2007/12/30

問題の発生と解決

  この世の中で起こる出来事というのは、突き詰めると、≪問題の発生≫と≪問題の解決≫の二局面に分ける事が出来ると思います。 たとえば、殺人事件の場合、殺人が起こるのが問題の発生で、犯人が捕まって罰を下されるのが問題の解決という事になります。 更に細かく見ると、犯人の心の中に動機が生まれるのが問題の発生、犯行が行なわれるのが問題の解決。 警察の立場から見れば、犯行の報告が入るのが問題の発生、犯人を逮捕して送検するのが問題の解決というように、いくつもの≪発生と解決≫が組み合わさって、出来事が構成されているわけです。

  この二つの局面は必ずセットになっていて、発生した問題は、どんなに大きな事であろうが、どんなに複雑に錯綜していようが、どんなに長い時間がかかろうが、必ず解決します。 場合によっては、解決までに何百年・何千年もかかる事もありますが、解決しないという事はないわけです。

  なぜ、発生には解決が必ず付随するかというと、その問題に関わる人間、もしくは意思を持った生物が、問題を解決しようとするからです。 もし、意思を持った者が関わらなければ、解決はされません。 逆に言うと、解決されないような出来事は、問題と見做されないのです。 たとえば、月の裏側に小さな隕石が衝突して、新しいクレーターが出来たとします。 そこには、人間はもちろん、意思を持った生物は一切存在しません。 当然、「地面に穴が開いてしまったから、埋めて平らに均そう」などと考える者はいないわけで、解決が行なわれません。 そして解決が行なわれなくても、何ら支障が無いような出来事は、そもそも問題ですらないわけです。

  いささか観念的な書き出しで恐縮ですが、なぜ、こんな事を言い出したかというと、最近、「問題は解決されない方が面白い、という見方が出来ないだろうか」といろいろと考えを捏ね繰り回しているからです。 発生した問題は解決されるのが当然なのは重々承知の上ですが、実は、問題は、解決される事より、解決されない状態の方が面白いのではないかと思い始めたのです。 ひねくれていると言われてしまえばそれまでですが、人生を楽しんで生きる為には、いろんな考え方を試してみる事も必要かと思うのです。

  発生した問題は、いつか必ず解決されてしまうわけですから、殊更に、「是が非でも、否が応でも、石に齧り付いてでも、解決しなければならない!」と力む必要はありません。 問題には解決へ向かう復元力がもともと備わっていると考えるべきでしょう。  むしろ問題が存在する状態の方が貴重なわけです。

  たとえば、テレビや新聞で、殺人事件や立て篭もり事件などが報道されると、全国の注目が一斉に集まりますが、住んでいる地域がまるで違う全然無関係の人達まで、何故あんなに大騒ぎするのかといえば、それは事件の発生そのものを待望しているからとしか思えません。 そして、事件が続いている間は、興奮状態で過ごし、事件が解決してしまうと、サーッと冷めて、スパッと忘れてしまいます。 ほうれ、見た事か。 問題の解決よりも、問題そのものの方に興味を惹き付けられているのです。

  人生を生きていると、実に様々な問題が次から次へと押し寄せてきて、ともすれば、「なんで、私はこんなに不幸なんだろう」と世を儚んでしまう事も稀ではありません。 中には、とても乗り切れないと思って、自ら命を絶ってしまったり、そこまで行かずとも、学校や職場から逃げ出してしまったりする人がたくさんいます。 でもね、落ち着いて観察してみれば、問題が起こっている時よりも、起こっていない時の方が、圧倒的に長いはずなんですよ。 そんなに年柄年中・四六時中、問題ばかり起こっているはずがないのです。 「ああ、困った困った、どうしよう」などと悩みながらも、普通に飯食って、風呂入って、暖かい布団で眠っているわけです。

  この世には、生物的寿命を待たずして死んでしまう人がたくさんいます。 病気も含めれば、八割方の人が、「まだ生きられるのに・・・」と思いながら死んでいるんじゃないでしょうか? となれば、人生半ばの死というものは、そんなに珍しい事ではない事になります。 むしろ、天寿を全うするよりも遥かにありふれていると言えます。 最悪の問題であるはずの死ですら、ありふれた事なのですから、それ以外の問題など、大した事ではないのではありますまいか? 大した事でないばかりでなく、むしろ、問題が起こっている状態は貴重なのですから、その状況を楽しむべきではありますまいか?

  これねえ、実際に重大な問題を抱えて困っている他人に向かって言ったら、そりゃ、怒らせてしまいます。 でも、自分自身の心の中で、困った事が起きた時に、心を落ち着ける用途に限れば、大変有効な考え方だと思うのですよ。 問題が起こるというのは、人生にアクセントが付くという点で、悪い事ではないのです。 もっとも、問題を作るのが目的で、自分で問題を作り出すのは、他人に迷惑を掛ける恐れが高いので、感心しませんが。

  この考え方、様々な出来事に応用できます。 胸糞悪いニュースを聞いた時とか、学校や職場で、もめ事が起きた時とか、「なんでこんな悪い事が起こるんだ」と思うと、ただただ不愉快なだけですが、「おっ、また問題が起きたぞ! これこそ人生の醍醐味!」と思えば、始終気分よく暮らせます。 問題は、起きれば起きるほど面白く、問題が大きければ大きいほど、長引けば長引くほど楽しめるという寸法。

  大体、人類の歴史を振り返っても、書いてある事は、問題の経緯ばかりです。 問題が起こらなかった時期の事など、ほとんど記してなくて、千年前の人々の日常生活など、絵画や文学から推定する以外にないという貧弱さ。 人間というのは、何も起こらない日々など、記録するに値しないと思っているわけですな。 古今東西問わず。


  さて、ここまで、快調に理論を展開してきましたが、常識ある方はお気づきのように、この考え方は、非常に危ういものを含んでいます。 現在、戦争だの温暖化だの、地球規模の重大な問題が存在するわけですが、それも楽しめとは言えんでしょう? みんながみんな、「問題様大歓迎! やったれやったれ、とことんやれ!」なんて考えて行動し始めたら、一気に破滅まで突き進んでしまいます。 この考え方は、あくまで個人的に、外的要因で起こった問題を受け止める時に、心の支えとして利用するのに留めなくてはなりません。

2007/12/23

モンスター・ティーチャー

  私はよく夢を見る方です。 ほんの一二分うたた寝しただけでも何かしら夢を見るくらいで、一晩の間には、どれだけの夢を見ているか分かりません。 ただ、夢を見る性質の人なら分かると思いますが、その大部分は、目覚めた時には忘れてしまいます。 単に、「何かの夢を見ていた」という記憶が残るだけ。 おっと、別に今回は夢の話をしようというんじゃないんですよ。

