2018/04/29

読書感想文・蔵出し (37)

   読書感想文です。 ここのところ、地味~に、沼津の図書館に通い、そこにある本だけを、地味~に借りて、地味~に読んでいます。 とりあえず、読むものがあれば、それでいいんですよ。 一人の作家に拘って、続けて読もうとすると、三島図書館まで行ったり、相互貸借を頼んだりしなければならないのですが、それほど、使命感に燃えて、読書しているわけではないのですから。




≪緋文字≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1970年11月25日初版 11月30日5版
エラリイ・クイーン 著
青田勝 訳

  沼津市立図書館にあった本。 沼津の図書館にある推理小説は、本が古い上に、状態が悪く、とりわけ文庫では、やたらと、水没形跡のあるものが多いのですが、新書サイズのハヤカワ・ポケット・ミステリーに関しては、単に古いだけで、損傷はそれほどでもないです。 ただし、この本に限っては、扉と小口に、水濡れ痕があり、古い本に慣れていない人だと、放り出したくなるような状態でした。

  エラリー・クイーンの作品というと、私は、高校生の時に、学校図書室の本で、ドルリー・レーン物を読んでいます。 ≪Xの悲劇≫、≪Yの悲劇≫、≪Zの悲劇≫、≪レーン最後の事件≫の内、≪Y≫と、≪最後≫は、確実に読んでいるはず。 残りの2冊は、ちと記憶が怪しいです。

  その後、同じく学校図書室にあった本で、エラリー・クイーン物を一冊読もうとしたんですが、どの作品だったか忘れてしまったものの、何だか、妙に軽い文体で、テレビ・ドラマのノベライズ本のような中身の薄さを感じたので、10ページも行かない内にやめてしまいました。 クイーン作品は、それっきり、35年近く、一冊も手にしていません。

  この≪緋文字≫は、1953年の発表で、ダネイ&リーの、クイーン・コンビの内、執筆担当のリーが、自ら書いていた頃の、晩期の作品に当たるようです。 この二人、他者が書いた作品を、監修だけして、名義を貸すといった方法で、システマティックに小説を量産していたらしいのですが、私としては、そういうところが、あまり好きになれません。 何とも、アメリカ的だとは思いますが。


  売れない推理作家ダークと、その妻マーサの夫婦関係が危機的状態になる。 彼らの友人エラリーが、その秘書ニッキーと共に、何とか、悲劇的な結末に至らないように、仲裁を続けるが、ダークの嫉妬深さが原因で喧嘩が絶えないというのに、マーサは、他の男とデートを繰り返す。 とうとう、ダークに感づかれて、最悪の事態に至るものの、実は・・・、という話。

  凝っているといえば、凝っている。 アンバランスといえば、アンバランス。 全体の九割近く、最悪の事態の場面に至るまでは、推理小説らしいところが、ほとんどなくて、ただの、不倫妻の追跡劇に過ぎず、読むのがアホらしくなって来ます。 クリスティーの≪ABC殺人事件≫や、ポーの≪盗まれた手紙≫へのオマージュらしき謎が、ちょこっと出て来るだけ。

  それが、最悪の事態の後、急展開して、それまでの話が、前置きに過ぎなかった事が分かります。 探偵役が謎解きをするまで、見事に犯罪の存在が隠されていて、「実は、こういう事だったのだ」という説明を、呆気に取られて読まされる事になります。 たまげたな、これは。 ゾクゾク感どころの話ではなく、背筋が凍りつくような気分になります。

  「まず、殺人が起きて、次に、探偵役が捜査して、最後に、謎解きと犯人指名をする」という、基本パターンに慣れていると、こういう破格の物語には、強烈な刺激を受けますねえ。 破格といえば、クリスティーの≪そして誰もいなくなった≫や、≪アクロイド殺し≫が代表格ですが、この作品は、それらほどではないものの、準ずるレベルだと思います。

  この作品、読み始めたものの、なかなか、推理小説らしくならないので、時間の無駄のような気がして、放り出してしまった人も多い事でしょうねえ。 最後まで読めば、途轍もないドンデン返しが待っていたのに、勿体ないことよ。



≪箱の中の書類≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 2002年3月初版
ドロシイ・セイヤーズ 著
松下祥子 訳

  沼津市立図書館にあった本。 これは、2002年と新しいので、かなり、綺麗な本です。 しかし、三角の大きな折れ痕が、あちこちのページにあり、過去に、非常識な利用者に借りられた事が分かります。 栞の代わりに、ページの隅を折る人がいるのですよ。 そーゆー事は、自分の本でだけにせよ。

  ドロシー・セイヤーズ(1893年生‐1957年没)という人は、戦間期のイギリスで、推理小説の黄金時代を築いた作家の一人。 女性作家としては、アガサ・クリスティーと並ぶ存在だったと事。 ただ、作品は、クリスティーほど、多くはないようです。 この、≪箱の中の書類≫は、1930年の発表。 新書サイズの二段組みで、250ページくらいの長編です。


