2016/04/24

読書感想文・蔵出し⑲

  熊本地震の映像を見て、遅れ馳せながら、家の中の家具の固定を始めたのですが、数日間、そちらに忙殺されている内に、ここの更新記事を用意するのを、うっかりすっかり忘れていました。 もう時間がないので、今回も、読書感想文を蔵出しします。 そちらの方は、いくらも、在庫があるんですよ。

  前回書いたように、今現在は、ディクスン・カーの作品を続けて読んでいるのですが、その感想は、別シリーズにする予定なので、今回は、その合間に読んだ、他の作品の感想を出します。




≪仮面舞踏会≫

横溝正史自選集 7
出版芸術社 2007年
横溝正史 著

  横溝正史さんの、後期の長編。 2段組で、370ページあります。  最初は、雑誌に、1962年から63年にかけて連載されたものの、第8回で、中断。 翌1964年には、横溝さんは、新作の発表をやめてしまったので、それっきりになっていたものを、1974年に、大幅に加筆して書き下ろし、「新版 横溝正史全集」に収録される形で刊行したのだそうです。 書き下ろし作品が、全集に直行というのは、珍しいのでは? それとも、私が知らないだけで、販売手法として、そういう事はよく行われるんでしょうか?

  横溝正史大ブームのきっかけになった、市川崑版映画の≪犬神家の一族≫が、1976年ですから、この≪仮面舞踏会≫が完成したのは、それより前でして、私はてっきり、横溝さんが再び作品を書き始めたのは、大ブームが始まってからだと思っていたのですが、それ以前にも、過去の中断作品を完成させる執筆活動はしていたんですな。

  そういう、作品の来歴に関する細かい事が、この本には、巻末付録として、36ページ分も載っているのですが、些か、量が多過ぎて、余計な情報のような気がせんでもなし。 作品の評価は、作品の中身だけですべきです。 この本を読もうとする、みんながみんな、ミステリー作家研究家じゃないんですから。


  過去に四人の男と結婚離婚を繰り返し、現在、五人目と交際中の、有名映画女優の周辺で、過去の夫達が、立て続けに不審な死を遂げ、五人目の交際者である事業家に依頼された金田一耕助が、台風に直撃された直後の、夏の軽井沢に乗り込んで、長野県警の刑事達や、等々力警部らと共に捜査を進め、事業家の娘夫婦、女優の娘や姑、過去の夫達の関係者など、複雑に相関が入り乱れる中、一連の事件の真相を明らかにして行く話。

  なんつーかそのー、基本的な骨格部分は、あまり、よく出来ているとは言えません。 たとえば、冒頭に出て来る、心中者の生き残り、田代信吉ですが、この人物と、本筋の登場人物達とは、非常に薄い関係しかないのに、その後、この男が果たす役割が、大き過ぎて、その点の不自然さは、際立っています。

  あまりにも、大勢の人間を絡ませてしまったせいで、因縁が複雑化し過ぎて、読者に、「偶然が過ぎる」と感じさせてしまうんですな。 個々の人物の経歴について、えらい細かいところまで設定していますが、事件の謎にも関係なければ、読者への目晦ましに使われているわけでもない、全く不要な情報もあり、何でも、細かく書き込めばいいわけではないという、悪い見本みたいになってしまっています。

  金田一の謎解きが、終わりの方で、延々と続くのも、読むのが辛いところ。 これでは、2時間サスペンスで、崖の上を舞台に犯人が自ら語る、長過ぎる因縁話と、鬱陶しさに於いて大差ありません。 解決場面に鮮やかさがないのは、日本のミステリー作品の、共通の欠点なんでしょうか。

  横溝作品にしては、絵柄的にハッとさせられるような場面がないのも、残念です。 強いて言うなら、ゴルフ場の、赤い毛糸の場面が、色彩的に印象に残りますが、これだけ長い作品で、目を引くのがそこだけというのは、寂しいです。 冒険物の要素も欠けていて、金田一御一行が、車で軽井沢をあちこち移動するだけでは、ワクワクのしようもありません。

  ところがねえ。 この作品でなければ味わえないような楽しさもあるのです。 取り調べの会話が、分量的に、大変多いのですが、その中に、他の作品とは比較にならないほど、冗談がたくさん盛り込まれていまして、ミステリーでありながら、結構、笑えるのです。 他の作品で、金田一がごく稀に口にする自嘲的冗談は、ほとんど滑っていますが、この作品のそれは、ちゃんと、笑えるレベルをクリアしています。 ただし、笑いの垣根が高い人には、冷笑されてしまうかも知れませんが。

  極めつけは、「操(みさお)夫人」の存在です。 これは、凄いキャラだわ。 本筋の事件とは、間接的な関係しか持たない人物なのですが、ミステリー・ファンで、ミス・マープル的素人探偵を自認しており、推理というよりは妄想を逞しくして、喋る喋る。 この人を探偵役にして、ミステリーのパロディーを書いたら、滅茶苦茶、面白くなると思います。 横溝さんが、72歳で、このぶっ飛んだキャラを創造したというのが、驚異的。



≪蝶々殺人事件≫

横溝正史自選集 1 収録
出版芸術社 2006年
横溝正史 著

  横溝正史さんの戦後第一作は、昭和21年(1946年)の、≪本陣殺人事件≫ですが、そちらと並行して書かれ、別の雑誌に連載されていたのが、この≪蝶々殺人事件≫です。 「横溝正史自選集 1」には、その二作が収録されています。 長さは、≪本陣≫が、2段組135ページ、≪蝶々≫が、2段組187ページ。 

  ≪本陣殺人事件≫の方は、私が自分で文庫本を持っており、既読である上、今回改めて、読み直したわけでもないので、触れません。 未読だった、≪蝶々殺人事件≫の方だけ、感想を書きます。

  新聞記者、三津木俊助は、戦後、ある出版社から、探偵小説を書くように求められ、戦時中に疎開したまま、国立に住んでいる由利麟太郎を訪ねる。 戦前、由利が解決した事件を小説にする許可を得て、三津木が選んだのが、オペラ歌手・原さくらが、「蝶々夫人」の公演の為に、自らが率いる歌劇団ごと乗り込んだはずの大阪で、コントラバス・ケースに詰め込まれた死体となって発見された事件だった。 由利を中心に、警察の捜査陣、新聞記者らが協力し、殺害現場を晦ますトリックや、原さくらと劇団関係者の因縁を明らかにして行く話。

   ≪本陣≫の探偵役は、ご存知、金田一耕助なのですが、並行して書かれていたにも拘らず、こちらは、由利先生です。 由利先生というのは、横溝正史さんの探偵小説で、戦前まで、探偵役を担っていた人。 三津木俊助は、その助手役です。 ≪蝶々殺人事件≫は、その由利・三津木コンビの最後の晴れ舞台として、書かれた模様。

  謎解きや犯人指名をさせるだけなら、探偵役は、別に誰でもいいのであって、≪蝶々≫を、金田一物として書く事もできたはずですが、同時進行で書いていた、≪本陣≫が、金田一耕助の最初の事件という事になっていたので、≪蝶々≫で、その後の事件を書いてしまうのは都合が悪い。 そこで、由利・三津木コンビに、もう一仕事してもらったという事だと思います。

  戦前の横溝作品は、探偵小説と言っても、怪奇小説的な色合いが強く、それだけだと、ちょっと読む気にならないという人も多いと思います。 由利先生は、探偵としては優れているけれど、人間的には、平均的紳士で、没個性なキャラです。 活動的な仕事を、三津木にふりわけて、役割分担させていたんですな。

  戦時中、体を壊して、筆を断っていた横溝さんは、疎開していた岡山の村で、ディクスン・カーに耽溺して暮らし、戦争が終わると同時に、勇躍、「論理的な、本格トリック物を書く!」と決意し、≪本陣≫と≪蝶々≫を書き始めるのですが、論理性に拘り過ぎて、勢い余ってしまった観があり、両作とも、漫然と読むタイプの読者だと、ついていけないところがあります。 トリックの成り立つ状況が、複雑過ぎるんですな。

