2015/02/22

濫読筒井作品⑫

  濫読三連続の最終回です。 これでまた、しばらく、筒井作品の感想ともおさらばですなあ。 実は、文庫本蒐集計画の時に手に入れた本で、感想を書いていないものが、何冊かあり、それらを取り上げるという手もあるのですが、そんな事をし始めると、80年代以前の作品については、一冊も感想を書いていないわけで、全作網羅などという事になったら、どえらい大事業になってしまうので、避けておきます。

  冗談じゃないよ。 そんな事に手を着けた日には、筒井作品だけというのも偏っているから、星新一さんや、小松左京さんのも、書く事になり、一作当たり、三行で片付けたとしても、私の残りの人生を、全て、投入しなければならなくなります。 ちなみに、感想文というのは、不思議なもので、大長編でも、ショートショートでも、感想の長さは、大差なくなります。 感想文をあまり書きたくない人は、大長編ばかり読んでいれば、読んでいる時間の方が、圧倒的に長くなるから、楽になりますな。

  ・・・いや、別に楽じゃないか。 大長編は、読むのもきついですからねえ。 なんだろね、あれは。 同じ読書でも、短編とは、取り組む時の心理が、全く違うんですな。 読むのが楽しみだから読み始めるのに、なぜか、長編は、楽しさときつさが同居しながら、最後まで進んで行くんですよ。 きついのが分かっているんだから、読まなきゃいいという気もするんですが、それを上回る達成感が待っていると思うと、ついつい、読んでしまうんですなあ。



≪現代語裏辞典≫

文芸春秋 2010年
筒井康隆 著

  筒井さんが作った辞典と言うと、≪欠陥大百科≫や、≪乱調文学大辞典≫がありますが・・・・

  という書き出しで、書き出そうと思ったら、他のブログでも、全く同じ書き出しで書き出しているところがあり、「いかん・・・、ファンや読者の考える事は、みんな、似たり寄ったりか・・・」と、がっくり来て、どてっと寝込み、立ち直るまでに、15分くらいかかりました。 いや、同じ本を読んだ感想なのだから、似たものになっても、別におかしかないんですがね。

  で、この、≪現代語裏辞典≫ですが、アマゾンで見てみると、現在、新刊で、2500円くらいします。 ≪欠陥大百科≫は、文庫本化されていないせいで、まだ、読んだ事がないのですが、百科辞典形式の随筆集らしく、242ページというページ数からみて、さほどの大著ではないと思われます。 ≪乱調文学大辞典≫は、「大辞典」とは言うものの、文庫本一冊の半分で収まるくらいですから、分量的には、全く大したものではありません。 それに比べると、≪現代語裏辞典≫は、モノホンの「辞典」でして、445ページもあります。 装丁も、パロディーの域を超えた立派さで、2500円でも、ちっとも、おかしくないように見えます。

  もちろん、ケチな私が、2500円も出すわけがなく、読んだのは、図書館の本。 しかし、読み始めると、すぐに、後悔する事になりました。 この辞典は、借りて読むのは、やめた方がいいです。 借りると、返却期限がありますから、極力、急いで読み終わらねばならないわけですが、何せ、辞典なので、急ぎ読みに向かないんですな。 私は、五日間かけて、読みましたが、根を詰めたせいで、胃が痛くなってしまいました。 もっとも、この胃痛は、小口のマーブル模様と、五日間も睨めっこし続けたからかもしれませんが・・・。 

  この本の面白さを、100パーセント堪能する為には、まず、読書環境を整えなければなりません。 新刊で買うか、古本が出るのを待ち、自分の物にしてから、一日、10ページくらいずつ、ちょぼちょぼ読んで行くのが、理想的です。 至って、「枕頭の書」向きなのです。 普通の辞典にはない、紐の栞が付いていますから、それは、つまり、「1ページ目から始めて、全てを読め」という事なんでしょう。

  逆に、普通の辞典のように、「必要な時に、引く」という使い方が出来るのかというと、たぶん、できないと思います。 コメディーの脚本家でも仕事にしていて、ネタの参考にするという人でもない限り、まーあ、そんな使い方はしないでしょう。 そういう人でも、そのまんま使えば、盗作になってしまいますから、注意が必要。 一般人でも、会話のネタ本にできない事はないですが、皮肉が大半なので、こういう事ばかり口にしていると、友人を失いそうです。 すでに、友人など一人もいないという人は、心配無用ですが、逆に、会話の機会もないわけで、やはり、ネタには使えません。

  どんな内容か、ちょっと、引用しますと、

あい【愛】すべて自分に向ける感情。 他へはお裾分け。
あいかぎ【合鍵】他人がもっている方が多い鍵。
あいがん【哀願】「殺さないでくれ」という歌をヨーデルで歌うこと。
あいけん【愛犬】いくら愛しても妊娠する心配のない相手。

  といった調子です。 「現代~」と付いていますが、例を見ても分るように、必ずしも、現代語だけというわけではありません。 見出し語は、すべて、名詞で、他の品詞は出て来ません。 形容動詞の語幹はありますが、名詞としても取れるものだけで、【華やか】とか、【静か】といったものはないです。 ざっと見て、7割が、引用例に挙げたような、「皮肉」。 2割が、「下ネタ」。 1割が、「ダジャレ」。 皮肉には、ブラック・ユーモアが多いです。 ダジャレは、オヤジ・ギャグ程度のものと、教養がないと分からないものが入り混じっています。 下ネタは、下ネタ。 全体的に見て、ジョークというよりは、エスプリ系の笑いですな。 大笑いするものもありますが、気持ちよく大笑いしたかったら、上述したように、一日に読む量を制限した方がいいです。

  筒井さんの事だから、おそらく、各項目、もっと細かく書けば、10倍くらいの量になったのではないかと思いますが、自制して抑えた形跡あり。 項目数、12000ですから、書きたい事を全部書いていたのでは、完成する前に、お迎えが来てしまいます。 おっと、「お迎え」などという言葉を使うのは、冗談でも、まずいか。 筒井さんの年齢が、微妙な領域に入って来ているからなあ。 もっとも、この辞典には、「死」をちゃかしている項目が、うじゃうじゃあるんですがね。

  「今からでも、禁煙すれば、長編一作分書くくらい、寿命が延びるんじゃないですか?」とか言われた日には、怒るだろうなあ。 「禁煙なんぞするくらいなら、5・6年早く死んだ方がマシだ!」と、握り拳で、ガラスの灰皿を叩き割るに違いない。 カート・ボネガットさんなんて、数年に一作、長編を発表するだけで、明らかに、寡作作家だったのに、晩年に、次回作について質問されると、「もう、さんざん書いて来たんだから、いい加減にして欲しい」と言っていたとか。 それに比べりゃ、筒井さんのファンは、どれだけ、幸せか知れません。 こんなにサービスのいい文豪が、かつて、存在しただろうか?

  元は、雑誌、≪遊歩人≫に、2002年から、2007年まで、その後を引き継いで、≪オール讀物≫に、2008年から、2009年まで、連載されていたもの。 朝日ネットの筒井さんの会議室に集った、42人の協力者から、2200項目分のアイデアを提供されたとの事。 ただし、複数の人間が書いたようなバラツキは感じられないので、そのまま使っているわけではないと思います。

  何度も書くようですが、一日に読む分量を控えさえすれば、大変、面白い本です。 この、人を喰い散らかした内容で、辞典の体裁をほぼ完璧に備えた本が完成し、実際に出版されたというのが、奇跡的。 「奇書」というのは、このような本の事を言うのでしょう。 私も、古本で、値段が下がって来たら、買うつもりでいます。 文藝春秋社だけど、文春文庫には、ならんだろうなあ、たぶん。 もし、なったとして、コンサイスなどと同じ、ペラペラの紙で作ったら、面白くなりそうです。

  ところで・・・、筒井さんのファンなら、思いつきそうな事ですが、

「≪舟を編む≫のパロディーで、映画化して下さい」

  とか、言うなよ。

「タイトルは、≪泥舟を塗る≫なんて、どうでしょう?」

  なんて、狸も鼻で笑うアイデアは、端から要らんぞ。

「もちろん、監修者の学者役は、筒井さんが演じるという事で」

  あああ、それを言い出されるのが、一番怖いのだ! この期に及んで、主演級で、映画出演などされたら、今後の作品数が減ってしまうではないか!

「わしは、この辞典の完成に、命を懸けとるんじゃ!」

  と、握り拳で、ガラスの灰皿を叩き割るカットを、予告CMのラストで使えば、確かに、大入りするとは思いますが・・・。



≪わかもとの知恵≫

金の星社 2001年
筒井康隆 著
きたやまようこ 画

  わかもと製薬が、戦前から戦中にかけて、「錠剤わかもと(強力わかもと)」の付録として発行していた、≪重宝秘訣読本≫という、生活の知恵を集めた小冊子があり、子供の頃、それを読んで、便利な知識を多く得た筒井さんが、「今の子供にも、そういう本があった方がいいだろう」と考えて、エッセイに書いたところ、それを読んだ、児童書の出版社が、「出しましょう」と持ちかけて来て、実現した本。 ≪重宝秘訣読本≫を元にして、筒井さん自身が体験で得た知恵も書き加えた内容になっています。

  221ページで、全六章。 例として、各章、一つずつだけ、項目の見出しを出しますと、

【健康編】 出そうなあくびを止める知恵
【食べ物・飲み物編】 へやのいやなにおいを消す知恵
【身のまわり編】 ぬれたくつをかわかす知恵
【屋外編】 草木や切り株で方角を知る知恵
【つきあい編】 好きな人に話しかける知恵
【遊び・勉強編】 ジャンケンの勝率をあげる知恵

  全部で、100項目くらいあり、大人でも、使えるものが、かなり含まれています。 子供なら、読んでいる内から、そわそわして、試してみたくて仕方なくなるのではないでしょうか。 昨今の流行では、「科学手品」に似たようなところもありますが、こちらは、見た目の面白さではなく、実際に役に立つという点が、特長です。

  大人であっても、社会に出てから、他人に比べて、知らない事が多いのを思い知らされ、劣等感に苛まれているという人は、この本を読んでおけば、多少は、生きる事に自信を持てるようになるでしょう。 小学生の頃、クラスに必ずいた、「頭がいい子」と、「馬鹿な子」の違いは、とどのつまり、「知っているか、知っていないか」の違いなのです。 知能の差というのは、子供の頃には、あまり目立ちませんから、知識量の差で、勝負がついてしまうんですな。

  ちなみに、私は、小学生の頃、知能指数テストでは、学校ダントツでしたが、知識がなかったせいで、つきあっていた優等生グループと比較され、常に、馬鹿扱いされていました。 知能指数テストの結果は、当人には知らせてくれないので、私自身、自分の事を、ずっと、馬鹿だと思っていたのですが、何年か後になって、教師から聞いたという、別の生徒の話で知った次第。 別に自慢話をしているわけではなく、つまり、知能だけあったって、知識がなければ、何の役にも立たないという事を言いたいのです。

  筒井さんの知能指数は、子供の頃から、半端でなく高かかったそうですが、同時に、知識もふんだんに得られる環境にいたのが羨ましいです。 まあ、私の親みたいに、子供が、「本が欲しい」と言っているのに、「自分の小遣いで買いな」で済ませてしまうようでは、大成は望めませんわな。 そういや、私が小学生の頃ですが、友人だった優等生の家へ行くと、壁一面の本棚に、ぎっしりと、絵本や児童書が並んでいましたよ。 彼の親は、どうやれば、子供に知識を与えられるか、分かっていたんでしょう。


  本の話に戻りますが、はっとするものもある一方で、「子供に、こういう事を教えない方がいいのでは?」と思うものも、ごく僅かですが、混じっています。 「犬にほえられたときの知恵」は、ちと危ないです。 深呼吸するより、犬が入って来られない所へ逃げた方がいいと思います。 「相手の名前が思い出せないときの知恵」も、かなり際どい。 相手の立場になってみると、名前を忘れられるのと、別人と間違われるのと、どっちがマシかという事になり、私の感覚では、どっちも大差ないような気がします。

  「いやなことを言う人からにげる知恵」は、ミイラ獲りがミイラですな。 その後、そいつとは会わないというのなら、使えますけど。 「いじめからのがれる知恵」は、編集者が添えている、「レポート」でもツッコまれていますが、大人っぽく見せる為に、異性の友人を作るというのは、自力でいじめから逃れるのと同じくらい、至難の業ではないかと思います。 顔がいい筒井さんだから、容易にできたのではないですかね?

