2008/09/28

ブログと写真

  ブログも、サービスによって、随分と能力が違うようですな。 特に差が際立つのが、最大容量でして、プロバイダーのホームページ提供サービスの中に繰り込まれていて、20メガしかないような所もあれば、無料で3ギガまで使えるような、太っ腹な所もあります。 文章は相当ぎっしり&しょっちゅう書いても、最大容量を気にするほどにはなりませんが、問題は画像ですな。 写真は重いので、20メガなんぞ、すぐに埋ってしまいます。

  ブログが流行り出した頃は、どこも容量が少なくて、文章中心が多かったんですが、今では、ギガ・クラスのサービスを利用して、写真サイトも顔負けの、膨大な数の写真をアップしているブログもあります。 モニターいっぱいに広がるくらいの大きな写真を、一回に20枚も入れて、それをほぼ毎日更新しても、一・二年は大丈夫というのだから凄い。

  いや、今回は、ブログ・サービスの話をしようってんじゃないんですよ。 ブログに大量の写真を出している人達の、写真の腕の方の話です。 ≪質より量≫という言葉がありますが、量が多いと、決まって、質の方は良くないのです。 あ、今までにも、写真に関する記事を何度か書いていて、それらと重複する内容が出て来るかも知れませんが、まあ気にせず、適当に読み流して下さい。

  フィルム時代に比べると、写真を撮る人が増えたのは確実です。 昔から好きな人はいたわけで、写真関係のマーケットはもともと大きかったですけど、デジカメ時代の特徴は、写真術を究めようと志したわけではない普通の人でも、≪芸術写真≫を撮るようになったという事ですな。 芸術写真と言うと誤解を招きそうですから、≪作品写真≫とでも言いましょうか。 家族の記念として撮る、≪家族写真≫と区別して、作品として他人に見せる事を前提にして撮る写真の事です。

  こういう写真は、フィルム時代には、写真趣味のある人しか撮りませんでした。 それが今は、サイトやブログを持っている人で、作品写真を撮った事がない人など、一人もいますまい。 時代は変わったんですねえ。 なぜ、作品写真を撮る人が増えたかというと、発表する場所が出来たからに外なりません。 フィルム時代には、自分が撮った写真を人様に見てもらおうと思ったら、雑誌のフォト・コンに望み無き投稿を繰り返すか、地元の写真クラブに入って、高い年会費と引き換えに、発表会の展示スペースを確保するしかありませんでした。 ネット時代になり、誰でも発表の場が持てるようになった事は、写真趣味に於ける最大の革新なんですな。

  デジカメも、2002年頃までは、メモリー・カードの容量が小さくて、一回の撮影行に、20枚くらいしか撮れず、「これじゃ、フィルムと変わらんな」と思っていたものですが、その後、大容量化したメモリー・カードが価格破壊し、100枚分くらい楽に入る物が千円そこらで手に入るようになると、使い勝手が格段に上がりました。 残りの枚数を気にしなくて良くなったのは、写真趣味に於ける二番目の大革新ではないかと思います。

  ところが、あまり急激に条件が改善されると、逆の弊害も出てくるわけですわ。 作品の質が落ちたのです。 ネット時代幕開けの頃、写真サイトを作っていたのは、程度の差はあれ、一度は写真術を究めようと志した事がある、そこそこ腕に覚えがある人達だったのですが、現在、大容量ブログに気軽に写真をアップしまくっているのは、そういう経歴の人達ではないのです。 「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」式に、手当たり次第に撮りまくった写真を、良いも悪いも選り分けず、「せっかく撮ったんだから、全部載せよう」という調子で、片っ端からアップしているのです。

  すっごいですよ。 ピンボケ・ブレボケ、当たり前。 水平・垂直、どうでもよい。 頭切れずに顎切れた。 露出は滅茶苦茶。 画面の半分が真っ白く飛んでいても、気にしない。 「夜景を撮ってみました」って、ブレブレで何が写っているか分からない。 手持ちで夜景が撮れるわけねーだろ。 はたまた、どでかい画面に、ちーいさい花が、ちんまり写っていたり、「花なら、何でも綺麗」と思っているのか、萎れて変色した花を撮ったり。 中でも、見ていて一番苦痛なのが、何を撮ろうとしたのか分からない写真でして、中心になる対象が無いのです。 もはや、芸術の冒涜以外の何ものでもない。

  この種の問題点ですが、写真の撮り方について書かれた本を一冊読むだけで、八割方は解消します。 本当に基本的な技術を知らない為に、起こっている失敗なんですな。 残りの二割は、プロやハイ・アマチュアが撮った写真をたくさん見る事によって、解決する事が出来ます。 いくら気軽に取れるようになったといっても、写真はやはり芸術ですから、まず審美眼を養わなければ、自分でも良い物が撮れるようにはなりません。 その時まずいのは、下手な人の作品ばかり見て、「ああ、この程度でいいのか」と思い込んでしまうことです。 「これくらいなら、自分にも撮れる」と自信を持つことは大切なんですが、その基準になっている作品のレベルがあまりに低いと、却って有害なのです。

  カメラの性能が上がっているので、下手な人でも、偶然うまい写真が撮れる事はあるわけですが、下手の下手たる所以は、うまく撮れた写真と、駄目な写真の判別が出来ない点にあります。 ブログに大量にアップしている写真の中に、しょーもない写真が混じっていて、「失敗写真ですが、ここで撮った物が他に無いので、やむなく載せます」といった、言い訳文がついてない場合、当人に判別眼が無い証拠ですから、その人と写真の話はしない方が良いと思います。 いや、その人が撮った写真も見ない方がよいくらい。 悪い手本ほど、上達の足を引っ張る要素もありません。

  なにが凄いって、マクロ・モードのまま風景を撮ってしまったとか、その逆とか、誰がどう見てもボケボケなのに、それを平気でアップする神経ですな。 これは、もはや、基礎技術がどうのこうのといった次元の問題ではなく、その人物の性格に重大な欠陥があると見るべきでしょう。 ボケ写真を見せて、誰にどんな感動を与えようというのか、一度、腹を割って訊いてみたいものです。 返答次第によっては、腹を切ってもらっても宜しい。 介錯仕る。

  わざとボカした写真が好きで、そんな作品ばかり出している人もいます。 確かに、高齢の女性を撮る時に、皺やシミが目立たないように、ボカす事はありますが、それはポートレートの話です。 風景でボカしを入れられると、見ている方が恥かしくなります。 プロの作品に先例が無いわけではありませんが、いわゆる、古い技法なんですな。

  あと、モノクロばかり並べている人。 モノクロ写真は、独特の雰囲気になりますが、はっきり言って、今モノクロ写真を作品としてネットに出している人達は、腕が悪いのをごまかす為の技法として使っています。 この人達、判別眼はあり、自分の撮った写真が良くない事はわかるのです。 それをある時、モノクロに変換してみたら、「おやおや、面白い雰囲気になった!」というので、それ以降、モノクロに嵌まってしまったわけですな。 何の感興も湧かないようなカラー写真でも、モノクロにすると、それなりに作品らしく見えるようになるからです。 だけど、それは、結局ごまかしですぜ。 そっちへ行ってはいかんなあ。 せっかく、判別眼があるのだから、カラーで良い写真が撮れるように、努力を重ねるべきでしょう。

  少し、レベルの高い話になりますが、実を言うと、ハイ・アマチュアの作品も、あまり持ち上げない方がいいです。 彼らは、プロの写真と見分けがつかないくらい高度な作品を撮りますが、なぜプロになれないのかというと、模倣の域から出ていないからです。 プロになるには、単にレベルの高い写真が撮れるだけでなく、その人にしか撮れない写真が撮れなければなりませんが、その独自性が欠けているわけですな。 ハイ・アマの中には、時折、報酬を貰って写真を売っている人がおり、こういう人達は、セミ・プロというカテゴリーになります。 写真で収入を得ているわけではないけれど、人様がお金を出して作品を買ってくれる、特別なレベルなわけです。 この人達の作品なら、手本にする価値があります。

