2020/02/23

EN125-2Aでプチ・ツーリング ②

  いきなりで、何ですが、パチンコ&スロットABCのテレビCMが、気に入っています。 若い女性が、一人旅で、有名な観光地や景勝地、温泉地などへ出かけて行き、現代風の短歌を詠むという内容。 今の所、8種類あるようです。 静岡、山梨、長野、愛知にしか店舗がないそうで、地方CMなのですが、ネット上でも、見る事ができます。

  私は、パチンコもスロットもやりませんが、テレビCMは、結構、流されているので、否が応でも目に入って来ます。 ちょっと見ただけでは、パチンコ屋のCMとは思えません。 このCMを見ても、パチンコをやりたいという気にはなりませんけど、私は、そもそもやらないから、それはどうでもよいこと。 なぜ、旅行会社が、こういうCMを作らないのか、不思議でならぬ。

  このCMを見ると、「旅は、いいなあ」と、つくづく思います。 明るく、未来に希望を感じさせる音楽もいいです。 実際には、女性の一人旅は少数派で、二人以上の場合が多いのですが、一人旅には、一人旅独特の、気楽さ、自由さがあるのは、大人の経験者なら、誰でも認めるところでしょう。

  というわけで、バイクによるプチ・ツーリング紀行の、第二回目です。




【長泉町森林公園】

  11月16日、バイクを出し、長泉町の山の方へ行って来ました。 駿河平の上から、更に、山奥へ入って行ったら、「長泉町森林公園」の案内標識があったので、そこへ向かいました。 愛鷹山の中腹です。

≪写真1≫
  駐車場に停めた、EN125-2A。 ガラガラだったのですが、念の為、車の邪魔にならないように、三角スペースに停めておきました。 一応、後輪に、ワイヤー・ロックをかけてあります。

  後ろの方に付いている黒のヘルメットは、白から塗り直したもの。 こういう所に、ヘルメットを付けたバイクを置いて、山に登って来るのは、不安がありますが、そもそも、人が少ない所なので、悪戯された事はないです。

≪写真2左≫
  駐車場。 20台くらいは、停められそうです。 ここが、一杯になる時があるんでしょうか。

≪写真2右≫
  駐車場の隅に、ちょっとした高台があり、人間の背丈くらいの櫓が建ててありました。 この写真は、その階段を上から撮ったもの。 中央に、棒が立っていて、大人では、かなり、通り難いです。 何の為に仕切ってあるのか、分かりません。

≪写真3≫
  森林公園の展望台は、上の方にあります。 そこまでは、こんな感じの杉・檜林の中を、登って行きます。 丸太階段の所もあって、登山コースというよりは、ハイキング・コースです。 20分くらい、歩きます。

≪写真4≫
  ここが、森林公園の展望台。 少し、林が切り開いてあります。

≪写真5≫
  ところが、櫓が低過ぎて、遠くが、ほとんど、見えませんでした。 辛うじて、木の間から見えたのが、この程度。 沼津市の西方、駿河湾、伊豆半島の北西部が見えます。



【池の平】

  地図を見たら、長泉町森林公園から、もう少し上がると、池の平に着くようだったので、そちらまで、足を延ばしました。 池の平には、2008年、位牌岳などに登った時に、来ています。 その時は、水神さんから登ったのですが、途中で、同じ道に合流しました。

≪写真1≫
  なだからかな、こんな道を、上がって行きます。 森林公園の展望台から、10分くらいです。

≪写真2左≫
  池の平に到着。 2008年の写真データを見ると、駐車場がある水神さんから、45分くらい、かかっています。 長泉町森林公園からだと、30分くらいですから、こちらの方が近かったんですな。

  この時点で、2時40分。 うちは、夕飯が早いので、ゆっくりしている時間はありません。

≪写真2右≫
  池の平から、愛鷹山の上へ向かう道。 2008年には、この深い森へ入って行きました。 これが、朝ならば、先へ行ってみたいという気持ちになるのですが、もう、日が傾き始めている時間だと、本能的に、怖さだけを感じます。

≪写真3≫
  池の平、全景。 そんなに広いわけではないですが、テーブルと椅子のセットが何基かあり、ハイキングで食事をするには、適当な場所です。 双眼鏡もあります。 この時は、一組、先客がいました。

  うちにある、古い地図では、近くに池らしきものが載っているので、それが、名前の由来ではないかと思うのですが、前回も今回も、池を見つける事ができませんでした。 案内標識も、なし。

≪写真4≫
  池の平は、眺めが抜群でした。 駿河湾の東側一帯が、一望できます。 2008年にも、ここへ来ているわけですが、その時は、霧が出ていて、眺望がこんなに良いとは知らずに、通り過ぎていました。 もう一度、来れて、良かったです。 バイク生活を復活させた甲斐があったというものです。


  予定外の登山で、1時間以上、費やしてしまい、家に戻ったのは、4時近くでした。 夕飯には、間に合いましたけど。



【早霧湖】

  12月20日に、午後からバイクを出し、前の週に辿り着けなかった、修善寺の早霧湖(さぎりこ)へ、再挑戦しました。 別の道を調べて行って、その通りに進んだら、何とか、到着しました。

≪写真1左≫
  案内標識がなくて、すぐ近くに来てから、ようやく、一枚見つけました。 ここまで来れば、もはや、案内は必要ないという距離です。 案内標識が少ないのは、釣り人が優先で、静かな環境を維持する為に、一般観光客は積極的に呼びたくないからではないかと思います。

≪写真1右≫
  早霧荘。 釣り人用の宿のようです。 駐車場がありますが、宿の客しか使えないのか、湖を見に来ただけの者も使えるのか、はっきり分かりません。

≪写真2≫
  釣り人用の桟橋。 結構、人がいました。 どうやって入って行くのか、分かりません。 早霧荘の釣り客しか入れないのかも。

≪写真3左≫
  折り悪く、堤防の工事をやっていて、早霧荘側は、眺望が悪かったので、対岸に見えた、水神社の方へ行ってみました。 一旦、上の道路に上がり、道路脇にバイクを停めて、そこから、遊歩道を歩いて行きました。

≪写真3右≫
  水神社の社。 祠と言うべきか。 天保年間に作られたようです。 山の中だけあって、もちがよいと見えます。

≪写真4≫
  水神社側からの眺め。 こちらも、全体を見渡せるほどではありませんでした。

≪写真5≫
  上の道路の脇に停めた、EN125-2A。 20分くらい、離れていましたが、悪戯されるような事はありませんでした。 そんなに人がいないのです。 道路を挟んで、反対側は、ゴルフ場になっています。

  早霧湖は、湖畔が少なくて、一般観光客がたくさん押しかけても、収容しきれないような所でした。 母の話によると、私が子供の頃に、父が運転する車で、2回来ているとの事。 しかし、湖に関しては、全く覚えていませんでした。




