2021/08/29

EN125-2Aでプチ・ツーリング (23)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、23回目です。 その月の最終週に、前月に行った所を出しています。 今回は、2021年7月分。





【伊豆の国市立花・第六天神社①】

  2021年7月6日に、バイクで、伊豆の国市、立花という所にある、「第六天神社」へ行って来ました。 梅雨の最中で、雨が降っていない隙を突いて出かけました。

≪写真1左≫
  伊豆長岡の大門橋を渡って、直進し、伊豆箱根鉄道の踏切の手前で左折して、北上。 信号の次の次の交差点を右折して、住宅地を山の麓まで進むと、鳥居がありました。 バイクは、参道に停めました。 他に場所がなかったのです。

≪写真1右≫
  石段。 高いです。 石が湿っていて、足を滑らせないように、神経を使いました。

≪写真2≫
  階段の途中にあった、2基の石燈籠。 元は、同じ物ですな。 既製品なんですかね? 火袋の穴が、○になっているのは、珍しい。

≪写真3≫
  社殿。 木造、瓦葺き。 瓦葺きは、大抵、昭和初期です。

≪写真4≫
  拝殿の横手から、本殿の屋根を撮りました。 本殿も、入母屋ですな。 神社らしくはないですが、カッコいいです。 拝殿と、本殿を繋ぐ廊下の屋根も、瓦葺きになっています。 これは、お金かかかったでしょうねえ。




【伊豆の国市立花・第六天神社②】

≪写真1左≫
  賽銭箱。 「高 ○」と書いてありますが、右側の字が、読めません。 草書体の一覧表で調べてみたところ、「僧」や、「便」が近いのですが、どちらと組み合わせて、どちら側から読んでも、しっくり来ません。 「高僧」という熟語はありますが、神社に、「高僧」もないでしょう。

≪写真1右≫
  賽銭箱の側面。 「昭和二十四年」とあります。 1949年ですから、72年も前です。 木製とは思えないほど、もちがいいですな。 氏子の管理が良いのでしょう。

≪写真2≫
  手水舎。 屋根は、緑色ですが、銅板が緑青を吹いたのか、トタン・ブリキを塗装したものか、分かりません。 漱盤の前面には、「禊」と彫ってあります。 境内にある石燈籠も、石段の途中にあったのと、同じ物のようですな。

≪写真3≫
  社殿の向かい側の境内。 苔むしています。 石の祠、多し。 境内別社というより、近隣で、行き場がなくなった物を集めたのかもしれません。

  上の明るい方は、住宅地になっています。 長い石段を登らなくても、上からも来れるようですが、バイクや車を置けるかどうかは、確かめる暇がありませんでした。 なぜなら、雨が降って来たからです。

≪写真4≫
  大急ぎで、石段を降りて、バイクに戻り、カメラと免許入れをビニール袋に入れて、帰りました。 雨は、ポツポツ降り続けましたが、江間まで戻ったら、上がりました。 やれやれ、梅雨時には、ごく近場以外、行かない方が、無難か。




【伊豆の国市浮橋・史跡女塚①】

  2021年7月16日に、バイクで、伊豆の国市浮橋にある、「史跡 女塚公園」へ行って来ました。 韮山の反射炉の手前から、山道を登って行きます。 少し詳しい地図なら、載っています。 カー・ナビなら、たぶん、表示されるはず。

≪写真1≫
  「史跡 女塚公園」の、名前オブジェ。 1997年の9月20日に、セロー225Wに乗り、フィルム一眼レフをもって、この付近に、撮影に来ているのですが、その時に、ここにも寄ったと思います。 ここの写真を撮っていないから、断言はできませんが。 この名前オブジェもあったかなあ。 記憶が、おぼろげだ。

  公園の説明板によると、平成6年に、整備されたとの事。 1994年ですな。 それなら、私が初めて来た時には、すでに、公園になっていた事になります。

≪写真2≫
  これが、女塚。 源頼朝といい仲になった、伊東氏の娘、八重姫が、悲劇的経緯で、頼朝と別れざるを得なくなり、川へ身を投げて、命を絶った。 姫の侍女たち数人が、ここまで戻って来て、伊東の館へ報せに戻った一人を除き、松の木の下で、自害したとの事。

  ちなみに、伊東氏は、伊豆半島東海岸の温泉地、伊東の豪族だったから、伊東氏です。 地名を氏族名にするのは、よくある事。 八重姫は、伊東から、山を越えて、北条氏の館がある、伊豆の国市・韮山まで、頼朝に会いに来たら、頼朝は、すでに、政子と夫婦になっていたんですな。 八重姫と頼朝の仲を割いたのは、姫の父、伊東祐親ですが、もし認めていたら、頼朝は、伊東の地で、ひっそりと人生を終わり、鎌倉幕府は出来なかったかも知れません。

≪写真3≫
  中川与一・幹子夫妻の歌碑。 女塚の隣にあります。

≪写真4左≫
  女塚の裏手の森の中に、神社がありました。 アイテムは、鳥居だけ。 鳥居の名額には、「神社」と書いてあります。 そりゃ、そうでしょうけど、何神社なんですかね?

≪写真4右≫
  社殿。 拝殿・本殿、一体様式。 木造、モルタル壁、トタン屋根。 扉の上に、正月用の玄関飾りが掛かっていました。

≪写真5左≫
  公園の一部、道路に面した所にあった、「土沢集会所」。 この辺り、地名が、よく分かりません。 浮橋地区の中の、土沢という所なんでしょうか。

≪写真5右≫
  駐車場の隅にある、トイレ。 中は見て来ませんでしたが、外観から見て、狭そうですな。 催して、切迫している人にとっては、ないより、ずっと、いいですけど。




【伊豆の国市浮橋・史跡女塚②】

≪写真1≫
  公園の駐車場近くの道路から、西の方を見た景色。 どうも、雲の下に、富士山や愛鷹山がありそうなので、もし、そうなら、 西というよりは、北西です。 気持ちがいい所です。 やはり、プチ・ツーリングは、晴れた日に限る。

≪写真2左≫
  公園の入り口が、十字路になっていて、これは、西へ向かう道路。 下って行くと、伊豆箱根鉄道の、伊豆長岡駅と、田京駅の中間辺りで、国道136号線に出ます。

  看板にあるのは、牛の顔で、「牛の鳴く豊かな 住よい伊豆の国 伊豆の国酪農組合」とあります。 しかし、この付近で、道路から見える限りでは、牛の姿は、目に入りませんでした。

≪写真2右≫
  公園近くにあった、自動販売機。 手作りの庇が付いています。 たぶん、この自販機を置かせている人が作ったのでしょう。 大変、風情がある。

≪写真3左≫
  駐車場の隅に立っていた、街灯。 変わった、カバーですな。 虫は素通りできますから、鳥よけでしょうか。 これ自体が、鳥籠のように見えます。

≪写真3右≫
  あちこちに咲いていた、姫檜扇水仙(ヒメヒオウギズイセン)。 群落を作り易い植物のようです。

≪写真4左≫
  公園の駐車場。 10台くらいは、楽に停められます。 一番奥の、木陰に、私のバイクを停めてあります。

≪写真4右≫
  EN125-2A・鋭爽の、タンク・デカール。 左側は、塗り直しをしていない、そのままですが、綺麗な状態を保っています。 EN125-2Aのデカールは、日本国内に輸入されたものだけで、3種類はある模様。 他に、車体色ごとに、デカールの色違いもあります。




【伊豆の国市中・高原山神社①】

  2021年7月22日に、バイクで、伊豆の国市・中(なか)の山中にある、「高原山神社」へ行って来ました。 「たかはら・やまじんじゃ」と読みます。

  中(なか)地区は広くて、平地から山中まで広がっています。 高原は、地区の中の小区分ですが、地元では、高原と言った方が、通りがいいはず。 しかし、私は、地元の人間ではないので、想像に過ぎません。 高原は、「たかはら」ではなく、「こうげん」なのかも知れませんが、調べようがないです。

  本当は、「韮山南小学校・高原分校跡」を、目的地にしていたのですが、先に、神社を見つけたので、もし、分校跡に辿り着かなかった場合、神社を目的地に差し替えるつもりで、寄っておきました。 結果的に、分校跡は見つける事ができず、その判断は正しかった事になりました。

≪写真1≫
  幹線道路から、少し入った所にあります。 案内看板があるので、そのつもりで行けば、見つかります。 高原地区そのものが、開拓地のようで、元は、神社がなかったのを、昭和23年(1948年)に、御殿場の山神社から、御神体を分けたと、解説板に書いてあります。 現在の社殿は、平成6年(1994年)に、再建したものだそうです。

≪写真2左≫
  木造・銅板葺きの社殿。 人間が入れるサイズとしては、最小。 入れるといっても、中で、何かができるという大きさではないです。 石燈籠は、新しいです。 1994年に、社殿と一緒に、新調したものでしょうか。

≪写真2右≫
  伊勢神宮と同じ、神明造り。 側面から見ると、良く分かります。 拝殿・本殿一体式と言うより、本殿のみなのでしょう。

≪写真3左≫
  物置。 何が入っているのだろう。 この大きさでは、御輿は入りますまい。

≪写真3右≫
  郵便受けのようですが、賽銭入れと書いてあります。 鍵つき。 賽銭泥棒は、山の中まで来るのだな。

≪写真4左≫
  手水場。 屋外用の、既製品の流しを利用したもの。 蛇口あり。 ハンドルも付いています。 地面にコンクリートを打った足場の大きさや、脚とのバランスなど、合理性を実体化したような造形。

≪写真4右≫
  丸太に、プラスチックの座面を被せた、椅子。 椅子があるという事は、祭りをやっているのかも知れません。




【伊豆の国市中・高原山神社②】

≪写真1≫
  高原山神社に隣接した西側に、「高原区 ふれあい広場」という所がありました。 バイクは、そこに停めました。 奥にある建物ですが、表札のようなものはなかったです。 地区の寄り合い所は、他にあるのでしょう。 神社関係の行事の時に使うのかも知れません。

≪写真2≫
  広場を奥に進み、「高原共同墓地」の案内看板に従って、西に下って行くと、こんな景色が開けていました。 遠くに、沼津アルプスが見下ろせます。 その向こうに、駿河湾。 凄い所に、共同墓地を造ったものです。

≪写真3左≫
  「高原開拓共同墓地 記念碑」と、物置きに、手水場。 この手水場は、神社にあった物と同じ人が作ったのでしょう。 佇まいが、そっくり。

≪写真3右≫
  なぜか、ガード・レール。 ここは、少し高くなっているから、墓地の方へ落ちないようにでしょうか。 ベンチは、懐かしい形状。 座面に、水抜き孔が開いている、屋外用です。

