2013/09/29

読書感想文・蔵出し④

  先週に引き続き、読書感想文です。 実は、古本屋巡りで、一日10時間もバイクに乗りづめのツーリングを二回もやったせいか、左膝を痛めてしまい、ここ一週間と言うもの、歩くのも億劫な有様。 階段を下りる時など、一段ごとに、覚悟がいる始末。 で、この土日は、大事を取って、家で過ごす事にしたので、ブログ記事を書く時間は、あるっつやーあるんですが、それとは別方面の事情がありまして・・・。

  仕事の方が、どうも、またぞろ、応援の話が出つつあり、しかも、またぞろ、岩手行きの線が濃厚になっており、「今度は、半年」などという恐ろしい情報もあって、もはや、土曜出勤どころの話ではなく、感想文を取っておいても、意味が無いので、さっさと出してしまおうという寸法なわけです。



≪ヨーロッパとイスラム≫
  久々に、新書で、読み応えを感じた本。 文章が難しいのではなく、内容が面白かったという意味です。 何歳になっても、世の中に知らない事はあるんですなあ。

  ヨーロッパに移住したイスラム教徒と、受け入れ側の社会の、意識のズレの発生原因を分析したもの。 対象国は、ドイツ、オランダ、フランスの三ヵ国で、ヨーロッパ全体を代表させるには、サンプルが少ないですが、それは、著者も承知している様子。

  移住側は、ドイツでは、第二次世界大戦後に受け入れが始まった、トルコ人労働者と、彼らが呼び寄せた家族。 オランダでは、トルコ人を中心に、国内に住んでいるムスリム全体。 フランスでは、北アフリカ諸国からの移民を中心とした、ムスリム全体です。

  この三国、ほぼ隣り合っているにも拘らず、ムスリムの置かれている境遇が、まるで異なるのには、驚かされます。 日本人の感覚で一番分かり易いのは、同じように外国人蔑視意識があるドイツでして、「ムスリムだから、問題」という以前に、「異民族だから、問題」なのであって、三国の中では、一番低いレベルで、排斥意識が働いている模様。

  「ナチスへの反省から、公的には異民族を差別できないが、本音としては、いて欲しくない」、「かつては、労働力として必要だったが、今は状況が変わったのだから、本国へ帰って欲しい」と言った、民族差別意識が前面に出ています。 まるで、日本のようですが、公的には差別を口に出来ない点、日本よりは、マシですか。

  オランダは、正反対に、ムスリムの社会を、キリスト教徒の社会や、無宗教者の社会と対等に、オランダ社会全体を構成する≪柱≫の一つとして扱っていて、最も成功しているように見えます。 ムスリム側からすると、「あまりにも自由過ぎて、イスラムの教えから逸脱してしまいそうなのが怖い」のだとか。

  しかし、オランダにも問題はあり、「イスラム教は、女性にスカーフを被らせるなど、他者への干渉をする宗教であり、オランダの自由主義とは相容れない」といった論理で、ムスリム社会への攻撃が始まっているとの事。

  意外なのはフランスで、異民族への差別意識が存在せず、ムスリムの人口比率もヨーロッパで最大であるにも拘らず、ムスリムとの対立が、最も先鋭的に見られるのです。 イスラム教が、≪自由、平等、博愛≫という、フランス社会の基本になっている精神に反していると言うんですな。

  この本では、世界的ニュースにもなった、≪スカーフ論争≫の背景が、詳しく語られています。 「ムスリム女性にとって、髪は恥部であって、恥部を隠すのは当たり前。 むしろ、それを外せという方が、女性差別ではないか」という話には、目から鱗。 元の認識が違う事から生まれる、悲劇ですな。 ただし、ムスリム女性の中にも、「スカーフは、女性蔑視の象徴だ」と考える人もいるようで、事は複雑です。

  ≪聖俗分離(政教分離)≫で、政治を宗教から切り離そうというのが、近代以降のヨーロッパ社会の基本理念であるのに対し、イスラム教では、そもそも、聖俗の違いが存在せず、宗教から離れた政治も、政治から離れた宗教もありえない。 それが、ヨーロッパ社会とムスリムの埋められない溝になっているようです。


≪まいごのアザラシをたすけて!≫
  私が最初に読んだ、アザラシ関連の本、≪海の友だちアザラシ≫は、旧西ドイツの北海で迷子になったアザラシの赤ちゃんを助ける話でしたが、この本は、オランダにある同じ目的の施設、≪アザラシ・リハビリテーション研究センター≫の成り立ちと、活動を紹介したもの。

  1970年頃、レイニー・ツ・ハートという動物好きの女性が始めた動物病院に、迷子のアザラシが運び込まれたのが、事の起こり。 他のアザラシを診れる病院が無かった事から、次第に、アザラシ専門の引き取り施設に成長して行き、今では、毎年、100頭以上のアザラシを治療して、海へ帰すようになったとの事。

  解説を入れて、158ページありますが、児童図書なので、一時間もあれば、読破できます。 アザラシの数が減っている原因には、海洋汚染や、魚の乱獲など、人間の産業活動が大きく関わっている事を指摘するのが、この本の主な目的のようです。 子供に読ませるには、ちと、テーマが硬過ぎるかもしれませんな。

  内容も主張も、至ってしっかりしているので、加筆して、大人向けの文体で書き直せば、一般書として、十二分に通用すると思います。 アザラシの赤ちゃんの愛らしい写真が、これでもかというくらい、たくさん載っているので、写真を見るだけでも、本を手に取る価値があります。 児童図書にしておくのは、勿体無い。


≪北方領土問題≫
  ちょっと、直截的過ぎて、気軽には手に取り難い書名ですが、内容は、至って理性的なもの。 著者は、中ロ関係の専門家のようです。 ソ連・ロシアと中国の国境線画定交渉を参考に、日ロ間の領土問題も解決できないか、という提案です。

  ソ連・ロシアと中国の間には、旧ソ連時代の版図で言うと、4300キロに渡る国境線があり、帝政ロシアと清の頃からの係争地が何ヶ所もあったのですが、それを、ソ連末期から新生ロシアの初期にかけて、粘り強い交渉で全面的に解決し、現在、中国が国境を接する、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンの間には、領土問題が全く存在しなくなったとの事。

  係争地だったのは、帝政ロシアが清から奪った土地で、その後、中国側から出ていた返還要求を、ソ連・ロシア側が受け入れるというのが、交渉の形式だったようです。 焦点になったのは、ソ連・ロシア側が、中国側の要求をどこまで飲むかという事。

「やれるところからやる」
「最後まで残った係争地は、フィフティー・フィフティーで分け合う」
「どちらの国にとっても、外交的敗北にならないように、ウィン・ウィンの決着を目指す」
「国内世論が邪魔をしないように、交渉は非公開で行なう」
「土地の主権国を明確にした上で、地域住民の共同利用の余地を残す」

  といった原則を立てて進めて行ったらしいのですが、そこに至るまでには、武力衝突など、双方の血が流れた過去の経緯への反省があったとの事。 ちなみに、「フィフティー・フィフティー」と言っても、必ずしも、土地の面積を均等に分けるという意味ではなく、ある部分を譲る代わりに、他の部分を取るといった、柔軟な対応を取ったのだとか。

  中央アジアの三ヵ国、特に、タジキスタンに対しては、中国側が大幅な譲歩をして、タジキスタンの外交担当者に、大変な感謝をされたそうです。 中国にしてみれば、山岳地帯だから、持っていても大きな利益が無いと考えた上で、タジキスタンとの貿易の拡大の方を優先したんでしょう。

  交渉の期間が、≪ソ連崩壊≫を挟んでいるのですが、新生ロシアが、中国との交渉をソ連から引き継いで、基本原則を変えずに決着まで持って行った点は、ロシア全体が混乱期だった事を考えると、大変、理性的だったと思います。 新生ロシアにとって、中国との安定的な関係が、いかに重要だったかが窺えます。


  さて、中ロ間の国境問題解決を参考に、日ロ間でも、北方領土問題を前に進められないかというのが、この本のテーマ。 著者が提案しているのは、「二島+α」で、具体的には、歯舞・色丹に、国後までを日本側が取り、択捉はロシア領として認めるというもの。

  陸地の面積で見ると、三島を足しても、択捉一島の面積より小さいのですが、領海面積で見ると、ほぼ、フィフティー・フィフティーになるのだそうです。 現地の産業は、漁業が主ですから、実質的利益を考えるなら、日本側が損をした事にはならないという考えですな。

  ≪四島全返還≫は、ロシア側に得が全く無いため、それを日本側が主張してる限り、交渉は進まないと指摘しています。 それは確かにその通りで、何の得も無ければ、交渉する事自体に意味はありませんな。

  興味深いのは、北方領土問題に関する、日本人の意識の変化でして、北海道限定の調査ですが、今では、≪四島返還≫に拘る人達が、随分と減ったらしいです。 特に、≪ビザ無し渡航≫で、四島を訪問した経験のある若者達に、そういう柔軟な意見を持つ傾向が顕著に見られるとの事。 「ソ連嫌い」が、「ロシア嫌い」に、そのまま移行しなかったのは、面白いです。


  とまあ、それはいいんですが・・・、著者の考え方が、「日ロ両国の経済発展優先」に傾斜している点は、環境問題がクローズ・アップされている現代に於いては、辛い点をつけざるを得ません。 中ロ間がそうであったように、国境線が平和裏に画定すれば、経済交流が活発になるわけですが、人間活動が盛んになれば、自然が破壊されるのは、避けられぬ道理。

  現状、北方四島は、ロシアの≪見放された辺境≫であるため、大規模な開発は行われていないわけですが、内、三島でも、日本領になれば、「やれ、道路だ、橋だ、住宅だ」と、土建業者が殺到し、国の補助金をドブドブ費やして、瞬く間に、コンクリート・ジャングルにしてしまうのは、疑いないところです。 動植物が受けるダメージは、計り知れません。 はたして、それがいいのかどうか・・・。


  それにしても、帝政ロシアにせよ、ソ連にせよ、新生ロシアにせよ、中国との関係は重視しているのに対し、日本には、ほとんど興味を抱いていない様子なのは、非常に興味深いです。 領土問題を、真剣に解決しようとしないのも、「日本との経済交流なんか、どーでもいー」と思っているからでしょう。