  「つかれたとき『強力わかもと』を飲む知恵」も、どんなものかと・・・。 別に、嘘を書いてあるわけではないのですが、栄養剤というのは、他の銘柄もあるわけで、特定の商品だけ薦めるというのは、ちょっとねえ。 子供の場合、ジョークや洒落とは受け取らないんじゃないでしょうか。 真に受けてしまう子供と、「大人の事情だな」と取る子供がいると思いますが、後者の信用を失って、他の項目の知恵まで、疑われてしまうかも知れません。 栄養剤全般にしておいて、例として、「強力わかもと」を挙げた方がよかったんじゃないですかね。

  各ページに付いている、編集者のコメントには、「レポート」と、「おためし隊」がありますが、どちらも、本文に対する、ツッコミのように読めます。 「おためし隊」というのは、紹介されている知恵を、実際に試してみて、その結果を報告しているのですが、「これこれの条件であれば、うまく行く」といった、「限定」をかける内容が多いです。 しかし、これは、筒井さんの方から、「各知恵は、必ず、試してみて」と頼んだらしく、別に、ケチをつけているわけではない様子。

  この本の価値を高めているのは、きたやまようこさんの絵でして、この方に頼んだのは大正解ですな。 絵本作家なのですが、大変やわらかいタッチの、やさしい絵を描く人で、犬やウサギが、実に可愛らしいです。 本文と関係なく、独自のオチがある漫画になっているものも多く、絵を見るだけでも、充分に楽しい。 大人だと、どんなに可愛い絵でも、絵本を買うのはためらわれますが、この本なら、堂々と買えるから、ありがたいですな。

  本文は、ひらがなが多いですが、文体自体は、別に、子供向けに易しくしてあるわけではなく、筒井さんが、随筆などに使う文体と、さほど変わりません。 語尾だけ、少し丸めたという感じ。 各章末に、筒井さんと、きたやまさんの対談が載っていて、そこは、普通の喋り方を、普通の漢字かな配分で起こしてあります。 この対談、筒井さんの東京の自宅で行なわれたそうで、写真が出ていますが、すげー家です。

  ちなみに、私は、この本を、古本で買いました。 文庫本版は、まだなくて、買ったのは、単行本です。 カバーが変色していたせいか、70円でした。 たぶん、図書館にもあると思いますが、児童書コーナーに置いてあると思うので、お間違えなきよう。



≪大魔神≫

徳間書店 2001年
筒井康隆 著

  小説ではなく、シナリオです。 戯曲でも、脚本でも、シナリオでも、セリフとト書きだけの文章は、小説に比べて、読み難いものですが、これは、例外と言えます。 読み物として、楽しめるように、ト書きを丁寧に書いてあるからでしょうか。 ところで、「脚本」、「シナリオ」、「台本」の区別は、演劇門外漢の私には、分かりかねます。 「シナリオ」は、映画だけ? テレビでは、「台本」の方をよく聞きますな。 書く側と、使う側で、呼び方が違うという話もあり。 単に、「本」と呼ばれる事もあるようですが、それは、全部含んだ、マルチ語なのでしょう。 「戯曲」というのは、脚本形式で書かれた文学の事だそうです。

  ≪大魔神≫と言えば、1966年に大映が作った、半ば伝説化している映画ですが、なぜ、筒井さんが、2001年に、そのシナリオを単行本にして出したのか、本自体には、何の説明もされていないので、さっぱり分かりません。 前書きも、後書きも、編集者による解説もないのです。 不親切極まりない。 で、やむなく、ネット情報に頼ったのですが、案の定、曖昧模糊としていたものの、何となく分かった事というと、どうも、1990年代の後半に、リメイクの話が出て、筒井さんが、シナリオを書いたらしいのです。 ところが、その企画がポシャったせいで、シナリオが宙に浮いてしまい、2000年に雑誌に掲載された後、2001年に、単行本化されたというんですな。

  とりあえず、その情報を信用するとしても、大映の方から注文したのか、筒井さんの方から提案したのか、そこが、はっきりしません。 どちらにせよ、大映との間で、ある程度、話が固まってから、執筆されたものと思われます。 筒井さんは、筋金入りの映画好きなので、≪大魔神≫のリメイクと聞けば、乗り気になったと思いますが、実際にリメイクされるかどうか分からない段階で、こんな完成度の高い仕事に、手をつけないと思うからです。

  ≪大魔神シリーズ≫には、いずれも、1966年に作られた映画が、三作あるのですが、基本的な設定は同じです。 戦国時代、領主が領民を苦しめている土地が舞台。 領主が、人里離れた所にある、巨大な埴輪形の武神像を破壊しようとすると、武神像が、大魔神に変身して、領主始め、悪人どもを殺しまくるという話。 怪獣映画で培われた特撮技術と、時代劇が組み合わされたところが、今の目で見ると珍しく見えますが、昔は、忍術映画というのが、一ジャンルを築いていて、そちらでも、特撮は使われていたので、≪大魔神≫のアイデアは、革命的というほどではありません。 やはり、このシリーズの面白さは、大魔神が、水戸黄門や、剣豪ごときの比ではない、超自然の圧倒的な力を振るうところにあります。

  このシナリオは、リメイク用ですから、映画三作、いずれの話とも、中身が違います。 時代は、少し後になって、江戸時代の初頭。 公儀の隠密として、服部半蔵も出て来ます。 悪党は、領主ではなく、家老の一人で、商人と結託して、領民に、ねずみ講を流行らせる一方、火縄銃を密造して、他藩に売り、私腹を肥やしています。 領主は名君で、もう一人の家老と、その息子の三人で、善玉を構成しています。 悪い家老にも、息子を用意し、息子同士で、姫の婿の座を競わせるという、非常に分かり易い、対立の構図。 他に、無理やり働かされている鉄砲鍛冶と、その子供二人、ねずみ講に踊らされる村人などにより、群像劇が繰り広げられます。

  登場人物が多いので、小説だったら、ゴチャゴチャしてしまうと思いますが、映画なら、全く気にならず、むしろ、このくらい出て来ないと、スカスカになってしまうでしょう。 例えば、小説で、10人の人間の風体を描き分けるのには、何十行もかかりますが、映像作品では、一カットで済みます。 小説と映画では、情報伝達の方式が、根本的に違うんですな。

  数十年ぶりのリメイク版になる予定だったわけですから、あまり、突飛な話にしてしまっては、昔のファンを怒らせてしまうのであって、その辺は、気を使ったのではないでしょうか。 ただ、「突飛な話でないのなら、わざわざ、筒井さんに頼む理由もなかったのでは?」と思わんでもなし・・・。 会社専属の脚本家でも、こういうのが書けないという事はないでしょうに。 つまりその、話が纏まり過ぎていて、些か、筒井さんらしくないんですな。

  穿った見方をして、「メタなのでは?」とも、思ったのですが、映画会社が、メタに乗ってくるとは、到底思えないので、それは、深読みのし過ぎでしょう。 そんな事を考えていると、また、ふり出しに戻って、「このシナリオは、どういう経緯で書かれる事になったのだろう?」と、首を捻ってしまうのです。

  この本、私は、ネット通販の古本で買いました。 300円。 届いたら、思いの外の美本で、帯付きでした。 帯の裏や、カバーの裏にも、イラストが入っています。 ここまで凝るなら、書かれた経緯も、ちょっと触れてくれればよかったんですがねえ。 徳間書店の単行本ですが、果たして、徳間文庫に入るのかどうか・・・。 すでに、14年も経っているわけで、入れる気なら、とっくに入れているかも。



≪偽文士日碌≫

角川書店 2013年
筒井康隆 著

  小説ではなく、筒井さん自身の日記。 どうやら、ブログに掲載されたものを、単行本に纏めたもののようです。 記されている期間は、2008年6月27日から、2013年1月9日まで。 つまり、東日本大震災や、小松左京さんの他界なども、間に含まれているわけです。 ただし、どちらも、ほんのちょっと触れてあるだけですが・・・。

  この期間内に書かれた、筒井さんの作品は、≪ビアンカ・オーバースタディ≫、≪現代語裏辞典≫、≪アホの壁≫、≪漂流≫、≪聖痕≫、≪繁栄の昭和≫、≪創作の極意と掟≫と、今回、私が濫読した本の、ほとんどが含まれています。 書いている側の楽屋裏が分るわけですが、私が読んだ順番としては、この本が最後になったので、裏話を全く知らずに、感想文を書いてしまいました。 しかし、今更、書き直すのも、大変なので、そのままにしておきます。

  内容は、東京と神戸の家を行き来する、生活パターンの事。 どちらの家にも、息子さんの一家が、よく訪ねて来る事。 お孫さんの事。 旅行の事。 出演しているテレビ番組の事。 執筆中の作品や、出版する本の事。 朗読会の事。 他に、時事ニュースに対する意見など。 対象に関わらず、元がブログ記事であるせいか、突っ込んで書いている文章は、ほとんどありません。


  実は私、この本を、2014年の7月上旬に、一度借りて来ているのです。 沖縄旅行が迫っていたので、その時は、感想文を書く気が起こらず、読んだだけだったのですが、同じ時に借りて来た、≪ビアンカ・オーバースタディ≫と、≪聖痕≫の方は、しっかり記憶に残っているのに、この本の内容だけ、すっかり打ち忘れてしまって、全く思い出せませんでした。 当時の、私の日記を調べてみると、簡単な感想が書いてあって、

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 ≪偽文士日碌≫を読むが、ほとんどが、ただ起こった事の記録であり、興味が湧かないので、どんどん飛ばして、1時間もかけずに、閉じてしまった。
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  と、あります。 つまり、ほとんど、読んでいなかったわけです。 道理で、記憶に残っていないわけだ。 納得納得。 で、今回、半年ぶりに、借り直して、再挑戦してみたのですが・・・・。 すいません。 また、負けました。 読めんのですわ。 100ページくらい行くと、自然に、飛ばし読みになってしまいます。 これは、どうした事でしょう? 別に、難しい事が書いてあるわけではなく、筒井さんの随筆と比べても、ずっと平易な内容なのですが、なぜか、目が文字にくっついて行きません。 で、結局、後ろの方は、興味のあるところだけ、パラパラ読みになり、またもや、1時間で終わってしまったのです。

  なぜなのかと考えるに、やはり、元がブログ記事だというのが、問題なのではないかと思います。 素人のブロガーは、ブログ記事が本番の晴れ舞台なので、手を抜いたりしないのですが、プロの作家の場合、作品を発表する本番は、雑誌掲載や、単行本・文庫本ですから、ブログをやっていたとしても、そちらで本気を出すような事はないんですな。 「このネタは、作品にできるかも」と思うと、ブログには書きませんから、面白そうな話は、出しませんし、出したとしても、ほんのちょっとで、発展させません。 だから、どうしても、ブツ切りの盛り合わせみたいな文章になってしまうのです。

  以前、万城目学さんの随筆集の感想で書きましたが、ネットに、ブログというメディアが登場して以来、プロの作家の随筆は、価値がドーンと落ちてしまいました。 「こういうものなら、一般人でも書ける」と思われるようになってしまったわけです。 作家だからといって、年がら年中、変わった体験をしているわけではないのであって、ネタのバラエティーは、素人と条件が同じだからです。 随筆ですら、そんな有様ですから、日記では、尚の事なのであって、よほどのファンでなければ、この本に最後まで、つきあえないのではないでしょうか?