≪写真4左≫
  山百合。 大きな花でした。 墓地には、山百合が良く似合う。

≪写真4右≫
  墓地から、広場を見上げた景色。 夏ならではの、空の青さ。 もちろん、暑かったです。 やはり、プチ・ツーリングは、天気のいい日に限りますな。

≪写真5左≫
  広場の入口近くに停めた、EN125-2A・鋭爽。 ブレーキを手入れして以降、快調に走っています。

≪写真5右≫
  EN125-2Aの、燃料コック。 常に、リザーブ(予備タンク)の位置にしてあります。 メーターに、燃料計がついているので、リザーブ機能は使っていません。

  リザーブ位置なのに、リザーブ機能を使わないというのは、どういう事かというと、ちょっと、説明が必要になります。 バイクのタンクは一つしかありませんが、底の方を別扱いにして、コックが、オン位置では、全ての燃料を使い切らないところで、止まるようになっています。 燃料を落とす穴の高さが変わるわけです。

  オン位置で使いきった後、リザーブ位置に切り替えれば、その別扱い分を使えるようになるという仕組み。 EN125-2Aでは、2リットル分です。 切り替えたら、すぐに、給油しなければなりません。 リザーブ機能は、給油タイミングを報せる為にあるのですから。

  リザーブは、本来は、燃料計がないバイク用の機能です。 リザーブ位置にしたままだと、別扱い分を取っておかない事になるので、そのまま、走り続ければ、タンクは空になってしまいますが、燃料計がある場合、それを見ていれば、空になる前に給油するから、ガス欠の心配はないという寸法。 四輪車は、全て、そちらの方式です。

  まあ、バイクですから、最悪、空になってしまったら、最寄のスタンドまで、押せばいいだけの話。 アップ・ダウンが激しい山中でもない限り、どうにかなります。 万一に備えて、千円札を、免許入れに入れてあります。 リザーブ機能を使っていると、残り2リットルになるたびに、バイクを停めて、コックを切り替えなければならないから、面倒でねえ。

  コックには、もう一つ、オフ位置があり、それは、タンクから、キャブレーターに向かう燃料を遮断する時に使います。 バイクを長期間眠らせなければならない場合、燃料がキャブ内にこびりつかないように、キャブを空にする時に使いますし、整備・修理で タンクを外す時にも使います。




【伊豆の国市大仁・労金 / 狩野川台風殉難者慰霊碑】

  2021年7月30日に、バイクで、大仁にある、「静岡労金・田方支店」に行って来ました。 用向きは、ただの記帳で、普段は、沼津支店へ行くのですが、プチ・ツーリングの方向が南東だったので、やむなく、近い支店へ行った次第。

≪写真1左≫
  これが、「静岡労金・田方支店」。 国道136号線沿いにあります。 ここには、2013年7月にも、セロー225WEで来ています。 その時は、「ブックオフ・大仁店」のついでに寄ったのですが、用向きは、似たような事でした。

≪写真1右≫
  裏にある、駐車場。 すいていたので、車を置く場所に停めました。 不審者と思われないように、ヘルメットは脱いで、帽子に換えました。 自動機コーナーが、道路側にある事は、すっかり忘れていました。

  その後、近くにある、「白幡神社」に向かったのですが、ロストして、着きませんでした。 やむなく、撤退。

≪写真2≫
  帰りに、白山堂という所の三叉路にバイクを停め、「狩野川台風殉難者慰霊碑」を撮影しました。 去年、近くの、「白山神社」に来た時に、ここに石碑があるのは見ていたんですが、何の碑なのか、分からないままだったのです。 1962年(昭和37)年8月の建立。 私が生まれる、2年前です。 ちなみに、狩野川台風が来たのは、1958年(昭和33年)9月26日。

  分岐した道を、右へ行くと、伊豆長岡へ渡る、大門橋へ。 左に行くと、すぐに、白山神社に至ります。

≪写真3≫
  慰霊碑の近くにあった、大型プランターの花壇。 手前は、マリーゴールド? 奥は、日々草でしょうか。 綺麗に丹精されています。

≪写真4≫
  その隣には、普通サイズのプランターが、24基も雛壇状に並べられていました。 これは、たぶん、日々草だと思います。 園芸に巧みな人が、手入れしているんでしょうな。




  今回は、ここまで。

  「高原共同墓地」の景色は、今思い出しても、気持ちが良かったですねえ。 バイクで、山の中へ出かけると、たまーに、秘密の花園的な、ほんの一握りの人しか知らない景色を拝めて、大変、得をしたような気分になります。 人工的な物でも、そういう、知る人ぞ知る場所の方が、作った人の個性が良く出るようです。 人が多い街なかの方が、むしろ、いろいろな物が、均質的に感じられますねえ。

  前に、「静岡労金・田方支店」に行った2013年は、まだ働いていた頃で、あちこちの、ブック・オフを巡って、小松左京・筒井康隆作品の文庫本を買い集めていました。 「ブックオフ・大仁店」にも、何回か行きましたが、近くに、労金の支店がある事を知ったのは、ネットで調べたからだと思います。

  行く途中、中古車店があって、ダイハツ・ミゼット2が置いてあり、当時は、車を買う予定はなかったものの、「ほーう!」と、物珍しく見ていたのが、記憶に残っています。 他の事は、全然、覚えていないんですがねえ。

  覚えていないといえば、「史跡・女塚」は、1997年の9月に、初めて行ったんですが、写真を撮るのが目的だった事は、すっかり忘れていました。 過去の記録を調べて、分かった次第。 バイクで、韮山の反射炉付近へ行った後、時間が余ったので、山の中に入って行き、たまたま、辿り着いたのです。 その時には、裏手が公園になっている事に気づきませんでした。

  つい、こないだのような気がしていたのですが、あれから、もう、24年も経ってしまったか。 私も、歳を取るわけです。

2021/08/22

セルボ・モード補修 (32)

  車の修理・整備記録のシリーズ。 例によって、補修とは言えない、オイル交換のような、定期整備も、含んでいます。





【ワックスがけ / ヘッド・ライト磨き / 排気口洗浄】

  2021年5月22日に、車の春の手入れに取りかかりました。

≪写真上≫
  この日は、ワックスがけと、ヘッド・ライト磨きをしました。 どちらも、5月と11月、年に2回しか、やりません。

  この写真では分かりませんが、塗装の上面が、もう駄目で、大方、クリアが剥がれてしまっており、ワックスで、無理やり、光らせている有様。 幸い、近寄ってみると、ひどいですが、離れると、あまり、目立ちません。

≪写真中左≫
  今使っているワックス。 父が、トヨタのディーラーからもらったもの。 何年前のものか、分かりません。 半ネリで、まだ、柔らかいです。 どうせ、タダなので、惜しげなく、使っています。

≪写真中右≫
  ソフト99の、メタリック車用コンパウンド。 2016年7月、車を買った直後に買ったもの。 518円でした。 これで、ヘッド・ライトの黄ばみをとっています。 ヘッド・ライトにかけるコンパウンドは、白いものに限ります。 茶色いのをかけると、それが、プラスチックの細かい凹凸に詰まり、逆に、黄ばみがひどくなります。

≪写真下≫
  排気口のメッキ部分。 下の方が黒くなっていたので、ペイント・うすめ液で拭いて、綺麗にしました。 面積的には小さいですが、ここが光っていると、後ろから見た時の印象が、全然、違います。




【オイル交換】

  2021年5月24日に、車のオイル交換をしました。 オイル交換の写真は、何度も出しているので、今回は、テキトーに出します。

≪写真上≫
  まず、少し走ってきて、エンジンを温めておき、戻ったら、大急ぎで、カー・ステップを組み、前輪を載せて、下に潜り、オイルを抜きます。

≪写真中≫
  オイル・パンの後ろについている、ドレン・ボルト。 水平方向を向いているせいで、ボルトを抜くと、廃油が飛び出します。 うまく、オイル・バットに入ってくれるわけがありません。 後ろに吊るしてあるのは、廃油の勢いを止める為の新聞紙ですが、固定が甘いと、廃油の勢いで、跳ね飛ばされてしまいます。 今回も、だいぶ、零してしまいました。

≪写真下≫
  ドレン・ボルトは、17ミリのスパナで回します。 下に並んでいるのは、左から、ドレン・ボルト、使用済みドレン・ワッシャー、新しいドレン・ワッシャー。 一回使ったら、換える方が、無難。 「裏返して、もう一回使う」というのを、ネットで読んだ事がありますが、一度潰れてしまったら、オイル漏れ防止効果が薄くなってしまうので、裏返しにしても、意味はないと思います。

  オイル交換の途中に、タイヤの空気圧を、エア・ゲージでみましたが、4輪とも、規定値を割っていませんでした。

  抜き終わったら、ドレン・ボルトを締め直して、新しいオイルを入れます。 去年の11月に買った分が残っていたので、今回の出費はありませんでした。

  廃油は、父の遺品の紙オムツや尿漏れパッドに浸みこませて、燃やすゴミに捨てました。 紙オムツ・尿漏れパッドは、まだまだ、あります。 父のお金で買った物なので、オイル交換のたびに、父に感謝しています。 もっとも、この車自体が、父を病院へ送迎する為に、買ったものだったのですが。 あれからもう、5年も経ってしまったか・・・。




【エアコン・オイル/ガス追加充填】

  車のエアコンが、冷えなくなってしまいました。 前回、ガスを追加したのが、去年(2020年)の8月で、こんなに早く減ってしまうとは、予想外でした。

  私だけなら、エアコンなしでも、どうにでもなりますが、母を乗せる為に所有しているような車なので、そうも行きません。 やむなく、追加充填する事にし、アマゾンで、ガスとオイルの缶を買いました。 2021年6月13日に、オイルが先に届き、14日に、ガス3本セットが届きました。 15日に、追加充填作業を行ないました。

  エアコン・ガスは、「HFC-134a」で、一時期の車種にのみ使われていたもの。 今の車では、ガスの種類が変わっていて、この作業はできません。 該当する車種をもっている人で、自分でやりたいという人は、ネットで検索すれば、詳しいやり方を書いてあるサイトが、すぐに見つかりますから、そちらを参考にして下さい。

≪写真1≫
  銀色の太い缶が、ガス。 薄緑色の小さい缶が、オイルです。 ガスは、3本セットで、1900円。 オイルは、543円。 ゲージ付きエアコン・ホースは、2018年の7月に買ったもので、1790円でした。 他に、工具は不用。 あと、雑巾とタオルを使いました。

≪写真2≫
  まず、前側のナンバー・プレートを外しました。 「L」ポートが、この裏にあるので、接続する時に、配管が曲がらないように、この穴から手を入れて、支える為です。 「L」ポートの位置は、車種によって異なりますから、ナンバー・プレートを外す必要がない場合もあります。

≪写真3左≫
  ナンバー・プレートが付く辺りの裏側を、上から覗いています。 灰色のキャップが被さっているのが、「L」ポートですが、この写真だけでは、分かりませんな。 右の写真と比べれば、位置が分かると思います。

≪写真3右≫
  エアコン・ホースを接続した様子。 ホース端の金具を、指先で引っ張ったまま、押し込むと、カチッと嵌まります。 これ接続をする前に、逆の端に、オイルやガスの缶を付けておかなければなりません。 そうしないと、ガスやオイルが、空気中に、ダダ漏れに漏れてしまいます。

