2009/11/29

無い金は使えない

  なに! ドバイの政府系企業の信用不安で、バブル崩壊の予兆、世界不況二番底の恐れあり? まあ、本当に二番底に落ち込むかどうかは別として、ドバイが紛う方なきバブル景気だったのは、あの有様を見れば、誰でも分かる事だったのではないでしょうか。 砂漠と海以外に何もなかった所に、ほんの数年で超高層ビルが林立するなど、空母の甲板にメタセコイアが生えてくるのと同じくらい、不自然な現象と言えるでしょう。

  ヨーロッパ系の金融機関は、ドバイに莫大な投資を続けていたらしいですが、バブルである事に気付かなかったんでしょうかねえ? 気付かなかったんでしょうねえ。 バブルと分かっていて、金を注ぎ込む馬鹿はいませんからねえ。 アメリカは世界恐慌の震源地だったので、最大級のバブル崩壊を経験していますし、日本も90年代初頭にバブル崩壊の煮え湯を飲んでいますが、ヨーロッパでは、人々の記憶に残っている範囲の過去に、大きなバブル崩壊が起こらなかったために、バブル経済というのがどんな現象なのか、実感として分かっていなかったのかもしれません。

  「買っておけば、どんどん値上がりするのに、今買わないのは馬鹿だ」とか何とか、利いた風なセリフを抜かして、ドカドカと不動産を買いまくっていたんでしょうなあ。 わはは! 馬鹿はおまえだっつーのよ。 このセリフ、日本のバブル全盛期に、うちの親父の所へ株を売りに来た証券マンが口にしたものですが、バブルに踊らされている者どもは、世界中どこでも、いつの時代でも、必ずこの考えに取り付かれるようです。 ほんと、馬鹿だねー! そんなうまい話がこの世にあるわけないじゃないのさ!

  大体、ドバイに不動産買って、どうするつもりだったんですかね? たとえば、リゾート開発された土地に住宅を買ったとして、それをどうするのよ? 住むの? 住まないでしょう? だって、ヨーロッパ人は、ヨーロッパが生活拠点だものね。 ドバイに移住したら、仕事ができないじゃん。 別荘にするの? あのねえ、別荘というのは、季節限定であっても、本宅より気候がいい所に持つものなのよ。 ドバイの気候がいいと思うかね? 砂漠だっせ。 木も生えないような所ですぜ。

  「暑い所、イコール、リゾート地になる」と判断したのなら、物の見方が単純過ぎます。 ハワイ、ありますよね。 暑いです。 先住民は、上半身裸で暮らしていました。 裸で暮らせる程度の暑さだったから、裸で暮らしていたわけです。 一方、ドバイですが、現地の人達は、裸で暮らしていますか? いないでしょう? 暑過ぎて、裸でいたら、熱射病になってしまうからです。 裸どころか、あーた、直射日光を避けるために、布で全身を覆って、体を乾燥から守っているような所なんですよ。 そんな気候の土地が、リゾート地になるわきゃありませんわな。 住宅を買ったとしても、エアコン年中無休で、部屋に篭りきりになるのが関の山なんじゃないですかね。 そんな生活なら、何も飛行機に乗って、ドバイまで行かなくても、ヨーロッパの自宅にいても、同じじゃありませんか。

  「転売目的で買ったのだ。 自分が住むわけじゃない」と言いますか? じゃ、一体、誰を住まわせるつもりなんですか? あなたが住みたくないと思う所なら、他の人も住みたくないと思うと思いますぜ。 ドバイの人達は、故郷ですから、住みたいと思うでしょうが、彼らは当然、既に自宅を持っており、同じ街の中に、幾つも家を欲しいとは望んでいないでしょう。 さあ、それでは、最終的に買うのは誰だ? ほーら、いないではありませんか! いないんですよ、そんな人。 存在しない最終オーナーを空想して、その影に踊らされていたんですよ。

  いや、私の言う事が嘘だと思ったら、ドバイの、あの有名な椰子の木形の人工島に住宅を買って、その庭で、海パン一丁になって、日光浴して御覧なさいな。 一日、いや、半日で手放す気になるから。 寛げるレベルの暑さじゃないんだって。 日々温暖化してると思うと、ますます暑かろうて。

  もう、典型的なバブル経済のモデルですな。 まるで、人工的に壮大な実験でもしたかのような、模範的バブルです。 投資者の誰もが、「買っておけば、どんどん値上がりする」と信じて買い争い、架空の価値だけが上昇して、物件価格が吊り上がり、そして、自然の成り行きとして、「あれ? これ以上、値上がりしないのかな・・・」と、期待感が天井を打った途端、誰もが先を争って売り飛ばし始め、見事バブルが崩壊したわけだ。 バブルは必ず、はじけるんですよ。 ねずみ講が必ず行き詰るのと同じでね。


  ヨーロッパの金融機関の顔面蒼白ぶりはさておき、いまだに円高になるのは奇妙な現象ですな。 つまりその、ユーロやドルへの不安が高まるために、「他の通貨に替えておこう」と考えるわけですが、なんで、避難先が日本円なのかが解せません。 欧米の投資家というのは、日本経済がどういう健康状態なのか、分かってないんじゃないですかねえ?

