2011/07/31

温州事件

  中国の高速鉄道、甬温線の追突事故の話。 「甬」は、寧波の事。 「温」は、温州の事。 事故が発生した場所は温州で、大体の位置は、上海の南の方です。 温州はミカンの産地ですが、日本で作られている≪温州ミカン≫は、イメージをパクってつけた名前で、直接の関係は無いらしいです。


  この事故、問題点がいくつか重なっており、論理が分からない日本人としては、何が焦点になっているのか、非常に理解し難いです。 ここは一つ、一つ一つ切り分けて、分析して行ってみましょう。 ちなみに、この事故について、私は、中国、日本、アメリカのニュースを読んでいるので、日本では報道されていない内容も含まれています。


  まず、事故の原因になった故障ですが、架線設備に落雷し、先行列車が停止。 そこへ、後続列車が追突したという事になっています。 先行列車は、完全に停止していたわけではなく、低速で動いていたという話もありますが、はっきり分かりません。

  中国でも、一般路線の電化は、とうの昔から行なわれているので、落雷対策は取ってあると思うのですが、高速鉄道では、落雷による故障が頻発しているようで、なぜなのかは分かりません。 ただ、天候の問題で運行停止になるというのは、どこの国のどんな種類の鉄道でも、よくある事で、先行列車が停止した事自体は、それほど大きな問題ではありません。

  「後続列車の運転手が、ブレーキをかけなかった」という説があり、その根拠に、乗客が、「追突寸前に、速度表示を見たら、118キロで、減速している感じはしなかった」と証言していると言うのですが、高速鉄道は、普通、200キロ超で運転されているので、118キロでは、すでに半分くらいまで減速していた事になり、証言の信憑性が疑わしいです。

  「運転者が、停まっている先行列車に気付き、ブレーキをかければ、間に合ったはずだ」という見方も、何だか、素人っぽい。 200キロ超で進行している場合、肉眼で障害物を発見してから、ブレーキをかけても、まず、停まり切れません。 新幹線でも、開通当初、普通の列車と同じような感覚で、線路上でおっとり構えていた作業員が、あっという間に接近してきた列車にはねられそうになる事故が、よく起こったそうです。

  より、重大なのは、ATS(自動列車停止装置)が作動しなかったという事です。 これに関しては、原因不明。 ちなみに、ATSそのものは、電車が登場して間もない頃からあるもので、ハイテクでは全然ありません。 「どこの国の製品だから、信頼性がどうのこうの・・・」と、口角泡を飛ばして議論するような複雑高度なものではないですから、つまらん恥を掻きたくなかったら、あまり、つっこまない方がいいです。 ローマ字の略号だと、みんなハイテクだと思っている奴がいるから、恐ろしい。

  ベタ文系の人達のために、念の為付け加えておくと、どんな単純な機械でも、どんな高級品であっても、まっさらの新品であっても、故障が全く起こらないという事はありえません。 故障が少ない機械は作れますが、ゼロにするのは不可能なのです。 だから、機械を使用する時には、「故障したら、直す。 直せなかったら、交換する」というシステムで、保全を行ないます。

  この考え方は、全世界共通です。 「日本では、こんな故障などあり得ない」といった、無知丸出しの発言は慎むように。 ほんとに、そう思い込んでいる奴がいるから、恐ろしい・・・。 自分の身の回りを見ても、故障する日本製品など、いくらでも見つかるだろうに。 というか、日本製品の方が、使いもしない余計な機能が付いている分、よく故障する。

  話を戻します。 「信号設備に欠陥があり、赤になるべきところが、青になってしまった。 チェックする係が教育不足で、適切な対応を取れなかった」 これは、かなり後になって出て来た情報ですが、鉄道部は、事故発生の6時間後には、その事が分かっていたとのこと。 隠していたのか、調査中という認識で、公表が遅れたのかは不明。 ただ、設備に関してのみ言うなら、問題が起きてからでないと、どこが悪いか分からないという面があるのも、現実です。

  確かに、大事故、大惨事ではありますが、事故の本質そのものは、そんなに特殊なものではありません。 日本で2005年に起きた、≪福知山線脱線事故≫と比べると、天災がきっかけになっている分、鉄道運営者の責任は、幾分軽いくらいです。 ちなみに、福知山線脱線事故は、運転手も含めて、107人も死亡していますが、未だに、経営者責任の裁判中で、誰も処罰されていません。


  次に、救助の打ち切りが早過ぎたという問題。 遺族が激怒しているのは、専ら、この点でして、中国のネット世論でも、この事に対する批判の比重は大きいです。 生存者の捜索を打ち切った2時間後に、幼女が救助されたために、ますます、批判の波が高まりました。 この点に関しては、明らかに、優先順位を間違えたとしか言いようがありません。

  この一件、倫理上の重大問題を含んでおり、ことによったら、将来、参考事例として、思想・哲学史に残るかもしれません。 ≪ハーバード白熱教室≫のマイケル・サンデル教授なども、「むむ! 興味深い事が起こったぞ」と、注目しているのではないでしょうか。

「どうして、現場責任者は、救助を打ち切ってまで、運行再開を優先したのか? 誰か、意見は無いかな? 君の名前は?」

  これに比べると、ノルウェーの大量殺人事件などは、ただの政治狂人の暴走で、被害者の多さの割に、事件の質そのものはありふれています。

  間違いなく言えるのは、事故処理の指揮をしていた人物が、一秒でも早い運行の再開を、人命救助よりも優先していたという事ですな。 大急ぎで復旧させれば、称賛されると思っていたのか、はたまた、鉄道部の上層部から命令された事を、愚直に実行しただけなのか・・・。 前者だったら、あまりにも愚か。 後者だったら、命令を無視してでも、救助を優先した方が良かったでしょう。

  ただ、実際に救助に当たっていたのは、鉄道部の人間ではなく、地元の消防や警察だったわけで、彼らが自分から、救助打ち切りを早めたとは思えません。 彼らにしてみれば、運行再開など、どうでもいいのであって、生存者を残したまま救助活動を打ち切って、後で批難される方が、よほど恐ろしいからです。

  もし、救助打ち切り後に、死亡した乗客がいたとしたら、これは、打ち切りを指示した人間による、≪過失致死≫、もしくは、≪未必の故意による殺人≫という事になります。 中国では、「天災か、人災か」という問いが、繰り返されていますが、この点に限って言えば、天災でも人災でもなく、≪犯罪≫なわけですな。 事故と事件が絡み合っているのです。

  組織で物事に対応していると、責任の所在が暈されてしまう傾向があるのは、全世界共通でして、日本社会などは、その典型例のようなものですが、指示には、必ず、言いだしっぺと、それに賛成した人間が存在するものです。 「何となく、雰囲気となりゆきで、そう決まった」などという事はありえません。 特に、こういう重大な事件では。 探せば必ず、打ち切りを指示した人間が出て来ると思うので、相応の処罰をすべきでしょう。


  さて、この事故・事件で、最も世界を驚かした問題に移りましょう。 事故現場に穴を掘って、先頭車両を埋めてしまった一件です。 これには、仰天ですな。 日本のマスコミは、「日本では考えられない」を連発していましたが、こんな事は中国でも考えられないのであって、ネット世論で、最も批判が激しかったのも、この点でした。 誰が見ても異常な事を、思いついて、指示し、実際にやらせてしまった人間がいるわけです。

  鉄道部の報道官が、現地に到着した時、現場の責任者に、「どうして、そんな馬鹿な事をしたのか」と訊いたところ、「現場の地盤が悪く、救助作業が難航していたので、足場を固めるために、埋めた」と答え、その高官は、報道陣に向かって、「信じるか信じないかは、あなた達次第だが、私は信じる」と言っていました。 いやはや、顔色真っ青ですな。 言い訳も言い訳ですが、信じる方も信じる方です。

  足場を固めるために何かを埋めるのはいいとして、当の事故車両を埋めるなんて法があるわけがありません。 本当に足場を固める作業が必要ならば、他から資材を持って来るべきでしょう。 重機が入っているのに、資材を運び込めないなどいう事も、非常に考え難いです。

  埋めろと指示をした人間が、何を目的にしていたのか、それが分からないのが不気味です。 先の報道官が、「事故を隠蔽するつもりなのか。 世界中が注目しているのに、隠蔽できると思っているのか」と訊いたら、「隠蔽するつもりはない。 隠蔽など、できるわけがない」と言って、地盤を固めるため云々の説明をしたらしいのですが、事故のそのものを隠蔽するつもりがなくても、事故原因を隠蔽するつもりはあったのかもしれません。 運転席を壊してから埋めたと言いますから、ますます、その疑いが濃厚です。

  報道陣がカメラを持ち込んで、撮影しているのは分かっていたはずで、その目の前で、運転席を壊して埋めて、「地盤を固めるため」という言い訳で通ると考える、その神経が分かりません。 常識的感覚が感じられないのですが、現場責任者は、元学校教師か何かなんでしょうか?