  いや、ブログ掲載時に、リアル・タイムで読んでいた人達は、別段、苦もなく、というか、むしろ、楽しんで読んでいたと思うのですよ。 しかし、単行本に纏められたのを、立て続けに読むとなると、非常に厳しいのです。 読み方の問題ですかね? この本も、≪現代語裏辞典≫同様、借りるのではなく、購入して、一日の分量を決め、少しずつ読んで行くべきなのかもしれませんな。 もっとも、結局は日記なので、完読したとしても、≪現代語裏辞典≫ほどの達成感は得られないと思うのですが。


  私は、1980年代前半頃に、筒井作品に嵌まり、【五郎八航空】や【農協月へ行く】などで、悶絶寸前まで爆笑した世代ですが、その頃の筒井さんは、自作について、裏話を書く事が、ほとんどなく、「謎めいた天才」のように思われていました。 私だけでなく、その頃にファンになって、現在に至るまで、付かず離れず、作品を読み続けて来た人は、たくさんいる事でしょう。 そういう世代からすると、あまり、裏話をして欲しくないような気もするのです。 読者は、作品になら、いくらでも近づけますが、裏話をいくら聞いても、作家本人に近づくのには、限界がありますから。

  この本を、「面白くて仕方ない」、「一字一句、貪るように読んだ」という人がいるとしたら、それは、筒井さんの事を、仕事も私生活も、何から何まで、全て知り尽くしたい人だと思います。 しかし、そういうのは、熱心さを通り越して、怖いような気がせんでもなし。 そういや、ストーカー化して、東京の筒井邸に押しかけて来た青年の話も、この本の中に出て来ますが・・・。

  どうも、私には、作家本人に会いたいという読者の気持ちが分りません。 そんな事をしたら、創作活動の邪魔になって、読める作品が減ってしまうではありませんか。 会う事で、自分が作家に、何かいい影響を与えられると思っているのだとしたら、おこがましいにも程があろうというもの。 だからよー、一人の作家の作品ばかり読んでいないで、他の人のも読めよ。 相対的な見方ができるようになれば、そんな危険な穴に嵌まらなくて済むんだから。 面白い本は、他にも、あるって。 まず、≪漂流≫を読むべし。

  サイン会ですら、違和感がある。 筒井さんの書く小説には、千金の価値がありますが、サインには、そのサイン一枚の価値しかないですぜ。 それを量産する為に、貴重な時間を浪費するのは、あまりにも惜しい。 そういう仕事は、ポータブルのアーム型ロボットにでもやらせておけばいいでしょうが。 筒井さん本人は、タバコでも吸いながら、サイン会に来るやつらの観察をしていれば、無駄な時間になりません。 言うまでもありませんが、一番いい読者というのは、作品の質以外、何も求めず、黙って、本を買ってくれる人でして、サイン会に押しかけるような人達は、似て非なるファンと言うべきでしょう。



  以上、4冊です。 ところで、2008年以降、今までの間に、筒井作品で、映像化されたものが、いくつかあったので、その内、見たものだけ、ちょっと、感想を書いておきます。



≪七瀬ふたたび≫

NHK 2008年
演出 笠浦友愛・松浦善之助・吉川邦夫・陸田元一
脚本 伴一彦・真柴あずき
主演 蓮佛美沙子

  NHKは、≪七瀬ふたたび≫が好きらしいですな。 もっとも、1979年の時とは、スタッフの顔ぶれが、全く違っていると思いますけど。 2008年版の方も、もう随分、経っているので、記憶が薄くなってしまいました。 原作とは、だいぶ、変えてありましたが、悪い印象がないところを見ると、ドラマの出来自体は、まあまあ、良かったのだと思います。

  話の内容より、規格型でない美人の、蓮佛美沙子さんの魅力で、押し切っていた感がありましたな。 そいうや、柳原可奈子さんも出ていましたねえ。 男性陣で、若い人達は、ほとんど、覚えていません。 市川亀治郎(現・猿之助)さんが、刑事役をやっていて、現代ドラマで見たのは初めてだったのですが、セリフが聞き取り難かったものの、何とも言えぬ、独特の存在感があり、≪風林火山≫で、0点つけていたのが、一気に、95点くらいまで跳ね上がった事で、記憶に残っています。

  原作が暗い話である上に、続編が存在するという事情があり、ドラマの方で勝手に、明るい雰囲気に変えたり、ハッピー・エンドにしてしまうわけにもいかず、暗いまま終わっていましたが、やっぱり、後味はよくありませんなあ。 なぜ、原作の三部作が、ロング・セラーを続けているのか、そちらが不思議です。

  そういや、エンディングの映像が、綺麗だったなあ。 だけど、火田七瀬という人物は、あんな透明感全開のイメージで描くほど、純なキャラじゃないですよねえ。 まして、≪家族八景≫の後なわけだから、世の中の醜いところを、こらしょと見て来ているわけであって、尚の事・・・。 人間でも、エスパーでも、一度、現実に醒めてしまった人格というのは、もう、元には戻らんものですぜ。



≪家族八景 Nanase, Telepathy Girl's Ballad≫

毎日放送・TBS 2012年
演出 堤幸彦・白石達也・高橋洋人・深迫康之・藤原知之
脚本 佐藤二朗・池田鉄洋・前田司郎・江本純子・上田誠
主演 木南晴夏

  深夜放送だったから、筒井さんの読者でも、放送している事を知らなくて、見なかった人が、結構いたのでは? 原作者や監督のネーム・バリューで話題になりそうなドラマを、深夜に放送する場合、もっと早い時間帯に、番組宣伝のCMを打っておかないと、綺麗あっさり、見逃される危険性が高いです。 当たり前の事ですが、普通に働いている人は、深夜は、眠っているわけで、番組の存在を知らなければ、予約録画もできないのが道理。 ネットの宣伝効果なんて、ほとんどないですから、テレビ関係者は、その辺の事を、肝に銘じておいた方がいいと思います。

  堤幸彦さんは、≪トリック≫や、≪SPEC≫など、名シリーズを生み出した人。 木南晴夏さんは、堤監督の、≪20世紀少年<第2章> 最後の希望≫で、ヒロインの、風変わりな友人役を演じた人。 と言っても、伝わらんか。 画像検索で、顔を見れば、「ああ、この人か」と分かります。 顔立ち的にも、キャラ的にも、個性派です。 ≪七瀬ふたたび≫や、≪エディプスの恋人≫だと、イマイチ、イメージが合いませんが、≪家族八景≫の七瀬なら、なぜか、しっくり来ます。 メイドが似合う顔ってあるんだなあ。 巫女さんや、占い師なんかも、滅法、似合いそうですが。

  深夜ドラマとは思えぬ、凝った作りで、服装や家具・小道具まで、厳密と言うほどではないですが、何となく、原作が書かれた頃に合わせられていました。 ところが、70年代初頭ですから、まだまだ、日本社会全体が貧しい。 勢い、時代の貧乏臭さを引きずってしまうドラマになり、あまり、いい印象は残っていません。 ≪家族八景≫は、≪七瀬ふたたび≫に比べれば、原作の暗さは、それほどでもないのですが、暗さの代わりに、貧乏臭さが入ってしまったんですな。 どうも、七瀬シリーズは、映像化と相性が宜しくないようです。

  原作にある話は、ほぼ、原作通りに作られています。 登場する家族の心象を表す為の奇妙な演出もあるのですが、基本的なストーリーを阻害する程ではないです。 追加された話が二話あり、その内の一話が曰く付き。 筒井さんをモデルにした小説家が出て来るのですが、悪ノリしたパロディーを入れたせいで、筒井さんを怒らせて、駄目出しを喰らったという経緯が、≪偽文士日碌≫の中に記されています。 「もう、撮影してしまった」と泣いていたのを、見兼ねた筒井さんが、「小説家を、脚本家に変えればいい」と入れ知恵してくれたお陰で、音声だけ変えて乗り切ったのだとか。 うーむ、原作者というのは、時に、弱いようで、時に、強いのだなあ。

  総体的に見て、完成度は高いにも拘らず、いいドラマと感じられないのは、人の心の醜いところだけを抉っているからでしょうかねえ。 それは、原作も同じなんですが。 不思議なもので、同じSFでも、人類滅亡なんて話だと、未来的な感じがして、カタルシスを覚えるのに、テレパシストが、日常的な人間心理の醜さを垣間見る話になると、絶望的な気分に覆われて、げんなりしてしまうのです。 そういや、藤子・F・不二雄さんの、≪エスパー魔美≫にも、そういった暗さがありましたっけ。



≪走る取的≫
【世にも奇妙な物語'14 秋の特別編】

フジテレビ・関西テレビ 2014年
演出 岩田和行
脚本 高山直也
主演 仲村トオル

  おお、これは、頂上。 ≪走る取的≫のファンは、多いと思いますが、とうとう、映像化されたんですなあ。 しかも、ほぼ、原作通りです。 主人公が力士を嫌っている理由について、ちょっと、余計な設定がくっついていましたが、まあ、あの程度なら、見なかった事にしましょう。 【世にも奇妙な物語】には、以前、≪鍵≫を、ぐじゃぐじゃにされた苦い思い出がありますが、原作が、文句なしの名作の時には、つまらん小細工はせずに、そのまま映像にしてくれるのが、一番ありがたいです。

  で、原作通りだったのは、いいんですが、このドラマ、なぜか、原作に漲っている、あの緊迫感が伝わって来ません。 なんでだろう? ≪走る取的≫から、緊迫感を除いたら、ただの鬼ごっこになってしまうのですが、まさに、そうなってしまっているのです。 仲村トオルさんのキャラの影響ですかね。 親しみ易いイメージが強いせいで、なんだか、大人が追いかけっこして遊んでいる、コメディーのように見えてしまうのです。

  筒井さんの小説は、みんな、コメディーだと思い込んでいる人もいるかも知れませんが、とんでもない! もちろん、≪走る取的≫は、コメディーじゃないですよ。 読んでいて、笑いが込み上げて来るかもしれないけれど、それは、度を超した理不尽さ故に、笑う以外の反応が出ないのであって、コメディーの笑いとは、全く別物です。 映像化する場合、シリアスに徹しなければ、笑いの質を再現する事はできません。 もっと、ニコリともしない、ふてぶてしくて、憎たらしいイメージの俳優さんを連れて来れば、追い詰められるに連れ、恐怖が次第に盛り上がっていく様子を、うまく、表現してくれたんじゃないかと思います。


  ところで・・・、≪走る取的≫や、≪乗越駅の刑罰≫を読んで、全身が凍りつくような感覚を味わい、とりわけ、≪走る取的≫を、神がかり的な傑作として、筒井作品の筆頭に挙げるファンが、少なからずいるわけですが・・・、ちょっと待った。 まあ、落ち着きなされ。 とりあえず、何も言わずに、

フランツ・カフカ ≪審判≫、≪城≫
安部公房 ≪砂の女≫

  の、三冊を読みなさいな。 それらと比較した上で、≪走る取的≫のどういう点が優れているかを分析し、人に話すようにした方がいいです。 不用意に絶賛すると、読書歴の底の浅さを見透かされてしまう事になります。

2015/02/15

濫読筒井作品⑪

  うーん、楽だなあ。 10冊読んで、全て感想を書いてしまった後で、ブログに出し始めたから、この三週間は、感想文を書き込んであるテキストから、こちらに移植し、前書きと、後書きを書くだけで、10分もあれば、作業が済んでしまいます。 本でも、映画でも、感想文が一番、楽ですよ。 ブログの記事としては。 いや、あくまで、「もう、書いてあれば」の話ですがね。 これから書くのなら、それは、大変。 胃が痛くなります。

  作家の方は、「感想文ごときで、何が胃痛だ! こっちは、作品を書いているんだぞ!」と思うでしょうが、まあまあ、冷静になろうじゃありませんか。 こちらは、無報酬で書いているんですよ。 原稿料や印税という、ご褒美がある方々とは、モチベーションの度合いが違います。 私の場合、アフィリエイトも入れてないし。 唯一の利益は、暇潰しになるという事だけ。 本来、暇潰しであるにも拘らず、苦痛を感じるのは、なぜでしょう? 本を読むだけなら、楽しいんですがねえ。



≪ビアンカ・オーバースタディ≫

星海社FICTIONS
星海社 2012年
筒井康隆 著
いとうのいぢ イラスト

  筒井さんが、初めて書いた、ライト・ノベル。 しかし、まだ、ライト・ノベルというジャンルが認定されていなかった頃なら、SFジュブナイルという形で、何作も書いています。 ≪時をかける少女≫も、その一つ。 昔の事はさておき、あとがきによると、ライト・ノベルは、これ一作で終わりにするそうですが、その理由が、「もう、77歳で、根気がなくなっている」からとの事。 しかし、この後で、段違いに根気の要る、≪聖痕≫など書いているところを見ると、ラノベのストーカー的読者を遠ざける為の、もっともらしい言い訳である可能性が濃厚です。