  今回は、ここまで。

  以前、書いたように、私は、バイクで出かける時には、専用のスニーカーを履いているのですが、行った先が山だと、登山になってしまい、スニーカーでは、ちと、無理があります。 いや、登れる事は登れますが、山歩きにスニーカーを使っていると、損耗が早くて、靴がもったいないのです。 さりとて、登山靴や、安全スニーカーだと、大抵、紐靴なので、バイクの運転には向きません。 痛し痒しですな。

  バイクで出かけても、登山なんかしないという人も多かろうと思いますが、そういう人は、そもそも、山を目的地にしないので、行き先が減ってしまうのではないかと思います。 せいぜい、3時間程度で帰ってくるプチ・ツーリングでは、行動半径が小さいせいで、行き先を探すのが、一苦労でして、山を除外するのは、つらいですなあ。

  靴下ですが、冬に入って以降、とらやで買った、裏起毛ハイソックスを穿いていて、暖かさ的には、充分です。 私が乗るのは、正午過ぎから、午後3時頃までなので、そんなに気温が低くないのです。 朝や夜、通勤にバイクを使っている人には、薦めません。 ブーツを買った方がいいです。

  乗っている間は良いのですが、行った先で、ある程度の歩数を歩くと、ズリ落ちて来ます。 再び乗って走り出すと、普通の靴下と変わらない部分しか覆えていないので、寒く感じます。 乗る前に、引き上げる癖を付ければいいのですが、なかなか、習慣にできないまま、何度か寒い思いをし、面倒臭くなって、靴下止めを買ってしまいました。 それに関しては、いずれ、紹介します。

2020/02/16

EN125-2Aでプチ・ツーリング ①

  いきなりで、何ですが、大分麦焼酎・二階堂のテレビCMが、気に入っています。 高齢男性が、二眼レフのカメラを首にぶら下げて、あちこちを、一人旅し、古本屋に入ったり、LPレコードを物色したり、焼酎を飲んだり、好きな事をやり倒し、とどめに、飛行機で帰るという、豪勢さ。

  ちなみに、ネットでも見れますが、テレビで見たいのなら、BS-TBSで、水曜日の夜9時から放送している、「美しい日本に出会う旅」を見れば、間に挟まっています。 二階堂のCMとしては、最新版ではないようですが、まだやっているという事は、評判がいいのでしょう。 このCMには、一人旅の楽しさ、豊かさが、余さず、映像化されていると思います。

  そんな風に鑑賞している内に、ふと、思いつきました。 私も、昨年の9月に買ったバイクで、プチ・ツーリングをしており、日記ブログ用に、組み写真と解説文も作っているので、それを、このブログでも、アップしたらどうかと。 このブログでは、紀行文を滅多に出さないのですが、中には、プチ・ツーリングとは、どういう所へ行くものなのか知りたいとか、バイク・ツーリングそのものが、どういうものなのか想像もつかないという人もいるかも知れないので、敢えて、出してみようと思います。




【蛭ヶ小島 / 江川邸】

  10月6日の午後、バイクを出し、チェーン交換後の初乗りに行って来ました。 それまでは、街乗りだけでしたから、遠くへ行ったのは、この時が初めてだった事になります。 国道136号で、伊豆半島の中央部を南へ。 伊豆国市・韮山にある、蛭ヶ小島を目指しました。

≪写真1≫
  ここがそう。 源頼朝と、北条政子の銅像が出迎えてくれます。 他には、売店が一軒、漢数字の屋外時計が一つ、移築古民家一軒。 駐車場は、10台分くらいはあります。

≪写真2左≫
  「永歴元年(1160) 遺跡 源頼朝公 配流の地 蛭ヶ小島(ひるがこじま)」の石碑。 といっても、大体、この辺のどこかにあったのだろうという、推定の場所です。 私の母が学生の頃、つまり、70年くらい前ですが、その頃には、もうあったらしいですから、推定の地と言っても、だいぶ前から、決まっていたわけだ。

  昔は、狩野川の中州が点在していて、その内の一つが、蛭ヶ小島だったとの事。 頼朝は、14歳で、ここに流され、31歳で、政子と結婚してからは、北条館に移り住んだので、大体、17年くらい、この辺に住んでいたらしいです。 旗揚げしたのは、34歳の時。

≪写真2右≫
  初ツーリングのEN125-2Aですが、チェーンに注したオイルが飛び散って、後輪の左側が、べちゃべちゃに。 帰ってから、拭き取りました。 一度、飛びきってしまうと、もう、それ以降は、飛びません。

  チェーンは新品になったものの、ハンドルがフラつくのが直ったわけではなく、普通の交差点で、曲がるのが怖いという、困った問題が、クローズ・アップされて来ました。 やむなく、この翌日には、ヤフオクで、ステム・ベアリングを落札し、交換作業へ踏み出す事になります。

  ヘルメット・ホルダーに付けてあるのは、夏用にしている、シールド付きジェット・ヘルの、「アライ SZ-αⅢ」。 これは、2006年6月に、27500円で買ったもの。 色は、アルミナ・グレー。  一度、落として、キズが付いていますが、あまり目立たないので、そのまま使っています。 この色なら、黒いバイクと組み合わせても、違和感はありません。

  ナンバーが白に見えますが、これは、光の加減で、実際には、ピンクです。

≪写真3左≫
  敷地内にある、移築古民家、「静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅」。 18世紀中頃以前の建物だそうです。 1979年に、ここへ移築。 それからでも、随分経っていますな。

≪写真3右≫
  内部。 暗いです。 恐らく、障子を全開にしても、奥の方は、薄暗いと思います。 中には、古民具が置いてあります。 この手前は、広い土間になっています。

≪写真4左≫
  天井。 移築時に使った縄は、まだ縄らしい色をしています。 移築以降、中で火を使っていないからでしょう。 普通は、古民家の天井は、煤で真っ黒です。 よく、囲炉裏や竈を焚かないと、藁屋根が腐ると言いますが、後付けした理由のような気がしますねえ。 天井が真っ黒になるのは、結果に過ぎますまい。

  中で火を使った程度で、あの分厚い藁屋根を乾燥させられるとは思えません。 この建物が、移築後、40年間、火を使っていないのに、屋根が腐っていないのが、いい証拠です。

≪写真4右≫
  すぐ近くにある、江川邸にも行きました。 と言っても、中には入らず、裏門から、庭を撮影しただけ。 江川邸は、一度は見る価値がありますが、何度も入るような所ではないです。 有料になってからは、尚の事。

  江川英龍(坦庵)という人は、幕末の代官で、江戸湾のお台場とか、韮山反射炉とか、日本初のパンとか、いろんなものを作った人。 世界遺産の一部になった、韮山反射炉も、ここから、10分くらいで行ける距離ですが、どうせ、中に入る気がないので、行きませんでした。

