2013/01/27

映画批評⑥

  どうやら、映画中毒になってしまったらしく、昨年の暮れから、暇さえあれば、映画を見るか、映画の感想を書くか、録画する映画の選択をしています。 いや、正確に言うと、選択は、ほとんどしていません。 とにかく、家のテレビで受信できる全てのチャンネルで放送される映画の内、今までに見た事が無いものを全て録画しているのです。

  録画がどんどん溜まるので、どんどん見なければならず、見たら、どんどん感想を書かねばなりません。 これは、強迫神経症そのものですな。 ≪ノルウェイの森≫なんて、去年の暮れに録画したものですが、長そうなので、後回しにし続けた結果、未だに見ていません。 いつか、見れる時が来るんでしょうか。

  で、感想をどっと出しますが、今回の分は、去年の11月末から12月初めにかけて見た分です。



≪幸せの1ページ≫ 2008年 アメリカ
  面白い! 助演が、ジョディー・フォスターさんで、主演は、子供。 原題の直訳は、≪ニムの島≫で、ニムというのは、11歳の女の子の名前です。 頓珍漢な邦題は、恐らく、配給会社が、ジョディー・フォスターさんの映画だと思わせて、客を引こうとしたのでしょう。

  南太平洋の小島に、学者の父と二人で暮らしている少女・ニムが、嵐で父が行方不明になっている時に、たまたま通りかかった客船の乗客が上陸して来たのを、海賊の襲撃と勘違いし、ファンだった冒険小説の頼もしい主人公に、メールで助けを求めるものの、サンフランシスコから遥々やって来たのは、小説の作者のおばさんだったという話。

  原作は児童文学らしく、島で起こるのは、子供向けの他愛の無いエピソードばかりですが、ジョディー・フォスターさんが演じる小説家が、病的潔癖症の上に外出恐怖症でありながら、飛行機や船、ヘリコプターを乗り継いで、地球を半周して来る悪戦苦闘の様子が、実に面白く、大人が見ても楽しい映画に仕上がっています。

  こういう風に、二つのストーリーを平行して進めるのは、バランスの配分が難しいのですが、脚本家がいい仕事をしているんですねえ。 また、ファンタジックな話でありながら、映像がリアルなので、嘘っぽさを感じさせないのも見事。

  コメディーに出ているジョディー・フォスターさんを初めて見ましたが、何をやらせても、魅力的な役にしてしまう実力は、大したものです。 


≪ディアボロス≫ 1997年 アメリカ
  キアヌ・リーブスさん主演、アル・パチーノさん助演の悪魔物。 アメリカ映画界は、悪魔物が好きなようですなあ。 日本で、鬼物が作られないのは、不思議な話。 CGを使えば、いくらでも、凄いものが出来ると思うんですが。

  フロリダで負け知らずだった若手弁護士が、ニューヨークの法律事務所にスカウトされ、破格の好待遇で大きな仕事を任されるものの、実は、そこの所長が悪魔で、妻を自殺に追い込まれた上に、悪の世界に引き込まれそうになる話。

  アル・パチーノさんが悪魔役なわけですが、コミカルな雰囲気を出そうとしている為に、怖さを損なってしまっています。 もっと冷淡で、ニコリともしない方が、悪魔らしくなるのに。 やる事も、結構甘くて、冷血さに欠けます。

  ラストが、また、奇妙な終わり方で、つまり、主人公が悪魔の誘惑に打ち勝ったと言いたいのでしょうが、どうにも、安直。 真面目に物語を作る気があったのかどうかさえ、疑わしくなります。 キアヌ・リーブスさんの同趣向の映画なら、≪コンスタンティン≫の方が、ずっと、面白いです。


≪鉄道員≫ 1956年 イタリア
  映画史に残る名作と言われている一本。 特急列車の運転手をしている自分勝手な父親が、男関係に問題がある娘や、裏世界に片足を突っ込んだ長男らと諍い、家族がばらばらになっていく様子を、幼い次男の目から観察した話。

  忌憚無く言わせて貰えば、これのどこが名作なのか、さっぱり分かりません。 登場人物の人格に問題がありすぎでしょう。 母親以外は、ろくでなしばかりではありませんか。 こんな連中は、不幸になって当然なのであって、境遇に共感するなど、到底、無理な相談です。

  とりわけ、父親が最悪。 クリスマスの夜に、「一杯だけ飲んでいく」と言いながら、飲み屋で盛り上がり、結局、夜中まで帰らず、その間に、娘が流産してしまったり、列車で、飛び込み自殺者を轢き殺した直後に、酒を飲んで、衝突未遂を起こしたり、自分のミスを会社のせいにしたり、とても、物語の主人公になり得る人格ではないのです。

  その父にして、この娘あり。 真面目な亭主と結婚しているのですが、他の男ともつきあっていたようで、流産した子供は、誰の種だか、分かったもんじゃありません。 浮気相手と一緒にいたところを、幼い弟に見られて、家族に言わぬよう口止めするのも、いい大人のやる事ではありますまい。 それでいて、悪いのは父親と亭主だとわめき散らすのだから、始末に負えません。

  長男は、チンピラ化の途上ですが、これはまあ、よく見られる人物造形で、借金を返すために母親の宝石を持ち出そうとする場面以外は、さほど腹は立ちません。 次男は、まだ子供なのですが、大人と約束した事を、いとも容易に破り、秘密をべらべら喋り捲るのは、一体、誰に似たのやら。

  こういう不良家族を中心にした話で、感動しろと言われてもねえ。 ただ、善悪バランスは、しっかり取ってあって、見終わった後に、嫌な感じは、あまり残りません。 感動作などと言わなければの話ですが。


≪キューティー・ブロンド≫ 2001年 アメリカ
  ブロンドの髪と、明る過ぎる性格のせいで、ハーバード大学の法律科へ進む彼氏に捨てられてしまった女子大生が、猛勉強して、同じ大学に入学するものの、彼氏には新しい彼女が出来ていて、対抗するために、法律の勉強と弁護士の実習に励む話。

  続編の≪キューティー・ブロンド ハッピーMAX≫の方を、前に見ていて、順番が逆になりました。 続編の方と全く同じで、見始めは、主人公の趣味があまりにも派手派手なために、反発を抱くのですが、見ている内に引き込まれて、いつのまにか、主人公の味方になって、全面的に応援したくなるという、不思議な魅力がある映画です。

  話はシンプルで、ハーバードに入学するまでが前置き、本体部分は、ある殺人事件の弁護実習に、ほぼ全てが当てられています。 ≪ハッピーMAX≫の方は、より大掛かりな話なので、比べると、少し貧弱な感じがしますが、作られた順番通りに見れば、不満は感じないでしょう。


≪縛り首の木≫ 1959年 アメリカ
  ゲーリー・クーパーさん主演の西部劇。 金鉱の村の医者が、駅馬車強盗に遭った女の命を助け、回復した女に愛されるものの、自分が過去に罪を犯していた事から、素直に受け入れる事ができず、女が始めた金採掘事業を、裏で密かに援助する話。

