2005/11/21

お知らせ


 作者の都合により、このブログは休止します。
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 尚、コラム『心中宵更新』は、最新記事のみ、サイト『換水録』で読む事が出来ます。

2005/11/13

記憶のメカニズム


  外国語に取り憑かれた人間が誰でも望むこと。 それは・・・・

 「何とかして外国語を楽に会得する方法は無いものか?」

  しかし、取り憑かれた期間が長い人ほど、そんな方法が無い事を知っています。 日本では、「中学一年の時から数えると、○十年以上英語の勉強をしているが、未だに全く分からない」 という人はうようよいます。 一生を外国語の学習に捧げたにも拘らず、報われぬまま世を去った人すら数え切れぬほどです。(Les Misérables.....)

  その一方で、この世には、何ヶ国語も使いこなす 『語学の天才』 という人達も存在します。 同じ人間なのに、この違いはどこから来るんでしょう? 何かが違うはずなのです。 生まれついての才能と言ってしまえばそれまでですが、そうではないような気がします。 よく、「言葉は習うより慣れろだ」 と言われるように、他の学問と語学には、根本的な違いがあります。 もし言葉の習得に才能が関わっているとすれば、母語においても個人差が出るはずですが、そういう事はありませんからね。 思うに、『語学の天才』 と言われる人達は、他の人が知らない、何か特別な習得方法を取っているのではないでしょうか?

  彼らは別に習得のコツを秘密にしているわけではなく、聞かれれば答えるようですが、そんなに多くは語りません。 『1~3ヶ月くらいの短期間で、集中して覚える』 というのは、よく聞きますが、他のコツは、聞いた事がありません。 もし、誰がやってもうまく行く方法があるとすれば、とっくに世界中に広まっているでしょう。 恐らく彼ら自身も、自分がどうして外国語をスイスイ習得できるのか、よく分かっていないのではないかと思われます。

  そこで、推測が登場するわけです。 彼らは一体、何をやっているのか?

  最低限これだけはやっているはずだ、と思われるのは、『単語、又は文を、目に入れる』 という事です。 一つの言語を習得するのに、どれだけの単語が必要なのかは定かではありませんが、一説には3千個などとも言われています。 しかし、私の経験では、3千程度では、ほとんど用を為さないと思います。 たとえば、母語の日本語で、単語をどれだけ知っているか調べてみましょう。 なるべく一般向けの国語辞典を取り出し、見出し語を見て、知っている単語が1ページあたり何個あるか数えていきます。 無作為に10ページくらい調べれば充分でしょう。 平均を取って、1ページあたりの知っている単語の数に、全ページ数を掛ければ、自分が知っている日本語の単語の大体の数が分かります。 まあ、普通の大人なら、5万語以下という事はないでしょう。 日常会話を賄うには、その程度の単語数は必要なのだと考えられます。 実際には、それらの単語の組み合わせの法則も重要なので、覚える事はその数倍に膨れ上がります。

  さて、『語学の天才』 の方々ですが、彼らは、それだけの単語を 『1~3ヶ月の短期間で』 頭に入れてしまうというのです。 現在、中・高生の方々は、英単語の暗記に冷汗脂汗を流していると思うので、たとえ3000語であっても、1~3ヶ月の間に覚えるなど到底不可能だと思うでしょう。 ところが、それより遥かに多い数の単語を、覚えてしまう人がいるのですよ、実際に・・・・。 あまりにも落差が大きいと、絶望する前に笑っちゃうね。 あはははは!

  便宜的に、一言語を使いこなすのに必要な単語数を1万語としましょうか。 一日10語暗記するとして、1ケ月では300語、3カ月でも900語にしかなりません。 これでは桁違いで、問題外ですな。 しかし、『語学の天才』 達は、何の疑いも無く、三ヶ月で一万語を頭に入れているのです。 どうやっているんでしょう? 考えられる可能性は一つです。 彼らは 『暗記』 などしていないという事です。 しかし、読むなり聞くなり、知識を頭に入れなければ、覚えられるはずはありません。 すなわち、一万語分、読むか聞くかはしているのです。 聞くというのは、相手がいなければ出来ない事で、よほど閑な人を捕まえても、そんな事に付き合ってはくれないでしょう。 当然、大部分の単語は、読んで覚えているものと思われます。

 「読むくらいなら、私にも出来るけれど、ちっとも覚えられない」 と思うでしょう? さて、そこが問題です。 本当に一万語、読みましたか? 読むだけなら3カ月あれば可能ですが、決しておいそれと出来る量ではありません。 集中しなければ不可能です。 試しに英語の辞書を開いてみて、今までに見た事がある単語の数を数えてみてはどうでしょう? 意味がはっきり分からなくても、見た事だけはあるという単語を数えるのです。 たぶん、一万語には程遠い数だと思いますよ。 つまり、暗記どころか、目にも入れていないのです。 そんなんじゃ、覚えられるわけないわな? 当たり前じゃん!