  「運行再開を急いでいた」というのとは、また別問題なのであって、埋めるのには、それなりの手間が掛かりますから、迅速な処理には、逆行する事になります。 ≪事故原因の隠蔽≫というのが、動機として、一番理解し易い線なのですが、隠蔽するからには、事故原因を隠蔽するだけでなく、隠蔽した事を外部に知られない事も重要なわけで、その点、この隠蔽工作は、隠蔽になっていません。

  ハイテクを盗まれる危険を考慮して、運転席を壊した上で埋めたという可能性も、僅かながらありますが、もしそうなら、埋められた車両は、日本で開発したものらしいですから、日本人は、この責任者に感謝しなければなりませんな。 しかし、そうであっても、埋めるより、シートで周囲を覆って、立ち入り禁止にする方が、ずっと簡単です。

  鉄道部の上からの命令だったという可能性は低いです。 事故車両を埋めても、何の得もありませんから。 もし、上層部が事故原因の隠蔽を考えたとするなら、それこそ、最優先で、現場から運び出すと思います。 ただ、現場に対して、事故車両の保存を指示していなかったのは確実で、その点で責められるのは、致し方ないでしょう。

  「現場責任者が、大事故の後には調査が入るという事を知らず、ただ単に、邪魔だったから埋めてしまった」という見方もあるようですが、それなら、運転席を壊す必要は無いですし、先頭車両だけ埋めるというのも変です。 そーんなアホはいませんぜ。 そんなアホがいると思っている、本物のアホを除けばね。

  残る可能性は、この責任者が、自分が何をやっているのか分からないほど、混乱していたという線です。 あまりにも常軌を逸した行為なので、この解釈が一番、しっくり来ます。 事故原因を隠蔽するつもりがあったかどうかは別として。

  で、ネットで猛烈な批判を受けて、一日後には掘り出したわけですが、自発的でないとはいえ、埋めたままよりは、ずっと良かったです。 もし、埋めたままだったら、それこそ、サンデル教授の講義のネタになってしまいます。

「どうして、彼らは埋めた方が良いと思ったのか? また、批判されていたのに、埋めたままにしたのか? 誰か意見はないかな? ロールズは言っている・・・・」

  いずれにせよ、この現場責任者の処罰は免れないでしょうなあ。 事故そのものよりも、救助打ち切りが早過ぎた事や、車両を埋めた事の方が、遥かに重大な問題になってしまい、国内に対しては、政府への不信を発生させ、国外に対しては、国の威信を傷つけてしまったのですから、懲役刑になってもおかしくないんじゃないでしょうか。 損害の大きさを考えると、ミスや心得違いでは済まされませんぜ。


  さて、事故と事件の分析は、このくらいでいいとして、やはり、触れておかなければならないのは、日本のマスコミの態度です。 いつもの事ながら、よくもまあ、これだけ、下司な報道ができるものですな。

  ある新聞のコラムで、「この事故が起きた時、『やっぱり』と思った」と書いている記者がいたのには、呆れました。 なんだよ、「やっぱり」って? たとえば、日本やカナダの鉄道車両メーカーの社員で、中国メーカーへの技術移転に関わり、高速鉄道整備の事情を良く知っていて、「建設のスピードが速すぎて、事故が起こらないか心配していた」という人が、「やっぱり・・・」と言うなら、まだ分かるとして、この記者、ただの門外漢ですぜ。 しかも、ベタ文系。 一体、新聞記者に、鉄道技術の何が分かるのよ?

  ちなみに、ノルウェーの大量殺人の方に関しては、「『まさか』と思った」のだそうです。 偏見丸出しですな。 よく、こんな記者、飼ってるな。 当人に問いただせば、「心配していたから、『やっぱり』と思ったんだ」と言うでしょうが、マスコミの人間が、そういう発想で、事故や事件を見ていないのは、昭和元禄の頃から周知の事実です。 飛行中の旅客機がトラブったと聞いて、押っ取り刀で空港へ駆けつける報道陣を見て、「ああ、心配してるんだなあ」と思う人間が一人でもいますかね? 百人中百人が、「着陸に失敗して爆発炎上する映像を撮りたいんだろう」と思うでしょう。

  テレビのニュース番組の、キャスターやコメンテーターが、また凄い。 ニヤニヤ、笑ってるんですよ。 40人近く死んだ大惨事なのに、中国国内で騒動が起こっているのが嬉しいんでしょうな。 「いかにも、中国らしいと言いますか・・・」などと言って、口元といい目尻といい、顔の要所要所がニヤけてやがるのです。 どういう人間性だよ? 下司を通り越して、悪魔か妖怪か? もし、自分の身内が死んだ事故で、外国のニュース番組の出演者が、「いかにも、日本らしいと言いますか・・・」と、ニヤニヤしてたら、あんたら、どう思うね? そんな想像力も無いか?

  ≪福知山線脱線事故≫の時、中国のニュースでも、大きく報道されましたが、事実を伝えただけで、日本の鉄道システムを馬鹿にするような記事はありませんでした。 それが、最低限のマスコミの品位というものでしょう。 日本のマスコミの倫理観は、最低ラインを大きく割り込んでしまっているんですな。 新聞の週刊誌化や、ニュース番組のワイドショー化が、極限にまで達した観あり。 いや、週刊誌やワイドショーなら、何を言ってもいいとは言いませんが。

  ちなみに、アメリカのニュースでは、日本のマスコミがやっているような、侮蔑を目的とした記事は、全く見受けられません。 そもそも、「よくある、列車事故」という見方をしているので、トピックスにも出て来ないほど、扱いが小さいです。 ノルウェーの事件の方が、遥かに大きい。

  一般人も一般人。 あっちこっちであれこれ言っているようですが、ただ単に、「事故処理の仕方が、自分の国とは違う」というだけの理由で、違和感を抱いているのなら、これ以上、下司の勘繰りを逞しくする必要はありません。 外国で起こった事故であり、旅行に行く予定も無いような人達には、全く無縁の事ですから。

  それに・・・、ひどい事故ではありますが、福島第一に比べたら、片付け可能なだけ、数桁マシです。 日本人は、外国の事故対策を批判する資格を剥奪されている最中だという事を、お忘れなく。


  そうそう、事故とは直接関係ありませんが、日本の新幹線について、誤解している人がたくさんいるようなので、付け加えておきます。 日本の新幹線技術は、基本的には、ハイテクでも何でもありません。 それどころか、むしろ、ローテクで作られています。 50年近い昔に開発されたから、という意味ではなく、その50年前ですら、すでに確立していた技術のみを寄せ集めて、作ったからです。

  安全性を優先した、というより、建設資金が無くて、世界銀行から借りなければならなかったのですが、融資のお願いをする際、高速鉄道であるために、安全性が確保できるかどうかが重要な条件になると見て、「新幹線は、すべて、既存の技術で作ったものであり、新たに開発した技術は使っていません。 だから、安全に運行できます」という口説き文句で、説得したのです。

  新幹線のハイテクというと、あの、どう見ても不恰好なカモノハシ・ノーズや、集電装置の防音デザインなどが挙げられますが、そういうのは、割と最近出て来たもので、別に、それが無くても、200キロ超運転は可能です。 機械は、ローテクならばローテクなほど、故障は少ないのであって、新幹線の信頼性は、ローテクによって支えられていると言っても過言ではないです。

  こういう事は、新幹線に関する本を読めば、書いてあるので、「日本のハイテク」を力説する前に、読んでみた方がいいでしょう。 もっとも、科学技術に関する興味やセンスが無いと、そういう本は退屈なだけなので、ベタ文系の人には、とっつけないかもしれませんが。 ちなみに、こういう人達の、≪ハイテク日本・信仰≫は、つける薬が無いほど重症で、根拠も論理も、分篤い信仰心で吹き飛ばしてしまうのですが、その正体は、≪原発安全神話≫と同類で、およそ、信ずるに値しないものです。

2011/07/24

地デジ前夜災

  いよいよ、恐怖と迷惑の塊、地デジ化が迫って来ました。 いや、これを書いているのは、7月22日の金曜日なので、更新する時には、もう、地デジ化当日になっているわけですが。

