2008/11/30

「そんなことで……」?

  「テロだ!テロだ!」と大騒ぎして、分かってみれば、別にテロではなかった≪元厚生次官連続殺傷事件≫ですが、出頭して来た容疑者が口にした動機が、保健所のペット殺処分への恨みと抗議だとか。 事件の凶悪さと比べて、動機に重要性・緊迫性が欠如しているという事で、「信じられない」という意見が多いようです。 あまりにも嘘っぽいので、今後の捜査で、他に何か隠された動機が出て来るかもしれませんな。

  子供の頃に飼っていた犬を父親が保健所に連れて行ってしまったというのは、確かに人格に影響を与えるほどのショックだったと思いますが、恨む相手を間違えているのであって、保健所は定められた業務を行なっているだけ、殺すなら父親を殺すべきでしょう。 また、元厚生官僚を恨むというのも中途半端で、法律を決めたのは国会議員なのですから、議員を殺すべきではありますまいか。 更に遡れば、その国会議員を選出したのは有権者ですから、有権者を全員殺さなければ、本懐は遂げられますまい。


  まあ、事件の真相解明の方は措くとして、ちょいと気にかかったのは、容疑者の動機に対する世間の反応の方です。

「そんなことで……」

  この「そんなこと」という部分には、≪保健所のペット殺処分≫が含まれていると思われますが、もし承知して言っているなら、「毎年50万匹の元ペットが殺されている」という事実を、「そんなこと」の一言で片付けてしまう人間の方が、この事件の犯人より、なんぼか恐ろしいです。

  保健所の職員にしてみれば、恨まれる筋合いなど全く無いのであって、法律が無ければ、ペットを持ち込んでくる連中を全員追い返してやりたいと思っているでしょう。 伝染病に罹った動物ですら、命を絶つとなれば、重大な良心の呵責を感じるというのに、「世話が出来ない」、「吠える」、「糞が近所迷惑」、「子供が生まれちゃったから」などという、それこそ、「そんなことで……」と言いたくなる理由で、ペットを保健所に持ち込む人間が、年に50万人もいるというのですよ。

  まあ、想像してみましょうや。 あなたが、神様に呼び出されたとしましょう。 一方に人間が三人います。 もう一方には、50万匹の犬猫その他の動物がいます。 「人間二人を殺し一人に重傷を負わせるか、50万匹の動物を全部殺すか、どちらかを選べ」と言われたら、どうします?

  50万匹は凄い数ですぜ。 見渡す限り、犬・猫・犬だね。 大江健三郎さんの短編小説に、犬の処分をするアルバイトに応募してしまった若者の心の葛藤を描いた物がありましたが、その小説でも数十匹でしたよ。 50万匹とは、気が遠くなりますな。

  おっと、こんな究極の二択問題に答えを出してくれなくてもいいです。 ほいほい答えを出されちゃ、その方が迷惑だ。 参考までに言うと、私だったら、両方断ります。 「どちらかを選ばなければ、おまえを殺す」と言われたら、自分が殺される事にします。 もっとも、殺される前に、神を思うさま罵り倒しますが。

  だけどねえ、50万匹ペットを殺処分していて、「そんなことで……」は、まずいでしょう。 まともな感覚があったら、「そんなことで……」って言えないでしょう。


  命の問題は、重大でありながら、微妙な選択を求められるという特色がありまして、白か黒かと、簡単に言い切る事は出来ません。 いや、言うだけなら出来ますが、それは危険なのです。 軽々しく判断を下すと、自分自身を狂信徒や怪物に変えてしまう恐れがあります。

  ペット関係のサイトへ行くと、掲示板で時々、「飼えなくなったペットをどうするか?」という話題が出ます。 ペット・サイトという場所柄、ほとんどの答えは、「飼ってくれる人を探すべきだ」という事になります。 それ以外の答えを許してくれない雰囲気があるのです。 それで、実際にネット上で、引き取り手を捜すわけですが、これがなかなか見つからないんだわ。 そもそも、自分で決めて飼い始めたのに、途中で飼えなくなってしまったなんていうのは、恥且つ、罪ですから、そんな奴の為に、負担を引き受けようなんて人間は少ないんですな。

  希少動物の場合、逆に欲しがり手が多くて困るというケースもありますが、そういう種類を欲しがるのは、例外なく、≪コレクター≫ですから、近づかない方がいいです。 無生物のコレクターでも充分に病的ですが、生物のコレクターというのは、生き物を物体としか見ていない人間でして、非の打ち所の無い異常人格者です。 そういう連中と会話をしていると、「今いるのが死んだら、それを飼います」とか、「どうせ死ぬから、5匹くらい買っておけば、1匹くらいは残ると思います」などと、背筋が凍るような事を平気で口にするので、震え上がります。 こういう奴らにペットを譲るのは、殺すのと大差ありません。 同じ種類で、もっと外観が良い個体が手に入ったら、今まで飼っていたものを、生きたままゴミに出したり、肉食動物の餌にしたり、そんな事、何とも思っていないのですから。

  ゴミで思い出しましたが、昔、≪マリリンに逢いたい≫という日本映画がありました。 犬が海を泳いで渡るシーンがクライマックスの動物感動物で、そこそこ話題になりました。 ところが、その映画の冒頭に、犬をゴミ捨て場に捨てるシーンがあって、仰天しました。 ゴミ捨て場といっても、粗大ゴミ置き場とかそういう所ではないですよ、普通の燃えるゴミの収集所なのです。 そんな所に犬を捨てて、ゴミ回収車が来たら、どうなるか、想像しただけでも、頭がクラクラして来ます。 誰がそんな設定を考えたのか? もう決まってます。 生き物を物体としか見ていない人間以外考えられません。 そういう人間はたくさんいるんですよ。

  映画で思い出しましたが、その昔、時代劇では、金魚を殺すシーンがしょっちゅう出て来ました。 飲食物に毒が入っているかどうかを調べる為、金魚鉢に流し込むと、金魚が腹を上にして、プカ~っと浮いてくるという絵面を撮るためだけにです。 映像関係者は、金魚の命なんて何とも思っていなかったんですな。 で、この連中、家に帰れば、子供も孫もいたと思うんですが、その子らが金魚を殺して遊んでいたら、何と言って叱るんでしょうね? 「馬鹿! 可哀想な事をするな!」と、言えるのかどうか。 もしかしたら、一緒になって殺して遊ぶのかな?