  ソ連崩壊の直後、日本国内で、「ロシアは、金が無くて困っているから、経済支援をちらつかせれば、北方領土を返してよこすかもしれない」という、皮算用が流行りましたが、実際には、ロシア側から日本に、経済支援を求めて来た事はありませんでした。

  日本側は日本側で、ソ連時代に、単に、ソ連と修好したくないばかりに、北方領土問題を、盾に使っていた嫌いがあります。 ただ、50年代に、二島返還で合意しかけた時、日ソの接近を嫌って、妨害したのは、アメリカだったらしいですが・・・。 事は複雑ですな。


  ところで、この著者、「千島の先住民が、アイヌ民族である事は議論の余地がない」と書いているんですが、それならば、日本にもロシアにも、北方領土を自国領と主張する権利が無い事になります。 それが分かっていながら、日ロ国境の線引き方法を云々するのは、矛盾しているように思えます。 正当な所有者が誰か分かっているのなら、そちらに返すのが正しい処置ではありますまいか。


≪ロシア精神の源≫
  ロシア民族が、キリスト教の本流である≪正教≫を、ビザンチン帝国から、いつ、どんな経緯で、どのように学び取ったかについて、詳しく書いてある本。 日本人には、馴染みが薄い分野で、非常にとっつき難い反面、全く知らなかった事が多いために、大変、興味深くもあります。

  かなり前に、ビザンチン帝国の本を読んだ事があるのですが、そちらでは、ビザンチン帝国本体の歴史にしか触れていなかったので、ビザンチン帝国から影響を受けた周辺諸国については、ほとんど知らぬままになっていました。 この本をよると、ロシアやブルガリアなどは、ビザンチン文化圏の代表格だったとの事。

  ちなみに、ビザンチン帝国というのは、東ローマ帝国の事でして、古代ローマ帝国の正統な継承国です。 古代ローマ帝国が、コンスタンティヌス帝の時、今のトルコのイスタンブールに遷都し、そこが帝国の首都になります。 以降、イタリアのローマは、一地方都市に格下げになるわけですな。 で、その後、帝国が東と西に分裂にし、西ローマ帝国は、間も無く滅びてしまいますが、東ローマ帝国は、版図の拡大縮小を繰り返しつつ、千年間続きます。

  東ローマ帝国の事を、この本では、一貫して、ビザンチン帝国と呼んでいるので、以下、ビザンチン帝国と書きますが、そのビザンチン帝国は、ローマ帝国の正統継承国であるため、国教であるキリスト教も、こちらが正統で、古代ローマ帝国で国教と定められた当初からの伝統を、正確に受け継いでいるのだそうです。

  現在、世界のキリスト教の中心のように振舞っているローマ・カトリック教会は、元は、ビザンチン帝国のキリスト教会の地方の一支部に過ぎなかったらしいです。 それが、中世以降、西ヨーロッパ諸国を宗教面で支配した事で、実力をつけ、逆に、本家を威圧するようになり、独立して、一宗派になったのだとか。 ビザンチン帝国のキリスト教会は、ローマ・カトリックの教義を異端とし、それと区別するために、自分達の宗派を、「正しい教え」という意味で、≪正教≫と称するようになったのだそうです。

  何だか、ビザンチンの話ばかりになってしまいましたが、≪ロシア精神の源≫という書名の通り、ロシアについて書かれている部分は、3分の2以上を占めます。 ロシアが、キエフ朝時代に、ビザンチン帝国から正教を学び、以来、千年間、モスクワ朝、ペテルブルク朝と、中心地を変えつつも、正教を国教として維持し続けてきた歴史が、詳しく書かれています。

  以前、ロシアの歴史を読んだ事があったんですが、その本は、宗教史に触れておらず、さほど面白くありませんでした。 というか、ほとんど記憶に残っていない有様。 この本を読んで、宗教史の視点から見た方が、ロシアの歴史は面白いように感じました。

  ビザンチン帝国は、その後、オスマン・トルコに滅ぼされて、千年の歴史に幕を下ろしますが、正教は、周辺諸国に受け継がれて、現在に至ります。 ロシア正教は、その最大の集団。 ロシア正教、ギリシャ正教と、国ごとに分かれていても、それは宗派の違いではなく、単なる地域分けで、正教全体で一宗派であり、教義は共有しているのだそうです。

  ビザンチン帝国は、古代ローマ帝国の正統であると同時に、地理的・言語的に、古代ギリシャの学問の系譜も受け継いでいたのですが、そこから文明を学んだロシアは、宗教を主に受け取り、ギリシャの学問は、伝わりはしたものの、日陰の存在で終わったらしいです。 しかし、その後のロシア・ソ連の科学技術の高いレベルを見ると、ギリシャ的な合理主義は、充分に受け継がれているような気がします。

  概ね、興味をそそる内容ではありますが、著者が、宗教学者である為に、科学的というよりは、精神論的な分析が多く、その点、些か、違和感があります。 ロシアを引き合いに出しつつ、著者が本当に主張したいのは、「キリスト教の正統は、ローマ・カトリックではなく、正教の方なのだ」という事なのでしょう。 まあ、それは、よく分かりました。


≪ロシア異界幻想≫
  これは、変わった本だわ。 分類するとすれば、民俗学でしょうか。 柳田國男の世界です。 ただし、対象は、ロシア民族。 ロシアというと、近代以降の国家としてのイメージしか存在しないので、ロシア民族に、こういう世界観があるとは、全く知りませんでした。

  「ドモヴォイ」という、家の精の事に、一章が割かれていますが、これは正に、岩手民話に出て来る、座敷童子のロシア版です。 ただし、姿形は全然違っていて、地方により、見る人により、様々な形態をとるとの事。

  死者が40日間、この世に留まるというのも、仏教の四十九日の考え方と似ていて、興味深い。 関わり方によっては、生きている者を、一緒に連れて行ったりしてしまうのだそうで、「死者を悼んで、泣き過ぎるな」など、やってはいけない禁忌が、たくさんあるのだとか。

  天国が、天上にあるのではなく、東の海の彼方の島にあるというのも、面白い。 中国の東仙思想と、何か関係があるんでしょうか。 しかし、ロシアが太平洋に達したのは、近世になってからで、それ以前は、東に海がある事など知らなかったと思うのですが、この海とは、どこを指すのでしょう? 黒海? カスピ海?

  ロシアは、もともと、東スラブ人の集団を、北欧バイキングが統率して、国の基を開いた歴史があるので、もしかしたら、この種の伝承の元は、地理的に、現在のロシアとは、まるで関係ない所から、来ているのかもしれません。

  とまあ、こう書くと、興味津々で読んだように感じられるかもしれませんが、その実、読み物としては、非常につまらない本でして、特別、ロシア民族に興味があるのでなければ、とても、薦められません。 特に、キリスト教の影響が及んだ以降の思想について触れた部分は、熱が出るほど、つまらないです。



  以上、5冊まで。 2012年の晩秋頃に書いたもの。 国際関係ものが多いですが、このころ、古典推理小説に飽きて、ちょっと硬いものを読んでみたかったのです。

2013/09/22

読書感想文・蔵出し③

  読書感想文というと、仕事で、土曜出勤になった週に、ここの記事を書かずに済ませるための、お茶濁しだったんですが、ここのところ、土曜出勤が無いため、随分とストックが溜まってしまいました。 あまり古くなると、私の方の違和感が増大するので、少しずつ、出す事にします。



≪ルルージュ事件≫
  19世紀半ばに活躍したフランスの作家、エミール・ガボリオの代表作。 長編ミステリーの草分け的作品で、1866年の発表です。 イギリスのウィルキー・コリンズの≪白衣の女≫が1856年、≪月長石≫が、1868年ですから、その間に入る順番になります。

  両作家に直接の交流は無かったようですが、当時、ミステリー作品は世界中を探しても、指を折って数えるほどしか発表されていませんでしたから、互いの作品を読んでいたのは、疑いないところ。 この本の解説によると、コリンズの方は、ガボリオの作品を書架に揃えていたそうです。

  ルルージュという中年女性が殺された事件で、彼女が握っていた、ある子爵の出生の秘密を巡って、素人探偵や検事、弁護士などが繰り広げる群像劇を描いたもの。 三人称ですが、中心人物は、話の展開に連れて、移り変わって行きます。 コリンズの一人称・回想文形式と比べた時、書き手が、どうして複数の人間の心理まで知っているのかという、三人称小説全てに通じる根本的疑問を感じてしまうのですが、まあ、細かいつっこみは控える事にしましょう。

  「ミステリー」という言葉のカバー範囲は広いので、ミステリーに分類する分には、何の問題もありませんが、更にカテゴリーを絞って行くと、少々、正体不明になって行きます。 推理小説というには、推理トリックがテーマではありませんし、探偵小説というには、探偵が中心の話ではありません。 検事が出て来ますが、裁判まで行きませんし、刑事や警官は、添え物程度の働きしかしません。 さりとて、社会派というわけでもなし。

  一言で言うなら、「犯罪小説」が妥当でしょうか。 ある犯罪を軸に、それに関わった人々の心理を描写し、人間関係の相克を浮かび上がらせるのが、この小説の目的なのです。 ただし、同じ犯罪小説でも、ドストエフスキーの作品群のような、哲学的な掘り下げは、まったく見られません。 フランス文学に於ける人間性の描写は、大デュマ以降、長い足踏みをつづけたようですな。


≪ルコック探偵≫
  エミール・ガボリオの長編推理小説。 1869年の発表で、≪ルルージュ事件≫に、ちょい役で登場した警察探偵のルコックが、主人公として活躍します。 ただし、ルコックが捜査と推理を披露するのは、冒頭から、3分の1くらいまでで、残りの3分の2は、事件の元になった十数年前の因縁話が語られ、その部分は、推理小説にはなっていません。

  ある雪の夜に、パリの裏街の酒場で起こった乱闘殺人事件で、犯人が現行犯逮捕されるものの、ただのゴロツキ同士の喧嘩ではないと読んだルコックが、雪に残った足跡から、犯人が高貴な身分を隠していると見抜き、正体を暴くために悪戦苦闘するまでが、前半。

