2005/10/29

R・L・ラ行音


  よく、「日本人は、[r] と [l] の違いが分からない」 と言われます。 これは、実際にそうでして、耳を澄まそうが、地団駄踏もうが、柱に額を撃ち付けようが、分からない物は分かりません。 両方とも『ラ行音』に聞こえます。 『rice』 と 『lice』、『rip』 と 『lip』 など、日本語母語話者の耳をからかう材料には事欠きません。

  日本では、『言語学者』 を職業として名乗っている人が少なく、たとえ名乗っていても、実際には別の肩書きで収入を得ている場合が多いです。 なぜかというと、日本語母語話者は、聞き取れる音素の種類が少ないために、言語学者として不向きだからです。 言語学が最も進んでいるのはアメリカですが、大学の言語学部に入る時には、主要音素の聞き分けができるかどうかの試験があるそうで、日本語母語話者の学生は、その段階で門前払いを食らってしまいます。 もちろん、音素が聞き分けられなくても、言語学は出来ますが、学者にはさせられないというわけなんでしょう。 (ちなみに、『13歳のハローワーク』 には、『言語学者』 の項目がありますが、大方、著者が事情を知らないんでしょう。 他にも、食って行けない職業がかなり載っていて、相当には罪な本です)

  さて、それを踏まえた上で、ちょっと、ひねくれてみましょう。

「では、[r] と [l] を聞き分けられる人達は、ラ行音を聞き分けられるのか?」

  言語にもよりますが、大概の場合、答えはノーです。 彼らは、日本語を喋る時、ラ行音の部分を、[r] か [l] のどちらかで代用しますが、それは 「[r] と [l] のどちらかを使えば、日本人の耳にはラ行音に聞こえる」 という事を知識として知っているだけであって、ラ行音をラ行音として聞き分けているわけではありません。 その言語の音素にラ行音がなければ、聞き分けられるはずがないのです。 聞き分けられないばかりか、発音する事すら出来ません。 日本語母語話者は、[l] と [r] とラ行音を聞き分けられませんが、訓練すれば発音は出来るようになりますから、その点は自慢していいでしょう。 せこい自慢ですが・・・。

  そもそも、ラ行音というのは、何なんでしょう? 日本人が小学校でローマ字を習う時には、「ラ行は 『r』 と 『l』 のどちらで書いても良い」と教えられます。 しかし、最近のローマ字表記では、ほとんどが『r』 にされているようです。 では 『r』 なのかというと、そうでない事は日本人全てが知っています。 「『r』 は、『捲き舌音』 という発音が難しい音だ」 という情報を早い内に耳にするので、『r』 でない事は知っているんですな。 では 『l』 なのかというと、それも違います。 だって、もし 『l』 なら、ローマ字表記が最初から 『l』 に決まりそうなもんじゃありませんか。 つまり日本人は、ラ行音が何なのか分からないまま使っているのです。

  ラ行音の正体は、『弾音』と言いまして、国際音声記号だと 『 ɾ(※)』 と書きます。 位置的には、歯茎音で、[t,d,s,z,n,l,r] などと同じ場所で発せられますが、[l] や [r] と決定的に違うのは、破裂音だという点です。 舌で上顎の天井を弾いて、一瞬で消えてしまう音なのです。 使っている言語は少ないと思いますが、ちゃんと子音図にも載っており、独立した一つの子音です。 決して、[l] や [r] の出来損ないでも、まがい物でもありません。

  ハワイ旅行の豆知識ですが、「向こうのレストランで水を頼む時、何回 『ウオーター』 と言っても通じないが、『ワーラー』 と言えば一発で通じる」 といった話は伝説化するほどよく聞かされます。 ただ、ちとイチャモンをつけさせてもらえば、『ウオーラー』 でも通じると思います。 要所は、『タ』 が 『ラ』 になっているという点だからです。 この場合の 『ラ』 は意外や意外、ラ行音です。 破裂音なのがその証拠ですな。 何となく笑ってしまう話ですが、英語でもラ行音を使うんですねえ。 しかし、英語の音素とは言えません。 なぜなら、英語母語話者は、ラ行音を発音しているとは思っておらず、[t] と言っているつもりだからです。

  例をもう一つ挙げましょうか。 ビートルズの代表作の一つに 『LET IT BE』 という曲がありますが、そのサビの部分を日本語母語話者が聞くと、[let it be] が、どうしても 「レリビー」 と聞こえます。 なぜか? 耳がおかしいのか? とんでもない! 逆です! 実際に 「レリビー」 と発音しているのです。 しかし、歌っている当人は 「レティビー」 と言っているつもりなのです。 日本語母語話者の耳が、[t] とラ行音を厳格に聞き分けるが故に起こる現象です。 英語母語話者の使う [t] の中には、ラ行音が含まれるんですね。 日本語母語話者の感覚では、[t] とラ行音が同じに聞こえるなど、信じられぬ話ですが・・・・。


  あまりいないと思いますが、[r] か [l] で代用をする事に飽き足りず、日本語母語話者が使っているのと同じラ行音が出したいという外語人の方がいたら、[t] を改造するのが近道でしょう。 [t] は、上の歯茎に、舌の先端より少し根元側の部分を当てて出す音ですが、ラ行音は、歯茎に、舌の先端の縁を当てて出します。 破裂音なので、舌の側面を開けて [l] にしてしまわないように気をつけましょう。 英語のように、ラ行音が [t] に含まれている場合、閑な日本語母語話者を一人捕まえて来て、どの [t] がラ行音に聞こえるのか、一つ一つ尋ねて検証していくという手もあります。 しかし、結局、自分の耳では聞き分けられないわけで、お気の毒としか言いようがないです。 ふっふっふ、さんざん、[r] と [l] で日本語母語話者をからかった罰だ。 死ぬほど苦しむが良い・・・・などとは思ってませんよ、決して。