  この主人公が、人格者かと思いきや、そうでもなく、賭けポーカーはやるわ、すぐに銃を抜くわ、喧嘩上等だわで、ゲーリー・クーパーさんの、理知的で優しいイメージと、随分掛け離れています。 こういう人物なのだ、というより、おとなしいストーリーと、西部劇のアクション性を両立させるために、本来、物静かな主人公に、荒っぽい事をやらせざるを得なくなったのかもしれません。

  作中でも、「これが、医者のやる事か!」と、呪術師に罵られていますが、医者として、人を助ける一方で、憎い相手なら射殺もためらわない態度は、あまりにもアンバランスです。 一応、話は出来ているのですが、人物造形に難があるため、平均点もつけられません。


≪スペル≫ 2009年 アメリカ
  黒魔術物とでも言いましょうか。 原題の直訳は、≪私を地獄へ引きずり込んで≫。 ≪スペル≫という邦題は、「呪文」のつもりなんでしょうが、別に、呪文自体が重要なモチーフというわけではなく、どうしてまた、こんな題に付け替えたのか、さっぱり分かりません。

  「家を差し押さえるのを待って欲しい」という、みすぼらしい老婆の頼みを断った、銀行の融資係の女が、逆恨みした老婆から、三日後に悪魔に地獄に引きずり込まれるという呪いをかけられ、それを避けようと、悪魔祓いの儀式に臨む話。

  悪魔よりも、主人公の顔に喰らいついて来る老婆が怖いです。 いや、怖いと言うより、気持ちが悪いと言うべきか。 入れ歯は外れるわ、目玉は飛び出すわ、得体の知れない液体は吐き出すわ・・・。 ホラーなんですが、やり過ぎていて、笑いを取ろうとしているとしか思えない場面が多いです。

  監督は、サム・ライミという人ですが、どうも、俗悪趣味があるようですな。 見た人の10人中9人は、吐き気を催すと思われますし、それほどまでにして見なければならないほど、面白い映画でもないので、薦めません。 下手物見たさで挑戦する場合は、物を食べながら見ないように、ご注意。


≪花嫁の父≫ 1950年 アメリカ
  娘が結婚する事になり、結婚式に向けて、準備を進めていく一家の様子を、父親の視点で細々と描いたコメディー。 地味婚にするつもりが、どんどん規模が大きくなって行く様子が、見ているだけで恐ろしいです。

  父親の職業は弁護士で、住んでいる家も、日本的感覚で言えば、豪邸クラスなのですが、披露宴業者に、「狭過ぎるから、客の数を減らせ」と言われてしまう辺り、感覚の違いが凄まじいです。 実際、披露宴当日は、家の中が満員電車のような有様になりますが、まるで、悪夢の一場面を見ているかのよう。

  この映画の制作者達が、この種の派手婚を、風刺するつもりなのか、それとも、単純に、花嫁の父の苦労を描きたかっただけなのか、それがはっきりしません。 どちらかというと、「この程度の結婚式は、普通の事」と認めた上で、花嫁の父に同情を寄せているだけのように見えます。

  私に言わせれば、馬鹿馬鹿しくて検討する価値も無いような、無駄!無駄!無駄!な出費だと思います。 結婚式自体の費用もさる事ながら、花嫁に持たせる服飾品や雑貨など、あまりにも膨大で、正に狂気の沙汰。 金の使い方を知らないにも程がある。 母親も娘も、自分で稼いだ事が無いから、金の価値が分からないのでしょう。

  世の中には、結婚した後で、金に困って、親に泣きついて来る子供が、うじゃうじゃいるわけですが、そういう連中ほど、親戚や友人に見栄を張って、結婚式に莫大な金をかけているから、お笑い種です。 馬鹿だねえ。 儀式なんかよりも、日々の生活の方が、ずっと大切なのに。

  借金に追われて、ノイローゼになっている夫婦などは、「結婚式の費用を、100万円節約して、生活費に取ってあったら、どれだけ助かったか」と、己の愚かさを呪っている事でしょう。 お金というのは、使えば無くなるのよ。 当たり前じゃん。 なんで、いい歳した大人が、そんな事を知らんのよ?

  映画の話に戻ります。 娘役を、エリザベス・テイラーさんがやっていますが、若いので、言われなければ分かりません。 誰がやっても、こんな、浮かれているだけで、知性のかけらも感じられない娘には、魅力を感じませんけど。


≪間諜X27≫ 1931年 アメリカ
  マレーネ・ディートリッヒさん主演の、スパイ・恋愛物。 古い映画で、表現方法も発展途上期の試行錯誤が多く見られますが、ストーリーがしっかりしているので、今の基準で鑑賞しても、充分に見応えはあります。

  第一次大戦中のオーストリアを舞台に、諜報機関にスカウトされた、元軍人の妻である娼婦が、ロシアのスパイである大佐を相手に、際どい諜報活動を繰り広げる内、密かな愛情が育まれていく話。

  小道具として、拳銃は出て来ますが、派手な撃ち合いなどは一切無く、部屋の中での、女と男の静かなやりとりで、戦いが進行します。 地味なせいで、いささか、物足りない感じはしますが、クライマックスからラストにかけて、話の展開が劇的なので、見終わった後には、些細な欠点は忘れてしまいます。

  マレーネ・ディートリッヒさんは、どえらい色気があるのですが、この作品の中で、ほぼ素顔で出て来る場面があり、それを見ると、普段の色気が、化粧で作られたものである事が分かります。 化粧の魔力、恐るべし。


≪世にも怪奇な物語≫ 1967年 フランス・イタリア
  エドガー・アラン・ポーの短編三作を、三人の監督が一話ずつ競作したオムニバス映画。 名前を知っているのは、フェリーニ監督だけ。 ロジェ・バディムという監督は、ジェーン・フォンダ、ブリジッド・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなど、錚々たる顔ぶれの女優さん達と結婚したり、子供を作ったりしている人らしいですが、作品の方は、さして、有名ではない様子。

【黒馬の哭く館】
  ロジェ・バディム監督、ジェーン・フォンダさん主演。 中世ヨーロッパで、ある地方の傲慢な女領主が、一目惚れした分家の領主に無視された事に腹を立て、厩に放火させたところ、誤って、その男を焼き殺してしまい、その直後に現れた黒馬に魅入られて、己を見失って行く話。

  後半の展開が不自然で、話が分かり難いです。 黒馬は、焼き殺された分家の領主の化身だと思うのですが、その辺の説明が一切無いので、もやもやしたまま終わります。 原作がどうなっているのか、読んでみるべきでしょうか。

  ジェーン・フォンダさんが、無茶苦茶に綺麗だった頃の撮影。 それを見るだけでも、価値あり。 殺される分家の領主役で、ピーター・フォンダさんも出ていますが、こちらは、ほんのちょい役です。 時代は中世ですが、衣装が、ファッション・ショーのように凝っていて、実に美しいです。

