2010/05/30

「沖縄の為」

  普天間基地の移設問題、すったもんだの末、結局、辺野古へ戻って来てしまいましたな。 アホ臭い。 何の為に、延々と紛糾していたのやら。 それでは、自民党の案と変わらないではありませんか。 私、最初から民主党のマニフェストなんぞ、一つも信用していませんでしたが、さすがに、この展開には呆れざるを得ません。

  「最低でも県外」と言っていた人が、同じ口で、「やっぱり、辺野古で」と言えますかね? そりゃあ、あなた、「私は嘘つきです」と公言しているようなものですよ。 ≪綸言汗の如し≫なんぞ、念頭をよぎりもしなかったんでしょうか。 ついでに、引き替え条件のような言い方で、「住民の安全や環境に配慮する」とか何とか、またまた新しく、安請け合いを繰り出したようですが、たった今嘘をついた人間の約束を信用する者がいたら、そちらが馬鹿・間抜けですよ。

  首相、「最低でも県外」と言っていたのを、「できる限り、県外」と言っていたかのように、さりげなく、言葉をすり替えていましたが、そういう、セコいごまかしが通じるような問題でも情況でもありますまい。 去年の衆院選の前から、マス・メディアで、何万回となく、「最低でも」という言葉が流されているのですから、今更、消しようが無いですよ。 「最低でも」と「できる限り」では、片や絶対条件、片や努力目標と、本質的に違う概念なのであって、いくら日本人の論理能力が世界最低レベルでも、その違いが分からない者はいないでしょう。

  そもそも、「最低でも県外」という目標の立て方からして非現実的でして、米軍基地が、騒音・危険・犯罪と、迷惑の塊なのは、日本中に知らない者がいないのですから、引き受ける所が出てくるはずがありません。 一体、どこを当てにして、「最低でも県外」と言っていたのか、これは、首相だけでなく、マニフェストを決めた民主党の面々に、具体的な都道府県名を尋ねてみるべきでしょう。

  で、ごく最近になって、徳之島案が出てきたわけですが、笑っちゃうじゃありませんか。 徳之島は、鹿児島県とはいっても、元は琉球王国の領土ですぜ。 江戸時代初期に島津氏による侵略で薩摩藩の直轄領にされたものの、文化的には江戸時代の終わりまで、琉球文化圏に属していました。 結局、「≪迷惑の塊≫は、異文化圏に押し付けてしまえ」という発想である事に変わりはありません。

  全国知事会議で、大阪府知事が、唯一、受け入れを仄めかすような事を言っていましたが、現実に、あの狭い大阪府に米軍基地がやって来たら、知事は、≪大阪の仇敵≫として、末代まで呪われると思います。 受け入れるなら、自分自身が、基地のすぐ隣に家を建て、死ぬまで、いや、孫子の代まで住む事を、府民に誓うべきですな。 もちろん、誓いを破った時の罰則付きで。

  大阪府知事の発言、面白いので、新聞で分かる限りの事を引用しますと、

「沖縄県などの犠牲の上に、大阪府民は安全をただ乗りしている。 普天間問題がクローズ・アップされ、今がチャンスだ。 小学校の子供ですら、この問題を考えるようになった。 ただ、自治体が動いても、米国から駄目と言われると動けない。 2006年の米軍再編のロード・マップを履行し、政府が第二段階の基地負担軽減という時に話を振って貰えれば、できる限りの事はする。 必要があれば、沖縄の皆さんに、お願いをしに行き、大阪府民として、申し訳ございませんと言いたい」

  他の知事が、挙って、受け入れに難色を示している中で、こう言っているわけですから、大変目立ちます。 大阪府知事のファンの中には、「よく言った。 やはり、この人は芯の通った人だ」と、惚れ直した方々もいた事でしょう。 だけど、この発言の通りに事が進むと、沖縄県にとっては、当面、何の利益も無く、政府の方針が、そのまま通るという事になります。

  「できる限り」というのは、文脈の違いはありますが、努力目標に過ぎないという点で、首相のすり替え発言と同じですな。 「できない」と判断したら、やらないわけだ。 最後の一文には、沖縄県民も、「は~っ・・・」と溜息が出た事でしょう。 さんざん、迷惑を押し付けられて来たのに、この上更に、迷惑を増やす事を、「お願いしに」来るというのです。 「来なくてもいいし、謝ってくれなくてもいいから、基地を引き受けてくれよ」と思ったんじゃないでしょうか。

  誤解が無いように断っておきますが、大阪府知事の意見は、全国の知事の中で、最もマシなものなのです。 他の知事は、「うちは駄目だ!」と、門前払いの一撃で、はねつけているのですから。 そして、最もマシな意見であっても、沖縄県から見れば、呆れてしまうようなものなのです。


  辺野古回帰に激怒した沖縄県民が、「沖縄は日本なのか?」という問いを改めて口にしていましたが、それは、極めて重大、且つ、全ての根本となる問題ですな。 まず、沖縄県民自身が、「自分は日本人なのか、それとも、琉球人なのか」と自問してみるべきでしょう。 これは、他の都道府県へ行ってみて、そこに住んでいる人達と、自分が同じ民族かどうか、感覚的に比べてみれば、よく分かると思います。 たとえば、沖縄には、「ウチナンチュー」と、「ヤマトンチュー」という言い分けがありますが、静岡県民である私は、静岡県民と他都道府県民を区別する言葉を持っていません。

  次に他の都道府県の人達が沖縄をどう見ているか、よーく目を凝らし、使う言葉に注意して、観察してみる事です。 そうすれば、政治家から一般民衆に至るまで、他都道府県民が、沖縄の事を、領土、領海、領空、経済水域としてしか見ていない事が、よーく分かると思います。 それを否定する奴がいたら、そいつは、白々しい嘘つきか、驚くべき無知無教養か、自分で自分の考えている事が分かっていない馬鹿かのどれかです。

  それにつけても、返す返すも残念なのは、米軍占領時代に、≪復帰運動≫をやってしまった事です。 明治政府の皇民化教育で、日本人意識を刷り込まれ続けた結果、親の敵を恩人と思い込むような、歪んだ帰属意識が醸成されてしまったわけですが、当時まだ生々しかった沖縄戦の記憶だけ思い返しても、日本人が全く信用ならない相手だという事は、判断できたと思うのです。 鬼から逃れるために、獣の巣穴に飛び込んだようなもので、結局、鬼はいなくならず、獣が増えただけ。 虻蜂取らずとはこの事です。 復帰運動ではなく、独立運動をやっておけば、現在も未来も、全然違った情況になっていたと思います。

  アメリカから直接独立して、一国を構えていれば、米軍基地をすぐに無くせないまでも、行く行く、中国の勢力拡大を利用して、アメリカと中国の間の緩衝地帯になる事で、米軍の撤退を実現できた可能性は高いのですが、厄介な日本を絡めてしまったために、事が複雑になり、日米同盟がある限り、米軍が居座り続ける情況を固定化してしまいました。

  一旦、日本に戻ってしまったからには、領土と言えば、ただの岩礁でも目の色を変える日本人が、何があろうが手放すはずがないのであって、今後、独立運動などやろうものなら、警察でも、公安でも、自衛隊でも、片っ端から使って、阻止するに決まっています。 ああ、陰険且つ残忍な弾圧の光景が目に浮かぶようだねえ。