  話を戻しますが、犬などの場合、むしろ、「引き取ります」と言ってくる奴の方が信用できません。 「一匹飼ってるから、もう一匹増えても、大して変わらない」などと鷹揚ぶった口を利きますが、とんでもない話です! 一匹が二匹になれば、飼う手間は倍です。 大体、どうやって、散歩へ連れて行くつもりなのか。 登録費用や予防注射の代金を払い続けられるのか。 三匹目・四匹目などとなれば、その種の義務を無視する魂胆なのは見え見えで、人間として全く信用できません。

  よく大学生などで、「ペット・レスキューを始めました」などと書いている奴がいますが、若気の至りというか、青臭くて鼻を摘みたくなるというか、呆れて物が言えません。 捨てられた犬を引き取って、貰い手が見つかるまで世話をするという行為ですが、はっきり言って、学生風情に出来る事ではないのです。 散歩が不要なほど広い土地を持っていて、財産があり、しかも、社会的地位もあって、友人知人がたくさんいるという条件が揃わなければ、飼う事も、貰い手を探す事も出来ないではありませんか。 自分自身が親に養われていて、独自の収入はせいぜいアルバイト代くらいなんて奴は、はなから資格外なのですよ。 まず、自分をレスキューせよ。

  実際、それを始めて、最初の内は社会的正義感に燃えまくっていた奴が、三ヶ月もするとパタッと姿を消しますが、ああ、もう決まってます。 体力的・経済的に破綻したのです。 犬を飼うのがどれだけ大変か、全然分かっとらんのよ。 よく、何十匹も犬を飼っていて、悪臭・騒音など近所迷惑が甚だしく、結局、無登録&注射義務違反で逮捕されるオッサンがいますが、ああいう人も、基本的には、「殺される犬を助けてやりたい」という気持ちからスタートしているのであって、レスキュー学生と同類です。 自分の限界を知らない為に起こす悲劇ですな。

  ま、およそ、ペット関連の社会活動をしているなんて連中に、まともな人間は少ないです。 よくても変人、悪ければ狂人。 動物好きが昂じて、人間社会のルールを軽視するようになってしまったんでしょう。 奇妙な事ですが、動物好きが行き過ぎて、くるっと一回りして、動物を物体としか見なくなるケースもあります。 ペット・ショップの店長などが典型例で、最初は動物が好きでその職業を選んだわけですが、毎日毎日、動物を売り買いしている内に、感情が摩滅して、個々の区別などなくなってしまい、収入を得る為の商品としか見れなくなってしまうんですな。

  ペット・サイトの掲示板には、時々明らかに、「こいつ、動物好きでも何でもないな」と思われる、部外者が入ってくる事があります。

「ペットを捨てるのは許せない。 貰い手を探せないなら、保健所に連れて行くのが、飼い主の義務だ」

  ちょっと聞くと、正論のように感じますよね。 実際、そう判断した人達が、続々と保健所へペットを持ち込んで、50万匹なんて数になっているわけです。 だけどねえ、保健所へ持ち込めば、ほぼ確実に殺されるわけですよ。 それが分かっていて、持って行く人というのは、動物の命をどういう風に捉えているんですかね?

  確かに、社会的には、ルールに則った行為で、何ら罰せられる事はありませんが、倫理的には、明らかに、×でしょう? ×だよ、×。 それまで家族同様に飼っていたペットを、殺されると分かっている施設へ持って行く心理って、どういうのよ? もし、動物でなく、自分の親や子供だったら、それが出来るかね? そんな事を平気でしていたら、心が壊れてしまいますよ。 自分が何者なのか、分からなくなってしまいますよ。

  私だったら、保健所へ持って行くくらいなら、むしろ捨てます。 まだ生き残る可能性が高いからです。 法律や条令より、まともな生命感覚を維持する事の方が大事だと思うからです。 だけど、その前提として、飼えなくなる可能性があるものは、飼わないように自分を戒めるようにしています。 できれば、何も飼わないのが一番ですな。 つくづく、そう思います。 食玩フィギュアのコレクションでもしていた方が、桁違いに罪が少ないです。

  もっと、恐ろしい奴もいます。

「保健所へ持って行くくらいなら、自分の手で殺すべきだ」

  こういうのを極論と言います。 口にするのは、完璧なキチガイですから、接近無用です。 ペットを自分の手で殺すようになったら、もう人間をやめた方がいいでしょう。 明らかに、自分が死んだ方が良いです。 世の中の為にも、当人の為にもなります。 この種の極端な表現には、麻薬的な影響力があり、真に受けて、実行する者もいます。 そして、他人に告白するのです。

「俺は、飼い主の義務として、自分の手で始末したよ」

  狂ってます。 そして、狂人の常として自分が狂っていることに気付いていません。 接近厳禁ですな。 だけどねえ、本当に、こういう人間はいるんですよ。 恐ろしい事に。


  今年、≪ブタがいた教室≫という映画が公開されました。 小学校のクラスでブタを育てて、最後に食べるという、実際にあった授業を元にした話だそうです。 食べるか食べないかで、クラスの意見が半分に分かれたそうですが、私が驚いたのは、半数もの児童が、「食べる」を選択したという事実です。 つまり、彼らにとって、そのブタは、ペットではなく、物体に近かったんでしょうな。

  この授業、子供に命の大切さを教えるのが目的だったらしいですが、許可する前に、まず、それを考えた教師本人で試すべきだったでしょう。 その教師に学校の敷地で一人でブタを飼わせ、最後に殺せるかどうか観察するのです。 もちろん、殺す場合は、全児童全教師注視の中、公開でやらせます。 殺せなければ問題なしですが、殺す方を選んだら、その教師、「人間性が欠如している」と見做され、ほどなく失職する事になるでしょう。 学校のウサギ小屋で生まれた仔ウサギを、「世話が大変になるから」という理由で生き埋めにしたキチガイ教師と、どこが違うねん?

  食肉用の動物の命をどう考えるかは、ペット以上に微妙な問題で、大人でさえ思考停止させている者がほとんどです。 子供に判断を押し付けるような、単純な問題ではありますまい。

2008/11/23

薄ら寒い話

  私の勤め先ですが、製品の三分の一がアメリカ市場向けであるにも拘らず、なんと11月に入ってから、二割近く増産し、残業が一時間半になりました。 「金融危機で世界が引っ繰り返っているというのに、何を考えてるんだ、この会社は?」と、こめかみに脂汗を流していたら、月の半ばから一転して減産に。 一気に残業がなくなりました。 扶養家族のいない私としては、目の色変えて金を稼ぐ必要が無いので、残業は減れば減るほど大歓迎! 善き哉善き哉、泣くほど嬉しい年末となりました。

  しかし、都合が悪い人も少なからずいるようです。 日本の製造業従事者は、基本給は低くて、残業代で稼ぐ形になっているので、それが無くなると、手取りが一気に三分の二くらいに減ってしまうのです。 残業が毎日一時間以上ある事を前提にして生活計画を立てている人達には、嬉しいどころか、血の気が引く時節の到来となったわけですな。

  工場勤めでないと、こういう事情は信じられないかもしれませんが、残業が減ると、わざとラインを停止させる輩が出てきます。 それまで何ヶ月もノー・アクシデントで動いていた機械設備が、残業が無くなった途端に、故障するのです。 確率的に言って、そんな事が起こるはずがないのですが、現実に止まるのだから、こりゃもう、人為的に故障させているとしか考えられません。 一日の生産台数は決まっているので、30分停止すれば、残業が30分延びて、千円か二千円給料が増えるという寸法。

  「そんな不正は、上司が放っておかないだろう」と思うでしょうが、ところがどっこいしょ、その上司が指示して、故障させているのですよ。 工場長、部長、工長クラスまでは結託してると見られます。 一番お金を欲しがっているのは、子供の学費を稼ぎ出さねばならない、その年齢帯のオッサン達でして、「給料が増える分には、誰も文句は言わないだろう」という理屈で、会社の不利益などお構い無しに停めまくります。 まさか、工場でそんな事をしているとは思わない経営陣が知ったらびっくりですが、グループの下位企業や子会社の場合、経営陣までが、この種の不正に暗黙の了解を与えている場合があります。 「どうせ、親会社が金を出してくれるから、少しくらい残業を増やしたって、構やしない」ってなわけですな。