  たまに、新聞に、ヨーロッパの経済学者へのインタビュー記事が出ますが、欧米の経済事情には詳しいのに、こと日本や中国など、東アジアの経済について訊ねられると、皮相な観察を並べたり、頓珍漢な分析を展開したり、素人同然の無知ぶりを曝け出します。 距離が遠すぎて、興味が湧かないため、そもそも研究対象にしていないんでしょう、きっと。 そりゃ、研究していなきゃ、素人レベルから上がらないわなあ。

  でねー、彼らは、日本経済が、専ら政府の巨額借金のために、危篤状態に陥っている事に気付いていないんじゃないかと思うのですよ。 日本に比べれば、韓国・中国の方が遥かに健全財政ですし、借金が少ないです。 何より成長率が高い。 当然、ウォンや人民元の方が信用が置けると思うのですが、なぜか円を買いたがる。 アホちゃうか? 借金魔を信用して、金を貸しているのと同じなのが分からぬか?


  いや、円高が進んでくれれば、風が吹けば桶屋が儲かる原理で、回り回って、私の勤め先の仕事が減り、残業時間は短くなり、休日出勤もなくなるので、私個人としては、万々歳の大歓迎なんですがね。 まったく、冗談じゃないよ。 毎日3時間も残業なんてやってられるかっていうのよ。 しかも、週に6日も! 江戸時代の佐渡金山でも、これほどひどくはなかったでしょう。 残業が本来、労動基準法違反だという事が分かってるのかね? 特例で認められているだけなんだよ。 特例を日常化しててどうする? これでは、≪農奴≫ならぬ、≪工奴≫ではないか! 厚生労働省は、一体、何をやっとるんじゃい!

  おっと断線しました。 個人的な怒りはさておき、日本政府の借金、つまり、国債ですが、来年度も凄い金額になるようですな。 政権交代して、「無駄を無くして、マニフェストで約束した新事業の財源にする」と言うので、今までやって来た事をドーンと減らして、新しい事をちょっと増やすのかと思っていたら、まるで逆。 国債発行額は、今年度より増えるというじゃないですか。 一体全体、減らすつもり、あるのかね? 来年度でもできなきゃ、省庁の役人と馴れ合いになるそれ以後は、もっとできなくなると思いますが。

  はっきり言ってしまって、日本には金が無いんですよ! いい加減、それを理解しなさいよ。 もう、とうの昔から、経済大国でも何でもないんだよ。 個人でも、借金を借金で返していると、雪ダルマ式に借金総額が増えて行きますが、国の場合でも全く同じなんですねえ。 減らすためには、血を吐くような倹約を実行するしかありませんが、民主的選挙で選ばれる政権である限り、有権者を敵に回すような支出の切り詰めは金輪際不可能ですから、上杉鷹山がやったようには、到底うまく行きますまい。

  そうそう、私、不覚にも、ごく最近気付いたんですが、日本の国債というのは、結局のところ、国民が買っているんですな。 「個人向けは、ほんの少しで、大部分は国内の金融機関が買っている」という説明はよく聞きますが、考えてみれば、金融機関の資産は、一般の預金者から集めた預金ですから、つまる所、一般預金者の金で、国債が買われているわけだ。 おったまげたね。 その気も無いのに、いつのまにか、国債の買い手にされていたんですなあ。 いや、私だけじゃなく、あんたも、あんたも、そこのあんたも、金融機関に預金している人は全員だよ。 日本政府という多重債務者に、金を貸している状態なんですよ。

  何だか、腹を空かせたヘビが、自分の尻尾を食っている図を連想しますな。 このまま借金を借金で返していたのでは、金額が増える一方ですから、どこかで一気に無くさなければなりません。 借金を無くす方法は二つあります。 一つは踏み倒す事です。 これをやると、国内の金融機関は、全部倒産します。 預金保険機構なんぞ機能不全必至ですから、預金者は預金していた分、丸々失ってしまい、一家離散、一家心中等、一家活動が大流行する事になります。 もう一つは、大増税で返す事です。 しかし、800兆円を超える借金を税金で返すとなると、国民一人当たり、1000万円弱を納税しなければならず、破産して首を括る者が、日本中の林という林を埋め尽くすでしょう。 どっちも、地獄絵図だねえ。

  だけどねー、これ、否定のしようが無い現実なんですよ。 インフラだ、福祉だ、最新兵器だ、宇宙ロケットだ、と、ありもしない金を湯水のように使い続けてきた当然の報いなんですな。 「なんで、こんな事になってしまったのか・・・?」と、今更らしく愕然とした方は、経済の基本を思い出さなければいけません。 「借りた金は返さなければならない」、引っ繰り返して言えば、「金が無いのなら、借りてまで使おうとしてはいけない」、というわけだ。 ごくごく単純な事ですよ。

  考えてみれば、ほんの十数世帯しか住んでいない集落へ続く道に、何億円もする橋が架かっている風景が異常だったのです。 その集落の人間が鼻血が出るほど金を出し合ったって、とてもじゃないが、建設費の十分の一も賄えますまい。 本来なら、そんなインフラ整備ができるはずがないのですよ。 離島の空港なんて、問題外ですな。 住民の自費だったら、空港どころか、漁港も作れますまい。 木で桟橋作るのがやっとでしょう。

