2010/06/27

Justice L1

  もう終わってしまいましたが、つい先週まで、教育テレビの日曜午後6時から、≪ハーバード 白熱教室≫という番組をやっていました。 ハーバード大学の、マイケル・サンデル教授が、大きな講堂に千人以上の学生達を集め、彼らと議論しながら進めた政治哲学の講義、≪Justice(正義)≫の様子を録画したものです。

  ハーバード大学では、講義は非公開が原則らしいのですが、この講義はあまりにも面白く、人気があったために、特例として、テレビ・カメラが入るのを許したのだとか。 NHK教育は、それを買って、放送しただけなわけですが、おそらく、過去に日本のテレビで放送された番組の中で、最も知的レベルが高いシリーズになったと思われます。

  取り上げている対象自体は、政治哲学の講義として、さほど珍しくない内容だと思いますが、過去の著名な哲学者達の説をただ紹介するだけでなく、問題を身近な例に置き換えて、学生達に考えさせ、彼らの意見を聞きながら講義を進める形式が、実にユニークです。 単に風変わりなだけでなく、この形式の方が、学生達に与える印象は確実に強くなりますから、教育方法としても、優れているわけですな。 サンデル教授の、教育者としての高い能力の賜物でしょう。

  私の場合、たまたま、放送時間にチャンネルを回し見していて、「おや! 面白そうなものをやっているぞ!」と飛びついて、知る事ができたのですが、教育テレビですし、時間も夕方と中途半端で、見逃した人も多かった事でしょう。 新聞でも、関係書籍の書評が一度出た程度で、そんなに話題にはなりませんでしたし。 しかし、これを見なかったのは、知的な事柄に興味がある人にとっては、相当痛い損失だと思います。 もし、DVDが出たら、買って見ても、損は無いような内容です。 

  放送は、全12回でしたが、一回が前半と後半に分かれていて、それぞれ30分ずつ、講義のレクチャー数にして、全部で24回分ありました。 私は録画して、毎回、3度くらい見直しましたが、それでも、全部理解できたかどうか分からない程度のレベルでした。 学生達に向けて出された、身近な例の質問が面白いので、ここで紹介して、私も考えてみようと思います。


  ≪レクチャー 1≫のテーマは、【犠牲になる命を選べるか】です。

≪時速100kmのスピードで走っている路面電車を運転している時、ブレーキが壊れている事に気付いた。 前方には5人の労働者がいて、そのまま直進すれば間違いなく5人とも轢き殺してしまう。 しかし、その手前に待避線があり、そちらへ行けば、1人の労働者を轢き殺すだけで済む。 あなたならどうするか?≫

  この質問に対し、ほとんどの学生は、1人を殺す方を選びます。 まあ、単純な算数ですな。 どうせ犠牲が避けられないなら、その人数は少ない方がいいという判断です。 ところが、サンデル教授は、もう一つ、質問を付け加えます。

≪ブレーキが壊れて、時速100kmで暴走している路面電車の情況は同じだが、今度は、あなたは運転手ではなく、線路の上に架かる橋から電車を見下ろしている傍観者である。 ふと気づくと、自分の隣に物凄く太った人物がいて、欄干から身を乗り出さんばかりにして、突進して来る路面電車を見ている。 その人物を橋から突き落として、路面電車にぶつければ、1人を犠牲にするだけで、5人の労働者を助ける事ができる。 さて、あなたはそうするだろうか?≫

  「1人を犠牲にして、5人を助ける」という設定は同じなのに、面白い事に、この質問には、大半の学生が、「突き落としたりしない」と答えます。 「この違いはなぜか?」と教授が問うと、学生の一人の答えは、「隣にいた太った人物は、ただそこにいただけで、事件とは無関係である。 無関係な人間を犠牲にはできない」と答えます。 それに対して、教授は、「待避線にいた労働者も、ただそこにいただけで、無関係である事に変わりは無いのでは?」と、指摘します。 その学生は、返答に窮してしまいました。

  もう1人の学生の答えは、「第一のケースでは、自分が運転手という当事者だったが、第二のケースでは傍観者であり、隣の人物を突き落とさなければ、事件に関与しない。 二つのケースの情況は異っている」と答えます。 教授は、この件については、それ以上、話を進めず、また別の質問を繰り出します。

≪あなたは、病院に勤務する医者だ。 そこへ、事故にあった6人の患者が搬送されて来る。 1人は重傷、5人は中程度の怪我である。 重傷の1人をつきっきりで治療すれば、その人は助かるが、残りの5人は死ぬ。 対して、5人を治療すれば、5人助かるが、重傷の1人は死ぬ。 さて、どちらを助けるか?≫

  学生達の答えは、大半が5人を助けるというものでした。 これも、算数の問題ですな。 犠牲者は少ない方が良いわけです。 そこで、教授はもう一つのケースを質問します。

≪今度はあなたは移植医である。 生きるために臓器移植が必要な患者を5人抱えている。 それぞれの患者が必要としている臓器は異なっている。 その時、あなたは、隣の部屋に、健康診断を受けに来た健康な人物が一人いる事を思い出した。 彼は昼寝をしている。 彼を殺して、その臓器を移植すれば、5人を助ける事ができる。 さあ、あなたはそうするだろうか?≫

   学生達の答えは、「そんな事はしない」というものでした。 ちょっと考えると、この問題も、「1人を犠牲にして、5人を助ける」という、路面電車の問題と同じ情況を設定している事が分かります。

