2009/06/28

ソフト・クレーム

  内臓DVDドライブを取り付けてから、二週間経ちました。 案の定、ほとんど使っていません。 わはははは! 「こうなる事は分かってたけど、それを承知で買ったのさ」と強がりを言ってもいいんですが、正直に白状すると、こんなに早く飽きるとは予想の範囲を大きく超えていました。 やはり、もはや、電気製品では幸福になれぬか。 因果な境地に至ったものよのう。

  再生用のフリーソフトを入れたお蔭で、DVDビデオを見れるようになったんですが、母の所からヨン様出演ドラマのDVDを借りて来て、いざ見てみると、やはり、パソコン画面では画質が宜しくないのです。 DVDドライブの性能そのものには余裕があると思うんですが、ソフトの限界なのか、CPUやメモリーの限界なのか、はたまた、液晶モニターの限界なのか、映像にまったく精気がありません。 何だか、スチール写真の紙芝居でも見ているような感じ。 「こんな環境で見たのでは、ドラマの方が勿体ない」と思い、一話見終わった段階で、プレステ2の方へ移し、テレビ視聴に切り替えました。 「おお、美しい! これこそ、本物の映像だ!」 しかし、これでは、何の為に内臓ドライブを買い替えたのか分かりませんな。 ちなみに、見たドラマは、≪愛の挨拶≫ですが、ま、それは、今回のテーマとは関係ありません。

  以降、10日間くらい、内蔵DVDドライブの方には、図書館から借りて来た音楽CDを入れているのですが、そちらも、あまり聴きません。 パソコンでスピーカーを通して聴くと、パソコン本体から出る雑音が大き過ぎて、音量の小さい部分が聴き取りづらくなるのです。 特に、クラシック音楽の場合、パートによっては、音量が極端に下がるので、全く何も聴こえないと来たもんだ。 ヘッドホンで聴けば、雑音問題は無くなりますが、それなら、わざわざパソコンを介する必要は無いのであって、CDプレーヤーで聴いても変わりません。 また、パソコンで音楽を聴きながら、他の作業をしていると、パソコンの動作が鈍くなったり、音楽が停まったりする事があり、そのたびにイライラして、精神衛生に甚だ宜しくありません。 困ったね、こりゃ。

  うーむ、せっかく復活させた内蔵光学ドライブですが、このままでは、また使わなくなり、腐って行くのは避けられませんな。 何か、恒常的な使い道は無いものか。 DVDビデオや音楽CDの再生以外に、光学ドライブの用途と言えば、やはり、パソコン用各種ソフトウェアの取り込みでしょうか。 私の場合、光学ドライブを記録用に使う気が無いので、もうそれしか残っていません。 だけど、このソフトがねえ・・・・、ろっくな物が無いんですよねえ。 時々、パソコン・ショップへ行ったついでに、ソフト・コーナーも見てみるんですが、「おっ、こんなのがあるじゃん!」なんて目を輝かせた経験が一度もありません。 興味を引くようなソフトが一つも無いのです。 逆に、「どうして、こんな物が、こんなに高いんだ?」と冷や汗を垂らした事なら、何度と無くあります。


  まず、絶対、個人では買わないと思われるのが、ビジネス・ソフトです。 表計算なんて、しますかね? 「数値を入力するだけで、自動的にグラフを作成します」って言うけどねー、個人でグラフ作って、何が楽しいのか、まず、そこを問い質したいです。 こういう物は、事務系の職場で使うものだと思いますが、そういう所では、業者ルートで一括して仕入れるのが普通ですから、パソコン・ショップにソフトを並べておく必要があるのか、首を傾げてしまいます。 いや、しかし、ビジネス・ソフトの数が、ソフト・コーナーの中で4分の1くらいの面積を占めているところを見ると、買う人が多いから置いてあるわけでしょうなあ。

  もしかしたら、仕事で、この種のソフトを使わざるを得ない状況に置かれた人達が、自宅での練習用に買っているのかも知れませんな。 「家に仕事を持ち帰るため」という人もいるでしょうが、それはちょっと昔の光景でして、今は機密漏洩対策で、社内のパソコンに入っているデータを、外に持ち出せないように、プロテクト処置をしている会社が増えて来ました。 まあ、実際には、何かしらの手を使って、持ち出している人は多いと思いますがね。

  ≪Microsoft Office≫なんて、単独で買うと、40000円くらいしますが、思わずゼロの数を数え直したくなる価格ですな。 言うても、ただのプログラムやで。 吝嗇家の私に言わせれば、4000円でも高いような気がします。 パソコンにプレインストールされていれば半額以下になるというのが、また奇怪な話で、どこでどんな手品をかければ、20000円分の価格が消えるのか、考え始めると夜も寝られません。

  そういえば、パソコンをワープロとして使用する場合、≪Microsoft Ward≫や、≪ジャストシステム 一太郎≫などの専用ソフトを使うのが当然だと思い込んでいる人が少なからずいるようですが、そんな事は全然ありません。 現に私は、この文章の下書きを、OS付属ソフトの、≪メモ帳≫で書いています。 最もシンプルで、使い易いからです。 特殊な文字を表示させる場合でも、同じOS付属ソフトの、≪ワード・パッド≫の方を使えば充分ですが、そんな機会すらほとんどありません。

  ワープロ専用機時代を経験せずに、パソコン時代に入ってから、仕事上の必要に迫られて、やむを得ずキーボードの打ち方を覚えたという人達ほど、この種の、≪専用ソフト信仰≫に囚われている傾向が見られます。 ワープロ・ソフトなんて、使う字が出て来れば、何だって構やしないのにねえ。 そういう、ソフトにうるさい輩に、いざ文章を打たせて見ると、文系ならば小学生でもやらないような珍妙な綴り方を見せてくれるから面白いです。 たとえば、「ある」を、必ず「有る」と書かなければ気が済まない人とか。 「結果は上のグラフに示して有る通り・・・」の類ですな。 アホけ? 却って、意味が通らんではないか。

  大方、「駐車場有ります」の看板で字を覚えたんでしょう。 また、こういう奴に向かって、「普通、そういう時に、『ある』は、漢字で書きませんよ」などと指摘すると、「漢字を使える所では、漢字を使うもんだよ。 子供じゃないんだから」などと、稚拙この下無い屁理屈で逆襲してくるから話にならぬ。 こういう馬鹿の蒙を啓くためには、最低でも十冊くらいの本を読ませ、実例を示して納得させる必要がありますが、こういう馬鹿に限って、読書能力がゼロに近く、本を十冊なんて、一生かかっても読めないのであって、実行させるのは不可能です。 まったく、馬鹿につける薬は無い。 専用ソフトについて、ああだこうだ語る前に、まず字を覚えろよ。

  脱線甚だしいので、話を元に戻します。 ビジネス・ソフトとして、≪Power Point≫という名前も、よく耳にしますが、あれも、個人には縁の薄い品ですな。 プレゼンテーション用の映像資料を作る為のソフトなんですが、よく分からないまま、≪Excel≫の同類品だと思っている人が多いようです。 個人で、プレゼンしないでしょう? そもそも、個人で作る図画資料というと、学校のクラブやサークルの内報とか、町内会のお知らせくらいしか思いつきませんが、そんな物を作るのに、わざわざ、≪Power Point≫を使うなど、牛刀を以て鶏を割くに等しく、馬鹿げているにも程があります。 その程度の図画資料なら、≪Excel≫すら不要なのであって、少々時間はかかりますが≪HTML≫でも作れます。 また、ビジネス・ソフトにも、フリーソフトは多く存在するので、ン万円も出して買う前に、ネット上で探してみた方が良いと思います。


  次、セキュリティー関係。 いわゆる、≪ウイルス対策ソフト≫という奴です。 あれも、売り場での占有面積が多いですねえ。 平積みになっている事も珍しくありません。 「パソコンを使っているなら、絶対必需品だ」と思い込んでいて、新しいバージョンが出るたびに、真っ先に買いに行く人も多いと思います。 でもねえ、別に入れなくても問題無いと思うんですよ。 逆から言うと、入れても、入れなくても、どの道、コンピューター・ウイルスには感染するから、わざわざ入れる必要は無いと思われるんですな。 ちなみに、私は、一回も買った事がありません。 ≪Windows Update≫で、問題点の改善プログラムが来れば、それは入れてますが、市販品には一切手を出していません。 で、ウイルスにやられいるかどうかというと、正直言って、「わかりません」 でも、パソコンがまともに動いているから、それで充分だと思っています。

  「市販のウイルス対策ソフトさえ入れておけば、安心だ」というのは、まるっきり根拠の無い思い込みでして、せっせとウイルスを作っている連中にしてみれば、対策ソフトを突破するのが重要な目標になっているのは明らか。 すなわち、新バージョンが発売されれば、すぐにそれを掻い潜るウイルスの開発に着手していると思われます。 たとえば、年に一回、対策ソフトを入れている人がいたとして、入れてから一ヵ月後に、それを突破されるとすると、残りの11ヶ月は無防備で過ごしているわけで、何も入れていないのと、大差ありません。

