2008/04/27

鬱々たるもの

  で、擬古文に凝っているせいで、古典文学サイト巡りをしたという話を前回書いたわけですが、その際、擬古文で書き込みをしたいばかりに、掲示板も覗いて回ったわけです。 その掲示板で、どんな話題が取り交わされているのか、一応知っておかなければならないので、他のゲストの書き込みと管理人のレスを読んで行ったんですが・・・・・、恐れていた通り、コンフリクトしている所がありました。 まったく、他人の争いごとは醜い。

  すっかり、ブログ主流の世の中になってしまったので、掲示板のシステムは四五年前から進歩が止まっていて、いまでも、スレッド式が圧倒的に多いです。 そうそう、未だに、≪ティーカップ≫の掲示板を使っている所もありましたが、古典サイトとはいえ、あまりにも古典的で、あはれ涙をさそふものがありました。 ティーカップの掲示板は、文字サイズが大きくて読み易いんですが、書き込み毎にレスを付ける事ができないので、ゲストが増えると、レスが書きにくくなる欠点があり、スレッド式に淘汰されてしまったんですな。 

  で、スレッド式掲示板の所での話なんですが、あるゲストが、初書き込みのスレッドを延々と延ばしているのを発見しました。 管理人がレスをつけると、その返事に当たる書き込みを、同じスレッドにまた付け足していくのです。 今時、スレッドを延ばしたがる人も珍しい。 しかも、結構な長文ですぜ。 書き込みが長いから、当然、レスも長くなるわけで、もう延びる延びる、蛇が出たかってなもんです。 スレッド式なんだから、延ばしていけないという法はありませんが、せいぜい、三往復くらいが限度でしょう。 スレッドが延びると、他のゲストの投稿が下の方に埋没してしまって、迷惑するんですわ。 また、そういう人に限って、管理人のレスが付いたら、すぐに返事を書かなければいけないと思い込んでいて、日に何度も書き込んで来るわけですが、それじゃ、管理人の身が持ちません。

  可哀想に、そこの管理人さん、悩んじゃって、スレッドが五往復くらいしたところで、とうとう、レスをパスしました。 そしたら、そのゲスト、無視されたって怒っちゃって、「今まで書きこんだ文章を全部削除してくれ」ですと。 無茶苦茶、言いないな。 あんたが追い込んだんやないの。  たぶん、掲示板への書き込みの経験が浅くて、やっていい事と、やらない方がいい事の区別がつかんのでしょうな。 初心者は、いつの時代にもいるわけだ。 自分でサイトを作り、一度、掲示板を運営してみれば、「こりゃ、かなわんなあ」という感じが掴めるはずなんですが。 

  でねー、「削除してくれ」って言うんだから、ご要望通り削除して、「じゃ、これっきりって言う事で」と放っぽり出せばいいものを、そこの管理人さん、他のゲストの手前、善人ぶろう、いい子ぶろうとしたんでしょう。 「すいません。 スレッドが長くなったので、書き込みに気付きませんでした。 許して下さい」などと謝ってしまったのです。 駄ー目だって、そういう奴に謝っちゃ! 調子にのるだけなんだから。 案の定、更にひどい事になり、そのゲスト、次の書き込みで、自分がどうして怒ったか、どうして削除依頼をせざるを得なかったかを、たとえ話まで持ち出して、延々と書き連ね、しかも途中から敬語をやめて、呪詛めいた言葉を、独り言のように毒づき始める始末。 文面に漂う異常な怒気から察するに、明らかに精神状態が異常な人らしいです。 雅やかな言葉で言うと、「お気がお触れ遊ばしていらっしゃる」んですな。 いるんだなあ、こういう人。

  で、そこの管理人さんの事を、「気の毒だなあ」と思っていたんですが、驚くじゃありませんか。 それから二三日して書き込まれた別のゲストとの会話を読んだ所、その管理人さんも鬱病を患っているらしいのです。 これには、「あんが・・・」とフリーズしてしまいました。 その管理人さん、あちこちの掲示板に書き込んでいて、古典サイトでは珍しく活動中の人だったのですが、どうも社交的だからそうしていたのではなく、一度付き合い始めたら、相手のサイトに行き続けなければいけないという強迫観念に囚われていて、ほとんど廃墟状態の掲示板であっても、書き込み続けなければいられない人だったらしいのです。

  いやはや、しかし、鬱病に苦しんでいる状態で、こんな恐ろしいゲストに罵詈雑言を浴びせかけられたら、病状が悪化せずにはいられないでしょうな。 寝込むくらいならまだいいけれど、切っちゃうでしょう、手首。 飛び降りちゃうでしょう、屋上。 飛び込んじゃうでしょう、電車。 普通の人間でさえ、ネット上で悶着に巻き込まれると、パソコンの電源を入れるのが恐ろしくなりますが、況や鬱病患者に於いてをや。


