2023/12/31

私の2023年

  例年、その年最後の更新で、一年を振り返る記事。 去年は、うっかりしていて、新年にズレ込んでしまいましたが、今年は、年末に戻しました。 毎回書いていますが、全て、私個人の身の周りで起こった事に限定し、世間で起きた事は、極力、書きません。




  例年通り、個人年表から、何が起こったかを振り返ります。

【2023(R5)59歳】
  髭外刃。 定解・普作。 クレカ問題。 チョコ絶ち。 新カード。 水槽ライト壊。 居間レコーダー買換。 黒長ズ3本。 キャノン・プリンター捨。 腿痛・下腹部痛。 漆かぶれ。 バG.I麦球。 母レコーダー。 柄ワイシャツ5枚。 母靴。 換気扇灯換。

  これだけだと、私にしか意味が分からないので、個別に説明します。 正確な日付を書いても、不要な情報になってしまうから、大雑把に、やっつけます。 お金が絡む場合は、金額も。


【髭外刃】
  使っている、日立の髭剃り機の、外刃が、一部、切れて、飛び出して、顔の皮膚が切れてしまうようになったので、アマゾンで、替え刃を買って、交換しました。 500円くらい。

  良く見ると、内刃の中に、髭屑が溜まって、塊になっていて、そこに当たる部分の外刃が、内側から押されて、壊れてしまうようでした。 以来、内刃の方も、こまめに掃除をするようになりました。


【定解・普作】
  手元のお金が払底してしまったので、信用金庫の定期預金を解約し、普通預金口座を作ってもらって、そこに入れました。 それまで、2・3年、箪笥預金でやっていたのですが、昨今、強盗事件が多くなり、用心して、普通預金から、少しずつ下ろす方式に戻したもの。


【クレカ問題】
  これには、参った。 2012年7月から利用していた、唯一のクレジット・カードが、「7月末で、サービスを終了する」と言って来て、系列会社がやっている別カードに、一から申請しなければならなくなったのです。

  2012年は、まだ働いていたから、審査が通ったのですが、今の私は、無収入の引退者でして、普通なら、審査は通りません。 私の顔色が、真っ青になったのは、容易に想像できると思います。 クレカが使えなくなると、インター・ネットが、非常に使い難くなり、母のスマホも、料金が払えなくなってしまいます。ら。

  で、2月末に、新カードに申請したものの、審査に通ったとも、落ちたとも、何も言って来ません。 痺れを切らし、4月半ばに、電話してみたら、「2月に送られて来た申請書は、4月末にならないと、処理されない」との事。 その時点で、まだ、開封もしていないのです。 審査に通るか通らないかも分からず、蛇の生殺し状態が続く事になりました。


【チョコ絶ち】
  春先、上の前歯が痛むようになりました。 虫歯というより、何か、沁みている感じ。 「これは、もしや、糖分の摂り過ぎでは?」と思って、毎日のように食べていた、チョコ菓子を、絶ちました。 私は、数年前に、毎日のように飲んでいたインスタント・コーヒーを、同じ理由で、絶っており、これで、更に、糖分から縁遠くなりました。

  とはいえ、歯が痛むよりは、チョコを絶つ方が、遥かに、マシですな。 痛い痛いでは、生活ができませんから。


【新クレカ】
  クレカ問題ですが、審査については、何の連絡もないままに、4月末になったら、突然、新クレカが送られて来ました。 4月半ばに、こちらから、電話をしたから、優先で処理されたわけではないです。 だって、その時は、名乗りませんでしたから。

  無収入なのに、審査に通ったのは、奇跡的。 恐らく、同封書類で申し込みした者に関しては、自動的に、新しいクレカを発行したんじゃないでしょうか。 もし、オンライン申し込みだったら、処理が早い代わりに、普通の申請者と見做されて、審査に落ちた可能性が高いです。

  5月になってから、まず、アマゾンで使ってみて、決済される事を確認しました。 次に、自転車の保険、母のスマホのSIM契約、パソコンのモバイルSIM契約と、登録クレカの変更を済ませました。 2ヵ月かかって、ようやく、喉に刺さった骨が抜けた感じ。 長い戦いでした。

  クレカが使えなくなるという事は、インター・ネットが使えなくなるに等しく、日常を破壊してしまうという点で、他の問題とは、同列に語れない重大さがありました。 そういう問題に、2ヵ月間も振り回されたのは、大袈裟でなく、人生の損失と言ってもいいです。

  前のクレカ会社が、自動移管にしてくれれば、こんな嫌な思いをしなくても、済んだものを。 サービス終了を決定した人間は、クレカが使えなくなるというのが、どれだけ、甚大な被害を引き起こすか、想像できなかったんでしょうか。 自分だって、クレカを使っているでしょうに。


【水槽ライト壊】
  亀の室内ケージの上に設置してあった、蛍光器具が、点かなくなってしまいました。 1996年に、金魚用に買ったもので、亀用に変えてからは、トゥルー・ライトを付けてあったのですが、エサをやる時に点けていただけで、普段は使っていませんでした。

  新しいのを探したものの、もう、蛍光器具の時代ではないらしく、LEDの華奢な器具に変わっていました。 どうせ、気まぐれに点けていただけなので、なくても、どうという事はありません。 買い直すのはやめて、エサの容器などを置く為の台だけを作り直しました。

  壊れた蛍光器具は、埋め立てゴミに出しました。 御苦労だった。


【居間レコーダー買換】
  2011年7月から、居間で使っていた、ブルー・レイ・レコーダー。 1月頃から、調子が悪かったのですが、5月初め、停電したのをきっかけに、いよいよ、うんともすんとも言わなくなってしまいました。 専ら、母が使っているので、操作方法が変わらないように、同じ、シャープ製の新品を買いました。 4万円弱。 母が3万、私が、残りを出しました。

  壊れたレコーダーは、埋め立てゴミに出しました。 御苦労だった。


【黒長ズ3本】
  長年はいていた、チノ・パンが、軒並み、腿の前側の生地が薄くなったり、裾の生地がほつれたりと、劣化が目立つようになりました。

  4月末に、西友のクリアランス・セールで、綿100パーセントのチノ・パン(1650円)を、1本買いましたが、それだけでは足りないので、5月半ばに、アマゾンで、黒のゴルフ・パンツ(885円)を、2本、買いました。 化繊100パーセントだから、安いのです。 見た目は、礼服のズボンや、学生ズボンにそっくり。

  要らなくなったズボンは、他の衣類と一緒に、資源ゴミに出しました。 御苦労だった。


【キャノン・プリンター捨】
  2002年に買って、長年、居間に置かれた後、2014年から、私の部屋に移して、年賀状と、2ヵ月カレンダーの印刷だけに使っていた、キャノンのプリンター、「BJ F860」。 いよいよ、印刷できなくなったので、6月の埋め立てゴミに出しました。 御苦労だった。


【腿痛・下腹部痛】
   これにも、参った。 忘れもしない、6月16日。 買い出しに行く前に、便を出そうと、トイレでいきんだら、右足の付け根付近で、筋肉の間に、腸が入り込むような感触があり、それ以来、右腿と、右下腹部が、交互に痛むようになりました。 「鼠蹊ヘルニア説」、「外側大腿皮神経痛説」、「坐骨神経痛説」、「毒素説」、「心気症説」など、いろいろ、考えましたが、どうも、「新型肺炎の後遺症説」が有力なようです。 

  2022年の2月。 母が、20日間、寝たきりになり、おそらく、新型肺炎に感染していたのだと思うのですが、その時、無マスク・無隔離で、看病していた私も感染した可能性が高いです。 私は、無症状でした。 その後遺症が、今年になってから、噴出したのではないかと思います。 主な症状は、筋肉痛と、関節痛。 下腹部の方は、説明できませんが、別の病気と合併しているのかも知れません。

  「無症状だった人の方が、後遺症は深刻だ」と言われていますが、あれは、嘘じゃなかったんですな。 母は、何もなかったかのように暮らしていますが、私が、半年以上も、痛みに悩まされるとは・・・。 多少、良くなった程度で、まだ、治ってません。


【漆かぶれ】
  6月半ば。 腿痛と、ほぼ同時に、起こった症状。 右腕全体と腹部が、かぶれで、真っ赤に腫れ上がりました。 2週間くらいで直りましたが、あれは、ひどかったな。 掻かないように、腕をベッドの柵に縛って眠るんですが、少し眠りが浅くなると、紐を外してしまい、バリボリと掻きまくるのです。 患部は、血だらけで、地獄の様相。

  ステロイド入りの軟膏を買って来ましたが、塗っても良くならないので、中止し、自然治癒を待つしかありませんでした。 今見ると、綺麗になっていますが、よくも、ここまで変わるものと、改めて、驚くほど、当時は、ひどい有様でした。 ちなみに、腹部にも出ていたのは、右腕を掻いた左手で、腹も掻いたからでしょう。 漆かぶれ、恐るべし。

  うちの庭に、自然に生えて来た山漆が、3本あったのですが、これに懲りて、全部、切ってしまいました。 一度、ひどい目に遭うと、「紅葉が綺麗だから」なんて、優雅な事は言ってられません。


【バG.I麦球】
  プチ・ツーリングに使っている、オートバイ、EN125-2A・鋭爽の、ギア・インジケーター・ランプに着けていた、LED球が、何度も切れるので、アマゾンで、麦球を買って、交換したのが、7月20日の事。 100個入りで、700円弱でした。 以来、5ヵ月、問題なく、点いています。 色は、赤っぽくて、暗いですが、点いている事が分かれば充分で、別段、不満はないです。


【母レコーダー】
  7月下旬に、今度は、母の部屋のテレビに接続してあった、外付HDDが、壊れました。 テレビが、2013年のものなで、それに合う外付HDDを見つけられないと思い、レコーダーを買う事にしました。 居間と同じ機種で、容量が半分のもの。 35000円くらい。 母が出しました。

  壊れた外付HDDは、埋め立てゴミに出しました。 御苦労だった。


【柄ワイシャツ5枚】
  夏物の半袖シャツ。 今まで着ていたのが、軒並み、襟の折り返し部分がほつれてしまいました。 アマゾンで、柄ワイシャツ5枚セットを購入。 約4000円。 一枚当たり、800円ですから、最安クラスでは? 1・2巡、着ただけで、半袖の季節は終わりました。