  若い後妻と暮らす家に、二人の若い芸術家を下宿させた、電気技師の男が、田舎の別荘で、自ら採集したキノコに中り、死亡する。 外国から帰国した、先妻との間の息子が、父親の事故死に疑念を抱き、家政婦、下宿人の一人、後妻らが書いた手紙を捜し集めて、事件の真相に迫って行く話。

  書簡体小説で、複数人の手紙を並べる形式で、話が進みます。 時系列は揃えられているので、ストーリーの流れを見失うような事はないのですが、手紙の書き手が代わるたびに、頭を切り替えなければならず、とっつきは悪いです。 手紙の書き手の中に、狂人や、嘘つきが混じっている可能性が仄めかされていて、「どうせ嘘なら、読んでも仕方ない」と思うと、なかなか、気を入れて読む事ができません。

  電気技師が死んだ後、息子が帰国すると、俄然、面白くなります。 供述書という形は取るものの、実質的に、息子の一人称で、全体を見渡した描写がなされ、小説っぽくなるからです。 事故ではなく、殺人事件だと当たりをつけて、犯人を捜したり、殺害方法の謎解きをしたりと、推理小説らしさが全開になり、大いに、ゾクゾク感を覚えます。

  惜しむらく、クライマックスが、科学実験室での顕微鏡検査というのは、あまりにも地味で、盛り上がりに欠ける。 残りのページ数から考えて、もはや、犯人は決まっており、検査結果がクロと出るのは分かっているのですから、尚更、つまらない。 まあ、撃ち合いよりは、ずっと、マシだと思いますけど。

  クライマックスの前に、科学談義が長々と続くのですが、ストーリーとは、ほとんど関係がなくて、なぜ、こんなものを入れたのかが分かりません。 前年の、1929年に、ヴァン・ダインの≪僧正殺人事件≫が発表されて、アメリカで、大ウケしたのですが、セイヤーズも、それを読んで、影響を受けたのかも知れませんな。 SF作家からならともかく、推理作家から、科学を教えて貰おうとは、思いませんけど。



≪スペイン岬の秘密≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年3月初版
エラリイ・クイーン 著
大庭忠男 訳

  沼津市立図書館にあった本。 2002年というと、16年前ですか。 作者が有名どころの割には、あまり借りられていないのか、状態が綺麗ですな。 この表紙ですが、円に入った写真が小さ過ぎて、何が写っているのか、よくよく見ないと、分かりません。 タイトルから推測して、スペイン風の家の一部なのだと思いますが、夕景なので、スペイン的な雰囲気は、あまり感じられません。

  クイーンの作品には、前期に、「国名シリーズ」というのが、9作あり、この≪スペイン岬の秘密≫は、その9作目。 この作品の後、作風が変わって行くのだそうです。 1935年の発表。 クイーン作品の探偵役は、作者と同名の、「エラリー・クイーン」という人物ですが、小説は、三人称で書かれています。 ややこしくて、説明し難い関係ですが、実際に、作品を読んでみると、その種の事は、大した問題ではないと分かります。


  アメリカ合衆国のスペイン岬にあるゴッドフリー邸で、主の妻の弟と、主の娘が誘拐される。 娘は無事に戻るが、その間に、屋敷では、主の妻の招待客である男が殺され、全裸にマントという奇妙な姿で発見される。 たまたま、休暇で近くに来ていて、事件に巻き込まれたエラリー・クイーンと判事マクリンが、地元の警視と協力して、稀代のジゴロだった被害者の過去を暴き、殺人犯をつきとめる話。

  450ページくらい、ありますが、今風の文庫なので、それほどの長さではありません。 にも拘らず、読み終えるのに、一週間もかかってしまいました。 ヴァン・ダインの作品と比べると、明らかに、これは、プロの一流作家が書いたもので、小説としての格が、数段、上です。 しかし、一流作家の作品であっても、一流作品とはいえません。 推理小説に必須のゾクゾク感が欠けている点は、ヴァン・ダイン作品と同レベルです。

  まず、登場人物の行動半径が、屋敷の中と、その周辺に限られており、舞台に変化がありません。 次に、聞き込み場面がやけに多くて、まるで、ファイロ・ヴァンス物みたいです。 とどめに、どうも、最初に尺ありきで、不要な描写を入れて、水増ししている観があります。 刈り込めば、3分の2くらいになるんじゃないでしょうか。 長過ぎるせいで、テキトーに読み飛ばしていても、犯人が分かってしまう、弛みが見られます。

  犯人ですけど、探偵が謎を解く根拠とは関係なく、半分行かない内に、大体、分かります。 「たぶん、この人だろう。 もし、この人でなければ、この人の存在は、読者への目晦ましだろう」と、そこまでは、確実に分かります。 そして、それは、目晦ましではなく、ほんとに、犯人なんですな。 これでは、ゾクゾクのしようもありません。

  同じ豪邸でも、イギリスの貴族のそれと、アメリカの金持ちのそれとでは、雰囲気がまるで違っていて、「これだから、アメリカの推理小説は、イギリスに敵わない」と、つくづく思わされます。 歴史の重みを利用できないと、こうも差が出るかと・・・。 ポーがフランスを舞台にした理由や、カーがイギリスに移住した気持ちが良く分かります。 トリックや謎は、負けず劣らず、よく考えてあると思うんですがね。