  後半は、王政復古時代に遡ります。 ナポレオン時代に、外国に亡命していた貴族が、元の領地に戻って来て、彼が不在の間、その領地を治めていた一家を追い出した事で、怨恨から暴動が発生し、その鎮圧後も、処刑や復讐が続きます。

  この物語構成は、ホームズ・シリーズの長編によく見られるパターンですが、時代はこちらの方がずっと古いですから、ドイルが、ガボリオからパクったのは明白。 ただし、わざわざパクるほど、面白い形式ではなく、因縁話の部分は、ただの古典的小説なので、推理小説のつもりで読んでいると、肩透かしを喰らいます。

  いきなり事件が起き、すぐに捜査が始まる辺り、読者を話に引き込むのがうまいです。 雪が積もった夜に、足跡を追って、パリの街に乗り出していく、その雰囲気が、何とも言えません。 150年近く前の小説ですが、聞いた事がある通りの名が出て来たりして、はっとさせられます。 もしかしたら、今でも、ルコックが調べて歩いた場所を辿れるのではありますまいか。

  因縁話の部分は、≪モンテクリスト伯≫によく似た雰囲気です。 ≪モンテクリスト伯≫は、1844年ですから、20年ちょっとしか経っていないわけで、大デュマの影響を強く受けているのは、無理も無いですか。 因縁話の部分だけ、全く別の小説として読めば、それなりに面白いと言えぬでもないですが、大デュマの小説には、遠く及びません。

  今のフランス人のイメージからすると、貴族時代のフランス人が、ちょっとした言葉を侮辱と受け取り、自分の名誉のために、他人まで巻き込んで、執拗な復讐を決行するのは、異様な光景に映ります。 そもそも、預かっていた領地を取り上げられたからといって、領内の農民を唆して暴動を起こすという、傍迷惑な神経が理解できないので、その男のために復讐を誓う息子や婿の立場にも、素直に共感できないのです。

  ガボリオは、三人称による群像劇ばかり書いていますが、大勢の人間の心理を描き分けるだけの力量が無かったのではないかと思われます。 同じ三人称でも、誰か一人を中心にして、じっくりと心理を書き込んで行けば、ずっと面白くなったと思うのですが。


≪狩場の悲劇≫
  ≪桜の園≫で有名な、ロシアの文豪の一人、チェホフが書いた、長編推理小説。 チェホフの小説は、ほとんどが短編で、これが唯一の長編らしいです。 発表は、1884年。 大学を卒業した年に書いたというから、若い頃の作品ですな。

  まだ、ドイルのホームズ物が世に出る前で、ガボリオが推理小説の模範とされていた頃なので、推理小説としての結構は整っていません。 情景描写や心理描写に、並々ならぬエネルギーが注がれている点から見ると、純文学に近い小説なのですが、モチーフにしている殺人事件と、純文学的描写が、一つのテーマに纏め上げられていないせいで、バランスの悪さを感じさせます。

  ある地方で予審判事をしている主人公は、友人である伯爵の屋敷へ招かれて行っては、夜通し馬鹿騒ぎをして、世間の顰蹙を買う生活をしているのですが、ある時、その屋敷の中年の執事が、若く美しい女と再婚する事になったのをきっかけに、その女に目をつけた主人公と伯爵が醜態を演じ、やがて、狩りに出かけた森の中で、殺人事件が起こるという話。

  前3分の2は、全く普通の純文学的小説で、事件の影も出て来ません。 突然、取って付けたように、殺人事件が起こり、そこから後は、推理小説っぽくなります。 前3分の2と、後ろ3分の1が、あまりにも違う趣きなので、せっかく積み上げて来た純文学的な雰囲気が台無し、という感じがせんでもなし。

  推理小説として見ると、いわゆる、叙述トリックが使われているのですが、真犯人は、事件が起こった時点で、容易に分かってしまいます。 普通、叙述トリックは、最後の謎解きで、読者を驚かせるために用いる手法なので、そういう意味では、正常に機能していません。

  ただ、この小説は、物語の大部分が作中作として語られる形式を取っているので、読者に真犯人を悟らせる目的で、わざと叙述形式を使っているらしく、別に、失敗しているわけではありません。 複雑な構造なんですよ。 問題は、その複雑さが、面白さに繋がっていない事なんですが・・・。

  最も重大な欠陥は、作中作の登場人物が、倫理的に問題ある者ばかりで、誰の立場にも共感を覚える事ができない点でしょうか。 主人公にせよ、伯爵にせよ、中年執事に嫉妬して、新婚生活を邪魔してやろうとしているだけで、あまりにも、人間がつまらないです。 ヒロインも、資産の大きさで、男を乗り換えているのが、ありあり分かるので、鼻を摘まずにはいられません。


≪スミルノ博士の日記≫
  20世紀初頭のスウェーデンの作家、ドゥーセの推理小説。 長編というよりは、中編です。 あまり、中編という言い方はしませんが。

  発表年は、1917年。 第一次世界大戦の最中ですな。 これまで私が読んで来た推理小説の古典作品群と異なるのは、この作品が、ホームズ・シリーズが世に知られてから、後に書かれたものであるという事。 この違いは、とてつもなく大きいです。

  作中にも、ホームズの名が出て来るくらいで、意識して書かれたのは、明白なところ。 レオ・カリングという名探偵が出て来ますが、これも明らかに、ホームズを念頭に置いたキャラです。

  ただ、小説としての風格は、とても、ドイル作品のそれに及びません。 特に、情景描写が貧弱で、登場人物達が、どんな場所で活動しているのか、ぼんやりとしか伝わって来ません。 セリフが多過ぎるのも、作者の小説家としての能力の限界を示しているような気がします。

  叙述トリックが使われていますが、これも、すぐに分かってしまいます。 もう、叙述トリックと言っただけで、どんなトリックか、すぐにバレてしまいますが、ネタバレを気にするほど、面白い話ではないので、まあ、よかでしょう。 正直に言ってしまうと、わざわざ時間を割いて読むほどの小説ではないのです。


≪シャーロック・ホームズの大冒険(上)≫
  シャーロック・ホームズ物なんですが、コナン・ドイルの作ではなく、後世の作家達が、ドイルの作風を真似て書いたパスティーシュ本。 「パスティーシュ」というのは、文体模倣の事らしいです。 こういうのは、盗作やアイデア盗用にはならないようですな。

  そういえば、星新一さんのショート・ショートの中に、≪赤毛組合≫のパロディー作品がありましたが、ああいうのも、広義のパスティーシュに入るようです。

  ドイル作のホームズ物の中には、事件名だけ紹介されて、書かれていない事件というのが100個くらいあるらしいのですが、それらの事件を、名前だけからアイデアを膨らませて、短編に仕立てたもの。 上巻に収められているのは、

【消えたキリスト降誕画】
【キルデア街クラブ騒動】
【アバネッティ一家の恐るべき事件】
【サーカス美女ヴィットーリアの事件】
【ダーリントンの替え玉事件】
【怪しい使用人】
【アマチュア物乞い団事件】
【銀のバックル事件】
【スポーツ好きの郷士の事件】
【アトキンスン兄弟の失踪】
【流れ星事件】
【ドーセット街の下宿人】
【アドルトンの呪い】

  の13編。 私は、ドイルのホームズ物は、全て読んでいるのですが、書かれていない事件には興味が無かったので、これらの事件名は、恥ずかしながら、一つたりとも記憶にありませんでした。

  ちなみに、これらの作品、全て、作者は違います。 訳者は一人なので、大まかな文体や、登場人物の呼び方などは、統一されていますが、やはり、元の作品が、それぞれ別の人間が書いたものなので、バラツキは感じられます。

  はっきり言って、あまり面白い本ではなかったので、個々の作品の論評はしません。 パスティーシュは、所詮、パスティーシュという事でしょうか。 似せて書いているつもりでも、時代、場所、文化や科学技術の発展度が異なる社会に生きている者が書くと、どうしても、ズレが隠せないのです。

  【アドルトンの呪い】が典型で、放射性物質の存在が事件に絡んで来るのですが、ホームズと、キューリー夫妻を知人だった事にして、何とか辻褄を合わせようとしているものの、放射性物質の影響で、病気になったり、治ったりがあまり極端に出ると、扱いが大雑把過ぎという難が隠し切れません。 「ドイルだったら、絶対に書かないだろう」と、読者に思わせてしまったら、その時点で、パスティーシュは、不成立でしょうに。

  最初の2編は、ホームズがまだ探偵になる前の時期を扱っていますが、当然、ワトソンは出て来ず、【消えたキリスト降誕画】は、三人称で、【キルデア街クラブ騒動】は、ホームズの一人称で書かれています。 これがまた、いけません。 ドイル作の中にも、そういう作品はあるのですが、あくまで例外でして、例外を手本にしたら、違和感を覚えるなという方が無理でしょう。

  【キルデア街クラブ騒動】には、ドイル作の【空き家の冒険】に登場する、セバスチャン・モーラン大佐が、窃盗犯役で出て来ますが、何ともまあ、しょぼい役に使ったもんです。 そんなつまらない男が、ロンドンで二番目に恐ろしい犯罪者になれるわけがないではありませんか。 

  どうにかこうにか、読む価値があるのは、【銀のバックル事件】くらいのものでしょうか。 田舎の、しかも、離れ小島で起こる事件ですが、読んでいて、ぞくぞくします。 ただし、これは、ホームズ物ではなく、ポアロ物として書いた方が良かったでしょう。 容疑者がたくさん顔を揃える辺り、アガサ・クリスティーの作風に近いです。

  全般的に見て、後世の作家達は、情景描写や心理描写を書き込み過ぎる嫌いがありますな。 ドイルの作風は、それらが足りないわけではありませんが、事件の展開を語るのを邪魔しない程度に、淡白に抑えられています。 そういう微妙な所まで真似るのは、厳しいのかもしれません。


≪シャーロック・ホームズの大冒険(下)≫
  シャーロック・ホームズのパスティーシュ物の下巻。 こちらに収められているのも、上巻と同じ数の、13編。

【パリのジェントルマン】
【慣性調整装置をめぐる事件】
【神の手】
【悩める画家の事件】
【病める統治者の事件】
【忌まわしい赤ヒル事件】
【聖杯をめぐる冒険】
【忠臣への手紙】
【自殺願望の弁護士】
【レイチェル・ハウエルズの遺産】
【ブルガリア外交官の事件】
【ウォリックシャーの竜巻】
【最後の闘い】

  上巻同様、イマイチな作品が並んでいます。 一応、ドイルの作風を真似るのが建前なのですから、もそっと、全体の雰囲気から似せればいいと思うのですが、どうして、こうも離れてしまうのか、大いに解せません。

  【慣性調整装置をめぐる事件】では、SF設定まで登場します。 言うまでもなく、慣性調整装置など、現代でも存在しません。 そんな仕掛けを、推理物に使うなど、ズルもいいところです。 こういう作品を含めるのは、編集サイドにセンスが欠けているのではありますまいか?  

