2023/02/26

EN125-2Aでプチ・ツーリング (41)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、41回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2023年1月分。






【伊豆の国市奈古谷・狐塚古墳】

  2023年1月4日に、バイクで、伊豆の国市・奈古谷にある、「狐塚古墳」へ行って来ました。 1月は、函南町へ行くつもりでいたんですが、同じ畑毛温泉でも、南の方は、伊豆の国市、旧韮山町だったんですな。 帰って来てから、調べて、知りました。 

≪写真1≫
  山の手前に、竹薮がありますが、この竹藪の部分が、狐塚古墳のようです。 竹藪の左手は、畑毛温泉の、宿の一軒の敷地。

≪写真2≫
  竹藪のすぐ横、西側を通る道に来ました。 竹藪に入れる場所はありません。

≪写真3左≫
  竹藪の南側にある、小路の入口。 ここを入って行ったんですが、表通りに出ただけでした。

≪写真3右≫
  小路の帰り。 右側は、びっしり、藪で覆われています。 左側は、企業の敷地。

≪写真4左≫
  小路の入口付近に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ギア・インジケーター・ランプの「1」が、また点かなくなってしまいました。 インジケーターがないバイクもあるから、なければないで、問題なく乗れるんですが、何となく、壊れているようで、嫌ですな。 この後、直す事になります。

≪写真4右≫
  右リヤ・サスと、マフラーの付近。 現場では、メッキ部品に、陽光が反射して、メカニカルな印象が強かったんですが、写真に撮ってみると、別に、どうという事はありませんな。





【函南町畑毛・畑毛せせらぎ公園】

  2023年1月12日、バイクで、函南町畑毛にある、「畑毛せせらぎ公園」へ行って来ました。 地図で見つけた所。 柿沢川の河岸にあります。

≪写真1左≫
  函南町役場前の交差点を、南東に向かい、柿沢川に着いたら、その土手道を走れば、ここに来ます。 車は、土手道に入れません。 バイクは、土手道には入れますが、公園内は、乗り入れ禁止。 ここに写っているのが、公園の、ほぼ、全景です。

≪写真1右≫
  石が並んでいました。 庭という感じではないので、たぶん、椅子。 しかし、石には、直かに座らない方がいいです。 痔になり易いらしいので。

≪写真2左≫
  せせらぎ公園の名の通り、小川があります。 柿沢川とは別。 これは、その小川の上に架かる橋です。 小川というには、両側のコンクリート壁の主張が強過ぎですが。

≪写真2右≫
  小川が、流れて行く先。 やはり、小川というには、両岸の造りが逞し過ぎますねえ。

≪写真3≫
  柿沢川。 川が見えず、対岸の土手が見えます。

≪写真4≫
  公園の入り口に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ギア・インジケーター「1」のLED球を交換し、機能的に、正常に戻った直後のプチ・ツーです。 ギア・インジケーターは、最初からないバイクもあるから、「1」が点かなくても、乗れない事はないんですが、やはり、点くべきものは、点いてくれた方が、気分がいいですな。

  出がけに、ホーンを見たら、汚れていたので、帰ってから、油の浸みたウエスで、拭き取りました。 点錆も、一緒に取れました。 ホーンなんて、2019年の9月、買った直後の補修の時以来、一回も見ていませんでした。 使った事も、一回もありません。





【函南町平井・不動堂①】

  2023年1月20日に、バイクで、函南町・平井の、「不動堂」へ行って来ました。 ネット地図で見つけた所。 地図を調べる時に、航空写真も見るようにしたら、辿り着き率が上がりました。

≪写真1≫
  道路から見た景色。 お堂は、上の方にあり、森に覆われて、見えません。 右端の赤いのは、人です。 水を汲みに来た様子。 近所の人なのか、無マスク。 この人を避ける為に、些か、気を使いました。

≪写真2左≫
  道路から、お堂下の階段に至る道。 こんな狭い所で、無マスクの人とすれ違うのは、ゾッとするので、用心しながら、小走りに進みました。

≪写真2右≫
  階段の下まで来ると、お堂が見えました。 この角度で、見上げる位置に建ててあるのは、計算だと思います。 風情、あり。

≪写真3≫
  不動堂。 いかにも、お堂という形をしていますな。 木造で、屋根は、たぶん、トタン葺き。

≪写真4左≫
  お堂の正面軒下。 なぜか、注連縄と、シデがあります。 しかし、神社ではないと思います。 電灯は、電球で、懐かしい形の笠が付いています。

≪写真4右≫
  石碑。 何と書いてあるのか、確認して来ませんでした。 ここにも、注連縄がかかっています。

  石燈籠は、丸竿、六角火袋、四角笠。 ハイブリッドだな。





【函南町平井・不動堂②】

≪写真1≫
  お堂がある境内から、下の段へ、塩ビ・パイプの筧で落とされている水。 赤い服の人は、この水を汲みに来ていたわけだな。 たぶん、名水なのでしょう。

≪写真2左≫
  塩ビ・パイプは、境内・上の段の、この岩の間から、引かれていました。 

≪写真2右≫
  下の段から見ると、こうなります。 かつては、滝だったのかも知れません。 水量が減ったので、パイプ筧にして、汲み易くしたのかも。 滝壺に当たる部分も、人の手で作ったものです。

≪写真3左≫
  「不動の瀧 蛍の里 修景記念句碑」。 かつては滝だったのでは? と思ったのは、この碑に、「不動の瀧」という字があったからです。 文章ではなく、俳句と、読み手の名前が並んでいます。

≪写真3右≫
  下の段の、岩の隙間にあった、石仏か、道祖神。 上にかかっているのは、どうやら、注連縄のようです。 では、道祖神か。 仏教っぽいのは、お堂の建物本体だけですな。

≪写真4≫
  路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 中古で買ってから、もう、3年と4ヵ月も経ちました。

  つくづく、オン・ロード系のスポーツ・バイクにしておいて良かった。 もうオフ・ローダーという歳ではないですし、カブでは、バイクに乗っている感じがしないし。 タンクを腿で挟むタイプの、往年のビジネス・バイクなら、少し欲しいと思いましたけど。 ちなみに、スクーターは、最初から、候補にありませんでした。

  坂コケを経験したから言うわけではありませんが、引退してから、この種の小排気量バイクで、プチ・ツーリングを楽しむには、とことん、安全運転を心がける事ですな。 無事に帰って来て、また、出かけて行く為です。





【函南町桑原・横道順禮供養塔】

  2023年1月26日、バイクで、函南町・桑原にある、「横道順禮供養塔」へ行って来ました。 「よこどう・じゅんれい・くようとう」と読みます。

≪写真1≫
  伊豆箱根鉄道の大場駅から、JR東海道本線の函南駅へ向かう道の途中、函南駅に近い所にある、信号交差点です。 ここを、右折すると、函南駅に至りますが、今回は、直進し、トンネルを潜ります。 トンネルの上は、東海道本線です。

≪写真2≫
  しばらく進むと、今度は、新幹線を潜ります。 これは、トンネルとは言いませんな。 ガードですかね。

≪写真3≫
  左側に、ガソリン・スタンドが見えたら、そのすぐ先に、石碑があります。 とんでしまっていますが、右の方に立っている、白い横長の札には、「横道順禮供養塔」と書いてありました。

≪写真4左≫
  石碑の文字。 何とか、読めます。 「横道」というのは、「主要な街道ではない道」という意味らしいです。 供養塔ですから、行き倒れた人を、弔ったんでしょうな。 この下に、骨が埋まっていると思うと、ちと、怖いですが。