  うちの場合、ケーブル・テレビを入れているので、デジアナ変換で、まだ3、4年は、そのまま見られる事が分かっており、余裕ぶっこいておったのですが、先週になって届いたケーブル会社からの通知を読んでビックリ。 どうも、デジアナ変換だと、見られるチャンネルが、今までの半分くらいになってしまうようなのです。 おいおい、そういう重大な話は、もっと早く伝えてくれなきゃ・・・。

  特に、深夜アニメをよく見る私としては、東京キー局の5つのチャンネルが見られなくなるのは痛いです。 デジアナ変換では見られず、地デジ対応機があれば、当座は見られるものの、移行期間の措置なので、3年後には、完全に見られなくなるとの事。 つまり、3年経つと、地方で東京キー局を見る方法は無くなるわけですな。

  今まで、ケーブル会社と、キー局が話し合いをして来たらしいのですが、結局、決裂した模様。 大丈夫なんですかね、ケーブル会社は? 極端な言い方をさせていただくと、キー局を見たいがために、ケーブルを入れているのであって、逆に言えば、キー局が見れないのなら、ケーブルを入れる意味が無いという気が濃厚にするのですが、契約解消者が続出するという危機感は無いんでしょうか。

  キー局もキー局で、どうして、有料配信すら拒むのか、皆目解せません。 損をするわけではないのですから、視聴者は多いほどいいと思うのですが。 「地方局でも、同じ番組を放送しているから」とか何とか言っているそうですが、なに、いい加減なこと言ってんですか! 同じじゃないですよ! 同じだったら、最初から、ケーブルなんて入れませんよ。 深夜アニメなんか、地方局では、ほとんどやってませんぜ。

  という事で、私個人の問題としては、キー局を3年間見るために、地デジ対応機を買うか買わぬかで、悩む事になります。 自室で見る事に拘らないのなら、居間のテレビに、地デジ対応のセット・トップ・ボックスが付いているので、そこで見れるには見れるんですが、録画などは、かなり面倒になります。 チューナーだけなら、3千円台から売っているので、買ってしまうべきか・・・。


  と、↑ここまで書いて、ちょっと一服しようかと、居間へ下りたら、えらい事が起きてしまいました。 居間のテレビで使っていたビデオ・デッキが、壊れたのです。 壊したのは、私。 いや、ただ、再生ボタンを押しただけなのですが、いきなり、映像がビラビラになり、テープも取り出せなくなってしまったのです。 1時間ばかり掛けて、電源を繋ぎ直したり、カバーを外したり、さんざん弄り回しましたが、復帰の望み無く、泣く泣く、廃棄を決めました。 地デジ化寸前になって、なんたる事でしょう。

  専ら、母が使っていたビデオなので、そのままにはしておけず、すぐに、代わりの録画機を買いに行きました。 修理など、最初から、考慮の外。 このビデオは、近所の電気屋で買ったものですが、とっくに保証期間は切れていますから、新品を買うより、修理代の方が高くなってしまう恐れなきにしもあらず。 それより何より、今時、ビデオ・デッキを修理に出すというのは、何とも、時代錯誤の感が否めなかったのです。 リサイクル・ショップに行けば、ガラクタ同然に山積みされているのですから。

  で、大急ぎで家電量販店に行き、代わりに買って来たのは、昨年の9月、岩手へ行く寸前に、父に頼まれて買った、ブルーレイ・レコーダー、≪シャープ アクオス≫の後継機です。 Wチューナー、320GB、アナログ・チューナー付。 スペックは、父のとほぼ同じですが、まだ一年も経っていないのに、すでに2回、モデル・チェンジしていました。

  特に変わっていたのは、D端子とS端子が無くなっていた事。 HDMI端子と、最も原始的な、映像・音声端子だけついています。 店員に質問すると、「最近のテレビはみんな、HDMI端子が付いているから」との返答。 うちの居間のテレビは、ブラウン管・アナログなので、そんな物は付いていないのですが、まあ、映像・音声端子があれば、接続はできるわけだから、問題ありません。 母も私も、ハイビジョン画質なんて、全く拘りがありませんから。

  もう一つ、変わっていたのは、リモコンの、≪アナログ≫ボタンが、表面ではなく、開閉蓋の中に移っていた事です。 地デジ化すれば使わなくなるから、優先度を落としたんでしょうが、うちのように、ケーブルで、デジアナ変換される場合、まだアナログを見る事があるわけでして、ちと、余計な事をしてくれたという感じです。

  値札の価格は、57000円くらいでしたが、ポイントをその場割引にしてもらったり、持っていたポイントを使ったりした結果、50600円くらいになりました。 その内、私が1万円出しました。 壊した詫びというわけではなく、 岩手応援で、浮かしたお金を、家族に還元したもの。 2月に、父の部屋に液晶テレビを買った時、1万円出していたので、バランスを取るために、母にも1万出したというわけ。

  昼過ぎから買いに行って、夕飯前までに設置。 忙しいったらありゃしない。 配線は簡単ですが、アナログのチャンネル設定を、個別にやらなければならないのが厄介。 あと二日で見れなくなるチャンネルまで設定していると、何だか、虚しくなります。 つくづく、壊れるタイミングが悪いのう。

  夕食後から、母に使い方の説明。 父の時と同じで、説明している私にしてからが、説明書を読みながら喋っているのですから、怪しいものですが・・・。 最も基本的な事だけ伝えて、一応、録画はできるようになりました。 思うのですが、デジタル録画機のいいところは、再生が容易な点だけですな。 番組表予約は、文字が小さ過ぎるし、日時予約にGコードが使えないのは、実に不便。

  そういえば、Gコードが世に出て来た時には、「世紀の大発明!」とか言われて、発明者が、アメリカ大統領に賞賛されたりしていましたが、デジタル番組表の時代になって、完全に過去の遺物と化した感があります。 まだ、新聞にコードが載っているのが不思議なくらい。

  もっとも、デジタル番組表の字が小さ過ぎるのは、重大な問題点なので、「Gコードの方が良かった」という人も多くいる事でしょう。 32型なら、何とか見れますが、26型以下だと、もう、くちゃくちゃ。 番組表だけでなく、操作用の文字も小さい。 字が潰れてしまって、≪表録画≫と、≪裏録画≫の区別がつかないから困ります。 これを年寄りに使えというのは、無理難題を通り越して、拷問に近いですな。

  説明書は三冊もあり、合わせると、350ページくらいありますが、たかが録画機を使うのに、そんなに説明が要るというのが、もう、不条理以外の何ものでもありません。 使わない機能が多過ぎるんですよ。 これも、ガラパゴス化の一端か。 「老人家庭の地デジ難民化」を心配するのなら、まず、この非常識な多機能を改善すべきですな。

  ちょっと脱線しますが、薄型テレビも、安くなりましたねえ。 2月に買った父のテレビは、LED液晶の32型で、5万円でした。 メーカーが悲鳴を上げるほど、急激に値崩れしているのだとか。 恐らく、地デジ化後は、もっと安くなるでしょう。 それを思うと、10年前に、プラズマ・テレビを、150万円くらい出して買っていた人達は、目が点&額に縦線でしょうなあ。 だから、言ったじゃん。 待てば待つほど、安くなるって。


  さて、これで、降って湧いた災難は処置できたわけですが、私の部屋の問題はまだ残っています。 とりあえず、24日を待ち、デジアナ変換で見られるチャンネルを確認して、あまり少ないようなら、地デジ対応機の購入を検討せざるを得ますまい。 3年間限定とはいえ、キー局が見れるのと見れないのとでは、大違いですけんのう。

  ただ、部屋の中に電気製品を、これ以上増やしたくないという意向も強いのが、悩ましいところです。 今回のビデオ・デッキも正にそれですが、機械というのは、問題なく動いている間はいいのですが、いざ壊れると、精神的ショックが非常に大きい。 ≪ペット・ロス≫ならぬ、≪マシン・ロス≫という病気も成立するのではありますまいか。 なるべくなら、そういう思いはしたくないのです。

  キー局で見たいのが、深夜アニメだけなら、居間の録画機で録って、母がいない時に見るという事もできますから、そのパターンで、しばらく様子を見るという手もあります。 保存したい番組があったら、DVDに写せば、プレーヤーなら自分の部屋にあるので、いつでも見られます。 これも、一つの対策か。