  一冊で一作品、180ページほどです。 紙が薄いのか、ページ数の割に、厚みのない本ですが、これ以上長くなると、ラノベの読者は、買ってくれないのかもしれませんな。 「長くするなら、二冊に分けて、シリーズ化しろ」とか、手前勝手な事を言い出すかも知れぬ。 書名ですが、「ビアンカ」というのは、主人公の女子高校生の名前。 イタリア語で、意味は、「白」の女性形。 男性形は、「ビアンコ」。 「オーバースタディ」は、「勉強し過ぎ・研究し過ぎ」。 「overstudy」は、動詞として使われる方が普通のようですが、この場合、名詞でしょう。

  ちなみに、実際の発音は、「オーバースタディー」だと思います。 「over」を、「オーヴァー」にしなかったのは、いいとして、作者・編集者ともに、「スタディー」を、「スタディ」と書いた方が、カッコいいと思っているのは明らかです。 だけど、二人とも、口に出して読む時には、「スタディー」って、言っているんでしょう?  ≪ダンシング・ヴァニティ≫の時にも指摘しましたが、『スタディ』と書いて、「スタディー」と読めと言うなら、んーじゃー、「スタディ」は、どう書くのよ? 区別がつけられんではないですか。 カッコ悪くても、洒落ていなくても、正確に表記しようと思ったら、『スタディー』と書くしかないんですよ。

  全く、悪い風潮です。 英語には、長音・短音の区別がありませんが、日本語には、厳然と存在し、極めて重要な、「単語の弁別」に使用しているのですから、それを無視していたら、日本語の体系そのものが、ぐじゃぐじゃになってまいます。 道路の案内標識に添えてある、ローマ字表記にも、長音を短音で書いてある物がありますが、そんな標識に従っていたら、「小山」に行きたいのに、「大山」に着いてしまいかねません。 「どこやねん、ここ?」

  割り切りに割り切って、「日本語なんざ、その内、滅びてしまうのだから、ぐじゃぐじゃになったって、構やしない」と考えれば、気にもならなくなりますが・・・、私はもう、後は死ぬだけだから、それでもいいですが、他の人達は、それでいいのかい? 長音と短音の区別がなくなったら、名前を正確に呼ばれなくなる人も出て来ますが、それでいいのかい? 「高坂さん」が、「小坂さん」になってしまってもいいんかい? 私ゃもう、知らんよ。 まあ、そんな事は、作品の中身とは、関係ないから、このくらいでやめておくとして・・・。

  話は、生命科学とタイム・トラベルを題材にしたSFです。 未来人が、現代にやって来るという点で、≪時をかける少女≫と、基本的なアイデアは同じなんですが、主人公のキャラも、ストーリー展開も、まるで違っていて、指摘されなければ、両者の類似に気づかない人もいると思います。 ≪時をかける少女≫は、SFに恋愛を絡めてありますが、この作品は、SFにエロを絡めてあります。 いや、正確に言うと、エロのパロディーなんですがね。

  筒井さんは、≪時をかける少女≫を、自分らしくない作品と考えていて、自分らしくない作品が代表作とされてしまっている事に、積年の不満があり、大林宣彦版の映画が大ヒットした時、密かに怒りが爆発して、わざわざ、≪シナリオ・時をかける少女≫という短編を書き、少女小説的恋愛SFの世界に惑溺している読者に、「この色ボケどもが! 目を覚ませ!」と、水をぶっかけたものの、ほとんど、効果がなく、開き直って、テレビ・ドラマ版に自ら出演して、何とか馴染もうとしたものの、やっぱり、自分の作品らしくない事が許せないまま、悶々としていたところ、2006年にアニメ化されて、またぞろ人気が盛り上がってしまったせいで、再度ブチ切れ、今度こそ、≪時をかける少女≫の息の根を止めるべく、芳山和子の対極とも言えるキャラ、ビアンカを創造したのではないかと思われます。 あー、いや、これは、私の想像なので、遠からずといえども、当たってはいないかも知れませんが。

  実際に読んでみると、出だしは文句の付けようがない傑作。 章が変わるたびに、描写の繰り返しが出て来るのも、純文学風で洒落ています。 先輩の正体が分かる辺りまでは、ワクワクしながら、読めます。 ただ、妹のロッサが出て来ると、ビアンカの存在感が薄くなり、少し、水っぽくなります。 あとは、後ろの方へ行く従い、冗長な展開となり、筒井さんの長編によくある、緊迫感に欠けた最後の戦いに向かって行きます。 むしろ、未来なんぞ行かせずに、ビアンカが作った人間蛙の顔が、何人もの男達に似ている事にして、ビアンカを慕っていた男が愕然とするようなオチにすれば、うまく纏まったのに。

  どうも、筒井さんは、長編になると、クライマックスで話を盛り上げるのが苦手なようです。 冒険小説の類なら、数え切れないほど読んでいると思うので、盛り上げ方を知らないなどという事はありえませんから、もしかしたら、わざと、月並みなクライマックスを避けているのかもしれません。 そのせいか、作品が映像化されると、勝手に、違うラストを付けられてしまう事が多いです。 映像作品は、小説ほど、自由ではありませんから、致し方ないところ。

  ビアンカと、補色関係にあるキャラで、耀子というのが出て来るので、妹のロッサは要らないのではないかと思うのですが、≪時をかける少女≫の、芳山和子に妹がいるので、それに準えたか、さもなければ、「美少女キャラを、もっと出して下さい」と、編集者に頼まれたかのどちらかではないでしょうか。 アニメでは、意味もなく、美少女キャラばかり増やして、声優のファンを当てにする、悪い風潮がありますが、ラノベでも、似たような事情があるのかも知れません。 ちなみに、「ロッサ」というのは、イタリア語で、「赤」の女性形。 男性形は、「ロッソ」。

  エロではなく、エロのパロディーだと考えられるのは、ビアンカ自身が、全然、性交渉に興味がないからです。 理系の研究馬鹿なんですな。 生物としてしか、男を見ていないので、恋愛感情など発生する余地は、全くありません。 この作品が、≪時をかける少女≫と正反対の価値観で書かれたのは、この点からも、確実です。 ビアンカから、恋愛を連想する男性読者というのは、まず、いないでしょう。 どんなに美女であっても、自分の事を、ヒトのオスとしてしか見ていないのでは、恋愛相手にならんわなあ。 もしかすると、ビアンカの性格のモデルは、動物学者だった、筒井さんのお父さんではありますまいか。

  このキャラでは、少なくとも、男性のファンはつかないでしょうねえ。 女性で、同性愛の傾向がある人なら、あるいは、ビアンカのようなキャラに憧れる場合があるかも知れません。 もっとも、ビアンカは、女を見ても、ヒトのメスとしか思いませんから、同性愛に目覚める事も考えられないわけですが。 とことん、恋愛から遠ざけてあるわけですな。 これなら、続編を望む、ストーカー的ファンも発生しないかもしれません。


  この本、結構売れたわけですが、イラストの力も大きかったと思います。 いとうのいぢさんというのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫のイラストを描いた人。 そもそも、筒井さんが、この企画に乗ったのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫を読んで、ラノベにも、レベルが高い作品があると知ったのがきっかけだったそうで、イラストレーターは、余人を以て代えられなかったわけですな。

  この表紙絵に惹かれて、本を買った、思春期真っ只中の青少年諸君よ。 十中八九、オナペットにして楽しもうと試みただろうが、思いの外、興が乗らなかっただろう。 それには、理由があるのだよ。 上述したように、ビアンカのキャラが、性的興味の対象にされるのを撥ねつけているからなのだよ。 また、この、いとうのいぢさんの絵が、デフォルメがきついのよ。 頭と脚だけ、妙に存在感が強くて、上半身なんか、ひょろひょろ。 Hゲームの巨乳キャラを見慣れた目じゃ、「可愛い」から先には、一歩も進めまいて。 残念だったな。



≪聖痕≫

新潮社 2013年
筒井康隆 著

  元は、2012年から2013年にかけて、朝日新聞に、連載されたもの。 あれ? ≪漂流≫の単行本は、朝日新聞出版から出ているのに、同じ、朝日新聞に発表されたにも拘らず、なぜ、こちらは、新潮社で、単行本になったのでしょう? 解せんな・・・。 まあ、いいか。 新潮から、単行本が出ていれば、いずれ、新潮文庫で出るでしょうから、基本的に、文庫しか買わない私にとっては、都合がいいです。

  私は、連載開始当初、新聞紙上でも、読んでいたんですが、予想していたより、遥かに中身がありそうなので、「こりゃあ、ぶつ切りに読んでいると、忘れてしまうぞ。 単行本になってから、じっくり読んだ方がいいわ」と思い直し、新聞の方はスルーして、毎日、挿絵だけ見ていました。 ちなみに、挿絵は、息子さんの、筒井伸輔さんが描いていました。 なぜ、それだけ見ていたかといえば、「たぶん、単行本になったら、全部は載るまい」と思ったから。 その予想は的中しました。 表紙、裏表紙、扉絵の三枚だけ。 何だか、勿体ないのう。 それぞれ、作品として、世に出したのなら、話は別ですが。

  一冊一作品、260ページ弱の長編。 子供の頃、類い稀な美少年だったせいで、変質者に生殖器を切れ取られてしまった男が、性欲はもちろん、怒りの感情まで失うが、長じて、料理の世界に興味を抱き、食品会社に勤めた後、自分のレストランを開店して、自分の理解者達と共に、美しさ故に多難にならざるを得ない人生を、乗り越えて行く話。

  これも、話の出だしは、素晴らしいもので、いきなり、衝撃的な展開になり、読者の度肝を抜きます。 短編ならともかく、冒頭から、性器を切り取られてしまう長編小説なんて、ちょっと考えられませんな。 なぜというに、最初から、そんな刺激的な事を書いてしまったら、普通は、先が続かないからです。 ところが、筒井さんは、それをやってしまうんですな。 話の作り方に自信があるからというより、先に、この出だしを思いついてしまったので、「使わぬ手はない」と考えたように思えます。 「後は、どうにかなるだろう」と・・・。

  ハード・ボイルド系の作家なら、後半に、もっと刺激的な場面を用意し、話を盛り上げようとするでしょうが、そうはしないのです。 割と、地味~に、淡々と、主人公の人生が描かれて行きます。 物語として、竜頭蛇尾になるのは、致し方ないところですが、特殊な身体条件を背負わされた人間が、どういう人生を歩むかについて、真面目に想像し、細部まで描き込まれているので、読者の興味は、自然に、そちらの方に移り、「ああ、この小説は、犯罪小説のような展開を期待する作品ではないのだな」と、納得させられてしまいます。

  この作品、ところどころに、纏まった文語文が使われたり、地の文でも、枕詞や、すでに使われなくなった、古い形容が用いられて、話題になりました。 連載の時には、回ごとに、単行本では、2ページごとに、そういう言葉の解説が入ります。 筒井さんが、こういう試みを行なったのは、「忘れ去られた言葉を、復活させたかったから」のようですが、あまり、効果はないかも知れませんなあ。

  古文を原文で読んだ事がある人は、経験があると思いますが、文語体でも、しばらく読んでいると、慣れて来て、解説を読まなくても、意味が取れるようになって来ます。 この本でも、同じ作用が働き、真ん中を過ぎる頃には、解説を無視して、読み進むようになります。 で、読み終わると、一語も頭に残っていないという、情けなさ。

  もう一つの目的である、「異化効果」に関しては、十二分に成功しています。 確かに、この作品の文章は、他とは異なっていますよ。 異化効果というのは、面白いですな。 何でもいいんですよ。 たとえば、頭の悪そうな人物のセリフだけ、全部、平仮名で書くとか、逆に、頭が悪いふりをしている人物のセリフを、馬鹿みたいな喋り方だけど、漢字満載で書くとか。 ちょっと、読み手が気にかかる書き方をすれば、それだけで、異化効果が発生し、印象に残る作品として、記憶されます。 もっとも、そういうのが流行ると、「なんだ、また、異化効果か・・・」と、すぐに飽きられてしまいますけど。


  この作品も、実験小説の一類なわけですが、≪ダンシング・ヴァニティ≫同様、読者が作者の実験台にされているような、嫌な感じは全くありません。 実験というより、すでに、どれだけの効果が出るか、予想がついた状態で発表している、「実証小説」なんですな。 模倣が利かないので、「実用小説」には、なり得ませんが。 また、一人の数奇な運命に立ち向かった人物の生き様を描いた小説として、普通に読む事もできます。