  米軍基地の話に戻しますが、今回の一件を見ても分かるように、日本人や日本政府に期待をかけるのは、単なる徒労です。 自民党や、他の政党が政権をとった所で、沖縄に対する見方は変わらないので、米軍基地が無くなる事はありえません。 とにかく、「沖縄の為」とか何とか言って、ああだこうだと能書きを垂れる日本人を信用するのは禁物ですな。 そういう奴がいたら、一言だけ言い返してやればいいのです。 「言葉はいらないから、とにかく、米軍基地を無くしてくれよ」と。 絶対、何もできやしないから。

  そういや、テレビで、作家だか誰だか、いかにも識者という感じの老女が、「沖縄の負担をこれ以上増やしてはいけませんし、他の都道府県で米軍基地を引き受ける所も出て来るはずがありません。 となれば、解決方法は、米軍基地を無くすしかないんです」と、激しく主張していました。 これも一見、沖縄の事を真面目に考えているかのような印象を受けますが、その実、この主張には、「自分の住んでいる所へ持って来られては困る」という憂慮がありありと滲み出ています。 「今までは沖縄に負担をかけていた。 だから、これからは、自分の住んでいる所で、負担を引き受ける」とは、決して言わないのです。


  沖縄の事は一旦おくとして、今回の一件で、つくづく痛感したのは、日本とアメリカの関係が、対等には程遠いという、厳然たる事実ですな。 アメリカが、普天間基地の国外移設や県外移設に何の興味も示さず、「辺野古案が最適」という主張を頑として曲げなかったのは、背筋が寒くなるほど冷厳な態度でした。 最初から、鳩山政権の提案など全く聞く気が無かったのは明白で、彼我の力関係の現実をまざまざと見せつけられた感があります。 当然の事ながら、現在のアメリカは、あのオバマ政権なのですが、会った事も無いくせに駄洒落で親しんだつもりでいた小浜市民などは、あまりの頑なさ・冷たさに震え上がったのではないでしょうか。

  アメリカ側にしてみれば、今回の鳩山政権の提案は、飼い犬が手を噛もうと挑んで来たようなものであり、甘い顔など見せれば、図に乗って、主人を振り回すような真似をし出しかねないので、ピシャリとやっつけた、というところでしょうか。 同盟国とはいうものの、もとより対等ではなく、確実に上下はあるのであって、しかも、アメリカの方が日本より、ずーーーっと上に位置している、というのが、アメリカの認識なのです。 実は、私も、これほどとは思っていなかったので、今回改めて、自分の国が属国である事を再認識させられました。

  そういえば、よく、週刊誌の政治記事の見出しなどに、「アメリカの属国、日本」などという表現があり、あれは、皮肉で書いていると思われるわけですが、実は皮肉でもなんでもなく、軍事的には、本当に、完全な属国なんですな。 政治的、つまり、外交上も、準属国と言っていいでしょう。 すなわち、日本は、アメリカの世界戦略に沿った行動しか取れないのであって、アメリカが、「そこに必要」と判断した基地を、日本の都合だけで移設する事など、到底、許されないわけだ。

「何言ってんだ、おまえ。 寝ぼけてんのか? 政権交代のマニフェスト? そんなの俺の知った事か。 俺に何の断りも無く、お前が勝手に決めたんだろうが。 大体、おまえ、そーゆー事を言える立場か? いつから、そんなに偉くなった? えーおい、こら、ああん!」

  という感じですかね。 しかし、こういう関係は、今に始まった事ではなく、戦後65年間ずっと続いて来たわけで、民主党が、アメリカの反応を甘く考えていたのは、むしろ、意外な感じがします。 別に、民主党は、万年与党の外交音痴だったわけではなく、幹部の大半は、自民党から分かれた、元与党の人達なのですから、アメリカと日本の関係がどんなものなのか、知らないわけではなかったと思うのですがね。

2010/05/23

2010年・春の読書

またぞろ、読んだ本が溜まって来たので、そろそろ感想文を。 自分で言うと、大変いやらしいですが、よくもまあ、会社の休み時間だけで、これだけ読めるものだと思います。 こんな事なら、就職してから、ずっと読んでおけば、今頃、桁違いの博学になっていたものを…。 もっとも、速読という技能がありますが、あれを身につけた人で、学識で高名になった例を一つも聞いた事が無いですから、本を読むだけで到達できるレベルには限界があるわけですが。 ちなみに、私は、家ではほとんど読書をしません。 テレビとネットだけで時間が満杯だからです。




≪戦う荒鷲たち 上≫
  これは、ハヤカワ文庫の一冊。 かなり前に、本屋で平積みになっているのを見て、パラパラと捲ってみた事があったのですが、先日、図書館にあるのを見つけ、衝動借りして来ました。 で、読んでみたんですが、大変な期待外れ。 戦記物といっても、所詮、小説はフィクションですな。 ここのところ、本格的な戦史ドキュメンタリーを続けて読んでいたので、こんな軽薄な内容では、全く食い足りません。

  話の中身は、第二次世界大戦中の、アメリカとドイツの戦闘機開発競争を描いたもの。 一種の群像劇で、主人公は決まっていません。 アメリカ人達の出番が一番多く、次がドイツ人、ソ連人、スエーデン人と続き、日本人も山本五十六がちょこっと出て来ます。 開発者がパイロットを兼ねていて、開発の合間に、戦場へ出撃していくという、相当には御都合主義の設定。 しかも、アメリカとドイツ両方の登場人物が、揃ってそんな活動をしているのです。 現実には、およそありえませんな。

  作者がアメリカ人なので致し方ないところですが、文学としてのレベルは非常に低いです。 人間を描く事が、まるっきり出来ていません。 特に、女性絡みの場面は陳腐で、戦記物に恋愛物が混じっているような、珍妙な描写になっています。

  ただ、空中戦の戦闘場面だけは、面白いです。 たぶん、作者が最も描きたかったのはそこなんでしょう。 敵も味方も、偏り無くバタバタ死んで行き、血も涙も無いリアリズムが活きています。




≪戦う荒鷲たち 下≫
  これは、下巻。 上巻を読んで、がっかりしたので、下巻はパスしようかと思ったんですが、途中まで読んでやめると、気に掛かって、却って記憶に残ってしまうので、一応全部読んでから、綺麗さっぱり忘れる事にしました。

  内容は、上巻と同じようなパターンですが、戦争も後半になるので、主要登場人物が、ちらほら戦死します。 ラストは、アメリカとドイツの戦闘機開発者同士が、輸送機で空中戦をやるという、ますますありえねー展開。 発想的には、アニメ・レベルですが、考えてみれば、アメリカ映画、≪パールハーバー≫なども、この種のアホ臭いラストがくっ付いてましたな。

  女性の主要登場人物が、ナチスに捕まるのですが、収容所へ送られる列車内で、見張りを殺し、乗せられていたユダヤ人達を解放して、自分も逃げます。 空中戦の描写以外では、その部分だけ手に汗握ります。 でも、この場面も、第二次大戦物のアメリカ映画で、何度も見たような気がせんでもなし。




≪心病める人たち≫
  統合失調症(旧精神分裂病)について知りたくなり、この本を借りて来たんですが、些かお門違いで、これは、精神病について書かれた本ではなく、精神医療をテーマにしたものでした。 しかも、随分前に一度借りていた事が、冒頭を読んでから判明しました。 何とも迂闊な話。 でも、覚えていたのは、その冒頭部だけで、それ以外は、まるで記憶無し。 どうなっとるんじゃ、私の記憶は?  

