2009/03/29

コーヒー断ち

  ≪仕事中にヘッドホンで音楽を聴く計画≫ですが、二週間、何も買わずに粘っていたら、すっかりその気が失せ、携帯CDプレーヤーも、メモリー・プレーヤーも、内臓ドライブも、何一つ欲しくなくなりました。 どうして、あんなに欲しがっていたのか、今ではさっばり分かりません。 誰が欲しがるの、そんなもの? あはははは!

  欲しい時には、どんなに理屈を捏ねて、必要無い理由を並べ挙げても、欲しい気持ちを抑え込めないものですが、一旦、欲求の峠を越えてしまうと、嘘のように興味が無くなります。 もはや、自分を説得する必要など無し。 逆に、どんなに理屈を捏ねて、必要な理由を並べ挙げても、欲しい気持ちが蘇ってきません。 そればかりか、金をやるからと言って頼まれても買う気になりません。 欲しくない物は、高価な品だろうが、新品だろうが、ただのガラクタ、すなわち、ゴミだからです。 なんでしょうねえ、この心理の急激な変化は。


  ところで、今年になってから、私の生活に劇的な変化がありました。 インスタント・コーヒーを飲まなくなったのです。 私は中学生の頃からずっと、インスタント・コーヒーの愛飲者でした。 学生時代は、毎日最低一杯は飲んでいましたし、勤め人になってからは、平日こそ眠れなくなるのを避けて飲まなくなったものの、その分、土日に集中して飲むようになり、一日に五杯くらい呷り倒していました。 基本的に、自室でワープロやパソコンに向かう時には、必ず、インスタント・コーヒーを作ってから始めていたので、多い時には、一日八杯くらい飲んでいたのではないかと思います。

  さりとて、カフェイン中毒というわけではなく、紅茶はちっとも飲みたくないのです。 薄すぎて、飲んだ気がしないんですな。 インスタント・ココアというのがありますが、あれも普通に作ると薄すぎて駄目。 さりとて、コーヒーと同じくらい濃いココアを作ると、過飽和してしまって、底がドロドロになってしまいます。 ホット・ミルクなら、コーヒーよりも濃いですが、味が素直すぎて、満足できませんでした。

  食べ物・飲み物全般に、甘い物が好きなので、単に糖分を欲しがっているだけなのかとも疑いましたが、紅茶やホット・ミルクに、コーヒーと同じくらい砂糖を入れても、同じ満足度は得られません。 うーむ、厄介な嗜好だ。 そんなに、インスタント・コーヒーが好きなのかい?

  ああ、そうそう、コーヒー好きといっても、私はドリップなど、一度もやった事がありませんし、喫茶店でコーヒーを飲んだ事も数えるほどしかありません。 ドリップしたコーヒーというのは、私には酸っぱすぎて、飲めないのです。 味が違うというより、はっきり言って、不味い。 読み方を間違えないように、仮名で書けば、ま・ず・い! より発音に正確に書けば、マ・ヅ・イ!

  ブルマンだの、キリマンジェロだのと言う以前に、インスタントとの味の違いが大き過ぎます。 そういえば、ドリップ用とインスタント用では、豆自体が違うという話を聞いたことがありますな。 インスタント用は、形が崩れている、クズ豆を使っているのだとか。 そっちの方がうまいじゃん。 いっそ、みんな崩してしまえば良いのに。

  そういえば、缶コーヒーの味にも、バラツキが大きいですね。 もちろん、ミルク分が多い方が私好みです。 ブラックこそ、金出して飲む人の気が知れませんが、糖分がある程度入っているものなら、大抵は口に合います。 つまり、缶コーヒーの基本的な味は、インスタントに近いという事なんでしょう。 缶コーヒーで、理解できないのは、味よりも量ですな。 200㏄以下の缶に、よく120円も出しますねえ。 それっぽっちなら、何もコーヒーを飲まなくても、砂糖水でいいんじゃないの? 舌の上を通り過ぎる時間が短すぎて、味わうゆとりも出ますまい。

  ちなみに、コーヒー以上に金にうるさい私は、自販機の飲料が120円になってから、ほとんど買わなくなってしまいましたが、100円だった頃には、缶コーヒーよりも、缶ココアを好んでいました。 量が多かった事もありますが、濃度がインスタント・コーヒーに近かったからです。 そうそう、同じ理由で、ミルク・ティーもよく飲みました。 200㏄以下の缶コーヒーは、自慢じゃないけど、一度も買った事がありません。 私には、あの商品がリーズナブルとは、どうしても思えないのです。 「大きい缶だと、飲みきれないからさあ」ですと? なーにを生意気な事を! 大人ぶってカッコつけてんじゃないよ。 缶飲料の量が飲めないなんていうのは、大人というより、年寄りの証拠だぜ。

  ちなみに、インスタント・コーヒーの銘柄には、まったく拘っていませんでした。 ネスレでも、味の素でも、みな同じ味にしか感じません。 開発者の皆様方には申し訳ないですが、銘柄による味の違いは、ごくごく些細なもので、インスタントとドリップの差に比べたら、ナノ単位のレベルだと思います。

  粉ミルクに至っては、ブランドなど、全く不要な気がせんでもなし。 クリープでも、ブライトでも、まるっきり同じでしょう。 「私は、クリープでないと駄目なの」なんて人がいたら、目隠しテストにかけて、味の違いを言い当てられるかどうか、試してみるのが宜しい。 へへん、分かるものかね! 「あら、そうだったの? 間違えちゃったわ、おほほほほ!」 なんだと、このババア、笑ってごまかそうったって、許さんぞ! ・・・ん? いや、別に許すの許さんのと憤る程の事でもないですな。 失敬失敬、つい熱くなってしまいました。

  それはさておき、味の違いがはっきりしないとなると、粉ミルクのCMに、数十年の長期にわたって、莫大な資金を投入しているメーカーはお気の毒ですな。 買っている人は、味よりも、値段の安さや、ビンの大きさで選んでいるんじゃないでしょうか。


  なんだか、えらい脱線しているような気がします。 今回、何が書きたかったかというと、インスタント・コーヒー論ではなく、インスタント・コーヒーを飲まなくなったという話をしたかったのです。 上述のように、インスタント・コーヒーをガブ飲みして半生を過ごして来た私でしたが、二三年前から、徐々に、状況が変わって来ました。 台所で作って、部屋に持って来ても、飲み残すようになったのです。 質より量を信条にして来たわたしが、そんなに大きなカップでもないのに、うまいはずのコーヒーを残すとは、何とした事か?

  それが、何回か続く内、もっと重大な変化に気付きました。 コーヒーを、うまいと思わなくなっていたのです。 「そんなの、うまくなければ、その時点で分かるはずで、何年も経ってから気づくような事ではあるまい」と思うでしょうが、実際にそうなんだから、仕方ありません。 長年の習慣で、「コーヒーはうまい物」という図式が頭の中に出来上がっていたため、自分がコーヒーをうまいと思わなくなっているとは、想像もしなかったんですな。 いやはや、凄い事に気付いてしまった。

  「うまくない」は、イコール「まずい」ではなく、そこそこはうまいのですが、うまいから飲んでいるのではなく、飲まなければいけないと思い込んでいるから飲んでいるという感じになっていたのです。 理性的に考えれば、「コーヒーを飲まなければいけない」などという理屈があるわけがなく、自分でもそれは分かっていたのですが、分かっていながら、二三年もそんな状態が続いたのですから、習慣というのはつくづく恐ろしいです。

  もし、それだけなら、やめようと思わず、今でも飲み続けていたかもしれませんが、もう一つ別の事情が重なりました。 会社の健康診断で、「血液中に悪玉コレステロールが増えている」と指摘されてしまったのです。 医者の脅しほど怖いものはありません。 医者に比べたら、幽霊なんか全然怖くない。 今後、お化け屋敷には、医者を並べておくのが良いと思います。 別に長生きしたいとは思いませんが、脳血栓で半身不随や植物人間というのは、甚だ困ります。 これは、何か対策を取らざるを得ますまい。 というわけで、白羽の矢が立ったのか、コーヒー断ちだったわけです。