  よく見るパターンの夢に、≪学校物≫があります。 中学の時と高校の時の実際の記憶がゴチャゴチャになったような校舎が舞台です。 廊下を学生がうようよ歩いているので、休み時間かと思いきや、教室の中では同時に授業も行われているという、夢ならではのぐじゃぐじゃな設定になっているのが常。 夢には、自分自身が登場するものと、観客の立場で見ているものと二つのパターンがありますが、私の学校の夢の場合、必ず自分自身が登場します。 そして、必ずと言っていいほどよく出てくるのが、気に食わない教師の授業を受けていて、何かこちらの癇に障るやりとりがあり、口論の挙句、教師を怒鳴りつけている場面です。 夢の中で激怒して怒鳴ると、現実世界でも怒鳴っていて、大抵はそこで目覚めてしまいます。

  なぜ、学校の夢を見るたびに、こんなシーンが入るのかというと、私が教師という人種を徹底的に憎悪しているからに他なりません。 実際の学校生活では、いい先生もいたわけですが、そういう人達は印象が薄く、人間のクズみたいな教師ばかり、記憶野に深々と突き刺さって、未だに私を怒らせているのです。 学校でも、教習所でも、研修施設でも、総じて、他人のものを教えて飯を食っているような連中には、ろくな奴がいないと思います。 あの高慢な態度・・・・思い出しても腹が立つ。 何様のつもりだ。

  昨今、≪モンスター・ピアレンツ≫という言葉が流行っています。 幼稚園や学校に非常識な要求をつきつける親の事です。 テレビで繰り返し取り上げられているので、知らん人はいないでしょう。 代表的な事例が、≪給食費を払わない≫という問題で、「義務教育だから、払う必要は無い」とか、「払わなくても、学校側が給食を出さないわけにはいかないのだから、子供は困らない」とか、「そんなものに金を払うくらいなら、ケータイ代に回した方が子供が喜ぶ」とか、確かに滅茶苦茶な事を言っています。

  ≪義務教育だから云々≫は完全な思い違い、もしくは思い違いを装った開き直り、はたまた義務教育という言葉の意味すら理解で来ていない無知無教養の発露で、どう取っても戯言か屁理屈にしか聞こえませんが、あとの二つは、自己中心的な現代人の本音であり、こういう形で本心を曝け出してしまう薄っぺらな人間が、子供を育てているという現実は、少なからず恐怖を感じさせます。

  自治体は、不払い分を税金から補填しているわけですから、子供を持たず税金だけ搾られている者としては、許し難い話です。 告訴している自治体もあるようですが、やったれやったれ、裁判で大恥かかせた上で、一円も無くなるまでふんだくって、夜逃げに追い込んでやればいいのです。 他人の財布で、てめえのガキに飯を食わせようなんざ、太え了見だ!

  さて、給食費不払い問題は学校側に分があるとして、モンスター・ピアレンツの他の要求、たとえば、「学芸会の劇では、うちの子を主役にしてくれ」とか、「集合写真では、うちの子を最前列の中央に入れてくれ」とか、「相性の悪い子と同じクラスにしないでくれ」とか、そういったものですが、それらも無茶苦茶かというと、私はそうは思わないのです。 給食費のように金が絡んだ問題と、これらとは、別けて考える必要があります。

  ≪相性の悪い子と同じクラスにするな≫というのは、これは当然の要求です。 一旦同じクラスになれば、一年、もしくは二年間、ずーっと悪い環境で暮らさなければならないのですから、重大な損害になります。 いやなクラスメイトがいると、嫌な記憶しか残らないのは、誰でも経験がある事でしょう。 最悪の場合、それが原因で傷害だの殺人だの自殺だの、笑い事では済まされない事件に発展する事も珍しくありません。 最初から、害がある奴を避けようとするのは、無難な選択ではあっても、身勝手とは言えますまい。 「そんな要求を聞き始めたら、クラス編成が複雑な大仕事になってしまう」と思うでしょうが、そんなのは教師側の事情であって、生徒側の知った事ではありません。 教師が自分達の仕事を楽にしたいからという理由で、子供の人生を潰すような真似は許されますまいて。

  ≪劇の主役≫ですが、これも親側の要求には理があります。 「なんで、一部の子供だけが優遇されて、うちの子が、石だの木だの、役ともいえない役に甘んじなければならないのか」と訊かれた時、教師側は筋の通った理由を提示できないでしょう? 小学校中学年以上ならば、投票などで民主的に決める事も出来ますが、低学年や幼稚園では、教師が恣意的に役を割り振るのが大半で、その教師の贔屓や親の付け届けの影響がモロに出ます。

  あ、知らない人もいますか? 「なんで、あの時先生は、私ではなく、あの子をあの役に選んだんだろう?」と未だに不思議で、恨みが消えない方。 その理由はねえ、あなたがその子より気に入られていなかったか、もしくは、その子の親が、教師に金品を渡していたからです。 「えっ! 子供の事なのに、そんな賄賂みたいな事が?」と思うかもしれませんが、お中元だのお歳暮だの、世間的に波風が立たない形で、教師に利益を与え、誘導する方法というのがあるのです。 親から高価なものを貰ったら、その子供によくしてやらざるを得ないでしょう。 「理由もなしに差別された」と思っている方々、理由はあったのです。

  教師に言わせれば、「劇の登場人物の数は決まっているのだから、結局、誰かがはみ出さざるをえないじゃないか」と主張するでしょう。 しかし、そんな、薄っぺらな理屈を真に受けてはいけません。 幼稚園や小学校の劇なんぞ、子供を差別してまでやらなければならないような必要不可欠なものではありません。 別にやらなくてもいいではありませんか。 若しくは、全員参加ではなく、希望者だけにするといった形を取れば、この種の問題は避けられます。 教師の頭が悪く、根性が拗けている為に起こっている問題なのです。

  ≪集合写真≫でも、同じ事が言えます。 席順はくじで決めるのが一番です。 大抵の場合、撮影を手っ取り早く済ませようとして、教師が、「あっちだこっちだ」と席を割り振るのですが、そんな時にも、贔屓だの付け届けが影響する危険性があります。 ちなみに、私の高校の時の集合写真では、どれを見ても、ある女生徒が必ず中央に位置しています。 そんな偶然がそうそう起こるわけが無く、教師が何らかの恣意を発揮していたのは疑いないと思われます。 集合写真というのも奇妙な習慣でして、あんなもの、何のために撮るんですかね? 何か現実的な用途で役に立つとも思えませんが。 記念記念って、端っこに追いやられた者には、嫌な記憶が残るんですから、そんな記念はいらんでしょう?

