2022/02/27

EN125-2Aでプチ・ツーリング (29)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、29回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2022年1月分。





【伊豆の国市奈古谷・奈胡谷神社①】

  2022年1月5日に、バイクで、伊豆の国市、奈古谷にある、「奈胡谷神社」へ行って来ました。 地名と神社名で、「古」と「胡」の字が違っています。 「なごや」や、「ねごや」といった地名は、あちこちにありますが、元は、どんな意味だったんでしょうねえ。

≪写真1≫
  南側の参道から。 標柱に、「延喜式内 奈胡谷神社」とあります。 行く前も、行っている間も、村社だとばかり思っていました。 家に帰って、この写真を見て、ようやく、延喜式内に気づいた次第。 道理で、あれこれ、立派なわけだ。

≪写真2左≫
  参道の傍らに設置されている、「塞の神」。 道祖神ですな。 最初から、こんな場所に置く事はないので、区画整理などが理由で、よそから持って来られたのでしょう。

≪写真2右≫
  参道。 石燈籠が二組。 手前は、六角。 奥は、四角。 どちらも、割と新しい物。

≪写真3≫
  社殿。 拝殿と本殿が、廊下で繋がっている形式。 屋根は、トタン/ブリキ葺き。 神社の格に似つかわしくないので、もしかしたら、檜皮葺きを、金属板で覆ってあるのかも知れません。 それにしても、えらく凝った細工です。 トタン/ブリキ職人にも、宮大工に相当する人達がいるんでしょうか。

  正面が真っ暗になっているのは、逆光ではなく、鎮守の森の背が高いので、陰になっているからです。 拝殿前に、賽銭箱はありません。 中にあるのかも知れませんが、確かめて来ませんでした。 左の白い建物は、倉庫のようです。

≪写真4左≫
  狛犬。 というか、戦後型の獅子。 平成10年とありました。 なるほど、造形が新しいわけだ。 これに、もう一押しすると、ファニーが入って来ます。

≪写真4右≫
  狛犬の台座裏に、「狛犬のいわれ」を記してありました。 親切だ。 こんなの、他の神社では、見た事がありません。 この写真サイズでも、何とか読めると思うので、興味がある方は、どうぞ。




【伊豆の国市奈古谷・奈胡谷神社②】

≪写真1≫
  一見、主社殿のように見えますが、これだけ立派でも、境内別社です。 何の神なのかは、不明。

≪写真2左≫
  東側の入口にも、鳥居が立っていました。 脇口用にしては、立派なもの。

≪写真2右≫
  これは、主社殿の側面。 奥側から撮りました。 壁は、木の板です。 本殿の側面に、連子窓があります。 という事は、普段、中は、真っ暗ですな。

≪写真3左≫
  手水舎。 屋根は、ブリキ/トタン。 これも、その下は、檜皮葺きなのかも。 正月なので、注連縄が新しいです。

≪写真3中≫
  漱盤。 堂々たる大きさの自然石を、刳り抜いた物。 昭和46年に寄進されたようです。 正面に、「浄」と彫ってあります。

  塩ビ・パイプから、水が出るようになっていますが、ハンドルが見えません。 下の方にあるのでしょう。 それでは、「ちょっと来て、参拝の前に、手を洗って・・・」というわけには行きませんな。 しかし、水周りは、水道代がかかる事もあり、いつでも、水を使える状態にしておけない事情があるのでしょう。

≪写真3右≫
  境内にあった、二宮金次郎の石像。 割と新しいので、どこかで要らなくなったものを引き取ったのではなく、ここに設置する為に、買ったのだと思います。 しかし、神社に、二宮金次郎像は、ちと、遠い感じがしますねえ。

≪写真4左≫
  植え込みが、綺麗に整備されている境内でした。 植え込みの境界の石の上に、木製のベンチが設置されていました。 さりげなくて、良いですな。

≪写真4右≫
  ゴミ箱。 うーむ・・・、ゴミ箱が置いてある神社は、初めてです。 サービス精神に溢れていますねえ。 それとも、境内を汚さないという、神への配慮でしょうか。 これが、延喜式内の矜持というものなのか。

≪写真5≫
  西側入口に停めた、EN125-2A・鋭爽。 左右は、畑です。 停めやすい所があって、良かった。

  正式な入り口は、南側ですが、函南町役場の方から、畑毛温泉を通る道を南下して来て、鎮守の森を目印に、北側の道路から近づき、西側に回り込んで、ここへ来た方が、迷いません。 別に、駐車場というわけではないと思うので、ここへ停めよとは言いませんが。

  道路の向こうに見えるのは、畑を潰した作った、太陽光発電所のようです。




【函南町・函南神社①】

  2022年1月12日に、バイクで、函南町の、「函南神社」に行って来ました。 去年、つまり、2021年の3月15日に、第二目的地にして出かけ、第一、第二、ともに見つけられず、近くの畑の祠で、お茶を濁した後、復路で、場所だけ分かったものの、寄らずに帰って来た所。 今回は、場所が分かっているから、確実に到着しました。

≪写真1≫
  熱函道路へ上がる道から、函南駅の方へ向かう道に入り、富士山を撮影。 この道は、山の中腹を通っているから、富士の眺望が、大変、良いです。 左側に見えるのは、愛鷹山。 太古には、富士山と同じような積層火山だったと思うと、その大きさが偲ばれます。

≪写真2左≫
  駅に向かう道路から、一段上の道路に、坂で上がると、函南神社の前に出ます。 参道はなくて、石段だけ。 石段と言っても、コンクリートで覆われています。 石燈籠が、石段の手前にある形式。

≪写真2右≫
  解説板。 どうやら、古い神社ではなく、昭和27年(1952年)に、この区域の住民が、新たに造ったもののようです。 祭神は、「富士浅間本宮」から分けた、木花開那姫命との事。

≪写真3左≫
  鳥居。 見るからに、明らかに、仮設。

≪写真3右≫
  足下を見ると、元の鳥居の痕跡がありました。 壊れてしまったんでしょうね。

≪写真4≫
  社殿。 写っているのは、拝殿です。 木造・漆喰壁・瓦葺き。 まだ、戦後間もない頃だから、昭和戦前の流行が残っていて、瓦葺きになったんでしょうか。 正面に、賽銭箱あり。

  境内は、写っている部分で、全体の8割くらい。 お世辞にも広くはないですが、地形を見ると、よくぞ、これだけの面積を、平らにしたものと思います。 




【函南町・函南神社②】

≪写真1≫
  拝殿の側面。 サッシが入っていたり、今風の通気口があったり、割と最近、修理されものと見受けられます。 なぜ、その時、鳥居を直さなかったのだろう? 社殿を直した後で、鳥居が壊れたんでしょうか?

≪写真2左≫
  本殿。 拝殿と本殿が、完全に、分離しています。 駿東地域では、こういう形式は珍しくて、ほとんどは、廊下で繋がれています。 稀に、木製の階段だけという所があります。 ここも、コンクリートで、段を造ってあるにはあります。

  本殿側面に、柱が一本、外付けになっているのも、興味深い。 たぶん、向こう側にもあるのでしょう。 「神明造り」なんでしょうな。 だから、拝殿と繋ぐ廊下がないのかも知れません。

≪写真2右≫
  手水場。 蛇口あり、ハンドルあり。 コンクリートで造ると、コチコチという感じですな。 右側にある、穴の開いた石は、何なんでしょう。 昔の漱盤かも知れませんが、何か、柱が立っていた基礎とも考えられます。 でも、境内に、こんな太い柱を立てる用はないかな?

≪写真3≫
  石段の途中から、南西方向を見た景色。 山懐に抱かれた、いい感じの所ですね。 狭くもなく、広くもなく、落ち着いた雰囲気があります。 手前左側は、山の斜面で、何か大掛かりな工事をしています。

≪写真4≫
  石段の下の道。 南側に、道路が広くなった部分があり、そこに、バイクを停めました。 たぶん、車を停めても、短時間なら、何も言われないのでは? 神社自体が小規模で、長居するような場所ではないです。




【三島中央自動車学校 / 加茂川神社】

  2022年1月20日に、バイクで、三島の、「三島中央自動車学校」と、「加茂川神社」へ行って来ました。 三島駅の東、東海道本線と、東海道新幹線の間に位置しています。

≪写真1≫
  「公認 三島中央自動車学校」。 地形的に、「本当に、教習所があるのだろうか?」と思うような所に、本当にありました。 地元の人にしてみれば、不思議でも何でもない事でしょうけど。 当然、教室があって、学科の授業もやっているわけで、大きな建物です。

≪写真2≫
  コース。 傾斜地を削って造ったとは思えないほど、広々しています。 教習中の車も走っていました。

≪写真3左≫
  西側は、崖になっています。 斜面を削って、段々にしたわけですな。

≪写真3右≫
  駐輪場。 自転車で来る生徒が多いのでしょう。 斜面の道を登る必要がありますが、平地から、そんなに距離を登るわけではありません。 停めてあるバイクは、私の、EN125-2A・鋭爽です。

≪写真4左≫
  すぐ近くに、「加茂川神社」があります。 EN125-2Aで、何度か来ています。 そこで咲いていた、水仙。 健康的な印象の花ですな。

≪写真4右上≫
  石段を登って、境内に上がると、前回来た時と違って、社殿の周囲が、白い砂利敷きになっていました。

≪写真4右下≫
  駐車場。 広いです。 三嶋大社は別として、近隣の神社の中では、ここの駐車場が一番、広いのでは?




