2007/10/28

趣味の音楽

  先日買ったキーボード、一日に20分くらいずつ弾いています。 「練習しています」と言いたい所ですが、これといった目的があるわけではなく、ただ簡単な曲を間違えずに弾けるように繰り返しているだけなので、練習といえるほどの執心ではないです。

  弾き始めて気付いたんですが、16小節くらいの短い曲の場合、楽譜というのは最初の一回しか見ないものなんですな。 素人考えだと、「プロの演奏家ですら、楽譜を見ながらやっているのだから、本を読むように最初から最後まで、音符を目で追い続けているのだろう」と思う所ですが、実は違ったんですね。 よほど楽譜を読むのに慣れていても、また、よほどテンポの遅い曲でも、音符を拾いながら演奏するというのは至難の業です。 視神経→脳→指の神経の反応がとても間に合いません。 また、楽譜という奴、歴史的に成立したものであって、合理的に開発されたものではないので、元々読み難いのです。

  では、どうやって曲を弾いているのかというと、指が覚えているのです。 嘘みたいですが、私ほどの超初心者でも、勝手に動きます。 実に面白い現象なので、試してみると宜しい。 指が覚えるのは鍵の場所とそれを叩く順番ですが、間違えた時それに気付くのは、目ではなく、耳です。 これがまた面白い! 指の方が間違えて覚えていて、別の鍵を叩いても、耳の方が、「そこじゃねえよ」と駄目出しをするのです。 今までの人生で、音程について考えた事など一度もなく、せいぜい中国語のアクセントを習った時に、音に高いか低いかの二種類がある事を知った程度なのに、そんな私でも、鍵盤で間違えて隣の鍵を叩くと、それが間違いだと分かるんですねえ。 不思議不思議。

  間違いが分かるという事は、正しい音がどれかも分かるわけで、つっかえつっかえ修正しながら繰り返し弾いているうちに、自然に指が覚えて、間違いが減って来ます。 たぶん、どんな天才的演奏家でも、これと同じような事をやっているんでしょう。 ≪のだめカンタービレ≫の中に、「一度も弾いた事がない曲でも、他人の演奏を二三回も聞いていれば、真似て弾けるはず」という言葉が出てきました。 門外漢には魔法のように聞こえる話ですが、自分でちょこっとやってみると、「そういう事もあるかもしれぬ」と信じられるようになってきます。 そういえば、のだめは耳で聞いた曲を自分風に弾いてしまって、しょっちゅう千秋先輩に、「なんだ、メチャメチャじゃないか」と言われますが、逆に考えると、楽譜を見なくても、耳だけで曲は弾けるという事でしょう。


  大人になってから、「何か楽器を習いたい」と思う人は結構多いようですが、目標を高く取り過ぎると、失敗する傾向があるようです。 誰でも思いつくのは、「個人的に練習して、ある程度モノになってきたら、行く行くは、アマチュアの音楽サークルに入って、発表会やコンサートで演奏してみたい」というもの。 かくいう私も考えました。 実際、努力を重ねて、その計画を実現させる人もいるのですが、人前での演奏を何回かやってしまうと、何となく物足りなくなって、そこで音楽をやめてしまうという話も多く聞きます。

  なんで、やめてしまうのかというと、飽きるからです。 人間、目標がはっきりしている内はどんどんそちらへ向かって進もうとしますが、一旦実現すると、それを何度も繰り返しても満足を感じなくなってしまうんですね。 子供でもそうですが、大人の場合、既にいろいろな趣味を経験している人が多いので、尚更飽きるのが早いです。 目標を達成しない内にやめてしまう人もいますが、これも大人に顕著な特徴でして、経験的に自分の能力の限界を知っているので、「これ以上やっても、うまくならないな」と見越すと、そこで打ち切ってしまうのです。

  まあ、趣味の世界ですから、続けるのもやめるのも当人の勝手ですが、楽器の購入など、初期投資もしている事ですし、どうせなら長く続けたいもの。 そう思うなら、発表会やコンサートなどの大舞台を目標にするのはやめた方がいいかもしれません。 自分の部屋で、自分一人で曲を弾いて、それで楽しめるというなら、曲はこの世に無数にあるわけですから、決して飽きる事はないでしょう。 なまじ、人様に聞いてもらいたいなどと欲を張るから、自分のペースが作れず、本来楽しむ為にやっている趣味が、セルフ拷問になってしまうのです。

  人様に聞いてもらうというのは、一定レベル以上の技量を必要としますから、挑戦価値がある事は認めますが、その反面、練習の負担も大変大きく、仕事の片手間にやる場合、エネルギーの消耗が並大抵ではありません。 首尾よく上達したとしても、発表会が終った途端に、どっと緊張が弛み、そこで燃え尽きてしまうんですな。 中高年のピアノ初心者が陥り易いパターンです。 だけどねえ、残酷な事を言わせて貰うと、聞いている方は、誰も「うまい」なんて思ってませんぜ。 せいぜい、「いい年したおっさんにしてはうまい」くらいの評価が関の山。 どんな人間でも、生まれてこの方、テレビで散々プロの演奏を聞いて育ってきているわけですから、耳は肥えていているわけです。 やっとこさーで楽譜通りに鍵盤を叩いている程度の演奏をうまいと思ったりしませんや。