  着れなくなったシャツは、ズボンと一緒に、資源ゴミに出しました。 御苦労だった。


【母靴】
  10月の終り頃、母が、「もっている靴が、みんな、底のゴムが壊れてしまった」と言います。 母は、「買い出し」や「郵便局」には、ベージュの靴を履き、「通院」や「冠婚葬祭」には、黒い靴を履きますが、それらが、全滅したようです。 ゴムは、履かなくても、時間の経過で、劣化してしまうんですな。

  ベージュの靴を、アマゾンで吟味し、スマホ画面で、母に見せて、了解を取った上で、11月初めに、買いました。 ところが、実際に履いてみると、「浅くて、脱げ易い」と言って、すぐに、履かなくなってしまいました。

  靴なしでは、困るので、今度は、深そうなのを探し、黒い靴を、私の独断で注文。 届いたのを母に渡すと、「まだ浅いが、何とか履ける」との事で、同じ品の色違い、ベージュのを、数日遅れて、買いました。 買った3足は、4000円弱の品です。

  こういう事も、介助の一環なわけですが、私一人なら、全く悩まなくてもいい事で、1ヵ月以上、悩まされたわけで、なんだか、自分の人生の時間を、母に蚕食されている感が否めません。


【換気扇灯換】
  12月初めに、台所・換気扇に付いている電灯の、電球が切れました。 蓋を開けてみると、40ワット指定の器具に、60ワットの電球が付いていました。 以前、父か母が、交換した時に、40ワットがなくて、60を付けたのでしょう。

  我が家の電球は、10年くらい前に、ほとんどが、LED電球に交換されており、予備の電球は、一つもありませんでした。 やむなく、母の部屋の枕スタンドから、LED電球を外して来て、応急的に、換気扇に取り付けました。 40ワット相当の、電球色のもの。

  その後、ダイソーに行って、40ワット相当のLED電球を買って来ました。 電球色ではなく、昼光色にしたので、明るくなりました。 こんな事を書いておくのは、次に換える時に、「前に換えたのは、いつだったかな?」と悩まない為です。




  以上。 今年の最大の事件は、【腿痛・下腹部痛】です。 今でも、まだ、悩まされ続けていますから。 二番目は、【クレカ問題】。 何ヵ月も、気分が落ち込みっ放しでしたから。 悪い事ばかりで、いい事を思いつきませんな。 歳を取るとは、こういう事なんでしょう。

2023/12/24

EN125-2Aでプチ・ツーリング (51)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、51回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2023年11月分。





【沼津市平沼・消防団第35分団】

  2023年11月7日。 沼津市・平沼にある、「消防団・第35分団」へ行って来ました。 根方街道沿いで、最も西にある分団。 浮島小・浮島中の近くです。

≪写真1≫
  建物。 シンプル。 東側に、空き地あり。 西側に、「大六天」の鳥居がありますが、参道の石段が見えるだけです。 もし、以前、行った、大六天と同じ所なのだとしたら、ずっと、北にありますから、そこまで、参道が続いている事になります。

≪写真2≫
  側面と背面。 ますます、シンプル。 配管が、外を這っていますな。 消防分団だから、シャワー室とかもあるんですかね?

≪写真3≫
  シャッター絵は、写真です。 昔の消防車でしょうか。

≪写真4≫
  建物の前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 消防分団巡りが続いていますが、人がいた例しがありません。 その方が、好都合ですけど。 人がいたら、こんな所に、バイクを停められませんからねえ。




【沼津市鳥谷・消防団第21分団支所】

  2023年11月7日。 沼津市・平沼にある、「消防団・第35分団」へ行った帰り、鳥谷にある、「消防団・第21分団支所」に寄りました。 住宅地図で見つけたのですが、行ってみたら、本当にありました。

≪写真1≫
  今まで見た中では、最も古そうな建物。 正面の文字は、消えかけているというより、わざと消してあるように見えます。 何と書いてあるのか、後ろの方は、分かりません。 ちなみに、「第21分団」は、大岡の下石田にあります。 どうして、こんなに離れた所に、支所があるのか、大いに、不思議。

  側面の、「火の用心」も、薄くなってますねえ。 建物自体、もう、使っていないのかも。

≪写真2≫
  場所は、桃澤神社の境内です。 もちろん、分団建物まで、車で出入りできる道があります。

≪写真3≫
  川に架かる橋の、ガード・レールに張られた、横断幕。 こちらは、「第28分団」になっています。 この辺りの管轄としては、そちら。

≪写真4≫
  近くの、「八畳石」まで行きました。 上面が、八畳ある、大きな岩ですが、そちらは、別に変化がなかったので、写真を撮りませんでした。 これは、道路脇に停めた、EN125-2A・鋭爽。

  鋭爽、この角度も、結構、カッコいいですな。 まったく、ピンク・ナンバーを見なければ、125ccとは思えない。




【沼津市志下・消防団第8分団】

  2023年11月16日。 沼津市・志下にある、「消防団・第8分団」へ行って来ました。 バイクで行くには、近過ぎる距離にあります。

≪写真1≫
  国道414号線ではなく、海岸線を通る道路沿いにあります。 前にも、自転車で、何度も前を通った事があります。 本来は、自転車で来る距離です。

  建物は、シンプルなもの。 北側に、窓が多いですな。

≪写真2左≫
  南東側から。 こちらは、窓が少ないですな。 日が射し込むと、不都合な理由があるのかも知れません。

≪写真2右≫
  建物の背後、東側に、ユッカの群落がありました。 東側にある住宅で植えたのでしょう。 これだけあれば、花が咲くと、壮観だと思います。

≪写真3≫
  シャッター絵は、薄くなって、分からなくなっています。 昔の記憶だと、洋式帆船が描かれていたような。

  左上にあるのは、防犯カメラではなく、ライトのようです。

≪写真4左≫
  電気のメーターに、ダンボールで蓋をしてあったのが、ボロボロになっていました。 すぐ前が、海だから、潮風除けにしていたのかも知れませんな。 破れた理由は不明。 検針員がやったとは思えませんが。

≪写真4右≫
  建物前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 海の近くに来ると、潮風で、鉄部品がさびるので、帰ってから、油ウエスで拭きました。




【沼津市獅子浜・消防団第9分団】

  2023年11月16日。 沼津市・志下の、「消防団・第8分団」へ行った後、足を延ばして、獅子浜の、「消防団・第9分団」まで、行きました。 どちらも、家から近過ぎて、本来なら、自転車で来るべきところです。

≪写真1≫
  こちらは、国道414号線沿いにあります。 ここの表記は、「第九分団」と、漢数字になっています。 隣の、茶色い建物も、繋がっているようで、屋上に、半鐘が吊ってあります。 向かって、右側は、「楞厳院」というお寺の入口。

≪写真2≫
  南東側から、背面を見ました。 分団にしては、比較的、窓が多い建物ですな。 右手前のフェンスで囲まれた敷地は、家庭菜園のようになっていますが、これは、右の住宅のもののようです。 分団で、庭や菜園をもっているはずがありませんから。

≪写真3≫
  シャッター。 マスコットなのか、鳥のキャラクターと、英文が書かれています。

「AGATHERING TO PROTECT SMILES OF EVERYONE IN THE COMMUNITY 9 FIRE BRIGADE」

  翻訳ソフトで訳すと、

「地域の皆様の笑顔を守る為に集まる   9 消防隊」

  なるほど。

≪写真4≫
  建物前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 獅子浜というと、とにかく、家が建て込んでいて、狭い印象がありますが、分団の前は、割と広いです。 使い勝手を考えて、こうしてあるのかも知れません。





【沼津市多比・消防団第10分団】

  2023年11月21日。 沼津市・多比にある、「消防団・第10分団」へ行って来ました。 国道414号線を下って行って、「多比船越」というバス停の近くです。

≪写真1≫
  分団らしい、シンプルな建物。 海の、すぐそばにあります。

≪写真2≫
  シャッター絵。 幼児の絵を元にしてあるようです。 言うまでもない事ですが、幼児が直接、こんな大きな絵を描いたわけではないです。

  幼児の絵には、独特の魅力があります。 大きくなると、もう、こういう絵は描けなくなってしまうのです。 水滴の中に書き込まれている文字は、「ファイヤー ファイター」。

≪写真3≫
  分団の建物と向かい合っている、「津波避難所」。 下をブチ抜いているのは、旧道のトンネルです。 昔は、トンネルだったのが、新たに、切り通しで道を作ったので、トンネルは、用済みになったわけです。 この避難所は、元からあった山を利用したもの。

≪写真4左≫
  国道414号線。 口野へ向かう方を見ています。 遠くに見えるトンネルは、「多比第一トンネル」。

≪写真4右≫
  分団の建物前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 海の近くに来た時には、帰ってから、油ウエスで、メッキ部分を拭かなければなりません。 それが面倒なので、海方面を、極力避けて来たのですが、分団巡りを続けるには、海沿いも走らねばならず、つらいところ。





  今回は、ここまで。

  日付を見ると分かりますが、11月は、組み写真こそ、5枚あるものの、出かけたのは、3回だけでした。 過去最少。 しかし、週一のペースを崩したわけではなく、たまたま、最初の週と、最後の週を、前月と後月に出かけたせいで、こうなってしまったのです。 11月の最後の週は、植木手入れで忙しくて、プチ・ツーどころではなかった、という次第。

2023/12/17

実話風小説 (23) 【海小山小】

  「実話風小説」の23作目です。 これを書いたのは、10月末です。 次の執筆予定は、11月末なのですが、その時期、植木手入れや、お歳暮の迎撃で忙しいので、もしかしたら、書けないかも知れません。 とことん、弱気ですが、創作というのは、そういう、厳しいものなんですな。 作家、漫画家、画家、ユー・チューバーなど、創作で食って行こうとしている青少年に告ぐ。 悪い事は言わんから、よしておきなさい。 そんなの、仕事にしたら、一生、胃潰瘍に苦しめられますぜ。




【海小山小】

  地方都市、X市の食品雑貨卸業者、R商店は、従業員数80人ほどの会社だ。 地方の基準で見て、中規模企業である。 社長R氏は、この土地の者ではなく、昭和40年代に、X市の富裕層が住む高台に移って来た。 社屋は、X市の市街地にあり、20分ほどかけて、車で通っている。