  「L」ポート側を接続した後、ホースの缶側を、一瞬、緩めて、ホース内の空気を抜きます。 一瞬といっても、「プシュッ!」という実感がなかったら、0.5秒くらいかけても構いません。

  車のエンジンをかけ、エアコンをかけ、窓を全開にします。 (もし、「L」ポート側に接続する時に、エンジン周辺で、邪魔になる配管を外した場合、それを元に戻してから、エンジンをかけます)。 ホースの、缶側の針(ゲージの針ではなく、本物の針)を下ろして、缶の口に穴を開け、針を上げると、追加充填が始まります。

≪写真4左≫
  まず、オイルを追加充填。 オイルは、配管の微細な隙間を塞ぐ効果もあるようですから、理屈上の順序は、こちらが先になります。 でも、どちらが先でも、大きな問題はないらしいです。

  追加充填が終わったら、「L」ポート側を外してから、缶を外します。 その逆をやると、ダダ漏れになります。

≪写真4右≫
  次に、ガスを追加充填。 オイルもガスも同じですが、缶が冷たくなって来るので、両掌に包んで振り、温めてやります。 冷たさがなくなり、軽くなったら、終了。 ガスを入れ終わった後、ゲージの針が、青領域に入っていたら、OK。 それより少なかったら、もう一本という事になりますが、私は、一度に一本しか、入れた事がありません。 ジェネレーターが動いている時と、止まっている時で、針の位置が異なりますが、高い位置になった時に、青領域に入っていれば、充分なようです。


  こんな大雑把な説明では、全く足りないので、自分でもやりたいという人は、くれぐれも、専用のサイトを読んでからにして下さい。 ちなみに、追加充填後、充分に、冷えるようになりました。 だけど、この作業、何度やっても、何となく、不安ですな。

  ところで、この作業で味を占め、「もっと冷えるようにしてやろう」と、エバポレーターの洗浄に手を出す人がいるようですが、素人の手に負える作業ではないので、絶対、やらない方がいいです。 洗浄剤が乾ききらず、黴が生えて、車内が黴臭くなる事があるとの事。 そうなったら、もう、直せません。




【木目オーディオ枠/シフト・インジケーター・カバー】

  2021年3月頃から、ヤフオクに出ていた、セルボ・モード用の木目部品ですが、オーディオ枠の外し方が分かったので、いよいよ、落札し、手に入れました。 「オーディオ枠」、「シフト・インジケーター・カバー」、「ホーン・パッド」、「エアコン吹き出し口・中央」の4点で、2000円。 送料873円で、計2873円。 6月20日に落札し、オンライン決済で支払い、22日には、届きました。 交換作業は、23日に行ないました。

≪写真1左≫
  ダンボール箱で届きました。 宅配便の配達員は、マスクを正しく装着しているから、安心できます。 もちろん、私もマスクを着けて、受け取りました。

≪写真1右≫
  一点ずつ、プチプチ・ビニールで包まれています。 丁寧な梱包で、大変、ありがたいです。 ヤフオクの取引相手も、こういう、しっかりした出品者ばかりなら、いいのですが。

  この内、当座、使うのは、「オーディオ枠」、「シフト・インジケーター・カバー」だけです。 「エアコン吹き出し口・中央」は、すでにあるので、予備に回します。 「ホーン・パッド」は、セルボ・クラシックのマークが入っているので、すぐに付ける気はないです。 いずれ、出番があるかもしれません。

≪写真2左≫
  使う2点だけ、梱包を解きました。 「オーディオ枠」は、新品同様。 触る所ではないから、キズがつかないのでしょう。

  一方、「シフト・インジケーター・カバー」は、表面のこすりキズや、一部、深いキズがありました。 こすりキズの方は、コンパウンドをかけたら、消えました。 艶がなくなってしまいましたが、ワックスをかけたら、復活しました。 深いキズは、小さいので、気になるほどではありません。

  この2点の木目部品ですが、セルボ・モードでも、セルボ・クラシックでも、オプション部品でして、世に出回った数が、大変、少ないようです。 ヤフオクにも、一年に一回くらいしか、出て来ません。 二年くらい前までは、出て来れば、すぐに落札されてしまいましたが、車本体の所有者が減ったせいか、今では、なかなか、入札者がいない様子。 そのお陰で、私が買えたわけですが。

≪写真2右≫
  オーディオ枠の、ノーマルと、木目。 形は、全く同じです。 下側を、ビス2本で留めてあるだけ。 それを外せば、上側は、浅い爪で引っ掛けてあるだけなので、簡単に外せます。

≪写真3左≫
  シフト・インジケーターのビフォー写真。 そのまんま、真っ黒です。 気が滅入る。 別に、部品を外して、交換するわけではなく、この上に、木目カバーを被せるだけです。 木目カバーは、一見、左右対称のようですが、実は、向きがあります。 仮り当てしてみると、インジケーターの隠れ方が変わるので、すぐに分かります。 木目カバーの裏には、両面テープが貼ってあって、まだ、粘着力がありそうだったので、そのまま貼りました。 もちろん、その前に、ペイントうすめ液で、インジケーターの表面を脱脂しました。

≪写真3右≫
  木目カバーを取り付けました。 オーディオ枠に比べると、小品なので、あまり、期待していなかったんですが、視界に入る面積が大きいせいか、木目化の効果は、こちらの方が、ずっと高かったです。 2012年の暮れまで、うちにあった、亡き父の最後の車、コロナ・プレミオが、これと同じように、シフト・インジケーターが木目だったのを思い出しました。 思わず、泣けて来る・・・。

≪写真4左≫
  オーディオ枠のビフォー写真。 真っ黒。 気が滅入る。

≪写真4右≫
  木目オーディオ枠に交換しました。 こちらは、想像していたより、ずっと、地味な印象。 角度的に、目に見える部分の面積が小さく、しかも、下向きで、暗くなるので、パッとしないのです。 うーむ・・・、しかし、ここだけ、黒というのも、変だしなあ。 これでいいんでしょう、きっと。

≪写真5≫
  左側から撮った、ダッシュ・ボードと、センター・コンソールの全景。 やはり、オーディオ枠が、目立ちませんな。 3年前に、自分で塗り直した、灰皿の色が明る過ぎるのが目立ちますが、市販のスプレーでは、これより暗い灰色がないので、致し方なし。 この灰皿の為だけに、スプレー・ガンなんて買えません。 物が小さ過ぎて、塗装工場に頼むのも、お門違いな感じがします。 色を作ってもらうことになるので、安くはないはず。 気軽に頼んで、「ン万円です」とか言われたら、卒倒してしまいます。

  これで、ダッシュ・ボードと、センター・コンソールの木目部品は、全て揃いました。 他に、ドアのスイッチ・ベースや、ベゼルにも、木目部品があるらしいのですが、まず、ヤフオクに出て来ないと思うので、諦めています。

  そうそう、ダッシュ・ボードの上に付ける、時計にも、木目のがありましたっけ。 しかし、それは、ヤフオクに出て来ても、買う気がないです。 電波時計ではないから、合わせるのが面倒、という理由で。 ちなみに、この写真の、センター・コンソールの前の方に置いてある銀色の物は、電波置き時計です。 ズレないように、小さい面積の両面テープで、軽く固定してあります。 乾電池で動く置き時計の方が、遥かに、扱いが楽です。 月日や、気温も分かりますし。




【オーディオの外し方】

≪写真1≫
  ラジオが不調で、ラジカセ・デッキを交換しようかと思い立ち、とりあえず、外し方を調べてみました。 その後、ラジオが復調したので、結局、交換は取り止めにしましたが、デッキの外し方は分かったから、書いておきます。 といっても、もはや、セルボ・モードを所有している人は、ほとんど、いないから、参考にもならないか・・・。

  ちなみに、このラジカセ・デッキは、クラリオンの、「PS-9923G」という製品。 前面のデザインが全く同じでも、品番が違うものが、何種類かあるようです。 ヤフオクに、1000円~3000円くらいで出てるのを見つけましたが、ほぼ、同じ歳月を経ているものなので、買った時に完全動作しても、いつまでもつかは、分かりません。 結局、電子機器だと、無限に壊れないというものは、ないんですな。 もっとも、ラジカセが復調しなかったら、そんな物と分かっていても、買ったと思いますけど。

  この写真のデッキは、液晶ディスプレイが、車を買った時から、イカれていて、バック・ライトは点くものの、何も表示されません。 受信しているラジオ局が、AMかFMかも分からない有様。 カセットの方は、使った事がないです。 車内で音楽を聴く習慣がないもので。

  「それなら、ラジオだけの物に換えてしまえば?」と思うかも知れませんが、ラジオだけのものは、ヤフオクに、古い品が出ておらず、新しい品は、配線コネクターのピン数が違っていて、おいそれとは付けられないのです。 また、ラジオだけだと、スピーカー一体型が普通でして、ドアのスピーカーが、無用の長物になってしまうのも、残念なところ。

  余談は、このくらいにしておいて、デッキの外し方に行きましょうか。

≪写真2≫
  まず、オーディオ枠を外します。 別に、灰皿を外す必要はないですが、外しておいた方が、安心して作業できるかも知れません。 下の方を覗き込んで、黄色い○のビスを、2本抜きます。 オーディオ枠の、下の方を持ち上げ、手前に引く感じで、カチャカチャやっていれば、上側は、浅い爪でひっかかっているだけなので、すぐに、外れて来ます。 落として、オーディオ枠そのものや、センター・コンソールにキズをつけると、つまらないので、センター・コンソールの上に、タオルでも被せておけば、良いと思います。

≪写真3≫
  オーディオ枠を外すと、デッキの前面が露出します。 左右を留めている、青い○のビス、2本を抜きます。 先に外したビスと、混ざらないように、別の場所に別けておいた方が良いです。 以下、ビスの扱いは同様。

≪写真4≫
  下の方で、白い○のビス、2本を抜きます。 次に、センター・コンソールの前端にある、赤い○のビス、1本を抜きます。 これで、デッキが抜けて来ます。 

  センター・コンソール前端のビスは、中に隠れている三角形の金属部品の下の点を留めるようになっていて、白赤のビス3本を外すと、この三角形の部品も外れてしまいます。 デッキを取り外す時には、それでいいのですが、デッキを取り付ける時には、三角形の部品を、予め、白い○のビス、2本で、デッキ・ブラケットに取り付けてから、センター・コンソール前端のビス孔の所へ、差し込むようにセットすると、うまく行きます。

  写真が大雑把なので、これだけでは分からないかも知れませんが、現車で、分解しながら見ていけば、分かり易いと思います。 デッキを脱着するだけなら、センター・コンソールを外す必要はないです。 上述したように、センター・コンソールにキズがつかないように、タオルを被せておくと良いです。




