2008/07/27

路上観察

  いやあ、暑い! この糞暑いのに、野球なんてやってる連中の気が知れないね。 インドア派で良かったよ。 いやいやいや、そうでもないですな、ここ一年半ばかりは、私もどちらかというとアウトドア派に片足突っ込んでいます。 2007年の正月頃から、≪路上観察≫を趣味に加えたもので、以来休みの日には、ほとんど例外なく外出して、街なかや郊外をうろつき回っているのです。

  路上観察とはなんぞや? よく言えば、考現学(現代社会を考証する(似非)学問)の一分野。 悪く言えば、路上という公けの場で、一見何の価値があるのか分からない写真を撮って回る、≪異端デバガメ趣味≫です。 なぜ、異端なのかというと、隠されている物を覗くのがデバガメですが、路上観察は、隠されていない物を対象にしているので、デバガメとしては異端になるというわけ。 もちろん、違法行為ではありません。

  始めた当初は、何を撮っていいのか皆目分からず、半日歩き回って収穫ゼロなどという事も珍しくありませんでしたが、さすがにどんな趣味でも一年半もやっていれば、そこそこ格好がついてくるというもの。 今回は、路上観察の真髄について、お話しすることとしましょう。 例によって、「路上観察なんか、わしゃ興味無い」という方は、ここでおさらば。


≪カメラ≫
  路上観察は誰でも出来ます。 ただ観察するだけなら、手ぶらで出来ます。 そのため、その気も無いのに路上観察してしまっている場合もあります。 通勤や通学の途中で、「変な看板だなあ。 どうして直さないのかなあ」などと思う事があったら、それはもう物件を発見してしまっているのです。

  友人に向かって、「うちの近くに、変な看板があってさあ・・・」と話す場合なら、それでも充分ですが、そこまでだと単なる面白ネタに過ぎません。 趣味の一分野としての≪路上観察≫の場合、物件を撮影した写真が必要になります。 嘘か本当か証明する為というより、その物件が持つ奇妙さ・異常さを、伝えたい相手の視覚に直接訴える為に、写真が必要とされるのです。

  物件の写真は、下手よりはうまい方が良いですが、うま過ぎて写真そのものが芸術の域に入ってしまうと、却って物件の面白さを損なってしまいます。 つまり、ほどほどがよいわけで、これは、写真術に興味がない人には好都合だと言えます。

  路上観察が世に生まれた1980年代後半から2000年頃までは、フィルム・カメラが使われていました。 しかし、今から始めるなら、もう断然デジカメが便利です。 というか、フィルム・カメラを路上観察に使っても、お金がかかるばかりで、何の利点も無いのです。 

  デジカメであれば、よほどチャチな物でも用は足ります。 前述したように、写真としての芸術性を追求する必要が無いからです。 ネットをやっている人は大抵デジカメを所有していると思うので、今持っているそれで充分です。 ただし、一眼デジカメや、高倍率ズーム機のような大型のカメラは不向きです。 街なかや住宅地のような所でも撮影しなければなりませんから、「どうだ、凄いカメラだろう!」というような押し出しの強いカメラは、目立ってしまって駄目なのです。 目安としては、片手で持って楽にシャッター・ボタンが押せるくらいの大きさ・軽さが望ましいです。

  画質は、300万画素相当のモードで充分です。 1000万画素で一枚撮るより、300万画素で角度を変えて3枚撮った方が、使える写真をゲットし易いです。 注意すべきはメモリーの容量でして、これはもう大きければ大きいほど良いです。 目安としては、半日なら100枚分、一日なら200枚分くらい撮れれば、まずまずといった所。 「数うちゃ当たる」というわけではありませんが、同じ場所へもう一度行くとなると、また時間と労力を割かなければなりませんから、極力失敗を減らす為に、数をうっておいた方が良いのです。

  カメラは、ポケットに直接入れるか、専用ケースに入れて腰に下げるか、もしくは肩掛けバッグに入れておくか、とにかく、すぐに出せるようにしておきます。 リュックなどに入れて背負ってしまうと、出すのに時間がかかりますから、だんだん出し入れが面倒になり、物件を見つけてもパスしてしまう事が多くなります。 また、ずっと手に持ちっ放しというのもまずいです。 街なかや住宅地で、カメラを持って歩いていると、どうしても警戒されます。 カメラは撮影する時だけさっと出してさっとしまうのがコツです。

  そうそう、写真趣味の方から入った方への注意ですが、路上観察では基本的に三脚は使いません。 田園地帯や観光地なら別に構いませんが、街なかや住宅地で三脚を据えていると、マジで近所の人が飛んできますから、ご注意あれ。 手持ちで素早く撮影できるように練習しておくと、大変役に立ちます。


≪足≫
  この場合の≪足≫とは、移動手段の事です。 前にも書いたように、路上観察は手ぶらでも出来るくらいですから、移動手段にも特別な道具は必要ありません。 しかし、効率的に物件探しをしようと思うと、やはり、いろいろと工夫をしたくなって来ます。

  まず、≪徒歩≫。 これは路上観察の基本ですな。 とにかく、路上にある物を全て見なければならないので、一定の距離を移動するのに掛ける時間が多ければ多いほど、細かい観察が可能になります。 それには徒歩が好都合というわけです。 お金が一円も掛からないのもありがたい。 脚力に自信がある方は、是非どうぞ。 でも、初心者の方にはあまり勧めません。 移動速度が遅いと、不都合な事もあるからです。 自転車で五・六回出かけて、自信がついて来てから、徒歩を試してみた方が良いと思います。

  さて、その≪自転車≫ですが、実はこれが路上観察の足としてはベストです。 観察の緻密さという点から見ると徒歩に劣るんですが、その分、短時間で広い範囲を移動できるので、物件の発見効率はそれほど落ちません。 また、自転車が徒歩より優れているのは、路上観察という目的の特殊性とも関わっています。

  路上観察は、街なかや住宅地で写真撮影をするという些か非常識な芸当をしなければならない為に、常に住民の方々から不審人物視される危険があります。 目立たないのが一番なんですが、よそ者が徒歩で近所をうろついていると、「なんだ、あいつは?」と思うのが人情というもの。 まして、観光地でも景勝地でもないのに、カメラを出して撮影を始めたりすると、いやが上にも不安さが盛り上がります。 特別気が短い人でなくても、「こんな所で何を撮ってるの?」と質問してくる場合はよくあります。 「はい、路上観察です」といって、「ああ、そうですか」と納得してくれればいいですが、世の中そんなに鷹揚な人ばかりではありません。 「おい、何撮ってるんだ!」といった強い語調で詰問してくる人は、最初から喧嘩する気で来ているので、無事に済むとは思わない方がいいでしょう。 良くて口論程度、悪ければ警察沙汰、もっと悪ければ取っ組み合いの喧嘩になります。 よしんば無事に切り抜けたとしても、一生消えない嫌な記憶が残るのは避けられず、路上観察を続ける気などすっ飛んでしまいます。 もう、声を掛けられたら、おしまいなのだと思っておいた方がよいです。