  いずれにせよ、地デジ化した後でなければ、はっきりした方向性は決められませんな。

2011/07/17

シート・ポスト延長計画

昨年の夏から、今年の4月まで、岩手応援の3ヶ月を除いて、≪自転車買いたい病≫に罹っていた事は、以前書きましたが、今では、完全に治っています。 もはや、目の前をピカピカのロード・バイクが走り抜けても、何の感興も湧きません。 絶対零度まで冷め切っていると言っても過言ではない。

  どうして、治ったかというと、前から持っていた、折り畳み自転車の、シート・ポストを長くする事に成功したからです。 とりあえず、自分専用で乗り回せる自転車が手に入ったため、新しいのを買いましょうという気が失せたのです。 で、今回は、そのシート・ポスト延長計画の時の記録を紹介しようというわけです。

  ちなみに、3月11日以降、5月の連休が終わるまで、私の勤め先は、一ヵ月半に渡って、ほとんど休みでした。 その閑に飽かして、改造計画を実行したのです。 でなきゃあ、そんな面倒臭い事、ズボラな私が、わざわざやるもんですかね。

  話を始める前に、↓これが、改造前の折自。




≪3月13日≫
  午後から、折自で、清水町のホームセンターへ。 資材コーナーに、25.4ミリの鋼材パイプが売っていましたが、細い部分が無いので、折自にはつけようがありません。 パイプの内側に入れるタイプの継ぎ手も売っていたものの、試しに二本連結してみたところ、多少ながらグラグラします。 これでは、乗っている内に、もっとひどくなるでしょう。 使えんなあ。 何も買わずに帰りました。

  帰り道、どうしても、体重でサドルが下がります。 これは、長いポストをつけても、直らないかもしれません。 やはり、折自をスポーツ車として乗り続けるのは無理ですか。 今日乗ったのは、せいぜい1時間半ほどですが、乗車姿勢に無理があるせいか、疲れ方が父自とはだいぶ違います。 フラット・バーの乗車姿勢そのものがそういうものなんでしょうか。

  やはり、売るしかないのでしょうか。 リサイクル・ショップへ持って行っても、千円にもならんと思いますが。 さりとて、持っていても、乗らないのでは、意味が無いです。


≪4月2日≫
  ≪レイチェル OF-20R≫は、折り畳み自転車ですが、スポ自ではなく、一般車のパーツで作られています。 シートポストの径も、軽快車やシティー・サイクルと同じく、25.4ミリ。

  ちなみに、この「25.4ミリ」という数字は、ちょうど、1インチです。 自転車関係のサイズ数値には、「なんで、こんなに半端なんだ?」と、首を傾げたくなるものが多いですが、そういうのは大抵、元がインチだったのを、ミリに直したもののようです。 そういえば、タイヤの幅に、「1と8分の3インチ」などというのがありますが、せめて、小数にしてくれればいいものを、なんだって、分数なんかで決めやがるかな。 まったく、英米人の考えている事は分からん。

  それはさておき、シートポストですが、25.4ミリの一般車用は、最長で300ミリしかありません。 26インチ軽快車である父自ですら、300ミリでは短いくらいなので、シート・チューブが更に短い折自では、全然足りないという事になります。 なんで、300ミリより上が無いのか、非常に不思議。 平均的な体格の成人男性が、26インチの軽快車でサドル・ポジションを出そうと思ったら、350ミリ以上は、確実に必要だと思うのですが。

  で、一般車用がないのなら、スポ自用が使えないかと調べてみると、あるにはあるのです。 特に、マウンテンバイク向けに長い物が用意されていて、径も、25.4ミリから揃っています。 スポ自用は、ヤグラがポストと一体になっていて、明らかに形状が違うのですが、レール幅は44ミリと同じらしく、つかない事もない様子。 最悪、サドルごとスポ自用に変えてしまえば、確実につくでしょう。

  本当は、400ミリが欲しいんですが、2000円以下で探すと、色が黒の製品しかありません。 私の折自はシルバーなので、シートポストだけ黒というのは、いかがなものか。 どうせ、人が乗ってしまえば、ほとんど見えなくなりますが、自転車というのは、人が乗っている時よりも、単独で置いてある時の方がカッコよく見えるものですから、そういう事も気になるところ。 さりとて、塗り替えや、塗料の剥離などを考えるとなると、費用がどんどん嵩んで行きます。

  350ミリなら、1600円で、シルバー(メッキ)があります。 私が私の折自で、サドル・ポジションを出す上で、確実に必要なのは、370ミリなので、20ミリ足りません。 しかし、これは、一般車用のシートポストで測った場合の数値であって、スポ自用ポストは、ヤグラが一体である分、有効に使える部分が長い可能性が高いです。 一般車用では、ヤグラの中にパイプを入れる形になるので、パイプ上端がレール部分より上へ突き抜けて行くのですが、スポ自用なら、レール部分までの高さが、全長になっていると思うのです。 たぶん。

  うーむ、遊びで改良するには、不確定要素が多過ぎますかねえ。 通販で買うと、送料と代引き手数料で、千円以上高くなってしまうので、店で取り寄せてもらおうと思っているのですが、その折衝も、何となく面倒くさいです。 まあ、その気になったら、行ってみる事にしましょう。


≪4月4日≫
  父自で、沼津のカインズホームへ。 折自のシートポストに使えないかと、前から念頭にあった、資材用パイプですが、今日、見てみると、棚ビラに、「メッキ・パイプ」と書いてありました。 一応、メッキはしてあるわけだ。 ジョイントの径を測ったら、何と、22ミリ! これなら、一般車用のヤグラに挿す事ができます。 1メートルのパイプとジョイント、合計で500円くらい。 試してみて、駄目でも、大損にはなりませんな。


≪4月5日≫
  半日出勤の帰りに、長泉町のカインズに寄りました。 しかし、ここには、資材用パイプのコーナーそのものがありませんでした。

  続いて、清水町のホームアシストへ。 ここは、25.4ミリの資材用パイプを初めて発見した店です。 ここのもメッキでしたが、表面処理が違っていて、水道管風になっていました。 やはり、沼津のカインズへ行くしかないか。

  1時半頃、帰宅。 30分くらい寝て、3時から、車を借りて沼津カインズへ。 パイプは、やはり、こちらの方が、普通のメッキっぽいです。

  ところが、ここでビックリ! 25.4ミリ用のジョイントが、誰かに買い占められたらしく、一本も無いではないですか! 一瞬、マーフィーの法則に嵌ったかと思いましたが、隣の30ミリの所に、一本だけ25.4が混じっているのを見つけ、ほっとしました。 やれやれ。

  ところが、それをパイプに挿してみると、何と入って行きません。 他のパイプに入れると、今度はスカスカ。 どうも、パイプかジョイントのどちらかに、径のバラつきがあるようです。 とにかく、それらを買って帰りました。 合計、526円。

  家に着いたのは、4時半。 試しに父自のシート・チューブに挿してみたら、何と、入りません! またまた、真っ青になりましたが、折自の方で試してみると、何とか捻じ込めました。 きつい方が、ズレ落ちなくて、好都合と言えば好都合なんですが。


≪4月6日≫
  朝から活動。 折自用の長いシートポストを、資材用パイプで作ります。

  物置にあった鉄鋸で、パイプを切りました。 長さは、折自を出して来て再計測した結果、400ミリにしました。 多少短くても、ジョイントの分が長くなるので、足りなくなる事はないはずです。

  切るのは、割と簡単に切れました。 切り口を鉄鑢で削って、滑らかに。 ジョイントを入れてみると、片側ではぐらつきますが、もう片側では、ほとんどぐらつきません。 これなら、隙間に楔を打たなくてもいいかも知れません。

  折自のサドルからシートポストを抜き、ヤグラにジョイントを入れてみます。 切らなくても、頭は接触しないように見えましたが、バネの部分が邪魔をして、ヤグラに入って行きません。 やむなく、ジョイントの方も切る事に決定。 こちらも簡単に切れました。

  折自に挿すと、さすがに、400ミリは長い。 同じ自転車とは思えない印象。 ジョイントとパイプが、ただ挿しただけなので、左右に回ってしまいますが、サドルを持って、自転車ごと上に持ち上げても、抜けはしません。 よしよし。



  テスト走行に近所をぐるっと回って来ました。 サドルの回転は、漕ぐ上で問題にはならないようです。 できれば固定したいのですが、ボンドくらいしか方法がありません。 しかし、ボンドではすぐに捻れてしまいそうです。