  以上です。

  今回は、久々に、木目部品を買ったので、割と華やかな組写真が混じる事になりました。 木目部品に交換するのは、完全に見てくれの問題なので、浪費になるのではないかと、ためらわれたのですが、シフト・インジケーター・カバーを付けたのは、大正解で、気分的に非常に良い効果を齎しました。 黒い部品ばかり見ていると、気分が憂鬱になってしまってねえ。 見てくれを変える効果も、馬鹿になりませんな。

  最後の、オーディオの外し方の記事は、セルボ・モードか、セルボ・クラシックを所有している人にしか意味がないので、そうでない方々は、読み飛ばしてください。 なに? そういう事は、先に書け? もっともですな。 申し訳ない。

  車の分解の仕方は、分からない事の方が、ずっと多いので、ネット上で読む、ちょっとした情報でも、貴重になります。 私自身、他の人が書いた記事を読んで、辛うじて分かったという経験が多いですから、恩返しのつもりで、自分が知っている事を書いた次第。 

2021/08/15

読書感想文・蔵出し (75)

  読書感想文です。 実は、今回、≪新型肺炎あれこれ≫を書き下ろそうかと思っていたんですが、新聞土用版に入っているパズルが、数独特集で、6問もあり、その第5問が、あまりにも手強くて、時間がなくなってしまったせいで、読感に切り替えた次第。 文句があったら、私ではなく、問題を作ったニコリに言って下さい。





≪松本清張全集 46 風紋・夜光の階段≫

松本清張全集 46
文藝春秋 1983年12月25日/初版 2008年10月10日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編2作を収録。


【風紋】 約116ページ
  1967年(昭和42年)1月から、1968年6月号まで、「現代」に連載されたもの。 原題は、「流れの結像」。

  戦後にスタートした食品会社。 経営不振を立て直す切り札として、駱駝が食べる砂漠の植物から抽出したエキスで作った、「キャメラミン」という栄養剤を売り出し、大ヒットとなった。 ある大学の講師が、その成分を分析し、研究したところ、意外な結果が出てしまい、食品会社の宣伝部が、何とか、研究の公式発表を押さえ込もうとするが・・・、という話。

  うまく梗概が書けませんでしたが、視点人物は、食品会社の社史編纂部署にいる若い社員でして、梗概に書いてある事件を、傍目から観察しているという形式になっています。 犯罪としては、横領に近い事件は起こりますが、殺人などは、出て来ません。 推理しながら読むのは、まず、無理です。 推理小説でも、犯罪小説でもなく、企業小説なんですな。

  はっきり言って、面白さは、松本作品として、並み以下です。 一つの会社の中で起きた内紛劇に過ぎず、しかも、視点人物は、直接、事件に関わっていない、第三者ですから、視点人物の立場で事件を見ている読者にしてみると、誰がどうなろうが、どうでもいい事なんですな。

  原題の【流れの結像】も、【風紋】も、分かり難いタイトルですなあ。 松本さん独特の命名ですが、タイトルから、内容を思い出し難い事、この下ない。 知的なのは、伝わって来るんですが、内容を表していないのでは、タイトルの意味が、半分、ないようなものです。 雰囲気すら伝わらないから、その乖離がいかに大きいか、分かろうと言うもの。


【夜光階段】 約382ページ
  1969年(昭和44年)5月10日号から、1970年9月26日号まで、「週刊新潮」に連載されたもの。 原題は、「ガラスの鍵」。

  腕のいい青年美容師が、独立資金を援助してくれたり、上客を紹介してくれたりする女達を利用し、有名美容師にのし上がっていくが、利用した女達が、ことごとく、首枷に変身し、殺さざるを得なくなる。 青年美容師の犯罪に、たまたま、最初の一件から関わっていた検事が、美容師の罠にかけられて無実の罪を着せられそうになっている人物を救う為に、禁じ手を使ってでも、真犯人を告発しようとするが・・・、という話。

  視点人物が、はっきりしません。 中心人物は、明らかに、青年美容師ですが、彼が、視点人物である場面は限られています。 ネタバレを気にする必要がない程度の倒叙形式でして、誰が犯人かは、早い段階で、読者に伝わります。 しかし、常に、犯人側の立場でストーリーが語られるわけではないので、読者は、ちゅうぶらりんの格好で、話につきあって行く事になります。

  美容師の友人が、無実の罪で捕まり、裁判にかけられる段になると、俄然、「真犯人、憎し」という雰囲気が盛り上がります。 ここで、視点人物が、ある検事に固定され、ラストまで、そのまま行くのですが、一応、善悪バランスはとられるものの、すっきりした終わり方にはなりません。 細部を読み込むタイプの読者なら、読み応えを感じると思いますが、私のように、ストーリーを小説の根幹と考えている読者から見ると、フラフラした話としか感じられません。

  それにしても、この主人公、大変、狡知で、美容師としてよりも、犯罪者としての才能の方が、勝っているくらいです。 証拠を残さない上に、疑いを持った人物を、どんどん殺して行ってしまうので、なかなか、露顕しないんですな。 罪をなすりつけた事件などは、相手を心理的に追い込む手まで使っていて、天才的犯罪センスを見せます。 もちろん、私は、そんな人間には、マイナスの価値しか感じませんが。




≪松本清張全集 47 彩り河≫

松本清張全集 47
文藝春秋 1984年3月25日/初版 2008年10月10日/5版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編1作を収録。


【彩り河】 約466ページ
  1981年(昭和56年)5月28日号から、1983年3月10日号まで、「週刊文春」に連載されたもの。

  会社の経営が傾いているのに、社長が、大金を費やして、女を囲い、バーを出させているのを見て、資金繰りに不審を抱いた業界誌の契約記者が、一人で調査を進め、社長の背後に、不動産会社を操る金融機関の経営者がいる事をつきとめる。 ところが、記者は、望まない退場を余儀なくされ、囲われていた女の元愛人だった人物が、調査を引き継いで、記者の未亡人と共に、怪しいクラブに探りを入れるが・・・、という話。

  舞台的には、企業小説に近いものの、犯罪が出て来て、トリックや謎もある推理小説です。 視点人物になる探偵役が、二人出て来ますが、接点は僅かで、互いに、自分の事情から、リレーする形で、調査を進めます。 実は、調査している人間が、もう一人いるのですが、その人は、視点人物にはならないので、読者は、謎解きの段になるまで、その調査の過程を知る事ができません。

  探偵役がリレーされる点が、最も悪さをしているのですが、それを、粗っぽい登場人物の役割配分が手伝って、バラバラ感が強いです。 たとえば、最初に出てくる、和子という女ですが、重要人物なのかと思いきや、呆気なく退場してしまいますし、後ろの方に出てくる、静子という未亡人は、キャラ的には、どう考えても、脇役なのに、重要な場所に密偵として送り込まれたりして、どうにも、バランスが悪い。

  また、松本作品としては珍しい事に、謎解き場面に、お涙頂戴の因縁話が含まれているところも、評価点を落としています。 出来の悪い2時間サスペンスじゃあるまいし。 松本作品から、ドライさを抜いたら、魅力は、半減してしまうではありませんか。 1981年というと、すでに、テレビで、2時間サスペンスが登場していますが、まさか、それを見て、影響されたのでは?

  クロフツ的に、コツコツ、地道に調査を進めて行く過程は面白いですが、探偵役がリレー式に二人いると、どうしても、すでに読者が分かっている事を、もう一度辿らされる事になり、冗長を感ぜざるを得ません。 苛々して来るので、内容が重なっている部分は、飛ばし読みしました。 しかし、連載時に、ブツ切りで読んでいた読者は、むしろ、細部を思い出す事が出来て、読み易かったかもしれませんな。

  以下、ネタバレ、あり、

  ラストでは、善悪バランスがとられますが、警察や司法は、全く関係しておらず、いわば、私刑。 「こういうのは、ありなのか?」と首を傾げざるを得ません。 解説には、【十万分の一の偶然】を、同様の例としていますが、あちらは、復讐者が死を覚悟しており、こちらとは、明らかに違う結末です。 「殺して、そのまんま」は、まずいと思うのですがねえ。




≪松本清張全集 48 風の息≫

松本清張全集 48
文藝春秋 1983年7月25日/初版 2008年10月10日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1作を収録。


【風の息】 約4538ページ
  1972年(昭和47年)2月15日から、1973年4月13日まで、「日刊 赤旗」に連載されたもの。

  ある未亡人が、ジャーナリストだった夫の遺品として、古書店に、航空関係の書籍を持ち込む。 そこから、昭和27年(1952年)に大島の三原山に墜落した旅客機、「もく星号」の事故に興味を抱いた店主が、同好の士を集め、手分けして、当時の関係者から聞き取り調査を進めて行く話。

  以下、ネタバレ、あり。 ネタがバレても、さほど、問題がない話です。

  硬い、硬い、文字通り、話にならないくらい、硬い作品で、全然、ページが進みません。 冒頭からしばらく、事件の経緯が語られますが、情報の羅列で、小説というより、報告書でも読んでいるような感じです。 それが過ぎると、ようやく、本体部分が始まるわけですが、一応、小説の体裁で書いているというだけで、やはり、硬い、硬い。 全然、ページが進みません。

  調査に当たる主な人物は三人で、その内二人は、視点人物になりますが、もう一人は、調べてきた事を報告するだけです。 視点人物になる二人が、調査を進める内に、まずい領域に足を踏み入れ、命を狙われるというのなら、ありふれた展開ながらも、小説らしくなるのですが、そうはならず、調査するだけで終わります。

  墜落事故が起きてから、十年以上経っている設定で、すでに、アメリカによる占領期間も終わっており、今更、事故の原因をほじくり返しても、誰からも、命を狙われたりしないわけですな。 調査する側してみれば、ありがたい事ですが、読者の方は、小説的な面白さを全く感じられないので、単なる資料を読まされているような、退屈な思いをさせられます。

  一応、推測による結論が出ていますが、大変、もっともらしいとは思うものの、常識に立ち返って考えると、仮にも、米軍と関係のある旅客機を、同じ米軍の戦闘機が攻撃したりするものなのか、首を傾げてしまいますねえ。 朝鮮戦争の最中で、緊張感が高かったとはいえ、大島付近なんて、戦場とは、まるっきり、場所が掛け離れており、米軍の敵機がいるわけがないではありませんか。

  どうも、松本清張さんは、「日本人が、外国人の起こした一件に巻き込まれて、命を落とした」事件や事故に、殊更、敏感に反応するように見受けられます。 昭和の中頃に生まれた私の世代でも、もく星号の事故の事を知っている者は、ごく僅かだと思いますが、1972年時点で、この小説に食いついた読者が、どの程度、いたものですかねえ。

  航空事故に、特に興味があるという人でない限り、読むのは、薦められません。 無理に読んでも、ほとんど、頭に残らないと思います。 事故の真相が明らかになっていく過程のゾクゾク感も、期待しない方がいいです。 結論が出ても、どうせ、推測に過ぎないのですから。




