2009/10/25

漢字の枠

  常用漢字の追加案や、その修正案などが、時折、新聞に出ますが、感想はいつも同じで、「え! こんな字が今まで入っていなかったの?」というものです。 私だけでなく、ほとんどの人が、そう感じていると思います。 そして、「あれ? それじゃあ、自分が普段使っている字は、常用漢字じゃなかったんだ」と、何やら、警察署の前でスピード違反したような、ほとんど収入が無い青年が確定申告をパスして脱税の罪悪感に苛まれるような、微妙に不安に襲われるのです。

  しかし、不安がる必要など全然ありません。 なぜなら、常用漢字という枠自体が、とうの昔から、一般社会では無視されているからです。 一応、従っているのは、教科書や参考書といった教育関連の出版物と、新聞くらいのものではありますまいか。 これらの業界の人達にとっては、どの字が増えて、どの字が抜けたかは大問題なのですが、その余の大部分の人間には、何の影響もありません。

  ちなみに、私は、若い頃に漢字に燃えた人間の一人ですが、今では何の興味もありません。 常用漢字が改められようが、そのままだろうが、廃止されようが、知ったこっちゃないのです。 言語学の視点から言えば、常用漢字枠など廃止した方が良いと思いますが、それすら単なる見解に過ぎず、自分の意見として主張する気はさらさら無いです。 まして、ああだこうだと、細かい事を言って、他人と言い争う気など、毛頭ありません。

  と断った上で、単なる知識遊びとして、ほんのちょっと細部に触れてみましょうか。 「常用漢字の枠を廃止したら、それぞれがてんでに使いたい字を使うようになって混乱するだろう」と思うかもしれませんが、いや、それは大丈夫なんです。 だって、戦前までは、常用漢字も当用漢字もありゃしなかったんですから。 一切、取り決めが無かったけれど、これといった問題も無く、使用されていたのです。

  戦時中、アホな軍人どもが、自分達のアホを隠す為に、漢字ばかりムキになって使っていたのが祟り、戦後になって、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の論理で、「軍部悪けりゃ、漢字も悪い」と見做され、半ば偏見によって字数制限されてしまったんですな。 まったく、馬鹿な連中に好かれると、好かれた方は大迷惑です。 この点、純粋に、識字率の向上の為に漢字の簡略化や字数制限を行なった中国とは、かなり事情が異なります。

  日本では、江戸時代までは、漢字を覚えるのは、それを必要としている支配階級や、文化を担っていた町人階級だけで、人口全体の二割くらいでした。 多くの漢字を知っていれば、それだけ多くの書物を読む事が出来るが、知らないければそれまでで、ただ読めないだけ。 完全な自己責任の領域だったので、お上が口出しなぞしなかったのです。 むしろ、字を読めない人間が多い方が、よからぬ思想にかぶれたりしないので、好都合だったのです。

  この事情は、本家の中国でも、高麗・朝鮮でも、ベトナムでも、漢字を使っていた所では、みな同じでした。 漢字をたくさん知っていて、正確に使いこなせる事は、教養が高い事の証明で、ステイタス・シンボルになっていたのであって、そんな価値があるものを、わざわざ手間と金をかけて、民衆に教えてやるような無意味な事はしなかったのです。

  明治になっても、漢字には制限が無く、各人がそれぞれの教養に合わせて、勝手放題にドカドカ使いまくっていました。 実は、明治以降、日本語表記の全面仮名文字化だのローマ字化だの、民間から、いろんな案が出されるのですが、政府は無視していました。 政治家や官僚は、漢字を知っている側なので、せっかく持っているステイタス・シンボルを手放す気はさらさら無かったのです。

  漢字は、全部で5万くらいありますが、その内、一人の人間が使いこなせるのは、多い人でも、せいぜい3000くらいです。 人によって使用範囲が異なるのですが、それらが重なる部分が、一般的に使用される漢字の範囲で、それは、政府が決めなくても、自然に成立します。 漢字研究者しか読めないような難しい漢字を使う事も自由ですが、そんな事をすれば、せっかく書いた文章を、多くの人に読んで貰えないわけで、自然にブレーキがかかるのです。 各人それぞれの頭の中で、「この字を使えば、尊敬されるだろう」という目論見と、「この字では読めない人が多くて、言いたい事が伝わらないな」という心配が葛藤し、自然と、常識的な範囲が決まってくるというわけ。

  「漢字制限をしなければ、却って、漢字は早く滅ぶだろう」とかなんとか脅す学者もいますが、そんな事はありません。 はっきり言わせて貰って、あなたのせいぜい数十年程度の思い込みよりも、漢字が経て来た遥かに長い歴史の方が説得力があります。 断言しますが、制限なんかしなくても、何の問題も無く、存続し続けます。 漢字に意思があるわけではなく、滅ぼすにせよ、使い続けるにせよ、その主体は人間ですが、社会全体で使っているものですから、個人が、「多過ぎて嫌だ」と思ったところで、滅ぼせるものではありますまい。 だって、他に何を使えってーのさ? 政府が他の文字体系を正式化し、漢字の教育をやめでもしない限り、自然に漢字が滅びる事などありえません。

  「漢字が5万もあったのでは、教育現場で困るだろう」と思うでしょうが、それも大丈夫です。 そもそも、すべての漢字を学校で教える必要は無いのであって、象形文字、指示文字、会意文字など、基本的な字だけ教えれば、それで充分です。 それだけ分かれば、後は組み合わせに過ぎませんから、児童生徒が各人自分で覚えるでしょう。

  「それでは、テストの範囲が決められない」というのなら、漢字そのものをテストの対象から外してしまえば宜しい。 実際に必要な能力は、文章を読める事であって、漢字一つ一つを暗記する事ではないのですから。 漢字を個々に覚えても文章が読めるとは限りませんが、文章が読めれば、漢字も読めるわけです。

  そういえば、漢字検定が流行って、テレビのクイズ番組にも、難読漢字がバンバン出て来ますが、あんなアホ臭いものは覚えなくても何の支障もありません。 動物名や植物名の漢字表記など、金輪際学習不要。 笑ってしまいますな。 タンポポを、≪蒲公英≫と書けたからといって、現代社会で、何の利用価値があるのよ? ムカデを、≪百足≫と書いて、誰に読んで貰えると言うのかね? はっきり言わせて貰って、漢字検定の上級に出て来るような問題は、もはや、死んだ知識です。 永久に復活する事はありません。 何ヶ月もかけて暗記するなど、時間の無駄にも程がある!