  一方、[r] と [l] の発音の仕方が知りたいという日本語母語話者の方はたくさんいると思います。 英語だけを習っている限りは、まず理解できません。 中国語の教科書や参考書を読むと、細かく説明されているので、分かり易いです。 英語の参考書では、発音の説明を端折っている物が多いですが、あれは感心しませんな。 語学書の風上にも置けません。 もっとも、参考書の著者自身が、発音が分かっていないというケースが多いので仕方ないですが・・・。 さて、[r] と [l] ですが、細かく説明しても、迷路に嵌まる恐れがあるので、ごく簡潔に要点だけ書きましょう。

  まず舌の縁、つまり輪郭線を五等分して下さい。 そしたら、先端の五分の一の部分だけを上の歯茎の辺りにくっつけて、「ル」 と言って見てください。 はい、それが [l] です。 そのまま、ずーっと延ばして、「ルーーーー」 と言っても、「ウ」 にならず、 [l] のままですから、間違いなく[l]です。 他の母音の時には、最初の一瞬だけ [l] を出して、後は歯茎から放してしまって構いません。

  [r] は、同じ発音記号でも、言語によって音の出し方が違うので、日本語母語話者に最も発音し易いやり方を紹介します。 『捲き舌』 といいますが、それは忘れてしまいましょう。 舌が短くても何の問題もありません。 今度は、舌の縁の輪郭線を三等分します。 そしたら、先端の三分の一を残して、両脇だけ天井につけ、「ル」 と言ってみてください。 はい、[r] が出ました。 そのまま、ずーっと延ばして、「ルーーーー」 と言っても、「ウ」 にならず、 [r] のままですから、間違いなく [r] です。 他の母音の時には、最初の一瞬だけ [r] を出して、後は天井から放してしまってよいです。


(※)[J] という字を180度引っ繰り返したような記号です。

2005/10/26

オマケの人生


  私には、病気をしたり、仕事の先行きが不透明になったり、生きる事に不安を感じると、自然に意識が立ち戻る過去の一点があります。 それは、21歳の冬です。 胆石の手術をしたのです。 その前の年から何度か激痛を伴う発作に苦しめられていたので、手術してほっとしました。 胆石の手術というと、今は 『腹腔鏡』 という特別な器具を体内に挿入して石を取り出してしまうそうですが、私の時には、まだ開腹して胆嚢ごと切除する手術でした。 今でも腹に縫い目が残っています。

  まあ、手術の事はどうでもいいんです。 問題は、胆石という病気をやったという事の意味です。 胆石は胆嚢に石ができる病気で、石はどんどん大きくなり、そのまま放置しておくと、胆嚢が破裂して、腹膜炎を起して死に到ります。 手術すれば確実に治る病気なので、恐れる事は全くありませんが、病気が治るという事と、病気になったという事には、また別の意味があると思うのです。

  それはつまり、もし現代医学が無かったら、私は21歳頃に死んでいた可能性が高いという事です。 たまたま現代に生まれて、手術を受けられる程度のお金があった為に、その後も生き続けているわけですな。 そう考えると、今、身の周りで起こっている事が、みな実体の無い夢のように思えて来ます。 21歳で死んでいれば、見る事もなく終わったものばかりですから。

 「金持ちの家に生まれていれば、もっと幸せな人生が送れた」 といった言い方を聞くと、『魂の輪廻』 を信じるのと同じような非科学的な馬鹿馬鹿しさを感じますが、同様の仮定でも、「あの時、あの人に出会わなければ、人生が変わっていた」 くらいの事なら、誰にでも思い当たる経験があるのではないかと思います。 私の 「現代医学が無かったら、21歳で死んでいた」 という考え方も、一見、馬鹿馬鹿しいような感じがしますが、人生全体に関わるような事柄を考える時には、そこそこ暗示的な意味を持って迫ってきます。

  私はこのままで行くと、結婚も出来ず、子供も持てずに一生を終えると思いますが、もし21歳で死ぬ運命にあったのだとすれば、それはちっとも不思議でない事になります。 死んだ人間が結婚できるはずは無く、子供が出来る事も無いわけですからね。 残念がる必要すらない事になります よく昔話などで、この世とあの世の中間に人の寿命を表わす蝋燭が無数に立っている場所があって、そこに迷い込んだ人間が自分の寿命を無理やり延ばそうとして火を消してしまう話や、善行の報いとして他人の蝋燭を接いでもらって寿命以上に長生きするというような話があります。 あれも、『他愛の無い空想の産物』 と言ってしまえばそれまでですが、もし本当に 『定められた寿命』 というのがあると考えると、人生の見方は随分変わってくると思うのです。

  どんな人間でも、今までに 「もうちょっとの所で命を落としていた」 という経験はあると思うのですが、もしそこで死ぬのが運命だったのだとすれば、その後も生き続けているのは 『オマケの人生』 であり、それだけでも、大変幸運な事だといえます。 となれば、オマケの人生で多少不運な目にあっても、そんなのは気に病む事はありません。 なにせ、本当ならとっくに死んでいるのですから、それに比べれば、相当な危機でも凶事でも、遥かにマシだと思えるでしょう。

 「なーんで、他の連中はうまく行っているのに、自分だけこんな目に遭うんだろう?」 と、我が身の不運を嘆いている人は無数にいると思いますが、「でも、あそこで死んでいたとすれば、このくらいはどうって事ないか。 今夜の飯が食えるだけでも幸せかも知れない」 と考えれば、相当気分が軽くなるのではないかと思います。 人生が重苦しく感じられるのは、人生をあまりにも重大な事と考えすぎるからではないですかね?

2005/10/23

真珠湾を忘れたか?