  金勘定すれば、明らかにおかしいんですよ、日本の風景は、ことごとく。 一体、どこから、そんなお金を持って来たのか? 空から降って湧いたのか? 馬鹿おっしゃい。 みんな、借金だったのですよ。 一人一人が自分や家族の将来を考えて、せっせと貯金して来たお金を、政府がどんどん使ってしまっていたんですな。 だけど、その事に関して、国民が政府に対して怒る資格があるかどうかは疑問です。 だって、今の今まで、道路ができた! 新幹線が通った! 空港ができた!と言って、社会の豊かさを謳歌して来たのは、その国民だものね。 まさか、自分達の預金が使われているとも知らんと、能天気に。

2009/11/22

続・2009読書の秋

先々週だけで終わらず、今週も6日出勤でした。 一ヶ月に二回も土曜出勤があると、「命に関わるのでは・・・?」と思うくらい、疲労困憊するのですが、そーゆー会社だから、しょーがねーですわなあ。 ちなみに、私の勤め先では、労働組合は会社の下部機関に過ぎないので、どんなに残業が増えようが、土曜が出勤になろうが、会社に対して何も言えません。

  それでも、10年以上前には、残業時間の限度を設けたり、一日の労働時間を減らしたりと、労組らしい交渉をしていたんですが、ここ数年は、そういう事をしている気配すら感じられません。 「世の中は、年月を経るに連れ、だんだん良くなって行くものだ」と思っている方には申し訳ないですが、私はその意見に、小指の爪の先ほども同調できません。 明らかに悪くなっていると思います。

  まあ、そんな話はどうでも宜しい。 というわけで、土曜出勤で、またまたこのコラムを書く時間が無かったので、読書感想文の続きです。 また10冊ですが、「たった二週間で、10冊も読めるわけがない!」なんて、つまらぬ疑念を抱かないように。 別に、この二週間で読んだわけではなく、9月頃からこつこつ読んで来たものを、ここで、一気に紹介しているだけです。




≪人間とヘビ≫
  前半は、ヘビにまつわる神話や伝承、民俗などを集めたもの。 「こういう本は、動物学じゃなくて、民俗学コーナーに置くべきじゃないの」と首を傾げながら読み進んでいったら、後半は、動物としてのヘビの解説になっていました。 つまり、ヘビの総合書を目指したんでしょうな。 後半は勉強になるのですが、前半は正直言って面白くないです。 人間の妄想がいかに非科学的かを思い知らされて、うんざりしてしまいます。




≪カモメ識別ハンドブック≫
  これは書物ではなく、図説です。 日本で見られるカモメを、種類ごとに、細密なイラストと簡潔な解説で紹介しています。 図書館で借りるものではなく、買ってフィールドへ持って行く本ですな。 どうやら、カモメ・ファンのバイブルになっている模様で、この本が無ければ、どれが何というカモメか、さっぱり見分けがつかないらしいです。



≪ニホンカモシカのたどった道≫
  九州に棲むニホンカモシカの頭数調査をした学者による、ニホンカモシカの生態や保護の歴史を記した本。 ニホンカモシカは、かつて狩猟の対象にされて数を減らし、天然記念物に指定されて今度は増え過ぎ、天然記念物なのに捕獲という名目の狩猟が再開されるという、数奇な運命に翻弄されて来たのだそうです。 自分の足でフィールド・ワークをしている著者ならではの、骨太な内容。



≪クモの糸のミステリー≫
  これも面白いです。 半分趣味で始めたクモの糸の研究にのめりこみ、科学誌の権威≪ネイチャー≫に論文が掲載される所まで究めてしまった著者の奮闘記。 「学究の徒とはかくあるべき!」と思わせる探究心と熱意です。 手製の糸巻き器で、クモからどんどん糸を取り出せるというのは、意外でした。 クモ合戦をやっている町へ出掛けて行って、クモの糸を採取する件りなど、その根性に敬服せずにいられません。 クモの糸もさる事ながら、こういう人がいる事自体が楽しいです。



≪オシドリは浮気をしないのか≫
  この書名は、内容の一部のテーマを代表させたもので、オシドリだけについて書かれた本ではありません。 託卵やヘルパー行為など、鳥の生態の興味深い所を的確に押さえています。 著者は、学校教師の傍ら、鳥のフィールド研究を続け、業績が認められて学者にまでなった人。 やはり、フィールドをやっている人の書く本は、話が面白いです。



≪戦う動物園≫
  今や知らない人でも知っている≪旭山動物園≫と、北九州市にある≪到津(いとうづ)の森公園≫の、苦難と再生の歴史を綴り、両園長の動物園運営哲学を対談形式で紹介したもの。 動物園について何も知らない白紙の状態で読むと、目から鱗が落ちます。 ただ単に、動物を飼って、客に見せているわけではないんですな。 旭山動物園そのものの記述は少なくて、到津の森公園の話がメインなので、前者を目当てに読むと肩透かしを食いますが、最後まで読めば、必ず得る所が多いと思います。