≪松本清張全集 49 空の城・白と黒の革命≫

松本清張全集 49
文藝春秋 1983年8月25日/初版 2008年10月25日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編2作を収録。


【空の城】 約284ページ
  1978年(昭和53年)1月から、8月まで、「文藝春秋」に連載されたもの。

  レバノン系アメリカ人の政商を頼りにして、カナダに製油所を造った日本の商社。 政商の求めるがままに、出資を続けていたが、生産が軌道に乗らなかった上に、石油ショックが重なって、事情が変わり、詐欺師に変身した政商に騙されて、莫大な赤字を出す話。

  実話を元にした、企業小説です。 企業小説そのものや、石油業界に興味がない向きには、全く薦められない内容。 面白くも何ともないです。 犯罪と言えば、詐欺が出て来ますが、それも、商人がやる、ごまかし・まやかしレベルの話で、詐欺の鮮やかな手並みを楽しむといった趣きではないです。

  松本作品に、似たような話は多いですが、この作品の場合、女絡みの破滅が出て来ないので、尚更、ギスギスした硬さが際立っています。 石油業界の専門用語が目白押しで、何ページも続く部分も多いですが、どうせ、読んでも、頭に残らないので、硬いところは、飛ばし読みしました。

  社内抗争の人間ドラマが描きこまれているところだけ、面白い。 会社存亡の危機だというのに、アメリカ子会社からの報告を、本社での会議で聞いている重役達が、石油業界の知識がないせいで、何も理解していないというのは、いかにも、ありそうな場面。 何の仕事もしていない重役は、どの会社でも多い事でしょう。 大雑把に言って、秘書が付いているような役職は、何も仕事がないから、秘書が仕事をらしき物を探して、スケジュールを作っているんですな。

  骨董品蒐集ばかりに精を出している社主が、親から引き継いだ会社に反感を抱いていて、倒産するのを、むしろ、歓迎していた、というのは、ちと、不自然ですか。 たとえ、親の作った会社に反発を感じていても、貴重な骨董コレクションを手放すような羽目には陥りたくないと思うと思うのですが。


【白と黒の革命】 約253ページ(「文庫版のためのあとがき」を含む)
  1979年(昭和47年)6月から、12月まで、「文藝春秋」に連載されたもの。

  1978年に起こった、イラン革命について、日本人の作家が、イラン人の絨毯商人から、「革命の発端は、石油メジャーが、好き勝手をするパーレビ国王を懲らしめる為に、CIAを使って、一旦、国外追放し、その後、帰国させるつもりだったのが、失敗したものだ」と言ったのを聞いた事で、興味を持ち、世界を飛びまわって、情報を集め、最後には、イランに乗り込んで行く話。

  一応、小説の体裁をとっていますが、イラン革命に関する時事情報が羅列されているだけで、これを小説と呼ぶのは、相当には、無理があります。 実際、小説として楽しむのは、不可能でしょう。 【空の城】も同様ですが、文藝春秋も、よく、こういう作品を、掲載しましたねえ。 これでは、一般的な小説読者は、ついて来れなかったでしょうに。 私も、その一人で、もし雑誌で読んだのなら、一冊目でやめ、二冊目は買わなかったと思います。

  主人公は、山上という作家で、松本作品としては珍しく、一人称で語ります。 ジャーナリストならともかく、作家程度の立場で、革命直後、政情不安の極にある外国に乗り込んで、通訳頼みで、話を聞いて回ろうというのだから、怖いもの知らずにも、程があろうというもの。 最後には、スパイの嫌疑をかけられて、国外逃亡を余儀なくされますが、自業自得ですな。

  1978年というと、私は中学生で、「ホメイニ師」の名前を、ニュースで何度も聞きましたが、まだ子供だった事もあり、イラン革命には、別段、興味がありませんでした。 その後、イラン・イラク戦争が始まって、いつまでも終わらず、皇帝(当時は、パーレビ国王と呼ばれていた)が帰国して、王政復帰するという事もなく、イランの政権は、そのまま、今に至ります。

  他の作品でも書きましたが、松本作品を全て読みたいと思っている人でも、こういう作品は、避けた方がいいかも知れません。 内容が専門的過ぎて、無理に読んでも、ほとんど、頭に残らないと思います。 イラン革命について研究している学生なら、参考になるかも知れませんが、外国に対する興味が、全般的に低下してしまった今、そういう学生がいるんですかねえ?




  以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、つまり、2021年の、

≪松本清張全集 46 風紋・夜光の階段≫が、1月3日から、7日。
≪松本清張全集 47 彩り河≫が、1月16日から、20日まで。
≪松本清張全集 48 風の息≫が、1月22日から、28日まで。
≪松本清張全集 49 空の城・白と黒の革命≫が、1月30日から、2月3日まで。

  今回は、松本清張全集だけ、46から、49まで、順番に揃いましたな。 最初の内は、なるべく、順番通りに借りていたのですが、他の人が借りていて、なかったり、時代小説は、とっつきが悪そうだから、飛ばしたりしている内に、グジャグジャになってきて、後半は、読み易そうなものを先に読む方針に切り替えました。

  未だに、同全集を読み続けていますが、時代物や小説ではない作品を除くと、ほとんど、読み終えてしまいました。 さて、時代物を 読むべきかどうか、検討中。

2021/08/08

読書感想文・蔵出し (74)

  読書感想文です。 今現在、図書館から借りて来ているのは、約二週間に、一冊だから、月にすると、2冊か、3冊くらいでして、感想文を出しているのは、4冊ずつだから、月に一回、出せば、理想的という事になりますな。 しかし、なかなか、現在に追いつかないから、そんな形にするのは、遥か先という事になります。





≪松本清張全集 43 告訴せず・十万分の一の偶然≫

松本清張全集 43
文藝春秋 1983年6月25日/初版 2008年9月25日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編2作を収録。


【告訴せず】 約258ページ
  1973年(昭和48年)1月12日号から、11月30日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  選挙に出る姻戚に頼まれて、運んでいた選挙資金3千万円を、盗んで逃げた男がいた。 事業資金にするには少ないので、小豆の先物取引に手を出し、ある神社の鹿骨占いで、大凶作になると出たのを根拠に、大きな勝負に出て、金を増やして行く。 逃走先で出会った女の名義を借りて、モーテルを開業するが・・・、という話。

  面白いです。 資産が次第に増えて行く経過が、ノリの良さを感じさせて、読者を引き込むんですな。 ≪こちら葛飾区亀有公園前派出所≫で、よく使われるパターンです。 うまい商売を思いつき、最初は、どんどん儲かるけれど、ある所で躓いて、一気に転落し、結局、元の木阿弥、スッカラカンになってしまうというアレですな。

  主人公の資産が、どんどん増えて行く話なので、読者も一緒に、ウハウハ気分になってしまうわけですが、この主人公が、元手の3千万円を手に入れる時に、犯罪行為をしている事を忘れてはいけません。 松本さんは、善悪バランスには厳しい人で、犯罪者が罰を受けずに済む事は、滅多にありません。 「盗られたのが、政治資金の裏金なので、告訴はできないが、恨み憎しみが消えるわけではない」というのは、教訓としてとるべき。 ちなみに、タイトルの「告訴せず」は、二つの事件にかかっています。

  以下、ネタバレ、あり。

  主人公が視点人物なので、読者には分かり難いですが、彼は、かなり早い段階から、騙されています。 旅先で出合って、懇ろになり、事業を始める時に名義を借りた女が、その詐欺グループの仲間だったというのは、ちと、偶然が過ぎるような気がしますが、ストーリーの結構を崩すほど、大きな問題ではないです。

  読者から見て、この女が怪しいという事は、モーテル建設の際、主人公の資産を、ジャブジャブ使ってしまうところで、何となく分かるのですが、詐欺の一部だとは思わず、単に、強欲な女に捉まってしまった、主人公の迂闊さを憐れむだけ。 名義を借りる為だけに、一緒にいるのなら、誰かから、戸籍を買った方が、ずっと良かったと思います。 まあ、その事も、作中で触れられていますが。

  そもそも、小豆相場で、億を超える金を手にしたのなら、モーテル事業なんぞに手を出さずに、預金を取り崩して暮らせば、後半生、安泰だったと思うのですがねえ。 元は、駅前食堂の主人だったわけで、金遣いの荒さが身に染み付いていたわけでもなかろうに、どうしてまた、そんな大きな欲を掻くようになったのか、理解に苦しみます。

  この作品、1975年に映画化されていて、私は、たまたま、テレビ放送された時に、後ろ半分だけ見ていました。 小説を読んでいて、「何だか、あの映画と似ているな」と思い、調べてみたら、それだったという次第。 タイトルは、小説と同じで、主演は、青島幸夫さん。 ラストは、小説よりも、柔らかくしてありました。

  見たのは、もう、40年くらい前だと思いますが、覚えていたのは、大変、変わった映画だったからです。 先物相場をモチーフにした映画なんて、あまり、聞きませんものねえ。 恐らく、小説が発表された後、映画関係者が、すぐに飛びついて、映画化に着手したのでは? 話が面白い割に、大掛かりなセットなど不要で、ロケだけで出来る内容なのも、映画化欲をそそったものと思います。 


【十万分の一の偶然】 約196ページ
  1980年(昭和55年)3月20日号から、1981年2月26日号まで、「週刊文春」に連載されたもの。

  多数の死傷者が出た東名高速道路での玉突き事故で、その様子を撮影したアマチュア・カメラマンの写真が、新聞社の報道写真賞を獲得した。 その事故で、婚約者が死んでしまった青年が、不審を抱き、独自に捜査を始める。 アマ・カメラマンが、彼が私淑している高名なプロ・カメラマンから、「優れた報道写真は、故意に事件・事故を起こせば撮れる」という冗談を聞いていた事が分かり・・・、という話。

  面白いです。 まず、婚約者を死に追いやられた強烈な恨みがあり、それを晴らす為に、事故で片付けられていたものを、執念で捜査し、犯人がいる事件だったと、突き止めて行きます。 主人公の動機がはっきりしているので、読者としても、大変、共感し易い。 ノリノリ前のめりで、ページをめくる事になります。

  報道写真や、大麻の問題について、詳しく書かれていて、その点は、社会派。 松本さんは、社会派の代表みたいな位置づけをされていますが、普通、社会問題部分は、モチーフとして使っているだけで、社会問題そのものが、事件と重なっているものは稀です。 この作品は、重なり度合いが多い方でしょうか。 

  以下、ネタバレ、あり。

  途中で、視点人物が変わり、復讐される側の二人の立場で、話が進む部分がありますが、それは、ストーリーを盛り上げる為に必要な工夫で、主人公まで変わるわけではないです。 主人公が、前面に出て来ない事で、より、ゾクゾク感が増幅しており、成功している書き方だと思います。

  犯人が誰か分かって以降は、復讐劇になるわけですが、証拠がなくて、司法制度に頼れないので、自ら手を下す事になります。 それをやると、主人公まで、犯罪者になってしまうわけで、善悪バランスに厳しい松本さんの事ですから、犯罪者をそのまま、許す事はないです。 そのせいで、読後感は苦いですが、まあ、仕方がありませんな。