  外国語を覚える時、『単語を暗記しなければいけない』 と思うから、気が重くて始める前からやる気を失ってしまうのですが、『読んで目を通すだけで良い』 というなら話は別です。 だいぶ気楽でしょう。 問題は、『そんな事で本当に覚えられるのか?』 という信頼性ですが、確実に信頼するに足る経験を誰もが持っています。 母語を覚える時には、暗記などしなかったという事です。 ただ、耳に入れていた、ただ目に入れていた、その内に自然に覚えてしまった。 これは誰にも否定できないでしょう。

  ネットをやっていると、この世の中には、文章が書ける人とそうでない人の二種類がいるという厳然たる事実に直面しますが、この二種類を分けているのが、読書量の違いである事は、書ける側にいる人には直ぐに分かるはずです。 別に才能なんて関係ない。 たくさん読んだから、文の書式が自然に頭に入って、自分でも書けるようになったのです。 これと同じ事が、外国語を覚えられる人とそうでない人の関係にも適用できると思うのです。 能力的に出来ないのではなく、やるべき事をやっていないんですわ。

  記憶のメカニズムには、諸説あるようですが、『一時記憶』 と 『永続記憶』 の二つに分かれる事は、どの説でも共通しているようです。 テスト前の一夜漬けの暗記などは、主に一時記憶に入り、直ぐに忘れてしまいます。 『暗記』 というと、『ただ読むだけ』 に比べて、エネルギーが要るので、より記憶され易いと思われがちですが、実は効果は同じなんじゃないでしょうか? 一生懸命暗記しても、それは一時記憶に入るだけで、永続記憶の方に直行するという事はないと思うのです。

  記憶のメカニズムは、イメージ的に、『印刷』 に似ていると思います。 『暗記』 も、『ただ読むだけ』 も、永続記憶の方には、薄い文字で一回印刷されるだけです。 薄いので、思い出そうとしても簡単には出てきません。 しかし、確実に印刷されてはいるのです。 何ヶ月か、何年か過ぎてから、また同じ単語に出会うと、「あれ? この単語はどこかで見た事がある」 と思う事がありますが、それが印刷されている証拠です。 そして、二回目に見た後には、上から重ねて印刷されて、前よりも濃い文字になります。 それが繰り返されるうちに、だんだんはっきりした文字になっていって、やがて、忘れようにも忘れられなくなるのではないでしょうか?

  まあ、四の五の言ってないで、とにかく読みましょうや。 どんな方法であっても、入れなければ入らないわけですから。

2005/11/09

最後通帳


  積立貯蓄の引き落とし用に使っていた普通預金通帳が一杯になってしまいました。 やれやれ、また窓口が開いている時に、銀行に行かなければなりません。 繰り越し通帳が作れるATMというのが、ある所にはあると、風の噂に聞いた事がありますが、私の利用している銀行でもそういう機械を入れて欲しいものです。 何が馬鹿馬鹿しいと言って、ただ通帳のページが一杯になってしまったというだけで、貴重な休日の時間を潰さなけばならないというのが納得できません。 行って、手続きして、帰って来るだけでも30分はかかりますが、それを済ませたからといって、その後の私の生活に何らかのプラスがあるわけではないのですから。

  それはさておき、何気なく使っている銀行の通帳ですが、この薄っぺらな冊子には、どのくらいの信用度があるんでしょう? 通帳自体には、紙幣のような偽造防止の工夫がなされているわけでもないし、肝心の数字はただのインクで印刷されているだけです。 確かに普段、機械に入れればお金を引き出せますし、窓口へ持って行っても、通帳の記載と銀行側のデータが一致しないという事は無いんですが、もし、銀行のデータが何らかの理由で失われてしまった場合、通帳の記載だけで、預金の残高を証明できるんでしょうか? 考え出すと、どんどん不安になってきます。