  別に、カフェイン・パッチなどという治療アイテムは無いので、切り替えは至ってシンプルでした。 ただ、ある日を境に飲まない事にしただけ。 一念発起というほどの決心ではなく、思い立ったが吉日というほどの切迫感も無く、ごく自然に、今年の正月明けからコーヒーを飲まなくなりました。 何か飲みたいと思った時には、ポットからお湯を注いでくるか、水道から水を汲んで来るか、どちらかで対応している内に、時間が過ぎ、コーヒーの事など念頭に浮かばないようになりました。

  信じられない話ですが、漠然とやめようとした途端に、三十年続いた習慣が、スパッと切れてしまったのです。 うーむ、タバコや酒をやめられない人の気持ちが、ますます分からなくなって来ました。 習慣を断ち切るなんて、簡単なこっちゃん。 意志の強さ・弱さなんぞ、出る幕無し。 それが自分にとって必要でないと認識し、打ち切る事に納得した瞬間、いとも容易に縁が切れてしまうのです。 興味が無くなってしまえば、もはや、やめなければならない理由を並べ挙げる必要はありません。 理屈を捏ねて、続けるべき理由を並べ挙げても、もう復活はしないでしょう。 それは、私にとって、説得力を持っていないからです。


  これねえ、誰にでも通用するとは言いません。 また、どんな事にも適用できるとも思いません。 割と合理的に物事を割り切れる性格の人で、やるかやらぬか、続けるかやめるか、どっちにしようか悩んでいる場合に限り、自分を納得させる理由さえ見つかれば、やめる事が出来るという話です。 何でもかんでも、やめればいいというものではありませんが、そもそも悩んでいるなんていうのは、自分に必要でない事の証拠ですから、一押ししてやれば、すぐに諦めがつくんですな。 しょーもない事で懊悩している方々、是非一度、お試しあれ。

2009/03/22

最終走者

  人間と他の生物との決定的な違いは何か? 「言葉でコミュニケーションできる事」、「道具を作れる事」・・・、いや、そういった意味ではなくて、人間が万物の霊長として、地球上に君臨し、他の生物を資源として好き勝手に利用している、その理由の事です。 「単なる弱肉強食の結果であって、理由など無い」と言ってしまえば、それはそれで筋が通った考え方でしょう。 ≪神の意思≫など持ち出すよりは、科学的です。 しかし、神の存在を前提にしなくても、「生物の進化には、何かしら目的がある」という見方は、成立するような気がします。

  単に、環境の変化に対応する為だけの進化なら、何もこんなに複雑な生物になる必要はないのであって、むしろ、バクテリアなどの方が、生き残れる可能性は高いでしょう。 時間の経過とともに、複雑な方向へ進んで来たのには、何かしら理由があるはずです。 もっとも、進化論に従えば、進化は何も、複雑化の方向にだけ進んで来たのではなく、単純化の方向へも同じように可能性が開かれていて、見た目、複雑化した種ばかり多く目に付くのは、単純化した種が小さ過ぎて見えにくいとか、複雑化には無限の発展性があるのに対し、単純化の方は細胞の最小サイズに限界がある為に、出来る組み合わせが限られているに過ぎないとも言えます。

  というわけで、厳密に考えれば、仮定の話になってしまうのですが、それを承知の上で、生物の複雑化、つまり、人間の登場には、何かしら理由があると考えたいのです。 実は、≪理由≫ではなく、≪目的≫と言った方が、私に表現したいニュアンスがよく伝わるのですが、≪目的≫と言ってしまうと、どこかに生物界の発展を制御している超越的存在がいるような言い方になってしまい、「それは、すなわち、神だろう」と解釈されてしまうので、不都合があるのです。 科学の話をする時には、神を持ち出さないのが鉄則ですので。

  まあ、いいや、とりあえず、仮定の話としましょう。 さて、人間が他の生物種すべての上に君臨している理由は何なのか? 人間は、他の生物と、どこが違うのか? なぜ、地球の生態系を破壊してしまうほどの貪欲な増殖が許されるのか? もし、それらの問いに対する答えがあるとしたら、それは、人間が、生物種の進化の末端にいて、生物種の最終走者としての役割を担っているからだと思います。 地球上の生物は、今まで繰り返して来たのと同じ方法では、人間より先には進化せず、人間が最終完成形態という事になる、と思うのです。 パチンコ風に表現すると、ここで打ち止めですな。

  では、人間の世の中がこれから永遠に続くのかというと、そんな事は全然無いのであって、永遠どころか、終わりがすぐそこまで迫っていると思います。 最後の走者は、ゴール・テープを切る寸前の所まで来ています。 それが、どういう意味かを説明しようというのが、今回の趣旨。


  生物の進化は、自然淘汰に任せるよりも、人工的な品種改良の方が、ずっと速く進める事が出来ます。 犬や金魚の品種を見ていると、その変化の多種多様さに驚かない人はいないでしょう。 家畜やペットに限らず、人間自身に対しても、品種改良は不断に行なわれて来ました。 ただし、人間の場合、人間自身が当事者なので、≪人工的に≫という言葉は不適当で、≪自然に≫行なって来たと言うべきでしょうか。 結婚相手の学歴の高さに拘ったり、外見の良さを好悪の基準にするのは、その表れですな。 ≪自然に≫、良い子孫を残そうと、選択を行なっているわけです。

  人類が地球上に登場してから、一体、何千世代、何万年、その改良が続けられて来たか分かりません。 背は高くなった。 力もある程度増した。 寿命も延びた。 しかし、人間の種として野同定性にとって、決定的に重要でありながら、ほとんど進化させる事が出来なかった能力もあります。 それが知能です。 頭の良さが、世代を経る内に徐々に向上して来たという形跡は、全く見られません。 識字率が上がったとか、平均学力が上がったとかいうのは、後天的に教え込む、≪知識≫の事を言っているのであって、知能とは関係ありません。

  アリストテレスは、紀元前に生きていた人で、どこへ出しても恥かしくない、れっきとした古代人ですが、今に伝えられている著作を一つでも読んで御覧なさい。 人間の知能が、進化して来たどころか、むしろ退化して来たのではないかと訝ること請け合いだから。 ひひひ! 平均的日本人の知能では、ほとんど理解できんじゃろ。 なぜ、知能は進化しないのか、不思議といえば不思議ですが、現にそうなのだから仕方がないです。 もしかしたら、人間の脳が、生物の脳としての完成形態であって、原理的に、これ以上、進化できないのかもしれませんな。

  今後、医学・生理学が発達して、脳の構造がよく分かるようになれば、≪人工的に≫、人間の知能を進化させる事が出来るようになるかもしれません。 現に、SFでは、そういう設定がよく見られます。 しかし、私は、そういう事は起こりにくいと思っています。 人間の脳を進化させるよりも、もっとお手軽に、高い知能を獲得する方法があるからです。 それは、機械、すなわち、コンピューターです。 これも、SFでは、ごくありふれた設定ですが、知能が進化した人間の出て来るSFと比べると、ずっと現実に近いように感じられませんか?