  「結果が良くなる事が、正しい判断である」という考え方を、≪帰結主義≫というらしいのですが、「5人が助かるなら、1人を殺してもいい」という判断が、常に人々に支持されるわけではなく、帰結主義とは違う考え方が、人々の道徳意識には存在するという事を、教授は伝えたかったようです。

  これらの問題には、教授から正しい回答が示されるわけではなく、講義初回の導入部として、学生達の興味を哲学の問題にひきつけるために撒かれた餌のようなものだったようです。 この一連の講義では、この後も、学生達の意見に対し、「それは間違っている」とか、「それが正しい」といった、教授の判断が下される事はありません。 学生達に考えさせる事が目的であって、定説をそのまま教えようとは望んでいないからでしょう。

  サンデル教授の講義方針はさておき、路面電車の問題ですが、一体、どの判断が正しいんでしょうかね? もし、私が運転手だったとしたら、待避線には入りません。 「犠牲者は、5人より、1人の方がいい」という計算自体をせずに、そのまま、電車の進むに任せます。 そして、事故の後で、「パニックに陥って、何の判断もできなかった」と、弁明します。 もし、「5人より、1人」という計算をして、1人を殺してしまった場合、その1人の遺族に合わせる顔が無いからです。

  いかにやむを得なかったといっても、計算した上で、故意に、その1人を殺す方を選んだ事に変わりは無いですから、遺族としては、運転手を恨まないわけには行かないでしょう。 一方、5人殺してしまっても、「パニックで、何もできなかった」と言われれば、遺族は納得しやすいです。 もっとも、サンデル教授は、哲学的問題の例として、この設定を考えたのであって、こういう現実的な、生々しい回答を欲していたわけではないと思いますが。 これはこれで、別の問題の回答ですな。

  太った人物を橋から突き落とす方ですが、これは、考えるまでも無く、そんな事はしません。 「いくら巨漢であっても、時速100kmの路面電車を止められるかどうか分からない」とか、「うまく、電車の前に落ちるか分からない」とか、「そもそも、そんな大きくて重い人物を、突き落とせるかどうか分からない」とか、不確定要素が多過ぎる事もありますが、たとえ、その人を落とせば、確実に電車を止められると分かっていても、それをやったら、殺人でしょう。 「労働者5人を助けるためだった」といって、納得してくれる人がいるとは思えません。

  1人の重傷者と、5人の中傷者の問題ですが、もし、私が医者だったら、6人とも、均等に治療をします。 結果的に、6人全員が死んでしまったとしても、その事で、批判される事はないと思われるからです。 「うちの人だけ治療してくれれば、助かったのに!」とは、遺族の方で言えんでしょう。 たとえ、結果が悪くなっても、最善を尽くしさえすれば、それで、医者の義務は果たせるのです。 

  ちなみに、大災害の時に、怪我の程度によって、治療に優先順位をつける、≪トリアージ≫という手法がありますが、私は、あれにも反対です。 もし、自分の親が大怪我をして、それを背負って、救護所に駆けつけた時、「重傷過ぎるから、治療しても無駄」と判断され、放置されたら、キレてしまいますよ。 事によったら、そう判断した医者を、どさくさ紛れに殴り殺すかもしれません。

  たとえ、結果として、一人も助けられなくなるとしても、治療は、全員に均等に施すべきだと思います。 生き残る権利は、誰にでも均等に存在するからです。 「怪我が重い者ほど、生き残る権利が少ない」なんて、よく考えてみれば、滅茶苦茶ではありませんか。 常識的に考えれば、全く、逆でしょうが。

  トリアージは、野戦病院で始まった手法だそうです。 戦場では、戦闘可能な者が多い方が、全員が生き残る確率が高くなるので、重傷者後回しに理由が無いわけではありませんが、災害では、全く情況が違います。 時間が経過すれば、外部から救援が来るのですから、優先順位をつけるよりも、救援が来るまでの間、全員をいかに生き延びさせるかの方が重要な目標になります。 どこの誰だ、戦場の手法を、そのまま災害に当てはめようとした、考え足らずの馬鹿は?

  話を戻します。 5人を助けるために、無関係の1人を殺して、臓器を移植するという問題は、これまた、考えるまでも無く、殺人ですな。 サンデル教授得意の、身近な雰囲気がある設定ではあるものの、実際には起こりえない情況でして、例として適当かどうか、大いに疑わしいところ。


  こうして見ると、≪帰結主義≫というのは、あまり現実的ではないようですな。 実際の社会では、「結果良ければ、すべて良し」というのは通用しないのであって、「経過がどうだったかが大事」というケースが多いわけです。 そして、私達はみな、哲学の問題の中にではなく、実際の社会に住んでいるのです。

2010/06/20

2010年・初夏の読書

風邪を引きました。 先週の土曜日、あまりの暑さに耐えかねて、壁掛け扇風機を出したはいいんですが、調子に乗って、夜通し当たっていたら、日曜日には、呆気無く、風邪を引いていました。 最初は症状が軽くて、平日の間は、ほとんど普段と変わらない生活をしていたんですが、週末になったら、一気に悪化し、鼻水は止まらないわ、喉は痛いわ、「ワールド・カップどころじゃねーよ、勝手にやってんさい」てなもんで、ほぼ、ブラック・アウト状態です。

  というわけで、困った時の読書感想文の出番となりました。 いやあ、本を読むたびに、ちょこちょこ、感想文を書いておくと、こういう時に助かりますな。 とはいえ、写真を用意したり、こんな前置きを書くだけでも、かなり辛い状態でして、決して、手抜きではないので、その辺のところを、くれぐれもご承知おき下され。