≪写真5≫
  江川邸の裏手に、以前は、郷土資料館のようなものがあったのですが、今回行ったら、この建物に建て替わっていました。 入り口がどこにあるのか分かりません。 江川邸のホーム・ページにも記載がなく、一般公開している施設ではないのかも知れません。



  【蛭ヶ小島 / 江川邸】の後、10月20日に、南箱根の、【日金山 / 十国峠】に行っていますが、その時は、カメラを持って行かなかったので、写真がありません。



【達磨山①】

  11月6日、EN125-2Aで、伊豆半島北西部にある、「達磨山レストハウス」と、「達磨山」に行って来ました。 「達磨山」は、「だるまやま」と読みます。

  沼津市の海岸線沿いに、西浦まで走り、古宇(こう)から、山に入りました。 結構、登ります。

≪写真1左≫
  これは、戸田峠のすぐ下にある、展望所。 車を数台、停められます。 しかし、眺望は、今一つです。

≪写真1右≫
  戸田(へだ)峠。 沼津市と伊豆市の境界。 こんな所に、バス停がありました。 修善寺と戸田を結ぶ路線があるのでしょう。 戸田村は、平成の合併により、沼津市の一部になってしまいましたが、東京方面から、戸田に向かう場合、沼津に出てから、海岸線を行くより、修善寺から、山越えした方が、早いです。 2008年の2時間サスペンス、≪タクシードライバーの推理日誌24 【同時殺人の乗客!! 東京~伊豆海岸 記録された20秒間の疑惑!?」】≫でも、このコースを通っていました。

  この近くにも、駐車場があります。 「金冠山」という山があり、その頂上までは、15分程度、山道を歩くだけで、着きます。

≪写真2左≫
  「達磨山レストハウス」。 戸田峠から、修善寺方向へ、5分も走ると、ここに着きます。 紛らわしいですが、名前に反して、達磨山とは、だいぶ離れています。 この建物の中に何があるかは知りません。 一度も入った事がないのです。

≪写真2右≫
  レストハウスの駐車場。 20台以上は置けそうです。 ここは、大変、眺望が良いので、このくらいの駐車場があっても、全然、不思議ではないです。 この日は、平日だったんですが、そこそこ、来訪者がいました。

≪写真3≫
  レストハウスの展望所から眺め。 北方向を向いています。 富士山、その手前に、愛鷹山。 遠くに見えるのは、丹沢山系。 海は、駿河湾のキノコ形の、右の笠部分。

≪写真4≫
  上の写真より、右側を見た景色。 海の近くに伸びているのが、沼津アルプスです。 遠くに見えるのは、箱根山系。



【達磨山②】

≪写真1≫
  レストハウスから、戸田峠に戻り、西伊豆スカイラインを、南へ向かいました。 昔は、有料道路だったところ。 ものの5分で、達磨山の麓に到着します。 駐車場は、2台分くらいしかありません。 バイクは、車が入れない所に停めました。 少し離れた所になら、路肩に駐車できる場所がありますから、そこから歩いても、そう時間はかからないでしょう。

  ヘルメットは、バイクに着けて行きます。 登山中に、ヘルメットを盗まれる可能性は、かなり低いです。 人の物を平気で盗むタイプの人間は、山になんか来ないんですな。 たぶん。

≪写真2≫
  これが、達磨山。 達磨山は独立峰ではなく、麓といっても、登り口があるのは、山腹なので、山頂まで、普通に歩いて、15分くらいしか、かかりません。 道も、丸太階段なので、普通の靴でも、汚れるような事はないです。 両側の藪は、肩よりは低くて、眺望が利く所が、ちょこちょことあります。 この異世界的な雰囲気が、達磨山の醍醐味ですな。

≪写真3左≫
  山頂。 標識が光ってしまっていますが、標高981メートルと書いてあります。 15分歩くだけで到着する山頂にしては、結構な高さですな。

  下の方に置いてあるのは、ラジコンの飛行機。 たぶん、モーター電池式。 趣味の人が、5・6人いて、飛ばしていました。 滑走路は不要で、投げるだけで飛び立てる模様。 しかし、その人達が占拠していたので、長居ができませんでした。 狭い所ですから、長時間いるのは、勘弁してほしいです。

≪写真3右≫
  「山岳の誌」。 達磨山について書かれています。  名前の由来は、山の形が、座禅した達磨大師に見えるからだそうです。 伊豆半島の南東の方に、万二郎岳、万三郎岳という山がありますが、達磨山の事を、万太郎岳と呼ぶ事もあるのだとか。 初めて知った。 昭和53年(1978年)に、戸田村出身の方が建てた石碑。

≪写真4≫
  下りる途中で、見下ろした、戸田村。 さすがに、高さが、千メートル近くあると、遠いですな。 これが、もっと高くなると、ぼやけて、見えなくなってしまいます。 富士山にも登った事がありますが、下界の景色の印象は、ほとんど、ありません。

≪写真5≫
  下りる途中に見た、北側の景色。 西伊豆スカイラインが、少し見えます。 尾根道なので、見ても、走っても、気持ちがいいです。

  雲が、富士山の山頂噴火口から出ている煙のように見えますな。 ギャートルズっぽい。 ちなみに、愛鷹山は、古い火山で、フィリピン海プレートに運ばれて来た伊豆半島が、本州に突っ込んでから噴火が始まったのが、富士山です。



  この後、11月12日に、愛鷹山麓の、【水神さん】に行っていますが、その時も、カメラを持って行きませんでした。 【達磨山】を最後に、夏用ヘルメット「アライ SZ-αⅢ」は、洗って、しまってしまい、【水神さん】からは、塗り直した冬用ヘルメット「アライ アストロe」を被って行きました。




  今回は、ここまで。

  手前味噌ですが、組み写真というのは、旅の記録には、案外、相応しい形式なのではないかと思います。 実用を考えれば、写真を1枚ずつ出して、そのつど、解説文を添えた方が、断然、読み易いのですが、それをやろうとすると、写真のアップが、大変になってしまいます。 私は、面倒臭がりなので、とても、そういうマメな作業には耐えられません。

  物事は、いい面を見なければ行けませんな。 組み写真にもいい所はあります。 解説文が読み難い代わりに、「この旅では、いろんな所へ寄って、いろんなものを見たんだよ」という華やかな感じがするのです。 なんとなく、旅行雑誌みたいな。 いや、旅行雑誌を買った事がないから、分かりませんけど。

  組み写真のコマに、番号を振れば、解説文が探し易くなりますが、それでは、新聞の組み写真みたいで、写真の品質を損なってしまいます。 で、このシリーズは、このままで行こうと思います。

2020/02/09

ズレた人達② 【自己顕示欲】

  世の中にいる、異常な人達、困った人達、迷惑な人達について、書くシリーズ。 今回は、自己顕示欲が強い人達を取り上げます。 ところで、私は、精神医学の入門書を何冊か読んだ程度でして、専門知識があって、これを書いているわけではありません。 それは、専門用語が出て来ない事でも分かると思いますが、念の為、断っておきます。