  アメリカの新聞、『ニューヨーク・タイムズ』 紙が、10月18日付の社説で、小泉首相の靖国参拝を批判したそうです。 この恐怖の参拝に毎年背筋を寒くしている者にとっては、ありがたくも心強い援軍と言えますが、その内容には、些か首を傾げたくなる所もあります。 何か重大な事を忘れているのではないかと思うのです。

  朝日新聞の紹介記事の訳に従いますと、社説の題名は、「東京の無意味な挑発」。 内容は、「日本の軍国主義の最悪の伝統を容認した」、「日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫に対する計算ずくの侮辱だ」 と批判し、「日本が帝国主義的な征服の道に再び向かうとは誰も懸念していない」 とした上で、「現在は隣国での悪夢を呼び覚ますのには最悪の時期だ」、「日本は誉れある21世紀を迎えられるよう、今こそ20世紀の歴史に向き合うべきだ」 と結んであるそうです。

  正論だと思いますが、どこが奇妙かというと、自国アメリカの事について何も触れていない点です。 靖国神社に祀られているA級戦犯は、中国・韓国・その他アジア諸国だけでなく、アメリカに対する侵略戦争を起こした責任者でもあります。 なぜ、当事国のアメリカの新聞が日本の首相の靖国参拝を、第三者のような口ぶりで評するのでしょう? それでは、日本軍との戦闘で死亡した米軍兵士の魂が浮かばれないのではないでしょうか?

  太平洋戦争は、日本がアメリカに仕掛けた戦争であって、その逆ではありません。 ところが、奇奇怪怪な事に、アメリカ人には被害者意識が希薄で、日本人の方に 「アメリカにやられた」 という意識が極太の根を張っています。 原爆でも、東京大空襲でも、日本人はアメリカの 『戦争犯罪』 をいきり立って指弾しますが、そういう時、戦争を始めたのがどちらの国なのかは、すっかり忘れているようです。 アメリカ側はアメリカ側で、降伏後の日本がアメリカの従順な子分になった為か、日本の戦争責任を批判する論調は、ごく一部を除いて途絶えてしまいました。

  しかし、日本軍との戦闘で米軍兵士が10万人近く殺害されているのは紛れも無い事実です。 もし、日本がアメリカに戦争を仕掛けなければ、その10万人は今でも生きていて、子供や孫に囲まれて幸せな老後を送っていたかもしれないと思うと、忘れていいような被害ではないと思います。 そして、その戦争を始めた人間を、神として祀っているのが、靖国神社なのです。 その事が分かっているんでしょうか、ニューヨーク・タイムズは?

 「日本が帝国主義的な征服の道に再び向かうとは誰も懸念していない」 と書いていますが、それをやりたくて仕方ない少なからぬ勢力が、首相の靖国参拝を支持しているのですから、少しは懸念してもらわないと困ります。 同じ勢力が 『東京裁判』 の否定も大音声で唱えていますが、東京裁判を実際に取り仕切ったアメリカが、この傾向に危機感を抱かないのは正直不思議です。 つまり、この勢力は、「アメリカに戦争を仕掛けた事は間違いではなかった」 と開き直っているわけですが、この重大さがどれだけのものか、分からないアメリカ人でもありますまい。

  どうも、ニューヨーク・タイムズは、日本人というものがよく理解できていないようです。 現在、日本が帝国主義の看板を出していないのは、ひとえに米軍がいるからであって、もしアメリカが西太平洋地域から撤退したら、すぐさま大日本帝国が復活すると思われます。 なにせ、米軍にもう一度ぶん殴られるのが怖くて、息を潜めているだけですから。

  論理が理解できない民族に、近代政治思想が理解できるはずがなく、当然の事ながら、民主主義も付け焼刃です。 『三権分立』 も、『文民統制』 も、言葉だけは知っていても、どうしてそれが重要なのかは分かっていません。 『平和憲法』 など、猫に小判もいい所です。 猫は人に飼われている間は小判を大事にしているかもしれませんが、飼い主がどこかへ行ってしまったら、直ぐに捨てるでしょう。 その価値が分からないからです。

  日本が核武装などと言い出したら、アメリカはどんな手を使ってでも阻止しなければなりません。 日本人は核兵器を持ったら、何のためらいも無く使える数少ない民族の一つだと思います。 なぜなら、論理が分からないので、『抑止論』 が理解できないからです。 「一方が核を使ったら、もう一方も確実に核で反撃するから、どちらも先には使えない」 というのが核抑止の原理ですが、大日本帝国の軍人達に、こんな理詰めの発想が出来ないのは、容易に想像できます。 「日本には神が味方に付いている。 こちらが先に核を使えば、向こうは震え上がって反撃できなくなるはずだ。 度胸の違いを見せてやる」 これが白村江以来の日本人の兵法です。 日本が再び軍国化しても、大日本帝国と同じ経過を辿って、再び滅亡するのは疑いないですが、その間にどれだけの犠牲者が出るか分かったものではありません。

 「日本は誉れある21世紀を迎えられるよう、今こそ20世紀の歴史に向き合うべきだ」

  ああ、さすがニューヨーク・タイムズの記者だけあって、いい事を言いますねえ。 でも、人を見て法を説くべきです。 ハイテクの塊である中国の有人宇宙船が悠々綽々帰還したその日に、神社に参っている首相を戴いてる国に、誉れある未来などありえましょうや? ちなみに、日本の政治家も国民も、アメリカのリベラル新聞の意見など、とんと聞く耳持ちません。 そもそも 『リベラル』 という概念が日本には入っていません。 リベラル政党が存在しないのがその証拠。 説諭を試みるより、直截に警戒した方が良いと思います。

2005/10/19

テレビ低迷期


  まったく、テレビ番組がつまらないです。

  例の不祥事のせいだけとも思えませんが、ここ数年のNHKの衰退ぶりには、呆気に取られる凄まじさがあります。 まず、重厚なドラマを作れなくなってしまいました。 『ハルとナツ』 で、久しぶりに重いテーマの作品に取り組んだかと思ったら、「アイデアを盗用している」 というクレームが付き、いきなり白けました。 姉妹がブラジル移民に絡んで離れ離れになるという基本アイデアを、そっくりパクったらしいのです。 それに対するNHKの反論が凄いです。 「ブラジル移民に絡んで家族が離散するストーリーは、よくある話なので、盗用には当らない」 というのです。 自分でありふれていると言ってしまっているのだから、いいドラマになるわけがありません。