≪ベトナム戦争≫
  題名だけ見ると、いかにも戦史という感じですが、期待に反し、戦争自体よりも、背景となった国際政治の経緯に焦点が当てられています。 特に書き込みが濃いのは、南ベトナム政府・歴代政権の内幕でして、それがこの本の最大の特徴といってもいいです。 南ベトナムがどんな国だったのか、消滅した後、誰も興味を持たなくなってしまったので、今となっては貴重な記述ですな。

  呆れるのは、ゴ・ディン・ジェム政権にファースト・レディーとして君臨していた、ゴ・ディン・ニュー夫人でして、こんな恐ろしい女が本当にいたかと思うと、冷や汗たらたら、戦慄を禁じえません。 政府に抗議して焼身自殺した僧侶を罵り、「バーベキュー」呼ばわりしたというから凄い。 死んだ坊さんも、あの世で顎が外れたでしょう。 しかも、この人道のかけらも感じられないセリフを、外遊中のアメリカで口にしたというのだから驚きます。 完全に女王気取りで、自分が周囲からどう見られるか、全く念頭に無かったのでしょう。

  南ベトナム政府のやっていた事を見ていると、「これでは、勝てなくて当然」という気がしますが、それほどひどくても、経済的には、北ベトナムよりも遥かに豊かだったというのですから、ちょっと理解しにくい所があります。 逆に言えば、経済的には豊かでも、政府は腐っていて、軍隊も使い物にならぬくらい弱かったわけだ。

  ちなみに、南ベトナム軍が戦っていた主な相手は、南ベトナム内の反政府ゲリラ組織、≪南ベトナム解放民族戦線≫、通称、≪ベトコン≫でして、北ベトナム軍ではありません。 つまり、相手は国内ゲリラだったわけですが、ずっと装備が優れているはずの政府軍なのに、全然敵わないんですな。 そもそも、戦う気が無く、「作戦」と言いながら、田園地帯をうろついていただけなのだとか。 そりゃ、負けもしようってもんだわさ。 

  アメリカ政府のベトナム政策についても、多くのページが割かれていますが、これらは、割合知られている事なので、新味はありません。 一方、北ベトナム側の記述は、比較にならないほど少ないです。 中国・ソ連についても、非常に希薄。 この点、この本は、一方に偏っており、一戦争の記録として失格なのですが、題名が、≪ベトナム戦争≫だからおかしいのであって、≪南ベトナムの戦争≫という題にでもすれば、ちょうど良くなると思います。 他の本には書いてないような事が書いてあるので、読む価値はあります。

  ただ、編年体になっていないので、時間軸が何度も前後し、ベトナム戦争全体の流れを知ろうと思うと、障碍が大きいです。 予備知識が無い人が読んだ場合、混乱する恐れもあります。 お世辞にも、初心者向けではありませんな。




≪考えないヒト≫
  携帯電話が普及してから、日本人の思考能力が衰えたという趣旨の研究。 携帯電話といっても、この本で問題にされているのは、会話ではなく、メールの方で、特に、ギャル文字や絵文字を使う事が、文字による情報から、図形による情報への移行を示していて、携帯に頼って暮らしている人間をどんどん考えなくさせているという分析が展開されています。

  著者は、霊長類の研究をしている学者で、専門は比較行動学。 しかし、この本は、生物学、生理学、社会学、言語学、記号学と、多くの分野に跨る学際的な研究の成果です。 人間社会が、現在どう変化しつつあり、今後どうなって行くかを解明しようと試みていて、新書とはいえ、さらっと読み流せない、重要な
テーマを扱っています。

  とはいうものの、少々、眉に唾をつけなければならない所も無いではなし。 ギャル文字の件りなど、100人中100人が、「こんな字では、意味が通じないだろう」と思うような例を挙げて分析していますが、こういうのは、例というより、例外と言うべきでしょう。 一国の社会全体の傾向を分析するのに、一体何人の人間が使っているのか疑問が湧くような極端な例をデータに使っていたのでは、信用できる研究にはなり得えません。

  また、「携帯メールの普及による人間の退化は、日本で最も進んでいて、携帯使用が日本以上に盛んな北欧では、さほど問題になっていないが、日本と共通した社会構造を持つ、韓国・中国、東南アジアなどでは、日本同様に、今後、急速に退化が進んでいくだろう」という結びも、かなりいい加減です。

  韓国の携帯文化が日本より進んでいるのは常識的な事ですが、この著者にはその認識が無いらしく、未だに、東アジアの≪雁行型発展モデル≫が生きていると思っている模様。 現状把握の段階で間違えているとなると、それらを基にした分析も間違っている可能性が高いです。 イメージだけで、十把一絡げはいかんで。 大家族が崩壊しているのは、東アジアだけではなく、発展度がある程度進んだ国では、世界中で見られる現象でしょうに。

  日本で携帯メールがよく使われるのは、パソコンのキーボードを打てない人が多いからだと思うのですが、その点にも全く触れていません。 日本語と外国語では、入力方式に大きな違いがあるのですから、なぜ日本でだけ、携帯メールへの依存度が高いかを論じるならば、当然、そちらの事情も考慮しなければなりますまい。

  ただ、それらの問題点を差し引いても、この本の提示しているテーマには、無視できない重要性があると思います。 「確かに、社会は変わりつつある」と気づかせてくれる、刺激的な指摘を含んでいるのです。