【ウィリアム・ウィルソン】
  ルイ・マル監督。 アラン・ドロンさん主演。 ウィリアム・ウィルソンという行状の悪い男が、人生の節目節目に現れるドッペルゲンガーに悩まされ、ついに決闘を挑む話。 これは、原作を読んだ事がありますが、すっかり忘れていました。

  これも、話がイマイチ。 最終的に、自分自身と対決する事になるわけですが、つまるところ、一人の人間の内面意識の問題であって、映像にして面白くなるような話ではないんでしょうなあ。

  アラン・ドロンさんは、まだ若々しく、顔が一番良い頃。 ブリジッド・バルドーさんが出ているそうですが、まさか、生きたまま解剖される若い女の役ではないと思うので、たぶん、賭けトランプの相手になる女なんでしょう。 顔が若い頃と変わってしまっていて、分かりませんわ。

【悪魔の首飾り】
  フェデリコ・フェリーニ監督。 テレンス・スタンプさん主演。 フェラーリをくれるという餌につられて、イタリアにやって来た、アル中のイギリス人俳優が、テレビ局の映画賞番組に、へべれけで出演した後、貰ったフェラーリに乗って、夜のローマの爆走し、なるようになる話。

  「アル中の行動に必然性など無い」と言ってしまえば、それまでですが、あまりにも放埓で、この主人公を、どう評価していいのか、対処の仕方が分かりません。 共感はしようがないですし、批判するにも、病気では詮無い事。

  巨匠が手がけたからといって、名作とは限りませんが、これも、その内ですな。 テレビ番組の収録場面は、いかにも、フェリーニ監督が好きそうな、賑やかなお祭り騒ぎ。 他にも、どこかで見たような場面が、ちょこちょこ出て来ます。

  幼女姿の悪魔が、チラチラ出て来ますが、この子が、妙に顔立ちが整っているので、不気味さが際立ちます。 他には、いい所無し。


≪ハービー 機械じかけのキューピッド≫ 2005年 アメリカ
  意思を持ったフォルクス・ワーゲン・ビートル、「ハービー」が活躍する、≪ラブ・バック≫という映画が昔ありましたが、続編がちょこちょこ作り続けられているようで、これは、その最新作。 リメイクではないのですが、話は、第一作と同じようなパターンです。

  スクラップにされかけていたハービーを、大学卒業記念として父親に買ってもらった娘が、なりゆきで勝負する事になった、時のトップ・レーサーとレースに勝ってしまい、父との約束で諦めていたレーサーへの道を、再び歩み始める話。

  ≪ラブ・バック≫シリーズは、ハービーが、おばあさんの家を立ち退きから守ってやる、第二作が面白いのですが、この作品は、第一作同様、レースが主体なので、話が単純になるのは、致し方ないところ。 決まったコースでのレース場面を面白く見せるというのは、変化がつけられない分、街なかでのカーチェイスよりも、ずっと難しいのです。

  サブ・テーマで、親子愛が描かれますが、そちらは、しっかりしています。 ディズニー映画ですから、良心的なところは、折り紙付き。 しかし、良心的だから、いい映画かというと、そうではなく、やはり、もっと起伏のある話にした方が、見応えが出ると思います。


≪アンダーワールド≫ 2003年 アメリカ
  吸血鬼一族と、狼男一族の戦いを描いた話。 千年続いている戦いという設定ですが、この映画では、現代の場面だけが出て来ます。  吸血鬼族の女ハンターが、吸血鬼と狼男の交配を企む一味に追われている男を助けるために、裏で狼男族と繋がっている吸血鬼族のリーダーと対立する話。

  この軽薄な世界設定は、なんだか、アメリカ映画というより、日本のアニメみたいな発想ですな。 ただし、作りは、アメリカ映画そのもので、映像もアクションも陳腐なところは、まったく見られません。

  現代の戦いですから、使われるのは、専ら、銃器。 狼男を倒すのに、銀の弾というのは分かるとして、吸血鬼を倒すのには、紫外線を出す曳光弾というのは、よく考えたと言うべきか。 もっとも、撃たれれば即死というわけではなく、銃撃戦は、絵柄を派手にする添え物のようなものです。

  第一作から、続編を念頭に置いて話を作っている点は、あまり感心しませんが、単独で見ても、話が尻切れになっているわけではないです。 ただ、傑作とかいうレベルでは、到底なくて、まあ、並のドンパチ物というところですな。 ≪ヴァン・ヘルシング≫のような怪奇物活劇としての面白さはありません。


≪ジェイン・オースティン 秘められた恋≫ 2007年 イギリス・アメリカ
  アン・ハサウェイさん主演。 18世紀のイギリスの作家、ジェイン・オーステンの若い頃の恋愛を描いた映画。 貧しい田舎貴族の娘として生まれた主人公が、地元の資産家の息子との縁談を断り、都会から来た青年との駆け落ちを考えるものの、貧しさのために青年の人生が破綻する事を恐れて、身を引く話。

  なんつーかそのー・・・、下らん痴情の縺れ話ですな。 ほんとに下らん。 この主人公は、観客が共感し得るような人物なんすかね? 都会の男に惚れるのは、まあいいとして、その余波で、地元の他の求婚者達に、無用の混乱を引き起こすのは、見ていて、大変不愉快です。 こんな女がいなければ、みんな傷つかずに済んだものを。

  一口で言うと、「馬鹿女」なのであって、こんなに軽率では、誰と結婚しても、幸福になんぞなれるわけがありません。 自分が愚かなくせに、文才を鼻にかけて、周囲の人間を愚か者扱いしている様は、真の愚者というに相応しい。

  現代恋愛ドラマ・レベルの軽薄な話を、勿体ぶって、近世の名作小説の映画化のように仕立ててみたものの、雰囲気だけで、中身が伴わず、スカスカ話になってしまったというところでしょうか。 恐らく、2005年のイギリス映画、≪プライドと偏見≫を真似ようとして、その原作者の、ジェイン・オースティンの実話を取り上げたのだと思いますが、映画の出来には、天地の差があります。

  まーた、アン・ハサウェイさんが、イギリスの田舎娘に見えないんだわ。 この人、目が大き過ぎる上に、垂れ目なのですが、歳を取るに連れて、頬は弛み始めるわ、顎は割れるわで、顔面土砂崩れの様相を呈しており、もはや、主演が務まるような面相ではありません。

  この人を起用する制作者は、「美人は、いつまでも美人」という錯覚に囚われているのでしょう。 よく見よ。 落ち着いて観察し直せば、美人と妖怪の区別くらい、つくだろうに。


≪シェアハウス≫ 2011年 日本
  吉行和子さん主演。 江の島近くの古い家で、一人暮らしをしていた老婦人が、友人が孤独死した事をきっかけに、シェアハウスに建て替える事を決意し、近所の一人暮らしの女性二人と、入水自殺しようとしていたところを助けた若い娘と、計四人で共同生活を始める話。