≪誰の死体?≫

創元推理文庫
東京創元社 1993年9月初版 1995年3月5版
ドロシイ・L・セイヤーズ 著
浅羽莢子 訳

  沼津市立図書館にあった本。 普通の神経の人なら、指先直径1ミリでも、触れるのをためらうほど、状態が悪いです。 「きったねー、本だなー!」と、私も思ったんですが、他にないから、仕方ありません。 ちなみに、私は、図書館で借りて来た本は、除菌アルコールを湿したティッシュで拭いてから、読んでいます。

  発表は、1923年。 セイヤーズ作品の最初の長編推理小説で、探偵役のピーター・ウィムジイ卿が初登場する作品でもあります。 ちなみに、クリスティーの≪スタイルズ荘の怪事件≫は、1920年の発表。 恐らく、クリスティーの作品を読んで、「自分にも、書けそうだ」と思って、書き始めた人の一人なんじゃないでしょうか。


  高層住宅の最上階にある建築家宅の浴室で、全裸に鼻眼鏡だけをかけた男の死体が発見され、知人である素人探偵、ピーター卿に助けを求めてくる。 一方、時を同じくして、金融界の名士が失踪し、浴室で発見された死体が、その人物に似ていた事から、警察の捜査は混乱する。 ピーター卿が、友人のパーカー警部、従僕のバンターらと協力して、真犯人をつきとめる話。

  以下、ネタバレあり。 しかし、読んでしまっても、これから、この作品を読むのに、支障はないと思います。 ネタバレを気にするほどの出来ではないからです。 「全然、面白くない」と言っては、ちと、嘘になりますが、「ほとんど、面白いところがない」と言えば、ほぼ、真。

  「裸の死体と、失踪した金融界の名士が、似てはいるが、実は別人」という設定は、謎と言えば、確かに謎ですが、犯人が、なぜ、そんな事をしたのか、簡単な説明しかないので、よく理解できません。 「金融界の名士の方を殺したかった」のは分かりますが、裸の死体を、他人の家の浴室に置いておく理由はないんじゃないでしょうか? どちらも、隠してしまえば、より、完璧な犯罪になったと思うんですがね。

  裸の死体なんて、余計なものが出て来るから、警察が怪しむのであって、百害あって一利なし。 これでは、犯人は、単純な判断力も持ち合わせない、アホウではありませんか。 「金融界の名士を殺した後、埋葬場所がないから、本来、裸の死体が入るべき墓に入れた」という事なんですか? いっや~、そんな面倒な事をして、死体の数を増やすより、山の中に穴でも掘って、金融界の名士の死体を埋めた方が、ずっと簡単だと思いますがねえ。

  いくら、ミステリーだからって、なんでもかんでも、謎めいた設定にすればいいってものではないです。 そこのところが、分かっていないまま、小説を書いてしまったんじゃないでしょうか? これを出版した編集者も、分かっていなかったんですかね? 何となく、面白そうな設定だったから、売れそうだと思って、OKを出してしまったと?

  翻訳のせいではないと思うのですが、妙に、文体が軽薄です。 リズミカルとも言えますが、コメディーではないのですから、もそっと、真面目な雰囲気を作った方が、犯罪を扱う推理小説としては、相応しいんじゃないでしょうか。 ピーター卿の人格そのものが、不謹慎と言っても良いです。 推理小説に於ける、コミカル・パートの効能を否定するわけではないですけど、読者に、不謹慎と思われるのを恐れて、主人公に言い訳させているのは、どんなもんなんでしょうねえ。

  科学の学説を、そのまま、挟み込んだような部分が出て来る点、どうも、ヴァン・ダイン作品と似た匂いがします。 本来、書き手側ではなく、読み手側の人が書いたのではないかという、「二流」の匂いが感じられる点も、ヴァン・ダインぽいです。 第一作の発表は、セイヤーズの方が、3年早いですけど。

  「セイヤーズには、ユダヤ民族に対する差別意識がある」と言われているらしいのですが、それは、第一作から、もろ出しで、出て来ます。 憎悪タイプではなく、侮蔑タイプの差別意識で、しかも、「自分だけでなく、世間全般が、そう思っているに決まっている」と思い込んでいる、無意識的な差別意識だから、始末が悪い。 当人には、悪意の認識がないまま、書いているわけだ。 むしろ、「ユダヤ人にしては、質素で真面目な人物にしてやったのだから、感謝してもらいたいくらいだ」と思っていたのでは?