  という流れで、ここから、鬱病の話に強引に持って行くわけですが・・・・。 鬱病の人をネット上で見かけると、「気の毒だな。 可哀想だな。 少しでも気分が楽になるように、優しい言葉を掛けてあげようかな」と思ったりするでしょう。 でもね、それはやっては駄目なのです。 そこが鬱病の厄介な所でして、たとえ好意から出た言葉であっても、他人から話しかけられたというそれだけで、精神の負担になってしまうのです。 最初は努力して話を合わせて来ますが、やがて突然ブチ切れて、「もう限界です。 これ以上話せません」と言い出すから、うまく会話しているつもりでいた相手の方は、ぶったまげてしまうのです。

  基本的に、何を言われても悪く取るのが鬱病でして、喜ばせようと思って、その人のサイトのコンテンツを誉めたりするでしょ。 そうすると、「ああ、このコンテンツを誉めてくれたという事は、これと同じようなコンテンツをもっと作れという要求なんだな。 ああ、面倒臭いなあ。 やる気にならないなあ。 どうして、こんなに私を困らせるんだろう。 ああ、もう死んでしまいたい」となるのです。 さりとて、突き放したりすれば、直接的に悪意を受け止めて、もっと落ち込みます。

  「まともな自分と話をしていれば、おかしな人も次第によくなるはずだ」と考える方も多いでしょうが、それは精神病の恐ろしさを知らないのでして、そんな簡単な事で治るくらいなら、家族や友人だけで間に合うわけで、医者なんぞいりません。 精神科医ですら、完全には治せないのです。 せいぜい、≪要入院≫を≪要通院≫に改善する程度がやっとで、完治はまずありえません。

  恐ろしいのは、精神病という奴、意外な事に、人にうつるのです。 まず、近しい人間にうつります。 よく、女子中高生が友人同士で飛び降り自殺をする事件が起こりますが、あれは、確実に一人が先に鬱病になり、それが友人にうつって、「私、もう死にたい」が、「だったら、私も死ぬ」を誘引し、「じゃあ、二人で死のう」に至ったものと思われます。 もちろん、家族にも、うつります。 他人から見ると、「なんで、この程度の理由で・・・・」と思うような一家心中事件が起こった場合、間違いなく、鬱症状が家族内に伝播して、逃げ道を失ったものと考えられます。

  精神科医という職業も、精神病に陥り易い状況にいます。 毎日、お気がお触れ遊ばしていらっしゃる患者様方のお話ばかりお聞き遊ばしていらっしゃるのだから、聞いている方も頭が狂ってくるのは理の当然というもの。 確か、精神医学に、≪転移≫という用語があったと思いますが、その≪転移≫が進むと、医師までが患者の異常さの中に巻き込まれてしまうのだとか。 ミイラ捕りがミイラ。 精神科医自身が狂ってしまっているのだから、そんな人が、「この患者さんは完治しました」などと保証してくれても、鵜呑みにするわけにはいきません。

  話を鬱病に戻しますが、怖いでしょう。 一度なってしまうと、治らんのですよ。 また、鬱病患者の人が、ネット上にはたくさんいるんだわ。 大抵は、自覚症状があります。 程度の違いはあるので、まだ浅い人は、自分が鬱病の気がある事をファッションのように捉えていて、鬱症状を言い触らす事によって、他人の同情を得ようとしたりしますが、一旦、自殺未遂をやらかすほど症状が進むと、ファッションどころの話ではなくなり、当人も真剣に悩み苦しみ始めます。 そして、悩めば悩むほど、症状が悪化していくのが、また、鬱病なのです。

  鬱病患者の書いた文章は、じめじめと陰鬱で、あらゆる事を悪い方へ悪い方へと考えていくので、読めば直ぐにそれと知れるのですが、同じ鬱病患者でも、何とか治そうと努力している人の文章は、まったく正反対の雰囲気になるので、注意が必要です。 やたらと明るいのです。 すべての文の末尾に、≪!≫がついていたり、顔文字がついていたり、普通に読んだだけでは、滅茶苦茶明るい人のように思えます。 しかしねえ、本当にまともな人は、そんなに高いテンションばかり続きはしないわけですよ。 鬱病患者が、鬱気を吹き飛ばそうとして、故意に装った明るさなんですな。 「躁期に入っているのでは?」と思うかもしれませんが、躁とはまた違うのです。 躁患者は、テンション云々以前に、まともな文章なんて書けませんから。

  こんな具合でして、鬱病患者を日常生活やネット上で見かけたら、もう避けるしかありません。 良かれと思って何をしても、すべて裏目に出るので、近寄らない以外に手が無いんですな。 近寄らなければ、症状が改善するというわけでもないんですが、進めるよりはマシでしょう。 これを読んで、「なんて、薄情な奴だ。 こいつ、鬱病患者に対して、偏見があるに違いない」と感じた人も多いでしょうが、「だったら、試しに鬱病患者に近寄って、症状を改善させてみな」などとは、口が裂けても言いません。 なぜなら、本当に鬱病患者を死に追いやってしまう可能性が、甚だ高いからです。

