2009/02/22

時事0902

  不思議な事に、閑な時間が増えれば増えるほど、書きたい事が無くなって行きます。 業界が不景気の影響をモロに被ったため、ここのところ、毎週、週休三日が続いているのですが、ごろごろ・ぐだぐだと徒に時間が過ぎていくばかりで、何もやりたい事がありません。 やりたい事がないという事は、何に対しても興味が湧かないという事でして、自動的に、ここに書く事もなくなるのです。

  時事ニュースに、見過ごせない事件とか、聞き捨てならぬ発言とか、私の激怒センサーを刺激する題材があれば、文章の論旨が整うのさえ待ちきれず、ガツガツ喰い付いて、ドシドシ書くのですが、こうと何も無くてはねえ・・・。 といって、更新をサボると、すぐに癖になって、ブログが死んでしまう可能性が高いですから、しょうがない、無理やりネタを拾ってみますか。


≪財務相へべれけ会見≫
  騒ぎましたねえ。 一週間ぎっちり騒ぎ通しでした。 大地震並の報道だね。 でもねえ、そんな事は、どーでもえーこってす。 国の恥? アホ抜かせ。 日本の政治家なんて、首相であってさえ、外国からは全く注目されていないのであって、閣僚なんぞ、有名人の内にも入っていません。 財務相が酔っ払ったくらいで、世界が注目してくれると思ったら、大間違いです。 大体、記者会見の会場は、地元のイタリア人数人を除けば、日本人記者ばかりだったというじゃありませんか。 騒いでるのは日本国内だけで、外国じゃ、誰も気に掛けちゃいませんや。

  外国の新聞が報じてる? あれはねえ、≪お笑いニュース≫として、取り上げているのですよ。 日本の新聞では真面目なニュースとごっちゃに扱われている事が多いですが、外国の新聞には、面白いニュースだけ別扱いで報じる習慣があるのです。 財務相は、世界にささやかな笑いを提供しただけであって、顰蹙なんぞ買っちゃいませんよ。

  日本国内で重大視するのは日本人の勝手ですが、今の日本の政治家の顔ぶれでは、誰が何のポストをやっても、外国の尊敬を受けるような事は出来ないと思いますよ。 まあ、民主国家においては、政治家のレベルは民衆のレベルを正確に反映するので、日本の政治家が尊敬に値しないという事は、日本人全てが尊敬に値しないという事になりますが、多少なりとも理性のある人なら、その見方に異論を唱えはしないでしょう。

  ところで、素朴な疑問ですが、日本人で、誰かを尊敬している人っているの? いないでしょう。 そこな、あなた! 「この人は素晴らしい人だ。 この人みたいになりたいなあ」って人がいますか? 私の場合、全くいません。 「この人は、人柄がいいな」と、一目置いている人ならば何人か身近にいますが、尊敬となると、一人もいません。 全世界に対象を広げても、やはりいません。 もっとも、世界相手の場合、一部の有名人を除いて、全然知らない人がほぼ全員なので、尊敬も軽蔑も、評価のしようがないからですけど。 そういや、加藤周一さんも、死んじまったしなあ。 


≪ヒラリー・クリントン氏が来日≫
  これまた、何を大騒ぎしているのか、さっぱり分かりません。 あのねえ、ヒラリー氏は、アメリカ大統領ではなく、た・だ・の・国務長官だよ。 日本で言えば、外相です。 外相が来たといって、大騒ぎしててどないすんねん、おんどりゃ。 大統領と国務長官の格の違いについて、区別がついていない人が多そうだなあ。 もし、日本の外相が、外国を訪問したとして、元首並の待遇で大歓迎する国があったら、どう思います? 何だか、くすぐったいでしょう? 「わはは! 外相が行ったくらいで、こんなに大騒ぎしてやがる。 しょぼい国だなあ」と、思うでしょう。 アメリカ人も、そう思ってると思いますよ。 もっとも、向こうは景気対策法案でゴタゴタしていて、国務長官の外遊なんか、ほとんど注目されていないようですが。

  ヒラリー氏もヒラリー氏で、なんでまた、最初の訪問国が日本なんですかねえ? 全然重要度無いと思いますけど。 「どうせ、日本の事だから、私が行けば大歓迎してくれるだろう。 最初の外国訪問を無難にこなすには、これといって二国間に重大問題が無い、腰巾着の同盟国に限る」とでも思ったんでしょうか。 もし、そうだとしたら、この人物の国務長官としての手腕には、あまり期待しない方が良いと思われます。 最初に、イランか朝鮮に行けば、100点。 キューバやベネズエラに行けば、95点。 イラクかアフガニスタンであっても、90点くらいはつけられましたが、日本では、0点ですな。 何の仕事もしていないのと同じです。


≪受精卵の取り違え≫
  全く笑えない事件ですが、医者のあまりの馬鹿ぶりには、嗤わざるを得ませんな。 わはははは! それほど重要な事なのに、そんな単純なミス防止も出来ないようなら、医者なんぞさっさとやめちまいな! あんたのような人間には、人の命を預かるなんて、荷が重過ぎるぜ!