  推理作家や、それ専門の批評家、編集者などは、目が肥えているから、どんなに複雑でも、メモを取りながらでも読みこなして、辻褄が合っている事を確認して行くのですが、普通の読者では、「そこまで、できんなあ」というのが本音でしょう。 一般読者にとって、良い探偵小説とは、トリックの意外性だけでなく、人物相関に奥行きがあり、サスペンスが盛り上がり、探偵に個性があり、事件が起こる舞台にも魅力があるという、バランスの良さではないかと思います。

  ≪蝶々≫で、決定的に欠けているのが、探偵の個性と、事件舞台の魅力です。 由利先生は、やはり、怪奇風味の強い作品用に創られた探偵で、論理的トリックものでは、キャラが薄過ぎて、話がギスギスしてしまうのを和らげる力がありません。 事件舞台の方も、東京・大阪間を行ったり来たりしているだけで、何の変哲もないホテルやアパートが現場では、ゾクゾクのしようがありません。 その点は、同じ、トリックやりすぎの作品でも、≪本陣≫の方が、ずっと優れています。

  映像化する事を想定してみれば、≪蝶々≫の見せ場は、コントラバス・ケースの中から死体が発見される所だけで、それは、むしろ、事件の発端なのですから、その後の見せ場を用意するのに、困り果ててしまうでしょう。 謎解きも、単に、部屋に集まって、由利先生が話をするだけではねえ。 本格トリック好きの人達からは、評価が高いそうですが、一般読者向けとは言えない作品だと思います。



≪黒蜥蜴≫

角川文庫
角川書店 1973年
江戸川乱歩 著

  これは、家にあった、母所有の文庫本。 製本工場に勤めていた父方の叔父から貰ったもので、初版です。 中編二作、【黒蜥蜴】と【妖蟲】が収録されています。 【黒蜥蜴】は、昭和9年(1934年)に雑誌連載。 【妖蟲】は、昭和8年(1933年)から、9年にかけて、別の雑誌に連載。 ほぼ、同時期に書き進められたものだそうです。


  【黒蜥蜴】の方は、有名なダイヤを狙い、宝石商の娘の略取を企てる女盗賊と、明智小五郎が戦う話。 【妖蟲】は、美しい女性を略取して殺害し、死体を曝す、猟奇的な一味と、老探偵・三笠竜介が対決する事になります。 どちらも、知略を尽くして、騙し合い、化かし合いを繰り広げます。

  二つ別々の作品なのに、なんで、二把一絡げに感想を書いているのかというと、真面目に分析する気にならないからです。 私は前々から、日本社会に於ける、江戸川乱歩さんの作品の評価は、高過ぎると思っていたのですが、この二作を読んで、ますます、その思いを強くしてしまった次第。 これは、大人の読み物ではないと思うのですよ。

  映画にすれば、R指定がつくような場面が含まれていますが、だからといって、大人向けの話とは言えないわけで、話の作り方自体に、元々、子供向けに書かれた≪少年探偵団シリーズ≫と、大きな違いが見られないのです。 さまざまなトリックが使われますが、本格推理物を読み込んだ読者を唸らせるようなものは、皆無です。 はっきり言わせてもらうと、子供騙しのレベル。

  また、文章が、どうにも古臭い、講談調でして、もしかしたら、発表当時の大衆向け小説では、こういうのが普通だったのかもしれませんが、戦後に生まれ育った世代には、ただただ陳腐でしかなく、物語の緊張感を殺ぐ事、甚だしいものがあります。 たとえば、≪オリエント急行殺人事件≫でも、≪ナイル殺人事件≫でも構いませんが、アガサ・クリスティー原作の映画を、サイレント仕立てにして、活動弁士に語らせたら、「なんじゃ、こりゃ?」と、眉を顰めない人はおりますまい。 どんなによく出来たミステリーでも、文体が相応しくなければ、台なしになってしまいます。 まして、よく出来ていないのですから、尚の事、ひどい。

  人物造形がスカスカで、一人一人の性格が描き分けられていない点も、呆れてしまいます。 いや、呆れを通り越して、驚いてしまうと言った方が適当でしょうか。 将棋で言えば、盤面に、「歩」だけ並べて、戦っているような感じです。 明智小五郎でさえ、何を考え、何を思っているのか、さっぱり分かりません。 乱歩という人は、人間を描く事に、何の興味も感じていなかったのかも知れませんなあ。


  江戸川乱歩さんの小説は、みんな、そんな感じなのに、妙に評価が高いのは、子供の頃、乱歩作品で読書習慣を身に着けた人達が、驚くくらいたくさんいて、三つ子の魂百までとばかりに、その人達が、乱歩作品を決して貶さないものだから、誉められる一方で、実際の価値以上に持ち上げられてしまっているのだと思うのです。

  その気持ちは分からんではないですが、私情を挟まず、ちょっと突き放して見れば、これらの作品群が、紙芝居のネタ以上のものではない事は、すぐに分かるはず。 乱歩作品を映像化すると、みんな、紙芝居レベルになってしまうのは、原作が紙芝居レベルだからです。 紙芝居を愛している人は、気を悪くするでしょうが、ノスタルジーを抜きにして大人が見るものではない事は、認めてくれると思います。

  随分、貶して来ましたが、実は、これでも、好意的に見た方でして、本来なら、子供騙しですから、「評価外」の一言で終わりにするところです。 これから読もうと思っている人は、読むなとは言いませんが、「あれ? 少年探偵団シリーズと変わらないじゃないか」と気づいた時点で、読むのをやめた方が、時間を無駄にせずに済みます。 最後まで、そんな調子ですから。



≪暁の死線≫

世界推理小説大系22 収録
東都書房 1963年
ウィリアム・アイリッシュ 著
稲葉由紀 訳

  「世界推理小説大系」という全集で、カーの≪黒死荘の殺人≫を読んだ時に、同じ本に入っていたから、ついでに読んだのですが、この作者の名前は知りませんでした。 何でも、江戸川乱歩氏が、この作者の≪幻の女≫という作品を絶賛して、有名になったのだとか。 しかし、今の状態では、21世紀まで、名前が残った作家とは、言い難いですなあ。 知る人ぞ知るレベルではないかと思います。


  田舎から都会に出て来て、夢破れたにも拘らず、都会の魔力に捉えられて、なかなか故郷へ戻れない若い女が、ある晩、たまたま、同郷の青年と出会い、二人一緒なら、都会から逃げ出せるかも知れないと思ったものの、青年は、金持ちの家から、大金を盗んで来た直後だった。 二人で、こっそり、金を戻しに行ったら、そこには、家の主の死体が横たわっており、故郷に戻るバスが出る朝6時までに、真犯人を見つけなければならなくなる話。

  この作者、時間的リミットを設けて、それまでに事件を解決させる事で、サスペンスを盛り上げる手法を得意としていたようです。 だけど、どうして、その日の朝6時まででなければいけないのかという理由が、女の気持ちの問題だけで説明されており、些か、というより、だいぶん、弱いです。 こんな気分屋の女では、主人公として相応しくありますまい。

  それでいて、殺害現場に行くと、不自然な程に積極的で、真犯人を捕まえなければならないと、青年に発破をかけるのですが、そんなに、決断力があるのなら、故郷に戻る決心くらい、簡単にできそうなものです。 一人の人物に、まるで正反対の性格を、二人分盛り込んでしまったように思えるのですが、作者が、それに気づいていないのは、主人公の造形として、致命的欠陥と言えるでしょう。

  6時間弱の間に起こった事だけを書いてあるので、映像作品にしたら、おそらく、2時間もあれば、全部描ききれるはず。 1980年に、≪赤い死線≫というタイトルで、日本でドラマ化されたそうですが、その時の長さは、94分だったとの事。 ちなみに、山口百恵さんと三浦友和さんが主演。 私は、確実に見ているはずなのですが、ラスト・シーン以外、中身を全く覚えていません。 

  三段組で、132ページもあって、文庫にすれば、かなり厚い本になると思うのですが、たった、6時間弱の事を描いているのに、そんな文章量になってしまうのは、情景描写が、異様に細かいからです。 はっきり言って、細か過ぎて、鬱陶しいです。 こんなのを、「情景描写に秀でている」などと評価するからいけないのであって、「くどい」と、一刀両断してやった方が良かったんじゃないでしょうか。