2008/04/20

源氏サイト

  で、先週に引き続き、擬古文に凝っているわけです。 そういえば、≪擬≫という字と、≪凝≫という字は似ている・・・というか、紛らわしいですな。 まあ、そんな事はどうでもよいですが。

  擬古文は、書くだけでも結構面白いのですが、書いていると、人様にも見せたくなるのが人情というもの。 だけど、擬古文は書くだけでなく、読むのにも相応の技能が要ります。 誰彼構わず、「見て見て見て!」と見せるわけには行きません。 人間というのは、読めない文章には、興味を示さないものだからです。 そこで、私は考えた。 古典サイトを持っている人達なら、みなさん、古文を読みつけているから、擬古文も読めるのではないかと。

  でねー、久しぶりに、サイト巡りしましたよ。 二年前に写真サイト巡りをして以来ですな。 サイト巡りという奴、目を通すだけでも不愉快な思いをする事が多いので、あまりやりたくないんですが、何かに夢中になっている時には、多少の危険は視野の外に出てしまうもののようです。 ≪君子危うきに近寄らず≫と言いますが、≪虎穴に入らずんば、虎児を得ず≫とも言いますし。 まったく、故事・諺というのは、その時々の都合に合わせて使えるように、意味が正反対のものまで揃っているから便利です。

  さて、≪古典文学≫で検索すると、引っ掛かってくるものの大半が、≪源氏物語≫関連のサイトです。 比率的には、源氏が七割、≪枕草子≫が二割、他の作品を全部あわせて一割といった所でしょうか。 古典作品はいくらもあるのに、こうも源氏に人気が集中するのは、ファン達がミーハーな証拠ではないかと思います。 この比率を見ただけで、嫌な予感がしていたんですが、一つ一つ見て行ったところ、やはりそれは的中していました。

  ミーハーの特徴は、物事に深入りできないという点に尽きます。 源氏をテーマにしてサイトを作ろうと思ったら、原文と現代語訳の掲載は当然の事、各場面・登場人物・時代背景・当時の風俗習慣、などの解説を、コンテンツとして揃えておかなければならないと思うのですが、 これらの条件を満たしているのは、ほんの数えるほどです。 その他は、看板だけ出して、中身はスッカラカンという所がほとんど。

  ≪私家版現代語訳≫に挑む人は多いようですが、大概は、≪桐壺≫を終えるのがやっとで、しぶとい人でも、≪空蝉≫あたりまで行くと力尽きます。 たった、三帖目で死んでしまっているのだから、全54帖の語訳など、夢のまた夢ですな。 だからよー、最初から長いって事は分かっているわけだから、現代語訳なんて、手を出さなければいいんですよ。 せいぜい、≪私の好きな場面≫くらいに抑えて、つまみ食い程度に触れておけば、まだ格好がつくのにね。

  気になったのは、源氏ファンなのに、原文を読んでいない人がいるらしいという点です。 私の感覚では、古典を読むという事は、すなわち、原文で読むという事を意味しているのですが、そういう考え方の持ち主は少数派のようで、現代語訳で読んで、「源氏を読んだ」と称している人が非常にたくさんいるのです。 ≪源氏ファンに聞く100の質問≫というのを、コンテンツとして公開している所がかなりあるのですが、その質問の中に、≪もしかしたら、原文で読んだ?≫という項目があって、その答えが、「滅相も無い! でも、いつか読もうと思っています」などと書いてあるから、ぶったまげずにはいられないというもの。 をゐをゐ、現代語訳なら、そりゃ誰でも読めるがな。 自慢にもならんではないか!

  もっと凄いのは、現代語訳ですら読んでいない輩。 それなのに、源氏ファンとはこれ如何に? と思うでしょうが、なんと、≪あさきゆめみし≫を読んだというのです。 ほれ、少女漫画のアレでんがな。 ああ、熱が出る・・・・・少し横にならして下さいまし・・・・

  ・・・・失敬失敬。 あのなあ、≪あさきゆめみし≫は、≪あさきゆめみし≫という独立した作品であってだなあ、≪あさきゆめみし≫を読んだからって、≪源氏物語≫を読んだとは言わんのだ! そんな事も分からんか、この馬鹿垂れ木瓜茄子土手南瓜どもが! 作るなら、≪あさきゆめみし≫のファン・サイトを作らんか!

  ちなみに、古典サイトを持っている人の95%は女性です。 ガチガチあからさま、抜き難い女尊男卑主義者の私としては、女性の方々に向かって、アホとかタコとかナマコとか、荒々しい言葉を使いたくないのですが、さすがに、この無学ぶりには、呆れ果ててしまった格好です。 大方、これと言って趣味もないけれど、何かサイトを作りたいなあと思っていた人が、他人が作っている源氏サイトを見て、「こういうのを私もやりたい! ≪あさきゆめみし≫なら全部読んだから、話は大体分かるし、いざとなったら、現代語訳で調べられるから大丈夫! オッケー、オッケー、てっへへへっ!」とかいったノリで、安直に舟出してしまったのでしょう。 池の貸しボートどころの話ではなく、浮き輪で太平洋横断に挑んだようなものですな。