≪写真4右≫
  供養塔の前の道から、西の方を見た景色。 山道です。 右は、ガソリン・スタンド。

  バイクは、路肩に停めました。 道幅からして、車だと、路肩駐車は、ちと、迷惑か。 しかし、石碑の写真を撮るだけなら、1分もかかりませんから、問題ないでしょう。





  今回は、ここまで。

  1月は、函南町を目的地にしようと思っていたんですが、最初の一回を、間違えて、伊豆の国市・旧韮山町へ行ってしまい、結局、混成になりました。 まあ、自分で決めている目安に過ぎないから、ズレたって、構やしないんですが。

  ここのところ、神社を目的地から外しているので、組み写真の総数が減っています。 あくまで、バイクで出かけるのが目的であって、神社全踏破をしたいわけではないので、目的地は、ただの石碑のようなものでも、一向に構わないのです。

  それらが出ている、紙の地図がないのは、困ったもの。 ネット地図には載っていますが、ギガを消耗してしまうので、長時間、検索し続けられないのです。

2023/02/19

実話風小説 ⑬ 【高級車志向】

  「実話風小説」の13作目です。 普通の小説との違いは、情景描写や心理描写を最小限にして、文字通り、新聞や雑誌の記事のような、実話風の文体で書いてあるという事です。




【高級車志向】

  A氏は、バブル時代に、社会人になった世代である。 都会の大学を出て、全国チェーンの小売業界企業に就職。 38年間、専ら、デパート、スーパー、ショッピング・モールなどの出店を担当し、60歳で、定年退職した。 定年延長制度があったが、給料が半額になると聞いて、蹴ってしまった。 プライドの高い性格だったのである。

  A氏と言えば、友人・知人・同僚の間では、高級車に乗っている事で有名だった。 高校卒業前に、車の免許を取ったのは、まあ、普通の事だが、大学2年の頃から、中古の高級車に乗っていた。 2年間、アルバイトで稼いだお金を、全て注ぎ込んで、100万円近い中古を買ったのである。 まだ、現行で売っている最新型で、実は、事故車だったのだが、外見からは分からなかった。

  大学の友人達からは、「こんな都会で、車なんて、もってたって、使い難いだけだろう」と言われたが、A氏は、アパートを郊外に移してでも、車をもつ事に拘った。 平日は、電車で、片道1時間かけて、大学とバイトへ通い、車に乗れるのは、休みの日だけだったが、バッテリーが上がらないように乗る程度で、ドライブが好きなわけでもなく、改造に凝るわけでもなく、傍から見ると、何の為に車をもっているのか、理解できなかった。 まして、高級車など、全く、無用の長物ではないか。

  成人式には、実家のある地方都市まで、その高級車で帰省した。 700キロも離れており、友人達は、「危ないから、よせ」と言ったが、聞き入れなかった。 なぜというに、成人式に間に合わせる為に、2年間、必死で、バイトに励み、その車を買ったからだ。 成人式には、是が非でも、高級車で乗りつけなければならなかったのだ。

  友人達の心配通り、A氏の車は、帰省途中で、故障した。 事故車だから、無理をさせれば、そうなる可能性は高い。 見知らぬ土地で、レッカー車を呼び、最寄の整備工場に運んでもらった。 大物部品の交換が必要だと言われ、10万円も要求されたが、A氏は、預金を全部はたいて、直してもらった。 是が非でも、成人式に間に合わせなければならなかったのだ。

  成人式には、間に合った。 しかし、A氏は、喜びはしなかった。 是が非でも、車を見せたい相手が、来ていなかったからである。 他の、元同窓生達は、A氏が、都会の大学に行っているのに、高級車を所有している事に、驚いてくれた。 しかし、A氏は、喜ばなかった。 A氏が、車を自慢したい相手は、ただ一人だけだったのだ。

  A氏は、式が終わると、気分を腐らせたまま、実家へ帰ってしまった。 誰かを乗せて、遊びに行く事をしなかったのは、中に乗られると、事故車である事が分かってしまうからだった。 親からは、「なんで、そんな車を買ったんだ?」と訝られたが、A氏は、「この車種が好きなんだよ」と、テキトーにはぐらかした。 

  その後の大学時代は、これといって、車に関する出来事はない。 成人式が終わっても、車を手放す事はせず、ずっと、所有していた。 サークルの行事で、車を出す事があったが、乗せた友人から、内装が壊れている点を指摘されても、A氏は、無視していた。 その頃は、まだ、インター・ネットがなくて、自分で中古部品を買って直すという人はいなかった。 整備工場に頼むと、数十万かかってしまうから、直しようがなかったのだ。


  大学を卒業し、そのまま、都会で就職すると、給料とボーナスを、生活費以外、ギュッと切り詰めて、貯金に励み、400万円貯まると、新車に買い換えた。 別の車種だが、また、高級車である。 友人や同僚は、A氏が前の車を、気に入って、もっているのだと思っていたので、あっさり買い換えてしまった事に、意外さを感じた。

  アパートは、大学時代と変わらず、月極駐車場も、そのまま。 ただ、車だけが、ピカピカ新品の高級車に変わった。 しかし、相変わらず、通勤は電車で、車に乗るのは、休みの日に、ほんの一時間程度だけだった。

  周囲が不思議に思ったのは、A氏が、特に、見栄っ張りというわけではなく、服装や暮らし向き全般を見ると、ごく普通の青年だった事だ。 ある時、アパートの大家が、月極駐車場の前で、A氏と会い、ちょっと話になった。

「Aさんは、車に滅多に乗らないんだねえ」
「ええ、まあ・・・」
「いい車なのに、もったいないねえ。 もっと、安いのでもいいんじゃないの?」
「いやあ、いつ、どこで、誰と会うか分かりませんからねえ」

  よく分からない、応えである。 しかし、この言葉からも、A氏が高級車に拘っているのが、誰かを意識しての事である事が分かる。 成人式に間に合わせようとした点から見て、高校時代以前の知り合いだろう。 そして、A氏は、その相手の近況を知らない。 どこに住んでいるか分からないから、どこで会ってもいいように、用心しているのであろう。

  しかし、A氏が、その相手に会う事は、会社勤めをしていた38年間、一度もなかった。 その間に、結婚し、都会の郊外に家を買い、子供が生まれ、育った子供が、家を出て行き、夫婦二人だけになった。 車は、10回も買い換えていた。 車種は一定しないが、全て、高級車の最新型だった。 最新型でなければ、まずいのだ。

  仕事の方では、特に優秀というわけではなく、単身赴任が多くて、会社にいいように利用された方だった。 地方に赴任している時には、車が役に立った。 A氏は、最終的に、課長並み止まりだったが、車だけは、重役が運転手付きで乗っていてもおかしくないような、立派なものだった。 新しい赴任先で、同僚から、「いい車、乗ってますね」と言われる事が多かったが、A氏は、そういう人達に、車を自慢する事はなかった。 彼らに見せる為に、高級車に乗っているわけではなかったからだ。

  赴任先の、職場違いの同僚に、A氏と同じ車種に乗っている人物がいて、駐車場でA氏と会い、車について、話をした事があった。 その人物が、他の同僚に語った事。

「Aさんは、別に、車好きというわけじゃないようだな。 自分が乗っている車種の事でも、全然、興味がないみたいな話しぶりだったよ。 あの車も、グレードは最高だけど、後付けのアクセサリーは、一つも付けてないしな」
「それに、いつも、妙に汚れてませんか?」
「そうそう。 埃だらけだよな。 ワックスなんか、一度もかけてないと思うね。 洗車くらい、すればいいのに。 あれじゃ、塗装が駄目になっちまうよ。 たぶん、下取り価格は、相当、足元を見られるぜ」