  独り言に似た行為で、人前で歌を歌う人がいます。 居酒屋でのカラオケとか、のど自慢大会とか、合唱団とか、そういう場での話ではありません。 「それはそれで、迷惑だ」という意見には、頷けるところがありますが、私が言いたいのは、本来、歌を歌う状況や場所柄ではないのに、歌っているというケースです。

  最近、一人で自転車で走っている高校生が、歌を歌っているのに出くわし、ギョッとしました。 それを、別の場所、別の人間で、二回、見ました。 いずれも、周りに、友人などがいるわけではなく、その少年一人なのですが、小声で口ずさむという感じではなく、普通の声量で、歌っているのです。 二人以上でいる時に、興が乗って、合唱し始めるというのなら、別におかしくありませんが、一人で歌っていて、私という赤の他人とすれ違う時も、やめようとしないのですから、そこはかとなく、恐ろしい。

  もし、本人が、それを大した事ではないと思っているのなら、独り言の重症と、ほとんど、同じだと思います。 内界と外界の境が分からなくなっているわけだ。 分かった上で、自分が歌がうまい事を、他人に知らせたい、もしくは、自分が、こんな歌に興味があるという事を、他人に知らせたいと思って歌っているのだとしたら、自己顕示欲の強過ぎで、それはそれで、病的です。


  今は、だいぶ、減りましたが、カー・ステレオの後付けが流行していた80年代に、大ボリュームで音楽をかけ、しかも、窓を全開にして走るという連中が、かなりの割合で存在していました。 あれも、自己顕示欲の強過ぎで、音楽を大ボリュームで聴きたいから、そうしているのではなく、他人に、自分がどんな曲に興味があるかを知って欲しくてやっていたのです。 何とも、情けないやつらであったことよ。

  他人からすれば、大迷惑なのですが、本人は、周囲から、馬鹿・キチガイと見做されているとは、夢にも思わず、自分のセンスに感心して貰う事を期待していたのだから、その落差の大きい事大きい事。 あの連中、その後、どうしたんでしょうねえ。 外の音が聞こえないから、事故を起こし易かったはずで、みんな、死んでしまったんでしょうか。 とにかく、数が減って良かった。


  もう、一年以上前ですが、私が運動登山で、しょっちゅう登っている山で、演劇のセリフを大声で喋りながら歩いている人を、2回、見た事があります。 同じ人物でした。 俳優が、電車の中で、セリフを覚える為に、ブツブツ喋っているというのは、聞いた事がありますが、その人も演劇をやっていて、セリフを覚えていたんでしょうかね? もう、相当な高齢者でしたけど。

  だとしても、あの大声は、不要でしょう。 突然、そんなのが現れると、こっちは、仰天です。 ぼそぼそ独り言を言っている方が、まだ、マシだ。 たぶん、あの人、精神異常の領域に陥っていたと思うんですよ。 登山に出会いを求めていて、他人から、「演劇をやっているんですか?」と尋ねられたくて、そんな事をしていたという可能性もあります。 だけど、大声でセリフを喋りながら歩いている人に、声をかける他人なんて、いませんぜ。 頭のおかしい人間には関わらないようにと、そそくさ逃げて行くでしょう。 私も、そうしました。

  あなたが、演劇をやっているかどうかなんて、他人は、全然、興味がないんですよ。 セリフをどんなに大声で喋ったって、「記憶力がいいな」とすら思ってくれません。 ただただ、狂気を感じて、怖気を振るうだけです。 本人が、それが分からなくなってしまっているのが、病的ですな。 家族は、知っているんでしょうかね? もし、知っているのなら、即、精神科や心療内科へ連れて行かないまでも、「それは、おかしいよ」と指摘してやった方がいいと思います。 身近な人に言われて、気づき、やめる場合もありますから。 他人は、そんな事、言ってくれません。


  自己顕示欲で、最低にしょーもないというのが、街なかの落書きでしょうか。 あれは、汚いわ。 絵や文字そのものも汚いですが、その背後にある、描き手の自己顕示欲が、剥き出しで見える、そこが、最も醜く感じられます。 本人の考えが浅はかで、己の醜い心を垂れ流している事に気づいておらず、「自分の存在証明」だの、「ストリート・アート」だの、どこから聞き齧って来たのか分からない屁理屈をダシにして、街を穢しまくってのだから、あまりの愚かさに、熱が出てくる。

  存在証明? 落書きをしなければ、自分の存在に自信が持てないというのが、すでに、異常です。 自我が確立していれば、ただ、生きているだけでも、自分は自分だと思えるのであって、何かやって、他人に訴えかけなければ、自分が何者なのか分からなくなってしまうというのは、人格が出来ていない証拠です。 落書きなんかでごまかせるものではありますまい。

  ストリート・アート? その概念そのものが間違っている。 アートを名乗るなら、そのアートを理解する人にだけ、鑑賞させなさいと言うのよ。 なんで、鑑賞したくない人間にまで、垂れ流すんですかね? 芸術の垂れ流しは、嫌いなジャンルの曲を、延々エンドレスで聴かされるのと全く同じで、拷問以外の何ものでもないです。

  そういや、≪マーズ・アタック≫というアメリカ映画がありましたな。 地球に侵略して来た火星人の弱点が、カントリー・ウェスタンを聴かされると、頭が爆発してしまうという設定で、抱腹絶倒、大笑いしました。 分かる分かる! 私も、演歌や、異様に暗いフォーク・ソングを聴かされると、頭が爆発するような気分になります。 いや、これは、脱線ですが。 話を戻します。

  他人から感心して貰えると思って描いているのだとしたら、見させられる側との認識のギャップが、恒星間の距離ほどに大きい。 汚いとしか、思われていないというのよ。 落書きをするような人間を、同じ社会に住む構成員だとは思っていないです。 すぐに塗り潰さないのは、落書きに芸術的価値があると認めているからではなく、あまりにも穢らわしくて、関わるのもおぞましいからです。

  落書きをされている側で、橋やガードを造っている、事業主体があると思うんですが、監視カメラで犯人を特定して、民事裁判で、旧状回復の為の損害賠償を請求するようにしたらどうですかね。 いくら馬鹿でも、莫大な借金を抱え込めば、やめるでしょう。 それが、通例になれば、街が、相当には綺麗になると思います。


  自己顕示欲が強くても、それを発揮する場所が、適切であれば、問題にはなりません。 歌だったら、冒頭に書いたように、カラオケとか、のど自慢大会とか、合唱団に所属するとか、そういう場所で歌う分には、文句は言われないでしょう。 場所を弁えず、他人の迷惑も弁えずにやるから、問題行動になってしまうのです。