  【神の手】は、猟奇殺人物で、これも、ホームズらしさとは、大きく掛け離れてます。 陰惨極まりない殺人が続いて、陰陰滅滅。 何に近いかといえば、横溝正史作品ではないかと・・・。

  【悩める画家の事件】は、田舎を舞台にしていて、最も、ホームズ物に近い雰囲気です。 この作者は、ドイル作品を、よく読んでいるようですな。 事件そのものは、そんなに面白くはないのですが。

  【病める統治者の事件】は、どう考えても、パロディーです。 ホームズに恥を掻かせるのが目的で書いた模様。 ホームズ物のパスティーシュには、パロディー集もあるようですが、この本は、真面目な作品だけ集めたものだと思っていたので、こういう作品が混じっているのは、奇妙な感じがします。

  【レイチェル・ハウエルズの遺産】は、正典にある【マスグレーブ家の儀式】の続きという設定なのですが、屋上屋を重ねている上に、あまりにも理屈っぽい語り口なので、げんなりして来ます。 加えて、話は未完結と来たもんだ。 なんすかね、これは?

  この本と同一のシリーズは、他にもあるようなのですが、とりあえず、二冊も読めば、もう充分でしょう。 もし、読むとしても、他に何も読みたい本が無い時に借りて来る事にします。


≪常識としての刑法≫
  変わった物が読みたくなって、図書館の書架の間を彷徨い、目に付いた本を衝動的に借りて来ましたが、妙に面白かったです。 これは、とっくに読んでいてしかるべき本だったのでは・・・。

  書名の通り、刑法について解説されている本。 読み物ではなく、罪名ごとにページを分け、説明を加えている、参考書のような体裁です。 まず、刑法の基本理念と、犯罪全般に通じる基礎知識を述べ、その後、各罪を一つ一つ取り上げていきます。

  ざっと書き出すと、≪殺人罪≫、≪傷害罪≫、≪暴行罪≫、≪堕胎と遺棄罪≫、≪脅迫罪と強要罪≫、≪略取・誘拐罪≫、≪窃盗罪と強盗罪≫、≪詐欺罪・恐喝罪≫、≪横領罪と背任罪≫、などなど。

  ≪殺人罪≫は、すぐに分かりますが、≪傷害罪≫と≪暴行罪≫の違いは、怪我をさせたかどうかで分かれるとの事。 そうだとは思っていましたが、本当にそうだったんですな。 強姦行為が、普通、暴行罪に分類されるのは、怪我を負わさなかった場合、傷害罪が適用できないからなのでしょう。 ただし、≪心的外傷ストレス障害≫にまで至った場合は、傷害罪になるらしいです。

  よく、「拉致、誘拐」と言われますが、「拉致」という言葉は、刑法では使わないそうで、同じ行為を、「略取」と言うのだそうです。 知らなかった。 略取は、強引に連れ去る事で、誘拐は、騙して連れ去る事。 え? そうだったんだ。

  すると、誘拐事件でも、無理やり車に連れ込んで走り去ったりするようなのは、誘拐ではなく、略取だったんですな。 私はまた、連れ去る行為を略取(拉致)と言い、その後、身代金を要求した場合、誘拐になるのだと思っていました。 全然、違うじゃん。

  ≪収賄罪≫は、公務員だけが問われる罪。 民間企業同士で利益供与しても、それは、罪にならないんですな。 まあ、当然か。 ≪名誉毀損罪≫は、その内容が事実であるか否かに関わらず成立するというのは、割と良く知られていますが、相手が公務員である場合、事実であれば、罪にならないのだそうです。 公務員は、刑法上、特別な立場にあるんですねえ。

  この本、始めの方は、ニュースやドラマなどで、よく知っている罪名が並んでいるので、興味を引くのですが、後ろの方へ行くと、馴染みの無い罪名が出て来て、だんだん、読む熱意が冷めてきます。 しかし、むしろ、そういう馴染みの薄い罪の方が、知らずに犯してしまう危険性が高いような気もします。

  「常識的に知っている事は、おおよそ、正しいのだな」と感じる反面、構成要件など、細部を知らないでいると、勘違いしたまま、いつのまにか、刑法犯になっている危険性もあり、ヒヤヒヤします。 勤め先の商品や備品を、勝手に私物化すると、≪業務上横領罪≫になるのですが、思い当たる事があって、ギクリとする方も多いのでは?

  もし、これから、何か罪を犯そうという、よからぬ計画を立てている方は、とりあえず、この種の本を読んでおいた方がいいと思います。 刑罰に対する正しい知識が頭に入る事で、考えが変わって、思い留まれるかもしれません。

  この種の本、中学生くらいになったら、学校で読ませるようにしたら、未来に起こるであろう犯罪を、かなり防げるのではないでしょうか。 読む前と、読んだ後とでは、明らかに、犯罪に対する意識が変わって来ます。



  以上、6冊まで。 これらの感想文を書いたのは、2012年の夏から秋にかけての時期です。 その年の春から、古典推理小説を読み始めたのが、一段落した頃の事ですな。 推理小説というのは、続けて読んでいると、次第に虚しくなって来て、やがて、自己嫌悪のようなものさえ感じ始めて、やめる事になります。 しばらく、間を置くと、また、読みたくなるのですが。

2013/09/15

ザ・汚染水

  2020年五輪招致運動も終わった事なので、政治的な思惑から離れて、純粋に、この問題を検討する条件が、より整ったと判断されるわけですが、それでも尚、「石橋を叩いて帰る」的な慎重さを忘れずに、庭に掘った深い穴の中に小声で問いかけるが如く、恐る恐る申しますと・・・。

「福島第一原発は、やっぱり、どうにもならんようだな」

  と、つくづく思っている今日この頃なのです。 前回、≪決して減らない≫を書いた後、汚染水問題が、それ以前より、輪をかけてクローズ・アップされ、新聞の見出しに、「汚染水」の三文字が載らない日は無いくらいの重大・喫緊ニュースになってしまったわけですが、それ即ち、私と同じような恐怖感に震え上がっている人間が、如何に多かったかという事なんでしょうなあ。

  で、報道量が倍増した分、様々な新情報や、関係者の面々の反応が出て来たわけですが、まー、およそ、見通しが明るくなるような要素が見当たりません。 お先真っ暗度計の針が、ビンビン跳ね上がって、振り切れんばかり・・・。 今の所、地球上の全生物が絶滅するという、最悪コースから、一歩たりとも外れていないから、脂汗が幾筋あっても足りゃあしません。

  単に、汚染水が増え続けているだけでも、超が付くほどの重大問題なのに、それが、タンクから漏れていて、「気づいた時には、120リットルだと思っていたけれど、計ってみたら、300トン流れてました」って、一体、どういう管理してんのよ? というか、管理なんて、していなかったも同然でしょう。

  120リットルと300トンの差が凄い。 ちなみに、熱帯魚なんかを飼う水槽が、標準的なもので、60リットルだから、120リットルというのは、水槽二杯分です。 一方、300トンの方ですが、1トンで、1000リットルなので、つまり、30万リットルでして、熱帯魚水槽に換算すると、5000杯分になります。 わざわざ、単位を変えて発表したのは、何とか、少しでも、事態の重大さをごまかしたいという意識の表れなんでしょうかね。 国語辞典を作る際、【姑息】という言葉の例文に使うのに、うってつけの事例と言えるでしょう。

  タンクには、ボルトで接合するフランジ型と、溶接型があるとの事。 で、フランジ型の方が漏れ易いから、今後、溶接型に切り替えるのだそうです。 まあ、それはいいとして、その、要らなくなったフランジ型タンクは、どうするつもりなんですかね? 溶接型タンクにも寿命があると思いますが、今後出て来る、それらの廃棄タンクは、どこで、どう処理するつもりなのか。

  放射性物質を含む汚染水を貯蔵していたわけですから、タンクにも、当然、放射性物質が付着しているわけで、それを除去する事ができるのか、それが分かりません。 水で洗い流した場合、汚染水が更に増えます。 それを貯蔵するために、またタンクを増設し・・・、なんだか、壮大なイタチごっこに陥りそうな気配が濃厚ですな。

「溶鉱炉で溶かしてしまえば?」

  ほほう、ターミネーター式の処置方法ですな。 厄介な物は、溶かして消してしまえというわけだ。 だけど、それは、駄目なんですよ。 放射性物質は、溶鉱炉くらいじゃ、消えないのです。 もう、かなり前ですが、台湾の、とある集合住宅の、とある部屋で、癌患者が続出する事件が起き、調べてみたら、その建物に使われていた鉄筋に、放射性物質が含まれていた事が分かりました。 恐らく、医療用と思われる放射性物質が、鉄屑に混じって、電炉で溶かされ、鉄筋に再生されてしまったのだろうという話でした。 一旦、電炉で、トロトロになるまで溶けているにも拘らず、放射線を出す力は、衰えなかったんですなあ。

「火山の火口に放り込む」

  馬鹿こけ! たった今、 高温では溶けないと言ったばかりだろうが! 噴火して、飛び出して来たら、火山灰と一緒に拡散して、それこそ、世界中が汚染されてしまうぞ。

「太陽に放り込む」

  これは、いい手ですが、打ち上げ失敗のリスクの方が大きいです。 また、量が多いので、資金的にも、そんなに大量のロケットを打ち上げるのは、不可能です。 話にならん。 計算するのも馬鹿馬鹿しい。