≪未来の思想≫
  昭和42年、つまり、1967年に書かれた本。 著者は小松左京さん。 初期の長編、≪果てしなき流れの果てに≫が1966年ですから、その翌年に書かれた事になります。 この頃、≪未来学≫というのが流行っていたらしいですが、それと濃い関係がある本じゃないかと思います。 ちなみに、≪日本沈没≫がメガヒットして、小松さんの名前が日本全国に知れ渡るのは、1973年。

  中公新書である事を見ても分かるように、小説ではなく、論文です。 前半と後半でテーマが異なっていて、前半では、人類が過去に、どんな形の未来観を抱いていたかを述べています。 未来観というと、SFチックに聞こえるので、過去と結びつきにくいですが、そんなに難しい事ではなく、死んだらどうなるかとか、各宗教で遠い未来にどんな世界が到来すると予想していたか、というような事です。

  後半になると、いわゆる普通にイメージされる、未来予測の類になります。 現在までに到達した科学技術の成果を述べ、それが発達して行ったら、どうなって行くかを予測しています。 後半だけ見ると、対象はもはや思想ではなくなってしまうので、≪未来の思想≫という題名からは外れてしまうのですが、その点は著者も承知していたらしく、後書きで、そういう本になってしまった理由を書いています。

  すでに、40年も前の本なのですが、そうと知っていなければ、今世紀になってから出版されたと思い込んでしまうほど、内容が古びていません。 特に後半の、科学技術の現状について書かれた件りを読むと、「40年前でも、ここまで分かっていたのか!」と、新鮮な驚きを覚えます。 逆に言うと、それ以降、ビッグ・サイエンスの分野では、発展に足踏みが続いているという事なのかもしれません。

  「人類はもはや、機械に頼らなければ、社会を維持できなくなってしまっている」という指摘は面白いです。 なるほど、確かにその通り。 これだけ人口が増えた状態で昔の生活に戻ったのでは、生産力が低くなりすぎて、餓死者が続出するでしょう。 人口を減らす事をためらわないなら、戻せん事もないと思いますが、そんな計画に全人類的な合意を得るのは困難です。

  この種の本、40年前だから出せたのであって、もし今だったら、作家はもちろん、学者でさえ、名を惜しむ人であれば、怖くて手を付けられないと思います。 予測がことごとく外れる危険性が高いからです。 人類社会全体が、科学技術の急激な発達に拒絶反応を示す一方、科学技術に頼らなければ生きていけないという板挟みの状態が、未来予測をひどく難しいものにしてしまったんですな。




≪朝鮮戦争≫
  書かれたのは、昭和41年、つまり、1966年でして、朝鮮戦争に関する分析としては、かなり古い時期の著作です。 まずそれを念頭において、読み始めなければなりません。 歴史というのは、人々の記憶に新しい頃より、時間が経ってからの方が、研究が進んで、正確な経緯が判明するという特徴があります。 戦史のように隠蔽される事が多い分野では、尚更その傾向が強まります。 すなわち、戦後間も無く書かれたからといって、その分、正確だとは限らないという事です。

  所詮、ページ数の少ない新書本ですから、3年も続いた戦争の、詳細な記録というわけには行かず、この本では、朝鮮戦争の政治的な流れだけを追っています。 しかも、朝鮮・中国・ソ連側の資料が、この頃の日本では手に入らなかったとの事で、専ら、アメリカ側の対応だけが記されています。 現代史の研究の難しさが、もろに出ていますな。

  已むを得ない事情とはいえ、基本資料に偏りがあるのは否定できないので、記述を全て鵜呑みにしないように心がけるべきでしょう。 著者は、極力、客観的な位置からこの戦争を眺めようとしていますが、もし、歴史という学問に誠実であるならば、資料が偏っている段階では、こういう本を出版しない方が、より良識的な判断だったと思います。

  著者が最も力を入れて記しているのは、戦争前半のアメリカ側指揮官であったマッカーサーが、いかに好戦的で、傲慢であったかという点です。 これは、知らない者にとっては意外な事実ですな。 朝鮮戦争に於けるマッカーサーというと、≪仁川上陸作戦≫などで、歴史的な名采配を振るったイメージがありますが、実際には、この人物のせいで、戦争が拡大し、長引いたのだそうで、功よりも罪の方が大きかったのだとか。

  最大の問題点は、本国アメリカ政府の意向を無視して、個人的な反共主義への執着から戦争の方針を決めようとした事です。 これだけ勝手放題な事をやったのでは、トルーマン大統領を怒らせ、戦争途中で解任されたのも当然という気がします。 朝鮮戦争当時、マッカーサーのおかげで国が復興したと考えていた日本人の大半は、こういった事情を知らず、帰国するマッカーサーを見送るために、沿道に20万人も繰り出したのだとか。 知らぬが仏ですな。

  戦争そのものに関する記述は皆無に等しいので、そちらを期待していると肩透かしを喰らいますが、大雑把な政治的流れを知るだけなら、分量的には、ちょうど良いと思います。 ただ、この本で使われている各国の呼び名には、現在、蔑称とされている物が多いので、影響されて、つい使ってしまうような事がないように注意すべきでしょう。


  今回は、以上、4冊。 前回も書きましたが、一冊当たりの感想が、どんどん長くなります。 極端な性格の持ち主というのは、一旦、ある方向に傾くと、そちらへズルズル引っ張られていく流れを止められないのです。

2010/06/13

はよせい

  ここのところ、パソコンの反応速度を上げようと、あれこれ悪戦苦闘しています。 以下は、その醜い葛藤の記録。 日記の方からの引き写しですが、それぞれ書いた日が違うので、一本の文章に纏めると、却って流れが悪くなると思い、日付の通りに並べます。