【長泉町竹原・越方神社】

  2022年1月26日に、バイクで、長泉町・竹原にある、「越方神社」へ行って来ました。 「越方」は、「おちかた」と読むようです。 この付近には、他に、「智方(ともかた)神社」、「地方(じかた)神社」がありますが、「三方」で、揃えているのか、何の関連もないのか、分かりません。

≪写真1≫
  住宅地の中にあります。 正面から。 境内の外に、参道はないです。 鳥居に、棒注連縄が懸けてあります。

≪写真2左≫
  鳥居は、木製で、六脚型です。 珍しい。

≪写真2右≫
  石燈籠。 四角断面の神社型。 堂々とした造形です。

≪写真3≫
  社殿の正面。 鉄筋コンクリート、銅板葺き。 賽銭箱は、扉の中にあるようです。

≪写真4左≫
  社殿の側面。 拝殿と本殿を短い廊下で繋いだ形式。 本殿は、屋根の色が違っています。

≪写真4右≫
  狛犬。 というか、唐獅子。 石燈籠と共に、平成十四年に奉納されたとあります。 2002年ですな。 この顔つきは、明らかに、ファニーが入っています。 その頃の、というか、たぶん、今現在まで続いている、流行なんでしょう。

≪写真5左≫
  西側の駐車場に留めた、EN125-2A・鋭爽。 この日は、市街地と住宅地しか走らなかったので、バイクよりも、自転車向きの目的地でした。 まあ、バイクの方が、ずっと、楽ですけど。

  駐車場は、広いです。 だけど、よそ者が、車で見に来るような神社ではないです。 境内も、建物・その他も、えらい、綺麗になっていますが、さっぱりし過ぎて、些か、趣きに欠けるとでも言いましょうか。 管理者の折り目正しい性格が出ている観あり。

  手水舎があれば、雰囲気に潤いが出るのではないかと思います。 余計なお世話ですが。

≪写真5右上≫
  駐車場と境内の境にあった、石造りの車止め。 こういう神社アイテムは、初めて見ました。 面白い。

≪写真5右下≫
  鎮守の森に、腕力に自信がありそうな木がありました。




  今回は、ここまで。

  自動車学校を目的地にしたのは、初めてでした。 教習所は、自分が通った所以外には、用がないわけで、地図を見ていて、「こんな所に、教習所があるのか・・・」と、大変、不思議な気分になり、実際に行ってみて、本当にあると、「本当にあったんだなあ」と、深い感慨に襲われます。 結構、広い敷地が必要な施設なのに、そこにあるのを知らなかったという、己れの知識の空白に驚くからでしょう。

  ちなみに、私は、教習所には、三ヵ所、通いました。 普通免許(1986年)、中型二輪免許(1993年)、大型二輪免許(1994年)。 車の免許を取った所は、教習生を人とも思わぬ、ひどい扱いで、合格して卒業した時には、清々しました。 その後、遠くへ移転してしまったのと、二度と行く気にならなかったのと、二つの理由で、中型二輪は、別の所へ通いました。

  二番目の所は、こちらが、20代末の年齢だった事もあり、扱いは常識的でしたが、二輪を取りに来る中では、歳が行っていて、大人しかったせいか、秘かにナメられて、規定時限の2倍くらい、乗らされました。 二輪の指導員全員に当てられ、よーく、カモにされたわけです。 卒業する時には、「これだけ乗っていれば、うまいのは当たり前だ」と言われましたが、「それだけ乗せたのは、あんたらだろうが」と言い返してやりたかったです。

  同じ時に卒業した若い連中で、「免許は出すけど、おまえら、その状態で、公道に出たら、すぐに死ぬぞ」と言い渡されたのが、二人か三人いました。 聞いていて、「それなら、免許を出さなければいいのに」と思いましたが、暴走族候補生みたいな、ガラの悪い奴らだったから、指導員も、睨まれるのが怖かったのかも知れませんな。 その連中、宣告された通り、公道に出て、すぐに死んだかも知れません。

  中免を取った後、「せっかくだから、教習内容を覚えている内に、大型二輪の試験を受けてみるか」と思い、安倍川沿いにある、県の試験場に行ったのが無謀だった。 初めて乗った750ccで、一応、コースは回ったものの、途中で足を着いたので、あっさり、不合格。 そこで、やめておけばいいものを、悔しくて、大型二輪の教習をやっている、別の学校に通い始めました。

  当時、大型二輪免許は、教習所では取れず、試験場で合格する必要があったのですが、指定された教習所で、教習を受けて、その終了証を持って行けば、試験場の試験は、特にうまくなくても、普通にコースを回って来るだけで、合格させてくれるという、システムでした。 それを知らずに、大型二輪を諦めていた人が、どれだけいた事か。

  終了証を持って行ってからも、一回落ち、二回目に合格。 嬉しかったは嬉しかったけど、750ccで教習を受けている間に、あまりの重さに、辟易してしまい、実際には、大型二輪のバイクを買う事はなかったです。 中免で充分だったのに、とんだ無駄金を使ってしまいました。 15万円くらいでしたが・・・。 後悔先に立たず。

  そういや、試験場に、非公認の教習所から、7・8人の若い連中が、中免の試験を受けに来ていました。 引率の指導員から喝を入れられて、試験に臨んだものの、見事なくらいに、一人残らず、不合格。 教習所まるごと、玉砕していました。 私の目の前でやっていたのは、停止線で停まるだけの試験でしたが、全員、1メートルもオーバーしているのだから、受かるわけがないです。 バイクに跨ったら、バンバン飛ばす自分しか、イメージしていないのでしょう。 落ちて、正解。 受かって、公道に出たら、すぐ死んだに違いない。

  私自身、バイク乗りだから、こんな事は言いたくないですが、現実問題として、若い頃にバイクに乗りたがる人間の、かなりの割合は、その手の、無茶、もしくは、無茶苦茶な連中でして、バイクに関わったばかりに、どれだけの青少年が、あの世へ旅立ったか知れません。 どんな人間でも、30歳近くまで生きれば、人格が落ち着いて来て、無茶をやらないようになるのに、その前に、くたばってしまうんですな。 なんとも、無残な運命である事よ。


  というわけで、教習所は、三ヵ所行ったけど、どこも、いい思い出は、あまり、ないですねえ。 80年代までは、教習所の指導員と言ったら、高慢痴気なだけの、人間失格みたいな奴ばかりでしたが、90年代には、すでに変化が見られ、常識が通用する世界に近づきつつありました。 少子化の影響で、生徒が減ったのが大きな原因だと、2001年頃、ネット上で、教習所指導員を夫に持つ人から、聞いた事があります。

2022/02/20

実話風小説① 【責任感が強い山男】

  創作なんて、ほとんど、やらないのですが、去年(2021年)の、9月2日に、ふと、その気になって、書いてみたのが、これ。 「実話風小説」の意味ですが、普通の小説との違いは、情景描写や心理描写を最小限にして、文字通り、新聞や雑誌の記事のような、実話風の文体で書いてあるという事です。

  ネットで小説というと、短編でも、長く感じられて、中途放棄したくなるものですが、安心してください。 私には、そんなに長い小説を書く構成力も、根気もないから、すぐに終わります。 尚、「短か過ぎる」という苦情は、ご遠慮ください。 だから、「実話風」だと言っているではないですか。 実話は、本来、短いものです。




【責任感が強い山男】

  登山歴が、そこそこ長い、引退男性、A氏。 責任感が強い性格で、近隣の山の会に所属しており、会員のパーティーで、よその山に登りに行く時には、専ら、リーダーを務めていた。 ある時、2000メートル級の○○岳に、六人のパーティーで出かけた。 雪山ではないが、すでに秋が深まっており、風がある日だった。 みんな、A氏の指導に従い、重装備で、移動速度は遅かった。

  尾根道の分岐点で休憩した時、軽装の中年男性、B氏と出会った。 A氏が、B氏に、どこへ行くのか訊ねたところ、A氏達とは、方向違いの、××岳に向かうとの事だった。 ××岳へは、まだ、いくつか、ピークを越える事になる。 A氏は、「軽装で、大丈夫ですか」と皮肉まじりに訊いたが、B氏は、「いつも、こんなですから」と返した。

  その場は、そのまま別れたが、しばらく、歩いている内に、風が強くなって来た。 A氏が、「やっぱり、さっきの人が心配だから、下山するように言って来る」と言い出した。 サブ・リーダー格のC氏は、「自分で判断するだろうから、そこまでする必要はない」と反対したが、A氏は聞かず、「あんな軽装で来る、山をナメている人間に、正しい判断なんかできるわけがない」と言って、パーティーの引率を、C氏に頼み、分岐点の方へ引き返して行った。

  天候は、更に悪化し、○○岳に向かう尾根道は、容易に前に進めないほどの強風になった。 頻繁に休憩を取っていたが、風はやまず、雨まで降り始めた。 C氏は、登山経験が、5年程度で、パーティーの引率をした事はなかった。 次第に、動けなくなる者が出始め、パーティーは、バラバラになってしまった。 C氏は、山頂下の避難小屋まで、何度か往復して、一人一人、手を引いて連れて行ったが、避難小屋に入れたのは、三人で、最後の一人を連れに行ったC氏は、戻って来なかった。 パーティーは、遭難した。 

  二日後、家族から警察に捜索願が出されたが、天候が回復せず、救助隊が山に入るまでに、更に二日かかった。 捜索の結果、避難小屋にいた三人は、無事に救助された。 小屋まで来れなかった二人の内、C氏は尾根から少し外れた斜面で、両膝をつき、前にうつぶせるような格好で、死亡していた。 死因は、低体温症であった。 もう一人は、自力で、ビバークを試みたようだったが、場所が悪く、30メートルほど滑落し、打ち付けられた岩の上で、テントが遺体に巻きつくような形で発見された。

  B氏に忠告へ向かったA氏は、××岳に向かう、最初のピーク手前で、ビバークしていた。 命は助かったが、著しく衰弱しており、数日の入院が必要になった。 A氏の話によると、結局、B氏を見つける事ができず、その内、強風と雨で動けなくなったとの事だった。 C氏と、もう一人が、死亡した事は、A氏が退院した後に告げられた。 A氏は、しばし、絶句したものの、自分の判断が間違っていたとは認めず、軽装で山に来たB氏の事を、口を極めて、批難した。

  「たぶん、遭難しているはずだから」という、A氏の強い求めに応じて、救助隊と警察で、B氏を捜したところ、その行方は、すぐに分かった。 B氏の話では、予定通り、××岳に登頂し、天候が悪化し始めた頃には、すでに、樹林帯まで下りていて、その後、何事もなく、下山し、帰宅していた。 B氏は、登山というより、トレイル・ランに来ていたのであって、重装備のA氏が、軽装のB氏に追いつけるわけはなかったのだ。

  A氏は、パーティー内に死者が出た責任を、B氏に問えないかと、警察に訊ねたが、苦笑されただけだった。 B氏は、A氏のパーティーに対して、何の害を加えたわけでもないのだから、当然である。 責任を問われるべきは、A氏であり、明々白々たる判断ミスだった。 余計な事をしたばかりに、二人、死なせてしまったのである。

  責任感が強かったから、というより、「登山は、重装備が鉄則」という固定観念が頭に染みついていて、軽装で来ている人間を許せなかったのである。 山の会に、近所に住む、50代の未亡人がいて、A氏が誘って、パーティーに加わらせたのだが、「彼女の前で、責任感が強いところを見せつけたかったのではないか」という勘繰りも囁かれた。 ちなみに、A氏には、妻子がいるが、山には興味がない人達である。