  その結果、ほとんどの源氏サイトが、開設以後ものの数年で行き詰まり、更新停止、掲示板廃墟、サイト自体閉鎖の憂き目を見たようです。 更新停止と掲示板廃墟は見れば分かりますが、閉鎖した事がなぜ分かるかというと、他のサイトのリンク・ページにバナーと紹介文だけが残っているからです。 これは、どのカテゴリーでも同じですが、閉鎖する事を、相互リンク先に通知しない人がほとんどなんですよね。 閉鎖に至る前に、交友が途切れてしまっているのが普通なので、「今更、閉鎖の通知に行くのも、カッコがつかないか・・・」と考えるのでしょう。 いや、その気持ちはよく分かる。 だからねえ、リンクしている方で、時々リンク先を見て回って、閉鎖しているようなら、リンクを外せばいいんですよ。 バナーと紹介文だけ残していても、死体を押入れに隠しているようなドス黒い後ろめたさが増幅するだけではありませんか。

  更新停止も、最終更新日が、≪2003年10月≫なんて書いてあると、頭がクラクラして来ますな。 よくもまあ、五年もそのまま保存してきたもんです。 ある意味、すごい。 よほど、コンテンツに愛着があるのか、生来の無精者なのか。 ネット上には、常にそのカテゴリーの新規参入者というのが存在するので、そういう人達の訪問が細々と続いていて、閉鎖する踏ん切りがつないのかもしれません。 しかし、新規参入者の方も、五年前に放棄されたサイトに来てしまったら、ちいっと引きますぜ。

  掲示板も凄い。 書き込みが一年に二三件なんていうのはざらです。 そりゃ、サイト本体が放棄されているんだから、書き込む人もいないわなあ。 レスがまた凄くて、半年に一度まとめレスなど、掟破りの破天荒な管理が堂々罷り通っています。 面白いのは、そういう死に体サイトの管理人が、なぜかブログを別に持っていて、そちらはこまめに更新しているんですわ。 ブログの名称には大抵、平安時代を感じさせるような雅やかな言葉を使ってあるのですが、中身は単なる身辺雑記に堕していて、源氏のゲの字、平安のへの字も見当たりません。 たまに、サイトの方から入ってきた人が、源氏関連のコメントなど書いて来ると、「源氏に興味があったのは、もう随分昔の事でして・・・・」などと、門前払いを食らわしている始末。 だったら、サイトを閉めんかい!


  おっ・・・・何だか、悪口ばかりになってしまいましたな。 いや、誉めようがない有様なので、何か書こうと思ったら、自然と悪口ばかりになってしまうのですよ。 とどめに、とっておきの悪口を書いておきましょう。 私ね、試しに、何ヶ所か、まだ更新が続いているサイトの掲示板に、擬古文で書き込みをしてみたんですよ。 文の内容は、そのサイトのコンテンツの感想です。 たくさんあるサイトの中から、誉めるに値する所だけをピックアップして、賞賛する文を書き、それを擬古文に訳して、投稿してみたというわけ。 そしたらねえ、返事はすぐに返って来たものの、それが現代文なんですわ。

 「古典サイトの管理人としては、擬古文で書き込みがあったら、レスも擬古文で返さないと、沽券に関わる」と思うのが普通だと思うのですが、実際の返事は現代文なんですよ。 書き込みの方は三四行くらいなので、レスも同じくらいの行数なんですが、たったそれだけの文を擬古文に変換する事が出来ないらしいのです。 これはかなりの、≪恥≫ではありますまいか? 私としては、擬古文仲間が欲しいだけで、相手に恥を掻かせる腹など小指の爪の先ほども無かったので、それ以上の書き込みは打ち切ったのですが、この結果には心底がっかりしました。 私が書きこみをしたのは、源氏サイトの中でも上澄みに相当するような、しっかりした所でしたから、それらの管理人さん達でさえ擬古文を書けないという事は、他は推して知るべしでしょう。

  もう、この実験だけで、ネット上には擬古文を書ける人がほとんどいないのではないかと思えて来ました。 書ければ、何か書いて、公開していると思うのですよ。 それが見つからないという事は、書かれていないとしか考えられません。 ちなみに、≪擬古文≫で検索をかけると、擬古文コンテンツがいくつか、引っ掛かる事は引っ掛かります。 でも、大抵はほんの一ページ、短い文章を擬古文に変換してあるくらいで、手慰みに遊んでみただけと思われる物ばかり。 日常的に擬古文を書いているという人はいないんですな。 古文を専門にしている学者や教師の方々は、たぶん書けると思いますが、そういう人達は仕事にしている事なので、ネット上でその種の技を披瀝する事はないようです。

  自分で擬古文を書き始める前は、「ネット上では、古典サイトのどこかに、擬古文専門の掲示板とかあって、擬古文で会話を交わしている雅やかな人達がいるんだろうなあ」と想像して、憧れ、羨んでいたのですが、現実を知って、白けに白けました。 大丈夫か、日本文化よ。