  医者の不注意も凄まじいですが、中絶した母親やその夫にだけ同情が集まっている世間のこの空気が、輪を掛けて恐ろしいです。 一番の被害者は、殺された胎児だとは思わないんですかねえ? たぶん、自分がその母親の立場に置かれた時、中絶した事を責められては困るので、胎児の命に関しては、知って知らぬふりを決め込んでいるのでしょう。 しかし、もし、自分が母親の立場でなく、その胎児の立場だったら、中絶の決定をした大人達を許しますかね? 許さないでしょう。 なんといっても、殺されてしまうのですからね。 「この場合、仕方がない」で殺されたんじゃ、たまったもんじゃありません。

  では、どうすればよかったのか? 産んだ上で、取り違えをやらかした医者に育てさせれば良かったと思います。 「その方が、子供にとっては残酷だ」? 利いた風な事を抜かすな! 殺されるより残酷な事など、この世にもあの世にもあるものか! 生まれて直ぐに、赤ちゃんポストに放り込まれたとしても、殺されるよりは無限大数倍マシです。 もし、その夫婦や、卵子の持ち主の夫婦に、その後も子供が出来なくて、どちらかで引き取ると言うなら、それも良いでしょう。 なぜ、殺す必要があったのか、さっぱり分かりません。 医者及び、双方の両親に訊いてみたいのですが、人の命は、そんなに軽いんですか? あなた方は、そんなに軽いものを作るために、必死の努力をしているんですか?

  ちょっと、事件から離れて、一般論に寄り道します。 もちろん、胎児を殺しても、法律上、殺人罪に問われないのは知っています。 だから、妊娠中絶が合法的に行なわれているわけですが、法的に無罪でも、倫理的には、確実に罪が発生します。 その罪は、母親、もしくは、母親の意思を無視して妊娠させた相手の男が負う事になります。 法律上の罪と違い、倫理上の罪は、当人が死ぬまで逃れられません。 たまに、「中絶した最初の子の代わりだと思って、この子を産みました」などと言う母親がいますが、よくも抜け抜け、そんな戯言が言えたものです。 なんと愚かな! その子と最初の子は、まったく別の個体だ! 最初の子を殺した上に、次の子を、≪身代わり≫で育てているとは、二重の罪ではないか!

  中絶というのは、そういうものだと知るべきでしょう。 たびたびの中絶に慣れ切ってしまって、≪中絶=お金の問題≫としか考えられなくなっている親が多いのも恐ろしい。 彼らが悩んでいるのは、胎児の命を奪う事ではなく、お金をどう工面するかなのです。 「法には触れないから、胎児ならいくら殺しても構わない」と思っているようなら、もう、人間やめた方がいいでしょう。 いっそ、あなた方御自身が身罷りなさったらいかがかな? そうすれば、もう、望まない妊娠で悩む事もなくなるわけだ。 いや、薦めているわけではなく、あくまで、痛烈な皮肉ですが。 まったく、性欲というのは恐ろしいものだて。

  話を戻しますが、この事件の場合、最大の責任は、取り違えた医者にあるとしても、胎児を殺した倫理上の罪は、中絶を決定した関係者全員が分かち合う事になります。 何と言っても、中絶の決定が下される前までは、その子は健康上何の問題も無く生きていたわけですから。 母親とその夫の立場に同情するあまり、中絶の決定を、「仕方なかった」の一言で済ませてしまったのでは、それこそ、殺された胎児が浮かばれますまい。 最大の被害者は、その胎児だったのだという事を、くどいくらいに、頭に叩き込んでおくべきです。


≪ボンバルディア機墜落≫
  いや、こうと同型機で事故が続くと、この機種に問題があると考えざるを得ないでしょう。 航空機の専門家に言わせると、決まって、「マスコミは、何とかして、ボンバル機を欠陥機と言わせたいようだが、そんな事は無い」などと、庇う傾向がありますが、実際に不具合ばかり起きているのですから、それは否定のしようが無いではありませんか。 この世の中には、原因がはっきりしない事はいくらもあるわけですが、一種類の飛行機、もしくは、一つの会社が作った飛行機に事故が頻発していたら、その設計や製造、保守維持に問題があると疑うのは、ごく常識的な科学的態度だと思いますぜ。

  また、マスコミに顔を出す航空機の専門家というのが、かなり怪しいのであって、実際には、航空機の設計にも製作にも携わった経験が無く、工学博士でも研究者でもないばかりか、工業大学や高専の卒業生ですらなく、せいぜい元旅客機の機長ならまだいい方であって、あーた、それどころの話じゃない、ベタベタの文系のくせこいて、ただ飛行機を見るのが三度の飯より好きで、飛行場に押しかけて写真を撮ったり、航空関係の雑誌や書籍を読み漁っただけで、専門家を名乗っている輩が、少なからずいる模様。 怪しい怪しい。 マスコミ関係者も、専門家からコメントを貰う時には、相手の素性をよく調べてからにした方がいいですぜ。

  論理的に考えて断言できるはずがない事を、断言している奴がいたら、そいつはインチキです。 「ボンバルディア機そのものに問題があるわけではない」と言い切れるのは、事故調査を実際に行なった人物か、さもなければ、ボンバルディア社の設計・製造責任者だけでしょう。 もちろん、後者の場合、言い切ることは出来ても、信用されるとは限らないわけですが。

  それ以外の人間が、同じセリフを口にしていたら、その根拠を訊いてみるのが宜しい。 今回の事件で、マスコミのインタビューに応じた元旅客機の機長という人物が口にしていた根拠は、「今の世代の飛行機は、みな一定レベル以上の安全対策が施されているので、ボンバルディアも大丈夫だと思う」というものでした。 くっくっく・・・、何の証明にもなっとらんがな。 それは、ただの推測だっつーの。 自分で言ってて、「説得力無いなあ」と顔が赤くなりませんかね?