  「中国語の学習に役立つ」なんて事は、全っ然ありません。 確かに、中国語では、日本語でカタカナ表記している言葉を全て漢字で書きますが、動植物名は、日本語のそれと異同が大き過ぎて、知識の流用が利きません。 結局、一から習い直す事になるので、日本語では覚えない方が、混乱しなくて良いくらいです。 漢字検定に燃えている人達は、日本国内でしか通用しない上に、既に実用品として死んでいる知識を、必死になって覚えているわけで、傍から見ていると、滑稽としか思えません。 ≪死語の海≫で溺れているだけですな。

  そんな事に割く時間とエネルギーがあったら、中国語を直截覚えてしまった方が、今後、ずっと役に立つでしょう。 ちなみに、基本的に漢字を知っているというのは有利なもので、日本人の場合、一年くらいダラダラ勉強していれば、割と容易に中国語を読めるようになります。 せっかく、小中高と苦労して2000近い漢字を覚えたのですから、ほんのちょっと追加努力して、中国語も読めるようになった方が、確実にお得というものでしょう。


  こんな風に、広い視野で見ると、常用漢字の字数が何文字増えたか、何文字減ったかなど、いかに瑣末な事か分かるでしょう。 一文字一文字、追加の理由を述べている文章を読んだりすると、馬鹿馬鹿しいとすら感じます。 そんな事、どーでもえーですわ。

  私が漢字に興味を失ってしまった最大の理由は、言語に興味を失った理由と同じです。 詳しくは、過去ログの、≪言語は進化しない≫をどうぞ。 ここで理由を追加するなら、ヨーロッパ文明の成立に、漢字が何の関与もしていないのを、はっきり認識した事も大きいです。 漢字が無くても、あれだけ優れた文明が作れるのです。 せいぜい20字から40字程度の表音文字を並べるだけでも、漢字と同じ機能を果たせるのです。 そう思うと、何だか、白けてしまうではありませんか。

  ただ、中国の経済力が増大し、中国文化の影響が世界に波及するに連れ、中国語を学ぶ外国人が増え、その結果として、漢字を使う人口が増える事も、間違いなくやって来る未来の状況だと思います。 いずれにせよ、日本語でのマニアックな漢字知識は、何の役にも立たないまま終わるでしょう。

2009/10/18

眼鏡違い

  個人サイトの方で、掲示板を廃止し、≪準・書き込み専科≫になってから、二ヶ月ばかり経過しました。 この間、「初めまして」の第一声で書き込み始めた、よそのサイトの掲示板が9箇所。 前から書いていた所と合わせて、13箇所の掲示板へ、週に一度のペースで、書き込みを続けて来ました。 飽きっぽい私にしては、まずまず順調に交友相手を増やして来たわけです。 えらいえらい。

  しかし、世の中、そうそう何でも順調に行くとは限らないもの。 まして、書き込みのように、相手が存在する行為となれば、うまく行かない方が普通と考えるべきものなのかもしれません。 やはり、問題は多々発生して来るものなのです。 こちらは温厚に書き込みをしていただけなのに、相手が異常な反応をして、それ以上書き込めない状況に追い込まれた所が、13箇所中、何と3箇所も出てしまったのです。

  というわけで、今回は、その失敗談を披露しようという趣向ですが、失敗談であるからには、私にとっては嫌な記憶に決まっているのであり、そういう内容を思い出すのは、書く前から気が重いです。 でもまあ、傍から見れば、他人の失敗談というのは、結構面白いものですから、ここは一つ、ムカつきを極力抑えて、筆を進める事にしましょう。


  最初に紹介するのは、レスが来なくなったパターンです。 レスを書かないという事は、そこの作者の、「もう来るな」という意思表示ですから、自動的に行けなくなってしまうのです。 そこは、スキューバ・ダイビングを趣味にしている人が作った、魚介類の動画を主なコンテンツにしたサイトでした。 サイトの掲示板の方は、お客が減り過ぎて、「新規投稿お断り」になっていたものの、ブログの方で、まだ更新が続いており、コメントも受け付けていたので、軽~い気持ちで、軽~い感想を書き込んだのです。

  一度目は、二日くらいでレスが来ました。 内容は、歓迎の雰囲気こそ無いものの、ごく常識的なものだったので、私は、「よし、何とか行けるだろう」と判断して、一週間後に、第二の書き込みを行ないました。 これも、ごく軽く、短いものでした。 ところが、そのレスが、なかなか来ないのです。 そればかりか、それまで二三日おきに行なわれていた更新も止まってしまい、音信不通状態になりました。

  十日くらい経って、ようやく更新が再開し、私の書き込みにも、「ついで」みたいな感じなから、レスがつきました。 それでも、レスの内容自体はまともだったので、「まあ、様子を見るつもりで、もう一回書いてみるか」と思い、一週間後に、第三の書き込みを行ないました。

  その後が長かった。 まるまる半月くらい、ほったらかし。 レスはもちろん、更新も全く行なわれません。 もう、書き込んだ内容も忘れてしまい、「どーでもいいや」と思いかけた頃になって、ようやく、更新が再開しました。 ところが、私の書き込みには、レスがつきませんでした。 二日続けて更新されたにも拘らず、私の書き込みにレスをつけないという事は、≪無視≫されたと見做して良いでしょう。

  こう書くと、大袈裟な話に聞こえるかもしれませんが、私が書いたのは、大した内容じゃないんですよ。 その人が、≪刑事コロンボ≫のDVD・BOXを購入して、見ているというので、

【≪刑事コロンボ≫のある回を、中学の時に、図書室にあった小説本で読みましたが、覚えていたのは、ラストの部分だけでした】

  って、たったそれだけの書き込みです。 こんな事は言いたかないですが、もうその人と話す事も無いでしょうから、ぶち撒けて言ってしまいますと、たかが、それんばっかの書き込みにレスが書けないなんて、大の大人の反応とは、とても思えませんぜ。

【そうですか。 小説で読むと、映像で見た場合より、記憶に残り難い事があるかもしれませんね】

  くらいのレスなら、子供だって思いつくでしょう? なにも、十行二十行の長レスを返せっていうんじゃないですよ。 たった一行、適当な言葉を並べて埋める事もできんのかい?