  それを避ける為に、自転車が結構役に立つのです。 住民側の立場で考えてみますと、不審な人物が写真を撮っているのを見つけたとしても、まず声を掛けるべきかどうか悩みます。 相手がどんな人間か分かりませんから、住民側だって怖いのです。 そういう状況では、路上観察者がその場に立ち止まっている時間の長さが、判断の分岐点になります。 見るからに怪しい奴でも、すぐに立ち去ってくれれば、住民側はほっと安心するものなのです。 相手が自転車に乗っていれば尚更で、「どうせ、追い掛けても逃げられるだろう」と計算し、詰問するのを躊躇します。 ここが徒歩と自転車の大きな違いで、トラブルの発生を避ける為に有効なのです。

 ちょっと、脅かしてしまいましたが、慣れて来ると、撮っていい状況とヤバい状況の区別が自然につくようになるので、そんなに毎回危険を冒すというような事はなくなります。 ちなみに、私の場合、「あ、この物件は撮影しない方がいいな」と判断して、諦める事が今でもしょっちゅうあります。

  三番目は車ですが、車はそれだけでは路上観察には使えません。 理由は簡単。 運転中によそ見していたら危ないからです。 また、物件を発見しても、やたらな所に車を停めるわけにはいきませんから、撮影が出来ません。 信号待ちの時に周囲を眺め回すくらいなら問題ありませんが、それだけを目的にわざわざ車で出かけるのだとしたら、時間が勿体ないというものです。

  ただ、車である地点まで行き、そこを基点にして近辺を歩き回るというのなら話は別で、車は有効な足になります。 私は普段、折り畳み自転車を使っているのですが、時々それを車に積んで遠くへ行き、無料で停められる駐車場に車を置いて、自転車で辺りを回るという事をします。 郊外型大型店など、駐車場にゆとりがある所なら、まず咎められるような事はありません。 もし、そういうのが後ろめたいという場合、文化センターや公園など、市町村の公共施設の駐車場を探せば、結構無料で利用できるところがあります。 路上観察は、同じ所を何度も回っても、新しい物件はそうそう見つかりませんから、だんだん遠くへ足を延ばすようになります。 そういう時、車と折り畳み自転車の組み合わせは、かなり重宝します。

  電車・バスの利用も、車同様、遠くへ行きたい時には有効です。 昨今はレンタ・サイクルがある街も多いですから、下調べをして行って、利用するのも良いと思います。 ただ、趣味というのは何でもそうですが、お金を使い始めるとキリがありませんから、ほどほどな所で留めておいた方が良いと思います。 新幹線や飛行機を使ったり、泊りがけで行くとなると、もはや趣味の域を出てしまうと見るべきでしょう。 ただで楽しめるのが路上観察のいい所なので、あまり遠くへ遠くへと行きたがるのも考えものですな。 路上観察という趣味を生み出した著名人の方々は、交通費も宿泊費も惜しみなく使い、日本全国の街を見て回っているわけですが、それは著作を売る事で経費を回収できるからこそ許される事です。 先生方は純粋な趣味でやっているわけではないので、安易に真似をしないよう、ご注意あれ。

  そういえば、私はバイクにも乗るんですが、バイクで路上観察というのは、考えた事もありませんでした。 車よりは好きな所に停め易いですが、やはりスピードが速すぎて、路上観察向けとは言えないでしょうねえ。


≪服装≫
  路上観察するのに決まった服装はありません。 強いて言うなら、なるべく目立たない格好が良いですかね。 怪しまれない為です。

  しかし、「普段、事務系の会社員をしているから、スーツ姿で・・・」などというのは没です。 スーツ姿で写真を撮っていたら、間違いなく、どこかの調査員と思われ、却って住民の不安を掻き立てます。 特に商店や事業所などは、税務署や銀行の調査員を常に警戒しているので、マジで、「どの店を調べに来たの?」などと詰問される事があります。 この場合でも、「路上観察です」という言い訳は、通用しないばかりか、却って相手を怒らせる危険性があります。 やはり、声を掛けられた時点でおしまいなのです。

  さりとて、あまりラフ過ぎるのもよくありません。 外を歩いていると、どうしても日焼けしますが、そこへ、ノースリーブのシャツだの、半ズボンだのといったラフな服装が加わると、ほぼ確実にホームレスに見られてしまいます。 ホームレスが近所をうろついていると、即、警察へ通報するという人もいますから、注意が必要です。 ただ、警察官自体は、気の短い住民ほど危険ではありません。 人間そのものを撮るとか、他人の家の中を撮影するといった、明らかな違法行為をしていなければ、「路上観察をしていました」で、結構話が通じます。 もっとも注意を受けるのは避けられませんから、そんな目に合わない方が良いのは言うまでもありません。

 「カメラを持っていて最も怪しまれないのはカメラマンだから、カメラマン・ベストを着て、カメラ・バッグを提げ、いかにもカメラマンという格好で歩いてはどうか? カメラマンならば、写真を撮るのが仕事なのだから、怪しまれないだろう」 これはねえ、アマチュア・カメラマンというカテゴリーに属する人達が現に存在しますから、別に身分詐称でもないし、違法でもないし、必ずしも的外れな考え方ではないんですが、やっぱり、その格好で住宅地を歩くのはまずいです。 詰問の為ではなく、興味を抱いて、「何の取材ですか?」と訊いて来る人が出て来ます。 そうなった時に答えられないでしょう?

 「路上探険なのだから、探険隊の服装で・・・」 などというのは馬鹿の発想でして、現実にはそんな格好して歩いてる奴ぁいませんから、調子に乗って探険帽だの、サファリ・ジャケットだの買い入れたりしないように。 だから、目立っちゃ駄目なんだって!