  私は年代的に経験がありませんが、その昔、通帳の記載は、印刷ではなく、手書きされていたらしいです。 銀行の窓口係がボールペンで書いてよこしたというのです。 それはそれで、冷や汗が出るほど不安なシステムですな。 その頃は、銀行員の信用度は今よりずっと高かったんでしょうねえ。 今だったら、手書き文字なんて絶対信用しません。 まず、相手の銀行員そのものが信用できない。 ただの人間でんがな。 後で、「こんな数字を書いた覚えはありません。 お客様が勝手に書き込んだんじゃありませんか?」 などと言われたら、もうそれっきりです。

  いまや、覚えている人も少なくなってしまいましたが、1999年から2000年に切り替わる時、コンピューターが誤作動を起こすという危険性が声高に叫ばれました。 『2000年問題』 とか言ってましたっけ。 疑り深い私は、銀行を信用できなかったので、1999年の年末にわざわざ銀行に行き、通帳とは別に 『残高証明書』 を貰って来ました。 そして2000年になってから、また銀行に行き、狂いがないか確認してもらいました。 当時、普通預金と定期預金を合わせて、4ヶ所の金融機関に小額ずつ分散してましたから、4ケ所で同じ事をして貰ったわけです。 自分でも 「猜疑心が強い嫌な客だ」 とつくづく思いながら、寒空の下を銀行巡りしたのを、よく覚えています。

  銀行と労金は、『2000年問題』 絡みの問い合わせである事を直ぐに理解して、快く残高証明書を発行してくれましたが、郵便局だけは違ってました。 説明しても、こちらの意図が理解出来ないらしいのです。 「なぜ、そんな事を知りたいんですか? 通帳に書いてあるんだから、その通りでしょう?」 と真顔で聞き返して来ます。 私は、ムッとしましたが、ここで引いてはガキの使いになってしまうと思い、食い下がって、一から丁寧にこちらの意図を説明し直しました。 それで、ようやく通じたようだったのですが、その後の向こうの返答には愕然としました。 「データが無いので、残高証明書なんか作れません」 というのです。 つまり、郵便局側には、私がいくら預金しているかの記録が存在せず、私が持っている通帳に記載されている数字だけが、その証明だと言うのです。 これには、びっくりどころの話ではなく、悪質な冗談か、悪夢としか思えませんでした。 それでは、客が通帳の記載を偽造したら、いくらでも預金額を増やせるじゃありませんか!

  実際には、そんな事はありえず、郵便局だってコンピューターを使っているのですから、データはあるに決まっているのです。 たぶん、残高証明書の書式を用意していなくて、簡単に発行が出来なかったのでしょう。 銀行と違って、郵便局には、私のように確かめに行く客がほとんどいなかったのかも知れません。 その局員が面倒臭がっただけという可能性も考えられます。 郵便局の局員は、昔は客を見下していたのが、少しずつ応対が丁寧になって行ったのですが、2000年の時点では、まだこういう風に、客を自分と対等な相手と見て、サービスという所まで行かない態度を取る人がいたのです。

  まあ、郵便局非難はさておくとして、通帳の信頼性の話に戻りましょう。 金融機関のデータ管理は、当然、何重にもバックアップがされていると思いますが、事故には対応できても、悪意のデータ書き換えなどには、対応に限度があると思います。 もし銀行員の誰かが、客の預金を盗もうとして、データを書き換えた場合、客が持っている通帳の記載と、銀行にある書き換えられたデータのどちらが信用されるんでしょう? また、悪意ある客が、通帳の記載を偽造した場合も同じです。 偽札などに比べれば、通帳の記載など、いとも容易に偽造できそうです。 さて、銀行は、どちらを信用するんでしょうか? 考えれば考えるほど、不安になります。

  ただ、「銀行が信用できない」 といって、箪笥貯金にしていたり、全財産をバッグに入れて持ち歩いている人達に言いたいですが、そんな危険な事をするよりは、銀行の方がまだ安心出来ると考えてよいと思います。 文句を言いに行く場所があるだけでもマシです。 実際に、全財産入れたバッグをひったくられたという事件がありましたが、犯人が捕まらない限り、裁判に訴える事すら出来ないわけで、それではもう、地団駄踏む以外ないではありませんか。

2005/11/05

Let's ~ing !