  だからねー、一曲3分もかかるようなクラシックのナンバーなんて弾こうとせずに、16小節の小学校曲を弾いていればいいんですよ。 ヘッド・フォンつけてるんだから、誰から笑われる心配もありません。それに、音楽の素晴らしさは、≪きらきら星≫でもベートーベンの交響曲でも、まったく等しいです。 嘘だと思ったら、リコーダーでも引っ張り出して来て、押入れに入って、≪きらきら星≫を吹いて御覧なさいな。 リコーダーを吹くのが小学校以来なら、自分で出す音のあまりの繊細さに琴線をはじかれて、感動に打ち震えるはずです。 年末に耳に入る第九なんぞ、聞きなれてしまって、もはや何の感動もないのに比べて、自分で吹いた≪きらきら星≫の価値が低いなどとは、誰も思わないと思いますよ。

  趣味の音楽の魅力というのは、そういうものだと思うのです。 人様に聞かせるのが最終の目標だなんて、思い違いも甚だしいです。 趣味とは、あくまで、楽しむものであって、努力する必要はありません。 むしろ、努力し出したら、終わりが見えたと考えるべきでしょう。

2007/10/21

頭勝負

  長いお笑いブームですな。 笑うのは嫌いじゃありませんが、ブームがこれだけ続くと、さすがにうんざり食傷してきます。 お笑いブームというより、芸人志望者続出ブームというべきでしょうか。

  ほんの20年くらい前までは、漫才師やコント・グループ、その他芸人になるには、必ずと言っていいほど、≪師匠に弟子入り≫が必要だったわけですが、今は全くの一般人が、番組オーディションへ直接出てくるパターンの方が多いんじゃないでしょうか。 新人の芸を初めて見る時、所属事務所が有名どころだと、「ほう」と思わず期待してしまいますが、そう思うのは一般人の芸が、どうにも荒削り、あまりに体当たりである事に対して、不快感を覚えているからではないかと思います。

  で、デビューの仕方が変わって、笑いの内容も変わったかというと、そんなに変わっていません。 私は、最初の≪漫才ブーム≫の頃からしか見てませんが、それ以前も大した違いは無かったんじゃないかと思います。 一時期、「漫才のテンポが速くなったのは進歩だ」といった分析が流行った事もありましたが、言語学的に見れば、言語の伝達速度には速さの限界があるのであって、一度限界まで達してしまえば、後は遅くなるしか変えようがありませんから、そんなのは単なる変化であって、進化ではなかったんですな。

  むしろ、決定的に変わったのは、これら芸人志望者達の目標だと思います。 昔の芸人は、舞台で芸を見せて、興行で一人前に通用するのが目標でした。 テレビにも出ますが、それは知名度を上げる為であって、テレビに出る事自体が目標だったわけではありません。 彼らの主戦場は、寄席や劇場といった生の現場だったわけです。

  では、今の芸人志望者はどうかというと、手段と目的が完全に逆転してしまい、舞台芸は単に名前を売る為の手段になってしまいました。 彼らの最終目標が、テレビのバラエティー番組に出演する事なのは、明々白々、疑いようもないです。 芸人になりたいのではなく、テレビ・タレントになりたいわけですな。 今、≪若手芸人≫と言われる人達が何百組いるか想像も出来ないほどですが、そんなにいたのでは、日本中の興行に割り振っても、八割方あぶれるんじゃないでしょうか。 そんな状態でも、次から次へと芸人志望者が続くのは、テレビ・タレントになる為のきっかけを芸人に求めているからとしか考えられません。

  ≪芸人への登竜門≫を名乗っている番組は多いですが、実際には、≪タレントへの登竜門≫といった方が適切でしょう。 また、テレビ局も、舞台芸しか出来ない芸人に用はないのであって、軽妙なトークで番組を盛り上げてくれるアドリブに強い人材、そして、最終的には、バラエティー番組の司会を務められるような器用な人材を探しています。 プロ野球人気がへたり、時代劇と子供向けドラマが絶滅し、アニメが深夜に追いやられた後、ゴールデン・タイムは、クイズ番組を中心にした似たり寄ったりのバラエティー一色になってしまいましたが、芸人上がりは頭の回転が速いので、その種の番組にはうってつけだったんですな。 需要と供給が一致して、現在の状況が生まれているわけです。 もし、テレビ局サイドが求めていなければ、こんなにブームが続くわけがありません。

  隔世の感があるのは、歌手系のタレントが姿を消した事でしょうか。 歌手は依然として存在しますが、出演番組は、いつの間にか、歌番組に限定されるようになってしまいました。 昔は、タレントの最大供給源は歌手だったのですが、今の歌手は、音楽以外の分野へ出て行く事がほとんどないと思います。 音楽がそれだけ、マイナーな芸能に堕ちてしまったんですな。 こういっちゃ失礼ですが、アイドル全盛期の歌手なんて、頭スッカラカンばっかりで、クイズ番組なんて出られたもんじゃなかったです。 時の首相が誰かも知らないという、驚異の無知ぶり。 今の芸人タレント達なら、たとえアホを売りにしている人でも、首相の名前を知らないなんて事はありえないでしょう。 今でも、アイドル歌手というのは存在していて、時に凄まじい低知能ぶりを垣間見せてくれますが、「人間、こんなに馬鹿なままでも、生きていけるんだ」と、感心するほどです。