  死者を出した事で、山の会は、解散になった。 遭難事故後、一回、会合が開かれたのだが、A氏が、まるで被害者のような顔をして、ヌケヌケと出席し、遭難の経緯を大雑把に説明した後、猛烈な語気で、B氏の批難をぶったばかりか、暗に、C氏の実力不足まで、あげつらったので、呆れられてしまい、途中で退席する者が半分を超えた。 その後、会合は一度も開かれず、自然解散となったのである。

  A氏は、その後も、登山を続けたが、同行する者はいなかった。 すでに故人であるが、山で死んだわけでない。 ありふれた病死である。

2022/02/13

読書感想文・蔵出し (86)

  読書感想文です。 今回で、今現在に追いつきました。 これで、しばらくは、感想文は出しません。





≪現代中国SFアンソロジー 折りたたみ北京≫

ハヤカワSFシリーズ
早川書房  2018年2月25日/初版
ケン・リュウ 編
中原尚哉・他 訳

  三島図書館にあった本。 沼津図書館にもあるんですが、≪三体Ⅲ上下≫を借りたついでに、これも借りた次第。 新書サイズ、二段組。 短編集は、感想が大変なので、極力、短く書きます。

  中国語からの直接訳ではなく、ケン・リュウ氏が、中国語から英語に翻訳したものを、日本人の訳者が、英語から日本語に翻訳したもののようです。 もっとも、固有名詞などは、元の中国語版を参照してあると思いますが。

  ≪三体≫でも、そうでしたが、SF小説を、中国語から日本語へ、直接訳せる翻訳家がいないというのは、驚きだな。 かつては、「翻訳王国日本」などと言われたものじゃが、遠い昔の伝説に成り下がったか。


≪陳楸帆≫
【鼠年】 約32ページ
  2009年5月、「科幻世界」に掲載。

  遺伝子操作された知能の高い鼠が逃げ出して繁殖する。 いい就職先を見つける為の点数稼ぎに、駆除部隊に入隊した大学生達が、鼠相手の戦いに、憔悴する話。

  SFというより、一般小説に、SF設定を入れたという体裁。 駆除部隊は、軍隊ですが、凄まじい戦闘場面などはなく、地味に話が進みます。 ストーリーは、特に興味を引きませんが、雰囲気が変わっていて、面白いです。


【麗江の魚】 約20ページ
  2006年5月、「科幻世界」に掲載。

  仕事で精神を病んだ青年が、保養所になっている、麗江にやってくる。 ある女性と知り合うが、彼女は青年の事を、不自然によく知っていて・・・、という話。

  これも、一般小説に近いです。 SF設定は入っていますが、それのおかげで面白いという事はないです。


【沙嘴の花】 約20ページ
  2012年、「少数派報告」に掲載。

  境界を越えて、深(土+川)に住み込むようになった青年。 大家の占い師と共に、大家の友人の娼婦が、男に虐待されているのを助けようとするが、思わぬ結果になってしまう話。

  やはり、SF設定を使った、一般小説です。 こういう作風の作家なんでしょうな。 別に、SFではないというわけではなく、SFよりも、一般小説として読んだ方が、しっくり来るという程度の違いです。


≪夏笳≫
【百鬼夜行街】 約20ページ
  2010年8月、「科幻世界」に掲載。

  かつて、観光地として、大勢の客が訪れていた、幽霊の住む街。 本物の人間の魂を、ロボットの中に入れて、幽霊に仕立て、営業されていたが、すっかり寂れてしまっていた。 やがて、街全体が解体される時が来て・・・、という話。

  これは、日本のSF作家でも、書きそうな話です。 大変、馴染み易い。 短編のアニメにしても、良い出来になるんじゃないでしょうか。


【童童の夏】 約22ページ
  2014年3月、「最小説」に掲載。

  両親と女の子一人が暮らしていた家に、医師をしていた祖父が怪我をして同居する事になる。 介護の為に借りたロボットが、遠隔操作されていた事から、祖父が、新たな利用方法を見出し、介護の世界に革命を起こしてしまう話。

  トントン拍子に、物事がいい方へ発展して行くというパターンの話。 それを、直接には関係ない、孫娘の視点から描いているので、一般小説や純文学のような落ち着きが感じられます。 介護の問題は、日本でも深刻ですから、この話の中で描かれているアイデアは、現実になって行くかも知れませんな。


【龍馬夜行】 約20ページ
  2015年2月、「小説界」に掲載。

  アトラクション用に、フランスで作られ、中国へ送られた、馬の体に龍の頭を持つ、巨大なロボット。 人類が滅んでから、再起動し、錆びた体を動かして、当てもなく、歩き始める。 やがて、沼に嵌まって動けなくなるが、魂だけが抜け出し、他の多くの、生物・無生物の魂と共に宙に舞い上がって・・・、という話。

  ファンタジーです。 この作者は、ロボットと魂を、抵抗なく、組み合わせるようですな。 人類滅亡後の話でして、妙に物悲しいです。 人間なんて、自然の破壊者に過ぎないと思っていましたが、滅びたら滅びたで、寂しいものですな。


≪馬伯庸≫
【沈黙都市】 約46ページ
  2005年5月、「科幻世界」に掲載。

  使う言葉まで規正されている監視社会。 あるソフト技術者が、禁止用語を喋るのが目的で作られたクラブに入会し、一時、大きな解放感を得る。 急に仕事が忙しくなり、しばらく遠ざかっていたら・・・、という話。

  ジョージ・オーウェル作【1984】と同類の、ディストピア小説です。 こういうSF小説は多いですが、みな、同じような印象になりますねえ。 この作品の場合、皮肉な展開が盛り込まれていますが、面白いというところまで行きません。


≪(赤+大里偏)景芳≫
【見えない惑星】 約20ページ
  2010年2月から、4月まで、「新科幻」に掲載。

  宇宙に数ある、知的生命体が住む惑星。 その住民達の不思議な生態を、彼が彼女に、話して聞かせる話。

  生物学的、物理学的に考えられる、生物の幾つかのパターンを並べたもの。 全体の纏め方は、お世辞にも、うまいとは言えませんが、個々の生物の説明部分は、知的興味を引きます。


【折りたたみ北京】 約52ページ
  2014年2月、「文藝風賞」に掲載。

  第一、第二、第三と、三つの区画に分かれ、いっときに活動するのは、一区画だけで、他の二区画は、住民が眠って、地下に折りたたまれてしまう、未来の北京市。 第二区画の学生から、第一区画に住む恋人への手紙をことづかった、第三区画のゴミ処理作業員が、第一区画へ潜り込もうとする話。

  なぜ、三区画に分かれているのか、説明がありますが、経済的な理由という以外、よく分かりません。 一種の冒険物ですが、設定が細かい割には、話は、そんなに面白くはないです。


≪糖匪≫
【コールガール】 約12ページ
  2013年6月、「エイペックス」に掲載。

  特殊な能力を持つ女子学生が、高額報酬と引き換えに、中年男の客を、ボロい車の中で、幻想的な世界へ、トリップさせる話。

  こんな梗概では、的外れかもしれませんが、これ以上、深く読む気になれません。 こういう、ファンタジーに半身逃げ込んだような作品は、1980年代の、SFマガジンに、うじゃうじゃ載っていましたが、まあ、そんな作家は、みんな、消えてしまったわけだ。 というか、日本では、80年代後半に、小松左京丸が沈没した後、ハード、ソフト、ファンタジー系に関係なく、同乗していたSF作家全てが、推理小説や少年向け作品などにジャンル替えして、消えてしまったのですが。


≪程倩波≫
【蛍火の墓】 約18ページ
  2005年7月、「科幻・文学秀」に掲載。

  ある星から逃げてきた母娘。 母親のかつての恋人が作った巨大なロボット型の城の中で、時間が止まり・・・、あっ、いかんなあ。 ストーリーが頭に入っとらんなあ。 さりとて、もう一回、読み返す気にもなりません。

  SF系のファンタジーとしか言いようがないですが、私は、こういうの、駄目なんですよ。 何が面白いのか、全く分からない。 レム作品でも、一番有名な、【惑星ソラリス】が、まるっきり、分からないし。 SFとファンタジーを掛け合わせると、それこそ、何でもアリになってしまうわけですが、そういう作品ばかり書いていると、ハードSF系のファンは、みんな、尻に帆かけて、遁走してしまいますよ。


≪劉慈欣≫
【円】 約22ページ
  2014年。

  中国の戦国時代末期、秦王の命を狙いに来た、燕の刺客、荊軻。 秦王に許されて、お抱え科学者として仕えるようになる。 円周率の計算を極める事によって、不老不死の秘密が分かると説き、秦軍300万人の兵士を使った「人列コンピューター」を考案するが・・・、という話。

  ≪三体≫の中にも出て来た、「人列コンピューター」を取り出し、中心的なモチーフに使った短編です。 こちらの方が、後に書かれているので、≪三体≫に使うだけでは惜しいと思って、アイデアのスピン・オフをさせたわけですな。 実際、膨大な数の人間を使って、単純な動作をさせれば、コンピューターの代わりができるわけですが、劉慈欣さんが、これを思いついたんですかね。 何度も使うという事は、そうなのだと思いますが。


【神様の介護係】 約40ページ
  2005年1月、「科幻世界」に掲載。

  太古に、地球に人類の種を播いたという、創造神の種族が、膨大な数の宇宙船に乗って、地球を訪れ、「宇宙を放浪する内に、みな、年老いてしまったから、面倒を見てくれ」と言って、20億人も降臨して来る。 その結果、世界中の各家庭で、一人か二人、神の介護を引き受ける事になるが、神と言っても、すっかり、老いぼれていて、超人的な事は何もできず、厄介者扱いされる話。

  一見、ふざけた話のようですが、どうしてどうして、ハードSFの下地がなければ、こういう話は、思いつきません。 やはり、劉慈欣さんは、タダ者ではありませんな。 同じ、介護問題をテーマにしていますが、夏笳さんの、【童童の夏】とは、まるで、違っているところが面白い。


[エッセイ]

劉慈欣
【ありとあらゆる可能性の中で最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF】

陳楸帆
【引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF】

夏笳
【中国SFを中国たらしめているものは何か?】

  いずれも、短いもので、エッセイというより、論説に近いです。


  このアンソロジー、劉慈欣さんが、1968年生まれであるのを除くと、他の作家は、みな、1980年代生まれで、まるまる、一世代、若い人達です。 劉さん一人が特別で、おそらく、劉さんと同世代のSF作家の作品は、取り上げて、英訳するに相応しくないと判断されたのでは?