  もっとも、そういう事を言い出すと、ディケンズなんか、評価するのも問題外になってしまいますが、ディケンズが、近世から近代の人だったのに対し、セイヤーズは、近代から現代の人でして、同列には扱えません。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪緋文字≫が、2月14日から、17日にかけて。
≪箱の中の書類≫が、2月17日から、22日。
≪スペイン岬の秘密≫が、2月25日から、3月3日。
≪誰の死体?≫が、3月4日から、6日にかけて。

  クイーンせよ、セイヤーズにせよ、波長的には、私の好みから、だいぶ離れています。 探偵のキャラに、好きになれないところがあって、やる事言う事、鼻についていけません。 むしろ、その作家の代表的探偵キャラが出て来ない作品の方が、面白いような傾きがあります。

2018/04/22

香貫山今昔

   私の家から、徒歩10分くらいで麓に至る、標高193メートルの山、香貫山(かぬきやま)。 子供の頃に撮った写真と同じ場所が、今どうなっているか、比較写真を撮って来たので、紹介します。




【五重の塔 / 遊具】

  左側は、1967年(昭和42年)1月15日の撮影。 これは、アルバムに日付が書き込んであるから、確実です。 ちなみに、この頃のカメラは、日付の焼き込み機能が付いていませんでした。

≪写真上≫
  香陵台の、五重の塔の前で撮った写真です。 着物姿の女性は、母。 子供二人の内、小さい方が、私で、2歳ちょっとです。 60年代はもちろん、50年代からすでに、普通の女性の服装は、洋服になっていて、冠婚葬祭か、正月くらいしか、着物を着なかったのですが、小正月にも着ていたんですな。 母が着物ですし、私も、まだ小さくて、登山は無理ですから、車で行ったのだと思います。

  右側は、今の五重の塔。 塗り直しているので、外観は、ほとんど変わっていないと思います。 横に、旗竿が追加されていますな。 旗が上がっているのを見た事はありませんが。  

≪写真下≫
  同じ時に、香陵台の遊具をバックに撮った、父と私です。 私も父も、半世紀も経つと、もはや、肖像から知れる個人情報を気にする事もありません。 私は、まるで、別人になっていますし、父の若い頃を知っている人も、もう、ほんの僅かしかいません。 その中で、インターネットを見ている人は、皆無でしょう。

  右は、今の写真。 この遊具、51年経っても、健在です。 なんて、もちがいいんでしょう! ペンキは、何度も塗り直していると思います。


  この頃の私は、まだ、物心がつく前で、独立した人格を持った人間というより、両親や兄のオモチャみたいな存在だったと思います。 連れて行かれる所へ、連れて行かれていただけ。

  ああ、51年前、私は、ここにいましたよ。 確かに、ここにいましたよ。 誰か、昭和42年1月15日に、香貫山の香陵台で、こんな親子を見かけた人はいませんか? 小さい方の子供が私です。 その後、どうにかこうにか、51年間生きて、まだ元気です。 こんなに長く生きて来たのが、奇跡のようです。



【猿ケージ / 正面階段】

  この写真は、前の2枚より、2年近くあとの撮影になります。 後なのに、カラーから、白黒に戻ってしまっていますが、おそらく、カラーの方が、フィルムや現プリ代が高くて、白黒に戻したのだと思います。 カラーが当たり前になるのは、70年代に入ってからです。

  アルバムの前後の写真に添えられた書き込みから考えると、1968年(昭和43年)11月16日から、12月24日までの間という事になるのですが、着ている服が、どう見ても、晩秋以降のものとは思えず、もしかしたら、アルバムに貼られている順番が前後していて、10月くらいなのかもしれません。 いずれにせよ、私の年齢は、4歳になる直前という事になります。

  この時は、歩いて登ったと書いてあります。 同じ時に撮った他の写真を見ると、父が写っておらず、母と私のツー・ショットの時には、兄が写っていないので、たぶん、母一人で、兄と私を連れて来たのだと思います。 兄は、6歳でしたが、すでに、カメラを操作できたわけですな。 私には、とても無理で、母と兄のツー・ショットはありません。

≪写真上≫
  左側の写真は、香貫山展望台の正面階段の横にあった、ニホンザルのケージです。 私の記憶では、もっと小さな檻だったのですが、記憶ほど当てにならないものはない。 こうして見ると、結構、大きかったんですねえ。 かぶりついているのが、私。 残念ながら、猿は写っていません。 

  右側の写真は、現在の、ほぼ同じ場所。 ケージは、撤去されてから、もう、40年も経っていますが、石垣の石は、一つ一つ、見比べて行くと、全く変わっていません。 当然といえば、当然ですけど。 撤去後に植えられた桜が、こんなに大きくなっているのだから、歳月の経過の荒々しさに、呆然とするほかありません。

≪写真下≫
  これは、展望台の正面階段です。 駆け上がる兄を、必死で追いかけているのが、私です。 展望台の上に、瓦屋根を載せた建物が写っていますが、ある宗教団体が建てた、天文台の一部です。 天文台の他に、売店や、飲食ができる露天席などがありました。

  右側は、現在の同じ場所。 石段も、手すりも、ほとんど、変わっていません。 建物は撤去されて、今は、展望櫓と、あずまやが建っています。 変わった所を見ても、変わらない所を見ても、泣けてしまいます。


  ああ、その石段を駆け上がっている子供は、私です。 誰か、昭和43年の秋、香貫山の展望台で、母親に連れられた二人の男の子を見た人はいませんか? 小さい方が、私です。 その後、50年、生きて来て、まだ、元気です。 この時から、今までに起きた出来事が、忘れかけた夢のように、霞んでいます。