  モンスター・ピアレンツ問題というのは、≪身勝手な親の出現≫というより、≪教師の横暴を許さない親の出現≫と見た方が的確でしょう。 昔の教師というのは、絶対者・超越者・ちょっとした神でして、よほど滅茶苦茶な事をやっていても、子供や親が逆らうなど到底出来ぬ存在でした。 戦前などは、気に食わない子供に対して、殴る蹴るは当たり前。 子供の顔が腫れ上がるまで暴行されても、親は抗議すら出来ませんでした。 逆に学校に呼び出されて、「どういう育て方をしているんだ!」と説教される始末。 戦時中の教師どもが、軍の手先になって、子供を戦闘マシーンに作り上げる尖兵になっていたのは、当時の人なら誰でも知っている話です。

  私が中学の頃にも、古いタイプの教師がいて、「以前、生徒が悪さをしたので、ぶん殴ってやったら、耳の鼓膜が破れた。 なに、鼓膜が破れても、耳は聞こえるから大丈夫だ。 そしたら、その晩、そいつの親が、菓子折りを持って訪ねて来て、私の前で土下座して謝った。 昔の親はそんなだった。 それに比べて、今の親は・・・・」という話を得意気にしていました。 教師というのは、そういう連中だったのです。

  今、その恐るべき教師達に対抗し、叩き潰すだけの力を持った親達が出現したのは、大変喜ばしい事ではありますまいか。 生徒の鼓膜を破って、「聞こえるから大丈夫」などと嘯いている教師には、親が同じように殴り返して、鼓膜を破ってやるのが一番です。 てめえの鼓膜が破れてもまだ、「聞こえるから大丈夫だ」と言うかどうか、観察してみようじゃありませんか。 ろくでなしのクズめが。

  実際の所、教師というのは、尊敬に値すべき人間なのか、大いに疑問です。 尊敬どころか、様々な面で一般人より劣るのではないかと思います。 まず、常識が無い。 なぜ、常識が無いかというと、教師以外の職業を経験しておらず、世間知らずだからです。 呆れた話ですが、アルバイトもした事が無いやつらが、生徒に向かって、「世の中は厳しいんだ。 そんな事じゃ、社会に出たら苦労するぞ」などと説教垂れているのです。 それは、お前らに言うセリフだ。 身の程を知れ、能無しどもめ!

  では、学業に関してはエキスパートなのか? そんな事はありません。 私は中学・高校と、英語が全然駄目で、英語教師に公然と劣等生扱いされていました。 それが、大人になってから言語学に興味を持ち、英文法についてかなり詳しくなってから振り返ってみたんですが、中学・高校の英語教師達が、全員、≪完了形≫を理解していなかった事に気付きました。 日本語では完了形と過去形がほぼ重なっているので、英語の過去形・完了形と対照できず、理解出来ない人が多いのですが、教師達も分かっていなかったのです。 信じられますか? 自分自身、分かっていない事を、生徒に教えていたんですぜ。 偉そうに! どういうつもりなんだ?

  割とよく知られていると思いますが、教師になるのは、医師になるのに比べれば、遥かに容易です。 資格だけなら、大抵の人は取れます。 あとは順番待ちをするだけ。 当然、特別学問に興味がなくても、教師にはなれます。 元の素材にしてからが、雑魚レベルなんですよ。 「教育に生涯を捧げたい」なんて利いた風なセリフがありますが、正直に言いなさい。 「他の職業じゃ、上司にアゴで使われるだけだけど、教師なら、一方で生徒の上に絶対者として君臨できるから、気分がいいだろう」くらいの事しか考えてないんだろう? 動機がスケスケだぜ。

  ネット上の話ですが、50歳以上の男性で、サイトを持っている人というと、大抵は医者か教師です。 それ以外の職業の人は、文章を書く習慣が無いか、生活が忙しくて、ネットには手を出しません。 医師は、温厚且つ砕けた性格の面白い人が多いんですが、同じ先生でも、教師のサイトへ行くと、大概嫌な思いをさせられます。 ゲストと対等という意識が無く、最初から見下して来るのです。 そして、常に教える側のポジションを取ろうとします。 ゲストが質問しているわけでもないのに、あれやこれやと解説を始め、「それはこうするのがよいでしょう」などと、アドバイスじみた結論をくっつけます。 いやらしいったらありゃしない。 そんなに教えたきゃ、自分のガキにでも教えてろ。

  そうそう、教師のガキといえば、教師の家には、家庭崩壊している所が多いですな。 高校時代、金八みたいなタイプの教師がいたんですが、たまたま家が私の家の近所でした。 ところが、その教師の息子というのが、どう見ても暴走族なのです。 ど派手に改造した車をいつも路上駐車していて、近所の評判は極悪でした。 笑ったね、あれには。 まったくもって、自分に教育者としての資質があるかどうかは、まず自分のガキをまともな人間に育ててから判断すべきですな。

  いやはや、教師の悪口を書き出すとキリがありませんな。 私が学生時代に経験させられた悪夢のような出来事を書けば、ここまでの倍くらいの文章量になってしまいますが、くどいので、このくらいでやめましょう。 ろくなもんじゃないですよ、教師なんて。 人間的には出来損ない、学問知識はあやふや、やるべき事は出来ず、やってはいけない事ばかり好んでやる、ゴロツキの集団です。 正直な話、教師が生徒に刺し殺されたといった事件があると、「ああ、因果応報だねえ」とすんなり納得します。 殺した側が生徒でなくても、殺されたのが教師であれば、それを犯罪とすら思いません。 毎日毎日、人を人とも思わない悪行を積み重ねているのだから、殺されるくらい当たり前ですな。

  私ねえ、学校なんていらないと思うんですよ。 あの施設は、子供に嫌な記憶を植え付けるだけです。 学問が必要だというなら、みんな塾に通わせればいいじゃん。 塾の講師というのは、余計な事は教えず、勉強だけ教えるそうじゃないですか。 本来、学問の伝授とはそうあるべきでしょう。 教師に特権を与えて、君主のごとく振舞わせるなんて、何の目的でもないはずです。 塾では給食は出しませんし、劇もやらない、集合写真も撮らない。 モンスター・ピアレンツ呼ばわりされている親も、塾に対して、文句を言ったりしないと思いますよ。 お金出して、教えてもらっているわけですから。

2007/12/16

車に飽きた人々

  日本市場で車が売れなくて、メーカーは困っておるようですな。 あははははは! ざまあみんさい。 新型車を立て続けに出して、強引に販売台数を稼いでいるようですが、あまり背伸びばかりしてると、アキレス腱が切れるぜ。 おほほほほほ!