  つまりその、中国SF界に於ける、劉慈欣さんは、ソ連・ロシアのSF界に於ける、ストルガツキー兄弟のような存在なんじゃないでしょうか。 もっとも、旧西側諸国でも、一国を代表するSF作家というと、一人か二人くらいになってしまうから、大差ないですけど。




≪現代中国SFアンソロジー 月の光≫

ハヤカワSFシリーズ
早川書房  2020年3月25日/初版
ケン・リュウ 編
大森望 中原尚哉・他 訳

  三島図書館にあった本。 沼津図書館にもあるんですが、≪三体Ⅲ上下≫を借りたついでに、これも借りた次第。 新書サイズ、二段組。 短編集は、感想が大変なので、極力、短く書きます。

  ≪折りたたみ北京≫と同様、中国語からの直接訳ではなく、ケン・リュウ氏が、中国語から英語に翻訳したものを、日本人の訳者が、英語から日本語に翻訳したもの。 日本SF界の、「中→日」翻訳者は、とことん、駄目な様子。 もしや、中国SF界との、パイプすら、ないのでは?


≪夏笳≫
【おやすみなさい、メランコリー】 約44ページ
  2015年6月、「科幻世界」に掲載。

  アラン・チューリングが遺した、人工知能との会話記録を元に、人工知能の可能性について、考察を匂わせた小説。

  アラン・チューリングは、実在の人物ですが、彼が遺した「人工知能との会話記録」というのは、創作。 他に、人工知能を搭載したぬいぐるみをモチーフにしたパートが、交互に挟まります。 どちらも、はっきり分かり難いのですが、大体なら、何を言いたいかは分かります。 惜しむらく、小説としての面白さは、ほとんど、感じません。


≪張冉≫
【晋陽の雪】 約62ページ
  2014年1月、「新科幻」に掲載。

  五代十国時代末期、宋軍によって包囲され、陥落間際の北漢の都、晋陽。 降伏する方針が固まりつつあったが、ある時、突然現れ、、便利な機械を発明・製作して、宋軍を寄せ付けずにいる人物が、逆に邪魔になっていた。 その人物を殺すべく、一人の男が、刺客として送り込まれたが・・・、という話。

  タイム・スリップ物。 普通に、面白いです。 二段組、62ページあって、短編というよりは中編ですが、読み始めると、ページをめくる手が止まらず、あっという間に、読み終わってしまいます。 伝統中国に興味がある人間にとって、こういう話は、否が応でも、ワクワクさせられてしまいますな。

  未来から来た青年が、戻れなくなってしまい、戻る為のエネルギーを得る為に、歴史的大事件を起こすという筋で、興味深いのは、この青年、訪れた時代の現地人が、何人死のうが、全く意に介していないという点。 確かに、本人の言う通り、青年は、「ただ、戻りたいだけ」なのですが、その為に、晋陽の人々が、どんなに迷惑を被ろうが構わないと思っているのだから、怖い。 この青年が主人公でないのは、そのキャラ設定のせいでしょう。

  攻めて来ているのは、明らかに、「宋」なのですが、なぜか、本文では、全て、「宗」となっています。 単なる、誤字・誤植にしては、多過ぎ・大っぴら過ぎ。 「宋」は、「宗」と書いていた時期があるんですかね? 創作作品の都合上、わざと変えたにしては、他の国名は正確です。 ちなみに、原注の最後の一項では、「宋」となっています。


≪糖匪≫
【壊れた星】 約30ページ
  2016年9月、「文藝風賞」に掲載。

  ある学校にて。 金持ちの娘の代わりに、テストを受けてやった女子生徒。 その友人が、教師に告発したせいで、金持ちの娘から恨まれて、リンチを食らう事になる。 女子生徒には、運命の星を操作できる母親がいて・・・、という話。 

  ラノベのような雰囲気で始まりますが、その内、ホラーになります。 かなり、怖いです。 しかし、これは、SFとは言えませんな。 まあ、どの国でも、SF作家が、ホラーを書くという事は、珍しくないですけど。


≪韓松≫
【潜水艇】 約12ページ
  2014年11月17日、「南方人物週刊」に掲載。

  田畑を追われた農民たちが、出稼ぎに来ている上海の川に、たくさんの潜水艇を浮かべ、そこを家にしている・・・、という設定の話。

  設定は分かりますが、話がよく分かりません。 農民工の風刺だと思いますが、風刺は、元ネタをよく知っていないと、分かりませんなあ。


【サリンジャーと朝鮮人】 約8ページ
  2016年、「故事新編」に掲載。

  朝鮮民主主義人民共和国が、アメリカ合衆国を征服し、朝鮮で人気があった、サリンジャー(小説家)を捜すが、サリンジャーは、とっくから、隠遁生活をしていて、マスコミを遠ざけており・・・、という話。

  シニシズム小説ですな。 この小説は、皮肉が利いている点だけ、面白いです。 サリンジャーさんは、【ライ麦畑でつかまえて】を書いた人。 私は、読んでませんが。 2010年に他界。


≪程倩波≫
【さかさまの空】 約14ページ
  2004年12月、「科幻世界」に掲載。

  ある街で、大河に棲むイルカの歌を録音する仕事をしている人物。 ある時から、イルカの言葉を聞けるようになる。 一頭のイルカが、天に登り、もう一つの世界へ渡っていく話。

  ギリシャ神話の、イルカ座の話と、「ジャックと豆の木」の話がモチーフに使われています。 宇宙絡みの、ファンタジーですな。 同じ作家の、【蛍火の墓】よりは、分かり易いですが、こういう作品を、あまり高く評価しない方がいいような気がしますねえ。 作家本人を含め、ほんの一部の人だけが、分かったような気になっているだけなのでは?


≪宝樹≫
【金色昔日】 約74ページ
  2015年3・4月、「F&SF」に掲載。

  幼馴染みの女の子と、親の仕事の都合で、離れ離れになった男の子。 大人になる過程で、何度か再会し、恋人同士になるが、長く一緒に暮らす事ができない。 一方、社会情勢が、歴史を巻き戻したような逆転を始め、二人とも、状況の変化に振り回されて行く話。

  時間が戻るのではなく、社会情勢だけが、過去にあった事を逆に辿るように、戻って行きます。 その現象に関する説明は、一切なし。 SFとか、分類のしようがないですが、「歴史の波に翻弄される、幼馴染みの二人」という部分だけ見れば、純文学的な作品です。 一番近いのは、ボリス・パステルナーク作、【ドクトル・ジバゴ】。 主人公が、知識人で、不倫に走るなど、感心しない人物である点が、そっくりです。

  問題は、社会情勢の逆転現象が、なぜ、必要なのか分からない点でして、テーマとモチーフが一致していないのは、SFとしても、純文学としても、難があると思います。


≪(赤+大里偏)景芳≫
【正月列車】 約8ページ
  2017年1月、「ELLE China」に掲載。

  春節に出された特別列車が、乗客ごと、行方不明になる。 記者会見に臨んだ責任者によると、「同じ空間の、別の時間に入り込んでしまっているだけ」との事。 マスコミは、そんな列車を作った事に対する責任を追求しようとしているのだが、話が咬み合わず・・・、という話。

  ハードSFですが、記者会見のちぐはぐな会話の方が面白いです。 「実際の所要時間が変わらないのなら、長い時間感覚で楽しめる方が、得ではないか」というのは、頷けるような、せっかちには、頷けないような、微妙なところですな。


≪飛(气+リ)≫
【ほらふきロボット】 約26ページ
  2014年11月、「文藝風賞」に掲載。

  名君の息子は、大法螺吹きだったが、王位を継いでから、大法螺吹きの方で有名になりすぎると、まずいと分かり、自分が目立たないように、自分以上の大法螺吹きロボットを作らせた。 ロボットは、大法螺のネタを仕入れる為に、宇宙をに旅立つが・・・、という話。

  宇宙に旅立ってからが、話の本番ですが、やはり、分かり難いですなあ。 「オモチャ箱を引っ繰り返し、一つ一つ、丁寧に、しまい直して、最後に、蓋を閉めて、おしまい」というタイプの話に、なりかけて、なりきれずに、結局、何が言いたいのか、よく分からずに、終わっています。

  このアンソロジー、やたらと、分かり難い話が多いですが、これは、原作の問題なのか、翻訳を、中→英→日と、二段階経ている事による問題なのか、確かめようがありません。 ちなみに、原文を理解していない、いい加減な翻訳というのは、厳然と存在します。 この作品がそうとは言いませんけど。


≪劉慈欣≫
【月の光】 約22ページ
  2009年2月、「生活」に掲載。

  エネルギー政策に影響力を及ぼせる立場にいる男。 ある月夜に、約100年後の未来の自分から電話がかかって来て、世界の環境破滅を救う為に、未来の技術を伝授される。 それを実行しようと決意した直後、また電話がかかってきて、別の理由で破滅したと言い、また別の未来技術を伝授されるが・・・、という話。

  主人公が、未来の自分から勧められた事を、やろうと決意しただけで、未来が変わってしまい、一晩の内に、三回も、世界が破滅した報告を聞く事になります。 全く、劉慈欣さんの話は、気が利きまくっている。 タダ者ではないです。

  ≪三体≫があれだけ、話題になったのだから、劉慈欣さんの他の長編や、短編集を日本で出版する流れにならないのは、実に不思議です。 どうなっとんのよ?


≪呉霜≫
【宇宙の果のレストラン 蝋八粥】 約16ページ
  2014年5月、「最小説」に掲載。

  若くして賞を獲ったものの、その後が続かなかった作家。 宇宙の影の組織に依頼して、他の作家の才能をもらうが、それと引き換えに、妻への愛を失ってしまう話。

  タイトルと梗概が一致しませんが、入れ子式になっていて、その作家が、宇宙の果のレストランにやって来て、蝋八粥を頼むという形式なのです。 サスペンスに良くある、盗作物の一種と考えれば、SFでなくても、成立する話。 しかし、出来はいいと思います。 作者の意図がはっきり分かるだけでも、大変ありがたい。


≪馬伯庸≫
【始皇帝の休日】 約12ページ
  2010年6月、「家用電脳与遊戯」に掲載。

  秦の始皇帝が、天下統一後、休みをとる事にし、諸子百家に、それぞれが開発し、自慢にしているゲーム・ソフトを献上させて、楽しもうとする話。

  これは、凄い。 秦代に、テレビ・ゲームが流行っていたという設定に、驚かされます。 諸子百家のパロディーにして、ゲーム・ソフトのパロディーでもあるので、両方に通じていないと、完全に楽しむ事はできません。 


≪顧適≫
【鏡】 約20ページ
  2013年7月、「超好看」に掲載。

  未来を透視する能力があるという少女に紹介された青年。 初対面なのに、彼女が、自分の事を知っていたので驚く。 数年後、勤めた出版社の仕事で、彼女を訪ねるが、彼女は、青年と会う事を知っていたのに、過去に青年と会った事は覚えていなかった。 彼女の能力が、未来透視ではない事を知る話。

  「未来から過去へ向けて生きている」というアイデアは、分かるんですが、もし、過去から未来へ生きている者と、未来から過去に生きている者が出会ったら、会話にならないのは、理屈で分かる事で、小説のネタにするには、無理があると思います。


≪王侃瑜≫
【ブレインボックス】 約10ページ
  初出。 2019年?