  人の迷惑が分からないというのは、大人になっていないという典型的な証明でして、「私は、この歳になっても、3歳児レベルの精神構造で生きています」と触れ回っているのと同じです。 年齢的には、いい大人なのに、社会人どころか、幼稚園児並みの社会性も獲得していないのだから、呆れ果てる。 ある意味、蜂や蟻にも及びません。

  ちなみに、「個性」と、「自己顕示欲」は、全然異なるものなので、勘違いしないように。 また、学生時代までならまだしも、社会人になってから、「個性」が重要視されるのは、芸能人や芸術家、起業家など、一部の職業に限られます。 それ以外で、個性が活かせる職業というのは、ほとんど、ないです。 むしろ、邪魔になります。 個性ですら、評価されないのに、自己顕示欲に於いてをや。 話になりません。

2020/02/03

新型肺炎騒ぎ

  普段、週に1回の更新ですが、2月2日に、ふと思い立って、時事ネタで、一文を書いてしまったので、昨日の今日ですが、出しておきます。 次の日曜まで待っていると、ネタが古くなってしまいそうなので。




  新型肺炎ですが、大騒ぎになりましたなあ。 予感レベルの話で恐縮ですが、最初にニュースで伝えられた時に、日本の感染症専門家が、妙に落ち着いていたので、逆に違和感があり、「これは、もしや、大ごとになるのでは?」と思ったのが、当たりました。 こういう事が当たっても、別に嬉しくありませんが。


  私個人の対策としては、出先で、建物に入る場合は、マスクをするようになりました。 手洗いの類いは、特に、強化したわけではないですが、元々、潔癖症なので、手洗いは、かなりマメにしており、俄か対策で始めた人達よりも、衛生レベルは上だと思っています。

  他に対策というと、1月31日に、除菌アルコールを4本買い、2月1日に、別の店で、2本追加。 元からあった1本と足して、備蓄が7本になったので、6月くらいまでは、ゆとりでもつと思います。 2月1日には、5枚入りのマスクも買って来ました。 品薄になってから、あちこちの店を回るのは、人が殺到して、感染の危険が高くなるので、普通に買える間に買っておこうと思った次第。

  その店の店員さん同士が、「除菌アルコールが売れている」とか、「どこそこの店では、マスクが、一人何枚限定になったらしい」とか、話し合っていました。 そりゃ、そうでしょうよ。 テレビや新聞で、これだけ騒いでいるのだから、買い溜めが始まるのは当然です。 大震災の後に、乾電池が店から消えてなくなったのを思い出せば、同じ事がマスクや除菌アルコールで起こるのは、容易に想像がつきます。


  新型肺炎ですが、私の個人的・希望的観測として、おそらく、暑くなる6月頃には、収まると見ています。 SARSも、そうでしたから。 MARSは、季節に関係なく、収拾していませんが、それは、季節がない地域が発生地だったからでしょう。

  新型肺炎のワクチンが出来るのが、6月頃と言っていますが、一足遅れで、無用になるのでは? もし、季節要因で収まらなかった場合に備えて、作っておくに越した事はないですが、ウイルスが変異すると、変異前のワクチンは効かないようなので、事は簡単ではないです。 ワクチンが、どういう性質の物なのか分かっておらず、漠然と、薬の一種だと思っている人も多かろうと思いますが、全く違うので、これを機会に、勉強してみるのもよいのでは。

  ワクチンに期待するより、個人でできる対策をとる方が、先ですな。 マスクとか、手洗いとか、衛生的にズボラな人を避けて暮らすとか。 で、以下、個別に、触れます。


【マスク】
  マスクは、飛沫感染には効果があります。 対面して話す時に、相手の唾の細かい飛沫が飛んで、こちらの口に入るのですが、風邪や肺炎、結核など、呼吸器系の感染症は、それで、うつり易い。 私も、インフルエンザで、やられた事がありますが、その時は、たった一言、話しかけられただけで、翌日から高熱が出て、仕事を休みました。 飛沫感染、恐るべし。

  マスクをしていれば、感染している側が飛沫を飛ばす事もなく、まだ感染していない側が、飛沫を受け取る事もないという寸法。 「感染している人がマスクをする分には効果があるが、感染していない人がマスクをしても、予防効果はない」と言う医師がいますが、医学的見解は別として、両方、した方がいいと思います。 感染した者だけにしろというと、マスクの有無で感染を判断される事になり、迫害に繋がって、危険です。

  マスクは、空気感染には、効果がないらしいです。 人が大勢集まっている場所とか、人数が少なくても、狭い空間で、空気が籠っているとか、そういう場合に、空気中を漂っているウイルスが、呼吸で体内に入るのが、空気感染。 飛沫のように、水滴に含まれているわけではないので、どこかに付着したら、そこで止まるというわけではなく、空気と一緒に、マスクの隙間などから、入り込んで来るわけだ。

  しかし、それでも、マスクをした方がいいと思います。 医師も、軽々しく、「空気感染は、マスクでは防げない」と言わない方がいいでしょう。 そう言われると、感染しているのに、マスクをしない人が出て来るからです。 自分がこれから、うつされると思うと、せっせとマスクをするが、すでに、自分が感染しているのなら、「他人にうつすなんて、どうって事はない。 むしろ、積極的にうつして、みんな同じにしてやれ」という人間は、必ず、出て来ます。

  使い捨てマスクは、感染拡大が続くと、いずれ、手に入らなくなると思いますが、その後をどうするかが、問題ですな。 布で、手製のマスクを作って、洗濯しながら使うという手もありますが、果たして、布製で、どこまで、効果があるのか。 飛沫が直接、口に飛び込んで来るのは、防げますが、その飛沫が乾いて、ウイルスが空気中に漂うようになったら、繊維の隙間を通り抜けて、口に入って来てしまうのでは?

  しかし、感染している人の場合、一応、飛沫を止める事ができるわけだから、意味があります。 その点でも、手製布マスクを全面否定してしまうのは、避けた方がいいかも知れません。

  とりあえず、使い捨てマスクが買える間は、それを使う。 人が殺到している店でないと買えなくなったら、もう買いに行かない。 ネットで買える内は、買う。 それも駄目になったら、ガーゼ・マスクや、手製マスクに切り替えて、洗濯して使う。 そんな段取りで、どうでしょう? 恐らく、そのくらい、感染拡大が深刻化すれば、手製マスクを批判する人もいなくなると思います。 しているだけ、マシなので。

  「洗濯くらいで、ウイルスが死ぬのか?」という疑念もあるかと思いますが、それを言い出せば、服だって、同じではないですか。 ウイルスが洗濯でも生き残るとしたら、服とタオルを一緒に洗った場合、タオルにウイルスがつきますから、洗った顔を拭く時に、唇を当てたら、うつってしまう事になります。

  そこまで警戒するとなると、もう、身近な対策は、何から何まで、全て駄目ですな。 「マスクは、種類に関係なく、一度使ったら、洗濯どころか、煮沸消毒しても、駄目」と言っている専門家もいますが、どういう根拠で言っているのかが分かりません。 「大丈夫」と言ってしまうと、もし、そのマスクをした人が感染した場合、専門家の立場がなくなってしまうから、「駄目」と言っている可能性があり、真偽の程が疑わしい。

  とりあえず、研究結果が出て、定説になっている事以外は、「全部、駄目」と言っておけば、学者としての立場は守れると思いますが、使い捨てマスクが一切、手に入らなくなった時に、絶望して、自殺や無理心中を図る人が出てきたら、そっちの責任は、どう取るんでしょう?