  新型車ラッシュをかければ、確かに一時的に販売台数が上がりますが、新型を出す為には、開発費やら、生産準備費やら、宣伝費やら、そのつど莫大な資金がかかります。 そんな奥の手・大技を次から次へ繰り出していたのでは、儲けなんぞ出るはずがありません。 大体、ニッチニッチで隙間商品ばかり出すものだから、同じメーカーの中だというのに似たような車種ばかり、ずらりと並んでしまって、名前も覚えられない始末。 車種増やしは、バブル時代に一度失敗しているはずなんですが、懲りないねえ、君達も。

  知らない人も多いと思いますが、日本の自動車メーカーが何十車種も品揃えしているのは日本市場向けだけでして、外国市場では、多くてもせいぜい10車種くらいしか売っていません。 大市場のアメリカでも同じです。 これは、それぞれの国のポータルサイトへ行って、日本の自動車メーカーのサイトを出し、ラインナップを調べてみれば、すぐわかります。 そんなにたくさんの車種を並べても、売れないんですよ。

  国内では、外国市場より販売店網が充実している為に、膨大な数の車種を無理やり売っているわけですが、販売店も災難だわ。 販売員にしてからが、自分の店で扱っている商品の名前をすべては言えないんじゃないでしょうか? まして整備工場の人達の迷惑や如何ばかりか。 エンジンやサスペンションなど、動力系には共通している部品も多いですが、ボディーや内装部品は、車種が違えば、ほとんど違いますから、整備方法を覚えるのも大変なはず。 新型が増えるたびに、「勘弁してくれよ」とぼやいている事必定。

  多車種戦略に一番白けているのは、お客です。 ミニバンや、ワンボックス、クロカンなどのカテゴリーでは、各社から似たような車がうじゃうじゃ出されていますが、兄弟車でなくても、互いに似すぎていて区別がつきません。 「エンジンの排気量が違う」とか、「内装の豪華さが異なる」とか、メーカー側はいろいろ言うでしょうが、そんなのは、一車種の中のグレードの差で分ければいいんじゃないの? 正直な話、実際に買おうとして選び出始めると、「どれがいいか」という以前に、「これとあれはどう違うのか?」という段階で、悩み苦しむ事になります。 そして、これが最大の弊害ですが、さんざん悩んで買った車を、友人や同僚に自慢しようとしても、車名だけではどんな車なのか相手に伝わらず、「やあ、とうとう、○○を買ったよ」などと言っても、「○○ってどんな車だっけ?」と首を傾げられるのが落ち。 もっと悪いと、「○○って何? 平面テレビ?」などと、凄まじい反応が返って来て、一気に沈黙させられる羽目に陥ります。

  車の車種というのは、多ければいいというわけではないんでよ。 テレビ番組の数と同じで、あまり多すぎると、見ている人が少なくなる為に、共通の話題が出来ず、全体の影響力が却って落ちてしまいます。 私の子供時代、チャンネルが四局くらいしか無かった頃は、大抵の友人が同じ番組を見ていたので、学校ではテレビの話題が重要なポジションを占めていましたが、今、会社で同僚達と、個別のテレビ番組の話をする事はほとんどありません。 誰でも嫌な記憶を伴う経験があると思いますが、面白い番組を見た翌朝、テンション高く、「昨日のあの番組、笑っちゃったよねえ」などと話しかけたら、冷め切った顔で、「いや、見てないから」と切り捨てられてしまった時のあの不愉快さといったら、何度も経験したら精神崩壊を起こすのではないかと思うほどです。 それと同じ事が、いまや車を買う時にも起こる危険性があるというわけです。

  実際の使用上の問題として、そんなに多くの車種が必要かというと、そんな事は全く無いのであって、たとえば、ミニバンであれば、1メーカーにつき、大中2車種もあれば充分じゃないでしょうか。 7人乗りのミニバンのくせに、カローラ・クラスのセダンよりも小さい車というのがありますが、あの手の車は、根本的に存在意義を履き違えているのであって、そんな小さな車体に7人も詰め込むなど拷問以外の何ものでもありません。 作っているメーカーも馬鹿なら、買っている客も馬鹿。 シートが多ければ、それだけ得られる幸せも大きいと思っているようですが、そういうセンスを、≪貧乏臭い≫というのです。

  車を買う時に、車種を選べないというのは、それはそれで窮屈な感じがしますが、実はそういう状態の方が、車が齎してくれる楽しみは大きいです。 本当の意味で、重宝な道具になってくれるんですな。 昔は、5人乗りのセダンに、親戚や近所の子供を7人くらい詰め込んで、「外から見えないような隠れてろよ」なんて言いながら運転している人がたくさんいましたが、そういう野趣のある使い方が出来なくなったのは、法律上・安全上はともかく、情緒的には不幸としか言いようがありませんな。 愛すべき道具としての車は、もはや死んでしまったのです。 車種を増やしても、あの楽しみは決して戻らないでしょう。

  日本市場で車が売れなくなった最大の原因は、メーカーの勘違いにあるとも言えます。 売れなくなったのではなく、売れなくなる前までが売れ過ぎていたのです。 過去の歴史で最も多く売れたのは、高度経済成長期後のマイカー・ブームの時ですが、なぜ売れたかと言うと、それまで車に縁が無かった人達が、収入の上昇によって車を買える経済状態になり、免許を取って車を買い始めたからです。 しかし、一家の主のほとんどが車を持つようになると、飽和して売れ行きが横這いになりました。 人口には限界がありますから、頭打ちになるのは当然の話です。

  次のブームが、1980年代でして、その頃何が起こったかというと、女性が車の免許を取り始めたのです。 最初は50㏄の原付スクーターからブームが起こり、「原付免許が取れたんだから、車の免許も取れるんじゃないの?」と考えた女性達が、わらわらと教習所に通い、普通免許を取って、車を買い始めたんですな。 女性は人口の半分ですから、ここでも爆発的に車の数が増えました。 ほとんど時期的に重なりますが、高校を出た若者達が車を買い始めたのもこの頃です。 マイカー・ブームの頃は一家に一台が普通でしたが、この頃から、大人一人に一台に変わり、月極駐車場が大繁盛する事になります。

  しかし、一家の主にせよ、女性にせよ、若者達にせよ、人口には限界があります。 車の数が飽和状態に達してしまえば、それ以上は増えません。 せいぜい買換え需要があるくらいのもの。 ところが、メーカーというのは、この単純な因縁が理解できないのです。 「60年代から80年代までは右肩上がりに成長していたのだから、今でもできるはずだ」と言うのです。 アホか? 人口そのものが減っているのに、一体、誰に車を売る気なんじゃい? 売れ行きが良かった頃の記憶が忘れられず、「売れないのは、人気車が出ないからだ。 下手の鉄砲も数撃ちゃ当たる! 車種を増やせ! 顧客の選択肢を広げて、市場を刺激しろ!」と社員に発破をかけているわけですが、エネルギーの空回りとしか言いようがありません。