  監督が、≪ライフ・オン・ザ・ロングボード≫の人なので、海と、いい人ばかりの登場人物が欠かせない様子。 しかし、この映画の場合、人が死ぬので、明るい雰囲気では進みません。 そもそも、この話の中では、シェアハウスが、孤独死を避けるための道具として位置づけられているので、誰かが死なずには、話が成立しないんですな。

  単純な話であるせいか、エピソードが足りず、シェアハウスへの建て替えを決めてから、入居までの間が、えらく間延びしています。 特に入居パーティーの場面は、白ける白ける。 そもそも、一人暮らしの女性の友人知人が、こんなに大勢いるのは、不自然でしょうに。

  他にも、老婦人が、女子高生達と仲良しとか、海辺で、若者達が歌を歌って盛り上がっているとか、どうにも、不自然な場面が多いです。 これが青春物なら、雰囲気作りとして、無理に納得しないでもないですが、死に方物ではねえ・・・。


≪女帝 春日局≫ 1990年 日本
  十朱幸代さん主演。 前年の89年の大河ドラマが、大原麗子さん主演の≪春日局≫で、全国的に、春日局ブームが巻き起こっていたのですが、それに便乗して作られたと思しき映画。 しかし、これは、見てみて、ビックリ! 凄い話で、思わぬ拾い物になりました。

  生まれたばかりの赤ん坊を連れて、竹千代の乳母選びの場に臨んだお福が、大奥の差配達の策謀で、死産だった竹千代の代わりに、自分の子を竹千代として育てる事になるが、実は、その子は、前年、お福に家康の手がついた時の種だった、という、何とも錯綜した話。

  これらは、もちろん、史実ではなく、創作なわけですが、春日局ブームの最中に、こういう大胆な創作を元にした歴史劇映画を作ってしまった、その思い切りの良さに拍手を送りたいと思います。 度胸がなければ、こんな事はできませんわ。 でねー、こちらの方が、物語としては、史実よりも、ずっと面白いのですよ。

  ≪シェアハウス≫の、直後に見たものですから、あまりの毒の強さに、ぐいぐい引き込まれてしまいました。 やはり、物語は、起伏があって、ナンボなんですなあ。 単に複雑なだけでなく、しっかりと絡み合っていて、辻褄も合っているから、見事としか言いようがありません。

  家康が、スケベジジイになっている点は、ちと違和感がありますが、それを除けば、演技・演出も申し分無し。 十朱幸代さんは、今でも綺麗ですが、この頃は、女性的魅力に満ち溢れていますなあ。 クライマックスで、家康に三度問い質されても、竹千代は秀忠夫妻の子だと言い通すところが、無茶苦茶かっこいい。 また、敵役になる名取裕子さん、草笛光子さんも、キレと迫力があって、大変宜しいです。


≪オブセッション 歪んだ愛の果て≫ 2009年 アメリカ
  ストーカー物。 ある会社に勤め始めた派遣社員が、妻子がある副社長に岡惚れし、ストーカー化した末に、副社長の妻と殺し合いを演ずる話。

  ストーカーを取り上げた映画というと、なぜか、犯人は女ばかり。 この作品も例外ではありません。 実際には、男の方がずっと多いのにね。 男を犯人にすると、憎たらしくなり過ぎて、映画に嫌悪感を抱かれてしまうからでしょうか。

  犯人がヨーロッパ系で、被害者夫妻がアフリカ系というのが、ちょっと不自然な感じがしますが、私がアメリカ人でないから知らないだけで、実際には、人種を超えた恋愛は、よくあるのかもしれません。

  この映画、ちょっと変なところがあり、全体の4分の3くらい行った所で、主人公が入れ替わります。 それまでは、副社長の視点で描かれているのに、犯人が自宅に侵入し始めると、奥さん目線の話に変わるのです。

  なぜ、そんな事になるかと言うと、この映画の最大の見せ場が、クライマックスの女同士の格闘場面にあるからです。 どうして、そんな木に竹を接いだような展開になっているかと言うと、この映画の最大の売りが、奥さん役をやっている、ビヨンセ・ノウルズさんの出演作という点にあるからです。 あの、ビヨンセさんですよ。 役者もやるんですねえ。

  演技は、まあまあ、普通で、自然体です。 もっとも、アメリカ映画では、歌手が出演していても、わざとらしい演技は見た事がありませんが・・・。 格闘場面は、武道抜きの、普通の女の喧嘩ですが、これが、結構、迫力があり、スタント無しでやっているのだとしたら、大した演技力だと思います。 犯人役の人も巧い。

  ビヨンセさんの映画として見るとしたら、出番が後ろに偏っているのは変ですし、普通の映画として見るとしたら、主人公が途中で変わるのは、やはり、変です。 中途半端な作品である事は、否定できないところ。 ストーカーの恐ろしさは、よく伝わって来るんですがね。



  以上、15本。 まだまだ、先は長い・・・。 これは、どこかで、見るのをやめるか、感想を出すのをやめるか、どちらかを決断するしかありませんな。

2013/01/20

読書感想文、蔵出し

  今週は、六日稼動で、土曜も出勤したので、記事を書く時間がありません。 で、かつて恒例にしていて、あまりにも間が空いてしまった為に忘れかけていた、読書感想文を出す事にします。

  いや、本は、読み続けているのですよ。 感想も、読むたびに書いています。 ただ、しばらく、六日稼動の週が無かったせいで、出す機会を逸していただけで・・・。 というわけで、随分、昔に読んだ本からになってしまいますが、ご容赦あれ。



≪コワ~い不動産の話≫
  不動産の問題を、新築住宅、中古住宅、新築マンション、中古マンション、タワー・マンション、住宅ローンに分け、それらの購入を検討している人に、注意を喚起している本。 すべてのカテゴリーで、ゴマンと問題点があり、読んでいると、不動産を買う気など、消し飛んでしまいます。

  一戸建ての場合、コストを切り詰めるために手抜きをする業者が多いのは、相変わらずなようです。「三階建ての9割は欠陥住宅」というのは、最近発生した問題ですな。 一階部分を車庫にする家が多いようなのですが、車の出入りのために、壁が一面無いわけで、それでは、大地震にはとても耐えられないでしょう。

  屋根の防水を手抜きされて、雨漏れで壁の中がカビだらけになってしまった家など、写真を見るだけで震えが来ます。 こんな家のために、何千万も払ったとは、他人事ながら気の毒でなりません。 デザイナーズ住宅というのがありますが、デザイナーが経験不足だと、とんでもない稚拙なミスをやらかすのだとか。 やはり、家はデザイン以前に、実用性を考えるべきですなあ。