  同じ論法が許されるなら、「今の世代の自動車は、みな一定レベル以上の安全対策が施されているから、大丈夫」とも言えるわけですが、実際には、欠陥車というのは次から次へと世に送り出されているわけです。 設計・製造段階でチェックできる安全基準なんて、その程度のものですって。 何か、工業技術というものに、幻想を抱いていませんか? 所詮、人間がやってる事ですぜ。 何の問題も無い方が奇跡的と考えるべきでしょう。

2009/02/15

この上増えるリコーダー

私のリコーダー熱も、かなり冷めてしまい、もう長い事、一週間に一度しか吹かなくなっていたので、新しく購入するのはやめていたんですが、昨年の暮れに、裾野市にあるダイソーに行ったら、またまた新しいタイプのリコーダーを発見してしまいました。 ダイソーでは、今までに、三つのタイプをゲットして来ましたが、とうとう、四つ目に出会ってしまったわけです。

  もし、今までのと同じ金型で、色や材質が違うだけだったら、パスしたんですが、今度のは、全くの別物だったのです。 しかも、指穴が蛇行していて、いかにも良い音が出そうな外見をしているのですよ。 こりゃ、買わないわけにはいかないでしょう。 また、ご丁寧に、その店には、青・赤・緑の色違いが揃っていたので、三本とも買ってしまいました。 だって、≪ダイソー・裾野店≫なんて行ったのは初めてですし、二度と行かない可能性も高いわけで、その店にしか無いと思えば、買える時に買っておこうと考えるのが、コレクターの心情という奴じゃありませんか、え、そうでしょう? いいんです、どうせ、三本一遍に買っても、315円なんですから。

  それと、それ以前に買っていたもので、まだ紹介していなかったのが一本あるので、それもついでに出してしまいます。

ダイソー スケルトンリコーダー 青
ダイソー スケルトンリコーダー 赤
ダイソー スケルトンリコーダー 緑
スズキ SRE-512


≪ダイソー スケルトンリコーダー 青≫
 105円 中国製 ジャーマン式 掃除棒付き

  今までのダイソーのスケルトン・リコーダーは、台湾製でしたが、これは中国製です。 今でも売っている、≪ダイソー 白≫も中国製ですが、形は全然違っていて、別のメーカーの製品と思われます。


  半透明ではなく、完全なスケルトンですが、ラメは入っていません。 青は、深い色合いで、高級感があります。


≪ダイソー スケルトンリコーダー 赤≫
 105円 中国製 ジャーマン式 掃除棒付き

  これは赤。 面白い事に、中部管と足部管は、≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫や、≪マックストーン TR-302T≫に、大変良く似ています。 穴の配列が直線でなく、各指の長さに合わせて左右にずらしてある点も同じ。 ただし、全く同じ金型ではなく、微妙に細部が違います。


  頭部管は独特の形状で、吹き口が長く突き出しています。 この形は、私が持っている他のリコーダーの、どれとも似ていません。 赤も深くて、品質感のある色合いです。


≪ダイソー スケルトンリコーダー 緑≫
 105円 中国製 ジャーマン式 掃除棒付き

  緑は、青や赤に比べて、少し色が薄いです。 スケルトンのせいで、薄い色になると、どうしても、オモチャっぽく見えてしまいます。 しかし、音はもちろん、他の色と変わりません。


  このタイプ、音の方の性能は、素晴らしいです。 アウロス製品に似た大きな音で、最低のドから、高音のファまで、楽々と出ます。 そこまで上がると、たとえ出ても、耳が痛くなるような硬質の音色になってしまうのが普通ですが、このタイプでは、聞き易い音色を保ったまま、普通に出せるのです。 私が現在持っているリコーダの中では、最も性能がいいです。 105円なのに。



  ケース。 名称は、≪TRANSPARENT RECORDER スケルトンリコーダー≫と記してあります。 「transparent」は、「透明の」という形容詞。 ちなみに、「skeleton」は、「骸骨・骨格」という意味で、「透明」という意味はありません。 本来、「骨格が見える」という意味で使っていたのが、日本語の中で誤解され、「透けて見える」になってしまったんでしょう。 発音は、「スケリトゥン」の方が近いです。


  ケースと言うより、パッケージと言った方が適当ですか。 開閉部には、ホックも挟み帯もなく、封筒口のように折り返されているだけです。 買った時には、ここをセロハン・テープで留めてありました。 つまり、普段出し入れするケースではなく、店頭ディスプレイ用のパッケージなわけです。 本体と同色の掃除棒が付属しています。 運指表はついていませんでした。



≪スズキ SRE-512≫
 1680円 日本製 バロック式 運指表・掃除棒付き

  スズキ楽器の中級器種、≪SRE-512≫。 前に買った最廉価機種の≪SRE-505≫とは、デザインが全く異なります。 白黒のツートンはまあいいとして、サイズが一回り小さく、右手の薬指と小指がくっついてしまって、吹き難い事この上なし。 小学生の手に合わせたらしいですが、子供でも吹き難いと思いますぜ、こりゃ。


  頭部管。 ≪PLUMA≫は、スズキ・リコーダーのブランド名で、「羽根」の意味。 リコーダーのツートンというと、白と茶が多いですが、この笛は限り無く黒に近いです。 美しい仕上げですな。 1680円だから、このくらい綺麗でないと引き合いませんが。 ただ、肝心の音色がよくなくて。 高音が、「プア~~」という感じの、篳篥みたいな音になってしまいます。



  ケース。 さすが、1680円だけあって、ケースは高級感漂います。 合成皮革だと思いますが、ちょっと見では本革と区別がつきませんな。 開閉はファスナー式で、長辺がガバッと開きます。


  片や105円、片や1680円と、私が持っているソプラノ・リコーダーの中で、両極端の値段ですが、性能的には圧倒的に、≪ダイソー スケルトンリコーダー≫の方に軍配が上がります。 とにかく、こんなに高音まで安定して出せるリコーダーは他に無いのですから。 高音のファが出せるという事は、あの、≪カチューシャ≫が吹けるという事でして、≪カチューシャ≫が吹ければ、他の曲も大抵吹けます。 たぶん……。 その意味で、この≪ダイソー スケルトンリコーダー≫は、105円どころか、1500円でも買う価値があると言えます。

