2008/08/31

北京五輪

  北京五輪が終りました。 見所も見切れないほど多く、大変良かったと思います。 いつも思うんですが、オリンピックというのは、見ているだけでも何となくお祭り気分になり楽しいものですな。

  開会式は凄かったです。 凄いを通り越して、度肝を抜かれたというのが的確か。 恐らく、全人類の全歴史を通じて、この地球上において、最も精緻に企画され、最も大規模に繰り広げられたページェントと言えるでしょう。 ショー・アップとは、ここまで突きつめられるものかと呆気に取られる華やかさ。 理論的には、これを超えるショーも作れない事はないと思いますが、資金的にも、才能的にも、しばらくは抜けますまい。 次のロンドンでは、もはや逆方向の、≪エコ開会式≫に走る以外、選択の余地はないのではありますまいか。

  演出は、≪初恋の来た道≫、≪英雄(HERO)≫などを撮った、張藝謀監督。 映画監督なので、畑違いであるショーの演出はどうするんだろうと思っていたんですが、こりゃ、ショー演出家に転身しても、莫大な釣りが来るくらいの素晴らしい腕の冴えですな。 なるほど、天才とは確かにいるものです。

  夜を選んだのは大正解で、花火にせよ、電飾にせよ、光の効果を利用したかったら、舞台が夜になるのは当然のこと。 さすが映画監督の発想らしく、ショーを映像として捉えた点が、今までにない工夫です。 競技場に敷かれた巻物状の大スクリーンを中心に、観客席を取り巻く壁上のスクリーンを合わせて、会場全体を立体的な映画館にしてしまったんですな。 実際の人間の動きだけでも凄いのに、それに映像が被さっているので、いとも鮮やかに幻想的な雰囲気を現出させています。

  ショー企画の精緻さにも驚きますが、これだけ大勢の出演者に、どうやって段取りを覚えさせ、練習させたのか、それも驚異的です。 おそらく、監督の手足になって奔走した演出スタッフが無数にいたのでしょう。 いずれも、天才級の知能と、超人的な体力・精神力が無ければ出来る事ではありますまい。

  ショーがあまりにも素晴らしいので、いざ主役の選手入場となったら、白ける白ける。 ショーだけで終わりにしても良かったのではないかと思うほど。 とはいえ、入場の見所はやはり衣装でしょうか。 いつもの事ですが、中南部アフリカ諸国の衣装は、やはり圧倒的に美しいですな。 ヨーロッパでは、ハンガリーの服がデザイン良し。 スエーデンの女子選手の旗袍風の服は、自国文化の主張ではなく、開催国の文化に合わせるという逆転の発想が面白いです。

  聖火点灯は 元体操選手の李寧さんでしたが、解説をしていた谷村新司さんが、名前を知らなかったのに意外でした。 ロス五輪やソウル五輪の頃の中国体操界のエースで、私でさえ名前を覚えていたくらいの有名人なんですが。


  私の場合、大会の前半は夏の連休の内で、外出が多く、後半は仕事で夜しか家におらず、肝心の競技の方はそんなには見られなかったんですが、いくつか印象に残ったものを書きましょうか。

≪自転車 ロードレース≫
  コースが見ものでした。 万里の長城付近の道を使って行なわれたんですが、城壁のある町の中を通ったりして、普通の旅番組などでは写さないようなリアルな風景が見られました。 高速道路の崖側の壁の作り方も、石積みか、もしくは石積み風に仕上げてあって、日本では見られないような質感を持っています。 競技そのものも、スピード感溢れ、競技場の中の種目とは全く違った魅力がありました。

≪アーチェリー≫
  恐ろしく静かな競技ですが、正真正銘の真剣勝負だねえ。 対戦者と戦っているというより、自分と戦っているんですな、彼らは。 結局、ほとんど表情に変化が無く、最も落ち着いていた選手が勝ちましたけど。 

≪マラソン≫
  これも、コースが見もの。 天安門広場はもちろん、北京大学や清華大学のキャンパス内を通過するなど、サービスたっぷりのコース設定ですな。 やっぱり、明清の都・北京だけあって、この空間の広さが魅力です。 ≪出口≫や、≪入口≫といった漢字の標識があって、当然と言えば当然の事ながら、何の抵抗も無く漢字が読めるのが、得をしたような気分がして面白いです。

≪女子サッカー≫
  【ブラジル×ドイツ戦】。 凄いな、ブラジル女子。 グリグリ動く。 ドイツを手玉にとっていました。 概ね、ブラジル選手の方が、ドイツ選手より小柄ですが、≪体格差≫の優劣が逆転しているとしか思えません。 小さい方が動きが良いのです。 実に美しい! かっこいい! 超絶美技! 残念ながら、アメリカとの決勝を見れなかったんですが、このブラジルに勝ったアメリカというのは、どういうチームだったのよ?

≪女子体操≫
  なんつーか、その~、今頃こんな感想を言うのも遙かな話ですが、やっぱり、ルーマニアの妖精・コマネチ選手は、すば抜けて魅力があったんですなあ。 演技も素晴らしかったけど、顔もスタイルも、ケチのつけどころが無かったです。 だから、≪妖精≫と呼ばれたわけですよ。 今の選手を見ても、そういう三拍子揃ったっていう人はいないものね。

≪シンクロ≫
  相変わらず、醜い競技だのう。 元の顔の良し悪しに全く関係なく、あの鼻挟みをつけた時点で、もはや人間の顔とは思えません。 さっさと五輪種目から外すべきでしょう。 五輪種目でなくなってしまえば、こんな陳腐な競技をやりたがる人間などいなくなるに決まってます。 そもそも、これってスポーツなの? 軽業のような大道芸に近いと思いますが。

≪卓球・女子≫
  準々決勝、中国の張怡寧選手とシンガポールのホン選手の試合を見ましたが、速過ぎて、何が行なわれているのか、全然見えませんな。 日本の卓球関係者である解説者が、あまりの高度なラリーに、言葉を失ってばかり。 中国の卓球が図抜けているのは有名ですが、互角に戦っているシンガポール選手のこの強さは、一体どこから出て来ているのか。

  順序が逆になりましたが、福原愛さん、張怡寧選手とその前に対戦していたんですね。 3セット先取されて、第4セットは取り、第5セットで撃破されたとか。 その後の張選手とホン選手の対戦を見ているので、思うんですが、第4セットは、譲ってもらった可能性が高いですな。 福原さんは、中国でも人気があるので、向こうのコーチが花を持たせてくれたんでしょう。

  福原さんの卓球、というより、日本式の卓球ですが、このスタイルを守っている限りは、とても世界のトップクラスと戦うのは無理ではありますまいか。 投げ上げサーブなんて、もうそんな時代じゃないですぜ。 もはや、単なるパフォーマンスですな。 全く効果が出ておらず、アホ臭そうにつきあっている張選手の顔を見るにつけ、思わず赤面してしまいます。 もっとも、張怡寧選手は無表情が特徴らしく、常にアホ臭そうな顔で試合をしているという感じもしますが。

≪卓球・男子≫
  当然、中国選手同士の戦いになりましたが、すっげー試合ですな。 人間技に見えません。 卓球は、メダリストが一国に集中してしまっているので、その点、種目整理の対象になりかねませんが、こういう超高レベルな試合を見せている限り、外されるような事は無いでしょう。