  そもそも、ソフトウェアの専門家でも何でもない一般人が、ウイルスの存在に気付くのは、ウイルス対策ソフトが、「お使いのコンピューターは、ウイルスに冒されています」と教えてくれるからですが、それを証明する方法は無いのであって、対策ソフトの狂言芝居に騙されている可能性も捨て切れません。 表で対策ソフトを作っている会社が、裏でウイルスも作っているという、恐るべき想像も出来ないではないです。 悪質な薬屋と同じですな。 「健康にいいですよ」と言って毒を飲ませておいて、病気になったら今度は解毒剤を与えて、「ほら、良くなったでしょう」 「ありがとうございます! あなたは命の恩人です!」と感謝までされるという、実に良く出来たシステム。

  「そんな事は絶対に無い! 私は、お前のような素人よりも、対策ソフトを作っている会社を信じる」という方々には、もはやこの上、何も言いません。 どうぞ、バンバン買って、ドシドシ入れて、ゆったり安心感に浸って下さい。 他方、「もしかしたら、こんなの、入れても入れなくても、同じなんじゃないの?」と半信半疑でいる方々は、試しに打ち切って、様子を見てみる価値はあると思います。 たぶん、入れていた時と何の変わりもないと思いますから。 大体ねえ、もし本当に、市販のウイルス対策ソフトがパソコンの必需品だと言うのなら、あの、利に聡いマイクロソフト社が、自分で販売しないわけが無いですよ。 ≪Windows Update≫で充分だと思っているから、手を出さんのでしょうが。

  新聞や雑誌によく載っている、パソコンの使用方法に関するコラムなどでも、ウイルス対策として、「市販の対策ソフトを、こまめに入れる事」と書いてある場合が多いですが、ああいう文章を書いている人達にしてからが得体が知れないのであって、肩書きや名前が記してあったら、何者なのか調べてみた方がいいです。 業界関係者だったら要注意で、ソフト業界の関係者というのは、ソフトが売れなければ飯が食えないので、売る為には嘘でも誇張でも、何でも言います。 また、専門知識が無い文系野郎が、分かったフリして執筆している可能性もあり、疑い出せば、際限がありません。 そんな奴らの与太話に付き合って、毎年何千円も払うのは馬鹿な話だと、私は思うのですよ。 


  次、画像加工ソフト。 これは、一つあれば充分ですな。 大抵は、プレインストールで、何かしらのソフトがくっついて来るでしょう。 ただ、その最初の一つがあまり性能のいいソフトで無かった場合、後々ずっと祟る事になります。 別のソフトを買えば、それなりのお金がかかるのであって、「一応、今のでも使えるし、無駄遣いする事になるかなあ」と思うと、なかなか踏ん切りがつかない。 大体、ほとんどの人は、画像加工といっても、写真の縮小・切り取りや、色調・明暗の補正しか、やってないでしょう。 そんなもんなんですよ。

  「写真を、油絵風に変換できます」なんて機能があると、使ってみたい衝動に駆られますが、容易に想像できるように、そういう遊びは一回か二回やれば飽きます。 ネットに公開しても、「へえ、加工ソフトで作ったんですか」で終わりですから、面白くもなんともないのです。 そう考えると、わざわざ買い直すようなもんじゃないと思うわけですよ。 今使っているソフトに不満を抱いている方は、次にパソコンを買い換える時に、付属ソフトに気をつけて吟味する事にすれば、それでいいんじゃないでしょうか。


  素材集なんかも、昔からありますが、どういう人が、どういう用途で使うのか、今ひとつイメージが湧きません。 ブログじゃ出る幕ありませんから、個人サイトに使うんでしょうか。 でも、写真にせよ、イラストにせよ、素材集の物を使ったのでは、個性の表出にならないのであって、個人サイトの存在意義を損なってしまうよう気がしないでもなし。 絵心は勿論、写真のセンスもゼロで、自分では画像表現が全く出来ないという人達が買うんでしょうかねえ? プロが撮った、目が覚めるほど綺麗な写真をサイトに出してしまって、掲示板で、「どこで撮ったんですか?」とか訊ねられたら、顔から火が出そうですが、やはり、正直に、「実は、素材集の写真です」とゲロするんでしょうか。

  あ、そうそう、ソフトではありませんが、≪タブレット≫という、絵を描く為の周辺機器がありますよね。 あれねえ、割と手頃な値段なので、買っている人も多いと思いますが、これから買おうと思っている人達は、大事な事を忘れてはいけませんぜ。 それは、「紙に絵が描けない人は、タブレットを使っても、やはり描けない」という、冷酷無慈悲な事実です。 ええ、駄目なんですよ。 結局は自分の手を使わなければならないのであって、機械が描いてくれるわけじゃないのです。 手伝ってもくれません。 単に、電子データ化するだけの機械ですから。

  「なーに、機械さえ買ってしまえば、ごちゃごちゃ描いている内に、うまくなるだろう」なんて軽く考えて、見切り発車で買ってしまう人が多そうですが、そんなのは、みんな押入れ行きのパターンです。 元来、絵心がある人の為に作られた機械なのであって、門外漢の練習用にはなりません。 というか、絵の練習をするのなら、紙を相手に、鉛筆と消しゴムで格闘した方が、早くうまくなると思いますぜ。 タブレットは、うまくなってから買っても遅くないので、何卒、御再考の程を。 まあ、大人になってから始めるのでは、血の滲むような努力をしようが、夢枕に田能村竹田が立とうが、金輪際、人様に見せられるレベルには至らないと思いますがね。 ひひひ。


  動画加工ソフトの類は、そちら方面の趣味がないと、買っても無意味。 昨今、動画をネット上に公開する人が大変増えているようですが、よく作りますねえ。 時間も手間も、静止画の比ではありますまいに。 その情熱に感服します。 もっとも、私はネット上で動画を見る事は全くありません。 面白かった例がないからです。 思い出しても身の毛がよだつのは、小さい子供が飯を食っている様子を写したもので、口の周りがソースでぐじゃぐじゃ・・・。 そういう物は、親と祖父さん祖母さんだけで見なさいって。 ネットに出すんじゃないの。 ありゃ、汚物陳列罪だね。


  家計簿ソフト。 これも、プレインストールや、フリーソフトに、いくらもありそうですな。 家計簿ソフトの機能なんて、みんな似たり寄ったりだと思いますが、わざわざ買い換える人とかいるんでしょうか? 家計簿ソフトを換えたって、生活パターンを変えなければ、金はたまらんと思いますぜ。 家計簿を細々とつけている人というのは、恐らく、毎月毎月、ギリギリの生活費で暮らしているのだと思われますが、そりゃ、亭主を替えるか、女房を替えるか、子供を張り倒すか、別の解決策を練った方が、容易に暮らし向きがよくなるんじゃないでしょうかねえ。 家計にゆとりが無いという事は、入って来る分が少な過ぎるか、出て行く分が多過ぎるかのどちらかであって、家計簿のつけ方で改善するというものではありますまい。


  語学ソフト。 これも、ネット時代になる以前から存在しますが、話題になるほど、世間に受け入れられたものは聞いた事がありません。 また、語学ソフトのお蔭で、外国語が出来るようになったという話も聞きませんな。 言っちゃあ何ですが、パソコンというのは、基本的に遊ぶ為にあるのであって、勉強する為の物ではないと思うんですよ。 誰も、苦しい思いをする為に、パソコンの前に座って時間を消費しようなどと思いはしないわけです。 語学ソフトが、思うように効果を上げられない理由は、使用者をパソコンの前に繋ぎ止めておく事に失敗しているからだと思います。

  考え方を改めて、完全に、ゲーム・スタイルにしてしまった方が、いいかも知れませんな。 ゲームを進めて行く内に、新しい単語を覚えて、クリアした時には、千個くらいの単語が頭に入っている、そんな方式にすれば、そこそこの成果が上がると思います。 ただ、学習意欲を維持する為には、ゲーム自体が面白くなければいけないわけで、作るのにえらい手間がかかる事が予想されますから、実際に登場するかどうかは疑問なところ。

  語学ソフトの弱味は、時事情報を扱えない点です。 ネットで外国の新聞サイトへ繋げば、その日起こり立てホヤホヤのニュースを読む事が出来るのに比べ、語学ソフトの架空設定のスキットでは、興味の対象として見劣りするのは致し方ないところ。 外国語で外国の情報を知りたい人はいても、架空の人物の旅行先での会話なんて知ったってしょうがないものねえ。 やはり、突破口は、ゲーム化しかないか。


  というわけで、最後に、ゲーム・ソフトですが、パソコン用のゲーム・ソフトといったら、ほとんどが、Hゲームなので、お話になりません。 昨今は、≪エロゲー≫などとも言うようですが、いやらしい上に汚らしい語感で、下劣この下無し。 また、そんな物を、せっせせっせと、何十本、何百本と買い続けている、馬鹿な男がうじゃうじゃいるのですから、正に世も末です。 先日、イギリスで、日本製Hゲームの性暴力シーンが批判された事がニュースになり、国内でも販売中止になったりしましたが、それ一作だけが取り上げられるのは奇妙な話です。 Hゲームなんて、どれもこれも、性暴力シーンだらけではありませんか。 それが証拠に、男しか興味を示しません。