  さて、芸人タレント達ですが、彼らの生きている環境は大変厳しいと思います。 最初から最後まで、徹底的に頭勝負の世界なので、常に「どうやったら面白くなるか」、「何を言えばうけるか」を考え続けなければなりません。 中には、キャラクターそのものが面白くて、別段新しい事を考えなくても人気を維持できる人もいますが、そんな有能な人は、本当にほんの一部です。 99パーセントは、≪努力する凡人≫なわけですから、「芸能界なんて、ニコニコ笑っていれば何とかなる」とたかを括ったが最後、あれよあれよと言う間に消えて行きます。 後から後から、頭を使って笑いを奪おうとする新人がうようよ追いかけて来るんだから、油断したらおしまいなのは、当然なんですな。 こう書くと誰でも、ここ数年の間にテレビから姿を消した芸人の顔が何人か頭に浮かぶと思います。 人気絶頂の頃は、呆れるほどデカい態度を取っていた人達が、深夜番組ですら居場所がなくなって、追い詰められていくのを見ると、世の無常を感ぜずにはいられませんな。

  若手芸人の中には、昔ながらの舞台芸が得意で、バラエティー番組への適性は高くないという人達もいます。 ≪M1≫のグランプリを取るような腕のある人達に、こういうタイプが多いです。 芸は面白いけど、アドリブになると急に普通の人になって、座を白けさせてしまうという人。 しかし、テレビ向けでないからといって、必ずしも気の毒がる事はないのであって、こういう人達は、興行で生きていけます。 タレント化した芸人達のほとんどが、長くても20年程度で消えていくのに比べると、一生食いはぐれがない分、本物の才能に恵まれた幸福な人達だとも言えます。

  新人芸人と一口に言いますが、頭を使わないタイプの芸の場合、限り無く≪見世物≫に近くなります。 典型的なのは、≪大食い≫の系統ですな。 戦前なら、見世物小屋で、さらし者になっていた口でしょう。 あんなのは芸でも何でもないのであって、畸形を見て楽しむのと何ら変わりはありません。 持て囃す人間の下賎度がありありと窺い知れます。 見ていて、気持ちが悪くならないか?

  裸を売り物にする芸人も増えましたが、笑いの材料として自分の体を張るのは問題ないとして、頭を使わないで、ポーズだの奇声だので受けを狙うのは、これまた芸とはいえません。 実際、二三年前に大受けした後、あっという間に消えた人物を、誰でも思い浮かべられると思いますが、芸人というのが頭勝負であって、頭が使えなければ消えるしかないのだという典型的な例になってしまいました。

  ウケ狙いの小学生がやる芸で、最も素朴なのは物真似ですが、ポーズや奇声は、それにも劣ります。 小学校のクラスには、変なポーズを取ったり、金切り声を上げたりして、皆の注意を引こうとする奴が、必ず一人や二人はいるものですが、面白いと思っているのは当人だけで、他人からは、「馬鹿」としか思われません。 高学年になるほど、その傾向は強まります。 ただの馬鹿は、何をやってもウケなくなるので、すっかり自信喪失して、陰気な児童に成り果てて行きます。 芸というのは、とことん頭勝負の世界なのです。


  冒頭に述べたように、今は長いお笑いブームの一時期なわけですが、今の状況をよーく覚えておいて、20年後に振り返ってみると、非常に面白いと思います。 テレビ適性のある人は20年くらいは残ります。 舞台芸に秀でた人も、時折テレビに出てきて、続いている事が確認できると思います。 しかし、それ以外のほとんどの芸人は、完全に消えているに違いありません。

2007/10/14

温暖化対策の末路

  アメリカの元副大統領、というより、元民主党大統領候補で、接戦の末、現ブッシュ大統領に破れた、アル・ゴア氏が、ノーベル平和賞を貰ったそうです。 いつまでも大統領候補なんぞに執着せずに、さっさと別の人生目標を掲げて邁進したのは正解でしたな。 この授賞、ある意味、≪敗者の華麗な巻き返し≫なわけで、近年稀に見る痛快なニュースと言えます。 様あ見遊ばせ、ブッシュ大統領。 あんたじゃ、逆立ちしたって ノーベル賞は取れんだろう。 まして平和賞なんて、夢のまた夢。 いや待てよ。 任期中にイラクから完全撤退すれば、事によったら貰えるかも知れませんな。 ノーベル平和賞という奴、結構テキトーな規準で与えられていて、確か過去にも、自分で始めた戦争をやめて、授賞した例があったと思います。 ほれ、まだ遅くない、速やかに撤退しなさい。


