2015/11/29

捨てる物・残す物①

  10月中旬に、ワープロとパソコンを処分してから、断捨離スイッチが入ってしまい、11月下旬の現在に至るまで、自室の中を、引っ繰り返して、血も涙もなく仕分けし、自治体回収の、燃やすゴミの日、プラスチック・ゴミの日、埋め立てゴミの日、資源ゴミの日は言うに及ばず、街角のゴミ回収ステーションまで利用して、要らない物を捨てまくっています。

  ≪パソコン処分と、HDD分解≫の記事の冒頭で、「今回は、引退している身分なので、幾分、「終活」の色がついています」と書きましたが、去年、岩手で入院した時、医者から、「不整脈のパターンが、突然死する人のそれと同じ」と宣告された事もあり、いつ死んでも、後が恥ずかしくないように、人に見られたら困る物を、部屋から抹消してしまおうと目論んだわけです。

  結婚して、実家を出た人は、新居に移る前に、そういう品を処分しているものですが、私の場合、生涯独身者ですから、その機会がなくて、子供の頃からの物が、かなりの数、残っているのです。 本とか、服とか、道具とか、機械とか。 今回は、かなり、大々的にやっているので、いちいち、品目を書ききれません。 また、そんな物の名前を羅列しても、律儀に読む人がいないわなあ。

  私の部屋の場合、物を入れてあるのは、一間幅の押し入れと、天袋、天井裏、そして、ベッドの下が、主な場所です。 天井裏は、屋根裏部屋や、納戸になっているわけではなく、文字通り、そのままの天井裏でして、天袋の上の板を外して、這い上がらなければなりません。 一番、物が多かった時には、天井裏の手が届く範囲に、びっしり、物が載せてあって、いつか、天井板が落ちて来るのではないかと、危惧していました。 軽のスタッドレス・タイヤまで、上げてあったのだから、今思うと、ぞっとします。

  物を捨てない理由の、大きなものに、「捨て方が分からない」というのがありまして、車のタイヤなんかは、その代表格でしょう。 車がある内に、ディーラーに頼んで処分してもらうのが一番ですが、「まだ使えるから」などと渋っていると、その機会を逸してしまう事が多いです。 ちなみに、私の場合、近所のガソリン・スタンドに電話して、一番安く引き取ってくれる所を探しました。 もちろん、こちらが、お金を払ったわけですが、天井が落ちて来る事を思えば、大した金額ではありませんでした。

  しかし、タイヤを処分したのは、だいぶ前の話でして、今回の大物クラスは、据え置き型ワープロとパソコン、60センチ水槽、金属製の本立てが二つといったところでした。 「本立て」という言葉は、もはや、死語ですが、今から、40年くらい前には、学習机や箪笥の上に置いて、本を並べる家具が存在したのです。 ワープロとパソコンの件は、もう書きました。 60センチ水槽と本立てについては、次回以降、触れます。

  今回、紹介するのは、本・雑誌や小物類。 別に、カテゴリー別に取り出しているわけではなく、出て来た物を、片っ端から撮影し、解説をつけただけなので、バラバラのゴチャゴチャです。 統一性を欠くこと甚だしく、あまり多いと、読むのが嫌になってしまいそうなので、少しずつ出します。



≪処分パソコンの取説≫

≪写真上≫
  最初のパソコン、「コンパック プレサリオ3200」の説明書。 アプリケーション・ソフトの説明書も含めて、四冊もあります。 14年間、私の部屋の、いつでも取り出せる場所に置いてあったのですが、ほとんど、見る事はありませんでした。 見たのは、メモリー増設の為に、パソコンの開腹の仕方を調べた時と、アプリ・ソフトを、他のパソコンに入れる為に、インストールの仕方をおさらいした時くらい。

  ちなみに、そのオマケ・アプリで、今でも使っているのは、画像加工ソフトだけです。 最初の頃だけ使ったのは、翻訳ソフト。 全く使わなかったのは、家計簿ソフトと、ビデオ編集ソフトでした。 画像加工ソフトを除き、ソフトのCD自体を捨ててしまったので、もう、これを開く事はありません。 今後は、天井裏で保存します。

≪写真中≫
  2002年の4月に買った、居間用のパソコンの説明書。 自室用の1台目で、すでに、パソコンというのが、どんな機械か分かっていたので、2台目の説明書は、ほとんど読みませんでした。 起動ディスク(フロッピー)を作る時に、少し読んだかも。 これは、ずっと、押入れの天袋に入れた箱にしまってあって、今回、一度出したのですが、薄っぺらくて、邪魔にならないので、また、元の箱に戻しました。

≪写真下≫
  2002年の暮れに買った、自室用2台目のパソコン、「イイヤマ KDV933RW」の説明書。 これも、13年間、見えるところに置いてありました。 イイヤマ・パソコンでは、メモリーの増設の他に、内臓CDドライブが壊れて、DVDドライブへの交換もしたので、開腹の際、何回かは、読んだと思います。 だけど、開腹だけなら、説明書を見なくても、行き当たりばったりで、何とかなったような気もします。 これからは、天井裏で保存。



≪2001年春の、パソコン雑誌≫

  2001年のゴールデン・ウイークに、初めて、パソコンを買ったのですが、図書館の雑誌で、大体の知識を入れた後、本屋で、この雑誌カタログを買って来て、機種を決めました。 後にも先にも、パソコン雑誌を買ったのは、これ一冊きりですが、今でも、こういうカタログって、出てるんですかね? スマホ全盛で、パソコンを買う人が減ったから、もう、ないのかも・・・。

  これは、時間が経てば、読み返すのが、もっと面白くなりそうなので、保存しておく事にしました。 MOドライブのページなんかがありますが、今となっては、フロッピーやMOなんて、そんな時代があった事さえ、子供の頃の夢のように、遠く感じられます。 その後、たちまち、姿を消してしまいましたから。



≪スピーカー≫

  1台目の居間用パソコン、「ベスコ S1」に接続していたスピーカー。 これは、パソコンにセットで付いていたものです。 パッとしないデザインですが、居間のパソコンは、両親用に買ったものだったので、「音が出れば、充分だろう」という事で、そのまま使いました。 2002年の5月から、2014年の3月まで、12年間弱、居間にありましたが、あまり、使われていませんでした。 まだ使えますが、もう出番がないので、処分。



≪古枕≫

  今年の、5月初めまで、少なくとも、15年以上は使っていた、蕎麦殻枕。 近所のホーム・センターで、筒カバー付きのを、千円くらいで買って来た事は覚えているんですが、買った年は分かりません。

  カバーは、何度も換えていますし、中の袋も一度、作り直しています。 蕎麦殻は、時々、出して、陰干しする程度でしたが、異臭が出るような事はなかったです。 えらい、エコな素材ですな。 10年以上前に、枕が高過ぎるのを嫌って、蕎麦殻を半分にしたのですが、その後、殻が細かく潰れるに連れ、低くなり過ぎてしまい、体を横にして本を読む時には、頭の高さを確保する為に、半分に折って使っていました。

  5月に、新しい物に買い換えてから、旧居間の押入れに、待機させていたのですが、新しい枕にも慣れて、もう、出番はないだろうと判断し、蕎麦殻だけ、要らない布袋に入れて、燃やすゴミに出しました。 カバーと、中の袋は、まだ、使い道があると思い、しぶとく、とってあります。



≪バイク雑誌≫

≪写真上≫
  バイクに乗り始めの頃、「モーター・サイクリスト」という雑誌を、何冊か買いました。 何年か前に、処分して、2冊だけ残してあったんですが、その内の一冊が、これ。 1994年の7月号ですな。 読者の投稿欄に投稿して、それが掲載されたので、記念に取っておいたもの。 だけど、今考えると、雑誌の読者欄程度では、掲載されたところで、何の価値もありゃしません。 写真だけ撮って、処分。

  あー、そのー、余計な事かも知れませんが、学生や、まだ若い人達で、雑誌の読者欄に投稿して、何回か掲載され、「自分には、才能がある」と、有名人になったような気分に浸っている方々に告ぎます。 そんなのは、ただの錯覚です。 雑誌の読者欄というのは、ちょっと絵がうまいとか、ちょっと文章が書ける程度の人間でも、割と、簡単に掲載してもらえるのですよ。 そんな事にかまけていると、自尊心ばかり大きくなってしまって、人生を誤まりますから、ちょっとでも、虚しさを感じたら、すぐに、足抜けした方がいいです。

≪写真中≫
  これは、1993年に、中型二輪免許をとった教習所で、卒業の時に貰った、中部地方の道路地図です。 乗り始めの頃は、ツーリングばかりしていたので、この地図も、ちょこちょこ、見ていたのですが、その内、全く触れなくなり、天袋に押し込んで、それっきり。 存在すら、忘れていました。 もう、この地図に頼るほど、遠くに行く事はないので、処分。

≪写真下≫
  こちらは、「バック・オフ」という、オフロード・バイクの雑誌。 1994年の11月号。 たまたま、私が乗っていた車種の、オイル交換の方法が説明してあったので、参考用に買って来た物。 私は、オフロード・バイクばかり乗っているものの、オフに行った事がない人間なので、本来、この手の雑誌には、縁がありません。 オイル交換の仕方は、とっくに丸暗記してしまって、もう、用済みなので、処分。

  どれも、大して読まずに、しまってあったので、外見は綺麗ですが、もう、20年以上前のものです。 少なくとも、雑誌作りの技術に関しては、この頃すでに、完成の域に達していて、今のものと比べて、遜色がないばかりか、読者が多かったから、内容は、むしろ、充実していました。 編集者も、今よりも才能がある人達が集まっていたと思います。