  恐ろしい習慣ですが、日本全国のあらゆる業種の工場で、こういう事は普通に行なわれていると思いますよ。 これが、独立経営の中小企業だったら、言語道断な話ですわなあ。 社長が従業員の給料を払う為に、金策に駆けずり回っているというのに、工場で、残業代を増やす為に、わざとラインを停めていると知ったら、社長ブチ切れでしょう。 そんな悪事を企む社員は、会社の癌以外の何者でもないのであって、即懲戒解雇、いや、それでも生ぬるい! 背任罪で訴えるでしょう。 ところが、大きな会社になると、そんな言語道断な事が、日常茶飯事として行なわれているんですな。


  私の勤め先では、まだ行なわれていませんが、派遣社員や期間工があちこちで切られているらしいですね。 生産量が減った時に切り捨てる事が出来るように、派遣社員や期間工を雇うわけですから、当然と言えば当然ですが、実際に放り出される立場になってみたら、血の気が凍る思いでしょう。 世の中が不景気で、どの会社も人を減らしているのに、再就職先なんて見つかるわけがありません。 近々切られる事に決まった派遣社員達がストをやったというニュースがありましたが、何だか虚しい抵抗ですねえ。 会社側は、もう切るつもりでいるんだから、ストなんぞ全く怖くないのであって、人員削減後の態勢に移行するのを前倒しすれば済む事。 むしろ、ストは好都合ではありますまいか。

  今回の不況、未曾有の大波ですから、現在、正社員で職に就いている人でも、油断は禁物です。 いや、油断しなくても、乗り切れない可能性が高いです。 何十年勤めた会社でも、「すまんが、人を減らさなければ会社が潰れてしまうから、辞めてくれ」と言われたら、抵抗のしようがありません。 採用契約を盾に食い下がっても、会社が無くなってしまえば、結局、路頭に迷うわけですから、ほんのちょっとの時間稼ぎにしかなりませんな。 一旦クビを宣告された人間が、職場に戻って、以前と同じように円満に仕事を続けたなんて事例は、古今稀でしょう。

  だけどねえ、「俺をクビにするような見る目の無い会社に将来は無い。 こんな所、こっちから見限って、さっさと次の勤め先を探した方が利口だ」なんて決断を下すのは、勇み足の最たるものというべきです。 だからよー、世の中全部、不景気なんだよ。 クビになったような奴をホイホイ拾ってくれる会社なんてあるわけねーっぺよ。 どんなに格好悪くても、どんなに自分が醜く見えても、ギリギリまで粘って、失業を遅らせるのが正解だと思います。

  こういう時に、普段、貯金を全くしない方針の人間は脆いんだよねえ。 何というか、「給料というものは、貰ったら、生活費を除いて、全部使うものだ」と思い込んでいるパッパラプーが少なからずいるんですな。 いや、生活費と遊興費の違いを区別できていないと見るべきか。 仕事のキャリアを学生時代のアルバイトから始めた奴に、こういうタイプが多いです。 「働いて得た金は、自分の小遣いだから、好きに使うのが当たり前」という図式が大脳皮質に刷り込まれてしまっていて、「持ち金は、人生全体の為の運営資金なのだ」という意識にスイッチできないままでいるのです。 「貯金しといた方がいいんじゃないの?」と言うと、「そういう人もいるね」と他人事のような返事。 馬鹿だね~。

  でもって、リストラで早期退職者募集なんて話になってくると、後先考えず仕事を辞めて、あっという間に文無しになり、ホームレス化していくんですな。 こういう連中に共通している特徴は、「人生なるようになる。 金なんか気にする必要は無い」といった考え方です。 ホームレス化しても、寝床が確保できて、一息つくと、「ほら、やっぱり何とかなった」と納得してしまいます。 だけどね、ならないんですよ。 「なんとかなる」と思っている限り、ブレーキがかかりませんから、落ちる所まで落ちていって、≪死≫まで止まりません。

  同じホームレスでも、野郎の場合そうでもないですが、お婆さんが、垢だらけの真っ黒になって、ボロキレみたいな服にくるまり、体を丸めて寝ているのを見ると、「ああ、これは厳しい末路だなあ……」と身に凍みて感じますね。 そういう時つくづくと、「どうこう言っても、お金は大事だわ」と痛感するのです。 普通の生活をしている時は、「自分に、ご褒美」などといって、要りもしないのに高い物を買ったり、興味も無いのに、見栄を張って海外旅行に出かけたりしますが、ホームレスになって、その日の食べ物の当ても無くなったら、「ああっ、あの時、どうして、あんな無駄遣いしたんだろう!」と地団駄踏んで悔しがるのは必定。 備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖、貯金は一円でも多くしといた方がいいですわ。

  おっと、そうそう、「俺は金の事は気にしないようにしている。 小遣いだけ貰って、後は全て女房に任せている」と、同僚達に妙な自慢をしているあなた。 時々、預金通帳をチェックしといた方がいいですぜ。 あんたの配偶者に、まともな金銭感覚があるかどうか、誰も保証なんぞしてくれないのだからね。 特に、結婚前にブランド道楽だった女で、専業主婦になったような奴は要注意です。 気晴らしに何を買っているか分かったもんじゃありません。 亭主の稼ぎをみんな使ってしまって、「食えなくなったら、実家に戻ればいい」という作戦計画を温めているのだから、もはや新手の妖怪ですな。


  今の世界経済の状況を見ていると、大恐慌が再来する可能性は極めて高いと言わざるを得ません。 なぜかというと、大恐慌を避けられると判断する材料が少ないからです。 震源地のアメリカでは、オバマ次期大統領が、まだ就任しない内から、≪ニューディール政策≫のリメイクをやるような事を宣言していますが、そううまく行くものなのか、首を傾げているのは、私だけではありますまい。 ≪ニューディール政策≫の時は、恐慌が進んで、落ちるところまで落ちたから、「もう他に手は無い」という事で、社会主義的政策に国民全体の支持を集める事が出来たわけですが、現在の状況はまだそこまで行ってません。

  大恐慌の時は、1929年の株価大暴落から、≪ニューディール政策≫が始まる1933年まで、四年間も恐慌の嵐が吹き荒れたのです。 へろへろになっていたからこそ、カンフル注射が効いたんですな。 それに比べると、今はまだダメージが少なすぎます。 富裕層はほとんどそのまま残っていますし、貧困層でも、まだ失業者が爆発的に増えたわけではなく、せいぜい、「将来に不安がある」という程度。 オバマ氏の大統領就任時になっても、この状態はさして変わらないでしょう。 この段階で、社会主義政策を実行したら、反発必至ではありますまいか? 極端な話、失業してもいない人間を、無理やりダム工事に刈り出すようなものですな。 誰がそんな政策についていくのよ?