≪ミミズのいる地球≫
  かなり珍しいと思いますが、ミミズ専門の本です。 ただし、ミミズという生物について学術的解説を述べているわけではなく、著者が今までに経て来たミミズ研究の自分史のような内容です。 珍しいミミズを求めて、ポーランドや、パプア・ニューギニア、オーストラリアなどへフィールド調査へ出かけていく、恐ろしくタフな女性学者。 紀行文としても面白いです。 ただ、これを読んだからといって、ミミズについて詳しくなるわけではないので注意。



≪知床のアザラシ≫
  ほぼ、純粋な写真集です。 文章もちょこっと入っていますが、まあ、写真の邪魔にならない程度のささやかな分量です。 書名の通り、知床半島にやってくるゴマフアザラシの写真がたくさん載っています。 真っ白ふわふわの赤ちゃんの写真はとことん可愛く、親子ツーショットの写真には心和まされ、水中を泳ぐ成体の写真には、あまりの優美さに息を呑まずにはいられません。



≪鳥と人≫
  小松左京さんが、大阪花博の後に書いた、鳥の本。 ・・・・なんですが、これがちょっと曲者でして・・・。 取り上げられている鳥は、ニワトリ、ウズラ、カワウなど。 とりわけ、全体の半分以上がニワトリに割かれており、副題も、≪とくにニワトリへ感謝をこめて≫となっています。 つまりその、小松さんにとっての鳥とは、「どれだけ、人間の役に立つか」が興味の基準になっているんですな。 成長期に食糧難を経験した世代の、動物に対する見方が、モロに出てしまっている感あり。

  また、脱線も激しく、ニワトリを飼育して共同生活をする団体への訪問記などは、明らかに、テーマから逸脱しているように思えます。 鳥類と航空機の能力を比べて、人間が鳥を超えたか否かを論じる部分も、比較の基準がおかしいとしか思えません。 一冊の本にするには、著者の鳥への興味が薄過ぎるために、関連する雑知識を集めて、水増ししているように感じられるのです。

  小松さんの文章家としての衰えが見えてしまう、古いファンにとっては些か悲しい本です。



≪もの思う鳥たち≫
  鳥を対象にしていますが、著者が言わんとしているところは、「動物には、人間と同じように知能や意思がある」という事。 鳥の行動を観察すると、会話しているとしか思えない情景や、目的を達成するための合理的な行動などが見られるらしいです。

  セキセイインコが二羽いると、「グジュグジュグジュ・・・・」という感じの声を立てている光景が、普通に見られますが、よく聞くと、一方がグジュグジュ言っている時には、もう一方はそれを聞いているのだそうです。 つまり、会話しているのではないかというわけですな。

  また、人間の言葉を覚えた鳥を観察すると、状況に合わせて的確な言葉を選んでいるのが分かるのだとか。 必ずしも、≪オウム返し≫をしているわけではないのだそうです。 その他にも、鳥が見せる極めて人間的行動の事例が、いくつも紹介されています。

  鳥以外の動物も登場し、その中にゴリラの例が出て来るのですが、手話を覚えさせたゴリラに、「死とはどういう事か?」という質問をぶつける件りがあり、ゴリラの答えが、実に興味深いです。 ついでに、「神を信じるか?」とか、「自分の先祖の事を考える事はあるか?」とか、動物の宗教観も探ってみれば面白いのに。

  著者は、鳥から話を起こし、最終的には、アリやハチの取る人間的行動にまで対象を広げて、「動物は、今まで思われていたような自動機械ではない。 自然に対する見方を変えるべきだ」と主張します。 アリが、水溜りに橋を架けたり、他の群との戦いで様々な戦略を駆使する件りを読むと、確かに、動物全般に対する見方が変わります。 かれらは、すべて分かっているわけだ。

  ただ、この著者の専門は人間の心理学の方で、晩年になって始めた鳥の研究は、専ら文献を調べる方法を取ったらしく、鳥の学界からは、ほぼ無視されてしまったそうです。 アメリカの動物学界には、「動物を擬人化してはいけない」というタブーがあり、それを否定しようとすると、科学者として扱ってもらえなくなってしまうらしいのです。 つまり、この著者の主張は、科学的定説として認められているわけでないという事。 その点は、頭に入れておく必要があります。

  また、訳者が、ちょっと変わった人で、超常現象を科学的に研究している人らしいのですが、その点も、この本の信用性を些か損なってしまっています。 本文と、訳者あとがきの内容がはっきり違っているので、訳文そのものの正確度は高いと信じたいのですが、やはり、超常現象関係者が、科学書に関わるのは、不適切な感じがせんでもなし。 面白いと言えば、めちゃくちゃ面白い本なんですけどねえ。

2009/11/15

はず

  以前は使っていたけど、今はやめてしまった文字使いというのがあります。 ああ、公的な話ではなく、あくまで、私個人の習慣としてです。 ある時、ふっと気がついて、「おやおや! この漢字の使い方はおかしいんじゃないか?」と思ってしまうと、それ以降、もう使えなくなってしまうのです。 今回は、その一つを紹介しましょう。 それは何かと言いますと、