  夏場の話ですが、帽子は絶対に必要です。 かぶらないと、熱中症で命を落します。 これは脅しではなく、本当に起きます。 私は炎天下を6時間ほど歩き回っていて、翌日から熱を出し、猛烈な頭痛と目眩に襲われ、二日間寝たきりになった経験があります。 歩いた後、「あれ、何だか頭が痛いな」と感じたら、それは熱中症ですから、完全に痛みが消えるまで頭を冷やして寝ていなければなりません。 無理をして次の日も出掛けたりすると、悪化して手遅れになります。

  帽子は、できれば、全周に廂があるタイプが良いです。 ただし、写真を撮る時、画面にケラれが出るほど大きな廂はやめた方が良いでしょう。 今の時代は、大人が帽子をかぶる習慣が無いので、似合う帽子を探すのにてこずると思いますが、どんな帽子でも、かぶり始めてしまえば、その内似合って来るものです。

  靴ですが、徒歩での観察を主体にするのなら、少し気をつけて自分に合う物を選んだ方が、足を痛めなくて済みます。 長距離を歩く為には、靴は軽ければ軽いほど良いのですが、底が薄い靴だと、未舗装路に入った時、覿面に足を痛めるので、あまり本格的な運動靴は向きません。 逆に登山靴に近いようなゴツいトレッキング・シューズは、重過ぎ硬過ぎで、やはり足を痛めます。 あと、些細な事ですが、足の裏に穴が開いた靴下を履いて長時間歩くと、靴擦れを起こし、水脹れになってきますから、注意して下さい。 私が自転車を勧めるのは、自転車ならば徒歩の時に起こるような靴・靴下関係の問題をほとんど回避できる事が、理由の一つになっています。


≪対象≫
  路上観察に於ける≪物件≫とは何なのか? 路上を見て歩くにしても、何を探せばいいのか? これは根源的なテーマです。

  路上観察の物件について知るには、関連書籍を読み漁るのが一番ですが、ネット上にある路上観察サイト・ブログを見ているだけでも、どんな物が物件になりうるのかを自然に頭に入れる事が出来ます。 方法論について直接書いた教科書・参考書のようなものは無いと思うので、例をたくさん見て体得するしかありません。

  手を付け易いのは、やはり、≪看板・注意書き≫物件です。 とにかく、路上を歩いていて目に入る文字を全て読みます。 すると、その中に、間違っている文字、意味の通らない文章、場違いな注意など、変な物が必ず含まれています。 それらがすべて路上観察物件になり得ます。 手書きされた物に間違いが多いのは当然ですが、大量に印刷された物や、プロが携わった看板などにも、結構間違いがあります。 看板物件の良い所は、初心者でも時間さえ掛ければ、そこそこ面白い物件を見つけられる事です。 「路上観察を始めたはいいが、何度出かけても、面白い物件を一つも見つけられない」となると、やる気が失せてしまいますから、取り敢えず看板から始めるというのは無難な入門方法と言えるでしょう。

  一方、厄介なのは≪トマソン≫物件でして、「路上観察といえば、トマソン」というほど有名ですが、それでいて、トマソンを見つけるのは、相当な骨です。 まして、面白いトマソンとなると、山師になって金鉱脈でも掘り当てる方が容易なくらい発見率が低くなります。 トマソンというのは、「既に無用になってしまったのに、処分もされずに存在しているもの」の事で、上って下りるだけの≪無用階段≫や、壁の二階部分に剥き出しで設けられている≪高所ドア≫などが代表格とされています。 ≪高所ドア≫はともかく、≪無用階段≫は、マメに見て歩けばちらほら見つかるのですが、では、それが面白い物件になるかというと、ならないのです。 本家が有名である上に、多くの人が類似物件を紹介しているので、二番煎じどころか、百番煎じ、千番煎じ、いや、万番煎じくらいになってしまい、ただトマソンであるというだけでは、もはや誰も興味を示しません。 トマソンで一旗上げようと思ったら、≪ひねり≫のあるトマソンを探す必要があります。

  路上観察を広義に解釈している人達は、別段面白くない物件でも、物件の内に入れてしまう事が多いです。 たとえば、マンホールの蓋の写真を集めている人達がいますが、その人達にとっては、単にデザインがちょっと違うというだけで、コレクションの対象になります。 マンホールに興味がない人が見ると眉一つ動かせないほどつまらないのですが、あくまで趣味の世界の話なので、門外漢からどうこう言われる筋合いはありません。 自分が興味を持った物だけを集中的に見て歩けば良いので、他のカテゴリーに比べると発見率は高いです。

  これといって、カテゴリーを決めず、とにかく面白い物だけを見つけたいという場合、感覚のアンテナを最大に張り巡らせて、路上の隅々に目を配り、チェックして回る事になります。 その時、一つの目安になるのは、≪見立て≫ですかね。 たとえば、人間や動物のように見える木とか、ロボットに見える建物とか、そんなのです。 漠然と見ている風景から、違和感を感じ取ったら、そこには何かあると考えて、仔細に観察してみると良いでしょう。

  路上観察物件のように見えて、実はそうでない物があります。 それは、製作者の意図により、わざとおかしく感じるように作られた物です。 たとえば、店名がダジャレになっている看板などは、いくらもありますが、そういう故意に作られた面白さは、路上観察の対象から外されるのが普通です。 路上観察は、もともと、「製作者の意図とは関係なく、自然にそうなってしまった面白さ(超芸術と呼ばれる)」を鑑賞するのが目的で始まった活動なので、その点には拘りがあるんですな。 ただ、広義解釈派が、ダジャレ看板だけをコレクションするというのなら、これまた誰にも文句を言われる筋合いはありません。

  物件をネットに公開する場合、他の人が見つけた物とかぶってしまっても、別に問題はありません。 ネット上で交友している人と同類の物件を自分のサイトに出したからと言って、文句を言われる事はないと思います。 同じような物件はこの世にいくらでも存在するからです。 もし、文句を言われたら、言って来る方がおかしいのですから、そんな輩とは絶縁すれば良いだけの話。 ただし、言うまでもなく、他人が撮った写真をコピーして使うのは問題外です。 最低限、自分で写真を撮ってこなければ、路上観察者の内に入れません。 真似ている内に、自分で見つけられるようなりますから、焦らずに時間を掛けるのが良いと思います。

2008/07/20

マンション幻想

  ここ十数年ほど・・・・というか、バブル崩壊からこっちずっとですが、市街でも郊外でも、古い建物が壊された後、ちょっと広い土地だなと思うと、次に建てられるのは、必ずマンションです。 というか、もう基礎工事でパイルを打っているビルは、全部マンションなのです。 新規にオフィス・ビルが建てられないという事は、その地方の経済が停滞しているという証明なのですが、なぜか、マンションの需要だけは旺盛なようですな。 実に奇々怪々。 誰が買っとんねん? というか、マンションがどういう物なのか、分かってて買ってるんかいな?