  ネットを見ていると、「ハイ・アマの先生に弟子入りした」などと書いている人が、稀にいます。 本来は、作品を見て手本とすべきなんですが、「手っ取り早く、当人に教わってしまえ」というわけなんでしょう。 そして、そのハイ・アマの先生が教えてくれた撮影スポットへ行って、全く同じような写真を撮っているのです。 だけどねえ、芸術活動はそういうものじゃないと思いますよ。 模倣から始めるのはいいですけど、模倣で完成してしまうのはよろしくない。 それはあくまで模倣技術に過ぎません。 基本だけ習ったら、他人の作風を真似るのはやめて、自分の独自の世界を探求して行った方がいいでしょう。

  それにつけても、一日に20枚も、何が何だか分からん写真をアップされると、見る方には拷問ですな。 ブログの写真は、大抵、サムネイルで表示されているので、クリックして原寸大を確認せねばならんのが面倒臭いだけに、わざわざ拡大したのがクズ写真だと頭に来ます。 なめとんのか、われ。 


  貶してばかりもいるのも何なので、感心したブログについても触れておきましょうか。 目的意識があって写真を撮っている人は、うまい下手に関わりなく、作品に好感が持てます。 たとえば、いろいろな花の種類を撮り集めている人とか。 植物図鑑に近いようなブログを目指しているらしく、極力、標準的な外観の花を、分かり易く撮ろうとする為、破綻が少なく、結果的に良い写真になります。

  屋内で、ブツ撮りをする人も、かなりいい写真を撮ります。 部屋の中での撮影は、ライティングが難しいんですが、他人の目を意識せずに済む分、カッコよりも、実用的な工夫の方にエネルギーが回るのか、「へえ~っ!」と驚くような、精緻な写真を撮っています。 風景ばかりが写真じゃないんですな。 おそらく、布や紙を使って、ミニ・スタジオを構築しているものと思われますが、やる人はやるんですねえ。 感服仕る。

  ところで、写真を撮り始めて間も無い人で、近所の児童公園などに出かけていって、他人の子供を撮っている人がいますが、そんな事していて、手が後ろに回っても知りませんぜ。 聞いた事くらいはあると思いますが、この世の中には、≪肖像権≫というものがありまして、他人を許可無く撮影すると、それを侵害してしまうケースがあります。 堂々とやっていても、盗撮と同じ扱いを受けかねません。 フォト・コンやハイ・アマの作品などで、人物を撮った写真が出ている場合、大概は、家族・親戚・友人など、撮ってもいい相手を撮っているのであって、勝手に撮影した他人ではないので、ご注意あれ。 だからねー、人間ていうのはなかなか撮る機会が無いのよ。

  観光地へ行けば、他人が入った写真を無許可で撮れますが、それとて、後姿や点景人物として撮るのがギリギリのラインでして、相手がこちらに気付いたら、ちょっと不穏な話になります。 カメラの方を見ている大人の男などがいたら、要注意であって、一旦カメラから体を離して、そやつが視線を逸らすのを待つか、もっと切迫している場合は、撮影を諦めて、慌てず騒がず、熊から逃げる時の要領で、静かにトンヅラした方が無難。 「おい、おまえ、何を撮ってる?」と寄ってきたら、もうアウトですな。 昔だったら、「フィルムを出せ!」でしたが、今は、「メモリー・カードを出せ!」となりますから、えらい損害になります。 カードなんぞ、パキッと割るくらいわけはない。 明らかに器物損壊ですが、警察を呼んで裁判沙汰など起こしても、こちらにも盗撮の容疑がありますから、さっぱりするような解決にはならんでしょう。 とにかく、悶着は避けるのが一番です。


  写真の話なので、ついでに書きますが、最近、ソニーの一眼レフのCMで、岡田准一さんが手持ち撮影をしている映像が流れています。 モニターの機能を説明する為に、ああいう使い方を見せているわけですが、実際には、一眼レフをあんな風に使うのはナンセンスなので、騙されてホイホイ買わないように。 安いものじゃないんだから。

  一眼レフをロー・アマが買う場合、大抵リーズナブルなレンズ・キットを選びますが、レンズ・キットのレンズは、ほとんどズーム・レンズなので、カメラ本体と合わせると、1キロ近い重さになります。 そんな物を片手で持っていたら、腱鞘炎になってしまいます。 CMをよくよく見れば、岡田さんの手が微妙に震えているのが分かりますが、重いのだから当然です。

  また、CMの舞台が、住宅地の中のような場所ですが、そんな所で一眼レフなんぞ持って撮影していたら、近所の人がどう思うか、ちいっと想像してみれば分かろうというものです。 コンパクト・デジカメどころか、カメラ付き携帯ですら、ヒヤヒヤするロケーションではありませんか。 あのCMを企画した連中、写真を撮りに行った事が全く無いのではありますまいか。

  もう、何度も何度も書いているんですが、一眼デジカメという機械は、ロー・アマでは使いこなせませんから、買っても無意味です。 ロー・アマが一眼デジカメで撮れる写真は、コンパクト・デジカメですべて撮れるばかりでなく、軽くて小さい分、コンパクト・デジカメの方が、ブレの少ない良い写真が撮れます。

  メーカーもメーカーですな。 合わないと分かっていて、知らぬ顔で売っているわけですが、先々の信用を考えず、目先の利益に囚われているとしか思えません。 背伸びして一眼デジカメを買っても、重い器材を持ち歩くのは大変ですから、だんだん出不精になって、その内、写真趣味そのものが嫌いになってしまいます。 それが、カメラ・メーカーの得になるとは到底思えないんですが、そこの所をどう思っているんでしょうねえ。

  また、デジカメの場合、最新機種を買っても、一年もしない内に次が出てしまうので、ほとんどの人がカタ落ちを使っている事になり、特定機種の良し悪しについての話題が、成立しなくなってしまいました。 値段が値段ですから、新型が出るたびに買い換えるわけにも行きますまい。

  一眼デジカメは、手持ちで使う機械ではなく、三脚必須だと思っているくらいがちょうどいいです。 三脚を使える場所は限られていて、街なかや住宅地は、全域不可。 郊外の農地とか、山の中とか、海辺とか、川岸とか、人が近くにいないような場所でしか堂々と据えられません。 テーマ・パークや景勝地などの観光地ならOKですが、やはり他人には気をつけないと、「おい、おまえ・・・」になります。

  最近は、植物園で、「三脚使用不可」という所が出てきました。 花壇の中に三脚の脚を突っ込んで、花をマクロ撮りする奴がいるので、他のお客からクレームがついたんでしょう。 三脚を実際に使ってみると、何かと制約が多過ぎて、撮りたい物の五分の一も撮れない事に気付きます。 三脚使用に制約が多いという事は、自動的に、一眼デジカメにも制約が多いというわけです。

  一眼デジカメを買うなとは言いませんが、まずコンパクト・デジカメで出来る事をすべて試してからにしても遅くはありますまい。 そして、一眼まで試した後、両者を比べてみれば、写真の出来にはほとんど差がない事が分かるはずです。 そうなれば、コンパクトの方が断然使い勝手がいいです。


  余談の余談ですが、一眼デジカメと交換レンズの組み合わせは、複雑過ぎて、当のメーカーですら、どう説明していいか分からなくなってしまっているようですな。 「このカメラに、このレンズを着けた場合、この機能は使えません」といった注意書きが、ずらりと並んでいると、頭がくらくらしてきます。 どうして、こんなに煩雑にする必要があるのか、必然性が思い当たりません。 合理的思考と、顧客に対する責任感があるなら、一眼デジカメは全廃し、高倍率ズーム機をフラッグ・シップに据えるべきでしょう。

2008/09/21

国際妖論

  奇々怪々な出来事が頻発するのが世の常であるとすれば、それはもはや奇々怪々とは言わないのかな? などと、蛇が自分の尻尾を咥えているような考えに陥る今日この頃。

  まあ、何が奇妙だといって、≪グルジアの南オセチア侵攻≫が、いつの間にか、≪ロシアのグルジア侵攻≫にすり替えられてしまっているのは、実に奇妙な事です。 そんな昔の事ではない、ついこないだ、いや、それどころか、まだ進行中の事件だというのに、こんなすり替えが堂々と罷り通っているのだから、言論の現状は暗いというべきでしょう。