2008/04/13

係り結びの法則

  ここ一ヶ月ばかり、擬古文に凝っています。 擬古文というのは、古文に似せた文章の事です。 手っ取り早く、実例を見せますと、

≪このひと月ほど、擬古文にしこりはべりたり。 擬古文たるは、古文になずらひたる文章のことにはべり。≫

  というような具合に作っていくわけです。 今ふっと、「古文と擬古文は違うのか?」と思ったあなた、良い所に気付きました。 違うのです。 ≪古文≫というのは、実際に古い時代に書かれた文章の事だけを指すのであって、現代の人間が古文を真似て書いたものは、古文とは言いません。 そういう物を特別に指す為に、≪擬古文≫という言葉があるわけです。 私見ですが、擬古文には、広義と狭義があると考えられます。 広義の擬古文とは、古文風に書かれた文章全てを指し、狭義の擬古文とは、善意悪意は別にして、実際に古い時代に書かれたかのように装った文章の事を指すというわけです。

  日本人なら大概の人は、高校時代に古文を習っているはずです。 ただし、古文の授業では、古典を読むのが目的で、書き方までは教えません。 実は、書けるようになれば、読む能力も上がるので、書き方を教えてしまった方が、学習効率が良いのですが、なぜやらないかというと、おそらく、教師のレベルが低くて、書き方を教えられないのでしょう。 教師だけでなく、学者ですら古文の文法が分かっていない者が多く、テケトーな記述でごまかしてある参考書がうじゃうじゃ見受けられるのは、英文法のそれと似た状況です。

  たとえば、誰でも名前だけは聞いた事がある、≪係り結びの法則≫ですが、参考書を開くと、「【ぞ・なむ・や・か】が係った時には、文末の用言は連体形で結び、【こそ】が係った時には、已然形で結ぶ。 意味は≪強意≫で、現代語訳する時には、特に訳さなくてもいい」などと書いてあります。 凄いですねえ。 テストの問題に出すくらいだから、さぞや重要な法則かと思いきや、「訳さなくてもいい」というから、解せない話ではありませんか。 これでは、係り結びの説明になっていません。 書き手にしてみれば、わざわざ係り結びを使ったのは、何かしら普通の文とは違う事を表現したかったからだ、とは思いませんか?

  と、ここまで書いてしまった行き掛かり上、私が係り結びについて説明しないと、「自分も分かってないくせに、他人を批難している」と思われるのが癪なので、ちょいと書いておきましょう。

  まず、係り結びの意味が、≪強意≫である点は、正しいと思います。 ≪強意≫というのは、「意味を強める事」で、≪強調≫と言ってもいいです。 現代文でたとえると、「絵が描けない」は普通の文ですが、これを強意にすると、「絵も描けない」となり、更に強意度を高めると、「絵すら描けない」とか、「絵さえも描けない」とか、いろいろと言い換えて行けるようになっています。 これと同じ機能の表現が古文にもあるわけで、その中の一つの方法として、係り結びが使われるのです。

  さて、一口に係助詞と言っても、【ぞ・なむ・や・か】と、【こそ】はカテゴリーが違います。 結びの形が違う点から見ても、それは分かると思います。

  まず、【ぞ・なむ・や・か】から行きましょう。 この四つ、見て分かるように、文末にも付ける事が出来ます。 それもそのはず、もともとは終助詞なのです。 大雑把に言って、【ぞ】は「~だ」、【なむ】は「~だろう」、【や】と【か】は「~か」という意味です。

  代表して、【ぞ】で説明します。 「峠を越ゆ」が普通の文章だとすると、「峠ぞ越ゆる」が係り結びです。 動詞が終止形から連体形に変わってますね。 なぜ、連体形なのかに着目します。 古文では、連体形で終っている場合、後ろに、「の」または、「もの」が省略されているのが普通です。 現代語では、終止形と連体形の形が同じなので省略できないんですが、古文では、活用形の多数を占める上二段活用と下二段活用で、終止形と連体形の形が違いますから、幾分強引に略してしまっているんですな。 つまり、現代文に訳す場合には、「の」、または「もの」を入れなければならないわけです。 入れて、現代文に訳してみると、「峠だ、越えるの」になります。 つまりですな、もとは、「越えるのは峠だ」と言う所を、「峠」を強調する為に、前方に出して、「峠だ、越えるのは」と言っているわけです。 現代文の表現方法で、≪倒置法≫というのを聞いた事があると思いますが、古文の係り結びとは、正にその倒置法なわけです。

  【なむ】と【や】【か】も、原理は一緒です。 「峠なむ越ゆる」は、「峠だろう、越えるのは」ですし、「峠や越ゆる」は、「峠か、越えるのは」になります。 【か】は疑問代名詞とセットで使われます。 「誰か越ゆる」という具合に使って、現代語訳すると、「誰だ、越えるのは」になります。