  マンションの良い点は、

1. 一戸建てより、近所づきあいが少なくて済む。
2. 一戸建てより安い。
3. 台風や洪水など、特定の災害に強い。
4. 出かける時に、玄関の鍵をかけるだけで済む。
5. 家の外回りの掃除をしなくて済む。
6. 何となく都会的でかっこいい。

  といった所でしょうか。 一戸建ての欠点を嫌う人が、マンションを選んでいるのではないかと思うのです。 特に、1と2のウェイトが最も大きく、それ以外は副産物的オマケという感じがしますな。 「1と2の順番は、逆ではないのか?」と思われるかもしれませんが、いーえいえ、たぶん、これで正解だと思います。 値段がトップではないのです。

  不動産を買おうとする時、値段の問題は、言うまでもなく重要なポイントです。 一戸建ては、土地代と建物代の合計になるので、マンションの1.5倍くらいかかるイメージがあります。 しかし、それはあくまで、イメージの話。 実際には、マンションも一戸建ても、値段はピンからキリでして、マンションより安い一戸建てなど、探せばいくらでもあります。 

  不動産を買おうと企んでいる人は、毎日四六時中、新聞広告や情報誌と睨めっこしているので、金銭感覚が麻痺しています。 「あっちは、5000万円か。 こっちは5300万円だけど、一部屋多いから、こっちの方がいいな」などと、いとも簡単に天秤にかけちゃってくれます。 だけど、300万っつったら、かなり収入がある人でも、貯めるのに一年以上かかりますぜ。 そんなに軽々と、未来の一年を売りに出しちゃっていいんですかい、旦那?

  家を欲しがる年代というのがありまして、30代後半くらいで、結婚して子供が生まれて、「子供は、持ち家で育てたやりたいな」と夢想する夫婦あたりが、不動産広告の愛読者になります。 「借家だと、子供が友達を招びにくいんじゃないだろうか?」、「プライバシー尊重の時代だから、一人一部屋用意してやりたいな」などと、すべて子供中心で考えるので、自分の資金力以上の物件を選び易い危険な年代なのです。

  この人達、当然ローンを組むつもりで計画しているのですが、なにせ、「子供の為」で凝り固まって、明るい未来のイメージしか見えなくなっているので、住宅ローンの恐ろしさが全く分かっていません。 「子供が幸せに暮らせるなら、300万円くらい増えたって、どうってことないよ。 俺が頑張ればいい事さ」なんて、軽薄なセリフがどれだけ交わされていることか。 すぐそこに取立屋が来ていて、「300万返せ!」と凄んでいれば絶対に考えもしない借金を、ローンだと思うと切迫感が無いので、何のためらいもなくサインするんですな。 つまりね、この人達にとって、予算なんてあってないようなものなんですよ。

 「本当にお金が無いんだ。 格安物件のマンションしか買えないんだ」と力説する方に言いたいのですが、そんなに貧しいのなら、貧乏人として確固たる自覚を持ち、不動産を買おうなどという大それた望みを抱くのはおやめなさいな。 一生、借家で暮らす人だってたくさんいるんだから。 ≪分相応≫という言葉は、身分差別上は死滅しましたが、階級差別上はギンギンに生きています。 自分の分を知り、それを弁えた生活レベルを守る事が、幸福の持続に繋がるのです。


  さて、ローンを組めば、分不相応な値段の一戸建てでも買えるのに、なぜ、マンションに人気があるのか? それは、やはり、「一戸建てより気楽だから」なんでしょうな。 少なくとも、そういうイメージを持っている人が多いわけです。 だけどねえ、それは錯覚だと思うのですよ。 いや、錯覚に決まってます。 一つずつ崩していきましょうか。


【一戸建てより、近所づきあいが少なくて済む】
  嘘です。 マンションには、管理組合というものがあり、住民になれば、否が応でもそれに加わらなければなりません。 一戸建てに於ける、町内会の≪組≫と同じです。 組合長や役員の番が回ってくれば、勤め先でも仕事、家に帰っても仕事という地獄の日々になります。 何でも、ワンルーム・マンションという奴は、建てて数年もしない内に、建物全体がゴミ屋敷のような状態になってしまうらしいですが、あれは、どの家も一人暮らしで、組合活動をやろうとしない為に、荒廃を抑える事が出来ないのだと思われます。

  ちなみに、マンションには管理人というのがいますが、ほとんど何もせず、日がな一日テレビを見て暮らしているらしいです。 「共用部分の掃除くらいしろ」というと、「私が管理人室を離れたら、誰か用事がある人が訪ねてきた時、困るでしょ」と嘯くとか。 頭に来て、管理人をクビにする組合もあるらしいですが、そんな事をすれば、組合の仕事がますます増えるのであって、自分で自分の首を絞めているようなものです。


【台風や洪水など、特定の災害に強い】
  台風と洪水には強いですが、火事や地震にはそんなに強くありません。 火事は分かり易いですな。 一軒で火が出れば、同じ建物ですから、延焼によるとばっちりは避けられません。 ただ、マンションは、一戸建てよりも、火災報知器の設置率が高いので、実際には建物が全焼するような大火災は起き難いです。

  一方、地震ですが、ある程度の震度までは、一戸建てより強いです。 しかし、阪神大震災では、新築間もないマンションが、一階部分の腰砕けで潰れる例が出ました。 街が廃墟と化すほどの大地震になると、鉄骨鉄筋コンクリートのビルは、木造軸組み住宅の次くらいに弱いんですな。 つまり、2×4はもちろん、プレハブ住宅にも劣るという事です。 特に、地階や一階を駐車場にしているマンションは要注意です。 基底になる階が、柱だけで壁がほとんど無いのでは、どんなに鉄骨を太くしても、上に載っている多数の階を支えられるはずが無いではありませんか。 そんな設計でも、構造計算でOKが出てしまうのだから、耐震設計という奴が如何にいい加減かが分かろうというものです。

  自分の持分が無事でも、下の階が潰れたのでは、建物全体を建て直さざるを得ません。 これが大ごとなんだわ。 たとえば、5000万円出して買ったマンションが、大地震に見舞われて倒壊し、建て直す以外なくなったとします。 マンションを販売した会社が建て直してくれるのか? 馬鹿言っちゃいけません。 分譲マンションは、住民が買ったものなのですから、建て直す主体は当然、住民です。 同じ建物を同じ数の住民で建て直そうと思ったら、また5000万円ずつ払わなければなりません。

  最初の購入から大地震発生までの時間が30年くらいあれば、まだ納得も行きますが、大地震は一年後に来るかも知れず、買ったその日に来るかもしれません。 それでも、やはり、5000万円は追加支出しなければならないのです。 一戸建てと違って、2×4やプレハブを建てて地震に備えるという事もできませんし、地震の後、「うちは、そんなお金ないから、敷地の隅に小屋を建てて暮らします」というわけにも行きません。 倒壊したマンションの建物部分の資産価値は当然ゼロ、いや解体費用がかかるのでマイナスですし、僅かな土地分の権利だけ残っていても、切り売りなど出来ませんから、黙って5000万円出すか、権利を放棄するかのどちらかしか選べません。 まあ、マンションで一番怖いのは、このケースでしょうな。