  他にも、バイク関連で買った雑誌類はあるのですが、当時の全車種カタログが載っていたり、最初にバイクを選ぶ時に、参考にしたりしたものなので、そちらは、保存しておきます。



≪小説誌≫
≪写真上≫
  ショートショートの専門誌だった、「ショートショートランド」。 左から、82年の夏号、83年の5月号、同7月号。 お世辞にも、レベルの高い雑誌とは言えず、買ったのは、三冊きりでした。 その後、当然の成り行きとして、廃刊。 懐かしいとも思えず、読み返す気にもならず、処分。

≪写真下≫
  「SFマガジン」の、83年3月号、87年4月号。 「文藝」の、83年4月号。 いずれも、眠気を通り越して、目が覚めるほど、つまらない作品ばかりだった記憶があります。 取っておいた事の方が不思議。 にべもなく、処分しました。

  80年代は、日本社会全体で、未来への希望が最高潮に達した時代でしたが、SF小説界は、とっくにピークを過ぎていて、全く、時代を映す事ができませんでした。 ロボット・アニメや、アメリカのSF映画のおこぼれを貰って、最先端イメージを取り繕っていた有様。 未来の話を書いていても、携帯電話も、インターネットも、まるで、予見できず、90年代には、世間から完全に見限られてしまい、それまで、SF作家を名乗っていた人達が、喰えなくなって、他のジャンルに逃げ出すという、最悪最低の崩壊過程を辿る事になります。



  今回の紹介は、とりあえず、ここまでにします。 押入れや天井裏から引っ張り出して、捨てる事自体は、そんなに手間ではないのですが、 遺影を撮るのが、結構、面倒くさいです。 一部屋に、ずらりと並べて、一枚で収めるという手もありますが、本の場合、小さ過ぎると、表紙の絵や文字が潰れて、何の本なのかも分からなくなってしまうから、そういうわけにも行きません。

  一応、仕分けはしているんですが、何と言っても、終活が入っているので、今現在、使っている物を除けば、全て捨ててしまっても、別段、不都合はないのです。 結局、死ぬまでには、みんな、処分するわけですから。 これがもし、来年早々に死ぬと言うのなら、今年中に全部捨てます。 しかし、もしかしたら、まだ、30年くらい生きるかも知れず、そう思うと、部屋が空っぽになってしまうのは、精神的に良くないと思われるのです。

  ちなみに、死後、人に見られたら困るものの筆頭である、アダルト系物品ですが、私の場合、そんなにはないものの、少しはあったので、真っ先に処分しました。 一応、遺影も撮りましたが、このブログで、紹介する事はないです。 ああいう物は、買う時には、結構高いお金を払っているんですが、捨てる時には、ほとんど、汚物扱いになってしまいますな。

  昔描いた絵、昔書いた小説なんかも、早めに処分しておいた方が無難。 そんなの、ゴミゴミ! 全部、シュレッダー行きですわ。 シュレッダーの切り屑だけで、新聞全紙大に、裾が一杯広がるような山が二枚分出来て、「どーしたものか・・・」と悩んだ結果、廃油を吸わせて、捨てました。

2015/11/22

田牛サンド・スキー場

  9月29日(火)に、伊豆半島・下田市にある、「田牛サンド・スキー場」という所へ、バイクで行って来ました。 定例化しつつある、月に一度のツーリングです。 今までに、北、西と、行ったので、次は、南となるわけです。 「田牛」と書いて、「とうじ」と読み、海岸から吹き上げられた砂が、崖の下に坂を作っている所です。 静岡の県内ニュースで、よく出るんですが、行った事がなかったので、一度、見てみようと思った次第。


  いつもの通り、出発の準備は、当日の朝になってから、取りかかりました。 出先でお金を使わなくて済むように、昼飯の、おにぎりを作って行きます。 飲み物は、ペット・ボトルに、水だけ。 さほど、遠くではないので、前回と同じく、午前9時に出発しました。 清水町と、沼津市大平を経て、函南町で国道136号線に入り、伊豆の国市、伊豆市と、伊豆半島の真ん中を通って、南下して行きます。

  修善寺の立体交差で、いつも、道を間違えて、有料道路に入りかけてしまうのですが、今回も、お約束のように間違えて、引き返しました。 車だと、引き返せないのですが、バイクは、下りてしまうという手があるので、その点は、融通が利きます。 でも、もし、警察車両が近くにいたら、注意を受けるでしょうねえ。 私も、間違えたくて間違えているわけではないのですが、案内標識が、一般道と有料道路が一緒に書いてあったりして、咄嗟には、判断できないのですよ。

  それ以前の問題として、伊豆半島は、新しい道路を作り過ぎです。 人口が減っているのに、有料の自動車専用道ばかり、こんなに、ドカドカ作っても、観光客が素通りして行くだけだと思うのですがねえ。 温泉や景色を売りにした観光地の場合、交通を便利にする必要は全くないのであって、むしろ、不便さを守る方に力を注ぐべきでしょう。 都会にしてしまって、どうする?


  それはさておき、今までの紀行文では、まず、文章を書いてから、それに、写真を挟み、写真の下に説明文を入れて来ましたが、二度手間なので、今回からは、写真を中心にして、文章で説明するという方式に変えます。



  道なりに進むと、湯ヶ島の手前から、国道414号線になります。 「出口」という交差点から、切り替わるのですが、そのまま直進なので、普通、気づきません。 私も気付きませんでした。 帰って来てから、地図を見て、分かった次第。

≪写真1≫
  10時15分頃、天城の手前にある、「浄蓮の滝」で休憩しました。 道路沿いに、大きな駐車場があり、観光バスも、やって来ます。 平日なので、空いていて、車一台分使って、駐輪しました。 バイクで寄る人も多いと思うのですが、伊豆の観光地で、駐輪場を用意している所は、大変、少ないです。

≪写真2左≫
  駐車場から、滝へ下りて行く道の、入り口横に立っていた、銅像。 川端康成の、≪伊豆の踊り子≫ですな。 勿論、フィクションなのですが、まるで、実話であるかのように、天城のあちこちに、この二人の像が立っています。 それにしても、山口百恵さんと、三浦友和さんが主演した、最後の映画化から、もう、何十年経ったでしょう? 若い人は、どんな話なのか、全く知らないのでは?

≪写真2右≫
  滝に下りて行く道。 休憩のつもりだったんですが、滝があると思うと、見に行きたくなるのが人情というもので、結局、ずっと歩いていました。 かなりの落差を下って行くので、行きはいいですが、帰りは、息が上がってしまう人が多いです。

≪写真3≫
  これが、浄蓮の滝です。 「女郎蜘蛛の伝説」がありますが、長いので、割愛。 観光バスでやって来た客が、結構いました。 東京の引退者の団体とか、中国人の団体とか。 私は、15分くらいかけて、ざっと見て回り、また、出発しました。 休憩になりませんな。



  10時半頃、浄蓮の滝を出て、国道414号線を南下。 天城を越え、補強工事中で、片側交互通行だった、ループ橋を下り、上河津郵便局前の交差点を右折して、更に、細い山道に入りました。 直進して、河津町へ下りても、海岸線を通って、下田へは行けますが、414号は、この細い山道の方なのです。

≪写真1≫
  山から下りて、下田が近づくと、こんな景色になります。 川沿いに開けた狭い平地に、集落が、ポツポツと続くという感じ。 のどかなようですが、交通量が少ない所は、スピードを出す車が多く、油断して、のんびり走っていると、急に追い抜かれたりして、怖い思いをします。 都会や、市街地近辺でしか運転した事がない人は、地元の人間と張り合おうなどと思わず、端に寄せて、先に行かせてしまった方が、無難。 命がいくつあっても足りません。

  随分昔、たぶん、1994年だと思いますが、まだ、二輪免許を取ったばかりの頃、DT50というオフロード・タイプの原付に乗っていて、ここを通った事がありました。 平地に下りた所で、チェーンが外れて、道端で直したので、記憶に残っているのです。 うーむ、あれから、もう、21年も経ってしまったのか・・・。 あの頃には、自分が、20年以上、バイクに乗る事になるとは、思ってもいませんでした。

≪写真2≫
  道なりに南下すると、下田市街地に入ります。 ここは、「中島橋」という交差点で、下田の街の中心部。 ここを右折すると、再び、国道136号線に入ります。 ちなみに、伊豆半島の東海岸を通っているのは、135号線です。 136号は、三島から南下し、湯ヶ島から西海岸に出て、半島の南西部をぐるっと回って、下田に至り、この中島橋交差点で、135号と、414号に連結します。

≪写真3≫
  136号を西南に進み、「田牛入口」という交差点を左折すると、やがて、海岸線に出ました。 この辺の海岸は、真っ黒な巨岩が砂浜を囲んでいて、すごい風景なのですが、「私有地につき、駐車禁止」ばかりで、停まる所がなく、写真は撮れませんでした。

  一本道なので、間違えようもなく、、「田牛サンド・スキー場」に到着。 11時50分頃でした。 浄蓮の滝で、15分停まっただけですから、家から、2時間35分もかかった事になります。 駐車場は、二ヵ所に別れていて、合計で、15台分くらいあったでしょうか。 海水浴シーズンは、有料らしいですが、この時は、9月の終わりですから、無料。 私は、バイクなので、車を置けない、隅の方に停めました。



  駐車場の、すぐ裏手に、小山があり、道がついていたので、てっきり、その道が、サンド・スキー場への道だと思い込んで、登って行きました。 ところが、この山は、ただの山でして、道は、眺望がいい場所へ行く為に作られた、散策路でした。 10分もかからずに、ぐるっと回って、駐車場へ戻りました。