  バブル崩壊の頃ですが、車の売れ行きが頭打ちになった時、某メーカーの副社長とやらが言った言葉が凄い。

「日本の車の保有台数は、もっと上げられる。 邪魔な庭石をどかせば、どの家でももう一台置ける」

  何だか、市場分析とかそういう次元ではない、背筋が寒くなるような粗野な発想でしょう? 車を買わせるためなら何でもありという、売り手本位の野蛮な欲望を感じます。 でよー、もう一台買わせてよー、一体誰がそれに乗るねん? 犬でも乗せるか? 無茶苦茶言ってんなよ。

  だけど、この副社長と同じような考え方の人間もたくさんいるようで、家族が2・3人しかいないのに、門前に車ばかり5台も並んでいるような、奇怪な家もよく見ますな。 なんて寂しい生活なんだ。 小さなセダンに子供をすし詰めにして乗っていた頃のあの幸福感とは対極にある、歪んだ豊かさです。 お金が幸福を齎してくれないというのは、本当なんですねえ。 車なんて何台もあったって、楽しいわけないだろ。 目を覚ませ!

  日本人が車にそこそこの価値を認めていたのは、やはり、バブル時代まででしょうな。 ホンダ・プレリュードや、日産シルビアなど、≪デート・カー≫と呼ばれた車が街を埋めていた頃ですよ。 バブル崩壊で、車だけでなく、何もかも売れなくなったあと、15年たって景気は回復してきたけれど、車に対する熱狂は全国的に冷め切っていたんですな。 つまる所、日本人は車に飽きたんですよ。 もともと、「走るのが好き」といった、車趣味の強い民族ではなかったし、道路もせせこましくて、ドライビングを楽しむようには作られていません。 また、車で行ける範囲というのは、せいぜい半径100キロくらいですが、日本の場合、東西南北どちらへ向かうにも、山道か海岸線の道路を通らざるを得ません。 山道は運転が怖いし、海岸線の道路は渋滞が付き物。 ドライブといえば、苦労しに行くようなもので、ちっとも楽しくないんですよ。

  これは、私個人の感覚ですが、車という奴、自分で所有するもんじゃないですな。 若い頃、軽自動車を6年くらい所有していましたが、とにかく参ったのが洗車とワックス掛けでした。 一雨来ると必ずやらなければならないわけですが、週に一度は降りますから、結局毎週、洗車ワックス掛けしていた事になります。 始めれば2時間はかかるので、どえらい無駄。 乗っていればいたで、いつ事故を起こすか分かりませんし、停めておいたらおいたで、誰に傷を付けられるか分からず、心配のし通しでした。 今はバイクで通勤していますが、車を持っていた時のような気苦労が全く無くて、清々しています。

  そういえば、最近、車の色がシルバーやゴールドばかりになりましたが、時代は変わったもんですなあ。 20年くらい前までは、日本では圧倒的に白が多かったのです。 なんで、シルバーとゴールドが増えたのか? 答えは簡単、洗車しなくても汚れが目立たないからです。 昔は、白い車を買って、毎週洗車して、常にピッカピカに磨き上げておくのが、車ユーザーの嗜みのように思われていましたが、いまや、車に飽きた日本人は、洗車に掛ける時間を惜しむようになったわけです。 「車を買うのはいい。 しかし、洗車だけは勘弁してくれ」 そういう人がたくさんいそうだねえ。 一度飽きてしまうと、再び興味を持つのは難しいというか、ほとんど不可能でしょう。

  話は変わりますが、日産が≪GT-R≫の新型を出すそうで。 まあ、何を出そうが、御社の勝手ですが、身も蓋も無い話、大して売れないと思いますよ。 旧GT-Rを買っていたのはどういう客層かというと、99%が走り屋だったわけですが、走り屋というのは、普段は普通の勤め人でして、そんなに高給を取っているわけじゃありません。 777万円もする車をホイホイ買えるわけがないでしょう。 走り屋といえば、峠攻めですが、777万円の車で峠なんか行った日にゃ、ガードレールに一回こすった修理代だけで、給料が消えちまいますぜ。 それに、走り屋は、高い車を買うよりも、普通の価格帯の車をチューンする事に楽しみを見出している人が多いんですよ。

 「ポルシェやフェラーリよりは遥かに安い」とでも言いますか? 馬鹿だね。 走り屋は、ポルシェやフェラーリなんて眼中に無いんだよ。 自分の収入で買えない車なんて、最初から対象外なの。 2000万円でも、777万円でも、買えない事に変わりはないんだから、GT-Rも対象外になるのは目に見えています。 また、ポルシェやフェラーリを買える人達は、走り屋なんて荒っぽい趣味はやりませんから、GT-Rに興味は示さないでしょう。

  カルロス・ゴーンさん、日本市場の客層について、よく分かってないんじゃないですかねえ? もし、新型GT-Rが売れるというのなら、同じ客層にレクサスのSC430あたりも売れているはずですが、実際にはほとんど見かけないでしょう? そんな客層は日本に存在しないんですよ。 どうです? 新型GT-Rが売れるような気がしてこないでしょう?

2007/12/09

ツラ

  テレビを見ていると、「こんなに醜い女が、なぜ美人扱いされているんだ?」と驚愕する事がよくあります。 「それほどの美人ではない」とか、「どちらかというと普通の顔だろう」といった次元の話ではなく、はっきりきっぱり明らかに「ブス!」としか思えない顔なのに、世間的には美女で通っているのです。 そんな時には、「自分の感覚がおかしくなったのか?」と深く静かに悩むわけです。

  顔の良し悪しの問題というのは、あまり大っぴらに口にすると、名誉毀損になりかねないので、他人の同意を求めるのが憚られるのですが、割合感性が近いと思われる人に、こっそり、「あの女、ブスだよね」と訊ねてみると、「そう? 結構可愛いと思うけど」などという予想外の返事が返って来て、更に動揺する事もしばしばあります。 そんな場合にも驚くのは、微妙な差ではなく、美人とブスの両極端に別れてしまう事が多い点です。 同じ人物を見ているのに、この差はなんざんしょ?