  すなわち、≪ニューディール政策≫をやるにしても、その前提として大恐慌を避ける事は出来ないという、ジレンマが存在するのです。 結局、大恐慌じゃん! どうすんねん?


  以下オマケ。

  アメリカの自動車ビッグ3がコケそうだというので、日本の軽薄人士どもが、「これで、トヨタが世界一になる」と喜んでいるようですが………、馬鹿か、おんどれら? ビッグ3がコケたら、アメリカは失業者の海になってしまうのだぞ。 そうなりゃ、誰も車なんか買ってくれません。 専らアメリカ市場で利益を稼ぎ出している日本の自動車メーカーも、致命的打撃を受けるのが目に見えています。 そんな単純な事がわからんのけ?

  フォードが、マツダ株を手放すというので、まるで、独立を勝ち取ったかのように寿いでいる日本人がいるようですが………、何か途轍もない勘違いをしているようですな。 青くなってるのは、マツダの方じゃないの? マツダという会社は、日本のバブル崩壊後に一度コケた会社で、倒産寸前の所を、フォードに助けてもらったという経緯があります。 フォードは、マツダの経営を立て直すために、どれだけ資金を使ったか分かりません。

  今はもうやっていませんが、ついこの間まで、アメリカのフォードのサイトへ行くと、自社ブランドの紹介ページに、「この車と同じ車格の車に、マツダの○○があります」といった文面が添えてありました。 グループ内企業だから、広告面でも支援していたんですな。 マツダは、関係が切れたとしても、大恩人フォードには足を向けて寝られますまい。

  そもそも、マツダが単独で世界戦略を立てて、これからの熾烈な国際競争に生き残っていけるかどうか、一番恐れているのは、マツダの経営陣でしょう。 私は、判官贔屓なので、昔はトヨタ・日産など大嫌いで、マツダの隠れファンでした。 マツダ車は早くからヨーロッパ風デザインを取り入れていたので、未来好きだった私の趣味に合ったのです。 80年代の車で、今見てもさほど古さを感じないといったら、マツダ車だけだったといっても宜しい。 ところが、今のマツダ車には、何の魅力も感じません。 全く欲しいと思わないばかりか、ただ眺める気にすらなりません。 他社の車と比べてどこが悪いというわけではありませんが、マツダの特徴だった個性が無くなってしまったんですな。

  「フォード、ドル箱を手放す」? 何を利いた風なセリフを。 本当にドル箱なら、手放す馬鹿などいるものか。

2008/11/16

三敗地に塗れる

  困ったなあ。 それでなくても、ここ最近、休日の天気が極悪で、気が晴れない事が多いというのに、その上更に困った事にぶちあたるというのは、ほとほと普段の行ないが良くないと思われる次第。 まあ、生きるの死ぬのといった大した問題では全然ないんですが……。

  この夏頃から、コメントを打つようになったブログが、三軒ばかりあったんですが、まだ三ヶ月しか経っていないのに、すべて、ぽしゃってしまったのです。 別に喧嘩をしたわけではないんですが、コメントできなくなってしまったんですな。


  一ヶ所は、季節の花の写真をテーマにしているブログで、まあ、そういう所はたくさんあるんですが、その中の一つです。 花の特徴や、育て方、花言葉など、植物辞典風に紹介した文を添えてあり、そこそこ年配の真面目そうな作者だった事と、八月に開設されたばかりで、コメントを打つ人がほとんどいなかったので、応援するつもりで、当たり障りの無いコメントを打ち始めました。

  と・こ・ろ・が・だ~・・・・、三ヶ月間、私以外にまともな客が一人も来なかったのです。 「すいてて、いいじゃないか」という見方も出来ますが、それも最初の内に限った事、たった一人の常連を演じていると、月日が経つに連れて、だんだん≪重く≫なってくるんですな。 花ブログによくある、自分のブログを宣伝する為のコメントなら、時々入るんですが、そこの作者の人が、「宣伝コメントには、返礼をしない主義」のようで、レスを書いたらそれでおしまいにしてしまうものだから、後が続きません。 いや、そういう主義は立派だと思うけどー、まだ立ち上げたばかりなんだから、付き合いの範囲を広げる為にも、返礼くらいはした方がいいですって。 社交辞令のやり取りから始まって、徐々に親しくなって行くケースもあるんだから。

  それと、そこのブログのシステムは、アクセス・ログ機能はもちろんの事、カウンターすら設置できないようで、私が初めて見に行った時など、作者自身が、「誰もコメントしてくれないけど、このブログ、見てくれてる人いるのかなあ?」などと、ボヤいていた始末。 だーからー、アクセス・ログを取らなければ、何人が見に来ているか、知りようがないでしょうが。 どーして、その事に気付いてくれんかなあ。 私の推測では、私以外、誰も来ていないと思うのですよ。 たまに入る宣伝コメントは、大方、単語検索で引っ掛かって来たものでしょう。

  涙ぐましい事に、「ブログは、更新頻度を上げれば、閲覧者が増える」という教条を墨守していて、一日に5件も記事をアップしているのですが、そんな法則が生きていたのは、もう大昔の話ですって。 今は、ブログ・センターをうろついている連中なんていないんだから、いくら更新しても、気付く人なんていやしません。 一件あたり、写真+10行前後の文章を、一日5件となれば、並々ならぬ労力と時間を割いているに違いないのですが、無駄この下無いです。 更新なんて一日一件どころか、一週間に一件でもいいのであって、余った時間を巡回に回した方が、閲覧者もコメントも遥かに多く獲得できるでしょう。 もう、やきもきイライラしちゃって、見てられませんや。

  だけど、こちらとしては、そういう事を指摘できないんですよ。 相手はネットを始めて間もない人ですが、年齢はかなり行っているようなので、差し出がましい口を利けんのです。 まして、サイトならいざ知らず、ブログでは、作者が書きたい事を書けるのが最大の特典ですから、他人があれこれ指図するのは、明らかに場違いな非礼行為となります。 サイトを≪店≫に譬えるなら、ブログは≪自室≫であって、自室の中をどう使おうが、当人の勝手ですからねえ。 コメントに、「それは違うと思いますね」なんて打たれただけでも、充分ムカッと来ますが、「ああしろこうしろ」と指図されたら、もうブチ切れるでしょう。 そんなのが何度もあるようなら、コメント機能オフにしますよ。

  ああ、せめて、アクセス・ログ機能があるサービスに移ってくれれば、作者当人にも現状が分かって、アドバイスのきっかけが出来るんですがねえ。 このまま、コメント無しで半年も続ければ、自ずと誰も読んでくれていない事を悟るでしょうが、その頃には更新に疲れて、すっかりやる気をなくしているから、アドバイスなどしても、聞いてくれんでしょう。 なまじ、悪い人でないだけに気の毒だなあ。


  次のブログ。 人形の服を作っている人の所です。 タカラ・トミーの≪ジェニー≫という着せ替え人形をモデルに、6分の1サイズの和風の服を仕立てて、ブログに公開していたのですが、その出来があまりにも素晴らしいので、私、人形趣味など全く無いにも拘らず、心惹かれて、賛美のコメントを打っていたのです。