「深い穴を掘って、埋める」

  素朴で、ロー・テクですが、実は、これが一番、有効かも知れません。 ただ、場所が問題になります。 福島第一が、あんな状態では、今後、放射性物質を埋めさせてくれる自治体は、出て来ないのではありますまいか。 地下は、地震には強いですが、それは、地下鉄のように、金をかけて、頑丈な造りにした場合の話でして、炭鉱に落盤事故がつきもののように、簡単な構造だと、却って危険です。 今後、どれだけ、放射性物質絡みの廃棄物が出るか分からない事を考えると、コスト的にも、賄いきれなくなる恐れが大きいです。

  穴と言えば・・・、時折、思うのですが、今後、福島第一の状況が、どうにも手の打ちようがなくなってしまった場合、原子炉建屋のすぐ隣に、大きくて深~い穴を掘り、メルトダウンも、再臨界も覚悟の上で、建屋ごと、その中に落として、土をかけて、埋めてしまう、というのも、最終手段として、有効かも知れませんな。 非常に荒っぽいやり方ですが、汚染水の増大で、世界が滅びるよりは、ずっと良い・・・。


  話は変わりますが、2020年の五輪開催地が東京に決まった時、「え? 本当に、日本でいいの?」と思ったのは、地方に住む日本人とドイツ人だけではありますまい。 これだけ、汚染水問題が騒がれていて、世界的にもニュースになっているのに、敢えて、日本の都市を選ぶ、IOCの気が知れない。 頭、大丈夫か? いくら、体育会系が雁首揃えているからといって、放射線が、どんなものかくらい、分かってるよな? 分からんのかな? 分からんかもしれんなあ・・・。

  日本の首相が、スピーチで、「完全にコントロールされている」と言ったから、それを信じた? アホけ! 普通に、ニュースを見ていれば、そんなの、嘘だって、すぐに分かるだろうに! 嘘を言う方も悪いが、常識的に考えて、明らかに嘘なのに、嘘と見破れない方も、勝るとも劣らないくらい、悪い。

  それにしても、日本の政治家も、失言、暴言、妄言と来て、とうとう、国際舞台で虚言まで弄するようになったか。 汚染水が、無際限に増えており、更に、漏れてまでいる、という状態が、仮に、コントロールされたものであるとするならば、福島第一の事故処理の目的は、収束ではなく、拡大であり、求める先は、人類の絶滅という事になってしまうが、それでよいのか? 確か、この首相、かつて、日本の教育制度について語っていた時、「論理的な思考能力を身につけさせ・・・」とか言っていたような記憶があるのですが、自分が滅茶苦茶な論理を口にしている事には気付いていない様子。

  また、このスピーチについて、疑念を表明したのが、ドイツを除けば、近場の韓国と中国 だけだったというのも、薄ら気味悪いです。 他の国の連中は、本気で信じたのかね? どうなっても、知らんぞ。 確かに、7年くらいでは、汚染水タンクの数が加速度的に増えたとしても、東京まで、タンク置き場になるという事はないと思いますが、今後、福島第一に注ぎ込まなければならない国費の事を考えると、「五輪どころの話ではない」という気が、強烈にします。 五輪を東京で開催する事により、日本政府が福島第一に回せる金額が減るのは疑いないところですから、そうなると、IOCは、人類の破滅を後押しした事になりますな。


  ちょっと、テーマがズレますが、五輪開催地問題だけに限って言えば、東京に決まったのは、消去法の結果という感が濃厚ですな。 その、つまり、最有力候補だったイスタンブールが、反政府暴動と、隣国シリアの内戦で、不安要素が高まり過ぎて、没になったのが最大の原因。 もう一つの候補地であるマドリードは、最初から、選考委員の念頭に置かれていなかったのではないでしょうか。

  だって、スペインは、ついこないだ、バルセロナでやったばかりですけんのう。 スペイン人にしてみれば、バルセロナはカタルーニャで、マドリードはカスティーリャで、異なる文化圏なのでしょうが、外国人から見れば、同じ国の二都市に過ぎません。 一国内の地域間の張り合いを、五輪招致の場に持ち込んだのでは、嫌悪感を抱かれても、致し方ありますまい。 ただ、私個人の意見としては、イスタンブールがだめなら、マドリードでやって貰った方が、ありがたかったです。 日本で五輪に割く国費を、福島第一に回せたからです。


    話を戻します。 地下水を遮断するための、≪凍土壁工法≫ですが、あれも、何だか、怪しい技術ですねえ。 え、なに、ずーっと、冷やし続けるんですか? えらい、電気代がかかりそうですな。 冬はともかく、夏も、ずーっと? マジ? 常識的な感覚で考えると、非常識極まりないやり方としか思えないのですがね。 本来は、トンネル工事などで、地下水が湧き出て、コンクリートを施工できない時に、一時的に、地下水を凍らせて、空間を確保し、工事を進めるための工法らしいです。

  恐らく、福島第一で地下水が問題になっているから、地下水を止める方法という事で、土木関係者から、「こういう工法も、あるにはありますがね」という程度の意見が出されたのを、藁にも縋るつもりで、飛びついたのではないかと思いますが、場違いというか、お門違いというか、エアコンの代わりに、冷蔵庫のドアを開けるような、アホっぽい違和感を覚えないでもなし・・・。

  そもそも、凍らせるためには、器具を地下に埋めなければならないわけですが、どうせ穴を掘るなら、幅広く掘って、地下水を一旦凍らせた上で、コンクリートで壁を作った方がいいんじゃないでしょうか? 要は、地下水を遮断できればいいわけで、氷でなくてもいいんでしょうが。 というか、コンクリートの方が、より良いでしょうが。 完成してしまえば、その後、電気代を使い続ける必要が無いわけだし。

  それはそれとして、原子炉の敷地という、かなりの広い面積を囲むように地下水を遮断してしまって、地盤に悪影響は出ないんでしょうかね? 地下水が涸れるというと、真っ先に思いつくのが、地盤沈下ですが、原子炉が地下に落ち込んでしまう危険性も、もちろん、想定してあるんでしょうな。 「思ってもいませんでした」では、済まんでよ。

  更にそもそも、地下水を凍らせて壁を作るほどの技術があるのなら、原子炉そのものを凍らせた方が、早いのではありませんかね? 電気代はかかりますが、対象範囲が狭いから、原子炉の敷地全体を覆うより、ずっと安く上がるでしょう。 そうしてしまえば、汚染水を、これ以上増やさなくても済むという、途轍もないメリットがあります。


  放射性物質の除去システムで、最後まで取り除ききれないのが、トリチウムだそうで、これは、自然界にも存在するため、その濃度にまで薄めて、海に放出するという提案が出ています。 しかし、そりゃ、まずいんじゃないですか? 一見、自然界の濃度と同じだから、何の問題も起こらないように見えますが、地球全体で見れば、トリチウムの量は、確実に増えるわけで、放出前と放出後は、決して、同じではありません。

  塩に例えてみれば分かります。 人工的に作った塩を、海水の塩分と同じ濃度にまで薄めて、海に放出し続けたとします。 地球全体の水の量は一定なので、人工の塩を足している分、当然、海水の塩分濃度は、どんどん高くなりますわな。 いずれ、死海のように、生物が住めなくなるほど、しょっぱくなるでしょう。 トリチウムも、同じ事です。 僅かずつとはいえ、トリチウムの濃度は、どんどん上がって行きます。 この提案には、物事を地球全体のスケールで考えていないという、重大な欠陥があります。

  この提案をした人が、「他に方法は無い」と付け加えたのも、気になります。 これは、≪神風特攻隊≫などと同じ発想でして、「他に方法は無い」と言ってしまえば、どんな無茶苦茶な事でも、通ってしまいます。 他者に対して、思考停止を強要する言い回しなんですな。 たとえ、本当に、他の方法が無くても、それは言ってはいけないのです。


  事故処理に関して、「外国の技術や知見を活用せよ」という意見が、多く見られますが、それは確かに、もっともな話だと思うものの、この種の事故の前例が、スリーマイル島とチェルノブイリの二件しかなく、その内、規模的に比較できるとなると、チェルノブイリだけになるのですが、そのチェルノブイリでは、メルトダウンした核燃料を、直截、コンクリートで固めてしまったために、汚染水問題は発生しておらず、参考にならないという問題点があります。

  東電や日本政府は、福島第一の事故を少しでも小さく見せるため、各原子炉で、冷却水の循環経路が生きている事を強調しようと、水で冷やす事に拘り続けたように見受けられるのですが、むしろ、チェルノブイリのように、コンクリートで強引に固めてしまった方が、後の始末が良かったものと思われます。 チェルノブイリでも、汚染水問題というのは存在するのですが、それは、石棺の隙間から浸みこんだ雨水が、汚染されて地下まで流れているのではないかという疑いの事で、福島第一の汚染水問題とは、規模と次元が違います。

  言わば、福島第一の事故パターンは、前代未聞なのであって、外国の経験は、ほとんど役に立たないでしょう。 「何とかしてくれ」と泣きついても、泣きつかれた方が困ってしまう。 この事故の処置が可能とすれば、マンハッタン計画や、アポロ計画に匹敵する、専門家集団の結集と、強力なリーダー・シップを持った政治家が必要になると思いますが、専門家といっても、この種の事故処理の経験がある者はおらず、リーダー・シップに至っては、嘘をついて、事故を小さく見せる政治家がいる始末で、話になりません。

  事故処理の指揮そのものを、国際機関に任せてしまえば、日本政府としては、気が楽になりますが、そんな機関は、存在しないと来たもんだ。 IAEA? 駄目駄目、あんなの! 元々、核兵器の保有国を増やさないために、核物質の監視をするのを目的に作られた組織で、原発の事故処理なんて、専門外もいいところ。 廃炉や、メルトダウンした燃料の取り出し、汚染水対策の、どれに対しても、有効な技術は、何も持っていません。