  妻からは、A氏の高級車志向は、不評だった。 理由は明快。 価格が高い車を、5年もしない内に、買い換えていたから、それが、家計を圧迫していたのだ。 それでいて、妻が、自分用に、軽自動車を買おうとすると、A氏は、頑強に反対し、1000cc以上の車を薦めた。 軽自動車を、「危険だ」とか、「デザインがセコい」とか、「貧乏人が乗る車だ」とか、口汚く扱き下ろし、差額分は自分が出してやるから、1000cc以上の車を買えと言った。

  ちなみに、A氏は、軽自動車には、一度も乗った事がなく、乗せてもらった事さえもなかった。 乗った事がないのに、扱き下ろすのは、奇妙だったが、とにかく、周囲から見て、異常さを感じるほど、軽自動車を忌み嫌っていたのだ。

  息子が、車の免許を取り、車を買いたいと言った時にも、A氏と、揉めた。

「親父が、あのデカい車をやめて、軽にしてくれれば、俺が月極を借りなくても、家の車置き場に、3台置けるじゃないか」

  怒った怒った。

「とんでもない! 俺が軽なんか、乗るわけないだろう! お前も、軽は駄目だ! 父さんが、差額を出してやるから、1000cc以上のを買え。 月極の料金も、俺が出してやる」

  これは、必ずしも、息子にとって悪い話ではなかったので、揉めはしたものの、最終的には、A氏の意向が通った。 しかし、A氏の妻は、お金の事を心配していた。 息子は、これから、大学だというのに、家の貯金が、ほとんど、底をついていたからだ。 差額を出すと言うが、A氏本人に、それほどの蓄えがない事は、分かっていた。 息子に、ローンを組ませて、月毎に、少しずつ、援助してやる事になるのだろう。 そういう経済状況に、不安を覚えていたのだ。

  A氏の家では、妻も働いていたので、生活費は、夫婦で、6対4の割合で出し合っていた。 妻の方は、収入が少なくて、常に、カツカツ。 しかし、夫の方も、カツカツだった。 理由は、車の買い換えで、消えてしまうからであった。 家のローン、車のローン、学資ローン、借金だらけであった。

  息子は、大学を出ると、縁もゆかりもない地方都市に行って、就職した。 理由は言わなかったが、両親に貯金がないのを察知して、老後の世話をさせられないように、予め、遠隔地に退避したのだった。 距離を言いわけにすれば、いずれ親から来るであろう、様々な頼み事を、断ったり拒んだりするのに、都合がいいと踏んだのである。

  A氏の家は、夫婦二人になっても、依然、家計がカツカツ、というか、完全な赤字だった。 理由は全て、A氏の高級車志向に尽きる。 それまで乗っていた車種に新型が出て、型落ちになるやいなや、買い換えるので、お金が幾らあっても足りるわけがない。 そのつど、夫婦で口論になるが、A氏は、なぜ、そんなに、新型の高級車に拘るのか、妻が納得できる理由を口にしなかった。

「物欲に、理由なんか、あるか」

  の一言で、ごまかそうとした。 だが、理由はあった。 隠していただけなのだ。

  しょっちゅう、単身赴任に出されていたA氏は、よくある事であるが、赴任先で女を作っていた。 各地方に、何人かいたが、その話を打ち明けたのは、一人の女性だけである。 妻や、他の浮気相手とは違って、母親のような包容力を感じさせる女性だった。 親しくなっても、馴れ馴れしい態度にならず、どんな事でも真面目に聞いてくれる相手に、心を許して、秘密を打ち明けたのだ。

  A氏が、高校3年生の2月、もうすぐ、卒業式という時期の事である。 すでに、授業らしい授業はなく、教室で、同級生達と、ガヤガヤ話をしていた。 A氏を始めとして、そこにいた面子のほとんどが、車の免許を取ったばかりで、どんな車を買うかが話題になっていた。 A氏は、大学進学組だったが、

「せっかく、免許を取ったんだし、運転を忘れるのも嫌だから、都会の郊外に住んで、車を買おうと思う」

  と、話していた。 そこへ、すぐ隣のグループで話をしていた、B氏が、振り向いて、A氏に声をかけた。

「なになに? Aって、車買うの? 軽?」

  A氏は、馬鹿にされたと思って、ムッとし、返事をしなかった。 B氏は、自分のグループで、話が盛り上がっていたせいで、少し、ハイな精神状態にあり、A氏が返事をしなくても、気にした様子もなく、また、自分のグループに戻って、会話を続けた。

  このB氏だが、実は、A氏の恋敵だった。 といっても、三角関係というのではなく、A氏が片思いしている女子が、B氏と交際しているという噂があり、A氏が勝手に、B氏を恋敵として、憎んでいたのだ。 そういう相手から、馬鹿にされたわけだから、A氏は、額に血管が浮き出るほど、腹を立てたが、卒業が近いタイミングで、喧嘩をするのもどうかと思い、怒りを鎮める事に努力した。

  A氏の高級車志向の発端は、そんな事だったのだ。 にっくき恋敵から、「おまえなんか、軽自動車がお似合いだ」と言われて、鶏冠に来た。 その反動で、高級車ばかり、乗り継いで来たのだ。 偏えに、いつか、B氏に出会った時に、馬鹿にされないように、馬鹿にし返せるように、準備して来たのである。

「成人式に、Bは来なかった。 どうせ、ろくでもない人生を送っているんだろう。 それに引き替え、俺は、一流企業に就職して、高級車に乗っている。 圧勝じゃないか。 見ろ、この車を! お前は、こんなのに乗れる人間になったのか?」

  と・・・。 他人から見ると、大変、下らない執着だが、人間の本性なんて、そんなものなのだろう。 気の毒なのは、そんな低次元な戦いに巻き込まれた、A氏の妻であるが、彼女にも、後ろ暗い判断ミスはあった。 バブル時代に結婚したから、「乗っている車で、男を選ぶ」という、今考えると、途轍もなく馬鹿馬鹿しい理由で、A氏と交際を始めてしまったのである。

  高級車に乗っている男が、即、金持ちや、高給取りではないという事を、結婚してから知ったわけだ。 金持ちどころか、高級車志向のせいで、むしろ、平均より、遥かに貧乏なのである。 それも、破滅的なレベルで。

  A氏が定年になった途端、A家では、家のローンが返せなくなった。 妻は、まだ、パートで働いていたが、貯金が、なくなってしまったのだ。 正確に言うと、ローンを返し続けて、食費をゼロにするか、家を処分して、食費を確保するか、どちらかしか選べなくなった。 食べないわけには行かないので、とりあえず、妻の車を売って、当座の食費を確保した。

  A氏の車は、まだ、買い換えたばかりで、売れば、300万円くらいになると思われたが、当然のごとく、A氏は、頑として、首を縦に振らなかった。 「車を売るくらいなら、働きに出る!」と、啖呵を切ったが、60歳過ぎている者が、そう簡単に就職はできない。 たまに、口があっても、給料は、定年延長した場合の、更に半分で、就職する前から、やる気が失せる。

  妻としては、もはや、夫は、「生活の敵」以外の何ものでもなくなった。 なぜ、使いもしない車を売らないのか、ほとほと、理解しかねる。 それには、息子や、A氏の兄弟、妻の姉なども同意見で、妻から応援を頼まれて、直談判に乗り込んで来る者もいた。