≪写真1≫
  山の散策路から見た、北東側の景色。 この写真の、左側に、サンド・スキー場があり、その写真もあるのですが、それを見せてしまうと、次の組写真がつまらなくなるので、外しておきます。 このずっと向こうに、下田港があります。

≪写真2≫
  同じく散策路から見た、南西側の景色。 田牛海水浴場の砂浜が、少し見えています。 このずっと向こうに、石廊崎があります。 伊豆の最南端までは、まだ、かなり遠いです。

≪写真3≫
  山の真ん中に、穴が開いていて、その下が、「龍宮窟」という、海蝕洞になっています。 洞の大きさに比べると、波が入って来る海側の穴は、意外な程に小さいです。

≪写真4≫
  昨今、あちこちの観光地で、ハート形に見える岩が、呼び物にされていますが、ここにもありました。 もっとも、説明板があったから、気づいたのですがね。 海蝕洞の形そのものがハートなので、巨大です。

  下の方で、結婚衣装を着たカップルの、写真撮影をしていました。 もはや、「カップル」は、死語かな? 右下は、被写体の二人だけを拡大したもの。 レフ版を使って、本格的にやっていたから、カメラマンは、プロなのでしょう。 本当に、結婚の記念写真なのか、何かのパンフ写真なのかは、分かりません。 ちなみに、下に下りるトンネルは、山の麓にあり、ここからは、下りられません。



≪写真1≫
  駐車場後ろの山を下り、一旦道路へ出て、北東方向へ、ちょっと戻ると、サンド・スキー場の入り口がありました。 砂浜へ下りて行く、長い階段があります。 崖下に、砂が、へばりついているのが、サンド・スキー場です。 人工的に作ったのではなく、海風で砂が吹き上げられて、自然に、こうなるのだそうです。 これ以上、急にもならなければ、これ以上、崩れもしない、自然に構成される角度の事を、「安息角」というのだとか。

≪写真2≫
  ほぼ、一番下まで、下りた所。 「斜面 30度」。 下から見上げると、もっと急に見えます。 上まで上がって、スノー・ボードで滑り下りて遊ぶので、「サンド・スキー場」と呼ばれている次第。 スノー・ボードは、持ち込みも可能ですが、駐車場向かいの民宿でも、有料で貸し出しています。 私が行った時には、一組いましたが、すぐに帰ってしまいました。

≪写真3≫
  一番上まで、登ってみました。 砂山の端の方を歩いて上がったんですが、靴が砂に埋もれて、往生しました。 スノー・ボードがあったとしても、子供ならともかく、大人の場合、3回くらいで、上に上がるのに疲れて、やめてしまうと思います。 上から見下ろすと、これまた、凄い角度で、とても、足で駆け下りるなんて事はできません。 つんのめって、骨折してしまいそうです。 海側を向いて立つと、風が凄くて、砂が顔に当たって来ます。 なるほど、これなら、砂が、いくらでも、供給されるわけだ。

≪写真4左≫
  砂山の頂上付近で撮った、背後の崖の様子。 堆積岩ですな。 この辺の海岸は、みんな溶岩かと思っていたので、ちと意外。 つまり、海に沈んでいた頃もあったというわけだ。 右上を、トビが飛んでいます。 海風が凄いので、高度を取り易いんじゃないでしょうか。 こやつがいる時には、露天の食事には、気をつけなければなりません。

≪写真4右≫
  階段。 手摺がある片側が、半分の高さになっています。 子供や老人向けに配慮してあるんでしょうねえ。 こういう作り方は、珍しい。



≪写真1≫
  麓に駐車場がある小山を挟んで、サンドスキー場の反対側にある、「田牛海水浴場」。 真っ白とは行きませんが、綺麗な砂浜でした。 この時は、人っ子一人いませんでしたが、シーズン中は、さぞや、賑わう事でしょう。

≪写真2≫
  これは、小山側です。 岩が真っ黒ですが、近くで見ると、これも、堆積岩で、小さな石がたくさん、挟まっていました。 堆積岩でも、黒く見えるんですなあ。 見かけだけで、地質を判断するのは、無理なのだと、ここで知った次第。

≪写真3左上≫
  海水浴場の防波堤の下で、昼飯にしました。 自分で作った、塩だけのおにぎりが、2個。 ペット・ボトルの中身は、ただの水道水です。 一人旅なので、このくらいで、充分。 こんなものでも、やはり、昼飯は、楽しみです。

≪写真3左下≫
  駐車場の端に掲げてあった、注意書き。 「ドローン使用禁止」。 規制が、素早いな。 人がいない季節なら、問題ないような気もしますが、風が強い所なので、ドローンの飛行自体が、難しいかも知れませんな。

≪写真3右≫
  駐車場の、道路を挟んで、向かい側にある民宿。 ここで、スノー・ボードを貸しています。 500円と書いてありました。 ネットで読んだ情報では、返却時に、いくらか返って来るのだとか。 しかし、私は、最初から借りる気がなかったので、わざわざ、確認はしませんでした。



≪写真1左上≫
  サンド・スキー場と海水浴場の間に位置する、「龍宮窟」。 来て最初に登った、駐車場の上の小山ですが、その中、というか、下にあります。 この写真は、海水浴場に近い方の、駐車場の隅にある、入口。 鳥居のような形ですが、鳥居ではないです。 入窟、無料。

≪写真1左下≫
  龍宮窟に下りて行く、トンネルと、階段。 このトンネルは、たぶん、人工的に穿たれたものだと思います。 こんな所に、自然に穴が開くとは思えませんから。 昔は、上の穴から、崖を伝って、下りていたんじゃないでしょうか。

≪写真1右≫
  龍宮窟の、奥側の崖。 上から見下ろした、ハート形の、片方の半円部分に当たります。

≪写真2≫
  龍宮窟の海側。 ハート形の、尖った部分に当たります。 この小さな開口部から、波が入って、これだけ大きな海蝕洞を穿ったというのが、不思議不思議。 恐らく、開口部がある岩が硬く、その中の岩が柔らかかったのでしょう。

≪写真3≫
  上を見上げてみました。 下から見ても、何となく、ハート形が分かりますな。 天気がいい日で、良かったです。



  12時半頃、田牛を後にし、帰途に着きました。 元来た道を戻って行ったのですが、ちょっと、帰る時間が早いかと思い、ループ橋の下にある、「河津七滝(かわずななだる)」に寄りました。 名前の通り、七つの滝がある所で、昔からある観光地です。 私も、子供の頃に、親に連れて来られていると思うのですが、ものの見事に、何一つ、覚えていませんでした。

≪写真1≫
  行きにも通った、ループ橋。 正式名称は、「河津七滝ループ橋」。 「河津七滝」は、ループ橋を下りて、ちょっと行った所にあるТ字路を東に曲がり、北へ引き返す格好で、ループ橋の下を潜って行きます。 私は、帰りに寄ったから、ループ橋に入る前に、曲がったわけです。

≪写真2≫
  河津七滝の、無料駐車場。 平日の午後だったせいか、空いていました。 河津七滝は、駐車場も無料、滝も無料で、伊豆の観光地にしては、セコさがありません。

≪写真3左≫
  ここにも、電気自動車の充電器がありました。 密かに、電気自動車は、普及しているんでしょうか。 高速道路に負けず劣らず、山道も怖いと思うんですが。 利用は、有料。 そりゃ、そうか。 滝を見ている間に、充電するのは、時間のうまい使い方ですが、一基しかないですから、先客がいたら、アウトですな。

≪写真3右≫
  滝へ向かう小径。 かなり、歩きます。 後から考えると、滝が七つもあるのだから、無理もないんですが、この時は、寄り道のつもりだったので、そんなに歩くとは思っておらず、時計を見い見い、先を急ぐ事になりました。  

≪写真4≫
  順番が前後しますが、上の、滝へ向かう小径の、入口にある、土産物店。 こういう店は、地元の産物以外に、民芸品や、竹製・木製のオモチャなども売っていて、ちょっとした、アナザー・ワールドになっていますな。 子供連れが多いから、そういう物でも、買う客がいるのでしょう。



  「河津七滝(かわづななだる)」は、主なものだけで、七つの滝があるわけですが、その内、「大滝(おおだる)」は、一般客は、見れません。 他の六つは、無料で見れます。 早足で歩きつつ、全ての写真を撮って来ましたが、全部出すとなると、一つ一つが小さくなってしまうので、滝は三つだけにします。

≪写真1≫
  「初景滝(しょけいだる)」。 名前の由来には、言い伝えがあるようですが、階段を上下せずに、最初に見れる滝だから、「初景」と解釈した方が、覚え易いです。 滝壺の手前に、伊豆の踊り子の像があります。 ここへ来る小径沿いにも、一組ありました。 川端康成に、おんぶにだっこですな。 東北各地にある、松尾芭蕉の像に比べたら、依存度は低いですが、何せ、≪伊豆の踊り子≫は、作り話だからなあ・・・。

  この滝から、上流に行くには、見上げるような木製階段を登る事になります。 団体客を引率していたガイドさんが、「ここから上には、興味のある方だけ、どうぞ」と言ってました。 せやけど、初景滝だけ見て帰ったら、あんさん、そら、「河津一滝」でんがな。

≪写真2≫
  「蛇滝(へびだる)」。 滝壺の方を中心に撮ってしまいましたが、蛇の本体は、滝の上の蛇行の方みたいです。

≪写真3左≫
  蛇滝の上流にある吊り橋、「河津踊子滝見橋」。 この写真だけでは分かりませんが、蛇のように、上下にうねっていて、橋板は、ほぼ、階段だけで、構成されています。 これが、結構、揺れて、怖かったです。 割と、新しい物で、落ちるような心配は不要でしたが。