  今までの傾向から見て、ダイソーは、その時の仕入れ値によって、店に並べるリコーダーを変えてしまうので、このタイプも、いつまで置いてあるか分かったもんじゃありません。 欲しい方は、今の内に、店へ走った方がいいでしょう。 こと、ソプラノ・リコーダーに限っては、性能は金で買えないんですなあ。 うーん、実に面白い。

  ≪スズキ SRE-512≫は、国内メーカーの中級器でして、実は、国内4メーカーの中級器を全部揃えるつもりでいたのです。 ところが、その一本目の≪スズキ SRE-512≫が、大期待外れに終わったので、残りの三本を買う気が、すっかり失せてしまい、今まで紹介もせんと、うっちゃらかしておいたというわけ。 この笛、とにかく、音色が宜しくない。 初夏に買ったので、季節のせいかと思って、冬を待っていたんですが、やはり、高温の篳篥音はそのままでした。 リコーダーらしくないんですな。 といって、低い方は割と普通の音なので、篳篥らしくも無いのです。 こういうのが好きという人も………、いや、そんな人いないかな。

2009/02/08

閑居問題

  景気悪化の影響で、業界事情柄、休みの日が増え、閑を持て余すようになりました。 忙しい時なら、休みが増えれば泣くほど嬉しいものですが、閑の上に閑が重なると、やる事がなくて、却って心身に不調を来たします。 やれやれ、生きる事とは、因果な営みじゃて。

  最近ほとほと、やりたい事が見つかりません。 原因は幾つか考えられます。 第一に、歳を取った事。 今までに、やりたいと思った事はほとんどやってしまったので、趣味の発展する余地がなくなってしまったんですな。 言語学は己の理解力が届く限界までやったし、語学にもさんざん時間を費やした。 車も乗ったし、バイクで全国ツーリングもやった。 自転車も買ったし、登山もしてる。 写真も撮ったし、絵も描いた。 小説も書いた事があるし、読む方に至っては習慣化している。 音楽もそこそこ聴いたし、リコーダーも吹いた。 アニメも見てるし、映画も見てる。

  もうやめてしまった事と、まだ続いている事がありますが、どちらにも共通するのは、もはや、何をやっても、ちっとも楽しいと思わない点です。 映画などは、受け身の趣味ですし、次から次に新しい作品が出てくるわけですから、飽きる事などないように思うでしょうが、いやいや、たとえ良く出来た映画であっても、歳を取って来ると、若い頃のように素直に反応しなくなって来るのですよ。 なぜというに、映画の主人公には、はっきりした目標や、将来への希望があるのに対し、見ているこちらは、それらを失っているので、感覚にズレが生じて、話の中に入りづらくなるからです。

  たとえば、≪ハリー・ポッター≫ですが、子供の観客の場合、「自分が魔法学校へ入ったら、どんなに楽しいだろう」と思いながら見るでしょう。 しかし、人生折り返してしまった私が見る場合、「自分とは永遠に縁がない、遠い世界の赤の他人の物語」に過ぎません。 主人公が窮地に陥ろうが、それを辛くも脱しようが、そんな事は、私にとってどうでもいい事なのです。

  もっと対象年齢の高い映画もあるわけですが、私がその世界に入り込んでいけない事に変わりはありません。 人生の意義について問いかける映画があったとしましょう。 しかし、そういう映画の主人公達の人生と、私の人生は、大きく掛け離れています。 彼らの人生が善きにつけ悪しきにつけ、≪特殊≫であるのに対し、私の人生は善くも悪くも、≪ありふれて≫います。 この差は、単に大きいだけでなく、根本的な性質の違いを含んでいます。 逆に考えて、もし私の人生を、映画やドラマ、小説などにしようとしても、超がつくような駄作にしかならないでしょう。

  「自分の人生と違うからこそ、物語は憧れの対象になるんじゃないか」と思うでしょうが、それは若い内の話でして、心のどこかに、「いつか自分にも、こんなめくるめく体験をする時が来るかもしれない」と期待しているから、楽しめるのです。 歳を取るにつれ、「来るかもしれない」が、「来ないかもしれない」に変わり、やがて、「来るはずがない」、「来てたまるか」、「アホ臭い。 そんな事思いもしない」という所へ落ち込んで行くんですな。


  次に考えられる原因は、結婚しておらず、子供もいない事。 これが結構大きいんじゃないかと思います。 結婚して子供がいる人に言わせれば、「独身の方が休みは楽しいに決まっている。 結婚は地獄だ。 自分の時間なんか無くなってしまう」と言うでしょう。 しかし、それはそれで、悪い事ではありません。 たとえ、やりたい事が出来なくても、やらなければならい事があるだけで、幸福だと言えるからです。 独身者にとって大問題なのは、やらなければならない事が存在せず、やリたい事はやりつくしてしまい、最終的に、やる事が何もなくってしまう事なのです。 虚無感ほど、やりきれないものはないです。

  もちろん、部屋の掃除とか、布団干しとか、その手の雑事なら、やらなければならない事はあるわけですが、そんな事をしても面白くも何ともありません。 子供と一緒にレジャーに出かける事は、子供の成長に寄与する点で未来に繋がっていますが、布団を干す事に未来への希望を見出すのは、筋金入りのひねくれ者でも困難でしょう。 子供でなくても、何かを育てるという事は、未来を作るという点で、楽しみを齎します。 それは、犬やハムスターなど、動物であっても同じなわけですが、動物の成長には、時間的な制約があります。 成長している間は楽しいのですが、成体になってしまって、後は老化するだけなのが分かると、急に未来が閉ざされたような気分になるのです。 ただエサをやるだけ、ただ散歩に連れて行くだけ、それは楽しみというより、ただの作業です。


