた辺りから始まり、ヒトラーが自殺して、ドイツが降伏したところで終わります。 ベルリン陥落が主なテーマなので、ドイツ軍とソ連軍の他に、西から進んで来る米英軍の動向にも触れますが、そちらはオマケ程度です。

  ナチス・ドイツは、「アーリア人であるゲルマン民族は、他の民族よりも優れている。 スラブ人は劣等だから、ドイツ人に奴隷として従属させなければならない。 ユダヤ人は有害だから絶滅させなければならない」という考え方で、東欧・ソ連に侵攻したわけですが、この頃になると、ほとんどすべての戦闘で負けており、こと戦争の遂行能力だけ見れば、ドイツ人の方がスラブ人より劣等としか思えません。

  ヒトラーやナチス党の幹部達が軍の指揮に関して全く無能だった事は間違いありませんが、原因はそれだけではなく、ドイツ国軍の将軍達も、結構自由に指揮権を行使しているにも拘らず、ソ連軍の進撃を止められないのです。 ちなみに、独ソ戦も後半に入ると、兵器の性能の違いは、ほとんどありません。 ソ連側の強さは、軍需物資の生産力、兵員の補充余力、兵站力、そして、行き届いた訓練、合理的な作戦、巧みな外交など、正に総合的な国力の優位から生まれていたんですな。

  ところで、この本の真のテーマは、戦闘の経緯ではなく、ソ連軍がドイツ領内に入ってから起こり始める、ソ連兵の問題行為を暴く事にあるようです。 具体的に言うと、略奪と強姦です。 前作の、≪スターリングラード≫では、著者はソ連兵に対する批判をほとんどしていなかったのですが、この本では、くどいくらいに、ソ連兵による強姦の事例が取り上げられます。 あまり多いので、著者が前作を発表した後、何か政治的な圧力でもかかったのではないかと訝ってしまうほどです。

  ドイツ人女性だけでなく、ドイツ軍に捕まって、ドイツの占領地域で働かされていたソ連人女性も、解放された後で、強姦の対象になったそうで、かなりショッキングな話。 もし、この本だけ読むと、ソ連側が悪で、ドイツ側が被害者だったと思い込んでしまう読者も多いのではありますまいか。 著者もそう思ったのか、はたまた、今度は逆方向からの圧力がかかったのか、この本の後に、≪赤軍記者グロースマン≫という本を出版して、ドイツ軍の蛮行を詳述し、バランスを取る事になります。

  この本で印象に残った件りを一つ挙げますと、ドイツ領内に入ったソ連兵達は、ドイツ人の町や家が、整然としており、物に溢れている事に驚愕したのだそうです。 「こんなに豊かな生活をしているのに、どうして俺達の国に攻めて来たんだろう」と、理解に苦しんだのだとか。 なるほど、確かに奇妙な話ですな。

  敢えて回答を探すなら、民族差別意識と、資源への欲求という事になりますが、前者には科学的根拠が無く、後者は貿易でも入手可能なわけで、数千万人の命を犠牲にしてまでやるような事とは思えません。 これが、ヒトラーという、たった一人の狂人が引き起こした結果かと思うと、人類の存在も、案外脆いような気がします。




≪赤軍記者グロースマン≫
  これは、≪スターリングラード≫、≪ベルリン陥落 1945≫の著者が編集に当たった本。 ですが、こちらはドキュメンタリーではなく、伝記に近い内容です。 ヴァシーリィ・セミョーノヴィッチ・グロースマンは、ウクライナ生まれのユダヤ系ソ連人作家で、独ソ戦期間中は、ソ連軍の機関紙、≪クラースナヤ・ズヴェズダー≫の戦場特派員でした。 この本は、そのグロースマン氏が遺した戦場メモや手紙を中心にして編集したもの。