  「こういうのは、新しい内はいいけど、古くなって来ると、修繕費がかかって、結局、維持できなくなってしまうのでは?」などと考えるのは、大人の発想でして、親に連れられて来た子供は、滝は覚えていなくても、この橋だけは、怖さで覚えているという、「思い出の元」になります。

≪写真3右≫
  一番、上流にある、「釜滝(かまだる)」。 ここで、もう、2時。 4時半までには家に帰りたいのに、まだ、河津にいるというのが、冷や汗もの。 滝の眺めを楽しむどころではありませんな。 他の滝の名は、「蝦滝(えびだる)」、「蟹滝(かにだる)」、「出会滝(であいだる)」。 全て、駆け足で見て、帰りましたが、なんだか、勿体ない感じ。 河津七滝は、よそへ行ったついでに寄る所ではないという事を痛感しました。 今度また、ここだけを目的に、出直して来ようと思います。

≪写真4≫
  滝に向かう小径に立っていた、外国人観光客向けの高札。 分かるような、分からんような英文です。 翻訳ソフトを使ったにしても、どこから、「Your」が入って来たのかが解せません。 他に、繁体字中国語版、簡体字中国語版、フランス語・スペイン語版がありましたが、どれも、分かるような、分からんような文でした。 日本語版がなかったので、原文を確認できなかったのが、残念。



  バイクに戻り、2時20分に、撤退。 後は、寄り道せずに、家に向かいました。 3時55分に、家に到着。 やれやれ、無事に戻れたか。 走行距離は、行きが、80キロ。 帰りは、田牛を出る時に、少し遠回りをしたのと、河津七滝に寄ったせいで、87キロ。 往復、167キロでした。 カチカチ山は、130キロでしたから、この夏、最大の遠出になったわけです。 とにかく、終わって良かった。


  月一ペースを続けるとすると、次は、10月末ですが、その頃になると、もう、寒くて、バイク・ツーリングには、行く気にならないかもしれません。 この日は、気温的には、快適でしたが、楽しさよりも、辛さの方が勝ってしまっていて、「果たして、これ以上、この習慣を続けるべきか否か・・・」と、ますます、悩みが深くなってしまいました。

  一つ、確実に分かったのは、もし、バイクをやめて、車を買った場合、こんな遠くまで来る事は、絶対にないだろうという事です。 バイクだから、苦手な山道でも、何とか走ろうという気になるのであって、車で、後ろから煽られながら、狭いワインディング・ロードを走る気には、到底なれません。

2015/11/15

折自を如何にせん

  季節の変わり目のせいだと思うですが、11月6日に、またまた、腰痛をやってしまいました。 4月の時より、ずっと軽かったので、一日だけ寝て暮らし、もう動けるようになったと思って、捨て物の片付けを再開したところ、やはり、そんな作業が腰にいいわけがなく、未だに、一進一退の病状が続いています。 で、ブログの記事を書けるほど、長時間、パソコンの前に座っていられないので、自転車ブログ用に書いた記事を、移植する事にします。




  ちょっと、困った事になってしまいました。 折自に乗らなくなってしまったのです。 引退して、1年4ヵ月経ちますが、その間に、本来の折自の用途にしていた遠出は、たった2回、行ったに過ぎず、旧母自(軽快車)でも行ける近場に、わざわざ折自で行ったケースを数に入れても、10回も乗っていません。 つまり、1ヵ月に1回も乗らない事もあるわけです。 毎日、遊んで暮らしているというのに、この頻度は、あまりにも低い。

  私の場合、通勤に使っていたオートバイも、まだ、所有していて、そちらも、用なし状態になってしまっているのですが、オートバイの場合、バッテリーを維持しなければならない関係で、2週間に一度は、火を入れていますし、今年の夏からは、月一ペースで、ツーリングに行くようにしているので、折自よりも、まだ出番が多いです。


  折自は、台所の外の軒下に置いてあるのですが、カバーをかけてある上、ハンドルを折り畳んだ状態でないと、門まで出して来れないという、些か面倒臭い事情があり、それも、出番が少ない原因になっています。 一方、旧母自の方は、門から障碍物がない所に置いてあって、手前にある母自を横にどければ、すぐに乗れます。 出し易いか否かというのは、道具を使う上で、結構、重要なポイントなんですな。

  スポ自、とりわけ、高価なロードなどを買って、大切にするあまり、家の中に置いているという人も、少なからずいると思いますが、ぶっちゃけた話、出し難いでしょう? 二階に上げていたりすると、下ろす事を考えただけで、乗る気をなくすと思います。 いくら、軽いと言っても、個人宅の階段では、幅が知れていますから、ぶつけないように上げ下ろしするだけで、よーく、神経をすり減らしてしまうんじゃないでしょうか。

  自転車は、小さくても、結構大きいのであって、家の中に置くと、道具というより、家具クラスの場所を取ります。 スポ自を買う時、「とりあえず、置き場所があれば、少々、出し難くても、何とかなる」と思って、ゴー・サインを出す人は多いと思います。 私も、スポ自欲しい病が重篤だった頃には、そんな事ばかり考えていました。 だけど、買ってしばらくの内は、「何とか」していても、その内、乗る事に飽き始めると、その「何とか」をする気がなくなってしまうんですな。

  もともと、スポ自なんていうのは、乗っても乗らなくてもいい、「オモチャ」でして、飽きてしまったが最後、乗る動機は、九割九分、消えてしまいます。 その上、出すのが面倒な場所に置いてあれば、尚更、乗る気にならないというのも、無理はない。 スポ自でなくても、サブで使っている自転車は、常に、そうなる危険性を孕んでいます。 かくして、「自転車なんか、一台あれば、充分だ」という、身も蓋もない箴言が、大いに説得力を発揮してしまうわけですな。

  そういや、バブルの頃、金持ちぶって、セカンド・カーを買う愚か者が、仰山いましたっけ。 家に置き場所があるなら、まだしも、メインの車ですら、月極を借りている有様なのに、セカンド・カー用に、もう一台分、月極を借りて、「ミラXX」とか、「アルト・ワークス」など、軽のスポーツ・バージョンを置いていたのだから、お金をドブに捨てていたようなもの。

  体は一つしかないのに、そんなに車ばっかり買って、いつ、どう、乗り分けるのよ? 車が何台もあったって、幸福に寄与しないのなら、何の意味もありません。 そういう時代を見て来たからか、私は、金持ちが自宅の車庫に、高級車を何台も並べているのを見ても、ちっとも、羨ましいと思わず、むしろ、憐れだと感じます。 お金の有効な使い方を知らないんですな。


  私の折自の話に戻しますが、出し難い事が、乗らない原因の一つになっていたのは確か。 しかし、それよりも、自転車で遠出する気がなくなってしまった事の方が、主原因だと思われます。 皮肉なものですなあ。 働いていて、土日にしか出かけられなかった頃には、頻繁に遠出していたのに、毎日、遊んで暮らすようになったら、遠くへ行こうなんて気が、綺麗さっぱり、消し飛んでしまったのです。

  たぶん、仕事のストレスが、ゼロになったせいで、気晴らしの必要がなくなったからではないかと思います。 折自で遠出というのは、私にとって、無料でできる、恰好の気晴らしだったわけだ。 今頃、気づいた、なんだ、そうだったのか。 ストレスというのは、侮れないもので、人間の生活に、大変、大きな影響を及ぼしているんですな。

  ちなみに、今年の夏から始めた、オートバイでの月一のツーリングですが、8月初め、8月末、9月末、10月末と、4回出かけたものの、正直な感想、全然、楽しくないです。 オートバイを維持する為だけに、やっているようなところがあり、私の心の中に、「遠くに行きたい」という気持ちがないからです。 むしろ、億劫で仕方がない。 疲れるのも然る事ながら、出かける前に、目的地を決めたり、コースを調べたりするのが、この上なく、面倒臭いです。

  脳の老化を防止する為には、時折、緊張感を味わって、刺激を与えた方がよくて、ツーリングは、それにも有効なのですが、それは、あくまで、健康の事を考えた理屈でして、私の心の叫びとしては、「もう、遠くへなんか、行きたくないよ~、家にいらしてくれよ~」というのが、本音なのです。 やれやれ、私も、歳をとったものです。 体力が衰えた事よりも、心が衰えて、欲望が萎んでしまった事に気づいた時の方が、精神的ショックは大きいですな。

  「引退したら、今までやれなかった事を、片っ端から、やってやるぞ!」とか、意気込んでいる人は多いと思いますが、まあ、無理でしょうねえ。 仕事人間だった人は、元来、私生活を楽しむという事ができないから、瞬く間に、濡れ落ち葉になりますし、趣味に生きて来た人も、それまで、週末だけやっていた趣味を、毎日やる事になりれば、たちまち、飽きてしまいます。 お金がかかる趣味なら、そもそも、続けられません。 うまく行かないものですな。


  また、私の折自の話に戻しますが、無理に乗る機会を作っているのが、現状でして、どうしたものか、ほとほと、困っています。 遠出をしないのなら、旧母自で、ほぼ完全に間に合いますから、折自は処分してしまっても、実質的な不便は発生しません。 だけど、この折自は、岩手異動にも持って行って、撤退して来る時には、冷蔵庫の箱を改造して、ヤマト便で送るという、大変な苦労をした思い出があり、処分するのは、あまりにも、つらい。