  実際には、コンピューターと人間の知能は、得意分野を分業しているのが現状で、コンピューターが、人間の脳と同じ機能を獲得し、それを超えるには、まだまだ多くの壁が立ち塞がっているのだそうです。 コンピューターは、どんなに複雑な事をしていても、それは計算をしているのであって、考えているわけでも、思っているわけでもないのだとか。 前以て用意されているパターンから、その状況に最適な答えを選択する事は出来ても、自分で思いつく事は出来ないのだとか。 そして、最も欠けているのは、何をするかを自発的に決める、≪意志≫の存在なのだそうです。

  ただ、私は、こういう問題は、あくまで技術的なもので、いずれは、すべて解決する事出来ると思っています。 どう考えても、人間の脳が、人工的に模造品が作れないほど複雑な物とは思えません。 一方、計算速度や、記憶の正確さ、記憶量の多さに於いては、コンピューターは、とうの昔に人間を凌駕しています。 もはや、コンピューターの助け無しには、人間社会が成立しないほどに。

  たとえ、どんなに複雑な装置になろうとも、地球上のパソコンを全部繋がなければならないほど大掛かりな規模になろうとも、一基でも、人間の能力を超えるコンピューターが出来てしまえば、こっちのものです。 いや、「こっちのもの」という形容は変ですな。 私は人間なんだから、「あっちのもの」と言うべきか。 つまり、そのコンピューターは、人間以上の知能を持っているわけですから、人間が出来る事なら、すべて出来る上に、コンピューターにしか出来ない事も出来ます。 もちろん、自分を複製して、数を増やす事も出来ます。

  現在、人間が、才能や努力という、あやふやな力に頼って行なっている研究開発の効率性が、そのコンピューター達によって、飛躍的に向上するのは目に見えています。 コンピューター自身が、質的にも量的にも、どんどん進化していく事になるわけです。 SFでは、コンピューターに支配された社会という設定がよく見られますが、それは、人間を登場させないと、ストーリーが面白くならないから、そうしているのであって、実際にそういうコンピューターが出現すれば、もう人間は用済みになりますから、わざわざ支配する必要すらありません。

  またまた、SFでは、コンピューターが人類を抹殺しようとする話がよく見られますが、そんな荒っぽい事をしなくても、人間なんて、飯をたらふく食わせて、好きな服を着せて、適当に遊ばせておけば、それだけで、自然に減って行きます。 人間が生きる上で最も大切な動機は、≪生き甲斐≫ですが、飼われている状態になれば、そんなもの得られるわけがありませんから、放っていおいても、バタバタ死んで行くでしょう。 最終的には、原始的状態で、監視・保護されるような形になるんじゃないでしょうか。 確か、小松左京さんの短編に、そういうのがありました。

  重要なのは、科学技術を発展させる為の、≪文明≫なのであって、その担い手は、機械でも人間でも構いません。 人間よりあらゆる面で優れた機械があるのなら、人間なんて、別にいなくたっていいんですよ。 むしろ、何十億人も食わせなければ、文明水準を維持できない生物種なんて、不効率過ぎて、地球にとって有害でしょう。 人口の増加が環境を破壊する事は、今や周知の事実。 その点、機械なら、遥かに小さな環境負荷で、地球文明を発展させていけます。


  ここで、冒頭の問いに戻りますが、つまり、人間が地球に登場した理由は、生物種の手から、機械種の手に、進化のバトンを手渡す事なのではないかと思うです。 上述したように、≪目的≫という言葉は安易に使いたくないけれど、そういう目的があるからこそ、前代未聞の勝手放題が許されていたと考えれば、人間の生物種としての特殊な役割が、うまく説明できるんじゃないかと思います。

  今後、地球文明は、否が応でも宇宙の探索に乗り出す事になると思いますが、宇宙へ出て行く事を考える時、人間と機械のどちらが相応しいかは、自明の事でしょう。 機械には、不様な宇宙服なんか要らないし、飯も食わなきゃ、大小便もしません。 人間を宇宙へ連れて行くには、莫大な金が掛かりますが、それでいて、出来る事はほとんどないのであって、機械の方が桁違いにコスト・パフォーマンスが高いです。 宇宙移民なんぞ、心底馬鹿げた話というもの。 人間なんぞを、宇宙にまで増やして、文明に何の得やあらむ。 宇宙を汚染するだけですな。

  地球環境についても、同じ事。 人間が他の生物に強いている残虐極まりない犠牲を見るにつけ、人間社会が永久に存続すると思うと、悪夢のように感じられますが、もう終わりはすぐそこに迫っていると思えば、随分気が楽になります。 人間が減れば、地上を覆った醜い街や道路も、やがて自然に返って、他の生物種が穏やかに暮らす、楽園が回復するでしょう。 善き哉善き哉。


  こう考えて来ると、科学技術の分野の中で、今後、最優先で取り組むべきは、人間を超えるコンピューターの開発という事になりますかねえ。 他の分野は、そういうコンピューターが出来てから、それに任せてしまえば宜しい。 人間が莫大なエネルギーを投入して悪戦苦闘するよりも、ずっと効率よく進められるはずです。

  「人間が用済みになるようなコンピューターの開発など、以ての外だ」と思う人もいるでしょうが、別に、そいつに殺されるわけではないですから、ご安心あれ。 おそらく、人間の数が自然に減っていく間、人間の生活レベルが上がる事はあっても、下がる事はないでしょう。 それは、ちっとも面白くない生活だと思いますが、環境破壊で自滅するよりはずっと良いと思います。

2009/03/15

CD八倒

  事の発端は、二週間ほど前、図書館で、かれこれ15年ぶりに、クラシックのCDを借りた事でした。 チャイコフスキーの、≪白鳥の湖≫です。 半年くらい前に、テレビで、チャイコフスキーの曲の特徴を紹介する番組をやったのを、たまたま見て、「ふ~ん」程度の興味を持ったんですが、二週間前のその日、ふとその気になって、図書館のCDコーナーへ行ってみたのです。

  私の住んでいる自治体の図書館は、クラシックは大抵の物が、その他のジャンルでも、名作に数えられているような曲なら、かなりの数が揃っています。 もちろん、無料。 15年くらい前に、「どうせタダだし、クラシック音楽も、聴いてみれば面白いのかもしれないな」と思って、有名どころの作曲家のものだけ、30枚くらい聴いた事があったのです。 30枚聴いて分かったのは、「モーツアルトは、確かに天才だ」という事と、「ショパンやドビュッシーの音楽は、現代に繋がっている」という二点だけ。 悪い印象が残る経験ではありませんでしたが、それ以降、耳が遠のいてしまい、今に至りました。

  んで、今回、つまり二週間前ですが、≪白鳥の湖≫を借りて来て聴いてみた所、ちっとも面白くないのです。 そればかりか、15年前にも同じCDを借りていて、「チャイコフスキーは、つまらないな」と切り捨ててしまった記憶まで蘇ってくる始末。 しかし、一曲で判断するのはサンプルが少な過ぎると思い直し、次の週には、≪くるみ割り人形≫を借りてみました。

  これが素晴らしかった! 特に後ろの方がグレイト! 聴いた事があるメロディーが、続々と出てくるのです。 作られたのは百年以上前ですが、以来現在に至るまで、映画・ドラマ・CMなどで延々と使われて続けて来たんですな。 なるほど、チャイコフスキーの偉大さが漸く分かりました。 本来の意味では、こういうのを世界遺産と呼ぶべきなのではありますまいか。 忘れ去られ、廃墟と化した遺跡などではなく。


  いや、別にチャイコフスキーを称賛するのが、今回のテーマではないのです。 問題はその後に発生したのです。 「うーむ、これはもしかすると、まだまだ知らない名曲があるのではなかろうか。 どうせタダなんだし、しばらくCDを借りまくって、聴き倒してみるか」などと、思いついてしまったのです。 ここの所、仕事は閑になるのに対し、あらゆる趣味に行き詰り、やる事が無くて困っていたので、ホイホイその気になってしまったんですな。 それが、地獄を招こうとは、お釈迦様でも気付くまいて。

  何かを始めようとする時の私によく起こるパターンですが、「家で聴くだけでは、時間が限られているから、通勤中や仕事中にも聴けないだろうか」と、欲を出してしまったのです。 「携帯用のプレーヤーを入手すれば、どこでも聴けるではないか。 いひひひ!」と。 たぶん、何かしら、道具を買いたかったんでしょう。 今時の若い者は、何をやるにも道具から入ろうとする。 私は若くありませんが、軽薄さに於いては、永遠の20代ですから、致し方ないといえば致し方ない。 ただの愚か者だといえば、愚か者です。