【出かける時に、玄関の鍵をかけるだけで済む】
  それはそうなんですが、一戸建てと比較して、外出が気楽かというと、そんな事は無いと思います。 一戸建ての場合、家中を回って戸締りをするわけですが、どんなにゆっくりやっても、5分もあれば終わります。 それに対し、マンションは、鍵こそ玄関ドアだけですが、建物から出るのに時間がかかります。 廊下を歩き、エレベーターで一階に下り、更に駐車場や駐輪場まで歩き、ぐるぐる回って、漸く敷地から出るのに、5分以内というマンションは稀でしょう。 駐車場が立体の機械式だったりしたら、もう出かける気力も失せます。

  防犯の面からも、マンションが一戸建てより安全という事はありません。 ピッキング犯に代表されるように、マンションを専門に狙う泥棒は実にたくさんいますが、なぜ、マンションが狙い易いかというと、共用部分に人目が少ないのもさる事ながら、どの部屋も同じタイプの錠をつけている為に、一つの方法で、何軒も荒らし回るのに都合がいいからです。 一戸建てに入る泥棒が、≪手作り≫ならば、マンションに入る泥棒は≪流れ作業の大量生産≫なんですな。 錠を取り替えるぐらいでは生ぬるいのであって、ドアごと交換し、鉄格子つきの二重ドアにするくらいの覚悟が入ります。 もっとも、そんな改造をすると、ますます出入りに時間がかかるようになりますが。


【家の外回りの掃除をしなくて済む】
  これは本当で、真夏に汗ダクダクで草むしりをしている一戸建て住まいの人達は羨ましいでしょう。 しかし、その代わり、庭いじりもできません。 「植物に興味なんて無いから、そんな事どうでもいい」と思うのは、若気の至りでして、 歳を取って来ると、覿面にやる事が無くなり、「ちょっと、朝顔でも咲かせてみたい」と思うようになるのです。 その点、マンション住まいだと、もうどうにもなりません。 庭がある家だと、季節ごとに何かしら花が咲くので、切ってきて花瓶に生ければ、簡単に部屋の中が潤いますが、マンションでは、花一輪手に入れるのにも、そのつど花屋で購入しなければなりません。 何だか、砂漠のようだね。 いや、そう言っちゃあ、砂漠に失礼か。 マンションの部屋の中ほど、砂漠は不毛じゃないですけんのう。


【何となく都会的でかっこいい】
  そういう発想が田舎者の証明だというのよ。 しかも、このイメージは嘘です。 今日日マンションは都会、田舎に関係なく、どこにでもいくらでもあるのであって、特段、都会的などという事は全くありません。 コンビニと同じですよ。 コンビニは都会にも、地の果てにもありますが、私なんぞは、ツーリング先でしかコンビニを利用しないせいか、地の果てイメージの方が強く、都会でコンビニを見ると、「どうして、こんな所に、コンビニが?」とこめかみに汗が流れる有様。 ちなみに、私が、マンションに住んでいる人達に対して漠然と抱いているイメージは、≪ものぐさ≫とか、≪合理主義≫とか、≪他人嫌い≫とか、≪機械的生活≫とか、混然としたもので、≪マンション=かっこいい≫という観念は、頭の隅に浮かんだ事もありません。

  実際の所、マンション住まいの方々は、周囲の一戸建ての住民から、ご近所扱いなんて受けた事が無いでしょう? まあ、引っ越してきても、マンションの外へ挨拶へ行く人なんかいないし、町内会の組も違うから、つきあいも出来ないわけで、仲間扱いされないのは当然なんですがね。 ご近所扱いどころか、日照問題や、夜間の駐車場への出入り問題、ゴミ出し問題など、軋轢ガタピシで、激怒寸前まで迷惑がられていて、人間扱いすらされていないというのが、現実ではないでしょうか。 ぶっちゃけ、「早く死ね」と思われているわけですよ。 「都会的でかっこいい」? おほほほほ! 後生がいい思い込みだこと。


  さて、マンションの最大の問題点は何かというと、やはり建て替えではないかと思います。 大地震が来なくても、建物には寿命がありますから、やはりいつかは建て替えをしなければなりません。 マメに修繕をしていても、50年以上は持ちませんから、30代後半で購入したとしたら、確実に一度は建て替えがあるわけですな。 その時には、購入したときと同じくらいの金額がかかるわけです。 80代後半といえば、確実に年金生活に入っているわけですが、5000万円も貯金があるんですかねえ? これが一戸建てなら、修理をし続ければ、どんなボロ家でも住み続ける事が出来ますが、マンションでは、管理組合が建て替えを決めたが最後、大地震の時と同様、「金を出すか、さもなくば出て行くか」の選択を迫られる事になります。 そんな、よぼよぼの年寄りがどこへ出て行くというのよ?

  建て替えの危機を免れたとしても、年金暮らしの老人では、管理費や修繕積立金の支払いが苦しくなってくるのは、充分予測されます。 安アパートと同じくらいの金額を毎月払わなければならないわけですが、自分の持ち家なのに、お金を払い続けるというのは、何だか奇妙な話じゃありませんか。 それでいて、固定資産税はやはりかかってくるわけで、お金はいくらあっても足りません。 マンションが一戸建てより安いというのは、完全な幻想なんですな。 結局、生活が成り立たなくなって、安アパートに引っ越して、惨めな死を迎える羽目になるんじゃないでしょうか。 子供の支援無しで、マンションで人生を全うできるケースなど、稀なのではないかと思います。

2008/07/13

全知全能

  突然思い出しましたが、私的宗教観の第三部を書かないままでいましたな。 ちなみに、第一部が≪神社の神様≫、第二部が≪出家とそのダシ≫だったわけですが、最後の全知全能の唯一神についても書いておかなければ、バランスが取れますまい。

  あくまで、個人にとっての話ですが、神や仏など、絶対的な存在がいるかいないかは、重大な問題だと思います。 科学的立場に身を置いて、「んなもんいるか、ボケ!」と言ってしまえば、大変サバサバしますが、人間弱いもので、病気や怪我で激痛に襲われたりすると、自然と、「神様助けて」という言葉が口の端からこぼれ出るものです。