  資源ゴミとして捨てるなど、端から想像もできず、処分するとしたら、リサイクル店へ持って行く事になりますが、元が1万円以下ですし、年数も経っているし、キズもあるので、買い取ってもらえたとしても、おそらく、1000円にもならないでしょう。 金額は、どうでもいいですが、次に買った人が、すぐに飽きて、雨曝しにしたり、錆だらけにしてしまったりする様子を思い浮かべると、折自が気の毒でなりません。 捨てるのも、売るのも、つらいなあ・・・。

  私は、オートバイ、旧母自、折自と、二輪車を、3台も所有していて、家の敷地内に置いているわけですが、常識的に考えて、一人の人間がもつには、多過ぎですな。 それは、前々から、思っていたのです。 オートバイは、前払いしてしまった自賠責保険の期間が終わったら、否も応もなく、処分するつもりですが、折自は、どうしたものか。

  今でも、台風の時には、物置や、父が以前、仕事場にしていた、プレハブの離屋に、折自を入れているのですが、一時的だから許されているのであって、ずっと、入れっ放しという事になったら、問題になると思います。 自室の押入れを整理して、空間を捻り出し、入れるしかないか。 しかし、しまっておいても、今後再び、出番が来る可能性は、かなり低いです。

  この折自、外見はいいと思うのですよ。 私が乗ると、小径車に大人の男の組み合わせなので、頭でっかちな印象になってしまいますが、自転車単独で見ると、実に美しい。 とても、送料込み、9565円で手に入れた自転車とは思えないくらいです。 自分で言うと、いやらしいですが、本当にそう思えるから、仕方がない。 それがまた、処分できない理由になっているんですな。


  だけど、いいのは、見た目だけでして、乗ってみると、ガタガタですよ。 私の折自だけでなく、折自は、大抵、ギシギシします。 フレームとハンドルに、ヒンジがあるから、仕方ないのですが、あまり、体重が多い人は、やめておいた方が無難。 同じ小径車でも、折り畳みでなければ、その手の問題はありません。 以前、ガンダムとザクの例で書いたように、可動部分が少なければ少ないほど、物は頑丈なわけです。

2015/11/08

パソコン処分と、HDD分解

  10月中旬以降、部屋の押入れや、天袋、天井裏にしまってあった物を処分する事に取り付かれて、今現在まで続いています。 集中して、断捨離を実行した事は、過去に2回あり、これが3回目になりますが、今回は、引退している身分なので、幾分、「終活」の色がついています。

  今回、物捨てを始めるきっかけになった、パソコンとワープロの処分から、個人情報保護の為にパソコンから取り出した、HDDを分解し、ディスクを取り出す所までを、日記から移植し、加筆修正しました。 並行して、他の物も捨てているのですが、一緒に書くと、ゴチャゴチャになってしまうので、パソコン・ワープロに関係あるものだけ抜き出した次第。




≪2015/10/11 (日)≫
  以前、古本を買った事がある、「ネットオフ」から、メールがあり、関連会社の、「リネット」というネット・リサイクル会社で、古いパソコンを無料で引き取るサービスを、10月18日までやっているとの事。 無料引き取りは、パソコン・ショップでもやってますが、リネットの場合、140サイズのダンボール箱に一緒に入るのなら、他の家電も引き取るというので、気を引かれました。 天井裏に、昔使っていた、ワープロがあるのですが、CRTが付いているタイプなので、ゴミに出せずに、困っていたのです。

  で、夕方になって、天井裏に上がり、コンパックのパソコンと、ワープロを、下ろして来ました。 天袋から、這い上がるのですが、太ったせいか、体を捩るのがつらい。 下りる時には、腕の力でぶら下がる事になり、体重が増えているせいで、二の腕の筋肉を傷めてしまいました。 こりゃ、本格的に、痩せた方が良さそうです。

  コンパックの「プレサリオ3200」は、私が、2001年に、インターネットを始めた時に、最初に買ったパソコンです。 OSは、ウインドウズ・Me。 8万円もしました。 1年半で、父に譲り、12年ちょっと、父の部屋にあって、2014年の3月頃、撤去して、その後、1年半、私の部屋の天井裏にしまってあったもの。 今でも使えると思いますが、基本性能が低過ぎて、リサイクル店に持って行っても、値段がつきますまい。

  ワープロは、ナショナルの「FW-K100」で、CRTモニター一体型です。 こちらは、もっと、思い出深く、そもそも、私がひきこもり生活を脱して、働き始めた理由は、このワープロを買いたかったから。 1986年の4月から、植木屋の見習いを始めたのですが、運転免許を取るのが条件だったので、そちらを優先し、更に、車を買わなければ、乗れるようにならないから、次に車を買い、10月頃になって、ようやく、念願のワープロが買えました。

  あの時は、嬉しかったなあ。 仕事が終わった後、買いに行って、街なかにあるパソコン店から、車を停めてあるホーム・センターの駐車場まで、重い箱を抱えて歩きましたっけ。 今では、そのパソコン店も、ホーム・センターも、私の車も、存在しません。 何もかも、時と共に去りぬ。 

  以来、2006年までの、20年間、私の部屋の中心に置かれて、専ら日記を書くのに使って来たのですが、いよいよ、反応しないキーが出て来たので、日記はパソコンで書く事にし、引退させて、天井裏にしまったのです。 それから数えても、もう、9年も経ちます。 思い出深いけれど、もう、使えないですから、いつかは、処分しなければなりません。 ちなみに、ワープロでつけていた日記は、紙に印刷して、保存してあります。

  パソコンは、中を開けて、HDDを取り出しました。 向こうで、データ消去サービスをしてくれるというので、それを頼もうかと思っていたのですが、調べてみたら、まさかの有料。 お金をかける気はないので、自分で処分する方を選んだ次第。 これから、回収を申し込むので、どうなるか分かりませんが、とにかく、処分計画は進めます。




≪2015/10/12 (月)≫
  昨日、パソコンとワープロを入れて梱包したダンボール箱に、クラフト・テープで封をしました。 底にも、抜けないように、二本、貼り渡しておきます。 まあ、元々、テレビが入っていた箱ですから、大丈夫だとは思いますけど。 この箱に入っていたシャープ製14型ブラウン管テレビは、ワープロを買う、少し前に買ったのですが、中身のテレビは、とっくに処分してしまって、箱だけ、天井裏でワープロを入れるのに使っていたのです。



≪2015/10/13 (火)≫
  今日は、処分するワープロとパソコンを、回収に来る日です。 指定した時間は、「12時~14時」でしたが、11時に、「ちょっと、早いですけど」と言いながら、佐川急便がやって来ました。 メジャーを出して、箱のサイズが、140以下になっているかだけ、確認。 他は、話が通っているようで、こちらは、伝票に書き込む事もなく、ハンコも押さず、受け取りの紙だけ渡されました。

  ワープロにも、パソコンにも、思い出はありますが、使えない機械や、使わない機械をとっておいても、邪魔なだけです。 処分し難いものは、自分が元気な内に、片付けてしまった方がいいに決まっています。 よく働いてくれた。 ご苦労だった。


  プリンターの詰め替えインクが、天袋にしまってあるのですが、それらを整理し、もう使わない物を捨てました。 まずは、機械部分が壊れてしまい、2010年8月に処分した、キャノンのプリンター、≪PIXUS 455i≫用に買った、詰め替えインク。 顔料インクです。 黒はエレコム製。 カラーは、ワゴン・セールで見つけた品で、「J-ink Actis」と書いてありますが、未だに知らない会社です。 詰め替えと言っても、カートリッジの上に孔を開けられず、下から、一滴ずつ浸み込ませるという、えらい手間がかかる方式でした。

  本体は、とっくに処分したのに、なぜ、インクだけ、5年間もとっておいたのかというと、どうやって、捨てればいいのか分からなかったからですが、紙に浸み込ませてしまえばいいという事に気づき、このほど、実行しました。

  もう一つは、hp複合機用の、エレコム製・詰め替えインク。 hpの複合機は、買った直後、大量に印刷する用事があり、詰め替えインクは、その時に買ったもので、かなり前に、使いきっていました。 こちらは、カートリッジの上に、注入口があって、太くて短い注射器で、インクを入れる方式でした。

  箱の中には、注射器や台など、いろいろと道具が入っており、インクを使い終わった後も、保存しておいたのですが、hp複合機も、もう、本体に残っているインクがなくなり次第、処分するつもりなので、詰め替え道具は用なしという事になり、先に処分しました。



  午後は、古いパソコンの箱に入っていた、2001年5月頃の、パソコンのカタログや、プロバイダーの申し込みCD、すでに、本体がないパソコンの説明書などを、天井裏にしまいました。 カタログや申し込みCDは、妙に懐かしいです。 モデルに使われている人達の中にも、今では、過去の人になってしまった顔があります。 そうですか、もう、あれから、14年も経ちますか・・・。

  ちなみに、申し込みCDは、当時、店頭で無料配布されていて、とりあえず、電話回線をパソコンに繋いで、このCDをパソコンに入れると、その会社にだけは接続できて、即時にプロバイダー契約ができるという仕組みでした。 ところが、それには、クレジット・カードが必要でして、持っていなかった私は、これを利用できず、同じく、店頭で無料配布していた、紙の申込書を郵送して、一週間かかって、ようやく、インターネット開通と相成りました。

  その間、パソコンは、何の役にも立たず、「スパイダー・ソリティア」なんぞやっていましたが、まー、つまんないゲームでしたねえ。 パソコンにも、インターネットにも、全く無知だったので、雑誌を読んで、俄か勉強し、自力で、ネットを始めたのですが、我ながら、虚仮の一念で、よくもやったものです。

  今回、これらも、捨ててしまおうかと思ったのですが、紙とプラスチックなら、いつでも捨てられるので、取っておく事にしました。 突然死した後、誰かに見られても、恥ずかしいという物でもないし。