「Aさん、あなたの気持ちも分からないじゃないが、家を売るところまで追い詰められたら、やはり、車より、家族でしょう!」

  しかし、A氏は、決して、車を売るとは言わなかった。

「車は、私の人生の価値そのものなんです。 大袈裟な言い方に聞こえるかもしれないが、車を売る事は、私の人生を否定するのと同じなんです」

  説得不能。 結局、A氏の家は、人手に渡り、妻は、実家に戻って、だいぶ前から寡婦になっていた姉と同居する事になった。 A氏は、家を売って、ローンを返したお金の残りで、アパートを借りようとしたが、保証人を見つけられず、結局、実家の近くに戻り、親戚がやっている、下宿に身を寄せる事になった。

  そういう立場では、遊んでいるわけにも行かないので、シルバー人材センターに登録して、人足仕事がある時だけ、働きに出た。 専ら、自治体から依頼される、イベントの準備の手伝いとか、清掃作業とか、そういった仕事である。 給料は少なくて、下宿代と生活費を差し引くと、車の維持費が辛うじて残るくらいである。

  そう。 下宿人であるにも拘らず、高級車だけは、維持していた。 その家が、元農家で、庭が広くて、車の置き場所に困らなかったからである。 A氏は、その時点でも、「いつか、Bに会うかも知れない」と、用心していたのだ。 もはや、その為に、A氏の人生は存在すると表現しても、過言ではあるまい。


  待てば、海路の日和あり。 とうとう、A氏が、B氏に再会する時が来た。 自治体のイベントで、駐車場の整理・案内係として、文化センターに来ていた日、帰り際に、駐車場の隅で、B氏が、自分の車に乗り込もうとしているところへ、出くわしたのだ。 最後に会ってから、40年以上経っていたが、B氏の顔は、はっきり見分けられた。 一日たりとも、忘れた事がなかったから、多少変わっていても、分かった事だろう。

  なんと、B氏は、軽自動車に乗っていた。 しかも、異様に古い。 周囲から浮いてしまうほど、古い。 50年以上、昔の車なのだ。 A氏は、非常に、奇妙な気分になった。 そして、心の中で、思った。

「なんだ、Bの奴。 俺の事を、『軽がお似合いだ』なんて、からかったくせに、そう言った自分が、軽に乗っているじゃないか。 ちゃんちゃら、おかしい」

  断っておくが、高校卒業直前に、B氏が、A氏に言った言葉は、正確には、「なになに? Aって、車買うの? 軽?」である。 「軽がお似合いだ」とは、言っていない。 A氏が、自分で、そう解釈しただけである。  

  A氏は、今こそが、B氏をからかい返す、人生最大の好機、と思う一方で、そういう態度が、大変、大人げないような気もした。 A氏は、厳しい社会で、揉まれて生きて来た人物であり、相手が高校時代に言った言葉に対し、60歳を過ぎた今、同じレベルで言い返す事に、大きな抵抗を感じたのだ。

  A氏が立ち止まっているのに気づいたB氏が、A氏の顔を認めて、驚いた。

「やあ! Aじゃないか! 久しぶり!」
「あ、ああ・・・」
「俺の事、覚えてる?」
「ああ、うん・・・」 一日たりとも、忘れた事はない。
「Bだよ、B! 懐かしいなあ!」

  B氏は、車の中に顔を入れ、助手席に乗っている妻に向かって言った。

「おーい! この人、俺の高校時代の同級生!」

  B氏の妻は、ドアを開けて、出て来て、A氏に、挨拶した。

「初めまして。 Bの妻です」
「どうも。 初めまして。 Aと申します」

  A氏は、B氏の妻が、高校時代に、自分が片思いしていた女子とは、別人である事を知って、ホッとした。 それにしても、若々しい魅力を感じさせる、美しい女性だった。 自分の妻と比較しても、10歳は若く見える。
 
  久しぶりに会いはしたものの、元々、ただの同級生で、友人というわけではなかったので、積もる話があるわけではない。 A氏は、B氏と自分を繋ぐ唯一の話題である、車の話に持って行った。

「この車、懐かしい型だね」
「おお、分かる? そーなんだよ。 俺が子供の頃に、叔父さんが同じ車種に乗ってて、それに、憧れててさあ。 ずーっと前から、欲しかったんだけど、5年前に、やっと、状態がいいのを見つけて、買ったんだよ。 目下、俺の、最高の宝物だね」
「結構、高かったの?」
「100万はいかなかったけど、軽の旧車としては、かなり、高い口だったよ」
「ふーん・・・」

  A氏は、恐る恐る、しかし、極力さりげなく、訊いた。

「これの前は、何に乗ってたの?」
「えーと・・・・、」

  B氏は、思い出し思い出し、10台ほどの車種名を挙げた。 それを聞く内、A氏は、ますます、奇妙な気分になった。

「全部、軽自動車なんだね」
「うん。 俺、軽しか買った事ないよ。 若い頃から、いや、高校の頃から、いや、もっと前だな。 叔父さんが、これと同じのに乗っていた頃から、ずっと、軽のファンだから」
「・・・・・」

  A氏、顔には出さないように、必死の努力をしていたが、内心、愕然としていた。 そして、高校卒業直前に、B氏が、A氏に言った言葉を、正確に思い出そうとしていた。

「なになに? Aって、車買うの? 軽?」

  A氏は、てっきり、からかわれた、馬鹿にされたと思っていた。 しかし、違ったのではないか? 途轍もない誤解をしていたのではないか? Bは、自分が軽自動車のファンだから、仲間を探すようなつもりで、「軽?」と訊いたのではないか? 今聞かされた、Bの話では、そう考える方が自然である。 40年以上、間違った解釈をして来たのだ。 これが、顔色真っ青にならずにいられようか。 高級車に拘り続けたせいで、家庭崩壊まで引き起こしてしまったというのに・・・。

「Aは、今日は、車で来てないの?」  
「車だけど・・・、町のスタッフ側だから、ここには置けないんだ。 第3駐車場の方に停めてある」
「何に乗ってるの?」
「いやあ・・・」 不自然な間が開いた。 「・・・普通の車だよ。 そんなに、拘りがないから・・・」

  妻や息子が聞いたら、噴飯物の大嘘である。 くどいようだが、繰り返せば、車に拘り過ぎて、家庭崩壊したのだ。 この日、この瞬間の為に、40年以上、多大な犠牲を払って維持して来た高級車を、結局、自慢できなかったのは、天に見放されているとしか言いようがない。

「そうか。 その方が正解だろうな。 俺は、趣味で、好きな軽ばかり乗っているから、家族に評判悪くてね」
「そう。 じゃあね。 元気で暮らしてください」
「うん。 Aも、お元気で」

  それ以上、話をするほど、親しい関係ではないのである。 A氏は、顔色真っ青なまま、足早に、その場を離れた。 今夜は、眠れないのではないかと思った。


  A氏は、数日間というもの、自分の気が狂うのではないかと、恐れて暮らした。 こんな不様な誤解があるだろうか? 自分の人生のほとんどを占める期間、勝手に誤解したB氏の言葉に振り回され、人生そのものを踏み外してしまったのだ。 A氏には、到底、その現実を受け入れられなかった。 そして、B氏の事を、嘘つきだと思う事によって、辛うじて、自分を保った。

「あいつは、嘘を言ったんだ。 軽ばかり乗り継いで来たというのも、嘘だろう。 やっぱり、あいつは、俺をからかったんだ」

  その後、A氏が、B氏に会う事はなかったので、この解釈は、かなり、長もちした。

  高級車は、あっさり、処分した。 B氏が、嘘つきであるか否かに拘らず、今現在、軽に乗っている事は確かであり、もはや、A氏が対抗して、高級車を維持する理由はなくなったからである。 家庭崩壊の原因は取り除かれたわけだが、妻からは、愛想を尽かされており、夫婦仲が元に戻る事はなく、結局は、離婚する事になった。 息子とは、音信不通である。