≪漂流 本から本へ≫

朝日新聞出版 2011年
筒井康隆 著

  2009年4月から、2010年7月まで、朝日新聞の日曜版に掲載されたシリーズを、単行本化したもの。 朝日新聞の日曜版には、新刊の書籍を紹介するページがありまして、毎週、その最初のページに、一番大きな場所を占めて、載っていました。 私は、連載時に、ほぼ、全て、読んでいると思います。 一年三ヵ月も続いていたとは、知らなんだ。 つい、こないだのような気がしますが、終わってから、もう、4年半も経つんですねえ。

  筒井さんの、幼少期から、割と最近までの読書遍歴を、書物ごとに、紹介したもの。 当然の事ながら、作品の批評も含まれていますが、基本的に、筒井さんが影響を受けた、「面白かった本」しか取り上げていないので、批判のようなものは、ほんのちょっとしか出て来ません。 漫画から、小説、戯曲、学術書まで、古今東西の書物が、全て対象になっているので、批判までし始めたら、キリがなくなるに決まっており、最初から、念頭になかったのでしょう。

  著者名と、書名が、各回のタイトルになっているのですが、内容の比重としては、その本を読んでいた頃の、筒井さん自身の生活の思い出話が多くて、読書歴を通して見た、自伝としても読めます。 本格的な批評となると、かなり、構えて書かなければなりませんが、こういう形式なら、気軽に筆を進められたでしょうな。 そのせいか、小難しいところは、ほとんどなくて、大変、読み易い文章になっています。

  帯の宣伝文句に、「筒井康隆のつくり方」とあります。 つまり、「この本を読み、この本に出て来る本を読めば、筒井さんの頭に、どんな知識・教養・情報が詰まっているかが分かる」という意味でしょう。 そこまでなら、まあ、問題ないんですが、もう一歩進んで、「これらの本を読めば、筒井作品のような、面白い小説が書ける」と取る読者がいるとしたら、それは、間違いも間違い、大間違いです。 甘過ぎるわ。 その程度で、書けるようになるわけねーだろ。

  同じ本を読んだだけで、その作家に近づけるわけがないという、常識的道理もさる事ながら、それ以前に、ここに出ているのは、今までに、筒井さんが読んだ本の、百分の一にも達しないと思います。 いや、千分の一かも知れぬ。 いやいや、万分の一という可能性も捨てきれぬ。 上述したように、つまらんと思った本の事は、ほんのちょっとしか触れていないわけですが、駄目な例として、そういう本からも、受ける影響はあるのであって、量的にも、質的にも、無視できるようなものではありません。

  この本に収められている文章は、小説家志望の人に向けて書かれたわけではなく、純粋に、面白い本を探している人に向けて、筒井さんが、読書人の大先輩として、「この本は、いいよ」と薦めているものなんですな。 ≪壊れ方指南≫の中に、【耽読者の家】という短編がありますが、そちらと並んで、面白い古典作品の参考書として読むべき本なのです。

  ちなみに、この本で紹介されている本は、各回のタイトルだけだと、66冊ですが、それらを含めて、各文中に出て来る、筒井さんが、「面白かった」と書いている本を、リストを作って、数えてみたところ、150冊くらいになりました。 内、私が読んだ事があるのは、たったの20冊弱。 話にならねー・・・。 逆に考えると、残りの130冊分は、楽しみが残っているという事ですな。 引退して、時間はたっぷりある事だし、ぼちぼち、読んで行く事にします。 なに? リストを見せろ? 誰が見せるものか。 リストを作るだけで、一時間もかかったのに。 自分で、この本を買うか借りるかして、調べなさいな。

  とはいうものの・・・、人から薦められた本というのは、読んでみると、あまり面白くない事が多いのも、体験的に分かっています。 本の好き嫌いというのは、人それぞれの感覚の違いが、端的に出てしまうんですな。 この連載が行なわれていた頃、紹介された本が、本屋で急に売れ出したり、本屋が急に売り出したりしたらしいですが、買ってしまってから、「しまった。 大して面白くないではないか」とか、「こんなに難しい本だったとは・・・」と、臍を咬む思いをした人も多かった事でしょう。 だから、「まず、図書館を当たれ」というのよ。



  以上、今回も、3冊です。 ところで、これらの感想を書き終えた後、私が、どんな暮らしをしているかといいますと、やはり、本を読んでいます。 寒くて、優雅にポタリングというわけにも行かないので、自動的に、読書ばかりになってしまうんですよ。 昨日、ディケンズの、≪荒涼館≫を読み終えて、今日から、≪オリバー・ツイスト≫に入るところ。 それらの感想は、いずれ、出します。

  他にやっている事と言うと、犬の世話とか、映画・ドラマ観賞とか、その感想書きとか、太らないように、自転車で運動とか、そんな事だけです。 奇妙なもので、それだけの事しかしていないのに、倦怠に悩まされる事はなく、むしろ、時間が足りないように感じられます。 引退しても、「やる事がなくて困る」という事がないのは、ひきこもり時代に取った杵柄。

  10年早く引退して良かったと思うのは、まだ、目が普通に見えて、読書をためらわずに済む事です。 これねえ、いるんですよ。 読書が趣味の人で、「引退したら、好きな本を、好きなだけ読んで暮らそう」と、楽しみにしていたのが、いざ、定年過ぎた頃には、衰えた目が長時間の読書に耐えられなくなっていて、長編小説など、とても読めずに、しょぼくれてしまう人というのが。

  楽しみというのは、先に取っておけば、熟成されて、より楽しくなると決まっているわけでもないわけだ。 恋愛は、その代表例ですが、反射神経や、素早い判断力を必要とされるスポーツなんかも、その類です。 高齢者のバイク事故とか、超軽量飛行機の墜落事故とか、若い頃なら、起こさなかったミスで、命を落とす人は、結構、多いです。 そういう人達も、「いつか、時間にゆとりが出来たら・・・」と思って、楽しみにしていたんでしょうけどねえ。

2015/02/08

濫読筒井作品⑩

  前回、≪濫読筒井作品⑨≫を出したのが、2008年の4月6日ですから、6年10ヵ月ぶりという事になります。 途中、文庫本蒐集計画を進めている時に、≪筒井康隆作品の古本状況≫という記事で、筒井作品について触れたのが、 2013年の8月4日で、そこから数えても、1年半も経ってしまいました。 真っ当なファンであれば、新作が出るたびに、購入して読み、感想を書くべきなんですが、その点、私はやはり、真のファンとは言えないんでしょうねえ。

  ≪濫読筒井作品⑨≫では、≪ダンシング・ヴァニティ≫について書きました。 今回は、それ以後に出された本という事になりますが、たまたま、最近手に入れた、古い本が、2冊含まれていて、全部で、10冊分あります。 読んだ順に並べると、≪アホの壁≫、≪ビアンカ・オーバースタディ≫、≪聖痕≫、≪偽文士日録≫、≪繁栄の昭和≫、≪創作の極意と掟≫、≪漂流≫、≪現代語裏辞典≫、≪わかもとの知恵≫、≪大魔神≫という事になりますが、感想を書くにあたって、読み直したものもあるので、感想を書いた順にアップする事にします。



≪繁栄の昭和≫

文芸春秋 2014年
筒井康隆 著

  2011年から2013年にかけて発表された短編が、10話。 あと、どういうジャンルに入れていいか分かりませんが、昔の女優さんの出演映画について調べた文章が、一つ付いています。 短編の方は、各話の長さが、10ページから20ページくらいで、かなり、短い方です。 その分、数があるので、一話ずつ感想を書くのは、正直、きついです。 読み終わった途端に、その億劫さがのしかかって来て、胃が痛くなって来ました。 胃に穴を開けてまで、感想に精力を注ぐ事もないと思うので、さーっと簡単に書く事にします。


【繁栄の昭和】
  とある二階建てのビルで、一階の法律事務所に、事務員として勤めている主人公が、二階に入っている、探偵事務所と、芸能事務所に出入りする人々を観察する話。 昭和初期の、探偵小説の雰囲気という感じですかね。 実際の探偵小説では、あまり細かく描かれない、探偵事務所周辺を舞台にしていて、探偵小説の雰囲気だけ、そっくり頂いた感あり。

  話自体は、特段シュールというわけではありませんが、≪ダンシング・ヴァニティ≫でも出て来た、繰り返しの技法が使われていて、不思議な効果を挙げています。 現実に起こった事を、長編探偵小説の一部と考える事によって、探偵小説的人物相関を、実在の人物に当て嵌めて行くという発想が、面白いです。


【大盗庶幾】
  う・・・、これは、ストーリーを書くと、ネタバレになってしまいそうですな。 すこし暈して書きますと・・・、金持ちの家に生まれ、子供の頃から、サーカス団と付き合いがあった、変装好きの美少年が、長じて、家が破産すると、特技を生かして、泥棒を生業とするようになるが、片思いしていた女性が、とある探偵と結婚してしまった事で、探偵を逆恨みし、犯罪予告をして、挑戦し始める話。

  うーむ、一生懸命、暈したつもりなんですが、分かる人には、誰の事なのか、ありあり、バレバレでしょうなあ。 一種の、前夜譚でして、この話の場合、原作の方で触れられていない、ある登場人物の生い立ちを、想像して、描いたもの。 大変、細かく書き込んであるので、誰の事なのか分かっていても、尚、面白いです。


【科学探偵帆村】
  昭和初期のSF作家、海野十三が書いた、≪断層顔≫という小説の、ごく一部から派生させて作った話。 借りているのは、帆村という名前の老探偵と、昭和初期の時点から想像された昭和55年という、架空の時代背景だけで、ストーリーは、オリジナルのようです。 その点に関して、説明されている部分が少ないので、勘違いをする読者も多い事でしょう。 ≪断層顔≫は、青空文庫に入っていますから、先に読んでおいた方がいいかもしれません。

  ストーリーは・・・、ストーリーは・・・、しまった、これも、書くと、ネタバレになってしまいますな。 どーしたもんじゃろか? アメリカの映画女優が、父親の分からない、東洋系の赤ん坊を産んだという、伝説があり、その原因が、実は、とある日本人少年が持つ、超能力と関わっていたという話。 ぐぐぐ・・・、これだけしか書けません。

  SFアイデアの類型としては、筒井さんの短編、≪郵性省≫に似ていますが、こちらの場合、女優伝説と絡めているところに特徴があり、東洋人の子供を妊娠した女優の名前がズラリと並んでいるのを見ると、何とも形容し難い、ミステリアスな気分に襲われます。 これ、本当なんですかね? いや、ここが本当でないと、話の面白さが、大きく損なわれてしまうので、本当なのだとは思いますが。


【リア王】
  自然主義リアリズムで、≪リア王≫を演じ続けていた名優が、古典的な演技・演出に拘るあまり、自分の作った劇団から、実の娘が退団してしまい、落胆していたのが、とある高校で、≪リア王≫を演じている時に、たまたま鳴った、生徒の携帯電話の着メロに刺激されて、≪君の瞳に恋してる≫を、替え歌で歌ってしまったところ、それが大受けし、以後、劇中に歌を歌うパートが続々と増えて行く話。

  筒井さんの演劇関連の短編は、数こそ少ないですが、レベルが高く、ハズレがないです。 ≪瀕死の舞台≫然り、≪狼三番叟≫然り。 この作品は、暗いところがなく、エスカレートする話で、ハッピー・エンドが約束されている点、読んでいて、大変、楽しいです。 出てくる歌が、玄人好みでなく、ある世代以上なら、誰でも聴いた事があって、すぐに、メロディーを思い浮かべられる曲に限られているのも、実に巧み。


【一族散らし語り】
  斜面に寄りかかるようにして建てられている、大きな屋敷で、体が、血塗れて腐って行く一族の様子を描いた話。 ≪家≫、≪遠い座敷≫、≪谷間の豪族≫などと同じく、巨大な日本家屋が舞台になる作品の一つ。 

  何と言っても、体が腐って行く人間が、ごろごろ出て来る話なので、読後感は、あまり、よくないです。 これ、中高生くらいで読んだら、いや~な感じを受けたでしょうねえ。 私が、さらりと読み流せたのは、もういい加減、歳を食っていて、フィクションと割り切れたからでしょう。 歳を取って、いい事もあるわけだ。