  馬鹿でも分かる事ながら、先に軍隊を侵攻させたのは、グルジアの方で、ロシアではありません。 これは、グルジア政府も認めている事であって、この一連の紛争が、グルジア側の軍事行動によって始まったのは、否定のしようが無い事実です。 そして、普通、戦争を仕掛けた側が、相手側に反撃されて、逆に領土内に攻め込まれても、それを、相手側の≪侵攻≫とは言・い・ま・せ・ん。 これは、単に用語の問題ではなく、どちらが戦争の発端を作ったかという、大義名分上の重大な問題であり、すり替えなど以ての外の言語道断と申すべきです。

  本当の馬鹿がいて、思い違いをしているかもしれないので、念の為に書いておきますが、南オセチアは、グルジア領というわけではありません。 ソ連時代に、便宜上、グルジア共和国内の自治州になっていたというだけです。 ソ連崩壊後、人口の66パーセントを占めるオセット人が、北オセチアとの統合を求めて、グルジアからの分離を宣言し、これを阻止しようとしたグルジア軍と武力衝突が起こります。 ロシア軍が介入して、平和維持部隊を南オセチアに駐留させる事で紛争は収まり、それ以降は実質的にロシア側が管理する係争地という位置づけになっていました。 つまり、正式にはどちらの領土でもなく、どちらかといえば、ロシア側に近い土地だったわけです。

  ちなみに、もう一つの係争地・アブハジア自治共和国の方も、ほぼ同じような状態でした。 どちらも、ソ連時代にはグルジア共和国内にありましたが、グルジア人の他に先住民族がおり、彼らは、グルジア人の支配を嫌っていました。 ソ連という大枠があったから、我慢していたわけです。 ソ連崩壊後は、「できれば独立したいが、それが無理なら、小国グルジアの下よりは、大国ロシアの下に直接入った方が良い」と考えるようになります。 寄らば大樹の陰ですな。 だからこそ、ロシア軍の平和維持部隊が駐留して、グルジアの支配が及ばなかった間は、これといった問題が起こらなかったわけです。

  そこへこのほど、グルジア軍が領土を奪還すべく攻め込んだわけです。 わざわざオリンピックの真っ最中を狙って。 「オリンピック期間中なら、国際世論の批判を恐れて、ロシア軍は反撃せずに後退するだろう」と踏んでいたようですが、この読みは大外れに外れ、帝政ロシアやソ連時代も含めて、史上初めてではないかと思われる驚異的な反応速度で、ロシア軍が大規模に反撃し、グルジア軍は蹴散らされてしまいました。 もともと、兵員数も装備も、桁違いの差がある両国ですから、本気で戦えば、ロシアが圧勝するのは当然ですな。 グルジアの指導者は、「オリンピック期間中なら、ロシア軍は反撃できないはず」という、信じられないほど薄弱な勝算に賭けて戦争を仕掛け、不様にも負けたわけです。

  まあ、ここまでは、恐ろしい事ではあるけれど、別に奇妙ではない経過ですな。 ところが、この後、国際世論とやらが、奇怪な反応を見せ始めます。 勢いをかって、グルジア領内まで進入したロシア軍を批判し始めたのです。 つまり、「反撃は国境線までしか許されない」という見解を出して来たわけです。 いかにも、「そんな事は当然の事だろう」という調子で。 し・か・し、国際紛争に、そんなルールはありません。 侵略を受けた側が、侵略した側に反撃した場合、国境線で止める場合もあれば、侵略した国の全域を占領するまで攻撃を続ける場合もあります。 その選択は、侵略された側の意思に任されています。 厳密に言えば、そういうルールも成文化されていませんが、現実を見ると、そうなっているわけです。

  ベトナム戦争のように、勝ったベトナムが負けたアメリカを追わなかった例もありますし、第二次世界大戦の対独戦や太平洋戦争のように、侵略した側が亡びるまで続けた例もあります。 くどいようですが、反撃を国境線で止めなければならないなどという国際ルールはありません。 理屈で考えても、侵略側は加害者、侵略された側は被害者ですから、被害者側は報復する権利を自動的に獲得するわけで、将来予想される再侵略の芽を摘むためにも、余力があれば、加害者側の全域を占領し、侵略を行なった政権を壊滅させてしまおうと考えるのは当然です。

  今回の紛争、アメリカは最初は黙っていましたが、ロシア軍がグルジア領内に入った途端、ロシアを批判し始めました。 アメリカ大統領が、「もはや侵略の世紀ではない」と批難すると、ロシア側は、「イラク戦争を起こした国が言う事か」と応じましたが、まったくその通りで、よくもまあ自分の事を棚に上げて、こんな白々しいセリフを口から出せたものです。

  その後、グルジア軍が南オセチア領内に残していった兵器の中に、アメリカ製の物が相当含まれている事がロシアによって公表され、アメリカがグルジアへの軍事支援に熱心だった事が明るみに出ると、アメリカの極端なまでのロシア批判の理由が分かってきました。 アメリカとしては、別に侵略用に兵器を与えたわけではなく、ロシアの勢力を抑え込む為の重石として、グルジア軍を強化しておこうと考えていたのだと思いますが、使われてしまったら、大裏目ですわな。 「馬鹿馬鹿! 本気で攻め込む奴があるか! 敵うわけないだろ!」てな具合に、冷や汗だくだくだったと思いますぜ。

  なんでも、グルジアは、イスラエルに対し、「メルカバ戦車を、300輌売って欲しい」と打診していたらしいですが、本気でロシアと対マン張るつもりだったんでしょう。 イスラエルは断ったそうですが、適切な判断だったと言えます。 そもそも、既に戦車は地上戦の主役ではなく、対戦車ミサイルの前では、ただのでっかい標的に過ぎなくなっていますから、メルカバが何百輌あっても、ロシアには敵わなかったでしょう。 こういうところが、グルジアの指導者達のズレぶりを如実に表わしています。

  アメリカは、グルジアを軍事支援していたわけですから、ロシアを批難する理由は分からないでもありません。 たとえ、名分上は加害者側であっても、毒づく権利くらいはあるでしょう。 よく分からないのは、アメリカを除く旧西側諸国です。 フランスやイギリスなどは、最初の内は、侵略したグルジアを批判していたのに、ロシア軍のグルジア領内からの撤退が遅れると、軽薄にもグルジア側に鞍替えし、ロシアを扱き下ろし始めました。 特にフランスのサルコジ大統領は、進んで仲介を買って出て、停戦案を双方にのませたと得意になっていたので、ロシアが合意内容通りに撤退しない事に気分を害したんでしょう。

  だけどなあ、サルコジよ。 ロシアは何も、お前の面子の為に軍事行動をやっているわけじゃないんだぜ。 なんで、被害者側が、加害者側と対等に、戦前の国境線まで撤退しなきゃならないんだ? そもそも、そんな調停案自体がおかしいとは思わんか? 加害者側には、何らかのペナルティーがあって然るべきですが、旧西側諸国にとっては、そんな事はどうでも良かったようですな。 そればかりか、≪グルジアの領土保全≫などという条項を入れて、南オセチアとアブハジアを、もともとグルジア領であるかのように扱ったのも、ロシア側としては呆れ返る話だったと思います。 これでは、グルジアの望んだ通りの結末になってしまいます。 どさくさ紛れに、ロシアを抑え込もうと目論んだんでしょうが、この時点で、旧西側諸国は、仲介者としての資格を失います。 少なくとも、ロシアは旧西側諸国を第三者とは認めなくなったわけです。 敵の味方は敵というわけだ。

  この頃から、旧西側諸国の政府やマスコミは、今回の紛争を、≪ロシアのグルジア侵攻≫と呼び始めます。 笑っちゃうよねえ。 どちらが先に仕掛けたか、馬鹿でも分かるというのに、侵略された側を侵略者呼ばわりし、侵略した側を被害者として慰めてやっているのです。 大喜びしているのはグルジアの指導者達でしょう。 「国際世論はグルジアの味方だ! 我々は正しかった!」とばかりに、感動と興奮で、打ち震えている事でしょう。 もし、その通りだとすれば、「グルジアは正しい事を行ったのだが、ロシアによって阻止されただけ」という事になり、名分上は、グルジアによる再侵略が正当化される事になります。 旧西側諸国は、グルジアの肩を持つ事によって、グルジアを勇気付け、「もう一度、攻め込め」と唆しているようなものです。 おいおい、落ち着いて考えろよ、本当にそれでいいのか?