  出版されたのは1990年なので、最も新しくても、もう20年前の状況ですが、日本の精神医療というのは、非常に遅れているのだそうです。 戦前までは、精神病院が非常に少なくて、患者は、よほど悪くならない限り病院には掛からず、一般社会に溶け込んで暮らしていたのだとか。 それが戦後になると、補助金目当てに精神病院が乱立し、ちょっとでもおかしい所がある人間を片っ端からブチ込んで、退院されちゃ困るもんだから、治療もせんと閉じ込めていたのだそうです。 しかも、寿司詰めで。

  この本の著者は、そんな状況の頃に、精神科医として病院に勤め始め、やがて、「これではいかんな」と独立して、開放病棟を基本にした新しい精神病院を立ち上げます。 この病院の運営方針が面白くて、近隣住民を呼び入れて盛大にお祭りをやったり、地下にディスコを作ったり、よくもこれだけ思いつくと思うくらい、様々なアイデアを実践します。 病院に長く居ついてしまう患者を減らす為に、普通の住宅地に家を借りて、患者の共同住居にし、自立を促す取り組みも興味深いです。

  精神病の患者というのは、辺り構わず騒ぎまくるようなイメージがあったんですが、そういう症状は、出たとしてもごく短期間で、治療を始めるとすぐに覚め、大部分の時間は、むしろ陰陰滅滅とした気分で暮らしているのだそうです。 他人に危害を加える事より、当人が自殺しないか、そちらの方が問題なのだとか。 「精神病患者の心には、必ずまともな部分が残っていて、医師と会話が成立するからこそ、治療が成り立つのだ」という説明には、目から鱗が落ちた思いぞします。 なるほど、確かにその通りだ。

  少々古くなったとはいえ、文句無しに面白い本です。 どうして、私が昔読んだ時、冒頭部分しか記憶に残らなかったのか、それが不思議です。




≪精神病≫
  これは、そのものズバリの書名ですな。 今度こそ、統合失調症について詳しい事が分かるかと思ったんですが、またまた期待外れ。 症例は片手で数える程度しか載っておらず、やはり、精神医療制度に関する記述にウエイトが置かれていました。 思うに、日本の精神科医というのは、出版社から、「本を書きませんか」と持ちかけられると、自分が世間に知らせたい事を最優先でテーマに選びたがり、世間が知りたい事が何なのかは、念頭に浮かばないのではありますまいか。

  ただ、≪心病める人たち≫よりは、内容が総合的なので、病気に関して大体の事なら分かります。 「こういう症状は、統合失調症である」という例がいくつか載っていますが、自分自身が当て嵌まる項目を見つけてしまい、大いにうろたえました。 いや、たぶん、誰でも、一つや二つ当て嵌まるとは思うんですがね。

  一旦、「自分は統合失調症なのでは?」と疑い始めると、やる事なす事、「何か、変な事をしてるんじゃなかろうか」と、不安に襲われて困ります。 「統合失調症患者は、自分がおかしいとは思っていない」というのは、必ずしも正しくはないそうで、確かに、自分の異常を認めない患者もいるらしいのですが、認めていて、自分から病院にやってくる人もたくさんいるのだとか。 そりゃ、そうですわな。 自分はおかしくないと思っている人間が、たとえ家族からであっても、「お前、おかしいぞ」と言われて、「はい、そうですか」と、ほいほい病院に行くわけがありません。 自分でもおかしいと思っているからこそ、行くのです。

  いくつか出ている症例の部分は、大変興味深いです。 精神病の特徴的症状に、≪妄想≫があるらしいのですが、「自分は見張られている」と医師に訴える患者が多いのだとか。 ≪妄想≫と≪空想≫の違いですが、≪空想≫は、いくら膨らませても、自分でそれが空想である事を承知しているのに対し、≪妄想≫では、自分で、その空想を真実だと思い込んでしまう点にあるんですな。 これは怖いわ。 だけどねえ、ネット上を見ると、結構そういう人多いですよね。 公共掲示板とか、オンライン百科事典とか、特に。 やばいっすねー。 そりゃー、要通院ですぜ。 今は、いい薬があるそうですよ。

  統合失調症ですが、世界的に、時代の流れとして、症状が軽くなる傾向があるのだそうです。 つまり、文明が発達し、社会が複雑化してくると、それに対応できずに、精神に異常を来たすと見られるわけですな。 それが証拠に、未開社会では、統合失調症は見られないのだとか。 で、現代社会のどういう変化が影響したのか分かりませんが、19世紀から20世紀にかけて多かった悪化例が、最近は減って来ているのだそうです。

  統合失調症の病理学的原因はつきとめられておらず、他者との関係がうまく築けないために、異常な行動パターンが醸成されてしまうという見方が主流になっているのだとか。 遺伝も若干関係しているようですが、今は、主要な原因とは考えられていないのだそうです。

  まあ、いろいろと勉強になる本ですよ。 「自分も患者では?」という落とし穴に注意さえすればね。




≪ジャーナリズムの可能性≫
  通信社に勤めて、戦後日本の報道業界を観察して来た著者が、ジャーナリズムの現状に対して述べた、苦言の書。 かなり濃い内容で、具体的事例を挙げつつ、ど真ん中全力投球の書き方をしています。 恐らく、新聞・雑誌の記者や、テレビの報道部の人間は、全員この本を読んでいるんじゃないでしょうか。 上司から読めといわれなくても、気になって仕方ありますまい。

  ただ、そんな、≪バイブル視≫は、あくまで、報道業界内部での話でして、こちとら、部外者なので、ズケズケ批判させてもらいますと、この著者は、根本的な所で思い違いをしています。 「国家権力を監視し、批判的な立場を取るのが、ジャーナリズムに課せられた使命だ」というような事を言っているのですが、そんな使命は、全然、まるっきり、課せられていないと思います。 というか、一政権が永遠に続くのでもなければ、そんな事は、実行不能でしょう。 

  たとえば、ある政権が増税政策を打ち出し、それをジャーナリズムが批判したとします。 ところが、政権交代して、別の政権が誕生し、増税政策を取り消したら、ジャーナリズムは、その取り消しにも反対するんでしょうか。 常に時の政権に対して批判的立場を取るとしたら、自分達の主張に矛盾が発生するのは避けられますまい。

  報道にとって一番大切なのは、≪政権の監視・批判≫よりも、≪客観性≫だと思うのですが、それについてはほとんど触れられていません。 どうも、この著者は、軍部の御用新聞・御用放送と化してしまった戦前の報道に対する反省を何よりも重視し、ジャーナリズムのあるべき姿を規定したようなのですが、「ジャーナリズムによる権力の監視で、戦争を防ぐ事が出来る」という理念は分かるものの、報道機関が報道を道具として使ったのでは、やはり、まずいでしょう。 「こういう情報があるから、こう判断せよ」と、そこまで指示してしまったら、それはもう、報道機関ではなく、≪影の政権≫になってしまうではありませんか。