  『NHKスペシャル』 も全然面白くなくなってしまいました。 その昔、『NHK特集』 と呼ばれていた頃には、世界情勢が分かる貴重な情報源だったので、テレビに齧り付いて見ていたものですが、今や見始めても、すぐにチャンネルを変えるほどつまらなくなりました。 最近、『プロジェクトX』 にあやかろうとしているのか、日本企業賛美を始めたから、もうとても見られたものではありません。 以前の 『NHKスペシャル』 は、冷め過ぎるほど冷めた客観姿勢が魅力だったんですが、自分の国を誉め始めたら、もう報道もおしまいです。

  そういえば、『プロジェクトX』 は、今年限りで打ち切りになるようですが、やめるのが遅すぎたというべきでしょう。 あの番組、最初から重大な問題があり、世間に悪影響を及ぼすに違いないと思っていましたが、本当に心配していた通りの内向きな国になってしまいました。 自国の技術開発力を神話のように持ち上げていたら、外に目が行かなくなるのは避けられません。 あの番組を見ていると、まるでこの地球上で技術開発が出来るのは日本人だけのように思えて来ます。 もちろん、そんな事は全然なく、しかも 『プロジェクトX』 で取り上げられたエピソードは、ほとんどが過去の話です。 現在は、主に若い世代の技術者が能力低下を起している為に、日本企業の技術力は衰退傾向が著しく、あんな神話はデッチ上げでもしない限り、拾い出せなくなっています。 もし、世界中の企業を対象にして開発秘話を紹介していたら、もっと良い番組になったでしょう。

  一方、民放ですが、ドラマが腐ってしまっているのは、先日書いたので、繰り返しません。 見るものがなくて困ってしまっているのは、ゴールデンタイムです。 月曜から木曜までは全滅ですな。 『東京フレンドパーク』、『伊東家の食卓』、『笑ってコラえて』・・・・楽しみに見ている方々には余計なお世話ですが、よく同じ物を何年も見ていて飽きませんね。 『いきなり黄金伝説』 の 『芸能人一万円生活』 なんて、ずーーっと同じ事だけやってるんですぜ。 お笑い芸人を中心にしたバラエティーで 最もまともと思われる 『ぐるナイ』 ですら、新企画が出ずに、100% 『ゴチ』 頼み。 『めちゃイケ』 も同じ企画ばかり繰り返しています。

  土曜は、『IQサプリ』 があるのが唯一の救いですが、クイズのネタが無くなって来たのか、ゲームに手を出す気配があり、これは危険な兆候です。 かつて一世を風靡した 『マジカル頭脳パワー』 が、クイズをやっている間は面白かったのに、ゲーム中心に切り替えてから急激につまらなくなった、それと同じ轍を踏むつもりなんでしょうか。 なんで、ゲームが駄目かというと、視聴者が参加できないからです。 出演者だけが大はしゃぎしているのを、ただ眺めているだけでは、面白いはずがありません。 だけど、番組の製作者というのは、クイズとゲームの違いに気付かないようなのです。 違うんですよ、全然。

  全バラエティー番組に共通した事ですが、『若手芸人』 からは、早急に距離を置いた方がいいでしょう。 若手芸人の存在を重宝しているのは、企画が思いつかないバラエティーの製作・監督だけであって、視聴者が望んでいるわけではありません。 同じ視聴者でも、学生は世の中を知らないので、テレビでゴールデンタイムにやっている事が最先端の流行だと思い込んでいますが、ちょっと大人の世代になると、今のバラエティーが若手芸人の頭数だけ揃えてごまかしているゴミ番組ばかりだという事は、あっさり見抜いています。 若手芸人ブームを礼賛している評論家など見ると、「こいつ、ずっと山に篭っていて、ほんの数年前からテレビを見始めたんじゃないか?」 と訝りたくなります。 10年後に誰が残るかなんて議論は、どうでもいいですから、今の番組を面白くしてもらいたいですな。

  職場で、テレビ番組の話題が出なくなってから久しいです。 みんなが見ているような人気番組がないので、話題を出しても話が続かないのです。 デジタルだの衛星だの、局はどんどん増えますが、見る番組はどんどん減っていくのですから、何ともつまらない時代になったものです。

2005/10/16

風邪三馬鹿


  季節の変わり目のせいか、職場で風邪を引く者がちらほら出始めました。 まだ十月半ばですから、インフルエンザ・ウイルスという事はありえず、別のウイルスが原因だと思われます。 インフルエンザでない場合、夏風邪と同じで飛沫感染はしないので、そんなに他人にうつり易いはずはないんですが、なぜか、一人引くと、二人三人と続いて引き始めます。

  風邪には、基本的なメカニズムというものがあり、どのウイルスの場合どんな感染をするか、どういう経過を辿って悪くなり、また治って行くかが大体分かっています。 しかし、その一方で、最も身近な病気である為か、昔から伝わった迷信が根強くはびこっていて、今でも全く非科学的な対応をする人が結構います。

☆ その中で、最も邪悪な物が 『他人にうつすと早く治る』 という迷信です。 これを読んでいる人の中にも、本当にそうだと思っている大馬鹿者が必ずいると思うので、先にきっぱり言い切っておきますが、そんな事は金輪際ありません! ボールの押し付け合いじゃないんだから、他人にウイルスを渡したって、自分の体の中のウイルスが消えるわけがありません。 こういう迷信を信じている人達というのは、ウイルスというのが、一個だけだと思っているのではないでしょうか? いちいち説明するのも馬鹿馬鹿しいですが、ウイルスというのは体の中で無数に増殖するのです。 無数にあるものをほんの一部分他人に押し付けたって、無くなるわけがないでしょうが!