  10年が経ったが、A氏は、まだ、シルバー人材センターに所属して、自治体の仕事をしていた。 もう、年金受給者になっていたものの、貯金ができるほどではなかったし、体を動かしていた方が健康にいいので、働ける限りは働くつもりでいた。

  ある時、町立病院の病棟の引っ越しを手伝う仕事に回された。 昼休みに、入院病棟を歩いていたら、大部屋に一人で入っている患者を見つけた。 仕切りのカーテンが開かれていて、顔が良く見えた。 なんと、高校時代の同級生ではないか。 B氏ではなく、別の男、C氏である。 1・2年の時の同級で、3年では別のクラスだった。

「おい! Cだろう! 俺だ俺! Aだよ!」
「おお。 Aか。 懐かしいな」

  C氏は、だいぶ、調子が悪いようで、かすれた声で応えた。

「肝臓をやられちゃってな・・・。 そっちは、誰かの見舞い?」
「いやあ、町の仕事をしてるんだが、病棟の引っ越しの手伝いで来てるんだ」 

  この二人は、高校時代、そこそこ仲のいい友人同士だった。 一方が病気なので、話が弾むというほどではなかったが、今までどんな暮らしをして来たかを語るだけでも、30分は、すぐに過ぎた。 高校時代、C氏は、B氏と、クラブが同じで、B氏とも、よく行動を共にしていたので、A氏は、10年前に、B氏に会った事を、裏事情は省いて話した。 すると、C氏は、こんな事を言った。

「Bの奴は、昔から、軽自動車が好きだったからな。 俺も、大人になってから、4回は会っているけど、あいつ、いつも、軽に乗ってたな。 それも、古いのに。 よっぽど、好きなんだろう」
「・・・、そうなのか?」
「うん。 ああ、そうそう。 Bといえば、あの、お前が好きだった女の子。 あの子と、Bがつきあってるなんて噂があったけど、ありゃ、違うぞ」
「なに?」
「噂の元を、俺は知ってるんだよ。 3年の文化祭の時に、Bと俺が歩いてたら、たまたま、あの女の子がいて、どこかのクラブの展示室に行きたいって、場所を訊いて来たんだ。 で、Bが知ってたんだけど、分かり難い所だったんで、案内して行ったんだよ。 その後、すぐに、つきあってるなんて噂が出て来たんだが、誰かが、二人が一緒に歩いているところを見たってだけの話だったんだろう。 俺の知っている限りじゃ、高校時代のBは、女の子とつきあうようなタイプじゃなかったな」

  A氏、10年経って、また、愕然である。 これでは、誤解だけで、人生を終わってしまったようなものではないか。 A氏が、B氏に、からかわれた事実もなければ、A氏にとって、B氏は、恋敵でもなかったのだ。 せめてのもの救いは、A氏が、B氏に、直接、恨み言を言ったり、喧嘩を吹っかけたりしなかった事である。 B氏の方では、A氏がどう思っていたかを知らないわけだ。

  C氏は、悪意はなかったが、A氏に追い討ちをかけるような事を言った。

「Bは、お前の事を、良く言ってたな。 仲良くなる機会がなかったけど、お前みたいなタイプが、友人として好ましいって、俺の事を、羨んでたよ」
「・・・・・」

  なぜ、同じクラスだったのに、仲良くする機会がなかったのか? その理由は、A氏が知っていた。 恋敵だと思っていたから、A氏の方で、B氏を避けていたのだ。 A氏は、またまた、愕然とした。

「なんて、馬鹿な事をしたのか・・・」

  つい、口に出してしまったが、C氏は、いつの間にか、眠りに落ちていて、その言葉を聞いていなかった。

2023/02/12

音声学講義 ③

  日記ブログの方に書いた、言語学の音声学に関する文章を転載します。 これが、3回目。 例によって、日記には、他の事も書いていますが、それらは除き、言語関係の部分だけを出します。




【2022/11/24 木】 「母音」

  音声学講義。 ついでだから、母音も、軽くやっておきましょうか。

  日本語の母音は、5種類ですが、発音するだけなら、25種類、出せます。 などと言うと、大法螺吹いているとしか思えないでしょうが、理屈は単純です。

アの口の形で、「ア・イ・ウ・エ・オ」
イの口の形で、「ア・イ・ウ・エ・オ」
ウの口の形で、「ア・イ・ウ・エ・オ」
エの口の形で、「ア・イ・ウ・エ・オ」
オの口の形で、「ア・イ・ウ・エ・オ」

  ほら、5×5で、25種類になったでしょう。 どんなに母音の種類が多い外国語でも、25種類も出せれば、どれかが、当て嵌まるでしょう。 下手な鉄砲も数うちゃあたる。 なんだか、テケトーな事を言って騙しているような罪悪感を覚えないでもないですが、母音なんて、そんなもんです。

  韓国朝鮮語に、「イの口の形で、ウ」や、「オの口の形で、エ」と説明される母音がありますし、中国語には、「ウの口の形で、イ」という母音があります。 英語には、「アとエの中間音」というのがあり、「アの口の形で、エ」なのですが、「エ」と言っているつもりなのに、「エ」には聴こえず、「ア」に近い音になります。

  ちょっと、ややこしいのは、日本語の、「ウ」と「オ」が、唇を丸めないタイプだという点です。 さりとて、唇を横に張るタイプとも言えず、唇を緊張させない、曖昧な発音をします。 英語や中国語に、「e」を上下引っ繰り返した発音記号で示される、「曖昧なオ」がありますが、日本語の「オ」は、それに近いです。 「ウ」も、曖昧ですねえ。 唇を丸めて作る「ウ」を標準とするなら、日本語の「ウ」は、「イの口の形で、ウ」に近いでしょうか。

「ウオオオーーッ!!」

  まーた、混乱しておるな。 まあ、これはもう、純然たる、日本語の発音の話ではなくなっているから、無理に頭に入れなくてもいいです。 こんな事を知らなくても、生きて行くのに、一向に差し支えはありません。 私は、約30年間、社会で働いていましたが、その間、同僚らに、こういう話をした事は一度もないです。 誰も、こんな話、聞きたがりませんな。

  最後に、非常に重要な事ですが、25種類の母音を、発音し分ける事はできても、聴き分ける事はできません。 耳から脳に入る時には、「ア・イ・ウ・エ・オ」5種類の、どれかに区分けされてしまいます。 耳の支援を受けられないと、口だけで発音し分けるのも大変で、外国語のちょっとしたフレーズを喋るだけでも、どえりゃあ神経を使う事になります。

  これは、先天性の高い聴覚障碍者が、発音方法を習っても、なかなか、非障碍者のようには喋れないのと、理屈は同じです。 「聴き取り難いけれど、一応、意思は通じる」というところまで持って行くのは、並大抵の苦労ではないでしょう。 母音の数が少ないのは、発音を習う人には有利ですが、その分、単語が長くなるので、いい事ばかりではないです。

  たとえば、日本人が聴いて、意味が取れる発音の英語を、日本人が、英語母語話者に向かって喋ると、聴く方には、物凄い、「訛り」に聴こえます。 「英語が得意」と自認している人でも、調子に乗って、長い文章を喋ろうなどとは思わず、確実に意味を成す、短い文を並べて行く方が、無難。 相手がニコニコ笑っていても、油断大敵で、大抵の人は、外国人と自分の母語で喋る時には、愛想笑いを欠かさないものです。 内心では、「こーの人、なーに言ってんのか、まーったく分かんねー」と思っていてもです。