 ≪筈≫

  「はず」ですな。 「そんなはずは無い!」とか言う時に、以前は当然のように、「そんな筈は無い!」と書いていました。 子供の頃に読んだ本か漫画のどれかに、そういう使い方がしてあったのでしょう。 それが、≪三つ子の魂百まで≫で、ずーーっと、それでいいもんだと思って、使い続けて来たわけです。 まず、極力、字数を減らしたいという気持ちがあり、加えて、「はず」の前後には、必ず平仮名が来るので、適度に漢字を挟んで読み易くしたいが為に、「筈」を重宝していたというわけ。

  ところが、あーた、ある時、気づいてしまったわけですよ。 「筈」といいう字に、竹冠が付いている事に! そんな一目瞭然な事に、何十年も気付かないというのも、相当なボンクラですが、たぶん、私だけでなく、「筈」が竹冠な事に何の疑問も抱いた事が無い人達は、無数にいる事でしょう。 竹冠が付いていると、どうなのかというと、つまり、この字は、「はず」のような概念的名詞を指しているのではなく、何か竹に関係がある、実体のある物を表わす名詞だという事なのです。 で、調べてみたら、やっぱりそうでした。

  ≪弓筈≫と≪矢筈≫の二つの意味があるのですが、≪弓筈≫というのが、弓の両端の、弦を掛ける所の事、≪矢筈≫というのは、矢の後端の、弦を挟み込む所の事を指すのだそうです。 そして、≪矢筈≫の方から派生して、「矢と弦がぴったり合う事から、≪道理≫の意」になり、それが、「はず」の語源になったらしいのです。 しかし、凄いこじつけもあったもんですな。 「筈はぴったり合う。 道理もぴったり合う。 だから、≪はず≫を≪道理≫の意味で使ってもいいだろう」という発想ができるのは、頭の病を患っている方々だけなんじゃないでしょうか。 ああ、頭の病ではなく、心の病か。 いや、まあ、似たようなもんだわな。

  で、つま・りだ、「筈」は、火を見るよりも明らかな、≪当て字≫だったわけですな。 私ねえ、当て字、嫌いなんですよ。 遊びとしては好きですが、真面目に自分の意見を述べたい文章で、当て字を使う事には抵抗があるのです。 ああ、そんな事、知らなければ良かったなあ。 なまじ知ってしまったばっかりに、「筈」という字が使えなくなってしまいました。 私だけじゃない、今ここで、「筈」が当て字である事を知ったあなた! あなたも、きっと、もう使えませんよ。 何てったって、当て字ですぜ。 笑っちゃうでしょうが。 「とにかく」を「兎に角」と書くのと同次元なんですぜ。 大の大人が、そんな小っ恥かしい事、できるもんですかい。

  ああ、そうそう、ついでだから触れておきますが、語源というやつ、あまり当てになりません。 というか、いい加減な知識を広める罪を犯したくなかったら、語源と名の付くものは、一切信じない方が無難です。 この世の中には、語源事典などという、とんでもない代物もあるわけですが、全項目、間違っている可能性すらあります。 問題は、編者が何を頼りに、語源を調べているかなんでよすよ。 調べなければ分かりっこないわけですが、調べている人は、過去の文献を頼りにしているわけで、その文献が間違っていたら、もうアウトです。 そして、語源に関する文献のいい加減さは、歴史の異聞どころの話ではありません。

  いい加減な資料を元に、編者の空想回路をフル回転させてこじつけ倒したのが、語源事典なのだと思っていれば、まず間違いないです。 話半分どころか、話一厘の信憑性もありますまい。 また、語源事典を見て、「○○の語源は、△△ですから」なんて、偉そうに薀蓄垂れてる奴らが多いんだわ。 語源事典そのものが信用できない事に、なぜ思い至らぬ?

  ちなみに、語源はそのいい加減さ故に、異説がうようよあります。 たとえ二つでも、異説が並立している時点で、どちらが正しいか判定不能だと思うのですが、なぜか、自信を持って片方を信じ込む人が多い。 傾向として、最初に聞いた説を信じ、後から耳にした説を受け付けない人が、大変多い。 物事を客観的に見れない、偏見を持った人だと、自分に都合のいい説の方を信じる人が、もう物凄く多い。 そして、そういう人達が、またいい加減な語源を伝え広めていくわけです。


  「はず」に話を戻しましょう。 「筈」という字は忘れるとして、そもそも、「はず」という言葉は、一体、どういう意味なんでしょうねえ? 意味が分かれば、もっと適当な漢字が見つかるかもしれません。 「道理」と互換性があるか見てみますと、「そんなはずは無い」を「そんな道理は無い」と言い換えても、全く同じ意味にはならないものの、何となく通じそうです。 一方、「彼は今日の午後、来るはずだ」の場合、「彼は今日の午後、来る道理だ」にすると、もう全然通じなくなります。

  どうやら、「はず」には、二通りの意味があって、一つは、「道理」とほぼ同じ意味、もう一つは、名詞では言い換えが利かない意味のようです。 それは何かと言うと、「~に違いない」という意味なんですな。 高校や大学くらいのレベルの英語で、「はず」が含まれた日本語を英訳しようとして、はたと手が止まり、「≪はず≫って、一体、何なんだ?」と、哲学的迷路に引き込まれてしまった方も、ちらほらいる事でしょう。 「はず」が名詞なので、同じ意味の英語の名詞を探すわけですが、たぶん、絶対見つからないと思います。 だって、無いんだもん。 名詞で探すから無いのよ。 「~に違いない」という意味なんですから、助動詞の「must」を使えば、いとも容易に訳せるじゃありませんか。