  さて、別格の【こそ】ですが、これだけは、倒置法ではありません。 これも、なぜ結びが已然形なのかに着目します。 已然形の後に来る助詞と言えば、「~ば」と、「~ども」だけです。 「~ば」は「~だから」という意味、「~ども」は、「~だけれど」という意味です。 かたや順接、かたや逆接で、意味が正反対になりますが、それは大した問題ではありません。 【こそ】の意味は、現代語の「こそ」と同じです。 現代語と古語がゴチャゴチャになって、意味が捉え難い場合は、「~さえ」に置き換えてみると分かり易くなります。 「峠こそ越ゆれ」の元の形が、「峠こそ越ゆれば」ならば、「峠さえ、越えれば」になり、「峠こそ越ゆれども」なら、「峠さえ、越えたけれど」になります。 どちらになるかは、前後の文脈で判断します。

  【こそ】は倒置法ではないと書きましたが、それは、「その文の中では」という話でして、もう一段上の段階で見ると、倒置法による強調である点は同じです。 現代文でも、「峠まで越えたけれど、結局彼を見つけられなかった」という文を、「結局彼を見つけられなかった。 峠まで越えたけれど」という具合に、主文と従文を引っ繰り返して、強調効果を出す事がありますが、【こそ】を使った係り結びの文もそれと同じです。 つまり、探せば、前後のどこかに主文があるはずです。 ただし、それはあくまで原則でして、主文が略されていて、【こそ】の入った従文だけで用いられる場合も多いです。


  係り結びについて、何となく、掴めて来ましたか? 「えーっ! そうだったのーっ!」と今更ながらに驚いている人も大勢おる事でしょう。 だって、古文の先生はそんな説明してくれないし、教科書にも参考書にも載っていないものね。 なんで、このように教えないのかというと、実は、上に書いたような事は、あくまで原則でして、古文に出てくる係り結びの用例すべてが、この解釈で説明できるわけではないからです。 係り結びそのものは、奈良時代以前からあったらしく、仮名文が書き始められた頃には、すでに原則が忘れられつつあったようなのです。

  最古の物語である、≪竹取物語≫ですら、当て嵌まらない用法が多いから厄介です。 たとえば、冒頭部にある、「名をば讃岐造麿となむいひける」ですが、こんな文、わざわざ、≪強意≫にする必要は無いのに、【なむ】が使われています。 無理やり原則に当て嵌めて訳せば、「名を讃岐造麿とだろう、言ったのは」という事になりますが、意味は辛うじて取れるものの、およそ収まりが悪いでしょう。

  このズレをどう解釈すればいいのかというと、この頃にはすでに係り結びの原則が忘れられて、単に語調を整える為の道具として使われるようになっていたんですな。 係り結びを使うと文末の形が変わるので、ちょこちょこ挟めば、文章のリズムを整えるのに都合がいいのです。 これは、自分で擬古文を書いてみると、如実に分かります。 物語の文体では、「~けり」で終わる文が圧倒的に多いですが、「~けり。 ~けり。 ~けり。」と、同じ文末ばかり続くと単調になります。 そこで、係り結びの文を挟んで、「~けり。 ~ける。 ~けり。」とすれば、文章が締まるという寸法です。

  ただ、こういう用法をやられちゃうと、原則なんて、すっとんじゃうんですわ。 つまる所、どこにでも挟まれるわけですから。 ≪強意≫の意味すら失われてきます。 というわけで、古文の先生も、国語学者も、お手上げになり、「特に訳さなくてもいい」と逃げたわけです。 もし現役の高校生で古文の授業を受けている方や、大学受験の勉強をしている方がいたら、ご注意あれ。 今回、私が説明した係り結びの原則解釈を、テストなどで、そのまま使うと、×になります。 ○を貰いたかったら、訳してはいけないのです。

  強いて訳すとすれば、「は」ですかねえ。 「峠ぞ越ゆる」ならば、「峠は越える」になりますし、「名をば讃岐造麿となむ言ひける」ならば、「名を讃岐造麿とは言った」となります。 「は」は、現代文で、≪強意≫にも使える助詞なんですよ。 「ちょっと面倒な仕事ではある」のように使われます。 この「は」の用法、三流雑誌の記者とか、文章の書き方を覚え始めたばかりの少年などが好んで使うので、私は恥かしくて使えないんですがね。 だけど、これもあくまで、強いて訳せばの話ですから、テストでは使ってはいけません。 古文の先生と、この事について、話し合ってみるのはいいかもしれませんが。


  いやはや、一応、一通りの解釈はしたけれど、結局、結論は、「訳さなくてもいい」になってしまいましたな。 面目ない。 言語学には、原則と派生の問題が必ずついて回るので、いい加減な事を書かないようにしようと思うと、あまり思い切った説を展開できないのですよ。 係り結びが、どういう経緯で生まれたかが分かればいいんですが、たぶん日本に文字が入る以前の話だと思うので、記録があるわけが無く、それは無理な相談というもの。 真相は、神のみぞ知る。(これも係り結び。 原則で解釈できるので、お試しあれ)