  それはさておき、地球温暖化対策に世界の注目が集まり過ぎるのは、果たして良い事なのかとなると、それは考え物です。 今回の授賞に対して、チェコのクラウス大統領が、「ゴア氏の活動と世界平和の関係はあいまいだ。 ゴア氏が現代文明を築いた基盤に疑問を広げている実態は、決して平和への貢献ではない」、「思想と意思決定の自由に対する規制が目的で、共産主義と同じ手法だ」と批判しているそうですが、スパーンとこういう論理的批判が出てくる所がヨーロッパらしくて良いですな。 この指摘は、まったくその通りでして、温暖化対策を最優先目標として推進すると、産業社会は確実に停滞します。 いや、停滞ではなく、衰退の域まで行ってしまうでしょう。

  以前、≪環境保全の落とし穴≫で書いた事ですが、温暖化対策というのは、省エネに励めばそれで良いというものではなく、二酸化炭素の排出量を本気で削減しようと思ったら、経済活動全体を抑え込むしかありません。 この点について、「省エネと経済成長を両立させるにはどうしたらよいか」などという、途轍もない勘違いが長らく横行していましたが、最近になって、世間全般にようやく事の本質が分かりかけてきたようです。 二酸化炭素の排出も、エネルギーの消費も、すべて経済活動の結果であって、両者の間には、ほぼ正比例の関係が成り立つという事が。 ≪クール・ビズ≫が流行った時に、繊維・服飾業界が、「ワイシャツが売れて儲かった」と喜んでいたのが、省エネでも何でもなく、むしろ浪エネだったのだという事が、ピンと来たでしょうか? 経済が成長する一方で、エネルギー消費が減るなどという関係式は、どんな魔法を使ったって、成立し得ないのです。

  まだこの一年以内の事だったと思いますが、日本の駐中大使だか、公使だか、領事だか知りませんが、結構重要なポストにある人が、中国で、「中国経済の拡大は地球温暖化の原因になっているから、経済成長をやめるべきだ」と発言したらしいです。 日本では報道されませんでしたが、中国ではかなり物議を醸したようです。 まあ、自分の置かれている立場も弁えず、思い切った事を口にしたもんですな。 恐らく、昨今流行のキチガイ日本人の一人なんでしょう。 もっとも、彼の言った事は、現状分析の部分に限れば、嘘ではありません。 中国に限らず、世界中どこであっても、経済活動が行なわれていれば、それは即ち、地球温暖化を促進している事になります。 この発言の問題点は、この人物が日本人であり、日本が経済大国である為に、他国の経済活動にいちゃもんを付ける資格が無いという所にあります。 他国に対して、「経済成長をやめろ」という前に、まず自国がやめるのが当然の筋です。 やめられればの話ですが。

  よく、「日本は省エネ技術が進んでいて、エネルギー消費や二酸化炭素の排出量は、世界で最も少ない」などというセリフを聞きますが、まったく信用できません。 誰がどうやって調べているのかが、まず分かりません。 まさか、工場・事業所の数や世帯数から、テキトーな推測値を足し算して出しているのではあるまいね。 そんなの、科学的なデータにはなりませんぜ。 車の燃費を諸元表に載っている10モード燃費から計算しているのは、多いにありそうな事ですが、車の使い方は、個人個人で全然違うのであって、単純に足し算すればいいというものではありません。 車だけじゃない、冷蔵庫もエアコンもみんな同じです。 一体、どれだけ厳密に調べたら、「省エネ、世界一!」なんていう虫のいい数字を自信満々で口に出来るのか、想像もつきません。 それでなくても、日本人というのは、体面の為に統計をごまかす癖があり、評判の悪い事には少な目の数字を出し、評判のいい事には上乗せをする傾向があります。 

  「一人一人が省エネに努力して・・・」というセリフもよく聞きますが、世間を見ていると実行している人がいるような気がしません。 見た目にも分かるのが、車の使い方でして、最近はセダンなんぞほとんど売れず、ワゴン・ブームもとうに去って、売れているのはミニ・バンだけですが、ミニ・バンというと、三列シートで7人乗りが普通です。 その、どーんと大きく、ずっしり重い車を、たった一人で通勤に使っている人間がうようよいるのを目の当たりにすると、省エネなんか遠い異星の話に聞こえて来ます。 この人達は、「通勤以外にも使うから」と言い訳するわけですが、じゃあ、家族が7人もいるのか?というと、今時そんな大家族がごろごろいるわけがないのであって、誰の為のシートなのか、説明がつきません。 単に、「私は家族を大事にしています」という社会的ポーズを取る為だけにミニ・バンを買っているのは見え見え。 省エネなんて、爪の先ほども念頭に無いんですよ。

  ミニ・バンが売れる一方で、軽自動車も売れていて、そちらは幾分省エネ志向という感じがしますが、実はそれも幻覚です。 一口に軽自動車といっても、中心になって売れているのは軽ワゴンでして、この車種、乗って見れば分かりますが、えらく重い車です。 ボン・バンに比べると、100キロ近く重いですから、空荷でも大人二人乗せて走っているのと同じ勘定になります。 車高が高く、ガラス面積が大きい上に、電子装備ぎっしりなのですから、重くなるのは当たり前。 坂道になると、アクセルべた踏みでも、カタツムリ並みのスピードしか出ません。 こんな車の燃費がいいわけがないのであって、≪軽自動車=省エネ≫というイメージを抱いていると、燃料代を見て青くなるのは必定です。