  「これからは英語の時代だ」 と、日本で最初に言ったのは、幕末の蘭学者だと思いますが、以来150年間、政府も民間も個人も、延々と英語教育の努力を積み重ねてきたにも拘らず、成果らしい成果が出ていません。 教え方が悪いのか、才能が無いのか、言語の性質が違いすぎるのか、はっきりしませんが、恐らく、その全てが原因なんでしょう。

  さて、先日、在日フランス語人のブログを覗いていたら、その典型事例に出食わし、思わず大笑いさせられました。

≪ Ougl  『Let's!』 ≫

  ブログの作者は、愛知県在住のフランス人で、英語教師をしている方です。 記事の内容は、「名古屋市教育委員会の名前で刷られた大学の食堂のメニューに、『Let's cooking !』 という英文があったが、『Let's cook !』 の間違いではないか?」 というもの。

  ああ、言われてみれば、その通りですわ! なんで、『ing』 が付いているの? もう、何の間違いも無く、間違いですな。 わはははは! このブログ作者の方は、「名古屋市教育委員会は、配下に90人も英語教師(母語話者)を雇っているのに、このメニューを作る前になぜチェックを頼まなかったのか?」 と言っていますが、確かに、尋ねていれば、英語母語話者がこの間違いを見過ごしたはずはないと思います。

  しかし、ここからが更に笑えるんですが、日本語母語話者の感覚で考えると、『Let's cooking !』 の方が、意味が理解し易いのです。 というか、『Let's cook !』 と言うと、大脳の中の、英語知識を司る部分に問い合わせないと、意味が取れません。 一方、『Let's cooking !』 は、日本語の中で処理できます。 くどく断っておきますが、『Let's cooking !』 は、英語としては間違いなんですよ。 ところが、それが、日本語としては正文として登録されているのです。 不思議不思議、Panglish !

  これは、他の動詞でも同じです。 『Let's talking !』、『Let's driving !』、『Let's thinking !』、『Let's swimming !』・・・・・どうですか、日本語母語話者の方々、おかしいと思わないでしょ? では、これらから 『ing』 を取ってしまうと、どうです? 『Let's talk !』、『Let's drive !』、『Let's think !』、『Let's swim !』・・・・・「ああ、英語だな、これは・・・・・」 と思うでしょ。 理解はできるけれど、あくまで英語知識の領域での事であって、感覚的にかなり遠くなります。 例外は、『Let's go !』 と、『Let's try !』 くらいだと思いますが、これらは、決まり文句のように頻繁に使われるので、全体で一つの語として捉えられ、そのまま定着したんでしょう。

  この現象をどう分析するかですが、二つの解釈が考えられます。

  一つは、語感から来る勘違い説。 『Let's』 の 『's』 を、『is』 の省略と勘違いし、進行形の 『is ~ing』 を連想して、「動詞に 『ing』 を付けた方が、語感が英語っぽくなる」 と判断したのが、定着してしまったというもの。 言うまでもなく、『Let's』 の 『's』 は、『us』 の省略であって、もしこの説が正しいとすれば、勘違いに勘違いを重ねた事になります。

  もう一つは、組み合わせ説です。 日本語母語話者は、『Let's』 と 『~ing』 を別々に考えていて、それを組み合わせているだけではないかというのです。 『Let's』 は 「さあ、やろう!」 という意味で捉え、『~ing』 は、動作を表わす名詞として捉えているのではないでしょうか? たとえば、『Let's cooking !』 ならば、「さあ、やろう! 料理!」 というわけです。 自分で考えておいて、こう言うのも何ですが、この説は些か眉唾で、こじつけ臭いです。 でも、『* Let's conversaition !』 のように、動作を表わす名詞を 『~ing』 形以外の物に入れ替えてみても、日本語の感覚ではおかしく聞こえない事を考えると、当っている面が無きにしも非ずです。

  日本語に入った英語の中には、単語レベルで意味がズレてしまっているものは多いですが、文法レベルで混乱が起こっているのは珍しい事例だと思います。 日本語母語話者の方々、「『Let's ~ing』 は間違っている」 と外語人から指摘された時、上に記したような説を持ち出して、「これは、英語ではなく、日本語なんだよ」 と開き直る事も可能ですが、誇りと恥は紙一重ですから、まあやめといた方がいいでしょう。 カタカナで書けば、多少は恥度が減るかな?