  次の原因。 世界情勢や世の中の動きに興味がなくなった。 そういう事には、若い頃から人並み以上に首を突っ込んで来ましたが、これまた歳を取り、自分の人生の発展性が少なくなるに連れ、徐々に興味が薄れてきました。 どんな凶悪事件が起ころうが、国際情勢がどう流れようが、「そんな事、自分の人生には関係ないんだから、どうでもいいじゃないか」と感じる心がどんどん大きくなって来たのです。 何か、理不尽な事件が起これば、怒りはします。 憤りは感じる。 しかし、一方で、「そういう事があるのが、この世の中さ」と冷め切っている自分がいるのです。

  私が何を考えようが、ブログで何を訴えようが、世の中がよくなるような感じがしない。 たとえ、小さな変化を起こす事が出来たとしても、それが私に対して、映画一本ほどのささやかな感動も与えてくれはしないのが分かっています。 そもそも、世の中が良くなるとは、どういう状態の事を言うのでしょうか? 犯罪が少なくなれば、確かに良い事でしょうが、犯罪を減らすためには、不満を抱く人間を減らさなければならず、全ての人間に不満のない人生を用意するのは、神であっても出来ない事です。

  他人に影響を与える事は、罪深い事でもあります。 たとえば、ブログに政府を批判する文章を書いたとして、それを読んで、大いに共感した人間が、政府要人を殺害したりしたら、そんな気にさせた方も、犯行を唆した罪を免れないでしょう。 世の中をよくしようとして、実は悪くしているのかもしれず、自信を持って、「自分は良い事だけをしている!」と断言できる人はいないと思います。 もしいたとしたら、悪い事は言わないから、ちょいと精神科に通った方が宜しい。

  「悪い事を無くして行けば、良い事だけが残るだろう」という論理で、欠陥潰しをして行く事は出来ますが、悪い事と良い事が表裏の関係になっていて、悪い事を潰せば、良い事も同時に消えてしまうケースが、非常に多い事に、歳を取れば取るほど気付くようになったのです。 ある人にとって良い事が、他の人にとっては悪い事という利害の対立は随所に見られ、単純な正義感や倫理観では、到底、世の中の事象をザクザク裁定して行く事など出来ません。 あまりにも乱暴すぎる。

  善悪の基準すら曖昧なのでは、自信を持って、社会の為に何かをする事などできません。 タイムリーな事例として、現在同時に発生している、環境問題と経済危機の関係を見れば、どちらか一方を推し進めて解決する問題でない事が、よく分かると思います。 昨日まで、「環境が大事だ」と言っていた人も、経済危機で自分が失業すれば、「環境より雇用が大事だ」と言うに違いありません。 何とも自分勝手で、節操の無いことよ。 そんなのは信念とは言いますまい。 信念がないのなら、社会に対してああだこうだと意見するのは、やめた方がいいです。

  そして、私にも、その厳密な意味での信念がないのではないかと、自分自身で疑っているのです。 若い頃には確かにありましたが、歳を取るにつれて、それを信じられなくなりつつあるのです。 少なくとも、他人に悪影響を与えてまで貫くような信念は、今や持ち合わせていません。 自分が他人から迷惑を被らないように、「○○するな」とは言えても、世の中の為に、「○○しろ」とは言えないのです。

  こんな考えに至ったのは、私がもはや、社会の中心的な世代から外れつつある事から来ているのかもしれません。 まだ老人というには程遠い年齢ですが、社会の主役から外れてしまえば、40代だろうが80代だろうが、脇役、端役である事に変わりはありません。 脇役や端役が、主役の妨害をするのはよくないと思うのですよ。 また、許される事でもありますまい。


  さて、どうしたものか・・・・。 これでは、生きる目標を見失ったのも同然ですな。 かといって、死ぬ気など髪の毛の先ほどもありません。 面白い事に、人間というのは生きる目標がなくても、積極的に死ぬ気にならなければ、決して自ら命を断ったりしないんですな。 生物の本能という奴でしょうか。 くだらん、やる事がなくなったくらいで、わざわざ死ねるか。 そんなの、面倒じゃないか。

  世の中には、お金で解決できる事も多いですが、お金で得られる享楽は、金の切れ目が縁の切れ目でして、資産家でない我が身には、長期間持続不能である事が分かりきっています。 死ぬ気がない以上、寿命がある間は生き続けなければならず、その為には、お金を無駄遣いするわけには行きません。 結局、図書館に通って、読書で閑を潰すしかないんですかねえ。

2009/02/01

下流謳歌

  なんでも昨今、学生の間では、≪下流志向≫というのが流行っているらしいですな。 最初から人生に高望みをせず、自分の実力の範囲内で楽に生きて行ける学校や仕事を選び、出世よりも私生活の安定を優先し、平穏に一生を終えようとしたがるのだそうです。

「若い者が、そんな覇気の無い事でどうする! 人生、最初から諦めてしまったら、何も出来ないのだぞ! せっかくこの世に生まれて来たのに、目標も立てず、ただ生きるだけで終わったのでは、惜しいではないか! 少年よ、大志を抱け!」

  などというつもりは、全く無いのであって、私としては、≪下流志向≫大賛成です。 なぜなら、私自身が、今までの人生を下流志向で生きて来たからです。 誤解を恐れずに自慢しますと、私は20年くらい早く生まれ過ぎた人間でして、今現在の若者達を取り巻いている危機的状況に、遙か以前からぶち当たって来ました。 ≪ひきこもり≫という言葉が生まれる前に、ひきこもってましたし、人材派遣にいて、≪派遣切り≫も喰らいました。 そんなこんなで得た教訓はといえば、