2008/04/06

濫読筒井作品⑨

  私は別に筒井さんのファンクラブに入っているわけではないので、新作の出版情報に疎く、新聞に書評が出てから大慌てで本を探し始めるというパターンを、いつも繰り返しています。 何度か言っているように、私は小説は買わない主義なので、今回も図書館の本です。 いつもなら、筒井さんの新作は、書架に並ぶと同時に予約が行列し、何ヶ月も姿を拝めないのですが、今回は奇跡的に、誰も借りていない内に私が発見する事が出来ました。 新しすぎて、図書館のネット・データに入力される前だったようです。 幸運、幸運。


≪ダンシング・ヴァニティ≫  2007年
  この≪ダンシング・ヴァニティ≫という題名、たぶん、≪ダンシング・バニティー≫と発音するのだと思います。 ちょっと考えれば分かると思いますが、母音が長音の「ティー」と、短音の「ティ」では、発音が違うわけですな。 でも、日本人でこの事に気付いている人は信じられないほど少なく、大抵の人は、≪ティ≫と書いてあっても、それが単語の末尾であれば、「ティー」と読んでいます。 私としては、≪ティ≫を「ティー」と読む人に向かって、じゃあ、「ティ」はどう書くんだ?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。

  いや、ちょっと待った! ≪ヴァ≫を忘れてた! だーから、≪ヴァ≫って書いてあったって、日本人の99%は、「バ」としか発音しませんし、たとえ、「va」と発音している人でも、耳には、「バ」としか聞こえていないんだから、わざわざ、≪ヴァ≫なんて書いたって意味無いっつーのよ。 字数が増えるだけ、無駄。 大体、≪ウ≫に濁点を付けたって、≪v≫の音には絶対なりません。 母音は元々有声音だから、濁点を付けても音は変わりませんし、≪v≫は歯唇音というれっきとした子音なんだから、母音をどう弄くったって、子音になるわけないのです。 私としては、≪v≫に≪ヴ≫を当てる人に向かって、じゃあ、≪of≫も≪オヴ≫と書くのかい?と詰問してみたいのですが・・・・・まあ、そんな事はどうでも宜しい。 感想文、感想文。

  新聞の書評では、「同じ場面が繰り返されながら、少しずつ変わっていくという実験小説」と書いてあって、筒井さんの実験小説というと、≪残像に口紅を≫の悪夢がイの一番思い出される私としては、大いにうろたえたものです。 筒井作品ファンであればあるほど、実験小説は怖い。 作者の目論見が外れていると、ほんっとうにつまらないからです。 信じられないですよ、「筒井さんの作品なのに、つまらない」などという事態が現出する事は。 ただ、実験小説でも、面白い場合があるので、そちらであってくれと願いつつ、表紙をめくったわけです。

  で、読み終わったんですが、杞憂で済みました。 オッケー、オッケー、この作品は面白いです。 最初の方、繰り返しパターンが三回目くらいになると、読んでいて鬱陶しくなり、「飛ばし読みするか」という誘惑に駆られますが、半ばくらいまで進むと、同じ繰り返しパターンでも、ズレの振幅が大きくなって来るので、違いを楽しむゆとりが生まれてきます。 こうなれば、こっちのもので、「どうなる?どうなる?」で、ページを捲る手がどんどん進むというもの。 さらに先へ行くと、それまでに出て来た繰り返しパターンが混線し始め、「おお、なるほど! これが、この実験の狙い目なのかも知れない。 闇雲に繰り返しパターンを続けていただけではないのだな」と恐れ入る事になります。

  ストーリーの本体は、ある美術評論家の人生を描いたもので、サクセス・ストーリーとも、家族物とも取れる内容です。 筒井さんの家族物は、登場人物を突き放して客観視しきれないのが特徴で、本当の家族をモデルにしているような独特の雰囲気がありますが、この作品のそれも同様で、相当猛々しい話でありながら、家族愛だけは伝わってくるという、一種異様な生暖かさを感じます。 一方で、江戸時代や戦場、夢の中、ネット上の場面など、ファンタジックな要素もふんだんに盛り込まれているのですが、それでいて、荒唐無稽で捉え所が無い話という感じが全くしないのは、やはり作者が今までに築き上げてきた、多種多様な作品世界の分厚い蓄積が物を言っているのでしょう。

  あまり細かく書いてしまうと、これから読む人の邪魔になるので控えますが、とにかく、読んで損はしないだけの面白さは充分ありますから、繰り返しパターンの煩わしさにめげず、先へ進んで下さい。 フクロウやコロス(妖精的コーラス・グループ)、古い家に取り残された家具達、といった、愛すべきキャラクターも出て来るので、お楽しみに。 特にフクロウがグッド。 ふだん、物陰から顔半分だけ出して主人公の様子を覗っているのに、狐の子を宿した女が出産する場面で、好奇心を抑えきれずに出て来てしまうという所が、実におかしいです。