  実際にウイルスが死ぬかどうかは別として、「洗濯すれば、もう大丈夫」というところで、線引きしておくのが、やはり、現実的だと思います。 ちなみに、ガーゼ・マスクを洗濯機で洗う時には、必ず、ネットに入れるように。 耳にかけるゴム紐が、耐えられませんから。


【手洗い】
  手洗いは、潔癖症の気がある人は、普段から、普通にやっていると思うので、心配、要りません。 厄介なのは、非潔癖の人でして、外から帰って来ても、汚れが目に見えない限り、手を洗ったりしないという人達は、困ってしまいますな。 しかし、そういう人は、全体の5割以上いると思います。

  外から帰って来る。 ウイルスがついた手で、蛇口のハンドルを捻り、手を洗う。 洗った手で、ハンドルを締める。 アホか。 その時点で、また、ハンドルについたウイルスが手につくではないか。 で、その手をタオルで拭き、そのタオルで、顔もゴシゴシ。 ドアホウか。 何の為に手を洗っているか分からない。

  では、どうすればいいのか? ハンドルが大きい場合、汚れた手で触る部分と、綺麗になった手で触る部分を分けるというのが、一つの方法。 もう一つは、手に石鹸をつけた状態で、ハンドルも洗ってしまうというもの。 非潔癖の人は、こういうのを読むと、「病的だ!」と笑うと思いますが、潔癖の人は、普通にやっている事です。 自宅でさえ、そうしているのに、出先の洗面所に於いてをや。 私は、感知式の蛇口になっているか、洗浄液が備えられていない限り、出先の洗面所は使いません。

  勿論、公衆トイレのドア・ノブや、流すレバーなどにも、触りません。 紙があれば、紙を介します。 やむなく触った時には、洗面所で、必ず、洗浄液を使って手を洗います。 こういう事も、非潔癖の人には、分からんでしょうねえ。 ところが、感染症が騒ぎになっている時に、感染を広げるのは、そういう非潔癖の人なのです。

  そもそも、「清浄」と「不浄」の区別をしていないのだから、始末が悪い。 「こういう所に触ったら、手を洗うように」なんて言っても、「なんでー? 変わらないじゃん。 汚れてないよー。 そっちが、変なんじゃないのー?」という反応しか返って来ない。 困ったもんだ。 少々、病的にならないと、潔癖の極意を会得できないのだから、社会全体の感染症対策が、いかに難しいかが分ろうと言うもの。


【衛生的にズボラな人を避けて暮らす】
  手洗いの所で触れた、非潔癖の人は、ズボラというほどではないので、この項目に含みません。 もっと、厄介な連中の事です。 断言してもいいですが、これだけ騒ぎになっていても、何の対策もしない人というのは、必ず、います。 勤めていた頃、「風邪は、人にうつせば、治る」と信じて、実践している人を見ましたが、そのレベルの衛生意識の人が、全体の1・2割はいるんじゃないでしょうか。

  そういう人間は、まず、マスクをしようとしないので、分かります。 咳が、ゲッホゲホ出ていても、頑なに、マスクをしません。 「した方がいい」と勧めると、「いやあ、それでなくても、咳が出て苦しいのに、マスクなんかしたら、息ができねーよ」と、迷惑そうに顔を歪めて、拒絶します。 自己中心的で、他人にうつす事など、全く悪いと思っていない。 甚だしくは、ひどい咳をしていれば、周りが心配して、優しくしてくれると期待している。 そういう発想の人は、ナルシシストに多いです。

  学校や職場なら、教師や上司から、「マスクをしろ」と命令ができますが、お客とか、取引先とか、単に、出先で遭遇した人が相手では、それができないですから、もう、距離をおくしかありません。 咳やくしゃみを浴びせかけられないように、自然に避けるのです。 感染拡大が深刻になってきたら、不自然でも、逃げた方がいいでしょう。

  ズボラな人達は、手洗いなんて、もちろん、しません。 外でも、家の中でも、全く気にせず、あちこち、触りまくります。 テレビ・ニュースを見ず、新聞も読まず、感染症が広まっている事に危機意識を抱いていないというケースもあると思います。 職場の同僚が、自分以外、みんな感染対策を取っていても、ゲラゲラ笑って、「怖がり過ぎだろ。 誰だって、死ぬ時ゃ死ぬのさ」などと嘯き、我が道を行きます。 そういうタイプが真っ先に死ぬのは、歓迎したいところですが、死ぬまでに、人にうつしまくるから、始末が悪い。

  自分が潔癖でも、家族の中に、ズボラがいると、ヤバいよなあ。 ズボラが家に持ち込んだウイルスで、家族が死んでも、ズボラは、悪い事をしたなんて、絶対、認めないと思いますね。 しらばっくれるか、他人のせいにするのが、関の山。



  私自身、感染症の拡大を経験した事がないので、大きな事は言えませんが、おおまかな方向性として、こういう局面では、前向きな 考え方をした方がいいです。 明るい希望を持てという意味ではなく、「こうすれば、感染しないな」とか、「感染したら、こうすればいいな」と、前向き前向きに対策を取っていくのです。

  ドサクサ紛れに、差別行為をしたり、デマを流したりするのは、国賊行為を通り越して、人類的犯罪でして、問題以前の問題外。 そこまで行かなくても、「政府の初動が遅い」とか、「感染者が、どこを訪ねたか、公表しろ」とか、「もっと早く、全面渡航禁止にしておけばよかった」とか、そういう事をガーガー言っても、感染症は止まりません。 詮ない事に使うエネルギーがあったら、身近な対策を取った方が、よっぽど、身の為になります。

  「もっと早い段階で、○○をやっておけば良かったのに」というのは、典型的な、「後知恵」でして、そういう事を言う人物は、信用しない方がいいです。 感染者が少ない時点で、都市封鎖や全面渡航禁止をやったら、同じ人物が、同じ口で、「人権侵害だ」と言うに決まっているのであって、そんなやつらに、定見なんてありゃしません。 感染者が少ない時点では、大ごとになっていないのだから、大掛かりな対策が取れないのは、理の当然です。