  多神教の神は、現代ではあまり信じられていません。 多神教の神には、それぞれ得意とする分野があり、たとえば、大黒天を祀ってある神社で、「メタボが治りますように」などとお願いしても、「嫌味か、この罰当たりが! おととい来やがれ!」と、米俵を投げつけられるのがオチでしょう。 同じく、恵比寿さまへ詣でて、「メタボが治りますように」とお願いしても、「どの口でそういう嫌味を抜かす! この口か?」と、唇に釣り針を引っ掛けられるのがオチ。 願いを聞いて欲しかったら、ご利益それぞれに担当の神様を選ばなければなりません。

  だけどねえ、初詣なんかで近所の神社に行く時、そこにどんな神様が祀ってあるかなんて、気にしてる人ほとんどいないでしょう? 人によっては、お門違いな願いを毎年繰り返しているケースもあると思いますが、誰も気にしない。 つまり、バチが当たるなんて全く思っていないわけですよ。 それはね、とりも直さず、その神を信じていないという事の証明なんですな。 信じていないから、神様を怒らせる事をちっとも怖がらないのです。 八幡さまに行って、「世界が平和でありますように」なんて願ってる人がようけおると思いますが、アホけっつーのよ。 戦争の神様やがな。

  かくのごとく、多神教の信仰心は相当いい加減なわけですが、一神教の場合、人と神との関係はずっと厳格になります。 なぜなら、相手は、≪全知全能≫だからです。 「あらゆる事を知っていて、何でもできる」わけですな。 悪い事をすれば、すべて筒抜け。 神罰を逃れようとしても、相手には出来ない事はないわけですから、無駄な抵抗に終ります。 また唯一神ですから、多神教のように、「この神様は都合が悪いから、他の神様に乗り換えよう」というわけにはいきません。 こうなると、神との関係も真剣に考えざるを得ないというわけです。

  多神教にも、≪最高神≫というのがいて、「神様の中で一番偉いんだから、一神教の神様と同じようなもんだろう」と思いがちですが、そんな事はないのであって、多神教では最高神と言えど、能力に限界があります。 天照大神にせよ、ゼウスにせよ、単なる神話の登場人物に過ぎず、時に呆れるような醜態も曝し、全知全能には似ても似つきません。

  全知全能の唯一神について書かれた文章を読むと、キリスト教やイスラム教の神の関係を説明して、それでおしまいにしている物が圧倒的に多いですが、全知全能の唯一神と、これら特定の宗教には、直接の関係はありません。 極端に言えば、今あなたが、ふと思いついて、全知全能の唯一神を想定し、それを信じ始めたとしても、それはキリスト教やイスラム教と価値において何ら変わる所の無い、独自の一神教という事になります。 むしろ、預言者を間に挟んでいないだけ、神とダイレクトに繋がっているわけで、より純粋度が高いともいえる。

  余談ですが、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、本来は同じ神だ」という薀蓄を、いかにも訳知り顔に話す人がいて、私はそれを聞かされる度に、「またか~・・・」と、首筋が痒くなるのですが、重箱の隅を突付かせてもらえば、その説明は正確ではありません。 三教の神を同じだと思っているのは、イスラム教徒だけです。 キリスト教徒は、「ユダヤ教とキリスト教の神は同じだが、イスラム教の神なんか知らん」と思っていますし、ユダヤ教徒は、「神というのはユダヤの神がいるだけで、キリスト教やイスラム教の神なんか知らん」と思っています。 後から出て来た宗教を、前からあった宗教が認めないのは当然ですな。 この事が分かっていないと、アラブやヨーロッパで、宗教に関わる戦争が絶えない理由が理解できますまい。

  全知全能の唯一神を更に突き詰めた、≪汎神論≫という考え方があります。 「宇宙全体が神である」というか、「宇宙という存在全体を、神という名で呼ぼう」という考え。 ここまで来ると、個別の宗教から脱却する事が出来るので、無宗教な日本人には、むしろ受け入れ易いかもしれません。 ただし、汎神論を取ってしまうと、自分も宇宙の中に含まれますから、自分自身が神の一部だという事になってしまい、「神様にお願い」するという行為が自家撞着になってしまいます。 また、「この世界に起こる出来事は、予めすべて決まっている」という、≪運命論≫にも近づく為、「お願い」がますます無意味になってきます。

  ≪汎神論≫が、いかに分かり易いとはいえ、「お願い」が出来ないのでは、神様を想定する意味がありません。 ここは、少しバックして、「神は宇宙とは別に存在し、宇宙で起こる事に対し、全知全能である」という事にしておきましょう。

  さて、そういう、全知全能の唯一神を心の中に想定するとして、果たして、本当に信じて良いものか、常に悩み続ける事になります。 必死に神の名を唱えて、「お願い」を繰り返したとして、実際にそれが叶うかというと、大いに疑問。 というか、叶うわけないような気がするのです。 よしんば、願った通りの結果になったとしても、偶然たまたま折り良く、そうなっただけとも考えられるわけで、神様の信用度というのは、どこまで行っても微妙な域を出ないんですな。 まして、願いが叶わなかった場合は、もう神なんて全然信用できなくなるわけで、「馬鹿馬鹿しい。 祈って損した」と、非科学的な行動を取った自分に腹が立つ始末。

  ちなみに、イスラム教徒は、願いが叶わなかった場合、「自分の祈り方が足りなかったのだ」と考えるそうです。 さすが大宗教だけあって、細かい所までよく設定してある。 「それじゃあ、物心ついてから死ぬまで、一瞬の隙もなく祈り続けていたら、当然願いは全て叶うんだろうな」などと、ひねくれてみたくなりますが、ご安心あれ、願いを考える間は祈っていないのだから、隙は必ずあります。 それより何より、常識的に考えて、そんなに祈ってばかりいる人間は、この世にいません。 ふふふ、大宗教はとことんうまく出来てるんですよ。

  しかし、私はイスラム教徒ではないので、やはり、素朴な葛藤から逃れられません。 果たして、神はいるのかどうか? 「神なんか、いなくたっていいじゃないか」と思う人も多かろうと思いますが、神がいないとなると困る事もチラホラあるのです。 たとえば、車で道路を走っている時、荒っぽい運転をする車を目にしたとします。 急な車線変更をする、前の車を煽り立てる、信号無視など屁の河童、ブレーキ・ランプを白に変えていてブレーキだかバックだか分からない、違法を承知でケータイで喋りながら運転する、窓からタバコの吸殻を捨てる、ついでにタバコの箱も捨てる、ご丁寧に包装フィルムまで捨てる。 そういう奴を見た時、「この馬鹿が。 とっとと死ね」と、誰でも願うと思います。 そう、願うのです。 一体誰に? そりゃ、神様でしょう。 ほーれ見た事か、神様が必要じゃありませんか!