  文章の8割くらいが、情景描写なのに、セリフのところだけ読んでも、ストーリーが分かるというのは、つまり、それらの情景描写が、情報として機能していない証拠です。 こんな事をやっているから、アメリカ文学は、小馬鹿にされるのですよ。 なーんでもかんでも、細かく描写すりゃ、いーってもんじゃないんだわ。 「細かく書けば、文学として格が上がる」と、勘違いしている気配すら感じられます。

  この作者にも、アメリカの作家特有の、紛らわしい創作形容が、多く見られます。 しょーもない習慣もあったもんだて。 ちょっと考えれば、分かる事ですが、創作形容も、過剰描写も、表面的な装飾に過ぎません。 小説は、中身で勝負するものなのだという事が、分かっていないんですな。 アメリカという社会全体で。

  映画やドラマの原作のつもりで書いたというのなら、それなりに評価できます。 発表されたのは、1944年だそうで、戦争中に、こういう犯罪サスペンス物の小説が発表できたというのは、アメリカの凄いところですな。 その二つ以外に、誉めるところはないです。




  以上、今回の感想文は、四冊、五作品です。 ≪仮面舞踏会≫と≪黒蜥蜴≫は、3月初旬、≪蝶々殺人事件≫は、3月中旬、≪妖蟲≫と≪暁の死線≫は、3月下旬に読みました。 自転車のレストアが終わって、やる事がなくなり、自然に読書に傾いたという次第。

  引退してからこっち、つくづく思うのは、読書人で良かったという事です。 もし、本を読まない人間だったら、この膨大な暇を、どうやって潰せばよかったのか、想像もつきません。 引退者に必要なのは、一にも二にも、「やる事」なのですが、図書館で本を借りて来れば、返却期限までに、読んで、感想を書かねばならんので、容易に、「やる事」を作り出せるのです。

  中には、買って読む人もいるらしいのですが、収入がないのに、今時の高い本を、ポンポン買っていたのでは、あれよあれよと言う間に、老後破産してしまいます。 図書館にある本なら、極力、借りて読むべきですな。 引退して、濡れ落ち葉となり、誰にも認めてもらえなくなったから、本をたくさん買って本棚に並べ、家を訪ねて来る人に、読書家である事をひけらかそうなどと考えている人は、とんだ思い違いなので、即刻、やめた方がいいです。 尊敬されるどころか、それで破産したら、大馬鹿扱いは必至!

2016/04/17

読書感想文・蔵出し⑱

  別に、記事を書く暇がないわけではないのですが、閑なせいで、読書が進み、読書感想文が溜まる一方なので、ここらで、出しておきます。 ルルーを読んでいたのは、去年(2015年)の10月半ば頃です。 その前に、自分で所有している横溝正史さんの文庫を読み返していたんですが、どこかに、ルルーの名前が出て来て、興味を覚え、借りてきたもの。




≪世界推理小説大系 第7巻 ルルー≫

東都書房 1962年
ガストン・ルルー 著
石川湧 訳

  著者の、ガストン・ルルーは、フランスの記者・小説家で、1868年生・1927年没。 小説を書き始めたのは、1907年からで、当時、フランスでは、モーリス・ルブランの、アルセーヌ・ルパン物が大受けしていて、それを横目に見て、推理小説を書き始めたらしいです。 同時期に、イギリスでは、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物が発表され続けていて、そちらの影響も強く受けていたようです。


【黄色い部屋】
  最初の長編推理小説。 3段組で、138ページもあるので、文庫にしたら、一冊では、かなりの厚さになると思います。 発表は、1908年。 大人向けに訳された、ルパン物を読んだ事がある人なら、思い当たるかも知れませんが、この時期のフランスの小説に共通した特徴として、決して、読み易い文章ではないです。 話の持って行き方が、遠回りで、勿体ぶっているように感じられます。 大デュマや、バルザックの頃の小説と比べると、時代が変わってしまった事が良く分かるのですが、進化したという感じはしません。 

  1892年、パリ近郊の田舎、ル・グランディエに建つ科学者宅の、離れ家の中にある「黄色い部屋」で、娘が何者かに襲われて、重傷を負う事件が起こり、完全な密室で起こった事件に、警察の捜査がお手上げになった後、ロンドンに出張していた、警官探偵のフレデリック・ラルサンが呼び戻され、矛盾のない説明で、密室の謎を解いてみせるが、同時に捜査を開始した、弱冠18歳の新聞記者、ジョゼフ・ルールタビーユの見解は、別のところにあり、二人とも、屋敷に住み込んで、捜査を進める内に、第二・第三の犯人消失事件が起こる話。

  【黄色い部屋】は、機械的・物理的トリックに頼らない、密室物の代表とされていて、その点に関しては、謎が解けると、「なるほどなあ」と、思わされます。 だけど、犯人の意図とは無関係の、偶然の要素が、かなり多く絡んでいて、犯罪トリックになっていないようにも思われ、巧みに、ピントをズラして、読者を煙に巻いたようなところが、なきにしもあらず。

  この頃になると、謎の解明だけで、長編が埋まるほど、推理小説が発達して来ていたんですな。 因縁話だけで、半分、水増していた、ガボリオや、ドイルとは、同じ長編でも、書き方が、全く異なっています。 逆に言うと、因縁話を、最小限に抑えて、犯人消失の謎にばかり、ページ数を割いているせいで、小説というより、数学の証明を読んでいるような、無味乾燥な感じもします。

  そもそも、密室で殺人事件が起こった場合、合理的な解釈は、自殺しかないので、犯人がいるとしたら、「自殺に見せかけたかった」という事になります。 ところが、【黄色い部屋】の密室では、被害者は死んでおらず、意識も回復しますから、自傷に見せかけるなんて事はできないわけで、そうなると、「犯人は室内にいなかった」という、ルールタビーユの結論は、自明の理という事になり、謎というほどの謎ではなくなってしまいます。

  とはいえ、この作品が、つまらないかと言うと、そんな事はないのであって、前半こそ、語り口が遠回しなのに、イライラさせられますが、第二の犯人消失事件が起こった辺りから、面白くなり、後は、一気に、最後まで、引っ張って行かれます。 密室のアイデアだけでなく、「人物の描写に頼らない、謎解きの要素だけで構成した小説でも、面白く書く事はできる」という証明をした点で、この作品は、高く評価できるのです。

  ただし、それはあくまで、推理小説としての評価でして、文学としては、全く、相手にされないと思います。 誉め過ぎると、誤解する人もいると思うので、念の為に、書き添えておくわけですが・・・。 この辺りから、推理小説が、他の小説と、袂を分かって行ったんでしょうねえ。

  被害者である、科学者の娘は、「嬢」と書いてあるものの、年齢は、35歳くらいで、過去に、結婚・出産の経験があるというのが、探偵ルールタビーユの、不自然なほどの若さと関係があるのですが、【黄色い部屋】だけを読む場合、そこら辺のキャラ設定には、無理があり、「嬢」が、そんなに高齢でなければならない、理由がありません。 それらは、続編である、【黒衣夫人の香り】の為に張られた伏線なのです。



【黒衣夫人の香り】
  二番目に書かれた長編推理小説。 3段組で、144ページあり、≪黄色い部屋≫と、ほとんど、同じ長さです。 発表は、1909年。 主要登場人物のほとんどを、【黄色い部屋】と共有しています。 犯人まで同じ人物で、一応、別の作品という事になっていますが、【黄色い部屋】の続編というより、【黄色い部屋】と【黒衣夫人の香り】は、一つの小説の、第一部と第二部の関係にあると言った方が適当です。

  【黄色い部屋】の事件が解決した後、科学者の娘は、婚約者と結婚し、新婚旅行に出かけるが、すでに死んだはずの、犯人の姿が目撃された事で、地中海に面したイタリア領の古城に逃げ込み、呼び寄せられたルールタビーユの指揮の元に、防御を固めるものの、再び、犯人の襲撃を許してしまう話。

  これ以上、書けませんな。 こちらは、「一人二役」と「入れ替わり」のトリックが使われているのですが、【黄色い部屋】より、更に、複雑に入り組んでおり、書くとなると、ネタバレしてしまいます。 というか、複雑過ぎて、梗概に要約するのは、不可能です。 無理に書いても、何がなんだか、分からなくなってしまうでしょう。