  予め、脳に埋め込まれた、「ブレイン・ボックス」を、死後に取り出し、他の人間の脳に記憶を移す事で、死ぬ寸前の思考を再現できる技術が開発された。 ある男性が、交際していた女性にサプライズ求婚するが、逃げ出されてしまう。 女性が思い直して、引き返してくる途中、乗っていた飛行機が墜落して・・・、という話。

  死んでしまった恋人が、自分の事をどう思っていたか、後で知って、より深く傷つく、というパターン。 ブレイン・ボックスを、日記に置き換えれば、SFでなくても、成立する話。 


≪陳楸帆≫
【開光】 約30ページ
  2015年1月、「離線・黒客」に掲載。

  インターネット関連のアイデアを売る会社の社員。 仏教の高僧の御利益と、画像ソフトを組み合わせて、大人気となるが、高僧が偽者だった事がバレて、大失敗に終わる。 自ら世を捨てて、寺に住み込んで、修養していたが、そこにいた本物の高僧から、ヒントを与えられ、全てが、大きな力でコントロールされていたのではないかと気づく話。

  梗概で、一通り書いてしまいましたが、ネタバレというほどでもありません。 この作品、ストーリーよりも、軽妙な文体で、アップ・テンポに進む、ノリの良さが売り物。 読んでいて、心地良いです。


【未来病史】 約28ページ
  2012年4月から、12月まで、「文藝風賞」に掲載。

  インターネット社会になって以降に起こりそうな、新しい病気を、歴史を振り返る体裁で、幾つか、書き記したもの。

  タイトル通り、「病史」でして、教科書のような書き方がされています。 硬過ぎて、大変、読み難い。 こういう架空の病気のアイデアがあるのだから、一つ一つ、短編なり、長編の一部なりに取り入れて、普通の小説にすれば、面白くなると思うのですがね。

  「アイデアは出るけど、小説にするのが面倒臭い」のかも知れませんが、こういう形で、纏めて公表してしまうと、容易に、パクられそうですな。 プロは、バクったりしないと思いますが、ネットだけで、小説を発表しているアマチュア作家は、あまり、抵抗なく、やるでしょう。


[エッセイ]

王侃瑜
【中国SFとファンダムへのささやかな手引き】

宋明(火+韋)
【中国研究者にとっての新大陸:中国SF研究】

飛(气+リ)
【サイエンス・フィクション:もう恥じることはない】


  一括りに書いてしまいますが、三編とも、≪折りたたみ北京≫の、それと同じく、エッセイというより、論説に近いです。 最後の一編だけは、エッセイと読めない事もないですけど。

  中国でのSF小説は、長い事、「大人の読書人が、真剣に読むもの」という扱いをされて来なかったそうで、≪三体≫ブームで、その潮目が変わったのだそうです。 戦後に黄金時代を迎え、その後、拒まれてしまった日本とは、事情が全然違うわけだ。

  しかし、≪三体≫は、かなり、特殊な作品でして、それを超える作品・作家が、おいそれと出て来るとは思えませんな。 それは、中国SFの関係者も、重々、承知しているようで、みなさん、中国SFの未来が希望に満ちているとは考えていない様子。

  それは、どの国でも同じでして、「SF小説は、ある種の諦めを抱いて、読むもの」という感じがしますねえ。 アメリカのSF映画も、もう、とっくから、アホ臭くて、真面目に見る気にならないものねえ。 ≪アベンジャーズ≫? 馬っ鹿じゃなかろうか。 それこそ、子供騙しもいいところだわ。 ≪三体≫は、全世界のSF作品の中で、「掃き溜めの鶴」でしかないのかも知れません。




≪ソーンダイク博士短編全集Ⅰ 【歌う骨】≫

ソーンダイク博士短編集Ⅰ
国書刊行会 2020年9月25日/初版
R・オースティン・フリーマン 著
渕上痩平 訳

  沼津図書館にあった本。 かなり分厚い単行本です。 三冊あるんですが、厚さに恐れをなし、一回に一冊だけ借りる事にしました。 オースティン・フリーマンさんは、コナン・ドイルさんと同時代から、作品を発表していた人で、ソーンダイク博士物の短編シリーズは、1908年から、「ピアスンズ・マガジン」に連載されたもの。 一段組みで、短編集2編、全13話を収録。


≪ジョン・ソーンダイクの事件記録≫ 1909年

【鋲底靴の男】 約63ページ
  地方の浜辺で、男の死体が発見され、被害者の古い悪仲間で、近くに住んでいた人物が逮捕される。 たまたま、友人医師の赴任先である当地に訪ねて来ていた、法医学者ソーンダイク博士が、浜辺に残っていた靴跡から、警察の見込みとは、まるで違う犯行の経緯を立証してしまう話。

  ホームズ物と同じ時代の作品とは思えないくらい、新しい感じがします。 逆に、ホームズ時代のイギリスを感じさせる情緒は、ほとんど、見受けられません。 情景描写はリアルで、現代に書かれた作品だと言われても、見抜けない人が多いのでは? 自然の風景は、今も、百年以上前も、大差ないわけで、要は書き方なんですな。

  トリックというほどのトリックではなく、謎を解くだけ。 解き方は鮮やかですが、靴跡の謎だけなので、そんなに凄いという感じはしません。 むしろ、科学的な鑑識能力がない警察の方に、問題があると思います。 昔の事だから、仕方がないのですが。 事件の結末は、ホームズ物でも、よく使われているもので、そこにだけ、時代を感じます。


【よそ者の鍵】 約30ページ
  主たる遺産相続人の少年が、よそ者が住んでいる家の近くで、行方不明になり、一緒にいた、遺産相続人の一人である若い娘に嫌疑がかかる。 呼ばれたソーンダイク博士が、足跡と、ステッキの跡から、犯人像を割り出し、逮捕に至る話。

  遺産相続が絡んでいるのなら、もっと、長い話にした方が、相応しかったのでは? トリックはなく、謎だけ。 ステッキの握りについて、「曲がり形だと、石突きが偏って減るが、ドア・ノブ形だと、石突きは均等に減る」というのは、目から鱗。 随分、推理小説を読んで来たつもりですが、初めて、知りました。


【博識な人類学者】 約25ページ
  美術品の蒐集家が、コレクションを盗まれた。 残された犯人の帽子を調べたソーンダイク博士が、髪の毛から、持ち主の人種を特定し、付いていた粉から、真珠加工業者ではないかと当りをつける話。

  今書いたら、人種差別と指摘されそうな、微妙な内容。 作者は、科学的事実だと確信していて、そういう意図はなかったとは思うのですが、やはり、微妙ですな。 髪の毛から、人種的特徴となると、かなり、大雑把な事しか言えないのでは? ちなみに、「馬の毛」と言われるのは、日本人の髪の毛。


【青いスパンコール】 約25ページ
  走る列車の個室で、若い女性が死体となって発見され、元交際相手の男が、容疑者として逮捕された。 容疑者の兄に頼まれたソーンダイク博士が、肉屋で、牛の角を調べて、容疑を晴らそうとする話。

  ネタバレを避けるほどの話ではないので書いてしまいますと、殺人事件だと思われていたのが、実は、意外なものが関わっていた事故だったというパターンです。 顕微鏡写真などが出て来ますが、科学的過ぎるのも、気持ちが悪いものですな。


【モアブ語の暗号】 約33ページ
  無政府主義者らしき男が死に、彼が持っていた古代文字の暗号をいかに解くかが、警察の頭を悩ませる。 一方、ソーンダイク博士のもとに、「兄が後妻に毒を盛られているから、助けて欲しい」という依頼があり、博士が出かけて行くが、案内をしていた依頼人が、途中で姿を消してしまい・・・、という話。

  暗号の方は、古代文字の暗号と見せかけて、実は、全然違う種類の伝達方法だったというもの。 そりゃそうで、こんな短い作品に、古代文字の解説や暗号の解読を盛り込むのは、無理無理です。 見せ場は、博士を外出させて、その隙に、博士の住居を家捜ししようという計略の方で、躍動感があって、面白いです。 もっとも、それは、推理とは、あまり、関係ないですけど。


【清の高官の真珠】 約36ページ
  旅先で、真珠が入った中国の工芸品を、かなりの値段で買ったイギリス人の男。 その工芸品には、元の持ち主である、清の高官が殺され、殺した一味も、全員死んだという、呪いの逸話がついていた。 精神が不安定だった、その男も、自宅の鏡に、清の高官の姿が映るに及んで・・・、という話。

  ホラーではなく、呪いの噂を利用した殺人。 トリックは、鏡を使った単純なもので、この作品が発表された頃でも、子供騙しととられたのではないかと思います。 むしろ、ホラーとして読んだ方が、雰囲気を楽しむ分には、面白いです。


【アルミニウムの短剣】 約ページ
  ある人物が、左利きと思われる犯人に、ナイフで刺されて、死んだ。 動機がある者の中で、左利きの若い女が逮捕されたが、ソーンダイク博士は、ナイフが妙に細くて軽い事に着目し・・・、という話。

  刺殺ではなく、実は、長距離からの射殺だったというもの。 これも、ネタバレしたからといって、どうという事はないトリックですな。 発表当時はともかくとして、鑑識捜査が当たり前の事になってから以降では、これに騙される警察も、読者もいないでしょう。


【深海からのメッセージ】 約34ページ
  若い女が、ベッドに寝たまま、首を切られて、殺害された。 その手に握られていた赤毛から、友人の女が逮捕されるが、警察と並行して、事件を調べていたソーンダイク博士が、赤毛の向きがバラバラだった事や、枕の上に零れていた、白い砂のような物質に着目し、真犯人を言い当てる話。