  そういや、IAEAの事務局長は、2009年の12月に就任した日本人ですが、なんで、福島第一の事故が起こった時に、出身国の責任を取って、辞任しなかったのか、大いに解せません。 辞任どころか、この人が、事故直後にやった事は、「福島第一の事故は、同じレベル7でも、チェルノブイリの事故に比べたら、遥かに軽いものであるから、両者を区別するために、新たな区分を設けるべきだ」という提案でした。

  いやあ、いかにも、日本人の発想だわ。 そんな下らない提案をしている場合だったのかね? 国の面子を保つ事しか頭になかったのかね? 解決すべき問題は、事故そのものではなかったのかね? 私は、これを聞いた時、こういう人物に何かを頼るのは、とても無理であり、こういう人物が長をしている機関にも、何の期待もできないと思いましたが、案の定、その通りになっています。


「いざとなったら、アメリカが何とかしてくれる」

  わははは! 漠然と、そう思っている日本人は、たくさん、いるでしょうねえ。 実は、私も、心のどこかで、それを期待している事に気付いて、何度も、虚しい思いを味わっているんですよ。 他者に縋らなければ、解決できない問題を抱えているというのは、情けないものですなあ。 だけどねえ、現段階で、何も言って来ないという事は、アメリカ政府は、この件について、直截タッチするつもりは無いという事だと思いますぜ。 政府だけでなく、原子力関係の科学者からも、何の意見も出ないというのが、この上なく、不気味・・・。

  非常にまずいのは、1980年代から、90年代初め頃にかけて、アメリカ人の意識に刷り込まれた、≪ジャパン・アズ・ナンバー・ワン・イメージ≫が、未だに、どこかで生きていて、「ハイテクが得意の日本人なら、どうにかするだろう」などと、思われてしまっている場合です。 なーに、言うとるとですか! そんなの、遥か昔の事ではないですか! そもそも、日本人は、ビッグ・サイエンスは、大の不得意で、原子力技術で、他国より優れたものなんか、一つも持っちゃいないんですよ。 根拠の無い買い被りは、やめて下さい。 ほんっと、勘弁して。

  むしろ、「厄介事を持ち込まれては、迷惑」とばかり、無視しようとしているのなら、その方が、まだマシです。 放射性物質が太平洋に大量に流れ出して、アメリカ近海で獲れる魚介類にまで、被曝が観測されるようになれば、否が応でも、乗り出して来てくれると思うからです。 アメリカが出て来さえすれば、必ず解決するというわけでもないと思いますが、それでも、日本人だけでやっているよりは、気分的に楽です。


  話は、日本の事に戻りますが・・・。 地元の漁業関係者が、汚染水問題の抗議者代表のような形で、テレビに頻繁に出て来ますが、これがまた、誤解を招く恐れあり。 漁業関係者が抗議をしていると、テレビを見ている他の人達は、「ああ、漁師の衆等は、困ってるんだろうなあ。 でも、こっちには関係ないや」と、軽くスルーしてしまうのです。 いやいやいや、関係あるんだよ。 漁ができないだけじゃ済まないんだよ。 このまま進めば、みんな、死んでしまうんだよ。 

  福島第一の敷地だけが、永久立入禁止区域になるだけというなら、さしたる問題ではないですが、放射性物質を含んだ汚染水は、汲めども尽きぬ泉の如く、次から次へ、どんどんどかどかと溢れ出て来るのであって、その内、福島県全体を覆い尽くし、やがて、東北全体を覆い尽くし、いずれ、日本列島全体を覆い尽くし、同時に、太平洋全体を覆い尽くし、ゆくゆくは、七つの海を制覇し、最終的に地球全体を征服し尽くすのは、時間の問題に過ぎません。

  扱えもしないくせに、危険な技術に手を出して、案の定、取り返しのつかない重大事故を起こした日本の原発推進派だけがくたばるというなら、自業自得として、大いに納得できるところですが、放射線が、各人の思想信条で、殺す相手を選別してくれるわけもなく、反対派まで命を奪われるというのだから、怒髪天を衝くなという方が無体というもの。 なんで、俺が死ななきゃならん!

  黒澤明監督の≪生きものの記録≫の中に、主人公が、核兵器の存在にぶち切れて、「馬鹿なもの、作りやがって!」と怒鳴る場面がありますが、今の福島第一の有様を見ると、こちらの状況の方が、そのセリフに、より相応しいと思えて仕方が無い。 馬鹿どもが、自分の馬鹿さ加減に気付かないまま、馬鹿な物を作り、自滅するというのですから。

「ば、ば、ば、馬鹿なもの、作りやがって!」

  滅亡するのが、日本人だけなら、まだ始末がいいのです。 一応、民主主義制度で運営されている社会ですから、馬鹿な連中に危険極まりないオモチャを預けておいた責任は、歴代政権にあり、その政権を選んだ国民にも、相応の責任があるという論理が成り立つからです。 しかし、福島第一から生み出される放射性物質は、日本人が全員死んだ後も、止まらないのであって、むしろ、日本列島が無人になれば、管理放棄された全原発が、福島第一の数十倍の規模で、放射性物質を吐き出し始め、人類滅亡へのカウント・ダウンは、更に加速されるという、恐怖と戦慄の悪循環・・・。

  原発を一基も持っていない国の人々は、激怒どころの話じゃないでしょうなあ。 激昂でも追いつかぬ。 血の涙を流して、地団駄踏むと思いますね。 こんな理不尽が、許されて、いいものかと。 何の罪もないのに、名前も知らんような遠い外国の、馬鹿な連中の、馬鹿な不始末のせいで、死ななければならんのですから。

  ああ、そうそう、将来、日本が住めなくなる事を見越して、外国へ移住しようと思っている日本人の皆様方に、お知らせがあります。 やめときなさい。 事態が悪化してくれば、いずれ、殺されます。 ただ、殺されるだけではなく、惨殺されると思います。 だって、そうでしょう。 人類滅亡のきっかけを作ったのは、日本人なんだよ。 日本人のせいで自分達まで死ななければならなくなった、その国の人間が、日本人を赦すわけねーじゃん。 もーう、惨殺ですよ。 女子供も老人も関係なく、切り刻んで、皆殺しだね。

  筒井康隆さんの初期の長編に、≪霊長類 南へ≫という作品があります。 核戦争後のパニックを描いた話ですが、小松左京作品と違って、とことん、人類の愚かさを扱き下ろしており、ある意味、痛快、ある意味、絶望的な気分になります。 しかし、まさか、筒井さんも、自分の国の原発が原因で、似たような成り行きが予測される事態に至るとは、思っていなかったでしょうなあ。 この作品が書かれた時代の人達は、世界は核戦争で滅びると思っていた。 ところが、実際には、平和利用のはずの、原発で滅びるという皮肉・・・。


  だけどねえ、人類が滅亡するだけなら、まだ、いいんですよ。 人間活動のせいで、地球の生態環境が破壊され続けていて、人類の存在そのものが、地球の負担になっているという見方もできますから、それがいなくなれば、植物と動物だけの原始の地球に戻って、平和で安らかな時代が訪れるというわけです。

  ところが、放射線は、動植物まで、容赦なく、殺してしまうんですな。 一気に、生命発生の前、35億年の昔まで、戻ってしまうのです。 しかも、放射性物質が邪魔をしている限り、新たな生命が生まれないと来たもんだ。 えらい事ですわ。 大変な事ですわ。 こんなスケールの大きな罪が、未だ嘗て、地球上に存在したでしょうか?

  スタニスワフ・レムの長編SFに、≪エデン≫という作品があります。 その中に、異星の知的生命体が、高度な文明を持っていながら、原子力の開発をタブーにしているという設定があります。 読んだ時には、なぜ、タブーにしているのか、理屈でしか理解していなかったのですが、今、現実に、原子力の暴走を目の当たりにすると、この設定の重さが、よく分かるような気がするのです。

  怖い・・・。 本当に、怖い。 人類の叡智など、その猛威の前では、何の力も持っていないかのように見えます。

2013/09/08

似非蒐集家の悩み

  どうも、私の趣味は、極端に走る傾向があって、困ります。 根がケチなので、本来、蒐集欲は弱い方で、人様に自慢できるようなコレクションは、一組たりとも所有していないのですが、根がケチであるが故に、対象物の値段が安いと、「早く買わねば、損をする!」という強迫観念に駆られ、ドカドカと買い込んでしまうのです。

  この2ヶ月ほどの間に、小松左京作品は、約40冊だったのが、約90冊に、筒井康隆作品は、約30冊だったのが、約110冊に増えてしまいました。 増えた数だけを、両者合わせると、130冊で、大体、1冊100円としても、13000円分になります。 大人買いとしては、大した金額ではありませんが、2ヶ月で130冊というのは、凄い数でして、机周辺の本棚が、文庫で埋まってしまい、圧迫感すら覚える始末・・・。

  出だしは極端に集めまくりますが、しばらくすると、熱が冷めて、中途半端な結果に終わるのも、私の蒐集活動の特徴です。 熱が冷めると、ケチの本性がズズズイッと頭をもたげてきて、俄か蒐集欲を蹴散らしてしまいます。 リコーダーの時が、正にそれで、一通り、安く手に入る品を集めきってしまうと、「これ以上、増やして、何が面白いのだ?」と自問するようになり、そうなったら、もう、蒐集の終焉は近い。 結局、今では、ベッドの下で、ダンボール箱に詰められて眠っている有様・・・。

  今回の、小松・筒井文庫の蒐集も、コンプリートなど、絶対に不可能で、きっと必ず、中途挫折する事でしょう。 コンプリートぉ? んなの、できるわけないじゃん。 小松作品だけ見ても、ハヤカワ文庫は手付かず、ケイブンシャ文庫は、2冊だけ、ハルキ文庫でさえ、6冊しかないというのに! この3社分だけでも、持っていない本を全部揃えたら、100冊を超えてしまいます。

  文春文庫、徳間文庫、集英社文庫は、それぞれ、残り数冊なので、ネットでコツコツ買って行けば、全冊揃うと思われ、あまり、心配していません。 角川文庫の緑色背表紙版は、残り、10冊ですが、その内、251円で買える本は、2冊だけで、他の8冊は、個別に値段がついており、高い物は、1000円近いです。 プレミアというほどの価格ではありませんが、私のようなケチにとっては、気軽に財布の紐を緩められない金額です。