  これは、オマケです。 場所も、香貫山ではなく、南箱根にある、「十国峠」。 撮影日は、最初に出した写真のすぐ後で、正確な日付は分からないのですが、アルバムの前後の写真から考えて、1967年(昭和42年)1月16日から、2月10日までの間だと思われます。

  立っているのは、もちろん、私。 しかし、この写真から、現在の私は言うに及ばず、小学生以降の私ですら、想像する事はできないでしょう。 私本人ですら、知らずに見せられたら、誰だか分かりません。 前髪が整っていないのは、お出かけ用のベレー帽のせいで、すでに、散髪は経験していた事が、前後の写真から分かります。

  イノセントなオーラを発散しまくっていますが、欲望がなかったわけではないのは、手にしっかり持った、お菓子の缶を見ると分かります。 たぶん、ドロップなのでは? 甘い物が少ない時代だったので、ドロップは、最高においしい食べ物で、その缶が宝物だったのでしょう。

  ちなみに、左側に、ちょこっと写っているのは、当時のうちの車で、「初代ファミリア 800 デラックス」です。 この車に関しては、全く、記憶なし。




  古い写真を撮られた時の事は、どれも、全く記憶にありません。 私の場合、アルバムの写真と、頭の中の記憶が重なって来るのは、幼稚園に入った頃からです。 写真と関係ない記憶なら、もっと昔のがありますけど。 なまじ、写真に撮ってしまうと、実際の記憶と、後で写真を見た記憶が、ゴッチャになってしまう傾向があるようです。 それでも、写真は、ないよりは、あった方が、幼少時代の事を知るのに、断然、頼りになりますけど。

  惜しむらく、私は生涯独身ですし、兄にも子供がおらず、アルバムを託す者がいません。 私と兄が死んだら、誰も、これらの写真を見る者がいなくなり、何の意味もない、ただのゴミになってしまいます。 私が、この日、生きていた事に、何の意味があったのでしょう?

2018/04/15

時代を語る車達 ④

   出かけた先で撮影した車の写真に、個人の感想的な解説を付けたシリーズです。 元は、日替わり写真のブログで出している写真と記事なのですが、そちらのストックがなくなったので、とりあえず、今回で終わりです。




  これは、3代目ワゴンR。 生産・販売期間は、2003年から、2008年まで。 ワゴンRは、初代は、思い切った特徴的デザイン、2代目は、安定感の強いデザインで、それぞれ、良かったのですが、この3代目になったら、方向性を見失ったらしく、典型的な、「デザインレス・デザイン」になってしまいました。 いくら、機能重視だからと言って、デザインレスは、まずいでしょう。

  それはともかくとして、この車ですが、最も新しくても、10年も経っているのに、赤い色が褪せていないのは、不思議ですな。 車庫に保管しているんですかね? この色だけで、デザインの欠点を、充分に補っている観あり。



  とある事業所の前に並んだ、スズキの5代目エブリイ(2005年-2015年)。 スズキの場合、軽ワン・ボックスは、「エブリイ」、軽トラックは、「キャリイ」と、車形で名前が分かれているので、割と分かり易いです。 とはいえ、私は、パッと見て、何代目なのか分かるほど、詳しくはありません。

  同じ車種が、ズラリと並んで、壮観です。 この事業所、建物の裏手にも、何台か、同じエブリイが停まっていて、全部で、7・8台あると思います。 車も、纏めて買うと、お安くなるんですかね? 良く見ると、真ん中の車だけ、アルミ・ホイールを履いています。 乗り手が、個性を出したいんでしょうか。



  前の方が、陰に入ってしまっていますが、スズキの、5代目ワゴンR(2012年 - 2017年)です。 ワゴンRは、4代目で、デザインが飛躍的に良くなりますが、5代目でも、その形を、ほとんど変えず、魅力を保ちます。 機能性と美しさを両立させた、稀に見る傑作デザインだと思います。

  4代目と5代目の違いは、慣れれば、顔を見ただけで分かるようになりますが、慣れない内は、側面で見分けます。 後席三角窓の後ろの辺が、緩やかにカーブしているのが、4代目で、途中で角度が付いて曲がっているのが、5代目。 ・・・、三角窓と言っても、実際には、四角形や、五角形ですけど。



  ある時、スーパーに入って、たまたま、車をここに停めたのですが、しばらくして、ふと見たら、左右を、21世紀セルボに挟まれている事に気づきました。 私の車も、一応、セルボですから、セルボ・サンドが出来上がったわけです。 色も、全車シルバーだし。

  21世紀セルボは、型式名が、「HG21S」で、2006年から、2009年まで、生産・販売されていた車。 セルボとしては、4代目。 セルボ・モードをセルボに含めるのなら、5代目です。 車高を高くして、セミ・トール・ワゴン・スタイルにしたもの。 たった3年で、消えてしまったのは、車が悪かったというよりも、ワゴンRの4代目が、2008年に登場し、そちらに喰われてしまったからではないかと思います。