  ちなみに、政治家も、役人も、肺炎の感染拡大なんて、初めてなのですから、対策が後手に回るのは、全然、不思議ではないです。 もし、あなたが役人だったとして、上司から、新型肺炎の感染対策を取れと命じられたら、完璧にやってのける自信がありますか? 医師の専門家はいても、彼らには、役人組織を動かす権限がないですし、理屈では、どうすべきか分かっていても、実際にやるとなると、やはり、初めての経験になってしまいます。

  上述したように、感染症対策がどういうものか、ある程度理解しているのは、潔癖人だけですが、多目に見ても、全体の3割くらいしかいないでしょう。 それ以外の7割は、非潔癖か、ズボラかで、どうやれば、感染を防げるのか、そこからして、分かっていません。 多数派が、そういう人達なのですから、「封じ込め」の方向で対策を進めようとしても、完璧を期すのは、ほぼ、不可能と見ておいた方が良いと思います。 もっとも、完璧でなくても、封じ込めの方向性で対策を重ねて行くのは、間違ってはいないと思いますが。

  「邦人救出」は、保守系の人達の耳には、響き良く聞こえて、「ああ、わが国の政府は、頼りになるなあ」と、さぞや、感動に浸っているものと思われるのですが、「封じ込め」と、「拡散」、どちらの方向性の行為かというと、明らかに、「拡散」の方です。 国内にいなかった感染者を、わざわざ、連れて来ているのですから、それが、拡散でなくて、何と言う?

  「じゃあ、何もしないのか」と言うと思いますが、別に、人間を帰国させなくても、現地に、物資や医療関係者を送り込み、収束するまで、療養して貰うという方法もあったはず。 そう言われると、「あ、そうか。 その手もあったか」と思うでしょう? だけど、みんな、初めての事だから、言われなければ、気づかないのです。

  帰国者を、ホテルで相部屋にさせていた件も、手抜かりというより、担当者が非潔癖で、感染者が含まれている恐れがある人達を相部屋にする事が、なぜ駄目なのか、気づかなかったと考えれば、説明がつきます。 潔癖でない人に、清浄・不浄を区別しろと言っても、どこに境目があるか分かっていないから、線が引けないのです。

  こう書いてくると、新型肺炎の感染対策が、容易ではない事が分かると思います。 人の意識は、そう簡単には、変えられません。 今から、5ヵ月くらい、騒ぎが続くとして、その間に、非潔癖から、潔癖に宗旨替えする人が、どの程度いるでしょうねえ。 おそらく、1割も行かないのでは? ズボラに至っては、一人の離脱者も出さないでしょう。 死ななきゃ治らんどころか、死んでも治らん。

  今後も、「なんで、こんな理屈に合わない事をするんだ?」と憤るニュースが続くと思いますが、そういう時には、社会全体の7割が、感染症について、無知なのだという事を思い出せば、腹も立ちますまい。 そんな事は放っておいて、せっせと、自分の身の周りの対策に励むのが、最善の策でしょう。

2020/02/02

ズレた人達① 【独り言】

  新シリーズです。 世の中にいる、異常な人達、困った人達、迷惑な人達について、書こうと思っています。 連続で書くかどうかは、分かりません。 初回は、独り言を言う人達を取り上げます。




  「独り言」と言っても、ブログのカテゴリーではありません。 そもそも、あれは、独り言ではないですな。 他人に読んでもらう為に、書いているんだから。 そういう事を言い出せば、「ツイッター」も、つぶやきではないですな。 つぶやきというのは、他人に聞かれない程度の音量で、独り言を発する事でして、堂々と、ネット上に曝け出して、「さあ、読んで下さい」というでは、つぶやいているなどとは、とても言えますまい。 ちなみに、つぶやきに、長さは関係ないです。 何十分も、つぶやき続ける人もいますから。

  つぶやきの話ではなく、独り言の話でしたな。 で、独り言ですが、それそのものが、病的で、独り言が習慣になっている人を、精神的に正常とはいい難いです。 当然の事ながら、独り言なんか言わなくても、平気でいられる状態が望ましい。 しかし、独り言をやめたら、頭がおかしくなってしまうという人もいる事でしょう。

  他人、というか、家族も含めて、自分以外の他者が誰もいないところで、独り言を言っているのであれば、それは、まだ、軽症です。 独り言を完全にやめられなくても、一人でいる時にしか言わないという状態を保てるのなら、そんなに、大きな問題ではないと思います。

  誰もいないと思っていたのに、実は、見えない所に他者がいて、それに気づいて、独り言を打ち切る、という場面があったとしても、そんな事が、しょっちゅうというのでなければ、まだ、軽症の内。 もしかしたら、他者が聞いているのではないかと思っているのに、独り言が抑えられないとなると、重症化の過程にあると考えるべきですな。

  「聞こえよがしに、独り言を言う」というのは、もはや、独り言ではなく、独り言を装った、告白、皮肉、嫌がらせ、攻撃の類いであって、それは、病気ではないです。 社交術の一つと言うべきでしょう。 良い目的で使われる事が、あまりない手法なので、薦めはしませんが。


  独り言で、重症というのは、他者がいる所で、それが分かっているのに、独り言を言っている状態でして、そういうのは、非常にまずいです。 悪口などではなくても、そういう場面での独り言自体が問題なのです。 つまりその、自分の頭の中の世界が、外に漏れてしまっているんですな。 内界と外界の境が曖昧になって、どこまでを言葉にしていいのか、分からなくなっているのでしょう。

  幼児の多くは、家だけで暮らしている時には、思った事を全部口に出しているケースが多いです。 3・4歳の子が、人形やぬいぐるみと、会話していても、誰も、異常だとは思いません。 親が、自分の子供を、うるさいと感じる時期で、育児ノイローゼの最大の原因になっていますが、別に、異常ではないです。 独り言を言う子供でも、話し相手がいれば、そちらが優先になります。 おじいちゃん子・おばあちゃん子が、そうでない子供より、早くおとなしくなるのは、話し相手がいるからではないかと思います。

  他人との社会生活が始まる、幼稚園や保育園に入ったところから、状況が変わります。 思った事を全部口にしていると、先生に叱られたり、相手を怒らせたりといった、不利が発生する事を学び、言葉を選んだり、発話そのものを控えたりするようになります。 幼稚園児や保育園児は、みな、天真爛漫で、悩みなんかないと思っている人が多いようですが、そういう人は、自分が子供だった頃の事を忘れてしまっているのであって、実際には、毎日が、他者との戦いです。 犬猫同様、上下関係が、暴力や図々しさで決まる世界です。

  ちなみに、強かった順に、大人になるのが遅れます。 一番強くて、我侭放題が罷り通ってしまった者は、その先、自分より強い者に出遭って、敗北するまで、精神的に成長できません。 敗北経験が、遅れれば遅れるほど、社会性が身につかず、切り替えが難しくなります。 だけど、そういう奴に、同情してやる事はないでしょう。 さんざん他人を痛めつけた、ツケが回っただけです。

