2016/09/25

父の死

  私の場合、短期間とはいえ、父の介護をしていたので、突然訪れた父の死に、結構、精神的ダメージがありまして、すぐには、その事に触れる気にならなかったのですが、9月20日に、四十九日の法要も終わって、父の死から、だいぶ、日にちが経った事だし、そろそろ、心覚え程度の事を記しておこうと思います。


  自分以外の人間の世話をしていると、その人が段々、自分の体の一部のような気がして来るものでして、二度目の入院をして一週間後に、「誤嚥性肺炎」という、入院理由とは全く関係ない病名で父が死んだ時には、自分の手足を失ったような気分になりました。 あの喪失感には、ペットの死とは、ランクが違うものがありましたねえ。 結局、元気な状態に戻すのに、有効な事は何もできなかったという点は、ペットでも父でも同じでしたが・・・。

  自分で言うと、いやらしいですが、私ゃ、父が要介護になってから、実にいろいろな事をやりましたよ。 父が夜中に漏らしても、朝、簡単に片付けられるように、ベッドの防水対策に知恵を絞ったり、安い紙オムツを探し回ったり、階段に手すりを増設したり、欲しくもないのに、車を買ったり、毎日毎日、創意工夫と悪戦苦闘の連続でした。 でも、そのほとんどが、後手に回り、効果があっても、一回きりで、二度目には、父の衰えが更に進んで、もう通用しなくなってしまいました。

  たとえば、父が、ベッドから下りようとして、床に尻餅をつき、そのまま立ち上がれなくなってしまう事がありました。 重くて、抱き起こす事ができないので、困ってしまったのですが、あれこれ考えている内に、体をうつ伏せにし、四つん這いになってから、手をベッドの上にかければ、起き上がれる事が分かりました。 「よし、これからは、これで行けるぞ」と喜んだものの、次の機会には、父の体力がなくなって、そもそも、うつ伏せになる事もできなかった、という具合です。

  年老いた親が、車椅子生活になったから、自宅をバリア・フリー化しようと、玄関前にスロープを設けている家を、よく見かけますが、そこを、実際に車椅子で通っている姿はあまり見ないでしょう? その理由が分かりましたよ。 スロープをつけた頃には、もう、症状が進んでしまって、寝たきりになり、車椅子に乗れなくなっているんですわ。 そうに違いない。

  若い内に、病気か怪我で、車椅子生活になった人と、老化して、車椅子を使うようになった人とでは、使う期間が違うのです。 前者に取って、車椅子は日常的な道具ですが、後者は、衰えて行く途上にありますから、いつまでも、車椅子に乗れるわけではありません。 上体を自力で支えられなくなったら、車椅子に乗る事はできないのです。 老人が車椅子生活になったら、寝たきりに移行するのは、時間の問題と見るべきでしょう。

  ところが、介護している家族は、そんな事は分からないから、「車椅子なら、スロープが要るな」と、イメージで判断して、ン十万円費やして、ドドーンと造ってしまうんですな。 勿体ないこって。 そんなお金があったら、本人を施設に入れる足しにすればいいのに。 そういや、以前、このブログで、「要介護の患者は、極力、施設に入れるよう努力すべきだ」と力説しましたが、今回の一件で、ますます、その思いを強くしました。

  うちのように、家で何もせずに暮らしている人間が一人いても、介護なんて、とても、できないんですよ。 父の場合、二度目の入院の前夜まで、自力で立つ事ができたから、着替えは、手伝うだけで済みましたが、もし、完全な寝たきりになってしまったら、パンツ1枚、換えられなかったと思います。 老人の体重を甘く考えては行けないのであって、赤ん坊や犬と同列には語れません。

  紙オムツには、テープ式という、寝たきり患者専用の物がありますが、それでも、交換する時には、患者の体をベッドの上で転がさなければなりません。 当人に、転がる気があれば、割とうまく行きますが、そうでない場合、重すぎて、腕の力だけでは、片側を浮かせる事もできません。 病院で介護士さんがやっているのを見たら、全身を使って、柔道の寝技でもかけるような力の使い方をしていました。

  紙オムツも、何度も買いに行きました。 パンツ式は、20枚入りで、1300円くらい。 テープ式は、その2倍くらい、しましたかね。 「一日に、何枚使う」という計算ができないのが厄介なところでして、なぜかというと、父の場合、自力でトイレに行ける時と、行けない時があり、行けない時が多いと、オムツがしょっちゅう濡れて、そのつど、交換しなければならないからです。

  紙オムツにだけ限って言えば、いっそ、完全に寝たきりになってくれた方が、楽でした。 なまじ、本人が、自分の力で、脱ぐ事ができたものだから、夜中に漏らすと、パンツ式オムツを脱いでしまい、その後、新しいのを穿く事ができずに、そのまま、眠り直し、朝までに、また漏らして、ベッドがぐしょ濡れ、という事が何度もありました。

  父の場合、体の衰えの先を行く格好で、認知機能の衰えが進んだのですが、人間、普段、何気なくやっている事でも、実は、頭を使っている事が、驚くほど多いいんですな。 頭がイカれると、ごくごく簡単な事ができなくなってしまうのです。 パンツやズボンに脚を通す事ができず、片方の穴に、両脚入れてしまって、「このパンツは、おかしい」などと、言っている始末。 風呂から出た後、パンツ一枚穿くのに、一時間かかっていた事もありました。

  こういう話をすると、笑い所だと思って、笑う人がいますが、とんでもない! 小指の爪の先ほども笑える事ではないのであって、そんな状態になってしまった自分の親を見て、どうして、笑えるものですか。 ぞーっと、冷や汗が流れるだけです。 肉親の介護を経験した人は、決して笑えないと思います。 介護士や看護師が、他人の介護をする場合だと、また、感じ方が違うようですけど。 彼らの場合、笑いでもしなければ、やっていられないのでしょう。

  で、「一時間もかかっているようなら、見てないで、手伝ってやれよ」と思うでしょう? ところが、それも駄目なんですよ。 手伝い始めたら、「あれもやってくれ、これもやってくれ」で、全面的に、介護者に頼るようになり、自分では何もできなくなってしまうのです。 これは、介護側からすると、恐ろしいの一語に尽きる。 体の一部どころか、患者と完全に一体化してしまう事になり、二人分の事を毎日しなければならなくなり、出かける事もままならなくなります。


  だけどねー。 こういう事を、文章でいくら書いても、経験していない人には、伝わらないと思うんですよ。 一家の中で、一人が介護係になると、その一人に任せきりになり、他の家族がいても、何もしなくなります。 うちの場合、私が介護係になったので、母は、食事の仕度以外で、父の介護に携わる事はありませんでした。 その結果、母は、最後の最後まで、介護の難しさが分からないままでした。 家の中に、要介護者がいたにも拘らず、です。

  最初の入院の時に、母が、父のパンツが汚れているのに気づいて、もう、救急車が来るというのに、パンツを穿き替えさせようとしていましたが、当人が意識混濁状態になっているのに、着替えなんか、させられるわけがないのであって、尻を持ち上げる事ができず、結局、諦めてしまいました。 母にとって、介護というのは、他人に汚れたパンツを見せたくないという、世間体を気にする程度のものであって、実際の介護は、知らずに終わったんですな。