  もう10年位前ですが、配属された職場に二人の同年輩の人がいて、山口智子さんと松下由樹さんのどちらが美人かという言い争いを始め、私に裁定を求めてきた事があります。 私は、(失礼ですが)どちらも美人だと思っていなかったので、テキトーにはぐらかす以外にありませんでした。 次に、5年くらい前の話ですが、ネット上のある掲示板で、モーニング娘の話題が出て、誰が可愛いかという話になりました。 私は詳しくなかったので、漠然とした記憶から、「一人、妙に可愛い子がいますね」と書いたら、ある人が、「ああ、それは、○○さんでしょう。 あの子は可愛いですからね」と名前を教えてくれました。 暫くしてから、その名前の人物をテレビで確認したのですが、私の念頭にあったのとは別の人でした。 しかも、「これが可愛い? どこが?」というような顔で、目の下がヒクヒク引き攣るのを抑えられませんでした。 美女に対する感覚とは、かくも個人差が大きいものなのです。

  こうなって来ると、美人には客観的基準など存在せず、見る側の感覚によって異なると考えるのが妥当でしょう。 思うに、味覚や音楽の感覚などと同じで、幼い頃に親の意見や周囲の環境により刷り込まれた感覚が、その人の美人観を決定するのではありますまいか? 母親に似た女性を好む者や、その真逆を好む者がいますが、母親に対する好悪感情が、その人の美人観に影響しているのは間違いありません。 子供番組に出て来る≪お姉さん≫が美人の基準にされる事も多いです。 その頃に人気があって、しょっちゅうテレビに出てきたタレント・女優さんなんかも対象にされます。 ≪三つ子の魂百まで≫の適用を受け、幼い頃にインプットされた美人の基準を元にして、その後の人生において、美人とブスを選り分けて行くわけです。 つくづく、個人的感覚の領域ですなあ。

  つまりねえ、誰か美人だ、かれがブスだというような言い争い自体に、意味が無いんですな。 人によって感覚が違うんだから。 腹が立つのは、「○○は美人だ」とか、「△△はブスだ」といったように、他人に決め付けられる事なのです。 自分が美人だと思っている人の事をブス呼ばわりされれば、誰だってムカっと来るわな。 基準が無い世界の話なんだから、そんな事で言い争っても決着などつくわけが無いのであって、詮無い事なのよ。 自分の感覚を傷つけられたくなかったら、その種の話には関わらないのが一番。


  と、以上の事を重々承知した上で、以下は他愛の無い個人的感想なんですが・・・・・

  フィギュア・スケートの、○○○○や△△△△はブスだよねえ! あんまり醜いんで、突然テレビ画面に出て来られると、ビックリしちゃうね。 ○○○○なんて、「○○○。ー」なんて愛称で呼ばれてるけど、なまじ可愛いっぽい愛称を付けられたばかりに、余計に醜さが際立って、吐き気すら催す有様。 誰だよ、「○○○。ー」なんて呼び始めた馬鹿は。 どう見たって、薹が立ったおばさん面だろうが。 信じられんな、まったく。 また、△△△△の歯並びの悪い事。 テレビに映る職業なんだから、歯の矯正くらいせなあかんで。 今時、男のお笑い芸人ですら歯の修正は必須だというのに、何考えとんのかねえ。 フィギュア・スケートという種目、基本的に、「自分は美女だ」という前提で演技するため、それをブスがやっているだけでも滑稽なんですが、ブスのくせこいて、自分を美人だと思い込んでいる奴がやっていると、もう直視に耐えない醜態と化してしまいます。 悪い事は言わん、ベールで顔を隠せ。 その方が点数が上がる。

  次。 ブス・ユニバース。 あれにもビックリしたなあ。 ミス・ユニバースというのは、≪世界一の美女≫を選ぶという趣旨で行なわれているわけですが、まったく逆の、≪世界一のブス≫を選んだんじゃないかと思い、唖然としてしまいました。 ≪宇宙戦艦ヤマト≫風に表現すると、イスカンダルに行くつもりで、ガミラスに来てしまったといった所でしょうか。 美人に基準は無いと書きましたが、日本人男性で、◇◇◇の事を美人だと感じた者は一人もいないんじゃないかと思います。 十人並みですらなく、はっきりとブスの領域だと言えると思います。

  たぶん、審査員のほとんどが、黄色人種じゃなかったんでしょうね。 人種間で、美人の基準に大きな開きがある事は、アメリカ映画に出て来る黄色人種女性の顔を見ればよくわかります。 もし東アジアであれば、女優どころか、コンビニのバイトにも雇ってもらえないようなドブスが、チャーリーズ・エンジェルなんぞやっておるのを見ると、笑うな吐くなっつー方が無理でんがな。 つまりね、異人種の人達には、黄色人種の美人・ブスの違いがまったくわからないんですよ。 単に吊り目だというだけの理由で選んでいる可能性高し。

  それにつけても、ブス・ユニバースには困った。 同県出身者なので、県内のテレビ番組に出て来る機会が多いんですが、あの顔を何度も見せられたんじゃ、飯も食えません。 ブスの顔というのは、一度見ただけで脳裏に焼き付いて、夢にまで出て来るから、始末におえぬ。 審査員の奴ら、黄色人種の美醜が分からないんだったら、最初から候補から外せよな。 すっごい迷惑なんだからよ。 また、日本のマスコミの奴らも、腹の底では、「こりゃまた、どえらいブスが選ばれたもんだな」と驚いているくせに、単に同国人の栄誉だというだけで、持て囃すのはよせよ。 実際にはブスなんだから、テレビ・コメント的に無理に誉めたって、限界があるだろうが。 こういう珍事が発生してしまった場合、慌てず騒がず、無視するのが唯一の対策です。

  この世のブスどもよ。 別に死ねとは言わん。 家から出て来るなとも言わん。 基本的人権はもちろん尊重する。 しかし、これだけは守っていただきたい。 頼むからテレビに出て来るのだけはやめてくれ。 こちとら、わざわざ気分を悪くする為に、テレビをつけているんじゃないんだ。 あんたらだって、ブ男ばかりテレビに出て来たら、気持ち悪いだろう? 同じ事だ。 同じ事なんだ。 お願いだから、分かってくれ。


  極端なブスの例はこのくらいにしておいて、もう少し普通の話にしましょうか。

  モーニング娘は典型的ですが、10代の子供を美女扱いするのは、ほどほどにしておいた方が無難です。 デビューした時には、輝くばかりの美少女だったのに、20歳過ぎると、「なんじゃ、こりゃ?」というような顔になってしまうケースが非常に多い。 たとえば、現在、10代20代の人達で、薬師丸ひろこさんを見て、美人だと思う人は、まーずいないと思いますが、20年くらい前、薬師丸さんが、日本を代表する美女として君臨していたと聞いたら、驚く以前に、理由が分からず、戸惑うばかりでしょう。 人間の顔というのはね、変わるんですよ。