  内界と外界の境界が次第にはっきりして、自我が形成されて行くのも、この頃です。 自分と他人は、違う存在なのだという事が、認識されて行くわけですな。 兄・姉や、仲の良い友達のような、庇護者が身近にいるせいで、自我形成が遅れるケースもあります。 友達は、いればいいというものではなく、人格成長の妨げになる事もあります。


  学齢前に、ほとんどの子供が、独り言を言わなくなっているので、小学校以降では、もし、そういう児童・生徒がいると、早い段階で、まず、教師が注意し、治らないようなら、親に報告し、精神科の治療を受けさせたり、入院させたりといった処置がとられているのだと思います。 学校で、独り言を言う人間をあまり見ないのは、そういう事をしているからでしょう。

  実際問題として、教師と生徒が、一対多で、授業や講義をしている場所で、独り言をブツブツ言っている奴がいたら、邪魔で仕方ありません。 学校というのは、そういう点で、普通の社会より、厳しいところなんですな。 独り言を言う者に、居場所はないです。


  一方、職場では、独り言を言う人間が、野放しになっているのが普通です。 入社時点では、そうではなかったのが、次第に、独り言を言うようになり、軽症から、重症に移行して、人が集まっている場所でも、独り言を言い続けるようになったとしても、仕事に支障がなければ、退職させられるような事はないです。 せいぜい、「あの人は、ちょっと、変だからな」と、陰口を叩かれる程度。

  その点、職場は、学校より、制約が緩いわけだ。 仕事さえ、一人前、普通にやれていれば、少々、おかしな人でも、問題視されません。 職場で、確実に拒絶されてしまうのは、仕事ができない人ですな。 新入社員でも、派遣社員でも、人格的には、ごくごく常識的な、普通の人なのに、仕事ができないばかりに、やめていったケースを、どれだけ、見た事か。

  独り言なんぞ、物の数ではなくて、典型的な統合失調症(精神分裂病)の症状が出ているのに、きつい仕事を引き受けてくれているので、働かせ続けていたという実例を、私は知っています。 被害妄想が顕著で、護身の為に、銃身と銃床を短く切った散弾銃を、鞄に入れて持ち歩いていると、放言している奴でした。 周りの人間は、冗談だと思っていたようですが、私は、精神医学の本を何冊か読んでいたので、大マジだと見ていました。 役所も役所だ。 統合失調症患者に、銃の免許なんか出すんじゃねーよ。


  独り言に話を戻しますが、独り言は、軽症でも異常で、重症化すると、明らかに、「変な人」扱いになると、そこまではいいとして、職場で、独り言を言っていた人達を思い出すと、悪い人ではなかったです。 私が、はっきり覚えているのは、二人で、一人は、少し愚かな人でしたが、愚かさゆえの悪さはしても、腹が黒いという程ではなかったです。 愚かさゆえの悪さというのは、「風邪は、他人にうつせば、早く治る」というのを信じていて、それを実践していたという程度の事ですが。

  ちなみに、うつされたのは、私です。 特段、仲が良いわけでもないのに、その人が、五月連休の直前に、私の所へ来て、雑談をして行きました。 声や鼻の調子で、風邪を引いている事は明らかでした。 で、見事にうつされて、私の連休は、フイになってしまったわけですが、私はその時、腰痛が出ていて、どうせ、風邪をうつされなくても、身動き取れなかったから、さほど、恨んだわけでもなかったです。

  もう一人は、中間管理職の人で、人柄がいいので評判でした。 出世欲があまりなくて、気さくでありながら、年上には、部下であっても、きっちり、敬語を使うという、そういう人。 評判が良くなるのは、当たり前ですな。 ところが、その人も、独り言を言うんですよ。 周囲に他者がいても、独り事を言ってしまうという、重症の方。 その人から話かけられたと思って、そちらを振り向くと、全然違う方向を見て、独り言を言っているだけだったという場面が、何回もありました。 ギョッとさせられるだけで、実害はありませんでしたけど。

  独り言は、重症といっても、その程度なのかもしれませんが、やはり、どう考えても、異常なのであって、もし、抑えられるのなら、抑えた方がいいと思います。 私が知っている中間管理職の方の人も、もし、「あの人、ちょっと、変」という点がなかったら、もっと出世していたかも知れません。 人柄がいい上司は貴重なのに、残念な事ですな。

  独り言を言う人は、自省的な性格で、自分の考えを他人に押し付けたりせず、何か問題が起こると、自分に原因があると思い込むタイプなのではないでしょうか。 それでいて、鬱病にはなるわけではなく、独り言を言って、自分と会話する事で、精神状態のバランスを取りつつ、日々を暮らしているように見えます。

  つまり、独り言は、その人にとって、精神を安定させる為の方法の一つなわけだ。 問題は、それが、傍から見ると、非常に、気味悪く見えるというだけで。

  ちなみに、他者を相手に話している時、自分の喋りたい事だけ、ベラベラまくし立てて、質問などには一切答えず、相手には、相槌を打つ事しか求めないというケースは、一人で喋っているわけですが、独り言ではないです。 おそらく、もっとタチの悪い精神病の症状だと思います。


  独り言は、問題行動ではありますが、逆に、独り言を活用した方が良い人達もいます。 独り暮らしの引退者です。 ご近所に話し相手がいるのなら、いいのですが、そういう相手がいない場合、発話する機会が、極端に少なくなり、うまく、喋れなくなってしまいます。 口がうまく動かなくなるだけでなく、言葉を組み立てる習慣が薄くなって、何か喋りたくても、喋れなくなってしまうのです。 そういう状態が、認知機能の低下を早めてしまうのは、容易に想像できる事です。

  それを防止するのに、独り言は有効だと思います。 もっとも、誰も聞いていない事を、念入りに確認してから、やった方がいいですけど。 独り暮らしである事を、近所の人達が知っているのに、窓を開けっ放しにして、独り言をベラベラ喋っていたら、「とうとう、狂ったか」と思われてしまいます。

  動物を飼って、話かけるという手もありますが、動物が相手だと、話す内容が限られてきます。 犬や猫を相手に、小難しい事など、言わないでしょう? 一人称、二人称、三人称、いずれであれ、人間相手に喋るような内容でなければ、発話の練習になりません。 くどいようですが、くれぐれも、他者に聞かれないように注意して行なわなければなりません。

  ひきこもりの人達にも、有効ですが、そんな練習にエネルギーを注ぐよりも、ひきこもりを脱する事を考えた方が良さそうですな。、私も経験者だから、それが簡単な事ではないと知っていますが、それでも尚、脱する方向へ向かった方が良いと思います。 なかなか、脱せらずに、何年も経ってしまったという場合にのみ、発話練習のつもりで、独り言を言うのも、やむなしとする、というところでしょうか。