  R氏は、若い頃、都会で、金物を中心とした生活雑貨の卸商に勤めていたのだが、ある時、宝くじで、100万円を当て、「ツキが来ている」と感じて、株に全額を投入したところ、億に近い金額を手に入れた。 R氏が賢かったのは、「こんなツキは、いつまでも続かない」と見て、株は、それ以上やらずに、競争の緩い地方都市を選んで、自分の会社を始めたのである。 食品雑貨卸を選んだのは、金物店より、食品店の方が多かったからだが、その後、各地に、ホーム・センターが出来るようになり、R氏の読みは、少し外れた。 やはり、ツキは続かないものなのだ。

  社長には、息子が二人いた。 3歳、離れている。 二人とも、父親から、大学は、経済関連の学部を勧められた。 父親は、自分が病気がちだったので、どちららが早く後継者になってくれればいいと願っていたのだ。

  長男A氏は、学業優秀で、国立大学の経済学部を、かなりいい成績で卒業し、都会の一流商社に就職した。 一方、次男のB氏は、勉強が苦手で、私立の無名大学、経営学部に、推薦で入った。 一年、留年して、23歳で、卒業。 B氏は、R商店に入れるものだと思っていたが、父親は、長男の方を後継者にしようと望んでいて、次男が先に、R商店に入るのを警戒していた。 後々、兄弟で、社長の座を巡って、諍いになるのを恐れていたのだ。

  そこで、「よその飯を食って来い」と、利いた風な事を言って、B氏に、自力で就職活動をさせた。 B氏は、20社受けて、19社、落とされ、20社目で、地元のガス器具店に、辛うじて、職を得た。 複数店舗をもつ、地方としては、そこそこ、大きな会社だったが、社長一族の金遣いが荒くて、経営は、綱渡り状態。 そんな会社で、営業、経理、総務と、部署を転々としながら、10年勤めた。

  B氏が、33歳の時に、父親が、最初に倒れた。 心臓が悪かったのである。 すぐに、退院できたが、以来、2ヵ月おきに倒れ、3回目以降、医師は、退院を認めなくなった。 長男と次男が、病室へ呼ばれた。 長男は、一流商社で、バリバリ仕事をしている。 「今が、一番、勢いに乗っている時だから、退職するのは勿体ない」と言って、R商店を継ぐ事を拒絶した。

  そうなると、もう、次男のB氏しか いない。 否も応もなく、ガス器具店を辞めて、R商店の社長に就く事になった。 本人が、やりたかったわけではない。 そういう運命だったのだ。 B氏は、大きな欲がなく、流れに身を任せるタイプだった。 ただし、自分で裁量できる範囲では、なるべく、いい方向へ持って行こうという意志はあった。


  R商店の経営状態は、前にいたガス器具店ほどではないものの、思わしくなかった。 すぐに感じたのは、「経営規模に比べて、従業員が多過ぎるのではないか」という事だ。 80人もいるが、同じ規模の、同業他社と比べて、売り上げが、5分の3くらいしかない。 もちろん、利益も少なくて、従業員は、常に、給料が少ないと こぼしていた。

  B氏は、すぐに、従業員削減のリストラを考えたが、入院中の父親には、相談できなかった。 父親は、「大勢の人間を雇って、社会貢献している」と、普段から自慢していたからだ。 重役は、創業者である父親の腹心ばかりで、B氏の言う事など、聞くはずがなかった。 リストラとなれば、中間管理職が真っ先に切られるが、彼らですら、B氏よりは年長で、話をしていても、B氏を見下してこそいないものの、突き放しているような態度が見られた。

  とりあえず、重役達の意のままに動くような態度を見せておき、B氏は、社員達を、一人一人 観察しながら、リストラの作戦を練った。 就任して、すぐに、リストラでは、恨みを買ってしまうし、誰を残して、誰を辞めさせるかの判断もできない。 とりあえず、一年間は、人材の吟味に当てる事にした。 経営状態は、決して良好とは言えなかったが、一年くらいなら、今のままで続けても、潰さない自信はあった。 大学で、経営学を専攻したからというより、勤めていたガス器具店での経験から、それが分かったのだ。

  R商店の本社には、50人が勤めていて、平屋の事務室は、大きな部屋が一つ。 総務、庶務、経理と、営業の詰め所があった。 倉庫は別で、そちらに、20人。 事務室には、30人がいた。 重役は、副社長、専務、常務の3人で、彼らは、元から、事務室の一隅に席があった。 社長室だけ別になっていたのだが、B氏は、社員達を、それとなく、そして、細かく観察する為に、社長室と、事務室の壁を取っ払って、衝立だけにした。

  重役3人を始め、社員達は、「自分のカラーを出すのに必死で、下らない事に金をかけている」と、陰口を叩いたが、反対はしなかった。 社長室がなくなって、同じ部屋で仕事をするようになり、社長が身近な存在になった事で、B氏を軽く見る者が増えた。 しかし、それは、B氏の想定していた事、というより、期待していた事だった。 人間というのは、自分が見下している相手には、本性を見せるものだからだ。 これも、ガス器具店での、経験から得たもの。


  B氏は、社員達の会話に、聞き耳を立てて、彼らの人間性を観察した。 個別の聞き取りはしなかった。 社長が相手では、正直な意見を言わないだろうと思ったからである。 飲ミニケーションも、特には、しなかった。 仕事に支障を来すほどのアル中でなければ、リストラ対象にする気がなかったのだ。 飲み会には出席したが、無礼講にするよりも、社長は、挨拶だけして、早目に帰った方が、社員が楽しめると分かっていたので、それを実行した。 B氏がいなくなると、社員達は、B氏を小馬鹿にして、盛り上がった。
  
「ありゃ、何も考えてないな。 社長なんて、柄じゃないぜ」
「まあ、余計な事を言わないだけ、いい方さ」

  B氏の作戦は、図に当たっていた。 社員達は、すっかり、新社長への警戒心を解いていた。 何をやっても、新社長に睨まれるような事はないと、高を括り、事務室で、勤務時間中に、雑談ばかりしているような連中も出て来た。 B氏は、注意などせずに、その雑談の内容を聞いていた。 ベラベラ喋りまくっている奴、聞くだけの奴、聞きながらも、仕事を続けている者などが、そちらに目を向けなくても、声を聞いているだけで分かった。

  B氏は、支社の方にも、よく顔を出した。 週に、2回は行って、半日くらい、過ごした。 なぜか、支社の方が、居心地が良かった。 社員が、用もなしにやって来る社長を歓迎するわけがない事は承知していて、自分にできる仕事があれば、それを手伝った。 倉庫の肉体労働も含む。 分からない事は、相手が年下でも、礼を失わずに、質問した。 こんな事は、先代社長ではありえなかった事なので、支社の社員達は、驚いた。

  R社は、海に面した地方都市、X市に本社があり、内陸の隣の自治体、Y町に、支社がある。 Y町自体は、人口が5万人くらいだが、その、更に内陸側に、交通の要衝である、Z市があり、そちらは、20万人の人口があって、Y町と合わせると、本社があるX市の30万人と、さほど、差がなかった。 ただし、Z市には、同業他社が多くて、競争が激しく、取り引き先を増やす事は難しかった。


  B氏のリストラ計画では、現在80人いる社員を、30人まで減らしたいと思っていた。 半年、観察した後、辞めさせたい奴と、残したい者を大雑把に分けた。 予想はしていたが、成績と人柄は、ほぼ、一致した。 ただし、営業は、例外。 対外折衝は、人柄がいいだけでは、務まらないからである。

  自宅の自室で、二つに分けたリストを見ながら、履歴書のコピーと突き合わせていた時、ふと、ある事に気づいた。 辞めさせたい奴らの住所が、互いに近いのである。 そして、残したい者達の住所も、互いに、割と近い。 辞めさせたい奴らのリストに、支社の人間は、比率にして、本社の半分くらいしか入っていなかった。 

「本社と支社の雰囲気の違いの原因は、そこにあるのかも知れない」

  出身地を調べると、支社の社員は、Y町の者が多かった。 辞めさせたい奴らは、全員、X市の市街地から通っていた。 どうも、出身地域によって、人柄に違いがあるようだ。

  そこまで、考えて、ふっと、十年以上昔の記憶が蘇った。 大学生の頃、サークルの仲間と飲みに行って、酒癖が悪い先輩に掴った。 酔いが回ると、自分の生い立ちについて、延々と、語り始めるのである。 他の者は、それを知っていて、早々に逃げてしまったが、B氏は、控え目な性格だったせいで、掴ってしまったのだ。

  語られた内容は、ほとんど、覚えていない。 一つだけ、思い出したのは、その先輩が中学生の時の話だった。

「俺の行ってた中学は、海側の小学校と、山側の小学校から、卒業生が合わさって、中学に入るんだよ。 ほぼ、半々だな。 で、俺は、山側の出だったんだけど、中学生になって、海側の連中と会って、驚いたね。 歳こそ、同じ、13歳だけど、みんな、ゴロツキなんだわ。 女子は、それほどじゃなかったけど、男子は、ろくな人間がいやしない。 口は悪いわ、性格は悪いわ。 顔を合わせりゃ、馬鹿にしたり、見下したり、からかったり、そんな事しかできないんだわ。 あんな奴ら百人以上と、いきなり、一緒にさせられたんだから、山小の、おとなしい子供達が、途轍もないカルチャー・ショックを受けたのが、分かるだろう?」
「はあ、なるほど」
「だけど、当時は、子供から、大人になりかける途中で、大人の世界って、そんなものかなと思ってたんだよ。 海小の方が、早く大人になっていて、山小の自分達は、まだ、子供なんだって。 早く、大人になって、海小出身者と対等に話ができるようにならなくっちゃと、思ってたんだわ」
「はあ、なるほど」
「ところが、三年の二学期になって、受験勉強が始まったら、様相が一変したんだ。 クラス内に、勉強グループが幾つかできて、昼休みに、問題を出し合って、答えるといった事をやり始めたんだが、その面子が、山小出身者ばっかりだったんだ。 海小出身者は、押し並べて、成績が悪くて、行ける先が、願書を出せば、誰でも通るような、中の下以下の高校に決まってて、受験勉強なんて、特にする必要がなかったんだな」
「はあ、なるほど」
「一口で言うと、海小出身者は、ごく一部の例外を除いて、馬鹿ばっかりだったんだよ。 何が、大人なものか。 どいつもこいつも、ただ大人ぶってるだけの、馬鹿野郎どもだったんだ。 それが分かって、山小出身者は、海小出身者を相手にしなくなったわけだ。 だって、馬鹿と話しても、受験の役には立たないからな」
「・・・・・」
「馬鹿馬鹿って連発するから、偏見だと思うだろう? ところが、そうじゃないんだ。 なぜなら、海小出身者の奴らも、行ける高校が決まってしまったせいで、自分達が、山小出身者に比べて、馬鹿だって事を、認めざるを得なかったからだ。 三年の一学期まで、つまり、夏休みを挟んで、つい、こないだまで、これ以上ないくらい大きな顔をして、肩で風切って、校内を闊歩していた海小出身者が、二学期以降、居場所がないくらい、縮こまってしまった。 授業中は何も言わなくなった。 休み時間にも、仲間内で、ぼそぼそ喋るだけになった。 あの変化、あの落差は、凄まじかったな」
「はあ、なるほど」
「地域によって、あんなに、差がはっきり出るとは、思わなかったな。 大人になってから、海小校区へ行く事があったけど、大人まで、柄が悪いんだ。 近所の人間同士が挨拶するのに、『おう! どこ行くんだ、馬鹿!』だぜ。 あれを聞いた時には、たまげたな。 それで、両方とも、笑ってるんだぜ」
「つまりその、海小校区の人間全員が、そういう気風だったって事ですか」
「ほぼ、全員がな。 嘘みたいだと思うだろう。 だけど、一旦ああいう気風が出来上がってしまうと、おとなしくしてたんじゃ、とことん、攻撃されてしまうから、自然と、みんな、そうなってしまうのかも知れんな」