  グロースマン氏は、ドイツが攻め込んでくると、すぐに戦場行きを志願して、1941年から1945年まで、独ソ戦のほぼ全期間に渡って、戦場と編集部のあるモスクワを車で行ったり来たりします。 ≪スターリングラード戦≫や、史上最大の戦車戦になった≪クルスク会戦≫、最後の戦闘、≪ベルリン攻防戦≫にも駆けつけて、指揮官から一般兵、土地の住民まで、満遍なく取材し、独ソ戦の全体を自らの目で見た作家の一人となりました。

  この本の圧巻は、ポーランド領内で見た、ユダヤ人の抹殺施設、≪トレブリーンカ絶滅収容所≫の様子を描いた部分です。 アウシュビッツと同様の施設で、ポーランドを中心に集めて来たユダヤ人を、列車で搬入し、休む間も無く、荷物を取り上げ、裸にさせ、髪を刈り取り、ガス室へ送り込みます。 「入浴させる」と騙されている上に、ガス室が近づくと、看守達が恐ろしい剣幕で追い立てるので、立ち止まる事もできなかったのだとか。 集めた髪は、マットの充填材として、出荷していたらしいです。

  こういう事情が分かったのは、ほんの僅かに生き残った人達から、証言が得られたからだそうです。 死体を片付ける作業員として使われていたユダヤ人男性達が、「どうせ自分達も殺されるのだから」と、反乱を起こし、看守を殺して逃亡したのだそうです。 ちなみに、ドイツ人の管理者はたった25人で、その下にウクライナ人の看守が100人ほどおり、彼らが殺したユダヤ人の数は、この施設だけで、80万人だそうです。

  一応、≪収容所≫という名前が着いていますが、収容する宿舎などは最初から無くて、列車からガス室へ直行させていたため、施設の規模は驚くほど小さかったのだとか。 最初は、敷地内に大きな溝を掘って死体を埋めるのですが、ドイツ軍がスターリングラードで敗北したのを契機に、押し戻して来るソ連軍に発見されるのを恐れて、一度埋めた死体を掘り返し、焼却炉を作って燃やし始めます。 炉に押し込まれた死体が燃える様は、正に地獄絵図だったらしいです。

  グロースマン氏自身もユダヤ系だったので、ショックは並大抵ではなかったようです。 故郷のウクライナの町もドイツ軍に占領されるのですが、そこでもユダヤ人虐殺が行なわれ、グロースマン氏の母親も殺されます。 モスクワへ呼び寄せる時間があったのに、母親を説得できずに、結局死なせてしまった事を、氏は死ぬまで後悔し続けたそうです。

  独ソ戦全体の見聞記の一部として出て来るだけに、専門に書かれたアウシュビッツ関連の本よりも、真に迫った恐ろしさを感じさせます。 人間というのは、ここまで残虐になれるという証明なわけで、読者は暗澹たる気分に沈む事になります。

  この本、520ページあり、かなり厚いのですが、メモや手紙といった細切れの文章が多いので、読むのにさほど負担は感じません。 ただ、その分、文章の流れが滞りがちになるので、読書のノリは悪いです。 この本にも、3週間かかりました。 そうそう、戦場で撮ったグロースマン氏の写真が多く掲載されているのは、面白い特徴です。 新聞の特派員だったので、カメラマンが同行しており、プロの腕で撮った写真がたくさん残っていたんでしょうな。 当時の戦場写真で、これだけ鮮明な物は珍しいのではないでしょうか。


  以上、四冊、独ソ戦関連本でした。 この種の戦史を読むと、つくづく思うのですが、戦争が起こると、個々の兵士というのは、もはや個性を持った人間ではなく、ただの軍需物資になってしまうんですな。 しかも、消耗品の。 政治家や将軍達は、作戦を立てる時点で、予め、全体の何割かが死亡する事を想定しているのです。 死ぬか生きるかは、兵士達が選べる事ではなく、状況の偶然によって決まります。 兵隊にとられたら、もう死んだも同然なのです。 いやはや、平和は貴重だわ。