  毛の向きがバラバラでは、そりゃ、殺された時に、犯人から毟った毛ではないですわな。 つまり、この頃の警察は、鑑識技術が、驚くほど、低かったんでしょうな。 ソーンダイク博士がやっている事は、探偵というより、鑑識や科捜研の仕事そのものでして、≪科捜研の女≫や、≪法医学教室の事件ファイル≫、その他、鑑識班が中心になる捜査ドラマの、草分け的な存在と言えます。


≪歌う骨≫ 1912年

【オスカー・ブロドスキー事件】 約53ページ
  強盗を生業にしていた男が、たまたま、顔を知っていた宝石商に出会う。 相手が自分の事を忘れているのをいい事に、家に誘って、殺し、宝石を奪った後、死体を運んで、列車に轢かれたように偽装した。 ソーンダイク博士が、線路付近で採取した眼鏡レンズの破片から、犯行現場が他にあると見て・・・、という話。

  ネタバレそのものではないかと思える梗概ですが、問題ありません。 この作品は、「倒叙形式」という、推理作品の一形式の、嚆矢なのです。 先に、犯行の様子を、読者・視聴者に知らせてしまい、探偵が、いかにして、犯人に辿り着くかを楽しませるという形式で、≪刑事コロンボ≫で、有名になります。

  こちらは、一段組み、50ページ程度の長さなので、割と、シンプルなもの。 眼鏡レンズの破片が足りないというのは、まあ、いいとして、犯行現場の家に辿り着く過程が、説得力に欠けるところがあります。 これといって、根拠もないのに、あっさり、その家に到着し、庭に捨てられた凶器の棒に、同行していた警部が蹴躓くという展開は、偶然が過ぎるのでは?

  しかし、最初の一作としては、出来は悪くないです。 犯行の様子が、三人称の視点で、克明に描かれるので、大いに、手に汗握ります。 普通の形式で、ラストに探偵が謎解きするだけでは、これだけの緊迫感が出せませんから。


【練り上げた事前計画】 約50ページ
  かつて、刑務所から脱走し、その後、更正して、成功し、富を築いた男がいた。 彼の過去を知る、元刑務官に見つかって、恐喝を受けそうになり、相手を殺害する事を決意する。 刑務官が身を寄せている、元刑務署長が、犬を使う事を知り、犯行後、犬による追跡をごまかす為に、計略を練るが・・・、という話。

  これも、「倒叙形式」。 犯行に至るまでの準備と、犯行の場面までは、緊迫感があって、面白いです。 ただ、たまたま、犬を飼っている人物がいたり、たまたま、濡れ衣を着せられそうな人物がいたりと、御都合主義が過ぎる設定も目に付きます。

  ソーンダイク博士ですが、最初から、犬がつきとめた人物を、犯人ではないと決め付けていて、犬の追跡能力を全く信用していないのは、逆に不自然です。 今でも、警察犬が活躍しているのを見れば分かるように、犬は使いようでして、頭ごなしに、役に立たないと否定するのは、変ではないですかね? 作者は、犬が嫌いだったんでしょうか?


【船上犯罪の因果】 約44ページ
  沖の小島にある燈台に、燈台守の補充人員が来た。 元からいた男は、新入りが、かつての犯罪者仲間である事に驚き、たちまち、争いになって、新入りを海へ突き落としてしまう。 ソーンダイク博士が、被害者が身に着けていたパイプと、灯台に残っていたパイプから、犯行の経緯を解き明かしてしまう話。

  短編集のタイトルである、「歌う骨」は、この作品の最後に出て来ますが、内容に深い関係があるわけではありません。 これも、「倒叙形式」ですが、早くも、読み飽きた感あり。 この作品の場合、ほとんど、衝動的な犯行で、念入りな計画の描写がないので、前2作に比べて、読み応えに欠けます。 それに、かつての犯罪を知っている相手と再会するというパターンが、多過ぎではないですかね?


【ろくでなしのロマンス】 約39ページ
  窃盗やペテンなど、犯罪で生計を立てている男が、かつて、一度だけ、ダンスの相手をした事があるアメリカ婦人のパーティーに、他人からくすねた招待状を持って出かけていく。 貴金属を盗むのが目的だったが、婦人が男の事を覚えていた事で、予定が狂い、婦人をクロロホルムで昏倒させて、逃げてしまう。 ソーンダイク博士が、男が残して行った上着から、埃を採取して、住居を突き止めるが、同行した婦人は・・・、という話。

  「倒叙形式」の推理小説でありながら、一般小説、いや、純文学と言ってもいい内容で、結末を読む前から、感動を予感できます。 この本の中では、最も、小説らしい小説なのではないでしょうか。 いい作品については、つまらない感想を語らない方が、賢明ですな。 この作品だけでも、読んで見る価値があります。


【前科者】 約40ページ
  今は更正しているが、前科がある男が、殺人容疑を受けていると言って、ソーンダイク博士に助けを求めてくる。 現場には、男の指紋が残っており、それが、重要な証拠になっていた。 博士が、男の指紋を改めて採取し、調べ直したところ・・・、という話。

  この話は、「倒叙形式」ではありません。 指紋と、ある動物の血液の特徴が、モチーフになっています。 指紋の方は、一般読者にも分かり易いですが、ある動物の血液の特徴は、専門家でなければ、想像もつかないのであって、その点、フェアとは言えません。 これは、自然科学系の教育を受けた推理作家がやりがちな失敗で、専門知識がなければ解けないようなトリックや謎は、本来、禁じ手です。 読者に、推理させる余地を最初から与えていないのでは、ゾクゾクのしようもないのであって、ただの理科の解説になってしまいます。




≪四日間の不思議≫

ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ
原書房 2004年6月21日/初版
A・A・ミルン 著
武藤崇恵 訳

  沼津図書館にあった単行本です。 一段組みで、319ページありますが、普通の読書能力の人には、半分くらいのボリュームに感じられると思います。

  A・A・ミルンさんは、≪くまのプーさん≫シリーズで有名な作家。 探偵小説の黎明期に、【赤い館の秘密】(1922年)を書いて、それが、推理小説の歴史に残る一作になっています。 解説によると、【四日間の不思議】は、1933年に発表されたようですが、殿堂入りした【赤い館の秘密】とは真逆に、その後、廃刊状態が長く続いたとの事。 読んでみると、その理由が良く分かります。


  子供の頃に住んでいた家に、たまたま来た勢いで、すでに、他人の所有になっている事を忘れて、足を踏み入れてしまった若い娘が、女優をやっている叔母の死体を発見する。 自分が叔母の相続人になっている事から、疑われると思った娘は、逃走を図る。 人気小説家の秘書をしている親友や、旅先で偶然出会った、人気小説家の弟に助けられながら、警察の追跡をかわそうとする話。

  冒険物タイプの推理小説のような梗概になりましたが、そんなに緊張感はありません。 というか、緊張感は、全編に渡って、ほとんど、盛り込まれていません。 推理小説の枠を借りた、ユーモア小説だからです。 一般的なラノベよりは、情報量が多いですが、軽さは、大差ありません。

  少女趣味が入っており、一般的な読書人向けではないです。 読書に頭を使うのを嫌う、軽いものを好む人向け。 といって、子供向けというわけでもなくて、こういうのを、一番楽しめるのは、中学生くらいですかね。 馬鹿にしているわけではなくて、対象がピッタリ嵌れば、そういう人達には、大変、面白いと感じられるのではないかと思います。

  軽いものを、時間をかけて、じっくり読む人なら、正に、この作品の理想的な読者と言えるでしょう。 ストーリーに関係ない部分を飛ばす癖がある人は、苛々して、とても、読んでいられず、最後まで飛ばしてしまっうかもしれません。 それでは、読んだ事になりませんけど。 まあ、そんな、小説なのです。 これ以上、感想が搾り出せんな。

  英米文学によく見られる、一人の人物を、本名、略称、愛称、渾名など、複数の呼び方で呼ぶ悪い癖が、この作品にも見られ、誰の事を言っているのか、分からなくなる事が多いです。 英米文学では、そういうのを、「洒落ている」と見做しているようですが、紛らわしいだけで、ろくな習慣ではないと思います。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、

≪現代中国SFアンソロジー 折りたたみ北京≫が、2021年の、11月20日から、23日。
≪現代中国SFアンソロジー 月の光≫が、11月24日から、12月1日。
≪ソーンダイク博士短編全集Ⅰ【歌う骨】≫が、12月29日から、年を跨いで、2022年の、1月7日まで。
≪四日間の不思議≫が、1月19日から、23日まで。

  前二冊と後二冊の間が、一ヵ月近く開いているのは、三島図書館通いが終わった後、沼津図書館通いを再開するまでに、なかなか、読書意欲が湧かなかったからです。 主たる原因は、母の不調から波及した、私の腹痛でして、その後、だいぶ良くなったものの、未だに、完治していません。

  副たる原因は、読みたい本がなくなってしまった事。 ミルンさんの、≪赤い館の秘密≫を読みたかったんですが、そういう名作に限って、沼津の図書館にはないのです。 三島図書館には、ちゃんと、あるから、腹が立つ。 しかし、三島は遠いからなあ。 図書館の場合、買い物と違って、借りたら、返しに行かなければならないから、ホイホイ、気軽には出向けないのです。

2022/02/06

読書感想文・蔵出し (85)

  読書感想文です。 もうすぐ、今現在に追いつきます。 現在、読書熱が低迷していて、借りて来てまで読みたい本がなく、どうしたものかと、困っている次第。 ブログのネタ用に、読書感想文は、重宝なのですが・・・。





≪三体≫

早川書房 2019年7月15日/初版
劉慈欣 著
大森望 / 光吉さくら / ワン・チャイ 訳

  沼津図書館にもあるんですが、いつまで経っても、予約がゼロになりません。 で、三島図書館までバイクで出かけて行って、「三大奇書」を借りた後、こちらも借りました。 大変、話題になった本の割には、3年以上経っているのに、綺麗です。 中途放棄した人が多かったのかも知れません。 単行本、一段組みで、約423ページ。

  2006年5月から、12月まで、中国のSF専門誌、「科幻世界」に連載されたもの。 2008年に、中国国内で、単行本化され、多数の賞を獲得。 2014年に、アメリカで英訳が出版され、2015年ヒューゴー賞長編部門を受賞。 複雑な話なので、梗概は四段落、使います。