  もちろん、旧西側諸国にしてみれば、グルジアにそんなに肩入れする義理など無いのであって、彼らの心理は、単にロシアを批判したいという一点からのみ出ていると思われます。 伝統的な、ロシア・ソ連嫌悪感から生まれる差別意識の発露ですな。 旧西側諸国がグルジアについて持っている知識・情報は、ロシアについてのそれより、桁違いに少ないと思いますが、そんな事はどうでもいいのであって、とにもかくにも、敵の敵は味方というわけだ。

  ≪国際世論≫というのは、便利な言葉で、各国政府やマスコミによって、都合よく解釈されて使われています。 何なんだよ、国際世論て? 旧西側の国では、自分達の言い分のみが、国際世論とされていて、それ以外の国の言い分は、顧慮に値しないと見做されているようですが、実際にはそんな事はありません。 もし、民主主義的に国際世論というものを仮想するなら、旧西側諸国を全部合わせた人口よりも、中国やインド、それぞれ一国の人口の方が多いのですから、旧西側諸国の世論は少数意見に過ぎないという事になります。 最近では、中国を批判する時に、国際世論という言葉が頻繁に用いられますが、そういう態度自体が非民主的だという事になりますな。 「国際世論」が三度の飯より好きな人は、マスコミや自称識者にうようよいますが、その辺の矛盾を自分の頭の中でどう処理しているのかねえ? 一体、民主主義を肯定しているのか否定しているのか、どっちなのよ?

  日本のマスコミも、旧西側に属すると自認しているので、同じような報道姿勢を取っています。 ああ、ちなみに、欧米では、≪西側≫といえば、アメリカと西ヨーロッパ諸国の事だけを指し、日本や韓国は含みません。 アメリカの同盟国ではあるが、西側ではないと考えているんですな。 だって、西に無いものね。 これは、冷戦時代からずっとそうです。 日本人が勝手に西側の一員だと思い込んでいるだけです。 そういえば、自衛隊の装備品は、NATO規格に合わせた物が多いですが、何だか、小学校でクラスに一人は必ずいる、≪真似しっ子≫みたいで、虚しくも情けないですな。 だーから、日本はNATOに加盟してないだろ? 合わせてどうする? 

  で、日本のマスコミですが、旧西側の≪国際世論≫に合わせて、ロシアを侵略者呼ばわりしているんですな。 つくづく聞きたいんですが、本当にそう思っているのかね? グルジア自身が先に侵攻した事を認めているのに、まだ、ロシアが侵略者だと思うのかね? どういう頭の構造をしとんねんな? 話の辻褄とか、物事の前後とか、全く理解できんのではないかい? 国際政治どころか、歴史も何も知らんのかい?

  そういえば、また新聞に出てましたよ。 戦闘兵車の写真を出して、その説明文に、「グルジア領内のロシア軍戦車」と書いているのが。 一体、いつになったら、兵器の種類を覚えるんだろうねえ。 これ、昔っからそうですが、新聞記者って、戦車と戦闘兵車の区別がつかんのですわ。 キャタピラがついていて、砲塔が載っていれば、みんな戦車にしてしまいます。 もっと、ひどくなると、戦車と装甲車の区別さえつきません。 とにかく、戦争に使う車両で、砲塔が載っていれば、みんな戦車だと思っているらしいです。

  信じられん話ですが、軒並み国立大学を出ているような連中が、こんなアバウトな脳味噌で、国際記事を書いてるんですぜ。 あのなあ、戦車というのは・・・・・ああ、面倒臭い! 馬鹿じゃないなら、自分で調べろ! 大体、先輩記者や編集長が、そんな説明文を素通りさせてしまうのがおかしい。 小さな新聞社でも、社員の中に一人くらいは兵器の見分けがつく人間がいるだろうに。 兵器の写真を紙面に載せる時には、必ずその人に見せて、確認してもらいな。 子供新聞じゃないんだから、いい加減な知識を世間に広めるなよ。 ちなみに、中国語では、戦闘兵車の事を、≪戦車≫と言います。 じゃ、戦車の事は何というかというと、≪坦克≫と言います。

  おっと、また脱線だ。 何の話だ? 日本のマスコミの反応の話だ! そうそう、でねー、とにかく、ロシアを批難したくてしょうがないんでしょうな。 NHKの報道番組を見ていたら、キャスターの女性アナが、「ロシアの侵略」、「ロシアの侵攻」と、どれだけ繰り返すか分からない。 ゲストに来ていた、防衛省の研究者の方が辟易するほど、ロシアを悪者に仕立て上げまくっていました。 研究者は、アメリカの力の衰えについて語りたがっていましたが、キャスターはロシアの軍事プレゼンス増大の事しか頭に無く、全く話が噛みあっていないのが滑稽でした。 しかし、話を聞くつもりが無いなら、わざわざ専門家をスタジオに招く必要は無いよなあ。

  映像の取材内容も、明らかにグルジア側に偏っていて、グルジアの避難民にインタビューして、「ロシアの人達も、私達と同じ目にあってみれば、この辛さが分かるでしょう」などというコメントを紹介していましたが、それは、南オセチア住民が、グルジアに向かって言いたいセリフでしょう。 このグルジアの避難民、たぶん、自分の国が先に攻めた事を知らないか、知っていても、「南オセチアは、もともとグルジアの領土だから、侵略ではない」と、ふてぶてしく考えているかのどちらかでしょう。 いずれにせよ、こういうコメントを紹介するなら、南オセチアでも同様のコメントを拾って、バランスを取るのが、客観的報道姿勢というものです。 この偏った姿勢は、もともとロシアに恨みがあって、この紛争を好機到来とばかりに、唾を吐きかけているとしか思えません。 まったく、下司な話だ。

  新聞も、ロシア側の立場で書いている記事が全く無いですな。 グルジアが先に侵攻した事を直接書かずに、「ロシアは、そう主張している」などと、ワン・クッション入れて表現しているわけですが、何度も言うように、先に侵攻したのはグルジア自身が認めているっつーのよ。 何で、素直にそう書かぬ? そんなに、ロシアが憎いか? 一体、何の恨みだ? ロシア人がお前の家にやって来て、何かしたのか? そうじゃあるまい。 世論を操作して、日本国民がロシアに憎悪を抱くように仕向けたいのか? やれやれ、戦前・戦中と全然変わらんのう。 いつになったら、≪客観報道≫という概念が頭に入るんだろうねえ。

  旧西側諸国も、その一員だと思っている国も、グルジアについて何も知らないのなら、他国同士の争いに首を突っ込んで、一方の肩なんて持たない方が賢明ですぜ。 グルジアがあんた方にとって、何だって言うのさ? まして、侵略した側をせっせと応援しているのでは、一体、自分が正義なのか、悪なのか分からなくなってしまうでしょうが。 また、グルジアもグルジアです。 いくら、遠くの胡散臭い≪国際世論≫を味方につけたって、すぐ隣のロシアとうまくやっていけないのでは、これから先、地獄ですぜ。 よくよく考えなさいな。


  実は今回、この紛争の事から説き起こして、もっと大きなテーマについて書こうと思っていたんですが、長くなってしまったので、ここで切ります。 せっかくの休みを、こんな事で潰していられないよ。 大きなテーマの方は、次回か、事によったら、もっと先か、気分が乗った時に改めて書く事にします。