  これは、立場を逆にして、日本で活動している外国出身の有名人が喋っている日本語を聴けば、よく分かるはず。 何十年もいる人でも、なかなか、母語話者のようには行きません。 意味が通じるだけでも、大変な事なのだと、つくづく思い知らされる次第。



【2022/11/25 金】 「清濁有無」

  音声学講義の落穂拾い。

  私が、当然の事だと思って、説明しなかった事でも、言語学に全く興味がない人だと、分からない事があるのではないかと思って。

  「清音・濁音」を「無声音・有声音」と書いたところがありますが、この両者は、全く同じ物ではありません。 「清音・濁音」は、日本語の国語学の用語。 一方、「無声音・有声音」は、言語学の用語です。 ほぼ同じですが、違う部分もあります。 ハ行音、バ行音、パ行音がそれ。

「バは、ハの濁音」

  は、問題ありませんが、

「バは、ハの有声音」

  は、不正解です。 有声音という言葉を使うなら、正解は、

「バは、パの有声音」

  になります。 講義の最初の方で説明したように、「ハ」は、舌の奥で作る音なので、唇で作る、「パ・バ」とは、関係ありません。 日本語では、近いと思い込んでいるだけ。

  位置で分類する、無声音と有声音の組み合わせは、破裂音では、

唇  p・b
舌前 t・d
下奥 k・g

  となります。 摩擦音や、破擦音でも、整然とした組み合わせが出来ます。

  日本語の国語学の基礎が固まったのは、江戸時代後期ですが、当時は、清音・濁音の仕組みが、よく分かっていなかったんですな。 もし、分かっていたら、「ハ行音、バ行音、パ行音」の問題を解決していたはず。 国語学の開祖というと、本居宣長らの名前が出て来ますが、彼らの言語学知識レベルを買い被らない方がいいです。

  明治以降の国語学者達が、「ハ行音、バ行音、パ行音」について、表記の修正をしなかったのも、問題です。 結局、百年以上、禍根を残してしまいました。 「一本、二本、三本」という時、序数詞の発音が、「ポン、ホン、ボン」と変化するなど、日本語に於いて、「ハ行音、バ行音、パ行音」に関係性があるのは承知していますが、「ハの濁音は、バ」が罷り通ってしまって、本来、「p・b」の組み合わせになるところを、「h・b」と勘違いしている人間が、圧倒的多数派というのは、あまりにも、弊害が大きい。



【2022/11/26 土】 「中国語のzh音」

  音声学講義の番外編。 もはや、日本語の発音の話ではありません。

  中国語の、反り舌音の事に少し触れたので、説明しておきます。 中国語を習っている人、もしくは、過去に習った事がある人だけ、読んでください。

  zh音の出し方ですが、舌は、先に説明した、R音と同じ位置です。 もっと、具体的な出し方を説明しますと、日本語で普通に、「チャ」と言ってみて、その舌先の位置を覚えておき、その位置から、3センチくらい、舌先を後ろに引いて、「チャ」と言うと、「zha」が出ます。 というか、その位置だと、「zha」しか出ないのです。

  耳で聴いても、明らかに、「チャ」と違うので、自分の耳で、確認できます。 ただし、普通速度の会話中に、両者を聴き分けるのは、無理です。

  全く同じ位置で、「シャ」と言ってみると、それが、ピンイン表記の「sha」です。 「shang」にすれば、上海の「上」ですな。

  ちなみに、中国語の、R音は、音節の頭に使われる場合、Rというより、「ジ」に近い音になります。 「日本」は、「ri・ben」ですが、「リーベン」というより、「ジーベン」に聴こえます。 もちろん、反り舌の位置で出す、「ジ」ですけど。

  zh音は、無気音で、それと対になる有気音は、ch音ですが、それについては、明日にでも、無気音・有気音の説明をします。



【2022/11/27 日】 「無気音・有気音」

  音声学講義の番外編。

  「無気音・有気音」の話ですが、まず、用語の紛らわしさを避ける為に、「無声音・有声音」の事を、日本語式に、「清音・濁音」と言う事にします。

  中国語では、清音・濁音の区別はせずに、代わりに、無気音・有気音を区別します。

  無気音は、日本語の清音と濁音、両者を指します。 清濁の区別はしないわけですが、どちらを使ってもいいというわけではなく、単語の頭では、無声音になり、第二音節以降では、有声音になる傾向があります。 ただし、子音によっても、変わります。 聴こえたままに、発音するしかありませんな。


  一方、有気音は、日本語にはない音で、無気音に比べて、「強く出す音」と説明される事が多いですが、その通りにやると、唾が飛ぶだけなので、推奨できません。 母音の代わりに、ハ行音を使えば、割と簡単に、有気音になります。 たとえば、「カ・キ・ク・ケ・コ」なら、

「ka・ki・ku・ke・ko」を、

「kha・khi・khu・khe・kho」にするわけですな。

  こらこら、日本人の中国語学習者諸氏よ。 「ギョッ!」とする必要はない。 「そんな事は、教わってないぞ!」。 そりゃそうだよ。 私が思いついたんだもの。 つまり、正しい発音と言うより、便法の一つなのですが、この説明、割と、腑に落ち易いのではないでしょうか?

  「無気音は、普通に出す。 有気音は、強く出す」では、あまりにも曖昧で、どこが、「中」と「強」の境目なのか、分かりません。 結局、どいつもこいつも、有気音で、唾を飛ばしまくるのですが、音声的にも、衛生的にも、汚いったらありゃしない。 勘弁してくれ。

  その点、「母音の代わりに、ハ行音を使う」方法なら、特に強く出す必要はありません。 中国人は、今はの際の、虫の息でも、有気音を出せるわけですが、その真似をするのも、不可能ではないわけだ。


  ピンイン表記では、ローマ字で濁音に使う文字を無気音に当て、ローマ字で清音に使う文字を有気音に当てています。

無気音 b、d、g、z、j、zh
有気音 p、t、k、c、q、ch

  ピンイン表記は、作られたのが、現代に入ってからなので、整然としているのですが、無理に、ローマ字を当て嵌めたせいで、ローマ字の一般的な発音が先に頭に入っている外国人には、誤解を招く事になりました。 大雑把に説明しておきますと、

「b・p」は、パ行音
「d・t」は、タ行音
「g・k」は、カ行音
「z・c」は、ツァ行音
「j・q」は、チャ行音
「zh・ch」は、反り舌音

  「f、s、x、sh、h」などの、摩擦音には、無気音・有気音の区別はありません。 v音や、ザ行音、ジャ行音など、摩擦音の濁音もありません。

  日本人の学習者は、ピンインをそのまま、ローマ字式に読んで、「北京(bei・jing)」を、「ベイ・ジン」とやってしまうのですが、発音が汚いったら、ありゃしない。 「ペイ・チン」と言うべき。 「東京(dong・jing)」も、「トン・チン」が、実際の発音に近いです。 「ドン・ジン」とやられると、聴いているこちらが、ゾーーッとします。 あまりにも、汚い。

  母語話者が喋っているのを、自分の耳で聞けば、分かりそうなものですが、文字に引っ張られて、bやdを濁音に読んでしまうんですな。 おそらく、日本国内の、どの中国語教室でも、「ベイジン」や「ドンジン」が猛威を振るっていると思われます。 人間とは、こんなにも、合理的な学習ができないものなのか。