  どうも、私が怒っているように取られるかもしれませんが、ええそうなんです、実は、腹綿煮え繰り返っておるとです。 ちなみに、「はらわた」を漢字で書くと、正確には、「腸」ですが、そう書くと、十人中十人に、「ちょう」と読まれてしまうので、わざわざ、「腹綿」と書いたとです。 まったく、訓読みは紛らわしくて好かん! ・・・と、そげんこつはどうでんよか。

  大体、こんな簡単なやりとりもできないくせに、ブログを運営しているというのが奇妙ですわな。  「自分が考えている事を書きたいだけで、別に人と話をしたいとは思わない」というのなら、コメント受付をオフにしとけばいいじゃないですか。 「コメントは受け付けます。 でも、レスは書きません」なんて、ゲストをおちょくっていると取られても、言い訳できますまい。

  だけどねえ、この人、私に対して特別な悪意があって、こういう事をしたんじゃないと思うんですよ。 だって、悪意を抱かれるほど、突っ込んだ話をしていませんからね。 廃墟化した掲示板の過去ログを読むと分かるんですが、書き込んでいたのは、現実世界に於けるスキューバの仲間ばかりなんですな。 恐らく、この人、「掲示板やブログ・コメントは、現実世界での友人・知人に書いてもらうもの」と思い込んでいるタイプの人なのでしょう。 現実世界とは別に、ネットという世界が存在していて、そちら側から訪ねて来る客がいる事を、全く念頭に置いていないのだと思います。

  だから、知らない人間が書き込んでくると、「なんだ、こいつは! 一体、誰だ?」と驚きうろたえ、「赤の他人と話すつもりはない」という風に、拒絶反応を起こしてしまうんじゃないでしょうか。 書き込みを無視する前に何日も沈黙があったのは、別に忙しかったからでも病気だったからでもなく、≪招かざる赤の他人≫を追い払うにはどうしたらいいか、延々と悩んでおったに相違ありません。 ううむ、想像するだに鬱病的ですが、そういう人は確かにいそうだわ。

  だけどねえ、「俺は、現実世界の友人・知人だけを相手にしてるんだ」とツッパってみても、もう何年も書き込みが無いって事は、その人達に無視されちゃってるって事ですぜ。 つまり、その人が、友人・知人だと思っている人達は、その人の事を、友人とも知人とも思ってないわけだ。 どうして、そんな風になってしまったかといえば、恐らく、その人が私に対してしたのと同じような事を、過去に友人・知人達に対してもやっていて、そのせいで、「ああいう奴とは、つきあえない」と、愛想をつかされてしまったのでしょう。 哀れ極まりないですが、その人の性格のなせる業だから、もうどうしようもないです。


  さて、二番目は、レスに熱意が感じられないパターンです。 一応、レスは返って来るんですが、こちらが8行書くと、レスは3行くらいで、しかも、内容がありません。 たとえば、私が、

【こんにちは。 子供部屋の天井の模様というのは、思いの外、人格の形成に大きな影響を与えるのかもしれませんね。 以前、≪病院へ行こう 2≫という映画で、「不治の病の入院患者が、シミのついた天井を見て死んで行くのは可哀想だと思って、ホスピスを作った」というようなセリフがありましたが、天井は、毎日見て暮らす所ですから、恐怖や不快といった感情を引き起こさないように、模様を工夫した方がいいと思います】

  といった、書き込みをしたとします。 すると、帰って来るレスが、

【そうですね。 天井の模様は大切ですね。 恐怖や不快の感情を引き起こさない模様の方がいいですね】

  と、これだけ。 面白いでしょう? いや、全然面白くないんですが、これだけ面白くないレスを、平然と書けるという、その神経が面白いと言いたいのです。 別に、書き込みの意見に対して、否定をしているわけでもないし、皮肉も嫌味も言っていません。 しかし、このレスでは、何も応えていないのと同じです。 決して、ゲストの意見に同意しているのではないのです。 「ああ、わかったわかった、お前の言う通りだ。 そういう事にしといてやるよ。 こちとら、お前の意見なんか、全然興味ねえんだ。 勝手に言ってな」という反応を、慇懃にレスに書くと、こういう、≪全肯定受け流し文≫になるのです。

  この人ねえ、掲示板に入る前に、≪利用上の注意≫というページを設けている人でして、30行くらい、びっしりと、「誹謗中傷はいけない。 個人攻撃はダメ。 メール・アドレスは書いても書かなくてもいい」といった、小言幸兵衛的能書きをダラダラダラダラ垂れているのですよ。 もちろん上から目線ギンギンで、しかも鼻息がフンフン聞こえて来そうなほど偉そうにね。 だけど、ゲストの書き込みにイチャモンをつける前に、自分のレスがどんなにひどいものか、考えた事が無いんですかねえ?