≪5月22日 (土)≫
  欲しい物が無いと、パソコン・ショップの広告にばかり目が行くようになります。 今使っているパソコンの反応速度が遅くなっているので、「いっちょ、高性能なのに買い替えるか」などとも思うのですが、値段云々より、新品を一から設定し直すのが面倒で、すぐに意欲が挫けてしまいます。

  それに、買い替えたとして、今のパソコンをどうするかも難題。 それでなくても不用品でいっぱいの押入れに死蔵するのは気が進みませんし、私が住んでいる自治体ではパソコンをゴミとして引き取らないので、捨てる事も出来ません。 リサイクル店へ持っていけば、最低でも引き取りはしてくれるでしょうが、その場合、HDDのデータを消去せねば危険で、それはそれで面倒臭い。

  更に思うに、「新しいのに買い替えんでも、今のパソコンを、データ空っぽにして、リカバリーすれば、買った直後の速さが回復するのでは?」とも思うのです。 いろいろと後から詰め込んだから、遅くなったに決まっていますけんの。 しかし、リカバリーすると、XPが初期状態に戻ってしまうので、SP3やその他のアップ・デートをダウンロードせねばならず、それがうまくいくのかどうか。

  と、そういう事を考えている内に、もう天井知らずに面倒臭くなって、「何もやらない!」と硬く決心して、終わりになるのです。


≪5月28日 (金)≫
  パソコンの反応が速くなるかと思って、IE8を入れてみたのですが、履歴を出すのに2クリック必要など、使いにくいばかりで、全然速くならず、動画の処理速度も変わらないので、すぐに削除してしまいました。 削除すると、自動的にIE6に戻りましたが、それはつまり、XPのSP3に、IE6が含まれているという事ですかね? 戻って良かった。 戻らなかったら、どうしようかと思いました。

  ついでに、キャノン関係のアプリケーションで、プリンター以外のものを、片っ端からアンインストールしました。 キャノンのカメラに付いて来たソフトですが、どれもこれも見事に一度も使いませんでした。 これで、多少は速くなったか? 関係ないか。

  90年代にやっていたアニメで、オープニングや第一話を無料で見られるサービスがあり、懐かしいので、見てみたいのですが、音声は出るものの、動画の方が飛び飛びになってしまうのです。 回線ではなく、パソコンの処理速度の問題だと思うのですが、あれを見る為には、パソコンを替えるしかなさそうです。 いやあ、しかし、ただそれだけの為に、5万円は出せませんぜ。 駄目駄目駄目、そんなの。


≪5月29日 (土)≫
  8年ぶりくらいに、デフラグをやってみました。 なんと、4時間以上かかりました。 少しは速くなったか? 関係ないか。 文の打ち込みの反応は、幾分良くなったような感じがします。

  今のパソコンでも、メモリなら、まだ増設の余地があります。 最大で512Mのところを、現在、128Mと256Mの二枚が入っているので、128Mの方を256Mに変える事ができるのです。 256Mのメモリは、2002年には8000円くらいしましたが、今日見に行ったら、3000円で売ってました。 ただ、メーカーは不明で、相性も不明。 買ったはいいが、動かなかったでは、アホなので、悩ましいところです。 また、メモリ容量が増えても、動画処理が速くなるとは限らず、不確定要素があまりにも多いです。 まったく、パソコンは、どの部品が何を担当しているのか、はっきりしなくて困ります。

  危なっかしい冒険に3000円払うより、確実な新パソコンに40000円払った方が利口なような気もしますが、何の為に高性能なパソコンが必要かというと、そもそもは、昔のアニメの無料動画が見たいという、それだけなのであり、見てしまえば、不要な性能になる事は分かっているわけで、何とも馬鹿馬鹿しい話です。 動画を諦める方が、正解という事でしょうか。


≪5月30日 (日)≫
  ネットで、パソコンの反応速度を上げる方法を検索してみました。 予想していた通り、「メモリを増やせと」いう指示が多かったですが、XPの設定を変えるだけで速くなるという指示もあったので、二つばかり試してみました。 画面の視覚効果を減らす方は、まあ、問題なく、負担は減ったと思います。 もう一つの、表示をクラシックにする方は、上下のバーの雰囲気が、あまりにもギスギスになりすぎて、感性的に我慢できず、大急ぎで元に戻しました。

  ところで、相変わらず、質問サイトの回答というのは、参考になるものと、無礼千万な雑言の玉石混交ですな。 最も腹が立つのは、「それは、ググれば分かるはず」といった、言わずと知れた事をわざわざ回答として書き込んでくる輩です。 何たる馬鹿か。 そんなに答えるのが嫌なら、最初から質問サイトなど見なければいいではないか。 質問者と良心的な回答者の邪魔になっているだけなのが分からぬか。

  敬語で質問されているのに、ため口や名詞止めの文で回答しているのも、あまり感心しません。 「教えてやる立場なのだから、自分の方が偉いのだ」とでも思っているんでしょうか。 他の回答者が丁寧に答えている中に、そういう回答が混じっていると、確実に愚かに見えます。 また、そういう回答に限って、短か過ぎの説明不足で、何が言いたいのか伝わりません。

  パソコン用語を勝手に縮めた略語を使う者もいますが、質問者はそれでなくても、パソコン用語に詳しくないに決まっているのですから、略語など使ったら、もう何が何だか分からなくなるのは必定です。 そんな事にすら配慮できないなら、質問サイトへの回答は控えるべきでしょう。