≪ビーチバレー≫
 アメリカが金メダル。 圧倒的な強さで、今大会通じて、1セットも落さずに、金まで行ってしまいました。 決勝は中国チームが相手で、接戦でしたが、どうもアメリカ側が接戦になるように配慮したような感あり。 アメリカのペアは、超がつくようなベテランで、百戦錬磨、その程度の演技はお手の物という感じです。 もう歳が歳ですから、いずれ、世代交代の波に洗われると思いますが、まだ暫くは無敵なんじゃないでしょうか。

  シャワーと見まがうような強い雨の中でやっているんですが、サーブに使うボールをタオルで拭く係のお姉さんが、一生懸命で大変健気。 こういう裏方さんが無数にいて、スポーツ大会というのは支えられているんですなあ。

  どの競技も、日本向け放送の解説と実況は日本人がやっているわけですが、日本選手が早々と脱落してしまうと、気楽になるのか、解説の内容が濃くなって面白くなります。 こういう時が聞き時でして、その競技についての専門的な知識や、試合の見所を知る事が出来ます。 「日本選手がいなくなってからが、オリンピックの醍醐味」とはこの事を言うんですな。

≪野球≫
  準決勝の【キューバ×アメリカ戦】を見ていたので、「アメリカは二流選手だけ連れて来たんじゃないか?」と思っていたんですが、どうしてどうして、日本相手だと滅法強いじゃござんせんか。 実況は、「アメリカ野球の意地」なんて言ってましたが、意地で倍点取れるほど、日本代表は弱かねえすよ。 実力が出たからこそ、圧倒したんでしょう。

  で、決勝の【キューバ×韓国戦】ですが、凄まじく緊迫した試合になりましたな。 八回九回のリュ・ヒョンジン投手にかかったプレッシャーが、並大抵ではありません。 負けても銀メダルで、充分な名誉ですが、そんな事は一切念頭に無い投げっぷりが賞賛に値します。

  九回の捕手退場&投捕手交代劇ですが、あの悶着で、一見韓国側に不利になったように見えて、その実、あそこで試合が一旦途切れた事で、キューバ側の緊張の糸が切れて追撃ムードが萎んだ為に、むしろ韓国側に有利になったんですな。 交代した投手がサイド・スローで、先発のリュ投手に感覚を合わせていたキューバの打者達が、調整する暇が無かったのも影響したと思われます。

  いや、これだけの試合はなかなか見られるものではありませんよ。 古田さんが感動していましたが、見所を知り尽くしている元プロだけでなく、ほぼ門外漢に近い、というか、ぶっちゃけ野球に興味が無い私ですら引き込まれて目が離せなくなってしまったのですから。

≪格闘技≫
  これは毎度思っている事なんですが、格闘技系の競技で、階級ごとに銅メダルが必ず二つ出るものがあるは、どう考えてもおかしいです。 それでなくても、体重別になっていて、メダルの数が多すぎると言うのに。 バレー、バスケットなどは、男女合わせても、金銀銅×2で、6個しかメダルが無いのに、レスリングや柔道は、何十個出るか分かりません。 国際オリンピック委員会が、こんな不公平な状況を放置しているのが不思議。 「競技の性質上やむをえない」などというのは、考えが足りないのであって、思い切って、団体戦にしてしまえば、メダルの数を減らせます。

  それはさておき、今回は柔道での日本のメダル数がだいぶ減りましたが、柔道という競技の行く末を考えれば、良い傾向です。 従来、「柔道は日本のお家芸だから、メダル独占が当たり前」などという無神経な言動が日本国内で大っぴらに口にされていましたが、馬鹿は死ぬまで寝ていた方がいいのであって、オリンピックの種目は、一国にメダルをくれてやるために、選ばれているのではありません。 採用されてから40年以上経つのに、未だに発祥国がメダル独占をしていたら、それはオリンピック種目として不適当である事の証明でしかないのです。 発祥国以外の国の選手がメダルの多くを取るようになって、初めて国際的になったと喜ぶべきでしょう。

  もっとも、私は、柔道という競技、見ていてちっとも面白くないので、どうにも好きになれません。 まず、決まり手が分からないです。 実況ばかりか、解説者まで、しょっちゅう決まり手の判断を間違えますが、プロが見ても分かり難いものを素人が分かるはずがありません。 ≪効果・有効・技あり・一本≫の境目も審判の主観に委ねられていて、あやふやこの下無し。 よく、こんなルーズなルールでやっとるのう。 寝技があるのも、いやらしいです。 倒したら勝ちでいいじゃん。

  日本発祥の格闘技と言ったら、柔道より相撲の方が、ずっと分かり易く、面白いと思いますが、なんでまた柔道なんか入れたのか、とんと理由が解せません。 「○○選手が金メダル!」とかいって、狂ったようにはしゃいでいる人達に聞きたいのですが、本当に柔道という競技を観戦していますか? ただ、勝ったか負けたかだけで、騒いでるんじゃないの? それは、スポーツ観戦とは言いませんぜ。 毎朝、順意表だけ見て、プロ野球を論じている似非ファンどもと、選ぶ所がありますまい。


  メダル取得競争は、金メダルでは中国が勝ち、総数ではアメリカが首位を守りました。 この競争、面白くなるのは、次のロンドン大会でして、ホームでない場所でも中国が同じくらいのパーセンテージを占められるかどうかに興味があります。 ソウル五輪以降、上位陣の常連になった韓国を見ると、中国もずっとトップに君臨しそうですが。

  ロシアのメダル数が思ったより伸びなかったのは、紛争の心理的影響でしょうか。 後半追い上げて、三位まで上がりましたけど、実力的には、もっと取れても良かったような気がします。 ちなみに、人口比から言うと、韓国が日本の3倍取っている事はすぐに気付きますが、もっと凄い所では、オーストラリアが日本の12倍で、ダントツです。 他、イギリスは5倍、アメリカは6倍、中国は0.4倍になります。 どの国を基準と考えるかで、感じ方がだいぶ変わって来ますが。

  もっとも、メダル数という奴、選手の才能より、その国のスポーツ強化に対する予算の違いで決まるような所もあり、金をかけている国が強いのは当然という気もしますが。 インドの相変わらずの少なさには、逆にびっくりしますが、あれだけの人口があって、才能ある人材がいないはずがないので、強化に問題があるのは疑いないと思います。


  閉会式は、やはり開会式ほど驚きはしませんな。 依然として、ショーは凄いですが、やはり、閉幕のうら寂しい雰囲気には勝てません。 それにしても、世界中で、最も華やかな舞台はどこかといえば、やはりオリンピックの開会式か閉会式に決まりでしょうねえ。 あれだけの大観衆に囲まれ、全世界にテレビ中継されている所でスポットライトを浴びるなど、国連演説やノーベル賞授賞式でも、遠く及ばないでしょう。

  昨今、オリンピック閉会式の恒例のようになった歌謡ショーが、割合短かったのは助かりました。 シドニーの時には、うんざりするほど長かったですから。 せいぜい、二三曲が程よいんじゃないでしょうか。 歌手を呼ぶと、開催国の人は盛り上がりますが、外国人には全くピンと来ず、聞いているだけで苦痛になってしまうのです。 歌手が主役のようになってしまうのも、違和感あり。 オリンピックの主役は最後まで選手でしょう。