  中身の作品を確保するだけなら、別の文庫で、もっと安く手に入るという場合、尚の事でして、「何も、角川の緑背表紙を揃える事に、拘る事はないじゃないか」と思ってしまうのが、蒐集家としての私の限界なんですな。 蒐集家というのは、理詰めで判断してちゃ、勤まらんのですわ。 それは分かっている。 分かっちゃいるけどねえ・・・。

  たとえば、角川文庫の、≪見知らぬ明日≫ですが、我が家には、母の所有品で、昭和48年(1973年)発行の初版本があります。 元はといえば、かつて製本所に勤めていた私の叔父が、かつて読書好きだった母に、土産としてくれたものなのですが、すでに、母は、本を読まない人になっているので、私が貰ってしまっても、なんら問題はありません。

  ところが、この初版本は、背表紙が白なのです。 いや、元は、ピンクだったらしいのですが、色が褪せてしまって、白になっているというわけ。 どうやら、角川文庫の小松作品は、最初、背表紙の色がピンクで、その後、緑色に変更されたようなんですな。 表紙も、長尾みのるさんの絵で、緑背表紙化以後の、生頼範義さんの絵とは違います。

  さて、ここで、問題が発生します。 私は、緑背表紙版の方の≪見知らぬ明日≫を、買うべきか否か? 作品の中身は、全く同じですから、読む分には、手持ちのピンク背表紙版で充分です。 もし、緑版を買うとなると、単に、カバーを買うだけという事になりますが、果たして、そんな事に、ン百円払うような価値があるのかどうか・・・。 私は、あくまで、小松左京さんの作品を集めているのであって、生頼範義さんの絵を欲しがっているわけではないのですから。

  欠番があると、気になりそうですが、そんな事を言い出せば、ほんの2ヶ月前までは、全体の半数近くが欠番だったのに、何十年も気にせずに生きて来たわけで、慣れてしまえば、何とも感じないのは、疑いないところです。 今だけなんですよ、夢中になって、あれこれ、細かい事に拘っているのは。 こんな熱中が、いつまでも続くわけがないんです。 私に限って。


  角川文庫といえば、≪雑学おもしろ百科≫のシリーズをどうするべきかも、悩みの種です。 ≪雑学おもしろ百科≫というのは、角川文庫の小松作品の、最後を埋めたシリーズで、小説作品が、≪氷の下の暗い顔≫で打ち止めになった後、「小松左京 監修」という形で、12巻、発行されました。 いや、もっとあるのかもしれませんが、私が把握している限りでは、12巻。 私は、その内、(一)(二)(三)を持っています。

  厄介なのは、このシリーズ、名前の通り、雑学の断片のような文章を、ランダムに並べたものでして、小松作品とは、とても言えない内容なのです。 「監修」という事は、小松さん当人が書いたものではないのは、確実。 当人が選んだかどうかも、かなり怪しく、別人がネタを選んで、別人が書いたものに、小松さんが目を通して、「これでいいんじゃないの」、「これは、間違ってるんじゃないの」と、指摘した程度なのではないかと思われるのです。 最悪、全く、一切、毛ほども、小松さんがタッチしていない恐れすらある・・・。

  なぜ、そう思うのかというと、このシリーズが発行されていた時期、小松さんは、殺人的なスケジュールで、様々な活動をしており、こんな呑気な監修作業に割く時間があったとは、とても思えないからです。 せめて、小松さん本人が雑学ネタを書き留めたノートのようなものがあって、それを元にしているというのなら、価値があるのですが、その種の断り書きは何もありません。

  「誰が書いたか分からないような本を、あと、9冊も買うのか?」と思うと、悩んでしまうんですなあ。 今後、ブックオフ巡りで、うまい具合に、105円のが見つかれば、それは買いますけど、ネットで、251円出してまで、揃えるようなものではないような気がするのですよ。 つくづくと。

  それにしても、よくこんな、テーマ分類も何もしていない、バラバラの内容のものを、12冊も出したねえ。 小松さんのネーム・バリューが、いかに大きかったかを物語る痕跡とでも申しましょうか。 発行されていた当時の様子を思い起こすと、私は、このシリーズの存在を、完全に無視していました。 本屋で手に取って読むくらいの事はしましたが、各項目の内容があまりにも淡白で、小松さんらしい食いつきも掘り下げも無かったので、1冊300円出して買うほどの価値を感じなかったのです。

  気の毒なのは、当時、これを、小松作品の一種だと思って買ったファン達でして、完全に騙された人もいれば、別人が書いたと承知の上で、義理で買った人もいると思いますが、「いつか、また、角川文庫で、小松さんの小説本が発行される時、途中に空白を作りたくない」という気持ちだったのかも知れませんなあ。 その時は、永久に来なかったわけですが・・・。

  ちなみに、どの出版社の文庫でも、各作家の本には、通し番号か、それに類するものが振ってありますが、角川文庫の小説作品である、≪日本アパッチ族≫から、≪氷の下の暗い顔≫までは、「1~33」。 一方、≪雑学おもしろ百科≫は、「51~62」になっており、続き番号にはなっていないので、≪雑学おもしろ百科≫を買わなくても、欠番は出来ません。


  そういえば、徳間文庫に、≪シナリオ版 首都消失≫という本があるのですが、紛らわしい事に、これがまた、小松作品ではないのでして、小松さんは、単に原作者だというだけで、中身は、別の脚本家が書いたものです。 徳間も、さすがに、これを、小松作品の列に並べるわけにはいかないと思ったのか、通し番号は、別扱いになっています。 私は、この本を、とあるブックオフで見つけたのですが、別人が書いたものですし、映画の出来も良くなかったので、買いませんでした。

  一方、同じ徳間文庫にある、≪シナリオ版 さよならジュピター≫の方は、発行当時に買って、持っています。 こちらは、小松さんが自ら、脚本を書いたものだからです。 どちらのシナリオ版にも、映画のコマから抜き出した写真が、たくさん入っており、映画の雰囲気を思い出すには便利なのですが、どちらも、いい映画とは言い難い出来なので、思い出したくもないという、あいにくな事情あり。


  そういや、筒井作品の中には、集英社文庫の≪異形の白昼≫、≪12のアップルパイ≫、福武文庫の≪人間みな病気≫のように、「筒井康隆・編」とか「筒井康隆・選」というものがあります。 それぞれ、1編だけ、筒井作品が含まれているものの、それ以外は別の作家の作品が収録されているのであって、扱いをどうすればいいのか、微妙なところです。

  この3冊の内、≪異形の白昼≫は、知らずに買ってしまって、家で中を見てから、舌打ちしました。 次に、ブックオフ逗子久木店で、≪12のアップルパイ≫を見つけましたが、前轍を踏まないように、買いませんでした。 ところが、その後、≪人間みな病気≫を見つけた時、つい買ってしまい、そうなると、≪12のアップルパイ≫を買わなかったのが、惜しくて仕方ない。

  といって、逗子久木店などという、遥か彼方の店に、105円の本を1冊買うためだけに、また出かけて行くわけにもいかず、地団駄踏んでいる次第。 ふふ、不様な奴め・・・、自分の事だけど・・・。 コレクションを集める時には、まず、基本方針を決めておかなければいかんという事でしょうな。


  何だか、取りとめの無い話になってしまいましたが、長くなったので、この辺で終わりにします。

2013/09/01

神奈川ブックオフ14軒

  先週の土曜日、つまり、8月24日の土曜日ですが、夏休みに、カーナビのバッテリー切れで、6軒予定していたのに、2軒しか行けなかった、神奈川県のブックオフへ、リベンジに行って来ました。 計画を練り直している間に、欲が出て、回る軒数がどんどん増え、14軒になってしまったのですが、決死の強行軍で、走りづめに走り、何とか、全部回って帰って来ました。

  朝5時45分に起床。 朝になってから、ルート・メモを書き直したりして、手間取ったものの、辛うじて、予定時刻の7時に、バイクで出発する事ができました。 開店時刻は、どの店も午前10時からなので、最も遠い店に、10時前に着くようにして、そこから、遠い順に店に寄りながら、家へ向かって戻って来るのが、最も効率的なルートという事になります。

  前回の神奈川行きは、カーナビに頼り、牧之原市行きと、静岡市行きは、ルート図を描いて行ったのですが、今回は、ルート・メモだけにしました。 回る店の数が多い上、広範囲に散らばっているため、図だと、紙が何枚要るか分かりません。 そこで、通過する道路名と、曲がる交差点だけを書いた、ルート・メモの登場となるわけです。 どんな物かというと、下のような物。 ()は、国道、<>は、県道、「」は交差点名、≪≫は、店の名前です。


≪≪≪
家から、(国1)箱根新道、「小田原・橘インター」右折、(国134)東へ。 鎌倉「滑川」左折、<県21>北へ。 「八幡宮前」左折、つきあたり右折、北へ。 「小袋谷」右折、北へ。 「鎌倉女子大前」左折、<環4>西へ。 「笠間」右折、信号二つ目、<県203>北へ、川を渡る。 「飯島」右折。 ≪横浜本郷台店≫

<県203>南へ戻る。 「笠間」を直進、南へ。 「松竹前」左折。 ≪鎌倉大船店≫

「松竹前」直進、西へ。 「大東橋」左折、大船駅前を南へ。 「大船駅東口交通広場前」の次の信号の分岐、右へ。 つきあたりを左折。 すぐ右折。 しばらく進むと、柏尾川に沿う。 「手広」右折、西へ。 「深沢高校前」の付近。 ≪鎌倉手広店≫

西へ。 「南藤沢」右折、(国467)北へ。 「白旗」右折、(国467)北へ。 「亀井野」の付近。 ≪藤沢六会店≫

(国467)北へ。 「六会」右折、西へ。 「円行新橋」右折、西へ。 つきあたり、左折、<県43>南へ。 「保健医療センター入り口」の付近。 ≪藤沢大庭店≫

<県43>南へ。 (国1)を過ぎて、つきあたりの信号、右折、<県44>西へ。 次の次の信号、左折、<県307>南へ。 郵便局を見たら、右折、西へ。 「明治市民センター前」左折、南へ。 「辻堂神台一丁目」左折、ガードを潜る。 <県308>南へ。 「浜見山」右折。 「常磐町」ちょい過ぎた所。 ≪茅ヶ崎汐見台店≫