  中国人の先生に、「あなたは、発音が綺麗だ」と誉められても、喜んではいけません。 小躍りなど、以ての外。 他の連中の発音が、耳を覆いたくなるほど汚いから、相対的に、あなたの発音が綺麗に感じられたというだけの話です。 たぶん、あなたの発音は、「普通」です。

  今、現役で習っている人なら、これだけの説明でも、理解すれば、相当、改善するはず。 だけど、今は、パンデミックなので、中国語の発音を習っても、活かしようがないですねえ。


  無気音・有気音の区別は、韓国朝鮮語にもあります。 講義の始めの頃に取り上げた、「コピ」や「カピ」、「パイティン」など、英語系外来語は、大抵、有気音になっている模様。 韓国朝鮮語の母語話者には、英語の発音が、そう聴こえるんでしょうね。 日本語でも、「プール」の「プ」は、有気音になるというのを、何かの本で読んだ事があります。

  「韓国朝鮮語の母語話者が、中国語を聴いた時、無気音・有気音が聴き分けられない」という話を聞いた事がありますが、同じ無気音・有気音でも、少しズレがあるのかも知れませんな。 両言語の交流が進めば、認識できるようになるんじゃないでしょうか。

  そういや、中国国内には、「朝鮮族」という少数民族が住んでいて、彼らは、バイリンガルなわけですが、両言語の無気音・有気音の関係をどう捉えているのかは、興味が湧くところです。




  今回は、ここまで。 次は、来月になります。  もう一回で、終わります。

  日によって、記事の長さに、バラつきがあるのは、この頃、植木手入れをやっていたので、疲れた時には、短く切り上げていたから。 ・・・、という事もないか。 書く事がたくさんある時には、疲れていても、長々と書きましたから。 調べ直したわけでもないのに、よく、これだけ、出て来たと、自分でも驚いている次第。 若い頃に、夢中になった事というのは、歳を取っても、忘れないものなんですな。

2023/02/05

読書感想文・蔵出し (95)

  読書感想文です。 在庫が減らんなあ。 2週間に2冊のペースで読んでいるから、月1回、4作ずつの紹介では、永久に減らないわけだ。 ≪音声学講義≫シリーズが終わったら、読感シリーズを、月に2回にするしかないか。 読感に興味がない人には、申し訳ないですが。





≪象は忘れない≫

クリスティー文庫 32
早川書房 2003年12月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
中村能三 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【象は忘れない】は、コピー・ライトが、1972年になっています。 約344ページ。 ポワロ物の最終作、【カーテン】は、先に書かれていたものなので、この【象は忘れない】が、実際に、最後に書かれたポワロ物の長編という事になります。


  文学者のパーティーに出たオリバー夫人が、ある女性から、オリバー夫人の名付け子と、自分の息子が結婚しようとしているが、名付け子の両親が死んだ原因は何なのかを尋ねられる。 オリバー夫人は、ポワロに相談し、12年前に起こった、名付け子の両親の変死事件を調べる為に、当時の事を知っている人々に、手分けして、聞き取りをして回る話。

  【象は忘れない】という言葉は、タイトルだけでなく、作中にも繰り返し出て来ますが、「象が、自分にひどい事をした男の事を覚えていて、後々、仕返しをした」というインドの昔話からとったものです。 多くの登場人物が口にするところをみると、イギリスでは、割とよく知られた話なのかもしれません。 「人は、象のように、昔の事でも、なかなか忘れないものだ」という意味。 それを頼りに、聞き取りをするわけです。

  クリスティー作品には珍しく、フー・ダニットではないです。 昔の事件を調べ直すという点では、【五匹の子豚】に近いですが、こちらでは、犯人を捜すというより、真相を明らかにするというのが、主な目的。 もちろん、犯人はいますが、すでに裁かれています。 真相が明らかになった事で、若い二人の結婚の障碍になっていたものが取り除かれるという趣向。

  トリックあり、謎あり。 分類するなら、なりすまし物でして、正直、「またか・・・」という感じ。 さしものクリスティーさんも、晩年になると、アイデアの焼き直しが増えて来ます。 全く同じにならないように、工夫はされていますが、読者の方は、寂しい感じが拭えませんなあ。

  もっとも、最高品質の作品を、何十作も書いて来たのですから、この程度のダブりは、もちろん、許します。 一も二もなく、許します。 クリスティーさんの功績は、この程度の事では、揺るぎもしません。

  作品の発表年だけでなく、話の設定も、1972年でして、私はもう、小学生でしたが、そんな頃まで、ポワロが生きていたというのは、意外や意外。 解説に、そういった事が書いてあって、気付いたのですが、確かに、驚きの事実ですな。 ちなみに、クリスティーさんが亡くなったのは、1976年です。




≪ブラック・コーヒー〔小説版〕≫

クリスティー文庫 34
早川書房 2004年9月15日/初版 2017年4月15日/7刷
アガサ・クリスティー 著
中村妙子 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【ブラック・コーヒー〔小説版〕】は、コピー・ライトが、1997年になっていますが、それは、チャールズ・オズボーンという人の手で、小説化された時の事で、元になったクリスティーさんの戯曲は、1930年の発表です。 約261ページ。


  新型爆弾を開発した科学者から、化学式を書いた書類を運んで欲しいと頼まれたポワロ。 科学者の屋敷に出かけて行くと、一族が集まった席で、停電が起こり、その間に、科学者本人が毒殺された直後だった。 科学者の息子の妻が不審な行動をとり、その知人であるイタリア人の男も、大いに怪しまれるが、ポワロは、すぐに、事の真相を見抜く。 読書室を舞台に、聞き取り、捜査、犯人指名、謎解きが繰り広げられる話。

  元が、戯曲なので、主な舞台は、科学者の屋敷の読書室だけです。 話がある人間だけが、他の部屋なり、庭なりに出て行けばいいのに、わざわざ、他の人間を追い出す場面がありますが、それも、舞台装置が一つしかないのが原因です。 小説化はされているものの、戯曲の趣きを、極力残そうとしているのは、良心的と言うべきか、小説としての完成度が低いと言うべきか。 しかし、そもそも、それほど、細部に目くじらを立てるような話ではありません。

  フー・ダニットは、フー・ダニットですが、人数が少ないせいで、フー・ダニットらしさは、あまり、ないです。 犯人ではない人物が、二人決まっていて、それ以外は、誰が犯人でも、大差ないような構成。 犯人でない二人は、互いを庇い合っているのですが、≪大岡越前≫的なお涙頂戴に、片足突っ込んでいる観あり。 クリスティーさんでも、こういうネタを使うんですなあ。

  専ら、聞き取りで推理をする探偵、ポワロにしては珍しく、現場で証拠を見つけます。 舞台で見せる話だから、視覚的な見せ場を盛り込んだのだと思います。 ちなみに、舞台劇も、映画も、ドラマも同じですが、小説と決定的に異なるのは、視覚的な見せ場の有無でして、面白い推理小説を映像化しても、あまり面白くならないのは、視覚的見せ場が少ないからです。 横溝作品が、映像化された時に、印象的な作品になったのは、小説の段階で、殺害場面の視覚効果を最大にしていたお陰。

  話を、【ブラック・コーヒー】に戻しますが、何と言っても、舞台劇用に書かれた話であるというのがネックで、人物の動きに不自然さがあり、小説としては、ぎこちない感じがします。 他の長編より短いから、読み易いですが、それは、熱心な読者にとっては、却って、マイナス点でしょう。

  ちなみに、科学者が開発した新型爆弾ですが、当然、核爆弾の事を連想すると思いますが、発表が1930年となると、まだ、核分裂理論すら出て来ておらず、これは、核爆弾の事ではないようです。