  他にも、「近所のスーパーで、紙オムツを買うと、知り合いに見られて恥ずかしい」と言って、わざわざ遠くのスーパー行って、しかも私に買わせたりしていましたが、紙オムツを買うのが恥ずかしいと思う事自体、すでに、介護者の発想ではありません。 私は、紙オムツを買う時には、お金がいくらかかるか、その心配しかしていませんでした。 何が、恥ずかしいものですか。 馬鹿馬鹿しい。


    いや、それもこれも、もう済んでしまった事です。 死んでしまえば、もう、その人は戻りません。 私は介護をしていたから、喪失によるショックがあったわけですが、父が徐々に衰えて行く様子を、間近に観察していただけに、父の死そのものは、冷静に受け止められました。 最後の半年くらいは、もう、何もやる事がなく、やりたい事もなく、趣味の盆栽や植木にも興味を失い、テレビさえ、見ても見なくても同じという有様でしたから・・・。

  人間は、やりたい事が、何もなくなった時に、頭が壊れ始め、体が壊れ始め、健康のバランスが取れなくなって、積木の山のように、ガラガラと崩壊して行くのだと知りました。 当人に、健康体に戻りたいという意志が感じられなくなり、食も細くなって来たら、もう、家族が何をしても、死への落下は止められないのだと悟りました。

  私が、最も恐れていたのは、父が、長期介護になり、私の引退生活を、喰い尽してしまう事でしたが、幸いにも、それは避けられました。 その点に関しては、父に感謝するしかありません。 人間の生き方に、優劣をつけるのには、慎重さが必要ですが、死に方の方は、容易に、点数評価ができます。 人に迷惑をかけて死ねば、点数が低く、そうでなけば、高くなります。

  孤独死は、何かと批判が多いですが、周囲への迷惑が少ないという点では、100点に近いです。 死んだ後の片付けなんか、介護に比べたら、物の数ではありません。 葬儀は別として、遺品整理業者に頼めば、一週間もあれば、全部、片付いてしまうではありませんか。 介護は、一週間じゃ終わりませんよ。 

  一方、在宅介護で、家族を介護者にして、何年も寝たきりで生きながらえた後、死ぬケースというのは、限りなく、0点に近いです。 家族の人生を、よーく、喰い潰してしまうからです。 日々、家族の生活を破壊していると言っても良いです。 そういう家では、口にはしないものの、死が待ち望まれているのであって、死んで、喪失を感じるどころか、逆に、解放感で、呆けてしまうくらいでしょう。 要介護患者が死んで、ようやく、家族の人生が再スタートするわけです。

  うちの父は、0点になりかけてから、大逆転し、95点くらいで死んだ事になります。 減点の5点分は、私が介護に投入したエネルギーの分です。 それは、譲る気がありません。 父本人は、自分の親の介護をしなかったから、尚の事です。 ちなみに、私の祖父は、死ぬ前の一年間、要介護状態で、介護は、祖母がしていたそうです。 祖母の方は、クモ膜下出血で、夕方倒れて、夜中には死んでしまいましたから、要介護期間はありませんでした。

  自分が親の介護をしていないのに、自分の介護は、子供にして欲しいと願うのは、随分と虫がいい話です。 だけど、そういう親は、多くいそうですな。 「子供が、親の面倒を見るのは、当然だ」とか、思っているわけだ。 自分は、やらなかったくせこいて、ヌケヌケと。 そういう親がいたら、はっきり言ってやった方がいいです。 「だけど、自分は親の面倒を見なかったんだろう?」って。 大方、ああだこうだと言い訳してくるでしょうが、聞く耳持つ必要はないです。

  自分はやらなかったどころか、親の面倒を見たくないばかりに、高校卒業するなり、さっさと実家を出てしまって、できうる限り、実家から遠い大学へ行き、そこで就職して、結婚して、家を建てて、「俺は、独立したから、もう、実家には戻れない」と宣言する人は、非常に多いですな。 だけど、自分が親を捨てるのであれば、自分も、子供から捨てられる事は、当然、覚悟しておくべきです。 子は親を見て育つわけですから。


  何だか、いくら書いても、とりとめがないので、今回は、このくらいにしておきます。

2016/09/18

カー連読⑦

  父の四十九日が近づき、また、落ち着かない雰囲気が盛り上がりつつあります。 昨今の私は、車の補修と読書で、日々の時間を埋めており、もはや、「バタバタしている」とか、「閑がない」といった言い訳は通用しないのですが、まだ、ストックがあるので、カー作品の感想文を、引き続き、出す事にします。




≪毒のたわむれ≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1958年初版 1993年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
村崎敏郎 訳

  発表は、1932年。 ノン・シリーズですが、アンリ・バンコラン物のワトソン役である、ジェフ・マールの一人称で書かれていて、物語世界は、バンコラン物と共通しています。 バンコランの名前も出て来ますが、本人が登場する事はなく、手紙や電話で助言をするという事もなく、探偵役は、別に用意されています。

  発表年が、バンコラン物と、フェル博士物の間に挟まっていて、バンコランの使い勝手の悪さに行き詰っていた作者が、新たな探偵像を模索している時期に書かれた作品。 おそらく、推理小説のアイデアの方は、どんどん思いつくのに、探偵をどう絡めていいか分からずに、四苦八苦していたんでしょう。 ちなみに、探偵が、何となく、物語から浮いてしまっている感じは、フェル博士やH.Mが登場してからも、カー作品に、ずっと付き纏います。


  ペンシルバニアの田舎町に住む、判事の屋敷が舞台。 三人の娘と長男は、大人になっているのに まだ家から出られず、次男は家出して、家計は、次女の婿が支えているという、不安定な状況下で、判事と、その妻が、違う種類の毒で殺されかける事件が起こる。 大理石像の右手がうろつきまわるのを、判事が何度も目撃したり、誰の物とも知れぬ笑い声が響いて来たり、不気味な雰囲気が漂う屋敷で、ジェフ・マールと地元の刑事達が、翻弄される中、三女の恋人である青年が、探偵として登場し、謎を解く話。

  描写が細かいですが、しつこい程ではなく、理屈っぽいところもありますが、それは、謎解き部分に集中しているから、気になる程ではなく、サスペンスが盛り上がる場面もありますが、活劇という程でもなく、初期のカー作品の中では、バランスがいい方だと思います。だけど、傑作というには、とてもとても・・・。 単に、読み易いだけです。

  事件関係者が、一人を除いて、判事の家族の者だけというのが、話をせせこましくしています。 また、判事の屋敷も、部屋が無数にある豪邸というわけではなくて、三階建てではあるものの、せいぜい、小金持ち程度の家でして、連続殺人が起こるには、ちと、舞台が狭過ぎます。 こういう事件が絶対に起こらないとは言いませんが、家族内の諍いなんて、他人が興味を引かれるような事ではないと思うのですがね。

  最大の欠点は、探偵役の青年のキャラです。 パット・ロシターという名前のイギリス人で、ロンドン警視庁のお偉方の息子という、表に出さない肩書き付き。 大柄だけど、子供みたいな性格で、ちょっと話をした限りでは、頭がおかしいとしか思えない。 典型的な、変人探偵ですな。 ところが、このキャラを、作者が、全然、使いこなせていないのです。 「とにかく、特徴を出す為に、変人にしてみました」というだけで、その変人ぶりが、物語の中身に、まるで噛み合って来ません。