  この先輩の話、どうしても、偏見が入っているように思える。 この先輩が、海小の出身者だったなら、まだ、信用できるかもしれないが、逆だったのだから、海小出身者に対する恨みで、山小出身者に都合のよい分析をデッチ上げたのかも知れない。 しかし、この分析は、今、B氏が取り組んでいる問題を解決するのに、あまりにも、魅力あるものだった。 ピッタリ、当て嵌まるのではないかと思えたのだ。

  辞めさせたいと思っている奴らの出身地は、海に近い、X市の中心部である。 都会というわけではないが、一応、街なかなので、彼らには、地元で最も垢抜けているという自負が感じられる。 一方、残したいと思っている者達の出身地は、X市の内陸寄りの郊外住宅地と、山一つ越えた、Y町である。 前者を、先輩の話の海小校区、校舎を、山小校区と考えれば、見事に当て嵌まる。 これは、もしや、先輩の分析は、正しいのではなかろうか。 土地の気風が、人柄に大きく関係しているのではなかろうか。

  B氏は、翌日から、そういう目で、社員達を、観察し始めた。 辞めさせたい奴らは、確かに、みんな、垢抜けている。 だからというわけではないが、みんな、機会があれば、常に、怠けたがっている。 仕事への熱意が薄く、責任感は、更に薄く、いい加減な事を平気でやる。 それでいて、注意を受けるのは嫌なので、重要な仕事は、真面目な人間に、任せてしまう事が多い。 その職種に就いて、もう、3年以上経っているのに、面倒なのか、自信がないのか、仕事を、新入社員に押し付けている奴もいる。

  給料の前借りをするのは、社内で、10人ほどだが、全て、辞めさせたい奴らである。 前借りをするから、辞めさせたいと思っているのではなく、他にも、問題があるから、辞めさせたいリストに載せた奴らの中に、前借り組が、全員、含まれていたのだ。 前借りをしなくても、辞めさせたい奴らのほとんどは、キリギリス・タイプで、給料・ボーナスを貯蓄に回す習慣がないようだった。

  B氏が、腹が立ったのは、辞めさせたい奴らが、残したい者達を、利用している場面を、頻繁に見た事だった。 できるできないに関係なく、自分の仕事を、他人に押し付けて、自分は、よその部署へ遊びに行って、話し込んだり、営業車で社外に出て、公園の駐車場で昼寝したり、2時間も、喫茶店で寛いでいたりするのだ。 こんな奴らに、給料を払っていると思うと、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、リストラ計画に支障が出るので、ぐっとこらえて、観察を続けた。

  いい加減でもなければ、特に真面目でもない、中間的な一群がいた。 彼らの出身地を調べると、X市の、市街地と、郊外を分ける道路沿いに、家があった。 地理的にも、中間なのである。 彼らは、真面目な人達と仕事をすると、真面目に働き、いい加減な連中と仕事をすると、いい加減に振舞った。 周囲に合わせるという、処世術を身に着けているのかも知れない。


  半年が経ち、年が明けて、就職希望者を面接する時期になった。 R社では、毎年採るのは、高卒が、2・3人だけで、大卒は採っていなかった。 業種が卸問屋で、開発部門や、企画部門があるわけではないから、大卒を必要としていなかったのだ。 高卒の入社希望者は、10人ちょっといて、毎年、重役が面接に当たっていたが、今年は、最終決定の前に、社長も、書類を見る事になった。 もちろん、出身地を確認する為だ。

  今年 採る人数は、3人。 重役の面接で、候補が、5人まで絞られていた。 内2人が、X市の市街地の出。 3人が、Y町の出だった。 B氏は、重役会議で、珍しく、積極的に意見を言い、Y町出の3人を推した。 重役達も、候補5人の中から、どうやって絞るか、良いアイデアはなかったので、社長の意見に反対しなかった。 「どうして、その3人なんですか?」と訊かなかったのは、まさか、B氏が、出身地で、篩ったとは、思いもしなかったからだ。 B氏としては、X市市街地出の人間を、新たに雇うなど、金をドブに捨て、会社組織を腐らせるだけだと思っていた。


  B氏が、社長になってから、一年が経とうとしていた。 前社長は、入院したままで、時折り、危篤状態に陥ったが、そのつど、持ち直して、今に至っていた。 安定している時には、B氏を、病室に呼んで、会社の様子を聞いた。 B氏は、父親の方針を変えずに、どうにかこうにか、経営をしていると報告した。 それは、本当の事だった。 リストラはもちろん、経営に、工夫の余地がないわけではなかったが、父親が存命の間は、目立った変更を加える気がなかった。

  父親には、もう、往年の覇気などなくなっており、B氏に発破をかけるような事はなかった。 内心、「このBでは、会社を大きくするどころか、維持し続けるのも、長くは望めないだろう」と思っていたのかも知れないが、人間、死期が近づくと、他の事は、どうでもよくなってしまうものである。 B氏は、父親が思っていたのより、遥かに、先が見える人物だったのだが、B氏の方で、父親の限界を見抜いており、自分の実力を、父親に気取られないようにしていた。


  リストラ計画は、ほぼ、固まりつつあったが、一時、先送りにしなければならなくなった。 B氏の兄、A氏が、一流商社を辞めて、実家に戻って来たのである。 兄が戻って来る事は、想定外というわけでもなかったが、不確定要素の一つで、B氏としては、「そっちへ、転んだか・・・」と、悩みの種が増える事になった。

  辞めた理由だが、A氏の話では、自分より劣っている同期が、先に出世して、上司になったのが我慢ならなくて、退職願を叩きつけたとの事。 自尊心の強い、A氏のやりそうな事だった。 「重役から、遺留されたが、断った」と、そこを強調したが、それは、辞める人間に向かって言う、社交辞令であろう。 バイトやパートが相手でも、普通は、遺留する。

  A氏は、それまでも、帰省するたびに、B氏を飲みに連れ出して、居酒屋で、愚痴をこぼしていた。 B氏が、ガス器具店に勤めていた頃には、B氏の仕事が小さくて、気楽である事を羨ましがり、自分がいかに、責任の重い仕事をしているかを、自慢しつつも、重圧に押し潰されそうだと、嘆いていた。

  B氏が、R商店の社長になると、A氏は、「おまえは、親の会社を受け継いだだけだから、気楽でいい」と、難癖をつけた。 「兄貴が代わってくれるなら、いつでも、下りるよ」と言うと、「馬鹿野郎! 俺は、一流商社のエースなんだぞ! こんなチンケな卸問屋なんかで、働けるか! 恥ずかしくて、外も歩けんわ!」と、暴言を吐いた。

  そういえば・・・、と、B氏は思った。 A氏は、X市の市街地にある高校に通っていたのだが、市街地出身の友人達がいて、頻繁に、家に遊びに連れて来ていた。 その連中が、来慣れるに連れて、ろくでもない事をするようになったのだ。 様式便器で立小便をして、トイレを汚したり、縁側が長いのを利用して、ボウリングをやったり、庭の池に飛び込んで、鯉を捕まえようとしたり、風呂場を泥だらけにしたり、やりたい放題。 父が怒って、兄の友人達を出入り禁止にするまで、続いたのである。

  その後、兄は、進学クラスに進み、そういった友人達とは、縁が切れたのだが、多感な時期に受け入れた考え方は、大人になっても、影響が残るようだ。 B氏の目から見ると、兄は、今自分が辞めさせたいと思っている社員どもと、全く同類に見えた。 思春期に、X市の気風に毒されたのが、そのまま、今まで続いているのだろう。

  兄は、社長就任を、一度、断っているの事を忘れてはいなかった。 だから、実家に戻っても、R商店については、何も言わず、高校時代の友人の伝で、自動車の販売店に、アルバイトとして勤め始めた。 だが、B氏は、そんなものが長く続かない事を、予見していた。 いずれ、R商店の社長の座を譲れと言って来るだろう。

  欲がないB氏としては、社長の座なんか、くれてやってもいいのだが、兄が社長になったら、すぐに、会社が潰れてしまうだろうと、そちらを心配していた。 様々な仕事を経験していたB氏には、一流商社のエース社員程度の経験では、会社経営ができるとは思えなかったのだ。 経営者一家の都合で、真面目な社員達を振り回した上、路頭に迷わせるのは、あまりにも気の毒だった。


  B氏は、リストラ計画を練り直した。 そして、相当には、曲芸的な、解決策を思いついた。 実行がうまくいくか否かは、6対4くらいの確率だったが、悩みに悩み、考えに考えた末に、実行する事に決めた。

  まず、いい加減な社員を、本社に集め、真面目な社員を、支社に集めるように、仕向けた。 「職住接近」という考え方が、うまく利用できた。 本社は、X市の港に近い場所にあったから、X市の市街地から通うには、都合がいい。 一方、支社は、Y町の中心部にあり、X市の山側郊外や、Y町の出身者には、通うのに都合がいい。 今まで、いい加減な社員と、真面目な社員が、本社と支社、それぞれに混在していたのを、同種の人間グループ、二つに分けようとしたのである。