  厄介なのは、パソコンから取り出したHDDでして、もう、3個になってしまいましたが、どう処分すべきか、悩むところです。 ネットで調べてみたところ、HDDのディスクには、ガラス製のと、アルミ製のがあるらしく、アルミは、曲げてしまえばいいのですが、ガラスは、割ると、微細な粉塵が飛ぶそうで、何だか、危なっかしいです。

  ネットで処分方法を調べていたら、「置き場所があるなら、捨てずに取っておいた方がいい」という、変わった意見があり、一理あると思ったので、とりあえず、取っておく事にしました。 USBケースを買って来て、外付HDDにするという手もありますが、必要ないですし、これ以上、電気製品を増やすのは、気が進みません。

  下の写真は、今までに処分したパソコンから取り出した、HDDです。 上は表面、下は裏面。 左から、順に、

40ギガ シンガポール製 (コンパック プレサリオ3200)
15ギガ マレーシア製 (ベスコ S1)
40ギガ 中国製 (イイヤマ KDV933RW) 

  製造国が、見事なまでに、バラバラ。 HDDというのは、あちこちで作っているんですなあ。




≪2015/10/14 (水)≫
  昨日、天井裏に、古いパソコンのカタログや申込CDを上げた時、代わりに、天井裏にしまってあった、感熱紙の束を下ろしました。

  2004年の事ですから、もう、11年前になりますが、それまで、ワープロで打っていた日記を、紙に印刷する作業をしました。 インク・リボンが生産中止になっていたので、感熱紙を使わざるを得なかったのですが、感熱紙のままだと、時間の経過に伴い、字が消えてしまうというので、複合機を買って、コピー用紙にコピーしました。 その時、感熱紙の方の原稿は、元の袋に入れて、保存しておいたのです。

  で、11年経って、昨日、それを見てみたら、見事に、字が消えて、白くなっていました。 印字した痕跡の凸凹はあるものの、字は限りなく薄くなって、もう、何が書いてあったのか、読み取れません。 消えるとは聞いていたけれど、こんなに綺麗に消えてしまうとは思いませんでした。

  未使用だった物も含めて、100枚入りが、9袋もあり、900枚の、ほぼ、白っ紙が、一気に手に入った事になります。 コピー用紙に比べると、薄っぺらいのですが、プリンターで普通に使えるようなので、試し刷りなどに使うつもりでいます。 コピー用紙の残りが少なくなっていたから、ちょうど良かったです。



≪2015/10/15 (木)≫
  アマゾンで、HDDケースについて調べてみたら、1000円くらいからある事が分かりました。 しかし、認識しない場合もあるらしく、そんな物に、一か八かで、お金を使うのは、あまりにもリスキーです。 それに、バック・アップ用の外付HDDは、一つあれば充分です。 パソコンと外付HDDが、同時に壊れる事など、確率的にありえないのですから。

  HDDの再利用など、考えるも愚かな事だと悟ると、3個のHDDを保存しておくのが、煩わしくなり、捨てる方法を検討し始めました。 とりあえず、分解して、ディスクを読めないようにしなければなりません。 蓋は、ビスで留まっていて、一つは、普通のプラス・ドライバーで外せるのですが、他の二つは、菊形のビスで、トルクス・ドライバーという特殊な工具が必要です。 そんなに高い物ではなく、ダイソーにもあるとの事。

  で、今日は、自転車で、清水町のダイソーに行って来たのですが、その店には置いてありませんでした。 運動を兼ねていたので、無駄足にはなりませんでしたが、手に入らないのは、困りました。 ネットだと、300円くらいで、各サイズが揃った、セットが買えますが、「捨てる物の為に、300円払うのも、どうかな・・・」と、迷っている次第。 とりあえず、父が持っていないか、明日にでも、訊いてみる事にします。



≪2015/10/16 (金)≫
  HDDの処分問題ですが、今朝、市役所ホーム・ページの、ゴミ関係のページを調べてみたら、私が持っている、「ゴミ出し便利帳」よりも、もっと詳しい分別索引が見つかり、その中に、HDDが載っていました。 資源ゴミの、金属類なのだそうです。 なんだ、正々堂々と、出せるわけだ。 もちろん、データを読まれないようにする処置は必要ですけど。

  それが分かったら、また、気が変わり、「いつでも出せるのなら、急ぐ必要もないか」と思えて来ました。 優柔不断の限りを尽くしている感あり。 父に、トルクス・ドライバーがあるか訊いてみたら、「見た事もない」という返事。 ないと分かれば、買うしかないわけですが、まあ、急ぐ必要はないわけだ。



≪2015/10/17 (土)≫
  懸案の、HDD処分計画。 「千円ちょいで、USB・HDDケースを買えば、外付HDDとして再利用できる」という当てが、なかなか、頭から離れなかったのですが、今日になって気づいたのが、「千円ちょい、あれば、32ギガの、USBフラッシュ・メモリーか、SDカードが買える」という事でした。 処分対象の3つのHDDの容量は、それぞれ、40、40、15ギガで、まったく、大した事はなく、32ギガのメモリーで、充分、代用できるはず。 そして、フラッシュ・メモリーや、SDカードの方が、処分は、断然、簡単です。 折って、紙に包んで、燃えるゴミに出してしまえばいいのですから。

  現在、使っている、外付HDDは、160ギガですが、買ったのが、2006年の6月11日でしたから、9年ちょっと使って、使用しているのは、14ギガくらいです。 ざっくり計算すると、32ギガのメモリーがあれば、20年くらいは、問題ないわけだ。 今すぐ、必要というわけではないので、あと、数年すれば、64ギガのメモリーが、同じくらいの価格まで下がると思われ、そうなれば、もう、再利用HDDの優位は、完全になくなります。

  どうせ、再利用するには、USBケースを買う為の出費が必要になり、タダではないわけですから、他のメモリーを買った場合に比べて、得をするという事は、現状でもありません。 前にも書いたように、バック・アップ用の外部記憶装置は、一時期に、一つあれば充分でして、たくさんあっても、データのコピーが面倒になるだけです。

  それに、たとえ、HDDを再利用できたところで、いつかは、壊れるわけで、結局、捨てる時が来ます。 処分を先延ばしにしているだけなんですな。 それならば、すぐに、やってしまってもいいと思うのです。 よし、これで、理論的な外堀は埋まったぞ。 あとは、壊す為の道具やノウハウが揃うかどうかと、実行する気になるかどうかだな。 まだまだ、先は長いです。



≪2015/10/18 (日)≫
  明日が、資源ゴミの回収日なので、天袋に入っていた、パソコン関係の不要物を、いくつか、処分しました。

  最初の自室パソコンと、最初の居間パソコンに後付けした、LANアダプターの空箱が二つ。 2001年と2002年に買った物。 当時のパソコンには、LANアダプターが付いていない物が多かったのです。 最初の自室パソコンなんて、まだ、買ったばかりだったのに、よく、LANアダプターの取り付けなんて、やったものです。 その時、取り外した、モデム・ボードが、空箱の中に入ってましたが、それも、捨てました。 たかが、LANアダプターなのに、フロッピーのドライバや、厚さ8ミリくらいある取説が入っていて、驚きました。 昔は、何かと面倒だったんですなあ。

  あと、2台目の自室パソコンに増設した、256メガ・メモリーの空箱。 買った時には、「これさえ付ければ、速くなるぞ」と、欣喜雀躍していたものですが、今にして思うと、速くなったと感じたのは、最初の頃だけで、すぐに、元の遅さに戻ってしまったような気がします。 8500円と、結構、高かったのですがね。 中身のメモリーは、3年前に、パソコンを処分した時に取り外し、リサイクル店に持って行きましたが、値段がつかず、ゴミとして引き取ってもらいました。

  それに、父の部屋のパソコンで使っていた、スピーカーも処分。 これは、元々は、2台目の自室パソコンのセットに入っていた物です。 まだ、使えますが、スピーカーは、未使用の物が、他に二つもあるので、今後とも、出番が見込めず、捨てる事にした次第。 分別区分が違うため、コードは取らなければならないのですが、まだ使える物のコードを、鋏で切るのは、嫌なものですな。


  あと、懸案のHDD、3個ですが、手持ちのマイナス精密ドライバーで、トルクス・ビスが回らないか試してみたのですが、大き過ぎたり、小さ過ぎたりで、駄目でした。 そんなんで回れば、誰も、トルクス・ドライバーを買ったりしないか・・・。


  午後、バイクを出して、トルクス・ドライバーを探しに、ホーム・センターや、ダイソー各店を回りました。 しかし、私が欲しいサイズは、全く見当たりませんでした。 疲れた。 「あるけど、高い」というのなら、まだ分かりますが、「そもそも、ない」というのは、話になりませんなあ。 ネットで買うしかないのか。

  今日、分解できないという事は、明日の資源ゴミには間に合わないわけで、次は、一ヵ月後という事になります。 急ぐ理由もないので、ボチボチ、進める事にします。



≪2015/10/19 (月)≫
  アマゾンで、トルクス・ドライバーのセットを注文しました。 送料込みで、323円。



≪2015/10/21 (水)≫
  ネットで注文した、トルクス・ドライバーですが、二日経っても届かないので、発送元がどこか調べたら、なんと、広東でした。 そりゃ、二三日では、届きませんわ。 気長に待つ事にします。 それにしても、外国からの買い物が、送料込みで、323円とは、流通の世界は、謎に満ちていますなあ。



≪2015/10/23 (金)≫
  最初のパソコンと、ワープロを処分した結果、フロッピー・ディスクを保存しておく理由がなくなったので、廃棄する為に、ラベルを剥がし、ディスクにカッターで、切込みを入れました。 フロッピーは柔らかいから、簡単に切れて、助かります。 切ってしまえば、もう、ドライブにかけられないので、中身を読み取られる心配は、まず、ありません。 公的機関にマークされているという人なら、別ですけど。 