2008/09/14

コメント

  私も、こんな独り言ブログばかり書いて日々を過ごしているわけではなく、ネット上で他人様のサイトやブログを読んで回る事があります。 今現在のように、これといって熱中している趣味も無い時には、そんな時間が増えます。 で、よそのブログを覗いていると、いろいろと修羅場が繰り広げられていて、「ああ、人間というのは醜いものだなあ」と嘆かわしくなる事が多いです。 ここの所、気になっているのは、ブログにつけられるコメントですな。

  ブログ・コメントという奴、書く方も読む方も、掲示板の書き込みより軽いものだと考えているので、書き捨て・読み捨てになってしまう傾向が強く、文章に凝るタイプの私としては、あまり書きたくないんですが、気に入ったブログを見つけると、どうしても何か書きたくなるもので、利用する事もたまにあります。 ちなみに、この≪心中宵更新≫で、コメントを受け付けていないのは、好意よりも敵意で読んでいるクズ野郎が多いと推測しているので、そいつらが送りつけて来るコメントに煩わされないように、予防線を張っているわけです。 馬鹿野郎、敵意を掻き立てるために、わざわざ他人のブログを読んでいる閑があったら、枝豆でも切ってろ。 そんな事くらいしか、てめえらが世の中の役に立つ事なんか、ありゃしねーだろ。

  さて、元来嫌いなブログ・コメントなんですが、書く時には、一応作法を考えます。 ネット上の作法は、成文化していないので、自分で考えるしかありません。 できれば、≪やった方がいい事≫のみで、コメント文を作成したいものですが、内容との兼ね合いでなかなかそうもいかないので、≪やらない方がいい事≫や、≪やってはいけない事≫の方に注意し、それを避ける形で、作文していく事になります。

  ≪やった方がいい事≫というのは、とにかく、誉めることです。 お世辞を言う必要はありませんが、ブログ作者の書いた記事の中から、賛成できる部分を探し出して誉める事なら、割と簡単に出来るはずです。 どうしても誉められない記事の場合、コメントを打たなければいいわけで、これまた簡単な話ですな。

  ≪やらない方がいい事≫というのは、長文のコメントです。 たとえ、内容が記事への賛同であっても、長いコメントは嫌がられます。 律儀なホストほど、≪同行返し≫を気にするので、レスを書くのにげんなりしてしまうのです。 もう一つ、レスがまだ書かれていないコメントが、他のゲストによって先に打たれていた場合、コメントを並べるのは控えた方がいいです。 これも、ブログ作者の負担を重くしないためです。 コメントという奴、無くても寂しいものですが、ありすぎても厄介だと感じるのは、誰でも経験がある事でしょう。 一日に何人もが打ち込んでくるコメントにレスを書いていたのでは、疲れきってしまいます。

  ≪やってはいけない事≫、それは、ホストが書いた記事を貶す事です。 問題外ですな。 一体どういうつもりなんだか。 頭がついてないのか、おんどりゃは? おまえ自身が、自分の書いた記事を他人に貶されて、気分がいいか? 「そうですね、あなたのおっしゃる通りです」なんてレスが返って来るとでも期待しているのか? 他人をなめてんのか? 論戦をふっかけるつもりなら、下司な屁理屈小僧どもで埋っている公共掲示板へ行け。 一生そこから出て来るな。 あのなあ、ブログというのは、ブログ作者が個人の意見を開陳する場であって、論壇ではないんだ。 そんな事も分からんのか? 貶すくらいなら、最初からコメントなんか書くな!

  悪意で書いたコメントなら、尚のこと論外、そんなのはもう誹謗中傷ですから、即、犯罪行為です。 にべもなく、サイバー警察へ通報してやりましょう。 刑事が家の外で待ち構えているのを目の当たりにすれば、自分が犯罪者である事を悟るでしょう。 罰金でも懲役でも喰らうがいいぜ。

  それと、≪からかう≫のも、御法度です。 特に、若い男で、女性のブログにコメントを打つ時に、からかうような事を書く奴が非常に多いですが、とんでもない蛮行ですな。 おそらく、現実世界の学校や職場で、同年輩の女性をからかってゲタゲタ笑うのが日課になっていて、「女はからかえば喜ぶ」くらいに思っているのでしょう。 馬鹿が…。 性別に関係なく、からかわれて喜ぶ人間などいるか。 立場上、ウケてやらないと、その場の空気が険悪になりそうだから、表面的に笑ってくれているだけだ。

  これも男ですが、≪冗談≫と≪揶揄≫の区別がつかない奴がたくさんいます。 「俺は冗談好きな、明るく楽しい男なんだ」と思い込んでいるのですが、言っている事がほとんど、人の欠点のあげつらいで、本来笑いとは何の関係も無いものばかり。 相手が怒り出すと、「冗談だよ、馬鹿。 怒るか、普通、そんな事で」などと、更に悪口を重ねます。 これ、一昔前までは、職場の日常風景だったんですが、セクハラという概念が登場してから、異性に対しては大っぴらに出来なくなり、多少改善されました。 しかし、未だに、「女をからかうのは、男の義務」と思い込んでいる地獄行きの馬鹿は多いです。

  そもそも、女性は、冗談そのものが好きではありません。 というか、冗談のセンスを持ち合わせていない人の方が多いです。 「嘘つけ。 お笑い芸人のファンは、女の方が圧倒的に多いじゃないか」と思うでしょう? ところがね、女性ファン達は、芸人の芸が面白くて笑ってるんじゃないんですよ。 周りの雰囲気につられて笑っているんです。 笑いのネタには興味が無いが、笑いのある雰囲気は好きなのです。 それが証拠に、女性のお笑い芸人の数は極端に少ないでしょう。 もし、女性が男性ほどにお笑い好きなら、芸人数の比率は同じくらいになってしかるべきです。

  女性はよく、オヤジ・ギャグを嫌悪して、オヤジどもを軽蔑しますが、その実、自分達のギャグ・センスが研ぎ澄まされているわけでは全然なく、それどころか、ダジャレ一つ思いつきません。 思いつくけど口にはしないのではなく、そもそも頭に浮かばないのです。 男性の方々、思い出してみてください。 母親でも、姉妹でも、恋人でも、女房でも、娘でも、身近な女性が、自分からダジャレを口にするのを聞いた事がありますか? 無いでしょう。 ちょっと信じられない話ですが、ダジャレ作りは、女性の思考習慣の中に入っていないのです。 自分が考えもしない事だから、そんな事ばかり口にしているオヤジどもの嗜好が全く理解できず、嫌悪・軽蔑という反応になるんですな。 試しに、オヤジ・ギャグを貶している女性をおだてて、ダジャレを作らせて見ると面白いです。 あまりのつまらなさに、目が点になりますぜ。 ひ、ひ、ひ、

  お笑い番組を女性と一緒に見ていて、それまでゲラゲラ笑っていたのが、突如として別の話題に切り替えて、糞真面目な話をし始めるのに当惑した経験がある男性は多い事でしょう。 「テレビでこんなに面白い事をやっているのに、どうして、ここで切り替えられるんだ?」と脂汗流してしまうわけですが、女性が本来、笑いに興味がなく、家族が笑う雰囲気に乗っているだけなのだという事が分かれば、疑問は氷解します。 外見は笑っていても、心は笑っていないわけで、ちょっとした妖怪ですが、そういうものなのですから、文句を言っても詮無いこと。

  いつもの事ながら、またまた脱線してしまいました。 強引に元に戻しますと、≪冗談≫ですら理解しない女性達に向かって、≪揶揄≫をぶつけるなど、言語道断だというのですよ。 即、喧嘩を売っているに等しい。 なぜ、からかうのか? 見下しているからでしょう? 女性を自分より劣った存在と見做しているから、からかうという悪い意味の≪ゆとり≫が出てくるのです。

  同性の新入社員をからかうのと同じ構造ですな。 新参者というのは、その集団の中での自分のポジションを早く確保したいがために、先輩にからかわれると喜ぶケースがあります。 しかし、いつまでも、そんな最低の位置に甘んじるつもりはないわけで、からかってばかりいると、いずれ、「いい加減に、そういう扱いはよして下さいよ」と真顔で睨まれる時が来ます。 見下されて、心から喜ぶ者などいるわけがないではありませんか。