  言うまでもなく、女性とて、性交渉はするのであって、ひと昔前、世を騒がせた、≪レディース・コミック・ブーム≫を思い出せば、性を題材にした作品に興味を示す事は分かると思います。 だけどねえ、強姦だの、輪姦だの、痴漢だの、そんな犯罪丸出しのネタばかり並べたら、そりゃ、眉も顰めますよ。 というか、逃げるでしょう。 性交渉の前に、彼女にAVを見せたら、軽蔑されて、逢って貰えなくなってしまったという例もあるようですが、馬っ鹿な男だねー。 題材が悪いっつーのよ。 女性というのは、≪愛情≫が土台に無いと性衝動が湧かないのであって、性交渉だけ切り離して受け入れる事が出来ない傾向が強いんですが、その辺の機微が全く分かっていないんですな。

  それにしても、AVも、Hゲームも、よくぞそこまで、≪愛情≫から乖離したものだと、ある意味、感服つかまつります。 男しか買わないものだから、男の欲望の消化専門に特化してしまって、女の登場人物なんぞ、物体以下の扱いになってしまったんですな。 だけどねえ、そんなゲームばっかやってたら、現実の女性との距離は開く一方だぜ。 どこの女が、Hゲームが趣味の変態男と、交際なんかしたがるんだよ。 常識的に判断して、ありえねーだろ。 「男だから、しょうがないじゃないか!」なんて開き直りが通用するかどうか、合コン行って、その話題出して、実際に試してみろや。 

  ああ、そうそう、Hゲーム関連の話題ですが、男性以外の閲覧者を想定していないサイトやブログならいざ知らず、普通に運営している所では、極力取り上げない方がよいと思います。 最悪なのは、≪ゲーム体験記≫でして、やってる当人は、後ろ指を指されるような事をしているとは全く思っておらず、「合法的に買ったものを、合法的に利用して、合法的に感想を書いているだけ」のつもりなんでしょうが、それを読まされた女性閲覧者の方は、そうは取りません。 そんな記事を目にした途端、蜘蛛の子散らすように逃げ去って、二度と戻って来ません。

  女性から見ると、AVやHゲームに興じる男は、それだけで危険印なのであって、たとえ、ネット上であろうが、交友など以ての外なのです。 彼女らが一番嫌うのは、「その話題に応じてしまう事で、自分もその種の性交渉を求めていると誤解される」事でして、「ゲームの話だから・・・」などという言い訳には、全く耳を貸しません。 おぞましさに身震いして、一目散に逃げるだけ。 だからねー、たとえ、Hゲームをやっていても、ネット上では言うなっつーのよ。 そんな話題、男の閲覧者でも、喜びゃしません。 内容が、強姦・輪姦・痴漢じゃ、洒落にならないのであって、何をどう話していいか分からないではありませんか。

  またよー、そういう所で、「僕もやりました。 あのゲームはうんたらかんたら・・・」と意気投合している奴が救いようがない。 仲間を見つけたような気分で、小躍りして喜んでやがんの。 馬・鹿・だ・ねー! あのなあ、強姦・輪姦・痴漢で、意気投合してたら、そりゃもう、犯罪者の巣窟と変わらんぜ。 分かってるんだろうな、自分達が、どれほど危険な話題について語り合っているか? 現実に存在する、≪盗撮グループ≫のような集団は、こういう所から生まれて来るのではありますまいか。


  何だか、またまた、とんでもない方向へ脱線してしまいましたが、つまり、パソコン用のソフトには、私が買いたい物が無いという事を言いたかったわけです。 ちなみに、過去に私が買ったソフトというと、≪エンカルタ百科事典 2001≫と、≪驚速ADSL≫の二つだけです。 ≪エンカルタ≫は、日常的に使っています。 ネット情報よりも遥かに信用度が高いので、ほぼ必需品となっています。 ≪驚速≫の方は、かなり以前に暇潰しに買って来たんですが、私のXPパソコンには全く効果が無かったものの、父のMeパソコンと、母の98SEパソコンでは、通信速度が倍くらいに上がったので、無駄な出費にはなりませんでした。 次に何か買うとしても、やはり、≪エンカルタ≫の新バージョンという事になりますかねえ。 使えるソフトというと、他に思いつかないのですよ。

2009/06/21

書きゃいいってもんじゃ

  ここの所、このブログの文章が長過ぎるような気がしてなりません。 最初、個人サイトのコラムとして書き始めた時は、一回せいぜい50行くらいの短いものだったのに、いつの間にか、「行数を書かなければ、内容が薄くなってしまう」という強迫観念に取り付かれ、どんどん長くなってしまいました。 短い物なら、ネタはいくらでもあるのですが、ある程度の長さを確保する事が前提になると、テーマ選択の幅が限られ、回を追うごとに苦しくなる一方です。 所詮、一人の人間の頭の中から出ている物なので、やはり、限界はあります。

  世には、≪ブロガー≫と呼ばれている閑人達がいるそうで、時事ニュース・ネタを中心に、毎日のように長い文章を更新しているらしいですが、まあ、そういう連中をあんまり買い被らない方がいいですな。 それこそ、他人の書いた文章をパクりでもしない限り、ネタが続くわけがないのです。 一人の人間がいちどきに興味を持てる対象は限られていますし、そのテーマについて一文を物せるほど考えを深めるとなれば、時間的な制約も出て来ます。 テレビのニュース番組で、ポッと思いつきの戯言を並べている、キチガイ・コメンテーターのレベルまで落ちなければ、連日の更新なんて出来るわけがないではありませんか。

  新聞に載っている、記者が書いたと思われるコラムや論説記事を読むと、個人の能力の限界がよく顕われていて面白いです。 署名記事の名前をチェックしつつ読んでいると、同じ人が類似したテーマについて書いた物は、みんな同じような内容になっています。 具体的に言うと、エコ関係の記事なんか、毎回毎回、おんなし事ばっかり! 手帳に、≪正≫の字を書いて、何回同じ事を書いたか、記録しておいた方がいいんじゃないの? ≪水戸黄門≫の再放送より尚くどい。

  「馬鹿抜かせ! 同じテーマで書くとなれば、似たような内容になるのは、当たり前じゃないか! 同じ人間なんだから、そのつど意見が違っていたら、その方がおかしいだろう!」 うむ、確かにその通り! でもねえ、新聞は何の為にあるかっつったら、読者に読ませる為にあるんでしょう? 言わば、読者が主人なわけだ。 その読者側から見れば、同じような内容の文章を何回も読まされたら、「なんだ、この人、また同じこと書いてるよ」と、うんざりするなっつーほーが無理ですぜ。

  「じゃ、どーしろっつーねん?」 だからー、新聞は複数の人間で作っているのが最大の武器なんだから、手分けすりゃえーでしょう。 大丈夫! 同じ新聞社内で、同じテーマで書いても、書き手が違えば、かなり違った内容になります。 どうせ、今日日の一般向け新聞は、同じ紙面に正反対の意見が掲載されても、全く頓着しない傾向がありますから、読者の方も訝ったりしないでしょう。 少なくとも、同じ人の書いた同じ内容の文章を何度も読まされるよりは宜しい。

  しかし、つくづく思うんですが、新聞社として統一した主張が無いのであれば、記者がコラムや論説を書く意味は、かなり薄いですな。 記事以外の文章は、全て外部の専門家に任せてしまった方が、客観的な新聞になるのではありますまいか。 今の新聞に載っている文章で、真面目に全部読んでみようと思うのは、そういう本物の識者の書いたものだけですからのう。 記者という、≪オールラウンド素人≫の意見より、専門家の意見の方に含蓄があるのは、記者達自身も認めるのに吝かではないでしょう。

  ≪ニューヨーク・タイムス≫の≪Op-Ed欄≫みたいに、外部の人間にどんどん書かせりゃいいのよ。 自分の文章を新聞に載せて欲しい人はうじゃうじゃいますから、原稿料もかかりません。 記者の役割は、どの文章を載せるかを選ぶ事に特化すればいいではありませんか。 その方がずっと、読者の新聞社に対する尊敬度は上がると思います。 自分自身が前面に出て、あまり読者と親しみ過ぎるより、帳の向こうで高尚な議論をして、掲載する文書を選んでいるイメージの方が、どう考えてもかっこいい。

  いっそ、あの、≪社説≫という枠も廃止した方が、サバサバすると喪います。 ありゃ、コラム・論説どころの話ではなく、本当に、枠の中に文字を埋めているだけの、中身スッカラカン文章だものねえ。 中学・高校では、今でも教師達が、「世の中の流れを知る為に、新聞の社説をよく読むように」などと教えているんでしょうが、それでなくても活字離れが甚だしい昨今の学生に、新聞の一番中身が薄い所を薦めてどうすんねん? 大方、馬鹿教師ども、自分自身がコラム式の文章を書いた経験が無いものだから、社説程度の内容でも、大した文章だと思い込んで、ありがたがって拝んでおるのでしょう。 馬鹿か? よく、読み比べてみろっつーのよ。 社説にゃ、当たり障りの無いこと以外、一文字だって書いてないから。

  そういや、≪特派員コラム≫の低劣化には、困ったものですなあ。 特派員コラムというのは、国際面の隅っこに、枠で括って出ている短文で、その新聞社から外国へ派遣された記者が送ってくるものです。 私は、高校の頃は、特派員コラムが大好きで、毎日、首っ引きで読んでました。 今と違って、インターネットが無い頃でしたし、テレビの外国紹介番組では歴史・文化など、総括的な情報しか得られなかったので、時事的な情報や、現地で生活している者にしか分からない裏話が載る新聞の特派員報告は、宝の山だったのです。