  さて、ここまでは、普通の感想。 ここからは少し穿った見方になります。 

  ちょっと気になる暴力シーンが多いです。 主人公は美術評論家で、痩せても枯れても文化人の端くれなのですが、その割には暴力志向が異様に強いのです。 賞を欲しがる日本画家達に命懸けの勝負をさせたり、家に忍び込んだ青年達をステッキで殴りつけたり、孫を苛めた同級生の頭蓋骨をかちわろうとしたり、血生臭い事この上ない。 これが、ヤクザ物や、残酷SFであれば、別におかしいとも思わないのですが、主人公のモデルが、筒井さん本人をかなりの部分写しているように書かれているので、「あれ? 筒井さん、ふだん、こんなに激怒しながら暮らしているのかな?」と穿って見てしまうのです。 もちろん、これは創作作品であって、実話ではないわけですが、暴力シーンがあまりにも真に迫っているので、ふだんから頭の中で、この種の想像を膨らませていないと書けないのではないかと思われるのです。

  実は私、二年ほど前に、つまらん短編小説を一つ書いていたのですが、暴力シーンになると、自制が利かなくなるくらいエスカレートしてしまい、ストーリー展開を阻害するほどひどくなったので、やむなく打ち切った経験があります。 あの時は、「こんな恐ろしい事ばかり考えていたのか・・・」と自分自身に震え上がりました。 この≪ダンシング・バニティ≫に出てくる主人公の暴力性にも、その時の自分と同じ恐ろしさを感じるのです。 筒井さんは以前、「現実では出来ない事を、小説の中でやっている」と書いていましたが、たとえ実行しなくても、こういう事を普段ふつふつと考えているというだけで、相当恐ろしいのではありますまいか?

  もし、娘と姪を目当てに家に侵入して来る若僧がいたら、私もステッキでぶん殴りたいですし、孫娘を苛めるクソガキがいたら、殺しても飽き足りないくらい憎むのも疑いないです。 しかし、その種の感情は、徹底的に抑えておかなければ、どんどん憎悪の対象範囲が広がってしまって、際限がなくなるのは目に見えています。 最終的には、「他人は全員敵だ。 いいや、家族でさえ俺の人生の邪魔をしている」という境地にまで至って、路上で人を無差別に刺し殺したり、何の恨みも無い人物を駅のフォームから突き落としたりと、もはや人間でもなければ、動物ですらない、化け物としか言いようがない存在に堕してしまいます。

  何年か前にアメリカの作家で、あまりにも暴力的な内容の小説を発表してしまった為に、読者や批評家から猛烈な批判を受け、「これは作品であって、自分でこういう事をやったわけではない」という弁明をした人がいましたが、たぶん、その時の読者達も、今の私と同じような違和感を覚えていたのでしょう。 「やったわけではない」ことを承知の上でも、「やってみたい」と思った事が無ければ、真に迫った描写など出来ないわけで、その「やってみたい」と思った事があるという点だけでも、読者に恐ろしさを感じさせるのに充分だというのです。 作家が作品に暴力シーンを書きこむ場合、自分がモデルになっていると思わせるような設定は避けた方が無難という事でしょうか。

  このように、暴力的な想像がどんどん膨張していってしまう場合、精神状態が危険な領域に入り込んでいる可能性が高いと思います。 最近の無差別殺人事件の犯人がよく口にする、「誰でもいいから殺したかった」というセリフをみても分かりますが、自分以外の人間の存在価値を、すべて否定してしまっているんですな。 さて、どういう時に、そういう精神状態になるのか? 周囲と協調する事の大切さを説く時に、「人間は一人では生きていけない」とよく言いますが、この言葉は引っ繰り返すと、「生きて行くつもりがなければ、他の人間は必要ない」という事になります。 すなわち、人生に絶望し、未来に一切の希望を感じられなくなった時、人は往々にして、「他人なんぞ、皆殺しにしてしまっても構わない」という考えに陥るようなのです。

  ちなみに、想像の世界でだけなら、私もしょっちゅう、そういう考えに囚われる事があります。 なにせ、絶望ばかりしている人生なので・・・・。 失敗者の体験談になってしまいますが、やっぱり、人間というのは、恋愛して、結婚して、子供を育てて、その子供が結婚して、孫が生まれて・・・・といった、人並みの幸福ポイントを通過しながら生きて行かないと、容易且つ頻繁に、お先真っ暗な気分に取り付かれてしまうものなんですな。

  もっとも、筒井さんの場合、明らかに成功した人生だと思うので、そんな精神状態に陥る事はないような気がするんですが、人の欲望には限りがないから、もしかしたら、現状に幸福を感じていないのかも知れません。 人生の勝者か敗者かなどに関係なく、じわじわと寄る年波に追い詰められて、単に高齢から来る絶望感に打ちひしがれている可能性も否定できません。

  しっかし、これだけのボリュームとインパクトがある作品を書ける人が世を去ってしまったら、日本の文学界はもう崩壊ですな。 昔話にあるように、寿命が蝋燭の長さで決まるなら、そこいらの生きてても死んでも大差ないような、クソ小僧・キチガイ娘どもの蝋燭をもぎ取って来て、あと百年分くらい、筒井さんの蝋燭に継ぎ足してやりたいくらいです。

  ・・・・ああ、こういう発想こそが、暴力的なのだな。 いかんいかん。