  まず考えたのは、フラッシュ・メモリー式の音楽プレーヤーを買おうという計画。 名前が一定しておらず、≪デジタル・オーディオ・プレーヤー≫とか、≪MP3プレーヤー≫とか呼ばれているようです。 代表格は、アップル社の≪iPod≫ですが、あれは私には高過ぎます。 ソニーの≪デジタル・ウォークマン≫でも、まだ高い。 メーカーに拘らず、安い物なら、ネットで千円台から売っています。 再生時間の長い乾電池式にしても、2000円くらい。 データ入れ替えは、パソコンを通して行なうらしいです。

  ところが、私のパソコンのCDドライブが壊れている事が分かって、いきなり躓きました。 前にデータ書き込みをしようとして失敗し、そのまま何年も放置して来たのですが、久しぶりに使おうとしたら、扉すら開かないのです。 二日間くらい、しつこく何度もトライしていたら、扉は開くようになりましたが、音楽CDを入れても、自動再生してくれません。 こりゃ駄目だわ。 内臓ドライブをそっくり替えるしかありませんが、何千円するか分かりません。 メモリー・プレーヤーも買わなければならないのに、そんな出費は出来ないと思い、一気にやる気が失せました。

  次に考えたのが、携帯用CDプレーヤーを買ってしまうという手。 この手なら、借りて来たCDを直接入れられるので、ダビングやデータ入れ替えの手間がかかりません。 値段は、安いものは1000円くらいからありますが、それらは乾電池式で重く、軽い充電式だと、8000円台になります。 重さよりも更に重大な欠点は、その大きさです。 若い頃、「CDプレーヤーは携帯するには大き過ぎる」と言って、バッグに入れて持ち歩いている人さえ小馬鹿にしていた私が、それを首に掛けるのはいかがなものか? オッサンの特権で開き直るにしても、人前で見せられるもんじゃないですわなあ。 進んで見せる予定もありませんが、たまたま見られてしまった時の軽蔑の視線が怖い。

  CDプレーヤーを台の上に置き、そこから電波を飛ばしたらどうかとも考えましたが、ワイヤレス・ヘッドホンという製品があるにはあるものの、そんなに小さな物ではない上に、一番安いものでも4000円近くするという事を知り、スパッと諦めました。 だから、私の今回の計画の予算は、大体5000円くらいなのですよ。 今までの経験からして、一つの趣味がそんなに長続きするはずがないのであって、大枚注ぎ込むわけにはいかんのです。 

  やむなく、メモリー・プレーヤー案に戻り、パソコンのCDドライブを交換する事を考えましたが、詳しく調べてみると、もはやCDドライブの時代ではなく、DVDのマルチ・ドライブでも大して値段が違わない様子。 一番安いので、4000円くらい。 DVDドライブが手に入れば、CDを再生する以外にも、いろいろと使い道があるのは事実ですが、パソコンの本体をバラさなければならないので、開けてみなければ、交換できるかどうか分かりません。 「買って来て付けたはいいが、作動しなかった」では、金をドブに捨てる事になります。 外付けなら安心だし、使い勝手もいいですが、その代わり、値段が高くなる、置く場所が無い、接続するにもパソコンのUSBポートに空きが無い、と障碍も多いです。


  と、ここで、根本的な問題点に気付きました。 「仕事中に音楽を聴くのは、やはりまずいのではなかろうか?」と・・・。 うーむ、あまりにも根本的ですな。 なんで今まで、それに気付かなかったんだろう。 不景気で、いつリストラされるか分からないのに、耳にヘッドホンを着けて、仕事なんてしてた日には、上司のお覚えがめでたいわけがありません。 バレなきゃいいかな? いや、両耳に着けていれば、やはり目立つでしょう。 インナー・イヤー型ならあまり目立ちませんが、動きが激しいと、簡単に外れてしまいそうです。

  仕事中、1日8時間聴きっ放しというのも、どういうものか。 電池がもっても、CDの中身に飽きてしまったらどうするのか? 毎日図書館に寄るわけにもいきますまい。 一週間に一度しか入れ替えをしないというなら、CDプレーヤーを使う利点は減り、メモリー・プレーヤーにダビングした方が、軽く小さくなります。 しかし、いずれにせよ、一週間それを繰り返し聴いていて、楽しいかどうかという疑問は残ります。

  通勤時、バイクに乗っている時だけ聴くようにした方が良いかもしれませんが、運転中は運転中で、事故の危険性が高まるのはまずいです。 また、ヘッドホンをしてヘルメットをかぶれるのかどうか、それも未確認の問題です。 眼鏡ですら外れる事があるのに、ヘッドホンが引っ掛からないはずがないという気もします。 ヘッドホン付きヘルメットというのがあるらしいですけど・・・、だーから、そんな物まで買うような大それた計画じゃないのよ。

  更に脱線し、「DVDドライブを買うなら、パソコンでDVDが見れるな~」と思ったのがまずかった。 いつのまにか、クラシック音楽を聴く計画など消し飛んで、「どの映画ソフトを買うか」などと、あさっての事を検討している自分を発見し、どっと噴き出す冷や汗。 映画ソフトなんて、安くても3000円以上するのであって、三枚も買えば、万冊が飛んでしまいます。 何を考えとんねん? 安く上げるつもりで、あれこれ調べていたのではなかったのか? やっている事が、ぐちゃぐちゃでんがな。


  でねー、この一週間、そんな事ばかり、ぐるぐる堂々巡りしながら、考え続けているわけですよ。 私は当人だから何とも思わないけど、この様子を傍から見たら、最初は爆笑し、やがて変質者を見る目に変わり、最後には病院に通報するでしょうな。 まったく、人間の執着というのは、恐ろしいものだて。

  煮詰まると、藁にもすがるようになります。 大昔に使っていた、携帯カセット・プレーヤーを引っ張り出して、電源を繋いでみましたが、モーターが全く回りませんでした。 20年も死蔵して来たのだから、無理もないか。 これで、最も安上がりな携帯プレーヤー獲得の道は断たれました。 それにしても、このアイワのカセット・プレーヤー、今売っているソニーのカセット・ウォークマンに比べると、実に緻密に作られています。 精密機械ですよ。 メカトロ技術が頂点を窮めたバブル時代の奇跡とでも言いましょうか。 その後、携帯カセット・プレーヤーの世界では、明らかに、技術の後退現象が起きたものと思われます。

  内臓ドライブ交換計画のために、パソコンもバラしてみました。 モニターの後ろから本体を取り出して、蓋を開け、ドライブを見てみました。 全く分からん。 分かったのは、「どうやら、接続方式がDVDドライブとは違うらしい」という事だけ。 ドライブそのものを分解するところまで行かず、埃だけ飛ばして、元に戻しました。 もちろん、そんな事で、直るわけはありません。

  それどころか、元に戻した後、パソコンを起動したら、ファンの辺りから、ガラガラという異音が発生! 埃を飛ばしたのがいけなかったに違いありません。 幸い、しばらくすると音は小さくなりましたが、入ってはいけない所に埃が入ってしまったのは疑いなく、もはや、いつ壊れるか分かったもんじゃありません。 冗談じゃねーっすよ。 余計な事して、パソコンを壊してしまったのでは、泣きっ面に蜂ではありませんか。 と言いつつ、新しいパソコンの吟味を始めてしまい、「マウス・コンピューターなら、4万円くらいで、同等性能のが買えるな~」などと算盤弾いているから、我ながら、何やっとんだか。 クラシック音楽はどこへ行った?