  それらはさておき、調べていたら、≪タスク・マネージャ≫という、CPUの使用率を表示する方法が分かりました。 で、動画の再生をしながら、それを見てみると、ダウンロードでもDVDでも、使用率100パーセントになってしまいました。 メモリの問題ではなく、CPUの限界だったんですな。 これでは、メモリを増設しても、意味は無いです。 ちなみに、メーカー品のパソコンの場合、CPUの交換は前提としていないので、そんな事は考えない方が良いらしいです。 私個人の感覚で言っても、そんな危なっかしい事はできません。


≪6月5日 (土)≫
  使っていないアプリケーション・ソフトのアンインストールだけでなく、ファイルの削除も、パソコンの動作速度を上げるのに寄与するようですな。 動画を保存してあったファイルの容量を見たら、2ギガもあって、どうせ見ないので、すっぱり削除したら、かなり反応が速くなりました。

  ファイルは、HDDに収まっているわけですが、HDDの空き容量が多ければ多いほど、動作が軽くなるようです。 ここがパソコンの奇妙なところで、HDDは本来、データを収めるためにあるのに、容量いっぱい使おうとすると、パソコンの動作を阻害してしまうというのです。 予め、動作専用のデータを入れる部分を別にしておけばいいのに。 確か、私が最初に買ったコンパックのパソコンは、一つのHDDを二つに分割して使うようになっていました。 あれは、動作専用の区画を分けていたんじゃないかと思います。


≪6月6日 (日)≫
  十日ほど前まで、パソコンを買い換えるつもりで、機種選定まで進めていたのですが、ソフトとファイルの削除で、今のパソコンが見違えるほど速くなってしまったので、その気がすっかり失せました。 やっぱり、「動画が見たい」なんていうのは、一時的な衝動欲求に過ぎなかったわけですな。

  それはさておき、インターネットの今後の方向ですが、どうも、≪文字 → 画像 → 動画≫という流れで、情報の質が変化している模様です。 今となっては、文字情報を読むためにネットを使っている人は、少数派になっているのではないでしょうか。 「ほとんど、動画しか見ない」という人が、何割くらいになっているのか気になるところ。 今、個人サイトやブログを立ち上げても、閲覧者が全然集まらないというケースが大半だと思いますが、文字情報そのものがそっぽ向かれているのなら、無理もない話です。

  ネットの良さは、一般人でも情報発信ができる事ですが、動画でなければ、価値ある情報を発信できないとなれば、それが可能な人は限られてくるでしょう。 私のように、文字止まり、写真止まりの人間は、退場するしかないわけだ。 情報は、受け手が価値を認めてこそ流通するのであり、発し手がどんなに意欲に溢れていても、それだけでは誰も受け取りに来てくれません。

  「今流行りのツイッターは、文字情報ではないか」と、思うでしょうが、私は、あのツイッターというのは、文字情報の衰退の証明にしか見えません。 長い文章を読むのが面倒になった人達が、わざわざ字数制限を設けた情報ツールに飛びついたのです。 ただ、所詮、文字情報である事に変わりは無いわけで、いずれ、個人サイトやブログと同様に衰微して行き、事によったら、呆気なく消えて無くなるのではないかと思います。

  今後売られるパソコンが、動画対応性能を重視してくるのは確実だと思います。 文字情報の価値が限りなくゼロに近づき、ネット接続したテレビに吸収されてしまう可能性すらあります。 個人サイトやブログの衰退を見るにつけ、双方向性が、利用者がネットに求めている機能の中心でないのは、明らかだと思います。 ネットを長くやっている人達ほど、ネット交友にうんざりして、サイトもブログも放置し、閲覧のみに逃げ込んでいるではありませんか。 初期の興奮が冷めれば、自分から何かを発信する気など、無くなってしまうのです。

  今後、サイトにせよブログにせよ、個人が情報発信する場は、どんどん減って行き、最終的には、企業や公共機関のサイトしか残らないのではないでしょうか。 ≪ウィキペディア≫に代表されるように、個人が発信する情報には、信頼性の限界があります。 間違った情報に踊らされて、損害を被っても、誰も責任を取ってくれません。 個人のいい加減さが、情報発信者としての資格を損なっているのです。 双方向性は、ネットの特徴である事は確かですが、≪特徴≫が必ずしも、≪特長≫ではなかったわけですな。 そして、もし、ネットから双方向性を捨てたら、それはもはや、チャンネルが多いテレビと大差ありません。


  まあ、それらの流れは仕方がないとして、私個人の問題は、ネットの方で文字情報が減少し、古いパソコンの使い道がどんどん限定されていく情況になった場合、今のパソコンでは、動画時代に全く対応できないという事です。 現状の使い方なら今のパソコンで間に合いますが、今後はどうなってしまうのやら。 いずれは、買い直す事になるか、もしくは、「動画は見なくてもいい」と割り切って、ネットそのものから退場するか、どちらかに決めなければならなくなるような気がします。  


≪6月11日 (金)≫
  パソコンですが、ハード・ディスクの≪エラー・チェック≫というのを実行したら、ますます動作が速くなりました。 起動や終了も、同じ機械とは思えないほど、パタパタ進みます。 買った当初は、こんなスピードだったんでしょうなあ。

  しかし、動画の方は相変わらず、CPU使用率100%で、まともに動きません。 苦々しく、フラッシュ・プレーヤーの画面を見ていたら、下のバーに≪HQ≫という文字があるのに気づき、そこにカーソルを持って行ったら、≪SQ≫、≪LQ≫と、画質が選べる事を発見。 なんだ、それならそうと端役イワン会! で、≪LQ≫にして見たところ、普通の速度で再生されました。 うーむ、感動的だ。 惜しむらく、画質は見るに耐えないものになりましたが。