  こんな中途半端な探偵を創るくらいなら、バンコラン物にしてしまい、パリにいるバンコランに、電話でヒントを貰って、ジェフ・マールが犯人を逮捕する、という形にした方が、むしろ、収まりが良かったと思います。 パット・ロシターが、あまりにもパッとしないから、フェル博士が創られるわけですが、フェル博士も、探偵としてそんなに魅力があるわけではなく、カーという人が、特徴的なキャラを作り出すのが苦手であった事が、よく分かります。



≪死者のノック≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行 1993年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
高橋豊 訳

  発表は、1958年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、19作目。 最終作の9年前ですから、もう、後期の作品ですな。 カーがイギリスからアメリカに戻った後に書かれたもので、事件の舞台もアメリカです。 フェル博士は、イギリス人なのですが、アメリカが舞台の話に登場する為に、わざわざ、大西洋を渡って来させられるわけで、歩くのもゼイゼイ言うほどの巨体なのに、ご苦労な事です。


  アメリカの大学町が舞台。 体育館での悪戯事件が続いていたところへ、教授達が多く住む住宅地で、身持ちが悪いと噂されていた女が、自殺としか思えない密室状態で死んでいるのが発見され、彼女に関わっていた人物達が、疑心を残しつつも互いに庇い合う中、町に招待されていたフェル博士が、事件捜査に加わり、真相を明らかにする話。

  推理小説草創期の作家、ウィルキー・コリンズが遺した書簡に記された、密室殺人のアイデアが絡んで来るのですが、ほんとに、そんな書簡があるのか、作者の創作なのか、本文を読んでいる限りでは分かりません。 トリックそのものは、物質的なもので、あっと驚くような意外性はないです。

  本格推理物ですが、フーダニットの系列で、トリックの重要性は、そんなに高くないです。 カーは、フーダニットが、あまり得意ではないようで、登場人物が少ないせいか、消去法でも、犯人の大体の見当がついてしまいます。 そもそも、フーダニットは、読者を撹乱する為に、登場人物をうじゃうじゃ出しているのであって、推理しながら読んでも、まず当たりません。 その点、カーは、フェアに拘っているので、登場人物を増やす事に、抵抗があるのだと思います。

  私は、カーの後期の推理物というと、≪月明かりの闇≫と≪仮面劇場の殺人≫しか読んでおらず、その二作は、もう、最終作とその一つ前ですから、終わりも終わりの方。 それらに比べると、この作品は、ずっと纏まりが良くて、物語として、面白いです。 つまり、この作品の後、どこかから、おかしくなって行くわけだ・・・。

  ちょっと気にかかるのは、ラストで、犯人に対して、フェル博士や警察が取る態度でして、これは、法治社会では許される事ではありますまい。 被害者達が、どんなに悪党だろうと、人殺しはしていないのであって、犯人と、どちらの罪が重いかは、歴然としています。 大体、そこで、そういう処置をして、ごまかせたとしても、その後、殺人犯と分かっている人間と、普通に交際して暮らして行けるものですかね?



≪悪魔のひじの家≫

新樹社 1998年初版 1998年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
白須清美 訳

  三島市立図書館の書庫に入っていた単行本。 購入された当初は、当然、開架にあったのだと思いますが、何年くらいで、書庫に移されるんですかね? 購入年が古くても、開架に残されている本もあるわけですが、貸し出し実績で、開架残留か、書庫行きが決まるんでしょうか? もっとも、借りる時には、出してもらえばいいのですから、不便というほどではなく、むしろ、書庫にあった方が、本の傷みは少ないと思います。

  発表は、1965年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、21作目。 もう、晩年と言っていい時期に入っていますな。 H.Mシリーズの方は、とっくに終了していて、フェル博士シリーズだけが、本格推理作品として続いていたわけですが、この作品の後には、≪仮面劇場の殺人≫と、≪月明かりの闇≫の二作しか書かれていません。


  イギリス南部、ハンプシャー州の海に突き出た、「悪魔のひじ」と呼ばれる土地に、「緑樹館」という屋敷があり、そこの当主と、勘当同然でアメリカへ行き、雑誌業で成功した長男が、ほぼ、同時期に病死する。 遺言により、緑樹館の財産は、長男の息子に遺されるが、彼は金には困っておらず、屋敷に住んでいる叔父に相続権を譲ろうとする。 その手続きの為に、長男の息子が、数十年ぶりに緑樹館を訪れると、幽霊の目撃談が出たり、叔父が密室内で空砲で撃たれたりと、奇妙な事件が続発する話。

  晩期の作品にしては珍しく、最盛期の作品の雰囲気が感じられます。 逆に言うと、過去の作品の、キメラ的な焼き直しなのですが、≪仮面劇場の殺人≫や、≪月明かりの闇≫に比べれば、ずっと、カーらしく、読み易いです。 面白い・・・、とまでは言いませんけど。 肝心の密室の謎が、偶然に頼りすぎている点が、最も物足りないのですが、それはまあ、この作品に限った事ではありません。

  土地の名前や、屋敷に纏わる伝説がおどろおどろしい割には、その事が、話の内容に深く関わっていません。 しかし、それも、この作品で始まった事ではなく、カー作品では、よくある事です。 とは言うものの、こういう庇い方は、客観的な評価をする上では、よくないでしょうなあ。 私も、半分、ファンになりかけていて、批評する資格を失いつつあるのかも知れません。

  ちなみに、同じような問題点は、カーに多大な影響を受けた、横溝正史作品でも、よく見られます。 推理小説を、物語の流れや、練りに練った構想からではなく、人物相関、トリック、過去の因縁、舞台背景といった、個別のパーツを寄せ集める形で作ろうとすると、こうなりがちなのだと思います。

  長男の息子というのが、軽口を叩く性格で、フェル博士を、哲学者達の名前で呼んだり、エリオット副警視長を、ホームズ物に出て来る刑事達の名前で呼んだり、無用な冗談ばかり言っているのが、鼻につきます。 こういうキャラは、≪月明かりの闇≫にも出て来ました。 読んでいて、不愉快以外の何物でもないです。 それなりの意図があって出しているキャラだという事は分かっていますが、作者の知識のひけらかしが混じっているのが、腹が立つ。

  ちなみに、カー作品では、読者の癇に障るキャラが出て来ると、それは、大抵、犯人ではないです。 あくまで、大抵ですが。 しかし、必要以上に生意気な口を利く若い女性が出て来たら、それはもう、絶対、犯人ではありません。 「こいつが犯人であってくれればいいのに」と、読者に思わせる、罠なのです。 私は、毎回、引っかかっています。



≪弓弦城殺人事件≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1976年発行 1995年4刷
カーター・ディクスン 著
加島祥造 訳

  三島市立図書館の書庫に入っていた文庫本。 発行19年目にして、4刷というのは、少しずつだけど、確実に売れていたという事でしょうかね。 カーの作品の中では、有名な方であるせいか、本が、そこそこ、くたびれていました。 だけど、三島図書館の本は、沼津図書館の本に比べて、全体的に、程度が良いです。 「これは、捨てた方がいいだろう」と、指先で抓みたくなるようなものがないですから。