  実は私、数年前に、これをやられた事があります。 ふだん、ほとんど話をしない同僚が、五月の連休に入る前日に、私の所へ来て、世間話を始めました。 その男が風邪を引いている事は知っていたので、嫌だなと思ったんですが、邪険にするのも冷たいかと思って、相槌打ち打ち数分間話したのです。 そしたら、ものの見事に風邪がうつりました。 その年の私の五月連休は、風邪で寝込んで終わりました。 その後その同僚と親しくなったかというと、そんな事は全然無く、またほとんど話をしない関係に戻りました。 なぜ、この男は連休前に私に話しかけて来たか? 考えられる答えは一つしかありません。

 「連休前だというのに、俺は風邪を引いている。 何て運が悪いんだ。 そうだ、他人にうつせば早く治るはずだ! 誰にうつそうか。 親しい人にうつしたら気の毒だ。 よし、ふだんほとんど話をしない、あいつにうつしてやろう」

  という思考経過を経て、私の所へわざわざやって来たに違いありません。 見事にうつす事には成功したわけですが、それでそやつの風邪が早く治ったかというと、治るはずがありません。 馬鹿か、貴様! 結果的に残ったのは、以後私がその男をまったく信用しなくなったという事実だけです。

  ちょっと嘘みたいな話ですが、今でも、こういう迷信にとりつかれている人は、少なからぬ割合で存在するのです。 もしかたしら、風邪を、悪霊やキツネ憑きと同じような感覚で捉えていて、他に移せば自分から離れると思っているのかもしれません。 非文明的この上ないですが、テレビの心霊番組を熱心に見る人が多くいるのも事実ですから、考えられない事ではないです。


☆ 迷信とは違いますが、もう一つ、風邪を引いた人間によく見られる奇妙な行動があります。 それは、人前で殊更に咳をして見せるという態度です。 本当に咳が止まらない場合もありますが、そこまでひどくなると、もう仕事どころではないでしょう。 しかし、仕事はするのです。 一人で働いている間は、咳はそれほどではありません。 ところが、休憩時間に、他人が大勢いる場所に来ると、ゲッボゲッホとやらかし始めるのです。 こういう奴の心理も割と容易に推測できます。

 「俺は風邪を引いているんだよ。 苦しいんだよ。 でも、休まずに仕事に出て来ているんだよ。 偉いだろ? 俺は頑張り屋なんだよ。 見ろよ、このひどい咳を! 可哀想だろ? 気の毒だろ? 俺をいたわってくれよ。 優しくしてくれよ」

  あああっ、胸糞悪い! でも、こういう奴がいるんです! 病状が悪ければ悪いほど、周囲の人間が同情してくれると信じているドアホウが! 大方、子供の頃、風邪を引いた時、親がふだんより優しく扱ってくれたんでしょう。 それで、『風邪を引く→優しくして貰える』 というプログラムが頭の中にインプットされてしまい、大人になっても、それが抜けないのです。 馬鹿者め! 風邪引きなんぞ、そばにいたら迷惑なだけだ! そんなに苦しいなら、出て来なくてもいいから、咳が収まるまで家で寝てろ! こちとら、うつされるのが一番困るんだ! 誰が風邪くらいで、他人に同情などするものか! そんなに同情して欲しかったら、癌でも患って出直して来い!


☆ そういえば、会社の指示の中にも、風邪のメカニズムを理解していないと思しき物があります。

 「最近、風邪が流行ってますから、休憩時間には、寒い所にいないで、ストーブがある休憩所で暖を取るようにして下さい」

  分かってないなあ。 全然分かってない。 ウイルス風邪と、単なる風邪症状を混同しているのです。 あのねえ、ウイルス風邪というのは、ただ寒いだけでは絶対引かないのよ。 ウイルスがうつるから引くの。 つまり、寒い所にいるよりも、ウイルスを持っている人間のそばにいる方が引き易いわけだ。 それをわざわざ会社で指示を出して、休憩所に人を集めて、風邪をうつし合わせる事はないでしょうが! 全っ然分かっとらんのだ、こやつらは! 「南極や北極はこの上なく寒いが、風邪のウイルスが生存できないほど寒い為に、風邪を引くという事は無い」 といった話を聞いた事が無いのかね? 本当にこいつら、現代人なのか? テレビの科学番組を見た事が無いのか?

  以上、風邪にまつわる 『三馬鹿』 でした。

2005/10/12

早すぎた謝罪


  北海道根室市沖で起きた、イスラエルのコンテナ船と、地元漁船の衝突事故の一件について少々。

  イスラエルの海運会社ZIM社の社長が早々と来日し謝罪しましたが、記者会見で整列して頭を下げた光景にはビックリしました。 日本企業の不祥事陳謝会見のスタイルに倣ったのでしょうが、柔道の外国人選手が、試合前に頭を下げる事に対して強烈な抵抗を感じているらしい事を考えると、「こんなに簡単に頭を下げてしまっていいのだろうか?」 と、こっちが不安になりました。

  頭を下げるか否かというスタイルはさておくとして、この謝罪は、明らかに勇み足だったと思います。 衝突の原因も、コンテナ船側が衝突に気付いていたかどうかも分かっていない段階で謝罪するのは筋が通りません。 もし衝突原因が、双方、もしくは漁船側にあるとしたら、衝突に対する謝罪は全く不要です。 また、衝突に気付かなかったために、救助活動をせずに立ち去ったのだとすれば、その事で非難されるのも筋違いです。 せいぜい、遺憾の意を表明する程度が妥当な対応でしょう。 調査の結果、コンテナ船側に問題があったら、それから謝罪しても遅くないと思います。

  問題解決への誠意を見せようとして、早く謝罪してしまおうという態度は、日本人相手には裏目に出ます。 「おっ、こいつ、謝ったぞ。 という事は、いくら責めても文句はないという事だな」 と勝手に思い込むからです。 日本人は自分に対して謝った相手には、貸しができたと考えるのです。 よく、交通事故の処理で、「外国では責任を問われると困るので絶対謝らないが、日本では謝っても責任を認めた事にはならない」 と言われますが、それは 『法的責任』 の場合です。 日本人は 『道義的責任』 に関して異常な拘りを見せるので、不用意に先に謝ると、それでもう相手より立場が弱い事を認めてしまった事になります。 道義的責任には、『法律で定められた責任の限界』 というものがないので、却って始末が悪いです。 下手をすると、永久の負債を抱える事になります。