  いやはや、よくもまあ、こんな、ややこしいアイデアを、思いついたものですな。 小説というより、トリックを捏ね回す遊びを楽しんでいる感じです。 「一人二役」や「入れ替わり」というのは、推理小説では、よく使われますが、こんなに入り組んだのは、初めて読みました。 推理小説とは言い条、こんなのを推理しながら読むのは、まず、無理でしょう。 コリン・デクスターの作品と同じで、作者に引っ張り回されるままに、ついて行くしかありません。

  本来、妻や、友人・知人が周囲にいる中で、特定の人物に、別の人物が入れ替わるというのは、無理があると思うのですが、それは、作者も承知していて、無理が無理に見えないように、いろいろと、工夫を凝らしています。 しかし、実際には、やはり、無理な感じがしますねえ。 外見だけ似せても、体臭や、仕草、癖などで、すぐに、バレてしまうでしょう。 だけど、推理小説だと、それは、「アリ」という、お約束になっているんですな。


  解説によると、ルルーという人は、ルールタビーユを探偵役にした作品を、いくつも書いたけれど、最初の二作、【黄色い部屋】と【黒衣夫人の香り】だけが、推理小説史に残り、他の作品は、忘れ去られてしまったのだそうです。 この二作が、図抜けて、優れていて、これらを外すと、推理小説の全集が組めないくらいなのだとか。 その事は、読んでみると、すんなり、納得できます。




  以上、今回の感想文は、一冊、二作品です。 少ないですが、実は、この後、私の読書は、ディクスン・カーの世界に入ってしまい、カーについては、数が多くなりそうなので、「読書感想文・蔵出し」ではなく、別のシリーズを設けるつもりでいまして、今回、中途半端に出してしまうわけにはいかないのです。

  ルルーは、フランスの作家で、推理小説の草創期には、フランス人作家も、気を吐いていたんですが、その後、英語圏で、クリスティーや、クイーン、カーなどが、膨大な数の作品を発表するようになると、すっかり、影が薄くなってしまいます。 もしかしたら、似たような話が多くなるのを、フランス人作家が嫌ったのかも知れません。

  でもねえ、私の好みなだけかもしれませんが、推理小説の舞台には、フランスを始め、ヨーロッパ大陸の方が、似合うと思うんですよ。 歴史の層の厚さが、不気味な雰囲気を、自然に醸し出してくれるんですな。 ウンベルト・エーコの、≪薔薇の名前≫なんか、トリックとしては、子供騙しもいいところですが、単に中世イタリアの修道院が舞台だというだけで、どれだけ、得をしていることか。

  英語圏でも、イギリスは、まだいいんですが、アメリカになると、もう、全然、駄目でして、クイーンなんて、雰囲気が軽過ぎて、読めたもんじゃありません。 いや、≪X≫、≪Y≫、≪Z≫は、一応、読みましたがね。 いつ読んだんだろう? おやおや、高校の時ですよ! 学校の図書館で借りて読んだのです。 大昔ですな。

  アメリカの作家でも、ポーの、デュパン・シリーズのように、ヨーロッパを舞台にした作品は、面白いのです。 アメリカが舞台だと、みんな、テレビ・ドラマの刑事物みたいに、軽くなってしまうんですな。 ゾクゾクしないのでは、推理小説の最低要件も満たさないと思うのですがねえ。

2016/04/10

濫読筒井作品⑬

  筒井康隆さんの新しい本が、いつのまにか、図書館に入っていたので、借りて来ました。 その時、見つけたのは、≪世界はゴ冗談≫の方です。 発行が、2015年の4月、図書館の購入が、5月、私が見つけたのが、2016年の3月ですから、10ヵ月も気づかなかったとは、迂闊にもほどがある。 「ファンなら、そもそも、自分で買え」と思うでしょうが、私は、文庫以外、買わない主義でして、引退してからは、尚の事、お金にゆとりがなくなり、単行本など、とてもとても・・・。

  ≪モナドの領域≫の方は、新聞の書評で、出た事は知っていたのですが、どうせ、しばらくは、予約が多くて、読めないだろうと思って、おっとり構えていたもの。 ≪世界はゴ冗談≫を読んだ勢いで、≪モナドの領域≫の予約状況を調べてみたら、割と早く借りられそうだったので、私も予約を入れておき、空き次第、読んだという次第。

  ところで、≪世界はゴ冗談≫の方はともかく、≪モナドの領域≫に関しては、かなり、辛辣な感想文になってしまいました。 筒井作品の熱心なファンの方は、気分を害するかも知れない事を、お断りしておきます。 ただ、≪モナドの領域≫を読んで、何の疑念も抱かないまま、心酔してしまったような方は、逆に、胸糞悪くても、読んだ方がいいと思います。




≪世界はゴ冗談≫

新潮社 2015年
筒井康隆 著

  ≪世界はゴ冗談≫は、短編集です。 2010年から、2015年までに発表された短編小説が9作と、2014年の随筆が1作、収録されています。 若い頃から変わりなく、短編小説を書き続けてくれているのは、大変、ありがたい事です。 つくづく思うのですが、こんなに読者サービスに篤い作家は、稀です。 晩年に大ブームが来て、新作長編を書いてくれた横溝正史さんのファンと、筒井さんのファンで、幸せ比べができそうなくらい。 ちなみに、私は両方のファンですが。

  筒井さんの最近の短編は、若い頃や、文壇席巻した頃のそれとは、だいぶ、趣きが異なるのですが、「年齢のせいで、衰えた」という感じがせず、「成長を続けている」とまでは言わないものの、「変化を続けている」と感じられるのは、凄いです。 恐らく、書き続けている限り、変化が停まる事がないのではないかと思います。

  最も人気が高かった時期に、予め、「メタ・フィクション」や「小説とは、形式から自由な文芸」という考え方を読者に広めてあったから、読者側は、筒井さんの小説が、どんな風に変化しても、一見、「やっつけではないのか?」と疑える作品であっても、「それこそが、この作品の価値」として、受け入れざるを得ないんですな。 意図的に、そういう風に、読者を教育したのかどうか分からないのですが、恐ろしく頭のいい人だから、満更ありえない話ではないです。

  それはともかく、短編集の感想文は、書く前から、気が重いっすねー。 長編なら、10段落くらい書けば、結構、細かく評した事になりますが、10作入った短編集だと、10段落書くとしても、1作に1段落しか割けない事になり、それでは、ツイッターになってしまいます。 内容紹介は、一行で片付けるとしても、1作あたり、最低でも、2段落は欲しいところ。 書く前に、そういう計算をしているのだという事を、念頭に置いて、読んで下さい。

  そういや、ネット上で、他人が書いた、小説作品の感想を読んでいると、異様に長い文章にぶつかって、驚く事があります。 感想というより、評論ですわ。 そういう人って、文芸評論家を目指して、勉強した経歴でもあるんでしょうなあ。 しかし、ざっと見渡して、100行を超える評論となると、如何に中身が濃くても、全部、読む気になれません。 そんな長い評論を読む時間があったら、別の小説を読む方に回します。

   短編の感想文が長くなってどうこう、という以前に、前置きが長いんだよ。 さっさと始めましょう。


【ペニスに命中】
  異様に行動力の旺盛な、実質、認知不全、自称、「互換症」の老人が、街に繰り出して、行き当たりばったりで、やりたい放題やりまくる話。 やりたい放題の雰囲気が、【アノミー都市】に似ていますが、こちらは、周囲はまともで、語り手である主人公の、頭がイッてしまっている設定なので、より、過激です。

  これ、すげーなー。 「fracora」のCMじゃないけど、筒井さんを全然知らない人に読ませて、「突然ですが、この小説、何歳の人が書いたと思います?」と街頭インタビューしたら、「80歳」と当てられる人は、一人もいないと思います。 いや、普通、何歳でも書けないでしょうねえ。

  公民館に入り込み、講師にすりかわって、≪源氏物語≫について、自説をぶちかますところは、源氏を読んでいる人間には、爆笑物ですな。 この小説の、この件りを楽しむ為だけに、源氏物語を全帖読む価値があると言っても、過言ではない。 警察での取り調べの場面も面白いです。 たぶん、筒井さんも、自分が警察の取調べを受ける様子を想像して、いかに、刑事を煙に巻くか、案を練った事があるんでしょうなあ。 私が想像すると、必要以上に神妙になったり、逆に暴力的になってしまったりしますが、この作戦は、鮮やかだわ。