≪松本清張全集 44 雑草群落≫

松本清張全集 44
文藝春秋 1983年1月25日/初版 2008年9月25日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編1作を収録。


【雑草群落】 約457ページ
  1965年(昭和40年)6月18日号から、1966年11月30日号まで、「東京新聞」・他に連載されたもの。 原題は、【風圧】。


  東京に店を持つ骨董商の男。 跡取り息子が、大阪の立志伝中の経営者を新たな顧客にしようと望んでいるのを知り、自分の愛人の伝で、別口から、その経営者に近づこうとする。 肉筆浮世絵が所望と知らされるが、そんな出物は持っていないので、贋作を描かせ、売りはしないものの、進呈して、出入り業者になる為の、きっかけにしようとするが・・・、という話。

  有名画家作品の贋作問題や、絵画鑑定の世界の不正問題が、メイン・テーマの、社会派作品です。 犯罪は出て来ますが、殺人は、なし。 推理物の要素は希薄で、主人公が、愛人の浮気相手を探ったり、商売敵の動向に想像を逞しくする程度でして、読者が推理しながら読むような対象ではないです。

  全体の雰囲気としては、推理物でも犯罪物でもなく、サラリーマン小説ですかね。 主人公は、サラリーマンではないですけど。 主人公と愛人の関係が人物相関の軸になっていて、そこに、主人公の息子と、その交際相手が関わってくるのですが、痴情関係の描写が多過ぎて、メイン・テーマが前面に出て来ません。

  親子で、不倫に励んでいるというのは、感心できないにも程がありますが、それ以前の問題として、骨董商という職業が、一般読者には、大変、馴染みが薄く、主人公に共感するのは、難しいです。 正直言って、「こんな人間は、逮捕された方がいいのでは?」と思ってしまうのです。 主人公の人格的条件としては、失格ですな。

  また、その愛人の女が、どうにも、人間的魅力を感じさせない。 30歳前後で、60歳を越えた主人公と性関係にあるというのも、何だか、汚らしいですが、歯に衣着せず、ズケズケと思った事を何でも口にする性格で、どこがいいのか、さっぱり分からない。 主人公は、女の体が目的で、囲っているわけですが、ただそれだけの為に、この女の、人を小馬鹿にしたような態度を許すというのだから、ますます、主人公に嫌悪感を覚えてしまいます。

  決定的にまずいのは、顔繋ぎ用に、いい品がないので、贋作を作らせて進呈しようという、その発想でしょう。 「タダで進呈するのだから、犯罪にはならない」と言っても、騙す事に変わりはなく、信用商売の根幹からして崩れてしまいます。 それをやったら、露顕したが最後、コレクターに取り入る事ができるどころか、骨董商としての信用が、一気にマイナスまで落ちてしまうというのが、分かっていて、やるのだから、もはや、主人公は、真人間とは言えません。

  善悪バランスに厳しい松本作品の事だから、当然、主人公も、その一味も、最後は、ひどい目に遭うと思っていたのですが、予想したほどではなく、唯一逮捕されたのが、「え! この人が逮捕されるの?」という人だから、なんだか、ピント外れの写真を見せられたような気分になります。 長編ですが、名作には程遠いです。




≪血蝙蝠≫

角川文庫
角川書店 1979年6月20日/初版 1983年1月30日/8版
横溝正史 著

  2020年10月に、アマゾンに出ていたのを、送料込み、584円で買ったもの。 状態は、まあまあ、普通。 横溝作品の角川文庫・旧版の中では、69番目で、大人向けの短編集です。 昭和13年から16年までに発表された9作を収録。 戦前の作品なので、推理小説として読み応えがあるものは、ほとんど、ありません。 【八百八十番目の護謨の木】と、【二千六百万年後】は、以前、別の本で読んで、感想も出していますが、ほぼ同じ物を、また出しておきます。


【花火から出た話】 約36ページ
  1938年(昭和13年)3月に、「週刊朝日特別号」に掲載されたもの。

  前年に他界した有名な学者の屋敷跡に出来た公園で、銅像の除幕式があった。 打ち上げられた花火から、花束が落ちて来たのを拾った青年が、その中から出て来た猫目石の指輪のせいで、命を狙われる。 学者には娘があり、三人の求婚者がいた。 指輪を手に入れた者が、娘と結婚できるという遺言があって・・・、という話。

  いかにも、近世の「物語」的な設定ですな。 19世紀以前のヨーロッパでは、こういう小説が普通で、明治以降の日本でも、それに倣い、軽い小説というと、こういう、「数奇な物語」が好まれていたのだと思います。 さすがに、この頃になると、短編でしか書かれなくなっていたようですが・・・。 戦後になると、完全に否定されてしまいます。

  そういう、一種のお約束で書かれた話なのだと承知の上で読むのなら、まあまあ、普通の出来です。 軽いノリ的には、ショートショートの雰囲気に使いですが、意外な結末というほど、意外なラストでもないので、あまり期待しては、肩透かしを喰います。

  重箱の隅を突かせてもらえば、花火で打ち上げたら、花束なんぞ、バラバラになってしまうと思うのですがね。 猫目石も、無事では済みますまい。 横溝さんは、理系の教育を受けた人ですが、徴兵された経験はなく、火薬の爆発というものが、どれだけ破壊力をがあるか、感覚的に分かっていなかったんじゃないでしょうか。


【物言わぬ鸚鵡の話】 約8ページ
  1938年(昭和13年)10月に、「新青年」に掲載されたもの。

  言葉を喋れない妹がいる青年。 その友人が、鸚鵡をもらってきて、妹にプレゼントしたが、その鸚鵡も舌を半分切り取られていて、言葉を喋る事ができなかった。 なぜ、舌を切られてしまったのか、不思議に思った青年が、元の飼い主を訪ねて行くと、そこには、いかがわしい商売の女がいて・・・、という話。

  大した話ではないので、ネタバレさせてしまいますと、いかがわしい商売というのは、美人局でして、しかも、引っ掛かった男を殺してしまうというもの。 その内の一人の名前を鸚鵡が覚えていたので、舌を切ったという理由。

  話の本体は、「ああ、そう」という感想しかでない、つまらないものですが、ラストに、青年の妹と、鸚鵡を持って来た友人のその後が、さらっと書いてあり、そこが異様に無情で、妙に面白いです。


【マスコット綺譚】 約26ページ
  1938年(昭和13年)11月に、「オール読物」に掲載されたもの。

  手にした者に幸運を齎す縞瑪瑙のネックレスがあり、女優三人が、リレーする形で、所有した。 最初の持ち主は、知らずに後輩にやってしまい、落ち目になった。 二人目は、撮影所に忘れて帰り、その間に、殺されてしまった。 それを届けようとした三人目も、人気女優になるが、さあ、その後、どうなるか、という話。

  「物語」っぽいですなあ。 殺人事件が出て来ますが、推理物ではないです。 非科学的なオカルトが、モチーフに使われていて、いささか、横溝作品らしくないところがあります。 安直と言えば、安直。 結末も、よくありそうなもので、パッとしません。 主人公のキャラ設定に、幾分、横溝さんの少女礼賛趣味が出ています。 戦後作品では、全く見られなくなってしまうのですが。


【銀色の舞踏靴】 約32ページ
  1939年(昭和14年)3月に、「日の出」に掲載されたもの。

  映画館で映画を見ていた三津木俊助のもとへ、二階席から、銀色の舞踏靴が片方、落ちてきた。 帰って行く持ち主の女を追いかけて、返そうとしたが、本人は、そんな靴は知らないという。 その頃、映画館では、同じ銀色の舞踏靴を履いた別の女が死体で発見されていた。 その一週間前に、交通事故で死んだ女も、同じ銀色の舞踏靴を履いていて・・・、という話。

  戦前の由利・三津木コンビ物ですから、当然ですが、やはり、推理物というより、活劇ですな。 一応、謎はありますが、読者が推理できるようなものではないです。 とはいえ、謎を形成している、銀色の舞踏靴というモチーフが洒落ているせいか、由利・三津木物の短編としては、バランスがいいです。 邪魔っけなアクション場面がない点も、長編活劇より、読み易くなっています。


【恋慕猿】 約32ページ
  1939年(昭和14年)5月に、「現代」に掲載されたもの。

  かつて、猿の芝居をやっていた男が、痴情の縺れの果てに、相手の女を殺した犯人として、逮捕されてしまう。 彼が連れていた猿が、どこかから持って来た羽子板の中から、市会議員の疑獄事件の関わる書類が出て来て・・・、という話。

  この猿ですが、芝居をやっていた時に、先立たれてしまった女房の猿がやっていた役を覚えていて、羽子板の絵柄が同じ役のものだったので、亡妻恋しさに、持って来てしまった、というところが、泣かせどころ。 つまり、人情物というか、動物人情物なのです。 動物好きの人なら、ホロリとすると思います。


【血蝙蝠】 約32ページ
  1939年(昭和14年)10月に、「現代」に掲載されたもの。

  鎌倉にある空き別荘、通称「蝙蝠屋敷」へ肝試しに出かけた若い娘が、死体を見つけて、卒倒してしまう。 その部屋の壁には、血で描いた蝙蝠の絵があった。 死体は、女優で、かつて婚約者だった男に容疑がかかるが、なぜか、第一発見者の娘が、命を狙われ・・・、という話。

  由利・三津木コンビが探偵役。 活劇部分もありますが、どちらかというと、本格っぽいです。 と言っても、トリックはなく、謎があるだけですが。 このページ数の短編としては、バランスが良くて、面白いです。 表題作にされたのも、納得が行くところ。 戦前作品でも、終わりに近くなると、活劇要素より、本格っぽい話の方へ、横溝さんの興味が移りつつあったのかも知れませんな。

  タイトルの「血蝙蝠」は、ストーリーとは、ほとんど、関係がないです。 屋敷の名前が、「蝙蝠屋敷」だったから、血で蝙蝠の絵を描いたというだけの事。 「蛞蝓屋敷」だったら、「血蛞蝓」でも、何ら、ストーリーに、差し支えはありません。 ちなみに、「蛞蝓」は、「なめくじ」です。 そう言えば、金田一物の短編に、「蝙蝠と蛞蝓」という作品がありますな。


【X夫人の肖像】 約24ページ
  1940年(昭和15年)1月に、「サンデー毎日特別号」に掲載されたもの。

  知り合いの女性にそっくりの肖像画が、展覧会に出品されている事を知った夫婦。 その女性は、ずっと歳上の男性と結婚したが、昔馴染みの同年輩の男につきまとわれた挙句、二人で失踪してしまっていた。 知り合いの夫婦が、展覧会を訪ねて行って、肖像画を描いた画家に会い、失踪事件の真相を聞かされる話。