  ハイブリッド車の省エネ効果に関しては、まやかしであると、今までに何度も書いてきましたから、繰り返しません。 ハイブリッド車に乗って、「省エネに貢献している」といい気になっているのは、単純計算も出来ない頭の足りない人間だけです。 本当に省エネに貢献したかったら、ハイブリッド車に乗るより、車を使わない事を検討すべきですな。 まあ、馬鹿にそんな基本的な事を言っても、分からんでしょうが。

  車の使用は他人からも見えるので、まだ状況が把握し易いですが、家の中でのエネルギー使用となると、どれだけじゃぶじゃぶ使っているか、分かったもんじゃありません。 部屋の中を見回して御覧なさい。 電気製品だらけでしょう。 よくもまあ、こんなにあるもんだと呆れるくらいあるはずです。 「ほんの四半世紀前には、個人の部屋の電気製品といったら、蛍光灯とラジカセくらいしかなかった」と言ったら、信じられますかね? それが今や、テレビ・ビデオ・DVDデッキ・ゲーム・パソコン・プリンター・デジカメ・ケータイ充電器・エアコン・扇風機・電気ストーブ、その他もろもろ、数え切れません。 「そんな物一つも無くても、人間は生きていられる」と言ったら、もっと驚きますかね?

  これだけ使いまくっているのに、まだ、「日本は省エネ技術が進んでいるので・・・・」などと抜かしている奴を見ると、「こいつ、自分で自分がどんな生活をしているのか分からないのかな? ≪観察能力不全症≫とかなんとかいう、何か特殊な病気の罹患者か?」とつくづく不思議になります。 日本人が、外国の経済成長に文句を言う資格を得るためには、国内の経済活動をゼロにする必要があります。 そんな事は実行不可能ですから、最初からつまらん事は言わんのが唯一の道ですな。


  さて、クラウス大統領の指摘に戻りますが、ゴア氏流の温暖化対策を実行するとなると、どんなに温厚に事を進めるにしても、いずれ必ず、≪現状維持≫が目標として出て来ると思われます。 現状維持、つまり、経済先進国は豊かなまま、発展途上国は貧しいままで止まるという事ですな。 そんな事を発展途上国側が受け入れるでしょうか? 受け入れられるわけがありません。 「ぶさけるな! 帝国主義で散々人の国を荒らしておいて、今度は経済成長するなだと! 一体、何様のつもりだ!」 うむ、まさにその通りですな。

  京都議定書の段階では、途上国は対象に含まれておらず、先進国の二酸化炭素排出量に規制をかける内容でしたが、ほんの小手調べ程度の目標ですら達成できない事が分かり、温暖化対策が、ええカッコしいの口だけ宣言では、何の効果も得られない事がはっきりしました。 大体、議長国だった日本にしてからが、「省エネと経済成長を両立」なんて、無茶苦茶な事を口にして、おかしいとも思っていなかったんだから、目標達成なんて出来るわきゃありゃしません。

  現在、検討されている次の目標では、「中国・インドの両国を巻き込んで、実効性のある対策を・・・」などと、もっともらしく言われていますが、馬鹿も休み休み言うべきでしょう。 成長率が低い経済先進国ですら、二酸化炭素排出量の削減が出来ないのに、今正に発展中で勢い当たるべからざる中・印両国が、どうして発展にブレーキをかけるような事が出来ると思うのか、そんな寝言を言っている連中の頭を開いて、中の錆び付き具合を見てみたいです。 まず、自分の国から減らすべし。 自国が出来ない事を、他国に求めるのは無茶苦茶でしょう。

  人間一人当たりの人権が同等ならば、中・印両国も、一人当たりのエネルギー使用量・二酸化炭素排出量を、経済先進国の一人当たり平均と同じだけ使う権利・出す権利があるはずです。 つまり、両国とも、日本の10倍、アメリカの4倍の使用権、排出権があるというわけですな。 もし、それを否定したら、国によって人権に差がある事になり、国際社会の平等原則が崩れてしまいます。 ≪一票の格差≫には特例があるようですが、人権に特例はありません。 他者の人権を否定するなら、自分の人権が否定される事も覚悟しなければなりません。

  しかし、人間とは手前勝手に出来ているものです。 その内必ず、経済先進国の中に、無茶苦茶を承知で、それを言い出す流れが出て来ると思います。 更に温暖化が悪化すれば、「力づくでも止める」という雰囲気になってくるのは避けられますまい。 その先に待っているのは戦争です。 なんと、ノーベル平和賞受賞者の警告通りに対策を進めると、戦争が起こるんですなあ。 あはははは! ちなみに、これは必ずしも、≪最悪のシナリオ≫というわけではないです。 たとえ、かなり穏やかなコースを取っても、一部の国が他の国に規制をかけようと考えた時点で、即戦争です。