  結局、戻って来たのは、最も現実的な方法である、携帯CDプレーヤーを新たに買うこと。 仕事中に聴くか聴かぬかはさておくとして、工夫次第では、通勤中に聴けるかもしれないと思い直したのです。 耳たぶに引っ掛けるフックがついたヘッドホンなら、ヘルメットをかぶれるかもしれません。 ただし、眼鏡の蔓とフックが二重に掛かる事になるので、耳が相当痛くなる可能性あり。 このフック付きヘッドホンというのは、有名メーカーの製品だと千円以上しますが、実は100円ショップにも売っています。 使った事が無いので、どっちがいいのか、どっちも悪いのか、何も分かりません。

  そういえば、ヘッドホンの呼称ですが、私が若い頃には、ヘッドバンド式の大きな物を「ヘッドホン」、耳の穴の入口に納まるくらいの小さな物を「ミニホン」、と呼び分けていました。 ところが、今は、大きさに関係なく、みんなヘッドホンと言うらしいですな。 ≪インナー・イヤー式≫とか、≪カナル式≫とか、いろいろあって、いとをかし。 買っている方が、どこまで区別できているのか怪しいですが。

  内臓ドライブについて、その後、知った事があります。 内臓ドライブの接続方式には二種類があり、それぞれの機種に、シリアルATA用とATAPI用の2タイプが用意されているらしいのです。 私のパソコンの壊れたドライブは、ATAPIの方。 店で見てみると、確かに、ATAPI用のDVDマルチ・ドライブというのがありました。 そういう事情なら、交換できる可能性が高いですな。

  でも、この時点で既に、携帯CDプレーヤーの方に傾いていたので、今更ドライブの交換をする意味は無くなっていました。 用が無くても、壊れている物を直したくなるのは人情ですが、使わなければまた壊れるに決まっているので、やはりやめた方がいいでしょう。 とにかく、今回の計画の目的は、出先でクラシック音楽を聴く事なんだから、ドライブの件は、また別の機会に考えろっつーのよ。


  でねー、ここまで懊悩した結果、携帯CDプレーヤーを買ったのかというと、まだ買ってないんですよ。 ある事に気付いて、計画そのものにストップがかかってしまったのです。

  それは、クラシック音楽は、雑音の無い所で、それだけに集中して聴かないと、良さが分からないという事です。  草木も眠る丑三つ時、床に潜り、ヘッドホンをして聞いてこそ、その素晴らしさが伝わるんですな。 特に、オーケストラ曲のように、楽器によって音の大小に差がある場合、静かな環境で聴かないと、小さな楽器の繊細さが分かりません。 

  クラシック音楽は、BGMにはならないんですな。 無理やり、そうしてしまっている人も多いと思いますが、9割方の魅力を捨ててしまっているんじゃないでしょうか。 自分自身が演奏しているようなつもりになって、「どうやったら、こんなに巧く弾けるんだろう」といった具合に、積極的に鑑賞するようにしないと、面白さが分からないんですな。 ポップスなどは、BGMとして聞けますが、あれは、歌詞が存在するのが大きな理由でして、カラオケだけ聴くと、さほどいいと思わないでしょう。 しかし、演奏技術に興味を抱いていれば、カラオケだけでも充分聴けます。 クラシック音楽も、それと同じ理屈です。

  さて、それに気付いてしまうと、この計画の全てが、音を立てて崩壊していくわけですわ。 通勤中はもちろん、仕事中も、周囲は雑音の渦です。 しかも、通勤中は運転に気を取られますし、仕事中は仕事に気を取られますから、音楽に集中など出来るはずがありません。 また、≪ながら聴き≫をしても、鑑賞が出来ないので、どこが良いのか伝わらず、あれこれ準備して聴くだけ無駄だという事になります。 会社で聴くとしたら、休み時間と昼休みしかないですが、それでは読書も昼寝も出来なくなってしまいます。 駄目じゃん、それじゃー!


  とまあ、こんな具合に、ざんざん悩んだ挙句、ぽしゃったわけです。 笑ってやって下さいな。 何十年も生きて来て、まだこんな不様な醜態を曝すんですねえ。 もしかしたら、私は、最初から無理がある事に気付いていたのに、ただ単に、「何か新しい電気製品を買いたい」という欲望に突き動かされて、七転八倒を繰り返して来たのかもしれませんな。 それはそれで、やはり人間的な完成度の低さを露呈していますけど。

  これからは、つまらぬ考えは捨て、眠る前のひと時に集中して、こつこつと、クラシック音楽を聴いて行く事にします。

2009/03/08

地方商店街

  不景気になると、決まって地方の商店街の様子がテレビ・ニュースで映され、「シャッターが閉まった店が多いですねえ」などと、月並みな報道がなされます。 開いている店に入って、店主にインタビューすると、「皺寄せがみんな地方に来ちゃうんだよね。 政府にはしっかり景気対策をやってもらいたいね」などと抜かすのが、決まりきったパターン。

  だけどねえ、地方の商店街が重態に陥ったのは、今に始まった事じゃありませんぜ。 90年代初頭のバブル崩壊からこっち、ずーっとですよ。 ニュース・リポーターも、シャッターが閉まっている店を見つけたら、そのシャッターが開かれなくなってから何年くらい経過しているか、一瞬で見抜くくらいの眼力を養わなきゃいけませんな。 もっとも、修辞の為なら、嘘でも誇張でも平気で口にするとは思いますが。


  私も地方在住者ですが、市の中心部の商店街に足を向けなくなってから、もう久しいです。 わざわざ街へ行ってまで、買わなければならない物がないんですな。 基本的に、商店街の個人商店で売っている物は、すべて、郊外の大型店でも手に入ります。 例外として、特別な服飾品や手作りの雑貨などは、個人商店でしか置いてない物がありますが、それらは生活必需品ではありません。 無ければ無いで済む物です。

  地方商店街の没落原因には、積極的に行く理由が無いという他に、利用し難いという面もあります。 その最大のものは、駐車場が無い事です。 都会の人は車社会に住んでいないのでピンと来ないと思いますが、地方では、大人の移動手段は、自動車が主です。 せいぜい、近場なら自転車を使うくらいで、徒歩で行けるような近い所には店がありません。 電車・バスは専ら通勤・通学用です。 そもそも、電車は幹線のみですから、買物には無関係ですし、バスで買物となると、車の運転が出来ない老人くらいしか使いません。 「車が無ければ生きて行けない」という形容こそ、よほど交通不便な地域を除けば大袈裟ですが、まあ、普通は車で動き回ります。

  故に、商店に於いては、駐車場があるか無いか、何台停められるか、一台分のスペースが狭いか広いか、道路から入り易いか入り難いか、出易いか出難いか、有料か無料か、といった事が重要な要素になります。 これから店を始めるという時には、「店内ディスプレイをどうするか」などより、「お客の駐車場をどうするか」から検討した方が良いくらい重大です。 個人商店の場合、店の前に最少でも3台分のスペースと、他にも停められる場所を確保していないと、まず商売が成り立たないでしょう。

  ところが、市街地の商店街というのは、見ての通り、車客を全く想定していません。 通りの天井をアーケードで覆って、歩行者天国にしているような所は尚の事。 私の住んでいる街でも、30年くらい前には人でごった返していて、親の手を離したら最後、人波に流されて親知らず子知らず、今生の別れだったような通りが、今はガラガラで、自転車で普通に通っても、誰にも文句を言われないという有様です。 いやはや、隔世の感あり、変われば変わるものですな。

  歩行者天国でない通りには、車道の路肩に駐車スペースを設定して、有料で停めさせるシステムもあるんですが、私は一度しか使った事がありません。 だって、一時間で400円も取られては、ホイホイ停められないでしょう。 特に私の場合、ケチですから、買物には千円以下の物が多い。 いや、正直に白状しますと、ほとんど500円以下です。 500円の物を買いに来て、400円の駐車料金を払う気になる奴はいないでしょう。 いたら、アホじゃて。