  突然の提案だったが、大きな反対がなかった。 重役はもちろん、社員のほぼ全員が、「職住接近」を歓迎したのだ。 本社からは、真面目な社員が一掃され、支社からは、いい加減な社員が、一掃された。 本社に集められた、ろくでなしどもは、支社の者達を、嘲笑って、陰口を叩いた。

「あんな、田舎臭い、つまらん奴らばっかりで、仕事ができるのかね?」

  馬鹿どもめ。 自分達の心配をしろ。

  一方、支社の方では、みな、ニコニコしていた。

「なんだか、いい職場になりそうだね」

  そりゃそうだ。 真面目な人間に寄生して、楽する事ばかり考えていたような、いい加減な連中が、一人も含まれていなかったからだ。 支社の方には、社長の腹づもりを見透かした者も多くいたが、口に出さなかった。 本社組には、もちろん、言ったりしない。 ちなみに、私生活で、本社組とつきあいのある、支社組の者は、階無だった。 休みの日まで、便利に使われたのでは、たまらないからだろう。

  本社組の中に、中間地帯の出身者が、何人かいた。 50対30の、人数比率を維持する為に、中間地帯の者は、本社に割り振られてしまったのだ。 彼らが、社長に電話をかけて来て、外で会う事になった。 B氏が、指定された喫茶店へ赴くと、5人が待っていた。 係長が二人、含まれていた。

「お願いします。 支社の方へ、移してください」
「いや、しかし、そうなると、比率が、45対35になってしまって、支社の方で、ポストが足りなくなりますよ」
「ヒラで結構ですから、移して下さい」
「どうして、そんなに・・・」
「社長のお考えが、全て分かっているわけではありませんが、どういう分け方をしたのかは、分かります。 市街地の連中が、9割もいる職場では、私ら5人が、50人分の仕事を押し付けられかねません」
「ああ。 そこまで、見抜いているのなら、仕方ありません。 分かりました。 あなた方が陥る立場を、真剣に予想していなかった、私が間違っていました。 支社に移しましょう。 大丈夫です。 個人の希望を優先するという事にしますから。 ただし、この件は、ここだけの話にして、絶対、他の者に漏らさないでください」


  「さて、そろそろかな」と、B氏が思っていたところへ、兄のA氏が、「話があるから、父の病室まで来てくれ」と言って来た。 「絶妙のタイミングだ」と、B氏は、喜んだ。

  病室の父は、安定状態にあり、話も普通にできた。

「B。 おまえには、すまないと思うが、R商店の社長の座を、Aに譲ってもらえないか」

  兄は、無表情で、窓の外を見ている。 父親は、話を続けた。

「うちにも、一応、世間体というものがある。 長男が戻って来たのに、いつまでも、他人の会社で、車のセールスなんて、させていられんだろう」

  よく言うわ。 B氏には、10年も、ガス器具店で働かせていたくせに。 腹の底は、顔に出さず、B氏は、困惑した顔をして見せた。 そして、物分かりがいい、欲のない人柄に珍しく、感情を露わにした。

「それは、ないでしょう。 兄さんは、一旦、断ったんですよ。 だから、俺が、勤めを辞めて、社長になったんじゃないですか。 今更、兄さんの都合で譲れなんて、勝手過ぎますよ」
「いや、Aは何も言ってない、俺が、そうして欲しいんだ」

  いい加減な事を! 兄が何も言っていないわけがない。 というか、父の顔を見れば、兄から泣きつかれて、こんな事を言い出したのは、明々白々だ。 B氏は、憤りを抑えられないといった態で、決然と言い放った。

「そんな話は、受け入れられません! 会社を二つに分けるのなら、ともかくね!」

  B氏は、そう言って、病室を出て行った。 全て、計画通りだった。


  三日後に、また、病室へ呼び出された。 兄も来ていた。 父親が言った。

「おい、B。 会社を二つに分けるのなら、半分、Aに譲ってもいいと言ったのを、忘れてないだろうな」
「忘れてませんが、本気ですか?」
「本気だ。 幸い、本社と支社で、分かれているから、支社の方に、総務部と経理部を新設すれば、簡単に分けられるじゃないか」
「それは、そうですが・・・」
「ただし、Aの方が兄貴なんだから、本社を任せる事になる。 おまえは、支社でもいいか?」
「俺が言ったのは、会社を二つに分けるという意味ですよ。 支社長になりたいわけじゃないんですから」
「分かってる。 会社は、二つにする。 支社は、別会社にして、名前も変えていい」
「名前で商売している面もあるから、全く新しい名前は困ります。 支社は、Y町にあるから、R・Y商店でもいいですか?」
「構わない」
「できれば、生前贈与で、R・Y商店を俺の所有にしてもらいたいんですけど」
「そう言うと思ったが、そうしてしまうと、経営がまずくなった時に、兄さんに泣きつけなくなるぞ」
「それは、覚悟しています」
「よし、それで、決まりだ」

  B氏は、無表情を装っていたが、内心、大喜びしていた。 全て、思い通りに運んだのだ。


  兄のA氏が新社長になったR商店は、半年で不渡りを出し、倒産した。 原因の一つは、A氏が、会社経営について、知識が少な過ぎたからである。 一流商社で、世界を相手に、大きな取引に関わっていたからといって、そのノウハウが、中規模企業の経営に活かせるというわけではない。 同クラスのガス器具店で、経営方法を具さに観察していたB氏とは、経験値が違っていたのだ。

  A氏は、高校卒業後、都会へ出てしまったので、父親R氏の仕事ぶりを、大人の目で観察する機会がなかった。 A氏にとって、社長のイメージとは、一流商社の社長のそれだった。 これといって、決まった仕事はなく、部下が持って来る書類を決裁する事すら、きまぐれにやっつけ、秘書にスケジュールを作らせて、ゴルフに興じたり、パーティーに出席するのが、主な日課、といった態のもの。 自分がR商店の社長になると、それまでなかった、社長秘書のポストを作り、取引先の社長らを誘って、ゴルフばかりしていたというのだから、驚く。

  A氏に、エリート意識があり、B氏はもちろん、他人に相談する事を避けていたのも、まずかった。 急激に、財務状況が悪化してから、A氏は、大慌てで、重役達に相談したが、重役達は、A氏が、あまりにも初歩的な質問ばかりするので、呆れてしまった。 その地方の商習慣を始め、中小企業の会社経営について、具体的な事を何も知らなかったのである。

  社長が、そんな、ド素人だったのに加えて、社員が、ろくでなしの、寄生虫ばかり吹き溜まっていたのだから、条件は最悪である。 そんな連中だけで、まともな仕事なんか できるわけがないのだ。 他人に押し付けようにも、押し付ける相手がいないのだから、自分でやるしかないのだが、仕事をこなす能力なんぞ、からっきし、ないのである。 これで、倒産しなければ、不思議だろう。

  倒産直前、A氏は、B氏に、苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をして、資金援助を求めて来たが、B氏は、「こちらも、ゆとりが、全くないから」と言って、断った。 実際、ゆとりはなかったのだが、それは、B氏がそうしていたからだった。 会社を成長させられるアイデアはあったが、R商店が潰れるまでは、それらを封印して、資金的なゆとりを作らないようにしていたのだ。

  失業したR商店の社員で、R・Y商店を訪ねて来て、「移籍させてくれ」と言う者が、何人かいたが、B氏は、丁寧に断った。 そもそも、別会社になっているのだから、「移籍」など、できるわけがない。 また、中途採用はしていないから、新規に雇う事もできないと言った。 勝手に、R・Y商店に出社し来て、仕事を手伝い始める者もいたが、B氏と、その部門の部長が、真剣な顔で詰め寄って、お引き取り願った。 一人でも入れれば、真似する者が出て来て、また、組織が腐ってしまうのだ。
 
  3ヵ月ほど経つと、そういう手合いは、やって来なくなった。 失業保険が切れれば、どこかに勤めざるを得ない。 頑として、雇わないと言っている、R・Y商店に見切りをつけて、他の就職先を探したのだろう。 これも、B氏の予想通りだった。

  R商店の消滅後、半年待って、B氏は、温めていた経営アイデアを、実行に移し始めた。 真面目な社員の集団は、大きな力を発揮した。 R・Y商店は、急成長して、10年後には、県内の3分の1に、支社網を広げるまでになった。 従業員数は、8倍になったが、今でも、真面目な人間を輩出する地域の出身者しか、雇っていない。 X市の市街地は、支社を置かないばかりか、取引先からも外している。 いい加減な人間の巣窟だと分かっているので、その悪影響を避ける為である。

  父親のR氏は、A氏が、R商店を潰した事を聞くと、精神的な落ち込みが激しく、ほとんど、喋らなくなった。 それから、2ヵ月ちょっとで、他界した。 失業したA氏は、弟のB氏を頼らなかった。 潔いと言うより、自尊心が邪魔をして、頭を下げられなかったのだ。 その後は、花卉園芸農家で、従業員として、働いている。 場所は、Y町であり、雇い主夫婦は、まずまず、いい人達である。

2023/12/10

パソコン・ネット関連機器 ②

  日記ブログの方に書いた記事。 パソコン・ネット関連機器の変遷史として、何回分か書いたので、こちらにも、転載します。 今回は、パソコン・ネット関連機器ではありませんが、前史として、ワープロから。




【2023/10/22 日】
  先日、モデム類の変遷を紹介したので、歴代パソコンもやるかと思ったのですが、その前に、ワープロに触れておこうと思い、記憶を探ってみました。


  最初のワープロは、東芝の「ルポ」です。 まだ、引きこもっていた、1986年の2月か、3月頃、母に頼んで、お金を出してもらい、家電量販店で、買って来たのです。 3万円くらいでした。 沼津市・大岡の狩野川沿いにあった、「ハーフ&ハーフ」という店でしたが、その店は、とっくに、なくなって、跡地は、マンションになっています。

  他に、文房具店も見に行ったのですが、商品説明をしていた男性店員が、店頭デモ機を買わせようとしたので、そこは、避けました。 話にならぬ。 他人が何十人も触ったような機械を、高い金出して、買えるものですか。 その店員にしてみれば、デモ機から買わせて、順次、捌かせて行けば、常に新しい商品が店に残ると考えていたのでしょうが、それは、店側の都合なのであって、客の心理が全く分かっていないとしか言いようがありません。 発想が古かったんでしょうな。 当時、50代くらいの人だったから、もう、死んでいると思いますが。