  印象に残ったのは、勝手に屋敷に入り込んで騒いでいた、よその子供の内、一人の女の子が、家の者が来ても、逃げもせず、開き直ったような態度を見せる場面。 性別を問わず、こういうガキは、いますわ。 その内、どこかで、ボコボコにされて、自分のルールが、他人様には通用しない事を、思い知るわけですが。


【役割演技】
  訪日する外国の要人達向けに、繁栄する日本を演じ続けている街の様子を、そこで開かれるパーティーに出る為だけに雇われている、一般家庭の主婦の目線で描写した話。 近未来SFの部類でしょうか。 ≪暗黒世界のオデッセイ≫ほどではないですが、筒井さん独特の、暗い未来観が健在である事を、教えてくれます。 SF作家の未来観が、時代とともに、どう変化して来たかは、興味深いところですが、筒井さんの場合、暗め暗めに予想していたから、さほど、大きな修正をしなくても済んだわけですな。

  主人公の同業者で、パーティーで肉を食べ過ぎた事で失敗する女性が出て来ますが、一般人の階級では、肉が慢性的に不足しているようで、これは、確かに、近い将来、日本で起こりそうな事です。 外貨を稼げる産業がなくなってしまうと、飼料を輸入できなくなるので、家畜を育てられなくなってしまうんですな。


【メタノワール】
  筒井さん自身が主人公で、現実に起こる出来事を、どんどん話に取り入れてしまう映画の出演者になり、その撮影中に起こった事を描写した話。 この小説の主人公は筒井さんですが、映画の主人公は、船越英一郎さんで、他にも、深田恭子さん、宮崎美子さん、北村総一郎さん、といった、実在の俳優さん達、それに、筒井さんの奥さんまで出て来る、何とも、メタなキャスティング。 いや、このキャスティングというのは、小説の方の話ですけど。

  「メタ」がテーマと考えれば、分かり易い話ですけど、面白いという感じは、あまりしません。 「メタ」なのか、「何でもアリ」なのか、区別がつかなくなってしまう読者も多いと思います。 そして、大抵の芸術は、「何でもアリ」になってしまうと、通人にしか分からないものになってしまうのです。 現代美術、然り、現代音楽、然り。 「小説も、とっくにそうなっている」と言う人もいると思いますが。


【つばくろ会からまいりました】
  入院した妻が死にかけている、木工作家の家へ、若い家政婦がやって来て、すぐに馴染むが、ある晩、遅くなったという事で、家に泊まらせたところ、翌日から来なくなってしまい、素性を調べてみたら、あっと驚く相手だったという話。 アイデアとしては、≪大人になれない≫に似ています。 こちらの方が、ずっと、シンプルですけど。

  これを読んでいて思ったんですが、筒井さんは、奥さんに先立たれる事を、大変、恐れているのではないでしょうかね? 一人にされるくらいなら、自分の方が、先に死にたいと思っているのでは? 私のような生涯独身者の立場から見ると、世の中は、同じ屋根の下の敵同士とか、寄生虫と宿主みたいな関係の夫婦ばかりに見えますが、中には、相思相愛の御夫婦もいるんですなあ。 羨ましい事です。


【横領】
  会社物。 だけど、舞台は、高級レストランです。 横領をした上司の腰巾着だった男が、警察が来たのを見て、上司の女と一緒に、逃げ出す話。 何か、テーマがあるというより、サスペンスを盛り上げる技法を短編で試してみた、という感じ。 まず、たまたま、同じレストランに来ていた、上司のライバルの尻に火が点き、それが飛び火する形で、上司がオロオロし始め、不安が絶頂に盛り上がった所で、部下と女が逃げてしまうという、さりげないながらも、凄じい展開を楽しめます。


【コント二題】
  これは、ごく、短いもの。 ≪絵の教室≫と、≪知床岬≫という題が付いていますが、どちらも、単純に笑いを追及したというより、政治意識絡みの、ちと、剣呑な話です。 ただし、あまりにも短いせいで、深読みをするほど、剣呑なわけでもありません。


【附・高清子とその時代】
  エノケン一座にいた、高清子(こう きよこ)という女優さんについて、出演映画のビデオやDVDを蒐集し、その内容を書き出し、簡略な伝記を添えたもの。 ≪ベティ・ブープ伝≫の、実在人物版だと思えば、宜しい。 この本の中では、この文章が一番長くて、50ページ近く取っています。 作品というより、映画雑誌の特集記事みたいな趣きです。 これは、あくまで、筒井さんの趣味であって、読者は、必ずしも、付き合わなくてもいいと思います。

  この高清子さんが、筒井さんの奥さんに似ているそうで、同じタイプの顔として、女優の五十嵐淳子さんの名前も出ています。 検索して、画像を見てみたんですが、静止画だけでは、共通点が分かりません。 ちなみに、この本の表紙に出ている写真の女性が、高清子さんのようです。 だけど、昔の女優さんですから、モノクロ映画にくっきり映るように、かなり濃い化粧をしていまして、「美人なのだろう」という以外、特徴が分かりません。


  私は、この本を読む直前には、≪ショートショートの広場≫を読んでいたのですが、長さ的には大差ないのに、質のあまりの違いに、愕然としてしまいました。 ≪ショートショートの広場≫の、最もレベルの高い作品群と比べても、圧倒的に、筒井さんの短編の方が、インパクトが強いです。 「素人 対 文豪」の勝負ですから、当たり前といえば当たり前なんですが、それにしても、同じ日本語で書かれた、同じくらいの長さの小説なのに、こんなにも差が出来るものなのか・・・。




≪創作の極意と掟≫

講談社 2014年
筒井康隆 著

  ≪着想の技術≫から、30年を経て書かれた、小説の書き方に関する本。 章の名前を挙げますと、

  凄味、色気、揺蕩、破綻、濫觴、表題、迫力、展開、会話、語尾、省略、遅延、実験、意識、異化、薬物、逸脱、品格、電話、羅列、形容、細部、薀蓄、連作、文体、人物、視点、妄想、諧謔、反復、幸福。

  と、なります。 全部、二文字熟語で揃えてありますが、そのせいか、「揺蕩」や、「濫觴」など、常識的な漢字知識では、意味が分からないものもあります。 揺蕩は、「迷い」、濫觴は、「出だし」とでもすれば、分かり易くなると思います。 ・・・でも、濫觴は、「出だし」の意味で使っていいのかなあ? 私が覚えた時には、「物事の始まり」という意味で取ったのですがね。 そして、用法の制限が厳しいせいで、知っているのに、使う機会がない熟語の筆頭になっています。 たとえば、「日本の小説は、竹取物語を濫觴とする」といった具合。 何だか、応用し難いでしょう? もっとも、誰も使わないのなら、使ってしまったもん勝ちか。

  他の章名は、説明不要だと思いますが、こういう風に、並べて見ると、「薬物」と、「電話」だけ、階層カテゴリーが違っているような気がせんでもなし。 「薬物」は、薬の力を借りて、創作意欲を高めたり、新たな着想を得たりする事について書かれていて、「ちょっとちょっと、そんなこと書いちゃって、大丈夫なんですか?」と、心配になる内容。 「電話」は、電話や携帯電話の使用が、小説の表現に与える影響について述べています。 しかし、それなら、「インター・ネット」なども、電話に匹敵する大きな影響を、小説に与え得るんじゃないですかね?

  他は、まあ、章名そのまんまの内容ですかねえ。 過去の文学作品を、頻繁に例に挙げている点、些か、とっつき難いですが、そんなに、難しい事が書いてあるわけではないです。 ≪着想の技術≫に比べると、一段、先へ踏み込んだ事を扱っていますが、小説を書くに当たっての重要度からすると、「着想」より優先される要素はないと思われ、この本で取り上げられているのは、良く言えば、「着想を表現する上での、補足的技術」、悪く言えば、「枝葉末節」です。 着想が良くなければ、これらの補足技術があっても、いい小説にはなりませんし、着想が良ければ、表現技術が低くても、最低限、印象深い作品にはなります。

  ただし、筒井さん自身、そういう事は承知の上で、書いているものと思います。 一読者如きが、そんな事を指摘するのは、釈迦に説法ですな。 序言によると、対象にしているのは、これから、小説を書こうとしている人すべてで、プロの作家も含むとあります。 この部分は、非常に重要でして、逆に考えれば、この本に書いてある事に気づいていない人でも、すでに、プロの作家としてやっているという事になります。 となると、やはり、どうしても必要な技術というわけではないわけだ。

  小説を書いた経験がある人で、「小説の書き方」という類の本を手に取った事がある人は、たくさんいると思いますが、「これは、大いに参考になった」という本を挙げられる人は、ごくごく少数だと思います。 私も、遥か昔に、≪着想の技術≫を買って読みましたが、今では、内容を、ほとんど覚えていません。 着想の方法というのは、人から教えられるような事ではないのでしょう。

  その点、この本で紹介されている技術は、頭に入れておけば、確実に役に立つものがあると思います。 ただし、それは、着想のステージをクリアできた人に限ります。 そもそも、話を思いつかないのでは、表現技術など知っていても、活かしようがありません。 だからこそ、読ませたい対象に、プロの作家が加わっているわけですな。 正直なところ、「素人向けではない」と言いたい所を、そう言ってしまったら、一般人が買わないので、控えたのではないかと思われます。

  「凄味」から、「諧謔」までは、2013年の1月から10月にかけて、≪群像≫に掲載されたもの。 一方、「反復」は、2008年5月に、「幸福」は、2013年5月に、≪新潮≫に、掲載されたもので、この二章は、他の章とは、毛色が違います。 「幸福」は、作家の不幸と幸福について書いた、ごく短い随筆。 「反復」は、≪ダンシング・ヴァニティ≫で使われた、繰り返しの技法について、細かく解説したものです。

  つくづく、思うんですが、作品の解説を、作者自身が行なうのは、考えものですなあ。 より深い鑑賞ができるというより、意図を説明されると、却って、白けてしまう事が多いです。 映画やドラマのDVDに、副音声で、監督や出演者による、製作裏話が延々と入っていて、傑作を台なしにしている事がよくありますが、それと同じです。 表現したい事があったら、作品の中に、全て、盛り込むべきでしょう。

  何だか、ケチばかりつけているような感想になってしまいましたが、この本が、面白くないという事はないです。 特に、これから、小説を書こうという人は、教科書にして、ノートを取りながら読めば、マジで、大きな収穫があると思います。 「プロの作家というのは、こんなところまで気を配りながら、作品を書いているのだな」と、知るだけでも、読む価値があると言えるでしょう。

  それはさておき・・・、筒井さんは、これらの文章を書いた時、すでに、70代後半になっていたのですが、こんなに頭が切れる70代後半て、いるんですかね? 信じられないです。 若い頃から、頭をフルに使って仕事をして来た人は、早くボケると相場が決まっているのに、この方は、稀有な例外である様子。 脳年齢を測ったら、30代くらいなのではないでしょうか?