「人生は、生きているだけでも充分なのであって、金持ちになろうとしたり、高い地位に着こうとしたり、有名人になろうとしたり、社会に影響を与えようとしたり、そんな大それた望みは、百害あって一利無い病的欲望に過ぎないのだ。 安定第一。 平穏これすべて。 他人を蹴落とすなど以ての外! そんな生き方は、罪でこそあれ、誉れである事があろうか?(いや、あるはずがない) 飯が食えて、住む所があって、暑さ寒さを凌げるだけの服を持っていれば、それ以上何を望まん」

  というものでした。 以来、それに従って生きて来た次第。 忘れもしないですね、24歳の年の2月の、ある土曜日です。 その頃、私は専門学校に通う身だったんですが、修学に二年かかる内の一年が過ぎようとしていた時で、勉強の成果が全く感じられず、もう一年続けるべきか、やめて就職すべきか大いに悩んでいました。 そんな時に、新聞の折込チラシに、今勤めている会社の中途社員募集の広告が出ていたのです。 バブルが始まりかけた頃でして、ほんの一・二年前なら絶対に中途採用などしなかった大手製造業が、人を掻き集めていたんですな。 高卒以上という以外に、何の条件もありませんでした。

  その前日まで、勉強を続ける気でいた私ですが、その広告を見て、天啓を受けたような気分になりました。 神様が、いや、お天道様でもいいですが、私に向かって言っているように思えたのです。

「おまえは、何をやっているのだね。 いつまで、そんな学校に通っていても、都会で就職などできるわけがないではないか。 お前はもう、フラフラしていられるような年齢ではあるまい。 親だってどんどん歳を取って、いずれはお前の収入を頼らなければならなくなる時が来るだろう。 今のお前の様で、親を養えるのか? 生きていくのに必要なのは、お金なのだ。 夢や妄想など、何の役にも立たんのだよ」

  と・・・。 で、ベッドに仰向けになって考えている内に、頭に血が集まるように、そわそわして来たのです。

「確かに、こんな事をしていてはいけない! 舟に乗り遅れた身なのに、岸で遊んでいる場合ではない。 今、偶然にも世の中の景気が良くなって、本来なら絶対に来ないはずの次の舟が来て、船着場に泊っているのだ。 これに乗らなければ、今後、俺が生きていく道は無い!」

  広告を見てから、ほんの数時間。 更に細かく言うと、気が変わったのは、ほんの一瞬の事です。 あの土曜の午後の、ベットの上での一瞬が無ければ、私は今、生きていなかったでしょう。 「社会の上層に上がろう」という望みを捨て、下流志向に切り替えたわけです。 今私が生きているのは、そのおかげなのです。

  今の会社に入ってからも、出世からは極力遠ざかって生きてきました。 出世という目標が、凄まじいまでに神経をすり減らし、私生活の時間を奪い、人間性を失わせてしまうものだと感じていたからです。 私が、大して適性が無いにも拘らず、今の会社で仕事を続けて来られたのは、欲を出さなかったからだと、自信を持って言えます。

  会社勤めをしていると、「とにかく、上に上がりたくて仕方がない」というタイプの人間を、何人も見ます。 残業があれば必ずやる。 残業が無くても、いつまでも職場に残っている。 休日にまで出勤してくる。 呼ばれもしないのに、上役の会議に出席する。 上司に合わせて趣味を選び、休みの日にも行動を共にする。 中元・歳暮・年賀状・書中見舞いは欠かさず、正月の挨拶にまで出向く。 という具合に、出世に繋がる事なら、およそ何でもやるのです。 冗談じゃないですよ。 そんな思いをして、世間に名も知られていないような会社で少々出世したって、自慢にもなりゃしません。

  出世が思うように行かなくて、辞めてしまう者も多く見て来ました。 自分と同期入社の同僚、もしくは後輩が、自分より先に出世してしまうと、そいつらに頭を下げるのが嫌で、会社を辞めてしまうのです。 くっだらない! そんな事でいちいち辞めていたのでは、長い人生、生きていけるわけがないでしょうが! 馬鹿でねーの? 第一、歳が行ってから、会社をやめてしまって、再就職なんかできるはずがないじゃありませんか。 何考えてんのよ?

  だからさー、同期とか、先輩後輩とか、年上年下とか、そんな事に関係なく、誰とでも、ニュートラルにつきあっていればいいんですよ。 職場で、上下関係を利用して、威張ろうなんて考えているから、いざ後輩に抜かれた時に、立場を失ってしまうのです。 同僚は友達じゃないんだから、他人行儀でいいんです。 最初から全員に、≪さん付け≫しときなさい。 そうすりゃ、何があっても対応できるんだから。 そもそも、人脈を作って、他人よりうまい汁を吸おうなんて心がけが宜しくない。


  下流志向の人生に必要なのは、そんなに多くの要素ではありません。 しかし、上流志向を諦めれば、自動的に得られるというほど、単純でもありません。 最低限の要素は、自分で確保しなければならないのです。 それは、≪住む所≫、≪収入を得る職業≫、≪私生活での生き甲斐≫の三つです。


≪住む所≫
  ホームレスなんてのは、長続きしませんし、とにかく辛いですから、はなから問題外です。 どんなにボロい家でも、住む所は必要です。 親元にいて、相続できる立場にあるなら、そこに居続けるのが一番ですな。 私もそうしています。 実家を出なければならない立場の人は、家にいる間にお金を貯め、自分の家を買うしかありません。 賃貸は駄目です。 どんなに家賃が安くても、収入が細れば、払いきれなくなり、結局、追い出されて、ホームレスになってしまいます。 今、派遣切りや雇い止めを喰らって、援助団体や自治体に縋り付いている人達をよーく見ておく事です。 ああならない為には、自分の家が是が非でも必要なのです。

  固定資産税が高いと、賃貸よりも維持費が高くなってしまいますから、少々交通の便が悪くても、安い物件を探すべきですな。 近くに別荘地などがあれば、一千万円前後で、ボロ家が売りに出ているはずです。 また、狭い家なら、古くからの住宅地でも、安い物件があります。 