  最も温厚なコースとしては、経済先進国の人口が自然減少して、エネルギー使用量・二酸化炭素排出量が減り、発展途上国の経済成長を阻害する事無く、≪総量の現状維持≫が実現する可能性があります。 しかし、人口減少を自然の成り行きとして受け入れている経済先進国はほとんどありません。 それどころか、必死になって人口増加に努力している始末。 ≪少子化対策大臣≫などという、熱が出るような閣僚ポストを設けている国もあるくらいです。 たぶん、このコースは実現しないでしょうなあ。 人間ていうのは、そういうものですよ。 「自分に得がない話に乗るくらいなら、邪魔な他人を殺してしまう方がせいせいする」と考える、邪悪な生物なのです。


  こういう絶望的な事を書くと、「そんな事は無い。 人類の叡智で戦争は避けられる」と思う人がいると思いますが、それはあくまで、人類の叡智が遺憾なく発揮されればの話です。 衆愚政治で脳髄の腐った民主国家が幅を利かせている世界では、人類の叡智など望むべくもありません。 先哲の足跡さえ辿れない有様ではありませんか。

  もちろん、人類の叡智を信じている方々は、自分自身が省エネを実行しているんでしょうね。 車には乗らない、電気製品は使わない、食事は一汁一菜、風呂は二日に一度、服や靴は破れて使えなくなるまで買い替えない、宝飾品など言語道断、ペットを飼うなど以ての外、そして何より重要なのは、子供を作らない事です。 経済先進国で人間が一人増えれば、山一つ消えるのです。 今や、子供がいない夫婦など珍しくもないですし、後継ぎが出来なくてギャンギャン騒ぐ親もいません。 子供を作らなければならない義務など無くなったのですから、温暖化対策に最も有効となれば、当然、作らないんでしょうね。 子供連れでテレビに出て来て、「この子達に、安心して暮らせる環境を残してやりたいから、省エネを推進しましょう」などと言っている母親を見ると笑っちゃうよねえ。 自家撞着してるぞ。 まず、てめえがそのガキを作るなっつーのよ。 欲望丸出しで生きているくせに、地球の未来を心配するふりをするのはよせよ。

2007/10/07

キーボード購入始末

  今週も書く事が無いので・・・・・というより、考えるのが面倒臭いので、ここ二週間ほど振り回された、≪キーボード購入始末≫を、日記の方から抜き書きします。 本来なら、読み易いように整文すべきなんでしょうが、日記のままの方が、経過が分かって面白いと思うので、そのまま並べます。 決して手抜きではないので、くれぐれも、お疑い無きよう。


9月24日(月)
  キーボードの夢を見ました。 キーボードと言っても、パソコンのではなくて、楽器の方です。 正確には、キーボードというより、電子ピアノでしょうか。 ある店に行って、どれを買うか見繕っているのですが、次々に見て行く内に、分解されたような製品が出てきて、最後には、鍵がバラ売りされているという始末。

  なぜ、こんな夢を見たのでせう? まさか、欲しいと思っているんじゃなかろうね? おいおい、あたしゃ、リコーダーも吹けなかった男だぜ。 子供用のピアノだって、弾けるものかね!

  何なんでしょうねえ? ≪何でもいいから音を出したい願望≫というのがあるんでしょうか? 電子楽器なら、ヘッドホンが使えますから、家族や近所に遠慮なく、いくらでも練習できるわけですが、どうせ、すぐ飽きるに決まってます。 大体、今でさえ時間が無くてキリキリしてるのに、楽器を弄る時間なんてないですぜ。

  と言いつつ、ざっと調べてみたら、61鍵の電子キーボードなら、一万円くらいであるようですな。 それでも、幅が1mもあって、置く場所がありませんが。 もっと小さいので、32鍵というのがあるらしいですが、どうも子供向けのようです。 いや、私の実力は、3歳児にも劣ると思われるので、それでも釣りが来そうですがね。 リコーダーの時の乏しい経験から推して、私が演奏したい曲というのは、せいぜい2オクターブもあれば間に合うものばかりですから、オモチャで充分という見方もあります。 カッコつけて大人買いしたりすると、後で粗大ゴミになるんですわ、往々にして。

  だけど、弾けないのが分かりきっていて、どうして欲しいなんて思うんですかねえ? 自分が分からぬ今日この頃です。


9月28日(金)
  夢のお告げで、自ら足を踏み入れた≪キーボード欲しい病≫ですが、急激に悪化しています。 腕時計の時のように、百円ショップの品で代用するというわけにいかないので、否でも応でも、一万円前後ぶっとびそうな予感。

  で、この二三日で調べた薀蓄ですが、電子式鍵盤楽器は、大まかに分けると、電子ピアノとキーボードの二種があります。

  電子ピアノというのは、ピアノとほぼ同じ数の鍵盤(88)を持ち、電子的に音を出す物。 弦部分が無いので、本体は鍵盤とその基部だけの細長い形をしています。 サイレント・ピアノとは別物でして、サイレント・ピアノというのは、本物のピアノに消音装置と電子センサーを付けた物。 どちらも音を消せるという点では共通していますが、電子ピアノの方が圧倒的に軽量コンパクトで、値段も桁違いに安いです。