  それが、どーだい、今の特派員は? 特派員という仕事を、「その国の欠点を探し出して、本社に報告する事」と履き違えているとしか思えません。 そりゃ、悪いところだけ探せば、どんな国にも悪い点はありますよ。 気に入らないとなれば、人々の顔つきも気に喰わない、言葉は雑音にしか聞こえない、街の匂いが臭くて息をするのも嫌になる、一歩歩くごとに体が腐るようだ、ってな具合に、悪い事だらけになってしまいます。 だけどねえ、外国から日本に来た人も、みんな、そう思ってるんだよ。

  温泉旅館に連れて行かれ、入りたくもないのに、小汚い風呂にぶち込まれて、全身に鳥肌立ててるんだ。 土足厳禁で強制的にスリッパに履き替えさせられるのも恐ろしい。 なんで、わざわざ高い金出して外国に来て、水虫うつされにゃならんのだ? 「日本料理の代表だから」と言って、必ず寿司を食わせようとするが、中国人は火が通っていない物を食べないという事を知ってるか? 欧米人が餡子が食えないのを知らずに、「おいしいですよ」と鯛焼きやドラ焼きを押し付けてないか? 中仏伊など、美食文化圏から来た人間を捕まえて、無理やり生ものを食わせるのはよせ。 拷問以外の何ものでもない。 刺身は、≪食べ物≫ではあるが、≪料理≫ではない。 そのくらいは分かるよな?

  とまあ、そんな具合に、日本に来た外国人も、習慣の違いを我慢しているわけだ。 いいか、文化というのは、民族によって、地域によって、みんな違うんだ。 違うからこそ価値がある。 ≪多文化主義≫という言葉を、聞いた事さえ無いのか? いやしくも、日本の全国紙の特派員たるもの、国で言えば、大使と同じだ。 大使が、派遣先の国の欠点ばかり口にしていて、仕事になるか? そんな馬鹿がいたら、すぐ召還だ。 大方、社会派を気取って、「この国の問題点を観察するのが、自分の仕事だ」と勘違いしこまし、せっせと送っている記事が、差別表現そのものになっているとは、思いもしないのだろう。 知性が欠けているにもほどがある。 お前らみたいに、外国に嫌悪感しか抱いていない人間ばかりになったら、世界はおしまいだわ。

  中には、「イスラム圏で、酒を飲む所が無い」だの、「テレビの映りが悪い」だのと、現地生活に於ける単なる個人的不満を並べただけの、最低の文章もあり、書いて送る奴も送る奴なら、そんな駄文を新聞に載せる奴も載せる奴だと、心底ほとほと呆れ果てます。 今は、もうネット時代で、外国の情報は、個人が直接手に入れられるようになり、特派員コラムの存在意義は薄くなりました。 もう廃止してしまってもいいんじゃないかと思います。 どうせ、読んだって、悪口でなければ、知ってるような事ばかりで、全然面白くないし。


  おや、ブロガーを扱き下ろすつもりで書き始めたのに、いつの間にか、新聞記者への攻撃になってしまいましたな。 しかし、文章の書き手として、新聞記者とブロガーの、どっちがマシかと言ったら、新聞記者の方が、ずっとマシです。 決定的な違いは、文章を公開する前に、他人が目を通す事。 ほとんど意見が違わないような相手であっても、他人の視点によるチェックは、やはり有効なのです。 「そんな事より、素人と記者では、知っている情報の量が違うだろう」と思うかもしれませんが、そんな事はありません。 記者といっても、自分で取材した事以外は、すべて、人から聞いた事、もしくは、他人が書いた物を読んで得た情報なのであって、その点で、素人と根本的には違いはありません。

  記者とブロガーの比較よりも、もっと、はっきり区別すべきなのは、書き手が専門知識を持っているか、持っていないか、その点でしょうな。 専門家が書いた文章と、新聞記者やブロガーが書いた文章では、信用度に桁違いの差があります。 これは、自分が詳しい分野の事について、自分よりもよく知らないと思われる他人が書いた文章を読むと、非常によく分かります。 「うわ、こいつ、いい加減な事を書いてるなあ。 いいのかよ、こんな大嘘を公開しちゃって・・・」と、背筋が寒くなる事が、ネット上ではしばしばあります。

  またまた、少々脱線しますが、≪教えて、○○≫系統の、質問掲示板でも、凄まじい光景が繰り広げられていますなあ。 専門的な知識を元に、的確な回答を寄せている人もいれば、徒手空拳というか無手勝流というか、質問の内容さえ理解していないと思われる、まるっきり的外れな答えや、誰でも分かるような当然以前の事を書いて、それが回答になると思っているらしい馬鹿もいます。 ほんっとに馬鹿だな。 別に、ご指名で答えてくれって言っているわけじゃないんだから、知らなきゃ何も書かなきゃいいのに、何で自分から恥を掻きにしゃしゃり出て来るかね? 分かるか? 馬鹿だと思われてるんだよ、おまえは! 質問者は勿論、そこを覗いたすべての人間から、「この馬鹿が・・・」と、嘲られているんだ。 悪い事は言わんから、何にでも首を突っ込みたがるな。 パソコンを押入れにしまって、布団被って寝てろ。 そうすりゃ、誰もお前を馬鹿にしたりはしない。


  つくづく思いますが、インターネットというのは、文系の人間にとって、両刃の剣なのかも知れませんなあ。 昔は、日記でしか書けなかったような事が、今では個人サイトやブログで、世間に公開する事が出来る。 自分自身が、執筆者であると同時に、校正者でもあり、編集者でもある。 書きたいテーマがありさえすれば、思うが侭に、どんな文章でも発表できます。 しかし、一方で、その文章に他人様に読んで貰えるほどの価値があるかどうかというと、大いに疑問です。

  そもそも、情報源のほとんどを、テレビ・新聞・雑誌など、既存のメディアから得ていて、自分で経験した事でもなければ、個人的な友人・知人から聞いた事でさえないのです。 新聞に書いてあった事を、そのままブログに書き写しても、何の意味も無いのは、言うまでもありません。 既存メディアから得た情報に関して、自分の意見を述べるという形なら、オリジナリティーが成立しますが、実際には、他人の意見をパクっている者の方が、圧倒的に多いです。 つまり、「私は、この人と同意見です」と言っているだけなのであって、それなら何も自分で文章を書かなくても、他人のブログへコメントを打っていた方がいいでしょう。

  簡単に自分の文章を公開できると思うから、一応文を書く能力がある文系人間が飛びつく。 しかし、大切なのは、書く事そのものではなく、文章の内容でしょう。 特に、コメント投稿やメール・アドレスをオープンにしていて、他人につっ込まれる可能性がある場合、自分が専門知識を持っている分野以外は、一切書かないというくらい警戒した方がいいと思います。 生半可な知識で、いい加減な事を書いていると、豺狼の如き下司どもに、すぐに吊るし上げられてしまいます。

  最後に、中学・高校生から大学生までを含めた、学生諸君に一言。 世の中に対する考えが固まらない内に、ブロガーなんぞには、絶対手を出してはいけませんよ。 一度書いてしまった事は、取り消せないですから、最悪の場合、一生、自分の叩いた軽口に苦しめられる事になります。 犬が西向きゃ尾は東な事ですが、知らない事は知らないのであって、知らない事について文章が書けるはずがないのです。 知らないのに書けるとしたら、それは嘘だけであり、「こいつは、嘘でも平気で書く」と思われたら、もう誰も相手にしてくれません。

  嘘を書く気が無くても、間違った事を書いてしまう事はあります。 学生時代には分かりませんが、社会人になれば、世の中の仕組みが、それまでとは全く違って見えて来ます。 学生時代に自信満々でブログに書いていた事が、間違っていた事に気付くケースも少なくありません。 いくら、世の中で話題になっているといっても、学生が年金問題について書くのは、無理があるでしょう? そういうものです。 環境問題など、いかにも食いつく学生が多そうですが、自分が車に乗り始めたり、電気製品を買う側に回ると、考え方が120度くらい変わる事がありますから、あまり調子に乗って大人を攻撃し過ぎない方がいいです。

  誰も、あなた方のブログ・デビューなど急かしていないのですから、ゆっくりと構えて、知識を蓄える一方、世間の観察を深める事です。 どうしても、学生の内にブログを始めたいのなら、自分の意見を控え目にした、日記のような物の方が無難でしょう。 身の周りの出来事を書くだけなら、他人につっ込まれる隙が生まれないからです。 一度、手ひどく突っ込まれて、傷つくと、二度と文章を書く気にならなくなる事もあるので、用心の上に用心を重ねるべきです。 他人は怖ぇぞ~。

2009/06/14

内臓DVDドライブ

  パソコンの、≪内臓DVDドライブ≫を買いました。 電気製品を買ったのは久しぶりです。 今年の1月に、≪火災警報器≫をネットで買いましたが、あれは、義務化になるというので、義務的に付けたに過ぎず、別に面白くもなんともないのであって、数の内に入れられません。 その前となると、2007年の秋に買った、≪音楽キーボード≫がそうですから、ほぼ一年半ぶりの電気製品購入と相成りました。