  「~に違いない」は、「きっと、~だ」とも、ほぼ同じ意味なので、副詞句の「be sure to」で訳してもいいと思います。 私は、≪自信のある推量相≫と呼んでますが、この相は、言語によって、表わし方が違うんですな。 ちなみに、中国語では、「~に違いない」は、助動詞「応該」、「きっと」は、副詞「一定」で、「はず」に当たる名詞はありません。

  も一つ、ちなみに、≪自信の無い推量相≫というのもありまして、「~かもしれない」が、それです。 英語では、助動詞「may」や、副詞「maybe」、中国語では、助動詞「可能」や、副詞「也許」などを使います。 日本語で、「~かもしれない」の副詞というと、「たぶん」になってしまいますかねえ。 「たぶん」は、自信があるのか無いのか、少々微妙ですけど。


  とまあ、そんなところですな。 中国人が日本語の文章を目にした時に、「筈」という字がちょこちょこ出て来て、さぞかし、違和感を覚えておる事でしょうなあ。 中国語では、「kuo\」と読んで、「矢筈」の意味しかありません。 というか、現代では、弓矢自体を使いませんから、この字を知らない人の方が多いかもしれません。

2009/11/08

2009読書の秋

今週は6日出勤だったので、このコラムを書く暇がありませんでした。 しかし、毎週日曜に、ここを読むのを日課にしている方もいると思うので、最近読んだ本の、感想というか、紹介というか、批評を並べておきます。 依然として動物関連が多いですが、他の物も幾分混じっています。




≪ネコの行動学≫
  これは、本格的な学術書です。 イエネコを始めとする、ネコ科の動物が見せる様々な行動を観察し、詳細に記録したもの。 本というより論文に近い書き方で、読み物としては取り付き難いですが、科学的な信用度は極めて高いです。 本来、科学書とはこうあるべきものなのでしょう。 この本を読むと、ネコ科の動物が、正統派の肉食獣であり、イエネコといえども、その血が脈々と流れているのだという事を再認識させられます。 ネコが獲ったネズミを飼い主に見せに来るのは、誉めて欲しいからではなく、飼い主を仔猫だと見做していて、獲物の獲り方を教える為なのだそうです。



≪記憶とは何か≫
  これは、動物関係ではなく、脳科学の本です。 ほぼ定説として世に受け入れられている、≪大脳機能局在化論≫を否定する為に書かれた本。 「大脳は、≪言語野≫とか、≪運動野≫のように、特定の部位が、特定の機能を司っている」というのが、≪大脳機能局在化論≫ですが、それに対し、この著者は、「一つの機能には、脳全体が関わっている」という説を、脳科学の歴史を辿りながら、読者を説得するように展開して行きます。 この本だけ読むと、こちらが真理のように思えてしまいますが、あくまで、この著者の自説であり、学界全体に認められているわけではないようです。



≪非対称の起源≫
  「なぜ、右利きの人間の方が多いのか?」とか、「心臓が左にあるのはなぜか?」、「左側通行の国が、多数派ではないにも拘らず、いつまでも無くならないのはなぜか?」といったような、右と左に関する問題が、たくさん詰め込まれています。 一見、如何物的なテーマですが、純然たる科学書で、知的好奇心をいやが上にも掻き立ててくれます。 左右の起源を、小はアミノ酸から、大は宇宙まで遡って行く展開は、極めてダイナミック。



≪脳研究の最前線・上≫
  ≪理化学研究所・脳科学総合研究センター≫に所属する学者数人が、一人一章担当という形で共同執筆した本。 題名の通り、脳研究の様々なジャンルに於ける最新の成果を紹介してあります。 だけどねー・・・、この本を読んだのは、もう一ヶ月以上前になるんですが、どんな内容だったのか、ほとんど忘れてしまったのですよ。 すでにどこかで読んだような事ばかりだったので、印象に残らなかったのでしょう。 ただ、内容が薄いというわけではありません。 執筆者一人分の文章量はかなりあって、脳に関する本を初めて読む人ならば、読み応えは充分あると思います。



≪脳研究の最前線・下≫
  こちらは下巻。 上巻とは別の学者数人が共同執筆しています。 上巻があまり面白くなかったので、下巻はパスしようかと思ったのですが、副題に≪脳の疾患と数理≫とあったため、精神病について何か知見を得られるかと思って借りてみたのです。 しかし、一応読んだものの、今思い返すと、やはり何が書いてあったのか、全然覚えていません。 章ごとにテーマがバラバラだと、記憶に残り難いみたいですな。 似たような表紙イラストですが、よく見ると微妙に違います。 間違い探しか?