  ブログを持っている女性に言いたいのですが、男のゲストから、一度でも、からかいのコメントが入ったら、レスをパスするか、いっそ思い切って削除してしまった方がよいと思います。 そういう男の考え方は、一生直りませんから、交友しても何の利益にもならないばかりか、延々と傷つけられ続ける羽目になるのがオチです。

  長文のコメントは、わざと短いレスを返していれば、その内やみます。 律儀に同行返しをしていると、喜ばれていると思って、毎回長文を打って来ますから、要注意。 長文コメントが迷惑なのは、みんな承知していますから、そういう冷淡な扱いをしても、他のゲストから嫌われる心配は無いと思います。

  政治・宗教絡みのコメントなども、当たり障りの無いレスを返していると、「理解された」と誤解して、どんどん図に乗りますから、「その種の話には興味がありません」と、きっぱり言ってやった方がいいです。 自分自身が、その種の内容の記事を書いた時、「私も同感です」などと言って来る奴も危ないです。 誰でも、政治や宗教に対して、個人的意見の一つや二つはあるものですから、ブログに書きたくなるのも無理はありませんが、他人が絡んでくると、団体の集会に誘われたり、面倒な事の発端になりやすいので、警戒しておいた方が無難でしょう。

  最近ネットを始めた人にも一言。 2002年頃までは、≪オフ会≫というのが頻繁に開かれました。 ネットで知り合った同士が、現実世界で顔を合わせる会の事です。 しかし、今はもう死んだ習慣ですから、誘ってくる人がいたら、断った方がいいです。 昔はサイトが少なかったので、そこに同好の士が集まって、「じゃあ、今度みんなで会おうか」というような流れになりやすかったのです。 ところが、その後、個人サイトの数が急造した為、大勢が集まる掲示板が無くなり、オフ会も廃れて行きました。

  ブログ時代になってからは尚更で、ゲストはホストと話すだけで、他のゲストと仲良くなるような事はありませんから、もはや、オフ会が成立する素地など全く無いのです。 「ネットで知り合って、現実世界でも友人になった」などというケースは聞いた事が無いので、誘われたらまず、「何か裏がある」と疑った方がいいです。 もっとも、昔からオフ会は胡散臭かったですけどね。 ネット上にはほとんど書き込まないくせに、オフ会の時だけ幹事を買って出る得体の知れない人物とか、動物サイトのオフ会に出かけて行ったら、帰りに、「お土産」と言って、その動物の仔を一匹ずつ押し付けられたとか。 独身女性だと思っていたら、亭主がついて来たとか。(三つとも、実話)

  総括。 ブログ・コメントは、凝った事を書いたりせずに、一行くらいで、さらっと誉め言葉を贈るくらいがちょうど良いのかもしれませんな。 レスも楽に書けるし。 熱く語っても、迷惑がられるのでは、エネルギーの無駄です。

2008/09/07

ゲスコミ

  マスコミの下司化が止まりません。 止まるどころか日一日と拍車がかかっているように見えます。 あまりにも凄まじいので、かなりスレているつもりでいた私ですら、恐怖を感じている始末。 何事も一方向に永久に進んで行くという事はなく、必ずどこかに限界点があるわけですが、振れ幅が大きければ大きいほど、揺り戻しも大きくなりますから、これはもはや、破滅的な衝撃を覚悟せねば、正常化は望めないのではないかと思われます。

  若い世代の人達は、とんと知らぬ事だと思いますが、テレビ・ニュースというのは、以前は今のような内容ではありませんでした。 私の記憶にはっきり残っている間に限定しても30~35年前あたりからですが、その頃のニュースは、起こった事件を報せるだけで、いわゆる≪論評抜き≫でした。 ニュースの内容も硬い物がほとんどで、たとえば、芸能人ゴシップなんぞ、入り込む余地は全くありませんでした。 ゴシップは、週刊誌やスポーツ新聞の管轄で、テレビは、今よりもずっと、≪公器≫のイメージが強く、そんな下品なネタを流せるようなメディアではなかったのです。 NHKはもちろん、民放もです。

  それがやがて、民放の昼の時間帯で、≪ワイドショー≫というカテゴリーの番組が始まり、ゴシップ・ネタが解禁されていきます。 最近再び動きがあった、≪ロス疑惑≫などは、ワイドショー時代を代表する事件だったと言えます。 週刊誌やスポーツ新聞は、もともと通勤電車内で目のやり場が無い下司オヤジ達が読む慰み物だったのですが、そんな異端の情報が、ワイドショーを通して、お茶の間に入り込んで来み、徐々に市民権を得始めたわけです。 さあ、下司化時代の始まり始まり。

  ワイドショーが全盛期を迎えても、ニュース番組のほとんどは、依然として格調を保ったまま、20世紀を生き延びます。 「こんなネタをニュースで流せるわけないだろう。 ワイドショーへ持ってけ」といった選り分けが利いていたわけですな。 ところが、今世紀に入って、ある時点を境目に明らかな変質を起こします。 放送局の顔であるニュース番組が、何の臆面もなく、ワイドショー・ネタを扱うようになったのです。

  現在、30歳以下という人は、「ニュースで、芸能人ゴシップが流れるのは当たり前」と感じていると思いますが、実はこれは、ほんのごく最近始まった習慣です。 以前は、芸能人がニュース・ネタになるのは、暴行事件を起こしただの、覚醒剤に手を出しただのと、犯罪に手を染めた時だけでした。 たとえば、「横綱が治療目的で本国へ帰ったのに、サッカーをしていた」といったネタがニュースになるなど、およそ考えられませんでした。 笑っちゃうよね。 朝青龍関の方がじゃないよ。 そんな下らない事を、さも重大事のように報道するマスコミの方がさ。

  芸能人が結婚しただの、離婚しただの、そういったニュースは昔もないではなかったですが、よほどの有名人でなければ、ニュース番組で取り上げられる事はありませんでした。 今では、何者なのか分からないような人物の私生活までニュースにされています。 また、取材される方も、さほどの知名度でも無いくせに、まるで大スター気取り。 そんなだから、テレビ番組の出演者が、馬鹿だらけになってしまうんですよ。

  事故の報道も凄いですね。 ちょっと前、地方空港で、前輪が出ない旅客機が胴体着陸した事がありましたが、あれ以降、「飛行機がトラブルで、緊急着陸する」などという情報が入ると、マスコミがカメラを抱えて、空港へ急行するようになりました。 無事に着陸できるように心配してではありません。 当り前やがな。 無事に着陸したら、ニュースにならんものね。 落ちて欲しいんですよ。 着陸に失敗して、大事故を起こして欲しくて欲しくて、もういてもたってもいられないのです。 「無事に着陸できて、本当に良かったです」なんて、どの口から、そういう嘘が出て来るかな? おまえら、大惨事を撮りに来たんだろうが。 大スクープになると思って、期待に胸膨らませ、肩震わせてたんだろうが。

  「マスコミが変わった」と感じている人は多いと思いますが、そのターニング・ポイントがどこだったかについては、人によって見方が違うかも知れませんな。 私の見方では、≪日朝首脳会談≫が節目だったと思っています。 それ以前の日本のマスコミは、特定の外国を攻撃する事はタブーにしていました。 ソ連だけは若干扱いが違って、ソ連関係のニュースというと常にケンケン尖がった報道をしていましたが、それ以外の国に対しては、良い部分だけ報じるか、何も報じないかのどちらかでした。 悪い部分をほじくり出して伝えるなど、公器であるテレビのやる事ではなかったのです。 ちなみに、ワイドショーですら、外国を罵るようなネタは避けていました。 どこかから圧力がかかっていたというわけではなく、自発的に、品性を保っていたのでしょう。