  商店街もさすがにまずいと思ったのか、それぞれの店で、有料駐車場と契約して、その店で買物をした客に限り無料で停められるという仕組みを作っていますが、そういう事は、常連客でなければ知りようがないわけです。 滅多に来ない客が、買い物が済んだ後で、店の者から、「なんだ、そんな所に停めたんですか。 うちの契約駐車場に停めれば、無料だったのに」などと言われても、客としては後の祭り、むしろ知らない方が幸せだったわけで、ムッと腹が立つだけです。 ≪駐車場有ります≫という矢印看板を立てて、路地の奥の奥へ誘導しようとする店もありますが、無理無理! 普通の客は、そんな所まで行かないって。 「もし入って行って、駐車場に空きが無かったらどうしよう」と思うと、怖いわ面倒臭いわで、いっそ他の所で買おうと考えてしまいます。

  駅前の再開発で、高いビルを作り、その中に立体駐車場を設けて、「商店街をご利用のお客様は、30分無料です」などと書いている看板もよく見ます。 だけどねえ、入場してから時間を計るわけですから、ぐるぐる登って、停める場所を見つけ、車から下りて、その建物から出るまでに、15分くらいかかりますぜ。 帰りもまた同じ15分。 すると、駐車場からの出入りだけで、無料分は消えてしまいます。 30分が一時間であっても大差はありません。 なぜというに、商店街は二次元に広がっているので、目当ての店に着くまでに時間がかかってしまって、一時間くらいすぐに過ぎてしまうからです。

  「商店街の店で買物をすれば無料」という決まりもえぐい。 店には来たけれど、目当ての品が無かった。 もしくは、現物を見たら気に入らなくて、何も買わずに出たというケースは、非常によくあるのであって、そういう場合は、駐車料金だけ払わされる事になります。 お客側にしてみれば、目当ての品は手に入らないわ、金は取られるわで、ただ損をしに来たようなものです。 そんなリスクを避けようとするのは当然の心理でしょう。 かくして、みんな、無料の大駐車場がある、郊外大型店に行ってしまうわけですな。

  車だけではありません。 商店街の多くは、自転車まで締め出しています。 放置自転車が店の前の歩道を埋め尽くすのを避けるために、そういうルールを作るわけですが、本当にその店に買物に来る客にとっては大迷惑となります。 「ここは、駐輪禁止です。 商店街共用の駐輪場へ置いて来て下さい」などと書いたチラシを前籠に突っ込まれると、ムカっ腹が立ちます。 その手の駐輪場は大抵、駅前などにあり、店によっては、何百メートルも歩かなければなりません。 冗談じゃない。 店の前に置けると思うから、わざわざ自転車で来るのであって、そうでなければ何のメリットも無いではありませんか。 「いや、もう二度と来ませんから、結構です」と、チラシの裏に書いて、送り返してやりたい気分になります。

  商店街の人間というのは、妙に団結心が強いようで、その種のルールをお気楽にホイホイ決め捲りますが、客を逃がす作用の方が大きい事にとんと気付いていません。 ≪一国一城の主≫などという言葉があるのがいけない。 ≪お客様は神様です≫という言葉も、客を増長させるという点で感心しませんが、それと同じくらい有害です。 商店というのは、店側と客側の利害が一致して、初めて立ち行くものなのであって、どちらか一方の都合で押し切れば、寂れるに決まっています。


  アクセス関係以外にも、問題はあります。 個人商店の客に対する態度ですな。 これは、誰でも感じた事があると思いますが、初めて入った店で、妙に邪険な態度を取られる事があります。 同じ個人商店でも郊外の店ではそれほどではなく、市街地の商店街で、その傾向が強いです。 客を客とも思わないような、つっけんどんな応対をする店主や店員が大変多い。

  客が入って来ると、面倒臭そうな、迷惑そうな顔をする。 敬語を使わない。 初対面で、しかも相手は客なのに、タメ口。 商品の説明はいい加減。 説明できない場合もあります。 取り寄せを頼むと、調べもせずに、「そんな品物は無い」などと抜かす。 馬鹿が! こっちは、雑誌やネットで調べてから店に来ているんだ、無いわけないだろうが。 カタログを出させて、探させると、ちゃんとあるのです。 そいつが知らないだけか、知っていても注文するのが面倒臭くて、しらばっくれているのです。 その上で、店に売れ残っているカタ落ち商品を売りつけようとする輩もいます。

 「こやつ、いつもこんな調子で客と話しているのか?」と、マジマジ相手の顔を眺めてしまいますが、誰にでもというわけではないようで、常連客がやってくると、態度が豹変します。 「やあ、元気ぃ? 昨日どうしたの、電話したけど、いなかったじゃな~い」などと、満面スマイルで、大歓迎。 なんじゃ、この違いは? つまりねえ、商店街の個人商店というのは、常連客だけを相手にして、商売をしているのですよ。 一見さんお断り。 京都の御茶屋か? お断りならお断りと書いてあれば、こっちも最初から近づきませんが、建前上は誰でも入れるという事になっているので、こういう軋轢が生まれるわけです。

  これは私の経験ではありませんが、親戚の農家のおばさんが、十数年ぶりに、よそ行き服を買おうと思って、若い頃に利用していた商店街の服飾店に行ったのだそうです。 すると、代替わりした若い店主から、ものの見事に、「あなたに売るような服は無い」と言われてしまったのだとか。 そのおばさんは、特別田舎っぽいわけではなく、ちょっと日焼けしているだけで、ごく普通の人なのですが、店主にしてみれば、自分が抱いている店のイメージに合わない客だと判断してたんでしょうな。

  しかし、どんな客だろうが、店に来てくれれば、買い物をしたくなるように努力するのが小売業者の仕事というものでしょう。 「あなたに売るような服は無い」などと、よくも商人の口から出たものです。 恐ろしや恐ろしや、井原西鶴が化けて出る。 それだけは言ってはいけないセリフのベスト3に入るんじゃないの? いや、ワースト3か。 こんな事を平気で言うようじゃ、もう、客商売そのものをやめた方がいいでしょう。 全く向かないと思います。

  なんで、こんなひどい接客をするようになったか、理由を想像する事は出来ます。 車社会になってから、客の絶対数が減り、慢性的に経営が苦しくなったのでしょう。 そういう状態では、一見の客に懇切丁寧に応対しても、また来てくれるかどうか、確かではないです。 実際に、一回来たらそれっきりで、愛想を振り撒くだけ無駄に終わる事が多かったのだと思います。 そんな客相手にエネルギーを使うくらいなら、確実に何度も来てくれる常連客と仲良くした方が得だと判断したのではないでしょうか。 もし、そうならば、それは一理ある事で、部外者が接客方針について、あれこれ口出しする事ではないですな。 怒って、二度とその店には行かない事以外に、対抗手段は無いです。 


  とまあ、そんな所が、利用者側から見た忌憚が無いところの、地方商店街のイメージです。 一方、商店の側が抱いている没落の原因は、「政府の景気対策」や、「政府の地方切り捨て方針」らしいのです。 うーむ、凄まじい認識のギャップですな。 少なくとも、私個人限っては、景気がどんなに回復しようが、国の地方支援がどんなに活発になろうが、今後とも商店街に足を運ぶ事は無いと思います。 別に偏見があって行かないのではなく、郊外大型店で全て間に合うし、そちらの方があらゆる点で便利だからです。

  店の大きさ的には、個人商店と大差なくても、コンビニや百円ショップなどのチェーン店は、遥かに入り易いです。 まず、何が売っていて、何が売っていないか予め予想がつくので、店員と余計な接触をせずに済みます。 また、店員は大抵、店のオーナーではなく、雇われ人ですから、責任が軽く、客が店内を見て回っているだけでも、声をかけて来たりしません。 まして、「買え買え、なんか買え。 冷やかしだったら帰れ」などと、無言の圧力をかけて、緊張感を高めたりもしません。