  ただねえ、もしそれだけだったら、熱意が微塵も感じられないとはいえ、一応レスはついているわけですから、書き込みが出来なくなるという事は無かったのですよ。 もっと重大な問題がある事に、後になってから気付いたのです。 その人、いくつもの趣味を持っている人で、それぞれの趣味ごとに、サイト内にページを作っていたので、最初に読んだ時には、「ああ、これだけ、いろんな方面に興味がある人なら、話題に困る事は無いだろうな」と思って、門を叩いたのです。

  ところが、その人の趣味に合わせた内容の文を書き込んでも、上のような全肯定受け流しのレスしか返って来ません。 全く興味が無い様子。 「変だなあ・・・」と思って、私が分かる範囲内で、その人の趣味の幾つかについて、片っ端から触れて行ったんですが、やはり、受け流されるだけで、ちっとも乗って来ません。 こっちはもう、冷汗脂汗ですよ。 でねー、しばらくして、はっと気付いたのです。 その人、私以上に飽きっぽい性格だったのです。 たくさんの趣味を同時に楽しんでいるのではなく、一つやってはすぐに飽き、また一つやってはすぐに飽きるというパターンを繰り返して、異なる趣味のページばかり次々に増えていたんですな。

  普通なら、飽きたと言っても、以前熱中した趣味なら、人並以上に話のネタが出て来そうなものですが、この人の場合、一度飽きた趣味には、まるっきり興味が無くなってしまうタイプのようなのです。 ちょっと極端過ぎて、私も感覚的には理解し難い所があるのですが、飽きっぽさの度が高まれば、そういう反応を示す人がいても、そんなに不思議ではありませんわな。

  もしかしたら、私に対してだけ、そういうレスをよこすのかと思っていたんですが、途中で入って来た、新規のゲストに対しても、全肯定で受け流しやがったので、「ああ、こーりゃ、駄目だわ!」と、見切りをつけて、引導渡す事にしました。 こんな機械的なレスしか貰えないのでは、オウムと喋っていた方が、まだ有意義ですから。


  さあ、最後の一箇所だ。 実は時間的には、ここが一番最初にコケたのですが、内容的に最も大きな失望を味わわされたので、トリに持って来たという次第。

  ここも、魚介類のペット・サイトでして、コンテンツを見ると質・量ともに申し分なく、「面白そうな人だな」と思って、書き込んだのです。 一回目は、不熱心ながらも、社交辞令は弁えたレス。 二回目は、こちらが質問をしたのに対して、少し見下すような態度のレスが来て、「おや、ちょっと、まずいかな?」と、思うには思いました。

  そして、三回目に返って来たのが、意味不明の一行レス。 いや、行数はどうでもいいのですが、こちらの書き込み内容は完全に無視して、全く筋道が通らない、戯言のようなレスだったのです。 具体的に書きますと、その人が日記の中で、

【現在の政治状況とは全く無関係ですが、私はハトが嫌いで・・・】

  と、ハトのどういう所が気に食わないかを延々と書き綴っていたのです。 ちなみに、これは、8月の衆議院選挙の前で、≪政権交代≫が話題になっていた頃の事です。 現在の政治状況云々とは、つまり、「鳩山さんの事を言っているわけではないよ」という意味でしょう。 文の最後にも、「くれぐれも、政治とは関係なく、鳥のハトの事です」と断ってありました。 私は、「ああ、確実に鳥のハトの話だな」と判断し、ちょうど、野鳥に興味を持ち始めた時期だったので、

【ハトは人が近づいても逃げないから、写真撮影の対象としてはありがたいのですが、ハトの写真を撮っても、誰も誉めてくれないのが哀しいところです】

  といった内容の書き込みをしました。 ところが、そのレスが、こう来たもんだ。

【私は自由業なので、労組を応援しても得が無いもので・・・】

  はあ? なんじゃ、そりゃ? 「政治の話じゃない」というから、ハトの書き込みをしているのに、どういうレスやねん? ちなみに、私は工場労働者なので、一応、労組にも入っています。 私のサイトを見れば、私の職業は分かるはずで、私をからかったつもりなのかもしれませんが、実際には、日本の製造業の労組は押し並べて社内組織でして、会社と労組で支持政党が異なるという事はありません。 自由業だから、その辺の事情について知識が欠けているのでしょう。

  そうは思ったものの、こちらは別に喧嘩したくて書き込んでいるわけではないので、言い返したりはしませんでした。 低次元な口論をするくらいなら、最初から書き込んだりしませんや。 まだ知り合って二週間くらいしか経っておらず、冗談を言うような親密な仲ではないですし、からかわれる謂われは、ましてありません。 さて、冗談として聞き流すべきか、それとも、交流を打ち切るべきか、大いに悩まされる事になりました。

  で、それから、一週間経ったので、恐る恐る様子を見に行ったのですが、掲示板で、他のゲストの質問に対し、かなりやばい事を平気で回答しているのを発見し、「あー、この人とは、交友できんわ」と、とうとう諦めてしまいました。 ペットの命の問題について、ペット・サイトで、異常な人達が好んで使う過激な屁理屈を、この人も口にしていたんですな。

【ペットを飼えなくなった時、保健所に持って行ったり、捨てたりするくらいなら、自分で殺せ】

  というアレ。 まったく、何なんだろねえ。 そういう事を言えば、カッコいいとでも思ってるのかねえ。 可愛がっていたペットを自分で殺すようになったら、それはもう人間ではないよ。 そう思わんか? 子供が殺人を犯したからって、親がその子を殺したりしないだろう。 まして、何の罪も無い動物を、どうして殺せるのだね? ちゃんと考えてから物を言っているのか?

  しかし、私より半回りくらい年上の人なので、「それは、間違った考え方ですよ」などと説得を試みても、考えを改める事は期待できないでしょう。 それに、私は、議論はしない主義なのです。

  そういえば、最初にコンテンツを読んだ時に、ほんのちょっとそれらしい危ない事が書いてあって、気に掛かったんですよ。 でも、「あまり深く考えずに、言葉の綾で書いたのかもしれない」と思って、スルーしてしまったのです。 甘かったなあ。 やっぱり、問題がある事をちょっとでも書く人というのは、根底にそういう考えを持っているものなんでしょう。 見抜けていれば、最初から書き込まなかったのに。

  も一つそういえば、この人、ハンドル・ネームに、≪マイナス・シンボル≫を使っているんですよ。 マイナス・シンボルというのは、「悪」とか、「魔」とか、「影」とか、「黒」とか、「闘」とか、「撃」といった、否定的、もしくは、攻撃的な意味合いを持った言葉の事で、この種の言葉を含むハンドル・ネームを使っている人物は、荒らしや誹謗中傷など、問題行動を起こし易い傾向があります。