≪カーテン≫

クリスティー文庫 33
早川書房 2011年10月15日/初版 2014年11月25日/3刷
アガサ・クリスティー 著
田口俊樹 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【カーテン】は、コピー・ライトが、1975年になっています。 約363ページ。 ポワロが登場する最後の事件ですが、これを先に書いておいて、クリスティーさんは、その後も、ポアロ物長編を書き続けたから、最終作というわけではありません。

  1975年は、発表した年で、書かれたのは、1940年だとの事。 随分、長い事、しまっておいたものですな。 ちなみに、この作品を発表して、まもなく、クリスティーさんは他界しています。


    ヘイスティングスは、健康を害して、終末の日々を送っているポワロに招かれ、ポワロがイギリスに来て最初に事件を解決した「スタイルズ荘」へ赴く。 荘は、安宿になっていて、ポワロが言うには、過去に、複数の殺人事件を引き起こした犯人が、この宿にいて、次の獲物を狙っているとの事。 ヘイスティングスは、車椅子生活になっているポワロの代わりに、宿泊者達を観察して回るが、誰が犯人なのか、見当がつかない内に、殺人が起こり・・・、という話。

  ヘイスティングスの一人称で書かれている作品。 ヘイスティングスの末娘が登場し、評判の悪い男と恋仲になっている様子を見せて、父親をやきもきさせます。 しかし、この設定、ファースとして入れられているわけではなく、犯人が、他人を誘導して、殺人行為に走らせる例として、使われています。 ヘイスティングスと末娘は、お世辞にも仲がいいとは言えず、二人の会話は、むしろ、読んでいて、気分が悪くなるような、刺々しいものです。

  犯人が、自分で手を下すのではなく、他人が抱いている殺意を増幅し、殺人行為に駆り立てるという手口を使っているのは、面白いアイデアです。 ただ、実際に、こういう事をやるのは、難しいと思います。 催眠術で殺人をさせるのと、同じくらい難しいのでは? 読者にそう思わせてしまうというのは、アイデア倒れの証拠ですな。

  そういう話なので、犯人が分かってから、もう一度、最初から読み直すと、犯人が他の人間を巧みに誘導しているのが、はっきり分かって、面白いです。  クリスティーさんの作品には、伏線が必ず張ってあるので、二度読むと面白いものが多いです。 しかし、本を借りた私はもちろんですが、買った人でも、続けて、二度読むのは、面倒臭いと思うでしょうねえ。 時間が経ってから、二度目を読んでも、駄目なんですよ。 話の中身を忘れてしまうから。


  以下、ネタバレ、あり。

  「ここで、幕」という、芝居用語からもって来たタイトルを見ても分かるように、ポワロは、この作品の中で、死にます。 殺されるわけではなく、心臓を悪くしての、病死。 車椅子生活になっているというのが、目晦ましで、実は歩ける、というのは、ポワロが仕掛けたトリックなのですが、2時間サスペンスや刑事ドラマで、非常によくあるパターンなので、今となっては、新味を感じるのは、無理と言うもの。

  もう一つ、ポワロは、他の作品では、絶対にしなかった、とんでもない事をやってのけるのですが、それについては、ネタバレさせる事ができません。 それこそが、クリスティーさんが、この作品に用意した最大のアイデアなのですが、それは、ご自分で読んで、「あっ!」と驚いてください。


  総合的に見て、つまらない話ではないです。 【象は忘れない】など、末期の他の長編よりも、ポワロ物らしい趣きがあります。 ヘイスティングスの一人称のお陰ばかりでなく、アイデアの突飛さが、全盛期のそれを思い起こさせるのです。




≪牧師館の殺人≫

クリスティー文庫 35
早川書房 2011年7月15日/初版 2014年11月25日/3刷
アガサ・クリスティー 著
羽田詩津子 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【牧師館の殺人】は、コピー・ライトが、1930年になっています。 約424ページ。 クリスティー文庫は、この35巻から、ミス・マープル物の長編になります。 発表年は、ぐっと遡って、黄金の戦間期へ。


  イギリスの典型的な田舎の村、セント・メアリ・ミードの、牧師が住む家で、土地の名士が、後頭部を拳銃で撃ち抜かれて、殺される。 名士の妻の不倫相手と噂されていた、美形の画家が自白するが、それを追って、名士の妻も自白したせいで、庇い合っていると判断され、二人の容疑は晴れた。 村の外には出た事がない代わり、村の中の事なら、全てを知っている高齢女性、ミス・マープルは、「七人の容疑者が考えられる」と言い、警察関係者や牧師を驚かせる話。

  ミス・マープル物は、長編では、これが第一作。 短編は、この2年前から、書かれていたそうです。 「揺り椅子探偵」の代表みたいに思われていますが、 この作品を読んだ限りでは、そんな事は全くなくて、自宅から近い所なら、自分の足で出かけて行きます。 ただし、ホームズ的に、床に這い蹲って証拠集めをするような事はなく、ポワロ的に、容疑者から聞き取りもせず、他の人間が集めた情報を元に推理する点は、「揺り椅子探偵」っぽいと言えないでもなし。

  「七人の容疑者が考えられる」と言わせるくらいですから、フー・ダニット物です。 計画殺人に決まっていますから、衝動的に、引き金を引くような、粗暴な人物は、最初から、犯人ではないと決まっています。 見るからに怪しい人物もいますが、「殺人犯ではなかったが、他の犯罪をやっていた」というパターンが使われていて、なかなか、真犯人を推理するのは難しいです。

  犯罪は、殺人の他に、窃盗、横領が出て来ます。 殺人以外の犯人も、怪しい行動をとるから、読者は、目晦ましを食らわされてしまうわけだ。 推理しながら読んで、「誰が、何の犯人」と、見分けて言い当てる事ができたら、大したもの。 しかし、ここまで複雑だと、そんな芸当は、誰にもできないでしょう。

  牧師の一人称で書かれていて、犯人として最も疑わしそうなのは、牧師本人なのですが、それでは、アン・フェアと謗られた、ある作品(1926年)と同じになってしまうから、ありえません。 1926年より後のクリスティー作品を読む時に、「一人称の書き手が犯人」は、絶対ないので、最初から除外できます。

  この作品の肝は、ドンデン返しの仕掛けを、始まって間もない所に持って来ている事ですかね。 仕掛けが早いので、読者は、すっかり忘れた頃に、くるっと引っ繰り返されて、「ああっ! そうだったのか!」と、意表を衝かれます。 「よく考えてある」と評したら、おこがましいか。 クリスティーさんが、物語のパターンを知り尽くしていた事が、よく分かって、つくづく、感服仕ります。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、2022年の、

≪象は忘れない≫が、8月11日から、13日。
≪ブラック・コーヒー〔小説版〕≫が、8月15日から、18日。
≪カーテン≫が、8月24日から、28日まで。
≪牧師館の殺人≫が、8月31日から、9月4日まで。


   今回紹介分で、クリスティー文庫も、ポワロ物から、マープル物に切り替わりました。 ポワロ物は、短編もたくさんあるようなのですが、そちらは、後回しにします。 先に、マープル物や、ノン・シリーズの長編を片付けてしまわなければ。 ちなみに、今現在、マープル物の長編は、もう読み終えて、ノン・シリーズに入っています。

  短編集を後回しにしたのは、感想を書くのが大変になるからです。 1冊に、10作入っていたら、10回も感想を書かねばなりません。 読むだけなら、短編集の方が、読み易いんですがね。