  一方、キーボードは、鍵盤数が少なく、多くても61くらいになります。 元が電子楽器なので、電子音から各種生楽器の模倣音まで、100種くらいの音色が出せます。 その中にはピアノの音もあり、それを使えば、電子ピアノとほぼ同様の使い方が出来ます。

  電子ピアノの特徴に、≪タッチ・レスポンス≫という機能があります。 これは、本物のピアノの鍵を叩いた時と同じように、弱く叩けば弱い音が、強く叩けば強い音が出るというもの。 また鍵を押した感触も、本物のピアノのそれに似せてあります。 ただし、この機能は最近、キーボードの上位機種にも取り入れられていて、もはや電子ピアノだけの専売特許ではなくなっているらしいです。

  キーボードは、大は61鍵から小は32鍵まで各種ありますが、鍵一つの幅や長さに違いがあり、本物のピアノと同じ大きさの≪標準鍵≫と、少し小さめに作ってある≪ミニ鍵≫に分かれます。 一万円以下で売っているような物は、大抵、ミニ鍵です。 ミニ鍵だからといって必ずしも子供用とは限らないようで、ギターのようにベルトで肩にかけて使うポータブル・キーボードは、大人向けでもミニ鍵が使われています。

  以上を踏まえた上で、私個人の事情になりますが、案の定、厄介な壁にぶつかっています。 サイズが大き過ぎて、部屋の中に置く場所がないのです。 実は最初に欲しいと思ったのは電子ピアノなのですが、値段は37000円くらいで全然大した事無いものの、幅が1330ミリもあって、そんな長い物、据える場所なんかありゃしません。

  で、すっぱり諦めて、キーボードにしようと思ったんですが、61鍵の場合、やはり幅が950ミリくらいあって、机の上にしか置けません。 しかし、机の上に置いてしまったら、パソコンが使えなくなってしまいます。 パソコンを使う時だけ、キーボードを他へ移すなんて面倒な事は、金輪際したくありません。 61鍵の下は、49鍵というのがありますが、幅は100ミリくらいしか縮まらず、大差なし。 その下は32鍵ですが、さすがに鍵数が少なすぎるという感じ。 しかも、ミニ鍵だし。

  ちなみに、これらの鍵数は、半音(黒鍵)も含めた数え方でして、全音だけだと、32が19くらいになってしまいます。 2オクターブちょいですな。 鍵数が少なくなれば、高音や低音が出せないわけで、演奏できる曲は限られてきます。 どうせ、遊びで終るのだから、そんなに多くの曲に対応していなくてもいいとは思うものの、最初から限界が分かっている機械というのは、何となく買う喜びが湧かぬものです。

  てな具合に、サイズと置き場所の事で延々と悩んでいるわけですが、一方で重大な事を忘れています。 それらが解決し、いざ買ったとして、果たして、練習するでしょうかね、この私が? 何でも、初心者は一日30分くらいやらないと上達しないそうですが、30分捻り出すのは並大抵じゃありません。 それに、大人になってから始めた楽器は、結局ものにならないというのも分かっています。 よっぽど精進したとしても、一曲か二曲たどたど弾けるようになるのが関の山といった所でしょう。

  一番いい解決策は買わないで済ます事ですが、それもつまらなくてねえ。 人間という奴、いらない物と分かっていても、時々散財していないと、気分が鬱屈してしまうんですな。


9月29日(土)
  しつこく、キーボードの話ですが、部屋のレイアウトを弄ったら、どうにかこうにか、61鍵タイプが置ける空間を捻り出す事が出来ました。 カラーボックスを一つ押入れに突っ込んだだけで、家族に迷惑を掛けず、また一円も使わずに模様替え出来たのは幸いでした。

  で、肝腎のキーボード本体なんですが、当初、61鍵ならば、アマゾンに10850円で出ていた、ヤマハの≪ポータトーン PSR-E203≫を候補にしていたのですが、昨日の帰りにドンキホーテに寄ったら、カシオの≪CTK-800≫が9980円で置いてあるのを発見。 型落ちの現品限り品ですが、元が中級機なので、タッチ・レスポンス機能がついています。 出来れば、展示品よりは真っ更の方がいいんですが、ヤマハの方は、届くまでに1~3週間かかるそうで、そんなに待つのも白ける話。 「どうせ、思いつきで始めた計画なんだから、勢いに任せて、ドンキで買ってしまえ」などと思っています。 店で買った方が、返品だの修理だの、都合がいい面もありますし。

  ただ、あくまでも、最も重大な点は、私が、≪きらきら星≫すら弾けない、超々ド素人だという事実です。 「何を買うか」が決まったのに、「なぜ買うか」が決まっていないという大欠陥計画なのです。 ほんとに買うのかね? しかし、置き場所まで作ってしまって、買わないというのも、それはそれで変だし。