  報道の役目は、情報を客観的に伝える事であり、その情報から何をどう判断するかは、情報の受け手に委ねるのが本筋でしょう。 報道関係者に影響力が強いと思われる本だけに、根本的な思い違いが広まってしまうとしたら、恐ろしい事です。


  今回は、以上、5冊まで。 回を追うごとに冊数が減っていますが、回を追うごとに感想文が長くなる傾向があるので、このくらいで充分、というか、このくらいで、うんざりなんじゃないかと思いまして。

2010/05/16

トリック

  ≪トリック≫が10周年だそうで、映画とドラマの新作が作られた上に、スピン・オフ・ドラマまで放送されて、かなり盛り上がっています。 いや、世間が盛り上がっているかどうかは分かりませんが、≪トリック≫のファンだった人達は、たぶん、盛り上がっていると思うのです。 私もその一人で、かなり盛り上がっています。 もっとも、ケチなので、映画を見に劇場へ行くような事はしないわけですが。

  盛り上がっていて、こんな事を言うのもなんですが、≪10周年≫という言い方はよいとして、「10年続いた」というのは、どんなもんですかねえ。 年表にして、並べてみますと、

2000年 ≪トリック1≫
2001年
2002年 ≪トリック2≫、≪劇場版1≫
2003年 ≪トリック3≫
2004年
2005年 ≪新作スペシャル1≫
2006年 ≪劇場版2≫
2007年
2008年
2009年
2010年 ≪劇場版3≫、≪新作スペシャル2≫

  という事になり、結構な虫食い状態。 特に、≪劇場版2≫は、2006年とはいうものの、実際に撮影されたのは≪新作スペシャル1≫と同じ、2005年だと思われ、制作年で見ると、今年復活するまでに、5年近く空いている事になります。 10年の歴史で、5年も空白期間があったとなれば、「続いた」というのは、表現に問題が無きにしも非ず。

  私は、確かにファンなんですが、最初から見ていたわけではなくて、2003年に、≪トリック3≫と、≪劇場版1≫のテレビ放送があったのを見て、「お、なんだ! こんな面白いドラマがあったのか!」と驚き、それから遡って、レンタルで借りたり、テレビでの再放送を見たりして、≪トリック1≫と、≪トリック2≫を見たという順序です。 最初のテレビ・シリーズ二本は、深夜ドラマ枠でしたから、その頃から見ていた人というのは、そんなに多くはありますまい。

  更に、細かく言いますと、≪トリック1≫は、DVDを借りて来て、ビデオにダビングできたのですが、≪トリック2≫になると、コピー・プロテクトが入ったらしく、私の持っているデッキではダビングできなくなってしまいました。 ダビングどころか、ビデオ・デッキを通すと、映像がまともに映らない有様。 その後、DVDプレーヤーからテレビに直結すれば、見るだけは見れる事が分かりましたが、ダビングできない事に変わりはなく、一気に借りる気を無くし、第一話≪六つ墓村≫だけ見て、他は見ませんでした。

  それから、三年くらいして、また見たくなり、第二話≪絶対当たる占い≫と第三話≪ゾーン≫を借りて来たんですが、それらがあまり面白くない話でして、またまた見る気を無くし、うっちゃらかしになりました。 更に暫くして、たまたまテレビで再放送をしていた、第五話≪妖術使い≫の後半だけ見たのですが、面白いとは思ったものの、「どうせ、DVDを借りて来ても、ダビングできないしなあ」と思って、前半は見ずじまい。 そんな状態で、今年まで至りました。

  それが今回、≪トリック大感謝祭≫をやってくれたおかげで、テレビで、第三話≪ゾーン≫と第四話≪御告者≫を録画する事に成功しました。 待てば海路の日和ありですな。 調子に乗って、≪妖術使い≫も、放送してくれるかと期待していたんですが、それは今のところ叶っていません。 やはり、面白そうな回は、簡単には見せてくれないのか・・・。

  今年分を除いて計算しますと、≪トリック≫の話数は、各テレビ・シリーズで5話ずつ、劇場版が2話、新作スペが1話で、計18話ある事になります。 普通は2時間、長い物は3時間、短い物では、1時間というのが一話だけ。 私個人的に、ランキングをつけますと、ベスト5は、

1 闇十郎(トリック3)
2 六つ墓村(トリック2)
3 劇場版1
4 劇場版2
5 スリット美香子(トリック3)

  といったところでしょうか。 ほぼ全部、≪村舞台物≫になりますな。 ≪トリック≫には、大きく分けて、≪街舞台物≫と≪村舞台物≫がありますが、≪街≫の方は、胡散臭い雰囲気ばかり強くて、今一つ、好きになれません。 ≪村≫の方は、横溝正史作品の雰囲気に近ければ近いほど面白く、単に村が舞台というだけだと、あまり笑えません。

  ≪闇十郎≫は、ダントツに良く、代表作にしてもよいくらいではないかと思います。 三姉妹の妖しい雰囲気といい、亀山歌の使い方といい、ストーリーの構成といい、「文句のつけようが無い」などという評し方では失礼なくらいで、心底感服仕る完成度の高さ。 いろいろと制約があるテレビ・シリーズの中で、こういう作品ができたというのは、奇跡に近いですな。

  ≪六つ墓村≫も同じくらい、凝りに凝っていて、見応え十二分だと思います。 未だに、いの一番に思い出すのが、「ご・じつだん」のギャグで、まーあ、よく思いついたものだと、感心します。 ≪劇場版≫の二本は、時間も金もかかっているので、面白くなって当然という、堂々たる出来映え。 ≪スリット美香子≫は、村の博物館が主な舞台という、少し風変わりな雰囲気が好きです。 ただ、今後、≪妖術使い≫を全部見る事ができたら、5位は入れ替わるかもしれません。

  一方、ワースト5はというと、

1 新作スペシャル1
2 母の泉(トリック1)
3 黒門島(トリック1)
4 絶対死なない老人ホーム(トリック3)
5 絶対当たる占い(トリック2)

  というところ。 ≪新作スペシャル1≫は、おそらく、≪劇場版2≫の時に、スタッフを再結集したついでに撮ったと思われる話で、どう見ても、どこを見ても、やっつけ仕事。 ダラダラと2時間近い長さなのに、笑える所が一箇所しかありません。 しかも、山田が上田にトイレの水を引っ掛けられて、仲間さんがマジで悲鳴を上げるという、偶然発生した場面だけ。 作為的に盛り込まれた小ネタの、ほとんど全てがスベっているという、記録的なつまらなさ。 これを見た時には、呆れてしまい、「こりゃ、堤監督も、いよいよ枯れたか」と嘆いたくらいですが、その後、ほぼ同じ時に作られた≪劇場版2≫を見たら、充分面白かったので、「コメディーの面白さは、演出家によって決まるわけではないんだなあ」と思った次第です。

  当然の事ながら、≪トリック≫の世界は、堤監督がいなければ生まれなかったわけですが、では、堤監督が演出している回がすべて良いかというと、そんな事は無いのであって、ワーストの方にも、堤作品が上位を占めています。 「つまらないはずはない」と思って、見始めるんですが、どうにも面白くなく、何度見返しても、やはり、面白くない。 脚本が悪い時は、気が乗らないんでしょうかねえ。