  発表は、1934年。 ノン・シリーズで、探偵役は、ジョン・ゴーントという、この作品だけに出てくる人物です。 カーター・ディクスン名義の作品では、探偵は、H.Mなのですが、ジョン・ゴーントは、その前身に当たります。 ただし、キャラは、全く似ておらず、むしろ、アンリ・バンコランに近いです。

  「弓弦城」は、「きゅうげんじょう」と読みます。 原題は、「The Bowstring Murders」で、直訳すると、「弓弦殺人事件」。 舞台が、弓弦城だから、邦題をこうしたのでしょうが、殺害に弓弦が関与して来る事を考えると、直訳した方が、内容を正確に表現できたと思います。 ちなみに、ネット情報では、この作品、元は、「カー・ディクスン」という名義で発表されたとの事。 カーの名義の使い分けには、ややこしい事情があるので、ここでは書ききれません。 同一人物だという事だけ分かっていれば、充分。


  甲冑や武具のコレクションで知られる貴族が住居にしている弓弦城で、当主と、若いメイドが相次いで殺される事件が起こり、当主が死んだ場所が密室状態だった事から、地元警察では手に負えないと見て、城に招かれていた、英国博物館の館長の知り合いである、犯罪学の権威、ジョン・ゴーントが呼ばれ、密室の謎を解く話。

  密室物ですが、フーダニットでもあります。 カーのフーダニットは、登場人物が少ないから、消去法で、犯人の大体の目星がついてしまうという欠陥があるのは、他の作品と同じ。 それ以外にも、「よく喋る人物は、犯人ではない」、「利口ぶった、鼻に付く女は、犯人ではない」など、カー作品では、犯人の特定に、ヒントが結構あります。

  密室トリックもそうですが、全体的に、キレが悪いです。 アリバイの突き合わせに、異様にページ数を割いたり、探偵役以外の者が、間違っているに決まっている推理を延々と語ったり、読者に、「時間を割いてまで、読む意味がないのでは?」と思わせる部分が、大変、多い。 思うに、辻褄合わせに、ああだこうだと、弄っている内に、作者自身、どんな話か分からなくなってしまったパターンではないでしょうか。

  一口で言うと、つまらないのですよ。 この材料では、面白くなりようがないとでも言いましょうか。 ジョン・ゴーントのキャラが、パッとしないのも、大きなマイナスですねえ。 ディクスン・カー名義の方では、バンコランが使い難いから、フェル博士に変えたのに、こちらでは、まだ未練があったようで、「バンコランを、イギリス人にしただけ」みたいなのが、ゴーントなのです。

  それにしても、カーは、古城が大好きだったようですな。 一体、何作品に出て来る事やら。 ところが、古城を舞台にした作品は、割合、面白くないものが多いのです。 読者の側に、城という建物に馴染みがないせいか、密室物に必須の、密室的雰囲気が、伝わって来ないからではないかと思います。 たぶん、カー本人に訊けば、「一度、古城を見に行けば分かる」と答えたと思いますが、推理小説を楽しむ為に、わざわざ、ヨーロッパまで行けませんぜ。

  巻末に、ドナルド.E.イェイツという人が、解説がついているのですが、「誰、この人?」という感じでして、批評家なのかも知れませんが、外国の批評家なんて、普通、知りません。 しかも、この作品の解説ではなく、カーの解説でもなく、探偵小説全般の解説だから、「何、これ?」と思うなという方が無理です。 何でも、オマケに付ければいいってもんじゃないと思うのですがねえ。




≪九人と死で十人だ≫

世界探偵小説全集 26
国書刊行会 1999年
カーター・ディクスン 著
駒月雅子 訳

  三島市立図書館の、開架にありました。 全集に入っているとは露知らず、見逃していた次第。 自分で気づいて良かった。 開架にあるのに、書庫から出してくれなんて頼んだら、顰蹙を買うところでした。 全集とは言っても、外見は、普通の単行本で、表紙絵も、一冊ずつ異なっています。

  発表は、1940年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、11作目。 ≪かくして殺人へ≫の次で、どちらも、同じ年に発表されていますが、例によって、発表時期の近さと、内容の類似の相関は、認められません。 戦時中の発表で、この作品の場合、戦争を背景にした設定になっています。


  1940年1月、軍需物資を積んで、アメリカからイギリスへ、大西洋を横断していた客船の中で、トルコ外交官夫人が、喉を切られて殺され、続いて、奇妙な行動ばかり取っていたフランス人大尉が、真夜中に銃で撃たれて、海へ転落する。 大尉が夫人を殺して、自殺したように見えたが、大尉は他の人間に撃たれたという証言が出る。 夫人の殺害現場に残されていた指紋は、乗船者の誰とも一致せず、幽霊による殺人ではないかと囁かれ始める中、たまたま乗船していたH.Mが、謎を解いて行く話。

  作品名の、「九人と死で十人だ」ですが、内容を、まるで映していません。 特に、「十人」の部分が、何の関係もなくて、これは、「八人」とすべきなのではないでしょうか? もっとも、そうすると、読む前に、過剰なヒントを与えてしまう事になりますが。 一応、乗客は、九人という事になっていますが、人数そのものには、あまり、意味がないです。

  密室物ではなく、指紋絡みの不可能犯罪物で、そちらは、それほど、面白いわけではありません。 「へえ、そうなの・・・」という感じで、一つ利口になったような気はするものの、驚くような事は、全くないです。 むしろ、フーダニットに分類すべきなのかも知れませんが、実は、犯人が嘘をついており、それを、読者が見抜くのは不可能です。 三人称だから、尚の事。 犯人に嘘をつかせる話では、別の人物の一人称で書いた方が、話がフェアになると思います。

  客船上で起こる事件としては、1934年に、フェル博士シリーズで書かれた、≪盲目の理髪師≫がありますが、そちらは、ドタバタ喜劇。 こちらは、戦時中に、ナチス・ドイツの潜水艦が遊弋して海域を航海するわけで、緊張感が全然違います。 また、潜水艦警報というのがあって、それが、事件の推移にうまく取り入れられています。

  ストーリー展開のテンポが良い分、細部の書き込みがあっさりし過ぎていて、ちょっと、軽さを感じるのですが、まあ、読み易いのはありがたいと、素直に認めます。 ただ、傑作とはとても言えませんし、佳作というのも、ちと、ためらわれます。 「つまらなくはない」という程度の評価しかできないのです。

  巻末に、解説がついているのですが、この作品の解説ではなく、カーの怪奇趣味についての解説でして、この作品だけを楽しみたいのなら、蛇足です。 この作品にも、「幽霊」という言葉が出て来るものの、怪奇風味を感じるには程遠い、薄っぺらな味付けで、なぜまた、よりによって、そういう作品の巻末で、怪奇趣味論を語ろうとするのか、書き手の気が知れません。 まして、ネタバレを含むとなれば、邪魔でしかないです。





≪貴婦人として死す≫

創元推理文庫
東京創元社 2016年初版
カーター・ディクスン 著
高沢治 訳

  私が三島図書館に通い始めた頃には、この本はなかったのですが、その後、購入されて、開架に置かれていたもの。 三島図書館には、同じ創元推理文庫の、1977年発行の旧版、≪貴婦人として死す≫もあるらしいのですが、「どうせ、読むなら、文字が大きい新版を」と思って、こちらにしました。 訳者も違う人ですが、二冊借りて、読み比べるほど、閑ではないです。