  文革で、家族が分裂し、理論物理学者の父親を殺され、紅衛兵だった妹が死んだ、天体物理学者の女。 自分の身も危うかったところを、生涯、監禁される事を覚悟で、地球外生命体との交信を目的とする施設に行く事を受け入れる。 ある時、地球外からの電波を受信するが、人類に絶望していた彼女は、異星人に助けを求める返信を決行する。

  現代になり、インター・ネット上のVRゲーム≪三体≫の中では、極寒と灼熱で、全く気象が安定しない惑星を舞台に、文明が、約200回も勃興と滅亡を繰り返していた。 最終的に、三つの恒星の運動を予測するのは不可能と判断され、惑星が恒星に呑みこまれる前に、他の恒星系へ脱出する方針が決まる。 折りよく、返信があった地球を征服する為に、千隻の宇宙艦隊が出発する。

  艦隊が地球に到着するまでの450年の間に、地球の科学技術が、三体のそれを追い越してしまうのを妨げる為、集積回路を書き込まれた陽子、「智子(ちし)」が、先行して地球に送り込まれる。 智子の工作活動で、加速器から実験データを取れなくなり、地球の基礎科学は、発展が止まってしまう。

  三体人による地球人類の根絶、もしくは、支配を望む、地球人による組織、「地球三体協会」は、公然と活動していたが、国連を中心にした地球防衛組織によって、壊滅させられる。 三体から送られて来たメッセージが暴かれた事より、智子の存在を知った地球人は、450年後の滅亡が避けられない事を知り、絶望する・・・、という話。


  こんなに書いてしまって、ネタバレにならないか? と、心配しないでもないですが、大丈夫です。 推理小説ではないし。 相当にはハードな本格SFなので、かなり、SFを読んでいる読者でないと、そもそも、読む気にならないと思いますし、読み始めても、興味が続かないと思います。 逆に、SFを読み慣れている人は、私の感想文などより先に、この作品を読むでしょう。

  文革の大混乱から話が始まるのは、人類滅亡の恐れがあるのに、地球から三体へ、電波を送った人物が、地球人の文明に絶望した過程を描く必要があるからです。 この人、文革を経験した時点で、心が死んだも同然だったんですな。 三体を手引きした張本人でありながら、その罪で罰せられる事もなく、生き延び続けるのは不思議です。

  現代に飛んで、VRゲーム≪三体≫の場面になると、この上なく、面白くなります。 三体惑星の歴史を、地球の文明発達史上、重要な人物を登場人物にして、描いているので、異星の話なのに、妙に親近感が湧くのです。 三体人が、極寒・灼熱の「乱期」を乗り越える為に、「脱水」と「再水化」で対応しているのも、面白い。

  それにしても、これだけ、気象が極端に変化する惑星で、少しずつでも、文明が発展して、恒星間航行ができるレベルにまで達したというのは、奇跡としか思えず、その点、リアリティーを欠きます。 しかし、そもそも、太陽の隣の恒星、αケンタウリに、知的生命体が発生した惑星があるという事自体、確率的にありえないと思うので、リアリティーを云々しても、栓ない事なのかも。

  SFというのは、科学・技術の知識を、テーマやモチーフにしていますが、結局は、「読者に、ありそうに思わせられる、作り話」でして、必ず、現実の科学・技術の枠から、はみ出す部分が出て来ます。 それがないと、面白くならないのです。 実際に、科学・技術に携わっている専門家は、SFを読んでも、「こんなの嘘だ」という反応が先に出てしまって、楽しめないと思います。

  智子のアイデアは、大変、面白いです。 陽子を、二次元に巨大化させ、表面に集積回路を書き込んで、操作可能にし、敵地に送り込んで、工作活動をさせるというのは、凄い発想。 陽子の間では、距離に関係なく、ふるまいが共有されるという特性を、うまく利用していて、三体と地球では、4光年以上離れているにも拘らず、リアル・タイムで、交信や指示ができるというのも、知的興奮で、嬉しくなってしまうほど、面白いです。

  ちょっと、俗っぽいのは、地球三体協会の降臨派が拠点にしているタンカーを、ナノ・マテリアルのワイヤーで、スライスする件り。 一見、映像化された時の、見せ場にしようと目論んだようにも取れますが、かなり、残酷な場面も含まれているので、そんなところを映像化できるわけがなく、逆に、映像化を拒む為に入れた件りなのかも知れません。 そこまで、穿って見るのは、病的か。

  智子の暗躍のせいで、地球の科学が発展を停めてしまい、450年後に到着する三体艦隊との戦いは、地球側の負けが決まっている、という設定は、ドライですなあ。 こういう発想自体が、欧米や日本には、存在しないのでは? 小松左京さんの短編、≪華やかな兵器≫にも、恒星間の冷戦が出て来ますが、明らかに、地球側の方が後進なのに、地球側の誰も、負けるとは考えていません。 地球上の国家間戦争を、宇宙舞台に移し変えただけなのです。 スタニスワフ・レムさんの長編、≪大失敗≫も、異星文明間の戦いになりますが、それは、両者の文明レベルに、明らかな違いがある点、≪三体≫の設定に近いです。

  この作品、アメリカで英訳が出て、2015年のヒューゴー賞・長編部門を獲ります。 それ自体は、大した事ではないです。 ヒューゴー賞に、どれだけの価値があるのかなど、いちいち調べるまでもなく、じゃあ、その前後の年、2014年、2016年の受賞作は何か? と訊かれたら、≪三体≫の愛読者でも、ほとんど、答えられないでしょう。 その程度の注目度しかない賞なわけだ。 もう、今世紀に入って以降、SF界全体が、低調になっているので、SF自体の価値が、地を這っているといっても、過言ではない。

  問題は、アメリカで、結構な数が売れた。 しかも、オバマ大統領(当時)が読んでいた事から、政治家や財界人など、SFファン以外のエリート層が、これを読んだ。 という事の方が、大きいです。 アメリカ人がこの作品を読んだ時、まず、作者が、自分達とは、発想が違う事に驚き、次に、作者の方が、知能レベルが上だという事に驚いたと思います。 ちなみに、知能レベルは、下の者が、上の者を測る場合、自分より、どのくらい上かは、判定できません。 その逆は、可。

  容易に想像できるのは、アメリカ人が、自分達の立場を、この作品の中での地球側におき、作者が属している中国を、三体側と見做して、脅威を覚えたのではないかという事です。 その結果が、トランプ政権以降の、中国敵視政策に繋がったのではないでしょうか。 どんな人間でもそうですが、敵視する為には、まず、その相手に、脅威を感じなければなりません。 見下して、馬鹿にしている相手を、敵視したりはしないものです。 この作品が、アメリカ人の対中国観を切り替えた可能性は高いです。

  一方、日本ですが、話題にはなったものの、実際に、どれだけの人が読んだかは、疑問。 これを読めるくらい、SFに興味がある人が、もう、とっくから、いなくなっているからです。 日本のSFは、1980年代後半に、小松左京さんが、≪さよならジュピター≫の映画で、コケて以降、アメリカよりも早く、衰退しまして、≪世にも奇妙な物語≫くらいしか相手にしてくれないレベルに落ちてから、もう、30年以上経ちます。 SF作家を名乗る人も、絶滅危惧種並みに減ってしまった有様。

  当然、読者も、SFから離れて久しいわけで、昔読んでいた人達は、懐かしいと思うでしょうが、「SF小説の長編は、初めて」といった若い人達は、科学・技術用語が、ドカドカッと並んだ時点で、「あー、こんなの、無理無理!」と、本を閉じてしまうと思うのです。 最終訳者は、本来、英日訳をやっていた人で、他の訳者が、中国語から日本語にした下訳を、今風のSFとして読めるように、再翻訳したとの事。 しかし、その、今風のSFを読んでいない人の方が多いのだから、そんな努力は、意味がない気もしますねえ。


  ≪三体≫ですが、三部作なので、この一作目では、まだ、話が途中です。 この後、≪Ⅱ 黒暗森林 上・下≫、≪Ⅲ 死神永生 上・下≫と、二作、四冊続きます。 全体で一つの話だから、全部読んでから、感想を書くべきなのですが、借りて来た本なので、返さなければ、次を借りられない事情があり、内容を忘れてしまうと、まずいので、一作ごとに、感想を書く事にしました。




≪三体Ⅱ 黒暗森林 上・下≫

早川書房 上・下共 2020年6月25日/初版
劉慈欣 著
大森望 立原透耶 上原かおり 泊功 訳

  ≪三体≫の第二部。 ≪三体≫と同時に、三島図書館で借りて来ました。 約一年新しいだけあって、≪三体≫以上に、綺麗な本でした。 ほんの数人くらいしか、読まれた形跡がありません。 購入されてから、一年以上経っているにも拘らず、この状態という事は、話題になったベスト・セラーと言っても、「SF長編としては、」という但し書きが付くんじゃないでしょうか。

  2008年5月に、中国の重慶出版社から、「中国SF基石叢書」の一冊として出版されたものだそうです。 つまり、≪三体≫と違って、雑誌連載ではなかったわけだ。 単行本、一段組み、上下巻で、656ページ。 確かに、≪三体≫の、1.5倍ですな。


  三体から送り込まれた、操作できる陽子、智子(ちし)のせいで、基礎科学の進歩が止まってしまった地球人の文明。 三体人に気取られずに、三体艦隊を迎え撃つ戦略を練る為に、四人の「面壁者」が、人類の中から選ばれ、強大な権限が与えられる。 内三人は、それぞれ、全く異なる方法を案出するが、三体人は意にも介さない。 唯一、三体人から、「殺害すべし」と見做された青年学者は、理想的な場所で、理想的な異性と暮らす事を望み、それは、面壁者の特権で実現されたが、やがて・・・、という話。

  ≪三体≫より、1.5倍長いのに、梗概が短くなったのは、すでに、基本的な世界設定の説明が済んでいるから、という事もありますが、これ以上書くと、ネタバレになってしまうからです。 第二部まで到達した読者は、当然、最後まで読むと思うので、ネタバレさせたら、私の命が危うい。 推理小説でなくても、この作品の後半は、先に知ってしまっていたら、その無類の面白さが損なわれてしまいます。

  三体人は、コミュニケーションの仕方が、地球人と違っていて、頭で思った事は、全て、周囲に伝わってしまうタイプでして、隠し事ができない。 一方、地球人は、音声や文字でやりとりするので、隠し事ができる。 それを利用して、個人の頭の中だけで戦略を練る、「面壁者」を選び出したというところから、話が始まります。