  社長は、謝罪した後で、遺族から求められた 『補償確約書』 への署名を拒みましたが、当然の事です。 調査結果が出るまでは、どちらに責任があるのか分からないのであって、なんで、そんな段階で、「全責任を認めて補償する事を約束しろ」 などという契約に同意が出来るものですか! そんな事は、法治国家では常識以前の話ですが、日本人には理解できないのです。 よく 「日本は法治国家なので・・・・」 といった言い回しを使う人がいますが、あれを聞くと、私は失笑してしまいます。 日本人は警察に捕まるのが怖いだけで、法律そのものに対する興味は至って稀薄です。 なにせ、『論理』 が分からないので、論理で組み立てられている法律も理解できないんですな。 今回の事故でも、イスラエル側は、『補償確約書』 などという代物が出てきた事に、仰天した事でしょう。

  漁船側の生存者や遺族は、「コンテナ船側は衝突に気付いたはずだ」 と言っていますが、これまた、調査結果が出ない段階で断言するのはおかしいです。 それに、気付いていたら、救助活動をするんじゃないですかねえ? 軍用の潜水艦が当て逃げするという事はよくありますが、あれは任務の性格上、その場所にいた事を認めるわけに行かないからであって、その種の制約が無い商用のコンテナ船が、国際問題になる恐れがある当て逃げをやらかすというのは不自然です。 船長が狂っていたというなら話は別ですが・・・。 生存者と遺族が、なぜ、「気付いていたはずだ」 と考えるのか、その根拠が聞きたいです。 そういう事にしないと、補償が受けられないからでしょうか? しかし、調査の結果、コンテナ船側に責任が無いという事になった場合、補償は行なわれないわけで、最初から補償されて当然と決めてしまうのは、一方的な思い込みというものです。

  もっとも、こういう理屈を並べても、生存者も遺族も一人として納得しないでしょう。 それだけでなく、日本人の大半が、「コンテナ船が当て逃げした」 と信じ込んでいる事は容易に想像できます。 外国船と日本船が事故を起こした場合、常に外国船側に問題があると考えるのが、日本人だからです。

  日本側が、こういう態度を取ってしまった以上、この一件が丸く収まるには、コンテナ船側が当て逃げした事を認めてくれる以外に道はありませんが、本当に当て逃げでなかった場合、認める道理がありませんから、生存者と遺族は永久にコンテナ船会社とイスラエルを恨み続ける事になります。 そもそもは、自分達が 「悪いのはコンテナ船側だ」 と決めつけてしまったのが原因なのですが、そういう事に気付かないのが日本人の思考回路なのです。 また、もしコンテナ船側が当て逃げを認めたとしても、単にこの一件が片付くというだけで、日本人の論理性の無さが解決するわけではありません。 この欠点は百年たっても治らないと思います。

2005/10/08

環境保全の落とし穴


  この夏の 『クールビズ』 に続いて、これから冬に向けて 『ウォームビズ』 が提唱されているようです。 地球環境をこれ以上悪化させない為に、省エネ活動に社会全体で取り組もうというわけです。 しかし、よくよく考えると、ウォームビズは本当に省エネになるのか、疑問が湧いてきます。 もしかしたら、『良かれと思って悪くした』 事例の一つになってしまうのではありますまいか?

  クールビズが省エネに寄与する事は、割と簡単に納得できます。 夏場、軽装で過ごせば、余計な冷房をする必要が無くなりますから、電力消費が減るのは誰でも分かる事です。 それまで着ていた物を脱げばいいわけですから、何の出費もいらない大変賢い省エネ方法だと言っていいでしょう。 しかし、ウォームビズは、そうは行きません。 暖房費を抑える為に余分に服を着ろというわけですが、それまで着ていなかった物を着るとなれば、着る物を新たに買わなければなりません。 手持ちの服で間に合えばよいですが、新調する人も膨大な数に上ると予想できますから、節約した暖房費を衣類の購入費が上回らないとは限りません。

  また、単に当人の出費だけでなく、衣類の生産にかかるエネルギーまで勘定に入れると、ウォームビズは、省エネどころか、大変な 『浪エネ』 なのではないかと思えて来ます。 物を作る為には、当然エネルギーが必要なわけで、原材料の生産、工場の操業、製品の運搬、消費行動、どれ一つ取っても、エネルギーを使わない過程などありません。 もちろん、各段階で汚染物質も排出されます。

  一昔前に、割り箸の使用が資源の浪費だといって批判され、塗り箸を持ち歩いているのを自慢にしている人がかなりいました。 しかし、あれは、ある経済学者の指摘によれば、「塗り箸を洗う水の浪費について何も考えていない行為」 なのだそうで、そのせいかどうか知りませんが、いつのまにか塗り箸携帯ブームは消散してしまいました。 「自分は環境に優しい行為をしている!」 と絶対の自信を持っていた人達が、「却って他の資源を浪費している!」 と言われて、急に自信を失い、「ああ、世の中は私が考えているより、ずっと複雑なんだなあ・・・」 と感慨に耽って、元の木阿弥と成り果てたのかもしれません。 ウォームビズにも、同種の 『考え足らず』 の雰囲気がプンプン立ち込めています。

  非常に奇怪だと思うのは、クールビズやウォームビズの経済効果を賞賛する風潮です。

「省エネや環境保全になる上に、衣類が売れて経済まで活発になる、一石二鳥の万々歳ではないか!」

  まあ、落ち着いて考えてみようじゃありませんか。 そんな事、両立するわけ無いでしょう? 上に書いたように、経済活動そのものがエネルギーを必要とするんですから。 クールビズの時でさえ、ワイシャツが売れたと言って大喜びしていた業界がありましたが、地球規模の省エネが目的である事を考えると、冷房費が減った分、ワイシャツの生産エネルギーが増えたわけで、効果を相殺してしまっています。 これを本末転倒と言わずに何と言いましょう? 況や、ウォームビズに於いてをや・・・・・。

  今持て囃されている 『ハイブリッド車』 にも、同様の問題点があると思います。 あれは、本当に省エネなんでしょうか? 確かに燃費は良いですが、ハイブリッド車は普通のガソリン車より値段が数割高いので、相当な距離を走る人でない限り、差額分の元を取る事は出来ないと思われます。 次に環境問題の方ですが、バッテリーを大量に搭載している車ですから、廃車になれば、そのバッテリーの処分が問題になります。 今でも、処分に困って山の中に放置されているバッテリーをよく見かけますが、この調子でハイブリッド車が増えて行ったら、未来にどんな光景が待っているか、想像するだに恐ろしいです。 ほら、何となく、『割り箸と塗り箸』 の問題と相通じる胡散臭さが漂って来たでしょう?