≪6月12日 (土)≫
  ユー・チューブで、昔のアニメの見逃した回を見れる事が分かり、ちょこまかと見始めました。 CPUの能力が足りないために、音声だけ先に進んで、後から画像が、細切れで追いついて来るという、しょーもないズタボロ再生ですが、そこはそれ、想像力で補って、見たような気になろうという算段です。 

  ところが、CPU使用率100%の状態を長く続けたせいか、パソコンから回路が焼けるような臭いが漂い始め、慌てて再生を止めました。 やはり、無理なものは無理か。 これが不思議なもので、同じアニメでも、海外サイトでアップしている動画には、ちゃんと動く画像で、音声と同時に見れるものがあるのです。 別に画質を落としているわけではなく、それどころか、むしろ日本のそれより良いくらいなんですが、解せない話です。

  ネットで昔のアニメが見放題なら、パソコンを動画対応の物に買い換えても、損にはならないと思うのですが、果たして、私に、そんなにたくさん、見たいアニメがあるのかどうか。 それでなくても、人間、いつでも見られると思うと、却って見ないものです。 パソコンを買い換えたはいいが、2・3本見て終わりになってしまったりしたら、あまりにも馬鹿馬鹿しい無駄遣いというもの。 さてさて、どうしたものか。

  それに、こういう、ネット上で見られるアニメというのは、当然、違法なんでしょうなあ。 公式サイトでは、有料配信しているし、レンタル店に行けば、料金を取って貸している物なんですから、ネットでだけ、ただで見れるなんて、ありえない話です。 たぶん、アップした者だけでなく、見た方も、罪に問われるんでしょうねえ。 現実には、囮の配信でもしない限り、見ている人間が誰かを調べるのは難しいと思いますけど。


  もし、パソコンを買い換えるとしたら、CPUの性能に注目しなければならないわけですが、今は、≪デュアル・コア≫やら、≪クアッド・コア≫やら、CPUの構造が複雑になっていて、クロック周波数だけで性能の高さが分かるわけではないとの事。 「だったら、別の性能基準を示さんかい!」と思うわけですが、パソコンの使い方によって、適不適があるので、一概に数値化できないとの事。 あああ、面倒臭い! そんな事、素人に判断できるわけがありません。 「何にでも対応できるように、一番性能が良いものを・・・」などと安直な方向に走ると、あっという間に、10万円を超えてしまいます。 そんな出せるかいな!

  そうそう、パソコンのハードウェア関連のサイトを覗いていて分かったんですが、彼らが解説の対象にしているのは、基本的に自作パソコンであって、次が、DELLやヒューレット・パッカードなど、外国の専門メーカーのパソコンであり、三番目が、比較的マイナーな家電メーカーのパソコンだとの事。 なぜ、これらが対象になるかというと、市場で手に入る互換可能な部品を使って組み立てられているからだそうです。

  一方、対極にあるのが、家電メーカーのパソコンで、個性を出そうとして、独自規格の部品を使ったりしているため、弄りようがないのだそうです。 最悪なのが、ノート・パソコンで、狭い空間にあれこれ無理やり詰め込んでいるため、部品の交換など、物理的に無理。 また、性能も低いとの事。 やはり、そうだったか。 だけど、店に行っても、折り込み広告で見ても、ノート・パソコンの方が、種類がたくさん並んでいるから、≪パソコン=ノート・パソコン≫だと思い込んでしまっていて、後々、デスク・トップの方が安い上に性能も高い事を知り、愕然とする人も多いでしょうなあ。 お気の毒に。 


  いや、そんな事はどうでもよいとして、買い換えるべきか、買い換えないべきか、それが問題だ。 たとえ、ネットでアニメが見れるとしても、違法と分かっていて行なうのは、善良な市民として取るべき道ではありません。 こういう場面で、「そんなの、文句言われてからやめても遅くないよ」とか何とか、世故長けたふりをしていると、夏の日のけだるい昼下がりに、刑事が二人訪ねて来て、あっさり逮捕されてしまったりするのです。 「だって、見れるから!」なんて、切歯扼腕、抵抗したところで、違法行為は違法行為。 犯罪者である事を認めざるを得ませんわなあ。

  やっぱり、見たいアニメがあったら、DVDを買うか、レンタル店で借りて来るのが本道というものでしょう。 候補がそんなに何百本もあるわけじゃなし、パソコン一台分の金額の、十分の一も使わない内に、飽きると思います。 よし、パソコンの買い替えなんて、やめたやめた! はい、これで、この一件はおしまい!