  で、脚本家も、何人かが各話を別々に担当しているわけですが、メインである蒔田さんの時なら、確実に面白いかというと、そうでもないのであって、何が原因で面白い話と面白くない話ができるのかは、はっきり分かりません。 原作が無い映像作品の面白さは、脚本と演出という、二つの要素で決まるわけですが、自作パソコン風に表現すると、「相性が悪かった」というような事でしょうかねえ。

  ちなみに、ごっちゃにしている人もいると思いますが、「ストーリーが面白い」というのと、「小ネタ・ギャグが面白い」というのは、全然別の事でして、前者は主に脚本家の領分、後者は主に演出家の領分になります。 演出家、つまり、普通は監督ですが、監督の権限で、現場でストーリーを変えてしまうのは、かなり難しいでしょう。 なぜというに、脚本を元にして撮影スケジュールを組んであるので、ストーリーを途中で変えると、ありとあらゆる予定が狂ってしまうからです。 時間にゆとりがある映画では、割とよく、途中変更が行なわれますが、撮ってすぐに放送しなければならないドラマでは、そういう事は、ほとんど無いと思います。

  も一つ、ちなみに、コメディー・ドラマに於いて、俳優さんの資質というのは、それほど大きな役割を果たさないようです。 それまで、コメディーなんぞ一回もやった事が無いばかりか、洒落の一つも思いついた事が無い、コチコチ頭の役者さんでも、面白いセリフを与えられて、面白くなるような演出を受ければ、ちゃんと、面白いキャラを演じる事ができます。 逆に言うと、役の上のキャラがどんなに面白くても、その役者さん本人が面白いわけではないので、錯覚しないように注意が必要ですな。

  映画や新番組の宣伝で、俳優さんがトーク番組に出て来る事がよくありますが、役柄では面白いのに、普通に話をすると全然面白くないという人がたくさんいます。 また、売れっ子で、次から次へひっきり無しに、たくさんの作品に出ている役者さんの場合、当人の地のキャラが摩滅してしまっているようなケースすら見られます。 あまりにも多くの別人格を演じすぎたため、自分がどんな人間なのか分からなくなってしまったのでしょう。 俳優さんにあまり熱を上げると、後で肩透かしを喰らう事が多いのは、悲しい事ですな。

  一般論はさておき、仲間さんと阿部さんは、≪トリック≫には足を向けて寝られないでしょうねえ。 仲間さんの場合、≪ごくせん≫の方が代表作で、ファンがより一般的ですが、そもそも、≪トリック≫をやっていなければ、コメディー・ドラマの主演ができる女優として認知されなかったと思うので、≪ごくせん≫の話も来なかったでしょう。 阿部さんは、キャリアがずっと長いですが、やはり、≪トリック≫をやってから、注目度が急に高まったような気がします。


  で、≪大感謝祭≫のおかげで、何かと話題の≪トリック≫なわけですが、実のところ、このドラマ、老若男女全般に人気があるわけではなく、ファンとなると、特定の世代に限られています。 大体、30歳前後から、50歳くらいまでですかね。 それ以上の年齢になると、この種のコメディーは、「馬鹿馬鹿しい」の一言で片付けてしまい、たとえ見る事があっても、嵌ったりはしません。 それ以下の年齢だと、「自分達の世代のドラマではない」と見做しているようです。

  30歳前後という年齢は、レギュラー最年少の仲間さんと、ほぼ同世代という意味です。 これが、25歳くらいから見ると、山田奈緒子はもはや、「売れないけど、頭が切れる、可愛いマジシャン」ではなく、ただの、「オバさん」になってしまうのです。 オバさんが何をやっていても、興味を持てないのは、無理からぬ事。

  そういえば、今から7年くらい前、≪トリック3≫が放送されていた頃、20代半ばの女性と、ネット上で、≪トリック≫について話をした事があるんですが、彼女の年齢から見ると、阿部さんは、ただのオジさんであり、ファンになるような対象ではないとの事でした。 ちなみに、当時、彼女が夢中になっていたのは、岡田准一さん。 残酷ですけど、年齢層の違いというのは、厳として存在するんですねえ。

  そういうわけで、≪トリック≫は、30~50歳くらいの人の間で、≪密かに≫人気があるという、割と地味なドラマなんですな。 ≪トリック≫が名作だから10年続いたというより、≪トリック≫を超えるコメディーが、10年間作られなかったために、またまた引っ張り出されたという事なんじゃないでしょうか。 蒔田さんが脚本を書いた、≪パズル≫という類似品もありましたが、キャラの設定が雑で、≪トリック≫には、とても及びませんでした。

  コメディー・ドラマという奴、≪フルハウス≫のようなアメリカの作品を見ていると、無限に作れるような気もするのですが、あれは、一定のパターンを視聴者に気づかれないように何度も繰り返しているからこそできる業なんでしょうなあ。 日本では、ジョークの習慣が無いためか、笑い話の範型が少なく、脚本家や演出家の個人的才能に頼らざるを得ないので、すぐにネタが尽きてしまうのだと思われます。

  ≪トリック≫のテレビ・シリーズを、毎年やって欲しいと願っているファンは多いと思いますが、そんなに作った日には、あっという間にネタ切れして、目も当てられないような低レベルな作品に堕ちるのは必至。 限界は、とうの昔に見えていたわけだ。 堤さんや蒔田さんも、それを百も承知しているから、作り過ぎないようにしているのでしょう。

  コメディーといえば、今回、≪劇場版3≫と≪新作スペ2≫の宣伝の為に、スピン・オフで作られたドラマ、≪警部補 矢部謙三≫ですが、これを見ると、面白いコメディーを作るのが、いかに難しいかが分かります。 ≪トリック≫のスピン・オフですから、関連ネタのパロディーが使いたい放題であるにも拘わらず、ほとんど活かせていません。 第四話のように、目眩がするほどつまらなかった回もあります。 というか、第四話は、コメディーとは言えませんな、ありゃ。 その前の第三話は、かなり面白かったのですが、第三話と第四話で、演出家が同じ人だから、また分からなくなります。

  ≪トリック≫に話を戻しますが、面白いとは言っても、あくまで、日本国内限定でして、外国へ売ろうとすると、言葉の壁を越えられないと思います。 駄洒落を使った小ネタなど、訳しようがないですからのう。 あの名作、≪闇十郎≫も、外国語人には、面白さが半分も伝わりますまい。 コメディーが難しい事と、言葉遊びに頼らないアメリカのコメディーが、いかによく出来ているかを痛感させられるところです。


  と、ここまでが、5月15日土曜日の、昼間に書いた部分です。 その後、夜の9時から、≪トリック 新作スペシャル2≫が放送されたので、その感想も書き加えておきます。


≪トリック 新作スペシャル2≫
  うむむむむむ・・・・、久々の新作だったので、期待が大き過ぎたためか、些か肩透かしを喰らいました。 2005年の≪新作スペシャル1≫のような、手抜き・やっつけのスカ作品とは異なり、ストーリーもロケ地も配役も凝っているんですが、小ネタ・ギャグの散布濃度が低いためか、全編に渡って間延びした雰囲気があり、欠伸を抑え切れなくなるという、≪トリック≫らしからぬ、緊張感の不足が顕著でした。 ストーリーが推理物に傾き過ぎていて、馬鹿馬鹿しさがほとんど感じられず、ありふれた2時間サスペンスを見ているかのように思えてしまったのも、残念なところです。