【不在】
  ある大震災の後、男の赤ん坊が全く生まれなくなってしまい、歳月の経過と共に、高齢化し減って行く男達の代わりに、女があらゆる業種に従事するようになった世界で、それまでいた者がいなくなる事を共通したモチーフに、個別のエピソードが並行して語られる小説。

  男が生まれなくなった世界というと、性別逆転大奥と同じアイデアですが、こちらは、「喪失」がテーマでして、誰もいない葬儀場に独り取り残されたような、寂しさ、虚しさが漂っています。 純文学では、こういう、雰囲気重視の短編は、よく見られますが、失うばかりで、全く救われないので、読んでいて楽しい小説ではないです。

  大震災がきっかけになっていますし、2012年の作品なので、もしかしたら、福島第一の事故から、こういう大規模な異常の発生を発想したのかも知れません。 ただ、人が消えるエピソードは、どれも、原因の説明がないので、単に、似たようなエピソードを寄せ集めたような気がせんでもなし。

  男が少なくなっているから、高齢でも、モテるわけですが、こういう状況でモテても、嬉しくはないでしょうねえ。 却って、鬱陶しいと思います。 おちおち、散歩もできやしない。


【教授の戦利品】
  蛇の専門家である教授が、蛇が生理的に嫌いな連中を相手に、蛇を使って、やりたい放題やりまくる話。 これを言ってしまうと、人間の程度がバレてしまいそうですが、私は、こういう話が大好きでして・・・。 なんで、こんなに楽しいのかな? また、この小説、話の流れが、立て板に水で、素晴らしいんですわ。 ノリノリという感じ。 食べると若返るという、架空の蛇も出て来ますが、その部分がなかったとしても、十二分に面白いです。

  不思議なのは、蛇について、物凄く細かく調べて、書いているわけではないという点でして、ネットがある御時世ですから、調べようと思えば、誰でも、短時間で、このくらいの知識は得られると思うのですが、では、他の人が、こういう小説を書いて、面白くなるかというと、たぶん、全然、駄目だと思うのですよ。 この匙加減は、名人芸としか言いようがありません。

  こういう話こそ、≪夜にも奇妙な物語≫で映像化すべきでしょうな。 蛇嫌いのタレントを集めて。 演技を超越した迫力が出るに違いない。


【アニメ的リアリズム】
  バーで泥酔した男が、車に乗って帰ろうとする、ただ、それだけの事を、男の目線で描写した話。 8ページの短さです。 私が、酒を飲まない人間で、泥酔体験がないからかも知れませんが、あまり、面白いとは感じませんでした。 しかし、もし、ここまで酔ったら、それはもう、薬物使用レベルの感覚になるんでしょうなあ。 そのまま、逝ければ、幸せというべきか。


【小説に関する夢十一夜】
  ≪着想の技術≫という本に、筒井さんが、夢で得た着想を書き留めていると書いてありましたが、たぶん、その中から、小説に関する夢だけを、11篇、集めたものと思われます。 小説というよりは、小話で、ほとんどに、オチがついています。 大笑いするほどではないですけど、ニヤニヤするには、充分。

  私の好みでは、「幽霊に小説を書かせる話」と、「被災地で文芸復興する話」、「失恋小説を書けない話」が面白かったです。 夢の中で、ダジャレが出て来たり、オチがついていたりするのは、興味深いです。 私も、眠れば、必ずと言っていいほど、夢を見ますが、そういう気の利いた夢は、まず見ません。 アイデアを考えなければならないという圧迫がないからでしょうか。


【三字熟語の奇】
   2352個の三文字熟語を並べたもの。 冒頭から、2197個は、普通の三字熟語で、別に仕掛けのようなものは施されていないようです。 残りの155個が読みどころでして、「怪岸線、愚体化、卒倒婆、度量昂」などの、差し替え言葉で埋め尽くされています。 あまりたくさん、引用すると、読む楽しみがなくなってしまうから、控えておきます。

  もし、全部、差し替え言葉になっていたら、凄かったでしょうねえ。 ・・・、もしかしたら、普通の三字熟語、2197個の中にも、差し替え言葉が混じっている可能性がありますが、私ももう、歳でして、全部に目を通す気力がありません。 それにしても、これを、「文學界」に出したというのが、凄い話。


【世界はゴ冗談】
  三部に分かれています。 しかし、互いの関連性は、なさそうです。 寄せ集めたんですかね? なぜ、これが表題作になっているのか、首を傾げたくなるところ。

・ 太陽黒点の増加で、磁場が狂い、鯨が大移動を始めたり、旅客機が操縦不能になったりする話。
・ 王家の跡継ぎが決まる因果関係に関する夢を、ある男が見る話。
・ 家電製品や、カーナビの機会音声が、混信を始め、えらい事になってしまう男の話。

  それぞれの話を単独で読んでも、アイデアをよく練らない内に書き始めて、結局、纏まりが悪いまま、最後まで行ってしまったような感じ。 第二作は、もう一捻りすれば、面白くなりそうなのですが、その前に終わってしまいます。 第三作は、この中では、一番、纏まりがいいのですが、機械音声の混信というアイデアは、すでに、どこかの芸人に使われている気がしないでもないです。


【奔馬菌】
  冒頭からシュールで、ストーリーが暴れまくっていると思ったら、いきなり、小説が書けなくなった理由を吐露した随筆のようになり、思いついた事を、片っ端から書き付けているような、メタにして滅茶苦茶な展開に驚かされるのですが、3分の1くらい行ったところで、ようやく、落ち着き、家に戻った主人公が、とある気象プロジェクトの為に、政府から送り込まれたと思われる三人の男達に連れて行かれそうになる話になります。

  歳を取ってから、若い頃に書いていたような、リミットなしの外国批判や、差別意識を全開にした作品が書けなくなってしまい、その反省から、この作品を書いたようなのですが、書けば書くほど、リミットが浮かび上がってしまっています。 別に、それが欠点というわけではなく、つまり、作品全体で、「昔のような、言いたい放題の小説は、もう書けんな」と表現しているという事でしょうか。

  でもねえ、世界の大きさが広かった当時ならまだしも、このグローバル化著しい現代に、≪色眼鏡の狂詩曲≫を読んで、名作だなんて持て囃しているような連中は、遠ざけておいた方がいいと思いますよ。 剣呑な小説独特のヒヤヒヤ感を、密かに楽しんでいるのではなく、「我が意を得たり」で、大喜びしているようなやつらが相手では、絶賛されても、百害あって一利ありますまい。


【メタパラの7・5人】
  まず、このタイトル。 本では、縦書きなので、分かり難いのですが、たぶん、「・」は、小数点で、「7.5人」を意味しているのではないかと思います。 この人数は、登場人物の頭数だと思うのですが、実際に登場している人の数なのか、会話の中で触れられているだけの人も含むのか、作者も含むのか、読者も含むのか、数え方が分かりません。

  老画家の四十九日に、本人と妻、娘二人、妹の夫、編集者が家に集まり、娘達が幼い頃に、その姿を描いて出版し、大人気を博した絵本シリーズについて、思い出話を語りあう内に、登場人物が読者に話しかけ、作者がしゃしゃり出る、メタ・パラな小説になっていく作品。

  メタ・フィクションは分かりますが、パラ・フィクションというのは、「(作者による)、読者を小説の中に捉えようとするさまざまな試み」の事なのだそうです。 だけどまあ、冒頭から、8分目くらいまでは、単に、死んだ人が出て来て、生きている人間と、普通に会話をしている、幽霊物という感じです。 そこまでは、【ぐれ健が戻った】と同類と思って読んでいる人が多いのではないでしょうか。

  残りの2分目で、メタ・パラになるのですが、その部分は、小説と言うより、論説のような趣きです。 そもそも、パラである前に、メタだから、何でもアリなわけですが、メタについて予備知識がない人が読むと、やはり、「なんじゃ、こりゃ?」と思うでしょうねえ。 前の8分目が、割と普通の小説っぽいから、尚の事、後ろの2分目が浮くわけです。 だけど、なにせ、メタだから、浮こうが、木に竹だろうが、一向に構わないわけで、もはや、こうなると、何でもかんでも小説にできる、魔法の杖を握っているようなものですな。