  ・・・・と、すっぱりすっきり思い切れる性格なら、こんなに苦悩はしないわけですがね・・・。

2010/06/06

できる

  たまには、言語関連の事でも書きますか。 前に、≪はず≫という言葉について、「≪筈≫という漢字を使うのは、当て字だからやめた方がいい」というような事を書きました。 それと同じようなパターンが、他にもあります。


≪できる ⇔ 出来る≫
  ≪できる≫は、単独の動詞としても使いますし、≪~できる≫という風に、動作を含んだ名詞の後につけて、補助動詞のような形で使う事も出来ます。 ただし、動詞の活用には関らないので、助動詞の類には入りません。 それはさておき、この≪できる≫という言葉を、漢字で表そうとする時、普通、≪出来る≫を使います。 これが問題なんですわ。

  もう完全に習慣になっているので、大抵の人は考えもしないと思いますが、≪出来≫の二文字には、≪できる≫という言葉が表している、可能や許可の意味は全くありません。 字そのままの、≪出て来る≫という意味と、漢字熟語の≪出来(しゅったい)する≫から来る、≪発生する≫という意味しかないのです。 ≪出て来る≫にせよ、≪発生する≫にせよ、≪できる≫の意味とは、どうにも重なりません。 元は、そちらから出て来た言葉だと思うのですが、いつのまにか意味が変化してしまったんでしょうな。 可能や許可の意味なのに、≪出来る≫と書くのは、もはや、明らかに、当て字になってしまっているのです。

  実は、私も、この事に気づいたのは、ごく最近でして、それが証拠に、このブログの昔の方の記事を読むと、律儀に、全ての≪できる≫を、≪出来る≫と書いています。 それが、一度、当て字である事に気づいてしまうと、途端に使えなくなってしまうんですな。 文字なんていうものは、突き詰めれば、記号に過ぎないわけで、書く方と読む方が、どういう意味か承知していれば、当て字だろうが誤用だろうが問題無いと言えば問題無いんですが、そこはそれ、漢字の持つ魔力という奴で、なるべくなら、意味も正しい使い方をしたいと思うわけです。

  ≪できる≫の本来の意味で当てられるべき漢字というと、日本語では該当する字がありません。 中国語だと、助動詞で、≪能~≫や、≪可以~≫、≪会~≫、可能補語で、≪~得~≫などがありますが、それぞれ意味が違っていて、日本語の≪できる≫と、完全に重なる物はありません。 そもそも、≪能る≫とか、≪可以る≫と書いて、≪できる≫と読んで貰おうというのが、ちと無理な相談です。 旧仮名時代の、まだ日本語の漢字表記が一定していなかった頃なら、何とか読んで貰えたかもしれませんが、今では全く話にならんでしょう。

  で、しょうがないから、≪できる≫と、平仮名で書くしかなくなってしまったんですな。 ≪はず≫もそうでしたが、平仮名ばかり増えると、文章が馬鹿っぽくなって困ります。 特に、≪できる≫は、使用頻度が高いので、影響大。 でも、当て字と分かっていながら、≪出来る≫を使い続けるよりは、マシでしょうか。 これを読んでいるあなたも、気になって来たでしょう。 ≪出来る≫は、当て字なんですよ。 意味が間違っているのですよ。 そうと分かっていて、使う気になれますか? ほーら、もう使えない。 今日を境に、≪出来る≫とは、おさらばしなければなりません。 いひひひひ!

  ただ、一つだけ、≪出来る≫と書いてもいい場合があります。 それは、「家ができた」とか、「友達ができた」という意味で使う場合でして、これは、可能でも許可でもなく、どちらかというと、発生に近いですから、元の意味が生きているわけで、≪出来る≫と書いて差し支えないと思うのです。 しかし、こう言っても、すぐには、意味の違いがピンと来ない人も多いでしょうな。 ≪できる≫という言葉に、全く違う意味が二つあるなんて、考えた事が無いのが普通ですから。

  ちなみに、≪できる≫の仮名漢字変換の候補を見ると、≪出切る≫という字も出て来ますが、これは、それこそ、まるっとするっと根本的に意味が違うわけでして、「すべて、出てしまう」という意味ですな。 ≪出し切る≫の自動詞形なわけです。 う・・・・、今気づきましたが、この、≪~切る≫というのも、当て字の疑いが濃厚ですな。 別に、何かを切っているわけではないのですから。 これも、平仮名で書くべきなのか。 うぬぬ、馬鹿っぽさのベクトルが見る見る増大していくようだ。


  上でちょっと触れましたが、中国語の可能・許可を表す助動詞は、意味の違いによって、細かい使い分けがなされます。 ≪現代中国語辞典(光生館)≫の例文を引用しますと、

≪能~≫
  主観的な能力を表す。
「我能完遂任務」 (私は、任務を完遂できる)

≪可以~≫
  客観的な能力を表す。
「我可以明天走」 (私は、明日出発できる)

≪会~≫
  練習・修練によって、能力を得た場合に用いる。
「我会遊泳」 (私は泳げる)

  実は、可能補語を使うものが他にもあるんですが、ややこしくなる一方なので、省きます。 日本語人の感覚では、この種の使い分けは、ピンと来ないでしょう? みんな、「できる」で、一緒くたにしていますから。 しかし、中国語に於ける、可能・許可の概念区分が、他の言語より細かいというわけではなく、日本語や英語でも、これらを言い分けようと思えば、できない事はありません。 ただ、助動詞や補語といった、文法規則のレベルではできないので、表現が長くなってしまうだけです。 逆に、中国語人から見ると、これらの言い分けが簡単にできない言語というのは、かなり不便に感じると思われます。

  意味の使い分けではありませんが、日本語でも、可能・許可の意味を出したい時、動詞を活用させる方法と、動作を含んだ名詞に、≪~できる≫をつける方法の、二つがありますね。

「写真を撮れる」
「写真を撮影できる」

  全く同じ意味を表すのに、二つの表現方法があるのは、無駄だと思われるかもしれませんが、実は、どんな言語でも、重要な表現には、この種のパイパスが用意されています。 英語にもあります。

「I can take a photograph.」
「I am able to take a photograph.」

  こういうのは、一つの文章に同じ動詞を二回、接近して使わなければならないような時、文が単調にならないよう、表現を変えるのに有効です。