  マンションがマンションでまた怖い。 首都圏の外縁部では、作りかけで放棄されたマンションがゴロゴロあるのだとか。 過当競争で建て過ぎて、物件が売れず、開発業者が倒産してしまったのだそうです。 古いマンションでも、一階部分をテナント貸ししていたのが、みんな出て行ってしまって、管理費が賄えず、住民まで逃げ出してしまうのだとか。 機械式駐車場の維持費が、年間一千万円というのも驚きです。

  タワー・マンションの上の階ほど、健康被害が多いとか、携帯電話の基地局が屋上にあると、体調を崩す住民が増えるとか、意外な事例も多く載っています。


≪かもめのジョナサン≫
  1974年に日本語訳が刊行されています。 その頃、映画が日本公開されているので、たぶん、それに合わせて出したのでしょう。  作者は、リチャード・バックという、元アメリカ空軍パイロットで、自分でも飛行艇を買って愛用しているという、大の飛行好き。 アメリカで、1970年に刊行された、この小説が記録破りの大ベスト・セラーになり、その後、映画化されたという経緯あり。

  日本では、映画の宣伝のお蔭で、題名だけが知れ渡ったものの、内容を知らない人が圧倒的多数だと思います。 私もその一人。 たぶん、映画も大してヒットせず、小説に至っては、話題にもならなかったのではないかと思います。 小説の翻訳は、五木寛之さんが行なっています。

  登場キャラは、全て、カモメですが、擬人化されており、人間のように考え、会話も交わします。 飛行術を洗練する事に夢中になり過ぎて、群から追放されたジョナサン・リビングストンというカモメが、年老いてから、同じように飛行術を窮めようとしている他の群に迎えられて、更に高みを目指すものの、やがて、昔の仲間を啓蒙するために、元の群に戻り、後輩の指導に当たる内、時が訪れ、一段上の領域に上がっていくという話。

  こう書いても、伝わらんでしょうな。 物語の構成としては、ちょっと規格外なので、ストーリーに注目しても、あまり意味がないのです。 ≪西遊記≫を読んだ人なら、孫悟空が、仙人の師匠の下で修行して、仙術を会得するくだりを覚えていると思いますが、ちょうど、あんな感じの流れです。

  作者が言いたいのは、「技術を磨くだけでは、上級には上がれないのであって、まず、自分が、すでに上級に上がる能力を持っている事に気付く事が大切だ」といった、意識改革の問題のようです。 速さを窮めた挙句、瞬間移動まで出て来るので、「当人がその気になりさえすれば、どんな事でもできるようになる」という、新興宗教の教義のような雰囲気もありますが、それほど胡散臭くならない内に、話が終わります。

  100ページくらいですが、その半分は、カモメの写真が占めているので、実質的な文章の量は、ちょっと長めの短編小説くらいしかありません。 遅読の人でも、半日あれば読めるはず。 でも、「だから、お薦め」とは言いません。 深読みすると、変な影響を受けそうですし、浅読みすると、何が言いたいのか分からないという、ジレンマあり。

  更に問題なのは、訳者の五木寛之氏による、あとがきでして、これは、掟破りというものでしょう。 つまりその、貶してあるのです。 五木氏がこの小説の翻訳を引き受けた動機は、アメリカで大ベスト・セラーになったから、興味が湧いたというだけであって、内容が気に入ったからではないらしいのですが、それはそれとして、あとがきで貶す必要はないでしょうに。

  そんな事をしてしまったら、読み終わった人は、「なんだ、そんなつまらん小説だったのか。 真面目に読んで損した」と思うに決まっています。 当然、他の人にも、「つまらんよ」と伝えるのであって、ベスト・セラーの連鎖は起きません。 なるほど、日本で売れなかったわけですわ。 編集者も編集者で、どうして、「こういうあとがきは、困ります」と言わなかったんでしょう。 奇怪至極。

  また、ネット上に流布している、この本の書評を読むと、五木氏のあとがきに影響されたと思われる、否定的な意見が多く、その独自性の無さに、苦笑せざるを得ません。 本の感想くらい、自分の感性で書きなさいよ。 訳者あとがきを、写していてどうする?


≪ONE≫
  ≪かもめのジョナサン≫の作者が、約20年後に出した本。 一緒に借りてきました。 作者自身と、その妻が登場する、平行世界SFの形を借りた、人生論小説です。 飛行艇で夜間飛行中に、異界の海に迷い込んでしまった主人公達が、着水するたびに、自分達の過去や、起こり得た可能性の世界へ降り立ち、運命や時間について、理解を深めていく話。

  ≪かもめのジョナサン≫と同じような目的で書かれているのですが、人間が主人公だけに、生々し過ぎて、あまり、深い感慨は受けません。 同じ、人間が主人公でも、作者自身ではなく、架空の人物であれば、また違う印象になったかもしれませんな。 どうも、こういう私小説風の話というのは、読んでいて、ぐじゅぐじゅと幼児っぽい、いやらしさを感じてしまうのです。

  書き込まれている、作者独自の人生哲学が、分かり難いという点もマイナスです。 「結局、全ては、一つなんだ」と、何度も繰り返されるのですが、その説明が焦点を結んでいないので、なぜ、「一つ」なのかが、伝わってこないのです。 何度か読み直せば、分かるのかもしれませんが、何度も読み直したくなるような、魅力ある小説ではないのですから、如何ともし難いです。

  この本を読むと、この作者が、20年経って、成長するどころか、むしろ、作家としてのセンスを潰してしまった事が、よく分かります。 もし、この本で世に出て来たのだとしたら、全く注目されず、無名のまま終わった事でしょう。


≪トポロジーの発想≫
  「トポロジー」と聞いても、何の事やら全く分かりませんな。 「位相幾何学」と訳されているそうですが、訳すと、ますます分からなくなるのは、訳語として、如何なものか。 数学の一分野ですが、相当変り種です。

  ボールの形、つまり、球体ですが、その球体と、サイコロの形、つまり、直方体ですが、その直方体が、トポロジーの分類法では、同じ種類になるのだそうです。 それだけでなく、皿や、コップのような物でも、みんな同じ種類。 しかし、ドーナツは、穴が一つ開いているために、別の種類になります。 マグカップのように取っ手が一つ付いていて、全体として穴が一つ開いている物も、ドーナツと同じ種類。 穴が二つになると、また別の種類になるのだとか。

  具象的な形に囚われず、ある特徴だけを取り出して、分析を加えるのが、トポロジーの考え方なのだそうです。 どうして、そんな事をするかというと、単純化すれば、数学的に処理する事ができるから。 一筆書きで描ける図形と、描けない図形を、どう見分けるかなども、トポロジーの考え方で解けるらしいです。

  面白いのは、次元の話です。 縦、横、高さで、三次元で、「四次元目は、時間」と言われていますが、それは、アインシュタインの仮説でして、数学的な意味での四次元は、時間とは関係ありません。 トポロジーによって、特徴だけを取り出す事で、二次元と三次元の違いから、三次元と四次元の違いを類推できると言うのです 四次元に留まらず、五次元でも、十次元でも、計算できるというから、「なるほどな~」と深く頷かされる次第。