  乗り心地は、悪くないです。 やはり、サドル・ポジションが出ると、脚の力の使い方が違います。 ハンドルを目一杯下げてあるので、そこそこの前傾姿勢。 長時間乗れば、腕が相当痛くなると思われます。 とにかく、これで、一応乗れるようになりました。 善き哉善き哉。


  午後から、伊豆の国市の方へ、試し乗りのサイクリングに行きました。 神社やお寺など、観光地でない普通のところであっても、予め調べていけば、ただその場所に辿り着くだけで、結構、達成感が得られるものですな。

  ただし、試し乗りの方はさんざんで、はっきり言って、疲れました。 正味3時間ですが、こんなに疲れるものでしょうか。 クランク軸からサドル上面までの長さは、父自と同じなのに、なぜか、折自では、足が地面につきません。 つまり、クランク軸の地上高が違うのでしょう。 26インチの父自より、20インチの折自の方が高いというのは、意外千万。

  足がつかないので、停まる時はサドルから下りる事になるのですが、これが、なかなか面倒臭い。 下りるのと同じくらい、乗るのも面倒臭い。 荷物が無ければ、そんなでもないのでしょうが、カメラバッグを下げていると、乗り降りするたびに、それが前に回って来て、邪魔で仕方ないです。 ズレどめを工夫せねばなりますまい。

  あと、去年の夏には無かった事ですが、長時間、高いサドルに座って漕いでいると、トランクスが擦れて、股が痛くなって来ます。 かなり、不快。

  サドルが左右に回ってしまうのも、頼りないです。 ジョイントの突起は全周についているわけではなく、四箇所に出ているだけなので、パイプの上端に凹凸をつければ、回り止めにできるかも知れません。 ちと加工に手間が掛かりますが。

  それと、今日気付いたんですが、シートポスト・クランプが、変形していました。 道理で、ナットからボルトの先端が飛び出しているわけだ。 これは、ペンチで押さえれば、元に戻せるかもしれません。 明日は出勤なので、明後日以降に、トライしてみる事にします。

  今日は、サドルバックを付けて行ったのですが、無い方が、すっきりするかも。 今のところ、どうしても、バックに入れなければならないという物は無いのです。 ロック代わりにしている南京錠は、胸ポケットにも入れられるので。


≪4月8日≫
  今日は、折自のサドルが回転しないように加工します。

  改めて見てみると、ジョイントの突起は、四箇所ではなく、三箇所でした。 加工箇所が少ないのは好都合。 サインペンで印をつけ、最初、鉄鋸で切れ込みを入れようとしましたが、喰い付いて行かないので、断念。 自室に新聞紙を広げ、金属鑢で、チマチマと削り始めました。 途中、犬の邪魔が入り、新聞紙の上へ上がってきやがったので、作業を中断し、先に散歩に行きました。

  帰って来て、再開。 正味1時間くらいで、加工完了。 ジョイントの突起は、パイプの凹みに、一発でピタリと嵌りました。



  ついでに、変形していたシートポスト・クランプを、金槌とプライヤーで元に戻しました。 打撃のショックで塗装が剥げてしまいましたが、多少の損傷は已むを得ません。 気が向いたら、シルバーの塗料を買って来て直しましょうか。 気が向かない可能性は高いですが。



  サドル・バッグを取り付けてみましたが、やはり、前側が貧相に見えます。 せっかくの長いシートポストの、すらっと伸びた美しさが損なわれてしまうので、バッグはやめる事にしました。

  これで、一応の完成。 ここまでやったのだから、多少乗り難い点は、諦めるしかありません。

  この二枚の写真、あまり綺麗なものではありませんが、買ってから4年も屋外保管していると、こんなものです。 サドルのヤグラ付近で黄色っぽくなっているのは、錆ではなく、CRCがこびりついたもの。 磨けば取れるのですが、面倒臭くて、やる気になりません。


≪4月11日≫
  今日は仕上げに、自転車の転倒防止策を講じます。

  ここが、私が使用権を確保している自転車置き場、≪台所外≫。 今までは、サイド・スタンドを掛けただけで、そのまま置いていましたが、台風が来ると転倒して、見るも無残な有様になっていました。 で、今回作ったのが、この、≪転倒防止支柱≫です。 部屋にあった廃材を組み合わせ、コンクリート・ブロックの重石を載せただけですが、まあ、何も無いよりはいいでしょう。



  ≪転倒防止支柱≫の上端からビニール紐で結んだS字フックを、サドル裏側のレールに引っ掛けます。 これで、左側に倒れる事は無いはず。 ただし、支柱が風の強さに耐えられればの話です。 未だ曾て、右側に倒れた事は無いので、そちらの対策は考えていません。 なぜ、壁から直接紐を伸ばさないのかと言うと、この上にカバーを掛けるからです。 屋外保管の場合、錆だらけにしたくなかったら、カバーは必需品。





  以上、折自シート・ポスト延長計画の全貌でした。 今でも、この状態で乗っています。 サドルが回転しなくなったせいか、乗り心地は、かなり良くなりました。 一度、狩野川の堤防を、修善寺まで往復しましたが、40キロも走ったのに、尻が痛くならなかったのには、驚きました。 サドル・ポジションというのは、やはり、大事なんですねえ。




  ところで、かくのごとく、売り飛ばす寸前のところを、辛くも復活させた折自ですが、私が気付かぬ内に、世間に訪れていた、≪小径車ブーム≫によって、予期していなかった優越感を、私に齎す事になりました。 妙に注目を浴びるのですよ。 特に、向こうも小径車に乗っていると、チラ見が凄い。 ジロ見される場合もしばしば。

  そればかりか、シート・ポストを高くしていると、スポ自っぽく見えるせいか、普通の小径車に乗っている人達からは、妙にねばっこい視線を向けられる始末。 何だか、こそばゆいこってす。 当の私は、別に、小径車が好きで乗っているわけではないのですが。

2011/07/10

千々に乱れる

  いやはや、国際的な見ものになるくらい、甚だしく混乱しておりますな、日本の政治は。 ≪小田原評定≫の時も、北条家の中は、こんな感じだったんでしょうかねえ。

  事態の変化が急激で、ころころと情況が変わるので、ブログで政治論評を書いている人達は、せっかく書いた文章を没にせざるを得なくなったりして、さぞかし、怒髪天を衝いている事でしょう。 だけど、そんな個人的な怒りは、この際どうでも宜しい。


  前復興相の暴言、及び、異常行動に関しては、現実世界でも、ネットでも、マスコミでも、ほぼ全員の意見が一致しているようなので、くどさを避けるために、あまり細かく書きませんが、「呆れる外は無い」というのが、率直な感想です。

  これは、皮肉ではなく、真面目な提案ですが、あの人、精神科へ行って診て貰った方がいいと思います。 普通の感覚では、ああいう態度や言動は出ませんよ。 「菅政権への自爆テロだ」などと深読みしている向きもあるようですが、すでに退陣を予告している政権を潰すのに、自分自身の政治生命を懸ける人間がいたら、それはやはり、精神異常でしょう。

  世間の猛烈な非難を浴びている情況でありながら、自分の行動をサッカーに喩えたり、実際に、知事にサッカーボールを蹴りつけたり、謝罪会見をビルの屋上でやって、「なぜ、屋上なんですか?」と訊かれると、「屋上が好きだから」と答えたり、とても、正常な精神の持ち主とは思えません。 他人に迷惑を掛けない範囲なら、「変わり者」で済みますが、被災者だけでも、数十万人に迷惑を掛けているのですから、これは、病院に連れて行くのに充分な症状と言えるでしょう。

  暴言、妄言と、頭がおかしくなった閣僚というのは、さほど珍しくないのですが、今回の騒動が重大なのは、決着の仕方が、罷免ではなく、辞任だったという点にあります。 言動と態度が報道された時点で、首相が、すぐに罷免していれば、むしろ、政権の評価を高める方向へ働いたかもしれないのですが、首相がやった事といえば、罷免どころか、辞任申し出の慰留だったというから、これまた、どーしょもない。 この一件の、どこをどう見れば、慰留しなければならない材料が見つかるのよ?