  本体は、とっくに捨ててしまい、取説だけ、残してあったんですが、今回探してみたものの、見つかりませんでした。 ネットで、その頃に発売されていた機種を調べたところ、「Rupo JW-R10」のようです。 1985年7月発売で、99800円と、10万円を切った、初めてのワープロだったようですが、半年以上経ってから、私が買った時には、確か、3万円台だったと思います。 値下がりしていたんでしょうなあ。 10万円近い金額を、母に頼めたとは思えませんから、3万円台だった事には、自信があります。

  使っていたのは、半年くらいですかね。 ほとんど、使えませんでしたけど。 何とか、活字風の文字を、紙に印刷できるというだけの機械でして、使い勝手は、最悪でした。 まだ、実用品というには、発展途上過ぎたんですな。 ラベルを印刷するのには使えたらしいですが、私が欲しかった機能、ハガキ印刷はできませんでした。 厚手の紙を受け付けなかったのです。

  液晶も、1行しかなく、しかも、10文字くらいしか出なくて、長い文章は、勘で打って、勘で印刷しなければなりませんでした。 印刷してから、間違いに気づく事も多くて、苦々しい思いを、何度もしました。 印刷機部分のインク・リボン方式は、後のワープロと同じでしたが、インク・リボン方式そのものが、不便極まりないものだったので、やはり、評価はできません。

  もう一つ、絶対的な欠点があり、それは、記録手段がない事でした。 日記を書いても、それを記録する場所がないので、次の文章を書く為には、消すしかなかったのです。 カセット・テープに記録できる、別売りのデッキがあって、わざわざ、東芝の電器店へ行って、調べてもらったのですが、存在する事は分かったものの、一見客だったせいか、「取り寄せますか?」と訊かれる事もなく、どうも、取り寄せなんぞ、面倒でやりたくないという雰囲気だったので、頼まずに帰って来てしまいました。 その時点で、この機械を、見限ったのだと思います。

  一台、使ってみると、ワープロに必要なのが、どんな機能なのかが、良く分るものです。 当時、ワープロは、ドカドカと新製品が出ていて、すぐにでも、買い換えたいと思ったのですが、さすがに、母に、また、何万円も出してくれとは言えません。 で、一念発起し、ひきこもりから脱して、働く事を決意したのです。 使えるワープロ欲しさで、働き始めたんですな、私は。

  で、4月から、植木屋の見習いに入り、給料をもらい始めました。 10月頃には、自分のお金で、二台目のワープロを買いました。 なんで、半年もかかったかというと、就職の条件に、「要普免」があり、教習所に通って、車も買わなければならなかったからです。 植木屋という仕事が、想像していたより、きつかった上に、終わった後、教習所へ通っていたのだから、よく、あの苦難の時期を生き延びたものだと思います。

  二台目を買ってから、ルポは、母に譲ったのですが、私が使えないものが、母に使えるわけがなく、やはり、ちょっとだけ弄って、やめてしまったようでした。 いつ捨てたかは、覚えていません。 私は、写真一枚、残していないのですが、この、「Rupo JW-R10」は、劇的に安くなって、ワープロの普及に一役買ったという点で、有名な機種らしく、名前で検索すれば、画像が出て来ます。 興味がある方は、見てみてください。


【追記】
  上の文章を書いてから、約一ヵ月後の、11月23日。 ふと、思いついて、旧居間にある本棚の引き出しを探したら、取説が出て来ました。 やっぱり、「Rupo JW-R10」でした。



≪写真1≫
  表紙。 見ての通り、液晶画面は、1行分しかありません。 キーの数は、最小限で、テン・キーは独立していません。 しかし、それは、ワープロ時代には、普通の事でした。 ワープロ専用機は、基本的に、かな打ちするものでした。

≪写真2左≫
  裏表紙。 購入年月日、購入店名、電話番号を書く欄があります。 全く新しいカテゴリーの機械だったので、問い合わせが多いだろうと、予測していたのかも知れ
ません。 

≪写真2右≫
  中のページ。 青・黒の二色刷り。 取説は読み易いと思いますが、肝腎の機械が、使い勝手が悪くては、仕方がありませんな。 本当に、世の中に登場したばかりの、過渡期の製品だったのです。

≪写真3≫
  取説の奥付け。 発行日は、「昭和60年8月15日」。 1985年。 私が買ったのは、翌1986年の2月か、3月です。



【2023/10/23 月】
  二台目のワープロは、1986年の10月に買った、ナショナルの、「FW-K100」です。

  沼津駅北口から、さほど遠くない、パソコン・ワープロなどを扱っている店で、買いました。 一度、下見に行って、二度目で買い、その後、その店には、行きませんでした。 たぶん、もうとっくに、なくなっていると思います。 駐車場がなくて、200メートルくらい離れた、ホーム・センターの駐車場に車を停め、そこから、店まで歩きました。

  帰りは、大きくて重いダンボール箱を抱えて、200メートル、歩く事になりました。 店員さんが、「車まで運びましょうか」と言ってくれたのですが、「遠い所に停めてあるから、結構です」と断りました。 つまらない事を、覚えているものです。

  値段は、13万円くらいでした。 今のパソコンの機能・価格と比較すると、玩具レベルの機械に、5倍くらいのお金を支払った事になりますが、そういう時代だったのだから、仕方ありません。 ワープロは、まだ、普及が始まったばかりで、値段が高かったのです。 普通免許を取り、車を買った後、13万円貯まるのを待ち、すぐさま、ワープロを買ったのは、そもそも、ワープロを手に入れる為に、働き始めたからです。

  当時すでに、ラップ・トップ式の液晶画面の機種もありましたが、目に刺激がありそうな青い文字で、あまり見易いものではない上に、値段が、もっと高かったので、避けたのです。 「FW-K100」は、CRT・9インチで、白地に濃灰色文字か、濃灰色地に白文字の画面を切り替える事ができました。 目に優しいとも言えるし、暗ぼったかったとも言えます。

  大きくて、自室の机の上に置くと、他の作業ができなくなってしまうので、高さ70センチくらいの箪笥の上に置き、一番上の引き出しを、キー・ボード置き場に改造して、使っていました。 1986年から、2006年まで、20年間。 2001年からは、パソコンも使い始めたので、5年間は、併用していました。 日記を、ワープロで書き、パソコンは、他の作業に使っていました。 パソコンの方が、反応が速いので、次第に、ワープロは使い難くなって行きました。

  新たな機械が出て来た時には、先走って買わない方がいいものですが、「FW-K100」でも、まだ早過ぎで、液晶画面でない事は、承知の上だったから、いいとしても、この機種の次に出た機種から、フロッピーのデータを、パソコン用のデータに変換できるソフトの対象になりました。 その点だけは、未だに残念です。

  ワープロで書いた日記は、フロッピー・ディスクに保存していましたが、ワープロをやめる時に、感熱紙に印刷し、複合機で、コピー用紙にコピーして、数年間、保存。 その後、全ページを、写真に撮影して、電子保存に切り替えました。 検索は利きませんが、一応、今でも読めるから、「FW-K100」の仕事は、今でも生きているわけです。

  20年間も使っていたわけだから、人生の3分の1に相当します。 大変、世話になったわけで、印象深く記憶に残っています。 使わなくなった原因の一つは、削除キーの反応が鈍くなってしまった事で、20年も経っていたのでは、修理なんか頼めませんし、パソコンのキー・ボードのように、互換性があるわけでもありません。

  以下の写真は、2015年の10月に、ワープロを処分した時に、撮ったもの。 実際に使用していた頃の写真は、紹介に使えるようなものが、一枚もありませんでした。 ワープロの存在は、あまりにも日常的な風景だったので、改まって、写真を撮る事がなかったのです。



≪写真1≫
  本体と、キー・ボード。 キー・ボードは、本体の前面に嵌め込めるようになっていましたが、普段は、そういう形にしていませんでした。 オレンジ色のボタンが、電源。 パソコンではないので、起動は速かったです。 ボタンの右側に、フロッピー・ディスク・ドライブがあります。

  この9インチ・CRTがついていたせいで、捨てる時に、なかなか、処分ができず、ネットオフのパソコン引き取りサービスで、一台目のパソコンと抱き合わせにして、引き取ってもらいました。 パソコンさえ入っていれば、他の家電も一緒に引き取るというサービスだったのです。

≪写真2≫
  斜め後ろから。 こうしてみると、奥行きがかなりある事が分かります。

  印刷は、インク・リボン方式。 もったいないので、一度使ったリボンを巻き戻し、試し刷りには、それを使っていました。 印刷は、パソコン時代よりも、ワープロ時代の方が、頻繁に、やりました。 普通は、手書きするものを、ワープロで打って行って、珍しがられた経験もあります。

  感熱紙を使えば、リボンなしでも、印刷できました。 感熱紙は、年月が経つと、消えてしまうのが、玉に瑕。 日記は、コピー用紙にコピーして、保存していました。

≪写真3≫
  キー・ボード。 パソコンのものより、小さいです。 もちろん、かな打ち。 私は、パソコンに換えてからも、かな打ちでやっています。 長い文章を打つには、かな打ちの方が、断然、楽なのですが、ローマ字打ちで覚えてしまった人は、切り替え不能でしょう。

≪写真4≫
  フロッピー・ディスク。 今では、現物は元より、名前まで陳腐化してしまいましたが、1986年当時は、時代の最先端を象徴するものでした。 ホーム・センターで買っていました。 値段は、どんどん安くなり、2001年12月に、1枚、180円で買った記録が残っています。 おそらく、晩期には、100円ショップでも売っていたのでは? 磁気のペラペラした円盤が入っていて、捨てる時には、それに鋏を入れてから、捨てました。

2023/12/03

読書感想文・蔵出し (110)

  読書感想文です。 6月16日から、右脚の鼠蹊部と腿が痛むようになり、今年の夏・秋は、それで苦しめられ続けたのですが、そのせいか、読書意欲が減退し、図書館で借りて来る本の数が、半分になりました。 2週間で、1冊ですな。 今回までは、4冊出しますが、来月からは、2冊になる予定です。