  その品性のストッパーが、≪日朝首脳会談≫で拉致事件が事実であった事が分かった途端、パチンと外れたらしいのです。 テレビのニュース番組の関係者は、「この世の中には、どんなに罵っても構わない外国があるらしい」と感じたんでしょうな。 それ以降、爆発的に流行した朝鮮罵倒報道は、記憶に新しいので、誰でも覚えているでしょう。 わざわざ、その為だけに、番組を立ち上げた局もあったほどです。 ただ、同じマスコミでも、新聞はこの流行に乗ろうとせず、テレビが騒げば騒ぐほど、朝鮮関係の報道を控えていました。 昔から、「テレビ・ニュースなんぞ、報道の内に入らない」と見下して来た新聞人の矜持から、岡目八目を利かせていたんでしょう。

  朝鮮罵倒番組は、流行としては異例に長かったと思いますが、もともと情報が少ないですから、中身が稀薄になるのは避けられず、みるみる劣化して、どこから拾って来たか分からないようなネタを糞真面目に喋っているキャスターの方が狂人に見えて来るという、報道番組としては最悪の状態まで落ち込み、やがて潮が引くように消えていきました。 だから、物事には必ず、揺り返しがあるんですよ。 イケイケでどこまでも押せると思ったら大間違い。

  ところが、この朝鮮罵倒ブーム、恐ろしい皮を残して行きました。 それまで、「品性に欠ける」として控えていた外国批判のタブーも解いてしまったのです。 ご存知の通り、朝鮮の次に槍玉に上がったのが、中国です。 これは、現在も真っ盛りで続いていますから、いちいち説明しなくても肌で感じ取れるでしょう。 これまた、現在20歳以下の人は、「昔からこんなものだった」と思っているかもしれませんが、とんでもない思い違いでして、日中関係は、国交正常化以来、互恵状態が続いて来て、ほんの5年くらい前までは、日本人が中国を罵るなど、ありえない話でした。

  前にも書きましたが、国というのは、人口規模に関わらず、非常に多様な存在であって、良い面もあれば、悪い面もあります。 良い面に着目すれば、良い報道になりますし、悪い面だけに目を向ければ、いくらでも悪いニュースを流す事が出来ます。 以前の日本のマスコミは、中国を良心的に報道していましたが、現在は、それがそっくり裏返った状態になっています。

  北京五輪に関連した中国罵倒報道は凄まじいの一語に尽きました。 最も典型的だったのは、≪北京・大気汚染説≫です。 テレビも新聞も、「北京の空気は汚れている!」と、どれだけ騒いだか分かりません。 学者まで登場し、「マスクをした方が良いでしょう」などと、真顔で解説していたのをはっきり覚えています。 わざわざ、マスクの種類まで指定して…。 で、オリンピックの期間中、マスクをしていた人間がいたかというと、私が見た限りでは、一人も確認できませんでした。 選手はもちろん、観客も、当のマスコミ関係者も、ただの一人もマスクなんぞしていませんでした。 まあ、当り前って言や、当り前だよねえ。 周りの市民は何でもなく普通に呼吸して暮らしているのに、マスクなんかしてたら、キチガイにしか見えませんからねえ。 あの学者、一体何者だったんでしょう? 最近は、大学も胡散臭いところがうようよ増えて、テレビに映る為なら、ディレクターの望み通りの事をセリフのように喋る学者も多いですから、そんな輩の一人だったんでしょうなあ。

  そういえば、フランスで提唱された、≪人権バッジ≫というのもありましたが、ありゃ、どうなったんでしょうねえ? 開会式の入場の時に、フランス選手団の服をしげしげ見ていたんですが、何もつけていませんでした。 期間中も、一度も見ず。 まあ、選手は競技をしに来ているのであって、政治活動に来ているのではないから、当り前って言や、当り前ですがね。 五輪の華やかな舞台を楽しみたいのに、そんな、開催国に喧嘩を売るようなバッジをつけていたら、楽しみようがないものねえ。 大仰な発表会まで催して、「≪人権バッジ≫をつけよう」と提案していたあの人物、当然の事ながら、五輪の放送は一切見なかったんだろうねえ。 せめて、発案者一人くらいは、抵抗を続けないとカッコつかないもんな。

  そういえば、善光寺の坊主ども、あいつらも、五輪放送は一切見なかったんだろうねえ。 あれだけ大々的に開催国を批判しておいて、「中継は見ます」なんて、図々しいものねえ。 他にも、チベット騒乱絡みで、チベットのチの字も知らんくせに、ブームに乗って中国批判を繰り広げていた連中、おまえらも、五輪放送は、きっちり見なかったんだろうな。 開催そのものに反対していたんだから、見る資格が無いのは、分かるよな、いくら馬鹿でも。

  開会式のショー演出につけたケチも凄かったねえ。 「花火がCG」だの、「女の子が口パク」だの、「少数民族衣装の子供が漢族」だの・・・・だから、どうだって言うんだよ? あのなあ、ショーというのは、最初から全部作り物だ。 だから、ショーなんだ。 おまえらの言い分に従うと、すべてリアルのドキュメンタリーでなければいけないわけだな。 すると何か、聖火点灯の時、李寧さんが、ワイヤーで吊るされて、宙を走って見せたが、あれも、本当に飛ばなければいけなかったわけだな。 分かってるか? おまえらの言っている事はそういう事だぞ。 そうかそうか、すると、あの寒々しい長野冬季五輪の開会式の時に、聖火点灯したのは、本物の天照大神だったわけだ。 そりゃあ、知らなかった。 へへえ、ありがたや、ありがたや…。

  このイチャモン、日本発ではなく、イギリス辺りから出て来たらしいですが、言い出した奴らの動機は、いとも容易に想像できます。 開会式があまりにも華やかで芸術的だったので、猛烈な焦り、妬み、嫉みの感情に襲われたのでしょう。 「こんな物はとても真似できない!」と思った瞬間、「素晴らしい」と絶賛するのが悔しくて、「どうにかして、ケチがつけられないものだろうか?」と、下司方向に思考がスイッチしたんでしょう。 中学生なんかに、よくいますよねえ。 普段気にも掛けていなかったクラスメートが、美術の時間にぎょっとするような高度な作品を描いているのを見て、ショックを受け、周りがみんな誉めそやしているのに、必死になって粗探しに精を出す醜い奴が。 更にエスカレートして、「こう描けよ」とか言って、勝手に筆を入れ、人の傑作をグジャグジャにしてしまうような、キチガイ小僧も稀にあり。 それだよ、その同類。 骨の髄まで下司ならでは、到底出来ぬ仕業ですな。

  まあ、今回の北京五輪ほど、マスコミの下司ぶりがあからさまに発揮された事は、過去に無かったですな。 しかも、テレビだけでなく、新聞まで、ほぼ同じ報道をしていました。 Oh,God !! とうとう、一般の新聞までがワイドショー化してしまったのです。 いや、新聞の場合、週刊誌化したというべきか。 実際の所、現在の全国紙の中国に関する報道内容は、週刊誌のそれと、ほとんど変わりません。 当人達は、「事実を伝えている」と言うでしょうが、正確には、「悪い部分を、更に悪く脚色して伝えている」と言うべきでしょう。 問題は、本来、国を代表する知識人であらねばならない新聞人が、その違いを見分けられず、下劣な記事を書いて恥かしいとも思っていない、その点なのです。

  最近の新聞を見ると、同じ新聞の中なのに、記者によってまるっきり正反対の意見が載っていたりして、読者側としては、どれがその新聞の意見なのか分からず、戸惑う事が多いです。 署名記事が増えたので、記者個人の意見を書いているようにも思えますが、「では、統一した≪社説≫は存在しないのか?」と問われたら、何と答えるんでしょう? 署名記事が、本来の目的である、記者に責任感を持たせる方向に働かず、新聞のブログ化を引き起こしてしまっているのは、弊害としか言えませんな。 ブログなんていうのは、アホでも書けるのであって、何も知識人を雇って書かせる必要は無いわけだ。