  技術革新が省エネや環境保全に寄与するという事は確かにありますが、物事の良し悪しは、そうそう大根を包丁で切るようにサクッと気持ちよく分かれないものです。 そもそも、そんなに省エネ・環境保全に気を使っているというなら、車に乗らない方が遥かに貢献度は高いと思います。 歩けとまでは言いませんが、常識的なところで、車通勤をバイク通勤に変えるだけでも、排気量を数分の一に出来ます。 もちろん、ハイブリッド車より桁違いに安いです。 なぜ、やらぬ?

  かつて沖縄で、ハブの被害を無くす為にマングースを導入した時、後々悪い結果を招くなどとは誰も予想しなかったそうです。 天敵を利用する非常に賢い対策だと思って、期待満々でマングースを放したんですね。 ところが、放たれたマングースは、わざわざ死闘を繰り広げてまでハブを食べようとはせず、他の貴重な固有動物を餌食にして繁殖し始めたから、さあ大変! 死闘を繰り広げるのは、ハブとマングースではなく、人間とマングースになってしまったんですな。 これは、良かれと思って悪くした典型例ですが、ウォームビズやハイブリッド車が、同じ落とし穴に落ちない事を切に願います。 まあ、「悪い結果が出てからでないと、間違いに気付かないのが人間だ」と言ってしまえば、それまでですが。

2005/10/05

運命的買物


  清水の舞台から飛び降りるつもりで4700円を出し、新品の 『プチ・ロワイヤル和仏辞典』 を購入した私は、同時進行で仏和辞典の入手も検討していました。 今までは、10年ほど前に買った 『コンサイス仏和辞典』 を使っていたのですが、ご存知の通り、コンサイスはポケットサイズの辞書で、見出し語数こそ多いものの、説明や例文が少なく、初学者には使い易いとは言えなかったからです。

  仏和辞典の方は、最初から中古を狙っていました。 私は古本屋に行くたびに、辞典コーナーをチェックする癖がついているのですが、和仏辞典はまず出ません。 日本でフランス語を学ぶ人の大多数は、大学の第二外語でフランス語を取った学生ですが、仏和と違い、和仏は 「必ず買え」 とは言われないので、買われないのです。 結果的に、世の中に出回る数は非常に少なく、中古市場に出てくる事もないというわけですな。

  一方、仏和の方は、フランス語を取った大学生が必ず買う上に、大半の学生が、すぐに用無しになって手放すので、相当な数が中古市場に出てきます。 どの古本屋に行っても、必ず一冊や二冊はありますが、桁違いに多い数が出版されている英和辞典も同じ程度しか見ませんから、フランス語を中途放棄する人が如何に多いかが分かります。

  古本というと、手垢がついた不潔なイメージを抱いている方も多いと思いますが、辞典の場合、そういう心配は無用です。 どんな人でも、頻繁に使っている辞典を売ったりはしません。 滅多に使わないから売るのです。 つまり、中古市場に出てくるような辞典は、手垢が付くほど使われていないんですな。 また、古本屋の方も、汚れた辞書など買い取りません。 古本屋では、買い取った本に手垢が付いている場合、ページの端を紙やすりで削って綺麗にしてから売りますが、辞書では、その部分に五十音やローマ字が印刷されているので、補修が利かないんですな。 恥を掻くだけですから、くれぐれも使い古しの辞書など売りに行かないように。

  さて、中古仏和辞典の購入計画に話を戻しましょう。 最初に目を付けたのは、近所の古本屋にあった三省堂の 『クラウン仏和辞典 第四版』 でした。 初級仏和辞典は数年ごとに改版されますが、新語が追加収録されるので、新しければ新しいほど良いとされています。 クラウンの場合、最新が第五版なので、一つ前という事になりますが、中古だからそのくらいならいい方でしょう。 定価3800円の所を1950円。 クラウンは、かなり定評のある辞典なので、これを買って失敗したという事にはまずならないだろうと思いましたが、その時は買いませんでした。 その時点では、まだ和仏の方を買っておらず、先に新品の購入を片付けてしまおうと思っていたからです。 労金のポイントでもらえる千円分の図書カードを当てにしていたので、それが送られて来るまで、ホイホイ事が進まなかったという事情がありました。

  そして、次の週末、図書カードを手に入れた私は、まず和仏辞典の購入を済ませました。 近所の本屋には無かったので、3キロほど離れた駅北の本屋まで車で行きました。 よしよし、ここまでは予定通りです。 さて、その帰りに、駅北の古本屋に寄ったところ、白水社の 『ディコ現代フランス語辞典 第二版』 があるのを発見しました。 これも、最新より一つ前の版で、値段は1950円。 うーむ、迷いの種が出来てしまった。 ネットで調べた時には、ディコも誉められていましたが、クラウンの方が確実なような気がして、やはり買わず、一旦家に戻りました。 新品の和仏を買ったばかりであるも拘らず、既に頭は中古仏和の選択の方に移っていて、一晩中、ネットで、クラウンとディコの長所短所を比較検討して過ごしました。 散々悩んだその結果、

「よし! 下手の考え休むに似たりだ! どっちにするか決めようがないんだから、最初に見つけたクラウンの方を買おう!」

  と、テキトーに決心し、翌朝一番で、近所の古本屋に行きました。 そしたら、あなた、驚くじゃありませんか! 前の週に見た 『クラウン仏和辞典 第四版』 が、もう無いのです! やられたっ! 誰だ、この時期に仏和なんて買う半端な奴は! その代わりに同じクラウンの 『第三版』 がありましたが、そちらはさすがに古すぎて、買う気になりませんでした。