  「電気製品を買おうかな・・・」と思いつくと、何となく、心がそわそわして、普段と違った精神状態になりますな。 それでいて、全面的に楽しみにしているかというと、そういうわけではなく、「買うのはいいけど、説明書を読むのが面倒臭いなあ」とか、「本当に使い道があるのかね? 買ったはいいが、使わなかったじゃ、お金が勿体ないぞ」とか、いろんな抵抗も心に生じて来ます。 ≪嬉し恥かし≫という形容がありますが、≪嬉し面倒臭し≫とか、≪嬉し勿体なし≫とか、そういう言葉を使えば、的確な心理表現になるでしょうか。

  ちなみに、私が今までに買った電気製品の中で、最も後悔したのが、≪関数電卓≫です。 「電卓を使って遊ぼう」という内容の本を読んで、軽薄にもその気になり、わざわざ、5000円も出して、函数電卓買って来たんですな。 馬鹿だねー。 で、その本の指示に従って、幾つの式を解き、「ほお~っ! 凄い凄い!」などと喜んだのも束の間、三日もしない内に飽きて、それっきり、関数計算なんぞ、一切やらなくなりました。 以降、ただの四則演算用に使ってますが、そんな計算なら、学生時代から持っていた古い電卓でも用は足りるわけで、性能を使いきれずにいる関数電卓にも、お蔵入りにしてしまった古い電卓にも、悪い事をしたと、今に至るも後悔し続けている次第です。

  白状しますと、≪音楽キーボード≫も、買う前に予想したよりは、ずっと使用頻度が低いです。 一ヶ月間、全く触らない時もあり、これも気の毒と言えば気の毒。 使わないにしては、図体が大き過ぎて、「部屋の空間が勿体ない」と、常に感じています。 どうせ、左手なんか使えないんだから、全部で3オクターブ分くらいのキーがあれば充分だったんですよ。 ≪タッチ・レスポンス≫機能も、無くて良かったなあ。 どうせ、ピアノに昇進するわけじゃないんだから。 そう思うと、当時、もっと小さくて安い品があったので、やはり後悔するわけです。 ≪大は小を兼ねる≫というのは、必ずしも真理とは言えないわけだ。

  おっと、何の話だ? そうそう、≪内臓DVDドライブ≫の話でしたな。 最近、テーマをすぐに忘れる傾向が強くて困ります。 しかも、途中で脱線するならまだ可愛気があるけれど、冒頭からまるで違う事を書いていて、「はっ!」と気付いて、慌てて引き戻すという重症ぶり。 相当には、頭の脈絡が齟齬を来たしていると思われます。 「はっ!」とはするけれど、こういうのは、≪アハ体験≫の内には入らないんでしょうねえ。

  おっと、おっとおっと、また脱線しかけているではありませんか。 今回のテーマは、≪内臓DVDドライブ≫です。 今度は、ちゃんと書きます。 で、内臓DVDドライブをなんで買う事になったのかと言うと、話は今年の3月半ばに遡ります。 ≪会社で音楽を聴く計画≫というのに夢中になった時期があり、その時に、メモリー・プレーヤーを買おうとしたんですが、図書館から借りて来た音楽CDをメモリー・プレーヤーに移し変えるために、パソコンを介さなければならないという事で、久しぶりに、≪内臓CD-RWドライブ≫を使ってみたら、壊れていたんですな。 その後、職場の変化などが重なり、結局、≪会社で音楽を聴く計画≫は、ポシャったわけてすが、「内臓ドライブを壊れたままにしておいていいものだろうか・・・」という気がかりは、ずっと継続していたのです。

  そもそも、いつ頃から壊れていたのかというと、買物記録ノートに拠れば、2005年の5月に、≪CD-R 25枚組≫を買っているので、その時にはまだ使えていたのは確か。 ところが、2006年の6月には、≪外付ハード・ディスク・ドライブ≫を買っていて、それを買った理由が、≪内臓ドライブの書き込み不良≫でしたから、その一年の間に、使えなくなったという事になります。 渋ちんの私の事ですから、内臓ドライブが壊れた事が分かった後も、相当長い間、代替記録手段の整備をためらっていたはずで、恐らく、2005年の夏頃には、既に壊れていたものと思われます。 日記の方を具さに調べれば、それに関する事件が記してあるかもしれませんが、面倒臭いのでパス。

  つまり、≪内臓CD-RWドライブ≫を、2005年の夏頃からずっと使っていなくて、今年の3月に、3年半ぶりに使おうとしたら、書き込みだけでなく、音楽CDの再生も出来なくなっていた事が判明した。 それだけ分かっていただければ充分です。 今年3月に試した時には、トレイすら出て来なかったから、凄かった。 二日間くらい、何度もやりなおしていたら、ようやく開きましたが、音楽CDを入れても、読み取りません。 ディスクの回転音も聞こえない。 モーターが錆び付いていたんでしょうかねえ? 3年半も放置しておけば無理も無いか。

  またまた脱線で申し訳ないですが、私のパソコンに元から付いていた、≪内臓CD-RWドライブ≫は、記録装置としては、ほとんど使えませんでした。 ≪使わなかった≫と言う以前に、≪使えなかった≫のです。 データの書き込みにやたらと時間がかかったり、書き込みそのものに失敗する事が多く、読み出すのにも時間がかかって、道具として、お話になりませんでした。

  前に使っていたパソコンには、≪B'sクリップ≫というソフトがプレインストールされていて、割と気楽&手軽に使えたんですが、今のパソコンには入っておらず、前のパソコンで書きこんだデータはすべてパーに。 ≪B'sクリップ≫を単独で買うと、ン千円してしまうので、それはせず、≪WinCDR≫で済ませようとしたのがいけなかったんですな。 ≪WinCDR≫自体に問題があるとは言いませんが、パソコンと相性が悪かったんでしょう。

  で、羹に懲りて膾を吹く事になり、今でも、CD-Rや、CD-RWに、データを書き込もうという気にはなれません。 ≪外付ハード・ディスク・ドライブ≫を買ってからは、そちらオンリーです。 憚りながら、光学ディスクにデータを保存している方々に御注意申し上げるが、くれぐれも、信用し過ぎない方が良いと思いますぞ。 写真データなんか、あっというまにディスクが何十枚にもなってしまうと思いますが、パソコンの買い替えの時に、同じ書き込みソフトが手に入らず、すべて作り直す事になりかねません。 もっとも、動画データなどの場合、ハード・ディスクに保存するというわけにも行きませんから、DVD系のディスクを利用する以外に手は無いわけですが。

  話を戻します。 ≪会社で音楽を聴く計画≫を諦めて以降も、「内臓ドライブは、どうにかせにゃならんな」と思っていたので、パソコン・ショップの広告や、ネット通販には、ポツポツ目を通していました。 壊れたのは、≪CD-RWドライブ≫ですが、もはやCDドライブの時代ではなく、買い直すなら、≪DVDマルチ・ドライブ≫が最もお得という事は、すぐに分かりました。 ネット通販だと、書き込み機能が無い、≪DVD-ROMドライブ≫というのも売っていますが、値段がマルチと大差ない上に、バルク品ばかりで、素人の私は手を出さない方がよかろうと判断しました。

  内臓ドライブには、接続方式の違いにより、≪シリアルATA(SATA)≫と≪ATAPI(PATA/IDE)≫の2タイプがある事は、3月にパソコンをバラした時に調べて知っていました。 私のパソコンの場合、タイプが古い、≪ATAPI≫の方です。 大抵の機種には、この二種類が用意されています。 値段は、同じ場合もあれば、異なっている場合もあります。 そういえば、ドライブ前面の色が黒か白かでも、機種が違うんですな。 私のパソコンは、スリム・タイプで、外側にカバーがかかるから、どっちでもいいんですが、同じデスクトップでも、タワー・タイプの場合、前面が剥き出しになるので、パソコン本体の色と合うか否かが重大問題になるらしいのです。 不思議な事に、黒と白で、値段が違う物もありました。 どういう根拠で値段をつけているのやら・・・。

  あくまで、私の行動範囲内の店の話ですが、≪内臓DVDマルチ・ドライブ≫は、DVDビデオ再生ソフトが付属している物で5000円、付属していていない物で3000円が最安値でした。 「DVDマルチ・ドライブを買うからには、DVDビデオが見れなければ意味が無い」と思っていたので、そこの所は譲れない線です。 再生ソフトの付属が、値段の分かれ目になっている事は明らかで、ソフトだけ単独で買うと、8000円などという、目玉が飛び出る値段になっています。 いかに、付属ソフトがお得かが分かろうというもの。

  実は、≪外付ドライブ≫も、幾つか検討したのです。 3月にバラして以降、パソコンから異音が発生し始め、パソコン自体の寿命が懸念されるようになったため、パソコンを買い替える事になっても、ドライブを使えるように、外付にしておいた方がいいのではないかと思ったのです。 外付には、デスク・トップ用の大きなタイプと、ノート・パソコン用のポータブル・タイプがあり、ポータブルの方が小さくて、高価です。 再生ソフト付だと、大体10000円くらい。 デスク・トップ用は、8000円くらい。 いずれにせよ、内臓に比べると、倍近くするわけだ。