  ああ、これは言っていいのかどうかわかりませんが、最近の日本の新聞人は、知識人としてのレベルが落ちていますなあ。 どっぷり文系だから、科学技術が分からんのは致し方ないとして、分からない事を分かるフリをするのはいかんで。 また、国際政治の基礎を知らないどころの話ではなく、外国に差別意識を抱いているような人間を特派員に送り出すのもいかがなものかと思うねえ。 特派員が書いたコラムを読むと、そやつの知能レベルがすぐに分かります。 戦場取材から、爆弾を土産に持って帰るカメラマンと同レベルの記者がうようよいるのは、恐怖の一語。

  記者を雇う前に、その人物が書いたブログを読んで、頭の程を覗った方が良いでしょう。 記者を志すくらいなら、当然、学生時代から、ブログ記事の百や二百は書いているでしょうから。 特に、差別意識がある人間は、採用してから直すというわけに行かず、クビにするまで、ずっと差別記事を書き続けますから、要注意ですな。 全国紙がしゃあしゃあと差別記事を載せてたんじゃ、その国はもうおしまいだぜ。


  おっと、何だか、余談が余談を呼んで、テーマを見失ってしまいましたな。 そうそう、下司だよ、下司。 でねえ、このマスコミの下司化ですが、日本だけじゃないんですな。 基本的に、民主主義で、報道の自由が保証されていて、しかも実際に報道の自由が存在する国では、軒並み、同様の下司化が起こっています。

  アメリカのマスコミが、ブッシュ政権のイラク侵略を全面的に応援したのは、記憶に新しい所。 面白いですねえ。 報道の自由があるのに、あれだけ大きな国で、侵略戦争に反対したのは、確か、ラジオ局が一局だけだったんじゃないですかね? 後は、全部賛成。 イケイケ・ヤレヤレですわ。 そんで、当初の目論見が外れ、イラク統治が行き詰ったら、今度は、最初から反対していたような顔をして、イラクからの撤退を主張しているんですな。 当人達は、「状況が変わったからだ」と言うでしょうが、そんじゃ、おまえら、状況が変われば、嘘でも法螺でも何でも言うのか? そういう人間になりなさいと、親に教わったか? 偉い親だな。 せいぜい自分の子供にも、その下司な処世訓を伝授するんだな。

  アメリカだけじゃないです。 ≪ボーリング・フォー・コロンバイン≫で、品位あるマスコミのお手本のように持ち上げられたカナダ・マスコミですが、北京五輪の前半は凄かったですぜ。 カナダは、大会の前半は一つのメダルも取れずに折り返したんですが、そのせいか、前半一週間の五輪報道は、例の開会式ショーへの難癖や、人権問題批判など、中国への悪口で埋っていました。 大した品位だよ、カナダのマスコミ。 カナダ人は、国土の広さ、人口規模、人種構成、文化系統といった要因から、ほぼ同じサイズのオーストラリアに、密かな競争心を抱いていますが、そのオーストラリアが馬鹿須賀メダルを取っているのに、自分の国がゼロだったのが、よっぽど、いけ好かなかったのかも知れませんな。 だけどよー、開催国を扱き下ろしたって、メダルは手に入らないぜ。


  以前、≪フラワー・ロック≫というオモチャがありました。 声や音に反応して、揺れる造花です。 報道の自由下にあるマスコミは、そのフラワー・ロックに似ていると思います。 自分達に独自の意見があるわけではないのです。 聞こえてくる声に反応して、その声の主が喜びそうなネタを探し、それを更に受けがいいように脚色して伝えているだけなのだと思います。

  では、声の主とは、誰か? 政府? いや、違います。 たとえば、戦前・戦中の日本のマスコミは政府の御用機関化していましたが、かれらには、報道の自由はありませんでした。 現在の日本のマスコミが奉仕しているのは、お上ではなく、民衆の方です。 たとえば、朝鮮との国交正常化を阻害している拉致問題ですが、当初、日本政府は、朝鮮政府と政府間で話し合って解決してしまおうと考えていました。 ところが、日朝首脳会談の結果、拉致事件が事実であった事が、日本国内に知れ渡ると、それまで見向きもしなかった民衆が、拉致被害者家族の側に回り、選挙を恐れる日本政府は独断で政治決着できなくなってしまいました。

  では、民衆側には、問題解決の為の筋道だった考えがあったかというと、一億二千万人がてんでばらばらに考えている事ですから、そんな統一方針があるわけがなく、「解決しなくてもいいから、朝鮮を罵倒し続けたい」、いや、「朝鮮を罵倒し続ける為に、むしろ解決などしてもらっては困る」という、下司の発想に落ち込んでしまいました。 火事場に集まった野次馬が、「燃えろ燃えろ。 早く隣の家に燃え移れ」と、口には出さないが胸躍らせている、あの下司嗜好と同類です。

  現在、ありとあらゆる面で、マスコミの下司化は加速の一途を辿っていますが、それを望んでいるのは、取りも直さず、下司な民衆なのです。 下司マスコミは、下司民衆が喜びそうな下司ネタをせっせと集め、下司ソースをかけて味を濃くし、下司パーティーを盛り上げる事に余念がありません。 テレビは、視聴率の為に、下司民衆に媚び、新聞は減り続ける部数に歯止めをかけるために、今まで相手にしてこなかった、低劣な読者に受けようと、≪報道の魂≫を切り売りしています。 ネットは、もともと下司です。 いずれも、下司報道を長く続けていると、感覚が麻痺してきて、それが普通だと思い始め、自分達が前代未聞の下司野郎に堕している事に気付きません。

  朝目覚めると、テレビをつけ、パソコンを起こし、新聞を開いて、何か新しいニュースがないかと、目を皿のようにして調べる。 そんな人がほとんどでしょう。 ところが、マスコミを通して得ているそれらの情報は、下司度の高さを基準にして選択され、脚色されたものばかりです。 「なんで、こんなに殺伐としたニュースばかりなのだ? 日本人は、犯罪者と変質者と詐欺師だけで構成されているのか? 外国とは全て悪魔が住んでいる場所なのか? タレントとは、馬鹿・無能という意味だったのか? スポーツ選手はみんな薬物中毒か?」 そんなわけないでしょ。 そんな世の中だったら、とっくに戦国時代になってるよ。 悪い部分だけ増幅して報じているから、悪い世の中としか思えなくなってしまっているだけです。

  中国政府やロシア政府は、時々、「旧西側マスコミの報道姿勢はおかしい」と批判していますが、下司民衆に媚びているのが実態ですから、報道関係者に良識とバランス感覚が要求される国から見れば、おかしいのは当然です。 下司の方は、自分が下司だとは思っていないので、「おかしいのは、報道規制がある国の方だ」と言い返していますが、はたから見て、どちらが品性が高いかと言えば、それは、統制マスコミの方でしょう。 自由マスコミは、自由と放埓の区別がつかぬまま、下司地獄へ限り無く転落していきます。

  傾向というのは、必ず、どこかで止まります。 しかし、それまでに何十年かかるか分かりません。 自由マスコミの歴史が日本より遥かに長いアメリカですら、まだ振り子が振り切っていないのですから、今後百年以上続く事も充分に考えられます。 凄いね、これから百年も、毎朝毎朝、下司が集めた下品で殺伐としたニュースを聞かされ続けるわけだ。 耐えられるかね? 私は、適当な所で遁世し、見ざる言わざる聞かざるの世界に入るつもりでいますが。

  ちなみに、テレビに関してですが、ニュースや報道番組が下司化しているのは、専らキー局です。 地方局では、今でも、節度ある番組作りをしていて、キー局が流して来る全国ニュースの、下司ネタ部分をカットし、そこにマイルドな地方ニュースを入れています。 ニュース番組の中で、万引き犯を吊るし上げる映像など、金輪際流れません。 一体、どういうつもりで、あんなもの流しているのかね、キー局っていうのは? やはり、民衆が見たがるからかね? 公開処刑か? 関東圏に住んでいて、キー局しか見れない人は、大変気の毒です。 下司ニュースを見続ける限り、心の荒廃は避けられますまい。 本来、心を豊かにする為に発明されたテレビなのに、多くの人間を不幸にしているのは、皮肉な話ですな。