≪海の友だちアザラシ≫
  旧西ドイツで取り組まれた、迷子になったアザラシの仔を保護し海に返す活動を記した本。 アザラシの母乳は、牛乳よりずっと脂肪分が多くて、人工ミルクを完成させるまでに、相当な試行錯誤があったそうです。 この本の原書は、30年くらい前の出版で、毛皮目当てのアザラシ猟の生々しい記述なども出てきて、気分のいい話ばかりではありません。



≪オコジョ≫
  題名の通り、オコジョについて書かれた本です。 オコジョというのは、イタチの仲間ですが、サイズが小さくて、尻尾を入れても、20センチくらいしかないらしいです。 北半球全域に分布していて、日本にも北国の高山に棲んでいるとの事。 棲息地が特殊なために、日本ではオコジョの研究者はほとんどいないとかで、外国の文献を参考にして書いたそうですが、ページ数が少なく、一冊の本にするにはボリュームが足りない感じがします。



≪イタチとテン≫
  こちらも、同じ著者の本ですが、≪オコジョ≫とは違って、著者自身の研究成果が、かなり含まれています。 イタチは誰でも知っていますが、テンというのもイタチの仲間です。 この種の動物の毛皮というのは、寒い所に棲んでいるものほど、上質になるのだとか。 そういった雑学に近い知識が掻き集められていますが、≪オコジョ≫同様に、この本もページ数が少なく、読み応えはあまりありません。



≪野外鳥類学への招待≫
  アメリカの鳥類学者が書いた、アマチュア研究家向けの指導書。 個々の鳥について、薀蓄が書かれているわけではないので注意。 「アマチュアは、野鳥の観察だけから生態を推察して終わる事が多いけれど、今の鳥類研究は、実験を通じて仮説を証明する科学的方法を取らないと、学界に影響を与えるような成果は出せませんよ」と説き、様々な実験方法を具体的に紹介しています。 日本には、こういう本は無く、だから、翻訳したらしいのですが、アマチュアにもこのレベルを求めるアメリカ鳥類学界の質の高さには驚かされます。



≪鳥の雑学がよ~くわかる本≫
  こちらは、鳥関係の雑学書。 学者ではなく、野生動物の映像作品を作っている鳥好きの人が書いた本。 言わば、≪準・専門家≫といったところでしょうか。 特徴的な生態を持つ鳥を、数十種類取り上げて、紹介しています。 著者独自の研究も含まれていますが、いい意味でも悪い意味でも、学術的というほど、硬い内容ではないです。 この種の概説書はたくさん出版されているので、評価が難しいですが、鳥類学の面白そうな所だけ集めてあるので、読み易い点は宜しいですな。



  以上、今回は10冊まで。 簡単な解説ばかりですが、何せ暇が無いので、ご容赦。 これらすべて、会社で休み時間にコツコツ読んだものです。 家では、気が散ってしまって、全然読めませんから。 読書を捗らせるには、「他にやる事が無い」という環境が必要なんでしょうなあ。 刑務所に入る刑罰には、≪禁固刑≫と、≪懲役刑≫がありますが、無知・無教養が原因で罪を犯してしまった受刑者の為に、≪読書刑≫というのを設けたら、精神が涵養されて、更生に効果があるのではないかと思います。

2009/11/01

穀潰し管理職

  10月に入ってから、俄かに仕事が忙しくなり、毎日残業が2時間半だの3時間だのと、非常識極まりない長時間労働となったため、はっきり言わせて貰って、こんなコラムなど書く暇は無くなってしまいました。 まったく! どうせ国の減税政策が終われば、ドッカーンと爆発的に生産が落ちるのは分かっているのであって、なんで今、集中的に、こんなに苦しい思いをさせられにゃならんのか、さっぱり分かりません。

  しかも、いつもの手で、わざとラインを停止させて、残業時間を延ばしている疑いあり。 4月から9月まで、毎日定時前に仕事が終わっていた為に、ざっくり減った収入を、ここへ来て生産数が増えたのを利用し、怒濤の残業で一気に取り戻し、年収の目減りを防ごうという魂胆なのでしょう。 頭に来るのは、そういう事を企んでいる奴らが、現場でヒーヒー働いている人間ではなく、会社へ来るなり詰所にしけこんで、椅子にのけぞって、何の仕事もせず、時間が過ぎるのを待っている穀潰し野郎どもだという事です。

  よく、「日本の製造業は、極限まで無駄を省いた生産を行なっている」とか何とか言って、「乾いた雑巾を更に絞る」などと、いかにも企業神話めいた持ち上げ方をするエコノミストがいますが、冗談も休み休み言うべきですな。 偉そうに講釈並べる前に、自分が期間工にでもなって、どこの工場でもいいから半年くらい勤めてみなよ。 自分の目で現場を見てみりゃ、そんな寝言、小声で呟く気もなくなるから。

  日本の工場では、働いている人間と、働いていない人間がパックリ二つに分かれます。 働いているのは、まだ出世していない若手か、出世できない終身ヒラ工員か、最初から出世する気が無い人間性が強い人間かのいずれかです。 一方、働いていないのは、出世して現場から離れた連中です。

  終身雇用や年功序列といった制度こそ、すでに崩れていますが、残業終了後も会社に残って、私生活を犠牲にする事を厭いさえしなければ、自動的に出世するシステムになっているので、年を経るごとに、働く人間は減り続け、働かない人間は増え続けます。 会社の組織は、ピラミッド状になっているので、上に行くに従いポストが少なくなり、毎年増える出世組は、やがて飽和してしまいます。 すると、今度は同じ肩書きの人間が増え始めます。 組織の末端を細分化し、無理やり≪○長≫のポストを作って、分け与えるしかなくなるんですな。