  ところが、調べを進めて行く内、外付は、内臓に比べて、性能が落ちる事が分かりました。 USBケーブルで繋ぐので、データ転送速度に限界があるらしいのです。 説明書にも、「DVDビデオを再生すると、映像・音声に飛びが出ます」などと、嫌な事が書いてあります。 しかも、それは、USB2.0の場合の話でして、私のパソコンはUSB1.1なので、はなから問題外でした。 まともに動くわけがねーっす。 ポータブルでは、元の転送速度にしてからが遅いので、更に悪くなる様子。 うーむ、外見のスマートさに騙されてはいけないんですなあ。 値段的にも腰が引けていたので、性能に問題がある事が分かった事で、スッパリ諦める事が出来て、却って良かったです。

  さて、内蔵に戻りますが、再生ソフトがついている物が、店で5000円の所を、ネット通販では送料込みで4000円という所を見つけ、一旦は、それに決めかけました。 ところが、そこまで絞ってから、一ヶ月くらい買わなかったのです。 なんでかというと、この期に及んで、使い道がはっきり決まらなかったからです。 音楽CDをメモリー・プレーヤーに移す計画は、既に頓挫しており、データを光学ディスクに保存するつもりも無いわけですから、残るは、DVDビデオの再生だけですが、私が持っているDVDソフトは、映画が、≪スイング・ガールズ≫一本と、後はOVA数本だけ。

  ああ、ちなみに、OVAというのは、≪オリジナル・ビデオ・アニメ≫の略で、テレビ放送されず、最初からレンタルとセルだけを目的に作られたアニメの事ですが、昨今はめっきり作られなくなり、この言葉自体が、もはや死語化しています。 私が持っている物も、マイナーな作品なので、もうほとんど見る事がありません。

  あとは、母がごっそり持っている、ヨン様主演ドラマのDVDがありますが、そもそも、DVDが見たいなら、DVDプレーヤーは別にあるのであって、何もわざわざ、パソコンで見る必要は無いという気がせんでもなし。 よくよく考えると、内蔵ドライブなんぞ、別段、必需品ではないのです。 だからこそ、3年半の間、故障したまま、うっちゃらかしていても、何の支障も無かったわけでして。

  いかんなあ。 ここまで検討を進めたのに、根本的な問題にぶつかってまいましたよ。 4000円という値段が、また微妙でして、些か高すぎるのです。 私の感覚だと、3000円と4000円の間には壁があり、4000円というと、「もう、ほとんど、5000円」というイメージがあるのです。 そして、5000円といえば、否が応でも思い浮かぶのが、関数電卓の苦い経験・・・。 「無駄遣いになるのでは・・・」と、気後れしてしまうんですな。 これが、3000円なら、たとえ無駄になっても、そんなに惜しいとは思わないんですが。

  時折、パソコン・ショップの広告に、特売の内臓DVDドライブが出て、≪再生ソフト付 3000円≫などという値段がついていて、食い入るように眺め、実際に店にも行ってみるのですが、現物のパッケージを見ると、どうも怪しい。 型番をメーカーのサイトで調べてみると、「30日体験版」と書いてあるのです。 確かに、体験版であっても再生ソフトである事に変わりありませんが、これは一種の詐欺なのではありますまいか? 店で作るチラシより、メーカー・サイトの仕様表の方が信用できると思うので、買うのはやめておきました。

  余談ですが、この種の事は、店員に聞いても、正確な情報が得られない事が多いです。 その時の特売商品だけでも、十数点もあるのですから、その中の一つの付属ソフトに何がついているかまで、知らないのは無理からぬ事。 その場でネットで検索してくれれば、まだいい方で、若い店員や女性店員の場合、調べようともせずに、「再生ソフトはついています」と断言するから怖い。 「自分は店員だから、客より詳しいのは当たり前だ」と、根拠の無い自信に満ちており、救いようがありません。 その商品について、買うか買わぬか、何ヶ月も検討を続けている客と、まるっきり興味が無い店員と、どちらが詳しいかは、容易に想像がつきそうなものなのですが。

  「よし、つまり、何だな、いかに特売品でも、再生ソフト付のドライブは、3000円では買えないという事だな。 仕方がない、4000円出してネットで買うか」と、決心しかけた矢先、ネット上で交友している人から、ある情報を得ました。 それは、「再生ソフトなら、フリーソフトにいくらでもあるんじゃないの?」というもの。 これには、雷に打たれたようなショックを受けましたね。 単独で買えば、8000円くらいするソフトですから、フリーソフトにあるなど想像すらせず、調べた事もなかったのです。 早速、検索してみたら、ありましたよ。 何種類も。 信じられねーな、8000円が、タダかよ?

  ここからは、早かったです。 先週の月曜日にフリーソフトの事を教えてもらって、火曜日にはもう、3000円のソフト無しドライブを買いに行きましたから。 本当は、交換作業の事を考えると、週末に買いたかったのですが、特売期間が木曜までだったので、ゆっくりしていられなかったのです。 こういう時に、時短で、早く帰宅できるのは好都合。 バイクではなく、車で会社に行き、帰りに店に寄って、買って来ました。

  その日は説明書を読むだけに留め、翌日の夕食後、満を持して、交換作業をしました。 水曜で、本来なら、≪ナニコレ珍百景≫と≪臨場≫があるのですが、その日はサッカー中継で休み。 たっぷり時間が取れて、却って好都合でした。

  CD-RWドライブの取り外しは、前に試した事があったので、心配していなかったのですが、電源コネクターがなかなか抜けなくて、思ったより手こずりました。 DVDドライブの取り付けは逆の手順でやっただけ。 背面のコネクター・ソケットは、両方とも全く同じ形状でした。 DVDドライブの方が、全長が3センチくらい短かったですが、短い分には問題ありません。

  パソコンの蓋を閉める前に、アナログ・オーディオ・ケーブルと、CPUファンが干渉しているような気がして、隙間から覗きながら、干渉しないように取り回してみました。 これで、異音が発生しなくなれば、しめたものですが、そううまくは行かないかな?

  付属ソフトのディスクを入れて、幾つかある体験版ソフトの内、再生ソフトだけをインストールしました。 早速、≪スイング・ガールズ≫を再生してみたのですが、映像は粗いし、動きは遅いし、音は飛び飛びで、見るに耐えません。 駄目ですな、これは。 30日で使えなくなるらしいですが、期限が切れ次第、アンインストールする事にします。

  続いて、音楽CDを試すべく、図書館で借りて来た、エアロ・スミスの、≪ビッグ・ワンズ≫を入れてみました。 これは何の問題も無く再生成功。 そもそも、音楽CDなら、≪Windows Media Player≫を使えるので、ソフトが違うのです。

  ≪Windows Media Player≫では、映像の再生も出来るようですが、付属ソフト以上に映像が粗くて、とても見られたものではありませんでした。 ≪RealOne Player≫も似たり寄ったり。 こうなると、画質に期待が持てるのは、フリーソフトだけという事になりますが、もし、CPUの能力が足りないのなら、どんなソフトを入れても無駄という事になります。 CPUまで換えるくらいなら、パソコンごと買い直した方がいいので、まあ、それ以上の事は望まぬ方が華でしょう。

  次の日の木曜日は、DVD再生のフリーソフトを入れてみました。 ≪VLC Media Player≫というもの。 ダウンロードとインストールの手順を、写真入りで説明してくれているサイトがあったので、その指示通りにやりました。 まったく、こういうサイトを作ってくれる人というのはありがたい。 天使に見えるね。

  で、≪スイング・ガールズ≫を入れてみると、何と、絵はちゃんと映るし、音もまともに出ました。 動きの速い場面に来ると、少々モタつきますが、付属ソフトよりは、ずっと安定しています。 なんで、これがタダなのか、ほとほと不思議。 付属ソフトも、別に不良品というわけではなく、パソコンの性能が高ければ、正常に作動するのだと思います。 何せ、CPUの推奨性能が1.6GHzなのに、私のパソコンは933MHzしかないのです。

  追い追い、他のフリーソフトも試してみるつもりですが、CPU・メモリー・液晶モニターの性能に限界があるので、どんなに良いソフトを使っても、専用DVDプレーヤーとテレビの組み合わせには追いつかないと思われます。 しかし、そう考えてみると、専用DVDプレーヤーというのは、5000円以下で買える商品の割には、高性能なんですなあ。

  何はともあれ、内臓ドライブが復活したのは喜ばしい事です。 トレイが出て来るだけでも感動している有様ですから、いかに長い間、ドライブと縁が切れていたかが分かろうというもの。 これからは、放置しすぎで壊れないように、ちょこまか使う事にします。

2009/06/07

スッキリ頭

  このブログを読んでいる人の内、たまたま来たとか、意見や文章を盗みに来たとか、自分の考え方と相容れない奴の文を読んで怒りのエネルギーを喚起するために来たとか、そういう連中を除いた上で、更に上澄みの三分の一くらいの人達なら、≪加藤周一≫さんの名前を知っていると思います。 芸能人でもスポーツ選手でもなく、割とよくある苗字と、割とよくある名前の組み合わせなので、知らない人は全く知らず、知っている人だけが、そこそこ詳しく知っている、そんな人です。