  次は、なんで、三体人から命を狙われているのか、本人も分からない青年が、理想の恋人と理想郷で暮らすようになる顛末。 ここは、恋愛小説のような雰囲気ですが、よくある、青臭・アホ臭い恋愛小説より、数段、ピュア度が高いです。 外見も雰囲気も、青年が夢見ていた通りの女性を、元警官で、人捜しも仕事の内だった警護責任者、大史が連れてくるのですが、「そういう事ができるなら、私にも捜してくれ」と思う読者が多いでしょうな。 しかし、青年が、面壁者特権を持っていたから、可能だったのであって、一般人では、資格外も甚だしい。

  次は、人工冬眠で、約200年飛んで、青年と、大史は、未来で目覚めます。 その間に、応用技術の大発展があり、地球の宇宙艦隊は、質的にも量的にも、三体艦隊と渡り合えるレベルになっています。 一応、戦争物なのだから、そうでなくては、いけませんな。 どちらかが、一方的に強いなんて、面白くないですから。 ただし、質の方は、あくまで、スペック上なのですが。

  その時代で描かれる未来社会は、他のSF作家が書くのと同様に、月並みで、陳腐なものです。 こんな未来なら、特に住みたいとも思わない、といった体のもの。 これは、どの作家でも、同じであるところを見ると、現在、存在しない技術や習慣を、社会全般に渡って想像するのは、困難なんでしょうな。 もしくは、他の作家が描いた未来の様子を、パロディーにしているのかも知れません。

  で、クライマックスは、地球の宇宙艦隊が、三体艦隊から先行して送り込まれてきた、「水滴」という探査機を捕獲する件りです。 これは、凄いわ。 というか、凄まじいわ。 私も、結構、戦闘場面の出て来る小説を読んで来ましたが、これは、断トツに、ド派手で、凄惨だわ。 あくまで、捕獲作戦に過ぎないんですがね。 ファースト・コンタクトなのに、それどころではなくなってしまうんですな。 これ以上、書きません。 作品を読んで下さい。

  捕獲作戦に先立ち、逃亡主義者の軍人が、恒星間航行ができる戦艦を、乗員ごと盗んで、逃亡するのですが、そちらの顛末も面白いです。 「黒暗森林」というのは、「宇宙は、真っ暗な森の中を、猟師が獲物を求めて、うろついているようなもの」、すなわち、「異星文明の間には、相手を滅亡させる以外に、対応の方法がない」という意味合いですが、この逃亡艦隊の中では、その縮図のような事件が起こります。

  そして、ラストですが、これこそ、一文字も書けません。 最高機密レベルの、ネタバレ厳禁が要求される結末ですな。 それにしても、ドンデン返しが、何度も繰り返される作品である事よ。 ≪三体≫と違って、≪三体Ⅱ≫では、一応、話が終わります。 第三部は、どう展開するのか、この時点では、想像もつきません。

  梗概を細かく書き直しただけで、感想になっていないような気もしますが、このくらいにしておきます。 感想なんか読むより、作品を読んだ方がいいです。 もちろん、≪三体≫から、通しで。 それでないと、ストーリーが分かりませんから。 科学・技術用語が苦手な人でも、≪三体≫を、大体のストーリーを頭に入れるだけでも、突破して来れば、≪三体Ⅱ≫は、ずっと、読み易くなります。

  いやあ、この小説、中国で出版された後、すぐに、日本語訳が出ていれば、小松左京さん(2011年没)に、読んでもらいたかったなあ。 スタニスワフ・レムさん(2006年没)は、間に合わなかったけれど。 お二方とも、おそらく、どんなアメリカSF映画よりも、強烈な興奮を覚えたと思います。




≪三体Ⅲ 死神永生 上・下≫

早川書房 上・下共 2021年5月25日/初版
劉慈欣 著
大森望 光吉さくら ワン・チャイ 泊功 訳

  ≪三体≫の第三部。 これも、三島図書館で借りて来ました。 やはり、綺麗な本で、ほんの数人くらいしか、読まれた形跡がありません。 これは、≪三体≫、≪三体Ⅱ≫以上に、読み手を選ぶ内容なので、読み終えた人は少ないと思います。

  2010年10月に、中国の重慶出版社から出版されたもの。 これだけ、世界的に高く評価された作品なのに、日本語訳が出るまで、11年も経っているというのは、考えてみると、驚きです。 日本のSF界が、いかに低調に縮小しているかの証拠なのでは。 単行本、一段組み、上下巻で、842ページ。 ≪三体≫の、2倍の長さです。


  話は、三体人による侵略の危機が表面化した直後に戻り、地球から、三体艦隊へ向けて、人間の脳を送る計画が立てられる。 大学時代の友人(男)の脳を送り出した、宇宙工学者の程心(女)は、人工冬眠で、三体危機が去った後の時代に蘇生し、三体世界との睨み合いを続ける、「執剣者」の立場を、初代から引き継ぐが、三体世界は、その瞬間を待ち構えていた・・・、という話。

  梗概としては、10分の1も書いていません。 つまり、細々書いて行くと、この10倍の長さになりますが、ネタバレになってしまうので、書きません。 出だしは、話の断片みたいな、章分けになっていて、≪三体Ⅱ≫のラストで、一旦、話が終わっている事もあり、≪Ⅲ≫は、スピン・オフというか、余話というか、そういうものを羅列してあるだけなのかと思ったら、とんだ間違いで、執剣者が交替したところから、驚くほどの新展開となります。

  うーむ、あまりにも、いろんな事が起こるので、これも、他人の感想文なんか読むより、自分で読んだ方が早いですな。 ≪三体≫、≪Ⅱ≫と読んで来た人なら、≪Ⅲ≫も、期待を裏切られる事はないです。 ただし、期待を上回り過ぎて、置いて行かれたような虚しさを感じる事なら、ありえます。

  置いて行かれるといえば、話の途中で、三体世界は、ある事が起こり、ストーリーの前面から遠のいてしまいます。 終わりの方で、また出て来ますが、もはや昔日の面影はなく、寂し~い存在感しか示しません。 文明度の落差が、テーマである事は、三部作を通じて、共通ですが、あまりにも、話のスケールが大きくなり過ぎて、もはや、三体も地球も、関係なくなってしまう点にも、やはり、寂しさを感じますねえ。

  ちょうど、中ほどに、三体世界で暮らしている地球人によって創作された御伽噺が挟まっていて、これが、結構、面白いです。 子供が読んでも、大人が読んでも、別の視点から楽しめるようになっています。 話の中に、「黒暗森林」を生き抜く為の、メッセージが盛り込まれているのですが、それを解読して行く過程も、読み応えがあります。

  最大の見せ場は、次元の転換ですが、小さいのと大きいのがあり、小さい方は、面白いです。 大きい方は、その結果が悪いので、どんなに細かく描き込まれていても、興奮より先に、虚しさを感じてしまいます。 この作品、鬱病の気がある人は、読まない方がいいかも知れませんねえ、≪三体≫と、≪Ⅱ≫は、問題ありませんが、≪Ⅲ≫は、まずいわ。 気が滅入るわ。 最悪、絶望してしまうわ。 危ない危ない。

  「黒暗森林」の発想は、スタニスワフ・レムさんの、≪大失敗≫でも採用されていて、本当にそれが真理かと思うと、絶望的な気分になります。 結局、異星文明間では、潰し合いしか、接触の方式がないというのなら、文明の存在自体、虚しいものではありませんか。 何の為に、宇宙があり、何の為に、生物が生まれ、何の為に、文明が発達して来たのか、それらの意義が分かりません。

  潰し合いをさせて行けば、最終的には、最も大きな力を持った文明が残りますが、それが、宇宙にとって、どんな意味を持つのか、それが分かりません。 生物がいなくても、文明が発達しなくても、宇宙はいずれ、収縮し、再生するのであって、生物を生み出す理由なんか、「特に、ない」と思うのですがえ。

  こういう事を書いていると、宇宙の話というより、神の話に近づいてしまいますな。 「黒暗森林」の潰し合いに勝ち残った文明は、全知全能、まさに、神のような力を持つわけですが、それは、果たして、元の生物が、望んだものだったのかどうか。

  そこまで考えて来ると、このSF小説に、根本的なところで、違和感を覚える事に気づきます。 最初から最後まで、主人公は、人間なのですが、宇宙に進出するのに、生身の人間が出て行くのは、無駄が多過ぎるんじゃないでしょうか。 小松左京さんの、≪虚無回廊≫では、機械に移植された、「人工人格」が主人公になりますが、そちらの方が、現実的だと思います。 もっとも、ストーリーとしては、人間が出て来た方が、断然、面白いのですがね。

  最後になりますが、≪三体≫三部作。 やはり、日本では、読者があまり、いないと思います。 傑作である事は、間違いありませんが、これを読みこなせる人が少ない。 前にも書いたように、日本では、80年代後半に、SF小説界がコケてしまったのですが、それに加えて、95年に、「阪神淡路大震災」と、「オウム真理教事件」が起こり、戦後ずっと続いて来た、「科学信仰」が崩壊してしまいました。 以後、科学自体を白い目で警戒する歳月が、四半世紀も続いて来たのであって、SF小説が、居場所を失ってしまったのも無理からぬ事。

  今の、40代以下の人達に、これを読ませても、とっつけないでしょう。 普通に読めるのは、若くても、50歳以上。 その中でも、SF慣れしていて、しかも、物理学の基礎が頭に入っている人でないと、やはり、読み通せないと思います。 60歳以上になると、分かる人が増えますが、引退者には、値段が高い。 一冊当たり、2000円前後では、全5冊で、1万円でしょう? おそらく、文庫化されても、半額くらいにしかならんでしょうな。




  以上、3作5冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、

≪三体≫が、11月4日から、6日。
≪三体Ⅱ 黒暗森林 上・下≫が、11月6日から、10日。
≪三体Ⅲ 死神永生 上・下≫が、11月12日から、19日まで。

  普段、一回に出すのは、4作ですが、≪三体シリーズ≫だけで纏めた方がいいと思って、今回は、3作にしました。 久々に、強烈な印象の小説を読んだので、感想も、突っ込んだ事を書いており、改めて、付け加える事はありません。

  かつて、日本のSF小説黄金時代に、SFを読んでいた人達なら、普通に読めると思うので、お薦めです。 私自身も、その世代なのですが、年齢的に、今後、≪三体シリーズ≫以上のSF作品に出会う機会は、もう、ないかもしれませんし。 ≪三体シリーズ≫自体が、寂しい終わり方をしますが、現実世界の人類文明も、終幕が近いうら寂しさが漂っていますねえ。 黒暗森林に怯えるまでもなく、自滅か・・・。