  とまあ、そういう事が書いてあるわけです。 しかし、ブルーバックスで、素人向けに書かれているからこそ、読んでいる間は面白いと思うものの、そこはやはり、数学の一分野だけあって、「これ以上、ちょっとでも専門的になったら、全くついていけないだろうなあ」という限界も感じます。 あくまで、私の方の限界ですけど。


≪相対論のABC≫
  これは、もろに、アインシュタインの話。 特殊相対性理論と一般相対性理論の解説が主ですが、アインシュタインの伝記も兼ねています。 それほど、厚くありませんし、相対論について、一冊で知識を得るには、適当な本だと思います。

  私は勘違いをしていて、アインシュタインの事を、ずっと、オーストリア出身だと思い込んでいたのですが、実際には、ドイツ出身なのだそうです。 子供の頃は、学校生活に馴染めず、父の仕事の関係で家族と離れて暮らしたりしていたため、高等教育は、スイスで受ける事になります。 大学受験に失敗したり、卒業試験を辛うじて突破したり、決して優等生ではなかったとの事。

  大学に残る事ができず、スイスの特許局で、審査技師の職に就いていた事は、割と有名。 働きながら、研究を続け、発表したのが、相対性理論を含む、幾つかの、物理学の歴史を変えた重要な論文です。 無名の特許局技師の研究の事とて、当初は黙殺されたものの、プランクなど、当代随一の学者達に認められた事で、一躍、世界最高の物理学者の地位に祭り上げられます。

  アインシュタインは、骨の髄からに理論物理学者でして、研究といっても、実験器具を使うわけではなく、頭の中で理論を組み立て、数学を使って、矛盾が起こらないか、検証して行きます。 実験物理学という分野もありますが、それは普通、別の学者がやっていて、どちらでも、業績を残せば、高く評価されます。

  相対性理論は、光の速さを基準にして、空間と時間の関係を分析したものです。 地球上のような狭い空間では、ほとんど意味がありませんが、宇宙を何光年も移動するような場合に起こる時間のズレなど、ニュートン力学では説明できない現象を処理できるため、現在に至るまで、有効とされています。 この本では、電車やロケットなど、図を多用して、大変、分かり易く説明されていて、文系であっても、大雑把な事は理解する事ができます。

  アインシュタインは、ナチスの本性を逸早く見抜き、アメリカへ亡命しますが、それ以降は、≪統一場理論≫という、とてつもない難物と格闘して、生涯を終えます。 ドイツのいた間は、紛れもなく、≪天才≫だったのですが、アメリカに移った途端、≪平凡な学者≫になってしまったのは、皮肉な話。


≪アインシュタインを超える≫
  書名の通り、アインシュタインを超える理論について書かれているのですが、相対性理論とは関係ありません。 アインシュタインがアメリカへ移って以降に取り付かれ、死ぬまで関わりながら、答えを出せなかった、≪統一場理論≫の方の、その後の発展について書かれた本です。 アインシュタインは、名前をダシに使われているだけで、その点、羊頭狗肉の書名と言えます。

  アインシュタインが専門にしていたのは、宇宙を対象にした物理学ですが、統一場理論の方は、反対に、原子やクオークといった、極小の世界を探求する物理学で、≪量子力学≫と呼ばれています。 この分野で有名なのは、プランク、ハイゼンベルク、シュレジンガーといった、学者達。 ドイツ系、多いな。

  宇宙と原子では、サイズ的には、まるっきり方向性が違うわけですが、全宇宙に適用できる物理法則を探すという点では、共通項があります。 宇宙に存在する力には、≪重力≫、≪電磁力≫、≪強い力≫、≪弱い力≫の四種類が知られていて、これらの関係を、一つの理論で説明できるようにしようというのが、≪統一場理論≫です。

  この本には、ここ50年ほどの間に、量子力学者達が、悪戦苦闘、七転八倒した歴史が、割と細かく記してあります。 最終的に辿り着いて、「これが、統一場理論になるうるのではないか?」と思われている、≪超ひも理論≫に、日本人の学者達が、重要な役どころで絡んでいるのは、興味深いですな。 正しいと決まったわけではないために、賞も貰えず、皆、一般的には、無名ですが。

  科学の解説書と言うより、科学史書に近いです。 そこそこ詳しく、尚且つ、大掴みに、量子力学の発展の流れを頭に入れるには、適当な本だと思います。



≪光と電気のからくり≫
  光についても触れられていますが、基本的には、電気に関する本です。 原子の中の電子の話から説き起こし、電圧や電流といった、馴染みがある所まで、引き寄せてくれます。

  これを読んで思ったのは、自分がいかに電気について無知であるかという事です。 中学の理科で、電流と電圧の事は習いましたが、そもそも、電流とは何か? 電圧とは何か? といった事は全然分かっていなかったんですなあ。 いや、理工系の人は、当然、そういう事は知っているはずだから、私のような、門外漢だけが知らないのかもしれませんが。

  電圧の話など、坂を転げ落ちるボールに譬えて説明してあって、読んでいる間は、思わず身を乗り出すほど面白いのですが、できれば、こういう本は、中学生の頃に読みたかった。 骨の髄まで、理科嫌いが沁み込んだ私の頭では、読み終わった途端に、どこかへ消えてしまって、ほとんど残りません。

  電線の中を電気が流れるという事は、特定の電子が、電線の中を移動して行くのではなく、電線の導体を構成している金属の原子が、隣へ隣へと、電子を送り出していくからだそうで、これは、イメージ的に、意外でした。 流れるというより、順送りしているんですね。

  著者は、日本人ですが、アメリカの大学で教授をやっている物理学者。 内容とは関係無い事ですが、表紙イラストが、ブルーバックスとは思えないほど、洗練されています。 これ、本屋に平積みしておいたら、思わず手に取る人が、きっといると思います。 ただし、ブルーバックスを平積みする本屋があればの話ですが。



  以上、7冊。 ≪コワ~い不動産の話≫は、まだ、≪金持ち父さん≫シリーズを読んでいた頃に、流れで読んだ本。 ≪かもめのジョナサン≫と≪ONE≫は、ネットで交友している人が、その話題を出したので、どんな本かと思って、借りて来ました。 科学系の四冊は、俄かに理系の世界に浸ってみたくなって、纏めて読みました。 すべて、図書館の本です。

2013/01/13

続・自転車で大荷物

    自転車で大荷物を運ぶ方法の続き。 リヤカーの次は、サイドカーです。

「え! 自転車にサイドカーなんてあるの?」

  と思うでしょう? 私もそう思ったんですが、それが、あるらしいんですよ。 しかも、ネット上で、キットが売られているから、ビックリ。 何でも、調べてみるものですなあ。