  職業は、広く言えば、作家。 狭く言うと、文芸評論家。 しかし、若い頃は医師をしていて、評論家として身を立てた後も、医師免許は持ち続けていたようです。 昨年(2008年)の12月5日に、89歳で世を去りました。 死因は多臓器不全だそうですが、いわゆる老衰でしょう。 亡くなるほんのちょっと前まで評論活動を続けていたようで、≪プラハの春≫の思い出を語りつつ、現代の青年層に対する観察を披露している姿を、没後、追悼番組になったテレビの特集で見ました。

  一口で言って、どういう人だったかというと、現代日本人で、唯一、頭のスッキリした人だったのです。 いや、「唯一」と言うと、ちょっと語弊がありますな。 「最も」と言った方が的確でしょうか。 一億二千万人あまり雁首揃えている中で、頭のスッキリ度がトップだったわけです。 ただし、数値で表すと、トップの加藤さんを100とすれば、二番以下は80に達しない、それくらい抜きん出ていました。

  ちなみに、加藤さんが単独トップになったのは、1973年以降でして、それ以前には、石橋湛山という大御所がいました。 他に日本人でスッキリ頭というと、歴史上の人物になってしまいますが、幕末の小栗上野介などもそうです。 他には・・・・おりませんな。 信じられない少なさですが、少ないからこそ価値があるわけです。

  スッキリ頭というのは、具体的にどういう事かというと、該博は言うに及ばず、頭が切れるのは勿の論、論理的思考はプレインストール済、実際に合理的行動が取れるのは当たりき車力、その上で、世界全体の流れを読み取れる観察眼の持ち主の事を言います。 物知りや切れ者だけなら掃いて捨てるほどいますし、単に論理的思考だけなら理工系には珍しくありませんが、全て兼ね備えている人となると、砂漠で針を探すより難しいです。

  なんで、亡くなって半年も経ってから、加藤さんの事を取り上げたのかというと、今まで、準備をしていたからです。 加藤さんほどの人をテーマに取り上げるとなれば、いい加減な事は書けませんから、昨年の暮れから図書館に通い、≪加藤周一著作集 全24冊≫を、半年かけてコツコツと読んで来たのです。 実はまだ、全部読んでいないのですが、15冊ほど読んで、大体の事は分かったので、「もう、いいでしょう」と、ゴーサインを出した次第。

  加藤さんの著作は、「高尚な内容を、分かり易い文章で書いてある」と、よく言われますが、やはり、内容が難しければ、理解する上で抵抗になるのは避けられないわけで、「誰にでも、スイスイ読める」というような軽いものではなかったです。 特に若い頃の文章は、文語的な美文を意識している為に、今時の人間には、かなり厳しいと思います。 おっと、この、≪今時の人間≫というのは、40歳以上の読書階層を念頭に置いて言った事でして、それ以外の人達は、最初から手を出さぬ方がいいでしょう。 「これで、分かり易いのお?」と、劣等感に打ちのめされるだけです。 ただ、70年代以降に増える、講演内容を文章に起こした著作なら、口語体ですから、本当に分かり易いです。

  本業は、文学、美術、音楽、演劇などの、文芸評論ですが、どちらかというと、副業的に発表して来た、国際政治・文化評論の方が、加藤さんの本領のような気がします。 文芸評論の方は、何となく、趣味の延長のような浅さを感じるのです。 世間では、≪日本文学史序説≫という作品が代表作と見られていますが、そんな、目から鱗というような面白い本ではなかったです。 古事記から始めて、日本で書かれた小説や歌、俳句、詩、歴史書、宗教・思想書などを網羅しており、「よくぞ、これだけ読んだもの!」と、まずそこで驚嘆するものの、対象が多過ぎる為か、分析の方はパターンが決まってしまっていて、「彼岸性より此岸性が重視される」、「全体から部分ではなく、部分から全体が作られている」の二点だけで切りまくっており、評論というより、単なる紹介に近くなっています。

  もう一つ、加藤さんの著作で有名なものに、≪雑種文化≫という論文集があり、「フランスやイギリスの文化が外部の影響を受けていない純粋種であるのに対し、日本やドイツの文化は外国文化をいいとこ取りした雑種である」と論じています。 念の為に言い添えますと、別に、「純粋種と雑種のどちらが優れているか」といった低次元な事を言っているわけではないので、誤解しないように。 でねー、この、≪雑種文化論≫、分かるには分かるんですが、時代的にかなり古い時期の発表である為か、現代の世界に当て嵌めると、少々ズレを感じます。 特段、純粋種と雑種を分けて考えなくても、どこも雑種文化である事に変わりは無いと思うんですよ。 程度の差があるだけで。

  たとえば、イギリスですが、英語の単語の語源を見れば分かるように、ゲルマン語、ケルト語、ノルマン・フレンチ語、ラテン語、ギリシャ語、と、さまざまな系統の雑居所帯でして、イギリス文化が、いかに多く外国からの影響を受けたかが分かろうというもの。 フランスでも、ガリア人、ゴート人、ローマ人の文化が重なったものを基層にしており、フランス独自の文化が花開いたのは、僅々数百年の間の事です。

  加藤さん自身も、そういう事は当然知っていたわけですが、「それでも尚且つ、日本文化の特徴を述べれば、雑種である」と言わざるを得なかったのが苦しい所。 だけど、世界の情報が大量に日本に流れ込み始めたのは、テレビが普及した1970年代以降でして、≪雑種文化≫が発表された1956年の時点では、日本人の圧倒的多数は、80年間の大日本帝国政府の刷り込みを受けて、「日本の文化ほど、純粋な文化は無い」と信じ込んでいたので、「純粋どころか、典型的な雑種だ」と指摘する事に、大きな意義があったわけです。 戦後間もない頃にフランスに留学し、外の世界を具さに見て、日本の閉鎖性に危機感を抱いていたからこそ、日本人を世界に向かって目覚めさせる事が、その後のライフワークとなっていったんでしょう。

  加藤さんは、日本語以外に、フランス語、ドイツ語、英語が喋れる、≪カトリンガル≫で、喋るだけでなく、それぞれの言語で読書も出来たそうです。 なんでも、ウンベルト・エーコさんの、≪薔薇の名前≫をフランス語で読んだと書いてありましたが、気が遠くなるような話ですな。 こちとら、≪シャーロック・ホームズ≫を英語で読むのにも、血の涙を流しているというのに・・・。 他に、漢文も好きだったそうですが、現代中国語はやっていなかった様子。

  これだけ外国語通だったのですから、言語全般について知識が豊富だったかというと、そういうわけではないようで、結構、的外れな事も書いています。 例の、「日本文化は、部分から始めて、それが寄り集まって全体が構成される」という自論を展開するに当たり、「それは、後ろへ後ろへと、次々に言葉を継ぎ足していく事で構成される、日本語の文法的特徴とも通じるものがある」というような事を言ってしまっているのですが、おそらく、その一文を書いた時には、日本語ほとんど同じ文法特徴を持つ言語が他にもたくさんある事を知らなかったんでしょう。

  もし、日本語の文法の特徴が日本文化を産んだと言うのなら、韓国、朝鮮、モンゴル、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルコ、フィンランド、エストニア、ハンガリーといった国々でも、日本そっくりの文化が形成されなければいけない事になりますが、勿論、そんな事はありません。 加藤さんが詳しかった外国は、ロシアを含むヨーロッパ全域、アメリカ、中国、インドといったところで、隣国であるにも拘らず、韓国・朝鮮への興味は薄かったようですな。 いかに加藤さんといえど、戦前に教育を受けた世代ですから、やむをえないと言えば言えますが。


  加藤周一さんは、ほぼ、完璧と言っていい、コスモポリタンです。 実業家や学者には、コスモポリタンを自称している人が結構いますが、その中には世界を股にかけて差別意識と偏見を垂れ流している馬鹿者も混じっており、油断がなりません。 「コスモポリタンとは、どういう人か?」と訊かれたら、「加藤周一さんのような人」と言えば、最も的確な回答になります。 これほど偏見の無い人が、この夜郎自大の国にいて、しかも高名な知識人であったというのが、大変喜ばしい。 ほとんど、奇跡に近いです。 唯一の救いだったと言っても宜しい。

  「国と国、民族と民族、文化と文化は、すべて対等であって、価値の上下など無い」という事が、頭の芯にしっかり納まっていないと、コスモポリタンには、絶対なれんのですよ。 「そんなの、公けの場で意見を述べているような人なら、大概、当て嵌まるんじゃないの?」などと、知識人の良識的雰囲気に惑わされているあなた! 試しに、新聞の社説でも、テレビ・ニュースの解説でも、言葉の端々に注意して、読み聞きして御覧なさい。 外国や異民族、異文化に対する偏見が、うじゃらうじゃら含まれていて、ちびまるこ並みに額に縦線入るから。 むしろ、差別意識が強い事を売りにしている低劣な輩の方が圧倒的に多い始末。 いないんですよ、本物のコスモポリタンというのは、滅多に。