9月30日(日)
  紆余曲折の末、日曜の夜に、ドンキホーテに行って、カシオの≪CTK-800≫を買って来ました。 型落ち・現品限りで、9980円。 相当長期間、店頭デモ機を務めていたらしく、強か汚れていましたが、店員さんが綺麗に掃除してから梱包してくれました。 ドンキホーテという店、客は不良・ゴロツキ・ろくでなし・頭カラッポみたいな連中ばかりですが、店員さん達は、至って真面目で、好感が持てますな。 店内にいる人間の落差が大き過ぎて戸惑いますが。

  馬鹿でかい箱を車に積んで帰宅し、床の間で開梱。 自室に運んで据え付けました。 電源を繋いで、動作確認をしてみた所、細かい操作は分からないものの、一応音は出る様子。 これから説明書を読まなければ。 まあ、ピアノ音色で普通に音が出れば、それで充分なんですが。 大きな箱の始末に悩みましたが、取り敢えず解体してぺたんこにし、二つ折りにして押入れに突っ込みました。 来週にでも片付けるとします。

  いやあ、本当に買ってしまいましたよ。 そもそも夢で見たのが思い立ちですが、たった一週間で買う事になるとは思っても見ませんでした。 腕時計なんか、三ヶ月くらい悩んで、結局買わなかったのにね。 店頭デモ機だったので、あちこちキズがあるんですが、どうせ自分で使っていてもキズはつくので、気にしない事にします。 新品でタッチレスポンス付きとなると、どんなに安くても17000円くらいしますから、9980円で手に入ったのは幸運と思わねばなりますまい。 どうせ、すぐに飽きると思うので、最終的には、「安い物にしておいて良かったなあ」と、その時また幸運を噛みしめると思います。

  でも、本当に練習するんですかね、私は?


10月3日(水)
  キーボードですが、教科書通りに、≪きらきら星≫から練習しています。 全音だけ6音しか使わないので、誰でもすぐに弾けるようになります。 リコーダーの時に買った楽譜にも載ってました。 リコーダーは、アルトとソプラノでは押さえる穴が違って来ますが、ピアノの場合、一種類しかないので、すっきりしていて良いですな。

  キーボードなんですが、グランド・ピアノの音色にしてあるので、どう聞いてもピアノにしか聞こえません。 録音されたデータを再生しているだけなのだと分かっていても、非常に不思議な感じがします。


10月5日(金)
  ≪きらきら星≫、≪ちょうちょ≫、≪ぶんぶんぶん≫を、地味に、マメに、くどくどと練習しています。 グランド・ピアノ音で弾くような曲じゃないですけどね。 最初は楽譜を見てるんですが、だんだん面倒臭くなって、山勘で弾き始めるので、いつまでたっても、譜面のオタマの高さと、鍵盤の位置が頭に入りません。 やれやれ、先は長い。


10月6日(土)
  今日の午後半日かけて、キーボードの譜面台を改造しました。 本体の取り付け位置に付けると奥行きが深くなり過ぎて部屋の入口の引き戸に当たってしまうので、本体の後ろに板を立てて、譜面台をその板に取り付けました。 奥行きの代わりに、高さで場所を稼ぎ出そうという算段。

  ついでに、置き場所の関係上、夜に手暗がりになるのを解決する為、板の上にクリップ・ライトを付けました。 このライトは、リコーダーの時に、簡易防音室内の照明として使った物で、スパイラル電球型蛍光灯をつけてあります。 反射板が無いので、あまり明るくないんですが、まあ譜面と鍵盤だけ照らせれば充分なので、こんなもんでいいでしょう。

  更に、譜面台に裁縫用の細い紐ゴムをかけて、譜面押さえに。 楽譜が冊子状になっているので、押さえないと閉じてしまうのです。 これもリコーダーの時に会得した知恵。 人間、どんなに下らない事でも、経験は蓄積されるものですな。

  これで、キーボード関連の改造は終わり! これ以上は何もやりません! なぜ、そんな事を強調するかというと、私の悪い癖で、設備をあれこれ弄り始めると、改造の方に夢中になってしまって、楽器の練習という本来の目的を忘れてしまう危険性があるからです。 これも、リコーダーの時の経験から得た教訓。 人間、どんなに愚かしい失敗でも、経験は蓄積されるものですな。


≪付記≫
  9月30日(日)の冒頭部に、≪紆余曲折の末≫とありますが、どれを買うかで悩みに悩み、一心不乱、二六時中、三々九度、四苦八苦、五里霧中、六根清浄、七転八倒、八面六臂・・・・いや、八面六臂はちょっと違いますが・・・・おっと、そんな事を言い出せば、三々九度は全然関係ないですが、とにかく、悪戦苦闘し、金土日の三日間に、中古品店≪ハードオフ≫へ一回、ホームセンター≪エスポット≫へ三回、≪ドンキホーテ≫へは、呆れた事に五回も足を運びました。 その他、ネット上では、あちこちの通販サイトを何時間うろついたか分かりません。 各お店の皆様、挙動不審な男が出たり入ったりして、大変申し訳ない。 この場を借りて、お詫び申し上げます。