2008/08/24

萎むエコ・ブーム

  エコ・ブームに息切れが見られます。 洞爺湖サミットの直前辺りまでは、異様な盛り上がりを見せていましたが、その後、急速に萎みました。 いや、萎んだと言うより、どこかへ消えてしまったと言うべきでしょうか。 サミットの結果によってそうなったわけではなく、ちょうど、サミットを境に猛暑が到来し、エアコンを全開にしなければ生き延びられないような日々が続いた為、みなさん俄かに、エコどころではなくなったのでしょう。 家や職場で、ガンガンこれでもかってくらいエアコン回しといて、「温暖化防止のために、省エネを!」なんて叫ぶのは、さすがに恥かしかったんでしょうなあ。 人間なんて、ゆとりがある時にしか、大言壮語は吐かないものですよ。

  エコ・ブームが衰えただけでなく、反エコを口にする連中が反撃に出たのも、この夏の特徴です。 反エコというのは、「レジ袋を廃止すると、却ってCO2が増える」とか、「ハイブリッド車は、全く省エネになっていない」とか、「風力発電や太陽光発電は、資源の浪費に過ぎない」とか、もっと根本的なところでは、「温暖化の原因はCO2の増加ではない」とか、そういう論説です。 実は、この種の指摘は、何年も前から存在し、図書館に行くと、いかにも闘志剥き出しの題名をつけた本を何冊も見る事が出来ます。 なんで、今まで注目されなかったのかというと、エコ・ブーム自体が低調だったので、その揺り返しである反エコにも興味が持たれなかったんでしょう。 それが、ここへ来て、エコ・ブームの急激な盛り上がりに恐れをなした浪費家達が、「これぞ、わがバイブル!」とばかりに、反エコ本に飛びついたというわけです。

  エコ・ブームそのものが極端で軽薄だと思いますが、反エコ・ブームも同じくらい低次元ですな。 感覚的に分かる事ですが、反エコを唱えているやつらが、屁理屈レベルで立論しているのは、疑いないところです。 屁理屈というのは、無敵でして、白でも黒と言い変える事が自在に出来ます。 屁理屈を並べるのに必要なのは、論理的思考でも科学的根拠でもなく、汲めども尽きぬ底無しの≪悪意≫だけです。 悪意さえ維持できれば、全世界の学者が認めている定説が相手でも、ボロクソにケチをつける事は容易です。

  どんなに理路整然とした理論にも、必ず弱点というのはあります。 たとえば、物理学のような、計算で綺麗に結果が出るような分野でも、「原子は小さ過ぎて、目で見る事が出来ないから、原子理論は信用できない」といった言い方をすれば、原子物理学の成果全てを否定する事も不可能ではありません。 実際の所、現在の科学力では、原子を見る事はもちろん、写真に撮る事も、「これは確実」と言い切れる想像図を描く事さえ出来ないのですからね。 ≪紐理論≫だの、≪膜理論≫だの、次々に新説が登場し、一見順調に解明が進捗しているように見えますが、理論物理学はすべて、≪矛盾が起こらない仮説≫に過ぎませんから、後々、目に見える形で微小世界の構造が解明されれば、今唱えられている説がすべて覆るという事も起こりうるわけです。 危ういですなあ、科学技術も。

  まして、エコ・ブームでは、そもそも温暖化にしてからが、「地球の気候変動史のスパンで見れば、一時的な現象に過ぎず、人間活動との因果関係は立証できない」と全否定する事も出来るほどあやふやな事ですから、屁理屈の付け入る隙は無数にあります。 実際、地球の気候史に何度も到来している、≪氷河期≫ですが、「どんなに温暖化しても、氷河期が一度来れば、冷えるんじゃないの?」と言われてしまえば、エコ・ブーマーは、一言も返せますまい。 そもそも、エコ・ブーマーの方々、ブームに乗るのに夢中で、氷河期の事なんて、知っていたくせに、思い出しもしなかったのです。 「温暖化が進むと、生態環境に甚大な影響が出る」と言っていますが、そんな事を言い出したら、氷河期が生態系に与えた影響は、二℃三℃の上昇くらいのものではありますまい。 生物種にしてからが、どれだけ絶滅し、どれだけ新しい種を生み出したか分かりません。

  エコ・ブーマーの言う通りに温暖化が進んだとしても、当座、絶滅の危機に曝されるのは、極寒地に住んでいる動物だけです。 他の生物は、順送りに寒冷地へ移動するか、温暖環境に適応するように変化していく事になります。 エコ・ブームの最盛期には、まるで全地球の生物が滅びるかのような言い方をする馬鹿者がうじゃうじゃいましたが、よくも、そんな大嘘が言えるものだと呆れ返りました。 目を血走らせて、「地球の為!」と叫んでいながら、科学知識は限り無くゼロに近いのです。 一体、何なんだ、おまいらは? そういえば、白熊がイの一番絶滅するというので、白熊を温暖化防止のイメージ・キャラに使うのが流行りましたが、白熊を本当に守りたかったら、出来るか出来ないか大いに怪しいCO2削減に取り組むより、白熊が棲息できる人工環境を作った方が、遥かに確実で、しかも安上がりです。

  エコ・ブームの息切れですが、強力にバックアップしていた新聞やテレビが、洞爺湖サミット以降、さりげなく手を引いてしまったのも大きな理由だと思います。 ブームたけなわの頃は、「温暖化対策は、待った無し!」とか、「今できる事をしなければ、子供の世代にツケを残す」とか、威勢ばかりいい見出しが、ピョンピョコ躍っていたものですよ。 何だか、笑ってしまいますな。 何がおかしいって、それを書いている新聞記者達が、全員ズルベタの文系で、科学技術なんぞ、まるっきり分からないカテゴリーに属する人種だったからです。 つまりその、記者などといっても、ただのブーマーだったんですな。

  しかし、さすがに機を見るに敏でなければ、報道の仕事は勤まらないらしく、ブーム最盛期の頃すでに、解説員クラスの書く文には、エコ・ブームを後押しする事へのためらいがチラホラ現れて来ました。 「専門の学者ですら意見が割れているのに、俺みたいな門外漢がブームを煽っていいのかな? 部数があるから、書けば確実に世の中に影響を与えてしまうわけだけど、事に因ったら、えらい間違いをしでかしているのかもしれんぞ」という具合に、腰が引け始めたのです。 そりゃそうだよねえ。 下手をすれば、産業社会を崩壊させてしまうようなブームを、オピニオン・リーダーが先導してるんだから、己の仕業に危惧を感じない方が後生がいいというものです。

  テレビのエコ番組が馬鹿をやって、比較的良心的なブーマーに呆れられたのも要因の一つだと思います。 自転車を漕いで発電したり、太陽光で料理をしたり、廃油燃料でバイクを走らせたり。 これら、すべて、エコとは全く正反対の、エネルギーの浪費&環境汚染そのものです。 だからねー、ふだんバラエティー番組で芸人に馬鹿な事をやらせて、笑いを取る事を仕事にしているプロデューサーやディレクターが、エコ番組なんて作れるわけないんですよ。 どんな素人でも、「これがエコか?」と脂汗流してたじろぐようなイベントを、次から次へバカバカ並べられたら、「こんな連中と一緒にされてはかなわん」と、逃げ出したくなるのが人情というもの。