  発表は、1943年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、14作目。 ≪メッキの神像≫の次の作品で、H.Mが、とことん、コミカルな存在として描かれている点では、明らかに、共通点があります。 ただし、話の中身は、文字通り、話が別。 戦時中発表の作品で、戦争の影響が、ラスト近くになって、話に関わって来ます。


  海に面した断崖の近くに建つ家で、当主の妻と、車のセールスマンが、崖から身を投げて心中する事件が起こる。 浜へ流れ着いた遺体には、二人とも銃で心臓を撃ち抜かれた痕があり、全く別の所で銃が発見された事で、他殺の可能性が出て来るが、崖の上に残されていたのは、二人の足跡だけで、他殺とすれば、不可能犯罪になってしまう。 肖像画を描かせる為に、その町に滞在していたH.Mが、当初から事件に関っていた老医師と共に、謎を解いて行く話。

  作品名の「貴婦人として死す」というのは、遺書に書かれていた文句なのですが、作品の中身を、まるで言い表していません。 このタイトルから、内容を想像していると、とんだ肩透かしを食らうので、要注意です。 そういうのは、カーの作品では、割とよくある事です。 タイトルのつけ方が下手なわけではないのですが、凝り過ぎて、奇妙なタイトルになってしまう事がある様子。

  「Lady」を「貴婦人」とせずに、「淑女」にしておけば、「貴族絡みの話なのだろう」という誤解を避けられたと思うので、翻訳にも問題があると思います。 しかし、古典作品の場合、一度決まってしまったタイトルは、新訳でも、変更されない事が多いです。 ちなみに、原題は、「She Died a Lady」です。 

  タイトルはさておき、中身ですが、大変、面白いです。 これは、私個人的には、≪ユダの窓≫に次いで、二番目に面白かったカー作品ですな。 ただ、トップと、二番目の間は、かなり開いています。 不可能犯罪のトリックは、分かってしまえば、そんなに驚くようなものではないですが、明快な謎解きのお陰で、無理を感じさせません。

  トリックも然る事ながら、ストーリーの流れが良くて、推理小説としてという以前に、物語として、非常によく出来ています。 このノリの良さは、コメディー小説では、よく見られるものですが、推理小説に取り入れる事ができるとは、ついぞ、知りませんでした。 コミカルな場面はありますが、≪盲目の理髪師≫のような、コメディーにはしておらず、根幹部分は、真面目な推理小説になっています。

  全体の9割くらいが、老医師の手記という形で、一人称で語られるのですが、これが、いい効果を出していまして、「カー作品には、叙述トリックによるアンフェアは、存在しない」という前提が分かっていれば、語り手は嘘をついていないわけですから、その点は気にせずに、じっくりと、他の登場人物を疑いながら読む事ができます。

  ≪メッキの神像≫の感想で、H.Mの描き方が笑える点を誉めましたが、この作品では、もっと、極端になっていて、登場場面も、ローマ皇帝ネロに間違われる場面も、ギャグのナンセンス度が、半端ではありません。 カーは、よっぽど、コメディー映画が好きだったんでしょうねえ。 書かれてから、70年以上経っているのに、まだ、爆笑を誘うというのは、並大抵のレベルではありません。


  惜しむらく、この文庫も、解説に、余計なものが付いています。 「結カー問答」という、ダジャレなんだか、他に意味があるんだか、考える気も起こらないタイトルがついた、会話体の文なのですが、高校の読書クラブの冊子じゃないんだから、こういう、レベルの低い文章を、公の出版物に載せないでもらいたいです。 この人、誰よ? 誰であっても、カー作品に対しては、単なる一読者でしょうが。 

  誰が、どこで、何を書こうが、かまやしませんが、海外作家の、古典作品の、しかも、傑作級の小説の巻末に書くのだけは、やめてください。 肝心の、本体部分まで、ケチがついたように、感じられてしまうからです。 そもそも、解説なんて、要らないというのよ。 どうしても、解説を付けなければいけないというなら、書き手を批評家に限定し、その作家の、その作品についての解説に限定して、書いてもらえば、まだ、読む価値があります。




  今回は、以上、6冊までです。 6月下旬から、7月上旬にかけて読んだ本。 それにしても、カー作品の翻訳者というのは、ものの見事に、バラバラですな。 たぶん、翻訳が悪くて、原作の良さを損なってしまっているケースもあると思われ、できる事なら、一人の翻訳者に、全て訳してもらいもの。 しかし、長編ばかり、何十作もあると、そうもいかないんでしょうねえ。

2016/09/11

カー連読⑥

  父の死後の、さまざまな処理は、だいぶ、済ましましたが、まだ、四十九日や、相続の手続きが残っているので、普通の生活に戻った感じがしません。 母の心臓カテーテル手術も日延べしており、いつになるのかも、決まっていない有様。

  本来なら、父の死や、葬儀の事を、記事にすべきなのでしょうが、思い出すのがつらい事や、胸糞悪い事が、多く起こったので、そんな気になれません。 もっと時間が経ったら、書く気になるのかもしれませんが、今の時点では、確約はできませんな。

  というわけで、カー作品の感想文を、引き続き、出す事にします。




≪ヴードゥーの悪魔≫

原書房 2006年
ジョン・ディクスン・カー 著
村上和久 訳

  三島市立図書館の開架にあった、カーの最後の一冊。 一段組みで、365ページの単行本です。 ≪ヴードゥーの悪魔≫は、最後に日本語訳されたカー作品だとの事。 本国で発表されたのは、1968年で、カーの最終作品は、1972年の≪血に飢えた悪鬼≫のようですから、もう、晩年の作ですな。


  南北戦争の気配が迫りつつあるニューオリンズで、ブードゥー教関係者と交友があった地元名士の娘が、走っている馬車の中から姿を消す事件と、その娘の家で、判事が階段から落ちて死ぬ事件が立て続けに起こり、四半世紀前に、奴隷虐待を非難されて、国外に逃げた女の伝説や、街に信者網を張り巡らせているブードゥー教の指導者の存在がちらつく中、イギリス領事や、アメリカ上院議員が、謎を解いて行く話。

  カー作品の中では、「歴史ミステリー」に分類されていますが、現代物でさえ、すでに、80年以上、昔の物があるわけで、80年前も、150年前も、そんなに変わらないような気がせんでもなし。 舞台がアメリカとなれば、尚の事で、南北戦争の可能性が取り沙汰されている点を除けば、「歴史」を感じさせるところは、特にありません。

  365ページとはいえ、単行本の一段組みですから、そんなに長いというわけでもないのに、まるで、興が乗らず、読み終えるのに、五日間もかかりました。 ニューオリンズは、アメリカ人にしてみれば、歴史を感じさせる街なわけですが、外国人から見ると、新開地としか思えず、社会背景に、厚みが感じられないのです。 平たくいうと、興味が湧かないのですよ。