  左側の車は、「SR」のプレートがあり、スポーツ・タイプです。 しかし、手前側の車も、パンパーにエアロ・パーツが付いていますな。 いやいやいや、私は、セルボ・モードについては、結構、詳しくなったのですが、21世紀セルボについては、そんなに調べていないので、いい加減な事を書くのはやめておきます。

  名前が近いせいで、世間的には、21世紀セルボは、セルボ・モードの後継車という事になっていますが、スタイルを見ると、むしろ、初代MRワゴンの流れを汲んでいるように思えます。 スポーティーなイメージも、広い室内スペースも、と欲張って、中途半端になってしまった観があるものの、悪いデザインではないですし、使い勝手も良さそうに見えます。



  11代目ブルーバードにして、初代ブルーバード・シルフィーです。 2000年から、2005年にかけて生産・販売されていた車。 今は、3代目になっていますが、ブルーバードという名前は使われておらず、シルフィーだけの名前になっています。

  今時、セダンなんて、ほとんど、売れないのですから、ブルーバードのままの方が、対象年齢的には、通りがいいと思うんですがね。 名前を変える目的は、新しいイメージにして、若い世代にアピールする事ですが、そもそも、今の若い人達は、車に乗る人が少ないですし、乗る人でも、セダンは選びません。 改名の効果が期待できないではありませんか。

  デザイン的には、ゴーン氏が経営に入る前の、日産の社内デザインだと思います。 良くも悪くもない感じ。 先代の10代目ブルーバードが、ごついデザインだったのに比べれば、街なかで目障りでなくなっただけ、良くなったと思います。 ただし、2000年頃には、もう、セダンそのものが評価されなくなっていて、話題になるような事はありませんでした。




  今回は、以上、5台まで。

  私は、20歳前後の頃には、車好きでしたが、自動車工場に勤めて、自分で車の生産に関わり始めたら、たちまち、興味を失ってしまいました。 「こんなの、ただの、鉄とプラスチックの塊ではないか」と・・・。 通勤も、車で行っていたのは、3年だけ。 その後、電車・バスが、3年。 残りの、19年間は、バイクでした。 といって、バイクに詳しいというわけではなく、バイクよりは、車の方が、まだ分かります。

  ただし、私の、車の対する興味は、98パーセントくらい、デザインが対象なので、エンジンやサスペンション、グレードなど、中身の方は、ほとんど分かりません。 デザインにしか興味がないというのは、どういう事かというと、同じ車種で、外見が同じなら、最小排気量の最低グレードでも、最大排気量の最高級グレードでも、価値の違いを感じないという事です。

  デザインというのは、感じ方が人それぞれで、共通見解に達しにくいのが難点でして、自動車工場では、ほとんど、話の種になりませんでした。 それは、ネット上でも同じ事で、自分が良いとか悪いとか思っていても、それを他人に同意させようというのは、困難を通り越して、不可能に近いです。

  車関係のブログを持っている人達は、話相手の乗っている車のデザインを、不用意に貶したりしないように注意すべきですな。 自分の所有物を貶されて喜ぶ人間はいないです。 「全体的にはいいけれど、この部分が駄目」といった、限定的な批判すら、控えるべき。 どうしても、良し悪し言いたいのなら、私のように、コメント受付拒否にして、独り言的に書くしかありません。

  デザインは、悪ければ売れませんが、良くても、デザインだけの魅力で売るというのは難しくて、「大量に売れたから、いいデザインだったのだ」という、結果から判断する評価方法は、危ういです。 もっとも、もはや、車が売れるだの、売れないだの、そんな事は、話題にすらならない時代になってしまいいましたけど。

2018/04/08

時代を語る車達 ③

   昨年の12月に、2回連続でやったシリーズの続きです。 カメラを持って出かけた先で、目についた古い車を撮影し、過ぎ去った時代を振り返ろうというもの。 後ろ向きな企画ですが、撮影そのものは、今やっているわけで、いくらかは、前向きな面もあります。




  5代目アルト(1998-2004年)。 この型から後は、現行規格です。 この型のアルトは、随分前から、デザインが好きで、一昨年、車購入シミュレーションをした時に、候補に入れていたくらいです。 後輪側のフェンダーに、ブリスターを使っているところが、何ともいえぬ。 アルトは、この後の、6代目から、奇妙なデザインになってしまいます。

  この車は、5ドアで、5ナンバーなので、乗用。 ホイール・カバーは、オリジナルのままだと思います。 塗装の劣化は、ほとんど、感じられません。 マット・ガードのデザインが、妙にシンプルで、車本体の凝ったデザインと合わないような感じがします。 本体とは、別の人がデザインしたのかも。

  この型、まだまだ、いくらでも、見る事ができますが、やはり、少しずつ減っているのでしょうなあ。 この型のデザインが優れている事に気づいているのは、少数派だと思うので、特別に珍重される事もなく、姿を消して行くものと思われます。



  一部、白飛びしてしまっていて、恐縮ですが・・・、ダイハツの、6代目ミラ(2002-2009年)です。 今世紀に入ってからの車だから、ずっと新しいですな。 だけど、ここ2・3年で、急激に数が減ったような気がします。 この車は、4ナンバーなので、ボンバン。 車輪も、ホイール・カバーなしの、シルバー塗装した鉄ホイールで、実にシンプルです。