  メタ・フィクションを日本に導入した筒井さんの作品だから、読者の方も、自然に受け入れられるわけですが、もし、同じような小説を、全く無名の人間が、新人賞に応募したら、確実に予備選考で落とされるでしょうねえ。 「芸術は、過程ではなく、結果だ」とは、よく言われますが、実際には、そんな事はなくて、作者の知名度や経歴が大いに物を言う世界なんですな。


【附・ウクライナ幻想】
  これは、小説ではなく、随筆です。 内容的には、回想録っぽいです。 2014年の2月から始まった、「ウクライナ危機」を受けて、筒井さんが、かつて、日本の作家として、ソ連を訪問した時の思い出や、ロシアの英雄譚、【イリヤ・ムウロメツ】を書くに至った経緯、そのストーリーの概要を書き綴ったもの。

  もしかしたら、ロシア政府批判や、ウクライナの新政府批判など、剣呑な主張が含まれているのではないかと、地雷原を進む気持ちで、ヒヤヒヤしながら読んだのですが、そういう事は全くなくて、ただただ、懐かしい思い出に浸りつつ、危機の行方を案ずるという、じょぼじょぼに叙情的な内容でした。 常に対象を突き放して見ている筒井さんが、こんなに叙情的な文章を書くのは、大変、珍しいです。

  私は、【イリヤ・ムウロメツ】は、「ショートショートランド」に連載されていた頃に、初めて目にして、数年前に、文庫も手に入れているのですが、未だに、通して読んでいません。 筒井さんの作風と、全く違うので、何となく、入って行けないのです。 筒井さんや、【イリヤ・ムウロメツ】に挿絵を描いた手塚治虫さんは、昭和17年(1942年)に出版された漫画、【勇士イリヤ】から、大きな影響を受けたらしいのですが、どうやら、その漫画が、よほど、面白かったものと思われます。 だけど、小説になると、なかなかねえ・・・。 いや、閑人ですから、その内、読みますけどね。 単なる、読まず嫌いなのかも知れないし。



≪モナドの領域≫

新潮社 2015年
筒井康隆 著

  帯のコピーは、

「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」

  なのですが、頭のいい人というのは、戦略的に嘘をつくので、こういうのは、とりあえず、疑ってかからねばなりません。 「おそらくは最後の長編」というのは、「おそらく」で逃げ道を作ってありますし、おそらく、この作品を書いた時点では、本当に、そう考えていた可能性が高いので、まあ、問題ないとして、「わが最高傑作」というのは、嘘ですな。 ただ、これも、「自分が、そう思っているのだ。 主観の問題なのだ」という逃げ道があり、嘘の立証は困難です。

  だけど、これを「最高傑作」と言ってしまうと、長編に限るとしても、≪虚航船団≫や、≪パプリカ≫の位置づけに困ってしまうと思うのですよ。 物語としては、型に嵌まったもので、メタのような仕掛けは、ほんのちょっとしか使われていません。 話がこじんまりしていると感じられるのは、本来、短編に使われる枠を用いているからだと思います。 問答部分で膨らませているんですな。 それが、哲学問答なので、哲学に全く興味がない読者には、読み通すだけで、つらいと思います。


  河川敷で女の腕が、公園で脚が発見され、バラバラ殺人を念頭に刑事達が捜査を始める中、近くのベーカリーで、アルバイトの代役として雇われた美大生が作った、女の腕そっくりのパンが話題になり、人気を集める。 その美大生から、美大の教授へ、引き継ぐ形で、何者かが憑依し、彼は、「神に近いもの」と称して、人々の信仰を受け始める。 やがて、彼は、自ら起こした傷害事件の裁判を経て、「GOD」と呼ばれるようになり、テレビの特番に出演して、創造主、宇宙、人類の関係について語り、その中で彼が現れた目的が暗示され・・・、という話。

  ほとんど、全部書いてしまいましたが、前述したように、ストーリーを楽しむ小説ではないので、ネタバレ云々は、問題にならないと思います。 1977年のアメリカ映画に、≪オー!ゴッド≫というのがありますが、日本のテレビでも放送したので、現在、50歳以上の人なら、見ている人が多いでしょう。 ストーリーの大枠は、大体、あれと似てます。 単に、ストーリーを楽しむだけなら、≪オー!ゴッド≫を見た方が、面白い。

  実は、女のバラバラ死体も、ベーカリーも、美大生も教授も、裁判も、テレビ特番も、ただの道具立てに過ぎず、この作品の眼目は、「造物主が、全宇宙のプログラム(モナド)を作り、全宇宙で起こる全ての事は、そのプログラムに従っている」という設定に於ける宇宙の仕組みを解説する事にあります。

  裁判の方では、GODが本物の造物主である事が証明され、テレビ特番の方で、人類や地球の問題を含む、宇宙の真理が語られます。 どちらも、GODが質問に答える問答形式で進行し、特番の方では、一般視聴者がついて来れるようにと、極力優しい言葉で語られるので、読者にとっても分かり易い説明になっています。

  哲学を、一般人に理解できるように語るには、会話形式で進行するのが一番でして、実は、それでも、難しい事は難しいのですが、他の書き方よりは、遥かに分かり易いです。 この点、プラトンの「対話編」に倣っていると思われますが、テレビの討論番組の形を利用したのは、筒井さんらしい工夫だと思います。


  その、宇宙の真理の内容ですが、テーマ、一つ一つに喰いついていると、どえりゃあ長さになってしまいますから、それはやめるとして、これから、この本を読もうという人に、いくつか、注意喚起だけして、感想に代えようと思います。 感想文としては、最初から逃げを打っているわけで、ズルいのですが、私は、そういう人間なんですよ、と開き直っておきましょう。

  なんつーかそのー、私は、こういう、神仏問題や、宇宙のことわり問題については、もう、自分なりに答えを出してしまっていて、死ぬ準備に余念がないステージに入っている人間でして、今から、バックして、神の本質がどうの、宇宙の始まりがこうのと、頭がキリキリするような難しい問題に、もう一度浸かる気になれんのですわ。

  いや、別にこれは、私が筒井さんより、先に進んでいるというわけではなく、筒井さんは、作家として、今まで、この種の問題に、積極的に触れて来なかったから、最後の長編で、考えを述べておこうと思ったのだと思います。 単なる読者であり、一般人に過ぎない私には、そういう義務も責任もないというだけの違い。 ちなみに、≪ジーザス・クライスト・トリックスター≫とは、テーマが全く異なるので、そちらから類推するのは、無理です。


  で、注意喚起ですが、この小説に於ける、GODの扱いは、明らかに、「インテリジェント・デザイン」に従っており、科学的には、全く、根拠がありません。 「インテリジェント・デザイン」については、検索すれば、いくらも説明が読めますから、自分で調べてみてください。 それが面倒臭いという方に、一言で説明すると、「この宇宙は、造物主が創ったものである」という考え方です。

  「当たり前ではないか」と思った人は、近代以降の科学が、神の否定からスタートしている事を思い出してください。 神の問題は、非常に厄介でして、その最たるものが、これだけ、科学技術の恩恵にドブ浸けされている現代でも、神の存在を信じている人が、明らかに多数派として存在しているという事です。 困った時だけ神頼みする人を含めると、圧倒的多数になります。

  「当たり前ではないか」と思った人は、その多数派に属するわけだ。 それが、科学と真っ向から対立する考え方だという事に気づいていないのかも知れません。 「科学は科学で、その成果は享受するが、神は神で、別の問題」という扱い方をしているのでしょう。 ところが、両者の接合点というのがあり、「宇宙は、神によって創られた」と言ってしまうと、科学者は、色めきたって、「おいおいおい、ふざけるなよ!」という反応になるわけだ。

  インテリジェント・デザインという考え方は、割と最近、アメリカで出て来たものです。 アメリカでは、昔から、「神が人間や動物を創った」という聖書の教えを信じるキリスト教関係者が、学校でダーウィンの進化論を教えている事に、抗議してきた歴史があるのですが、その宗教界からの圧力が、戦法を変えて、搦め手から攻めて来たのが、インテリジェント・デザインなのです。