  分譲マンションは、諸経費が賃貸アパートと同じくらいかかってしまうから、駄目です。 「マンション住まいは、都会的でカッコいい」という誘惑には決して乗らないように。 その種の欲望は、下流志向とは対極にあるものです。 カッコなんて、どうでもいいのですよ。 いや、カッコを気にするのは、下流志向者にとって、罪悪と知るべきでしょう。 そんな物、腹の足しにもなりません。


≪収入を得る職業≫
  これは、どうしても必要です。 生きて行く為には、働くのは当然です。 ただし、何と言っても下流志向ですから、バイトでも問題はありません。 重要なのは、家から通える範囲内で、仕事を見つける事の方です。 「給料がいいから」という理由で、人材派遣会社に登録してしまうと、あっちこっち行かされる割に、生活費が嵩んで貯金が出来ず、今回の危機のような状況になると、一気にホームレス寸前まで落ちてしまうのです。 家は、本当に大事ですぜ。 生活の根拠地なのですから。 「根無し草の方が、飄々としていてカッコいい」なんて考え方は、今すぐ捨てておしまいなさい。 だから、カッコなんて、どうでもいいんだったら。

  もっとも、正社員になれれば、それに越した事はありません。 家を買うにも、老後に備えて貯金をするにも、収入が多い方がいいに決まってます。 ただし、出世欲は駄目。 残業や休日出勤なども、断れるなら断った方が宜しい。 私生活の時間をしっかり確保するためです。 「出世もする。 私生活も楽しむ」という両面作戦は、時間の関係でも不可能です。 人生に許された時間というのは、無限ではないのです。 たとえば、勤め先で、毎日二時間残業したとすると、家では、風呂入って、飯食って、せいぜいテレビを一時間くらい見たら、後は寝る時間しか残りません。 ドラマの登場人物のように、仕事して、残業して、飲みに行って、彼女とデートして、うち帰って、テレビ見て、ネットやって、ゲームやって・・・・なんて時間があるわきゃないわな。 馬鹿馬鹿しい。

  健康に気をつける上でも、仕事に割く時間とエネルギーを少なくする事は重要です。 体は消耗品でして、酷使すれば、必ず壊れます。 大きな病気や怪我をやったら、予定外の大出費になって、人生計画が大幅に狂う危険性があります。 人間の体って、肉体的・精神的に大きな負担を掛けなければ、そんなに簡単には壊れないものですよ。 仕事で頑張りすぎるのは、一番よくないです。 最も理想的なのは、バイトやパートで、一日四時間くらいだけ働いて、あまった時間は趣味に当てて、心身ともに悠々と暮らす事ですな。 なかなか、そういう所へ持って行くのが難しいのですが。

  ところで、ひきこもりの諸君。 君らは、否も応も無く、下流志向を選ばなければならないわけだが、結局、いつかは働くしかないのだ。 一日も早く、今の生活に見切りをつけて、世に出たまえ。 無理は言わん。 御時世的にも、正社員として就職するのは不可能だから、バイトの口を探しなさい。 過度に恐れる必要はない。 バイト仕事なんてのは、体力さえあれば、中学生でも出来るような簡単な物がほとんどなのだ。 断言するが、能力的に君らに出来ないという事は、あ・り・え・な・い。 分からない事は、上司や先輩が教えてくれる。 仕事とは、そういうものなのだ。 最初から何をするか知っている新入りなど、いるはずがないのだから。 喋るのが苦手なら、黙っておればよい。 仕事さえやっていれば、人付き合いが悪いくらいで、クビになる事はない。 仕事と人付き合いは、全く別個の事なのだ。

  バイトを始めると、親が喜ぶと思うが、油断してはいけない。 親の欲目というのは恐ろしいもので、「バイトが出来るなら、正社員として勤める事も出来るだろう」と、上を狙わせようとする。 そういう要求は、にべもなく無視する事だ。 君らの親は、君らを社会に船出させる事に失敗した、≪負け犬≫だ。 負け犬の言い草に説得力を感じてはいけない。 単に、自分達の世間体の為に、君らを操ろうとしているだけなのだ。 私の経験から言うと、ひきこもりの子供に対して、親ほど無力且つ無能な存在も無い。 糞の役にも立たないのだ。 能無し相手に相談など持ちかけてはいけない。 バイトであっても、とにかく、自分の食い扶持を稼げるようになりさえすれば、こっちのものだ。 誰憚る事無く、堂々と生きていけるのだ。


≪私生活での生き甲斐≫
  これは、主に、趣味の事です。 仕事で頑張らない分、私生活に軸足を置く事になりますから、そちらを充実させる事は重要です。 趣味には個人の好みがありますから、何をやるべしと、ここで指定する事はナンセンスですが、強いてアドバイスできる観点を探すと、とにかく、お金をかけずに楽しめる趣味を開拓する事ですな。

  高価な物のコレクションとか、会費がかかる団体に所属する趣味などは、最初から選ばない方が無難です。 それでなくても、収入が少ないのに、遊びにどしどし使ってしまったのでは、行き詰るのは目に見えています。 ゴルフや釣りなどは、金喰い趣味の典型でして、決して近づいてはいけません。 特に、友人や同僚との付き合いで始めるような趣味が宜しくない。 自分自身で夢中になっているように思えても、それは趣味に夢中になっているのではなく、付き合いに夢中になっているだけなのです。 「道具が増える事が楽しい」など感じるのは、目的を見失っている証拠ですな。 仲間に自慢したくて、新しい道具を次々に買わなければいられなくなってしまうのです。