  そういや、私が、まだ会社務めしていた頃、この型のミラを通勤用に使っている人が多かったです。 トヨタ・グループだったから、通勤は、トヨタ車か、ダイハツ車に限られていて、足と割り切って、ミラのボンバンを選んでいたんでしょう。 そういう人は、通勤用とは別に、他社製の車を所有しているのが普通でした。

  デザインとしては、5代目よりは良いけれど、4代目以前には、及ばないというところでしょうか。 運転者の性別を問わないのは、良いと思います。

  何年の事だったか忘れてしまいましたが、≪冬ソナ≫ブームの頃、ヨン様が、この車のCMに出た事で、印象に残っています。



  ダイハツの初代ムーヴ(1995-1998年)。 旧規格車です。 旧規格の軽は、ただいま、急激に、姿を消しつつあります。 残存率は、ライバルだった、初代ワゴンRと、どっこいでしょうか。 私のセルボ・モード後期型と、同じ時期に売られていたのですが、この車の方が、遥かに、程度が良いです。

  この型のムーヴを初めて見たのは、1995年の秋に、愛知県の田原工場へ応援に行った時、道路上で、この車の新車を載せたトランスポーターが走っていて、その後ろに、バイクでついた時だったと思います。 リア・ドアに貼られた、四角いネーム・プレートをしげしげ眺めた記憶があります。 あれから、長い時間が経ちました。



  ダイハツの、5代目ミラです。 1998年から、2002年まで売られていた型。 「ミラ・デザイン」と呼ばれていたスタイルは、3代目で終わり、4代目は、幾分、セルボ・モード風になったのですが、この5代目では、完全に変質して、独特のスタイルになりました。

  初代ミラ・ジーノのベースになった車で、明らかに、レトロ・デザインに影響されています。 レトロ風デザイン車をベースに、本格的なレトロ・デザイン車を作ったのだから、初代ミラ・ジーノの完成度が高くなったのは、理の当然。

  しかし、そのせいで、この普通のミラは、中途半端なデザインになってしまいました。 どう見ても、21世紀の車という感じがしません。 これを買うなら、ジーノを買った方が、満足度は高かったと思います。

  それはさておき、この車ですが、大変、程度が良かったです。 こまめに手入れしているんでしょうねえ。 車庫に入れているんじゃなかろうか?



  日産の、「ティーダ」。 2004年から、2012年まで、生産・販売されていた車。 日本国内では、一代限りで終わってしまったのですが、海外では、代を重ねているとの事。

  特別、この車が好きというわけではないんですが、カルロス・ゴーン氏が経営者になった後、日産車のデザインが大変わりし、その期間に登場した車なので、印象に残っています。 セダンもあったんですが、そちらは、「ティーダ・ラティオ」という、サブ・ネームが付いた、派生型という位置づけでした。

  クラス的に、サニーの後継車だったのに、ハッチ・バック車をメインにするとは、思い切って、変えたものだなあと感心していたのですが、まさか、一代限りでなくなってしまうとは、思っていませんでした。 ちなみに、この車の後継車は、2代目ノートらしいです。

  日産の車は、いつのまにか、車種の統廃合が進んで、私のように、80年代の車を基点に、「どれが、どれの後継車」という形で、認識して来た者には、捉え難くなってしまいました。 普通の乗用車だと、マーチ以外、80年代の名前を残しているものが、一車種もないというのは、改めて考えると、驚きです。 名前を変えたから、売れるというものでもないと思うのですが。




  今回は、以上、5台まで。

  撮影の方は、今現在も続けています。 初回の前文で、「古ければ、何でも撮るというわけではなく、主観で被写体を選んでいる」と書きましたが、その後、撮れる車は、片っ端から撮る方向にズレつつあります。 なかなか、いい印象に残っている車が、見つからないんですよ。 ちなみに、もはや、80年代の車は、滅多に見られなくなりました。 それ以前の車なら、尚の事。 時間の川は、流れが速い。

2018/04/01

母自のサドルを低くする

   今回も、自転車ブログの方に書いた記事からの転載です。 それにしても、ほんとに、このブログ専用に記事を書く事がなくなりましたねえ。 引退した後、坂を下るように興味が枯れて、世の中に物申したい事が、なくなってしまったんですなあ。

  いずれ、ブログをやめる事になると思いますが、今の所、閉鎖を決断するほど、切羽詰っていないので、他のブログに書いた記事の転載で、続けようと思います。




  私の母ですが、一昨年の夏、父が他界して以降、もしくは、一昨年の秋、自身の狭心症手術をして以降、体力面の衰えが徐々に進んでいます。 以前は、毎日のように自転車で買い物に出かけていたのが、次第に間隔が広がり、いつのまにか、二週間に一度くらいしか、自転車に乗らなくなってしまいました。

  高齢者というのは、運動しない言い訳を、あれこれと考え出すものでして、母が言っていたのは、「体力が衰えて、ケンケン乗りしようとしても、なかなか、勢いがつかなくなり、怖くて、乗りたくなくなった」というものでした。 そんなの、言い訳、言い訳! そもそも、体力が衰えたのは、運動しないからであって、因果関係をすりかえています。