「進化論も、ビッグ・バン理論も認めるが、その大元は、神が創ったものである」
「宇宙の法則を決めて、最初のスタート・ボタンを押したのは、神だ」

  というわけです。 科学の成果と矛盾しないという点で、一見、科学的なように見えますが、その実、これは、「否定的証明」に過ぎません。 つまり、「宇宙を作った神が存在しなかった事は、証明できない」というだけの事です。 「肯定的証明」、つまり、「宇宙を作った神が存在した事は、証明できる」というのでなければ、科学的な根拠とは言えず、「否定的証明」の別名は、単なる、「空想」です。 ちなみに、空想を信じてしまうと、「妄想」になります。

  インテリジェント・デザインを言い出した人達は、とりあえず、科学者達に、神の存在を認めさせる足がかりを作り、行く行くは、聖書の教えそのものを信じさせるつもりだったのかも知れませんが、科学者を納得させる為に、キリスト教以外の宗教の神も、造物主として認めてしまったせいで、同志であるはずのキリスト教界からも、「妥協のし過ぎ」と見られ、もちろん、科学者達からは、「そんな考え方は、一点たりとも認めるわけには行かない」と突っぱねられて、今では、宙ぶらりんな立場に置かれているようです。


  でねー、その、現状いいとこなしの、インテリジェント・デザインが、この小説の、拠って立つ基盤になっているんですよ。 困ったね、こりゃ。 作中に、ダーウィンと聖書の問題が、ちらっと出て来ますから、筒井さんが、インテリジェント・デザインの問題を知らないわけがないのですが、なんだってまた、こんな危なっかしい考え方を、作品に取り入れてしまったのか。

「これは、あくまで、小説であって、その中に出て来る理論や考え方を、作者が信じている事にはならない」

  というのは、承知しているのですがね。 この小説がもし、もっと軽いテーマを扱ったもので、インテリジェント・デザインを皮肉るような話であれば、別に、何とも思わないのですが、そんなところは微塵も感じなくて、作者自身が、宇宙をプログラムしたGODの存在を信じ込んでいるように、自信満々で書かれているから、こちらは、頭を抱えてしまうのです。 ほんとにいいんですか、最後の長編が、これで?

  せめて、この小説が、SFである事を、もっと、はっきり書いていてくれたら、心安く読めるのですが・・・。 ほとんどの人が、SFとは思わず、哲学・宗教を真剣に語っている作品として読むと思うのです。 「多元宇宙の部分だけが、SFで、GODの存在や問答部分の内容は、作者が本気で、そう信じていて、自分の信念を小説の形で表現したのだ」と取ると思うのです。


  そういえば、読んでいる途中で、ふと思ったのですが、GODの真似なら、できない事はないですな。 作中で、GODが造物主として、人々から認められた理由は、質問に対するGODの回答と、いくつかの奇跡を見せたからなのですが、回答の方は、哲学や宗教学を勉強して、矛盾がない宇宙論を頭に入れておけば、簡単にできます。

  奇跡の内、言い当ての方は、ホット・リーディングで、楽勝。 予言の方も、予め、信者を獲得しておいて、示し合わせれば、さほど難しくはありません。 催眠術を使うまでもなく、柿崎翔太役や、彼を治療した医師役も、信者にやらせれば、問題なし。 サウジアラビアでのテロの犠牲者も、「GODの為なら、死んでもよい」という狂信的信者を、38人揃えれば、実現できます。 今のような御時世では、あながち、荒唐無稽な方法とも言えますまい。

  さて、実際に、そういう事をやってみたとして、世間がGODを、造物主として認めてくれるかどうかとなると、かなり、怪しいですねえ。 肝心の奇跡が、トリックで説明がつくのでは、とても、信用してもらえないでしょう。 神の手下を騙って、多くの信者を集めた者はいますが、神そのものとなると、事が大きくなってしまって、ボロが出るのを隠しきれなくなると思います。 いや、そんな事は、この小説の評価とは、関係ない事ですけど。


  筒井さんの最高傑作にして、おそらくは最後の長編だというのに、ああだこうだと貶しまくってしまいましたが、「些か、注意点もある」という事を頭の隅に置いた上で、この種の問題について勉強する際の参考にするのであれば、問答部分は、大変、面白いです。 私は、借りて来た本では珍しく、三回読み直しましたが、三回とも、面白かったです。


  いやあ、こういう感想は、まずいなあ。 筒井さんは、高評価されると、やる気になるタイプでして、もっと書いて欲しかったら、問題があっても、誉めた方がいいのです。 だけど、インテリジェント・デザインの評判の悪さを思うと、誉められる部分が、大変、限定されてしまって、どうしても、こんな感想になってしまうのです。

  では、「おりゃ、インテリジェント・デザインなんて知らねー。 GODに会いたいなー。 ちょっとでいいから、自分の未来を教えて欲しいなー」という程度の姿勢で読める読者なら、面白いかと言うと、そうでもなくて、そういう読者には、逆に、内容が難し過ぎると思います。 哲学用語が出て来た時点で、理解を諦めてしまうでしょう。 結局、この作品を、諸手を挙げて絶賛・歓迎するのは、インテリジェント・デザイン主義者だけという事になってしまうのですが・・・、ほんとに、それでいんですかねえ。




  感想文は、以上です。 いっや~、長かったなあ。 本そのものを読むのにかかった時間より、感想文を書いている時間の方が、長かったんじゃなかろうか? 一円にもならず、誰にも誉められないのに、どえらい手間と時間をかけて、こんな長文、書く意義があるのかのう?と、つくづく思う次第。

  私は別に、作家の方々のオマケとして生きている人間ではないわけで、もっと、自分自身の為に、残りの人生を使った方がいいのかも。 だけど、これと言って、やる事も、やりたい事もないんだよね。 で、結局、読書で時間を潰す事になり、自動的に、また、感想文を書かねばならなくなるわけだ。

2016/04/03

老い行く父

  いよいよ、父の頭の衰えが進行し、レコーダーを使えなくなってしまった様子。 テレビをモニターとして使い、レコーダーのチューナーで見るようにしていれば、レコーダーの使い方が分からなくなる事はないのですが、父は、そういう考え方ができず、その時に放送している番組を見る時には、テレビだけにして、レコーダーの電源を落としてしまうので、全体の操作がややこしくなり、頭が衰えて来たせいで、対応できなくなってしまったのだと思います。

  唯一の楽しみである、時代劇が見れないのは、気の毒なので、とりあえず、録画予約は私が行ない、再生する時にも、レコーダーへの入力切り替えまでは、私がやる事にしました。 なぜか、レコーダーから、テレビに入力を戻すのは、自分でできるようなのです。 いきなり、全てが分からなくなってしまうわけではないわけだ。


  実は、もう、明らかに、認知不全と思われる症状も出ていて、かれこれ、十日くらい前の事、夜の9時頃、父が私の部屋に血相変えてやって来て、「来い」というので、父の部屋に行ってみると、テレビの背後の、部屋の壁を指し示し、「ここに扉が開いて、人が入って来た」と言います。 もちろん、そんな所に、扉はありません。 おそらく、テレビを点けたまま、眠ってしまい、はっと目覚めたら、点けっ放しだったテレビに、扉から人が出て来る映像が映っていたのを見て、自分の部屋に人が入って来たと、思い込んだのでしょう。

  どうも、目覚めてから、5分くらいは、意識がはっきりせず、夢と現実の区別がつかない状態が続くようです。 ただ、完全に起きている時でも、その妄想が残っていて、「夜中に、ケーブル・テレビの人間が、内緒で工事に来た」というような事を口にします。 これはもう、「寝ぼけた」で片付けられる症状ではありますまい。

  「夜中にテレビが、勝手に点く」というのは、去年の11月頃から言い出した事で、最初は、レコーダーとのリンクで、そういう設定になっているのかと思ったのですが、リンクを切っても、まだ点くと言います。 その内に気づいたのは、父が、テレビを点けたまま眠ってしまっているという事です。 機械の問題ではなく、父の頭の方の問題だったんですな。