「うーむ、こうなったら、駅北まで行って、ディコを買うしかないが、もしかしたら、ディコも既に売れてしまっているかもしれない・・・・」

  最初の当てが外れてしまうと、人間弱気になるものです。 運命まで登場してきます。

「もしや、ここでクラウンを買えなかったのは、運命なのではあるまいか? コンサイスがあるのに、わざわざ別の仏和を買う必要はないという啓示なのかも知れない・・・・」

  悩みに悩みつつ、車で再び駅北へ。 恐る恐る古本屋に入ると、ああ、まだありました! ちっ・・・ビクビクして損した。 1950円で、無事に購入しました。

  そういえば、前にも似たような感覚に襲われたことがありました。 フィルム式の一眼レフカメラに凝っていた頃ですが、行きつけのカメラ屋で大感謝祭があり、必要ではないけれどあればいいと思っていた200ミリのレンズが安く売っていたのです。 何せ、必要ではないので、買うべきか買わぬべきか大いに悩みました。 客でごった返す店内をぐるぐる回ったり、店から出たり入ったりを繰り返した末、

「よし、もう一度レンズ売り場に行って、まだ残っていたら買おう。 売れてしまっていたら、それが運命だ」

  と、決心して、再びレンズ売り場に行きました。 そしたら・・・・・もう無かったんですねえ。 どっと全身の力が抜けました。 その時は好機を逸したような気がしてがっかりしましたが、その後半年もしない内に写真撮影に飽きてしまった事を考えると、あの時200ミリを買わなかった事は、運命だったように思えるのです。

  さて、言わば運命によって私の元に来た 『ディコ現代フランス語辞典 第二版』 なわけですが、果たして、私のフランス語学習に、運命的な影響を及ぼすのでしょうか? まだ、ほとんど使ってません。

2005/10/01

人気外国語ランキング


  先日、新聞で知ったのですが、高校で英語以外の外国語を教える所が増えているそうです。 学生の数は、全言語を合わせても4万人程度で、全体から見れば微々たる数ですが、確実に増加しているのは、良い傾向だと思います。

  2003年5月の文科省の調査によると、約半数が中国語で19045人、以下、フランス語8081人、韓国朝鮮語6476人、ドイツ語4275人、スペイン語2784人、ロシア語478人と続き、他にも、イタリア語、ポルトガル語、インドネシア語、エスペラントなどが学ばれているそうです。

  教育特区制度が出来た為に起こった現象で、別に文科省が旗振りをしたわけではないようです。 言わば自然発生したわけで、各言語の勢力が、現在日本で重要視されている外国語の順位をそのまま表わしている点が面白いです。

  中国語がダントツなのは、当然と思われます。 よほど国際情勢に疎い人でない限り、中国が今後30年以内に、アメリカの数倍の規模を持つ超大国になる事は容易に想像できますから、将来への投資と見なされる事が多い外国語学習で人気が集まるのは少しも不思議ではありません。 中国語は漢字を共用する関係上、日本人には学び易い言語です。 10代の頃に基礎だけでも頭に入れておけば、読める所までは確実に行くと思うので、現実的に実の成る学習対象と言えます。 ただ、発音や会話の方は、たとえ授業に中国人講師がついていたとしても、あまり期待は出来ないでしょう。 特に発音は、テレビの中国語会話でも見ていた方が、綺麗な音が出せるようになります。

  フランス語が2番目なのは、伝統の強味でしょうね。 発音は始める前に想像しているよりは楽ですが、文法には泣かされるに違いありません。 20年くらい前には、「フランス語を習っています」 と言われると、何だか気取ったいやらしさを感じたものですが、最近は日本人全般のフランスへの憧れが薄れたせいか、そういうイメージが消散しました。 実用的な学習対象として捉えられるようになったのは、フランス語にとって却って良い事だと思います。 その上で、実際に習ってみれば、フランス語が持つ文化・文明の香りは、知的好奇心旺盛な学生にとって、学習意欲を掻き立ててくれる大きな要素になると思います。

  三番目は韓国朝鮮語ですが、この言語、もっと順位が上がってもいいと思います。 日本語と近縁であるが故に、とにかく習い易いという最大の利点があります。 つくづく思うのですが、最初に習う外国語は、母語と近縁種が一番です。 少ない労力で実用段階まで進む事が出来るので、学習者の外国語への抵抗感を大幅に減らす事が出来ます。 その点から見ると、日本で最初に英語を教えているのは、不適当な選択と言わざるを得ません。 フランス人やドイツ人が英語を習うのとは、条件が全然違うのです。 発音は聞き取れない、語順は半分逆、表現方法もまるで異質、となれば、苦手になるなという方が無理です。 現在、韓国朝鮮語が人気なのは、韓流ブームが影響していると思われますが、願わくば、このまま学習者が増えて行って欲しいものです。 日本語母語話者にとって、中国語と韓国朝鮮語は、習わなければ損になる言語と言っていいでしょう。

  ドイツ語やスペイン語が多いのは、順当な所でしょうか。 ドイツ語は、戦前までは知識人の教養の証明のような扱いをされていましたし、現在でも、EUの中心的な言語として、極めて重要です。 スペイン語は、使用国数が多いので、海外旅行では実用的な強みを発揮するでしょう。 隣国なのに、ロシア語が少ないのは勿体ないですな。 文学や科学技術など、学ぶべき所がいくらもあるのに。 大御所では、アラビア語やヒンディー語が入っていないのは残念ですね。 アラビア語が出来る高校生などいたら、大変カッコいいと思いますが。

  学校で教えられる言語は、選択の幅が広ければ広いほど良いと思います。 実用面もさる事ながら、「外国語は、とりあえず英語だけやっておけば充分」 という固定観念を子供に植えつけないようにするのにも役立ちます。 一旦頭に侵入した偏見はなかなか消えませんから、早い内に、世界中の全ての言語の価値が同等である事を知っておいた方が良いでしょう。