  ちなみに、私の母は、ケンケン乗りしかできません。 昭和20年代後半から、女学校に通うのに、自転車を使い、学校給食の調理師に就職してからも、自転車で通える学校なら、自転車で通っていたという、筋金入りの自転車乗りなのですが、乗り始めの頃に覚えたのが、ケンケン乗りだったので、それで固まってしまったらしいのです。

  そのケンケン乗りが、怖くて、できなくなったので、八十の手習いで、踏み込み乗りに切り替えたいのだけれど、踏み込み乗りの場合、左足がしっかり地面に着いていないと不安。 その為には、サドルを低くしたいのだけれど、母自のサドルは、すでに、限界まで下げてあって、それ以上、低くなりません。

  そこで、私の折自が、月に一度しか乗っていない事に目をつけ、「あれなら、サドルが低いから、乗れるかもしれない」と、事あるごとに、繰り返し、口にするようになりました。 冗談ではないです。 母に、折自の使用権を認めたりしたら、前籠を付けたり、ライトを付けたり、荷台を高くしたり、メチャクチャにしてしまうのは、一点の曇りもないくらい、疑いないところ。

  いやいや、無闇に疑っているわけではなく、前例があるのです。 かれこれ、20年以上前ですが、母が仕事を退職した後、年金受給までの繋ぎに、親戚がやっているローソンで、アルバイトをしていた時期がありました。 その時、ローソンの懸賞で、16インチの折り畳み自転車を当てました。 届いた時には、普通の折自だったんですが、「このままじゃ、使えない」とか言って、ホーム・センターで、前籠、荷台、ライトを買って来て、ゴテゴテとくっつけまくり、折り畳む事もできないようにしてしまったのは、他の誰でもない、母なのです。

  とんっでもない! 以ての外の言語道断! 私の大事な折自を、そんな目に遭わせて、たまるもんですか。 そもそも、母が自転車にケンケン乗りできなくなったのは、運動しない言い訳に過ぎないにも拘らず、自分では、それに気づいておらず、本気で、自転車の方に問題があると思っているのだから、始末に負えない。


  そこで、折自に手を出される前に、母自のサドルを、限界を超えて低くしてやろうと思い立ちました。 ちなみに、普通のサドル・ヤグラは、↓こんな風に、サドルのレールの下側に付いています。


  ビフォー写真を撮り忘れてしまい、旧母自のサドルを撮影しました。 まー、一般車なら、どれも、似たようなものです。 うーむ、レストアで、綺麗にしてから、2年経ちますが、かなり、錆が復活して来ましたなあ。 だけど、もう一度、あのレストアをやる気力はありません。

  それはさておき、母自の方ですが、ヤグラを一旦外し、上下、引っ繰り返して、レールの上側になるようにしました。 ↓こんな感じです。


  レールは、ただの丸棒ですから、ヤグラが下だろうが、上だろうが、問題なく付くのです。 こうすると、ヤグラの高さの分、約3センチくらい、サドルを低くする事ができます。 なに? 理屈が分からない? つまりその、レールの下に付いていた時には、ヤグラがサドルの外に出ていたのが、上に付け替えると、ヤグラがサドルの中に入ってしまうから、3センチ引かれて、それだけ低くなるというのよ。 なに? まだ、分からない? 困ったなあ。 そういう人は、塾の先生に相談して下さい。

  この方法、私が考え出したわけではなく、何かの本に出ていたのを、記憶していたです。 いつか使えるかと思って、記憶したわけではないのですが、今、使えました。 こういう事もあるんですねえ。 自転車好きな人でも、いや、そういう人であればこそ、サドルを高くする事には頭を使っても、低くする事など考えもしないから、知らない人も多いのでは?


  で、母に、「3センチ、低くした」と言ったら、「なに! 低くなった? どうやって? まあ、そんな事はどうでもいい」とばかりに、ホイホイと試し乗りに出て行きましたが、今まで、60年以上も、ケンケン乗りでやって来た人が、いきなり、踏み込み乗りができるわけがないのであって、「どうも、思ったように行かない」と、首を捻りながら戻って来ました。

  電動アシストだから、普通の自転車より、走り出し易いと思うのですが、そうでもないんでしょうか? ちなみに、内装3段レボ・シフトのギアも付いているのですが、母は、使っていません。 軽いギアにすると、「ペダルが、クルクル回ってしまって、怖い」と言い、中間の「2」に固定して、乗っています。 電アシの、せっかくの高性能を、使いこなせていないのだから、勿体ない話ですな。


  母が、踏み込み乗りに転向できるかどうかは、怪しいところですが、とりあえず、私の折自を使わせろと言って来る心配はなくなったわけで、それだけは、私にとって、収穫だったと言えます。 




  自転車ブログからの転載は、以上です。 その後、母は、その状態で乗っていますが、特段、自転車で出かける機会が増えたわけでもないようです。 踏み込み乗りへの転向が成功したのかどうかも、分かりません。