  なぜ、神様にそんな事を願うのか? 別に私的欲望で他人を呪い殺したいから、手伝ってくれというわけではありません。 「自分は正しい生き方をしているのに、一方で、間違った生き方をして悪びれもしない人間がいる。 こんな不正が許されていいはずがない。 悪人には、当然、神罰が下ってしかるべきだ」と考えるからです。 人間社会には法律というシステムがありますが、あれは穴だらけの網みたいなものでして、法律では取り締まれない悪人はウジャラコうじゃらこいます。 そういう悪の処断を神様にお願いしたいわけです。

  あくまで私の場合ですが、私的欲望で神様を引っ張り出すことは、ほとんどありません。 たとえば、「宝くじが当たりますように」といったお願いは、全くしません。 そんな事を神に願ったら、逆に自分に罰が当たるような気がするからです。 「悪い目に遭わないように」とは願っても、「良い事がありますように」とは祈らないのです。 ただし、これには、確実に個人差があると思います。 私の場合、神への期待度が低く、多くを望まないように自制をかけているからかもしれません。 期待度が低いという事は、必ずしも信用度が低いというわけではなく、信用しているからこそ図々しいお願いはしないのだという見方も出来ますが、私の場合、やはりあまり信用していないから、期待もしないのだという感じがします。

  あまり信用しすぎて、人と話している時にまで、「神様がさあ・・・」などといった言い回しが漏れるようになると、それはそれで、人間関係上問題がありますし。 ちなみに、精神科医に言わせると、「神様にお願いしている」と言っている内は正常だけど、「神様の言葉が聞こえる」と言い出すと、やばいらしいです。 特に、現代日本社会では、神仏の存在は、公的な場では否定しておいた方が無難ですな。 「神様が見てるよ」とか、「バチが当たる」とか、「閻魔様に舌を抜かれる」とか、そういう事を真顔で言うと、「あれっ? この人、本気でそんな事信じてるの? ちょっとやばい人?」と思われてしまいます。 口には出さなくても、腹の底でそう思われています。

  私もねえ、何の問題も起きずに、平穏な日々を送っている時には、「神様なんて、いるわけない」と思っているんですよ。 一応、科学的思考法を習いましたから。 神様が入用になるのは、困った時だけなんですな。 それらの困り事のほとんどは、神様に祈っても解決しないわけですが、それでもいいんです。 つらい時に、心の中で縋る対象があるというだけで、精神状態を正常に維持するのに、大変有効なのです。 大抵の困り事は、時間の経過が解決してくれるので、その内危機を脱して、「ああ、楽になりました。 神様ありがとうございました」で、三本締めのシャンしゃんシャンという事になるのです。


  まあ、私的・便宜的にはそれでいいとして、実際の所、全知全能の神というのは、いるんですかねえ? 少なくとも、人格神としては、想像の限界を超えますな。 全能どころか、全知すらありえないです。 人間なんて、自分の体ですら、知らない事は無数にあるでしょう? 自分の髪の毛が何本あるか、知ってます? それを、全知全能の神は、全宇宙に存在する全ての物事について、細部に至るまで、その全てを知っているというのですよ。 七人の相手と同時に話をする聖徳太子どころの話ではないのであって、もはやバケモノですな。 人格神ではなく、機械神なら、ありえるかな? コンピューターの情報システムを無限に拡大していけば、理論的には全知に近づけそうです。

  ただし、全能は、そこから更に遥けく遠いような気がしますねえ。 何でも出来なきゃならならんのよ。 そりゃ、無理でしょう。 また、たとえ出来ても、やってくれないのでは意味がありません。 よく、一神教の信者がひどい目に遭うと、「神が試練を与えているのだ」と言いますが、本当に試練なんだか、助ける能力が無いから助けてくれないのか、どちらとも決められますまい。 もし、全知全能なら、全宇宙のあらゆる事をうまく処理して、何の問題も起きないようにしてくれそうなものですが、現実の世界は、その正反対の状態にあります。 もしかしたら、全知全能だけど、何もする気はないのかもしれません。 何だか、ふざけた野郎だという気がして来ますな。 何もしてくれないのなら、全知全能など何のありがたみもない事です。

2008/07/06

高嶺の第一作

  ≪源氏物語≫の現代語訳を、一ヵ月半かかって、ようやく読み終わりました。 講談社文庫版で、今泉忠義という学者が訳したもの。 いやはや、長いとは承知していましたが、本当に長い。 かれこれ20年近く前に、原文で、≪須磨≫まで読んだ事があったんですが、須磨までなんて、全体の四分の一程度だったんですな。 あまり長いので、最初の方を忘れてしまいました。 全帖に亘って、明細な記憶を残す為には、永遠の再読を続けなければならないのかもしれません。 金門橋のペンキ塗りかいな。

  講談社文庫版ですが、最寄の図書館には新旧の二種類が置いてありました。 旧版は細分されていて全20冊、新版は7冊ですが、一冊のページ数が、500~600くらいあります。 新版の第一巻を他の人が借りていたので、やむなく旧版の方から借りて、例の如く、仕事の合間に、チマチマと読んで行きました。 始業前、10時休憩、昼休み、3時休憩、5時休憩、各10分ずつで、10分では10ページくらいしか読めませんから、一日あたり50ページ前後の進捗となります。 思い出すだに、気が遠くなる。 途中から、図書館に新版の第一巻が戻って来たんですが、第二巻以降を借りる様子が見られないので、しめしめと新版の方に乗り換えました。 たぶん、その人、第一巻を読んでいる内に、あまりの長さに音を上げてしまったんでしょう。 いや、分かるぞ、その気持ちは。


  感想を一言で言えば、≪傑作≫です。 「世界最古の長編小説としては、」という限定を付けなくても、≪傑作≫だと思います。 私、あまり自分の国の産物は誉めたくないんですが、本当に傑作なのだから、もう誉める以外に態度の取りようがないですな。 ついでに言えば、≪源氏物語≫は傑作だけど、それ以降、日本でこの作品を越える長編小説は出現していないと思います。 長編小説第一作が、あまりにも高いレベルだった為に、それを超えられなくなってしまったのでしょう。 ≪エヴァンゲリオン≫の後、他のSFアニメがパクリばかりになってしまったのよりも尚極端で、パクリすら出来ないほど、落差が大きかったのです。

  とにかく長いので、現代語訳であっても、読める人は限られて来ると思います。 なるほど、高校で、≪桐壺≫の冒頭しか教えないわけだよ。 「内容が学校教材として不適切」とか何とか言う前に、読みきれる学生がいねーっつーの。 「読みきったら偉い!」と薦めるのさえ憚られます。 貴重な青春時代を、長編小説なんぞに費やしたのでは惜しい。 下手すりゃ、三ヶ月くらいかかってしまうわけですが、高校時代の三ヶ月は勿体ないですわ。 もっとも、一度読んでおけば、少なくとも、≪源氏物語≫に関しては、その後の人生で、相当大きな口が叩けますけど。 しかし、厄介なのは長さだけで、現代語訳に限って言えば、難しい文章というわけではないので、時間と根気さえあれば、誰でも読めます。