南西へ。 「浜須賀」右折、(国134)西へ。 「第一中学校」右折、北へ。 「本村」左折、(国1)西へ。 「茅ヶ崎駅前」右折、<県45>北へ。 ≪寒川大曲店≫

<県45>北へ。 「一之宮小入口」左折、<県46>南へ。 「田端二本松」右折、<県44>西へ。 「東真土二丁目」左折、(国124)ちょい南。 ≪平塚四之宮店≫

(国124)、ちょい北、「東真土二丁目(南側の方)」左折、西へ。 「新大縄橋」右折、<県61>北へ。 ≪平塚豊田店≫

<県61>北へ。 「桜台」の分岐、左へ、<県61>北西へ。 「武道館入口」、二つ先、右折。 ≪伊勢原店≫

<県61>北へ。 「伊勢原」左折、(国246)西へ。 「名古木」左折、南西へ。 「落合」左折、<県71>南へ。 ≪秦野曾谷≫

(国246)に戻り、西へ。 「平沢」の先。 ≪秦野渋沢店≫

(国246)西へ。 「龍場インター」南へ。 (国255)南へ。 「インター前」右折。 「足柄大橋東」の付近。 ≪足柄大橋店≫

「足柄大橋東」南へ。 <県711>南へ。 「鬼柳入口」右折、<県714>西へ。 橋を渡り、「城北工業高校入口」左折、<県720>南へ。 「飯田岡入口」のちょい先。 ≪小田原蛍田店≫

<県720>南へ。 「扇町五丁目」左折、<県720>南東へ。 「井細田中央」の分岐、左へ、<県720>南東へ。 「ビジネス高入口」右折、(国1)西へ。 箱根新道、(国1)、家へ。
≫≫≫


  といった事を、A4のコピー用紙に書き出した物を、折り畳んで、上着のポケットに入れ、信号で停まった時などに、ちょいちょい取り出しては、確認して、先へ進んだという次第。 「この程度の情報量で、分かるのか?」と思うでしょうが、割と、行けます。 カーナビを持っていないけれど、遠出したいという人は、試してみると宜しい。 この程度の情報量だからこそ、目的地に辿り着いた時には、小躍り級に嬉しくなります。

  元になる地図は、必ず、ネット上で、最新の物を参照します。 県道番号や、交差点名は、しょっちゅう変わるので、古い地図では、使い物になりません。 国道番号や県道番号は、交差点手前に設置されている案内標識に書かれていますし、道の脇にも、所々に、標識が立っています。 交差点名は、交差点に標識がかかっていますが、道路の方向全てにあるわけではないので、要注意。


  さて、当日の話に戻ります。

  国道1号を箱根峠へ登り、箱根新道を通って、小田原へ。 海岸沿いを走る国道134号へ出なければならないのですが、目印の橘インター交差点を通り過ぎてしまい、一度、横道に曲がって、引き返して来ました。 「なーに、この先でも、どこかで曲がれるだろう」と甘く考えて、先に進んでしまい、完全にロストするというのは、非常によくあるパターン。 面倒でも、引き返した方が、無難です。

  湘南の海岸は、海水浴客に代わり、サーファーが跳梁跋扈していました。 前回行ってから、二週間しか経っていませんが、波が荒くなっていて、もう、海水浴シーズンでないのは明らか。 サーファー達は、自転車の横にボードをつけてやって来る様子。 風景的には面白いですが、横幅を取って、狭い歩道や車道の脇を走るので、かなり、邪魔です。 また、バランスが悪くて、フラフラしてるんだわ。

  湘南には、若者達に混じって、真っ黒に日焼けした上半身を見せて、所在無く海を眺めている、結構いい歳したオッサン達が、多く見られます。 恐らく、若い頃、「湘南ボーイ」だった人達で、夏は、海辺にいないと、落ち着かないのでしょう。 しかし、腹が突き出ている男の裸というのは、あんまり、見栄えのいいものではありませんな。

  鎌倉の八幡宮の道を北へ行き、北鎌倉駅の前を通り、更に北上、最初の店である、横浜本郷台店に着きました。 ところが、入ろうと思ったら、ドアが開きません。 時間を確かめたら、まだ、9時47分で、開店前でした。 ゆとりを残して着いたのは、予定通りというより、幸運だったと見るべきでしょう。 正確に何時間かかるかなんて、分からなかったのですから。

  以降、ルート・メモだけを頼りに、怒涛のように、14軒回ったわけですが、チェーン店の同じような造りの店に立て続けに行ったので、各個の印象が残っていません。 ただの店巡りというのは、紀行文にならんのですな。 買った本は、以下の通り。


≪横浜本郷台店≫
霧が晴れた時   角川ホラー文庫
一生に一度の月  集英社文庫 新版
人間みな病気   福武文庫
出世の首     角川文庫
夜を走る     角川文庫
如菩薩団     角川文庫

≪鎌倉大船店≫
虚無回廊Ⅱ    徳間文庫
12人の浮かれる男 新潮文庫
虚航船団の逆襲  中公文庫

≪鎌倉手広店≫
将軍が目醒めた時     新潮文庫
虚航船団         新潮文庫
スイート・ホームズ探偵  新潮文庫
新日本探偵社報告書控   集英社文庫
悪と異端者        中公文庫
乱調文学大辞典      角川文庫
イリヤ・ムウロメツ    講談社文庫

≪藤沢六会店≫
無し

≪藤沢大場店≫
佇むひと          角川文庫
ポルノ惑星のサルモネラ人間 新潮文庫

≪茅ヶ崎汐見台≫
壊れ方指南 文春文庫

≪寒川大曲店≫
日々不穏 中公文庫

≪平塚四之宮店≫
日本沈没[下] 光文社文庫

≪平塚豊田店≫
復活の日 ハルキ文庫

≪伊勢原店≫
宇宙人のしゅくだい 講談社文庫

≪秦野曽屋店≫
無し

≪秦野渋沢店≫
霊長類 南へ 講談社文庫

≪足柄大橋店≫
無し

≪小田原蛍田店≫
驚愕の曠野 新潮文庫


  以上、全部で、25冊。 最初に行った≪横浜本郷台店≫で、6冊手に入ったのは、遠くまで行った甲斐があったというもの。 後半は、一軒一冊になってしまいましたが・・・。 内訳は、未読のものは少なくて、図書館の単行本で読んでいたり、別の出版社から出た文庫を、すでに持っているような本が多かったです。

  ≪鎌倉大船店≫は、デパートのような大きな建物の一階フロアに、古着や中古雑貨なども置いた、複合店舗でした。 ≪鎌倉手広店≫は、≪ワットマン≫の建物に入っていました。 ワットマンというのは、以前、静岡県東部にもあり、家電量販店でしたが、今は、一軒もありません。 なぜ、神奈川で、ブックオフが入居しているのか、見当もつかないところ。 それ以外は、普通の規模の店でした。

  行程は、ほぼ、予定通り進んだのですが、三箇所で迷いました。

  まず、≪茅ヶ崎汐見台店≫へ向かう時、国道1号を南へ越えた後、曲がる交差点を間違えて、住宅地に入り、行き止まりにぶつかってしまいました。 引き返して、信号の数を数えたら、二つ密着している所があって、一つ前の交差点が、曲がるべき所でした。 交差点に名前がついておらず、「次の次の信号」といった目安しかないと、たまにこういう事が起こります。 ロス時間、8分程度。

  次に、≪平塚四之宮店≫へ向かう時、交差点の名前を書いた標識が見えずに、曲がる所で直進して、工場区域に入り込んでしまいました。 どんどん道が狭くなるので、「こりゃ、違うだろう」と思って、かなり走って来ていたのですが、元来た道を引き返しました。 疑わしかった交差点で、標識を確認し、事無きを得ましたが、引き返さなかったら、どこへ行ってしまったかと思うと、ぞっとします。 ロス時間、15分程度。

  最後に、≪小田原蛍田店≫に向かう時、≪足柄大橋店≫を出た直後、南に行くべきところを、方向感覚が狂い、西へ行ってしまいました。 曇っていると、方角が分かり難くなるのは、よくある話。 明らかに、走っている県道の番号が違うので、「こりゃ、迷ったな」と思い、≪足柄大橋店≫まで戻って、南へ向かい直しました。 ロス時間、8分程度。

  他に、覚えている事というと、≪秦野曽屋店≫の駐車場で、ガス欠しました。 バイクを揺らして、ガソリンを送り込み、国道246号線沿いのスタンドまで走って、給油。 たまたま入ったのが、リッター154円と、安い店だったのは、幸運でした。 他の店は、軒並み、160円でしたから。 8.31リットルで、1288円。

  夕方5時に、家に帰着。 朝7時から、10時間、走り通した事になります。 特に、≪小田原蛍田店≫を出た後は、家まで、一回も、バイクを下りませんでした。 もちろん、昼飯は喰わず、飲み物も、持って行った水を飲むだけ。 雨が時折パラつく陽気で、気温が低かったのは幸いでした。 クール・スカーフをして行きましたが、無くても平気だったと思います。 箱根を越えるので、合羽の上だけ持って行ったのですが、一度も使いませんでした。

  走行距離は、240キロ。 泊りで行くツーリングの時ほどではないですが、一日に走った距離としては、相当なものです。 収穫が25冊なので、何とか、元が取れたでしょうか。 ガソリン代の正味使用分が、1000円くらいかかっているので、105円×25冊+1000円で、3625円。 それを25で割ると、一冊あたり、145円という事になります。

  ネットで買うと、一冊、251円なので、それよりは、安く買えているわけですが、私の労賃まで考えに入れると、どうなるか。 ネットで全て買った場合、251円×25冊なら、6275円かかります。 それから、今回の経費、3625円を引くと、差額は、2650円。 うぬぬぬぬ・・・、10時間走りづめで、労賃が、2650円では、割に合わないっすねー。 自分の欲求だからいいようなものの、もし、人から頼まれたのだとしたら、この報酬では、決して、やらないでしょう。