  「夜露死苦」など、暴走族が好む漢字が、正にそれで、マイナス・シンボルの典型例ですな。 誰でも、本名は自分でつける事が出来ないのですが、ハンドル・ネームは自分でつけられるので、自分の人格に最も相応しいイメージの言葉を探して来ます。 マイナス・シンボルにせよ、プラス・シンボルにせよ、ニュートラルにせよ、単なる記号ではなく、当人が自分自身をどんな人間だと思っているかが、ダイレクトに表出されるのです。

  その事にも、気付いていたのに、「これだけ面白いコンテンツを作る人だから、例外なんだろう」と思って、やはり、スルーしてしまったのです。 甘かった。 お話になりません。 反省しきりです。


  というわけで、この3箇所には、もう書き込むのをやめました。 交友を長く続ける事も、私の目的の一つなので、断絶は痛恨の極みなのですが、向こうが交友を望んでいないのだから、致し方ありません。 向こうは、私に何の興味も持っていないようなので、私が書き込みをやめても、痛くも痒くも無く、むしろ、「やっと来なくなったか」と、ホッとしている事でしょう。 その点が気楽なのが、せめてもの救い。

  やはり、最初に行った時に、サイトの隅々まで目を通し、作者がどんな人物か、今までどういうサイト運営をやって来たかをしっかり観察し、分析しなければ駄目なようですな。 面白そうな文章を書く人や、見応えのあるコンテンツを作る人の中にも、交友に値しない人物というのは、確実にいるのです。

2009/10/11

人間の価値

  これを読んでいるのは、もちろん人間の方達であるわけで、こういう事を書いていいのかどうか、今ひとつ自信がありませんが、他にネタもないので、書いてしまいましょう。 実は、ここ最近、人間に価値を感じられなくて困っているのです。 特定個人ではなく、特定団体でもなく、特定カテゴリーに属する人達でもなく、人類全てに対して、価値があると思えなくなってしまいました。 「大した価値はない」ではなく、価値そのものがない。 更に言えば、マイナス価値がある。 つまり、「存在しない方がいいのでは?」とさえ思うのです。

  こういう事を考える時に、少々ややこしいのは、人間の価値を決めているのも、人間だという点です。 「人間に価値はある」と考えている人は、一定の価値の基準を持っていて、それに照らし合わせて、人間をプラス評価しているわけですが、その基準は、≪人類の主観≫に過ぎません。 三段論法で言いますと、「○○には価値がある」、「人間は○○をしている」、「故に、人間には価値がある」というわけですが、そもそも、○○の価値を決めているのが人間なわけですから、もし○○に価値が無かったら、人間そのものにも価値が無い事になります。

  この半年ばかり、動物関連の本ばかり読んでいるのですが、動物の生きる目的というのは、非常にシンプルで、常日頃、念頭にあるのは、二つの事だけらしいです。

一、食べる事。
二、子供を作る事。

  三を強いて挙げれば、捕食者から身を守る事を付け加えられない事もないですが、それはあくまで、捕食者の方が襲って来るから、已むを得ず、逃げたり隠れたり戦ったりするのであって、彼らが好んでしているわけではありません。

  どうです、この、すっきり簡潔な生き様。 他の事を一切考えてないんですよ。 それでも、自分の存在に疑問を抱いたりせずに、ちゃんと一生を生き抜く事ができるのです。 彼らにとって生きている一瞬一瞬が、価値そのものなのであって、言わば、存在価値が毛皮着て歩いているようなものなのです。

  犬を飼っている人なら、家人が帰宅した時などに犬が尻尾を勢いよく振る様子を思い浮かべてみれば、彼らの歓喜の情が全く思考を介していない事がよく分かると思います。 犬は、「今、僕は幸せだ!」なんて、考えちゃいません。 そう考える事によって、歓びを感じ取ろうなんて、迂遠な事はしません。 尻尾を振って飼い主に飛びついている時、彼らの存在は歓喜と一体化しているのです。

  それに引き換え、人間の感性の、救いようもなく鈍い事よ。 何なんじゃ、お前らは。 というか、当然、その中には私自身も含まれますから、こう言うべきでしょうか。 何なんじゃ、俺らは? 感性が優れているから、様々な事に興味を抱くのではなく、感性が鈍いから、生きているだけでは満足できずに、闇雲に貪欲になっているのではありますまいか。

  一体、何が不満で、日々、悶々と暮らしているんですかねえ。 本来なら、生きているだけで、充分満足できるはずなんですよ。 なんてったって、生物は、生きる為に生きているわけですから。 現に生きていれば、もうそれ以上求める事などありますまい。 ところが、「生きているだけで幸せ」なんて人間は、まーず見当たりません。 悶々悶々、「なんで、もっと幸せになれないんだろう?」と嘆きながら暮らしています。

  たとえば、物欲ですが、私は生来ドケチで、遊びに金を使う時には、渋りに渋る方ですが、それでも、部屋の中は、今までの人生で買い集めたガラクタでいっぱいです。 もちろん、買った時にはガラクタではなく、「人生に潤いを与えてくれる必須アイテム」だったわけですが、自分がそれを十二分に活用できない事が分かった瞬間から、ガラクタに変身したわけですな。 しかも、物を捨てられない性分なので、溜まる溜まる。 押入れや天袋に入りきらず、天井裏まで占拠しています。

  時間が経てば、何の価値もなくなってしまう、いや、場所を取るだけで、マイナス価値になってしまうのは分かっているのですから、最初から、そんな物買わなきゃよかったのです。 馬鹿だねー。 でも、買う前には、「それさえ手に入れれば、薔薇色の日々が待っている」と思い込んでいたのですから、しょうがなかったのです。 それでも、私なんぞは浪費が少ない方でしょう。 収集癖のある人達なんざ、金をドブに捨てる為に生きているようなものです。 どんなに素晴らしいコレクションでも、当人が死ねば、ほとんどがゴミとして処分されるのですから。