  ストーリーは、≪悪魔の手毬歌≫そのままで、それはまあいいんですが、パロディーにして笑いを取るべきところを、まるっきりそのままなぞってしまっていて、捻りも工夫も無し。 特に後半はそれが甚だしく、これでは、単なる盗作ですな。 訴えられるような事はないと思いますが。 謎解きに入ると、≪山田・上田 対 犯人≫という対立軸が消えてしまい、犯人の一人芝居のようになって、山田と上田の存在感がどこかへすっとんでしまいます。 なんとも、≪トリック≫らしくない話。

  良かった点を挙げますと、やはり、浅野ゆう子さんが最高ですな。 ストーリー上、メーテルである必然性は全く無いにも拘らず、あの格好が大変良く似合う。 堤監督の作品らしく、脇役の女優陣に、はっとするような美女を惜し気もなく揃えているのも、心憎い。

  ロケ地の村が凄い所で、よほど裕福な土地だったんでしょう、豪農か庄屋か知りませんが、巨大な伝統建築が出るわ出るわ。 舞台が、あまりにも素晴らしすぎて、≪ロケ地負け≫を起こしたようにすら見えます。 CGで、富士山を並べた背景も、日本離れした雄大さが感じられて、面白かったです。

2010/05/09

捨てられない

  部屋に物が増える一方です。 いや、今に始まった事ではなく、かれこれ15年くらい、買った物を捨てられない生活が続いているので、累積に累積を重ね、ガラクタとゴミの巣と化しつつあるわけですな。

  私は、自他共に認める、≪筋金入りのケチ≫なので、一般平均と比べれば、買っている物は少ない方だと思います。 特に、後々、形になって残る物となると、年に1・2万円分くらいしか買いません。 であるにも拘わらず、じわじわと増えて行き、部屋はどんどん狭くなって行きます。

  普段、使う物ならば、いくら増えても、別に気になりませんが、現実には、そうではないから困ります。 買う時には当然、「使う」と思って買うわけですが、しばらく使うと、飽きるのです。 飽きると見向きもしなくなるので、ただの物体になり、使われない物体が長く部屋の空間を占拠していると、やがて始末に困る邪魔物となっていくわけです。

  とりわけ、コレクョンのつもりで買い集めた物というのは、ある段階を過ぎると、団扇の表と裏を引っ繰り返すように、鮮やかに飽きます。 しかも、割と下らない理由で壁に突き当たる。 たとえば、一定の値段以下で買える物を買い尽くしてしまって、それ以上コレクションを増やす為には、当初予定していた予算をオーバーしてしまう事態に至った場合、巻ききったゼンマイが、ぷつんと切れるように、「ああ、もういいや」と、諦めてしまいます。 そして、それ以上は増やせないのだと自覚した瞬間、それまでに揃えたコレクションにも、価値を感じられなくなってしまうのです。

  置き場所が無くなる、というケースも多いです。 何か物を集める場合、それを陳列、もしくは、収納する場所が必要になるわけですが、部屋の容積には限りがあるので、ある程度以上は、場所を確保できなくなります。 そして、「これ以上は、置き場所が無い」と悟った途端、これまた、「ああ、もういいや」になり、それまでに揃えたコレクションも、ゴミにしか見えなくなるのです。

  考えてみれば、凄い話です。 それまで、この世で最も価値がある物、それさえ手に入れば、幸福になること疑いなしと信じて来た物が、限界点を超えた途端、一気にゴミにまで価値が落ちてしまうのです。 人間が物に与えている価値というものが、いかに不確かな基準で計られているかが、よく分かります。

  買い物依存症の人が、買う行為だけに喜びを感じ、買った物は、袋のまま押入れに放り込んであるという話をよく聞きますが、彼らの場合、支払いを済ませた時点で、価値の分水嶺を越えてしまうのでしょうな。 ほんの数分早く、切り替わりが起これば、何百万、何千万というお金を失わなくて済むのに、何とも残酷な精神疾患があったものです。


  私の場合、大概の物は、買ってもすぐに飽きるのですから、「いっそ、最初から買わなければいいのではないか」と、時折、真剣に思う事があります。 しかし、これは、考え方の順序が逆で、買いたいと思う衝動が起こるからこそ買うのであって、最初から買わないで済むのなら、そもそも、問題など起こらないわけです。 これは、「鶏と卵、どっちが先か」などという微笑ましい問題ではなく、「人生はつらい事ばかりだから」と言いながら、生まれたばかりの赤ん坊を絞め殺す行為に通じる、危険性を孕んだ考え方です。「何かしたい」と思う気持ちがあるから生きていられるのであって、それを最初から潰してしまったのでは、もはや、人生とは言えますまい。

  しかし、現実問題として、私の部屋のゴミ・ガラクタは増え続けているのですから、その増殖速度を抑える努力は必要でしょうな。 唯一の解決方法は、新しく増えた分、古い物を捨てて行く事でしょう。 ところが、それが、私にはできないんですわ。

  ケチな性格なので、お金を出して買った物を、ゴミとして処分する事ができないという事情もありますが、それ以上に障碍になっているのは、過去の記憶と結びついた物を捨てる事への恐怖感です。 私は、15年ほど前、ある出来事で精神的に参ってしまった事があり、それまでの人生に価値を感じられなくなって、部屋にあったものを、3分の1くらい、一遍に捨ててしまいました。 その時は、「清々した」と思っていたのですが、数年経ってから、「あれ? あの時に買ったあれは、どこにしまったかな?」と探してみて、捨ててしまった事に気づき、愕然とする事が多くなりました。

  特に、今でも後悔頻りなのは、カメラの外付けストロボでして、中学の時にレンジ・ファインダーのカメラと一緒に買ってもらって、どこかへしまっておいたはずなのですが、13年くらい前に、写真趣味を再開した時、部屋中探し回ったにも拘らず、見つけられなかったのです。 ほぼ間違いなく、15年前の、≪大処分≫の時に、「こんな物、もう使わない」と思って、捨ててしまったんですな。 全く、悔しい。 今思い出しても地団駄踏みたくなります。

  リコーダーも、そうです。 小学校の時のソプラノと、中学の時のアルト、二本あったはずなんですが、これも、5年ほど前に、リコーダーを吹き始めた時、押入れから天井裏まで探して回ったんですが、見つかりませんでした。 ≪大処分≫の犠牲者だったに違いありません。 更に腹立たしいのは、捨てた時の事を覚えていない点です。 その時の気分で、ろくに考えもせず、過去を否定したいばっかりに、片っ端からホイホイ、ゴミ袋に放り込んでしまったに違いありません。 なんて、愚かな事を・・・。