  カーが好きな怪奇風味が盛り上がらないから、わざわざ、ブードゥー教を絡めて、色付けしているわけですが、そのブードゥー教についても、そんなに深く語られているわけではなく、この本を読んでも、ブードゥー教の何たるかを知るには、てんで、ボリュームが足りません。 カーは、キリスト教についても、さほど深くは入り込まない作家でして、そもそも、幽霊だの、呪いだの、奇跡だのは、怪奇風味を盛り立てる小道具にしていただけで、まるで、信じていなかったのでしょう。

  トリックと謎解きもあり、後半は、そちらの興味で、少し、ページを捲るペースが早くなります。 だけど、あっと驚くようなトリックではなくて、何となく、子供騙しっぽいのは、カーの晩期作品すべてに共通するところ。 前にも書いたように、カーの作品を読みたがるのは、100パーセント、推理小説のファンでして、興味が湧かない歴史物に、既視感が強い、子供騙しのトリックが組み合わされているだけでは、楽しめるところがありません。

  探偵役は、ベンジャミン上院議員という実在の人物ですが、この人も、フェル博士や、H.H同様、太っています。 カーは、よほど、太った探偵が好きだったんでしょうなあ。 ただし、実在の人物だけに、あまり、勝手な事はさせられないわけで、謎解きをするだけの、とってつけたような探偵役になっています。 実質的主人公である、イギリス領事を探偵役にすれば、もっと、すっきりしたと思うのですがね。



≪魔女の隠れ家≫

創元推理文庫
東京創元社 1979年初版 1992年10版
ディクスン・カー 著
高見浩 訳

  三島市立図書館の、書庫に所蔵されていたもの。 ネットで調べて、書名と著者名のメモを書いて行き、係の人に出して来てもらいました。 口で言うより、書いた物を渡した方が、話が早いです。 会話好きの人は、そういう考え方をしないと思いますが、私は、本を借りる以外、図書館に用はないので、手続きは早いに越した事はないです。

  図書館に買われてから、24年も経っているにしては、割と綺麗な本でしたが、初版1979年は、やはり古くて、文字が小さいのには、参りました。 ただ、ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックスのように、翻訳が古過ぎて、読むに耐えないという事はないです。 70年代後半ともなると、昭和元禄を経て、出版文化が最盛期に入っており、完成度の低い翻訳では、相手にされなくなってしまったのでしょう。

  1933年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、1作目。 なんと、記念すべき、第一作ですよ。 これが、開架に置かれず、書庫に入っているというのは、カーの読者は、釈然としないところでしょう。 だけど、沼津市立図書館みたいに、そもそも、≪魔女の隠れ家≫が蔵書にないところに比べたら、遥かにマシ。 300ページ弱で、長編推理小説としては、普通の長さです。


  イギリス東部の、リンカシャー州チャターハムが舞台。 かつて、監獄を運営していた一族で、先代が監獄の中にある、≪魔女の隠れ家≫という、元絞首台跡で殺された2年後、外国から帰国した長男が、監獄の長官室で一晩を過ごす相続の儀式の最中に、窓から転落して死亡する事件が起こり、監獄が見える所に住んでいたフェル博士と、その家に滞在していた青年、地元の警察署長らが、捜査に当たる話。

  記念すべき第一作ではありますが、期待したほど面白くはありませんでした。 すでに閉鎖された刑務所が舞台なので、怪奇風味がある事はありますが、虐待を受けた末に殺されて行った死刑囚達の呪いについての書き込みが足りず、単に、情景の道具立てだけで、不気味な雰囲気を演出しようとしているのは、詰めが甘いです。

  翻訳のせいなのか、原文からしてそうなのか分からないのですが、≪魔女の隠れ家≫と呼ばれる絞首台跡が、どんな建築物なのか、詳しく書いていないのも、大きな手落ちですな。 長官室や井戸との位置関係も、はっきり分かりません。 カー作品の本には、現場の見取り図が付属しているものが多いのですが、この本には、ブリテン島の中での、リンカシャー州の位置を示す地図しかなくて、全く、参考になりません。

  メインのトリックに関係して来るのは、長官室と井戸の位置関係だけで、≪魔女の隠れ家≫は、あまり重要な場所ではないと思うのですが、それにしては、作品名として取り上げられているのが、奇妙です。 このタイトルが、何か、犯人の正体を暗示でもしているなら、まだ、納得し易いんですがね。 ミス・ディレクションになっていると言えば言えますが、あからさま過ぎて、これでは、ズルになってしまいます。

  フェル博士は、他の作品でも、決して、活動的ではなく、さりとて、人から話を聞いて、推理だけするというわけでもなく、中途半端な探偵なのですが、この第一作から、すでに、それでして、異様に太っているという外見以外に、特徴がありません。 はっきりと、コミカルな性格づけがなされている、H.Mの方が、推理小説の読者には、親しみ易いと思います。

  この作品では、フェル博士の妻が登場します。 ところが、そちらは、夫とは逆に、性格を極端化し過ぎて、空振りしています。 変な人なのですが、その変なところが、ストーリーと無関係で、浮いてしまっているのです。 たぶん、作者が、コミカル・パートを受け持たせようとして、極端なキャラクターを作ってはみたものの、途中で持て余してしまったんじゃないかと思います。 以降の作品で、博士の妻が出て来ないのが、その証拠でしょう。

  事件そのものは、密室でも、不可能犯罪でもなくて、トリックの謎解きをされても、「そうだったのか!」と、驚くような事はありません。 今まで、カー作品の感想で、何度か、「バラバラ」という言葉を使ってきましたが、この作品も、その指摘が相応しいと思います。 実質的な主人公である青年と、被害者の妹とのロマンスが入っていますが、その部分だけ、青春物になっているのは、ちと、呆れるレベルの、ちぐはぐぶりです。



≪盲目の理髪師≫

創元推理文庫
東京創元社 1962年初版 1993年31版
ディクスン・カー 著
井上一夫 訳

  これも、三島市立図書館の書庫から出してもらって、借りて来たもの。 ≪魔女の隠れ家≫と、ほぼ同じ頃に購入された本で、90年代に入っていますから、カバーの絵は洗練されています。 ただし、本文は初版のままで、1962年というのは、大昔ですから、現代の習慣では、使用不可の単語が、かなり出て来ます。 60年代初頭の翻訳を、同じ版で、30年間も刷り続けた東京創元社も、早川書房に負けてませんなあ。 いや、誉めてませんがね。

  1934年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、4作目。 ≪魔女の隠れ家≫の後に、≪帽子収集狂事件≫、≪剣の八≫と続き、その次が、この作品になります。 同じ探偵のシリーズとは思えないほど、作風に一貫性がないです。 読者を飽きさせない為に、変化をつけようとしていたのではないかと思いますが、それにしても、落ち着きませんな。 


  アメリカからイギリスへ向かう客船の中で、青年外交官が所持していた、国際関係に重大な影響を及ぼす映画フィルムが盗まれ、謎の女が重傷を負い、船長が襲われ、高価なエメラルドの象が行方不明になり、重傷の女が姿を消すという事件が、立て続けに起こる。 外交官の友人である推理作家と、人形芝居一座の娘達が協力して、船長の疑いをかわしつつ、窃盗・殺人犯を探る話。