  犯罪絡みですが、一般小説として読んでも、いけそうな話。 実に、バランスが良い。 事件の展開そのものが、意外性に満ちている上に、本人達は、もう死んでいて、知り合いが、赤の他人から真相を聞かされるという形式になっているのも、面白い趣向です。 あまり、よく出来ているので、もしや、何か、手本にした作品があるのではと、疑ってしまうくらい。 奇抜な事件なのに、不自然さを感じさせないのです。

  それにしても、気の毒な女性だこと。 好かれたせいで、命を落としたわけですが、そんな事なら、生涯独身を通した方が、どれだけ、良かったか。 愛に生きても、死んでしまったのでは、元も子もありません。 愛される事、イコール、幸福、ではないんですな。


【八百八十番目の護謨の木】 約26ページ
  1941年(昭和16年)3月に、「キング」に掲載されたもの。

  ある殺人事件で残された、「○谷」というダイイング・メッセージが、「大谷」ではなく、ボルネオ島のゴム農園にある、「○八八○」番の木の事ではないかと気づいて、わざわざ、ボルネオまで訪ねて行く話。

  これは、戦時下シフトの作品。 謎が、子供騙し過ぎます。


【二千六百万年後】 約21ページ
  1941年(昭和16年)5月、「新青年」に掲載されたもの。

  遠い未来に、人類社会がどうなっているかを、睡眠によって、時を超え、見に行く話。

  もろ、SF。 自力で空を飛べる未来人類が出て来ますが、背中に翼を付けるのではなく、蝙蝠に近い皮膜にしてあるのは、さすが、理系の作者だと思わせます。 全体のアイデアは、ユートピア小説というより、ウェルズの、≪タイムマシン≫が元になっているのではないでしょうか。

  これも、戦時下シフト作品で、どうせ、探偵小説が検閲で落とされるのなら、SFにしてしまえという、開き直りで書いたもののようです。 そんなに面白いものではないです。 ちなみに、横溝さんのSF趣味は、戦後の少年向け作品で、いくらも見る事ができます。




≪松本清張全集 45 棲息分布・中央流沙≫

松本清張全集 45
文藝春秋 1983年2月25日/初版 2008年10月10日/4版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編2作を収録。


【棲息分布】 約318ページ
  1966年(昭和41年)1月1日号から、1967年2月16日号まで、「週刊現代」に連載されたもの。

  戦時中、憲兵として、ある事業家を取り調べた男が、戦後、その事業家と再会し、彼の旧悪を知っていた事から、会社に専務として迎えられる。 会社が大きくなった今、事業家から軽んじられ始めたと感じて、焦り、彼の過去や、現在の女関係を暴露して、社会的に破滅させようと目論む話。

  冒頭、関係の薄い人物の話から始まり、事業家の視点になったり、その妻の視点になったりしながら、だんだん、元憲兵の視点に落ち着いていきます。 技法でそうしたというより、全体の流れを決めないまま書き始めて、ダラダラと書き進める内に、締りがない話になってしまったのではないかと思われます。

  犯罪物でも、推理物でもありません。 一番近いのは、サラリーマン小説です。 経営者が関わって来るので、企業物の面もありますが、それにしては、愛人関係の描写が多過ぎ。 纏まりに欠けること甚だしく、もし、新人が書いた物なら、一発ゴミ箱行きは、疑いないところです。

  以下、ネタバレ、あり。

  事業家と、その妻は、ダブル不倫、というか、クロス不倫でして、いい歳こいて、何を低劣な事をやっているのかと、作中人物の事ながら、呆れてしまいます。 で、何かしら、罰が下るのかというと、そうでもなく、不倫に関しては、不問に終わります。 罰が下るのは、元憲兵ですが、その元憲兵が、後半の視点人物なので、彼の立場でストーリーを追っていた読者は、彼と一緒に、罰を受ける事になります。 これで、読後感が、モヤモヤせずにいられようか。

  駄作とまでは言いませんが、松本作品の中では、明らかに、下の部類です。 注文が多すぎると、全ての作品を、練りに練るわけにも行かないから、こういう作品が出てくるのも、致し方ないか。 タイトルも、良くないですなあ。


【中央流沙】 約124ページ
  1965年(昭和40年)10月から、1966年11月まで、「社会新報」に連載されたもの。

  農林省で、汚職事件が起こる。 警察の取り調べを受けた中間管理職の男が、省内に出入りしている弁護士によって、温泉地に呼び出され、それとなく、詰め腹自殺を勧められた後、不審な死を遂げる。 弁護士や農林省内に、捜査の手が伸びるが、遺体は手早く火葬されていて、他殺の証拠が掴めない。 一度は諦めた警察だったが・・・、という話。

  なんだか、松本さんの過去の作品から、摘んで、継ぎ接ぎして作ったような話です。 「詰め腹自殺と見せかけて、実は他殺」というのは、【濁った陽】(1960年)に出て来ました。 【不在宴会】(1967年)は、この作品の冒頭部から、別の派生をした作品でしょう。

  以下、ネタバレ、あり。

  殺人事件が起こっているわけで、当然、犯人には、正義の鉄槌が下されるものと期待してしまうところですが、そうはなりません。 警察が二度も、捜査に乗り出していながら、最終的に、役人の世界の取引が罷り通って、殺人犯は野放し、汚職の方も、役人側には、一人の逮捕者も出さないという、「なんじゃ、そりゃ?」的な終わり方になります。

  当然、モヤモヤした読後感が残り、「こんな読書には、意味がないのでは?」とすら思えて来ます。 善悪バランスに厳しい松本作品ですが、官僚の世界が題材になっている場合、勧善懲悪が行なわれて、すっきり、終わるような事はないようです。 それだけ、腐敗が進んでいるという事なんでしょう。

  断続的に視点人物を努める人物はいますが、事件に対しては、傍観者に徹しており、主人公とは言いかねます。 主人公を決めないのは、役所の腐敗全体を、リアルに描きたいからでしょう。 このままでは、映像作品にならないと思うので、たぶん、ドラマ化された時には、主人公を決め、善悪バランスを取ったんじゃないでしょうか。 見てないから、想像ですけど。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2020年の、

≪松本清張全集 43 告訴せず・十万分の一の偶然≫が、12月13日から、16日。
≪松本清張全集 44 雑草群落≫が、12月18日から、20日まで。
≪血蝙蝠≫が、12月11日から、12月23日まで。
≪松本清張全集 45 棲息分布・中央流沙≫が、12月26日から、2021年の1月2日まで。

  ≪血蝙蝠≫は、期間が長くなっていますが、これは、図書館から借りて来た本の合間に、読んでいたからです。 ようやく、今年、つまり、2021年に読んだ分に入ったか。 一回に4冊ずつでは、いつ、現在に追いつくか、気が遠くなる話ですが、まあ、鈍意、努力する事にします。

  それにしても、若い頃の読書と違って、読んでも読んでも、頭に残らず、読む端から、蒸発して消え去って行く、虚しさを感じずにはいられませんな。 でも、若い頃は、感想文なんて書いてなかったから、本の内容を思い出せるという点では、今の方が、ずっと良い状況にあります。

2021/08/01

新型肺炎あれこれ ⑬

  本来、新型肺炎について、日記ブログに書いた事を移植するシリーズですが、今回は珍しく、書き下ろしです。 シリーズに関係なく、このブログでは、書き下ろし自体が珍しいのですが、それはまあ、この際、措いておくとして・・・。




  「ワクチン関連のデマ」の一つに、「ワクチン接種を受けた者が、感染を広めている」というのがあるそうです。 その記事を読まなかったので、正確な内容は分からないのですが、もし、「ワクチン接種した後、『自分はもう、感染しない体になった』と思い込み、マスクもしない、三密も避けない、流行前と同じ生活に戻ってしまった」という意味でなら、それは、デマではなく、大いにありうる事。 というか、実際に起きている事だと思います。 ワクチン接種に反対する意見を、何でもかんでも、デマにしてしまえばいいってもんじゃないんだわ。

  そういう人は、多そうだな。 バーゲン・セール意識に強迫されて、「他人より早く! 一日でも早く!」と、ワクチンに飛びついた人達、全般的に思慮が浅い人達、医学知識に疎い人達は、ほとんど、そのタイプではないでしょうか。 ワクチンに闇雲な信頼をおいているから、「早く、早く!」という行動になったのであって、理に適っている。 無限大の信頼を置いているから、「打ちさえすれば、感染とは、金輪際、無縁になる」と決め込んでいるのも、理に適っている。

  しかし、それは、完全な間違いです。 ワクチンの効果について、正確な知識がないから、そんな、間違った思い込みをしでかすのです。 その思い込みは、医学でも、科学でもなく、宗教に近い。 いや、宗教意識そのものと言うべきでしょう。 ワクチンで、ほぼ、確実な効果が期待できるのは、ウィルスに感染しても、「死なない」という事だけ。 以下、「重症化しない」、「発症しない」と、順次、確実性が下がり、「感染しない」は、期待しない方がいい程度の効果しかありません。

  当然、無マスク・顎マスク・鼻出しマスクや、三密上等など、感染防御を怠れば、ワクチンを打っていても、非常に高い確率で、感染すると思った方がいいです。 ワクチンを打つ前から、感染していた、もしくは、打った後、感染したのに、「ワクチンを打っているから、大丈夫」と信じ込んでいる連中が、マスクも、三密回避もせずに、活動しまくれば、感染が広まるのは、理の当然です。 何が、デマなものか。

  昨今のイギリスの感染拡大を見れば、くどくどしい説明は不要でしょう。 感染対策の全面撤廃など、とても、正気とは思えぬ。 あの首相、目つきが異常なだけでなく、論理性も、科学的思考力のかけらも持ち合わせていないらしい。 新型肺炎による死者が少なければいいというものでもなく、感染者が増えれば、病床逼迫するのであって、関連死が増えるのは、火を見るよりも明らかです。

  だからよー。 イギリスを手本にするのは、よせって言うのよ。 あの国は、科学力も、経済力も、文化力も、あらゆる面で、一流でも、最先端でもない。 アメリカの最先端イメージが損なわれたせいで、他に手本がなくなって、先代最先端だったイギリスに縋りついているんでしょうが、そんなのまやかしです。 とっくの昔から、真似て、益があるような国じゃないんだわ。

  コロナ対策の滑稽愚劣な迷走ぶりを見ていて、それが、分からんかな? 「イギリスでは、こうやっている」というのは、何の説得力もないんだわ。 時代の変化に、頭の切り替えができないというのは、救いようがない。 憐れを通り越して、おぞましささえ覚える。 1980年代どころか、第二次世界大戦前で、頭が止まっている。 大英帝国なんて、もう、遥かな昔に消え去ったのに、幻を見ているとしか思えん。

  もっとも、日本も、方向性は異なるものの、コロナ対策が滅茶苦茶という点では、イギリスと同じくらい、滑稽愚劣ですが・・・。 お互いに笑い合うのも、虚しいくらい、どちらも、大失敗したのであり、大失敗を続けているのです。