  また、真面目な討論番組でも、集められた論者が問題。 学者でも業界関係者でもなく、ただのド素人がしゃしゃり出て、正確な知識も無いくせに、≪エコの使徒≫ぶって、エコに熱心でない人達を糾弾する事にのみ生き甲斐を見出していると思しき罵詈雑言の披露宴を繰り広げたものですから、これまた、良心的なブーマーが、恐れをなして逃げて行ってしまいました。 何事も極端というのは、よくないものですな。

  ブームというのは、水物の最たるものですが、一度萎んでしまうと、なかなか復活しにくいものです。 おそらく、今後もエコを唱える人達は今までと変わらず唱え続けると思いますが、今年の春ほどの盛り上がりには、もうならないと思います。 特に民主社会では、民衆に飽きられたら、その時点でその活動は停滞すると見て間違いありません。 ブームが去ったのに、しつこく、「温暖化対策は、待った無し!」のような脅迫めいた主張を続けていると、暗にキチガイ扱いされ、鼻を摘ままれてしまいます。

  で、結局の所、エコはやった方がいいのか、やらなくてもいいのか、というと、あまり極端にならないよう、按配を加減しながら、ちょぼちょぼ実行するのが良いと思います。 具体的な目安としては、

・ レジ袋は、いらない時は断って良いでしょう。
・ エコ・バッグをコレクションするのは本末転倒です。
・ 健康に自信があれば、車通勤をバイク通勤や自転車通勤に変えるのは良いと思います。
・ ハイブリッド・カーなど買う必要はありません。
・ 自転車で行ける近場に売っているものを、車で遠くまで買いに行くのは、馬鹿馬鹿しいのでやめた方がいいでしょう。
・ 家の屋根に減価償却できない太陽光発電を設置するのは資源の浪費にしかなりませんから、やめた方がいいです。
・ 扇風機だけでも涼しいと思ったら、エアコンはつけなくても何ら問題はありません。
・ すぐ使わなくなると分かっている電気製品は買わない方がよいです。
・ 電球やエアコンを、わざわざ、≪エコ製品≫に買い換える必要はありません。 企業のCMは、一つの例外も無く、自社の利益の為に作られていて、良心や、社会に対する責務などとは無縁ですから、騙されないように注意しましょう。

  とまあ、こんな所でしょうか。 エコ活動だと思わず、個人的な倹約だと思って行なうくらいがちょうどいいです。 将来、エコが間違っていた事がわかっても、自分の損にはなりませんし、社会に悪影響も及ぼしませんから。 身近に反エコの人がいて、傍若無人にエネルギーを使い捲っているのを見ても、「まあ、人は人だから」と、さして腹も立たない程度の心構えが望ましいです。 くれぐれも、エコの為に他人を糾弾するような、分を超えた真似はすべきではありません。

  そうそう、何か勘違いしていて、ゴミ拾いなどもエコの内だと見做している人もいるようですが、汚染物質でもない限り、環境保全とは関係ないので、しっかり区別したほうが良いと思います。 山や海岸に空き缶がどんなに落ちていようが、それは美観の問題に過ぎず、環境に影響はありません。 意外なようですが、タバコの吸殻なども、山火事の原因になる危険性を除けば、いずれ分解してしまうので、環境負荷の低いゴミだと言えます。 ブームになるような事は、とかく、イメージが先行しがちですが、美化は人間社会の為に行う事、環境保全は生態系全体の為に行う事で、別物ですから、ご注意あれ。

  ちなみに私、以前、空き缶拾いをやっていた事があるんですが、あれは、精神衛生に悪いですな。 「拾えば拾うほど綺麗になる」と思って励みにするわけですが、一方で捨てる奴らがいるわけでして、そういう奴らに限って、ろくでなしのクズに決まってますから、チマチマ拾っている内に、「どうして、そんなクソ野郎どもの為に、俺が苦労しなきゃならないんだ?」と、ムッカムカしてくるのです。 浜の真砂は尽きるともクズの種は尽きませんから、永久に空き缶は無くならないわけですな。 それに気付いて、スパッとやめました。

2008/08/17

その後の折り畳み自転車

去年(2007年)の一月頃、折り畳み自転車を買うか買わぬかで悩んだ事を書きましたが、それ以降どうなったか、報告せずじまいでいました。 実は、買ったんですよ。 そう、さんざん、デメリットばかり並べ立てて抵抗したにも拘らず、結局買ってしまわなければ、収まりがつかなかったわけですな。 私の理性なんて、そんなもんなんです。

  買ったのは、≪トレンドウォーカー≫というネット通販で、今でもほぼ同じ品が売っていますが、レイチェルの≪OF-20R≫という製品です。 中国製。 スチール製、20インチ、変速無し、色はシルバー、重量14.5㎏。 値段は、本体8200円、送料1050円、代引き手数料315円、合計9565円でした。

  実は註文したのは、≪OF-20F≫だったんですが、届いたのは≪OF-20R≫だったのです。 ネットの画像と現物を比べて見ても、≪F≫と≪R≫の違いが分からず、些細な事でクレームをつけて、送り返しなどという事になったら、それこそ面倒なので、気にしないで済ませました。 今売っている品が≪R≫になっているところを見ると、つまり、≪F≫は古いタイプで、それが既に捌けてしまっていたので、新しいタイプの≪R≫が送られて来たというわけなんでしょう。


  折り畳んだ状態でダンボールの箱に梱包されていたのですが、思ったよりも重くて、引っ張り出すのに手間取りました。 組立方法は、説明書を見なくても分かるほど簡単。 フレーム部分のほとんどを気泡ビニールと薄いダンボールで被覆してあり、剥がすのに一苦労しました。




  組み立てて持ち上げてみると、そんなに重くなくて、ホームセンターで試しに持ち上げてみたもっと高い物と比べても大差ない感じでした。 ただ、折り畳んで、ある程度の高さまで抱え上げようとすると、ぐぐぐっと重く感じるのです。 荷台を外せば確実に軽くなるはずで、届く前まではその予定でいました。 フックがついていない簡易荷台なので、使うとしても使い勝手が悪いですし、写真撮影サイクリングが目的では、どうせ使わないに決まっているので、外してしまった方が良かろうと思ったのです。

  ところが、たまたま通りかかった父に相談してみた所、「荷台もフレーム強度を維持するのに関与しているから、外さない方がいい」との事。 元機械設計士の指摘を無視するのも怖い話。 自転車を単純な機械だと思ってなめてかかると、痛い目に遭うのは、結構多くの人が経験している所です。 走っている途中で路上分解して、睾丸を潰したなどという話も割とよく聞くし・・・・。 そこで、荷台はそのままとし、腰を痛めない持ち上げ方を工夫する事にしました。


  ハンドルに恐ろしく単純な構造のベルがついていたのですが、必要充分に鳴ったので驚きました。 それ以外には、装備は無し。 ライトもついていませんが、スポーツ用の自転車などは、みんなそうですから、別段違法ではないはず。