  内容に関しては、これから読む人もいると思うので、細かく書きません。 推理小説のような、ガチガチの結構が組まれているわけではないので、予めあらすじを知っていても別段問題は無いのですが、あらすじを知っても意味がない作品なのです。 古典小説とは思えないほど、心理描写がきめ細かいので、まずそこが読みどころ。 千年前の人の考えが、まるで自分の事のように伝わってくるのは、驚きの一語です。 次に、王朝絵巻なので、その華麗な雰囲気に酔うのが、もう一つの楽しみどころ。 あらすじなんか、三の次、四の次なんですよ。 特に、源氏が中心の序盤・中盤は、その傾向が強いです。 薫が中心になる、≪宇治十帖≫は、少し雰囲気が変わっていて、いわゆる物語っぽくなるので、あらすじの妙味が出てきますが。

  大雑把に言えば、光源氏を筆頭に、夕霧、柏木、薫、匂宮といった、顔良し、姿良し、頭良し、香り良し、生まれ良し、育ち良しと、全拍子揃った貴公子達が、女をくどく話です。 とにかく、くどく場面はくどくどくどくど、くどいくらいに繰り返されます。 なんで、そんなに繰り返すのかというと、ヒット率が低いからでして、実に半分以上のケースで、つっぱねられています。 光源氏というと、「希代の色男で、この世の女はすべて、いとも容易に靡く」かのようなイメージがありますが、実際には、ふられまくっているんですな。 しまいにゃ、女房を寝取られて、他の男の子供を認知させられる羽目に陥るという悲惨さ。 とはいえ、この滑稽なスコアのおかげで、光源氏のキャラクターは相当救われています。 男の目から見ても、嫌な奴という感じがしないのです。 主人公の性格設定一つ見ても、作者の力量が分かろうというものです。

  夕霧や薫は、どちらかというと不器用な男で、涙ぐましい努力をするのに、とんと報われません。 外見がいいのに、思うように女性に近づけないというキャラは大変好ましい。 一方、一人どうにも好きになれないのが、匂宮でして、親友の愛人を寝取っておきながら、「こんなにいい女を俺に隠していた」といって、その親友を逆恨みするという好かんタコ野郎なのです。 帝の子という立場を利用して、いい女と見れば片っ端から言い寄り、言う事を聞かなければ強姦してでも自分のものにするという、唾棄すべき男。 もはや、≪チンチン・オバケ≫としか形容のしようがありません。 だけど、≪とはずがたり≫などを読むと、こういう人物は実際にいたようですな。 政治に直接タッチしていない皇族は、やる事がないので、学問・技芸に耽るか、女の尻を追い掛け回す以外に生きる目的が無かったらしいのです。

  光源氏の話は、一応彼が他界するまで書かれていますが、≪宇治十帖≫の方は、尻切れで終っています。 あまりにも不自然な切れ方なので、本来は続きがあったのが伝わらなかったか、続きを書く予定でいたのが、何らかの理由で書かれなかったのかのどちらかでしょう。 続きがあれば、たぶん、全60帖くらいまで伸びたんじゃないかと思います。 作者の慎重な筆使いから見て、そんなに急転直下に話を終らせられたとは思えませんから。 紫式部という人、平井和正さんと同じで、話を引き伸ばす分には、いくらでも引き伸ばせるタイプの作家だったのでしょう。

  光源氏の他界を暗示していると言われる≪雲隠≫の帖は、題名だけで中身の文章が欠けているのですが、これも、心理描写に無類のマメさを発揮しているこの作者にしては、極端な洒落っ気のような気がします。 真面目な性格の作家ってねえ、こういう風に、読者に肩透かしをくれるような遊びはしない、いや、出来ないものなんですよ。 たぶん、これも、元は内容があったものが、何らかの理由で、伝わらなかったのでしょう。 ≪雲隠≫の中身を想像するのはそんなに難しくありません。 おそらく、淡々と源氏の最期の様子を書き綴ってあったと思いますよ。

  ≪紅楼夢≫もそうですが、良い長編小説というのは、細部を丁寧に書き込んである事が必須条件です。 そういう折り目正しい文章が書ける作家は、ストーリーの破綻も嫌いで、セオリー通りの、おとなしい筋立ての話を書くものです。 ところが、読者の中には、そういう真面目さが気に食わないという者が必ずいます。 「芸術は爆発だ! どうして、もっと劇的な展開にしないのだ! よーし、私が書き直してやる!」 とまあ、そういう連中が、うぞろうぞろ出て来るわけですよ。 昔の事ですから、手で書き写して行く内に、ストーリーが異なる≪異本≫がいろいろ現れて、作者が死んでしまうと、もはやどれが本物か分からなくなり、結局、共通している部分だけが残り、世に伝えられたわけですな。

 「≪宇治十帖≫自体が、別人の書いたものなのではないのか?」という説がありますが、読んでみると、確かに雰囲気が違うので、その疑念は分かるような気がします。 ただし、それは、ストーリー展開に限って言えばの話です。 表現の仕方に着目すれば、別人の筆とは到底思えません。 もし、別人だとしたら、紫式部と同時代に天才的な作家が、もう一人いた事になってしまいますな。 当時の他の作家の作品が、比較するのも憚られるほど低次元である事を考えれば、その可能性は低いと見做さざるを得ません。


  今回、現代語訳ながら、一通り読んでみて、よーく分かりました。 ≪源氏物語≫は、日本文学を代表する作品と断言して差し支えないと思います。 それ以前はもちろん、それ以後も、これを超える作品は見当たらないからです。 世界レベルではどうかというと、やはり、トップ・クラスに入れていいと思います。 ≪金瓶梅≫、≪紅楼夢≫など、中国文学の精華と並べても見劣りしませんし、フランス文学やロシア文学と比較しても、人間の本質を描いている点で、充分肩を並べられると思います。 とにかく、世界最古のくせに、心理描写が現代的なのは、圧倒的な強味だよねえ。 

  ただし、この種の高い評価は、通して読んだ人間だけが、口に出来るものです。 読んでもいないくせに、「日本には、≪源氏物語≫があります」などと自慢するのは、恥をかくだけなので、厳に慎みましょう。 質問されて、夕霧と夕顔の区別がつかなかったりしたら、困るでしょ?