  よく、「子役は、そのまま成長すると変な顔になる」と言われます。 その例はいくつも挙げられると思います。 性別に関係なく、「こんな可愛い子がこの世にいるのか!」とまで思わしめた子供が、大人になると、妙に間の抜けた顔になって、端役を拾って辛うじて食い繋ぐだけの俳優になってしまうのは、大変よくあるケース。 逆に、はしのえみさんや、石田ゆり子さんみたいに、30歳近くなってから人気が出始める人というのもいますが、そういう人は、若い頃には注目を集めるような顔ではなかったのです。 人間の顔というのはね、変わるんですよ。

  美人のまま大人になってしまったから、もう安心だと思ったら大間違い。 大人になってからブスになるケースも当然あります。 非常に多いのが、鼻が隆起して、鷲っ鼻になるケース。 10代の頃に鼻筋が真っ直ぐ通っていた子は、往々にして、20歳過ぎると魔法使いのおばあさんになってしまいます。 次に、顔が伸びてくるケース。 10代の頃、ちょうど良い長さの顔だったのが、だんだん伸びて来て、頬骨が出た馬面になって行きます。 あれも悲惨だなあ。 しかし、奇妙なもので、その時点で醜くなっていても、以前美人だったという前歴があると、いつまでも美人として扱われる事が多いです。 人間というのは、先入観に大きく影響されながら生きているんですな。

  うちの母は、韓国ドラマのファンで、ケーブル・テレビのデジパック契約を入れて、日がな一日、韓ドラを梯子見していますが、「最近は、日本の女優が美人に見えなくなった」と言っています。 それは私も同感で、韓国のドラマや映画をある程度見た人なら、みな同じ感想を持つと思います。 見たところ、韓国の女優さんには、ある一定の美人基準があって、それをクリアしないと、デビューできないようですな。 たとえば、顔が平たいと、その段階で没です。 撮影技術が進んでいる為に、あらゆるアングルで撮られる事を考慮して、立体的な顔立ちの女性を優遇しているのでしょう。

  日本では、正面から見た顔立ちがオーケーなら、横顔には拘らない傾向があり、かなりペッタンコな顔の人でも、美人で通ります。 たまに撮影アングルの関係で、上を向いたりすると、「げっ! こんなに平たいのか!」と引いてしまいますが、それは仕方ないと許容されてきたんですな。 ちなみに、マンガ・アニメでも、日本では横顔がテキトーに描かれます。 写実的に描くと醜くなるので、ごまかしてしまうのです。 作者と読者の間には、「こういう横顔が描いてあれば、それは美人の顔なのだ」という暗黙の了解があり、それ以上の事は気にしません。 でも、外国人はそうは感じないと思います。

  この、横顔の平たさという奴、気付かないうちは何とも思わないのですが、一度誰かから指摘されると、妙に気になり始めます。 そして、日本の女優さんを一人一人チェックしていくと、八割方落ちてしまうのです。 それまで美人に見えていた人が、ある日を境にブスにしか見えなくなります。 とはいえ、日本女性に立体的な顔立ちの人がいないわけではありません。 女優を選ぶ時に、平たい顔を除外しない為に、平たい顔の割合が多くなるというだけの話です。


  話は変わりますが、最近は、醜い子供が減ったように見えます。 私の父も、「外で遊んでいる子供を見ると、昔みたいに悪い顔の子がいなくなったな」と言っています。 これ、偶然でも気のせいでもないのであって、実際に顔がよくなりつつあるんですよ。 原因は、恋愛結婚が増えた事です。 いいなづけ婚や見合い結婚が大半だった頃には、容姿は最重要条件ではなかったのですが、恋愛結婚の時世には、どうしても顔のいい人間が有利になります。 これは、どうしようもないですな。 ブスやブ男が結婚できなくなった結果、まずまずの顔以上の人達だけが子孫を作れる状況になり、自動的に子供達の顔立ちも良くなってきたというわけです。 残酷? 理不尽? いやいや、恋愛結婚が主流の社会では、みんなそうなんですよ。 恋愛結婚制度を長く続けていると、ブス・ブ男が淘汰されて行くのです。


  随分好き放題に書いてきましたが、冒頭部に書いたように、顔の美醜には、客観的な基準というものがありません。 ここで貶した顔も誉めた顔も、あくまで私個人の感覚に基いたものなので、誤解なきよう。 いや、これだけザクザク書いてしまうと、誤解のしようがねーか。 特に中盤の個人吊るし上げがヤバそうだ。 よし、こうしよう! 今回の私の意見は、この時点ですべて取り消します。 読んだ人も、全部忘れて下さい。 他へ行って吹聴して、あとでどうなっても、私は一切関知しません。

2007/12/06

A medical examination

Today, a medical examination was carried out in my workplace.
I ate breakfast because the leader of my group made a notice mistake.
I told a lie, and underwent a medical examination.
It is little injustice.

2007/12/05

A cold

I caught a cold.
I talked with the leader of my group for only five seconds at work, and it was infected.
It is the terrible infection power.

2007/12/04

Vogue word

A large percent of word chosen as "vogue word grand prix" is already out-of-dateness.

2007/12/03

The sky

I can see the sky here.
But, it is pitch dark.
The dark sky is useless than the ceiling of the cave.

2007/12/02

カート・ボネガット

  カート・ボネガットさんの本を読みました。 図書館で借りてきた本を、仕事の休み時間だけ読むというパターンでしたが、八月の連休明けから、現在、11月の終わりまでに、ほとんど読み終わりました。 休み時間なんて取るに足らない時間量だと思っていましたが、塵も積もれば山となるものですな。

  読んだ本は、≪プレイヤーズ・ピアノ≫、≪タイタンの妖女≫、≪母なる夜≫、≪猫のゆりかご≫、≪スローターハウス5≫、≪チャンピオンたちの朝食≫、≪ガラパゴスの箱舟≫、≪青ひげ≫、≪ディックアイ・ディック≫、≪ジェイルバード≫、≪ホーカス・ポーカス≫、≪タイムクエイク≫、≪モンキーハウスへようこそ②≫。 いやはや、よく読んだもんだ。 何冊か抜けているものもあるんですが、図書館に蔵書がなかったり、小説ではなく随筆集だったり、いずれにせよ、残りは僅かなので、もう総評を書いてしまってもいいと思います。

  カート・ボネガットさんの名前は、日本では誰でも知っているというわけではありませんが、アメリカでは知らない人がいないというくらいの有名人です。 ≪20世紀後半のアメリカ最高の長編作家の一人≫なのだそうで、つまり、この人の作品を読めば、アメリカの現代文学のレベルが大体分かるというわけです。 では、いかめしい純文学かというと、そんな事はなく、元はSF作家としてスタートし、後に純文学領域に移動するものの、最後までSF的な要素を作品に盛り込み続けたという異色の人物。 どれでも一冊読んでみれば分かりますが、実に読み易く、知能低下著しい現代日本人であっても、高校生以上程度の読書力があれば、スイスイ読めると思います。