  よく、言葉の乱れの例として槍玉に挙げられる、「○○円から、お預かりいたします」は、その種のチェーン店の専売特許ですが、私はちっとも気になりません。 慣用表現が一般的な文法規則から外れるのはよくある事で、言語学的には何の問題も無い事です。 そんな枝葉末節な事に、いちいち目くじら立てて怒っている方が、気違っていると言うべきでしょう。 むしろ私は、彼ら店員の、標準化された接客態度の方を高く評価します。 彼らには、客への親しみが無い代わり、嫌悪感もありません。 そして、誰にでも差別無く、決められた通りの対応をする、最低限の、≪礼節≫があります。 客は買物をしに来ているのですから、親しみなど示してくれなくてもいいのです。 好悪いずれに限らず、感情など発してくれなくて結構。 やるべき事をやってくれれば、それで充分なのです。

  さて、地方商店街の復活ですが、まず無理だと思います。 たとえ、個人商店主達が、客に対する態度を改める事が出来たとしても、駐車場の問題は、物理的に解決不能ですから、どうにもしようがありますまい。 経営が成り立たない所まで常連客が減ったら、店を畳むのが一番にして唯一の対応策ですな。


  そういや、ドラマや映画では、商店街の再開発問題が、よく舞台背景として使われますよねえ。 大手ディベロッパーによる再開発計画が持ち上がって、俄かに団結した商店街の住人達が、土地の明け渡しに、あの手この手で抵抗するというパターン。 店主達はみな幼馴染で、互いに、「○○ちゃん」だの、「△坊」だのと呼び合って、鼻を摘みたくなるような臭い人情劇を繰り広げます。 必ず、ディベロッパーは悪者で、商店街の住人は被害者という描き方になっています。

  こういう、ドラマ・映画を企画する人達というのは、都会の商店街と地方の商店街を混同しているんじゃないでしょうか。 都会の商店街は、電車・バスで移動する大人口のお蔭で、客が途切れた事がありませんから、車社会の脅威も関係ないですし、一見客と常連を差別する必要もありません。 人が寄り付かなくなってしまった地方商店街とは、全く事情が違うのです。

  地方商店街に一見客として行った事がある者なら、ドラマ・映画のような人情味溢れるイメージは、決して持たないと思いますよ。 不快な思いをさせられた経験が無い人の方が少ないでしょう。 シャッターが閉まっている店が増えても、当然だと思いこそすれ、寂しいなどとは、金輪際感じません。 いっそ、全部潰してしまって、ショッピング・モールに作り替えた方がいいでしょう。 まあ、これからの御時世、それほど大掛かりな再開発ができるほど、景気が良くならないとは思いますけど。

2009/03/01

はなちん


  参ったな。 12年も飼っていた亀が、水曜日の2月25日に死んでしまいました。 ハナガメという種類で、名前を≪葉菜(はな)≫と言います。 ここ二週間ばかり調子が悪かったんですが、まさか死んでしまうとまでは思っていませんでした。

  ヌマ亀系統の亀は、生まれた年は抵抗力が弱くて死に易いのですが、最初の冬さえ越せば、事故でも無い限り、まず死ななくなる動物です。 飼い主より長生きして、遺族が処分に困るほど、丈夫になります。 葉菜は、もう甲長25センチもあるような大きさだったので、無敵だと信じていたのですが、とんだ思い違いでした。


  二週間前、水換えの時に、目がカビに覆われているのを発見し、仰天しました。 今までにも目の周りにちょこちょこカビが着く事はありましたが、そういうのは、何もしなくてもすぐに治っていました。 しかし、今回のは、両目の眼球全体を覆ってしまっていたのです。 水換えは一週間に一度ですが、前の週には全然気付かなかったのが不思議です。 カビは目だけではなく、鼻先の方まで広がっていて、鼻の穴を幾分狭くしていました。 やばいなあ、やばいじゃん!

  すぐに水温を25度から、30度に上げました。 カビは、高温に弱く、30度まで上げると、大抵治るからです。 一晩で、鼻の穴は一旦綺麗に通りましたが、目の方は依然白くなったまま。 時折、カビの塊が落ちますが、その下の眼球はまだ濁っていて、しばらく経つとまたカビが増えて来ます。 その内、鼻の穴も、また塞がるようになって、私を大いに焦らせました。 「温度を上げるだけでは駄目か」と思い、≪メチレンブルー≫という薬液を買って来て、ケージの水に入れました。 この薬で、首筋や手足についていたコケの類は全部落ちました。 ところが、肝心のカビが死にません。

  主食にしていた、≪鯉の餌≫を全然食べなくなっていたので、種類を変えてみようかと思い、十数年ぶりに、亀専用フードの、≪テトラ・レプトミン≫を買って来て、やってみました。 ところが、それにも食いつきません。 エビの剥き身とか、菜の花などもやってみましたが、やはり食べません。 どうしたんだよ、葉菜。 目がはっきり見えなくても、匂いや触感でエサのありかは分かるだろうに。

  温度も駄目、薬も駄目となれば、後は甲羅干ししかありませんが、冬場の太陽の光は弱々しく、頼りない事この下無し。 先週の日曜は、よく晴れて気温が上がったので、二時間ほど甲羅干しをさせる事が出来ましたが、今週はあいにく、私の仕事が遅番で、昼間亀をみてやれませんでした。 やむなく、帰宅してから、部屋の中でランプを当てて甲羅干しの代用をさせていました。 それを月火と続けましたが、弱っていく一方です。 「やはり、強制的に甲羅干しをさせるのは、亀にとっては辛いのか」と悩みましたが、他にいい手も思い浮かびません。 そして水曜日・・・・・


  葉菜が自分の好きな時に甲羅干しが出来るように、ケージ内の陸場を広げようと思い、会社の帰りに寄り道して、プラスチック製の格子板を買って来ました。 ところが、家に帰って見ると、葉菜が動きません。 今朝出かける時には動いていたので、昼間私がいない間に、事切れたようです。

  何とか回復させて、春を迎えさせたいと思っていたんですが、葉菜の容態の悪さは、私の想像を超えていたようです。 苦しんだ様子は無く、窓の外を見た格好のまま、大の字に手足を出して、そのまま固くなっていました。 残念とも、無念とも、言葉に言い尽くせない気分です。

  死んでしまったとなれば、いろいろとやらなければならない事がありますが、とりあえず、その夜はヒーターもそのままにして、生きていた時と同じように過ごしました。 しかし、一度死んだら生き返る事などないのは承知していますし、葉菜の遺骸が腐敗して行くのを見るのも忍びないので、なるべく早く庭に穴を掘って埋葬しなければなりません。

  葉菜、すまなかったな。 この二週間、いろいろやってみたが、結局お前に苦しい思いをさせただけだったんだろうな。 もうちょっとで、12歳だったか。 いい加減な飼い主に飼われていた割には、長生きしてくれたと思うべきか。 でも、寿命じゃなかったのは確かだし、やっぱり、飼育環境が悪かったんだろう。 ほんとに、すまなかったな。 買って来た時は、3センチくらいしかなかったのに、9倍くらいに育ってくれて、嬉しかったよ。 ありがとうな。 でも、こんなに大きくなってから、死んじゃうなんて、思いもしなかったよ。

  私は、治療の間中、カビを病気の原因だと思っていましたが、もしかすると、原因ではなく、結果だったのかもしれません。 カビがついたから弱ったのではなく、どこか見えない所が病気になり、抵抗力が落ちた結果、カビがつくようになったのではないかと。 月曜の夜、室内で甲羅干しをした時、後ろ足の付け根の肉が膨らんで甲羅から食み出るようになっていましたが、あれはもしや、内臓がひどい事になっていた証拠だったのではありますまいか。 内臓が悪くなったために、エサを食べなくなり、抵抗力が落ち、その結果カビに負けてしまったと考えた方が、事の辻褄がよく合います。 もし、カビだけだったら、温度と薬だけで治るはずですから。


  翌日の木曜日、午後四時頃に帰って来て、庭に穴を掘り、葉菜を埋葬しました。 体が大き過ぎて、棺桶を作っても、土の重みですぐに潰れてしまうと思い、じかに土をかけました。 埋めた後、土を叩いて、心の中で言いました。 「葉菜、これでさよならだ」 お前は、もう何日も前から私の顔を見れなかったが、これからは、私もお前の姿を見る事が出来ない。