  昼間に乗るのはちょっと恥かしかったので、夕食後、日がとっぷり暮れてから、家の周りをちょこっと一ブロック走ってみました。 さすが20インチだけあって、速い速い! 昔16インチに乗った時、漕いでも漕いでも全然進まず、トサカに来て、下りて押した覚えがあるので、この速さには感動しました。 ギアは単式ですが、平地ならちょうど良い漕ぎ加減です。 これなら、普段使ってもよいくらい。 もっとも、籠無しなので、買物や図書館には乗って行けませんが。


  とまあ、ここまでが、届いた当日の感想。 それから一年半、一・二週間に一回のペースで乗って来ました。 現在の感想としては、まずまず買って良かったと思っています。 当初の予定だった、車に積んでの移動は、合計10回くらいしかやっていませんが、家から乗って出かける際にも、普通の自転車とは違ったメリットがある事が分かったのです。

  決定的な違いは、≪軽さ≫です。 14.5㎏という重量は、抱え上げるには重いですが、普通の自転車と比べれば遥かに軽く、この差が機動性を発揮するのです。 たとえば、階段と平行したスロープを押して上がる時など、普通の自転車では強力並みの力が必要になりますが、折り畳みだと、ちょっと重めの鞄を持って上るのと大差ありません。 この違いは、実際に軽い自転車を使ってみないと体感できないものですな。

  ただ、悪い点もあります。 車体が小さすぎて、私の体に合っていないので、乗っていると、疲労が激しいです。 サドルは普通の自転車と同じ物なんですが、サドル支柱の伸縮調整ボルトがワンタッチ・レバー式になっている為に、固定する力が弱く、長く乗っていると次第に沈み込んできて、ますます漕ぎにくくなります。 まあ、これは、ボルトを普通の締め付けタイプに交換すれば解決する事ですけど。 この締め付けボルトは、百円ショップでも売っています。


  次にペダル。 ペダルも折り畳めるようになっているのですが、上側にしか畳めないタイプで、上面と下面で形状が違い、下面が上になると、足が載せられないのです。 右足はずっとペダルに載っているからいいんですが、左足は止まる時に下ろさなければなりません。 すると、次に走り出す時には、大抵ペダルが引っ繰り返っていて、直さなければならないのです。 これも、ペダルだけの問題なので、上下が無いタイプに交換すれば済む事ですが、ペダルは結構高く、100円ショップでは買えません。 片側だけでも、500円くらいするんじゃないでしょうか。




  そういえば、一年くらい前になりますか、新聞で、折り畳み自転車のペダルが折れる事故が頻発しているという記事がありました。 体重をかけると、真ん中でボキッと砕けるように折れてしまうのだそうです。 だけど、それは当たり前ですぜ。 折り畳み式のペダルが、一体式のペダルより弱いのは、見なくても分かるような事です。 そもそも、折り畳み自転車自体が、性能を限定して設計されているのであって、本来、大人の男性向けでない事は、大きさを見ても歴然です。 漕ぎ出す時、全体重を掛けて、思いっきり踏み込むなど、使用方法を間違えているとしか思えません。 物理的直感で、分からんもんですかねえ?

  折り畳み自転車は、スポーツ・タイプの自転車に似たデザインを取り入れている物が多いので、イメージ的に、普通の自転車より頑丈に作られていると思い込んでいる方もあろうと思いますが、真っ逆様の思い違いです。 折り畳みなんだから、強いわけないでしょうが! 折り畳み傘が、普通の傘より弱いのと同じ事です。 折り畳みだの、変形だの、合体だのといった言葉がついたら、一体式より確実に華奢になるのは、物体構造の常識です。 モビルスーツ的に言えば、Zガンダムあたりが、ザクより頑丈などという事はありえないのです。 おっと、譬えが悪いか。

  折り畳み自転車の説明書を読めば、「悪路走行禁止」といった注意が書いてあるはずです。 使い方が分かっとらんのよ。 折り畳み自転車で、普通の自転車と同じ強度を出そうと思ったら、数倍重くなり、数倍高くなります。 そんなもの、売り物になりませんよ。

  話を戻しますが、他に問題点というと、前籠が無い事ですかね。 籠をつけると、えらく重くなってしまうのです。 何も入れる所がないとさすがに不便なので、100円ショップで、小物を入れるバックを買って来て、サドルの下に吊っていますが、小さすぎて、400㏄のペットボトルが漸く収まる程度です。 後の荷台を飾りにしておくのも勿体ないですから、ここに何とか荷物を載せられないかと思うのですが、直接紐で縛っていいような荷物などというのも、そうそう無いものなのです。


  他に、錠もついていなかったので、100円ショップで、長めの南京錠を買って来て、後輪のスポークと泥除けの支柱の間に掛けて、代用しています。 この種の小物グッズを揃えるには、100円ショップが大変重宝します。


  そういえば、カバーも100円ショップで買ってきました。 休みの日にしか乗らないので、平日は、家の北側の軒下に置いてあるのですが、雨が吹きかかる為、カバーをかけています。 子供自転車用の小さいカバーが、ちょうど良い大きさです。 カバーをかけるようになって初めて気付いたんですが、カバーをかけておくと、自転車って錆びないんですね。 買って一年半もたつのに、錆はほとんど出ておらず、メッキ部分もピカピカです。 どちらかというと安物に属する品なのに、この状態の良さは驚異的。 台風で三回ばかり引っ繰り返って、ついたキズを見なければ、「昨日買ったばかりの新品」と言っても、疑う人は無いほどです。


  もっとも、ただ、カバーをかけておくだけでは不充分でして、その前に、錆びそうな所に、油をたっぷり噴き付けておく必要があります。 ホームセンターに行けば、≪CRC 5-56≫というスプレー式の潤滑油が安く売っていますから、そやつを噴き付けておけばいいのです。 油が垂れたら困るような所は、ボロ布で軽く拭き取りますが、サドルの裏側のスプリングなど、触らないような所は、どっぷり噴き付けて、そのままにしておいてもOK。 メッキ部分は非常に錆やすいのですが、小さな点くらいの錆なら、ボロ布に≪CRC 5-56≫を噴き付けて擦れば、嘘のように落ちます。 ≪CRC 5-56≫は、優れ物なんですよ。 バイクや自転車の整備には、欠かせないアイテムですな。

  自転車のように人目に曝される物は特にそうですが、新品のように綺麗だと、乗っていて気持ちいいですな。 通勤や通学、毎日の買物などに使っている人は無理ですが、たまにしか乗らないような方には、是非カバーをお薦めします。 物置やガレージに入れられれば、もっといいんですが、なかなか自転車用のスペースは空けられないものです。 その点、カバーなら、105円ですからのう。 ちなみに、私が買ったカバーは二度目の冬の寒さでバリバリになり、ほぼ一年で寿命が来てしまいましたが、また同じ物を買って来ました。 なにせ、105円ですから、一年ももてば充分釣りが来ます。