  物欲以外の他の事も、みんな同じではないかと思うのです。 本来、価値が無い事に、執着しているだけなんじゃないでしょうか。 仕事に全精力を傾けている人はたくさんいると思いますが、定年退職したり、失業したりすると、まるで長い夢から覚めたかのように、価値観が180度変わってしまうそうです。 出世や高給など、それまで、何よりも大切にして来た事に価値を感じなくなってしまい、自分自身の存在意義もリセットし直さなければならなくなります。 そして、そのリセットがうまく行かず、見る間に老け込んで、数年もしない内に世を去る元企業戦士がいかに多い事か。

  「仕事が生き甲斐」という人は、仕事から離れれば、つまり生き甲斐がなくなるわけで、死んだも同然になるのは理の当然ですな。 何事も、あんまり、エネルギーを傾注し過ぎない事です。 「ふん! お前が仕事ができない負け組だから、そんな事を言うんだろう。 勤め人になったら、死に物狂いで仕事をして、出世を目指すのは当たり前じゃないか!」と熱く語っているあなた。 あなたのような人が、定年後、すぐ死ぬんですわ。 だって、他にする事無いんでしょう? 自他共に認める、価値ゼロ人間になるわけだ。 もう、あの世へ行くしかねーじゃん。

  定年過ぎてから、慌てて趣味に走ったって駄目よ。 趣味というのは、付け焼刃でできるもんじゃないのよ。 大人になってからの趣味なんて、どれもこれも、3ヶ月で飽きます。 子供の頃からやっている人達に敵うわけがないのであって、平均レベルにすら到達しない事が分かると、大人の理性が働いてしまって、スパスパ諦めてしまうのです。 無駄無駄! 道具を揃えるのに金を吸い込まれるばっかで、何一つ、物にならないのは、やる前から分かっています。

「いや、俺は企業戦士だったが、趣味も楽しんでいた。 それはゴルフだ! 定年後は、毎日ゴルフを・・・・」

  馬鹿か、お前。 年金暮らしで、ゴルフができると思ってんのか? 大体、誰と回る気だ? 元同僚なんか、連絡も取れなくなるんだぞ。 元部下に至っては、「忙しいから、もう電話して来ないで下さい」と引導渡されるのが関の山。 「こんなはずじゃなかったのに・・・」? いや、そんなはずだったんだよ。 お前が、考え足らずで、気がつかなかっただけで。

「女房と山歩きを・・・・」

  ああ、滑落して死ぬまではな。 若い者でも、登山は危険なのに、どうして、歳をとってからできると思うのか、そこが不思議です。 平地を散歩するだけだって、膝の関節がガクガク言っている人が、百名山巡り? 身の程を知りなさい。 山奥で倒れたあんたを背負って下りるのは、赤の他人なんだぜ。

「世界旅行に・・・・」

  だーからよー、金に限りがあるのに、どーして、そんな計画が立てられるのよ? 大体、どんなにゆっくり回ったって、一年もすれば戻って来ちゃうじゃないの。 その後は、どうやって過ごすねん?

「孫と遊んで・・・・」

  孫は、いつまでも幼児じゃないよ。 何年、あんたの相手をしてくれるかねえ。

  面白いけど、キリが無いから、定年オヤジの吊るし上げはこのくらいにしておきますか。 そもそも、没頭できる趣味を見つけられれば、それに価値が出るというわけではなく、趣味自体が個人の心の慰みや暇潰しに過ぎないのですから、他人から見れば、やはり無価値です。

  では、現役で仕事をしている人間には価値があるのかというと、以前なら、ありました。 あると見做されていました。 ところが、エコ時代に入ってから、それが怪しくなって来ました。 価値感が変化して、昔のプラス価値が、マイナス価値に転換してしまったのです。 ちょっと考えれば分かる事ですが、バリバリ仕事をすれば、それだけ、エネルギーを使うわけで、当然、エコには逆行します。

  具体的事例を挙げてみましょう。 毎日、定時間で帰る者と、残業3時間やる者がいたとします。 昔なら、後者の方が、「社員の鏡。 模範的社会人」と賞賛されたわけですが、エコ的に見れば、前者の方が遥かに貢献度が高く、後者は、電気代は使う、紙は使う、余分に飲み食いはする、で、地球環境の敵以外の何者でもありません。 ちなみに、私は、これを皮肉でも何でもなく、糞真面目に言っています。

  かつて、生産効率の高い工場は、世界的に高い評価を受けていたわけですが、今や、工業全体がCO2排出の元凶と見做され、バカスカ物を作る工場など、マイナス価値しか与えられません。 その工場の従業員が頑張れば頑張るほど、地球は汚染され、エネルギーは浪費されていくのです。 何の価値かあらむ。

「効率が悪い工場よりは、効率が良い工場の方が、無駄が少ないではないか」

  と、思うでしょう? この論理、効率性に自信過剰な日本企業がよく口にしますが、よく考えると間違っています。 物を作る事自体が、エネルギーの浪費と環境汚染を引き起こすのであって、むしろ、効率が悪く、同じ時間でより少しの物しか作れない工場の方が、エコ的には加害度が少ないのです。

  大体、作っている物が、本当に必要な物なのかどうか、その企業のトップですら答えられますまい。 車が必需品? いやあ、無くたって、生活できますよ。 私、現在、車を所有してませんが、何の不便も感じていません。 ケータイが必需品? わはは! 笑わせてはいけません。 あんな物無くたって、痛くも痒くもありません。 タバコや薬物と同じで、一旦始めてしまうから、手放せなくなるのであって、最初から使わなければ、何という事はないです。 パソコンやデジカメに至っては、はっきり、「オモチャだ!」と断言しても宜しい。 実際、オモチャでしょうが。 無くたって、命に関わったりしないものね。