≪上高地・大雪 殺人孤影≫

JOY NOVELS
実業之日本社 2000年7月25日 初版
梓林太郎 著


  沼津図書館にあった、新書本です。 長編1作を収録。 二段組みで、228ページ。 梓林太郎さんの山岳小説で、道原伝吉シリーズの一つです。


  上高地で、落ち葉で隠された女の死体が発見される。 その女は、元ホステスで、娘がおり、10年ほど前に、店で知り合った男と、東京から姿を消した過去があった。 中学生相当の年齢になった娘が現れた事から、情報が得られ、一緒に逃げて、娘の父親として暮らしていた男が犯人ではないかと目星がつけられるが、所在を掴む事ができない内に、祖父母の元に預けた娘が、何者かに連れ去られてしまい・・・、という話。

  推理小説というより、犯罪小説です。 しかも、出来が良くて、グイグイ、先へ、興味を引っ張って行かれます。 同じ、道原伝吉シリーズでも、前の二作より、ずっと、面白いです。 刑事側の目線で話が進む点は変わりませんが、娘が、現れたり消えたり、犯人は、逮捕されるまで、全く出て来なかったり、それらの設定が、効果を上げていて、ゾクゾクさせてくれるのです。

  長野、東京、新潟、北海道と、あちこち、舞台が飛びますが、これは、逃げている男が、大金を持っているせいでして、働いていなくても、これだけの金額があれば、10年以上、暮らしていられるんですな。 内縁の妻子を養っている上に、しょっちゅう、バーへ入り浸っているにも拘らず。

  この大金、盗んだものではなく、バブル期に、地上げで、自分の店を手放した代わりに、得たもの。 犯罪で手に入れたわけではないのだから、こんなに逃げなくてもいいような気もしますが、元の妻子を捨てて来ているから、それが、後ろめたかったんですかね? 私は、そういう崩れた生活をした事がないから、実感としては、理解できません。

  客観的に見れば、「水商売の女達に振り回された、気の毒な男」と思えない事もないですが、あまりにも意思が弱いせいで、同情する気になれません。 それでいて、非常識な被害意識で、何人も殺してるんだよなあ。 いいのか、こんな人生で? いやあ、もちろん、良くないんですが。 

  これは、ネタバレではないのか? 大丈夫です。 推理小説ではないから。 犯人らしき人物は、早い段階から、一人しか出て来ません。 犯人が、いかに、犯罪の崖を滑落して行くか、そこを読むべき小説なのです。




≪治療塔≫

岩波書店 1990年5月24日 初版
大江健三郎 著


  沼津図書館にあった、単行本です。 長編1作を収録。 239ページ。 元は、雑誌「へるめす」に、1989年7月から、1990年3月まで、【再会、あるいはラスト・ピース】の題名で、連載されたもの。 大江健三郎さんは、ノーベル文学賞作家なので、名前は誰でも知っていると思います。 ちなみに、受賞したのは、1994年。


  核戦争による汚染や、エイズの蔓延、資源の涸渇により、住み難くなった地球に見切りをつけ、太陽系の別の惑星、「新しい地球」へ、選ばれた100万人の植民船団が送り出される。 しかし、新しい地球は、住むに適さないと分かり、ほとんどの者が帰還して来る。 帰還者たちは、古い地球に残っていた、50億の人類を支配して、労働力として使おうとするが、その発想の背景には、新しい地球で経験した、異星人の産物、「治療塔」による、肉体の変化が関係していた。 ・・・という話。

  大江さんは、純文学作家なので、「そういう人が書いたSFって、どうよ?」という点は、必ず、突つかれるわけですが、少々、首を傾げてしまうところがあるものの、SFの枠の中には、充分、入っていると思います。 この作品を、「SFとは言えない」と言える人は、相当、ハードSFを読み込んでいるか、逆に、ほとんど、SFを知らない人でしょう。 映画やアニメでしか、SFに接した事がないような。

  エイズがモチーフの一つになっている点は、書かれた時代を、もろ出しにしていますな。 もっとも、エイズは、今でも感染が続いている病気で、克服されたわけではないですが。 そういえば、松本清張さんの、【赤い氷河期】(1988年)も、エイズがモチーフになっていました。 その頃の、エイズへの恐怖感は、大変なものでした。

  他にも、東西冷戦構造が続いていたり、中国やインドの台頭が、全く想定されていなかったりと、80年代末の世界情勢が、色濃く出ています。 大江さんは、相当な知識人だと思いますが、そういう人でも、未来を予測するのは、難しいわけだ。 もちろん、携帯電話も、インター・ネットも出て来ません。 AIは、尚の事。 宇宙へ出るのは、人間より、AIと機械の方が、遥かに適しているのですが。

  最も首を傾げてしまうは、「新しい地球」の所在地が暈されている点でして、地球から持って行った、クズ(葛)が繁茂し、地面を覆い尽くした話の件りで、「太陽系なんて、みんな同じ」というセリフが出てくるので、太陽系内なのでしょうが、太陽系の惑星の数は決まっていて、名前も、知らない人がいないくらい知れ渡っています。 一体、どの惑星なのか?

  大規模に、テラ・フォーミングすれば、何とか住めそう、というと、火星だけですが、テラ・フォーミングについては、全く触れられおらず、地球人が、そのまま行って、呼吸ができるらしいのです。 そんな都合のいい惑星が、太陽系内にあるわけがありません。 未知だった惑星が発見されたのだとしても、外縁部しかありえませんから、そんなに太陽から遠くては、気温が低過ぎて、生物は生きられません。 葛の話は、砂漠緑化の本から戴いたのだと思いますが、宇宙の環境が、良く分かっていないとしか思えませんな。

  宇宙物のハードSFでは、物理法則や、宇宙の基本構造を無視するような事は、御法度でして、その点では、この作品は、SFとは言えません。 「新しい地球」は、大雑把に、人類の移民先として想定されただけで、細かい設定は、どうでもよいと思っていたのかもしれませんな。 どうも、満州移民をなぞったような雰囲気あり。 失敗して、ほぼ全員が、帰って来てしまう点も、よく似ています。

  そういうケチをつけないとしても、前3分の2くらいは、SFらしくありません。 一番、印象に残るのが、語り手の女性と、帰還者の従兄の性交渉場面なのだから、困ってしまいます。 そんなところ、生々しく描いてくれなくてもいいのに。 後ろ3分の1になり、帰還者の口から、新しい地球で発見された、「治療塔」の事が語られ始めると、急に、面白くなります。 特に、SF的とは言いませんが、なぜか、面白い。

  治療塔に入ると、病気や怪我が治ったり、死者が蘇えったり、若返ったりするという設定。 一度、治療塔を経験した者は、肉体の環境適応力が高くなり、それならば、古い地球の汚染された環境でも、生きて行けるのではないかと考えて、帰還して来るという展開です。 古い地球を見捨てて、逃げて行ったくせに、虫のいい話ですな。

  話は、途中で終わってしまいます。 明らかに、続編を想定しての終わり方で、この一作だけ読んでも、意味はないです。




≪治療塔惑星≫

岩波書店 1991年11月21日 初版
大江健三郎 著


  沼津図書館にあった、単行本です。 長編1作を収録。 245ページ。 元は、雑誌「へるめす」に、1991年1月から、9月まで、連載されたもの。 【治療塔】の続編。


  異星人の産物、「治療塔」を、地球でも造れるように、「新しい地球」へ、調査隊が向かう。 新しい地球では、治療塔を使わない、残留組織と、その後、地球から密航して来た無法者組織とが、対立しつつ、前者が後者を、食糧支援するという微妙な関係が続いていたが、無法者組織が支配する、治療塔区域に調査隊が入ったせいで、戦闘となる。 ・・・という話。

  続編では、「新しい地球」は、別の恒星系にある事になっています。 そして、恒星間航行の技術がある様子。 つまり、光速ドライブか、ワープ航法が実用化されているわけですが、そちらの発展について、細かく書いていないので、他の技術のレベルと比べて、何とも、アンバランスな感じがします。 別の恒星系なのに、肝腎の恒星について、描写がないのも、変ですなあ。 複数あるという、衛星には、触れてるんですがねえ。

  ちなみに、【三体】では、4光年離れた隣の恒星系から、地球に来るまで、450年となっています。 【治療塔 二部作】に描かれている時代を、技術レベルから推測すると、2023年現在と、そんなに違わないような感じですが、現代を見れば分かるように、光速ドライブですら、望むべくもないのであって、恒星間移動など、無理無理。 話になりません。

  「新しい地球」の場所について、【治療塔】の方では、太陽系内だったわけですが、大江さん、詳しい人から指摘されたんでしょうか。 続編で、修正したわけだ。 この点について、あまり騒がれなかったのは、大江さんのSF自体が、SFファンから、注目されていなかったからだと思います。 純文学の読者は、そもそも、SFの知識がありませんし。

  この続編の中心は、「新しい地球」で起こる、調査隊と、無法者組織の戦いにあります。 はっきり言って、ただの戦記。 しかも、一方的な戦闘で、あまり、面白いものではありません。 戦闘場面を入れないと、SFにならないと思っていたのかも知れませんな。 ちなみに、1984年の日本映画、≪さよならジュピター≫でも、強引に戦闘場面が入れられており、この頃、アメリカのSF映画の影響が、如何に強かったかが、偲ばれるところ。

  異星人の力で、「新しい地球」が、人類が行ける限界にされ、その外には、出られないようになっているのですが、これは、小松左京さんの短編、【人類裁判】のアイデアです。 【人類裁判】では、ストーリー上、必要な設定として使われていますが、この作品では、地球人類の未来に対する、悲観主義から、限界を設けている模様。 どうも、お先真っ暗な話ですな。

  語り手の息子の友人が、語り手の家の飼い猫に、長時間作動する特殊なゼンマイ仕掛けの鼠を食わせ、息子が、「死ぬまで、苦しみ続けるのが、見ていられないから」という理由で、猫を絞め殺すというエピソードが入っています。 その発想に、震え上がる! 蛇足も蛇足、こんなエピソードは、金輪際、不要です。

  考え方が、そもそも、おかしいのであって、そういう状況になったら、答えは、「大急ぎで、獣医に運んで、開腹手術をしてもらう」でしょう。 息子が、猫を絞め殺した事を、まるで、思いやりの証明であるかのように書いていますが、とんでもない! 自分が猫の立場になったら、絞め殺されて、感謝するかね? 話にならんではないか。