  ところが、当人は、「必ず、消してから、眠っている」と思い込んでいて、何かの拍子に目が覚めると、テレビが点いているので、「勝手に点いた」とか、「誰かが点けた」とか、「ケーブル・テレビの会社が、遠隔操作で点けている」などという、妄想が育ってしまったのだと思います。

  「違うんだよ。 点けたまま、寝ちゃってるんだよ。 だから、目が覚めた時に、点いているんだよ。 テレビが点いたから、目覚めたんじゃないんだよ。 点けっ放しだったんだよ」と、くどくど説明すれば、その場では、「そうか」と納得するのですが、そういう説明を受けたという事自体を、すぐに忘れてしまうようで、2・3日もすると、「また、点いたぞ」と、同じ事を言い出します。


  ごく最近まで、そういう問答があると、「なに言ってるんだよ! そんな事あるわけないだろ!」と、私は、きつい言い方をしていたのですが、当人は、別に、悪意で、妄想を口にしているわけではないという事に気づき、考えを改めました。 まともな頭の人間が、変な事を言っているのなら、きつい言い方で窘めるのもアリですが、「父は、もはや、まともとは言えない」と、断定せざるを得なくなったのです。

  当人は、自分が育てた妄想の中身について、真剣に心配しているのであって、私をからかうつもりなどないのです。 それならば、こちらも、怒って窘めるなどという、百害あって一利ない対応は、避けなければなりません。 怒っていると、その内、父の中で、私が、「何か言うと、すぐに怒る奴」と認識されてしまい、果ては、敵扱いされてしまう恐れもあります。


  「夜中に、テレビが点く」問題については、さんざん、対応策を考えた末に、父のテレビの設定を変えて、「おやすみタイマー」が、夜9時に働くようにしました。 一定時間後に、テレビが消える、「オフ・タイマー」と違って、設定した時刻になると、テレビが消える機能です。 この機能の存在に気づくまで、随分、時間をロスしてしまいました。

  たとえ、そういう設定にしても、今度は、「夜中にテレビが、勝手に消える」、「ケーブル・テレビの会社が、遠隔操作で消している」と言い出す可能性がありますが、これは、確率の問題でして、父の場合、夜9時の時点で、起きている日より、眠っている日の方が、ずっと多いと思われ、眠っている間に消えてしまうのなら、夜中に目覚めても、父は、「眠る前に、自分で消した」と思いますから、不安にならずに済むだろうと、踏んだわけです。

  もし、9時以降までテレビを見続けていて、「勝手に消えた」と言って来た場合でも、「それは、そういう風に、設定したからだよ」と説明すれば、簡単に済みます。 ちなみに、うちの母は、一時間ごとに、眠ったり起きたりを繰り返す、ドッグ・スリーピングな人で、夜中でも、早朝でも、テレビを見ている事がありますが、父の場合、夜中に目覚める事があっても、自分でテレビを点けて、見る事はないようです。


  ところが、その翌日、早くも、仰天する事態が出来しました。 私が、夕食後、自室で少し眠って、夜9時過ぎに起きて、一階へ下りたら、なんと、父が居間の炬燵の母の座椅子に座っていました。 父の部屋に、人が来ていて、うるさくて眠れないと言います。 もちろん、テレビの事です。 「大丈夫。 9時を過ぎたから、もうテレビは消えたよ。 そんなところじゃ、眠れないから、部屋に戻りな」と言って、上に連れて行き、テレビが消えている事を見せました。

  布団も上げてしまっていたので、また敷くように言い、その間に、テレビのおやすみタイマーを、午後9時から、8時に早めました。 この頃になって、頭が回復して来たようで、「消える時刻を早くして、見てる途中で消えちゃったら、困る」と、まともな事を言うので、「そしたら、また点ければいい」と言っておきました。 しかし、そんな話をした事も、どうせまた、すぐに忘れてしまうと思います。


  その後、十日くらい経ちますが、夜の異常な言動・行動が見られなくなりました。 テレビのおやすみタイマーを、夜9時から、8時に早めたのが効果を発揮したのでしょう。 思った通り、目覚めた時に、テレビが消えていれば、父は、何の不思議も感じないわけだ。 早く、その事に気づけば良かった。 何回も怖い思いをした事で、父の妄想が膨らんでしまったと思うと、残念至極。

  つい、二三日前には、肺炎の予防注射を打ってもらいに、近くの医院まで、自転車で出かけて行ってましたが、そういうところは、しっかりしていて、全く危なげがありません。 同じ人が、妄想を口にするというのが、不思議でならないです。



  ここまで、症状が顕著になって来ると、当人を説得して、病院に連れて行くという対策もありますが、そこで少し考えてしまうのは、「老齢による認知不全は、果たして、病気なのか?」という事です。 認知不全が進まないように、体操や計算などのレッスンを受ける事で、成果が出ているという話は知っています。 しかし、結局のところ、症状の悪化を先延ばししているだけで、いつかは必ず、要介護状態になると思うのです。 決して、治るわけではないですし、不死になるわけでもないのは、言うまでもありません。

  そして、もし、父が要介護になるなら、私に体力がある内の方がありがたいのです。 こっちまで衰えて、典型的な老老介護になってしまうのは、何としても、避けたいところです。 こういう考え方に対して、「親が早く死んでもいいのか?」と反発を感じる人もいると思いますが、私の場合、自分自身が引退していて、「老後の虚しさ」が身に沁みて分かるので、「長く生きれば、それだけ幸せに決まっている」という、単純で、考え足らずな意見には同調できません。

  これが、無理やり、寿命を縮めるというのなら、それは、もはや、殺人罪ですが、認知不全が進むのを、積極的に止めなかったとしても、何の罪にもなりますまい。 むしろ、それは、極めて、自然な事だと思うのです。 問題は、今すぐに、父が要介護になったとしても、私に対処ができるかどうかですな。 幸い、父は、筋金入りの出不精で、徘徊して行方不明になる恐れは、だいぶ低いのですが。


  これは、認知不全だけでなく、全ての疾病に当て嵌まる事ですが、昨今、よく耳にする、「健康寿命」を、いくら延ばしたところで、その後に来る要介護期間を減らせるわけではありません。 たとえば、何もしなければ、80歳から要介護状態になり、85歳で死ぬ筈だった人が、努力して健康寿命を5年延ばし、85歳から要介護状態になったとします。 元の寿命が、85歳だから、要介護状態になった途端に死ぬのかというと、そんな事はありますまい。 健康だった期間が5年分増えただけだから、やはり、5年近く、要介護期間があると思うのですよ。

  「要介護期間が短くならなくても、当人の寿命が延びるのだから、よい事ではないか」と思うでしょう? だけど、介護は、介護される人よりも、介護する人の方が大変なわけでして、介護する方が歳を取って、衰えてしまったのでは、共倒れになってしまいます。 真面目で責任感の強い介護者ほど、行く末を悲観して、無理心中に走り易く、そういう実例も、増える一方です。 長生きさせればいいってもんじゃないんですよ。

  当人に、長生きする気があって、努力して、健康寿命を延ばそうとしているなら、それを止める事はできませんが、もう、何の為に生きているのか分からなくなってしまっていて、当人にその意思がない場合、家族が無理強いして、健康寿命を延ばさせるのは、如何なものでしょう。 誰が得をするのか、さっぱり分かりません。


  父の事にしても、母の事にしても、私はこれから、介護をする事になる可能性が高いわけですが、先の事を考えると、暗澹たる気分になります。 不安で、夜、なかなか眠りに就けない事もある今日この頃。

  しかし、よく考えてみると、私の場合、仕事をしているわけではないのですから、時間的には、ゆとりがあるわけで、何とかなるような気がしないでもないです。 自分の時間が持てなくなったとしても、私にはもう、これと言って、やりたい事がありません。 読書や映画鑑賞は暇潰しに過ぎず、登山も、山が好きで登っているのではなくて、単にウエストを絞る為という、後ろ向きな理由ですし。

  人間、やる事がないと、生きている理由を見失ってしまうものですが、逆に考えると、対象が何であっても、やる事さえあれば、生きている理由になるという事になり、それは、介護であっても、同じではないかと、ここ数日の間に、思うようになりました。 「ものは考えよう」レベルの悟りに過ぎませんが、これは、今後、何かと役に立つかも知れません。