  齧っては飽き齧っては飽きで、ころころ変えるのもあまりよくありません。 趣味には必ず、初期費用がかかりますから、お金を使わないように注意していても、手を出す対象が増えれば、部屋の中にガラクタがどんどん増える事になります。 一度飽きたら、またいつか再開するという事は、ほとんどありません。 もし再開しても、その時はその時で新しい道具を揃え直すので、またまたガラクタが増える仕儀と相成ります。

  何かを買い続けなければ満足できないというのは、趣味ではなく、買物依存症ですから、要注意。 「これは、買物依存症だな」と自分で思ったら、三ヶ月くらい、無理をしてでも、何も買わないように我慢していれば、いつのまにか執着が無くなって行きます。

  金を使わない趣味の代表は、インターネットですな。 月額固定の通信費と電気代だけですから、どんなにのめりこんでも、出費が比例して増えるという事がありません。 ただし、ネット上で持続する楽しみを見出すのは、結構難しいです。 それは、私が言うまでもなく、これを読んでいる方々は、実体験として知っているでしょう。 たとえネット上でも、他人との付き合いが絡んで来れば、不愉快な事も多いです。 でも、付き合いばかりがネットの利用法ではありません。 工夫して楽しみを見出だす余地は、まだまだあると思います。

  読書は、図書館を利用できる人にとっては無敵の趣味ですが、潔癖症などで、他人が大勢触れた本に抵抗があるという場合、逆に避けた方がよい趣味になります。 図書館が使えなければ、本屋や通販で買うしかありませんが、趣味に重点を置く生活様式で、読書趣味の為に、次々と本を買っていたら、あっという間に破産します。 文庫本でさえ、500円以上する時代ですぜ。 問題外ですな。

  「仕事では出世を目指さないけど、社会には貢献している」などと、ボランティア活動などに首を突っ込む人も多いですが、全く薦めません。 身の程を知るべきです。 下流志向の基本原則は、「他人に迷惑をかけず、最小限のエネルギーだけ使って、人生を充実させる」という点にあるのであって、「他人の為に」、「社会の為に」などと、そんな余力が出るはずがないのです。 それは、ただの見栄です。 いやらしい虚栄心です。 もう、スケベだったらありゃしない!

  人間、慎ましく、自分の人生の始末だけを考えていればいいのです。 他人の捨てたゴミを拾ったりしているから、毎日毎日ムカムカと腹が立ち、喧嘩だの裁判だの、しなくてもいいような争いに巻き込まれるのです。 自分がゴミを捨てないようにするだけで充分。 何の不都合やあらむ。 他人など放って置きなさい。

  ちなみに、ボランティア団体の中にも、競争はあります。 人が二人以上集まれば、必ず上下の力関係が発生するのであって、団体と名の付く集団に、それが無いはずがありません。 ちょっと観察するだけでも、仕切り癖のあるオバサンとか、人に命令するのを自分の仕事だと思っているオヤジなどを、容易に見つける事が出来ると思います。 まったく、いやらしい。 会社と選ぶ所がないではありませんか。

  一たび、下流人生を志したからには、孤独に耐える、否、孤独を愛する事を学ぶべきですな。 別に苦労しなくても、社会人になれば、次第に友人が減って、自然に孤独になって行きます。 30歳過ぎて、まだ、「友達がさあ・・・」なんて事を言ってる方が珍しい。 ちなみに、同僚というのは、友人とは別の種に属する生き物でして、どんなに仲が良くなっても、職場が変わると、瞬間的にただの知人に変わります。

  孤独になるのが怖くて、無理に新しい友人を作ろうとしていると、往々にして、「ちょっと、金貸してくれないかなあ」、「どうして返してくれないんだよ!」といった、修羅場に落ちていくものです。 まあ、友人との別れ方で何が最低だと言って、金の貸し借りで喧嘩別れするほど嫌なものはありませんな。 だけど、そういうものなんですよ。 もし、老境に至るまで、節度がある友人関係を維持できているとしたら、それは、大変稀で、この上なく幸福な事です。


  まあ、下流志向に必要な要素は、こんな所でしょうか。 下流志向は、世の流れであって、批判している方がおかしいです。 上流志向の邪魔をしようというわけではないのですから、放っといて欲しいものですな。 上流志向のあんたらだって、「出世したがるような奴は、強欲で高慢で、人格的に不良品だ」とか、言われたくないだろう? たとえ、それが否定しようが無い事実であっても。 そんなに下流志向を貶めたかったら、自分の子供にでも言っていなさい。 いずれ、子供に刺されて死ぬかもしれないけど。

  あ、ちょっと待った。 子供で思い出しましたが、結婚して、子供を育てたいと思っている人は、若い内から下流志向を目指すのは、やめておいた方がいいと思います。 否が応でも、配偶者という他人と付き合いながら、人生ゲームの駒を進めなければならないので、自分一人の判断で生き方を決めるという事ができなくなってしまうんですな。 子供が出来れば、親としての責任も負う事になりますから、「収入なんて、生きていけるギリギリ分あればいい」というわけにも行かなくなります。

  それと、独り身の下流志向だからといって、「ギリギリの収入でいい」というのも、かなり危険です。 これからの時代は、年金財政が破綻する事が予想されるので、年金無しでも暮らしていけるような備えをしておかなければなりません。 「いよいよ食えなくなったら、死ねばいい」なんて、簡単に思っているのは、そういう状況に追い込まれるまでに、まだまだ余裕がある段階の事でして、いざ、本当に死ななければならない瀬戸際まで来たら、ほい来たと死ねるものではありません。 公営老人ホームの六人部屋に詰め込まれて、養鶏所のブロイラーと大差ない末路を送るか、ホームレス化して野垂れ死にするかが関の山。 金の切れ目が、人間性との切れ目と言ってもいいでしょう。 そうならないためにも、働ける内に、老後の分まで貯金しておくのが正解なのです。