  そうこうする内、その作者、6分の1サイズに飽き足りなくなって、≪ミニ・スーパー・ドルフィー≫という、4分の1サイズの人形に乗り換えを計りました。 ちなみに、3万円くらいするらしいです。 顔が描いていない状態で売られているそうで、「自分では描けないから、有料で描いてくれる人に依頼する」と言ったり、「髪が短くて服に合わないから、韓国から長髪用のカツラを通販で買う」と言ったり、野越え山越え、艱難辛苦を乗り越えて、ようやく人形と一着目の服が完成し、写真が公開されました。

  と・こ・ろ・が・だ~・・・・、その人形が、キモいのですわ、あ~た! まず、頭と胴体の比率が悪い。 頭ばかりドデかくて、まるで人間の体型をしていないのです。 3・4歳の子供なら、こういう体型もアリかもしれませんが、それにしても頭がでかすぎる。 それでいて、顔立ちは、やけに彫りが深く、日本人離れした立体造作。 しかも大人の女の化粧顔が描かれているわけですよ。 想像できますか? 3・4歳の子供の体に、25歳くらいの大人の女性の顔が載っている様子を。 キモい、キショい、グロテスク、怖気を振う、鳥肌立つ・・・、そんな形容しか思い浮かばぬ、途轍もなくひどい人形なのです。 いやあ、まいったなあ・・・。

  そこそこ人気があったブログで、それまで、更新があれば必ず何人かがコメントを打っていたのですが、一度その人形の写真が公開されるや、誰も何も言わなくなりました。 あまりの気持ち悪さに、逃げてしまったのは疑いありません。 私なんか、その写真を見たくないばかりに、そのブログを開く事さえ出来なくなってしまったのだから、その甚だしさが想像できるでしょう。 ところが、作者当人は、その人形のひどさに気付かないのか、お金と労力を投入しているから認めたくないのか、「なかなか、いいんじゃないの?」などと書いている始末。 「これからは、この人形をモデルに、衣装を作って行きます」などと抱負まで語られては、もうお手上げです。

  どーすりゃ、いいのよ、この私は! 「あなた、その人形は、キモいから、やめた方がいいですよ」と言ってやりたいんですが、上述したように、ブログとは個人の自室ですから、他人がどうこう言うのは掟破りです。 批判するくらいなら、コメントなど打たない方が良い。 「何でも言い合えるのが、本当の友人だ」などというのは、現実を知らぬ馬鹿の戯言で、どんな親友であっても、何でも言い合っていたら、果ては殺し合いの喧嘩になります。 況や、ネット交友で、しかも日も浅い相手では、何も言えないではありませんか。

  そもそも、私がその人のブログに行くようになったのは、作品のセンスが良いと思ったからであって、他に理由は無いのです。 今回の騒ぎで、センスが良いどころか、≪気持ち悪い≫と≪可愛い≫の区別もつかない事が判明したのだから、これ以上、交友しても、得る所はありますまい。 ちなみに、その作者、未婚女性なので、客の中には、明らかにスケコマシ目当てでやって来ていた野郎もいましたが、そいつでさえも、人形のキモさに耐えかねて、逃げて行きました。 うーむ、目覚しき虫除け効果!

  つまりその、私が最初、その人のセンスが良いと思い込んでいたのは、ほとんど、≪ジェニー≫という人形の完成度の高さに支えられていたんでしょうな。 ≪ジェニー≫は、顔は少女っぽいですが、体は完全に大人体型で、頭と胴体のバランスも、実際の人間と同じなのです。 リアルな服を着せて、後ろ姿を写真と撮ると、本物の人間と区別がつきません。 タカラ・トミーの研究レベルは高かったんですねえ。


  さて、三軒目ですが、これは写真ブログです。 街なかをフィールドにして、普段人が見ないような角度から風景を切り取る人で、私もそういう写真を撮るのが好きなものですから、つい惹かれて、コメントを打ち始めたのです。 技術がしっかりしている上に、感性が研ぎ澄まされていて、「ほお、こんな人がいるんだねえ」と、日頃、写真作品にはシビアな私が、感服仕った次第。

  と・こ・ろ・が・だ~・・・・、やはり、一人の人間が撮る写真というのは、パターンが決まってしまうんですな。 二週間ごとに繰り返される、夕飯のおかずみたいに……。 二ヶ月もしたら、コメントに書く事がなくなってしまったのです。 「この写真は、○○がいいですね」の、○○の部分のパターンを書き尽くしてしまうと、それ以上、話が発展しないのですよ。 また、その人が、写真オンリーで、文章を添えないから、雑談へ逃げるという事もできません。 厳しいな~。

  ちなみに、そこのブログも、コメント客は私一人でして、日に日に責任が重くなって来て、もうトンヅラ寸前の心境です。 作者は悪い人じゃないので、応援してやりたいんですが、私一人ではどうにもなりません。 当人が巡回してくれればいいんですが、そういう変わった写真を撮っている人は絶対数が少ないので、なかなか付き合う相手が見つからないんでしょうねえ。


  今のところ、人形の所以外は、まだ粘ってみようかなと思っているのですが、見通しは暗いです。 結局は、疎遠になって行きそうな予感がヒシヒシと感じ取れます。 やれやれ、ネット交友の難しさは、何年やっても克服できないものですな。 楽しみよりも苦労の方が多くなってしまったら、続ける意味はないですからねえ。

2008/11/09

軍事知識

  広東省の珠海市で、航空ショーが開かれたそうで、中国のポータル・サイトの軍事情報ページは、ここ一週間ばかり、そのニュースで埋め尽くされています。 ちなみに、中国のポータル・サイトは、≪ネット新聞≫というべき役割を担っているのですが、大抵、≪軍事≫というニュース・カテゴリーが設けられていて、最新の情報が写真入りで、惜しげもなく公開されています。 日本だと、ネット上で軍事関連ニュースを読める所は、ちょっと思い当たりません。 ≪航空ファン≫とか、≪世界の艦船≫とか、そういった専門の雑誌を買わなければ、兵器の写真など拝めません。 単に軍事関連のコンテンツを出している個人サイトならありますが、ほぼ100%胡散臭いので、見るに値しません。

  で、その≪珠海航空ショー≫ですが、ここ一二年の間に世に出て来た、中国軍の最新鋭機が登場して、世界中から集まった軍事関係者の目を釘付けにしている模様。 特に、戦闘機、≪殲10≫のデモ飛行は、想像されていた以上の運動性能を見せつけ、観客を驚かせたらしいです。 この≪殲10≫、開発の噂が流れてから、20年くらい経って漸く完成したという、相当な難産だったのですが、出来栄えは非常に良いようです。 開発者の談によると、「風洞実験を延々と繰り返した」そうで、コンピューター内のシミュレーションで設計したわけではない点は、実際の飛行では強味になるでしょう。

  イスラエルが作りかけて、途中で計画を打ち切った、≪ラビ≫という試作機をベースにしていると言われていますが、≪ラビ≫自体が、アメリカの≪F16≫の胴体に、フランスの≪ミラージュ≫のデルタ翼を組み合わせた改良版ですから、「どこがオリジナルか」などという議論そのものが無意味です。 ≪F16≫と、≪殲10≫を見比べて、「似ている」と言う人がいたら、それは、戦闘機デザインについて、よく知らない人でしょう。 中国の航空機メーカーが、それまで経験が無かった、デルタ翼+カナード機を作り、しかも、その飛行性能が優れているという点こそが、注目すべき部分なのです。