2008/08/10

続々・増えるリコーダー

去年(2007年)の暮から、しばらく買うのを控えていたんですが、5月初旬にダイソーに行ったら、新しいタイプのリコーダーが入っているのを見つけてしまい、また蒐集癖がぶり返して来ました。 費用的に蚊に刺されたほどの痛みも無い為に、ついつい買ってしまったのです。 一本買ったら、もう駄目で、禁じ手にしていた≪色違い≫にまで手を出してしまいました。 やばいっすねえ。 いや、他人事みたいに言っている場合ではなく、やばいっすよ。 こんな買い方は。

ダイソー クリアカラー 青
ダイソー クリアカラー 赤
ダイソー クリアカラー 黄
マックストーン TR-302T 青

  ダイソーの三本は当然、105円で、マックストーンだけ、525円です。 これだけ買っても、840円に過ぎず、国内メーカーの最廉価タイプ一本分の値段にもなりません。 廉価リコーダーのコレクションが、いかに吝嗇家に向いているかが分かろうと言うもの。


≪ダイソー クリアカラー 青≫
 105円 台湾製 ジャーマン式 掃除棒・運指表付き

  この春から売り場に並んだ、ダイソーの新型リコーダーです。 金型は以前の≪ラメ入りスケルトン≫と同じながら、色が半透明になっています。 青の透け具合があまりにも美しいので、衝動買いしてしまいました。 吹いてみた所、音色はラメスケと変わりませんでした。


  頭部管。 こんな写真では伝えきれませんが、これが生半可でなく美しいんですわ。 「本当に百円か?」を何回言わされることか。 音色はまずまず。 音程も、最低音から、高いレまでなら、問題なく出ます。 レ#になると、急に出難くなり、息を強くしないと引き出せません。 それ以上の音は当然出ません。 即ち、曲を選ぶ笛という事になりますな。


≪ダイソー クリアカラー 赤≫
 105円 台湾製 ジャーマン式 掃除棒・運指表付き

  色違いの赤です。 厳密に言えば、ピンクですが、まあ、赤でいいでしょう。 ラメスケの時は、赤はあまりいい色でなく、買わなかったんですが、こちらは大変美しかったので、色違いも買ってしまいました。


  頭部管。 スケルトンと違って、半透明なので、ボディーの艶が違います。 この、作りたての飴のような輝きがこたえられません。


≪ダイソー クリアカラー 黄≫
 105円 台湾製 ジャーマン式 掃除棒・運指表付き

  最初に青を買った後、ムラムラと他の二色も欲しくなり、次の週末を待って、赤と黄色を一遍に買いました。 一度に一本しか使えない物を、一度に二本買うと、何となく罪を犯しているような後ろめたさを感じるのはなぜでしょう?


   この艶が・・・以下略。 とても百円とは・・・以下略。 さすがに三本目となると、もう書く事がありません。 色違いを揃えると、蒐集家的には楽しいんですが、批評家的には苦しくなるものですな。


  ≪ダイソー・クリアカラー≫のケース。 色違い三本とも、ケースは同じ物でした。 ビニール製でホック留め。 ケース自体は、ラメスケと同じ物です。 中のラベル兼簡易運指表もほぼ同じですが、名称に、(ラメ入り)の文字はありません。 少々見難いですが、中に短めの掃除棒が入っています。 この長さでは、奥まで届きませんが、たぶん、「掃除する時には、笛を三分割せよ」という事なんでしょう。 ラメスケの時には、無かった付属品です。 こんなものは要らないんですがねえ。 



≪マックストーン TR-302T 青≫
 525円 台湾製 ジャーマン式 掃除棒・運指表付き

  前々から、ネット検索すると引っ掛かるリコーダーだったんですが、正体不明で手を出し兼ねていました。 それが、たまたま楽器店に置いてあるのを見つけ、試しに手に取ってみると、スケルトンとは思えないほどの手応えある重さ。 「これは絶対いい音が出る!」と直感し、買って来ました。 吹いてみると、思った通りの澄んだ音色。 台湾製で、500円ですが、千円以上の国内メーカー品と比べても、遜色ありません。 


  頭部管。 ネットで買える同型の笛には、≪Maxtone≫のロゴが入ったものと、入っていないものの二種類があります。 このロゴがなかなか、かっこいいです。 ラメ無しスケルトンで、透過度が高いので、水洗いした後、中の水滴を完全に拭き取らないと、カルキが残って白い跡がつく事があります。


  ≪マックストーン TR-302T 青≫のケース。 ビニール製で、ホック開閉式。 500円ですから、まあこのくらいでしょう。 引っ掛け穴が、開閉部と違う方についているのは、珍しい作りです。 運指表は大きいですが、裏の取扱説明書が英文です。 国際市場に出回っているのでしょう。 掃除棒がついています。 だから、いらんっつーのに!



  ≪マックストーン TR-302T≫ですが、「指穴が直線上に並んでいないところが、何かに似ているなあ・・・・」と思っていたら、≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫と、ほぼ同じ金型で作られていました。 これはびっくり。 ジャーマン式とバロック式の違いがあるので、全く同じではありませんが、≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫のジャーマン式タイプである≪ヤマハ YRS-27Ⅲ≫とは、たぶん完全に一致すると思います。

  以前、≪続・増えるリコーダー≫で書きましたが、≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫には、ファ以下とソ以上で、音色が極端に変わる癖があり、あまり良い笛とは言えませんでした。 その点、≪マックストーン TR-302T≫の音色は、音の高さに関係なく、一定で、安定した演奏が出来ます。

  どちらかがどちらかの相手先ブランド商品なのか、実は第三のメーカーが両社に供給しているのか、はたまたコピー商品の類か、いずれにせよ、音色の安定性からも、半額で買える点からも、≪マックストーン TR-302T≫の方がお得ですな。 もっとも、スケルトンは学校で採用されないので、販売量はヤマハの方が圧倒的に多いと思いますが。

  ちなみに、≪マックストーン TR-302T≫には、青の他に、五色も色違いがあります。 全部揃えるべきか否か、懊悩中。 音色は同じに決まっているので、馬鹿馬鹿しいとは思うのですが、そこが蒐集癖の厄介な所でして、「全部買っても、どうせ、大した値段じゃない」と思うと、何回諦めようとしても、繰り返し購入衝動が襲ってくるのです。 うーぬ、病気だのう。

2008/08/03

小石前

  何でも、後期高齢者の方々は、≪後期高齢者医療制度≫のみならず、≪後期高齢者≫という呼び方そのものが気に入らないらしいですな。 当人達が望まない呼称を他者が使い続けるのは言葉の暴力以外の何物でもないので、ここは一つ、もっと適当な呼び名を考えましょう。

 ≪死に損ない≫ なんてえのは、どうですかね? 

  いえね、至って素朴、且つ正直な感想として、人生75年も生きれば、もう充分だと思うのですが、一体いつまで生きるつもりでいるのかなと思いましてね。

  75年どころか、人生なんて、60歳以降は、もう余生でしょうに。 生物全般に共通する基本的摂理として、子供がひとり立ちすれば、もはや生きている理由は無いんですよ。 鮭や鮎などは、産卵の後は自然に死んでしまいますし、ミミズに至っては、わざわざ灼熱の路上に身を晒して、自殺に近いような死に方をします。 次の世代が生き易くする為に、老成体が自然に死ぬように遺伝情報が組み込まれているのでしょう。

  それに比べて、人間のしぶといことよ。

「子供が一人前になるまでは死ねない」
「娘の花嫁姿を見るまでは死ねない」
「孫の顔を見るまでは死ねない」
「孫が小学校に上がるまでは死ねない」
「孫が結婚するまでは死ねない」
「ひ孫が生まれるまでは・・・・」

  ええ加減にしなさい。 いつ死ぬんじゃ、おのれらは?