≪アホの壁≫

新潮新書 350
新潮社 2010年
筒井康隆 著

  書名を見ても分かる通り、同じ新潮新書で出た、養老孟司氏のベスト・セラー、≪バカの壁≫が元になって企画された本なわけですが、パロディーになっているのは、書名だけで、中身は、だいぶ、違います。 タイトルだけ、パロディーで、中身はまるで違うというのは、筒井さんの小説でも、よく使われる手法です。  最初、出版社の重役から、≪人間の器量≫という書名で書いて下さいと持ちかけられたのを断り、筒井さんの方から提案して、この書名と内容になったとの事。

  「筒井康隆著で、≪アホの壁≫というタイトルなら、絶対売れる」と、筒井さん自身が、確信していた模様。 なるほど、それは、素直に同意できる読みで、≪バカの壁≫ほどではないにせよ、こちらも、売れたでしょうな。 誰でも、手に取ってた見たくなる書名ですから。 ≪人間の器量≫では、筒井さんのファンしか買わんですけえのう。

  内容は、糞真面目というわけではないですが、割と真面目です。 だけど、筒井さんは、学者や研究者ではないので、独自の研究データを揃えているわけではなく、新書本としては、ちと、下手物。 しかし、昨今の新書本は、書き手の劣化が著しく、どこの誰だか分からない馬の骨まで、著者に名を連ねているので、それらに比べれば、遥かにまとも。 とはいえ、やはり、新書本は、学者に書いて欲しいという気もするのです。

  「バカの壁」というのは、「立場が違ったり、興味の対象が異なる人間には、どんなに説明しても、こちらの考え方や感じ方を伝えるのは、不可能だ」という意味で使われていましたが、「アホの壁」は、「人それぞれの中にある、良識とアホの間に立ちはだかる壁」の事で、その事例を挙げ、心理学的な分析を加えているのが、本書の中身です。 ちと、こじつけ、というか、確実に、こじつけだと思いますが、たぶん、確信犯的こじつけだと思われるので、そこは、軽くスルーするとして・・・。

  筒井さんの新潮文庫、≪暗黒世界のオデッセイ≫の中に、≪乱調人間大研究≫という、精神分析をテーマにした文章が収録されていますが、それと、似たようなスタイルで、「アホな行為」について、フロイトの学説に多く拠った分析が行なわれます。 フロイトに対する最近の評価が、厳しくなっている事は、承知しているようですが、筒井さんにとって、精神分析のファースト・インパクトになったフロイトの影響は、未だに大きいんですねえ。

  ちなみに、フロイトの本は、直截読むと、結構硬いのですが、筒井さんが一旦、咀嚼してくれると、非常に分かり易くなります。 「精神医学に興味があるけれど、学術書は、とっつき難くて・・・」という人には、入門書として、お薦めです。 もっとも、「知らない方が幸せ」という事も、多くある分野ですけど・・・。

  フロイト式分析も面白いですが、私が一番楽しんだのは、「第四章 人はなぜアホな計画を立てるか」です。 筒井さん自身の体験や、人から聞いた実話を元にしていると思うんですが、これが、滅法面白い。 とりわけ、「親戚友人を仲間にするアホ」なんて、実例を知らなきゃ、絶対書けないと思われ、「ああ、確かに、そういう会社ってあるなあ。 あの衆等、アホだったんだなあ。 わははは!」と、何度も何度も、頷かされます。

  実例というのは、自分の体験でも、人から聞いた話でも、ある程度、歳を取らないと、頭の中に溜まって来ないので、若い人間では、こういう本は、まず、書けません。 その点、≪乱調人間大研究≫と比べても、こちらの方が、更に面白くなっています。 私が、筒井さんの本を、安心して読めるのは、興味が共通している分野に於いて、私が知っている事を、筒井さんが知らないという事が、ほとんどない点が、大きいです。 若い作家の本を読んでいて、よくぶつかる、「あれ? この人、こんな事も知らないで、書いているのか?」という落胆を味わわなくて済むんですな。 年上で、現役の作家は、貴重だわ。 どんどん、少なくなる。


  この本、図書館で借りた物ではなく、文庫買い漁り計画を進めていた2013年10月に、ブックオフ・オンラインで、手に入れました。 当時すでに、105円で、最低価格クラスでしたが、これは、多く出回った証拠でしょう。 アマゾンのマーケット・プレイスでも、1円になっていて、送料込み、258円で、手に入ります。 新しいのを定価で買うと、700円前後。 読み易いので、2時間くらいで読み終えてしまう事を考えると、ちと高いですか。



  以上、今回は、3冊までにしておきます。 全部で、10冊なので、3・3・4で出す予定。  どうも、筒井さんの作品は、纏めて読むようになりがちです。 ≪繁栄の昭和≫と、≪創作の極意と掟≫を図書館で見つけて借りて来たのをきっかけに、1月いっぱい、読み直しも含めて、10冊立て続けに読んだわけですが、一冊読むと、「次も、次も」と、連鎖的に読む事になるのです。 で、相変わらず、「濫読」になるわけだ。

2015/02/01

年賀状

  今回は、年賀状の話です。 もう、2月だというのに、こういう話題もどうかと思うのですが、途中まで書きかけた文章があり、来年まで寝かせておくと、その存在を忘れてしまいそうなので、出してしまう事にします。 逆に考えると、2月になってから、年賀状の話を書くブログというのは、かーなり珍しいと思うので、希少価値がある記事になるかも知れません。

  ところで、今年の干支が、何か、覚えていますか? ヘビですよ、ヘビ。 嘘です。 それは、去年。 今年は、ウマです。 いや、それも嘘です。 去年がウマで、ヘビは、一昨年です。 今年は、ヤギです。 また騙された。 ヤギ年なんて、ありませんよ。 「あれ? そうだったっけ?」と、あなたが今思い浮かべたのは、ヤギ座。 今年の干支は、ヒツジです。 これは、本当。

  そういや、干支の動物を略称で並べると、「ねー・うし・とら・うー・たつ・みー・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」ですが、鳴き声で並べると、どうなりますかね? 「チュー・モー・ガオ・○○・××・△△・ヒン・メー・キー・コケ・ワン・ブー」ですか。 タツとヘビが伏字になるのは仕方ないとして、ウサギって、鳴かんの? ネズミが鳴くんだから、ウサギも鳴きそうな気がするんですがね。 前歯が、似たようなもんだし。 擬態語を混ぜていいと言うなら、ウサギを、「ピョン」、ヘビを、「ニョロ」で代用して、「チュー・モー・ガオ・ピョン・××・ニョロ・ヒン・メー・キー・コケ・ワン・ブー」まで詰められますが、結局、タツは、どうにもならないわけだ。

  「龍」という字は、元々は、ワニの事を指していたらしく、そう言われてみると、口の辺りが、ワニにそっくり。 ワニの胴体を、ぎゅーっと引き伸ばして、ヘビ状にし、頭に鹿の角をくっつけて、口の周りに髭を生やせば、ほぼ、龍になります。 世界的に、「龍 = ドラゴン」という認識が定着していますが、龍の元が、ワニだと思うと、ドラゴンとは、顔が全く違うのが分かります。 ドラゴンには、翼も生えているし。 共通点は、胴が長い事だけで、かなり無茶な同一視ですな。 むしろ、中国とヨーロッパの空想獣で、同一視が可能なのは、「麒麟 = グリフィン」でしょう。 名前も、たぶん、同根。

  さて、というわけで、龍の元が、ワニである事が判明したわけですが、鳴き声は、結局、分かりません。 どこまで、音を立てない奴なのだ。 ワニって、鳴かないですよねえ。 息を吐く音はするような気がしますが、そんなの、他の動物も、みんな、出しますから、特徴的な発声にはなりません。 外見や動きにも、これといったオリジナリティーがなくて、擬態語も無理。 つまらん奴め。 ちなみに、私は、そのつまらん、タツ年生まれです。


  それはさておき、つい先日、母が、年賀状の、クジの当選番号を見忘れたというので、ネットで調べて、教えてやりました。 私の母は、結局、インターネットを使いこなせずに終わったわけですが、ネットで調べれば分かる事というのが、どんな事なのかは区別がつくようで、時折、そういう事を頼んで来ます。 だったら、パソコン・セットが居間にあった間に、慣れればよかったのに。 キー・ボードが、まるで打てなかったんですな。 女学校時代に、和文タイプ・ライターを習っていたらしいのですが、あんな化け物みたいな機械が使えて、キー・ボードが打てないというのは、解せない話です。

  なまじ、マウスなんて物があるから、「是が非でも、キーボードを打てるようになろう」という、モチベーションが湧き起こらないのかも知れません。 うちの母だけを笑ってばかりもいられないのであって、キー・ボード打てない人、年齢に関係なく、相当いると思うんですよ。 ツイッターなんて、明らかに、長文を打つのが苦手な人が飛びついたメディアだよねえ。 ケータイやスマホで打ち込んでいるから、長文なんて、土台無理なんですよ。

  「パソコンなんて、要らないよ」と主張する人の、8割くらいは、「キー・ボードなんて、打てないよ」という人と、重なっていると思います。 恥ずかしいから、言わないだけ。 今日日の大学生が、レポートを、コピペだけで作ろうとするのは、文章が作れないだけでなく、キー・ボードが打てないのが理由かも知れませんぜ。 マウスしか使えないんじゃ、コピペ以外に、文章をデッチ上げる手段がないものねえ。 「いくらなんでも、今時の学生が、そんな事はないだろう」と決め付ける前に、調べて見た方がいいと思います。 私に言わせれば、今時の学生だからこそ、キー・ボードが打てない可能性が高いと思うのですがね。

  特に、日本では、かな入力と、ローマ字入力が混在していたせいで、ますます、キー・ボードから、初心者を遠ざけてしまったという、痛い事情があります。 一時期、「ローマ字入力の方が、速く打てる」という主張を、全身全霊をかけて、初心者に説いて回る人というのがいましたが、今では、キー・ボードを打つ人自体が少数派になってしまったので、そういう主義者達も、暖簾に腕押し的な余生を送っている事でしょう。 ローマ字打ちのせいで、キー・ボード派が減ったとは言いませんが、ローマ字打ちのお陰で、キー・ボード派が増えたとも言えませんな。 だって、全体的に増えてないんだもの。

  そういや、もう一昔も前ですが、「ケータイ小説」というのが流行り、ケータイで小説を読むだけでなく、ケータイで書いた小説というのがありましたが、考えてみれば、あれの作者達も、たぶん、キー・ボードを打てなかったんでしょうなあ。 気の毒に・・・。 一人くらい、文壇に残っているのかね? 残っていたとしても、調べようがないか。 もはや、文壇自体が、ズタズタに分断されて、同人誌レベルに堕ちていますからして。

  いまや、キー・ボードをバシバシ打てるのは、ワープロ時代に、かな打ちで鍛えられた、オッサン・ジーサンだけではありますまいか。 もしかしたら、「パソコンでは、かな打ちできない」なんて、思い込んでいる人、いないでしょうね? できますよ。 だから、キー・ボードのキーに、ひらがながふってあるんですよ。 設定を変えるだけです。 簡単簡単、ものの一分で変更できます。

  ウインドウズの人なら、一番下のツール・バーに、工具箱のアイコンがあるでしょう? それを、左クリックして、「プロパティ」を選べば、「Microsoft IMEのプロパティ」という窓が出ますから、「全般」を選んで、「ローマ字入力/かな入力」の所を、「かな入力」に変えてやればいいのです。 ワープロ時代は、かな入力していたけど、パソコンに切り換えてから、ローマ字入力を覚え直したという人で、「パソコンにしてから、何となく、キー・ボードを打つのが面倒になってしまった」という人は、試してみるといいと思います。


  おや? なんだか、遥か彼方まで、脱線扱きまくっておりますな。 もはや、ここまで離れてしまうと、何がテーマだったのか、思い出すのも億劫だ。 えーとー、えーとー、そーだそうだ、年賀状の話だった。 でねー、ネットで、年賀状の当選番号を調べたわけですけど、あれって、1等、2等、3等の三種類しかないんですな。 1等と2等は、それぞれ、番号が一つで、3等は、二つ。 全部で、四つしかないわけだ。 昔は、もっと、いろいろとあったような気がするんですがね。 私の記憶違いでしょうか?