  ワクチン接種を受けた人間で、「感染防御は続ける」という慎重な人と、「元の生活に戻す」という馬鹿と、どちらが多いか? 馬鹿の方が、多いと思うんですよね。 だって、「元の生活に戻れる」と思ったからこそ、ワクチンに飛びついたんでしょう? 打った後、戻さないわけがない。 平気な顔して、無マスクで、街や近所を闊歩し、知り合いを見つければ、ヤシヤシ近寄って行って、ベラベラ話しかけるわけだ。 相手が距離を取ろうとすると、「大丈夫、大丈夫、俺、ワクチン打ってるから」。

  馬鹿が・・・。 もーう、馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で、救いようがない。 いっそ、死んで欲しい。 こういう馬鹿に、「ワクチン打っても、感染する事はあるんだよ」と説明して、分かると思います? 「なに、言ってんだ! 世界中で打ってるんだぞ! そんないい加減なワクチンを打つもんか!」。 あーもー、熱が出てくる。 馬鹿に打つワクチンはない。

  こういう輩、ワクチン以前から、感染防御なんて、ろくにしてなかったと思うのですよ。 無マスク・顎マスク・鼻出しマスクは、当たり前。 三密なんぞ、屁とも思っていない。 そういう連中が、早々とワクチン打って、「感染防御をしない、言い訳」を手に入れたわけですな。 言い訳の為に、ワクチンを打ったわけだ。


  うーむ。 新型肺炎が流行してから、はっきり分かってしまった事があります。 それは、この世の中は、私が思っていた以上に、馬鹿な人間が多いという事です。 愚かと言った方が、語感が正しいでしょうか。 知能が低いとは言いせんが、考え方がおかしいというか、常識的な判断ができないというか、そんな人間が、6・7割はいるのではないかと。 ちなみに、流行前までは、そういう人間は、多くても、2割くらいだと思っていました。 世の中を、高く評価し過ぎていたわけだ。

  マスクだけ見ても、馬鹿の多い事よ。 最悪なのが、「飛沫感染」を理解できず、「マスクなんて、意味ない」と公言して憚らない、スペシャル馬鹿。 これは、さすがに少ないと思いますが、それでも、1割はいるのでは? ズボラの比率も、1割と見ていますが、それと、ほぼ、重なると思います。 無マスクや、顎マスクは、みな、この類い。 顎マスクの方が、人目を気にしている分、幾分、社会性が高いですが、ウィルスに対して、無防備なのは、どちらも同じです。 五十歩五十一歩というところでしょうか。

  地方局のテレビ番組に出ていた、ローカル・タレントが、感染して、回復して、テレビに出て来て、「みなさんも、手洗いとかして、気をつけてくださいね」などと言っていましたが、驚いたのは、その後で、「マスクは、ちょっと、ぼくは、仕事の関係で、できないんですけどね」と付け加えていた事です。 馬鹿か? マスクをしないから、感染したんだよ。 本物の馬鹿か? マスクをしないから感染したに決まっているではないか。 ほんとに、それが、理解できないのか? 信じられん。 しかし、こういう人間が存在する事は、否定のしようがない。

  次に、これは、どっと割合が増えると思いますが、「エアロゾル感染」を理解できず、鼻出しマスクや、鼻の横スカスカ・マスクで通している、ゼネラル馬鹿。 エアロゾル感染という言葉が悪かったか。 ズバリ、「空気感染する」と言ってしまえば良かったのです。 どうせ、一般人には、空気感染も、エアロゾル感染も、区別がつかないのですから。

  「エアロゾル感染」という言葉を聞いた事がないか、聞いた事があっても、意味を理解していないか、そのどちらかでなければ、鼻出しマスクや、鼻の横スカスカ・マスクで、他人の中に入って行けるわけがないです。 空気が通っていたら、感染してしまうではないですか。 いくら、馬鹿でも、知能が低いわけではないのだから、隙間が開いてりゃ、そこから、ウィルスを含んだ空気が出入りしてしまう事くらい、分かるはず。 なのに、隙間を開けて、平気でいるのは、「エアロゾル感染」の意味を理解していないからとしか思えません。

  ところで、「鼻の横スカスカ・マスク」ですが、多いのは、ウレタン立体マスクで、顔の形に、マスクの形が合っておらず、隙間が、ガバッと開いているケースを、いくらでも見る事ができます。 そこから、ウィルスを含んでいる可能性がある、エアロゾルを、顔の上の方へ向けて、ボーボー吹き上げているわけだ。 また、他人が吐いた、ウィルスが含まれている可能性があるエアロゾルを、ズーズー吸い込んでもいる、と。

  不織布マスクがいくらでも手に入るのだから、さっさと、変えればいいのに。 あんな、マスクの用を半分もしていない、ウレタン立体マスクに拘る理由が分からない。 やっぱり、馬鹿なんでしょうねえ。 ウレタン立体マスクをカッコいいと思ってるなら、残念でした。 馬鹿としか思われてないですよ。 どんな美人でも、ウレタン立体マスクをしていると、底なしの馬鹿に見える。 馬鹿か、馬鹿でないかが、外見で分かる時代になったわけだな。

  不織布マスクでも、鼻の横が開いているのがいる。 ノーズ・ワイヤーを曲げていないのです。 おそらく、何の為に、ワイヤーが入っているのか、知らない、分からない、考えた事もないのでしょう。 馬鹿だねえ。 いや、これは、知能が低いというべきか。 道具の正しい使い方が分からない人って、いますよね。

  家庭用の洋式便器で、立小便をして、横にそらせて、床や壁を汚しておきながら、掃除もせず、掃除をさせられる女房から、最大限に顔を歪めて、「死ねばいい」と憎まれている馬鹿亭主に通じるものがある。 大も小も、座って、やれよ。 便器の形を見て、そういう物だと分からんか? その道具をどう使っていいか、見ただけでは、理解できないんだわ。 原始人か?

  もっと恐ろしい想像としては、「このワイヤーは、マスクを浮かせて、鼻の横に隙間を作り、呼吸し易くする為の物だ」と思っているケース。 存外、結構、いそうだな。 馬っ鹿だねー! ビックリしちゃうねー! マスクの説明書を読めば、「鼻の形に合わせて曲げ、隙間をなくすように」と、全く逆の事が書いてあるんですが、世の中、説明書なんて読まないという人間も多いですからねえ。 こんな憐れな勘違いも、「エアロゾル感染」に関する知識がないのが、原因でしょう。

  流行の最初の頃、ワイド・ショーや報道番組を見ていた人なら、「エアロゾル感染」の何たるかが、分かるのですが、学生や勤め人で、その種の番組を全く見ていなかった人達が、その後、「エアロゾル感染」について、頭に入れる機会がなかったのは、無理からぬ事と言えば、言えます。 ネットで調べれば、出ていますが、そこまで調べる人は、決して、多くはありますまい。

  すでに、流行開始から、1年半経ち、一見、新型肺炎に関する知識は、世に広まり尽くしたかのようですが、いやいや、そんな事はないです。 大雑把な知識すらない人は、何割という規模で、存在すると考えた方がいいでしょう。 だって、知識を頭に入れる機会がないんだものね。 ワイド・ショーでも、今頃、「エアロゾル感染」の解説なんて、やってないものなあ。

  そういえば、まだ、そんなに前ではありませんが、西村担当相が、「お札に付いたウィルスは、12日間、生きているそうですよ」と、突然言って、「今頃になって、この人は、何を言い出すんだ?」と、世のコメンテーター達の、首を傾げさせた事がありました。 これは、推測ですが、西村担当相、その頃になるまで、接触感染について、よく知らなかったんじゃないでしょうかね。 ひょんな事で、「お札が、12日間」という知識を耳にして、「他の人にも教えてやろう」という軽い気持ちで、口にしたんじゃないでしょうか。 でなければ、あの時期に言う、理由が分からない。

  西村担当相に限らず、政治家で、感染防御について、割と正確な知識を持っているのは、少数派だと思いますねえ。 医師出身者でも、どれだけ、分かっている事やら。 ちなみに、医療関係者というのは、ほぼ全員、ズボラか、非潔癖でして、潔癖は、一人もいません。 そもそも、潔癖は、医療関係者になろうと考えません。 医療関係者になってから、潔癖になった人は、仕事をやめてしまいます。 潔癖には、日常的に、他人の体に触れるなんて事はできないのです。

  一方、ズボラと非潔癖は、見えない汚れを、汚れと認識する事ができないので、感染防御の質が落ちるのは避けようがなく、院内感染が起こっても、ちっとも不思議ではないです。 「医療関係者でさえ」ではなく、「医療関係者だから」、院内感染を起こすのです。 これは、常識の盲点でしょうな。

  この三者の区別について、もう少し書きましょうか。 潔癖は、外から家に帰れば、手が汚れていなくても、手を洗います。 非潔癖は、目で見て、汚れていなければ、洗いません。 ただし、汗や脂が付いていると感じれば、洗います。 ズボラは、汚れていても、洗いません。 というか、掌を確認する習慣そのものがないです。 一番多いのは、非潔癖で、分かり易い横棒グラフにすると、非潔癖が中央の8割、潔癖とズボラが、両端の1割ずつ。

  で、この三者の内、新型肺炎の感染防御ができるのは、潔癖だけなんだわ。 非潔癖+ズボラで、全体の9割は、できないんですわ。 絶望的な事に・・・。 一人一人の感染防御で、流行を押さえ込もうという方針が、いかに、現実離れしているかが分かろうというもの。 非潔癖は、武器も持たずに、手ぶらで戦場に来ているようなものです。 ズボラに至っては、手ぶらの上に、裸で戦場に来ているようなもの。 バタバタと撃ち殺されて行くのは、当然ですな。


  そういえば、「接触感染」について、誤解している人も多そうですな。 これも、名前が悪い。 正確に言えば、「接触、経口・経鼻・経眼、感染」ですな。 ウィルスに触った手指などで、口、鼻、目に触れる事で、呼吸器系にウィルスが入って、感染するのです。 感染者に、手で触ったからと言って、手から感染するわけではないですが、手で触れるほど近づいている場合、感染者の口や鼻から出た、飛沫やエアロゾルを吸い込んで、感染するから、そもそも、近づく事自体、避けた方が、無難です。

  しかし、こんな細かい事、非潔癖やズボラに説明しても、分かって貰えるとは、とーても思えません。 私の母は、非潔癖、つまり、普通の衛生感覚の人ですが、私が、いくら言っても、外から帰った後、汚れた手で回した蛇口ハンドルを、洗った手で締めて、それで良しにしてしまいます。 「汚れた手で、ハンドルに触ったのだから、ハンドルも汚れた」という理屈が分からないのです。 もう、疲れたので、何も言わなくなり、あとから、私が、ハンドルを洗い、タオルは、電子レンジで、殺菌(殺ウィルス)する事にしました。 非潔癖と一緒に暮らしている以上、完璧な感染防御は、期し難い。




  結構、長くなってしまったので、今回は、このくらいで終わりにします。