  他に、≪梟龍≫という戦闘機も出ましたが、これは、パキスタンと共同開発した物で、≪殲10≫よりは、性能が落ちるようです。 翼のレイアウトは、こちらの方が≪F16≫に似ています。 基本的に輸出専用らしく、中国軍で採用されるかどうかは微妙な所。 中国の空軍は、装備の質に関して厳しい考え方を持っていて、性能が要求基準より低いと、国産でも採用しません。 中ソ対立で、外国製機が手に入らなかった時期でも、≪没≫にされた国産機がかなりあったようです。 国産なら少々欠陥があっても採用してしまうどこかの国とは哲学が違っているようで興味深いですな。

  もう一機、≪飛豹≫という戦闘爆撃機があって、これは海軍が採用しています。 英仏共同開発の≪ジャガー≫に似ていると言われていますが、水平尾翼には、≪ミグ21≫の面影があり、むしろ、ソ連デザインの流れを汲んでいると見受けられます。 中国海軍は、近い将来、空母を建造する計画を持っているようですが、≪飛豹≫は、翼面積が小さいので、艦上に降りるのは厳しいでしょうな。 もっとも、艦載機候補の機種は、ロシア製機が検討されているようですが。

  飛行機以外にも、単体のジェット・エンジンが、出力別に何種類も展示されたそうで、中国が航空機開発に莫大なエネルギーを投じている事が分かります。 最初の出現から半世紀以上経った今でも、ジェット・エンジンの開発は難しくて、世界中に戦闘機を作っている国は数あれど、エンジンを自前で作れる国は指を折って数えるほどです。 台湾・日本・韓国など、アジア勢の≪国産機≫も、エンジンはアメリカ製なのが普通。 これまた、中国空軍は、「使えねーもんは、買わねー」主義なので、国産エンジンが大量に出て来たという事は、「これなら使える」というレベルに到達した証拠だと思われます。

  そうそう、地対空、空対空など、ミサイル類もどかどか写真が出ていました。 一体何十種類、同時進行で開発しているか分からないほどです。 地上戦では、ミサイルの性能向上で、戦車が陳腐化してしまいましたが、空や海でも事情は同じでして、これからの戦闘は、ミサイルの性能がすべてを決めてしまうと思われます。 百億円以上する戦闘機が、一千万円のミサイルで、一瞬の内にスクラップに変わってしまうのですから、ミサイルの性能向上に力を注ぐ事が如何に効率的か分かろうというもの。

  中国の兵器装備は、陸海空全方面で目まぐるしく刷新されつつあります。 現状の目標を推測すると、恐らく、質・量ともに、アメリカ軍と同じレベルを目指しているものと思われます。 海軍は最もその志向が強く、アメリカで言えば、イージス艦に相当する電子戦闘艦が、次々に登場しています。 一砲塔、垂直発射ミサイル、レーダー一体式自動迎撃機関砲、船尾にヘリポートと、アメリカ型のレイアウトを、ほぼそっくり取り入れていて、ソ連・ロシア型とは明らかに決別してしまいました。 アメリカの場合、イージス艦は、駆逐艦でも巡洋艦でも、それぞれ艦型が一種類に統一されていますが、中国の場合、複数の艦型を同時進行で作っており、これはたぶん、いろいろな艦型を試しているか、技術の進歩に建造が追い付かず、そのつど新設計しているかの、どちらかでしょう。

  軍事アナリストがよく、中国軍と台湾軍を比較して、「どちらの方が優位」といった事を書いていますが、全く馬鹿馬鹿しい比較で、「頭は大丈夫か?」と訝ってしまいます。 中国軍が意識しているライバルは、アメリカ軍なのであって、規模からして、台湾軍と比べるなど、ナンセンス極まりないです。 象と犬を比べて、どちらが強いかと言っているようなものです。 実際に戦争にでもなったら、三日もしない内に、台湾軍は身動き取れなくなってしまうでしょう。 それを、「互角に戦える」だの、「台湾軍の方が航空戦力は優位」だの、冗談としか思えない見解を並べていますが、台湾人に誤まった自信を植えつけるような意見は控えるべきでしょう。 中国軍が全力を出したら、台湾どころか、西太平洋全域を制圧するくらいの力は充分にあります。 アメリカは、中国と戦うとなったら、核戦争を覚悟しなければなりませんが、そうなればアメリカも消えるのであり、そんな選択肢は無いのだと、よくよく認識すべきです。 日本や韓国など、その他の小国は尚の事。

  日本の軍事雑誌や新聞などを見ていると、中国の軍事技術を、旧西側のそれより劣っていると見下した態度が、ちくちくと見受けられますが、途轍もない思い違いなので、鵜呑みにしてはいけません。 まず、日本で軍事知識があるような人間は、大抵、右寄りの思想傾向があり、中国やソ連・ロシアを忌み嫌って、「どうにかして馬鹿にしてやりたい」と機会を覗っています。 そんな偏った頭の持ち主に、客観分析などできるはずがないのです。 そういう連中の書く文章は、冒頭からして、悪意と侮蔑で装飾されていますから、すぐ分かります。 ちょっとでも客観性を欠いたような表現があったら、もうそれ以上は読まない方がいいですな。 時間と労力の無駄。 ただ嫌味を綴ってあるだけなのであって、そんなのは情報でも何でもないからです。

  一方、新聞や一般の雑誌ですが、既に何度も指摘しているように、書いている人間がベタベタの文系ですから、科学技術全般に疎く、軍事知識も皆無に近いです。 大学で、純文学の人間性描写に耽溺していたような人々に、「ミサイルがどうの、ステルスがこうの」などと言っても、馬に念仏を聞かせるようなものでしょう。 軍事知識というのは、最低限、一時期でも兵器に興味を抱いていた者でなければ、頭に入ってこないのです。 嘘だと思ったら、そちらの方面に全く興味が無い友人を捕まえて、ロケット砲と無反動砲の原理の違いでも説明して御覧なさい。 そんな単純明白な事でも、何回繰り返しても、理解してくれないから。

  恐ろしいのは、そういう天下御免の門外漢達が、全国紙の新聞で、軍事記事を書いたりしている事でして、一般の読者はもっと疎いですから、まるで頓珍漢な内容でも鵜呑みにしてしまいます。 たとえば、「現在、世界中で最も性能のいい戦闘機は何か」と聞かれたら、軍事知識がある人なら、かなりの割合が、「スホーイ27系列」と答えると思います。 しかし、新聞や一般雑誌からしか軍事知識を得ていない人は、「アメリカの、ほら、日本に売ってくれないあれ・・・・」と、≪F22ラプター≫を挙げるでしょう。 ≪スホーイ27系列≫を全く知らない人も、少なくないと思います。 そして、漠然と、「ソ連・ロシア機はアメリカ機に遠く及ばない。 中国機に至っては問題外」と、思い込んでいるのです。