『*』 は、実際には存在しない文に付ける注意記号です。

2005/11/02

閑なればこそ


  参りました。 仕事の方に波乱の気配があり、ネットに割く時間を減らざるを得なくなりそうです。 ああ、とうとう恐れていた時が来たか!

  思い起こせば、パソコンを買ってネットを始めたのは四年半前。 なぜ始めたかと言うと、他にやる事が無くなってしまったからです。 パソコンを買う前に私が何をやっていたか分かります? なんと、一年くらい、ジグソーパズルをやって無聊を紛らわしていたのです。 とことん、やる事がなかったんですねえ。 大の男が、ジグソーパズル以外やる事が無くなったら、もうおしまいです。

  ああ、そうそう、どうでもいい事ですが・・・・ジグソーパズルに入っている固定用の糊ですが、あんなもの、律儀に使うのはアホですぜ。 糊で固めなくても、千ピースくらいまでなら、フレームに入れておけば崩れません。 飽きたら崩してまたしまっておけばいいのです。 一度糊をつけてしまったら、おしまいですぜ。 おっと、本当にどうでもいい話をしてしまいました。

  それで、一年間ジグソーパズルをやっていたんですが、あんな物は出来ない人間の方がおかしいのであって、10個もやれば、直ぐに飽きます。 すっかり飽き切った私は、それまで禁じ手にしていたパソコンに、とうとう手を出したんですな。 なぜ、禁じ手にしていたかというと、その頃パソコンといえば、一財産潰してしまうような金の掛かる趣味と言われていたからです。 ケチが手を出す物ではないと思っていたのです。

  ああ、そうそう、どうでもいい事ですが・・・・今でもパソコンに莫大な金を投じている人はいると思いますが、アホな話ですぜ。 教科書通りに、様々な用途に使おうと思うから無限に金が掛かってしまうのであって、ネットだけならパソコン・セットと通信費以外掛かりません。 今パソコンと言えば、ネット専用機と考えるべきなのであって、オリジナルCDやDVD作りなんぞは、ガキのやる事です。 また、やたらとソフトを買いたがるのも馬鹿な傾向ですな。 何となくパソコン・ショップへは行きたいが、買うものが無いので、仕方なくソフトを買ってしまうんでしょうが、使いもせんものを買うのは、無駄遣いもいい所ですぜ。 そうそう、今でもパソコンでゲームをやってる、骨董品みたいな人がいるようですが、そんな暇があったら、ネットで世界へ羽ばたいた方がいいです。 ずーっと有意義ですから。 おっと、脱線しまくってますな。

  で、パソコンを買い、ネットを始めたのです。 最初は閲覧だけしていたんですが、少しずつ書き込みをするようになり、やがて、自分でサイトを作り、今年になってからはブログにまで手を出しました。 それもこれも、時間があったから出来た事です。 平社員の特権で、仕事が終わると何もせずに帰って来れたので、ネットに浸る時間が一日3~4時間くらい取れたんですな。 この四年半の間に職場を一度移動しているんですが、移った先が古巣だったので、これまた勝手放題しまくって、仕事が終わると即座に帰って来ていたのです。

  それがここへ来て、工場長が変わり、あろう事か、QC活動が復活してしまいました。 あれは時間が掛かるんだ。 しかも月に一件がノルマですと。 出来るわけないだろ、そんなに! 毎日やらなければ追いつきません。 10年近くやっていなかったものが、どうして突然復活しやがるかね、まったく!

  時間が取れないのでは、サイト運営もブログ運営もとても手が回りません。 活動を縮小せざるを得なくなるでしょう。 正直言いますと、今までにも無理はしていたんですよ。 限界まで伸び切っていたゴムを更に引っ張る事になってしまったわけで、これはもう手を離すしかないというわけです。 どこを縮小するかは、なりゆき次第ですが、この心中宵更新も今まで通りというわけには行かないでしょう。

  ああ、何だか、働くのが嫌になってきますね。 いっそ会社なんぞ辞めてしまって、バイトでもして暮らしましょうか。 私の場合、世間体を保つために仕事をしているようなものなので、収入が半分になろうが、年金が減ろうが、そんな事はどうでもいいのです。 早く帰宅できないのが嫌で会社を辞めるというのも、随分と非常識な話ですが、別に今の会社で頑張ったって、誰が誉めてくれるわけでもないですけんの。 どうしたもんでしょうかね?