  たぶん、無理やり頼み込んで任命した立場上、慰留してみせたんでしょうが、それは政治家同士の人間関係の都合なのであって、見ている国民がどう取るかについて想像してみないのは、あまりにも、考え足らずというもの。 首相以外にも、「大した問題ではない」とか、「批判する方が、どうかしている」などという呆れた意見が与党内から出ていましたが、「ああ、こりゃあ、本当に、政権末期なんだなあ・・・」と、つくづく思いましたよ。

  そういえば、この一件、ニューヨーク・タイムズでも、≪WORLD≫ページに出ていました。 日本のテレビや新聞を見ていると、世界中が、震災後の日本に暖かい支援の手を差し伸べているかのような錯覚に陥りますが、実は、海外で頻繁に報道されていたのは、4月の中頃くらいまでで、その後は全然・・・。 ニューヨーク・タイムズでも、JAPANのJの字のすら見当たらなくなっていました。 それが、前復興相の暴言・異常行動のおかげで、少し注目が戻ったという次第。

  もっとも、記事の内容は、「被災した地方に、より大きな役割分担を求めた復興相の態度は、保守的な日本社会では受け入れられなかった」といった、何とも的外れなものでした。 たぶん、暴言の暴言レベルが、日本語から英語に訳した時に、うまく伝わらなかったのでしょう。 あまりにも低レベルの事件なので、間違いを指摘する気にもなりませんが。


  次に、玄海原発ですが、地元自治体の首長が、再稼動をあっさり認めてしまったのには、ガッカリする一方で、「ああ、所詮、日本人なんて、こんなもんなんだなあ・・・」と、妙に納得してしまいました。 いずれ、そういう所が出て来るとは思ってはいましたが、随分と早かったです。 まだ、福島第一の事故発生から、半年も経っていないのに・・・。 一番乗りを買って出たのは、ある意味、勇気があると言えますが、もちろん、誉めるつもりなど、小指の爪の先ほどもありません。

  同意の理由は、「国が安全宣言を出して、責任を取ると言ったから」だそうですが、安全宣言と言っても、言葉でそう言ってるだけでしょう? そんなこと言い出したら、福島第一だって、震災前は、「絶対、安全」という国のお墨付きで運営されてたんですぜ。 「事故なんか、起こるはずが無い」と、原発関係者全員が、胸を叩いて請合って、運転しておったのですよ。 それが、あの様ですわ。 この経緯を、リアルタイムで見ていながら、国の安全宣言を信用するという、その感覚が分かりません。

  「国が責任を取る」というのも、具体的に、どう責任を取るのやら。 福島第一の現状を見て、ああいう対策を取るのが、責任の取り方だというのなら、そんなの、お話にもなりますまい。 放射能汚染で住めなくされてしまったら、責任を取る方法自体、あり得ないと言うのですよ。 いくら補償金を貰っても、割に合わない事くらい、誰にだって、分かるはず。 住民が住む土地を失ったら、自治体そのものが消滅してしまうのですよ。

  首長といったら、大概は、その土地で生まれ育った人であるわけですが、自分の故郷の存亡に対して、責任を感じていないんですかね? 原発が無くなって、職場が減り、人が減っても、故郷が無くなるわけではありませんが、原発事故が起きたら、故郷そのものが無くなるんですぜ。 そんな重大な決断を、個人で背負えると思う、その感覚が分かりません。 いや、自治体の議会で議決しても、まだ全然、背負いきれないでしょう。

  もっとも、首長や議会の判断に任せず、住民投票で決めたとしても、原発地元自治体の住民は、多くが、原発に依存して暮らしていますから、結局、再稼動OKになってしまう可能性は高いですな。 で、再稼動に賛成したくせに、事故が起きたら、反対派と同じように、被害者ヅラして避難するわけだ。 何とも、虫がいい話だねえ。 日本人らしいといえば、実に、日本人らしいですが。

  国も国で、政治家というのが、一体何を基準に自分の行動を律しているのかが、皆目分かりません。 彼ら自身は、科学者や技術者でないどころか、理工系でも無く、いや、文系とすら言えず、専門知識など、どの分野に関しても、趣味レベル以上のものは持ち合わせていないわけですが、分からないなら分からないで、素人としての感覚を発揮して、疑わしい物には、警戒してかかるのが、良識的態度というものでしょう。 そして、今一番疑わしいのが、≪原発の安全性≫なわけです。 二番手につけている、≪相撲協会の健全性≫と比べても、100倍くらい疑わしい。

  震災直後、テレビに出ずっぱりだった原子力工学の学者ども、ここのところ、パッタリと顔を見なくなりましたが、「安全です」、「健康に影響はありません」、「打つ手はあります」と、厚顔無恥に大嘘こきまくったせいで、恥知らずでは人後に落ちないテレビ局にさえも愛想を尽かされたのは、滑稽至極です。 もはや、原子力工学など信じている人間は、誰もいなくなった証拠ではありますまいか。

  現時点に於いては、原発が危険なのは、誰もが分かっているのです。 しかし、「危険と言っても、すぐにすぐ、事故にならないのなら、当面は運転した方が、お金が入る分、得だ」と判断している、甘い考えの持ち主が多いのも事実。 原発自治体の首長なんて、ほとんど全員がそういうタイプでしょう。 だけどねえ、事故が起こってからじゃ、文字通り、取り返しはつかないんだよ。

  どうしても、再稼動させるというのなら、一筆書いたらどうでしょう。 「もし事故が起きて、人が住めない町にしてしまったら、決断の責任を取って、その時、現職であるか否かに関わらず、自害します」とでも。 一人の命で償える事ではありませんが、ぬけぬけと生き続けるよりは、まだしも、責任者らしい態度と言えるでしょう。

  原発再稼動への賛成を遠回しに表明したいのか、「夏場の大規模停電は避けなければなりませんし・・・」と、お題目のように繰り返している人がいますが、本当に避けなければならないのは、新たな原発事故であって、福島第一のような、いつ果てるとも知れない大惨事が、もう一箇所、二箇所と重ねて起こるのに比べたら、大規模停電なんて、何が怖いものですかね。 比較の対象にもなりません。 節電の推奨なんてまどろっこしい。 いいから、遠慮せんと、ザクザク停電させればいいのですよ。


  と、↑ここまで書いたところで、≪ストレス・テスト≫で、また新たな揉め事が起こりました。 別に、念の為のテストを、上積みして行なうというのですから、再稼動に賛成でも反対でも、異論は無いような気がするのですが、玄海原発の地元自治体の首長は、自分が下した再稼動同意の決定が、ストレス・テストの結果次第では、無効になってしまうかもしれないので、「何のために、決断したのか分からない」と、怒ったらしいのです。 そして、ストレス・テスト問題と、やらせメール問題を理由に、同意を撤回しました。

  再稼動反対派は、首長が同意を撤回した事に喝采を送っている事でしょうが、糠喜びに苦い思いをしたくなかったら、冷静に事態の推移を見守る事です。 怒りというのは、収まればそれまでですから、今後の国の出方次第で、また、再稼動に再同意すると思います。 この首長は、本音としては再稼動したいのでしょう。 そうでなければ、一度でも、再稼動に同意するわけがないのですから。

  ちなみに、日本人は論理に弱いので、二つ以上の問題が絡み合っていると、頭が混乱して、何が焦点になっているのか分からなくなってしまうと思うのですが、「ストレス・テストをやるかやらないか」という問題と、「ストレス・テストをやる事を、突然持ち出された」という問題は、別物です。 首長が怒っているのは、「突然」の方に対してであって、ストレス・テストそのものに対してではないと思います。

  ストレス・テスト自体は、突然持ち出されようが、根回し後に持ち出されようが、原発を再稼動するためには、当座、マイナスに働きます。 逆に言えば、再稼動を阻止するためには、当座、プラスに働くわけです。 ただし、テストの内容によっては、結果を利用されて、再稼動の根拠にされる恐れがあります。 言わば、諸刃の剣ですな。 

  この首長に限らず、福島を除く、原発立地自治体の首長や議会は、ほぼ全て、再稼動を切望していると思います。 それは、「安全性が確認されたから」ではなく、「お金が貰えなくなると、困るから」なのです。 見ている所、考えている事、興味の対象が、他の自治体とは、全然違っているんですな。 「お金が、最重要問題」と考えている自治体に、自分達の未来が握られていると思うと、周辺自治体の人間は、思わず背筋に冷たい物が走るのではないでしょうか。

  本来、一地方自治体が、そんな重大な決定を下す立場に置かれるというのがおかしいのであって、原発をどうするかは、政府が決めるべき事柄なのですが、国会議員や政党の支援者、及び、官僚らに、原発推進・容認派が多いものだから、政府が板挟みになって、どうしていいのか分からず、現状の如く、方針が醜く迷走しているのでしょう。 せめて、政府内だけでも、原発続行か、脱原発か、はっきり決めなければ、今後も混迷は続くでしょう。