  ついでに、CDも、いらない物を処分。 1・2・3台目までのパソコンに付いて来た、アプリケーション・ソフトが多いです。 古くて、今のパソコンでは、インストールできません。 私の個人情報は入っていないから、そのまま、捨てます。 自分で焼いた形跡のある、CD-Rは、念の為、シュレッダーにかけました。 傷がつくだけかと思ったら、バラバラになってしまいました。 手回しシュレッダーも、侮れんな。

  2003年に、1980円で買って来たソフト、「驚速ADSL」も、捨てました。 98SE機とMe機には有効でしたが、その時、自室で使っていた、XP機では、全く効果がありませんでした。 もはや、ADSLの時代ではないので、とっておいても、意味はありません。 いや、ADSLの技術自体は、光回線などより、ずっと、コスト・パフォーマンスが高いと思うんですがね。 光回線は、やめてみると分かりますが、過剰速度、過剰料金でしかありません。




≪2015/10/31 (土)≫
  午後3時半頃、天井裏に上がり、明後日の埋め立てゴミの日に捨てる物を、下ろしました。 ついでに、パソコンの・キーボードも捨てる事にしました。 使えるのですが、しまってあるのが、3台もあり、予備にしては多過ぎるので、古い方の2台を処分。



≪2015/11/01 (日)≫
  リネットからメールで、パソコンとワープロの処理が完了したとの事。 送る前に読んだ説明に、「もし、荷物の中に、パソコンが含まれていなかった場合、処理料金を請求します」といったような事が書かれていたので、パソコンは確かに入れてあったものの、何となく不安でした。 無事に片付いて良かったです。

  とりわけ、ワープロには、20年も世話になったので、すでに分解されたと思うと、少なからぬ感慨があります。 職場が、知性的会話があまりできない所だった関係で、長い事、ワープロは、私が独り言を書き込める、唯一の相手だったのです。 印刷も、よく利用しました。 規格外の紙に印刷する場合、ワープロは、パソコンのプリンターより、遥かに便利でした。



≪2015/11/02 (月)≫
  HDDを分解する為に、アマゾンで買った、トルクス・ドライバーが、今日、届きました。 発送メールが来たのが、10月19日(月)なので、ちょうど、2週間かかった事になります。 広東から、はるばる、船に揺られて来たわけですな。 もっとも、そんな事を言い出せば、大抵の輸入品は、船で運ばれて来るわけですが。 それにしても、本体と送料込みで、323円というのが、信じられません。



≪2015/11/03 (火)≫
  朝一で、昨日届いた、トルクス・ドライバーを開封しました。 発送元ですが、アマゾンの出品者情報では、広東でしたが、封筒に貼られたシールを見ると、北京からになっていました。 発送日は10月19日なのに、北京の消印は、10月25日になっているので、一度、北京に送られて、そこから、国際郵便になるのかも知れませんな。

  宛名ラベルには、「Small Packet By Air」という文字が見えます。 するってーと、航空便で来たんですかね? 2週間もかかって? 宛名の前には、「SHIP TO」と書いてありますが、これは、船便という意味とは限りますまい。 うーむ、国際郵便の仕組みは、分からんなあ。

  クッション封筒の中には、送り状のような物はなくて、品物だけが入っていました。 ドライバーの柄の部分と、各種ビットが、15本、プラスチック・ケースに入ったもの。 トルクス・ビットは、T5、T6、T8、T10、T15の、5本が入っています。


  早速、机の上に新聞紙を敷いて、HDD、3個の分解を開始。 トルクス・ビットは、T8と、T6を使いました。 ところが、3個の内、1個の内部に、T7のビスが使われていて、T7のビットは、セットの中になかったので、大いに焦りました。

  やむなく、ラジオ・ペンチで挟んで緩め、T6で回して、外しました。 「ラジペンで回るなら、トルクスは要らないのでは?」と思うかもしれませんが、作業効率を考えると、やはり、あった方がいいと思います。 それに、ラジペンが入れられない狭い所もありますから。


  3個とも、使われているビスは、径も、頭の形も、バラバラでした。 ディスクは、15ギガのが2枚、40ギガの方は、一つが2枚、もう一つは1枚で、軸受けの押さえだけ外せば、取れるものもあれば、針のストッパーまで外さなければ、取れないものもありました。 ディスクを抜いた後、全てのビスを元の孔に締め直しました。 念の為、「ディスク 取出済」と書いた紙ラベルを貼っておきます。 資源ゴミの金属類として、出す予定。

  取り出した、計5枚のディスクは、新聞紙に包み、庭に出して、金槌で叩いたのですが、割れた感じがしません。 恐る恐る、中を見てみたら、なんと、5枚すべて、アルミ製でした。 なんだ、それならそうと、書いてくれればいいのに。 書く所なんて、ないけれど。 金属ならばと、遠慮なく、凹凹に叩いておきました。 これも、資源ゴミの金属類ですな。

  やれやれ、ようやく、HDDが片付きました。 道具が揃い、やり方も分かったので、この後は、いくつでも、壊せます。




  以上です。 これで、押入れ・天袋・天井裏には、パソコン・ワープロ関係で、使っていない物が、だいぶ、減りました。 パソコンとワープロの本体を処分できたのは、大きかったです。 特に、ワープロは、どこへ捨てていいか分からない状態だったので、リネットのサービスは、渡りに舟でした。

  残っているのは、現在のメイン&サブ・パソコンに付いて来た、スピーカーが2組。 他に、XP機に入れていた、後付けの内蔵DVDドライブですが、これは、現在のメイン・サブ機にも使えるので、今後、出番があるかも知れないと思って、取ってあります。 あと、フレッツADSLで使っていた、ブロード・バンド・ルーターがあり、これはもう、出番がないと思うものの、なぜか、捨てられないでいます。

  ソフトでは、「エンカルタ百科事典」があるのですが、今のパソコンでは、インストールができず、ディスクを常に入れた状態でないと読めないので、何かと面倒で、使っていません。 捨ててしまってもいいんですが、使おうと思えば使えるという点が抵抗になって、なかなか実行できません。

  すでに本体を処分してしまったパソコンの説明書や、各OSの説明書なども取ってありますが、意味ないと言えば、意味ないですな。 だって、本体がもう、ないわけですから、説明を読む必要もないわけです。 なのに、なんで、捨てられないんだろう? 自分で自分の心が読めません。

2015/11/01

読書感想文・蔵出し⑮

  読書感想文が溜まって来たので、蔵出しします。 今までのパターンだと、他に書く事がないとか、書く暇がない時に、蔵出しする事が多かったですが、今回は、どちらかというと、後者の口。 月末なので、月一のバイク・ツーリングにも行かねばならず、銀行にも行かねばならず、そろそろ、寒くなって来たので、ベランダ・ケージの亀を、室内ケージに移さなければならず、やる事ばかりで、ブログの記事を書くゆとりがなかったのです。



≪神様はつらい≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
ストルガツキー兄弟 著
大田多耕 訳

  ストルガツキー兄弟というのは、ソ連・ロシアのSF作家で、それぞれ、兄は日本文学者、弟は天文学者と、本業がありますが、共同で発表したSF小説が優れていた為に、そちらの方で、世界的に有名になった人達。 タルコフスキー監督で、映画化されている、≪ストーカー≫や、≪有人島(収容所惑星)≫、≪蟻塚の中のかぶと虫≫など、翻訳されている作品は、多いです。

  ≪神様はつらい≫は、1964年に発表された長編。 ≪神々のたそがれ≫という題で、2013年に映画化され、それが、どえらい問題作だというので、原作を読んでみたという次第です。 私は、もう、10年くらい前に、ソ連・東欧SFに嵌まって、ストルガツキー兄弟の作品も読み漁ったのですが、≪神様はつらい≫を読んでいなかったのは、「世界SF全集」に入っている事まで、思い至らなかったから。

  地球から遠く離れて、ほぼ地球人類と同じ知的生命体が、ヨーロッパ中世と同レベルの文明段階にある惑星へ、情報員として送り込まれた男が、その星の一つの国で、残忍な粛清を進める大臣の手から、知識人達を救おうと努力するが、地球人が、遥かに進んだ文明と、神のような力を持っていても、遅れた社会を正しい方向へ導くのが、いかに困難であるかを、痛感する話。

  似たようなテーマは、≪有人島≫や、スタニスワフ・レムの、≪エデン≫でも、扱われていますが、いずれも、結論は、「何もしない方がいい」というもの。 この作品でも、同じような結論に至るのですが、「何もしない」と言うより、「何をしても、無駄」という感じの話です。 無力感が漂うので、あまり、楽しい小説ではないですな。 それが、リアリティーを担保しているのも事実ですが。

  主人公は、ドン・ルマータという、貴族になりすましているのですが、文明の利器というと、地球に映像を送る為に、帽子に埋め込んだカメラだけで、持っている武器は、剣だけ。 残忍な大臣、ドン・レエバを殺す事もできるのに、それが無意味だと分かっていて、実行できません。 彼を倒しても、すぐに、同様な支配者が出て来るからです。

  このテーマ、ソ連・東欧のSFでは、よく出て来るのに、アメリカやイギリスのSFでは、まず見られず、「文明が進んでいる社会が、遅れている社会を導いてやるのは、当然だ」という考え方で支配されています。 恐らく、そういうのが、アングロ・サクソン的な発想なんでしょうな。 映画、≪アバター≫などは、若干、「やらない方がいい」という方向に振っている作品と言えるでしょうか。 だけど、≪アバター≫の地球軍は、一度負けたくらいでは諦めず、完全に支配下に置くまで、何度でも、攻めて来そうな気がしますけど。