  話の内容は、個人的体験をベースに、創作を盛り込んで膨らませた話がほとんどです。 普通、小説というと、創作の中に個人的体験を盛り込むものが多いですが、この人の場合、逆なんですな。 SFの要素が入っているだけあって、結構、破天荒な設定の話も多いんですが、実体験や身近な人間に起こった実話をもとに肉付けしているので、不思議とうわっついた軽薄さを感じさせません。

  構成法上の特徴としては、これから起こる筋書きを、先に書いてしまうという、実に風変わりな語り口が取られています。 中期以降の作品はすべて、この方式で書かれていて、≪ボネガット方式≫といってもいいくらい、際立った特徴になっています。 極端な場合、小説が始まったばかりであるにも拘らず、結末がどうなるかを、書いてしまうのです。 「そう思わせておいて、何かどんでん返しを用意しているのでは?」と思わせておいて、最後まで読んでも何もありません。 起承転結という、物語りの基本形式を崩しているんですな。 「そんなの面白くも何ともないではないか」と思うでしょう。 でも、実際に読んでみると、面白さが損なわれているという感じはしません。

  当人は、「小説というのは、全体の八割くらい進んだ所で、作者が言いたい事は書き尽くされている。 結末は重要ではない」と言っていますが、まさにその通りという感じでして、作品という実例で納得させられてしまいます。 これが映像作品だったら、せいぜい二時間程度で終るので、起承転結が無いと話が締まりませんが、小説の場合、細切れでダラダラ読まれる事が多いですから、読者にとっては、表面的な構成よりも、盛り込まれている作者の考え方を読み取る方が重要な楽しみ方になるというわけでしょう。 それを見抜いて、半世紀にわたって実践したボネガットさんの功績は大変なものだと思います。 実験ではなく、実践したという所が肝腎なのであって、小説の語り口の新境地を開拓したわけですから、なんで、こういう人にノーベル文学賞をやらなかったのか、それが不思議です。

  ただ、個人的体験に依拠しているが故に、同じような話が多くのなるのは避けられず、特に後半の作品群は、「一冊読めば、他はみな同じ」という感がなきにしもあらず。 登場人物の多くが、複数の作品で共有されているのも、類似度を高める要因の一つになっています。 とはいえ、小説の完成度は、後に行くほど高くなり、≪ホーカス・ポーカス≫で、最高点に達します。 どうも、当人はそこで筆を置くつもりだったようですが、一国の代表作家クラスに登りつめてしまったが故に、次回作を望む声に抗しきれず、七年のブランクを置いた後に、最後の長編、≪タイムクエイク≫を発表します。 しかし、この作品は小説というより、とりとめのない回想録といった方がよい内容で、勝負作品の内に数えるのはどうかと思われるものでした。

  なぜ、ボネガットさんの個人体験が面白いのかというと、この人、いろんな事を経験しているんですな。 まず、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に敵情視察兵として参加し、有名な≪バルジ作戦≫でドイツ軍の捕虜になってます。 これだけでも、小説家としては貴重な体験ですが、更に捕虜労働者として働かされていたドレスデンの街が、またまた有名な≪ドレスデン爆撃≫で破壊された時に、食肉工場の地下室にいて助かったという凄い体験までしている始末。 その上、複雑なのは、ボネガットさんの家系はドイツ系で、ドイツ人を恨む感情がほとんどない事が絡み、至って冷静な目で≪戦争≫というものの本質を眺めてきたんですな。

  ただ、ドイツ人を恨んでいない事が逆に、ドイツの立場に甘くなっている嫌いがなきにしもあらず。 ボネガットさんはドイツに対する見方を日本にも流用して、広島・長崎の原爆投下について、アメリカ側を批難する立場をとっているようですが、これは些か浅薄な態度というものでしょう。 ボネガットさんは命拾いして戦場から帰って来たから、離れた視点から戦争を眺める≪余裕≫が出来たわけですが、ドイツ人や日本人に殺されてしまった人々は、決してボネガットさんに同意しないと思います。

  ≪ガラパゴスの箱舟≫や≪ホーカス・ポーカス≫には、日本人がかなり重要な役柄で登場します。 どちらも、共通しているのは、広島で被爆している人物だという事。 一方は、原爆症の結果、全身に≪にこ毛≫が生えた畸形児を生みますし、一方は所長として勤務していた刑務所を囚人達に乗っ取られた後、切腹して死にます。 こう聞いただけでも分かると思いますが、ボネガットさんの日本のついての知識は、この種のステレオタイプな域を一歩も出ません。 それ以上の興味が湧かなかったんでしょうな。 それなのに、なぜ日本人を繰り返し登場させたかといえば、これは私の推量ですが、たぶん、日本の出版社から印税がどかっと入って来て、自分の作品が日本で売れている事を知り、読者サービスのつもりで日本人を出したんでしょう。 こういう事は割とよくあります。

  話をボネガットさんの経験に戻しますが、この人、小説が売れ始めるのは中年を過ぎてからで、それ以前は、戦争に行ったり、サラリーマンとしてGE(ジェネラレ・エレクトリック社)に勤めたり、サーブの自動車セールスマンをやったり、家族を養うために、いろんな仕事をしていたんだそうです。 日本の作家でもそうですが、文筆業に入る前に、ちょっとでも他の仕事を経験していると、作品世界の現実味が全然違ってきます。 たとえば、学生時代にデビューして、一度も会社勤めをした事がないという作家が、サラリーマンを主人公にして小説を書いても、「なんじゃ、こりゃ?」という感じの陳腐な描写しか出来ません。 そういう作家の場合、主人公はいつまでたっても学生だったり、無職だったりします。 それを逆に考えれば、社会経験が豊富な人の作品が、いかに内容が濃いかが分かろうというもの。 もっとも、経験だけでは小説は書けないので、その点は注意が必要ですが。


  ボネガットさんの文章は、訳者の違いに関係なく、大変読み易いので、「純文学はちょっとかったるくて・・・・」という人にもお薦めです。 読み易いですが、人生について深く分け入っているという点では、ドストエフスキーにも、トルストイにも負けていませんから、一読の価値はあります。 ボネガットさんは、現代では珍しく、生きる事について、真面目に考え続けた人なんですな。 ちなみに、ボネガットさんは、2007年の4月11日に、84歳で亡くなりました。 ご冥福をお祈りします。

2007/12/01

Tunnels

Life is a road with many tunnels.
As for me, working days are tunnels.
As for some of the people, holidays are tunnels.
I am unfortunate. They are unfortunate, too.