  そもそも、≪悠々自適≫なんて言葉があるのがいけません。 そんなの幻想でんがな。 仕事を辞めてしまえば、人間もはや、やるべき事などありはしません。 年寄りが、必死に趣味にしがみついている様子の醜いことよ、不様なことよ! 趣味というのは、楽しむ為にやるものですが、年寄りの趣味は、やる事が無いので、時間をつぶす為に無理やりやっているのがアリアリ分かります。

 「体力の衰えを防ぐ為に、毎朝散歩をしよう」などというアイデアは、引退を前にすれば、どんな人間でも思いつくことですが、あれもどうかと思いますねえ。 まず、続かないですな。 人間て、どんなに閑であっても、やる必要の無い事を延々と続ける事はできないものです。 仕事をやめた途端に、体調を崩して、あれよあれよという間に死に至る男性は非常に多いですが、あれは、引退前に考えていた体力維持計画を実行できず、喰って寝るばかりの生活に陥るのが原因と思われます。

  一方、体力維持計画にのめり込みすぎて、命を落す人もいます。 「毎日ジョギング三時間!」とか、「高尾山に一日一回登る!」とか、そういうバイタリティー横溢したオッサン達ですが、気力ばかり漲っても、体がついて来ません。 とりわけ、長年酷使されて来た血管が…。 ジョギングを日課にしていて、土砂降りの日でも、灼熱地獄のような酷暑の日でも、欠かさず走っている人が、ある日突然、帰って来なくなる時が来ます。 出先で血管が切れて、野垂れ死にしているのです。 まったく、迷惑な話だぜ。 てめえの汗みずくでヌルヌルした臭え死体を誰が片付けると思ってんだよ。

  でもね、この人達は、早く死ぬから、まだいいんですよ。 本当に厄介なのは、死なない年寄りなんだわ。 まあ、誰だって早く死にたいとは思っていないですから、長寿そのものが悪いとは言いません。 だけどね、どんな事にでも、やはり限度という物があると思うのですよ。 周囲から、≪物体扱い≫や、≪飼うのに飽きたペット扱い≫を受けるようになったら、もう生きていても、詮無いでしょうに。

  これといった病気も無く、自分で自分の身の周りの始末が出来て、独りでも、夫婦一組でも、とにかく、自活できている間は、「早く死ね」などと言われる筋合いはありませんわな。 他者に迷惑を掛けていないんだから、堂々と暮らしていられます。 ところが、現実には、そういう人達ばかりなわけはなく、世間様におんぶにだっこで暮らしている年寄りが多いんだわ。

  将来、破綻が目に見えている年金制度ですが、あの制度を立ち上げた時には、まさか、平均寿命がこんなに延びるとは、思ってもいなかったわけですよ。 受給者が減れば減るほど、年金資金の運転にゆとりが出ますから、年寄りがどんどん死ぬ事を前提にして算盤弾いていたんですな。 破綻の原因ですが、少子化で納付者が減る事よりも、受給者が増えている事の方が遥かに重大です。 納める人間は減る、貰う人間は増える、これでどうやって帳尻合わせろって言うのよ?

  年金より更に切迫しているのが健康保険制度ですな。 大概の年寄りは、どこかしら体が悪く、通院を日課にしています。 老人の保険料が無料だった時代には、病院の待合室が年寄りの溜まり場になってしまい、

「今日は、○○さんが来ていないね」
「病気なんじゃないか?」

  などという、グロテスクなジョークとしか思えない会話が実際に交わされていたらしいです。 単に溜まり場にするだけならまだいいんですが、来れば何らかの治療を受け、その代金が健康保険から支払われるのですから、納める方がいくら納めたって足りゃしません。 全く、そんな年寄りは、泥棒と同じなんだから、逮捕してやればよかったんですよ。 今は老人でも、負担割合がありますから、さすがにそういう極端な状態は解消されたものの、本当に病気の老人もやはり無数にいるわけでして、健康保険制度を食い潰し続けているわけです。

  年寄りに限らず、若い世代も同様ですが、今の日本人というのは、「医療は受けられて当然」という認識を持っています。 「病名が分かっていて、治療法があれば、確実に治して貰えるものだ」と思い込んでいるんですな。 病気や怪我が不特定要因を多く含んでいて、治らない場合もある、助からない場合もあるという事が理解できていません。 だから、出産で赤ん坊が死んだりすると、「医療ミスだ!」と言って、すぐに裁判沙汰に持ち込み、病院から金を毟る事をライフワークに掲げ、結果的に産婦人科の医師を激減に追い込んだりしているわけです。 実際には、死産は、ちっとも珍しい現象ではないんですが。

  ちょっと話がずれましたが、つまりその、治らない病気もあるという事が分かっていないと言うのですよ。 だから、死を受け入れようなんて考えは、これっぽっちも念頭に浮かばず、病院に通い詰め、医師に頼りきる老人ばかり増えます。 また、家族も、病院に任せておきさえすれば悪い結果にはならないと考えて、当人が嫌がっても、治療を受けさせる始末。 これじゃあ、健康保険制度なんて、維持できるはずがありませんわなあ。

  後期高齢者医療制度が登場した時、保険料を天引きされた後期高齢者達が、テレビのインタビューに憮然とした面持ちで、「つまり、早く死ねって事ですかね」などと答えていました。 当人は、精一杯皮肉を利かせて、政府をあてこすったつもりなんでしょうが、とんだ思い違いをしているというべきでしょう。 冗談でも何でもなく、政府は、年寄りに早く死んで欲しいのです。 年寄りが死んでくれないと、健康保険制度が崩壊してしまうのです。 保険料の自己負担が増えれば、よほど重大な病気でもない限り、病院へ行かなくなりますから、そこに期待をかけているわけです。


  年金や医療制度の事はさておくとしても、年寄りの比率が増えてくると、社会の随所で、≪老害≫が猛威を振るい始めます。 金は出さんくせに、口は出すんだわ。 新聞の読者欄を読むと、投稿者の半分くらいが、60歳以上です。 60代でも結構な年寄りだと思いますが、70代、80代も珍しくありません。 そういう年齢の人達が、「○○はけしからん!」とか、「○○は是非とも、こうすべきだ!」とか、握り拳を振り回して、社会問題を熱く熱く語っているわけです。 しかしねえ、一体いつまで、そんな脂ぎった事考えてるのよ? もう死ぬまでに何年も残ってないのに、社会がどうのこうのなんて言ったって、しょうがないでしょうが。 ぶっちゃけて言わせて貰えば、日本の将来も、世界の未来も、あんた達には、もう無関係の事だよ。 一体、何歳まで生きるつもりでいるのだ? 自分が死ぬ事について、考えた事が一度も無いのか?