  話を戻しますが、この小説、異星の話であるにも拘らず、SF的な小道具は、ほとんど出て来ません。 前述したカメラと、ヘリコプター、一時的に体調を回復させる薬、あと、ラスト近くで密かに使われる催眠爆弾、そんなところが、地球から持ち込まれた物ですが、みんな、現在でもあるような物ばかり。 その上、舞台になっているのが、ヨーロッパ中世そのまんまみたいな街ですから、語り方自体が、時代小説のようで、SFっぽい雰囲気は、ほとんどありません。 逆に言うと、SFの道具立てを使わなくても、SFは書けるという証明になっているんですな。

  時代小説っぽいので、前半は、かなり、もたつきます。 ≪三銃士≫ほどの見せ場もなく、途中で放り出したくなりますが、ドン・レエバによるクーデターが起こると、緊張感が盛り上がって、話の展開に興味を引かれるようになり、後は、ラストまで、そのまま、引っ張って行かれます。 主人公に近い登場人物が、結構死ぬのですが、一人一人を、そんなに深く描き込んではいないから、大きなショックは受けません。 前半のもたつきさえ耐え忍べば、他は、割と安心して読める内容です。



≪クムビ≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
ゲンナージー・ゴール 著
飯田規和 訳

  ストルガツキー兄弟の、≪神様はつらい≫を読みたくて、早川書房の「世界SF全集24」を借りて来たわけですが、同じ本に、別の作家の作品も入っていたので、ついでに読みました。 しかし、まあ、そういう理由で読んだ小説で、面白かった例しは、あまり、ないです。 これも、その例に漏れなかったので、感想は、簡単に書いておきます。

  作者のゴールは、1907年生まれ、戦前は、普通の作家で、戦後になってから、科学者を主人公にした小説を書くようになり、そこから、SFに入って行ったとの事。 この、≪クムビ≫は、1963年に書かれた中編です。 私が生まれる前に書かれたわけですな。 ちなみに、70年代に、半導体が登場し、「産業の米」と言われるようになるまで、ソ連・東欧と、アメリカ・西欧の、科学技術力の差は、ほとんど見られませんでした。 むしろ、宇宙開発や原子力利用など、ビッグ・サイエンスと呼ばれる、最先端分野では、ソ連・東欧の方が、先を行っていたとも言えます。

  「時間研究所」に勤める父を持ち、自身も、学校卒業後、同じ研究所に勤めた青年が、人類が初めて、その存在を知った、地球外知的生命体である、「ウアザ星人」との、直接接触を前にして、地球人とは全く異なる、ウアザ人の自然観に当惑する一方、研究所内で進められている、「記憶」や、「意識」の研究に接する話。

  はっきり言って、一つのストーリーになっていません。 テーマが、バラバラのまま、ただ、主人公が、それらに関わるという形で、繋がっているだけです。 ウアザ人に関しては、直接接触の前までは、「ウアザ語には、自然を表す言葉がなく、ウアザ星は、人工物だけで構成されている」という、興味深い設定がなされていますが、それは、後に、勘違いだと分かり、ウアザ人自体が、それほど、面白い存在にはなりません。

  「過去の出来事を、全て、記憶している人物」や、「死んだ人間の意識を、コピーした機械」といった、面白いテーマに発展しそうなモチーフが出て来ますが、そちらも、掘り下げが今一つで、どれも、中心的なテーマにはなれていません。 とは言うものの、知的、未来的、哲学的な雰囲気は、充分に醸し出されており、作者の力不足で、こうなってしまったのか、それとも、意図して、こういう作品にしたのかは、判断しかねます。 一つ一つのアイデアを分離して、それぞれ独立した作品にすれば良かったのに。



≪自己との決闘≫

世界SF全集 24
早川書房 1970年
アリアードナ・グロモワ 著
草柳種雄 訳

  これも、早川書房の「世界SF全集24」に収録されていたもの。 作者は、1916年生まれの女性で、本業は、文芸学者・批評家だそうです。 50年代末から小説を書き始め、すぐに、SFに手を染めて、この≪自己との決闘≫は、1963年に書かれたとの事。

  フランスのパリにある家に籠り、人間の細胞から培養した臓器で、人造人間を数体作った神経生理学者が、なかなか安定しない彼らを扱う事に、心身ともに疲れきり、昔の教え子と、その友人、そして、彼の妻によって呼ばれた、身分を隠した新聞記者の青年という、三人の助手に頼る事になるが、事態の悪化を止められない話。

  人造人間の最初のアイデアは、フランケンシュタインでして、戦前には、すでに使い古されていたくらいですから、63年のSFとしては、題材が古典的です。 当時の、最先端の科学知識が盛られているとは思うのですが、アイデア自体が古いせいで、新味は感じません。 というか、この小説の中に描き込まれている科学知識が、発表当時、どのくらいのリアリティーを持っていたかが、今では分からないのです。

  これは、SFの宿命のようなもので、年月が経つと、現実の科学技術が、物語の世界を追い越して、作品が陳腐になってしまったり、追い越さなくても、違う方向に進んで、これまた、作品が陳腐になってしまったりします。 この作品の場合、そのどちらのケースでもないのですが、結局、生体を利用した人造人間は、今に至るも作られていないわけで、やはり、陳腐化したと言わざるを得ないでしょうなあ。

  対照的な存在として、機械装置だけを使って、人造人間を作る学者が登場し、人造人間製作の倫理について、両者の論戦が戦わされます。 しかし、それが、この小説のテーマとすると、掘り下げが足りない感じがします。 他の部分の枝葉が多過ぎるのです。 そもそも、助手を三人も出さなくて思いますし、とりわけ、新聞記者と、学者の妻の関係は、テーマと掛け離れ過ぎています。 どうも、人物の揃え方が宜しくない。

  全体の9割が、会話で埋まっていて、読み易いと言えば、言えますが、あまりにも、情景描写が少な過ぎて、臨場感は希薄です。 テーマが難しいので、その分、読み易くしようとして、こんな書き方をしたのか、それとも、この作者が、そもそも、こういう作風なのかは不明。 登場人物が、全員、フランス人というのも、ソ連SFの独特の世界を期待して読む向きには、残念なところでしょう。 

  どうも、ついでに読んだ小説というのは、外れが多いですな。 アンソロジーを好んで読む人の気が知れません。



≪幽霊殺人≫

ハヤカワ・SF・シリーズ
早川書房 1974年
ストルガツキー兄弟 著
深見弾 訳

  ソ連・ロシアの代表的SF作家、ストルガツキー兄弟が、1970年に発表した、短めの長編小説。 私が読んだ本は、新書サイズの二段組みで、213ページでしたが、文庫本にしたら、そこそこ厚いのが、一冊になると思われる長さです。

  一人の刑事が休暇をとり、雪深い渓谷の中にある、遭難者の幽霊が出ると噂のホテルへ、泊まりに行ったところ、たまたま泊まり合わせた数組の客の中に死人が出て、その首が180度ねじれていた事から、殺人事件と見て、捜査を始めるが、怪しい人物を何人か見つけるものの、なかなか、事件の全容を解明する事ができず、やがて、想定外の事実にぶつかる話。

  場所は、ヨーロッパのどこかの国のようですが、国名はなく、地名も、実在の場所ではなく、登場人物の名前からも、地域を特定するのは、難しいです。 ただ、ソ連国内でない事は確か。 ソ連のSFでは、外国が舞台で、外国人しか出てこない話は、結構あるみたいです。 日本のSFでも、小松左京さんの小説に、出て来るのが外国人だけというのが、ある事はあります。

  解説によると、ソ連では、冒険物・推理物と、SFが、非常に近いカテゴリーになっていて、一括りにされる場合もあり、この小説は、その状況をうまく利用して、ミステリーのように思わせておいて、SF的な結末で、読者をあっと言わせようという趣向らしいです。 実際、全体の9割くらいは、ミステリーの手法で書かれていて、終わり近くにならないと、SFである事が分かりません。

  小松左京さんの、≪大杉探偵シリーズ≫も、同じ趣向ですが、そちらが書かれたのは、1973年から、77年にかけてで、この小説の方が早いですな。 しかし、同趣向の作品は、もっと、前から存在するのかもしれません。 どこの国でも、SF小説の掲載は、ミステリー雑誌から始まる事が多く、両者には、浅からぬ因縁があるからです。

  そういう趣向ですから、最初から、SFだと分かっていると、せっかくの仕掛けが発動せず、興を殺がれてしまいます。 「ハヤカワ・SF・シリーズ」に入れてしまったのは、まずかったのでは? だけど、結局は、SFなわけでして、純粋なミステリーとして扱うわけにも行かないから、痛し痒しと言ったところです。

  フーダニット系のミステリーの雰囲気は、濃厚に薫っているものの、謎解きのしようがないので、あんまり、面白くはないです。 SFとしても、特別なテーマがあるわけではないので、そんなに、面白くはありません。 ちょっとした、変り種SFだと思えば、それなりに楽しめると言ったところでしょうか。



  以上、4作品ですが、読んだ本は、2冊です。 2015年の、4月半ばから、5月初めにかけて、図書館で借りて来て、読んだもの。 この頃は、ソ連・東欧のSF作品を、立て続けに読んでいました。 ソ連のSF作家だと、ストルガツキー兄弟が、やはり、図抜けて面白いです。 理系というより、文系の頭で考えているんですが、文明論を、背景のテーマにしているものが多くて、時代を経ても、なかなか、古くなりません。