  こういう、認識はこの上なく危険だと思うのですよ。 「平和主義者で、兵器なんぞ見たくもない」というなら、それはそれで良いと思うのですが、兵器に興味が無い一方で、外国の軍事技術を見下しているような人が非常に多いのが感心しない所。 平和主義者であろうが、戦争主義者であろうが、認識は正しいに越した事はありますまい。 知らない事は正直に知らないと認めて、その事について公けの場であれこれ口にしたりしないのが正しい態度というものでしょう。

  ちなみに、自衛隊の装備ですが、前にも書いたように、本当に大した事はないですから、ゆめゆめ活用しようなどと目論まないように。 そもそも、自衛隊というシステムは、単独で動かせるように作られていないのです。 アメリカ軍が、日本に直接関わる軍事行動を取る場合に、その一部分として機能するようにデザインされているんですな。 イージス艦などは、その典型で、もともと、アメリカの空母艦隊を護衛する為のシステムなのです。 イージス艦だけ一隻あっても、それはただの電子戦闘艦に過ぎません。 今時の駆逐艦・巡洋艦は、大抵、電子戦闘艦ですから、イージス艦だからといって、飛び抜けた実力があるわけではないのです。 だけど、こういう事を門外漢に理解させるのは、本当に大変なんですよ。 ほとんど、不可能ですな。

  ところで、≪F22ラプター≫ですが、今の所、実績が少ないので、軽々に高い評価はしかねます。 ちなみに、戦闘機の実績を言う場合、戦争が無ければ本番はありませんから、航空ショーや公開演習で見せる性能を基準に判断する事になります。 飛行性能は見れば分かりますが、更に重要な性能である、レーダーの有効範囲やコンピューターの処理能力の高さなどは、公表される諸元データからしか推測できず、デビューから退役まで分からずじまいという事も珍しくありません。

  そもそも、ステルス性能というのが、少々曲者でして、本当に有効なのか、怪しい所があります。 「レーダーには、鳥くらいの大きさにしか映らない」という表現がよく使われますが、鳥大だろうが拳大だろうが、とにもかくにもレーダーで捉えられるのであれば、時速500キロ以上で飛ぶ鳥などいないのですから、簡単に飛行機だと判断されてしまいそうです。 現にコソボ紛争の時、最初の実用ステルス機である≪F117≫という攻撃機が、セルビア軍のレーダーに捉えられて撃墜されており、どんな難しい方法を使うにせよ捉えられるのであれば、ステルス技術の価値は大幅に目減りすると言わざるを得ないでしょう。

  ≪F117≫の部隊は、僚機が撃墜された後もコソボ紛争期間を通じて出撃を続けましたが、アメリカ軍にしてみれば、ステルス技術を抑止力として位置づけている立場上、それ以上撃墜されてはたまらないわけで、たぶん戦場には行かず、地中海上空を一回りして帰って来ていただけだったんじゃないかと思います。 一旦「使えねー」と分かると、兵器に命を任せている軍人は一気に醒めるもので、≪F117≫は、異例の早さで退役させられてしまいました。 ≪F22ラプター≫は、飛行性能をよくする為に、ステルス性能は≪F117≫より劣っているとされ、ますますレーダーに捉えられている可能性が高いです。

  大体、ステルス技術の原理を最初に理論化したのは、ソ連の学者ですが、ソ連軍では重要視されず、アメリカが拾ったという歴史的経緯があります。 ≪クリスティー戦車≫とは逆のパターンですな。 合理主義で有名だったソ連で没にされるには、それなりの理由があったはずで、やはり、「こんなん使えねー」と見做されたんでしょう。 飛行機にステルス性能を盛り込む為には、外形デザインに大幅な制約がかかるのを避けられませんが、そうまでして拘るほど有効な技術かどうか、軍事技術者の間では未だ意見が分かれているのです。 ステルスと聞いて、単純に「最新技術!」と大騒ぎしているのは、この種の裏事情を知らない門外漢だけです。

  調子に乗って扱き下ろし続けますが、ステルス機は、その機能上、ミサイルや爆弾、使い捨て外部燃料タンクなどを機体や主翼の下に取り付ける事が出来ません。 開閉扉があって、機体の中に内蔵する形になります。 当然、搭載量が少なくなり、作戦行動に制約が出ます。 その点でも、「使えねー」のです。 一応、外部吊り下げもできるように、取り付け基部を設けてあるのですが、それをやるとステルス性能が損なわれて、普通の戦闘機と同じになってしまうんですな。 「使えねーなー」。

  もっと書いたろか。 ≪F22ラプター≫は、「レーダーの有効範囲が広く、コンピューターの能力も高い為、自分のミサイルを使いきった後も、他の普通の戦闘機が運んで来たミサイルの誘導を引き継いで、長射程攻撃が出来る」とされていますが、そんな用途に使うなら、何も戦闘機の形をしている必要は無いわけで、早期警戒機のように大型レーダーを積んだ飛行機を高高度で飛ばしておいて、普通の戦闘機が運んできたミサイルを誘導させればいいんじゃないの? という気がします。 いやいや、それどころか、昨今の空戦では、機関砲は全くと言っていいほど使われず、ミサイル戦オンリーである事を考えれば、普通の戦闘機すら必要ないのであって、早期警戒機に直接ミサイルを積んでいけば、すべて事足りると思うのですが、どうしてどの国もやらないのか、非常に不思議です。

2008/11/02

治世・乱世

  グルジアが南オセチアに侵攻して、ロシアに蹴散らされた折、アメリカがグルジアに軍事援助をしていたと聞いて、「ああ、そうなのか・・・」と思った事がありました。 つまり、アメリカという国は、ロシアを現状のままで置いておく気が無いのです。 言い方を換えると、アメリカは現状のロシアと、対等な国として、この地球上に存在し続けるつもりが無いという事です。

  アメリカにとって、ロシアが他の国と明らかに異なる点は、アメリカに匹敵する量の核兵器及びその運搬手段を持っているという事です。 ソ連時代の遺産ですが、ロシアは核兵器の存在価値を熟知していて、通常軍備の更新を控えてでも、戦略ミサイル軍だけは維持して来ました。 世界中で一番核兵器の恐ろしさを知っているアメリカは、ロシアとの友好関係を維持して、自国に対して核兵器が使われる可能性を払拭するだけでは安心できず、ロシアを軍事的に封じ込めて、最終的には核兵器の放棄に追い込むつもりなのだと思われます。

  これを演繹して見ると、アメリカの外国に対する姿勢に、一貫した方針を読み取る事が出来ます。 現在、アメリカと仲の良い国、つまり、アメリカから、≪同盟国≫と呼ばれている国々ですが、これらの国は、すべて、軍事的にはアメリカの配下に入っています。 もし世界規模の戦争が起こったとしたら、必ずアメリカ側につくと考えられる国です。 思うに、アメリカが、地球上に存在する事を許容する外国は、これら同盟国だけなのではありますまいか? イランや朝鮮のように、明らかに敵と見做されている国は、常に外交的・軍事的に圧迫を受けていますし、ロシアや中国のように、敵に回る可能性が少しでもある国は、常に警戒され、事あるごとに難癖をつけられています。