  昔は、≪亀の甲より年の功≫などといって、年寄りの意見は割と大事にされたわけですが、今はもう完全に死概念です。 年寄りの知識・経験が役に立ったのは、半世紀くらい前までの話で、変化が激しくなった現代では、もはや時代遅れの戯言にしか聞こえなくなりました。 また、現代の年寄りというのは、長生きのし過ぎで、ボケが入っている者が多く、判断力以前に認識力が衰えており、参考になるどころの話ではありません。 「この馬鹿が。 何を言ってやがる」と呆れ返るような事ばかり言い出します。

  ≪団塊の世代≫の退職が迫っていて、「職場から熟練者が消え、ものづくりの伝承が危ぶまれる」なんて指摘されていますが、現場を知らないにも程があります。 生産でも開発でも、ものづくりの現場では、30代後半までが主力なのであって、40代ではもう、体力的・知識的に一人前の仕事がこなせなくなります。 50代で職場のお荷物になり、60代ともなれば、もはや、≪会社の寄生虫≫と化します。 仕事なんぞほとんどできず、遊んでいる時間の方が遥かに多いのに、給料だけはがっぽり持って行くので、会社にとってはマイナス価値しかない存在となるのです。 それでいて、口だけは偉そうな事を言うんだわ。 「俺が入社した頃は、こうだった」とか、昔話、自慢話ばっかり。 若い人間に食わせてもらっている分際で、何を威張ってやがる。 恥を知れ!

  出世組も同じです。 そこそこの役職まで上がって行った、≪中間管理職≫と呼ばれる連中ですが、彼らを観察すると、仕事をしていない人間が大変多い。 社屋や工場の中を、ポケットに手を突っ込んでうろうろ歩いているだけの輩が、会社に何かしら利益を齎していると考える方が不自然というものでしょう。 何もやる事が無いから、身の置き場が無く、彷徨しているだけなのです。 大体、どの職場でも、実際に働いているのは、ヒラと、その一段上、つまり係長クラスまでであって、課長以上、副社長以下までは、いてもいなくてもいいような存在です。

  日本の会社のシステムでは、一旦、中間管理職になると、ごまかしようの無い大失敗でもしでかさない限り、その地位から落ちる事はありませんから、社内に、≪○○補佐≫だの、≪××室長≫などという正体不明の肩書きを持つ年寄りがうようよ生息しているという事態が発生します。 一つの課なのに、課長が三人もいるなどという、奇怪な職場も珍しくありません。 当人達も、自分が何もしていない事を他人から批難されるのが怖いので、普段は目立たない所に潜り込んで、お茶など飲んで過ごしていますが、健康診断の時になると、どっと湧いて出て、「こんなに大量の年寄りがいたのか!」と若い世代を驚かせます。  

  それでいて、会社の給料の半分以上を持って行くのが、この中間管理職だから、頭に来る。 「ボーナスの平均金額は75万円です」などと言われる際に、平均以上の金額を貰っているのが、この連中でして、つまり、いてもいなくてもいいような奴らに、必要な人間よりも多くの金額を払っているわけです。 もう滅茶苦茶。 営利団体のやる事とは到底思えない。 寄生虫はクビにすればいいんですが、人事担当部門が、また無能な人間の集まりでして、誰が働いていて、誰が寄生虫か見分けられないもので、わざわざ有能な社員をリストラして、ご丁寧に寄生虫の方を残したりします。

  そういえば、テレビ・ドラマの会社物などを見ていると、人事部の人間が出て来て、他部署の社員の面倒を見てやる場面などがありますが、あれには笑ってしまいますな。 実際の会社では、他部署の人間が、人事の者と会う機会は、ほとんどありません。 私も会社員ですが、最後に人事の人間と会ったのは、正式採用の面接の時で、もう20年も前の話です。 人事部門が普段どんな仕事をしているのか、全然知りません。 新入社員の試験や面接などは人事の仕事だと思いますが、暴走族かヤクザか分からんような人間を平気で雇い入れている所を見ると、為人を見抜く能力など、全く無いのでしょう。


  おっと、だいぶ脱線しました。 年寄りの話でしたな。 でねー、別に、年寄りに、「早く死ね」と言っているわけではないのですよ。 「少し、黙って、自分を見つめ直したらどうか」と薦めたいわけです。 人生には、社会と密接に関わらざるを得ない時期もあれば、逆に、社会と距離を置くべき時期もあります。 「第二の人生」などという、薄っぺらい言葉に踊らされて、老いさらばえた体で若者ぶって、醜態を晒すなど、あまりにも不様だとは思いませんか?

  人間として、生物として、地上に形を成していられる時間には、最初から限りがあるのです。 いつか死ぬのは、生まれる前から決まっている事なのです。 ところが、今の老人達を見ると、「自分の命は本来無限にあり、死は偶然訪れる事故に過ぎない」と捉えているような趣きがあります。 だから、いつまでも、死の準備をするつもりにならず、「世間に物申す」をやめられないのです。

  いいですか、あなた方、もうすぐ死ぬのです。 バラバラになって、元素に戻り、土壌に還るか、他の生物の一部になるか、いずれにせよ、そうなったらもう、生物としてのあなたは存在しなくなるのです。 小石にでもなると思えば宜しい。 小石が、人間社会に物申しますか? 物申して、何か意味がありますか? 間もなく小石になるあなたがすべき事は、人間社会を変える事ではありますまい。 そういう事は若い時にやる事です。 人間社会の事は、もう放って置きなさい。 温暖化で生態環境が激変しようが、核戦争で地上が焼き払われようが、小石の知った事ではありません。 あなた方が心配すべきなのは、無事に人生を終えて、円滑に小石になる為の、身の周りの始末だけです。

  いや、仏教的に考えれば、どんな惨めな死に方であっても、苦しいのは生きている間だけで、死ねばすべてチャラですから、気楽に構えていれば良いのです。 ホームレスになって、キチガイ中学生に蹴り殺されるような死に方をしても、死んだ後の事は心配する必要はありません。 結局の所、ゴールは同じ、小石になるだけなのですからね。

  大きな仕事をして、死後に美名を残そうなどという欲望も、大っ変醜い。 また、無意味だ。 残るのは名前だけであって、あなたの存在が残るわけではないです。 ニュートンやアインシュタインは偉大ですが、その業績と名前を知っている人でも、彼らがどんな人物だったのかを詳しく知る事はありません。 そんな事は、当人か、一緒に暮らしていた人しか知り得ないのです。 歴史上の人物は、全員同様です。 自分の事を全然知らない後世の人間に、誤解80%で高く評価されても、何の価値やあらむ。 まったく、馬鹿馬鹿しい。

  人間は、生物である限り、死からは逃れられません。 また、よくしたもので、時間がたてば、周囲から死んでちょうどいいと思われるくらいに、醜く衰えていくものなのです。 毎日、鏡を見なさい。 皺やシミの数を数えなさい。 禿げや白髪を隠そうとするのはおやめなさい。 他人に隠しても、あなたは真実を知っているのだから、生命の終わりが近づいている事を否定できないではありませんか。 アンチ・エイジング? 馬鹿か? そんな足掻きが、無限に続けられない事くらい、分かっているだろうに。 蒙昧な事にかまけて、死ぬ為の心の準備を疎かにしていたら、突如訪れる死に、どう対処するのよ? そちらを心配すべきでしょう。