  しかし、ものは考えようで、脱原発派としては、原発続行を決定されては困るのであって、むしろ、今の、どっちつかずのフラフラ状態の方が、まだ希望が持てるかもしれません。 「はっきりしろ!」と迫って、「じゃあ、原発続行で行きます」と答えられてしまったら、そこで、アウト! 「脱原発」という言葉自体が瞬く間に死語化し、次に事故が起こるまで、誰も思い出さなくなるでしょう。 不用意な政府批判は、藪蛇になる恐れあり。

  この国が、とことん救われないのは、今の政府を攻撃している野党に政権が移ったとしても、その野党が、原発政策を推進して来た張本人なのであって、政権についたからといって、脱原発などやるはずがない、という事です。 むしろ、民主党には無い指導力を発揮して、停止している原発を、どんどん再稼動させると思います。 だって、自民党で、原発に反対している人なんて、指折って数える程もいませんからねえ。

  そういえば、≪脱原発解散≫が取り沙汰されていますが、面白いから、やってみたらいいんじゃないでしょうか。 その結果で、日本国民の蒙昧度を、はっきり知る事ができます。 これだけ、グッチャグチャな状態になっていても、まだ、原発を有用だと考えている人が、山ほどいる事が分かって、仰天させられる事でしょう。 何度も言うようですが、こういう人達は、自分が家を追い出されるまでは、原発事故など、他人事に過ぎないと思っているのです。

2011/07/03

使う派

  会社で同僚と話をしていると、ある条件の下でのみ、ごくたまーに、「貯金が、いくらあるか」という話題になる事があります。 ある条件とは、その場にいる面子のほとんどが30歳以下である事。 それ以上の年齢の人間しかいない場合、普通、その種の話題は取り上げられません。

  この話題を持ち出す目的は、「周りの連中は、一体、幾らくらい、金を貯め込んでいるのだろう?」と、探りを入れる事だと、断言しても構わないと思います。 言いだしっぺは、大抵、そこそこ金を貯めている奴か、ギャンブルなどで俄かに大金が転がり込んだ野郎のどちらかで、自分が他人より金持ちである事を確認して、満足感に浸ろうという魂胆なのです。

  なぜ、30歳以下に限るかというと、20代の頃は、≪貯める派≫と、≪使う派≫がはっきり分かれておらず、平均値が推測し難いからです。 一方、30歳を過ぎると、その人物が結婚しているかしていないか、子供がいるかいないか、持ち家が賃貸か、趣味は何か、といった情報から、大体の推測がつきますし、金がある者は、貯め込んでいる事を他人に知られたくないから、金が無い者は、他人が貯め込んでいる事実を知らされて不安になりたくないから、互いに、貯金の話は避けようとします。

  で、30歳以下の連中が行なう、この種の話題の会話ですが、観察していると、お決まりのパターンが見て取れます。 20代後半で、ちょっとした兄貴分の格にある者が、まだ社会人になって1・2年の若い者に向かって、さも偉そうに言うのです。

「なに言ってんだ、おまえ。 正社員で勤めていて、貯金が100万円以下なんて、普通いねえぞ」

  ふむふむ、つまり、この兄貴分の男は、100万円以上は持っているわけだな。 そして、100万円以上持っている事を、自慢しているのです。 だけど、彼本人が言っているように、20代後半で貯金が100万円を超えているのは普通だと思うので、そんな事が、果たして、自慢になるものなのかどうか・・・。

  以前、20代半ばで、会社を辞める事になった男が、退職金が振り込まれた直後、同僚達の前で、「普通預金の残高が、100万円を超えたよ」と、いかにも満足気に話していました。 私は最初、どうして、そんなに勿体つけて話すのか分からなかったのですが、やがて、ピンと来ました。 その男は、それまで、貯金が100万円を超えた事が一度もなかったのです。 退職金が入って、初めて、ミリオンの大台に乗ったので、感動していたんですな。

  微笑ましいと言うべきか、信じられんと言うべきか…。 そやつは、高卒の正規採用組ですから、その時点で、入社してから7年くらい経っていたわけですが、貰った給料を、みーんな使ってしまっていたんですねえ。 そちらの方に驚いて、「へーっ!」と、目を丸くした次第。 もちろん、いい気分になっている相手に向かって、「貯金が100万円以上あるのは当然だろう」などという不粋な指摘はしません。

  給料は、仕事によっても、会社によっても、随分開きがありますが、まあ、特殊な能力を必要とされない、普通の勤め人なら、手取りで、月20万円を基準にしてみておけばいいでしょう。 新卒でも、その程度は貰えます。 月20万円なら、年に240万円。 ボーナスもあれば、大体300万円くらい。 そこから、使う分を引いても、一年で100万円くらいは残りそうなものですが、それができる人間が少ないのは、不思議な事です。

  改めて首を傾げるのですが、そういう人達は、お金を、一体、何に使っているんでしょう?

  根本的なところで、お金に対する考え方の違いがあって、≪使う派≫と≪貯める派≫の間に、大きな溝が出来ているように思われます。 ≪使う派≫は、「基本的に、手に入ったお金は、使うものである」と考えていて、貯めるという行為を、例外扱いにしているように見受けられます。

  ちなみに、私の兄が、こういうタイプで、社会に出て働き始めるや、入った金を片っ端から使いまくっていました。 クレジット・カードは、何枚持っているか分からないわ、しょっちゅう、車を買い替えるわ、世間で流行る遊びには全て手を出すわ、毎年、京都や北海道に旅行に行くわと、浪費の限りを尽くし、30歳を過ぎるまで、≪定期預金≫というシステムがある事を知らないほどでした。 今はもう40代後半ですが、未だに借家住まいです。 しかし、結婚はしていますが、子供がいないので、お金に困っているという事は無い様子。

  身近なサンプルが、兄一人だけなので、断言はできませんが、こういうタイプの人というのは、かなり早い時期、具体的に言うと、中学生の頃から、アルバイトを経験しているのではありますまいか。 「買いたい物があったら、自分で金を稼いで買う」という考え方が、社会経験の基礎部分で、刷り込まれてしまっているのではと思うのです。 それだけなら問題無いのですが、人生訓の論理には、逆転がよく起こります。

「買いたい物があったら、自分で金を稼いで買う」

  が、逆転されて、

「自分で稼いだ金は、買いたい物を買うのに使う」

  と、読み替えられてしまっている可能性があります。 学生時代は、それでも良かったのが、社会人になって、給料を貰うようになっても、その考え方が変わらず、貰った給料は使い切らなければいけないと思い込んでいるのではないかと思うのです。 こういう人達の頭の中には、「貯める」という概念そのものが存在しないのかもしれません。

「何か高い物を買いたい時には、貯めるよ。 だけど、普段は、そんな事しない」
「若い内から、金を貯めるなんて、おかしい。 老後の心配なんて、50歳を過ぎてからでいい」
「明日死ぬかも知れないのに、貯金なんかしている奴の気が知れない」

  これらの言葉は、私が若い頃に、実際に耳にしたものですが、はたして、そう言っていた連中が、歳を取った今でも、それを正しいと思っているかどうか。 いいや、思ってはいないでしょう。 金が無ければ、人生計画どころか、明日の予定も立てられない事を思い知って、後悔先に立たず、若気の至りに地団駄踏んでいるんじゃないかと思います。

  自らを反面教師に仕立て、若い人間を捕まえて、「金は貯めておいた方がいいぞ」と説教でも垂れていれば、まだ可愛いんですが、自分が信じて歩んで来た生き方を、いい歳こいてから否定するのも癪なので、「なーに、貯金なんて無くたって、働き続けていれば、どうにかなるもんだよ」などと、強がりを言っているんじゃないかと思うのです。

  ただ単に貯金が無いというのは、まだマシな方で、車や家のローンを抱えて、二進も三進も行かなくなっている40代50代の人間は、うじゃうじゃいます。 こういう人達に言わせると、

「高い物は、ローンで買うのが、当たり前」
「ローンの方が、現金で買うより、得」

  なのだそうですが、もし、若い内から貯金をしていれば、

「現金があるのに、ローンを組むなど、狂気の沙汰」

  と思った事でしょう。 高い物を買う時、「ローンの方が、得」という言葉は、よく聞きますが、それは、税金の事を言っているんですかね? しかし、何十年も掛かる借金を抱え込むより、最初に税金を払って、自分の物にしてしまった方が、精神的に遥かに楽だと思うのですが。 大体、ローンは、利息を取られるわけで、利息が税金より安いとも思えません。