  葉菜の体は、カビにやられた目を除けば、とても綺麗で、まるで生きているようでした。 でも、もし生きていれば、持ち上げられて暴れないはずがないのです。 鼻先に触られて、首を引っ込めないはずがないのです。 葉菜は、確かに死んでいました。 こんな大きくて立派な亀が死んでしまうなど、いまだに悪い夢でも見ているような気分です。

  部屋から持ち出す前に、遺骸の写真を何枚か撮りましたが、それはネット上に公開する予定がありません。 私自身も、撮っただけで、見る事はないでしょう。 ハムスターの金太や銅丸の時もそうでしたから。 でも、撮っておかなければ後悔するような気がして、いつも撮るのです。

  動物を飼っていて、何が辛いといって、埋葬ほど嫌な作業もありません。



  葉菜を買って来たのは、1997年の5月です。 その頃、私は、≪亀欲しい病≫に罹っていて、すでに五匹も亀を飼っていたにも拘らず、まだあちこちのペットショップを彷徨して、面白そうな亀がいないか物色していました。 ある時、老舗の熱帯魚店に入ったら、机の上に無造作に置かれた小さな水槽の中に、ハナガメの幼体が四匹入っていました。 一目でその年に生まれたばかりと分かる小ささで、甲長は3センチくらいしかありませんでした。 しかし、その甲羅は、今までに見た事がないような美しい幾何学模様で飾られていました。 ちなみに、ハナガメは、中国南部や台湾に棲息するヌマ亀で、日本には住んでいません。

  値段は確か、1500円だったと思います。 四匹とも顔にカビが着いていて、一言で言えば、棺桶に片足突っ込んでいる状態でした。 熱帯魚店や金魚店は、亀の飼育方法に関しては門外漢なので、「水に入れて、エサをやっておけば充分だろう」とばかり、テキトーな扱いをしている所が多いのです。 その内の一匹だけが、まだカビの付着が少なく、目がはっきりしていて、元気を保っているように見えました。 「よし、このくらいのカビなら治療できる」と判断し、そやつを買って来たのです。 たぶん、他の三匹は、売れる前に、その店で死んだと思います。

  名前は、同じ種類が何匹もいれば、それなりにつけるのですが、ハナガメは一匹しかいないので、自動的に、≪ハナ≫に決まりました。 その頃、ワープロで打っていた日記には、≪華≫という漢字を使っていましたが、その後、インターネットを始め、亀関連のサイトに出入りするようになってから、≪葉菜≫という字面に変えました。 家では、「ハナ」とか、「ハナちゃん」とか、「ハナチン」とか、その時の気分で、テキトーに呼んでいました。

  予想通り、カビはすぐに退治する事に成功し、葉菜は丈夫な亀になって、すくすく育っていきました。 ほとんど、5キロ千円の≪鯉の餌≫だけで大きくなりました。 買って来てから四年後には、甲長が21センチになっていましたから、その急激な成長ぶりが分かると思います。 亀を飼った経験がない方にはピンと来ないかもしれませんが、ヌマ亀で、甲羅の長さが20センチを超えると、もう相当な大亀です。 片手ではとても持ち上がらず、両手で持っても、パワフルな腕を突っ張って大暴れするので、長距離は運べません。 体重がありすぎて、歩くにも腹をすりすり這って進む始末。

  ただ、幼体の時に美しかった甲羅の幾何学模様は、10センチを超えた頃には、すっかり崩れてしまい、やがて、深緑の地にぼんやりと黄色い斑点が並ぶだけの地味な模様に変わってしまいました。 幼体の頃だけ甲羅が美しいのは、ミシシッピー・アカミミガメ(ミドリガメ)なども同じですな。 成体になると、見る影もなくなります。 しかし、ハナガメは、中国語で、≪斑亀≫と呼ばれるだけあって、首筋や前足に入った縞模様は、ずっと美しいままでした。 ちなみに、日本語名の ≪ハナガメ≫は、何でそう言うようになったのか、諸説あって、はっきりしないようです。 私の個人的意見としては、幼体の幾何学模様が花のように見えたからではないかと思っています。


  私は、2001年の10月から、2005年の11月までの約四年間、ホームページの亀サイトで、≪亀小話≫という、会話形式の物語を書いていました。 全部で250話に及んだ長期連載で、今思い返すと、「よく、毎週あんな話を考えて書き続けたものだなあ」と、自分で自分に感心します。 登場人物は、ハナガメの葉菜と、マレーハコガメの稀枝(まれえ)、それと私自身の他に、架空のゲスト達で、ギャグ・マンガのような軽いストーリーでした。

  葉菜は実質的な主役で、直情で単純、それでいて強欲という、分かり易いキャラにしていました。 ≪亀小話≫を始めた頃には、実際の葉菜も、そんな性格だったのです。 とにかく、エサをバクバク食べる、夜中に暴れて私の眠りを妨げる、ヒーターを持ち上げてボヤを起こしかける、出勤前の忙しい時にケージから脱走して走り回る、という、手のつけられない乱暴物だったのです。 ところが、その後、更に成長するに連れ、葉菜はおとなしくなっていきました。 ここ二三年は、すっかり静かなペットになって、私に迷惑を掛ける事はほとんどなくなりました。

  同時に、私の生活の中での葉菜の存在感は、次第に薄くなって行きました。 これは、小動物の宿命のようなもので、長期間飼っていると、世話をする作業だけが習慣になってしまい、動物そのものに対する興味が徐々に失われて行くのです。 犬や猫でも、飽きられてしまうケースがありますが、亀のように、人間との間に生物種としての距離がある動物では尚更それが起きやすいです。 亀は、喜んだりしませんし、甘えても来ません。 触られると首を引っ込めて、警戒心を剥き出しにします。 甲羅を撫でてやっても、不快に感じるだけ。 しょっちゅう顔をつき合わせていると、警戒心が薄れますが、それ以上に近い関係にはなりません。

  葉菜は非好戦的な性格でした。 マレーハコガメの稀枝と一緒にしても、自分の方からは決して向かって行ったりせず、いつも稀枝に追いかけられる側でした。 ≪亀小話≫では、オスという設定でしたし、私自身もオスのつもりで接していましたが、実際には、最後まで性別を確認しておらず、もしかしたら、メスだったのかもしれません。 特に晩年のおとなしさには、メスっぽい感じが漂っていました。

  いい加減な話だと思うでしょうが、亀の性別判定は、種類によっては簡単に出来ない場合があるのです。 クサガメのように、「メスは茶色のまま大きくなるが、オスの成体は大きくならず、全身が黒くなる」という、はっきりした違いがある種類もありますが、ハナガメでは、そういう差異が見られません。

  「頭を甲羅に押し込むと、総排泄口からペニスが飛び出す事でオスと分かる」という判定方法がありまして、稀枝の場合は、偶然それに似た状態になってオスだと分かったのですが、葉菜の場合、体が大きい事もあって、そういう荒っぽい確認方法が取れなかったのです。 身罷った今となっては、確認するつもりもありません。 遺体を損なってまで知らなければならない事ではないですから。


  埋葬後二日経ちましたが、葉菜の墓は、埋めた時のまま、平穏を保っています。 穴掘りが好きな、犬のシュンも、墓である事が何となく分かるのか、掘り返したりしません。

  今日は、葉菜の室内用ケージを洗って片付けました。 一昨年買った衣装ケースで、まだほとんど劣化していません。 さすがに服を入れる気にはなりませんが、天井裏にでも保存しておこうと思います。

  葉菜よ、 すまなかったな。 長い間、本当にありがとう。 お前の事は、決して忘れないぞ。 もっとも、あまりにも付き合いが長かったから、忘れようったって忘れられないけどな。