  つまりねえ、同じ一人の人間であっても、考え方、感じ方、価値観は、ころころ変化するんですよ。 今日の自分と明日の自分は、別人だと言ってもいいです。 その一時だけの思い込みで、将来、利益になるか不利益になるか分からない事を判断してしまうのは、未来の自分に対する無責任な裏切り行為だと言っても宜しい。 過去の記憶と一体になった物というのは、一度捨ててしまえば、もう取り返しはつかないのです。 新しい物を買って来ても、それはまた別の物なのであって、捨てた物の記憶を補ってはくれません。

  巷で言われる、≪整理術≫とかで、「一年以上使わなかった物は、永久に使わない事が多いので、捨ててしまっても構わない」という法則をよく耳にしますが、私に関して言えば、そういう事は無いです。 確かに、一年使わなかった物は、二年目三年目にも使わない事が多いですが、更に進んで、十年くらい経つと、また使いたくなるのです。 一度、すっかり忘れられて、非日常的な存在になる事により、新鮮さが再付与されるのではないかと思います。 みんながみんなそうではないと思いますが、私と同じ感覚の人もいると思うので、やはり、物を捨てる際には、慎重の上にも慎重を期した方が良いと思います。 

  そういえば、≪ゴミ屋敷≫というのは、どこの町でも、一軒や二軒はあるものですが、家の敷地からはみ出しているとか、生ゴミが含まれていて、悪臭で近所が迷惑している、というのでもない限り、他人がどうこういうべきではないと思います。 よく、テレビ番組が、芸能人を送り込んで、なかば強引に片付けさせたりしていますが、たかが一番組の企画の為に、他人の持ち物を処分するなど、乱暴狼藉も甚だしい。 よく、あんな恐ろしい事ができるものです。

  その家の主が集めた物には、その人の過去の記憶が結びついているのであって、物を捨てるという事は、その人の過去を消してしまうに等しいのですが、そんな事には何の頓着も無く、見る物触れる物、一切合財、捨ててしまって、「綺麗になってよかったね」などと恩着せがましい事を言っている無神経さには、ぞーっと震えが来ます。

  ゴミ屋敷の主の方々は、こういう企画を思いついたプロデューサーやディレクターの家へ押しかけて行って、同じ事を仕返してやればいいのです。 「随分、物がありますね。 こんなの使ってないんでしょう。 思い切って捨てましょう。 これも要らないでしょう。 埃が溜まってるじゃありませんか。 もしかしたら、ほとんど家に帰ってないんじゃありませんか? どうせ使わないものばかりなんだから、この際、みんな捨てちゃって、一からやり直しましょう」と。 普通の家であっても、家の中にある物の八割は使われていませんから、捨てられても文句は言えないわけで、ダメージは大きいでしょう。 自分の過去の記憶を奪われれば、少しは人の痛みが分かるんじゃないでしょうか。


  人の事はさておき、私の部屋をどうするかですな。 一方で、新しく何かを買うのはやめられない。 他方で、買った物は捨てられない。 うーむ、進退窮まったのう。 破れた衣類など、もはや二度と使えず、取っておいても仕方がないものに関しては、写真を撮って捨てるという、≪遺影処理≫を実践していますが、電気製品や、ただ飽きただけで機能的には問題が無い道具類の場合、遺影さえとっておけばOKというわけにはいかないのです。 「使わないとはいえ、使えば使える物を捨てるのか?」と自問すると、ケチな私は、必ず負けます。

  売ってしまうという手もあり、それなら、無駄にはならないわけですが、リサイクル・ショップというのが、ちょっと怖くてねえ。 店と客とのやりとりを見た事がありますが、当然の事ながら、中古品なので、定価があるわけではなく、値段交渉と、それに伴う諍いが避けられません。 たとえば、一万円で買った物を、3年くらいしてから、リサイクル店へ持っていって、「500円ですね」とか言われたら、大概の人は血の気が引くでしょう。 でも、そんな情景は、ごく普通に見られます。

  それでも、値段がつくのはまだましで、「こういうのは、引き取りません」と言われる事も珍しくないです。 「タダでいいなら、引き取ります」と言われたら、それは、店側が客を騙そうとしている可能性があるので、他の店をあたってみる余地がありますが、にべもなく、きっぱりはっきり、「引き取りません!」と言われてしまうと、もう後がありません。 捨てるか、今まで通り、部屋に置いておくか、それ以外に選択肢は無いわけだ。 一大決心をして売りに行ったのに、すごすご持って帰ってくる情けなさといったら・・・。

  オークションで処分している人も多いでしょうが、私はどうも、あの個人同士のやり取りが嫌でしてねえ。 たとえば、電気製品なんて、必ず、故障や不具合あると思うのですが、最初からジャンク扱いでない限り、どうやって補償するんでしょう? 返品? ますます面倒臭い! 「送る前は正常だったのに、向こうへ着いたら壊れていた」というケースもあると思うのですが、そういう場合、互いに相手をどう信用するんでしょう? 「壊れた物を送ったな」、「いや、そっちで壊したんだろう」と言い出したら、水掛け論になるのは必至。 双方に悪意が無くても、この種の問題は起こるのであって、まして、どちらかが悪意を持っていた日には、良くて裁判沙汰、悪くすれば殺し合いにもなりかねません。

  それに、オークションって、一度やり始めると、味を占めて、何度も何度もやるでしょう。 会社でネットの話になると、オークションの話題しか口にしない輩が、必ず一人はいますが、実際、そういう人達にとっては、「インター・ネット=オークション」なのであって、病的にそればかりやっているんですな。 欲しい物を手に入れる為というより、物をやりとりする為だけに、オークションを続けているわけだ。 そうなってしまうのも、怖いと思うんですよ。 売るのに成功すれば、買うのにも手を出したくなるのは、火を見るよりも明らかです。 物を減らすつもりで、逆に増やしてしまったのでは、目も当てられません。

  というわけで、未だに、どうしたらいいのか、決めかねています。 使わない物が多すぎると、鬱陶しいですが、さりとて、物が減ったからといって、生活がより良くなるというわけでもないから、また厄介なのです。

2010/05/02

万博報道

  なぜか分かりませんが、連休に入ると、作文意欲が減退します。 ここ半年ばかり、それでなくても減退していたので、ますます減退した事で、もはや、風前の灯ですな。 一円の得にもならなければ、「書いてよかった」と感動するような報いも無いのに、なぜ、少なからぬ時間を割いて、こんな物を書かねばならんのか、よくよく考えると、実におかしな話です。

  これといって書く事が無いので、時事ネタでも取り上げますか。 今、時事ニュースといったら、やはり、≪上海万博≫でしょうな。 ちなみに、中国語では、万国博覧会の事を、≪世界博覧会≫と言います。 略して、≪世博≫。 今、中国のポータル・サイトに行くと、この二文字がたくさん踊っているので、それだけでも見に行くと宜しい。


  普通、外国で行なわれる万博を日本のマスコミが報道する事は無いのですが、なぜか、今回は大騒ぎしています。 例のPR曲盗作騒ぎで、揶揄・嘲弄といった批判主体で始めた報道が、いつまのにか、万博の規模に圧倒され、華やかな雰囲気に呑み込まれて、万博そのものの報道にまで突入してしまったのでしょう。