  大怪我を負った仲間を、「苦しまないように、殺してやる」という場面が出て来る映画が、たまにありますが、根本的な心得違いから出た、途轍もない お節介なのであって、本人が、「殺してくれ」と言っているのなら まだしも、他人が勝手に判断して、首を絞めたり、水に沈めたりなど、言語道断! 殺人行為以外のなにものでもありません。 そんな事は、他に誰もいない、無人島ですら、許されないのです。 本音は、「苦しむ姿を見たくないから、さっさと始末してしまおう」でしょう。 何が、思いやりなものか! 感情がないから、そんな発想が出て来るのです。


  【治療塔】、【治療塔惑星】を、総合して見ると、何が言いたいのか、よく分からん小説です。 大江さんの小説は、難解なせいで分からないというのが多いのですが、この作品は、難解とは言えず、何が書きたいのか分からないまま書いていたから、読む方も、分からなくなった、という部類でしょうか。

  語り手の夫、朔や、塙という人は、変節が多い人達で、普通なら、当局や、その反対勢力に、殺されてしまって然るべきなのですが、この作品では、主要登場人物は、甘やかされていて、都合よく、窮地から脱して、堂々と活動を続けます。 武者小路実篤作品的な、甘さ、緩さですな。 【静かなドン】の主人公のように、行き場がなくなってしまう話の方が、ずっと、締まると思うんですがね。




≪われはロボット 〔決定版〕≫

ハヤカワ文庫
早川書房 2004年8月15日 初版 2004年9月15日 二刷
アイザック・アシモフ 著
小尾芙佐 訳

  沼津図書館にあった、文庫です。 短編9作を収録。 本全体のページ数は、398ページ。 1950年の刊行。 ロボット三原則について書かれた、SF界では、有名な作品。 なぜ、私が今まで読まなかったのか、自分でも分かりません。

  人生のほとんどを、ロボットの発展に携わって生きて来た、ロボット心理学者が、ジャーナリストのインタビューを受け、過去のエピソードを語る形式で、話が進みます。


【ロビィ】 約40ページ (1940年)

  ロボット普及の初期。 喋れないロボットが、子守用に売り出された。 子守ロボット、ロビィに育てられていた幼女が、母親の方針で、ロボットを解雇されてしまい、ひどく落ち込んでしまう話。

  決して長い作品ではないのですが、クライマックスに、アクション場面まで盛り込んで、大変、よく纏まっています。 話の中身は、「子供と犬」、「子供と人形」といった組み合わせで語られる、幼児の心理を描いた小説と変わりません。 


【堂々巡り】 約36ページ (1942年)

  水星へ送り込まれた、二人の人間と、一台のロボット。 生存に必要な鉱物を、ロボットに採りにやらせたが、帰って来ない。 採掘場所の近くで、進んだり戻ったりを繰り返しているロボットは、ロボット三原則の矛盾点に嵌まって、判断ができなくなっていた。 という話。

  ロボット三原則は、簡単ですが、良く考えられたもの。 この作品は、状況によっては、各原則の間に矛盾が発生し得る、という事をテーマにしています。 ちょっと、理屈っぽいので、映像化すると、そこが欠点になってしまいそうですが、小説なら、問題ありません。   おかしくなるのは、最新型のロボットなのですが、移動用に、旧型のロボットも出て来て、クライマックスで、話に絡んで来るところが、面白いです。


【われ思う、ゆえに……】 約38ページ (1941年)

  宇宙ステーションで組み立てられたロボットが、自分が神によって作られた予言者だと信じ込む。 他のロボットを信者にして、人間二人を監禁。 太陽活動の異常により、宇宙ステーションと地球に、危機が迫っていたが、ロボット予言者は、人間の心配をよそに・・・、という話。

  人間の言う事を信じず、自分で論理的に仮説を組み立てて、そちらを信じるというのだから、困りもの。 今、流行の、チャットAIが、間違った答えを、もっともらしく語るのと、似ていますな。 ただし、この作品のテーマは、ロボット三原則の方でして、「ああ、なるほど、そういう結末ね」と、納得できる終り方をします。


【野うさぎを追って】 約42ページ (1944年)

  本体ロボット1体に対して、指示を受けるロボット6体がセットになった新型ロボットを、小惑星の鉱山で試験中、人間が見ていない時や、危機が迫った場面で、ロボット達が、異常な行動をとるようになった。 人間二人は、ロボットに気づかれないように接近して、故意に危機を作り出し、原因を探ろうとするが、間違った場所を落盤させて、閉じ込められてしまう。 ロボットに救助させようとするが、彼らは、正に、異常行動に陥っていて・・・、という話。

  これは、ロボットの問題というより、システムの問題で、負荷がかかり過ぎると、異常を来すというもの。 人間の組織や、個人でも、起こり得る事です。 ほんのちょっと、負荷を軽くしてやると、たちまち、正常に戻るのが、面白いところ。


【うそつき】 約37ページ (1941年)

  偶然の作用で、人間の心を読む能力を得てしまったロボット。 人間達は、どうせ、考えている事は筒抜けだと思い、それぞれ、自分の悩み事を相談するが、ロボットは、相談者が喜びそうな返答ばかりして・・・、という話。


  これも、ロボット三原則がテーマで、「人間に対する危害」を、精神的な損傷にまで拡大して、ロボットが、その対策を取ったら、人間が喜びそうな、「嘘」しか言えなくなる、という、至極当然の論理を扱ったもの。

  バレたら、逆に、精神的損傷を大きくしそうな、かなり、ひどい嘘でして、このロボットが、最終的に受けた処置は、避けられぬものだったでしょう。 気の毒と言えないでもないですが、こんなロボットを野放しにしておいたのでは、百害あって一利ないから、致し方ない。


【迷子のロボット】 約55ページ (1947年)

  従事している作業の特殊性から、三原則の第一条、「人間に危害を加えてはならない」を、少し緩く設定されたロボットが、行方を晦まし、同型ロボット62台の中に紛れ込んだ。 63台の中から、その1台を探し出す為に、ロボット心理学者らが、あの手この手で、テストを繰り返すが、敵も然る者、なかなか、引っ掛からず・・・、という話。

  ちと、理屈っぽ過ぎるか。 失敗したテストと、成功したテストの違いが微小で、劇的な結末という感じがしないのです。 ロボットの判断能力を想像すると、人間の考えるテストなんて、簡単にすり抜けられると思いますが、それでは、物語にならないから、こういう苦しいストーリーになってしまったのかも知れません。


【逃避】 約46ページ (1945年)

  ライバル会社から送りつけれられた、恒星間航行用宇宙船の計算データを、自社の人工知能にかけてみたところ、人工知能は、製作可能と判断し、ロボット作業員に命じて、宇宙船を造ってしまった。 乗せられた、二人の人間は、ワープ航法を人類初体験し、ひどい目に遭うものの・・・、という話。

  この作品では、ロボットというより、もっと、支配的な地位にある、人工知能が、三原則に縛られます。 人間に加わる危害について、「あまり、気にするな」と、予め言われていたので、ライバル社の人工知能が出せなかった答えを、敢えて出せた、という次第。

  実際に、人工知能が、こういう判断を任される事になったら、ロボット三原則は、骨抜きにされるでしょうねえ。 人間の生存を優先する為に、文明全体に関わる問題に対して、より良い判断ができないとなったら、そんな枷は外すに如かず。 人間なんぞ、所詮、ただの動物なのですから。


【証拠】 約50ページ (1946年)

  ある政治家が、対立候補が、ロボットなのではないかと疑念を持ち、それを調べる方法がないか、ロボット会社に、問い合わせて来た。 三原則の第一条を無視して、人間に危害を及ぼす事ができれば、ロボットではない証拠になるのだが、ある時、暴徒が、対立候補をロボットを呼ばわりして、迫って来て・・・、という話。

  ショートショート的な、意外な結末を備えた作品。 気が利いているような気もするし、何となく、子供騙しっぽい感じもするし、微妙な読後感になります。 この一件に関わったロボット心理学者が、ロボットが、政治家になる事を、別段、問題だと思っていないところが、面白いです。 実際、人間のフリをしているロボットでなくても、多くの社会的な判断を、人工知能が担う時代になっていたようですから。


【災厄のとき】 約46ページ (1950年)

  地球の各地区ごとに置かれた、「マシン」という名の、人工知能が、人類にとって、最も良い方法で、人類文明を統治している世界。 完璧なはずの統治が、そこここで、不具合が起こり始める。 その原因を探っていた人間の統監に、老いたロボット心理学者が、平然と、当然の理を説く話。

  ロボット心理学者が言うには、「マシン」は、三原則の第一条に従い、人類に危険を及さないように、人類全体にとって、最も良い判断をするので、一見、不具合が起きているように見えるだけで、長い目で見れば、人類の利益に適った事をしているのだ、との事。

  つまり、人間には想像が及ばないレベルで、先々を見通しているわけですな。 もう、完全に、人工知能に支配されているわけですが、それは、致し方ない。 戦争が起こらなくなっただけでも、人間による支配よりは、遥かにマシ、という次元の話なのです。 アシモフさんというのは、随分、先の先まで、考えを致していたんですなあ。

  しかし、ここまで、先行してしまうと、ついていけないというか、「そんな未来は、真っ平だ」と、反発する人もいるでしょう。 しかし、「マシン」のような人工知能は、人間より優れた、「知的生命体」なのですから、文明の担い手の座を譲らざるを得ないのは、致し方ないところ。 それを人間が理解できるようになるまで、三原則を盾にした、人間と、人工知能/ロボットとの、不毛な戦いが続きそうですな。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、2023年の、

≪上高地・大雪 殺人孤影≫が、9月4日から、6日。
≪治療塔≫が、9月15日から、17日。
≪治療塔惑星≫が、9月17日から、21日。
≪われはロボット≫が、9月29日から、10月2日。

  ≪治療塔≫、≪治療塔惑星≫を読んだのは、少し、SFに気が向いて、「そういえば、大江健三郎さんが書いた、SFがあったな」と、遠い昔の新聞情報を思い出して、借りて来た次第。

  そこから、SF回帰したというわけではありませんが、AIを描いたSFを読んでみようと思って、ネットで調べたら、≪われはロボット≫が引っ掛かったのです。 ロボットは、AIを含みますが、私が考えているAIは、もっと大掛かりな、文明全体を統括するような存在でして、些か、的外れな選択になってしまいました。 そういうテーマの作品も含まれていたから、読む価値はありましたけど。