  1等の賞品が、「一万円」というのは、如何なものと・・・。 いやまー、お金が一番便利だと言えば、そーなんすけどね。 2等は、「ふるさと小包」。 なにそれ? 想像もつきません。 1万円以下の価値である事は確かですが、他の情報が少な過ぎます。 3等は、「年賀切手シート」。 これが、一番無難です。 当たる確率も高いし。 ところが、今年、我が家に来た年賀状は、全滅でした。 切手シートなどという、つまらない物にまで見放されたか。

  私の、他人のガキ嫌いが高じたせいで、座敷童子が逃げたのかな? あー、これこれ、逃げんでもいいよ。 喧しいのが嫌なのであって、あんた方みたいに、静かにしている分には、何百人いたって、気にならんから。 ・・・なんて事を書いてしまって、ある夜、ふと気になって、床の間を覗くと、座敷童子がぎっしり詰まっていたら、嫌だな・・・。


  私が貰った、唯一の年賀状も、あえなく、ハズレ。 ちょうど、一年前、北海道応援の時に世話になった、向こうの会社の上司から来たもの。 ほんの、2ヵ月半、働いただけですし、別に、親しく話をしていたわけでもないですから、年賀状なんて、くれなくても、ちっとも構わないんですが、この世には、律儀な人もいるんですな。 元旦に来て、すぐに、返事を書き始めたのですが、裏が無地の年賀状がなくて、寒いのに、コンビニまで、自転車で買いに行きました。

  52円。 「インク・ジェット用と、手書き用がありますが、どちらにしますか?」と訊かれ、インク・ジェット・プリンターで刷るつもりでいたのに、つい、「手書き用で」と答えてしまいました。 手書き用でも、刷れる事が分かっているので、使った経験がある方を選んでしまったわけです。 一度、インク・ジェット用も試してみたいものですが、年に一枚では、賭けになってしまいますから、私の性格的に、できそうにありません。

  プリンターが不調で、全色は出ないので、写真でごまかす手が使えず、文章オンリーで埋めました。 内容は、岩手に異動した事、入院して、退職した事、北海道に旅行に行って、苫小牧を鉄道で通過した事など。 働き続けている側からすると、仕事を辞めた人間の話は、結構、面白いのではないでしょうか。 どちらが優越感に浸れるかは、別問題として・・・。 両方で浸っていれば、どちらも幸せで、そいつあ春から縁起がいいかも。

  プリントして、また自転車に乗り、ポストに投函へ。 二度目は、サンダル履きで出たので、寒いったらありません。 サンダルは、夏の履物だと、つくづく、再認識しました。 それでも、年賀状一枚、拵えたおかげで、2015年の元日に何をやったか、思い出が一つ、出来ました。 私自身が、会社とは無関係になった事だし、たぶん、来年は来ないでしょう。 その方が、正直、ありがたいです。


  私は、自分から出す年賀状を、とっくにやめているのですが、両親は続けていて、母が、「手書きは、かっこ悪い」と言うので、もう、10年以上、私が宛名をプリントしています。 私の感覚では、手書きの方が価値があると思うのですが、年寄りは、考え方がまるで逆なんですな。 古い言い方で言うと、「体裁ぶる」のです。 愚かしいことよ。 で、私自身とは、直截交渉のない、親戚や両親の友人達の宛名を、私が印刷させられているわけです。

  そういう事情を踏まえての話ですが、1月5日になって、年賀状が、二通来ました。 届いた日にちから考えて、こちらが出したのに対する、反応として、出されたものです。 その内の一通が、「名前の字と、住所の番地番号が間違えている」という指摘付きでした。 宛名印刷担当者としては、絶句せざるを得ませんな。

  名前の字を間違えたのは、私の入力ミスですが、番地番号の方は、向こうが去年引っ越して、知らせて来た新しい住所の内、「11」というのが、漢数字で書かれていた為に、母が、「二」と読み間違えて、名簿を訂正し、私はその通りに打ち込んだもので、私のせいではありません。 その相手は、しょっちゅう引っ越してばかりいる私の従妹でして、そのつど、住所を打ち直さねばならず、前々から、面倒な奴だと思っていたのですが、今回、間違いを指摘された事で、さすがに、カチンと来ました。

  「今日になって、修正指摘の年賀状が来たという事は、こいつは、今年、二通送って来たのか?」と、母に問い質したところ、なんと、元日には来ておらず、今日来たのが、一通きりだとの事。 つまり、返信だったのです。 向こうは、元旦に届くように出す年賀状の相手に、うちを入れていなくて、毎年、うちから行った年賀状の返事として、よこしていたんですな。

  これにはたまげた。 相手にたまげたのではなく、そんな相手に、何年も年賀状を出し続けていた、母に呆れたのです。 何たる、愚かさか。 向こうが、元旦に届くように出していないという事は、つまり、やめたがっているのであって、こちらの意思だけで、無理やり続けたって、迷惑なだけです。 それが分からんか? これだから、年寄りは・・・。

  もう一通の方は、近所に住んでいる親戚ですが、その家からも、もう何年も、元旦に年賀状が来る事はなく、こちらが出した返事として来ているだけだとの事。 なんで、そんな家に、いつまでも、年賀状を出し続けているのか、まったく気が知れません。 「不義理になるから」と考えているのかも知れませんが、先に不義理をしたのは、向こうなのであって、そんな相手に、こちらが、義理を感じる必要はありますまい。 むしろ、不義理を承知で出さないようにした相手に対し、いつまでも、年賀状を送り続けていたのでは、迷惑行為になってしまうではないですか。 まるで、年賀状ストーカーです。

  恐らく、母の本音としては、歳を取るに連れ、どんどん、つきあいが狭くなって行くので、極力、年賀状をやり取りする相手を減らしたくないのでしょう。 何を思い違いをしているのやら。 自分達が、あと何年も生きられない年齢である事について、真面目に考えた事がなく、親戚や友人とのつきあいが、永久に続くと思っているのです。 うちの両親の口から、いわゆる、「終活」について、話が出た事は一度もありませんが、「自分は、数年以内に、死ぬはずがない」と信じて疑わないのですから、出るはずもなし。

  とりあえず、「次からは出さないようにする」という事で、母と話が纏まりましたが、今年の暮れになったら、すっかり忘れて、また印刷しろと言うに決まっています。 私が管理しているリストの方に、注意書きを入れておいて、そうなったら、もう一度説得して、やめさせるしかありますまい。


  そもそも、年賀状などという、習慣がよくありません。 こんなの、昔は、なかったんですよ。 1949年に、お年玉クジが付くようになってから、一般化したのであって、成人式同様、「作られた伝統」なのです。 バレンタインデーに、菓子屋に踊らされるのと同様、郵便局に、よーく踊らされているのですよ。 他に誰が、得をするんですか? 切手シート貰って、幸福を感じる人は、年賀状を買うのに使ったお金で、直截買えば、もっとたくさん、買えますよ。 まったく、馬鹿馬鹿しい。 成人式の女の晴れ着と同じくらい馬鹿馬鹿しいと言えば、どれだけ、途轍もなく馬鹿馬鹿しいか、程が知れようというもの。

  うちの両親なんて、人づきあいが苦手なので、親戚とも友人とも、会うなんて事は、滅多にありません。 親戚はともかく、会わない友人は、すでに友人ではなく、昔の知り合いに過ぎないのですが、とにかく、会わないのです。 「会わないから、年賀状だけでも」と言うのですが、それは、建前に過ぎず、どうも、「生きているか、死んだか、探りを入れたい」というのが、本音らしい。

  地方新聞の死亡欄ばかり、熱心に読む年寄りというのがいますが、あれは、自分の知り合いが、先に死なないか、待ち侘びているんですな。 友人知人よりも、一日でも長生きすれば、それが、自分の勝利だと思っているのです。 しょーもな。 どんだけ、次元の低い勝負なんだよ。 そんな事でしか価値を測れない人生なんて、そもそも価値がありますまい。

  そういや、クラス会や同窓会に出席したがる人間の心理も、同じですな。 昔の級友が、自分より惨めな人生を送っている事を、確かめる為に、やしやし、出かけて行くのよ。 もー、やらしーったら、ありゃしない。 「行かないと、悪口を言われるから」? 最初から、一度も行かなければ、思い出されもしないから、大丈夫ですよ。 第一、来ない人間の悪口を言うようなクズどもに、人並みに評価されても、何の価値もないじゃありませんか。

  卒業後、クラス会なんて、ずっとやっていなかったのに、30歳くらいになったら、突然、企画され、出欠を訊ねる手紙が来たという場合、大概、幹事が言い出しっぺです。 なぜ、言い出したかというと、自分が勤め先で出世して、「長」が付く身分になったもんだから、それを自慢する為に、昔の級友を掻き集める必要があったわけですな。 とことん、くだらねー奴。 で、クラス会の席で、自分より出世している奴がいないと、「これからは、毎年やろうぜ」と言って、年に一回、優越感に浸ろうとするわけです。 こういう馬鹿を封じ込める手としては、とりあえず、断っておき、翌年からは、そいつだけ外して、集まるのがいいでしょう。


  また、脱線しておりますな。 年賀状というと、私には、嫌~な思い出があります。 ファミレスで、アルバイトしていた頃の事ですが、電話の連絡網を作るという話から、従業員の住所を書いた名簿が作られ、全員に配られました。 今のように、個人情報が重要視されていなかった時代の事です。 正月が近づいていたので、「住所が分かった以上、世話になっている社員の人には、年賀状を出した方がいいかなあ」と思い、何通か出しました。 ところが、新年明けて、店に出たら、その内の一人が、ゲラゲラ笑いながら、私をからかうのです。

「なーにぃ、年賀状なんて、よこしてー」

  大笑いですよ。 最初は、何がおかしいのか、全く分らなかったのですが、様子を観察するに、どうも、その人にとって、年賀状というのは、笑ってしまうような古臭い習慣で、そんなもの出す奴の気が知れなかったようなのです。 ちなみに、1988年です。 もちろん、その人からは、返事は来ませんでした。

  それ以来ですかね。 自分の方から出さなくなったのは。 笑い者にされたのでは敵わないから、というわけではありません。 笑い者にされたのは、嫌な記憶ですが、その人の考え方は、間違いではないと、判断したからです。 出さなくていいのなら、出さない方が、ずっと楽ではありませんか。 何が一番、楽だと言って、年賀状をやり取りする相手を確保する為に、つきあいたくもない奴と、つきあう必要がないのが、素晴らしく、気楽です。 また、昔の知人が死ぬのを心待ちにするような、低劣な人間にならなくて済むのもありがたい。

  歳を取って、引退して、つきあいが減れば、みんな、気がつくと思いますが、人づきあいなんて、いくら熱心にやったって、何の果実も得られない事は、明々白々です。 「つきあいだから」と言って費やされる、お金が、時間が、どれだけ多い事か。 うちの父なんて、親戚や友人知人の子供の結婚式に、何十回出席したか分かりませんが、合計200万円は楽に超えると思われる祝儀のリターンは、兄の結婚式だけで、まったく、元が取れませんでした。 馬鹿臭い。 何の為に稼いでいたのか分からん。

  私も、会社にいた時、結婚する同僚に、祝儀を渡したり、中途退職する後輩に、餞別を包んだり、家族を亡くした先輩に、香典を出したりしていました。 25年間で、合計、10万円くらいは飛んだと思いますが、私は、在職中に、結婚もしませんでしたし、親も死ななかった上に、退職した時には、知り合いがいない岩手でしたから、餞別も貰えず、リターンはゼロでした。 かつての同僚達に会う事は、もうないわけで、ただの払い損です。

  みんな貧しかった昔なら、いざ知らず、今では、ギリギリのところで助けてくれる他人なんて、いないのですよ。 生活に困ったら、役所へ行って、生活保護を申請するのが、唯一、真っ当な解決法です。 親戚の家に転がり込んだりしたら、害虫扱いですぜ。 友人の家なら、ウイルス扱いです。 そういう時代なんですよ。 つきあいなんて、もはや、何の利益も生みません。 「他人を助けてやれば、いつか、自分も助けてもらえる」という発想が、すでに、下司だ。 「他人を助けるな」とは言いませんが、それは、自分の生活を維持する事に、ゆとりがある人の特権だと思った方がいいでしょう。


  先ず、隗より始めよ。 不要なつきあいを断ち切るには、まず、年賀状からやめるべきですな。 とりあえず、年賀状が元日に来ない相手には、次の年から、出す必要はありません。 というか、出してはいけません。 向こうが、やめたがっているからです。 次に、一年に一回も会わない相手に対しては、こちらから打ち切る為に、正月になって、向こうから年賀状が来た後で、返事として、出すようにします。 何年か、それを続けていれば、その内、向こうから来なくなります。 来なくなったら、こちらも出さないようにして、おしまいにします。 この原則に従って、相手を減らしていけば、いずれ、ゼロになるはずです。

  年賀状だけのつきあいなんて、全部、切ってしまっても、何の不都合もありません。 「葬式に来てもらえなくなる」? 馬鹿おっしゃい! 死んだ後に、葬式に誰が来たかなんて、あんたにゃ、分からないんですよ。 そういう事は、死が、どういう事なのか、一度、じっくり、真面目に考えてから、言いなさい。 自分の葬式の参列者の心配など、この世で最も、栓がない事です。

  大人になってからも、仲が良い親友がいるという人は、素直に、幸福な人だと思いますが、そういう相手とは、しょっちゅう、顔を合わせているわけですから、それこそ、年賀状などは不要でしょう。