  何とか粗探しをして、中国批判に話を持って行こうと、眉を寄せて難しい顔をしている男性キャスターの横で、女子アナが、「こうやって見ていると、やっぱり、行ってみたいですね」とニコニコ笑っている、その落差が面白いです。 日本のマスコミよ、下司の勘ぐりだけでは、これからの世界を眺望する事はできんぞ。

  日本のマスコミが上海万博について報じる時、≪中国が、国の威信をかけて…≫という形容が枕詞のように使われていますが、そういう見方自体が、すでに見当外れだっつーのよ。 万博は、中国にとって、第一に、≪お祭り≫であり、第二に、≪商売≫なのであって、国威発揚なんぞは下位目的に過ぎません。 アメリカに代わり、経済で世界の中心になりつつある中国にとって、国の威信など、「間に合っている」のであって、そんな物のためだけに、わざわざ大金投じて、万博なんて開くものですか。

  そもそも、万博は、参加国全てが力を合わせて催すものであり、開催国の威信がどうのこうのと論じるような物ではありますまい。 なぜ、素直に、≪お祭り≫の部分を見ようとしないのか、実に不可思議。 いや、不可思議ではないか。 日本のマスコミの考えている事は、スケスケに見抜けます。 ただ、外国でやっている華やかなお祭りに、ケチをつけたいだけなんだろう? まったく、下賎だねえ。 腹綿が腐っているにも程がある。 親の顔が見たい。 大方、親父もお袋も、下司野郎なんだろう。

  凄いと思うのは、「華やかな万博の陰で、貧富の格差や、少数民族問題を抱えている」といった報道の仕方です。 わはははは! 馬鹿か、おまいら? それと万博と、何の関係があるんだ? もし、日本で万博をやった時、外国のマスコミが、「日本では、華やかな万博の陰で、貧富の格差や、米軍基地問題を抱えている」なんて報道してたら、「何を頓珍漢な事を言ってやがる。 頭おかしいんじゃないのか?」と思うだろう。 それと同じ事を、自分達がやってる事に気づかんか? しかも、テレビも新聞も、全く同じような報道。 どこかで、ニュースの雛形でも配信しとるんかいのう?

  低劣極まりない粗探しなんかしていないで、各パビリオンの展示内容でも報道せえよ。 日本のマスコミの主張なんていう、本来中身スッカラカンなものは、どうでもいいんですよ。 知りたいのは、「上海万博に行くと、どんな展示が見られるか」に尽きます。 実際に行ける人は少ないから、それをテレビで見たいわけですよ。

  テレビ局も馬鹿だねえ。 横並びで、批判なんぞ繰り広げとらんと、パビリオンのリポートを中心に、≪良識的≫な報道をすれば、下司報道にうんざりしている良識的な視聴者は、みんなその局へチャンネルを合わせるから、楽々と他局を出し抜けるのに。 他と同じ事をやっていて、何の得があるのさ?

  一方、新聞ですが、そちらには、あまり期待していません。 特集を組んでも、せいぜい写真が十数枚って所でしょう? そんなんじゃ、万博の雰囲気は味わえませんからのう。 万博は、「見てなんぼ」のイベントですから、紙メディアは、もともと不利なんですな。 逆に言えば、写真と文章だけで、万博の雰囲気を伝えられれば、それは大変な技量という事になりますが、「中国館と日本館の事を、ちょこちょこっと書いておけば、それでいいよ」程度の認識では、とてもじゃないが、期待するだけ損というものでしょう。


  しかしねえ、冒頭で書いたように、本来、外国で行なわれる万博について、報道される事は、異例なのです。 だって、今までに外国で行なわれた万博の報道って、見た事、読んだ事ありますか? 無いでしょう? 私も、20年以上前に、カナダのどこかの都市で開かれたのを聞いただけで、それ以外となると、大昔の、パリ万博あたりまで、すっ飛んでしまいます。 やっていないはずはないと思うんですよ。 だけど、日本国内に報道されないから、知りようが無いのです。 まさか、世界中で、日本ばかりが、万博開催大好き国というわけでもなかでしょう。

  また、外国で万博が行なわれていると知ったとしても、普通、行きません。 地続きで近ければともかく、飛行機を使わなければならないとなると、入場料以前に、旅費やら滞在費の方で、大変な出費になってしまいます。 そうまでして見に行くほど、万博は面白いわけではないと思うのですよ。 あの、日本国内で伝説と化している、≪大阪万博≫でも、外国から、純粋に万博目的で来た客というのは、何%もいなかったんじゃないでしょうか。 確かに外国人はたくさん場内を歩いていた。 しかし、その大半は、各国パビリオンの関係者や、社用で日本に来ていた駐在員と、その家族だったと思います。

  まして、≪つくば科学博≫や、≪大阪花博≫、≪愛知万博≫などは、万博とは言うものの、べたべたの国内イベントだったのであって、それが開かれている事を、外国で知っている人は、非常に少数だったと思います。 ニュースでやらんでしょう、外国の万博なんて。 大昔と違って、新技術が開発されると、すぐに知れ渡りますから、万博でしか見られない目新しい展示物というのが、なかなか用意できないのです。

  ≪愛知万博≫は、ごく最近なので、記憶に新しいですが、国内博と言うのさえ不適当で、地元博とでも言うべき、強烈なローカル・イメージがありました。 私は隣の県に住んでますが、結局、行く気になりませんでした。 見たい物が、冷凍マンモスだけじゃねえ・・・。 実用性ゼロのコミューターとか、リニア・モーター・カーの試作車とか、そんな物見ても、知識の足しにはなりませんし。 入場者数は目標を上回り、商売としては成功したわけですが、地元の人達が何度も足を運んだから、のべ入場者数を稼げたのであって、決して日本全国から満遍なく観覧者が集まったわけではないと思います。

  この事情は、外国で行なわれる万博でも同じなわけで、今回の上海万博も、日本以外では、ほとんど、報道されていないと思います。 パビリオンを出展している国でも、せいぜい、開幕と閉幕の時に、簡単なニュースを流す程度じゃないでしょうか。 オリンピックやワールド・カップと違うのは、メダル競争があるわけではないので、動物的な興奮を誘引しないんですな。

  だからねえ、今回の日本のマスコミの食いつき方は、異常だというのですよ。 よっぽど、盗作騒ぎが気に入ったんでしょうな。 下司の下司たるゆえんで、鬼の首でも獲ったようにはしゃいでいたのが、軒に関わってしまったために、母屋にも入らざるを得なくなり、異例の報道態勢となったわけだ。


  ちなみに、私は、上海万博そのものには、あまり興味がありません。 どうせ行けないので、知っても虚しいだけですな。 今のところ、各パビリオンの情報も入って来ないし。 日本館の情報は流れてますが、バイオリンを弾くロボットなどと聞くと、否が応でも、≪つくば科学博≫を思い出しますねえ。 素人目に見ると、あの頃から大して進歩していないような気もしますが。

  そもそも、もし、上海に行くのであれば、万博よりも、他の所を観光するのが先決。 いや、その前に、もし中国に行くのであれば、上海より先に、開封やら、長安やら、洛陽やら行って、涙下さなければ、勿体無いではありませんか。 ≪三国志演義≫しか知らないミーハーですら、成都や南京、赤壁、五丈原を見る前に、上海に行って何とする?

  いや、まあ、結局、行けないから、こんな事を考えても無駄なんですけど。