  「自転車 サイドカー」で検索すると、二件引っかかります。 一つは、≪株式会社ミヤジマ工業≫という、リヤカーのメーカーが作っている、荷物用の自転車サイドカー。 自転車別売りで、サイドカーだけで、5万円だそうです。

  写真を見ると、えらいごつい外見で、いかにも、実用品という感じ。 サイドカーと自転車は固定されているので、バイクのサイドカー同様、曲がる時には、こつが要りそうですな。 自転車だと、気にしていない人がほとんどだと思いますが、二輪車は、傾く事で曲がっていくので、傾けられないサイドカーは、ハンドルだけで曲がらねばならず、操作方法が、まるで違って来ます。

  サイドカーが着く側に曲がる時に、遠心力で外側へ振られ、サイドカーの車輪が浮いたりしますが、バランスを取るために車体を傾ける事ができないので、大変、怖いらしいです。 バイクのサイドカー・レースでは、サイドカーに乗っている者が、左右に体を乗り出して、バランスを取りますが、自転車サイドカーで荷物を運んでいる時には、もちろん、そんなサポートは期待できません。  

  この製品の場合、サイドカーは、自転車の左側に着くようになっています。 このレイアウトだと、車道を走る時、道路の左端との間隔を常に一定に保たなければならないので、ちと、扱いにくいかもしれませんなあ。 左折時や、二段階右折での右折時は、尚更、気を使います。


  もう一つは、≪プレザント≫という外国メーカーのもので、子供を乗せるためのサイドカー。 値段は、こちらも、サイドカーだけで、69300円。 高い! しかし、その分、よく出来ていて、自転車とサイドカーは固定されておらず、ボトム・ブラケット(ペダルのクランク軸の部分)の前に回転する取り付け基部があり、そこを軸に、サイドカーが自由にスイングします。

  つまり、曲がる時に、自転車は、普段通りに傾ける事ができるにも拘らず、どちらに曲がる時でも、サイドカーの車輪は、路面に設置しているのです。 これは、よく考えてありますな。 しかも、外見が、実にスマートに仕上がっています。 どうやら、実用車ではなく、スポーツ自転車に取り付ける事を前提にしてデザインされている様子。

  ただし、子供を乗せる事を目的にした製品なので、許容積載荷重は25kgまで。 これは、ちと少ないか。 取り付け部分が、パイプ一本というのは、いかにも華奢で、過積載でもしようものなら、すぐにでも壊れそうな雰囲気が、外見からヒシヒシと伝わって来ます。 人が乗る舟なんて要らないから、同じスイング機構で、荷物を載せる台だけというサイドカーが出来ないもんですかね?

  この製品は、サイドカーが、自転車の右側に着くタイプですが、こちらのレイアウトの方が、車道での走行は、楽だと思います。 自転車と同じように、道路の左端を走っていればいいわけですから。 サイドカーが車に引っ掛けられても、それは、車の責任であって、こっちのせいではないわけだ。 子供を乗せると思うと、ぞっとしますが、荷物なら、まあ、いいでしょう。


  どちらの製品にせよ、値段が高いのには、参ってしまいます。 たまーにしか使わない物に、5万円以上も出すくらいなら、10分100円レンタカーを2時間借りた方が、ずっと安いというのよ。 5000円くらいで、類似品が出来ませんかねえ。 簡単に取り外し可能で、折り畳み式なら、尚宜しい。 欲張り過ぎか・・・。



  自転車で、大荷物を運ぶ方法、これが最後になりますが、最も現実的な方法が、一つ残っていました。 三輪自転車を買ってしまう事です。

  前半分が普通の自転車で、後輪が二つあり、スイング機構で繋がっている、アレですな。 二つの後輪の間が荷台になるので、普通の自転車より、大きな荷物が積めます。 後輪のサイズは、20インチ以下なので、荷台の位置も低くなり、大きさ・重さ共にある荷物を載せても、安定度は高いです。

  電動アシストでない製品なら、3万円くらいからあるようで、リヤカーやサイドカー・キットを買うより、安いです。 割とよく見かけるので、乗っていても、恥ずかしくないのは、大変な利点です。 リヤカー牽引とは、大違い。

  実は、三輪自転車というのは、普通の自転車に乗れない人が、転ぶ心配無しに乗れるようにという目的で売れられてるのですが、そんな事を考えた事がある人自体が稀なので、誰が乗っていても、何とも思われません。 大荷物を運んでいれば、「ああ、荷物を運ぶ為に、三輪自転車を使っているんだな」と思われるだけで、それ以上の興味は引かないでしょう。

  荷台に籠が付いてしまっている物が多いですが、これは、ちょっと改造して、籠を外し、大きなベニヤ板を載せれば、大荷物に対応できると思います。 ただ、スイング機構という強度的に弱い部分があるため、際限なく重い物を載せられるわけではありません。 やはり、ブラウン管テレビが限界でしょうな。 そもそも、自転車で、洗濯機や冷蔵庫を運ぼうという発想に無理があるか。

  他に欠点というと、自転車を一台、新しく買う事になるわけで、置き場所の確保という、厄介な問題が附随して来ます。 この問題は、敷地が広い家だと、簡単にクリアできるのですが、私のように、置き場所がなくて、スポーツ自転車を諦めざるを得なかったような者にとっては、とてつもない難問になってしまいます。

  ブリジストンに、≪ミンナ≫という、後ろ一輪、前二輪の三輪自転車がありますが、あれは、何の利点があるのか、ちょっと理解できません。 前二輪の間に大型の籠が入るようになっているものの、所詮は籠ですから、大荷物は無理です。 前側だと、はみ出すわけにもいかないから、改造もできません。 後ろの荷台が無いのも、解せぬ話。

  以前、オランダの自転車事情を紹介したテレビ番組に、後ろ一輪、前二輪の、荷物運搬用三輪車が出て来ましたが、あの荷台は、小ぶりのリヤカーに匹敵するくらいの大きさがありました。 あれなら、冷蔵庫・洗濯機も、OKでしょう。 なんで、日本でも売らぬ?