  人間が生きて行く上で本当に必要な品は、食物だけだと言ってもいいでしょう。 そして、それは、工場や企業を介さなくても手に入るわけだ。 実際に、江戸時代までは、製造業なんか、ほんの一握りの分野にしか無かったけれど、人はちゃんと生きていたわけですからね。 ほーら、企業なんか、無くてもいいような、価値の薄いものである事が分かるでしょう。 当然、そこで働いている人達の仕事にも、本質的な価値は無いという事になります。 ただ給料を貰うために、至って個人的な目的で働いているだけなのです。 地球環境を犠牲にしてね。


  あっちこっちへ脱線しまくりましたが、「人間の価値基準は、人類の主観に過ぎないので、人間の存在には絶対的な価値は無い」と感じている私の気持ちが何となく伝わりましたか? とりわけ、エコの問題は、今まで人類が文明発展の基準にして来た価値感を、真逆に引っ繰り返してしまうだけに、重大な転換点と言えます。 頑張って生きると、その分、状況を悪くしてしまうわけで、こりゃ、困った事になりましたな。

  離島でネズミが大発生した場合、作物を荒らす害獣として駆除されるわけですが、ネズミにしてみれば、個々の個体の責任ではないわけで、一匹一匹は、一生懸命、自分の命の火を燃やしているだけです。 頑張って生きているだけです。 現在、地球上に溢れつつある人間と同じですな。 一人一人は、自分の人生を充実させようと、頑張っているだけ。 しかし、その結果、地球環境はどんどん荒らされて行きます。 人間は、他の動物と違い、食べて行ける最低限の消費では満足できないのですから、ネズミとは同列に扱えないほど、始末が悪いです。 つまり、人間は地球全体の害獣になってしまっているわけです。

  いやですねえ。 害獣ですよ、自分が。 もし、絶対的な力を持った宇宙人がやって来て、地球の生態環境を管理する事を思い立ったら、人類が駆除されるのは避けられないでしょうな。 特に、先進国を自称して、一人当たりエネルギーを大量に消費している国の人間は、真っ先に処分されるでしょう。 最も有害な品種なわけですから、当然ですな。 これまた、私は、皮肉ではなく、糞真面目に言っています。

「人間一人の命は、地球よりも重い」

  この言葉、最近はめっきり聞かれなくなりましたが、私が子供の頃には、人権活動家達がもっともらしく口にしていました。 よく考えれば、人間は地球の一部なわけですから、一部分が全体より価値があるなどという事はありえず、論理的に矛盾しているのですが、論理を別にしても、こんな身勝手な考え方はそうそうありません。 地球は多くの生物が共存している場所なのであって、人間だけの物などでは断じてありません。 正確に言うなら、

「人間一人の命は、人類とほぼ同数の個体数を持つ生物一個体の命と同等である」

  とすべきでしょう。 もちろん、人類より個体数が少ない生物の命は、人間よりも重くなります。 人間の価値とは、その程度のものに過ぎないと思うのです。

2009/10/04

誘致騒動

  「リオで、じゃねーだろ!」ではなく、リオ・デ・ジャネイロに決まったようですな、2016年の五輪開催地。 ちなみに、≪Rio de Janeiro≫とは、≪一月の川≫という意味のポルトガル語だそうです。 1502年の1月1日に、ポルトガル人航海者がここに到着し、細長い入り江を川と間違えて、こういう名前をつけたのだとか。 うーむ、十数年前に古本屋で衝動買いした≪世界地名ルーツ辞典≫が、今頃役に立つとは思わなかった。 もっとも、ネットで調べても、そのくらいの事はすぐ分かるんでしょうけど。

  それさておき、ブラジルの都市になって良かったですな。 ブラジル初であると同時に、南米大陸発であるというのは、大変意義のある事です。 というより、今まで一度もやっていなかったというのが不思議。 よくもまあ、こんな地域差別、不均衡を放置して来たものです。 ライバル都市が落ちたのは当然という気もします。

  マドリードなんて、スペインでしょう? こないだ、バルセロナでやったばっかじゃん。 なに、カタルーニャとカスティーリャは違う? そりゃ、違うでしょうけど、スペインとブラジルほどには違いますまい。 ヨーロッパと南米ほどには異なりますまい。 よく、立候補したと、そっちにびっくりします。 バルセロナ五輪は、ソウル五輪よりも最近なんですよ。 もし、韓国が、釜山で立候補していたら、スペイン人だって、「こないだ、ソウルでやったばっかりじゃないか!」と思うでしょうが。 「京畿道と、慶尚南道は違う」って言われても、「そりゃ、違うでしょうけど、韓国とブラジルほどには違いますまい。 東アジアと南米ほどには異なりますまい」と言うでしょうが。

  シカゴお? アメリカ人よ、えー加減にしなさい。 一体、何回やれば気が済むんだよ。 「アトランタ以来、20年ぶりの開催を目指して」と聞くと、「ほーお、20年も経つのか・・・・」と、一瞬感慨に耽ってしまいますが、オリンピックの開催頻度から考えれば、20年前なんて、たかだか5回前に過ぎず、 ちっとも時間なんて経っちゃいません。 危ない危ない、すんでに騙されるところだった。 やりすぎだよ、アメリカは。 何でも金でカタが着くと思ったら大間違いですぜ。 そもそも、今のアメリカには、その金が無いじゃありませんか。 借金だらけの国が、金で五輪を誘致しようなんざ、分際を弁えないにも程があります。

  そういえば、夫人を派遣するだけでは役者不足と思ってか、オバマ大統領当人まで最終プレゼンに乗り込んで来たそうですが、いつもの名調子で、ハッタリぶっこいて、「どうだ、それでなくても最有力候補と見做されているシカゴだ。 私の歴史に残るスピーチで、否が応でも駄目押しだろう!」と御満悦の笑みを浮かべていたのも束の間、いの一番に落選して、アメリカ国民一同、目が点の唖然呆然、言葉を失うとは、あの状態の事を言うんでしょうな。 いやはや、まさか、あのIOCがオバマ氏に水をぶっかけてくれるとは思いもしませんでした。 「調子に乗んなよ。 こちとら、スターは、スポーツ選手で間に合ってるぜ」ってなところですかね?