  ちょっと脱線しますが、この種の問題で難しいのは、合理主義者だからといって、必ずしも差別意識を持っていないわけではないという点です。 たとえば、ドイツ人は、合理主義者の典型のように言われていますが、一方で、外国人に対する猛烈な差別意識を持っている事でも有名です。 ユダヤ人虐殺に関しては、謝罪も賠償も反省もしているものの、それはあくまで、国家の公けの姿勢の事であって、一人一人のドイツ人の意識は、ナチス時代のドイツ人のそれと、根本的に変わってはいないでしょう。 根底にある差別意識はそのままで、ただ、それを公けの場で表明していい社会から、表明してはいけない社会に変わっただけなんですな。

  科学的な態度で世界に向き合えば、人種差別にも民族差別にも、何の根拠も無い事はすぐに分かる事ですが、つまり、科学的であるという事と、合理的であるという事には、ダブらない部分がかなりあるという事なんでしょうな。 一見、合理主義の方が基本的・全般的で、科学的態度はその中に含まれるようなイメージがありますが、実際には、合理の≪理≫の性質によって、非科学的な結論に至ってしまう場合もあるわけだ。 「ドイツ人は、外国人より優れている」という考え方は、科学的には無根拠ですが、ドイツ人の理性には合致していているものと見えます。

  ドイツ人ばかり責めるのも卑怯なので、日本人についても触れておきますが、おそらく、産業社会に至った民族の中では、最も非合理的なのが日本人です。 ≪武士道≫などを見れば分かるように、はなから理性よりも攻撃性の方が高く評価される野蛮な民族気質を持ち、糅てて加えて、論理を理解できないので、非合理なのも、当然と言えば当然。 過去に実行した外国侵略についても、国家レベルの謝罪ですら上辺だけで、賠償はごく一部の国に対してしか行なっておらず、反省に至っては、国家も個人も、全くしている形跡がありません。 合理的なドイツ人と、非合理的な日本人、両者に共通しているのは、外国に対する差別意識が強烈だという点です。

  脱線し続けた挙句、成り行き任せで本題に戻って来ましたが、加藤周一さんは、そんなしょーもない日本人の中にあって、科学的な態度で世界を見る事が出来た、大変、稀有な存在なわけです。 加藤さんが亡くなった後、≪お別れの会≫という仰々しい催しが行なわれ、≪識者≫と呼ばれる人達が集まって、それぞれ弔辞を述べていましたが、あの中で、どれだけの人が、加藤さんと同レベルの意識を持ち合わせていた事やら、大いに怪しいです。

  中には、加藤さんの事を、≪日本文化の擁護者≫と見做していた人もいましたが、それは、頓珍漢の極みというものでしょう。 加藤さんが、日本文化について詳しく調べ、多く書いたのは、「外国の優れた点を紹介するためには、まず日本の事をよく知って、客観的に比較できるようにならなければいけない」と考えていたからであって、別に日本文化を擁護していたわけではありません。 フランス留学を終えて、日本に帰ってくる航路上、船内放送で流される日本の歌謡曲に神経を逆撫でされ、終いにゃ、自分の船室のスピーカーを破壊したというエピソードが、加藤さんの日本文化に対する距離感をよく表しています。 加藤さんは、日本文化の中で、ヨーロッパや中国の文化との比較に耐える上層の部分だけを拾って評価したのであって、日本文化全般に関しては、むしろ否定的に捉えていたと見るべきでしょう。 

  加藤さんは、一貫して、反戦・反核の立場を取っていました。 東大医学部在籍中に占領軍のチームに加わり、原爆投下後の広島に入って医学調査を行なったという特異な経歴があるにも拘らず、日本の一般的な反核主義者が陥りがちな、ヒステリックな核保有国批難を行なわなかった点は、実に加藤さんらしいです。 まず基本に、反戦があり、その延長として、反核を置いていたわけです。 加藤さんの反戦意識の根本には、戦争で学友を失ったという辛い記憶が一方にあり、もう一方には、戦時中の日本軍部のあまりの馬鹿ぶり低能ぶりに呆れ果てていたという、現実観察の経験があって、極めて強固な基盤を形作っています。

  護憲派で、晩年、≪九条の会≫の代表メンバーに名を連ねていましたが、他の面々が、名前こそ世間に知られているものの、さほど頭がスッキリしていない人達が多かったので、加藤さんが加わった事で、会の存在感が高まっていたのは、確実なところ。 ただし、基本的には一匹狼気質の人で、群を成すのは好まなかったようです。 加藤さんを失って、一番、「きっついなー」と思っているのは、≪九条の会≫の人達でしょう。 大江さんなんて、何言ってんだか、未だに分からんものなあ。

  加藤さんは、サルトルの思想を擁護していた事でも特徴的で、著作集の中にも、サルトルに関する論文がたくさん出てきます。 実際に、サルトル本人に会って、フランス語で話をしていたそうで、そういう人も日本では珍しいと思います。 ただ、私自身が、サルトルの思想がよく分からない為に、加藤さんの解説を読んでも尚、今ひとつピンと来ません。 ≪嘔吐≫で、うんざりさせられてから、他の本を読む気にならんのですわ。

  他に、加藤さんの考え方で重要な事というと、社会的平等を尊重していた点でしょうか。 60年代頃までは、社会主義に大きな期待をかけていたようで、ソ連や東欧、中国にも実際に赴いて、実情を観察していました。 「社会主義思想そのものと、スターリン主義を同一視するべきではない」という主張も、著作の中によく出てきます。 冷戦の最中に、「ソ連の日本に対する軍事侵攻など、目的の合理性から見て、ありえない」と、きっぱり言っていたのは、加藤さんだけでした。 ペレストロイカによるソ連の変化を最初に日本に伝えたのも、加藤さんだったと思います。

  社会主義社会が、経済の効率性に於いて、資本主義社会に追いつかなくなるにつれ、加藤さんの社会主義への期待は萎んで行きます。 客観的に物事を見られるからこそ、現実を曲げてまで、≪社会主義の希望≫を口に出来なくなったのでしょう。 ただし、「資本主義をこのまま続けていけば、資源問題や環境問題で、いずれ人類は行き詰るだろう」とも予測していました。 もう半年、長生きしていたら、実際に到来した資本主義の行き詰まりをどう評したか、大いに興味があるところですが、残念な事となりました。

  平等を尊重していたけれど、加藤さん自身は、最初から最後まで、自分の事を、知識人・エリートとして、大衆と区別していました。 医師の息子で、自分自身も東大出身の医師、その後、文筆業、通訳、文芸関連の研究など、肉体労働とは無縁の人生を送った人ですから、大衆と自己を結びつける部分が少なかったのは致し方ないところでしょうか。 そこが、弱点と言えば弱点で、社会主義についても、「命に関わるほど貧しいよりは、そこそこ飯が食える生活の方が、ずっと良いだろう」というスタンスで捉えていたフシが無いでも無いです。


  さて、いろいろ書いて来ましたが、加藤周一さんの最も偉大な所は、この人が決して、≪天才≫ではなかったという点です。 加藤さんの物の考え方は、科学的・客観的である事を基礎にしているというだけで、別段、独創的な要素が豊富なわけではありません。 医師という面では、自然科学者ですが、名を成したのは文系の仕事であって、素人でも想像がつく通り、文系の研究は、資料を頭に入れる事が大半で、独創性とは縁が薄いものです。 加藤さんは小説や詩も書いていますが、そちらは世に知られるほどではなく、明らかに独創性とは遠い仕事の方が高い評価を受けているのです。

  何が凄いと言って、天才的な独創性が無くても、これだけ質の高い仕事ができるというのが素晴らしいです。 たとえば、「筒井康隆さんになってみろ」と言われたら、熱狂的なファンでも、「そんなの不可能だ」と、挑む前から諦めるでしょう。 しかし、「加藤周一さんになってみろ」と言われた場合、これといった才能を持っていない普通の人であっても、諦める必要はありません。 ≪日本文学史序説≫を書くに当たって加藤さんが読んだ書物を、追い掛けて全て読めば、同じレベルの評論が書けると思います。 膨大な量なので、実行できる人は少ないでしょうが、少なくとも、質的な障碍は存在しないのです。

  四カ国語を操った点や、外国で長く暮らした点は、ちょっと真似が出来ませんが、それは、加藤さんの特徴ではあっても、本質ではありません。 それに、いまやネット時代ですから、外国の情報をマメに集めていれば、国内にいながらにして、かなりの世界通になれると思います。 もし、昭和20年にインターネットが存在したら、加藤さんもたぶん、ヨーロッパへは行かなかったんじゃないでしょうか。

  追悼ニュースの中で、≪知の巨人≫という形容を使っている人が少なからずいて、私としては、かなり違和感を覚えました。 そういう軽薄な称号は、時代錯誤の博物学者にでも贈ればいいのであって、加藤さんには、まるで当て嵌まりせん。 加藤さんの本質は、その基本的考え方の正しさにあるのであって、知識や智恵の量は問題ではありますまい。 もし、加藤さんの死因が多臓器不全ではなく、アルツハイマー病であったとして、どんどん記憶が失われていって、小学生レベルの知識しか残らなくなった場合でも、加藤さんはやはり、正しい事を言うでしょう。 大元が正しいから、どこを切っても正しいわけです。

  加藤さんは、無宗教で、神も仏も、あの世も信じていなかったので、冥福は祈りません。 ただただ、この世に必要な人を失くした事を、心から惜しむだけです。