  中国には、前一輪、後ろ二輪で、やはり、リヤカーと同じくらいの荷台を設けた三輪車があるようですが、スイング機構は省かれてようです。 やはり、スイング機構を付けたのでは、大きな荷台を維持できるほど、強度が出ないのか。 スピードを出さないのなら、スイング機構無しでも、走る事はできます。 普通の自転車で、リヤカーを牽引するよりは、扱いは楽でしょう。

2013/01/06

自転車で大荷物

  去年の12月の半ば頃、我が家から車が姿を消しました。 父が高齢の為、車をやめたからです。 ちなみに、私は、バイク通勤なので、車は持っていません。

  父は、廃車を決める前に、一応、私に、車を引き継ぐかどうか訊ねて来ましたが、断りました。 ほとんど使わないのがわかっているのに、駐車場代やら、車検やら、保険やら、税金やらで、年間の維持費が、15万円くらいになってしまうのでは、あまりに無駄というもの。

  私が生まれる前から、我が家には車があったのですが、最多で4台まで増え、その後、私が一番先にやめ、兄が家を出て、兄の車が無くなり、続いて、母がやめ、今回、父がやめて、とうとう、一台も車が無い家になりました。 そこはかとなく、感無量。


  車で出かけられなくなったのは、別に構わないんでが、大きな物を運ぶ時に、載せるものが無いのには、ちと困る事になりました。 近所なら、手押しのL台車でも何とかなりますが、1kmを超えるくらいの距離になると、台車ではねえ・・・。 車輪が壊れてしまいそうです。

  去年、車が無くなる前に、駆け込みで、テレビ二台と、洗濯機、冷蔵庫を、家電リサイクル引き取り所まで運んだのですが、我が家にはまだ、ブラウン管テレビが三台あり、その内二台は、一人では持ち上げられないような大きさで、自転車では運べません。 もし、それらを処分する事になったら、どうやって、運べばよいものか・・・。 

  ちなみに、家電リサイクル対象家電を廃棄する時には、店に頼むより、自分で処分した方が、遥かに安く上がります。 「家電リサイクル」をネットで検索すれば、やり方が分かるので、お試しあれ。 ちょっと書きますと、郵便局で≪家電リサイクル券≫を買い、それと、現物を持って、自治体が指定している引き取り所へ運ぶだけです。


  さて、本題の、車が無い場合の、大荷物の運び方です。

  一番簡単なのは、自転車の荷台を大きくする方法。 荷台の上に大きなベニヤ板を置いて固定すれば、その上にテレビくらいは載せられます。 しかし、荷台はかなり高い位置にあるので、バランスは極悪になります。 テレビの重さによっては、支えきれずに、倒れる危険性が大。 ジャイロ効果くらいでは、とても追いつきますまい。

  補助輪を左右につければ、倒れませんが、補助輪は、自転車に乗れない子供が練習用につけるものというイメージがあるので、大人が使うのには、相当な勇気が要ります。 それに、左右には倒れなくなっても、後ろ側は支えられないので、荷物が後ろへ落ちる事も考えられます。

  補助輪のアームを改造して、斜め後ろへ延ばせばいいんですが、その種の改造は、結構大変で、材料や工具を揃えるだけで、ン万円になってしまう恐れあり。 そんなに出すのなら、10分100円のレンタカーを2時間借りる方が、安く上がるような気もするのです。

  お金の問題もさる事ながら、みっともないというのが、最大の敵ですな。 みんながやっていれば、何でもないんですが、一人だけやってると、目立つんですよ。 そして、笑われると・・・。 やだねえ、社会性動物というのは・・・。

「そんな事で悩むのなら、車を買えば?」

  嫌ですよ。 たまーに、大荷物を運ぶ時のためだけに、年に15万円も払ってたまるもんですか。 定年過ぎの夫婦二人暮らしで、無理に車を維持している家を多く見かけますが、思い切って手放してしまえば、家計がぐっと楽になります。 買い物なんか、自転車で充分です。 坂の上や山の上に暮らしている人であっても、電動アシスト自転車があれば、問題無し。

  自転車は何が優れているといって、維持するのに、お金が一円もかからない点が、車とは雲泥の差です。 今後、低収入の家が、どんどん増えると思いますが、自転車をうまく使う事で、車を持たずに済めば、相当助かるでしょう。


  荷台の拡張の次に、簡単に出来るのが、自転車でリヤカーを引く事です。 そもそも、自動車が普及する前には、大荷物は、みんなリヤカーで運んでいたのであって、私が子供の頃には、自転車や原付でリヤカーを牽引している風景は、普通に見られました。

  今でも、リヤカー自体は使われているようですが、野菜の行商など、特定の職業の人が、人力で引いているのがほとんどで、二輪車で牽引する風習が無くなってしまったのは残念な事。 そういう光景が見られなくなったので、やるとなると、非常に目立つ。 「なんだ、あの貧乏人は?」と、周囲の注目を集めてしまうんですな。

  実際には、リヤカーを持っているという事は、リヤカー置き場を持っているという事で、当然、持ち家に住んでいるわけですから、貧乏であるはずがないんですが、車が無いというだけで、貧乏人扱いされてしまうのは、理不尽な話です。

  今のペースで、車を持たない人が増えていけば、いずれ、リヤカーが本格復活して、気にならなくなるかもしれません。 一時期、絶滅していた、藤籠製の乳母車が、幼稚園で散歩用に使われるようになって復活したように。

  ちなみに、今でも、リヤカーは売っています。 大きなホームセンターにもありますが、ネットで検索すれば、いくらでも引っ掛かって来ます。 値段は、安くても、2万円台から。 上は、10万円近い物もあります。 それでも、車に比べれば、比較にならないほど安いです。

  自転車牽引専用というのもあって、シート・ポストや荷台に固定するアタッチメントが付いています。 そういう製品があるという事は、自転車で牽引して使っている人がいるんでしょうねえ。 アルミ製で折り畳み式というから、よく考えてある。 ただし、サイズは小さいです。 テレビは載っても、冷蔵庫や洗濯機は、きついですな。

  恥ずかしいという以外に、リヤカーの問題点というと、車幅があるので、道路上で走る所が無いという重大な欠点があります。 歩道走行は、法律的にはどうなっているのか分かりませんが、たぶん駄目でしょう。 現実的障碍として、リヤカーでは通れないくらい幅が狭い歩道は、いくらもあります。

  では、車道? いやあ、それは、洒落にならんくらい、怖そうでないかえ? スピードは、歩くのとほとんど変わらないくらいになると思いますが、長時間、車に追い越される恐怖に耐えられるかどうか・・・。 まあ、たまーに使うだけなら、我慢できない事はないですが。

  牽引形態になるので、曲がる時には、注意が必要になります。 左折時、内輪差で、縁石にリヤカーが引っかかる恐れ有り。 右折は右折で、大きな交差点では、車と同じように曲がるわけには行きません。 二段階右折で対応するとしても、自転車単独の時と同じ所に停まると、リヤカーが車道に食み出してしまいます。 大回りして、なるべく、道の脇に近づけるようにするしかありませんな。

  というか、交通量が多い道路や時間帯を、極力避ける方が、先ですかね。 大きな交差点で右折しないで済むように、事前に、コースを吟味しておいた方がいいかも知れませんな。 多少、遠回りになっても、交差点の中で車に追い立てられるよりは、遥かにマシ。


  リヤカーの最大の利点は、自転車同様、所有していても、税金も、車検代も、保険料もかからない事です。 最大の欠点は、今のところ、やはり、恥ずかしさでしょうねえ。 私の父でさえ、「今、リヤカーなんて使えんなあ」と言ってますから、若い者では尚の事。 さっさと、時代が変わってくれればいいんですが。


  自転車で大荷物を運ぶ方法については、まだ書きたい事がありますが、長くなってしまったので、続きは、またの機会にします。