  「家のローンをン十年で組んだ」という人達は、途中で失職する可能性について、全く考えた事が無いのではありますまいか。 よく言われるように、日本社会では、ローンが払い切れなくなった時、家を売っても、ローンだけは残るので、すでに持っていない家のために返済を続けるという、理不尽この下無い情況に追い込まれる事になります。 馬鹿馬鹿しいにも程がありますが、現にそうなのだからどうしようもありません。 そして、リストラされたり、会社が潰れたり、という事は、現にいくらでも起こっているのであって、「自分は、そうならない」と信じ込むのは、あまりに無防備と言うものです。


  貯金が全く無い相手と、結婚する人間の気持ちも分かりません。 交際していれば、相手が、≪貯める派≫なのか、≪使う派≫なのか、すぐに分かりそうなものですがねえ。 ちなみに、≪使う派≫の方が、モテはいいです。 どこへ遊びに行くにしても、気前よく払ってくれるので、連れられている方は、楽ですな。 しかし、相手がどんな仕事に就いているかが分かっていれば、金遣いの激しさから、どの程度の蓄えがあるかは、見当がつきそうなもの。 結婚した後、スカンピーでは、話になりますまい。

  いざ、結婚する段になって、相手が、貯金どころか、車のローンしか持ってない事が分かっても、情況がそこまで進んでいたのでは、もはや、「別れます」とは、言えませんぜ。 で、「結婚したら、小遣い制にするから、今までみたいには使えないよ」とか言う女性が多いわけですが、独身時代、稼いだ金を片っ端から使っていた男に、その数分の一の小遣いを与えて、平和に済むと思う方が間違いです。

  サルに餌をやるのに、それまで、20個やっていたのが、ある日から突然、5個とか3個に減らしたら、そりゃ怒るわなあ。 かくして、DV亭主の一類型が誕生するわけです。 ≪使う派≫の人間というのは、金を使い続ける事によって、精神状態の安寧を維持しているのであって、使えなくなったが最後、狂気への扉が開かずにはいられません。 狂った亭主に、ボコボコにされたくなかったら、好きなように使わせるしかないのですよ。 結果、極貧に喘ぐ事になると思いますが、しょうがないねえ、結婚前に、相手の正体を見極められなかった方も悪い。

  浪費家の女というのも、恐ろしいですねえ。 ブランド物など、病的に買いまくるわけですが、そういうのも、交際している時点で分かると思うので、「俺の彼女、おしゃれだよ。 センスもいいし」などと呑気な寸評などしていないで、「こやつ、この金を、どこから工面しているんだ?」と、疑ってみるべきでしょう。 外見が洒落ていればいるほど、危険度は高いです。

  何か、特殊な職業にでも就いていない限り、ブランド物で完全武装などできるものではないのであって、他に貢がせている男が何人もいる可能性、大。 いや、男が何人もいるなど、まだいい方で、買い物依存症で、カード・ローン地獄の亡者だったりしたら、結婚した後で、それを全部払わされる事になります。

  「金が無くなっても、生活レベルを落とせない」というのは、落ちぶれた芸能人がよく口にするセリフですが、芸能人でなくても、一度、ブランド物に囲まれた生活をした人間というのは、一回、自己破産したくらいでは、生き方を変えられません。 結婚の際、配偶者に借金を全部払ってもらっても、またぞろ、あれやこれやと買い込む始める恐れは十二分にあります。

  「借金を肩代わりしてやれば、感謝して、その後一生、尽くしてくれるだろう」などとは、期待するも愚か。 金を使わなければ生きて行けない人間なのですから、尽くすは尽くすでも、あなたの金を使い尽くす事しかしてくれないでしょう。 だからねえ、交際している間に、そういう所を観察しなければいかんのですよ。 相手の金遣いが荒いと分かったら、惚れたも腫れたもありゃしない。 火の粉を被らない内に、縁を切るしかないのです。

  性別に関係なく、金のかかる趣味を持っている相手というのも、要警戒です。 ≪なんでも鑑定団≫に、よく出て来るでしょう、そういう病膏肓に入ったジジイどもが。 あれは、テレビ番組だから、家族も笑っていますが、家に帰れば、「この馬鹿、早く死んでくれないか」と、本気で呪ってるんですぜ。 当たり前でしょう。 稼いで来る端から、みんなガラクタに変えられてしまうのですから。 当人が死んだ後、全部売り払っても、注ぎ込んだ金の十分の一も回収できないのではないでしょうか。

  物の蒐集だけでなく、車やバイクに嵌っている連中も要注意。 若い頃は、「カッコいい」などと言って、一緒に乗って、自分もいい気になっていますが、結婚してからも、全く金遣いが改まらないのを見て、眉間の皺の数がどんどん増えて行く事になります。 レースに出るようなレベルになると、それが人生目標になってしまっていて、子供の学費をチューン代に使ってしまうなどという呆れた輩まで出て来ます。 馬鹿か?

  ギャンブル・・・・、いや、これは、言うまでもありませんな。 節度を守って楽しんでいる人もいますが、そんなのは、ほんの例外で、ほとんどは、金をドブに捨てています。 ギャンブルが原因で、生活困窮者になった場合、自己破産や生活保護を認めないようにした方がいいと思います。 冗談じゃないよ。 なんで、遊びで金を捨てた連中を、真面目に貯めている人間が、税金で助けてやらなければならんの?


  で、今年から社会人になったとか、もう何年か経っているけど、まだお金に対する考え方が固まっていない、という若い人達に忠告ですが、職場に、≪使う派≫の先輩がいたら、くれぐれも警戒しておいた方がいいです。 「奢ってやるから、一緒に遊びに行こうぜ」とか言われると、ついふらふらと、ついて行ってしまいがちですが、本当に奢って貰えるとしても、それが得になるとは限りません。

  恐ろしいのは、≪使う派≫の生活パターンに慣らされてしまう事です。 たとえば、釣りやゴルフなど、金のかかる趣味に誘われたとして、始めの内は奢って貰えても、いつまでも、他人の好意に甘えるわけには行きませんから、その内、自分で払うようになります。 そうなってから、お金がどんどん出て行く事に震え上がっても、付き合いも出来てしまっている事ですし、おいそれとはやめられません。

  ≪使う派≫の人達は、自分の生き方が間違っているとは思ってませんから、全く悪気無しに、楽しむための仲間を増やそうと誘って来るので、気の弱い人間だと、断り難いのです。 「あいつは、付き合いが悪い」などと陰口叩かれるのも怖い。 しかし、その後の自分の人生全体に関わって来る事ですから、断るべき時には、断らなければなりません。 なーに、「仕事の疲れがひどいので、休みは寝ています」とか、「家の用事があって、時間が空かないので」とか言って、やんわり断っていれば、その内、誘って来なくなりますから、大丈夫。

  危険極まりないのは、悪意があるタイプの先輩ですな。 たかりが目的なんですよ。 金が無くて、年中ぶつくさ零している奴など、人間としての評価が、ゼロどころか、マイナスになってしまい、周りの人間が避けるようになります。 「一緒に遊びに行こうぜ」などと誘われても、たかられるに決まってますから、そりゃ誰も乗ってこんわなあ。 また、そういうオッサンに限って、新入社員の面倒を見たがるんだわ。 右も左も分からないから、簡単に騙せると思ってるんでしょう。 まあ、そういう奴は、ボロクソに陰口を叩かれているので、すぐに分かりますが。


  「せっかく生まれて来たのだから、幸福な人生にしなければ」と思うのは当然ですが、金を使う事が、イコール、幸福とは限りません。 子供の頃に、「金を使わなかったから、楽しい思いができなかった」という経験は誰でもあると思いますが、その時の悔しさが強過ぎて、≪金を使う=幸福≫の関係が常に成り立つと思い込んでしまうのだと思います。

  しかし、よく考えると、確実に成立する関係式は、≪金が無い=不幸≫なのであって、別に、金を使ったからといって、幸福になるわけではありません。 むしろ、金は使えば無くなるわけですから、≪金を使う=金が無い=不幸≫という事になり、金を使う事で、自ら不幸を呼び寄せているとも言えます。


  勤め人の場合、一人の人間が一生の内に稼げる金額というのは、限度があります。 極端な話、勤め始めて、最初の給料とボーナスを貰ったら、すぐに、一生で幾ら稼げるか、電卓を叩いてみた方がいいです。 そこから、一生分の生活費を引き、家や車を買う費用を引き、結婚や子育てに掛かる費用を引けば、いくらも残らない事が分かるはず。 一度でも、そういう計算を試していれば、考え無しに、≪使う派≫に走るような事もなくなるでしょう。