  船の上では、フェル博士は登場せず、イギリスの自宅にいて、船から下りて来たばかりの推理作家から、事の顛末を聞いて、犯人の指名と謎解きを行うという形になっています。 では、推理作家が語り手なのかというと、そうではなくて、船上で起きた出来事は、三人称で書かれています。 そういうのは、カーの小説では、珍しくないのですが、考えてみると、ちょっと変ですな。

  たとえ、推理作家が一人称で語ったとしても、370ページもある作品の9割近くを占める船上での場面を、全て語るのに、一体、何時間かかる事やら。 これは、「小説の嘘」の一つでして、現実には、そんなに長時間、話を聞いてくれる相手は存在し得ません。 こんな細かい語り方では、どんな聞き手でも、3分もすれば、「要点だけ話してくれ」と文句をつけるでしょう。

  ところが、フェル博士は、「話の途中でどこか一か所でもはしょっていたら、わしは大事な証拠をつかみそこねていた」などと言っており、我慢強いのにも、限度があろうというもの。 嘘臭いなあ。 そもそも、話だけ聞いて、推理するというのが、無理があります。 語り手は、探偵ではないのですから、謎解きに必要な見るべきものを見ていない可能性が高く、一つでも見落としがあれば、正確な推理などできるはずがありません。

  形式の問題はさておき。 この作品、船上での場面は、ドタバタ喜劇になっています。 雰囲気がそれっぽいというのではなく、ドタバタ喜劇そのものでして、明らかに、作者が企図して、そう書いているのが分かります。 下司の勘ぐりを逞しくするなら、コメディー映画の原作のつもりで書いたのではないかと思うほど。

  何度も書いている通り、カー作品の読者は、推理小説のファンに限定されていると思うので、サスペンスを楽しもうとして読み始めた人は、4分の1くらい進んだところで、「あれ? こりゃ、真面目に読むような話ではなさそうだぞ」と気づき、そこから後を読むのが、大変つらくなります。 推理小説のつもりで読み始めたのに、大笑いはできませんわなあ。

  本格的なコメディーと推理物を組み合わせようとしたところに、無理がある。 コミカルくらいなら、問題ないどころか、むしろ、面白いと感じますが、ドタバタではねえ。 最後の、フェル博士の謎解きで、一気に、推理物に引き戻されるわけですが、木に竹を接いだとは、正にこの事でしょう。

  仮に、推理小説をある事を忘れ、船上場面だけ取り出して、コメディーとしての出来具合を測ってみますと、ドタバタぶりこそ凄まじいですが、全くと言っていいほど、笑えません。 登場人物が、みんな異常でして、「狂人のパーティー」になってしまっているからです。 特に、青年外交官は、船長が言っている通り、「キ○ガイ」としか思えないキャラでして、それを助けようと骨を折っている推理作家も、異常に見えて来ます。

  「変なキャラを、出せば出すほど、面白くなる」という考えは、コメディーへの理解が浅い人が陥りがちな失敗です。 まともな人間がいるからこそ、変な人が際立つのであって、みんな狂ってしまっているのでは、落差が生まれないから、面白くなりようがないのです。



≪死者はよみがえる≫

創元推理文庫
東京創元社 1972年初版 1994年15版
ディクスン・カー 著
橋本福夫 訳

  父が吐血して、救急車で運ばれ、入院した日に、時間の合間を縫って、三島図書館へ行き、借り替えて来た本の一冊。 家族が入院しているのに、読書もなかろうと思ったのですが、借りていた本を返しに行ったついでと思い、つい借りて来てしまった次第。 ところが、やはり、面会やら何やらで忙しく、読むのに、えらい手間取りました。

  1938年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、8作目。 フェル博士物としては、≪アラビアンナイトの殺人≫と、≪曲がった蝶番≫の間の作品ですが、H.M物の方では、同じ38年に、傑作、≪ユダの窓≫が発表されていまして、これにも期待していたんですが・・・。


  半月前に、知人の屋敷で夫を殺された妻が、ホテルの一室で殺される事件が起こり、その階の半分の部屋を借り切って、滞在していた、被害者の親戚や友人達が容疑者となる。 どちらの事件でも、ホテルの従業員の制服を着た人物が目撃されているのに、該当する人物はおらず、出入りした形跡もない。 フェル博士とハドリー警視が、役割分担しながらも、互いの推理を戦わせつつ、謎を解いて行く話。

  「ワトソン役」と呼ばれる役回りで、推理作家の青年が出て来ますが、カーの場合、ワトソン役と言っても、一人称とは限らず、この作品も三人称で書かれています。 この青年は、冒頭、容疑者にされかけたり、推理を披露したりしますが、実は、本筋の事件とは何の関係もない人物で、単に、狂言回しに使われているだけです。 カー作品のワトソン役には、こういう不完全なキャラが多いですな。

  とにかく、ダラダラだらだら、長い長い。 350ページくらいで、絶対的な長さは、大した事がないのに、話が盛り上がらないものだから、なかなか、ページをめくる手が進みません。 確かに、トリックはある。 謎もある。 意外な犯人もいる。 怪しいと思わせておいて、実は、犯人ではない人もいる。 と、推理小説のパーツは揃っているのに、面白さに繋がっていないのです。 バラバラなんですな。

  まず、殺人事件の起こった場所を、二ヵ所にしてしまったのが、失敗の始まりだと思います。 ホテルを主な舞台にするなら、二件とも、ホテル内で起こさせれば、話があっちこっち飛ばなくて済んだのに。 普通の屋敷で、ホテル従業員の制服を着た人物が出て来たりするのが、宜しくない。 あまりに、突飛過ぎて、読者から見ると、謎と言うより、こねくり回して作った、出来の悪い推理小説なのではないかと思えてしまうのです。

  トリックに、仕掛けを施した屋敷が関係して来るのも、如何なものかと思うのですよ。 そりゃあ、そういう設定にすれば、どんなに奇妙に見える犯行でも可能になりますが、それは、あまりにも、御都合主義ではありませんか。 もはや、伏線にも何も、なっちゃいない。 本格推理物なのに、容疑者が超能力者である事を仄めかす伏線が張られていたら、「アホか?」と思うのが普通ですが、仕掛け屋敷の伏線も、それと大差ないと思いますよ。 カーといえば、密室物の大家なのですが、そんな人が、仕掛け屋敷を使ってはいけませんわ。 抜け穴とか、隠し部屋とか、そんなの、子供騙しではありませんか。

  ラストの謎解きが長過ぎるのも、読んでいて、げんなりして来ます。 フェル博士が、一つ一つ、謎を解いて行くのですが、崖の上なら、日が暮れてしまいそうに長い。 こんなに長々と話さなければならないのは、ストーリー不在で、話の進行に伴って、謎が少しずつ解けて行く形になっていないせいで、最後にどかっと溜まってしまったからです。 もー、どーにも誉めようがない、出来の悪さですなあ。




≪緑のカプセルの謎≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1995年22版
ディクスン・カー 著
宇野利泰 訳

  父が入院した日に、三島図書館から借りて来た本、三冊の内の二冊目。 父の入院中に、毎日、見舞いに通いながら、家で時間を作って読んだわけですが、≪死者はよみがえる≫よりは、進みが速くて、助かりました。 カー作品の作風は、驚くほど多様で、ページの進み方が、一作一作、違います。