  私の勤め先なんて、凄いですよ。 私が入社した20年前には、1人でやっていた役職を、今では、5人で分け合っています。 全体の仕事量が増えているわけではないので、1人当たりの仕事量が5分の1になっているのです。 それでも、○長は○長で、≪偉さ≫は変わりません。 現場工員とその一段上を除き、全ての段階のあらゆるポストに、この多重化現象が起きており、所在無い中間管理職ばかり、うぞろうぞろと社内をうろつき回っています。 仕事が少ないので、時間を持て余し、詰所に隠れているか、ポケットに手を突っ込んで目的地も無く歩く回っているかのどちらかしかできないんですな。

  「それは、中間管理職のワーク・シェアリングなのでは?」と思うかもしれませんが、全然違います。 とんでもない! この連中、仕事はしてないけれど、給料は○長相当分をしっかり貰っているのです。 もちろん、現場工員よりずっと多い金額を取っています。 シェアリングであれば、仕事が少なくなるのに合わせて給料も減って然るべきですが、そうではないのです。 だーから、穀潰しだって言うのよ。 そして、バブル崩壊後15年くらい新入社員が入って来なかった事情もあり、今や、正社員の内、半数近くが、この穀潰し管理職になっています。

  会社も馬鹿だねえ。 出世したい奴をどんどん出世させて行ったら、一体、誰が働くんだよ。 大体、工場なんてのは、現場が第一なのであって、管理職なんていらないんだよ。 物を作らなきゃ一円にもならないんだからさ。 物を作るのは誰だ? 管理職か? 違うだろ? 工場で出世を目指すというのが、そもそも奇異なのではありますまいか。 肉体労働のきつさから解放されたくて出世を望む者が多いですが、工場に於いては、肉体労働が利益を生むわけですから、それから解放されたいという事は、工場にとって必要ない存在になりたいと願っているようなものではありませんか。

  この連中、「いてもいなくてもいい奴ら」なら、まだ可愛気があるですが、仕事はせずに高給だけふんだくっているわけで、明らかに、「いない方がいい奴ら」になっています。 いても、会社には何の利益も齎さず、給料を持って行く分、損害だけを与えているのですからね。 それが、社員の半分を占めているというのが、どれだけの無駄か想像つきますか? 実際問題、この穀潰し管理職どもを全員クビにしたとしても、翌日も工場は何の問題も無く稼動するでしょう。

  無駄、無駄、無駄っ! 無駄が服を着て歩いているのが、日本の製造業の現場なのです。 そして、会社は、契約規定上、その穀潰しどもをクビにする事ができないのです。 定年になるのを待つか、病気や事故で死ぬのを待つか、何か天啓でも受けて、自分から辞めてくれるのを待つか、いずれにせよ待つ事しかできず、どんなに会社の業績が悪化しようが、赤字の山が築かれようが、倒産が目前に迫ろうが、この無駄な連中を切り捨てる事ができません。 やれやれ、えらい奴らを育てたものよのう。

  当人達も、自分が何の仕事もしていない事は認識していますが、悪びれた様子は小指の先ほども感じさせません。 それどころか、その待遇を、自分の有能さに対する評価だとか、今までの貢献に対する会社からのご褒美だとか、手前勝手に解釈して、現場工員に対して優越感に浸っている始末。 笑ってしまうではありませんか、会社に必要無い人間が、必要な人間に対して優越感を抱いておるのですよ。 アホか? ボケとんのか? 文字通り、何様のつもりじゃ、おどれりゃ?

  ただ、僅かですが、自分の宙ぶらりんな立場にいたたまれなくなって、役職を返上し、現場工員に戻る人もいます。 いや、戻る気になれば、それは当人の一存で出来るのですよ。 誰も止めやしません。 こういう人達は、出世組からは軽蔑され、非出世組からは異端扱いされ、その後、寂しい会社生活を余儀なくされますが、心ある者からは、「よく、無意味なポストへの執着を断ち切った」と評価されます。


  まあ、こんなのが実情なわけですよ。 工場でなくても、事務や営業の現場にも、似たような状況が発生しているんじゃないですかねえ? どこにでもいるでしょう、何の仕事もしていないのに、なぜか上で威張っている、穀潰しのクズ野郎が。 会社には、生物と同様に老化や寿命があって、発足から年月が経つに連れ、組織が劣化してきます。 ワンマンだった創業者が死んでしまって、会社の方針が定まらなくなったとか、他社と合併したら、気風が合わずに、組織がぐじゃぐじゃになってしまったとか、生き物的な弱点が多々見受けられるのは、実に興味深いですな。 そして、どの組織でも起こるのが、この穀潰し管理職の増殖なのです。

  こいつらをクビにできる方法がみつかれば、企業の利益は、即座に、倍になりますよ。 間違いないっす。 リストラを断行している所でも、クビを切られるのは、ヒラじゃなくて、高給を取っている管理職でしょう? 会社も個人と同じで、追い詰められると、真実に目を開き、誰が会社に利益を齎し、誰が損害を及ぼしているか、見分けられるようになるわけですな。