  さて、東京だ。 落選した今でも不思議でならないのは、「そもそも、どうして立候補したのか?」という、これ以上無いくらいに根源的な、その点です。 「東京で? 前にやったじゃん。 何回、同じ所でやるのよ?」と思うだけでなく、良識的日本人の感覚として、「夏は一回、冬は二回もやってるんだから、もう、日本でやる必要は無いんじゃないの?」という、遠慮を感じていたと思うのです。 一度も開催していない国々が無数にあり、しかも、実行するだけの経済力を備える所が出て来ているのですから、そちらが優先だと思うのは、至って自然な感覚でしょう。 なぜ、今、日本なのか? しかも、前に一度やっている東京なのか? 飛び交う疑問符で、背景が埋まりそうでした。

  現都知事が、自分の功績として、誘致を置き土産にしたいと考えていたのは明白で、まあ、政治家ですから、それはそれで批難されるような事ではないですが、盛んに笛を吹いたにも拘らず、東京都民をすら踊らせるに至らなかったのは、オリンピックの必要性に対する、民衆との感覚のズレを埋めきれなかったからでしょう。 現都知事を選挙で選んだのは、現東京都民ですが、他の候補者がパッとしなかったために、消去法で選んだという傾きが強く、現都知事に、何か目立った業績を挙げて欲しいと願っていたわけではないんですな。 故に、彼の花道や置き土産には、何の興味も無かったのではありますまいか。

  どうも、バブル崩壊以降の東京には輝きが見られず、地方から見ると、もはや現代日本の文化の中心ではなくなってしまっているわけですが、東京都民自身も輝くのにうんざりしているような嫌いがあり、「お祭り騒ぎはもういいよ。 静かに暮らさせてくれんか」と、冷め切った目で五輪誘致運動を見ていたように思えます。 「是非、もう一度、東京で!」と願う人達が、ある線を越えて増えて行かなかったのです。 一部の人が騒げば騒ぐほど、残りの大多数は冷めるという、シラケた雰囲気が隠せませんでした。

  むしろ、リオが最終候補に残った時点で、「南米から出るのなら、東京の立候補は取り止めて、譲ります」と言えば、滅茶苦茶カッコよかったと思いますが、「誘致誘致!」で血道を上げて来た人達に、そういう発想を期待するのが無理というもので、結局、落とされるまで、食い下がってしまったわけですな。 「シカゴには勝った」などと言っている人もいましたが、恥かしいから、そういう事を言うなって、全くもー。 選挙と同じで、落選すりゃ皆同じよ。 次点も三点も四点あるものかね。

  「誘致活動の仕方が悪かった」という意見もあるようですが、的外れな分析だと思いますねえ。 むしろ、東京のように全くセールス・ポイントが無い都市で、よくぞ、あれだけ、それらしい誘致理由をこじつけたと、感心するほどです。 現代の東京と、スポーツの祭典が、どうしても結びつかないものだから、環境問題にすりかえを図ったのは、実に日本人らしい屁理屈全開の発想でした。 屁理屈も論理の内だと思ってますからのう。 ただ、論理を理解できる外国人から見ると、スポーツと環境問題には何の関係も無いのは明白で、「何を言っとんじゃ、日本人は?」と、首を傾げていたのは疑いないところです。

  「前の東京オリンピックの時の施設を再利用する」といった計画も、「セコい」、または、「しょぼい」と見做されて、疎まれた可能性が高いです。 スポーツ関係者にとって、オリンピックは、四年に一度の盛大なお祭りなわけでして、「環境に遠慮して、華やかさを削られては、何の為にやるのか分からなくなってしまう」と思われたのではありますまいか。 上杉鷹山に三社祭や祇園祭の企画を任せるわけにはいかないわけだ。 東京の誘致計画は、根本的な所で、ピントずれを起こしていたものと思われます。

  本当に環境を最優先するのなら、オリンピックなど、やらないのが一番宜しい。 人が国境を越えて、うじゃうじゃ移動すれば、それだけで膨大な量のエネルギーを費やしてしまうのであり、その点、オリンピックは最悪の行事でしょう。 それでも、やるわけですから、「お祭りの時くらい、環境だなんだと、野暮な事は言うな」と思うのが人情というものです。

  「オバマ大統領や、鳩山首相が、最終プレゼンになって、取って付けたように参加したから、却って顰蹙を買った」という見方は、当たっている面もあると思います。 何事も一夜漬けは、メッキが剥がれ易いもの。 しかし、たとえ、彼らが、それをやらなかったとしても、結果は同じだったと思います。 やはり、未開催国がライバルに残った時点で、潔く諦めて身を引き、進んで譲るべきだったのです。

  とにかくねえ、もう、一度開催した国は、手を挙げない方がいいですよ。 まだ、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、東欧、中央アジア、太平洋諸国、カリブ海諸国と、開催していない地域は、いくらもあります。 そういう所でやった方が、絶対面白いですって。 そんなに金を出したきゃ、未開催国に資金提供してやれって言うのよ。 「俺が俺が!」と目を血走らせているより、その方が、ずっとカッコいいから。 もっとも、そういう、金に物を言わせて来た国々が、今や軒並み借金地獄に嵌まっており、外国への援助資金も借金で賄うという、奇妙奇天烈な事をやっているわけで、「一番いいのは、何もしない事だ」という気もしますが。

  最後に、日本の最終プレゼンの秘密兵器だった、15歳の少女。 オバマ大統領対策として用意されたらしいですが、結果的には、とんだ茶番になってしまいましたな。 未だに素性も正体もよく分からんのですが、一体、誰だったのよ? 未来の新体操選手? そんなの、いくらでもいるんじゃないの? IOC委員も、反応に困ったろうねえ。 「誰? 知ってる? え? 誰よ、あの子?」 日本人も知らないんだから、IOC委員が知ってるわけないわなあ。 あのプレゼン企画、一体、誰が立てたんですかね? あんまり、奇を衒って、世界に恥を晒すような真似をするなよ。 その子の将来の為にも気の毒だろうが。 必ず、オリンピック選手になれるって、保証できるか? そんな予測がつくほど、甘い世界じゃあるまいに。