  アメリカにとって外国とは、自国と同じ立場の≪他者≫ではなく、≪味方≫か、≪味方でない者≫か、≪敵か≫に三分類される、≪夷狄≫に過ぎないのです。 これは、別にアメリカに限った事ではなく、過去の歴史を見てみれば、その時代その地域で最大の国力を誇った国は、押し並べて、この種の自己中心的な世界観を持っていました。 日本も例外ではなく、大日本帝国時代には、今のアメリカ以上に自己中心的な考え方に毒され、極端な事に、外国をすべて敵と見做していました。 もっとも、大日本帝国は実際には軍事部門だけ肥大化した小国だったわけですが、現在のアメリカは軍事的にも経済的にも、世界を押さえ込めるだけの実力を持っているという点が、決定的に違います。

  現在のアメリカが、こういう方針を持ち続ける限り、世界から戦争・紛争が無くなる事など、ありえません。 第二次世界大戦後に世界で起こった争い事には、必ずと言っていいほどアメリカの情報機関が絡んでいますが、戦争があればどちらかに加担し、戦争が無ければわざわざ戦争が起こるように情勢を持って行く事を仕事にしているのですから、呆れ返る話です。 アメリカ情報機関の仕事は、この地球上から、≪敵≫と、≪敵に回る可能性がある国≫が一掃され、≪同盟国≫だけで満たされるようになるまで、途切れる事無く続くのでしょう。

  今後、ロシアや中国との軍事的緊張は強まる事はあっても、解消される事など考えられません。 朝鮮との交渉は、少しずつ進んでいるように見えますが、アメリカの最終目標を考えれば、核兵器を持った非同盟国をそのまま存続させる事はありえないので、これも、完全な解決など考えられません。 米朝交渉は、どちらかが亡びるまで延々と続くと思われます。 ただ、交渉が半永久的に続く事に対する覚悟の度合いは、朝鮮外交部の方が、アメリカ国務省よりも、上を行っていると思います。 アメリカ側は、「いずれ、朝鮮も、韓国や日本同様に、同盟国として取り込んでしまえば、交渉は終る」と考えているのに対し、朝鮮側には、アメリカに屈するという選択肢は無く、アメリカがこの世から消え去る事も考えられないですから、無限の交渉を覚悟せざるを得ないわけです。

  アメリカは原子力協定などで、インドに接近しています。 中国を牽制する為だと言われていますが、そんな単純な話ではないのであって、アメリカがインドに関して恐れているのは、昨今、インドとロシアが、兵器購入で、極めて親密な関係を構築しつつあるからです。 インド軍は、イギリスの植民地だった関係で、独立後しばらく、イギリス製の兵器を使っていましたが、ソ連時代末期から、ぽつぽつソ連製の兵器を買い始め、今はソ連・ロシア製兵器が主力装備になっています。 ちなみにインド軍は、100万人以上の兵員と、ロシア製・自国製の最新兵器、オマケに大型空母まで持っている大軍隊です。

  アメリカとしては、インドとロシアというビッグ・パワー同士が、自分の知らない所で関係を深めるのは、甚だ困るわけです。 それで、原子力協定で恩を売って、インドを繋ぎとめておこうという算段。 しかし、アメリカのインドに対する研究は、かなりレベルが低いようですな。 インドを、「将来、成長が見込まれるが、まだまだ純真な心を持った青年」のように見做しているようですが、とんだ間違いです。 あれだけ、ソフト産業をかっさらわれていながら、未だに、「インド人の方が、アメリカ人より知能が高い」事に気付いていないとは、敢えて指摘するも愚かなり。 上から見下せるような相手ではないのは歴然です。 そして、どの国でも、強大な力を持てば、力の劣る外国の言う事など聞く耳持たなくなるのであって、インドだけが例外であるはずがありません。

  アメリカには、「中国とインドを争わせて、漁夫の利を」という目論みも当然あるわけですが、≪夷を以て夷を制す≫という政策は、大昔から必ず失敗に終わると決まっています。 一時的に有効なだけで、その内、夷同士で勝負が決まると、その勝者が強大化して、利用しようとした方まで滅ぼされてしまうのです。 中国の王朝は、そのパターンで何回滅びたか分かりませんし、ローマ帝国の衰退も、ゲルマン人を利用しようとした事が原因でした。 アメリカも同じなのであって、インドと中国が熾烈にぶつかり合う頃には、両国の経済力・軍事力は、それぞれアメリカを遥かに追い越していると思われますから、アメリカが何かできるような立場ではなくなっているでしょう。 この点、アメリカが先を読めないのは、些か不思議な感じがします。 行く行く、インドを盟主にして、その同盟国になるつもりなら、まだ分かりますが。

  ちなみに、核拡散防止条約ですが、インドが早期に加盟しないとしたら、アメリカにとって悪夢のような結果を招くかもしれませんな。 インドの核兵器保有量が増えて、中国のそれを超えれば、中国はもはや、NPTなどという不平等条約に付き合ってはいられないのであって、さっさと脱退するでしょう。 一旦枷が外れれば、中国とインドが競争で増やし始め、アメリカ・ロシアの保有量とほぼ同じか、それ以上の数まで鰻登りしていくのは、疑いありません。 NPT非加盟のインドと原子力協定を結んでしまった事は、将来、アメリカの痛恨事になる可能性が大きいです。


  中国の伝統的世界観に当て嵌めて考えた時、現代は、≪治世≫か、≪乱世≫かと問われれば、明らかに、≪乱世≫の内です。 もっと細かく言うと、春秋戦国時代の前半である、春秋時代によく似ています。 諸国乱立し、群雄割拠しているが、まだ戦国時代には入っていない、嵐の前の静けさに覆われている頃合ですな。 今現在を生きている人々は、こういう幾つもの国が共存する状態が、いつまでも続くと思っているわけですが、歴史を見れば、そういう事はありえないのが分かります。 必ず、戦国時代は訪れ、その先には、天下統一が待っているのです。 文明が発達しておらず、地球が広かった昔なら、ポツンポツンと離れた所に多くの国が存在しても不思議は無かったわけですが、こうと狭くなった現代では、幾つも国が並存している方が奇妙だと見るべきです。

  天下統一を成し遂げるのは一国ですが、では、それ以降、その国の文化だけが残るのかというと、そんな事は無いのであって、ごたまぜになって融合していくのが普通です。 また、統一に成功した国は、すぐに滅びてしまうというパターンも存在します。 春秋戦国時代を終わらせた秦は漢に滅ぼされ、三国時代を制した魏は晋に乗っ取られ、五胡十六国時代を統一した隋は僅か二代で滅んで、唐が取って代わりました。 ≪狡兎死して走狗煮らる≫という言葉がありますが、乱世が終わって無用になるのは、武将だけではなく、乱世型に作られた国そのものも、時代に適合できず、治世型の国に滅ぼされてしまうんですな。

  もし、アメリカが、新興大国を押さえ込んで、天下統一に成功したとしても、長続きしない可能性は極めて高いです。 常に外部に敵を持っていなければ、国内の意思統一ができないというような悪い癖がある限り、それは全人類を統一する国としては相応しくないでしょう。 軍事力に秀で、侵略を是とする国が、治世に無用なのは、理屈で考えても分かる事です。