  1939年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、10作目。 フェル博士物としては、≪曲がった蝶番≫と、≪テニスコートの殺人≫の間に入ります。 H.M物の方では、同じ39年に、≪読者よ欺かるるなかれ≫があり、≪曲がった蝶番≫、≪読者よ欺かるるなかれ≫の二作と、この≪緑のカプセルの謎≫は、風変わりな設定という点で、僅かながら、似通ったところがあります。


  菓子屋のチョコに毒物が混入され、子供が死傷する事件が起こった村で、四ヵ月後に、犯罪学を趣味とする村の名士が、人間の観察力が信用できない事を証明しようと、姪や、その婚約者、知人の学者の前で、実験の為の寸劇を見せた直後、やはり、毒殺される。 闇の中で寸劇を見ていた人々には、相互にアリバイがあり、外出していた名士の弟にもアリバイがあるという状況下、捜査担当に任命された警部が、フェル博士に助力を願い、共に捜査に当たる話。

  実際には、死者が、もう一人いて、話はもっとややこしいのですが、長ったらしくなるので、割愛します。 この作品の肝は、寸劇の内容と、それを見ていた人達の置かれていた状況でして、その部分だけは、慎重に読む必要がありますが、それ以外の部分は、尾鰭に過ぎず、とりわけ、冒頭のポンペイの場面などは、最初から、読み飛ばしても、差し支えないくらいです。

  この実験寸劇の設定が、洒落ていまして、地位も名誉もある、いい歳こいた大人が、こんな事を計画するというのが、すでに面白いですし、また、それにつきあって、実験台になろうという、姪や、その婚約者、知人の学者も、普通ではありません。 ホーム・パーティーの余興みたいなノリなのかもしれませんな。

  この寸劇は、見ている者に錯覚を起こさせるのが狙いでして、様々なトリックが盛り込まれており、それがそのまま、殺人のトリックに流用されているわけで、推理小説として、巧みな設定と言えば言えますが、寸劇自体が作り物なのですから、作者の好きなようにトリックのお膳立てを用意できるというのは、御都合主義的な感じがしないでもなし。

  もし、この作品が、実験寸劇のアイデアだけで作られたものなら、評価は今一つに終わったと思うのですが、探偵役であるフェル博士の露出が多くて、博士には珍しく、探偵らしい活躍を見せますし、寸劇を撮影したフィルムを、捜査陣が鑑賞する場面など、サスペンスの盛り上げ方も巧くて、語り口の良さが際立っているおかげで、読者に面白いと思わせる作品になっています。

  フェル博士による、「毒殺講義」が、謎解きの過程で披露されていますが、そんなにインパクトのあるものではなく、過去に実際に起こった毒殺事件を例に挙げて、毒殺を好む犯人の特徴を、大まかに述べているだけ。 その点は、あまり、期待し過ぎない方がいいです。




≪連続殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1995年42版
ディクスン・カー 著
井上一夫 訳

  父が入院した日に、三島図書館で借りて来た本の三冊目。 貸し出し期間二週間の間に、三冊読むというのは、普通なら、なんでもないんですが、父の見舞いに、毎日、3時間ほど取られていると、結構、厳しいものがあります。 妙に理屈っぽいとか、奇を衒った書き方をしてあるとか、描写で水増ししてあるとか、読むのに抵抗がある作品が混じっていると、ほんとに厳しい。 今回の三冊の内、厄介だったのは、≪死者はよみがえる≫だけで、≪緑のカプセルの謎≫と、この≪連続殺人事件≫は、読み易かったので、助かりました。

  1941年の発表。 もろ、戦争中ですな。 戦争中でも、それに一切触れない事が多いカーですが、この作品では、ドイツ軍による空襲が、ちょぼちょぼ始まった頃らしく、防空暗幕が、事件のなぞに関わって来ます。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、13作目。 ここのところ、フェル博士物ばかり続けて読んでいるのですが、それには理由がありまして、図書館の書庫に入っている本ばかりなので、係員が探し易いように、作者名がディクスン・カー名義のものだけに絞っているからです。


  スコットランドの一地方にある、キャンベル家で、当主が寝室にしていた塔の窓から落ちて死ぬ。 その直前に、生命保険に入っていた事から、事故か殺人なら遺族に高額の保険金が入り、自殺なら一文も入らないという状況になる。 塔の寝室は、密室状態で、生き物を運ぶ為に空気孔がついたケースが、ベッドの下で発見され、それを持って、恨みを抱いている男が訪ねて来たという、当主の日記が残されている。 当主の弟の友人であるフェル博士が呼ばれ、捜査を始めた矢先、弟までが、塔の寝室で一晩を過ごすと言い出すが・・・、という話。

  この作品の場合、一つの事件がきっかけで、次の事件が起こり、更に次と続いていくので、調子に乗って、梗概を書いていると、ネタバレの嵐になってしまいますな。 連鎖するから、「連続」なわけですが、原題は、≪The Case of the Constant Suicides≫で、直訳すると、≪連続自殺事件≫です。 なぜ、≪連続殺人事件≫という邦題にしたのかが解せません。 自殺か殺人が分からないのが、話の肝なので、どちらであっても、内容と齟齬を来す事はないのですが、≪連続殺人事件≫では、あまりにも、一般的過ぎて、小説のタイトルらしくないです。

  生き物を運ぶケースが残されていたという事で、ホームズ物の≪まだらの紐≫のような、危険な動物が使われたのではないかと思わせておいて、実は・・・、というのが、第一の事件の謎の核心になっています。 だけど、発表当時はともかく、今では、あまりにもありふれたトリックになっていて、謎解きを読む前に、「ああ、あれだろう」と、分かってしまいます。

  第二の事件は、第一の事件を繰り返したもので、取り立てて言うほどの謎はないです。 第三の事件は、屋敷とは別の所にある小屋で起こり、そちらも密室なのですが、このトリックも、全く大した事はなくて、おそらく、発表当時でも、読者には、ありふれたアイデアと見做されたと思います。 合わせ技で、一本を狙ったんでしょう。

  合わせ技と言えば、冒頭の部分は、恋愛物として書かれているのですが、カーの作品で、恋愛がテーマというのは、まず、ないのであって、「どうせ、本筋とは、関係ないんだろう」と思っていたら、案の定でした。 だけど、本筋と関わりが薄い事が、却って、プラスに働いて、この作品の恋愛パートは、鬱陶しい感じがしません。

  ストーリー進行のテンポがいいですし、コミカルな場面もあり、理屈っぽいところは、全て、フェル博士のセリフが受け持ってくれるので、大変、読み易くて、ページがどんどん進みます。 せっかく用意した、「亡霊」に関する書き込みが足りないなど、物足りないところもありますが、話が面白いので、ケチをつける気がなくなります。 「盛りだくさんで、バラバラだけど、そこそこ面白い」というのが、総合的な感想になるでしょうか。




  今回は、以上、6冊までです。 5月下旬から、6月半ばにかけて読んだ本。 父の最初の入院を間に挟んでいます。 入院中も、毎日、見舞いに行きながら、時間を見つけて、バイクで三島図書館へ行き、本を借り続けていました。 この時点では、父が他界する事など、想像すらしておらず、退院した後、元の生活に戻れるのか、本格的な介護生活が始まるのか、そんな事ばかり、気にかけていました。